第一章

神仙の郷

−−幻想的な日本像


『中国史のなかの日本像』

王 勇

 

 ■まえがき

 ■「倭」の地理像

 ■後漢書』の倭国像

 ■東夷観の成立

 ■注釈

 

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第一節 「倭」の地理像

 中国では、ふるくから外国の位置を定める場合、その国にもっとも近い支配地域を起点として、相互の地理的関係を示すならわしがあった。したがって、中国における民族移動や疆域変遷、または政治中心地の移動などにより、昔から「倭」と称された日本も、時代とともに、さまざまな角度から想像されたり観測されたりしてきた。

 数千年という時間の単位は、地球にとってまさしく束の間、地穀の変動はほとんど無視できるほど、微少なものにすぎなかった。それにもかかわらず、中国の文献に記載されている倭の位置が、北方にあったり南方にあったり東方にあったりするのは、流動的な初期の日本認識の形成軌道をありありと物語ってくれる。

 ここで、倭の所在する方角を追究することは、近代的な地理学の正確さを期せず、古代中国人の心象風景に浮かんだ日本の原像を探求するのが目的なのである。 

1、北方にあった倭

 日本のことは唐以前の文献では、ふつう「倭」と書かれる。倭人の生息する島々の方角とその位置について記録した初期の文献は、それと関連づけられる中国の地名によって、大きく「燕」と「越」の二系列にわけられる。

 まず、「燕」系列の文献をたどってみよう。

 撰者不詳とされる古代の地理書『山海経』(巻十二、海内北経)に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。この一文について、従来よりは「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に属する」との読み方もあったが(松下見林『異称日本伝』など)、このごろは「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」と読みとくのが、ほぼ定説化している。

 燕とは戦国時代(前四〇三〜前二二一)今の北京付近に王都をおいた諸侯国のひとつである。この燕の南と倭の北との間に「蓋」と呼ばれるナゾの国がはさまれているから、倭は燕の遙かなる南方にあったことが推定される。

 右文にみえる蓋国はどこに比定されてよいか。石原道博氏は「蓋国の蓋は北京音ではkaiであるが、南方ではkanと発音されるから韓のことをさし、韓国は燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属しているといういみであろう」との見解をはやくから示している。[]

 また近年では、『三国志』や『後漢書』の東夷伝に、東沃沮の位置について「高句麗の蓋馬大山の東にあり」とある記載によって、「蓋国」はすなわち「蓋馬」のことで、おおよそ朝鮮半島の北部にあったろうとの仮説がかなり有力になってきた。[]

 右の説にしたがえば、『山海経』に出てくる「倭」とは、まぎれもなく日本列島をさすことになる。そして、朝鮮半島と日本列島とを支配の視野にいれた燕は、自分の勢力圏を誇示したのが「鉅燕(国土の巨大な燕国)」の意味するところであろう。

 燕と倭の結びつきには、わずかながら裏づけがある。班固の撰した『漢書』に「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという」とある。この記事は『漢書』(巻二十八下、地理志)燕地の条に組みこまれているから、燕地ゆかりの日本観とみてよかろう。

 「倭は燕に属する」という日本認識は、北方の燕地を起点としている。范曄の『後漢書』(卷九十、鮮卑伝)によれば、後漢の光和元年(一七八)、鮮卑族の君長檀石槐は部族の人口急増によって、あらたな食料源を求める必要に迫られ、広さ数百里にわたる烏侯秦水を眺めたとき、倭人が網で魚をとるのが上手だと聞いて、ひとつ名案が浮かんできた。

 「東して倭人の国を撃ち、千余家を得た。徙して秦水の上に置き、魚を捕らさせて、もって糧食の助けとする。」

 烏侯秦水は、遼河の支流をなす老哈河と推定され、遼寧省の赤峰市あたりをながれる川であると推定されている。これもまた、北方の遊牧民族と倭人との交渉を伝えるユニークな記録である。

 右に述べた『山海経』と『後漢書』に記された「倭」については、それが今の日本列島をさすのではなく、朝鮮半島の南海岸に住んでいた倭人のことだろうと主張する学者も少なくはない。[]それはともかくとして、当時の「倭」は北方の燕国などとの直接間接のかかわりで、中国から認識されていたわけである。 

2、南方にあった倭

 『山海経』および『後漢書』にみえる「倭」と『漢書』の燕地に登場してくる「倭」を、それぞれ別個なものとみなす根拠は、はなはだ貧弱である。とくに『山海経』と『漢書』の「倭」はともに「燕」とからんで記されているから、やはり半島にではなく、「海中」の島々にあった「倭」をさすものと考えるべきである。

