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元寇の際、朝鮮人が日本に攻めて来て、日本人を陵辱し大虐殺したという事実を知り...

machikane_daemon3090さん

元寇の際、朝鮮人が日本に攻めて来て、日本人を陵辱し大虐殺したという事実を知りました。
もっともっと知りたいので、朝鮮人が日本に攻めてきた事が説明されているサイトをいくつか教えてください。

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nightdancer6160さん

元寇以前に

刀伊の入寇

があります。

1)刀伊の入寇
寛仁3年(1019年)3月28日。沿海州に住む刀伊(とい)の船団およそ50隻(1隻あたりの乗船人数は約50人)が対馬・壱岐の両島を襲撃しました。

突然の襲撃に両島は大混乱に陥り、壱岐守の藤原理忠はじめ、多くの島民が殺害され、あるいは捕虜となってしまいます。さらに対馬の銀鉱にも火が放たれ、凄惨なありさまとなってしまいました。

 突然現れたこの「刀伊」は、高麗が北方の蛮族を呼ぶ時の蔑称です。彼らは普通「女真」と呼ばれ、彼らの子孫はやがて金王朝を建国し、さらに後には中国を席巻して清王朝を樹立するのですが、この頃は契丹(遼)の支配下に組み入れられていた被支配民族でした。

 刀伊の船団は4月7日に筑前沿岸に姿を現しますが、志麻郡(現福岡市)の住人・文室忠光(ふんや ただみつ)らが迎撃してこれを撃退します。異民族襲来の報を受けた太宰権師・藤原隆家(ふじわらのたかいえ:41歳)は、北九州の武士団を自ら率いて前線に進出。4月9日には、博多上陸を目指す刀伊軍と、隆家の軍で激しい戦闘になりました。

刀伊が使う矢の長さは30cmほどだったそうですが、隆家軍の盾を貫通するほどの力を持っていたそうです。しかし、隆家軍は70歳を超えた前少監・大蔵種材(おおくら たねき)をはじめとした太宰府官人らが馬上から弓矢で応戦し、刀伊軍の上陸を阻みました。

しかし、刀伊軍はなおも上陸を試み、4月12日、13日にも水際で合戦が起こりましたが、日本軍は刀伊軍の上陸を阻むことに成功。刀伊軍はそのまま行方をくらますのでした。

 刀伊の入寇はこれで幕を閉じますが、日本側は当初、どの国が攻め込んできたのかがわからなかったそうです。後に高麗から侵入者が刀伊であったことを初めて知らされた、とか。この間、朝廷の貴族達は何らなすこともなかったと伝えられています。

そもそも、刀伊が攻めてきた事実も、隆家らが勝利した後になってから知り、武功のあった隆家らに恩賞を出すこともしませんでした。かといって、外交対策をとるわけでもなく、貴族政治の体たらくぶりが示された事件、とされています。


 刀伊の入寇で殺害されたのは365名、捕虜となって連れ去られたのは1289名、牛馬の損害はおよそ350頭、人家45戸が焼失と、甚大な被害を受けました。九州上陸に失敗した刀伊の軍は、帰りに高麗を襲撃しましたがこれも失敗。
その際、捕虜となっていた日本人の一部(およそ300名)が救出され、高麗の手で太宰府まで帰されたそうです。
y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/toi.html -

2)http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/k-textbook/genkou.html

倭寇の原因としては日朝間の正規の貿易が途絶し密貿易が横行したことと、元寇を通して朝鮮・中国に対する意識が変化したことが上げられる。

元寇時の元・高麗連合軍の対馬住民に対する暴虐への復讐として倭寇が行われたという歴史的事実がある。

そもそもフビライを唆したのは高麗人の趙彜という人物である。
また、元寇の時代に高麗の王世子・椹(後の忠烈王)も「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」
「王師を小助せん」

とフビライを唆している。

そして、高麗軍は 「二島百姓等、男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付、虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し」

(『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』)

つまり
・男は殺害、女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るされた。
・200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上させられる。

と書かれるような蛮行を行ったのです。
この侵略行為に対する復讐が倭寇の原因となったことは清代および李氏朝鮮の学者によっても指摘されています。
(清代の徐継畭の『瀛環志略』、朝鮮後期の安鼎福の『東史綱目』)

3)応永の外寇1419年(応永26年)という対馬侵略もありました。

朝鮮側は李従茂指揮の227隻,1万7,258人からなる大軍を率いて対馬を侵略し民家1,939戸,首級104をあげるなどの戦果をあげたが、対馬に反撃され2500名の犠牲を出して、台風の到来する季節の前に宗貞盛の撤兵要求を受け入れて、すごすごと巨済島に引き揚げています。

実質的に朝鮮は対馬一島の前に敗退しました。

野蛮な朝鮮人とは違い、対馬の宗家はその後も日韓の平和的な貿易のために努力しました。

またいわゆる後期倭寇については、朝鮮の史料「世宗実録」に
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」

「倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」
という記述もあります。

後期倭寇はほとんどが中国人や朝鮮人だったのです。

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kyutrhoさん

歴史などどうでもよいのです。重要なことは外交においては黒を白と言いくるめるプロパガンダ能力です。南京30万人が良い例です。証拠より支那の論が勝っているのです。それに対して日本の度重なる謝罪は見ていてこっけいです。セイジ屋、悪代官共に論がまったく欠落しています。

karasu6627さん

元寇について、知りたい事があるのですが、元が高句麗など支配して、支配された国が元の野望
の為に 武器を持って日本に攻めて来るのでしょうか。つまり士気力の問題?そもそも。言葉が理解出来ない兵士は統率できたのでしょうか?支配しているとは言え武器の使い方を敵におしえますか?

astrawberrywhitepaperさん

歴史問題は、まず韓国「朝鮮」人が改めるのが先のようですな。
http://japanese.joins.com/forum/board/view.php?no=93970&page=1

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