第一章 神仙の郷 −−幻想的な日本像 |
『中国史のなかの日本像』 王 勇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■まえがき ■東夷観の成立 ■注釈
許慎(約58-約147) 後漢の経学家、字は叔重、汝南召陵の人。経書研究のかたわら、『説文解字』14巻を著わし、古文の訓詁学を大成した。
扶桑樹 『山海経』に湯谷の水中に巨大な扶桑樹があり、烏をのせた十個の太陽が昇り降りしているとある。四川省の三星堆遺跡から出土した青銅製の扶桑樹は、下の枝に烏が九羽あり、上の枝にあったはずの一羽をなくしている。
西王母 西の崑崙山に住んでいると信じられる女神、不老不死の術を心得、絶世の美貌を保っているともいう。図は漢代の画像磚に描かれたもので、中央に鎮座しているのが西王母。
尭帝 伝説上の上古帝王、唐尭ともいう。姓は伊、名は放勲。原始社会の後期に、部落連盟の首領と推定される。
大禹陵 大禹は治水の功によって、舜から禅譲をうけ、中国初の世襲王朝――夏を建てたと伝えられる。今、浙江省の紹興に禹を葬ったという巨大な大禹陵がある。
孔子(前551-前479) 春秋時代の魯国の人、名は丘、字は仲尼。列国を周遊して儒学をひろげ、門下に集まった弟子は3000人もいたと伝えられる。儒学の創設者、または偉大な教育家として東アジア諸国に大きな影響を与えた。 |
第三節 東夷観の成立 倭国は北方または南方にあると認識されるかぎり、東夷の持つイメージと重なってしまうことは、まずありえない。しかし海をわたってきた倭人は、越人の目からみれば、まぎれもなく「東の人」であった。そして、会稽郡の役人が華夷観の色眼鏡をかけてみれば、倭人がおのずと「東夷」に映ってくるわけである。日本観と東夷観のミックスは、ここから始まる。 このように、おそらく前漢と後漢の間、つまり紀元前後に、倭人を「東夷」のひとつとみなす考えがほぼ定着してきたようである。そして、このようなイメージは『後漢書』以下の中国正史の倭国伝に一貫して継承されている。 中国の官撰史書(すなわち正史)二十五のうち、日本伝を別項して設けるものは十八ほどあるが、『新唐書』以前の十一書はほとんど日本を東夷のたぐいに位置づけている(下表参照)。
倭を東夷のひとつと認定することは、たんなる倭人の位置認定の問題だけではなく、倭人像そのものに大きな変化をもたらすことになる。つまり、中国人の世界観に沈殿している東夷のイメージは、まるごと倭人像のなかに移入される可能性が出てきたわけである。 1,「東」という方角 中国人の日本観を根底から突きとめようとすれば、「東」と「夷」の語源と語意をまず究明しておかなければならない。なぜなら、中国における日本の原像は、東夷観そのものにほかならないからである。換言すれば、既成の東夷観はそのまま初期の日本観に移入されているのである。 「東」の語源について、漢・許慎の著わした『説文解字』は「日に从い、木の中に在る」と解釈している。日と木の合成文字をざっと拾ってみると、日が木の上に在るのを杲(明らかな様子)、中に在るのを東、下に在るのを杳(暗い様子)という。字根(文字の構成要素)から分析すれば、杲・東・杳はもともと、「昼の太陽」、「朝の太陽」、「夕の太陽」をそれぞれ意味していることがわかる。 太陽が拠り所として昇ったり降りたりする神木は、むかしから「扶桑」と呼ばれている。扶桑とは、諸橋徹次の『大漢和辞典』(大修館書店)に、「東海中にある神木。両樹同根、生じて相依倚するから扶という。日の出る所といわれる」と説明されている。 その出典は、周知のとおり『山海経』から出ている。この神木は数多の別名を有しているが、管見に入ったものだけでも、若木・蟠木・槫木・槫桑などがあげられる。 