ドクトルラウド 妖カルテ#003 Ver.1.20

〜死神衰夢譚 後編〜



 昼時の横浜線、町田を越した車内の乗車率はそんなに多くない。
 全部で十人にも満たない乗客の半数以上は十代後半の若者であり、恐らくその大半は学生であろうと思われる。
 そんな中、一人、黒いコートを纏った青年が出入り口に佇んでいた。
 青年の髪は灰色、サングラスをかけた上にコートと同色のソフト帽を被り、手にはこれ又黒色の革袋をしている。
 妙に色白の顔と、赤味の少ない唇と相まって、まるで特定音楽ジャンルのミュージシャンの様な外見であった。
 青年は横浜駅で電車に乗り込んでから、ずっと、手の上に載せた円盤の上に目を落としたまま身じろぎもしていない。
 青年の手の上にのっている円盤は、一言で言えば、板にはめ込まれた方位磁石である。
 方陣の描き込まれた板の中央に方位磁石がはめ込まれたそれは、風水に用いられる“羅盤”と呼ばれる道具であった。
 しかし、中央にはめ込まれた方位磁石は間断なく左右に揺れ動いており、実際に方位をはかる為の道具としては、不良品、といえる。
 横浜駅を出た所では、円盤の中で大きく揺れていた方位針の振り幅が、八王子に近づいていくに従って、だんだんと狭くなっていく。
『次は〜八王子みなみ野〜八王子みなみ野〜』
 八王子みなみ野駅に車体が滑り込んだ瞬間、方位針の動きがほんの一瞬だけ、ぴたりと静止した。
 青年は微かに唇を歪めて羅盤を仕舞うと、電車を降りる。
 改札を出ると、とても駅前とは思えぬ閑散とした広場が広がっていた。やや右側の正面に小規模なモールがあり、ハンバーガー屋とスーパーがテナントに入っているらしい。
 青年がコートのポケットから羅盤を取り出して目をやると、方位針は頼り無く左右に振れていた。
 舌打ちして羅盤を仕舞い込み、駅から出ようとした青年はふと立ち止まり、改札窓口に近づく。
「失礼」
「はい、何でしょう」
 書き物をしていた書類から顔を上げた職員に、青年は札入れから取り出した写真を見せる。
「済みません、この辺りで、この子を見掛けた事はありませんか?」
 メン・イン・ブラックの様な恰好をした男に突然写真を突きつけられ、職員は訝しそうに、青年を見上げた。
 青年の纏ったコートの下に見えているのは完全に真っ黒なスーツで、とても、私服刑事等には見えないし、目立たぬ地味さが命の私立探偵等でも無いだろう。
 大体、上記の職業をしている人種には、髪の毛をわざわざ目立つ色合いにしている人間は余り居ないだろう。
「・・・」
 首を捻りながらも職員は取り敢えず突きつけられた写真を改めて注視する。
 写真は割と初期のカラーフィルムで撮られたものらしく、独特な色合いで褪色が進む中、俯き加減の少女が写り込んでいた。
 褪色の進んだ写真の中でも、少女の髪は鮮やかな赤色を放っている。
 少女の事を訊ねる青年の言葉は淡々としており、職員からの情報が得られるとは殆ど期待していない様子が見て取れた。
 随分と長い間、多くの人間に訊ねて、空振りに終わっているのだろう。
 大体、写真の古くささから鑑みれば、とっくに被写体の加齢によって、人捜し用の目的には用を成さなくなっている筈なのだ。
 青年の問いを受けた相手からは、今までの例からいくと、あからさまに怪しむ目つきで見られるか、同情や憐憫の眼差しが送られるか、大体二通りの反応に別れていた。
 どちらの反応があっても、大体、その後に付随する台詞は決まっていた。
『さぁ・・・』
『見た事無いねぇ』
『警察の方ですか?』
 しかし、職員の口から出た台詞は、滅多に聴けない方のバージョンだった。
「・・・ああ、最近見掛けましたよ」
 サングラスの下の青年の目が一瞬見開かれ、すぐに閉じられる。
「間違いなく、この子なんですね」
 平静を装った声で青年は念をおす。
 尋ね人の纏っている外見以上に独特な雰囲気・・・居るだけで周囲を仄暗くさせる様な昏い気配、のおかげで、見間違いは滅多に無いのだが、それでも、見間違いというのは所詮起こるものだ。
 それに念をおす事で、安易に目先の希望にとびつこうとする心理を抑制する狙いもあった。
 職員は改めて写真を見直して頷く。
「・・・多分そうだと思います・・・確か、自動改札でひっかかっていたのを見掛けたんですが・・・少し、印象の強い方でしたから・・・あの、ご家族ですか?」
「・・・妹です、少々、家庭の事情がありまして・・・警察の方達にも動いていただいてはいるのですが・・・」
 青年は目を伏せ、少しだけ唇を噛み締めてみせる。
「あ、失礼しました・・」
 青年にとっては、質問に同様の反応が返ってくる度に利用している表情の一つに過ぎなかったが、職員には予想通りの効果をあげたらしい。
「・・大体、何日前の事か分かりますか」
「そうですね・・・確か、ここ一週間の事だったと思いますよ・・・」
 まだ開拓地に殆ど住居が建っていない様な駅とはいえ、近くに大学が有る為、八王子みなみ野はそれなりに利用者は多い駅である。
 その事情を鑑みれば、職員の記憶にここまで正確な情報が残っていたのは中々大したものだと言えた。
 青年にとっては僥倖だったと言えるだろう。
 もっとも、八王子みなみ野に始めて降りた青年には、その様な事は知る由もないのだが。
「そう、ですか・・・」
「まぁ・・お気を落とさずに・・・あの・・・そろそろ、よろしいですか」
「・・有り難う御座いました」
 青年は気を取り直して職員に頭を下げると、窓口を立ち去る。
 まばらな学生に混じってロータリーに出た青年は、ポケットから羅盤を取り出し、その針が微かに震えているのを見ながら少し迷っていたが、やがて、歯を食いしばって写真を仕舞うと、そのまま歩き出した。
(両方、探し出せば済む事だ・・・)
「必ず・・・探し出す」


 照明の薄暗い店内で、ラウドと千友梨は隅っこのこぢんまりとしたテーブルについていた。
 テーブルがあと五つ位しかない店内には、ラウド達の他にはスーツ姿のカップルが一組しか居るだけだ。
 曲調静かなクラシックが流れる店内は、艶光りするアンティーク調家具が揃えられ、落ち着いた雰囲気を感じさせる。
「どうじゃね、此処は?」
 人が多い場所で落ち着かない様子を見せる千友梨の為に、ラウドは彼女が服を選んでいる間に、つてを辿って予約を割り込ませていたのである。
「・・・はい、静かで良い雰囲気のお店ですね」
 先刻まで歩いていた雑踏の人混みから解放され、今の千友梨は遠慮がちな微笑を浮かべながらフレッシュジュースのグラスを揺らしている。
 まぁ、落ち着いていると言っても、店員や他の客の視線は気になるらしく、やや俯き気味のまま、垂れ下がった髪で横顔は隠しているのだが。
「この辺りでな、ちゃんとした飯が食べたくなった時に来ておる店じゃよ」
 ラウドもくつろいだ態度で、ちびちびと半分程迄飲んでいたシェリー酒をくいっ、と空ける。
「最近はお見限りのようですけど」
 空になったラウドのグラスに、清潔なエプロンを巻いた店員がすかさずシェリー酒を注ぐ。
「ふぉふぉ、悪いの・・・最近、家でもまともな飯が食える様になったんでな」
 店員は通常の営業スマイルより少し柔らかな笑いを浮かべる。
「食事を作ってくれる女性でもお出来になったんですか」 
「まぁ、その様な者じゃな」
 ラウドは馴染みの店員、この店のシェフの奥方だが・・・に微笑を返す。
「・・・ま、助手、といった所かの・・・この娘は、ふむ・・従玄姪孫じゃよ」
 かなり遠い・・・というか、ほぼ他人である。
「・・・髪の綺麗なお嬢さんですね」
 店員はラウドの紹介で改めて千友梨に目をやり、言葉に一瞬の間を作ったが、かろうじて笑顔は崩さずに、彼女の美点を褒める。
 千友梨の髪は、街で見掛ける様な染色で傷みほつれた赤髪とは違い、内包された黒色が内部からぬめ光る、赤黒い細糸だ。
 確かに艶やかで美しいとは言えるが・・・少々不気味で不吉な印象を与える事は否めない。
 前髪を切るのを止めて眼前に垂らし、そのまま夜道にでも佇めば、新しい都市伝説が出来る事受け合いである。
「では、お二人ともごゆっくりしていって下さいね」
「うむ、ありがとうよ」
 ラウドはグラスを上げて礼を言い、コップに広がる波紋を見つめている千友梨に視線を移した。
 千友梨はすぐ、その視線に気付いて軽く頭を上げ、上目遣いにラウドの視線を受け止める。
(・・・上目遣いになる癖は良くないのぉ・・・しかし、それだけでも無い・・・か)
 素材は決して悪くない・・・が、いかんせん、仕草だけではなく、彼女の身に纏った雰囲気が暗すぎた。
 一応、普段から着込んでいる葬式カラーの普段着では無く、先刻立ち寄った服飾店で購入した衣服に着替えている。
 抑えめではあるが、それでも普段着よりは余程明るく暖かい配色の服を着ていても、地の雰囲気というものなのか、そのまま葬儀に参列させても違和感は無さそうだ。
 先刻立ち寄った服飾店の店員は、どれ程の敗北感に打ちのめされている事だろうか・・・それが仕事とはいえ、無理難題を押しつけてしまった様な気がして、今更ながら、ラウドは少々気が咎める。
 しかも、控えめなトーンで統一されたその服がなまじ千友梨に似合っているのが、店員の努力を物語っていて、これ又涙ぐましい。
「・・・髪・・・染めようかな・・・」
 自分の髪房を指に巻き付けて見ていた千友梨が、ふとそう漏らした。
「・・・今の、髪の色がきらいなのかね」
「・・・一族の中で、こういう色の髪してるの、私だけなんです」
 悲しそうに、そして、ほんの少しだけ悔しそうに千友梨は呟く。
 一ヶ月以上生活を共にして、千友梨が自分の一族についてラウドに言葉を漏らしたのはこれが始めてだった。
「ふむ・・・では、他の者はどういう色の髪をしているんじゃな」
 表面上は顔色一つ変えずにシェリー酒を流し込み、ラウドはあくまでもさりげない口調で問いかける。
「・・・大体、灰色か黒で・・・何人かは白い人も居ますけど・・・」
「他の者とおなじ色に、したいのかね」
「・・・わかりません」


 コーヒーカップを磨いていた立花は、裏口が開く音に片眉を上げて耳をそばだて、聞き覚えのある声が近づいてくるのを確認する。
(善之君達か・・・)
「マスター、事件だって」
 ドアを開けるなり、緊張した声を立てる飛山善之に立花は微苦笑する。
 善之は人に紛れ込んで暮らす妖怪の義務、と言うよりも、まだ“信念”というものをより強く信望しながら妖魔事件にあたっていると立花は感じている。
(若さ、というべきか)
「まぁ、まだ目に見えた事は起こっては居ないがね」
 善之の後ろから入ってきた青年、八切武士は相棒と同様に緊張した面もちであったものの、その緊張を押し殺しているようだった。
 武士は妖魔ネットワーク、鋼鉄騎士のメンバーになってから日が浅い、ついでに妖怪の力を得てからの日も浅い。
 緊張を押し殺しているのは、慎重な性格なのか、妖魔に相対する事の恐怖故か・・・
(両方か・・・しかし、この二人は中々良いコンビになってきたな、良い事だ)
「では子細をお伺いしよう」
「ああ・・じゃ、まずは何か飲むかね」
「マスター、おれ、いつもの奴」
「亜米利加ん珈琲を所望致す」
 それぞれの注文をかなえてから、立花はカウンターの下から、プリントアウトした紙を取り出した。
「華僑系ネット・・・横浜の“熊猫飯店”から入ってきた情報なんだが・・・」
 善之と武士は、カウンターに広げられたプリントアウトを左右から覗き込む。
 手配メールがそのままプリントアウトされたその文面には、手配理由と、手配妖怪の簡単なプロフィールが打ち出されている。
「・・・僵尸か・・・中国のゾンビだっけな」
「ああ、人を殺してから血を啜る、危険な吸血鬼だ」
 日本で有名な西洋吸血鬼とは異なり、僵尸は犠牲者の首をむしり取って、断面から溢れる血を啜るという、大変にワイルドな作法で食事を摂る。
 当然、そんな輩が人間と共存できるわけもなく、大体は退治されるか、封印されるかのどちらかの運命を辿る事になるのだが、中には非常に長く“生き延びて”より強力な存在に進化する者も存在する。
「その様な者がこの近辺に、潜んでおるので御座るか」
「そういう情報だが・・・今分かっている範囲では犠牲者は出ていない・・・何か事件が起こる前に何とかしたいものだがな」
「全くだぜ・・・」
「うむ」
 立花の言葉に善之と武士は一様に顔を顰める。
 “分かっている範囲では”といっても、既に闇に葬られた犠牲者が居るかも知れない。
「そこにも書かれているとおり張 陸宣という僵尸は、中国に居られなくなって日本に渡ってきた後、三陸の方で暴れていたらしいが、少し前に捕らえられて棺ごと中華街に護送されたらしい」
「よく滅ぼさずに捕らえたもので御座るなぁ」
「やれやれ、やっちまった方が後腐れがなかったのにな・・・」
 感心した様子に武士とは対照的に、善之は割と冷たく言い捨てる。
 力が覚醒してから五年以上経つとはいえ、善之の心理はまだ相当人間側に近い。妖魔事件に数多く遭遇して、その被害者を多く見てきているという事情もあった。
「まぁ、可能性は低くても、“気の変わる”可能性がある限りはな・・・日本で張を捕らえた妖怪が追っているそうだが・・・」
 人間側の基準から“邪悪”とされていた妖怪が“改心”し、人間社会に溶け込む可能性はかなり低い・・・とはいえ、決して無視できない確率ではある。
「この辺りに居るという根拠は、一体どの様なものなので御座るか」
「あちらの長老手ずから立てた、占術によるものらしいが・・無論、妖術によるものだ、無視は出来ないぞ」
確かに、妖術による託宣ともなれば、余り無視する訳にはいかない的中率が生じてくる筈だ。
「しかし、どうやって探し出すかな・・・顔写真もねぇしな」
 捜索用の妖術等使えない善之や武士のコンビは、所詮普通の人間と同様に聞き込み程度の手段しかない。
「・・方角だけではなく、細かい日取り等の占は立って居らぬので御座るか」
「いや、妖怪が絡んだ事件だと、こういう妖術ってよく邪魔されるからなぁ」
「ああ、長老も色々と占を立てては見た様だがな・・・結局、分かったのは八王子近辺に、近々姿を現す、そこまでしか絞りきれなかったらしいな」
「妖術も色々と不便なので御座るなぁ・・・」
「ああ、だけど何でも出来過ぎたら、相手に同じ様なのが居た時に俺達も苦労するしな・・・仕方ねぇさ」
「それも、そうで御座るな」
 善之のもっともな指摘に、武士は納得した様子で頷いた。
 味方が使える能力を、敵が使わないという保証は無い。
 あまりに優秀過ぎる能力は諸刃の剣という訳だ。
「取り敢えずは、高知君や深雪君達にも既に連絡はしてある」
「マスター、高知センセ以外は人海戦術って事かよ・・・ま、いつもの事か」
 風の精である高知には、妖力や、妖術を探知する能力が備わっているし、雪女の深雪や半吸血鬼のメリルは近くに居る相手のオーラで人間と妖怪を区別できる。
 しかし、善之と武士には、そんなお手軽に人間と妖怪を見分ける力は備わっていない・・・二人とも、鋼鉄騎士のメンバーの中では結構戦闘力がある方だったが、探索においては、上の三人に、ひけをとる事は否めない。
「僵尸は動けなくなる昼間、自分の棺桶に戻るか、洞窟等日のささない所に潜む、出来れば昼間に身柄をおさえられれば良いんだがな」
「人気の無いビルの地下室とかが怪しいって訳か・・・しかしなぁ、そんな所、この辺りにだって一杯あるぜ」
「大丈夫、妖怪は引かれ合う・・・望む、望まぬはともかく、それだけは事実だからな」
 立花の自信ありげな言葉に、善之は嘆息する。
 実際に歩き回るのは自分たちなのだ。
「いつもの様に盾も手伝ってくれる筈だし、ドク・ラウドにも頼んでおこう・・・二人とも、いつも時間をとらせて悪いな」
 顎を撫で撫でながらいう立花に、善之は首を振る。
「いや、俺だって、桜ちゃんが住んでる八王子にそんな奴がうろついてちゃ、安心できねぇしさ」
「全くもってその通りでござる、拙者等しか止められぬので御座るからな」
「そう言って貰えると助かるな・・・取り敢えずお代わりはどうだね、奢らせて貰うよ」
「これはかたじけない」
「んん・・・嬉しいけど、何か、安く使われてん様な気がすんなぁ」