 しかし、古くから朝鮮半島、とりわけ半島の南海岸一帯に、倭人と韓人とが雑居していることも、これまた事実だったらしい。たとえば、『北史』(巻九四)と『隋書』(巻八一)の百済伝に「(百済に)その人は雑じって新羅・高麗・倭などあり、また中国の人もある」とみえる記述によって、このあたりの事情がおおよそ推し量られよう。

 上述の『山海経』、『漢書』、『後漢書』にみられる日本認識が、もし朝鮮半島(蓋国・楽浪)を介して形成されたとすれば、それに半島在住の倭人のイメージをいくらか重ねあわせていることもありうるが、それが決定的な要因とならないことは明らかであろう。

 つまり、『山海経』にみえる倭は「燕に属する」特定の種族および地域、『漢書』に登場する倭人は「歳時をもって来たり献見する」百余国の支配政権、『後漢書』に現われた魚捕りの倭人も「倭人国」と表現されているから、いずれも海外に散らばった倭人の小集団を対象としていないのだ。

 したがって、遙か海中の日本列島に住んでいた倭人の存在は、漢以前の中国人にある程度まで知られていたと、こう結論しても大過はなかろう。そして半島を経由して、その実体がしだいに中国北方の政権に伝達されてきた「倭」は、もし半島を起点としてみれば、まぎれもなく南に位置することになる。

 『後漢書』(巻八五、韓伝)は三韓のことを述べるなかで、倭との位置関係をつぎのように示している。ちなみに、三韓とは馬韓、辰韓、弁韓のことである。

 「馬韓は西にあり、五十四国ある。その北は楽浪と、南は倭と接する。(中略)弁韓は辰韓の南にあり、また十二国ある。その南はまた倭と接する。」

 右の記事に出てくる「倭」は、日本列島の倭人ではなく、半島の南部に居住する倭人であるとの意見もあるが[4]、それには従いがたい。というのは、ここの「接する」とは陸続きの意味ではなく、たとえ海を隔てても、その中間に他の国をはさんでいなければ、交通をもつ両国の地理関係をこう表現することが多々あるからだ。。

 紀元前一〇八年、漢の武帝が燕の亡命人らの手によって創られた衛満朝鮮をほろぼし、その地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設けた。こうして、漢の支配圏が半島にひろがっていくことにつれて、東の諸民族がより正確に知られるようになった。

 倭の位置についても、中継地の楽浪郡、のちには帯方郡(二〇五年ごろ、楽浪郡の南部を分割して設置した漢の出先機構)を起点として観察され、しだいに北方説から南方説へと移行していった。 

3、東方にあった倭

 秦の始皇帝が中国を統一して、天下を三十六郡にわけて以来、揚子江流域を中心とする会稽郡(今の浙江省紹興あたり)はたちまち東南の大都会として、大きな発展をなしとげた。会稽を起点とする日本認識は、次にあげる「越」系列の文献に具現されている。

 王充という漢代の思想家の撰した『論衡』巻八の儒増篇第二十六に「周の時、天下は太平である。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ずる」とあり、また同書の巻五の異虚篇、巻十三の超奇篇、巻十九の恢国篇にも、類似の記事が認められる。

 「越裳」は越常国または越甞国とも称し、『後漢書』(南蛮西南夷伝)に、交阯(ベトナム)の南に越裳国があるとして、周代での白雉献上のことが述べられているが、会稽を中心にひろく南方の地域に分布していた越族の一派である。

 倭人の貢献した「鬯草」は、欝金草(香)・欝鬯・暢草とも称し、中国南方の欝林郡(前漢武帝のころに郡を設置し、ほぼ現在の広西省桂平県にあたる)産の香料の一種とされ、祭酒の原料として珍重される。倭人貢献の時代については、恢国篇にしたがって成王の時と限定すれば、紀元前一0二0年ごろのことであり、日本では縄文後期の末から晩期にあたる。

 『論衡』の著者王充は、後漢の光武帝の建武三年(二七)に会稽郡の上虞県で生まれた。倭の奴国の使者が漢都の洛陽にまで入貢したという事件があった建武中元二年(五七)は、王充がちょうど洛陽の太学(国立大学)に入り、班彪という高名な学者に学んでいたころであった。

 『論衡』にみられる倭人の記事は、周朝聖王の徳化がとおく海外にまで及んでいるという功績を宣揚しようとしたものだろうが、故郷の会稽で見聞した倭人来航の「歴史的事実」がその下敷になっていたとも思われる。そして、今の紹興を中心とした会稽の地に住みついた越人や呉人の目からみれば、海彼の倭人はまぎれもなく「東方の人」であった。

 中国に伝達された倭人の情報を、北方の燕国を中軸として伝えたのが『山海経』と『漢書』の記事であり、南方の会稽を視点に記録したのがほかならぬ『論衡』の史料であろう。




作成 浙江工商大学日本文化研究所