ヨーロッパ人の醤油観
ヨーロッパの人々は醤油をどのようにみていたのでしょうか。文献に現れる記述から、出島からの輸出背景を考察してみます。
1585年 『日欧文化比較』―ルイス・フロイス
「われわれは食物に種々の薬味を加えて調味する。日本人は味噌で調味する。味噌は米と腐敗した穀物を塩で混ぜ合わせたものである。」
34年間日本に滞在し、信長にも謁見しているルイス・フロイスは、醤油にふれていません。この時代は調味料として醤油は使われていなかったと考えられます。
1603年 『日葡辞書』
(シャウユ、醤油)
酢に相当するけれども、塩辛い或る液体で、食物の調味に使うもの、別名Sutate(簀立)と呼ばれる。
醤油と記述されていますが、湯浅で玉井醤が味噌、醤油醸造業を始めたのは1580年ごろで、それは近代の醤油ではなく溜まりのようなものであったと言われていますので、ここで登場するシャウユはいわゆる醤油とは違っていると考えられます。
当時、刺身は酢の類で食べていました。「酢に相当する」という記述は、シャウユが酢の代りに刺身の調味料として使われはじめている事を想像させます。
1712年 『廻国奇観』―ケンペル(日本滞在1690〜1692年)醤油製造法を記す
「ソーユ醸造には、やはり空豆を或る程度の柔らかさまで煮る。ムッギ、すなわち大麦か小麦かいずれかの麦(小麦から作るものの方がどちらかといえば黒くなる)を粗くすり潰す。そして等量の食塩、すなわち、それぞれを一枡ずつ、空豆はすり潰した麦と混ぜ合わせたものをくるんで、温かい場所に一昼夜置き、発酵させる。ついで、その塊を甕に入れ、上述の食塩で包み、二枡半の水を注ぐ。そしてその塊に翌日まであるいは数日の間、きっちり蓋をしておき、少なくとも一回(二回とか三回であればなおのことよい)は柄杓でかき回すこの作業を二ヶ月から三ヶ月の間続けた後、塊を濾して絞り、液体を木桶に保存する。液体は古くなればなるほど返って澄んでくるので、よくわかる。こうして絞ったあとの塊に再び水を注ぎかけて、数日間かき回し、また絞るのである。」
オランダ商館付き医師ケンペルは2年間の日本滞在中、日本の地理、気候、風俗、習慣、その他、社会全般について資料収集、調査をしました。それを元に帰国後、『廻国奇観』を著します。この著書はヨーロッパで大変な影響を与えた本です。
この中では、大豆は空豆と記述されています。この時代、ヨーロッパではまだ大豆が知られていません。大豆が知られるようになったのは19世紀になってからです。
1765年 『百科全書』―ディドロ編纂 醤油の項
「これは日本でつくられた一種のソースで、同時にアジア各地で非常にもてはやされているものである。フランスには、オランダ人によってもたらされた。このソースは、すべての肉料理の風味を引き立たせ、特にベルドリおよび骨付きハムに素晴らしい味をもたらす。キノコ類の風味を持つこのソースは、非常に塩辛く、コショウとショウガの味の他、何か特殊な風味が秘められており、強烈な刺激がある。これによって腐敗を防ぐのであろう。瓶に入れてきっちりふたをしておけば、長期のわたり保存がきく。ごく少量を加えることによって料理のベースとなるソース、またルルヴェと呼ばれるメイン・ディッシュに、深い味わいを与えてくれる。
中国産の醤油もあるが、日本産のものがはるかに優れている。肉料理にとって、日本産の方は中国産にくらべ、深く豊かな滋味を付与してくれるからである」
セラミックロードを渡ってヨーロッパに運ばれた醤油は、オランダからフランス、ドイツに輸出されていました。ルイ14世が醤油を愛用していたという話は有名です。
文中、ルルヴェという料理がどのようなものかレシピも残っていないので分かりませんが、ヨーロッパでは主に醤油はソースに混ぜて用いられたようです。
1776年 『日本紀行』―カール・ツンベリー(1775年〜一年半赴任)
「茶を商売するのは、この国の僻隅にある地方のみである。茶の輸出は少ない。それは支那茶に比して非常に劣るからである。
その代り、非常に上質の醤油を作る。これは支那の醤油に比して遥かに上質である。多量の醤油樽が、バタビア、インド、及び欧羅巴に運ばれる。互いに劣らず上質の醤油を作る国々がある。和蘭人は醤油に暑気の影響を受けしめず、又その発酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰めとし、その栓に瀝青1)を塗る。かくのごとくすれば醤油はよく、その力を保ち、あらゆるソースに混ぜることが出来る。
醤油は欧羅巴の各国にも輸入されているが、醤油豆(大豆)と裸麦或いは小麦及び塩で作られるものである。」
スェーデンの植物学者、医者であったツンベリーは出島商館付医師として来日しました。商館長の江戸参府に従い、数々の資料を収集し、帰国後、『日本紀行』を著しました。この中で醤油を変質させない方法をオランダ人が考えたことを記しています。多量の醤油樽が、バタビア、インド、及び欧羅巴に運ばれる。と書いてありますから、この時点ではまだ樽で運ばれていて、ヨーロッパに渡った後、瓶詰めが行われた醤油があると考えられます。
1833年 『日本回想録』―ヘンドリック・ヅーフ(1803〜1817年赴任)
「予は此機会において酒及び醤油につきて一言説明すべし。前者は米を醸したる強きビールにして、蒸留せしものにはあらず。醤油は日本に水牛なければ、水牛血素にあらず。又牛肉汁にもあらず。蓋し牛肉は此国には甚だ稀にして、予はこれを試むまで数年を経過したる程なり。
