筑摩書房 チークマブログ

 古き良き下町情緒なんかに興味はない。老舗の居酒屋も、鉢植えの並ぶ路地も、どうでもいい。気になるのは50年前じゃなく、いま生まれつつあるものだ。  都心に隣接しながら、東京の右半分は家賃も物価も、ひと昔前の野暮ったいイメージのまま、左半分に比べて、ずいぶん安く抑えられている。そして建築家のオモチャみたいなブランドビルにも、ユニクロやGAPのようなメガ・チェーンにも、まだストリートを占領されていない。  獣が居心地のいい巣を求めるように、カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、本能的にそういう場所を見つけ出す。ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、パリのバスティーユも、そうやって生まれた。  現在進行形の東京は、六本木ヒルズにも表参道にも銀座にもありはしない。 この都市のクリエイティブなパワー・バランスが、いま確実に東、つまり右半分に移動しつつあることを、君はもう知っているか。

 カーナビの目的地を竹ノ塚駅東口にセットして、仕事場から北に向かって走り出す。

 都心のビジネス街を抜け、千駄木から日暮里あたりの下町エリアを抜けて、隅田川と荒川を越えて足立区に入ると、ランドスケープはとたんに表情を変える。というか表情を失う。

 ここはいわゆる下町でも、本来は商業地区を指すダウンタウンでもない。メガシティ東京の周縁。千葉や埼玉にかけてだらだらと広がる郊外の入口なのだ。シティ・カルチャーとサバービア・カルチャーがぶつかりあう、潮の目なのだ。そして海の潮の目がかならず豊かな漁場になるように、ここには東京都心にもない、谷根千みたいな下町にもない、独特のなにかがある。

 先週、この連載では竹ノ塚出身の女性ラッパーを紹介した。少し前に掲載した古き良きラジカセを甦らせるデザイン・アンダーグラウンドも、実は竹ノ塚をベースに活動してきた。東京23区の最北端に位置し、下層社会の縮図と言われて久しい足立区竹ノ塚とは、いったいどんな街なのだろう。いま、いったいなにが起こっているのだろう。


 区内総面積53.20平方キロ、東京23区の約9%を占め、大田区、世田谷区についで第3位の面積を有する足立区。総人口66万人あまり(23区内第5位)のうち、外国人登録者数が2万3000人あまり。そのうち3682人(平成21年度)にのぼるフィリピン人居住者数は、23区トップ。そして23区内の区民ひとりあたりの平均給与所得は23位。つまり最下位で、1位の港区の半分以下。犯罪発生件数(刑法犯認知件数)も23区でトップ。さらに経済的理由で就学が困難な児童に与えられる就学援助率は、千代田区の6.7%に較べて、足立区は47.2%! 児童のほぼ半分が援助を受けていることになり、これは全国の市区町村でもトップだ。

 そういう足立区は、23区内でいちばん都営住宅の戸数が多い団地の町でもある。区内をほぼまっすぐに縦断する東武伊勢崎線、つくばエクスプレス、それに2008年に開業した日暮里・舎人ライナーを除けば、バス以外にほとんど公共交通機関の存在しない土地。区内でもハブの機能を果たす竹ノ塚駅前ロータリーからは、各方面に向かうバスがひっきりなしに発着している。

 昼間、駅前に立って眺める竹ノ塚は、単なる地方都市の駅前風景となんら変わらない。バスとタクシーが溜まるロータリー。チェーン居酒屋と銀行の支店。高層マンション。それが夜になると、とりわけ西口の駅裏一角が、いきなり東京有数のディープな歓楽スポットに変身する。

 数ブロックの小さなエリアに、一説によればフィリピンパブが60軒あまり。そのほとんどが朝方まで店を開けているし、日本人の女の子を揃えたキャバクラもあれば、健康という看板があまりにしらじらしいマッサージ店もやたらに目立つ。新宿でもなければ、池袋でも錦糸町でもない。マスメディアからは下層社会の縮図、東京の底辺と呼ばれ、遊び人からはいまいちばんおもしろい遊び場として愛される、竹ノ塚という秘境。今週・来週の2回にわたって、その隠された魅力のすべてを事情通のおふたりに語っていただく。出版社を経営する比嘉さん、編集プロダクションのオーナー赤木さん。どちらもこの近辺で育ち、いちどは町を離れたのが、最近になって遊びに戻ってきたツワモノ。知る人ぞ知る、夜の冒険家だ。