このようにみてくると、「東」という語はたんなる方角を現わすことばではなく、「朝日」と「扶桑」をシンボルとする上古の太陽信仰にもつながっていることがうかがわれるのではないか。 隋の煬帝によって南北貫通の大運河がほぼ完成されるまでに、中国の動脈ともいうべき大きな河川は、「大江、東に去り」の熟語にも象徴されているように、黄河にせよ、淮河にせよ、揚子江にせよ、すべて西の山より東の海へと流れこんでいく。 人間の想像力はその居住空間から大きく制約をうけているとよくいわれるが、古代中国の神仙世界がほとんど江河の両端に想定されているという現象も、それに起因しているのであろう。 すなわち、江河の源には崑崙山、海洋の果てには三神山があると考えられる。そして男神の東王父は東の三神山に、女神の西王母は西の崑崙山にそれぞれ鎮座して、ともに不死長寿の仙薬をにぎっていると信じられる。したがって、東ということばに、朝日・扶桑に象徴される太陽信仰のみならず、大海・神山・仙薬などのイメージも附随していることがわかる。 現代語としての「東」はただの方角を現わすヒガシ(East)と解釈されるが、この語には深い文化の蓄積と多彩な神話伝説がつきまとっていることをあらためて認識するべきである。 2,「夷」という民族 文明発祥地の中華をかこんで、周辺に散らばった東夷・南蛮・西戎・北狄の起源について、『尚書』(舜典)は次のような伝説を載せている。 つまり、堯帝の時代、讙兜が暴れん坊の共工を尭帝に推薦した責任を問われ、南方の崇山に追放されて南蛮、中華の秩序を荒らした張本人の共工は北方の幽陵に流されて北狄、江淮地方(揚子江と淮河流域)で反乱を繰りかえした三苗は西方の三危山に移されて西戎、黄河の洪水退治に失敗した鯀は東方の羽山に押しこめられて東夷、となったのである。華夷の名分がこうして定められ、一度混乱におちいった天下はようやく平和を取りもどしたという。 『説文解字』に「夷は東方の人である。大に从い弓に从う」とある一文を引用するまでもなく、「夷」は大と弓の字根からなり、東方の僻地に住んでいる異民族のことをさすことばである。しかし、東夷は中華にとって、他の異民族から区別されなければならない特別な存在である。その理由は、夷の字形および起源を分析すれば、明らかになる。 まずは夷の字形に注目しよう。 清・段玉裁の著わした『説文解字註』によれば、蛮・?・狄・貉・羌などの諸民族はいずれも虫・犬・豸・羊の字根に基づいているのに、夷だけは人間を意味する「大」の字根をふくんでいるため、異民族のなかでもっとも優れているという。 同書はさらに「大は人の形に象る。而して夷の篆は大に从う。すなわち、夏と殊ならない。夏は中国の人である」と説明をつづける。わかりやすくいえば、東夷は、動物同様とみられる他の周辺民族と異なって、華夏(漢民族)と同じく「人間」として認められるのである。 つぎに、東夷の起源を考えてみよう。 前述のように、堯帝の代に鯀は治水の失敗から東の羽山に幽閉されてしまったが、次の舜帝の代になると、鯀の息子である禹は家業をうけつぎ、黄河の水害を治めるのにやっと成功した。これによって、禹は周囲の部落から尊敬され、やがて部落連盟の国家−−夏を創設し、中国の世襲王朝の初代天子となった。ここまで来ると、東夷は南蛮・西戎・北狄より優れていることはいうまでもなく、華夷同祖とまでいわざるをえなくなる。 右にみてきた東方観と東夷観とがミックスすると、古代中国のユートピアが見事に合成される。『説文解字註』に「東夷は大に从う。大は人である。夷の俗は仁、仁の者は寿、君子不死の国がある」とあるように、東方のユートピアは「君子不死の国」と名づけられている。 仁義を貴ぶ君子は理想郷に、不死の薬をもつ寿者は神仙郷に住んでいると考えられるから、古代の中国人が遙かなる東方に幻想を馳せているユートピアは、このように二重のイメージを持っているわけである。 