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突然、ガチャリと音を立て、事務所のたてつけの悪いドアが開き、初夏のうんざりするような熱の篭った風が吹き込んだ。
池袋北口周辺にある雑居ビルの一階……、ガラの悪い組員数人がたむろしている事務所のテーブルに大きく足を広げて陣取り、今日……2025年6月7日のスポーツ新聞、競馬欄を熱心に読んでいた木田は、突然吹き込んできた風に舌打ちをしながら顔を上げ、そして少し驚いた。
「なんだテメェ……」
木田の口から、ドスの効いた低く迫力のある声があふれだす。
――今から15年ほど昔の事、2010年に起こった日中動乱により治安が悪化の一途を辿ったこの場所、池袋北口周辺。犯罪発生率は13年連続で日本ワースト1、しかも発生件数記録は毎年うなぎ上りに増加している。
木田達のような武闘派ヤクザを筆頭に、狂信系宗教組織、中国系マフィア、新・新共産テロリスト、ドラッグジャンカー、ネットギャングが多数潜伏し、なかばスラム街と化したココに、全く似つかわしくない侵入者の姿。
「ああ!? なんだオメェはよっ、ラリッってんのかっ!? 学生風情が、殺されてえのか?」
木田の周辺でたむろっていた若い組員が一斉に立ち上がり、ドアを開けた姿のまま立っている侵入者を取り囲み、口々に怒鳴り声を浴びせかけ始める。恐怖にすくんでいるのか、何も問いかけに答えないその男を、木田はジッと睨みつけた。
――最近では、あまり見なくなった平凡な黒い学生服……いわゆるガクラン姿。まだガキ……17歳ぐらいで、身長は175センチ、体重は70キロあたりだろう。相手の戦闘能力、武道経験を瞬時に見極めてきた木田の眼が、ガキの全身を値踏みするように見つめ続ける。骨格は華奢なように見えるが、それをカバーするように筋肉をつけている……特に足は鍛えられた筋肉で覆われているが、武道というよりもスポーツ選手のような体型。
「お前ら、落ち着け……、で? ウチに何の用だ、ガキ。いい度胸だがよ、知り合いでも探してんのか? ハハッ」
いきり立っている部下のチンピラを手で制しつつ、木田は低い声をあげた。日本での治安神話が崩壊し、犯罪の低年齢化、凶暴化が進みつつある昨今……高校生、中学生のガキが徒党を組み、ヤクザやマフィアの指示に従い、押し込み強盗、集団暴行を行うのも珍しくなくなっている。
このガキもウチの事務所にそういった関係の知り合いがいて、ソイツを尋ねてきたのか? 木田はそう考えながら、ソファーからゆっくりと腰をあげようとした。
「……これで全員か?」
木田の質問を無視するように、ポツリ……と学生が呟いた。周辺で睨みつけるチンピラ達など存在しないもののように、平然と事務所の中に足を踏み入れ、ドアを後ろ手に閉める学生。カチャリ、と音を立て、ドアが閉まる。
「テメェ!? 兄貴が質問してんだろうがっ」
血気盛んな部下、千嶋……というチンピラが学生の襟元を掴みあげる。千嶋は木田が直々にスカウトした構成員で、かつて柔道でインターハイにも出場したことのある男。身長185センチ、体重100キロを越す巨漢。ステロイドを使い、事務所の中でも筋肉トレーニングを欠かさないその筋力は、ベンチリフトでは200キロを超える。
学生の襟を掴んだまま、左手一本で軽々と空中に持ち上げ、ドスの効いた声で凄む千嶋。周囲のチンピラ、そして木田もその様子を見てニヤニヤと笑った。大方、自分に度胸があると勘違いし、アポも取らずに自信満々で尋ねてきたガキだろうが、これでアマチュアと素人の差を自覚しただろう。
すっかり怯えきったか、無言のまま空中に持ち上げられたままのガキの姿を見つつ、木田はそろそろ助けてやろうか……と口を開こうとした時。
「……これで、全員なのか?」
ポツリ……と少年の口から、再び同じ問いかけがこぼれた。空中に持ち上げられているにも関わらず、先程と全く同じ声色……動揺している様子など微塵も無い。まるで木田たちなど眼中に無い、といった平然とした雰囲気の声に、持ち上げている組員……千嶋の顔色が怒りで真っ赤に染まった。
「舐めてんのかッ!!」
ブンッ! と風を切る音を立て、千嶋のコブシが捕えたままのガキの腹へ目掛けて振るわれる。木田がスカウトした当時、違法なステロイドの副作用からかキレやすかった千嶋は、腕っ節にまかせて何人もの一般人に対し通り魔的な撲殺を繰り返していた。千嶋のストレートを腹に受ければ、それだけで内臓破裂は免れない……面倒な事になる、と木田は制止の声をかけようとした。