都築 きょうは足立区で生まれ育ったご両人に、東京のサウスブロンクスとも東京のイーストLAとも呼ばれる(笑)竹ノ塚の魅力をたっぷり語っていただこうと、ご足労願いました。

比嘉 俺が生まれたのは、竹ノ塚のちょっと手前の五反野ってところなんだけど、最寄りの駅ったって、五反野まで歩いて30分あるし、梅島までも30分(笑)。

赤木 あのエリアって、陸の孤島ですよね。

比嘉 だから竹ノ塚は、チャリンコでよく遊びにきてた。ここってもともと人工的に作った町、モデルタウンなんだよね。

赤木 そうそう。東京オリンピックの時代に、足立区に都営住宅がたくさんできて、低所得者が集まったみたい。

比嘉 もともと北千住は宿場町で、西新井は西新井大師があったけど、それ以外の足立区って、とってつけたような……。

赤木 なんもないんですよ。僕は北区の十条で小学校2年まで過ごして、竹ノ塚に引っ越してきて。それはカルチャーショックでしたねえ。十条は下町っぽい活気があったのに、こっちに来たら田んぼと畑しかないんで。田んぼと畑と、都営住宅。

比嘉 ここらへんみんな、まわりは畑ばっかり。

赤木 比嘉さんなんて、雨になるとイカダで学校行ってたんでしょ(笑)。

都築 うそ!

比嘉 台風来ると床下浸水しちゃって、下水とかなかったからさ。家の前がみんな川状態になって。雷魚の一本釣りとか、鯉とかも釣れる(笑)。亀とか、蛇も泳いできて。

赤木 雷魚のいる川が、この先にあるんですよ。毛長川(けなががわ)っていう。

比嘉 食ってたよね。

赤木 食ってました。

比嘉 ザリガニとかも食ってましたよ。

赤木 イナゴも、よくみんなで採りに行って、家で佃煮にしたり。東京なのに。

比嘉 駄菓子屋で売ってるスルメを餌にして、雷魚を釣るわけです。ザリガニもね、マッカチ。

赤木 そう、マッカチ!

都築 なんですか、それ?

比嘉 真っ赤っかなザリガニなの。「今日はマッカチか」とか言って。

赤木 いろんな種類があるんですよ。アメリカザリガニとか、マッカチとか。

比嘉 それは遊び兼オヤツ。焼いて食ったんです。考えてみれば、寄生虫だらけだよね。よくあんなの食ってたな。あと、蛇も平気でいたね。蛇がプールで泳ぎまくって、水泳大会中止とか(笑)。

赤木 肥だめもあったし。牧場とか牛の牛舎とか、最近までありましたから。

比嘉 東京オリンピックのときに、環七を通したわけですよね。それまでは足立区って、道路なんか目茶苦茶だったと思うんですよ。覚えてるのは環七が開通したときに、小学校の授業が休みになって、環七の沿道にずらーっと並ばされた、「いまから車が来るから」って、何時間も。でも来ないんだよね、車が。倒れるヤツが続出して(笑)。それでやっと車が通って、みんなで感動して……そのあとに、聖火ランナーが通るようになって、それから若干変わったと思うのね。それまでは、ほんとうに田舎ですよ。原生林!

赤木 僕が小、中学生ぐらいのときに、初めて高速が通ったんですね。荒川土手の(首都)高速が。そのときも区民が開通の前に、みんなで開通式でマラソン大会やって「足立区に高速道路ができた!」ってやってました。

比嘉 駅前の団地はずいぶん古くからあったけど、あとは『巨人の星』の飛雄馬が住んでるような、長屋の住宅がずうっとあったな。

赤木 駅裏のあたりは、ぜんぶそうでしたよ。田んぼと長屋。で、舗装されてないんです。

赤木 で、交通機関は日比谷線、東武線しかない。

比嘉 あとはバスとチャリンコ。

赤木 駅までバスで40分とかいうエリアありますからね、花畑(はなはた)とか。しかもバス停まで歩いて20分とか。そんだけ歩いて、バスに乗って40分ゆられて、そこから電車乗って都会に行くという。

都築 その当時の小学校とか、中学校とか、どういう感じでしたか。やっぱり荒れてた?

