第一章 神仙の郷 −−幻想的な日本像 |
『中国史のなかの日本像』 王 勇 | |
■まえがき ■後漢書』の倭国像 ■注釈
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第二節 『後漢書』の倭国像 『後漢書』の成書が『三国志』より遅いことは周知のとおりだが、史書の記録する王朝の年代順からすれば、正史(国家公認の歴史書)の列伝に「倭伝」を別項して設けるのは『後漢書』を最初とする。 このもっとも古い王朝の「倭伝」に描かれた倭の地理像はどんなものだったのか、ここで考察してみよう。まずは冒頭の一文をかかげる。(叙述の便宜上、引用文に番号をつけた) (A)倭は韓の東南の大海にあり、山島に依って居を為す。 「楽浪の海中」とのみある『漢書』の記述に比べて、『後漢書』のほうが「韓の東南の大海」とし、方位をいくらか具体化している。ここで思いだされるのは、前に引用した同書の「韓伝」である。つまり、馬韓と弁韓の南と接する倭は、海中の島々として認識されているのである。 (B)その地は、おおよそ会稽の東冶の東にある。 「韓の東南の大海」にある倭は、会稽からみれば、まさしく東方にあたるという。これにつづいて、つぎの一文が記されている。 (C)朱崖、儋耳と相近く、ゆえにその風俗は多く同じである。 朱崖と?耳は今の海南島あたりにあるが、昔から中国大陸の南端として認識されていた。つまり、倭は地理的に中国の南端にもっとも近く、しかも両地の風俗は多くの共通点を持っているとされる。 右の三文における倭の地理像は、一見して互いに矛盾しているように思われるが、この点をどう説明すればよいのだろうか。 われわれは今こそ「倭」といえば、あたかもひとつの統一国家のように想像しがちだが、昔はかならずしもそうではなかった。『漢書』に「百余国」とあり、また『後漢書』は漢と通交していた国を「三十許」と記している。 三十ぐらいの国は、日本列島の各地に散らばっているはずで、統一の外交権を持たないそれらの国々は、みな同一のルートを通して漢王朝に朝貢していたとは、とうてい考えられない。 弥生時代の航海技術を考慮にいれれば、その時代に海をわたるということは、風向きと海流にまかせての漂流そのものである。それぞれのルートを通して、中国大陸の各地に漂着した倭人への認識が、『後漢書』の倭伝のなかにちりばめられていたのではないか。 つまり、(A)文は朝鮮半島を経由して、北方王朝に朝貢してきた倭人による地理像である。その記録はもっとも多く保存され、『後漢書』には中元二年(五七)と永初元年(一〇七)の朝貢記事が記されている。 (B)文は、おそらく江南(ここでは揚子江下流域をさす)に漂着した倭人から得られた地理観であろう。ここで注意をひくのは、『後漢書』倭伝の後段に「会稽の海外に、東?人があり云々」とみえ、倭人と区別される集団が東シナ海をわたって来航した記事である。 (C)文はさらに倭人の風俗にまで言及し、中国南方のそれとの類似を指摘している。秦漢時代以来、漢民族の勢力がしだいに南進するにつれ、江南を原郷とする越人の多くは圧迫を受けて大挙して南方へ逃れた。したがって、越人の風俗に似ているということで、『後漢書』は倭の南方説をとったのかもしれない。 このように『後漢書』は、三十ぐらいの集団が日本列島から複数のコースをとって来航したことを示唆してくれながら、あくまでも北方経由の「倭人」を倭伝の中心にすえ、江南漂着の集団については付随的に併記するにとどまったのである。 |