 暦の上の季節は未だ秋であったが、日の落ちた浅川を吹き抜ける風は冷たく、冬の到来を感じさせる。
 土手道の左右は河と住宅地に挟まれており、日が落ちた今は、住宅から漏れる弱い灯りだけが周囲を朧気に照らしていた。
「・・・寒いかね」
「・・・いえ」
 白い息を吐きながら応え、千友梨は首のマフラーをきつく巻き直す。
 食後の散歩にしては、少々寒過ぎる場所であった。
 おまけにラウド医院に帰る道とは正反対の方角である。
 実際、千友梨は凍えているのだろうが、口が裂けてもラウドにはその事を言いそうには無い。
 当然、意地っ張り、という訳では無いだろう。
 好意的にとれば、ラウドの意向を尊重している、とも取れる。
 しかし、内気な性故に、権威を認めている相手には逆らえないでいる、という側面の方がまだ強いだろう。
「・・・ふむ、では、少し寄り道して、そこで暖まって行くとしようかの」
「・・・寄り道?」
 千友梨の声に少し警戒の響きがあるのに気づき、ラウドは苦笑する。
「もう、すぐそこじゃよ・・・もう、あそこに見えておるな」
 ラウドが指し示した先に目をやった千友梨は、河原の暗がりに明々とした焚き火を見つけ、ぞっとした表情を浮かべる。
「どうしたんじゃ」
 急に立ち竦んだ千友梨に、ラウドはすぐに近づいて声をかけた。
「あ・・いえ・・・何でもありません」
「何でも無い訳では無いじゃろう、顔色が真っ青じゃぞ」
 光量が無い為色の認識は困難だったが、ラウドの目には千友梨の顔が紙の用に白くなっている様に映る。
「・・・少し、嫌な事思い出しただけですから」
「・・・このまま、帰るかね」
 とりようによっては突き放す様な語調だったが、ラウドの言葉には純粋な気遣いの響きがあり、それは千友梨の顔に泣き笑いの微笑を浮かばせた。
「いえ・・・もう、大丈夫です」
「・・・そうかね」
 差し出されたラウドの手を、少し躊躇いながらも千友梨は掴んで歩き出す。
 少し進んでから土手を下ると、二人の前に焚き火に木をくべている男が現れる。
「ようドク、遅かったな」
 くたびれた態度で焚き火にあたっていたその男はだるそうに片手を上げた。
「ああ、暖をとらせて貰うよ・・・さ」
 ラウドは焚き火の周囲に置かれている木箱に腰掛け、千友梨にも手振りで残りの一つを勧める。
「ティーバッグしかねぇがな」
 くたびれた男・・・盾は足下の段ボール箱からほうろうのマグを二つ取り出して軽く拭き、同じ箱から取り出したティーバッグを放り込む。
 直火にかけてあったポットを掴んで、中のお湯をマグに注ぐ。
「お前さんの所でこうしておると、随分昔の事を思い出すのう・・・あの頃の人間達は、火の有り難みをよぉく知っておった」
「へ、俺は今でもよぉく知ってるぜ、特に冬はな・・・」
 特に何気ない会話をしている風の盾とラウドが、妙なアイコンタクトが交わしているのを余所に、千友梨は無言で焚き火に見入っている。
「何が見えるかね・・・」
「・・・」
 不意をついたラウドの質問に千友梨は視線だけを上げ、少し困った様な表情で口を開け閉めする。
「人が・・焼かれるのが見えます」
(それは誰かね?)
 口から出かかった質問をラウドは口中で噛み砕く。
 焦って質問し、千友梨を追いつめ過ぎては元も子も無い。
「もういいだろ・・・ほい」
 脳天気な盾の声と共に、マグがラウドと千友梨に差し出される。
「いつもドクの所で飲んでる様な上物とは違うだろうがな・・・少なくとも暖かいぜ」
「・・・上等じゃ、今の時期、暖かさこそがご馳走じゃよ」
 三人は、しばし無言で、熱い紅茶を啜る。
「・・・千友梨君、昨日“魂の声”が聞こえると言ったな」
「はい」
「それに、その声を訊くのに耐えかねて、魂を刈り取る事に罪悪感を感じておるとも」
「はい」
「千友梨君、前に一度現場を見た事がある筈じゃが、ここに居る盾は、生き物が生きるか死ぬかの瀬戸際に発する“助けを求める声”が頭に響く・・・」
 千友梨が視線を上げると、盾は苦虫を噛み潰した様な表情でラウドを睨んでいた。
「おいおい・・・俺ん所に連れてきたのはそういう理由か・・・」
「まぁ、そうじゃ・・・盾、お前さんはどうなんじゃ、何故人を助ける」
 うんざりとした様子で呟く盾に、ラウドは肩を竦めるだけで応えて、容赦なく質問をとばす。
 盾はラウドが患者の治療に役立てる為ならば、平然とえぐい事をやってのけるのを知っていた。
 諦めの溜息をつきながらマグを置き、盾は千友梨に向き直る。
「俺が何故、助けるか・・・まず、俺の存在理由がそうだから・・・一つだ、そして、俺には、助けを求める声が聞こえる・・・助けを純粋に願う程、せっぱ詰まってる程その声は頭にガンガン響く・・・いい加減慣れてるが、たまに気が狂うかと思う事もある・・・だから、俺は助ける・・・二つだ」
 盾は一旦言葉を切ってマグを置き、いつもはめている手袋を外した。
 無言で千友梨の顔の前に素手の掌を差し出す。
「・・・?」
「触ってみな」
 盾の促しに従って、おずおずとその手に触れた千友梨の顔が顰められる。
「・・・冷たい」
 盾の手は、体温の感じられぬ死人の手そのものだった。
 すぐに手を引いて手袋をはめ直し、盾は唇の端を歪める。
「・・・面倒だけどな・・・少し古い話をするぜ、別に顔上げてなくていいから、そのまま聞いててくれ」
「・・・」
「昔、ちっとは腕に自信のある貧乏侍が居た・・・扶持米は僅かだったが、それでもまあまあ平穏に暮らしていた・・・だがある日、そいつは御前試合でうっかり優勝しちまった・・・殿様は大層喜んで、そいつを剣術指南役に取り立てるとか言い始めた・・・まぁ、この殿様も単純な奴だったんだな・・・当然、その時剣術指南役をやってた奴は気に入らないわな・・・剣術指南役を決定する為に、貧乏侍と剣術指南役で腕試しの試合が行われる事になった・・・そこで適当に負けておきゃぁ良いものを、勝っちまったんだよなぁ、そいつは・・・馬鹿な話だ・・・試合の後日、ささやかな祝いをした夜に、貧乏侍の家は闇討ちされ、一家は皆殺し、貧乏侍は両手を切り落とされ、なます斬りになった・・・」
 盾が一旦間をおくと、千友梨はいつの間にか顔を少し上げてきいている様子である。
「・・・腕を切り落とされた後、家族が皆殺しにあった後で最後に嬲り殺しになった貧乏侍の怨念はどれ程か・・・分かるよな・・・そのままほっといても妖怪になったかもしれねぇな・・・だが、そいつの近くにはコイツがあった」
 盾が軽く腕を振ると、瞬間的にその手に刀が握られている。
「・・・じゃあ・・・そのお侍さんが」
「別に、俺自身て訳じゃぁ無い・・・俺は、そいつの記憶も持った“何か”だ・・・今は細かく思い出せねぇが、俺の中には、似た様な死に様を晒した奴等の記憶が幾つもあるぜ・・・男も女も、子供も爺も、人間じゃねぇもんも・・・色々な」
 盾は手にした刀を焚き火に照らすと、炎を受けて刀身は妖しく輝き、千友梨はそれを魅入られた様に見つめる。
「“声”が聞こえる度に俺の中の記憶が騒ぐ、古傷が疼く・・・助ければ、痛みはおさまる、取り敢えずはな・・・三つだ・・・少しばかり重複してるけどな」
 盾が手を捻って刀を消すと、千友梨は呪縛が解けた様に視線を下げる。
「俺は自分の為に人助けをする事に罪悪感はねぇな・・・切実だからなぁ、ま、一族の仕事としてやってる死神の立場とか、気持ちはわかんねぇが」
 盾が語り終えると、薪が弾ける音だけが場を支配した。
 ラウドは無言のまま、千友梨の一挙一頭足、全てを見逃さぬよう視線を注ぎ続ける。
 盾の話が終わってから、千友梨はずっと、マグの中で渦を巻いている紅茶を見つめていたが、中身から湯気が消え始める頃になってからようやく視線を上げた。
「先生・・・ごめんなさい・・・前にお話しした事、私が死神の存在を迷っていた事・・・そんなに本当の事じゃ無いんです」
「ああ、分かっておったよ・・・」
 ラウドは千友梨の視線を正面から受け止め、患者以外には滅多に見せない好々爺の微笑を浮かべる。
 ラウドの微笑につられて千友梨も弱々しい微笑を浮かべかけるが、すぐ、顔を歪めて下を向く。
「私は・・・一族の中では、忌み子なんです・・・一族の暦で百年に一度、回ってくる慶日、その日に私は産まれました」
「慶日生まれなのに忌み子?」
 釈然としない様子で呟く盾に、千友梨は力無く苦笑する。
「人間にとっては最高の慶日、でも、死神にとっては最悪の禍日・・・一族では、その日に産まれた子は、忌み子として処分せよという掟、というより言い伝えの様なものがありました・・・実際、母は私を産んだ事で滅びましたから・・本当に不吉な子供ですよね・・・・・・」
「・・・」
 単なる迷信、だとは言えなかった。
 その、迷信と同じ様な根拠で、多くの妖怪が生まれ落ちているのだ。
「でも、私が産まれた時には長が、処分するのは余りにも不憫だと掟を曲げ、私は日の射さない座敷牢で暮らす事になったんです・・・・・・どれくらいそこにいたかは分かりません」
 色々と好奇心や感想はわいたものの、ラウドに目配せされ、盾は黙り込んで紅茶を啜りながら耳をそばだてる。
「座敷牢で暮らしている間、私には余り不満はありませんでした・・・・・外の世界も知らず、着る物も、食べ物も不自由しなかったし・・・里の誰よりも夜目が効くのはそのおかげで・・・命を奪われなかっただけ有り難い事だと教えられて、本当にそう信じてましたから・・いえ、今でもそれは有り難い事だと思ってます」
 本当にそう思っているとしたら、相当なお人好しだが・・・下を向いて話している千友梨の表情からは、彼女が心底そう思っているか等、読みとりようが無い。
 ラウドの視覚にも、彼女のオーラに、精神的な“痛み”を示す色が滲むのが確認できるだけだ。
「ずっと、そのまま暮らすのだと思っていましたけど・・・一族の中に気に掛けてくれる人がいて・・私に字を教え、長に嘆願して・・・・・・本当に大変だったそうですが、二度と里に戻らないという条件で、外に出してくれました・・・」
「ふむ・・・」
 恩人について簡単に語る千友梨の声に、どことなく後ろめたい逡巡があるのを、ラウドは聞き逃さなかった。
「外に出るのは怖かったし、里に戻れないのは、その時は寂しいと思いましたけど・・・外の世界は本当に・・本当に、なんでも珍しかったし・・・・・・でも、すぐに思い知りました、死神として望まれなくても、やっぱり、自分は死神なんだって・・・それまで、死神として育てられなかったし・・・いえ、それより、力は使ってはいけないものだと教えられていたので・・その・・凄く戸惑いました・・自分がそういう存在だっていうのにもやっぱり馴染めなくて・・・・・」
 家庭の事情というか、因習というか、兎に角、かなり深い背景がある様だ。
「ふむ、そうか・・・しかし、その、気に掛けてくれたという者は、お前さんが里の外に出た後は・・・」
 ラウドがもう少し、踏み込んだ質問をしようとした時、不意に盾が立ち上がった。
「ドク・・・悪いが呼び出しだ、行ってくる・・・後は、ネットでな」
 軽く頭を抑えながら言い捨て、あっという間に影に沈み込む。
「・・・やれやれ、事件の多い街じゃな・・・しかし」
 ラウドは不意に背筋を走った悪寒に身を震わせる。
「しかし、これは・・・」
 顔を顰めた程度でやり過ごしたラウドとは違い、千友梨は激しい悪寒に襲われて手にしていたマグを取り落とし、両手で体を掻き抱く。
「間に合いません・・・」
 そう言ったきり、歯の根が合わない程震え始める千友梨の様子に、ラウドはこの場でこれ以上質問する事を諦める。
「さて、ちと早いが・・・火の始末をしてから、ネットに行くとしよう」


 電柱の影から、ぬぬっ、と現れた盾は、周囲を見回し妖怪ならば皆感じ取る独特の雰囲気に、この場が人払いの結界覆われているのを感じとる。
 手を振って刀を出し、空気を嗅ぐと、生臭い鉄錆臭が鼻をついた。
(声が、もう聴こえない・・・)
 盾が出現したのは薄暗い住宅地で、すぐ近くに山が見える場所の様だ。
(結界が生きてるって事は、まだ、近くに居る筈だ)
 盾はそろそろと静まり返った路地を進み、道の真ん中に、コンビニ袋が転がっているのを発見する。
 はみ出ているのを見ると、中身は、握り飯、ジュース、プリン等らしい、夜食だろう。
 近くで何か軋む様な音がしている。
 盾が頭を動かしながら音源を探ると、近くの民家のほろ覆いのガレージから、何か蠢く気配を感じた。
 足音を忍ばせてそこに躙り寄ると、ガレージの中から、ぎし、ぎし、と革を軋ませる様と共に、青白い死人が姿を現す。
 ぼろぼろの屍衣を纏った死人の腕には、若い男性のものに見える生首が抱かれている。
 コンビニ袋の持ち主だろう。
「早速殺ってくれたか・・・今から、降伏する気は・・・無いよな」
『ぎしゅっ』
 干涸らび、引きつった唇を曲げて血塗れの歯を剥きだし、僵尸は笑い顔の様なものを作る。
 非常に気色悪い、というより、夢に見そうな笑顔だった。
 吐き気がする。
 盾は刀を構えて間合いをはかり、じりじりと立ち位置を調整していく。
 僵尸も盾の動きに合わせて、じりじりと立ち位置を変え始めるが、動く度に体全体からぎしぎしと軋みを立て、その動きは鈍い。
 しかし、いくら動きが鈍いといっても、迂闊に近づいて捕まると、とんでもない腕力に往生するハメになる筈だ。
 風を切る音と共に何かがとび、渇いた音を立てて、僵尸の背に突きたった。
「気をつけて下さい、そいつは飛僵だ」
『ぎしゅしゅ』
 ゆっくりとした動作で振り向く僵尸の背後、少し離れた建物の壁を濃い影が這い降り、地面で黒い衣になって盛り上がる。
 黒衣が手を開くと、僵尸に刺さっていた巨大な鎌が瞬間的にその手に移動した。
『ぎっ』
 僵尸の一瞥に不穏な気を感じた青年が横っ飛びするのと同時に、黒衣の背後の地面が弾けとび、何ともいえぬ腐敗臭が爆発する。
 僵尸が一瞬よそ見した瞬間、盾は思い切り踏み込み、胴凪ぎを喰らわす。
 鋭い刃は屍衣等紙の様に切り裂き、その下の素肌に食い込むが、地の金気を帯びて硬質化している僵尸の体は刃を容易には受け付けない。
『ぎぎっ』
 胴に食い込んだ刃を無視し、僵尸はその場で激しく回転、両の鈎爪を盾に叩き付けてくる。
 すかさず盾が刀身を立てて鈎爪を受けると、金属的な撃音が空気を震わせ、受けきれなかった下段の鈎爪が、瞬間的に引かれた盾の太股を浅く削り取っていく。
 その間に、滑走しながら僵尸との距離を詰めた黒衣が、大鎌を振り下ろし、僵尸の背に突き立てるが、これも硬い革肉に阻まれ、浅く刺さっただけだ。
 黒衣の攻撃等全く無視して鈎爪を押しひしいだ僵尸は、一瞬抑え込んだ盾を一瞥する。
 凍てついた金釘が肺腑で暴れ回る様な苦痛と不快感に耐え、盾は一気にたわめた足腰を解放、僵尸を弾き飛ばす。
「せっ」
 弾き飛ばされた先で既に大鎌を構え直していた黒衣は短い気合いと共に僵尸の首に大鎌を引っかけ、迷わず引くが、その腕がぴたりと静止させられる。
 大鎌の刃を無造作に僵尸の手が掴んでいたのだ。
 掌に大幅に刃を食い込ませながら、僵尸はどうにか姿勢を立て直している盾に大鎌ごと地面から引き抜いた黒衣を投げつける。
「っつ」
 盾は斜め前に身を投げ出しつつ前転、膝を立てながら勘だけで切り上げるが、刃は空を斬った。
 盾の元居た場所に叩き付けられた黒衣は瞬間的に二次元化、僵尸の元に滑って返すが、既に僵尸は盾の刃を逃れ、宙に浮かび上がっている。
 振り上げたままの刀を返す余裕も惜しく、盾は腰から下のバネだけで力の限り跳躍、僵尸に上昇力を凌駕されたと感じた瞬間に、思い切りよく、大上段からの切り下げを敢行した。
 盾が刃を振り切った瞬間、機を見た黒衣が大鎌を放つ。
(浅い・・)
 盾の脳裏をそんな思考がよぎった瞬間、その背に、凝視が突き刺さり、黒衣の投じた大鎌は急激に体勢を崩して落下する盾をかすめ、僵尸は軽やかに体勢を入れ替え易々とそれを躱した。
 地上での鈍さからは、お呼びもつかぬ俊敏さだ。
「ぅおっ」
 受け身も取れずに地上10m以上から落下した盾は、激しい音を立てて民家の物置に叩き付けられて屋根をぶち抜き、その中へと姿を消した。
 鋸の様な風斬り音を立てて空に吸い込まれていった大鎌を黒衣が呼び戻している間に、僵尸は闇夜に消えていってしまう。
「やはり夜になっては、単独では困難ですね・・・・・・」 
 黒衣は溜息の様なものをはき、戻ってきた大鎌を地面につく。
 黒衣がそうしている間にも、すぐ近くで、大きな破壊音を立てながら盾は物置から脱出している。
 幸い、物置の中に置かれていたのはガーデニング用の農具等ではなく、古雑誌や子供の玩具自動車だった為、盾は余計な怪我をせずに済んでいた。
 又、ロッカーに毛が生えた程度の柔な物置の天井は、かなり落下衝撃を緩和してくれたらしい。
 盾の派手な脱出にもかかわらず、まだ、周囲は静まり返っている。
 僵尸の張った人払い結界の効力がまだ少し残っていた様だ。
 黒衣は最後にちらりと、盾が落ちた民家に注意を向けてから、影に変じて手近の暗がりに紛れ込んでいった。
「くそ、気分わりぃな・・・」
 未だとげとげしい不快感の残る胸を軽くさすってから、盾は民家の塀をひょいと跳び越え、道に降り立ったが、最早黒衣の者が居た痕跡は何処にもみられない。
「ち・・よく分からん奴が増えたもんだぜ・・面倒臭い事になんなきゃいいがな・・・」
 結界の残滓が消え去り、周囲に人間の気配が戻り始めるのを感じて、盾は民家の屋根に軽く跳び乗る。
(兎に角、ずらかるか)
 屋根から屋根に跳び移りつつ、盾は闇に消えた。