比嘉 荒れてたっていうか、まず読み書きできない奴が、ふつうにいたね(笑)。自分の名前さえ言えないような奴とか。よく覚えてるのは、特殊学級みたいのがあるんですよ。花畑のほうに養護学校があって。で、ある日突然、なんとか君がいなくなっちゃうんだよね。そうすると、あぁやっぱり養護学校に行かされたんだなぁって。

赤木 クラスに5人くらいはいましたから、そういう子が。だから、もうちょっとであっち行かなくちゃなんないからって、みんなで応援してあげたり。

比嘉 俺もぜんぜん勉強しなかったから、次はもしかしたら俺かなって心配したことあるの。それで子供ごころに危機感というか、ちゃんと勉強しないとヤバいのかな、と思って。頭にずうっとチューインガムくっつけてるヤツがいたし(笑)。そいつ、3年間くらいずうっとチューインガムつけてたんですよ!

都築 そういう環境がほかとちょっと違うというのは、いつごろ気づいたんですか。

比嘉 完璧にカルチャーショックを受けたのは、高校行ったとき。高校受験の前に、体育館に集められたんです。それで先生に「おまえらは頭が悪いんだぞ」って言われるわけ。「点数とれないからな、おまえらは」って。希望の学校に行きたくても、まず点数はとれないから、内申書をすごく上乗せしてやってるんだから、よく覚えておけと。だから高校に入ったら、自分がバカだって痛感するぞって(笑)。そんなこと言われてもさ、わからないじゃん? 言われたことないし、足立区しか知らないんだから。せいぜい北千住ぐらいしか行ったことないでしょ。で、やっぱ高校入って痛感したのは、まずみんな頭いいんです。びっくりするんですよ、ホントに。高校に受かると、入試が何点で入ったのかって教えてくれるんだけど、俺は3教科で300点満点の150点か160点くらいだったの。台東区とか中央区とか、千代田区の奴とかも来てるのね。そういう奴らは300点満点で、250点くらいで入ってきてる。じゃあ、なんでおれたち入れたのかって考えたときに、先生の言ってた内申書ってのがホントだったんだなってわかった。内申書がなかったら変な話……学校、行かれないですよ。

都築 だって比嘉さんは、クラスの中で特に成績悪かったわけじゃないでしょ。

比嘉 けっこうよかったです。俺、めちゃくちゃ勉強したんですよ、中学3年生のときに。なんでかっつったら、進学か就職かって選択があったの。それで、うちの近くに渡辺紙工場っていう、でかい紙工場があった。それとお菓子屋さんの工場。そこに就職するしかないだろう、お前は、みたいなこと言われるわけ。先生にも、両親にも。俺、イヤだなあ??と思ったね。子供心に、人生これで終わっちゃうのかなあって。中3にして。で、もがいたわけです。一生懸命勉強して、なんとか高校に入れたんだけど、入ってから痛感したのは、全然教育レベルがちがう。数学にしろ物理にしろ、英語にしろ、奴らが学んでいることを、俺たちはまだ学んでなくて。奴らの中1が、俺らの中3。それくらい学力が低いんです。まあ、あとになってわかったんだけど、結局足立区って教えるほうも、意欲のある先生がなかなか来たがらないんだね。

赤木 それ、みんな言いますね。

比嘉 低所得者多いし、交通の便も悪いし。だから先生も、落ちこぼれになっちゃうんだよね。

赤木 僕の時代はそこまで学力差はなかったかもしれないけど。でも通った小学校が、超奥地だったんです。ここからバスで30分くらいの。小学校2年でそこに行って、まず足立区ってヤバいなって思った。十条は下町なりのカルチャーも、コミュニティもある。こっちはもう団地しかなくて、すごい乾いてるんです、町が。さらに、そのころ学校の8割くらいが生活保護家庭で。給食費はなくなるし。小学校の時代から、クラスの中で盗む、盗まないが始まるんすよ。それでヤバいなと思って、中学校は駅の近くの中学に行ったんですね。そこで、足立区内でも格差があるのに気がついた。駅の近くのエリアと、歩いて30分のエリアと。小学校でふつうだったことが、駅前の中学で通用しない。ジャージのブランドとかにしても、駅前の学校はみんなアディダスとかナイキとか。でも駅離れの学校だと、お母さんにヨーカドーで買ってもらったジャージとかで(笑)。