3,九夷における倭 儒教の聖典とされる『論語』の公冶長第五のなかに、孔子の言葉として「子曰わく、道行なわなければ、桴に乗って海に浮かぶ」という注目の記述がある。 もし自分の理想がこの国で実現できなければ、いっそのことで舟に乗って海に出ようといった意味合いである。前文に述べたとおり、古代の中国人にとって海とは東の方角にあり、夷と分類される民族の住みつく異郷でもある。 これと関連する内容は、『論語』の子罕第九にもみえる。つまり、「子、九夷に居らんと欲する」という一句である。ここの「子」も公冶長第五と同様、孔子のことである。春秋時代の乱世の「中華」よりも、伝説につつまれる「東夷」のほうが理想的な土地柄だろうと、孔子は真剣に考えていたようである。 ところで、ここの九夷とは一体どんなところをさしているのだろうか。これについては従来より二通りの解釈が行なわれている。 そのひとつは『後漢書』(東夷伝)に出てくる解釈で、九夷の名は?夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷となっている。これらは、抽象名詞が多く、その実在を疑わせるが、紀元前七世紀後半ごろの歴史書といわれる『竹書紀年』にもみられ、淮河流域にいた異民族は、当時こう呼ばれていたらしい。 漢民族の世界地理への認識は、秦の始皇帝の中国統一によって大きく変容し、漢の武帝の海外開拓によって飛躍的にひろげられた。こうして漢代のころ、九夷とは大陸東部にいた民族から、しだいに海外の民族をさすようになっていく。 この意識転換を裏づけるかのように、『爾雅』を注釈した李巡(漢霊帝のとき、中常侍となった人物)はもうひとつの解釈を、「九夷」への疏でこう示している。 「夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙。」 倭人は九夷の八番目に入っている。すると、孔子が海をわたって移住したいと考える理想郷は、海彼の日本と連想されてもおかしくはない。『山海経』の海外東経と大荒東経に出てくる「君子国」は、『論語』のいう「君子これに居る」理想郷と、なんらかの関連があったのであろう。そして、この架空の「君子国」はいつのまにか実在の「倭人国」のイメージに移入されてしまった。 4,君子不死の国 ふたたび『漢書』燕地の倭人条に視線を転じてみよう。 「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという。」 この記事自体はほとんど研究しつくされている観があるが、古田武彦氏はするどい眼でこの史料をよみがえらせ、『漢書』地理志の東夷諸国で歳時貢献の記事のあるのは、倭人の箇所だけであることを発見した。[5]このことは、九夷のなかでも、倭人がもっとも柔順にして仁義を重んじ、中華の文明に近づき、その感化をうけることを示唆するものと受けとめられる。 『漢書』(地理志)燕地の条をこまかく読みとおすと、まず朝鮮半島について、おおむね次のごとく説明されている。 殷王朝のころ、道徳が衰微したため、聖人の箕子が中華の地を離れて朝鮮へ行き、土着民に礼儀を教えた。ところが、商人がここに来るようになってから、風紀がだんだん乱れはじめ、夜には盗人が出没するようになった。それにしても、東夷は生まれながら柔順にして、おのずと南蛮・北狄・西戎とは異なる。そのゆえ、孔子は道徳の衰微をなげき、海に出て九夷に住もうと考えたのである。 『漢書』は、『論語』の右の一文をひいた直後に「楽浪の海中に倭人あり云々」と、かの有名な倭人記事につながっていくという構成になっている。 以上で明らかなように、孔子のあこがれる理想郷、ひいては古代の中国人の夢見るユートピアは、箕子伝説にも示唆されているように、はじめは朝鮮半島にあったとみられる。