「大丈夫かね」
「は・・はい、大丈夫です」
 ラウドは、顔色を青くして左腕にしがみついている千友梨に声を掛けた。
 先刻浅川で感じた異常死の予兆、ラウドには、否、千友梨にもそれは馴染みの感覚だったのだが、すぐにその余韻からさめたラウドとは違い、千友梨はますます強い悪寒を感じてふらふらになっていたのである。
 ラウドが火を始末している間に休ませてはいたのだが、かえって、一人で歩くのは危なっかしい程に症状が悪化してしまった。
「もうすぐネットじゃ、あと少しの辛抱じゃぞ」
「・・はい」
 元々上げられていることの少ない頭を下げっぱなしの千友梨を励ましながら、ラウドは 鋼鉄騎士の入っている雑居ビルを目指す。
 千友梨を半ば引きずる様にして非常階段を昇り、裏口から鋼鉄騎士に入る。
 店内に入ると客は女性が二人、半吸血鬼のメリルメイ・柏崎と雪女の白石深雪がいるだけであった。
「おや、ドク、今夜は随分と早いじゃないか・・・ん、弟子さんの調子が悪いのか」
「うむ、マスター、奥を借りるぞ」
「ああ、使ってくれ」
 立花の声を背に聞きながらそそくさとカウンターをくぐり、ラウドは店舗の奥にある居住スペースに千友梨を運ぶ。
 入ってすぐの和室で、メンバーの為に備え付けられている寝具から枕と毛布を取り出して千友梨を休ませる。
「ここで、良くなるまで休むがいい、調子が良くならんようなら、今日はここに泊まるんじゃ、マスターにはわしから言っておく」
「すみません・・・」
 仰向けの状態のまま、申し訳無さそうに目を伏せる等という器用な真似をする千友梨に、ラウドは首を振った。
「いいんじゃよ、気疲れしておったんじゃろう、わしも、ついつい居心地が良すぎて、お前さんを働かせ過ぎた、すまんの・・・」
「いえ・・・」
「ここは安全じゃ、ゆっくり休みなさい」
 ある意味、警察署の中に居る様なものである。
 殊に、妖魔事件がらみにおいて、現在の八王子市では1、2を争う安全な場所だといえた。
(少し、急ぎすぎたかの・・・鍵が開かないからといって、金庫を壊してしまったのでは意味が無いからのぅ)
 内心、やや物騒な事を呟きながら、ラウドは鋼鉄騎士の店内に戻る。
「せんせ、久しぶり」
 カウンターに座ったメリルが軽く手を振ってきた。
 その隣に座っている深雪は、ラウドに気付いているのかいないのか、暇そうな様子で自分の前に置かれたグラスの縁に、氷のオウムを丹念に造形している様子だ。
「おう」
 ラウドが鷹揚に頷きながらカウンター席に着くと、何も言わずとも、いつものボトルとグラスが現れた。
「・・・ああ、そうか、今日はラウドせんせと、あの子がデートだったんだっけ」
「まぁ、そうじゃな・・・それにしても、あの二人も全く、おしゃべりじゃのう」
 最近すっかりネットワークのゴシップネタに落ちぶれた我が身を苦笑しつつ、ラウドは早速一杯目をなみなみと注いで、軽く口を付ける。
「それはそうとな、盾が又、厄介事に出くわしたらしい」
「ほう」
 ラウドの台詞に、立花は難しい表情になり、メリルも真顔になった。
 深雪まで、いつの間にかラウドの方を向いている。
「ふむ、その様子では、此方でも何か厄介事を抱えて居るようじゃの」
「ああ、ドクにも連絡する予定だったんだが・・・盾からは何か聞かなかったかね」
 ラウドの言葉に、立花は頷きながら、質問を返す。
 千友梨と一日を過ごすのを知っていた立花は、気を使って、連絡を送らせたのだろうとラウドは思う。
「いや、多分、言い出せる機会が無かったんじゃろ」
 確かに、先刻の状況で言い出す機会を見つけるのも難しかったろうが、盾は、わざわざ自分で説明するのが嫌で、後々、立花からされる説明をあてにしていた、という面もありそうだ。
「盾があった面倒って、結局何だったの」
「ああ、今の所、具体的な事は分からんよ・・・少なくとも、人が一人以上、ろくでも無い死に方をしておる事以外はな・・・しばらくしたら、ここに盾がくる筈じゃ、その時、訊かぬとな」
「ふーん、なんだ、結局、待ってなきゃなんないんだ」
 メリルはつまらなそうに肩を竦め、あっさり、その話題を横に置く。
 今、ぐちゃぐちゃ言ってみても、どうにもならないんなら、やれる事をした方がいい。
「じゃあ、最初の話に戻って・・・結局はどんなコースで回った訳」
 切り替え素早く、好奇心丸出しで身を乗り出してくるメリルに、ラウドは少し深くなった苦笑を向けた。
 人が一人死んでいると言われた直後で、甚だ不謹慎であるかも知れない。
 しかし、一面識もない他人が突然死んだと聞かされて、いちいち気分を沈みこませていたのでは、それこそキリがない。
 東京・・・妖魔都市八王子市の裏治安は、それほど良好とは言えないのである。
(やれやれ、一体どの様にオモシロおかしく吹き込まれたんじゃ・・・)
 ラウドは軽くグラスを傾け、その一口に苦笑を溶かし込みつつ、少々思案してみる。
「そうじゃのう・・・」 
 千友梨の件に余り触れない様にしつつ、メリルの好奇心を程々に満足させてやるには、どの様に話したものかと思いを巡らしたラウドは、ふと、街に出る迄に千友梨に話してやった話を思い当たり、今度はメリルに思い出し笑いを向ける。
「ふ・・・」 
 自分の顔を見て、急に面白げな顔をしたラウドに、メリルは多少、微妙な顔つきになった。
 現世規格外の超絶美形の深雪と歩いていると、自分が路傍の石にでもなった様な気になるのだが、元々は、顔とスタイルにはそれなりに自信がある方だ。
「私の顔、何かついてるの」
 ついつい、微妙に棘のある台詞が口をついた。
「いやいや、違うんじゃよ」
 ラウドは軽く否定して、もう一口、スコッチで舌を湿す。
「さっき、千友梨君と歩いておる時に、お前さんの話をしてやった事を思い出してな」
 ラウドの台詞に、メリルは訝しげではあるものの、好奇心が又、刺激された模様であった。
「私の話って、一体どんな事、あの子に言ったの」
「ふむ・・・まぁ、大した事ではないがな、儂等みたいなものが、人間社会で暮らすのにはそれなりの苦労があるんじゃと、教えただけじゃよ」
「だから、具体的にどう言った訳」
 要点を適当に端折りまくった台詞に、メリルはイライラした様子で、自分のグラスからストローで暗赤色の液体を吸う。
 メリルは何事も、単刀直入に行う事が好きだ。
 婉曲表現や、比喩表現等は、国語の時間だけで飽き飽きしているし、ついでに言うなら、恋愛の告白もストレートなのがイイと思う。
 ラブレターなんてまだるっこしいし、友達に頼んで意中の人の心中を探って貰うのなんかは、待ってる間、胃に穴が開きそうなストレスが溜まりそうだとも思う。
 まぁ、他人の恋愛事なら、それも面白いとは思うのだが。
 ただ、自分が当事者ならば、何事も正面から立ち向かい、当たって砕けた方がまだ気が楽である。
『後は野となれ山となれ、まぁ、何とかなるわよ』
 メリルの持論であった。
「そうじゃな、確か、お前さんが、毎朝どれ位朝日に苦労して通学しておるか、引き合いに出しただけじゃよ・・・千友梨君は学校に通った事が無いらしいからの、お前さんがそこ迄苦労して通学しておるのか、今一つ分かり難かったようじゃが・・・」
「へぇ・・・」
 半吸血鬼のメリルにとって、燦々と日が照っている状況下で感じる苦痛と脱力感は、他人に形有る言葉で説明するのが難しい程キツイ。
 しかし、物心ついた時から適応する様に教育された為、耐えられない、という意識はない。
 今のメリルにしてみれば、学校を辞める方が、より大きな苦痛を伴うのは間違いなく、それに、普通の人間と同じ様に義務教育を受けてきたメリルには、教育機関に通わない生活は今一つ、想像の埒外にある。
「そう言えば、善之君達はまだ来ておらんのかね」
「ああ、善之君と武士君は今、“こちらの厄介事”の件で二人共、見回りをしてもらっている、高知君も今は上空から回ってくれている筈だ」
「そうか・・・では今の内に“こちらの厄介事”について話して貰う事にするかの」
「そうだな」
 立花はカウンター下から、手配ファイルを取り出した。
「取り敢えずはこれを見てくれ・・・」


「・・・ここのようですね」
 飲み屋の客引きをあしらいながら歩んでいた青年は、雑居ビルにつけられた看板の中に“鋼鉄騎士”の文字を認めて足を止める。
 アルコールが入ってはしゃぎまくる若者達をすり抜け、青年は階段をのぼり、喫茶鋼鉄騎士の前に立つ。
 営業時間を過ぎた扉には既に準備中の札がかかっているが、青年には中から複数の気配が感じられた。
 ノブに手をかけて引いてみる。
(流石に鍵がかかっていますか・・・)
 青年は軽く周囲を見回して誰も居ない事を確認すると、その場で影に変じ、扉下の僅かな隙間から店内に滑り込んだ。