比嘉 文化的なものは、まったくなかったですね。マンガ本一冊買うにも、俺んとこには本屋がなくて、北千住まで電車で行かなくちゃいけない。北千住まで電車で行くったって、五反野から1時間以上かかるから。駅まで歩いて30分、そっから電車でしょ。北千住の駅前にある本屋さんまで行かないと、本も買えない。ビートたけしがよく漫才で『誠商会』って言ってたんだけど、あれが足立区の奴には琴線に触れるわけです。誠商会ってレコード屋さんなのね、北千住の。その誠商会まで行かないと、レコードが買えない。いくら足立区が低所得だからっていっても、テレビくらいあるわけじゃない、だれかの家に。それにラジオはあるでしょ。で、たとえばベンチャーズが流行ったときとか、GSとか、レコードが欲しくなったときに、わざわざ北千住まで行って買う。そうすると北千住には、イトーヨーカドーみたいなスーパーがいっぱいあるわけ。屋上にスマートボールとかあって、それやってると、地元の悪い奴が来て、ヤラれるのね。北千住の奴にボコボコにされたりして。そこまで決死の覚悟で行かないと、レコードも買えない。要は戦場をくぐりぬけるみたいに行くわけです。ただ、貸し本屋さんは近くにあったのね。俺はマンガが好きだったんで、水木しげるとか。それでマンガをすごく読んでたのが、のちのちの俺の人生を決めたというか、紙工場やお菓子屋に行かなくて済んだという(笑)。

赤木 僕のまわりも、みんなそうです。僕以外、みんな紙工場。地元の友達はみんな、トラックの運ちゃんか、製本屋とか段ボール屋とか。

比嘉 ベニヤ板工場とかさあ。そんなんばっかりなんですよ。それって、子供でもね、夢がないって思うじゃないですか。

都築 そういう環境から抜け出そうというひとは、比嘉さんや赤木さんみたいにたくさんいたんですか。

赤木 ほとんどいないんじゃないですか。

比嘉 でも俺の場合は、出たくなかったんだよね。やっぱり愛着あるじゃない。ただ、俺が住んでた都営住宅という名前のずらーっとした長屋が、再開発に伴う建て替えでぜんぶ潰されちゃったんです。環七と国道四号との交差点の、いまドンキホーテになってるとこ。で、新しい団地にするので、そのあいだ一時的にどっか移れって言われて、うちは早稲田に。要するに都営住宅から都営住宅に移れ、と。それで早稲田に引っ越してきたのが、15歳か16歳なんですけど、前の晩はね、俺、泣いたんですよ。出たくないの。だって友達もいるし、愛着はあるし……なんだかんだ言ったってさ、居心地いいっちゃ、いいんだよね(笑)。まわりから見ると、えーっとか思われるかもしれないけれど、そこは住めば、ね。

都築 どこらへんが特に、居心地のよさを感じるんですか。

赤木 がんばんないでいいっていうか、だらしない。

比嘉 だらしないよね(笑)、すっげー。

赤木 すべての未来が見えるんですよ。自分と同じような成績だったおっちゃんは、近所の工場で段ボールゆわえてる、と。きっと月に28万くらいもらって、好き勝手やってると。それくらい人生見えてくるんで、なんか安心なんですね。ほかにがんばる必要ないし、背広来てる人もいないし。で、飲み屋はぜんぶ安い。女遊びしたかったらキャバクラも安いし、ピンクも安いし。抜けられないんですよね、そのゆるさから。

比嘉 僕は(早稲田に)いやいや移ったでしょ。で、1日目で、もう足立区に戻りたくないって思った(笑)。こんなに違うんだっていう驚き。(足立区は)ガキの不良が多いじゃないですか。喧嘩も多いし。一歩出たら、やんなきゃならないみたいな雰囲気って、あったよね?