「うがああああああっっ」
だが一瞬後、立ち上がった木田の目前で、悲鳴を上げながら苦痛で床を転げまわっていたのは、巨漢の部下、千嶋だった。何をされたのか解らない……が、千嶋のごつい背中には、痛みからなのか汗がベットリとTシャツに張り付き、左腕を抱くようにして悶絶している。
「テメェ!? 何しやがったっっ」
周囲を取り囲んでいた木田の部下、三人が殺気だった様子でそれぞれの手に武器を持って学生に襲い掛かる。一人は木刀、もう一人は伸縮式の警棒、最後の一人はギラリと抜き身で輝くドスを持っていた。全員が暴力沙汰に慣れきっており、相手を殺すことに何の躊躇もない。舐めた学生を、殺してもいい……といった勢いで、全員が襲い掛かる。
「ぎゃあっ!!」
しかし、木田の目に映ったのは予想とは真逆の光景だった。
――木刀を持った部下が、上からその刀身をガキの頭目掛け思い切り振り下ろす……と見えた瞬間、木刀がヒットした位置にいたのは、ドスを持って突進していた他の部下の頭。ボゴリッという不気味な音とともに、ドスを持ったチンピラが床へと崩れ落ちる。
――警棒を持ったチンピラが、ガキの胴を横から殴りつけるように腕を振るった……その先には、何故か木刀を持った同僚の背中があった。骨が折れる鈍い音を立て、また一人の部下が床へ虫のように這いつくばる。
そして……、呆然とした表情で己が振るった警棒の先を見つめているチンピラの腹部には、いつのまにか抜き身のドスが突き刺さっていた。
「うぎゃああああっっ」
腹から真っ赤な血が周囲に飛び散る。ドスが刺さったままの腹部を抑え、バタバタと苦痛にのた打ち回る部下。背骨を警棒で折られ、芋虫のように這いずり回っている部下。木刀で頭部を殴られ、無言で気絶している部下。
――その中央に、平然とした様子で学生が立っていた。
「なっ、なんだ……テメェ、な、何をしやがった」
木田は驚愕で震えつつも、ジャケットの内側から拳銃を抜き出した。掌がヌルヌルと汗ですべるが、しっかりとグリップを握り締め、学生へ銃口を向ける。
今から10年前の2015年、中国共産党崩壊による大量粛清、動乱を逃げた軍人による武器の横流しの為、東京では驚くほど安く拳銃が手に入る。木田が手に持っている『黒星』もそのルートで手に入れた物だった。通常、粗悪品だらけの横流し品。だが、数度にわたる使用、メンテナンスによってそれは木田には頼もしい相棒になっており、事実、木田はこの『黒星』で10人以上の命を奪っていた。
「今から5年前……。2020年の夏、千葉の国道で4人組みの家族をさらったな? 誰の指示だ?」
「な、何を言ってやがる?」
銃口を向けられつつも、全く顔色を変えず平然と問いを投げかける学生。その抑揚のない口調が、逆に木田の背中に鳥肌を生じさせた。じっと木田を睨みつける眼光……、足元で苦痛に呻いているチンピラの事など全く気にせずに、ゆっくりと足を進めてくる学生。
木田は唾を飲み込みながら、しっかりと銃口の先をガキの胴体へと向け続ける。
「家族をさらっただと? そんなの多すぎて、いちいち覚えてなんかいねぇよっ!」
怒鳴り声を上げつつ、木田は銃口がブレないように優しく引き金を引き絞った。ガンッという鼓膜に響く音、しっかりと握り締めた手首に響く重い反動……その衝撃が、恐怖を感じ始めていた木田の精神に火をつけた。口から意味不明な言葉を叫びつつ、何度も木田は引き金を引き続ける。
「死ねッ! ガキが、舐めやがってっ、そんなの知るかっ。死ねっ、死ねっ、死ねっ!」
繰り返される轟音、そして硝煙の匂いが昇り、薬莢が事務所の床へ澄んだ音を立てながら散らばる。目前に見える学生服の腹部へと、木田は躊躇なしに何発もの銃弾を叩き込んだ……はずなのに、学生はピクリともせずに木田の前へと立っていた。
呆然と眼を見張る木田。この距離で自分が外すなど考えられない……なのに、学生には血はおろかガクランに傷さえも着いていなかった。
「ひっ……、ば、化け物か」
正面に立っている学生……怯えきった木田は、それでも殴りかかろうと右手を振り上げる……が、その瞬間、腹部に凄まじい激痛が走った。
「うがぁあああっっ」
腹部をおさえつつ、もんどりうって倒れる木田。腹部を襲う容赦のない痛み……何もされていないはずなのに、それはまるで最初に倒れた怪力の部下、千嶋のパワーで殴られたかのような打撲。内臓が破裂してしまったと思える激痛。胃液を口から逆流させつつ、端も外聞もなく木田は床を転がり続けた。
「……誰の指示だ?」
「うぎゃあああああああっっ」