「・・・ふむ、では、先刻盾が察知した事件も、その僵尸の仕業かもしれんのぉ」
「確かに、その確率は高いな」
 ネットワーク熊猫飯店、からの手配を聞いたラウドは得心した顔つきで頷き、立花もその推測に同意する。
 ラウドにしてみれば、先刻感じた悪寒は妖魔事件による異常死特有の感覚が感じられたし、立花にしても、こうもタイミング良く事件が起これば、今までの経験上、ラウドの推測には頷けるものがあった。
「盾に直接訊けば、すぐでしょ」
「まぁ、そうじゃな」
 メリルのもっともな指摘に、ラウドは苦笑する。
「それにしても、連絡してくれれば加勢にいけるのに・・・盾って、一応、携帯持ってるんでしょ」
「ああ持っている筈だ、だが盾くんが“呼ばれた”状況では、連絡があってから現場に行っても、多分、間に合にあうのは難しいだろうな」
「でも、結構近い場所かもしれないじゃない」
 憮然とした様子でメリルがストローを吸うと、グラスの中身が一気に半分以上減った。
 別にメリルは戦うのが好きな訳では無い、ただ、じっとしているのが性に合わないのである。
「まぁまぁ、加勢が間に合う状況ならば、盾も連絡してくるじゃろう、今日の所は、彼の連絡を待つとしようではないか」 
 きっかけさえあればすぐに行動に移りたそうな様子のメリルに、ラウドはのんびりとした表情を崩さずにやんわり制止する。
「確かに、やたら走り回ってもしょうが無いのはわかってるけどね・・・」
  不満そうな顔でカウンターに頬杖をついたメリルは、背筋を淡い冷気に撫でられ、縮み上がる。
「うっわ・・どうしたの」 
 思わず背中に手を回しながらメリルが振り向くと、いつの間にやら深雪が立ち上がっていた。
 瞬間的に店内の三人は深雪に注目し、彼女が普段よりやや厳しめの表情で店の出入り口の方を注視するのを見つめる。
「・・・あなたは、誰ですか」
 特に詰問する調子ではなく、ただ、興味を持った相手に問いただした様な口調。
「・・・何いってるのよ」
 最初に口を開いたのは、メンバーの中でも一番深雪と一緒にいる時間の長いメリルだった。
「・・・このお店に、どんな用事があるんですか」
 尚も言葉を紡ぎながら深雪は緩やかに片手を上げ、ドアマットを指してみせる。
 審判を下す女神を思わせる荘重さに、ただその指先を視線で追った三人は、ドアマットからはみ出す不自然に濃い影を発見する。
「・・・む、千友梨君・・・いや、お客さんの様じゃの」
「誰・・・燃やされたくなかったら、早く姿を見せなさいよ」
 泰然としたラウドの声と、緊張したメリルの声が唱和する。
「・・・店の中で火を使われるのは困るな・・・そこの人、そんな事になる前に、自己紹介してくれると助かるんだがね」
 マスターの台詞に反応したのか、ドアマットの下から影が滑り出て、にゅうっと、実体化する。
「済みません・・・」
 色白の顔を紅く染めた青年は、帽子とサングラスを取って頭を下げる。
「まず、勝手に此処に入った事をお詫びします・・・他の出入り口が分からなかったもので、事前にご連絡すれば良かったのでしょうが、此方の連絡先を失念しまして・・・全く申し訳ない」
 礼儀正しく頭を下げる青年を、一同はそれぞれに観察する。
 立花とラウドはポーカーフェイスで中身が読めないし、深雪は別の意味で考えている事が読めない。
 メリルはと言えば・・・
(見た目・・・服装以外は、まぁ合格・・でもねぇ、一寸、暗そうだし・・・それに、ヘンに丁寧すぎる所が胡散臭いわ・・・45点)
 採点はかなり辛かった。
「熊猫飯店さんからご連絡が来ているかどうか分かりませんが・・・私は、死神の係累で、玉刈静真と申します」
 青年が名乗った時、立花とラウドは一瞬だけ目線を交わした。
 メリルもラウド医院の居候の名字に思い当たって、顔つきが露骨に変わりそうになる。
「・・ふむ、君が何者かは分かったが、この“鋼鉄騎士”にどんな御用かね」
 メリルの気配を察して、立花は実際上は自明の質問を持ち出した。
 ラウドからは、千友梨が殆ど自分の一族の事を持ち出さない事は聞いている。
 状況を先延ばしにしているだけの効果しかないだろうが、立花にはひとまず、この場で千友梨と、この静真という青年を鉢合わせさせるのは余り得策ではない様に感じられたのだ。
 静真は深雪を除いた一同が妙な表情をしているのに眉根を寄せるが、取り敢えずは挨拶を続ける。
「横浜で逃亡した僵尸、本当は飛僵なのですが・・・それを追ってきました、昼間、行動不能な所を一方的に封印できるならばともかく、自由に活動できる飛僵を私一人で何とかするのは難しい・・・出来うれば、飛僵の確保、又は排除をネットワークのメンバーにご協力していただきたいのですが」
 静真の予想通りの提案に、立花はもっともらしく頷いてみせる。
「・・・成る程、そう言う事ならば、熊猫飯店の連絡で此方も独自に動いている、今も若い者が動き回っている所だ」
「そうですか・・・」
「お互いの目的が同じなのだから、協力する事に不都合は無いだろう・・・まぁ、そこらにかけてくれ、君は僵尸について細かい事を知っている様だし、話を聞かせて欲しい」
「では、失礼して・・・」
 静真はラウドの隣のスツールに腰を降ろす。
「そうだ・・・」
「どうかしたかね」
 静真は懐に手を入れ、一枚の写真を取り出すと、カウンターの上に滑らせる。
「・・・済みません、事件と関係ない事で恐縮ですが・・・この人を見掛けた事はありませんか」
 カウンターの上に置かれた写真を見て、メリルの好奇心が頭をもたげるが、他の三人が一様にコメントしないのをみて、ひとまず、少しだけ自分の興味は置いておくことにした。
「・・・済まぬな、それに関しては儂等は協力できんようじゃ」
 静真はラウドに正面から目を据え、ややあってから、溜息をついて写真をしまう。
「いえ、こちらこそ済みません・・・長く捜しているのですが、中々見つからなくて・・・」
「ほう・・・」
 悲しそうなをした静真に直接話を聞きたい衝動を抑え、メリルは軽くラウドに目配せする。
 一応、今の千友梨の保護者である事だし、それ位は先に譲っても良いだろう。
「・・・ふむ、何か事情がおありのようじゃが・・・良ければ儂等に事情を話していただけんかな、何かしらご協力出来るかもしれん」
 ラウドの申し出に、静真は一瞬、探る様な目つきでラウドの目を覗き込む。
 灰色をした静真の瞳に、ラウドはいい知れない昏さを感じ取り、これは是か非でもこの場で千友梨に相対させるべきでは無いと心中新たにする。
「・・・これは、身内の恥を晒す様で、お恥ずかしいのですが・・・」
 静真がラウドの瞳から何を読みとったか、鋼鉄騎士の一同には分からなかったが、取り敢えず彼は写真をそのまま引っ込める事はせずに口を開く。
「・・・彼女は、ある事情で私が、まぁ、保護者として身柄を預かっていたのですが、四十年程前に出奔しまして、それ以来、私は一族の仕事で全国を回りながら彼女を捜しています・・・」
「ほう、しかし、あなたが熱心に捜されているという事は、その娘さんが何か事件でも起こされたのですかな」
 ラウドの指摘に、静真は如何にも痛い所を突かれて困った・・・そういった表情を作る。
「まぁ・・・確かに・・・大体二十年前位前になりますが、彼女は逃亡の途中、とある人間の一家に潜伏していたのですが・・・その時、彼女はその一家に、私達の一族に伝わる禁術を使ったのです」
 禁術、その言葉を発した時、静真の顔に隠し様の無い嫌悪の表情が浮かぶ。
「禁術とは、一体どの様なものか・・・お聞きしてはいかんかな」
 言葉を途切れさせた静真に、言葉静かにラウドは促す。
「・・・」
 しばらく逡巡の様子を浮かべ、静真は千友梨の写真に視線を落とす。
「・・・一族に伝わる禁呪とは、黄泉還りの術法・・・生と死の境界を冒涜する邪法の事です」
「その、術をかけられた人達って、どうなった訳」
 メリルのストレートな質問に静真は目線を上げ、彼女の視線を正面から捕らえる。
「私がこの手で黄泉に返しました、生者でも死人でもない・・・生き死人、そんな存在である事は本人にとっても、苦痛以外の何者でも無い事です」
 当然自分の事を言われている訳では無いのだが、メリルは何となくムカついてくる。
「そんな事、本人に聞かなきゃ分かんないわよ」
 思わず、ムッとした顔で言い返してしまうと、メリルは背後から冷たい手が肩に触れるのを感じる。
 振り返ると、深雪が微かに首を横に振っていた。
「・・・分かってるわよ」
 深雪に止められては、取り敢えずはメリルも黙り込むしかない。
 それでもメリルがまだ少しムッとした顔を保っているのは、他の者よりは、男女あまねく精神を侵す深雪の美貌に、免疫が備えているからだ。
「・・・生き死人、と言う事は、その禁呪では完全に死者は黄泉還らないという事かの」
 すかさず繰り出されたラウドの質問に、静真は一瞬口ごもる。
「・・・まぁ、術は完璧では無かったのです、何しろその術が使えるのは、今、私達の一族では彼女だけで・・・伝承も正確なのかは確かめ様がありませんからね」
 静真は何か大幅に嘘をついている。
 静真のオーラに特有の乱れを確認し、ラウドの疑惑はほぼ確信に変わった。
「私は彼女を保護しなくてはならない、それは、一族の長老からかせられた使命であると同時に、私が個人的に彼女を心配していると言う事もあります」
 嘘と断定出来る程では無いが、真実とも言えない。
「そうか・・・それは早く見つかると良いのぉ」
 ふぉふぉふぉ、と惚けるラウドを見る静真の目に、一瞬だけ剣呑な光がよぎる。
「全くです・・・一日も早く、その日が来る事を私も祈りながら捜していますから・・・そう言えば、飛僵の話でしたね・・・」
 ラウドから視線を外した時には、静真の目からはその光は既に消えていた。
「飛僵は僵尸が年を経てより強力な存在になったもので、伝承では、仏法の護法神たる飛天、夜叉並の神通力を備えていると言われている様です・・・まぁ、飛天、夜叉がどういった妖怪なのかはともかく、今、問題になっている僵尸は幸い、そこになぞらえている程には強力では無い様です・・・精々、空を飛んで“金気”を叩き付けて攻撃してくる程度ですか・・・とは言っても腕力も恐ろしく強いし、皮膚も非常に硬い・・・とても軽視出来ない能力をそなえているのですが」
 立花は静真の解説に頷きながら、意味ありげにメリルに視線を移す。
「成る程・・・空を飛べるのは正直厄介だな、盾や武士君を当てに出来なくなるからな・・・しかし、僵尸は金気で成り立つ妖怪だと聞く、と、なるとメリル君の技が効果を発揮するかもしれんぞ」
「へ、私の技って・・・僵尸って火に弱い訳」
「ああ、古来伝わる陰陽五行説では、金は火に克される・・・平たく言えば、火に弱い訳だ」
「ああ、それで・・ね」
 うっかり、“武士もね”等と続けそうになり、メリルは舌を犬歯で噛む。
 金行の鬼である武士は、火炎攻撃に脆いのだ。
 見知らぬ相手が居る中で、仲間の弱点を口にする等、もっての外であった。
「ふむ、大体が、空を飛べる相手に対しては、射撃系の妖術を持つ者でなくては対応するのは難しかろう・・・メリルに深雪、それに善之君が今回の主役じゃの・・・ま、儂は荒っぽいのはとんと苦手じゃからな・・・役には立てんな」
 わざとのほほんとした調子で言い、ラウドはぐびり、とグラスを半分ほど空ける。
「昼間に発見できさえすれば、陽光の下に奴を晒して、安全に焼いてしまえるのですが・・・ここにこうして、奴を指し続ける様に術のかかった羅盤があるんですが・・・やはり妖魔事件がらみ、しかも対象が妖怪そのものでは、精度にかなりの歪みが出ますから、中々・・・」
「まぁ、致し方無いでしょうな・・・取り敢えず、どうなさいますか、此処のメンバーの誰かと一緒に行動するなら、誰か紹介しますが」
 立花の申し出に、静真は一瞬考えてから首を横に振る。
「いえ、私はひとまずもう少し一人で動いてみようと思います・・・失礼」
 静真はメリルの飲んでいたグラスの下からコースターを失敬すると、それに電話番号を書き込む。
「これが私の携帯電話の番号です、えーと、こちらの連絡先は・・・」
 静真はレジ横に置かれている宣伝用マッチを手に取る。
「こちらの番号でよろしいですか」
「ああ、構いませんよ、僵尸を見つけた時にお電話いただければ、メンバーを助っ人に向かわせます」
「お願いします」
 静真は頭を下げながら、今度は裏口から出ていった。
「どう思う、ラウド先生」
「さあな」
 メリルの言葉に首を振りながらラウドは立ち上がり、裏口の外を確認する。
「お、ドクじゃねぇか、そんな所で何してるんだ」
「おや、盾、ごくろうさん・・・所で、誰かとすれ違わなんだかね」
「ああ、何か陰気な兄ちゃんとすれ違ったな、黒ずくめで、剣呑な雰囲気だったが・・・」
「そうか・・・ならいいんじゃ」
「いいんなら、取り敢えず中に入るぜ、寒くてかなをねぇ」
 盾は肩をすくめて店内に入る。
 ラウドがドアを閉めた後、壁をすべりおりた影がドアの隙間から天井に忍び込むのに、不幸にして盾もラウドも気付く事は無かった。


「成る程な、その静真っていう兄さんの事は、ドクはどう思うんだ」
 レトルトカレーを頬張りながら、水を向ける盾に、ラウドは渋面を返す。
「僵尸を追っている事迄は嘘では無いじゃだろうが・・・見た目の印象とはひどく違うものを腹に隠し持っているのも確かじゃな」
「着てる物以外は、まぁまぁの見た目だったけど・・・いけ好かないわね、千友梨ちゃんが逃げたのだって、虐待されたとかなんじゃないの・・・ま、第一印象だけでどうこういうのも良くないけどさ、何か・・・何かそう言う感じがするのよね・・・」
「確かに、あまり事情が分からない事に憶測でものを言うのは危険だが・・・千友梨君はああいう性格傾向だからな・・・扱いは慎重にならざるをえんだろうな」
 立花は腕を組んで考え込む、千友梨の抱え込んでいるトラブルは妖怪の社会上でも、かなりキツイものらしい。
「彼は我々が何か隠しているのに気付いている様だったな・・・立花、電話を借りるぞ」
「ああ、かまわんよ、善之君達に連絡するのか」
「うむ」
 立花がカウンターの下から取り出した電話を受け取り、ラウドは善之の携帯番号をプッシュし始める。
 ラウドが待ち受け音を聞いていると、それまで黙っていた深雪が不意に立ち上がり、無言ですたすたと歩いてカウンターを抜け、居住スペースに足を運んでいった。
「どうしたの」
 一瞬遅れてメリルも反応し、カウンターを通り抜けて深雪の後に続き、真っ暗な和室に上がり込む。
 真っ直ぐ吊りスイッチに手を伸ばす深雪より一瞬早く、暗がりで目が効くメリルは吊り紐を掴んで引っ張る。
「あ」
 和室には枕と毛布だけが残され、千友梨は何処にも居なかった。
 メリルは素早くしゃがむと、毛布の中に手を突っ込む。
「・・・まだ少しあったかい、そんなに時間は経ってないか、どうして居なくなったのが分かった訳」
 メリルの問いに、深雪は首を振る。
「違います、ただ、心配になったから見に来ただけ・・・」
「ん〜」
 メリルはガタガタと隣の部屋の襖も開けていくが、どの部屋にも髪の紅い娘は居ない。
「うぷ・・臭っ」
 奥まった部屋を空け放ったメリルは、中から噴き出した強烈な獣臭と犬毛に思わず鼻と口を押さえる。
「GURRRRRRRRRRRRR」
 四畳半程度の小さな和室には、巨大な狼が睡眠を邪魔されて不機嫌そうに唸っていた。
「さっき、ここに赤毛の女の子入ってこなかった」
「・・・そんなエモノが入ってきてたら、もう、オレの腹の中ダ・・・オマエも入って見てみるカ」
 あからさまに汚い物を見る様な目で質問するメリルに、狼はニヤニヤ笑いながら口を大きく開いてみせる。
 真っ赤な狼の口には、成人の人差し指程も有りそうな牙がずらりと並んでいた。
「遠慮しとくわ」
 メリルは音高く襖を閉めて、踵を返す。
「全く・・・ケダモノにはどーしてあんなのしか居ないのかしらねっ」
 世界のどこかには吸血鬼と人狼に親交があるなんて伝承もあるらしいのに、メリルはろくな人狼に会った事がない。
「駄目、何処にも居ないわ」
 いつの間にか和室に来ていたラウドは、メリルの報告に困った表情で髭を捻る。
「そうか・・・困った事になったの・・・立花よ、もう一度電話を借りるぞ」


 元通り天井を伝って裏口から外に出た静真は、雑居ビルの壁を滑り降りてビルの谷間に三次元化する。
「ま、そんな事だろうとは思いましたが・・・」
 静真は一人ごち、繁華街で電話ボックスを見つけて中に入り、タ○ンページをめくってラウド医院の電話番号と住所を探し出す。
 手持ちの手帳に、それを写すと、静真はすぐにJR八王子北口ロータリーに向かう。
 止まっていたタクシーに乗り込み、住所と、ラウド医院の名前を告げる。
「急いで下さい・・・家族がそこに担ぎ込まれた様なんです」
「それは大変ですね、分かりました出来る限り急がせてもらいますよ」
 静真の大嘘を聞いたタクシーの運転手は、少し気の毒そうな顔をして頷き、ハンドブレーキを解除する。
(・・・恐らくは間違っていない筈だ)


「御免なさいっ」
 思い切りぶつかられて顔を顰めている大学生に頭を下げるのももどかしく、千友梨は全力疾走する。
(まさか、今、静真がここに来るなんて・・・)
 余りの間の悪さに千友梨は涙が出てくるのが堪えきれない。
(もう少しだけ・・もう少しだけ、時間が欲しかった・・・)
 泣きながら髪を振り乱して改札前を横切っていく女の子に、鉄道利用客達は多少奇異の目を向けるが、すぐに気を取り直して自分の日常に戻っていく。
 ラウドと静真が話し始めた時、千友梨は立ち聞きもそこそこに抜け出してきたので、静真が自分についての情報を得たのかは分からないのだが、今までの経験から、八王子近辺に留まる限り、静間は確実に千友梨を狩り出すだろうと言う事は想像がつく。
 最早、八王子に一秒たりとも滞在する事は危険だった。
 しかし、金銭的な物はともかくとして、本だけは置いて行く訳にはいかない。
 千友梨がどんな時も持ち歩いていたあの革表紙本には、料理のレシピ等以外にも、旅先の事や、そこで出会った人々の事も書かれている。
 あの本が静真の手に渡れば、それらの人々にも何か迷惑がかかってしまうかも知れない。
 千友梨にとっては看過できる問題ではなかった。
 息を切らしながら階段を駆け下り、千友梨は、ようやくタクシーを拾う事を思いつく。
 自分の事ながら、かなり混乱してしまっている様だ。
 手近のタクシーの窓を叩いてドアを開けて貰う。
「すみ・・ません、絹の道の・・ラウド医院まで、急いで・・・お願いします」
「・・・はい、わかりました・・きみ、大丈夫?」
 尋常でない様子で、息せき切って乗り込んできた千友梨の様子に、一瞬、乗車拒否が頭をよぎった運転手だったが、もう乗せてしまったし、好奇心の混じった同情の方が勝っていた。
「・・大丈夫、です・・済みません・急ぐんです」
 息を整える千友梨にそれ以上の事情を説明する気は無さそうであり、運転手もそれ以上立ち入った事を聞く訳にもいかずに、取り敢えずその場から発車する。
 八王子南口から絹の道までは、車ならば、そんなに大した距離は無い。
 18:00〜20:00前後は駅前に下ってくる車の方が多く、登り車線は空いているもあり、すいすいと千友梨を乗せたタクシーは進んでいく。
「・・・」
 呼吸の乱れが納まると、とても静かになって俯いてしまった乗客の様子に、タクシー運転手は、何か話しかけようと、バックミラーでちらちらと彼女の様子の変化を窺うが、どんよりとした雰囲気を纏ったままの千友梨にとりつくしまを見いだせない。
 夜中の道路ぱたで拾った客だったら、間違いなく“消えるヒッチハイカー”を疑っていただろう。
「ふぅ・・・」
 運転手の興味は、早くも、兎に角、この陰気な客を早く降ろしてしまいたいという欲求に変わっていた。


 絹の道をのぼる車窓越しに、黄色いタクシーがすれ違っていく。
 “空車”の文字がコンパネの上に輝いていた。
(先を越されましたか・・・ね)
「・・・この辺りに結構お客さんを運ばれるんですか」
「いや、確かにこの辺りに住宅はあるけどね、あんまり無いかな・・・特にこの時間は呑んだ後に帰る客も居ないしね」
「そうですか・・・」
「・・・この先、行き止まりになっている所がラウド医院ですよ・・・」
「・・・済みません、そこで降ろして下さい、この近くで、家族が待っててくれる筈なんですよ」
 静真の申し出に運転手は一瞬、怪訝な顔をしたが、取り敢えず停車した。
 静真は夏目漱石を二枚取り出して運転手に渡し、すぐに降りる。
「あ、お釣りは」
「・・・不要です、有り難うございました」
 そう告げて、静真は振り向く事無く坂を上り始める。
「もう少し・・・随分、長かったですね・・・」


 千友梨はドアの鍵も開けずに玄関の隙間から中に滑り込み、そのまま自分に与えられた居室に滑っていく。
 居室の中で実体化した千友梨は、真っ暗闇の中で、手早く数少ない所持品をトランクにまとめ、机の上のメモパッドに、愛用のペンで走り書きを始める。