又腐敗せる魚にもあらず。醤油は実に小麦・塩・及味噌豆といえる白豆の一種の混合に外ならず。此等は大槽に入れて地下に貯えられ、一定時間の間発酵せしめたる後、之を煮沸し以って永く保存し得しむ。」
オランダがフランスに併合され、ジャカルタがイギリスに占領されたため、オランダ国が存在しない期間があり、蘭船の出島への来航は1807〜1817年まで1隻もありませんでした。その時の商館長(カピタン)がヘンドリック・ヅーフです。
この頃には日本でも火入れをして醤油を保存していたことが記されています。
気の毒なのは牛肉についての記述です。表向きは仏教の影響で江戸時代、鳥類を除いて獣肉を食さないことになっていますが、長崎では、郊外で豚の飼育が行われ、屠殺場もありましたから、豚肉を手に入れるのは簡単だったようです。
ただ、牛は農業の生産手段としての役目が重視されたこともあったのでしょう、肉牛はいませんでした。出島の絵に登場する牛の絵は、バタビアから船で運ばれた牛です。船旅で痩せてしまった牛は、一定期間出島で飼育し、太らせてから食用にされたそうです。
1862年 『日本』―シーボルト(1823〜1828年)
「人の知る醤油(ソーヤ、Soja)は大豆(Sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり。」
シーボルトは簡単にふれているだけですが、人の知る醤油という記述は、注目
されます。この時期、中国産であれ、日本産であれ、醤油はヨーロッパでは珍しい調味料ではなくなっていたということを意味しています。
1864年 『日本遠征記』―オレインブルグ
「(竹と)同様にヨーロッパにもってきて馴化させたいものに大豆がある。われわれの国でSoya(醤油)という名で知られるソースは、大部分人工的に合成した化学製品で、しかも富裕な人々の食卓にだけ見られるものである。しかし日本から輸入されたものですから、日本で誰でもが毎日食事の調味料として使っているものとは、それこそ煮たてたハンガリーのブドウ酒と純粋のトカイエー酒ぐらいの雲泥の差があるのである。その製造法は、細かいことについてはもっと詳しく調べねばならないが、非常に簡単なものであるという。つまり、大豆を柔らかく煮て、それに米か麦芽を加え、24時間の間暖かい所において発酵させる。そして塩と水を入れ、はじめ何日かは良くかき混ぜ、その後、2ヶ月ないし3ヶ月大きな密封した瓶に入れて貯えておく。最後にこの液体を搾り、樽に満たして栓をする。古くなると品質もよくなるそうであるが、弱い樽ビールと同様、保存はあまりよくなく、一定の期間しか持たないことは確かである。オランダ人によって積み出されるものは、船で積み出す前に煮沸される。そのため持ちはよくなるが、液が濃く、味も強くなってしまう。本当に味わうためには、大豆の栽培からやらなければなるまい。それによって新鮮で安価な醤油が得られるのである。この状態の醤油は、麦粉の粥、その他貧しい階級の人々の一品料理に見られるような、味の薄い料理に適当な味つけをし、また軽い消化剤ともなっている。日本では、貧富貴賎の別なく、三度の食事の際いつでも醤油を用いる。われわれの艦上でも将校も水兵も樽詰の醤油をよく使用したものである。」
通商条約締結のために来日し、長崎の町も歩いたプロシア大使のオレインブルグの記述は、いくつか注目すべき点があります。
1. | 大部分人工的に合成した化学製品と言う記述で、贋物が出回っていたことがわかります。 |
2. | しかも富裕な人々の食卓にだけ見られるものである。とは、更に贋物が高価であったことを示しています。 |
3. | ヨーロッパにもってきて馴化させたいものに大豆がある。と安価でおいしい醤油をヨーロッパで生産したいという意欲を表現しています。 |
オレインブルグが『日本遠征記』を書いた頃は、輸出は自由になっていましたから、ヨーロッパで人気の醤油輸出に参入する商人が増え、中には海水を混入するなど悪徳商人も出てきました。贋物が横行していた背景には輸出自由化に伴う混乱が背景にあったと考えられます。
ヨーロッパでの製造の試み
(1)1870年「日本文献による日本醤油の醸造」―ライデン大学・ホフマン教授
野田の東京醤油会社が輸出努力をしている時期。
実態に近い製法を記述しているがこの段階でも麹が知られていない。
のこの論文は、1712年頃出版された全33巻の百科辞典、『和漢三才図会』の醤油の製法、大豆の栽培を翻訳したものです。
けれども湿度の低いヨーロッパでは麹菌が知られていないため成功しませんでした。
(2)1889年「日本醤油製造法」―I.Lテルネーデン
野田の東京醤油会社が輸出努力をしている時期で醤油製造に関する情報量は増え、実態に近い製法が記述されていますが、この段階でも肝心の麹が知られていないため、成功していません。
ヨーロッパで麹が知られるようになったのは、パスツールまで待たなければなりませんでした。
結論
上記の文献から見える事は、幕末の時期にはヨーロッパでは「安くておいしい醤油」を渇望している状況がありました。製造の試みもありましたが、成功せず、日本の醤油輸出も貿易自由化の混乱が影響して明治以降減少して行きました。
醤油の普及で日本料理は大きな影響を受けていますが、ヨーロッパでは料理に影響を与えるまでに到らなかったといえそうです。