転がりまわっていた木田の腹部へ、少年の足が乗せられ。ゆっくりと体重がかけられていく。ミシミシと音を立ててきしむアバラ骨。胃が破裂してしまったのか、木田の口から黒い血があふれだし床へ零れ落ちる。
「……お、覚えてねぇ、ほ、本当だ、うがぁああああっっ」
木田は必死で少年の足から逃れようと足掻きながら話した。だが、ガキが履いている平凡なスニーカーは、木田ののた打ち回るカラダを予測しているかのように上から離れない。それどころか、恐ろしい圧力を腹部へと加え続ける。
「……思い出せ。父、母、高校生の少女、少年、計4人をさらっただろう。キサマの顔……この5年間、一度も忘れた事は無かった。……誰の命令だ? あの研究所の場所はッ!? さっさと答えろっ!」
ブチブチという不気味な音を木田の内臓が立てる。失神しそうな激痛で脂汗を流しながら、木田はようやくかすれ声を搾り出した。
「わ、わからねぇ。アレは本家の指示で行ってただけだ。そ、そこに、そこに、本家の場所が書いた手帳がある。か、勝手にテメェで行って訊いて来いや。も、もういいだろう? は、早く足をどけてくれ」
弱々しい木田の声。その哀願がようやく少年に届いたのか、彼はスッっと足を木田の腹部からどけた。
そのまま、振り返り事務所の出口へと足早に進んでいくガキの背中を、木田はじっと睨みつける。
(ゆるさねぇ……。絶対に許さねえぞ。防犯カメラで顔、制服のボタンから住所、名前、全部調べだして……。、家族、友人、恋人、親戚……ヤツの関係者全員を地獄に落としてやる)
燃えるような復讐の念に、木田の脳は沸騰する。とりあえずこの場は良しとしよう……だが、数日後、必ずこの落とし前はつけてやる。黒々とした思いを隠しながら、木田は口に溜まった血と胃液を床へと吐き出した。
出口に立つ学生……ガキはドアを開け、木田達の事など忘れたかのように出て行こうとしている。
「……そうだった」
事務所から出て行こうとしていたガキ。ソイツは背中を見せながら、ポツリと呟くように口を開いた。
「キサマがさっき撃った拳銃の弾は、全部で5発。ピッタリだな」
意味不明なセリフを言い放ち、悠々とドアから出て行く後姿。それを確認した瞬間、木田は大声を張り上げた。
「てめぇらっ、何グズグズしてやがる。シャブでも何でも食って、さっさと起きねぇかっ!」
ヨロヨロと立ち上がり、ソファーへと腰掛ける木田。床で倒れていた部下の千嶋などのチンピラ達も、それぞれのカラダを支えあって、ゆっくりと身を起こしだしている。
ズキズキと痛む腹部とそれをはるかに上回る屈辱……苛立ちのあまり、木田は拾った拳銃のグリップをしっかりと握り締め、ふと考えた。
(あのガキ……、変な事を言ってやがった。撃った拳銃の弾が5発でピッタリだと。何が『ピッタリ』なんだ……何の意味もねぇのか? ただのキチガイか)
床へ何度も血まみれの唾を吐き出し、木田は首を回した。よろよろとしている部下達の姿が視界に入り、コイツラに先程の自分を見られたかと思うと無性に腹が立つ。いや、そもそも、コイツラが何の役にも立たなかったのが悪い。
油断があったとしか思えない。自分を含め、武器を持ったヤクザが5人そろってあんなガキに……。
(あん? 5人そろってだと?)
『――全部で5発。ピッタリだな』
木田の耳に蘇る、ガキの不吉な低い声。何か……不気味な予感がする。木田は急いで立ち上がり、部下達に指示を出そうとして……まるで銃を頭に食らったかのように、突然ひっくり返る千嶋の姿を見た。
「なっ、どうしたっ!?」
ピシャ……と木田の顔に熱い何かが降りかかる。真っ赤な色、鉄の味を持つ、熱い液体。
「ひっ、ひぃぃぃぃ」
事務所の中に、誰のモノともつかぬ悲鳴が響く。いきなり倒れこみ、血しぶきをあげている千嶋の額……そこには拳銃で撃たれたような黒い穴がポッカリと開いていた。
「ど、どこだっ!? どこから撃ちやがったっ!?」
部下の泣き声のような悲鳴を聞きながら、何故か木田はボンヤリと先程の自分の行動を思い出していた。
――たしか、あのガキに向かって最初に一発撃った。それで調子にのって、続けざまに四発撃った。
「ぎゃっ!!」
怯え声を上げていたチンピラ達が、木田の目の前で次々に斃れていく。額にポッカリとした黒い穴を開け、そこから真っ赤な血を噴出しつつ……。
「あ……」
パンッという乾いた音が木田の鼓膜を振るわせる。それは、自分の額にある頭蓋骨が割れる音だと……直感的に木田には解った。見る見るうちに暗くなっていく視界。
ガラスで出来た豪華なテーブル目掛け、額に黒い穴の開いた木田の死体が、勢い良く倒れこんだ。