『先生、勝手に押し掛けた上、お世話になったご恩も返せぬまま、この様な形で出ていく事、本当に申し訳なく思います。
 でも、このままここに居れば、先生にも鋼鉄騎士の皆さんにも今まで以上のご迷惑をお掛けしてしまいます。
 先生・・・この1ヶ月、ここでの暮らしで、私は身に余る安らぎを得る事ができました、それも、先生と、ネットワークの皆さんのおかげです。
 本当に、本当に、ありがとうございます。
 名残惜しく感じますが、これでお別れです・・・もう二度とこの街には来ません。
 さようなら、皆さん』


 書き終わってペンを仕舞うと、千友梨は旅帽を被ってトランクを持つ。
 一度だけ、名残惜しげに部屋を見回し、千友梨は影に変わろうとする。
「お別れは済みましたか」
 突然背後から抱きすくめられ、千友梨は縮み上がった。
「本当に長い間捜しましたよ・・・さ、一緒に帰りましょう・・・」
「駄目・・帰れない」
 背後からのきつい抱擁に息をつめて震えながら、千友梨は静真に即答する。
「何故ですか」
 静真の声がワンランク、トーンダウンした。
「私が居ると・・静真に、良くないから・・・」
 声を絞る千友梨の耳後ろに口を寄せ、静真は彼女の髪を香る。
「・・・あなたが勝手に私の所から居なくなってから、責任を問われた私の評判がどれ程落ちたか・・・」
 千友梨の二の腕上から回された腕が尚更強く締まり、骨格が軋む幻聴を生じさせる。
「・・・っ」
「・・・ま、そんな事は些末な事です、本当に」
 少しだけ、静真の腕から力が抜ける。
「どれ程、一族の者に疎まれようと、あなたさえ戻ってきてくれれば、私には、何も言う事はありません・・・まだ、あの家のあなたの部屋はあの日のまま、何も変わっていません」
 数十年に渡り、各地を点々と、気を休める事無く逃げ続けた程の決意が今もあるにも関わらず、千友梨は己の心が一瞬、はっきりとぐらつくのを感じた。
 しかし・・・
「御免なさい・・・それは、出来ません」
 千友梨は、自分でも意外な程はっきりと、拒否の言葉を口に出来た事に驚く。
「しかし、あなたは・・・」
 静真が更に口を開こうとした時、玄関の錠前を外す音が聞こえた。
「・・声を立てないで下さい」
「・・・」
 言いつつも、静真は特に千友梨の口を塞ぐ様な事はせずに、千友梨を引きずって隣の書庫の棚の陰に身を潜める。


「くそ、お前重いな・・・」
「すまぬな」
 ぶつぶつ言う善之の背から武士はとびおり、先刻ラウドに指示された通りに玄関ポーチの右柱の根元を調べる。
 カバーする様に置かれた植木鉢をずらすと、ぽっかり空いた柱の空間に鍵が放り込まれていた。
「あったぞ」
「何だ、使ってないって事は、此処には来てねぇんじゃないのか」
「むう、されど、確認しない訳にもいかぬな」
「まぁな・・・そういやあの娘、影になれるんだっけな、鍵なんか必要ねぇか」
 納得している善之をさておき、武士は鍵を錠前に差し込んで回転させる。
「よし、行くぞ」
「おう」
 二人して音を立てずに忍び込み、灯りの無い中を一つ一つ部屋を確認していく。
 微かに開いた隙間から月光が漏れているドアを、善之はそっと開いた。
 中からは二人とも気配は感じなかったが、何となく善之は背後の武士に手を振り、壁に背をつけた状態から一気に部屋に踏み込む。
 善之に続いて踏み込んだ武士が素早く壁のスイッチを入れ、蛍光灯より暖かみのある白熱電球が室内を照らし出した。
 急な光量の増加に目をしばたたきながらも、善之と武士は室内を見回して千友梨と、その影を探す。
「・・・居ない、よな」
「うむ・・・それ所か、荷物も無い様で御座るぞ」
「おい、ちょっとこれ見ろよ」
 善之は、机の上に残されていた書き置きを見つけ、衣装ケースを調べていた武士に示して見せる。
「・・・これは、いかん・・・早く捜し出さねば」
「まだ遠くに行ってなけりゃいいが・・・武士、駅の方を頼む、俺は道路の方を見てくる」
「承知した」


「どうして、大きな声をあげたりしなかったのですか、さっき声を上げれば、あのお二人が助けてくれたでしょうに・・・あなたが彼等の所に戻りたく無いとはいっても、私と彼等が揉めている間に逃げられたでしょう・・・」
 弄う様な調子で囁かれた質問に、千友梨は静真の腕の中で俯いた。
「・・・そんな事したら、静真、あの人達と本気で戦うんでしょう・・・そんな事させられない・・・」
 語尾を消え入らせた千友梨の耳元で、静真は喉に絡む様な笑い声をあげる。
 それは、千友梨には妙に自嘲的で耳障りに感じられるものだった。
「・・・まだ、私の事を心配してくれているという訳、ですか・・・それとも、ここのラウドという先生に気を使っているのですか・・・なかなかの紳士・・・ロマンスグレイの様ですね」
「そんな事・・・」
 静かな声に含まれる鬱屈した想念に千友梨は体をちぢこませ、その震えを腕に感じた静真は、一旦緩めていた腕をもう一度激しく締め付ける。
 その時、棚に引っかかっていた静真のポケットから小さな箱がこぼれ落ちたが、千友梨も静真もそんな事には気付かなかった。
「兎に角ここを出ましょう、誰か来たら私にもあなたにも都合が悪い」
「・・・」
 耳元で囁かれる言葉に、千友梨は無言のまま首肯した。
 本棚の影から立ち上がった時、ようやく静真は名残惜しげに千友梨から腕を外し、彼女のトランクを持っていない方の手を取る。
「・・・近くに大学があります、そこに、今の時間ならあまり人目に付かない場所が・・・」
 千友梨からの申し出を、静真は彼女に目線を合わせて少し考え頷く。
「わかりました、ひとまずそこに行く事にしましょう」


「そうか、間にあわなんだか・・・取り敢えず、わしらももうすぐ家につく、お主達はそのまま、あの娘を探してやってくれ」
 電話を切ってメリルに電話を返し、ラウドは渋面で腕を組む。
「駄目だったの、ちょっと、前っ、ちゃんと前見て運転してよねっ」
「お、ああっ・・済みません」
 車体が白線に吸い込まれていきそうになっているのに気がつき、メリルは、焦った声で運転手を怒鳴りつける。
 ラウド、メリル、深雪が乗り込んだ瞬間から、運転手は真後ろに座っている深雪をバックミラーで盗み見るのに忙しく、十分に届かない筈の道のりは、主にメリルにとって阿鼻叫喚のスタント走行になっていた。
「うむ、部屋に、別れの書き置きが残されておったそうじゃ」
 左右にメリルと深雪を侍らす形で乗り込んでいるラウドは、事情を知らない者から見たら・・・いや、事情を知っていても立場を交換したがる男は数知れないだろう。
「・・・心配ですね」
 深雪がぽつりと呟き、メリルは不機嫌そうに携帯のアンテナを掌で押し込んだ。
「全く、千友梨ちゃん、よっぽどあの男が嫌だったのよね・・・一体、なにされたのかしらねぇ・・・」
「さあな・・・しかし、捨て置けぬ事情があるのは間違いない」
「・・・それにしても、今日はあそこの病院で何かあるんですかね」
 片目で前を見ながら片目で深雪を盗み見るという離れ業に挑戦していた運転手は、不意にそう漏らした。
「ん、一体どう言う事ですかな・・・」
「いや、さっき二台位、立て続けにあの病院に向かうっていうのが聞こえてね」
「むむむ」


 危なっかしい運転で帰っていくタクシーを放ったまま、ラウド達は医院の中に踏み込み、千友梨の居室に向かう。
 夜目の効くメリルは、真っ先に部屋に踏み込んで灯りをつけ、机の上に投げ置かれたメモパッドを手に取る。
「・・・随分思い詰めてるみたい・・・こりゃ、あの静真って男、相当のワルなんじゃないの」
 メリルの差し出したメモパッドに目を走らせ、ラウドは緊張した面もちでヒゲをひねくりまわした。
「ふむ・・・」
「・・・あの静真という人は千友梨さんにとってどの様な人何でしょうか」
「そうじゃな・・・恐らくはかなり近い親族、じゃろうな」
 深雪の呟きに、ラウドは言葉少なに推測を述べる。
 二人よりは千友梨の情報は多く持っているが、そのラウドにしても、確実な推測が出来る程情報を持ち合わせている訳ではない。
 ただ、現時点で予測しうる限りでは、静真に限らず、一族に接触する事は、千友梨にとって非常に好ましくない結果をうむ事になり、これまでの彼女の反応を考えると、致命的な事態に及ぶ事もラウドには予想できた。
 眉間に深く皺を寄せながら、少し考えていたラウドは、少しばかりイライラしながら部屋の中を調べ回っているメリルとは対照的に、部屋に入ったままの恰好でその場に佇んでいた深雪が廊下の方に目をやっているのに気がつき、その視線を追ってみる。
 深雪の視線は、千友梨の居室の向かいにある書庫に注がれていた。
 書庫の扉はほんの微かに開いている様だ。
 ラウドは最後にそこに入ってからドアを閉めたか記憶を探り、少なくとも自分は開けたままにしていない事を確認する。
「・・・むぅ」
 書庫の中に入って電灯を点け、余り広くはない書庫の中を簡単に調べたラウドは、積んである本の上に、マッチが一箱のっている事に気がついた。
「何か見つけたの」
 しゃがんでマッチ箱を拾い上げているラウドの背後からメリルが覗き込んでくる。
「うむ」
「鋼鉄騎士のマッチよね、それ」
 ラウドの手にある真新しいマッチにメリルは首を捻る。
 ラウドと千友梨は煙草は吸わないので、当然、こんな所にマッチがあるのはおかしい。
「そこに、静真さんが居たんですね」
「恐らくはな」
 深雪の断定にラウドは首肯し、マッチをポケットにしまう。
「え、じゃあ、もう千友梨ちゃん、あいつに拉致られてるって事」
「その可能性はあるじゃろうな」
 焦りが迸っているメリルを余所に、ラウドは冷静に呟いた。
 完全に当事者が入れ替わった光景である。
「まずいわよ、それ・・・もうっ、場所さえ分かれば」
 メリルはお嬢様らしからぬ剣呑さで牙を剥き、拳を左掌に叩き付ける。
「善之君達や、高知君が見つけてくれれば良いんじゃが・・・恐らくそう遠くにはいっておらん」
「・・・高知先生に、電話してみます」
 深雪は自分の携帯を取り出し、短縮ダイヤルを押す。
「それにしても・・・あいつもしかして、最初から、千友梨ちゃんがここに居るの知っててこっちに来たんじゃないの、下手すれば、今回の事件の黒幕かも・・・僵尸騒ぎでみんながちりぢりになるのを待ってからあの娘をさらいに出たとか・・・」
「ならば、わしらの前に姿を現す必要は無いじゃろう、千友梨君がここにいる事さえ知っておれば、もっと確実に誘拐するチャンスは何度もあった筈じゃよ」
「そっか・・・兎に角捕まえなくちゃ、事情が分かんないわね」
「そういう事じゃ・・・しかし、捕まったとしてな・・・」
 無理矢理さらう等という手段を取った場合、誘拐者は、それに応じた妖力妖術を用いていなければ、いかに千友梨が小柄でも、相当目立つ事は避けられず、運搬能力に優れた妖怪でなければ、人間が当たり前に用いる手段に頼る事になる。
 目的から考えて、公共の乗り物はまず使えない。
 千友梨は空を飛ぶ妖力は備えていないという、同じ一族の静真が空を飛ぶ妖力を備えている可能性は余り無さそうだ。
 突然変異が多い妖怪の一族ならあるだろうが、千友梨から得た印象では、玉刈一族は、河童、龍族の様に有る程度安定した生殖行為で数を増やしている感じを受ける。
 生得妖力も安定しているものと思われる。
 空を飛ばないならば、車はどうだろうか。
「自家用車、レンタカーが有れば、タクシーはつかわんか・・・」
 先刻のタクシー運転手が、立て続けに二台以上ラウド医院にタクシーが向かったと言っている。
 ラウド医院にタクシーを乗り付ける一般人は殆ど居ない。
 善之と武士は、善之の飛行能力に頼って此処に来た筈だ。
 恐らく、タクシーを利用したのは千友梨と、静真だろう。
 尤も、静真が人の自由意志を奪って操る妖術を持っていたとすれば、電車等の公共機関は使い放題だ。
 だが、人間相手はともかく、妖怪にも作用する精神、肉体操作妖術の使い手となると余り多くはない。
「ならば・・・」
 千友梨が自発的についてくる様に説得する可能性はある。
 だとすれば、長話をするにはラウド医院は危険過ぎ、すぐに移動した筈である。
 それも、そんなには遠くない場所に。
 ラウド医院の近くで、人目が無く、落ち着いて話せる場所。
 それも、少々大声を上げても誰も駆けつけてこない様な場所。
 土地勘の無い静真は、そんな場所は思いつかない筈で、恐らくは千友梨から情報を得ようとするだろう。
 千友梨が思いつきそうで、条件があう場所・・・ラウドには、一つ思い当たる場所があった。
「メリル君、すまんが武士君に電話してもらえんかね」
「いいけど、何か思いついたの」
「うむ、半分勘に近いんじゃが・・・放っておく訳にもいかん」
「兎に角、電話すりゃいいのね」
「うむ、頼む」


「ぬっ」
 八王子みなみ野駅のロータリーを歩いていた武士は、懐に入れていたPHSが震えるのを感じ、素早く通話状態にして耳に当てる。
「む、ラウド先生・・・・・・では、学校の地下を捜せば良いので御座るな・・・分かりもうした」
 武士はPHSをきり、丁度、発進しそうになっている興学院の学バスにむかって全力疾走する。
「ぬおおっ、待ってくれいっ」


 二次元化したまま、千友梨達は職員用通路を下り、地下倉庫の一つに潜り込んでいた。
「成る程、此処なら邪魔は入りにくそうですね」
 二次元化を解除した静真はペンライトを取り出して、その細い灯りと反射光で、周囲を確認する。
 倉庫の中は、燃料用とおぼしきドラム缶やジェリ缶がそこかしこに収納されている。
 静真には知る由もなかったが、そこは、学校の地下に何棟か設けられた、火力発電施設用の燃料庫の一つだった。
「さて、ここは静かで良いですが、あまり居心地は良くないですね・・・」
 いいながら、静間はただ突っ立っている千友梨の前に歩み寄り、彼女が被っている旅帽のつばをつまんで上向かせる。
「・・・もう一度言います、私の所に戻ってきて下さい」
 顎を少しだけ上げて上目遣いになり、千友梨は見下ろす静真に視線を合わせる。
「・・・何か、長老からは指示が出ているんでしょう」
 目が伏せられる。
「幽閉か処分、どっちなの・・・」
 静真は千友梨の両肩に手を置いて微笑む。
「まだ、“あの事件”の事を気にしているのですか・・・大丈夫ですよ、あの事件なら何とか内々に片づけておきました」
 静真の言葉に、千友梨は血の気の失せた表情でトランクを取り落とす。
 倉庫の中に、乾いた音が響き渡る。
「まさか・・・」
 静真は、蒼白な顔色で震える千友梨を安心させる様に微笑みかけた。
「大丈夫ですよ、あのご夫婦は今もご壮健で、あの後お子さんも一人、恵まれたそうです・・・一族には、長老にもあの事件の事は漏れていない筈です・・・だから、あなたが私の所に戻ってくるのに、あの事件を気にする必要は何も無いんですよ」
 静真は笑顔を絶やさずに千友梨の旅帽を直して、ついでに、艶々光る彼女の髪をそっと撫でる。
「・・・何で・・・そんな事、笑って言えるんですか・・・あの時、あの子・・・あんな死に方をしたのに」
 千友梨は自分でも気付かない内に涙目になって静真を見上げ、睨み付けていた。
「はい、術を邪魔したのも私で、あの子を処分したのも私でしたね・・・」
 されるがまま、体に触れられる事には頓着せずに声を震わせている千友梨に、浮かべた笑みを絶やさぬまま静真は断言する。
「でも、元はと言えば、あなたがあの赤ん坊に、黄泉還りの禁呪を使ったりするから悪いんですよ・・・」
 千友梨の目が伏せられる。
「・・・あの時、静真が邪魔しなければ・・・あの子は完全に生き返っていた・・・」
 弱々しく呟いて深く俯こうとする千友梨の両頬に手をあて、静真は強引に上向かせた。
 静真の顔からは笑みが消え、硬い、仮面の様に硬直した表情が浮かんでいる。
「・・・それではあなたが死んでいたでしょう・・・絶対に、あなたを死なせる訳にはいかなかった」
「何で・・・あのまま、死なせてくれなかったんです」
 真顔で囁いてくる静真に、千友梨が返した言葉には、何処か甘えの混じったなじりの響きがあった。
「あなたの自由は私が贖ったものです・・・それには死ぬ自由も含まれるんですよ」
 千友梨の全身から力が抜け、静真の両手から頭がずり落ちる。
 地面に座り込んで嗚咽し、床に涙滴を垂らし始める千友梨から目を逸らして背を向け、静間は頭を垂れる。
「・・・修正します・・・あの時、私はただ、あなたに死んで欲しくなかったのです」
 平坦な口調で呟いてゆっくりと振り返り、千友梨の前に膝をついた。
「あなたは好きです・・・」
 放り出された人形の様に俯いたまま座り込んでいる千友梨を強引に引き寄せて抱擁し、静真は彼女の髪に隠された耳に顔を寄せる。
「・・・又、一緒に暮らして下さい」
 されるがままになりながら、千友梨はある一つの事を考えていた。
(もう・・・逃げられない・・・)
 こうして完全に捕まってしまったからには、静真の元から逃れる事はまず出来ないだろう。
 千友梨が知る限りでは、静真が彼女に関わる事に一族の者がいい顔をしているとは思えない・・・というより、確実に静真の捜索活動は一族には秘密だろう。
 静真のいうなりに戻れば、良くて半軟禁状態の生活・・・もしも、彼が隠蔽した禁呪の件が漏れでもした日には、元通り座敷牢に入れられるか、処分される。
 いや、もう、長老は禁呪の事を知っているのかも知れない。
 千友梨に関われば関わる程、静真の立場が悪くなっているのは確実だった。
 最早、数十年逃げ続け、もつれ、捻れた関係に決着をつけるしか無い。
(先生、済みません・・・)
 華奢な骨を砕かんばかりの抱擁の中で、千友梨は目を閉じた。


