てっきり『クレームかな?』と思って会社に戻ったのですが、ひっきりなしにかかってくる電話は、発売されたばかりのガンプラの問い合わせだったんですよ。即日完売の店が続出して『次の入荷はいつか』と聞いてきたんです。1週間くらい対応に追われ、外廻りに出られませんでした」
発売4年で1億個を突破
ガンプラの販売数は、わずか半年で100万個に達した。バンダイは工場をフル稼働させてガンプラの生産を増やしたが、当時は月産12万個が限界で、すべての再入荷の要望に応えるのは不可能だった。
「品切れ状態が続く中、ガンプラを欲しくて仕方ない子供たちが、バンダイの配送車を見つけて自転車で追いかけたり、配送車が到着するのを販売店の前で待ち構えていたりなんてこともありました。
ケガをさせたら大変なので、運送屋さんに『子供たちが学校に行っている間に配送してください』とお願いしました。すると今度は、『孫から頼まれた』と言って高齢者が買いに来るんです」(大下)
実際、ガンプラブームは当時、社会問題としても捉えられた。売れていないプラモデルとセットで買わせる「抱き合わせ販売」が横行したし、'82(昭和57)年には、千葉県松戸市のスーパーにガンプラを買いにきた小中学生約250人が、入り口が開くとともに駆け出してエスカレーターで将棋倒しとなり、19人が負傷した。
制作現場の村松は、これらのニュースを耳にして、複雑な心境だったという。
「大ブームになっていると聞いて、もちろん嬉しかったですけど、反面、抱き合わせ販売や将棋倒し事件については、非常にせつない思いがしてね・・・」
発売から4年。'84(昭和59)年にガンプラは販売数1億個を突破。だが、'80年代後半に入ると、業界を取り巻く環境は急変した。'85(昭和60)年に任天堂が『スーパーマリオブラザーズ』を発売したのを機に空前のファミコンブームが巻き起こったのだ。大下は振り返る。
「その頃から、ガンプラブームは沈静化しました。会社の幹部から盛んに『ガンダムを超えるキャラクターを作れ!』と命じられて、いろいろなロボット・キャラクターを売り出しましたけど、ガンダムを超えることはできませんでした。それくらいガンダムは凄かった。それがあって、我々も『やはりガンダムを主力にしていこう』という覚悟が固まりました」
バンダイは、ガンプラを進化させる方向に舵を切った。社会人になった初期のガンプラ世代に向けてバンダイが送ったメッセージは、さらなる「リアル感の追求」であった。
(文中敬称略、以下次号)
1966年生まれ。日系誌記者を経てフリーに。著書に『独りぼっち飯島愛36年の軌跡』『オーラの素顔美輪明宏のいきかた』(以上、講談社)他多数。最新刊は『奇跡の医療—医師に見放された人たちを救った、「気の療法」の記録』(幻冬舎)
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