赤木 ガンをつけるとかつけないとか、目が合ったらまずいとか。合った瞬間に動くんで。

比嘉 いつもドキドキしてた。それが早稲田に引っ越したら、なんと平和な(笑)。ガラがいいんだね。あと本屋さんもあるし、駅も近いし。

都築 あの涙はいったい……(笑)。

赤木 僕は逆に、足立区がイヤだったんですよ。十条で育ったんで、都会の下町ってわかるんだけど、足立区ってあまりにも団地が多くて乾いているんで。町の雰囲気もないし、優しいオトナもいない。みんなぎすぎすしているんです。団地だから、つきあいもない。だから僕は18歳のときにすぐひとり暮らしを始めて、20歳くらいで町を出ちゃいました。北区に行って、それから代官山(笑)。あと、親に刷りこまれた部分もありましたね。十条からこっちへ移ってきたときに、親としては都落ちだと思ってたらしくて。都営住宅に入ったんです、事業に失敗して。だから足立区の悪口ばっかり言ってましたよ、「こんな田舎に来ちゃって、俺たち」みたいな。それをずーっと聞かされてたんで。ま、親はけっきょくこっちに家買っちゃって、いまだに住んでるんですけどね(笑)。

都築 足立区の中でも竹ノ塚っていうのは、特別なところがあるんですか。

赤木 竹ノ塚は、足立区ではターミナル駅のひとつなんですよ。ロータリーがあるじゃないですか。バスが、東京駅からいろいろ各地に出るみたいなもんで。要するにこのロータリーが、ぜんぶ駅なんです。ここから各地に散らばっていく。花畑や八潮のほうに行ったり。だから繁華街なんです。ここで飲んで、バスで帰る、そういう世界。東口からは(埼玉県の)西川口とか鳩ヶ谷まで、バスが出てますし。

比嘉 そういう意味では便利だけど、でも東京の中心部へは行きにくい。ここから新宿ったら、えらいことだし。

赤木 だから荒川を越えるのに、みんな精神的なハードルを抱えてるんです。荒川って、すごい壁なんですよ。自転車で行っても坂だし。電車に乗っても荒川までの道のりって、けっこうあるし。東京に入って行くんだな、という感じで。東京に行くための服を僕ら、わざわざ買いましたよ!

比嘉 ああ、そうそう。わざわざアメ横に行くための服を買った。

赤木 足立区のひとって、荒川を越えるときは服が違うんです(笑)。

比嘉 (自分たちが)どんくさいって、わかってるんだよね。

都築 逆にいえば、それが居心地がいいってことなのかな。

比嘉 楽なんですよ。出世したひとって、あんま見たことないし。スーちゃん(田中好子)ぐらい?(笑)

赤木 キャンディースのスーちゃんは、足立区のヒーローですから。荒川のこっち側で、釣り具店をやってたんですね。スーちゃんの家って、足立区民はみんな知ってるんですよ。日光街道を通るときにかならず親が言いますから、「ここがスーちゃんの家だ」って。近所のおじさんとかも教えてくれる、ここがそうだよって。

比嘉 あとはビートたけしが、自分は梅島出身で足立区、足立区って言うようになって、足立区民としてはちょっとうれしかった。

赤木 けっして、よくは言ってないんだけどね。

比嘉 でも、たけしは足立区の中では裕福ですよ。足立高校っていう進学校を出て、明大まで行ってるしさ。

都築 そうすると最近、佐野眞一さんをはじめ、マスメディアで足立区の悲惨さ、みたいなのがけっこう報道されてるでしょ。この土地で育った人間としては、あれはけっこうリアルな感じでしたか。

比嘉 そうかもね。でも俺としては、悲惨って言えば悲惨だけど、そうじゃない側面もあると思ってるからさ。足立区にいる奴って、みんな足立区を出たがっているかというと、そうじゃないし。