 武士はバスからとび降り、上が校舎と厚生棟をつなぐ石畳のキャンパスになっている為、ガード下の様な印象を与えている校内道路に走り込む。
 地下への入り口は幾つかあるが、降りたバス停から近い入り口はガード下にある筈だった。
「武士、地下が怪しいんだって」
 上から降ってきた声に武士が頭上を仰ぐと、一階層上のキャンパスから善之が覗いていた。
「よっ・・と」
 軽く飛び降りた善之は、飛行の妖力で落下速度を抑えて軽やかに武士の前に降り立つ。
「有る程度、道路の方は見たけどよ、あれじゃ埒があかないからな・・・高知先生に任せてこっちの助っ人に来たぜ」
「うむ、ラウド先生の予測通りならば、以前の事件で潜り込んだ場所の筈でござる」
「・・・えーと、確か、ドラム缶がいっぱいある倉庫だったよな」
「うむ・・・く、鍵がかかっておるとは」
「武士、ばっさりやっちまえよ、緊急時だしかたねぇって・・・違う、そこじゃねぇよ、ドアの枠の内側、ドアを開けると警報がなっちまうからな」
「ううむ・・・」
 善之に指示されながら、武士は一気に太刀を振り下ろした。


 深雪の携帯が鳴った。
「・・・はい・・・そうですか・・・分かりました・・・お願いします」
「どうだって・・・今の高知先生でしょ」
 通話をきった深雪に、メリルは詰め寄る。
 時間にしてみれば大した事は無いが、事態は確実に進行中なのに全くアクションを起こせないのは、メリルにしてみれば拷問である。
「・・・興学院に、千友梨さんと、高知先生の知らない妖怪が一緒に居るそうです」
「それよっ・・・ラウド先生、早く、早く」
 急かすメリルにラウドは重々しく頷くと、厩に歩き出す。
「では、急ぐとしようかの・・・」
(善之君、武士君・・・余り先走りしてはいかんぞ・・・千友梨君・・・諦めんでくれよ・・・諦めるまで、終わりでは無いんじゃ)


「やめてっ」
 千友梨は出せる限りの力で静真を突き飛ばし、素早く這って部屋の隅に逃げる。
 そのまま、体を自分で抱く様にしてうずくまってしまった千友梨に、静真は少しの間、尻餅をついたまま、気の抜けた様な表情で硬直していた。
「もう・・・私の体に触らないで」
 幾分不機嫌そうな表情のまま、静真は首をふり、取り敢えずはその場に座り直す。
「何故です、何故そこまで拒否するのですか、そんなに放浪生活は魅力的なのですか・・・」
 少し不手腐れた響きのある静間の台詞に、少し、心がつまづきそうになり、千友梨は改めて腹を据える。
「今は・・・違う・・・最初、私は自由が欲しかった・・・だから・・・静真、私に興味を持ったあなたを利用、したんです」
「・・・嘘だ、あなたは、例え、そんな事を思ったとしても、できる人ではない」
 静真は千友梨の発言意図が今一つ掴めず、少し怪訝そうな表情で彼女の言葉を否定する。
 千友梨は密かに息を飲み込んでから、なるべく、人を小馬鹿にした笑顔というものを作ってみる。
「静真は、あなたには・・・地下の牢獄・・・あんな所に物心ついた頃に入れられていた私の気持ちは分からない・・・あんな所から出る為なら・・・どんな事でもします・・・」
 千友梨の言葉を聞いた静真の表情は硬くなってはいるものの、確信を切り崩すには程遠い状態である事が分かる。
 千友梨は表情を、夢見る様な、何かに酔った様なものに切り替え、ラウドを敬愛する心をなるたけ強くかき立てていく。
「・・・でも・・・今は、自由より・・・あの方、全てを捧げられる方のほうが何より大切・・・」
 始めて、静間の表情に微かな翳りが生じた。
「誰なんですか、それは・・・」
 声にも隠しようの無い動揺が混じっている。
「私に改めて生きる道を示してくださった先生・・・尊い方」
 目を閉じ、うっとりと呟く。
「ラウド、という先生ですか」
 静真の目に昏い光がちらついた。
「ええ・・・あの方に、身も心も捧げてお仕えするのが、今、私には一番大事なんです」
 胸に手を当てて吐息をつき、千友梨はたたみかける。
「・・・本気ですか」
「私の全ては先生のもの・・・先生がお求めになれば、何処でもお応えし、犬になれとおっしゃるなら私は犬・・・そして、先生が“死ね”と言うなら、今、ここでも・・・死にます」
 千友梨の手に大鎌が出現し、千友梨はその切っ先を喉のくぼみにあてる。
 軽く息を弾ませ、千友梨は正面から静真の視線を捕らえた。
「先生は、共寝の度に・・・お前は最高だと言って下さいます・・・」
 千友梨は段々役に入り過ぎ、自分で何を言ってるんだか分からなくなってきた。
 兎に角、静真の殺意を煽りそうな台詞を思いつく限り並べていく。
「私の心と体を自由にして良いのは先生だけ・・・静真・・・あなたが自由にしたければ、私を殺してからにしなさい・・・持って帰りたければ、死体を持って帰ればいい・・・」
 千友梨は上手く出来たかは分からなかったが、どうにか嘲笑の様なものを浮かべてみる。
「・・・とっくにあなたは用済みです・・・いつまでも未練たらしくつけ回されたのでは本当に迷惑なんです・・・今までは、仕方なく逃げ回ってましたけど、これからは・・・先生が護って下さいます・・・さっさと消えて下さい・・・二度と現れないで」
 吐き出す様に最後の台詞を吐きだした千友梨は、とうとう放心して大鎌にすがってただ座り込んだ。
 もう、出来るだけの事はしてしまった。
 これからどうなるのか、もう能動的な行動を起こす力は千友梨に無かった。
「くくくっ、ははっ、あははははははは・・・」
 乾いた笑いが倉庫内に響く。
 笑いながら立ち上がった静真は割と確かな足取りで千友梨に近づくと、襟首を鷲掴みにして無理矢理引っ張り上げた。
 千友梨のつま先が地面から浮き上がる。
 微かに顔を歪めた千友梨と顔を付き合わせた静真は、完全な真顔だった。
「あなたにしては、随分思い切ったお芝居でしたね・・・」
 静真のオーラからは、不気味な静寂と、痛みだけが感じ取れる。
「う・・・疑うのなら、脱がせて、調べれば良いでしょう・・・」
 千友梨は、ただ、絶望に四肢が萎えるまま、ぶら下がっていた。
 呻く千友梨を少しだけ悲しそうな目で見てから、静真は乱暴に彼女を放り出す。
「・・・兎に角、あなたがどれ位、私と来たくないかはよく分かりました・・・・・・あなたは残念かも知れませんが、殺しません・・・私にはそれだけはできない」
 静真は内ポケットから、折り畳んだ紙切れを取り出し、開いたそれを千友梨に示してみせる。
「この方法だけは使いたくなかったのですが・・・仕方が有りません・・・」
 紙切れには特に意味は無さそうな・・・しかし、見た目にやけに禍々しい印象を与える紋様が描かれていた。
「これは長老の、一族の禁書から写したものだそうです・・・無力状態の同族に刻む事で完全に自由意志を奪う事が出来るそうですよ・・・長老は内々に私にこれを渡し、あなたの命だけは助けても良い、そう言いました・・・破いてしまうつもりでしたが・・・」
 千友梨は大鎌にすがって立ち上がり、本能的に身構える。
「・・・ここでは仕方有りませんが、後で、見えにくい場所に彫って差し上げます・・・その後は、あの部屋に住まわせ、大切にお世話しますよ・・・・・・いや、もう一族とは縁を切りましょう・・・それがいい」
 言い終わると同時に、踏み込んだ静真の中段前蹴りがとび、千友梨はそれを大鎌で受けるが、ガードごと吹き飛んで背後の一斗缶の山に叩き付けられる。
 千友梨の手から飛んだ大鎌は回転して天井に突き刺さった。
「駄目ですよ・・・あなたは戦う人では無いんです」
 中身の入った一斗缶に埋もれ、身動きも出来ず呻いている千友梨に歩み寄り、静真は無造作に髪を掴んで彼女を引きずり出す。
「ひい・・たっ」
 掴む場所を服に替えてから、思い切り振り回すと、あっさりと布が裂ける音がして、静真の手の中に小さな布きれが残った。
「・・・これは良くない・・・この服も中々良く似合ってましたが、やはり、耐久性に欠けますね・・・」
 中途半端な力で投げ飛ばされた千友梨は、今度は整然と並んでいたドラム缶に叩き付けられ、中身がたっぷりと入ったそれを凹ませるが、衝撃が足らずに跳ね返される。
「・・・っ゛」
 服が破かれた事で、中に落とし込んでいたお守り袋が飛び出し、コンクリの上で硬い音を立てた。
「あっ」
 静真は床の上からお守り袋を拾い上げ、乱暴に引っ張って紐を千切り取る。
 無言で袋を開け、中からオイルライターを取り出した。
「まだこんなものを後生大事に持っていたのですか・・・こんなものを持っているから、余計に忘れられないのですよ」
 静真は呆れた様に呟いてライターを床に放り、四つん這いになった千友梨の腕を掴んで引っ張り上げざま、今度は本気の力を込めてフォークリフトに叩き付けた。
「う゛ゃあうッ」
 もの凄い破壊音と共に、フォークリフトが三十センチ程後退する。
 フォークの上にぐったりと横たわった千友梨の前に立った静真は、彼女の瞼をこじ開け、白目を確認、次に結構な音を立てて頬をはる。
 静真の行動に対して、千友梨からは全くリアクションが無かった。
 完全に気絶している様だ。
 静間は大鎌を取り出して千友梨の服をまくり上げ、真っ白な腹部に刃を軽く突き立てる。
「済みませんね・・・」
 心底沈痛な表情で静真が刃を引いた瞬間、音高く、倉庫の扉が開けられた。
「早過ぎる・・・予想は当てにならないか・・・」


「あそこだ」
 地下通路を超低空滑走していた善之は、倉庫の扉に手を掛け、後ろから駆けてきていた武士に視線を送ってから一気に開く。
 駆けてきた勢いを殺さずに、武士は倉庫の中に躍り込み、善之も続いて躍り込んだ。
 倉庫の中は気化した石油燃料の臭いが充満しており、善之と武士は咽せそうになるのを必死に堪えつつ中を見回す。
 扉から漏れる通路の光が頼りという状態の倉庫内で確認するのは困難だったが、奥の方で、黒ずくめの人かげが立ち上がるのがどうにか見えた。
 善之は何時でも光剣を放てる様に構えながら前進し、武士は何時でも変身できる様に意識を緊張させて躙り寄る。
「おっと」
 天井から斜めに突きでている大鎌を避け、黒ずくめの青年・・・静真と対峙した善之は、青年の手にも同じ大鎌が握られているのを見る。
「ぬっ」
 武士の方が一瞬早く、静真の背後でぐったりしている千友梨に気がつき、ずたずたになったその姿を確認する。
「てめぇっ」
 武士が気付いた次の瞬間に善之も同様に気付いて悪罵を吐き、それにもう一言続けようとするが、その前に、傍らから銀色の塊が静真に向けて突っ込んでいく。
 まっしぐらに突き出された正拳を静真は大鎌で簡単に受けるが、武士の非常に重い、文字通りの鉄拳に、呆気なく足を浮かせて背後のフォークリフトに叩き付けられる。
「・・・随分とうちの学校で好き放題してくれてるじゃねぇか」
 仁王立ちで、振り抜いた拳を奮わせている武士に、善之は振り上げた手を幾分か不満そうに下げ、台詞を続けた。
「こちらのネットワークの挨拶は、暴力的ですね・・・」
 静真は千友梨の上に尻餅をつかない様に気を付けながら身を起こし、唇の端から垂れていた血を拭う。
「ふざけるな、この破廉恥漢がっ・・・拙者が成敗いたす」
「破廉恥、成敗・・・」
 青年は武士の言葉を鼻で笑う。
「これは、身内の問題です・・・他人は口を出さないで戴きたい」
「何とっ、貴様・・」
「身内の問題っていっても、その子は鋼鉄騎士のラウド先生が保護してんだ、今は俺達の仲魔なんだよ」
 今にも斬りかかりそうな武士を横目にしながら、善之は青年に言葉を返す。
 普段なら武士の役目なのだが、先にヒートアップしてしまわれては仕方がない。
「大体お主は、千友梨殿とはどういった関係なのだっ」
「玉刈千友梨は私の姉ですよ・・・」
 武士の叩き付ける様な問いかけに、ほぼ即答のタイミングで答えが返る。
「・・っ」
「妹の間違いだろ・・・」
 武士は本気で動揺していたが、善之の方は口でいう程には動揺は無かった。
 妖怪にとって外見年齢はそれ程あてになる情報ではない事を、武士よりは身に染みて知っていたからだ。
「ならば、尚更ではないか・・姉妹を大切にするのは当たり前の事で御座ろうが」
 ただ心から吹き上げる憤怒にすがり、武士は素早く心を立て直した。
「無論、大切に、大切にしてきましたよ・・・」
 静真が愛おしげに目を細めて千友梨に視線を落とした瞬間、善之はすかさず光剣を放とうと意識し、躊躇う。
流石に一撃で戦闘不能を狙うのは難しいし、善之は、どうもこの青年からは、サイコ臭がぷんぷんしていると感じている。
 うっかり刺激しすぎて千友梨にこれ以上無茶な真似をされてはたまらない。
 かわりに武士の背中をどやしつけ、目配せする。
(引き延ばせ)
 当然口に出した訳じゃないので、意図が伝わったかは微妙だったが、取り敢えず武士の構えが慎重なものに変わった。
「大切にしてるっていうんなら、何でそんな真似してんだよ、立派な婦女暴行だぜっ」
「全くで御座る、どう申し開き致すつもりだ」
「そこが身内の事情、という訳ですが・・・納得されないでしょうね」
「当たり前だっ」
 激しい口調の非難に、静真は如何にも困った様子で首を振ってみせ、その仕草に、又、武士は憤激を募らせその手に刀を出現させる。
「言って見ろよ、その“身内の事情”って奴をよ・・・聞いてやるぜ」
 善之は近くの一斗缶を引き寄せてその上に腰掛けて余裕を演出するが、実際は座った体勢のまま微かに宙に浮いている。
「・・・分かりました、あなた達に話して差し上げるいわれは無いのですが・・・しかたありませんね」
 静真は千友梨を抱き上げ、自分がリフトフォークの上に腰を降ろした。
「ぬぬぬ」
 何か言いたげな武士に善之が首を振っていると、廊下から蹄のなる音と馬が鼻を鳴らす特徴的な音が近づいてくる。
「保護者も来たみたいだぜ・・・」
「二度、三度説明する手間が省ける様ですね・・・」
 千友梨の顔にかぶっていた髪を払っていた静真の目に妙な殺気が走るのを見て、善之は、再度、武士と目配せを交わした。


 地下通路で、ラウドの影馬車は実体化し、中から真っ先にメリルがとび降りた。
「ふぅ、苦しかった・・・」
 手足をひとふるいして間接をほぐしていると、すぐに深雪が続いてとび降り、ラウドもひょいと降りてきた。
 ラウドの影馬車の定員は二名、少々定員オーバーだったのである。
「まっておるんじゃ」
 ラウドが首無し馬の首を叩いてやると、影馬車はすぐに二次元化した。
「ちょっと、何かまったりしてるんだけど・・・」
 ハンカチで鼻をおさえながら倉庫の中を覗き込んでいたメリルは、倉庫の中から善之が手招きしているのを見て顔を顰める。
「有り難い、抑えてくれておったか・・・深雪君、結界を頼む」
 深雪が頷いて軽く念じると、周囲の気温が心なしか落ちた様な感覚が広がっていく。
「行くわよ」


