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岡崎市中央図書館事件

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呼ばれたので行ってきました。パネル討論会「「岡崎市中央図書館ウェブサーバ事件」から情報化社会を考える」(主催:ESD21(持続可能なモノづくり・人づくり支援協会))。会場は中京大学の八事キャンパスなので、あまり普段と代わり映えがしないな。パネリストは4名で、他はまあ図書館系と情報系の方だったので、法律系としての機能を期待されているのかなあと思ってみたり。いや実定法学者でもないので多分に不安が残るところなのですが。

でまあ述べた内容ですが、この件で図書館側・ベンダー側・警察側に問題があったというのは多くの人が言っていることだし、まあベンダーの問題点って否定できないよねえと素人ながらに思うのでそのあたりは他に任せて、逮捕されてしまった開発者の行動にも「問題」(ベストプラクティスではないという意味でのね)はなかったかという点と、警察・図書館の行動にも「問題」はあったがその背景にある事情というものがあるという話です。前者について言うと、刑法上の因果関係というのは被害側に未知・予測不能の欠陥があったことが結果発生に寄与した場合でも切断されないという話があり、つまり誰にも問題のない・完全な状態でいる義務などというものはないので図書館のソフトウェアに問題がないことを軽信したことは「問題」と言えるということ。またそのことを前提とすれば被害と因果関係という客観的な構成要件は揃っており、もちろんあとからわかったさまざまな事情を斟酌するとどうもまあ故意はなかったということでいいと思うのだが、捜査時点では(IPアドレスのブロック後も別アドレスからアクセスを再開するなど)故意の妨害であることを疑わせる事情というのもあったわけで、最終的に逮捕から起訴猶予という結論になっても仕方がないのかなということが挙げられる。

もちろん図書館・警察側にもベンダーの主張する内容をどうも軽信したのではないかという「問題」が指摘できるわけだが、その原因というのも大きくは別のところに想定できるよねという話もあり、つまり被害が発生する以前の・早期の段階で積極的に介入せよというのはストーカーなどの事例で国民自身が警察に対して要求し続けてきたことであるし、分権化などで下の方に下の方に権限を移動させながら問題解決のために必要な(主として人的)資源を与えなかったために権限と能力のギャップを拡大させてきたという問題もあるわけである。そういう「地方分権」というのも国民自身が望んできたことなわけで、結局ベストプラクティスを実現できるだけの資源というのを与えていない状況でそれらのアクターに完璧なふるまいを求めても無理です、自分たちの選択の結果を国民自身が引き受けてくださいとしか言いようがないところはある。

結局まあある種「ポテンヒット」というか、ご本人も含めて理想的ではないふるまいをみんながしてしまったことが事件の発生原因で、だから再発を防止するというならどこかに十分なリソースを割り当てるという選択を社会全体としてする必要があるよねと、そういうことかな。それもイヤだと国民が言うのなら、悪いけど確率的に「誤認逮捕」が出ることは覚悟してもらわないとなということなのである。

***

でまあ帰ってきて思うことというのは、しばらく前から研究会がustreamで生中継されてtwitterでのコメントがリアルタイムで返ってくるとかいう状況がありおそろしいことだとか思っていたところ、実はその方がマシなのだなという感じ。どうも参加者の中にtwitterで実況を試みていた方がいたらしく、いやその方はがんばっていると思ったのだがしかし本質的にいろいろと限界があるわけで(私の喋りというのはかなり早いのでそれをまとめるだけで大変というのもあろうし、速度の如何を問わずはじめて聞く・知らない内容の適切な要約なんて不可能に近いだろというのもあるし)、それでもまあ世界に情報を増やすのは有益だと思うのだがそれをもとに論評しはじめる方々というのはなんだかなあと思った。つうかそれ、音楽のライブに参加している人が「こんな曲」「今度はこんな感じの歌詞」と言っているのを聞いてそのライブの評価するようなもんだよねえ。もちろんそれでも会場の雰囲気をつかむ役には立つかもしれないわけだが、そこで展開された主張の当否や正確性を論じることが可能であり有益だと思ってやってるのかしらみんな。

個人的にはtwitterって気分の共有メディアだと思っており、そういうものとして使う分には楽しいんじゃないのいいんじゃないのと思ってもいるのだが、所詮そこまでという限界をわきまえない人がぞろぞろ出てくるようだとまたそのうち問題になるのだろうなあと思うところあり。なお私が政治家のtwitter利用にきわめて否定的なのは、(1)そういう限界を理解しないで主張・議論のメディアたることを期待しているとすればあほおであり、(2)わかった上で国民の感情動員のための道具として活用するなら邪悪だから、です。リベラル(古典的な意味での)だからね、気分の共有に基づく政治が何よりも嫌いなのですよ。

二点だけ、あまりうまく伝わらなかったのかなあと思っていることを補足しておきます。第一に、ベンダーの問題や、警察・図書館の行動の「悪かったところ」(繰り返すがベストではないという意味でな)にあまり言及しなかったのは、最初にも書いたけどそこはまあみんな言っているし他のパネルの人が指摘するよねえと思ったから。「だから人のあまり言っていないことを言う」とは前置きしたのですがね。ベストではなかったという意味での「問題」はベンダー・図書館・警察にもあったし、なかでもベンダーの「問題」はとてもとても大きいし、図書館の対応も恥ずかしいものだったと、個人的には思っています。警察についてももうちょっとがんばってくれてもよかったんじゃねえかとは思うねえ。

第二に、今日私が喋った内容は「私個人の主張」というよりは「警察・検察がそれに沿って動くようなこの国の通り相場」の話です。それはまあ私刑事法学者じゃないから特に刑法的な評価について独自の見解とかねえんだよという話がひとつ。もうひとつはだってその方が有益だしそういう内容を参加者も期待するでしょうということで、たとえば交通事故の被害者遺族が「損害賠償はいくらくらいになるのか、それを前提に今後みんなでどう生きていけばいいのか」と心配しているところに西原先生連れてきて「人の命を差別するな」とか「生命は交換価値を持たないので金銭的な評価は不能」とか「いやむしろ無限、どれだけ払っても十分ではない」とか大演説してもらっても困るわけですよ。知りたいのは先生ご自身の意見ではなくて法廷がどのように判断するだろうかという予測であり、その予測をもとにした他のアクター(この事例だと弁護士とか保険会社とか、今回の事件では警察とか検察とか)のふるまいの予測なわけで、それを十分に伝えるために自分の意見とか主張とかを抑制できない人間は法律家になる資格ないです。「良心を棚上げできる」というのは法律家にとって非常に重要な素養で、それって人間としてどうなのと聞かれたら苦笑いしますが(まあだから「良き法律家は悪しき隣人」とか昔から言われているわけです)、でもそういう思考法が社会を支えてきたんだよね。ヤだなと思う人は(「苦笑い」という表現に示されているように私自身はそのような感情に必ずしも否定的ではないですが)オルタナティブを考えてから来てくださいなと。そうも思うな。

まあ全体としては面白かったというか、他のパネルの方々のご発言も勉強になったのでよかったなあという感じ。twitterの使われ方を体感したというのも収穫かなあ。まあ藪を踏みにいってヘビと遊ぶの好きだからな私。いいかげん諸方面から怒られるような気もしているわけですが、ええ。

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