赤木 だって、僕の同級生たちだって、みんな足立区から出ないですもん。

比嘉 正直言って、足立区の悪口をね、足立区民どうしでやるんならいいけど、たとえば中央区の奴らに言われたら、オマエふざけんじゃねえ、となる。それはあります(笑)。

都築 ネガティブにとらえればきりがないけど、安いから、いい加減だからこその居心地よさもあるしね。

比嘉 だから竹ノ塚あたりのフィリピンパブでぐだぐだしているオヤジたちは、別に竹ノ塚を出たいともなんとも思ってないと思うのよ。

都築 そういうひとたちが、足立区のよさを実はいちばんわかってるのかもしれない。

赤木 足立区ってとりあえず、なんでも揃っちゃう。洋服も家具も、巨大なショッピングセンターみたいなのがあって。だから出る必要ないんですよね。日常生活でも、みんな荒川を越えないですから。休みの日も、北千住どまり。北千住行って買い物して、御飯食べて帰ると。

都築 そうすると、北千住だけが別格なんでしょうか。

比嘉 そうですよ。だから北千住のヤツは、足立区って言わない。俺ら、北千住って(笑)。

都築 そうなんだ(笑)。

比嘉 言われる俺たちも悔しいけどね。

赤木 だいたい荒川越えてますから。あそこはもう、足立区じゃないんですよ。

比嘉 そういえば、足立区は銭湯が多いんだよね。前にうちの雑誌に、廃墟に住む女子高生っていう投書があったんです。潰れた焼肉屋の上に私たちは住んでいるから、取材に来てくれと。カメラマンの奴が、東京都内にそんな格差あるわけないって言うから、じゃあ取材に行こうってなって。それは綾瀬なんだけど、ほんとに潰れた焼肉屋。その上に住んじゃっているの、勝手にそいつらが。3人くらいかな。スケボーやったり、ふつうの女の子が楽しそうに暮らしてるんだよね、で、写真撮って取材して、「君たち、将来の夢ってなあに?」って聞いたら、「うん、お風呂のある家に住みたい!」って……(笑)。それって、たった10年くらい前の話ですよ。だから俺が住んでたころの足立区像と、あんまりズレてないんだね。全部が全部そうじゃないけれど、やっぱり貧しい部分はけっこう残ってる。

都築 そういう、子どもなのに毎日が戦闘モード、みたいなところで育って、それがイヤですっかり離れて、いま20年ぶり、30年ぶりに戻ってくる。それも住むんじゃなくて、遊ぶために戻ってきたというのも、なかなかオツな展開ですねえ。

比嘉 俺はフィリピンパブのおかげで戻ってきたわけですが(笑)。フィリピンパブといえば蒲田もメッカなんだけど、じゃあ蒲田行くかって言われたら、同じ労力使うならこっちに来ちゃう。それは、やっぱり(竹ノ塚が)DNAの中に入ってるということもあるんだろうし、なんといっても遠いでしょ、ここは。だからいいんですよ!

都築 そうなの?

比嘉 だって蒲田や小岩じゃ、行きやすいでしょ。ここに来るのは、ちょっとした小旅行気分だからね。旅行感がある! これで温泉あったら、完全に地方都市ですから。

都築 いまじゃ都心から半蔵門線で一本なのにね、表参道や渋谷と直結してるし。

比嘉赤木 えーっ、半蔵門線、乗り入れてるの!? 知らなかった…。

竹ノ塚駅前・日本海庄やにて収録



というわけで足立区の秘められた魅力(?)を、たっぷり語ってくれたご両人。来週はいよいよ、竹ノ塚のディープな夜を徹底ナビゲートしてくれます。乞うご期待!

著者近影

都築 響一1956年、東京生まれ。現代美術、建築、写真、デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』刊行。96年、日本各地の奇妙な新興名所を訪ね歩く『珍日本紀行』の総集編『ROADSIDE JAPAN』により第23回木村伊兵衛賞を受賞。 97年〜01年『ストリート・デザイン・ファイル』(全20巻)。インテリア取材集大成『賃貸宇宙』。04年『珍世界紀行ヨーロッパ編』、06年『夜露死苦現代詩』、『バブルの肖像』、07年『巡礼』、08年『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』など著書多数。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続行中。