「先生のお出ましですか」
 ぶらぶらしていた千友梨の腕を抱え直し、静真はラウドを睨む。
「静真君だったか・・・その娘を離していただきたい・・・というのは無理かね」
「生憎、23年ぶりの再会でして・・・私の方が先約です・・・姉が随分とお世話になっている様ですね」
 口調だけは丁寧に、静真は意識の無い千友梨に頬を寄せた。
「うわ・・・筋金入りのストーカーね・・・」
 吐きそうな顔でハンカチの裏にコメントし、メリルは千友梨に心底同情する。
「ドク、このお兄さんが、“身内の事情”を説明してくれるらしいぜ」
「ふむ」
 ラウドは懐中時計で時間を確認する。
「幸い、まだ日が変わる程の時間では無い・・・たっぷり時間はあるようじゃ・・・きかせていただくとしようかの」
 ラウドは善之にならって、近くの一斗缶を一つ立て、その上に腰を降ろす。
「・・・そもそも、何処まで事情をお聞きになってるんですか」
 静真の問いに善之、武士、メリル、深雪の視線がラウドに集中する。
「そうじゃな・・・君達の一族の中では千友梨君は特殊な存在で、間引かれそうになったのを免れ、その後座敷牢暮らしをしておって、ある恩人の働きかけでそこを出た後も、あまり一族の者には良く思われていない・・・大体そんな所じゃが、千友梨君を座敷牢から出した恩人というのは君かね」
「ええ、そうです・・・私ですよ・・・私ですとも!」
「やはりな・・・千友梨君は君に字を教わったと言っておったよ」
「・・・彼女は名は与えられていましたが、座敷牢の中で、外の世界を知らされず、教育も与えられず、ただ衣食を与えられ、生涯をそこで過ごす筈でした」
「反吐が出る話だぜ・・・」
 善之の感想は武士、メリルとて同様だった。
「・・・何故、千友梨さんはその様な非道な扱いを受けたのですか」
 深雪の質問に、静真は歪んだ笑いを浮かべる。
「それは・・・全ては、彼女だけが使える禁術のせいですよ」
「禁術・・・」
「一族に伝わる特殊な暦の上で、百年に一度の割合で回ってくる、ある特別な慶日・・・その日に産まれた死神は、特殊な容貌と・・・」
 静真は千友梨の紅髪を指で梳く。
「ある特別な妖術を使う能力を持ちます・・・それは、“黄泉還り”の術です・・・この世の生と死の理を逆転させ、黄泉の国から死者を引きずり戻す邪法・・・」
「ペットセメタリーみたいに、ろくでも無い生き返り方をする訳か」
「いいえ、特にそんな不都合はありませんよ・・・伝承では完全に生き返り、寿命を全うするとあるそうです」
「へぇ、そりゃ凄いわね・・・別に悪い事ないと思うけど」
 メリルの言葉に静真は大きく首を振った。
「ありますよ、一つだけ悪い事が・・・相手を生き返らせ、術者は死ぬんです・・・それに、本来生と死の境界を誰よりも尊重すべき死神族が、死者を生き返らせる・・・忌避されて当然でしょう」
「成る程な・・・」
 静真の言葉にラウドは深く頷く。
 死を告げる使者、デュラハンであるラウドには、静真のいわんとしている事は実感として理解できた。
「確かに、そりゃ不便だわ」
(千友梨君が、死神としてのアイデンティティにこだわっておったのはそのせいでもある様じゃな)
 ラウドはようやく、千友梨の中に渦巻いていた衝動の一端が理解できた様な気がする。
「私は長老の次男の息子ですが、自分に姉がいるなんて、全く知りませんでした・・・父の前妻とが死産したとは聞いていましたけどね」
「ほう、では、おぬしと千友梨君は腹違いの姉弟と言う訳か・・・」
「私が最初に姉にあった時、彼女はただ静かに、屍衣一枚で端座していました・・・その時、彼女はろくに会話する語彙すら持ち合わせてはいなかったんですが、その瞳にはちゃんと知性の輝きがありました・・・私は姉の世話係から事情を聞き出し、その時、始めて姉の存在を知った訳です・・・」
 静真があやす様に千友梨を揺らすと、こぼれた腕がぶらぶらと揺れた。
「世話係以外は、彼女との接触は禁じられていた、と言うより、存在自体が秘密でしたからね・・・私は、世話係を丸め込んで頻繁に通い、彼女に読み書きを教え込みました・・・姉は優秀だったと思いますが、色々と制約もあったし、まともに読み書きが出来るようになるまで五年位かかりました・・・それから更に十年、少々荒っぽい手も使いましたが長老に、内々に姉を預かる事を認めさせたんですよ・・・」
「荒っぽい手・・・か」
 口調としてはさらりと流されたのだが、その言葉を口にした時の静真は妙な苦笑いを浮かべていた。
 少々所の騒ぎでは済まない手段を用いているのは確実だった。
「元々、姉が受けていた所行が異常なんですよ・・・ま、兎に角、私は一族の中で立場を一生懸命強くした訳ですよ、我が儘が通せる様にね・・・おかげで、里の外に別宅を造ってそこに姉を住まわせる事が出来たんですが・・・」
「げぇ・・・それじゃ愛人とか、囲いもんじゃないのよ」
 メリルの正直な感想を聞いて、静真は不愉快げに鼻を鳴らす。
「人聞きが悪いですね・・・別に私は姉を軟禁したり、性的な搾取をしたりした事はありませんよ」
 あからさまに善之、武士、メリルの疑いの視線が静真に突き刺さった。
「・・・それに、言わせて戴くなら、先刻姉が語った限りでは、ラウド先生こそ随分と彼女から搾取して居なさる様ですね・・・正直身内の者として、聞かされて、いたたまれませんでしたよ・・・・・・」
 静真はラウドから護る様に千友梨を抱え直して身を震わせ、ラウドを殺気の籠もった視線で睨み付ける。
「マジ・・・」
 流石に、ラウドがそんな真似に及ぶとは一同考えにくかったが、静真の殺気は本物であり、ついつい、メリルは驚愕が口をついて出る。
「むむむ・・・憶えが無い上、儂にも幾つか言い分はあるが、ひとまず、話の先を聞こう」
「良いでしょう・・・マァウソデショウカラ、別宅での生活はそれなりに姉も気に入った様でした・・・私も、その頃、別宅で姉と過ごす時間が唯一の安らぎといえる時間だったのですが・・・ある日、姉は、書き置き一つ残して居なくなりました・・・」
 静真は本当の肩を落とし、無意識の内に腕の中の千友梨を逃がさない様、しっかりと抱え直す。
「今でも理由は全く分からない・・・と言いたい所ですがね・・・理由の一つは察しがつきます・・・長老か父か、誰かが姉に言い含めたんでしょう、小さな一族ですがそれだけに長老だの若長だのになるには、色々五月蠅いんで・・・深雪さん、貴女はおわかりになられるかも知れませんね・・・」
「・・・少しは」
 深雪は首肯した。
 雪女、白石の郷もそれなりに因習というものは残っている。
「実際の所、私にとってはそんな事どうでも良かったんですがね・・・一族の中で発言力を上げたのも姉を自由にしたかったからで、それ以上の意味はありません・・・実の所、姉を厄介払いしろ等と口出しが鬱陶しくなってきましたから、あの頃、もう一族から抜けようとすら思ってました」
「・・・まぁ、努力は認めるわ」
「うぬぬ」
 静真の行動原理は殆ど、千友梨を中心に回っていた様だ。
 妹大事の駄目兄貴である武士は、色々と身につまされる事を思い浮かべたらしく、太刀の切っ先が下を向いてしまった。
「おいおい、納得すんなよ・・・」
「その他の理由は分からないと、言いたいのかね・・・」
「いや・・・分からないというのとは違いますね・・・直接、間接的に、姉が私が自分に精神的に依存し過ぎていると思っているというのは、その後知りましたから・・・まぁ、事実ですがね・・・置いて行かれて、しばらくは抜け殻みたいになりましたよ・・・」
「捨てられた男の典型って所ね・・・」
「それで、日本中逃げ回る千友梨君を追いかけ回したと言う訳かね・・・」
「仕方有りませんよ・・・やっぱり私は姉さん無しでは居られなかったんですから・・・」
 悪びれもしない静真に、メリルは怖気をふるって一歩下がり、武士は善之からの意味ありげな目配せに渋面らしきものを作る。
「まぁ、それは置いておこう・・・一つわしからの質問なんじゃが、千友梨君は何か今でも相当に気に病んでおる事があるらしい、おまえさんなら何か知っておるのでは無いか・・・良ければ心当たりを聞きたいんじゃがな」
「それは多分、22年前の事件のせいでしょうね・・・」
「どんな事件だったんじゃ」
「・・・別宅から失踪した後、姉はあちこちを点々としていましたが、一度、一カ所に定着していた事がありました・・・ちょっと裕福な家に拾われていたんですよ、子供の居ないご夫婦でしてね、姉を随分可愛がったそうですが・・・そのご夫婦にやがて子供ができて・・・幸せだったそうですよ・・・とても」
 悔しい様な寂しい様な、複雑な表情静真は語る。
「・・・」
「しかし、その子が二歳の誕生日迎える少し前、庭に乱入した野良犬に襲われ、その子は死んだ・・・今の日本では考えられない死因ですがね・・・ご夫婦の嘆きは相当なもので・・・通夜の席で姉は禁術を使う決意を固めたそうです」
「でも、黄泉還りの術って使うと死ぬんだろ」
「そうですよ・・・しかし、その時、私が丁度手がかりを頼りにその家にたどりついた所でした・・・私は姉が居室で子供の死体に儀式をしている所に乱入し、儀式を妨害しました・・・術が中途半端になると呼び戻された魂は死を引きずったまま肉体に戻り、生き死人と化しますが・・・術者は助かります」
 全くもって当然の事をしたまでである。
 そう言いたげな調子で話す静真の話を何と評価して良いやら、一同の間に微妙な雰囲気が漂う。
「おまえさん、その子供をどうしたんじゃ」
「勿論その場で炎にくべて始末しましたよ・・・生き死人は成長も衰えもせず、ただ、死に直面した前後の妄執だけで蠢く肉塊に過ぎません・・・思い入れをしていた姉には悪かったですが・・・あれは仕方の無い事です」
「・・・成る程」
 静真と千友梨とでは根本的に“死神の使命”というものに対する思い、姿勢が違うのだ。 それだけでも、深刻な溝である。
「まさか、千友梨ちゃんの目の前で燃やしたんじゃ無いでしょうね・・・」
「・・・私は必要ないと思いましたが、姉は責任があるといって最後迄見ていましたよ・・・ついでに言えば、子供を焼いた炎を点火したのは彼女自身です」
「・・・ひでぇ」
 よくよく自分を追いつめるのが好きな娘である。
「それ以降は又、各地を点々としていたようですね・・・私も、姉を捜すのに一族の協力を得る訳にはいきませんからね・・・苦労しましたよ」
「ふむ、これで大体の事情は分かった訳じゃが・・・静真君、おまえさんは千友梨君をどうするつもりなんじゃ」
「そうですね・・・一族の所に連れ帰っても、監視つきの軟禁がいい所でしょう、悪くすれば、居なかった事にされるかもしれません・・・私はただ、姉と暮らせれば満足です・・・一族とは縁を切って、どこか、適当に二人で暮らせそうな所を捜しますよ・・・」
 いいつつも、静真の顔には、本当にそんな事が出来る事を信用していない様な表情が浮かんでいる。
「成る程、中々心躍る未来予想図の様じゃが・・・千友梨君の意志の方はどうなっておるんじゃ」
「千友梨ちゃん、めっちゃ、嫌がってるんじゃなかったっけ・・・」
「ああ、大体、姉妹に向けて言う台詞じゃねぇだろ・・・必死で逃げるのも良く分かるぜ・・・」
 表面上平静に出られると、かえってやたら叫ばれたりするよりも、空恐ろしい感覚を覚える。
 言い方を変えれば、たちが悪い。
「・・・直接、千友梨さんに訊いた方が良いでしょう」
「余り、近寄らないで戴きたい」
 治癒魔術用の符を取り出しながら近づく深雪を、静真は大鎌で威嚇する。
「・・・残念ながら姉は、相当に先生、あなたの事を気に入っているらしい・・・先刻、もう先生に身も心も捧げているのだから、どうしても連れていきたければ、死体を持って帰れと言われましたよ・・・私には・・・とても、とても羨ましい事ですね・・・ラウド先生」
「むむ」
「・・・ぬぬぬ、別に先生は奥方がおられる訳では御座らぬし、千友梨殿は本当に子供では無いのだからよいであろうがっ・・・主も姉妹が愛しい相手を見つけ、共に暮らしたいと言っておるのだから、いっかに悲しく、寂しく、魂を引き裂かれんばかりの苦痛に苛まれたとしても・・・気持ちよく祝福し、送り出すが筋であろうっ」
「何か、筋が通ってる様な、通ってない様な・・・いや、兎に角、そうだっ、武士の言う通りだぞ・・・大体本人が嫌がってんだから仕方ねぇだろが」
 武士の私情が入りまくった熱弁に一瞬、何か引っかかるものを感じながらも、善之は便乗する。
(そういう問題では無いぞ・・・武士よ)
 ラウドは心中、どう、決着をつけたものか迷う。
 このまま放っておけば静真と善之達が激突し、彼を排除して終わる公算が大である。
 しかし、それでは、千友梨のトラウマが増えるだろうし、後々、玉刈一族と鋼鉄騎士の間に何らかの禍根を残しかねない。
「・・・私は、姉と一緒暮らしたい・・・ただ、それだけです」
 静真は頑な表情で千友梨を抱え、首を振るだけだ。
「だめだって・・・ストーカーに何言っても・・・自分のいい様にしかとらないんだから、深雪なら少しは分かるでしょ・・・ま、深雪の場合は、一言断られたら、振られた君達は自殺しそうな顔して帰るけどさ」
 心底呆れ、うんざりした調子のメリルに水を向けられた深雪は、先刻から傾げていた首を元に戻す。
「・・・静真さん、あなたは千友梨さんの何が欲しいのですか」
「・・・」
「千友梨さんの意志を無視すると言う事は、千友梨さんの体しか手に入りません・・・静真さんが欲しいのは千友梨さんの体なんですか」
「たまにしか喋んないけど、いきなり凄い事言うわね・・・」
 メリルだけでは無く、善之と武士もぎょっ、とした顔をしている。
 少々刺激が強かったらしい。
「勿論、そんな訳はありません・・・しかし、世の中、望んでも手に入らないものばかりですよ・・・そんな中で、半分、もしくはそれ以下でも手に入るのならば・・・何としても、そう努力します」
 とんでもなく間違った方向を向いた努力である。
 余りにいかれた台詞に、場にヒンヤリした空気が流れた。
「大概にせんか・・・貴様、その甘え腐った根性、拙者が叩き直してくれる」
 最初に立ち直った武士は、心中青筋を立てながら太刀を構え、同族嫌悪にも似た憤激に突き動かされて思い切り踏み込む。
 反射的に静真が武士の中段突きを大鎌をあてると、それた切っ先が彼の顔面のすぐ脇を掠めていく。
 静真の注意がほんの少しそれ、腕が少しだけ緩んだ瞬間、千友梨が動いた。
 腕からすっぽ抜けて地面に落ち、近くのポリタンクにタックル、タンクにぶつかって止まっていたライターをひっ掴んだ。。
「お、おいおい・・・」
「気がついておったのか・・・」
 ラウド達の方に逃げる訳でも無い千友梨の動きに、善之が一瞬戸惑った瞬間、千友梨は抱えたポリタンクの蓋を開け、頭上で逆さにする。
 どぼどぼと音を立ててポリタンクの中に三分の一程残っていた中身が千友梨の頭からつま先まで湿していく。
 只でさえ石油臭い倉庫に、新たにむせ返る程新鮮なガソリン臭が充満する。
「けほっ・・っ・・もう・・もういいんです・・先生っ・・・元はといえば、私が最初に静真に甘え過ぎたのも原因なんですから・・・静真がそこまで悪い訳じゃ無いんです」
 目を閉じたまま千友梨はライターの蓋を開き、点火金具に指をかけた。
「ッ・・・姉さん、止めてくれ」
「ちょちょっ、止めてって・・・ヤバイよ、それ」
 呆然と呟く静真と焦りまくって手を振っているメリルが対照的である。
 千友梨の周囲には似た様な液体の入ったポリタンクが五個程度並んでいた。
 いくら自動消火装置が働いても、爆発は免れないだろう。
 大体、先刻から、ガソリン以外のものも結構揮発しているのだ。
 正直、善之や武士も少し頭が痛くなってきている程である。
「やっぱり、私が生きてると・・・ややこしい事になるみたいです・・・済みません・・・皆さん、逃げて下さい・・・やっぱり、22年前にこうしておけばよかったのかもね・・・」
 千友梨は無造作に自分の髪を掴み取り、ガソリンに濡れそぼったそれにライターを押し当てた。
 奇妙に安らかな表情で笑顔を浮かべる千友梨に、その場にいた全ての者の動きが一瞬止まる。
「止めろぉぉぉぉっ」
「ぬぉっっっ」
 均衡が崩れた瞬間、静真、善之、武士が一斉に移動を開始していたが、指の屈伸には間に合いそうには無い。
「手じゃっ、深雪君」
 千友梨は既に周囲の声など聞こえていないのか、親指を一気に引いた。
 一瞬後、千友梨は三人に捻り倒され、抑えつけられていた。
「つめてぇ・・・」
 ジッポを掴んでいた千友梨の腕を抑えた善之は、その氷の様な冷たさに顔を顰める。
「ふむ、お見事じゃ・・・深雪君」
 千友梨の手に、カチカチに凍り付いたジッポが張り付いているのを見て顔を顰めながらも、ラウドは深雪をねぎらう。
「いえ・・・咄嗟の事だったので、千友梨さんの手迄凍らせてしまいました・・・済みません」
 ラウドは千友梨の左手に触れ、それが芯まで凍り付いているのを確認する。
「いや・・・死ぬよりまし、じゃよ・・・」
 ラウドは、魂を抜かれた様な顔で手と膝をついている静真の頭を思い切り殴りつけた。
「この大たわけがっ、死神が、ひとを自殺に追い込んでどうするっ」
「・・・」
「・・・まぁ、いい・・・兎に角、この馬鹿姉弟をわしの所に運ぶんじゃ」
「あ、ああ」
「承知、でござる」  
 余りの急展開についていけず、静真と似た様な面を晒していた善之と武士は、それぞれ静真と千友梨を立たせる。
 静真は全く抵抗する意志を見せず、大人しく、善之にされるがまま立ち上がり、ただ無表情のまま、武士にぶら下げられている千友梨を見つめている。
「・・・し、死ぬかと思ったわよ・・・」
 思わず顔を庇ったままの体勢だったメリルは、ようやく腕を降ろして、同時にへたり込みそうになる所を深雪に支えられる。
「大丈夫、ですか」
「あ、ありがと・・・もう・・・サイアク、早くお風呂入りたい・・・」
 ただただ、本音が口から漏れた。
「帰りましょう」
「・・・そだね」