それが、秦漢時代の苛政と戦乱を避けて半島に移りすむ人が多くなるにつれて、理想郷への憧憬は、さらなる東方の倭国に託されるようになったと推測される。 古代の中国人にとっての東方のユートピアは、「東」と「夷」のイメージを根底にもっている。江戸時代の松下見林は「異邦之所称」の日本国号として、倭国・倭面国・倭人国・邪馬臺・姫氏国・扶桑国・君子国をずらりと列挙している。[6]神仙郷と理想郷は、それぞれ「扶桑国」と「君子国」に象徴されている。 このように中国の東方伝説は倭国の虚像と重なっているが、それが倭人の実像とまったく無関係でもない。『後漢書』の「女人は淫?しない。また俗は盗窃しない。争訟も少ない」という記述は、賢人箕子の教化をうけた朝鮮の「その民、ついに相盗まず、門戸の閉はない。婦人は貞信にして淫辟しない」(『漢書』)といった君子の理想とする秩序をほうふつとさせる。 また一方、神仙郷とみなされる倭国観にも貧弱ながら、それなりの裏づけがある。『後漢書』(倭伝)に「人の性は酒を嗜む。多くは寿考であり、百余歳に至る者も甚だ衆い」とある記載が、すなわちそれにあたる。 長寿と仙薬とは、神仙郷の表裏をなすものである。仙薬の伝説は、倭人貢献記事のあった『論衡』によれば、周成王の治世にさかのぼれるかもしれない。倭人の貢献した「鬯草」は当時、神事に用いられていたから、いつのまにか蓬莱島にある不死不老の仙薬と信じられるようになったのであろう。時代がさがって秦漢時代になると、徐福伝説に象徴されるように、「仙薬は東方にあり」という認識はかなり一般化してきたらしい。 長寿と日本とを結びつけるのは仙薬だけではなく、宋・張君房の撰した『雲笈七籤』(巻一00)をみると、『軒轅本紀』をひいて騰黄という神獣に言及し、漢民族の始祖とされる黄帝はこれに乗って宇宙を往来し、天下を自在に周遊したと伝えられている。 ここで注目すべきは、この神獣は両角龍翼あるいは龍翼馬身をなし、乗黄・飛黄・古黄・翠黄とも称し、日本国より出て寿三千にして、一日に万里を行き、乗者をして二千の寿を得させると記すところである。 5,目指すは蓬莱の島 戦国の乱世を平定して、空前の大帝国をつくった秦の始皇帝は、のちに長寿延年に心をひかれ、方士(超能力を修練しまたは持つ人々)の徐福をして、童男童女あわせて数千人に五穀の種と耕作の農具などをそろえて巨大な楼船に積み、東海の蓬莱島へ不老不死の仙薬を求めに行かせた。 この記事は司馬遷の撰した『史記』の各所(秦始皇本紀、淮南衡山列伝、封禅書)に散見し、また司馬遷とほぼ同時代の東方朔の著わした『海内十洲記』にも類似の記載がみられるところから、いちおう史実とみてよかろう。 『史記』以後の歴代の文献によって、「徐福入海求仙」の史実はしだいに敷衍され、それぞれの時代の解釈にあわせて再創作されつつあった結果、はやくも伝説化してしまった。史実から伝説への変遷に三つの段階があったことは、近藤杢が『江戸初期以前に於ける儒書の将来と刊行について』(『斯文』十七ノ四)で明快に論じたところである。 「『史記』の徐福入海説から一転して渡日説となり、後周の義楚の『釈氏六帖』に見え、再転して齎書説となり、宋の欧陽脩の『日本刀』の詩に詠ぜられるに至ったもの(後略)。」 つまり、『史記』(淮南衡山列伝)は徐福入海の着地を「平原広沢」としか書かなかったのが、五代(九〇七〜九六〇年)ころ義楚の著わした『釈氏六帖』(義楚六帖とも六帖とも書く)では始めて「日本」に特定するようになった。この肝心な記述は次のとおりである。 「日本国はまた倭国といい、東海の中にある。秦の時、徐福は五百の童男と五百の童女を将いて、この国に止まる。今、人物は一に長安の如し。(中略)また東北千余里に山があり、富士といい、また蓬莱という。