posted by 川崎弘二(音楽批評)
1993年6月、メディアとしてフロッピーディスクを使用した、稲垣足穂「タルホ・フューチュリカ」という電子書籍が発売されました。株式会社ボイジャーのウェブサイトによると、1992年10月に設立された同社が、日本向けの商品として手がけた最初期の電子書籍であるようです。
この電子書籍には、稲垣足穂の「一千一秒物語 (1923)」、「未来派へのアプローチ (1966)」、「物質の将来 (1974)」という三作品のテキスト、そして、これらの三作品とは毛色の異なる、「オルドーヴル (1954)」という作品が収録されています。「オルドーヴル」は、商品パッケージの解説によると「タイポグラフィックなアニメーション・スタック」として製作されており、グラフィックデザイナーの永原康史 (現・多摩美術大学教授) がデザインを、音楽家の藤本由紀夫 (現・京都造形芸術大学教授) が音楽を担当しています。
「オルドーヴル」は、カード形式による複数のメモが順番に画面表示され、それにあわせて一つの音が再生されるという作品です。藤本によると、「短い文章ほど、高い音で短い持続時間になっている。そして、この音の鳴っている時間で、表示画面の切り替わりをコントロールしている。そうすると、音とともに立ち上がった文章は、ほど良い時間で音とともに消失し、そしてまた異なる高さの音とともにつぎの文章が浮かんでくる」と説明されています。
つまり、文字数の異なるメモが、流れてくる音の高さと長さを規定しており、さらに、それぞれのメモをランダムに並べ替えることによって、「オルドーヴル」を「読む」たびに、新たなメロディーが生成されるということになります。ここで提示された「読む」という行為は、どこに表示されている何を読むかという「空間」と、その文章を読むのに必要な「時間」と密接に関わっており、「読む」ということは「楽譜を見て音楽を演奏することと同様な、音楽的な振る舞い」であると藤本は指摘しています。
この作品は、藤本の個展においてしばしば展示され、1998年6月に西宮市大谷記念美術館で開催された、藤本由紀夫「美術館の遠足 2/10」において、複数のMacintosh Classic (だったような?) によるインスタレーション作品として展示されていたことを憶えています。
しかし、稲垣足穂「タルホ・フューチュリカ」は、発売当時に買いそびれてしまい、その後、時々、Yahoo!オークションなどで検索してみても出品されることもなく、入手することは半ば諦めていました。そんなある日、ふと、ボイジャーに問いあわせてみてはどうかと思いつき、メールで尋ねてみたところ、デッドストックをお譲りいただけることになりました。
古い電子書籍を、意図された形態で「読む」ことの困難
「タルホ・フューチュリカ」のパッケージには、「漢字Talk6.07以上、HyperCard 2.1Jが必要」と書かれています。Mac OS 8.6がインストールされた、手持ちのPower Macintosh G3/266で読みこんでみたところ、「オルドーヴル」はきちんと再生されました。ただ、以前にMacintosh Classicで「オルドーヴル」を見たときは、9インチのモノクロのディスプレイ全体にメモが表示されていたように思うのですが、現在の環境では、画面上の小さいウィンドウにメモが表示されるようになってしまい、やや貧弱な印象になってしまいました。
次に、「一千一秒物語」などのテキストを読もうとしたところ、目次の各タイトルをクリックしただけでフリーズするようになってしまい、テキストを読むことができません。コンピュータについては詳しくないので、どうすればよいのか見当がつかず、HyperCardのバージョンが2.4.1 playerであるのが問題なのかもしれないと考え、職場からHyperCard 2.1Jを探してきてインストールしたものの、症状は同じでした。
そこで、Mac OS 10.4が動いているMacBook Pro/1.83GHzに、SheepShaverというPower Macintoshのエミュレータをインストールし、「タルホ・フューチュリカ」を動かしてみました。この環境では、ふとした拍子にフリーズしてしまうものの、なんとかテキスト部分を読むことができました。しかし「オルドーヴル」は、読者の読む速度をある程度は反映し、時間をかけてゆっくり進行する作品なのですが、音が流れることなく、一瞬ですべてのメモが再生され、あっけなく終わってしまうという結果になってしまいました。
以前、コンピュータ音楽を主に手がけている作曲家の上原和夫氏にお話をお伺いした際、上原氏は古いコンピュータはOSもソフトもアップグレードせず、古い環境を購入時のままで使用できるように保持しているという意味のことをおっしゃっていました。下手に何かをアップグレードしてしまうと、過去のデータが読み込めなくなる。こんなことは、長年、コンピュータを使っている人には自明のことで、さまざまな対策が施されているものと思いますが、作曲作品としてのコンピュータ音楽は、楽譜としての作品が残らないケースも多く、データ自体が楽譜に相当することもあります。しかし、エミュレータを使用したり、プログラミングをやり直してしまうと、作品自体が別の作品へと変貌してしまう可能性も少なくないわけです。つまり、コンピュータ音楽における作品としての同一性を保持するためには、作曲した時点での環境を残しておくことが必須となる場合もあります。
「タルホ・フューチュリカ」という17年前の電子書籍を、意図された形態で「読む」ためには、古いMacintoshを常にメインテナンスした状態でキープし続けるしかないのかもしれません。今回の経験は、メディアを使用したさまざまな芸術作品と同様、電子書籍もいずれは消失し、厳密な意味では再演・再現不能になるという、当たり前といえば当たり前のことを、あらためて考えさせられる機会となりました。(拙著「日本の電子音楽」では、音楽作品の再現可能性について、さまざまな作曲家にインタビューをしています)
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