 地上に出ると、善之の携帯が音を立てた。
「ったく・・・誰だよ」
 片手で取り出し、受信状態にする。
「・・・あ、マスター・・・はい、一応納まり気味です・・・みんな、静真とかいう男も含めておおむね無事です・・・え、そっちの方終わったんですか・・・あ、はい、伝えます」
 通話を打ち切り、善之は千友梨を背負って傍らを歩いている武士に肩を竦める。
「僵尸のほう・・・片づいたってさ、結局やっちまったらしいけど・・・盾とティール先生に、後、白爪って・・・あのストリップのサービス券くれたあのねーちゃん、ネコミミの、だよ、と、ヴァルキリーのヒルダさん・・・マスター、俺等があてんなんないから助っ人呼んだらしいぜ」
「では、これで、ひとまず今夜は安心なので御座るな」
「だと、いいがのう」
「じゃ、なきゃ、たまんないわよ・・・もう」
「しかし・・・良いトコみんな、盾達に持ってかれたみたいだな」
「こっちは、こっちで忙しく御座ったろう・・・」
「まぁ、確かにな」


「ふぅ・・・みんなよう働いたのぉ・・・取り敢えず、紅茶を淹れてやろうかの」
「・・・私、パス・・・今、何飲んでもガソリンの味しかしない・・・」
「拙者も・・・緑茶ならいただきとう御座るが」
「イギリス人て、本当にいつでも紅茶なんだな・・・」
「・・・」
 ラウド医院の食堂でぐったりしていた一同は、ポットに水を注ぎだしたラウドを見て、それぞれ好き勝手な反応を漏らす。
「・・・あがりました」
 結局、ラウドが一人で紅茶を飲んでいると、夜着を着せられた千友梨をつれて深雪が台所に入ってきた。
 ラウドと深雪の治癒魔術で出来る限り左手を治療した後、千友梨は風呂で洗われていたのだ。
 取り敢えず、左手を切断して生え替わりを待つ必要は無さそうだった。
「お疲れさん・・・さて」
 ラウドと反対側の端左右に向かい合わせで座らされた千友梨と静真は、一様に頭を垂れている。
 それは確かに、血のつながりを感じさせる光景だった。
 もっとも、千友梨を取り巻く昏い雰囲気は、静真のそれ等、圧倒していたが。
「そこの二人さん・・・随分とこの街に騒動を持ち込んでくれたのう」
「・・・」
「・・・・・・すみません」
 ラウドの言葉に、しばらく間があってから、千友梨から小さな謝罪の声があがる。
「おいおい、兄さん・・・何か俺等に言う事があるんじゃねぇの」
 嫌みを言う善之の額には、少々青筋が立っていた。
「・・・結果的に迷惑をかけて済みませんでした」
 腕を組んだまま、静真は慇懃無礼に一同に頭を下げる。
「ちょっと、結果的にって、滅茶苦茶確信犯じゃないのよ」 
「よさんかね・・・小学生ではあるまいし・・・」
 ラウドの言葉で、椅子を蹴っ飛ばして怒り狂っていたメリルは、ひとまず椅子をなおし、それに座り直す。
「ふむ・・・兎に角、ここは以後、禍根を残さぬ様、しっかりと話し合うべきじゃろう・・・ネゴシエイターは、不肖、このわしが勤めさせてもらう」
 ラウドは食卓の上に天秤型の文鎮を置く。
「・・・ふむ、まずは二人に、お互いにどうしたいのか提示して貰おうかの・・・ただし、これは“どうしたら良いのか”を相談する場所じゃ、自分の願望を一方的に述べる場ではないぞ」
「・・・」
「どうした・・・何も、希望が無いのかね」
 ラウドに促され、まず千友梨がおずおずと顔を上げた。
「・・・私は、静真には、もっと自分の人生を・・・自分の好きな様に生きて欲しい・・・」
「私は、自分なりに、好きに生きていますが」
 静真は腕を組んだまま軽く顔を上げ、千友梨に視線を合わせる。
「嘘・・・昔から、私を自由にする為、殺させない為、色々、好きでもない、嫌いな事、沢山してきたでしょ」
「・・・全て、手段ですから・・・大した事じゃありません」
「元々、人と争ったりするのとか、人に命令するのとかは嫌いでしょう」
「そんなもの、慣れですよ・・・あなたの為なら、どんな苦痛も天上の快楽に感じられたものです・・・本当に」
 静真は薄く笑って首を振るが、その笑いは何処か虚勢めいて見える。
「うっ・・・ぅう」
「ん」
 妙な声に、善之が隣を見ると、武士は、汚いタオルを濡らしてむせんでいた。
 玉刈姉弟の会話に、色々思い浮かんでしまったらしい。
 大体、この武士と言う男、元々、この手の話には弱いのだ。
「・・・お主のその心意気、拙者には良く分かるぞ・・・されど、いかん・・・それではいかんのだ」
「何が悪いと、言うのです」
 感情むき出しで口を出してきた武士の様子にかえって余裕を取り戻したのか、静真の笑みには挑発的な調子が戻っていた。
「お主、千友梨殿を、護って、囲って・・・お主に出来うる限りの庇護で十重二十重に包もうとし・・・今でもそうしようとしておったのであろう」
「・・・当然でしょう、姉の立場は特殊です」
「そう、分からぬではないのだ・・・されど、そんな強固な繭に護られ囚われ、手も足も出ぬ千友梨殿の気持ちは何とする・・・さぞや息苦しいであろう・・・拙者にも妹が居る故分かるのだ・・・幸い、拙者の力など微力故、あ奴は中から手足など出し放題だがな・・・しかし、それでも、時たま息苦しそうにしておるぞ」
「・・・」
 馬鹿にしているのか、不手腐れているのか微妙な表情で黙り込み、静真は割と大人しい態度で武士の大演説を拝聴している様だった。
「男兄弟等、姉妹に恋人、連れ合いが出来る迄のつなぎに過ぎぬ・・・その様なものだ・・・きっと」
(それじゃ、父親よ、全く・・・馬鹿兄貴よね、ほんと・・・)
 熱く熱く語りまくる武士に、内心割と冷たく呟きつつ、表面上はかくかくメリルは頷いておいた。
「ふむ・・・まぁ、良いじゃろ・・・しかし、千友梨君、もっと、人の事ではなく、自分の方の望みは無いのかね」
「・・・自分の方の望みですか」
 千友梨はじっと黙り込んで、三分程そのまま考え続ける。
 短くも長い時間、考えに考え、千友梨は一つだけ、望みを拾い出す。
「・・・・・・私はそろそろ、落ち着いて、一カ所で生活したいです・・・済みません・・・他に思いつきませんでした・・・」
 もっと真面目に考えろ、そんな風に言われるとでも思っているのか、ようやく千友梨はおそるおそるそう提案した。
 目を上げ、机を見回した千友梨は、ラウドが頷き、深雪が微笑している事に気がついた。
「上等じゃ」
「・・・良い望みだと思います」
 ラウドに肯定されたのと、何より、自分の決断が、深雪を微笑ませたのが誇らしい気がした。
「よし・・・千友梨君の望みは訊いた、では、静真君、次は、お前さんの希望を訊こうかの」
「・・・・・・私の望み・・・望みは・・・」
 それきり言葉を切った静真の表情は、葛藤に歪んだ。
「・・・・・・これ以上姉に嫌われたくは無い・・・そして、姉が幸せを感じていて欲しい・・・」
 一言一言、吐血する面もちで、静真は言葉を紡いでいく。
「・・・ならば、どうするんじゃ」
 ようよう言い終え、口をつぐんだ静真を、ラウドは容赦なく追いつめる。
 断固たるラウドの言葉に、静真は、しばらく顔面を歪ませ、喉から異音を発していたが、ようやく口を開く。
「私は・・・・・・もう、二度と」
 がたん、と椅子が倒れた。
 椅子を激しく蹴倒して立ち上がった千友梨は、静真の胸ぐらを両手で掴み、思い切り両腕を引っ張りあげる。
「・・・っ」
 目を丸くして見上げる静真の顔が、千友梨の目の前にあった。
「・・・たまには会って・・・二度と会わないなんて、言わないで」
 泣き笑いでいい放ち、千友梨が手を離すと、引っ張られるままに中腰になっていた静真はそのまま腰を落とす。
「姉弟なのに・・・そんなの、寂しい・・・」
 顔を歪ませ、下を向いた静真の目から雫がぽたぽたテーブルにこぼれ落ちる。
「・・・・・・ありがとう」
 それだけが、聞こえた。
 メリルは深雪と顔を見合わせ、そっと席を立つ。
『私、帰るわ・・・お風呂はいりたいしね』
 ラウドに耳打ちし台所を出る。
 深雪も無言で席を立つと、ラウドに軽く会釈して出ていった。
「うぐ・・ふぬ・っぬっ」
 武士、もう、ダム決壊であった。
「当事者が抑えてんのに、しょうがねぇ奴だな・・・」
 善之は苦笑いしながら、武士の腕を掴んで引っ張り上げると、ラウドに手を挙げ、そのまま引きずって部屋を出ていった。
「・・・ふう、よく働いたわい・・・さて、風呂に入るか・・・後でお前さんも入るといいぞ」
 ラウドも心軽く食堂を出ていく。


「先生・・・お昼ですよ」
『ふごふご・・・』
 ラウドは優しく揺さぶられて目を開ける。
 窓から差し込む日差しが眩しかった。
 ベッドから起きあがったラウドに、千友梨はいつもの様に俯き加減に、微かに微笑みかける。
「食事の用意が出来ています、先生」
「むう・・・」
 いつものパンダカラー服にエプロンをつけた千友梨の姿に、ラウドは結局、先日買い与えた服は台無しになってしまった事に思い当たる。
(又、買ってやらんといかんな・・・いや、今度は資金だけ出して、見立ては深雪君や、メリル君辺りに頼むとするかの・・・)
 顔を洗って歯を磨き、食堂のテーブルについて紅茶を飲む。
 台所は綺麗に掃除されていたが、まだ微かに石油の臭いがした。
「又、近い内に、外に出かけるとするかの・・・」
「・・・え、何ですか、先生」
 小さな呟きだった為、千友梨の耳には内容は届かなかったらしい。
「いや・・・そういえば、静真君はどうしたね、まだ寝ておるのかな」
「いいえ、静真は、夜が明けない内に出ていきました・・・次の、一族からの依頼があるそうです」
「そうか」
「・・・静真、本当に私が自殺しようとしたのを見て、今まで生きてきた中で一番恐ろしかったって・・・言ってました・・・変なんですけど、それを聞いたら、何か嬉しかった・・・」
「・・・良かったの、本当に」
「最後に、先生にくれぐれもよろしく、と言ってました・・・良い人だって」
「・・・ふむ、そうかね」
 上機嫌でマッシュポテトを頬張ったラウドは、ふと、少しだけ引っかかっていた事を千友梨に訊いて見る事にする。
「・・・千友梨君」
 ラウドはポテトを飲み込み口の中を紅茶で掃除する。
「何でしょう」
「少しだけ気になったんじゃが・・・君は一体、儂の事をどういう風に静真君に吹き込んだんじゃ・・・彼にあった時、儂に対して親の仇の様な殺気を放っておったぞ・・・」
 ラウドに指摘されると、千友梨はラウド直伝、“得体の知れないキノコオムレツ”を掬おうとしていたフォークをぴたっと止めて硬直し、一瞬後、顔を真っ赤にしてその場に俯いた。
「そんな・・・恥ずかしい事・・・そのう・・・もう一度は、とても・・・とても、言えません・・・」
 持ったままのフォークが皿に触れ、速射砲の様な音を立てる程、凄い動揺の仕方だった。
「むむむ・・・千友梨君、診療の後、折り入って話さねばならぬ事があるようじゃの」
「え・・・先生、本気ですか」
 真剣な顔で言うラウドに、千友梨は、呆気にとられた表情でフォークを取り落とす。
「・・・ふぉふぉ、お返しじゃよ」
「せんせぇ・・・」
「おう、そうそう・・・」
 恨めしげな表情でむくれてみせる千友梨に、ラウドはふと思い出して、ポケットからライターを取り出した。
「こいつは返しておくかの」
 千友梨は表情を強張らせ、食卓に置かれたライターを少し躊躇ってから手に取る。
「・・・大事なものなんじゃろう」
「はい・・・私を可愛がって下さったご夫婦の、旦那さんの物です」
 千友梨はライターを無意識の内に優しく撫で回している。
「・・・良い人達であったらしいの」
「はい、得体の知れない行き倒れだった私を、養女に引き取ろうとして下さった位ですから・・・中々子供が出来ないご夫婦だったので、まるで本当の娘みたいに・・・・・・静真から、あのご夫婦に新しくお子さんが出来たと聞いて、少し、安心しました」
 過ぎ去った日に思いを馳せる千友梨の横顔は、この時ばかりは本来の年相応に老成した雰囲気を漂わせた。
 愛おしげにライターをなで続ける千友梨を、ラウドは得体の知れないキノコ事・・・ムラサキテングタケモドキを使ったオムレツを口に運び、しばし無言で見守っていたが、不意に千友梨が顔を上げ、ラウドに視線を合わせてきた。
「先生・・・・・・あの子、あの日私が黄泉還らせようとした赤ちゃん・・・・・・焼き殺したの私なんです」
 千友梨のまなじりから、涙が数滴こぼれ落ちる。
「術が失敗してるのに・・・あの子、泣いて・・・生きたい、もっと生きていたいって、泣くんです・・・・・・それを」
 後は言葉にならず、後から、後から涙が溢れた。
(・・・やっと、吐き出したのう)
 ラウドは席を立ち、千友梨の目から溢れる涙を、まるで年端のいかない娘にしてやる様に拭ってやる。
「そうじゃ・・・そうして吐き出すだけ吐き出してしまうがいい・・・そして、もう、余り気に病むでない・・・無辜の者の血で手を濡らしているのはお主だけではないんじゃ」
「せ、先生・・・」
「ここにおる間は、好きなだけこの爺を頼るがいい・・・無論他の者もな、もう何も、独りで抱え込むでない」


「さて、これでは動けんな・・・」
 いつもより苦しげな音を立てる揺り椅子の上で独りごち、泣き疲れ、ラウドの膝の上で無防備な寝顔を晒している千友梨から窓の外に目を移す。
 窓は風を受けてガタガタと音を立てていたが、差し込む日差しは柔らかく、今日は良い日になりそうだった。
「・・・ふぁ、何だかわしまで眠くなってきたのう・・・・・・まぁよい・・・今日は休業じゃ」
 ラウドはいつもの様にあっさりと営業意欲を捨て、目を閉じた。
 暖かい日差しのカーテンが死の死者と死神を包み、この時ばかりは死の冷たさから彼等を護っている・・・そんな情景。


ToBeCountinued・・・

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