(中略)徐福はここに止まって蓬莱という。今に至って、子孫はみな秦氏という。」 右の記事では、徐福のとどまった蓬莱島をはっきり「日本」と断定していること、日本の人物を「長安の如し」と評価していること、渡来人集団の秦氏を徐福一行の子孫と認めていることなどが注目される。 徐福の渡日説は、唐末以来の日本見直しの時代風潮に根差したものであり、中日間の、ひいては華夷間の人種的なへだたりをなくす前提条件でもあった。宋に至って、日本の風俗・文物・制度などが中国なみに高く評価されるようになった機運は、まさにここにあるといわなければならない。 このような日本像の時代的な転換は、徐福伝説においては五代の「渡日説」から宋の「齎書説」への変容にも十分に表わされている。欧陽脩(一説に作者は銭君倚)の『日本刀歌』に詠われているところは、よく引き合いに出される名文である。 伝え聞くにその国は大島に居り、土壌は沃饒として風俗も好しと。 その先に徐福は秦の民を詐して、薬採るに淹留って艸童老いたり。 百工と五種はこれとともに居り、今に至って器玩はみな精巧なり。 前朝に貢献してしばしば往来し、士人往々にして詞藻に工みなり。 徐福行く時に書は未だに焚かず、逸書の百篇は今なおも存せりと。 「徐福渡日説」の真偽をめぐって、学界では久しく議論される難解なテーマである。肯定論者は、中国東南沿岸や日本沿海の各地に点在する徐福ゆかりの遺跡を証拠にあげて、歴史の復元を試みようとする。否定論者はこれらの遺跡を後世のこじつけだと退けて、徐福という人物の実在さえ認めようとしない。 二千年も前のことで、今となって真実をすべて解きあかすことは不可能に近いだろう。徐福の時代に、秦王朝の中国統一によって、既得利益を奪われた人々、生活基盤を失った人々が、大挙して海外に移住し活路を求めたことは、歴史的な事実だったのである。これらの移住者は、無名のままに歴史のなかに埋もれてしまったのがほとんどで、わずかに人口に膾炙する徐福の名で一部の伝承を後世に残したということも、十分に考えられよう。 ここでは、「徐福渡日説」の真偽論争に立ち入る気はなく、本章の主題にあわせて、次の二点だけを今後の課題として提起しておこう。 (1)徐福をふくめて、秦人の移住伝説のおよぶ地域は、ほとんど朝鮮半島と日本列島に集中しており、北方・西方・南方の諸地域には、こうした伝説が流布していた痕跡はみられないようだ。いざとなると、まず東方を避難先に選んでしまうということは、おそらく古来の「東方に神仙郷あり」の意識に行動を左右されたと推察される。 前にもふれたように、東方の理想郷は朝鮮半島から徐々に日本列島へ移行される経緯があり、移住民をして日本列島へ向かわせる理由は十分にあるのである。また、『日本書紀』などに記録された秦氏集団と漢人集団の渡日記事によっても明らかなように、いったん半島に移住した漢民族は、さらに東進して日本をめざす傾向もみられる。したがって、「神仙の郷」という日本像の解明に、徐福伝説をひとつの手がかりとすることは、有効であるかもしれない。 (2)徐福をめぐる伝説が最初に日本と結びつけられるのは、前述のとおり五代の『釈氏六帖』である。その後、「徐福渡日説」は欧陽脩の『日本刀歌』に象徴されるように、各時代にもてはやされ、近代にまで語りつがれている。このような伝説がなぜ流行りだし、人々がなぜこれを信じて疑わないのかということを考えると、「神仙の郷」というイメージが日本認識の基本パターンとして、約二千年にわたって中国人の日本像を規定していたという結論に、おのずと帰着するのである。 今や日本を「神仙の郷」と思う中国人はだれ一人いないだろうが、日本を呼ぶ名として、「東瀛」や「扶桑」などは依然として健在で、無意識のうちに往昔の記憶が体のどこかに眠っているかもしれない。 |