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    松本清張が直観したもく星号墜落事故におけるアメリカの陰謀を振り返ろう

    もく星号墜落事故

    もくじ

    1. 小原院陽子と紛失ダイヤ
    2. リード大尉と紛失ダイヤ
    3. 長崎県のマスコミのインチキ情報操作


    Wikipedia「もく星号墜落事故」から

    もく星号墜落事故が発生したのは1952年4月9日早朝の羽田発名古屋・伊丹経由福岡行きの便で、 羽田を午前7時42分に離陸したもく星号は直後に消息を絶ち、 翌日の朝に同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認された。

    松本清張は、「1952年日航機撃墜事件」で、この事件を詳しく調べている。 インターネットで調べても、当時の資料は松本清張の本以外は皆無であり、 政府や新聞などが残した詳細資料はないと思われる(当時の記事のみ)。

    松本清張と言う個人の力の素晴らしさと同時に、政府や新聞による事実の記録がいかに当てにならないかが分る。

    小原院陽子と紛失ダイヤ

    烏丸小路万里子こと小原院陽子のこと

    烏丸小路万里子と言うのは、「もく星号」の犠牲者の中では唯一の女性である。 烏丸小路万里子は仮名で、小原院陽子が本名らしい。

    小原院陽子は、ジョンソン基地のリード大尉と組んで、米軍が日本銀行から盗んだダイヤを日本各地の米軍基地のPXで売りさばいていたらしい。

    小原院陽子が、1952年4月9日早朝の羽田発名古屋・伊丹経由福岡行きの便の「もく星号」に搭乗したのは、 福岡の板付基地に盗んだダイヤを運ぶ予定があったからだ。

    当時から、日本航空は、知ってか知らぬか分らぬが、アメリカの悪事の片棒を担いでいたようだ。 当時の米軍の情報操作に日本航空が加担した疑いもある。

    米軍機に撃墜された「もく星号」

    当時の「もく星号」の機長と管制塔(埼玉県入間のジョンソン基地)とやりとりは、米軍の拒否に会い提出されていないが、 次のような米軍に都合の悪いやりとりがあったとされている。

    当時、もく星号の航路の高さである6000フィート付近には、 10数機の米軍機が西の方から飛来し、大島上空で左旋回をして北上しようとしていたので、 管制塔(入間のジョンソン基地)から、館山を通過後10分間は2000フィ−トで飛べと指示されていたのである。

    機長:高度2000でA3を飛行、館山よりG8
    入間:G8付近は演習中、館山より10分間南へ飛べないか
    機長:ラジオビーコンだけが頼りだ。南へは飛べない
    入間:了解。ただし高度は2000フィートを維持せよ
    機長:通常は6000だ。低すぎないか
    入間:上に複数の空軍がいる。差木地の真上を飛べば大丈夫
    機長:了解。その指示に従う
    
    機長:7時57分館山通過。G8へ8時7分差木地予定
    入間:了解
    機長:雲中で盲目。至近距離に空軍がいて危険だ
    入間:彼らは友軍だ。心配ない
    機長:ガッデム、機銃掃射をしやがった
    入間:大丈夫か
    機長:右翼にショックがあったが、大丈夫のようだ
    入間:それは良かった。空軍に早速抗議する
    機長:間もなく差木地だが、少し右に寄っている
    入間:三原山に注意しろよ
    機長:わかっている。進路を修正する。右に傾いているがなんとかするよ
    入間:大丈夫か
    機長:左旋回しているが、うまく回らないんだ
    入間:大丈夫か
    機長:アッ!目の前に山がある。オー・ゴッド!
    入間:どうした。応答せよ
    機長:・・・・・
    

    ところが、10数機の米軍機がもく星号を敵機(北朝鮮機または中国機)と見做して、機銃掃射をかけてきて「もく星号」の右の補助翼に当たったと言うのだ。

    米軍機に右の補助翼を撃墜された「もく星号」は、右へと進路が傾いた

    機銃掃射による右の補助翼の破損により、「もく星号」の進路は館山と差木地を結ぶ線より、 右方向に傾き始め、大島の三原山に向かうような形になって来たが、厚い雲に阻まれ機長は衝突の危機に近付いていることに気付かなかった。

    やがて、「もく星号」は高さ2500フィートの大島の三原山を避けようと左旋回しようとするが、 右の補助翼の損傷により、左旋回はできず、そのまま三原山に不時着のような形でぶつかったのである。

    そして、「もく星号」の右の補助翼は、ついに見つからなかった。 ジョンソン基地か米軍極東軍が派遣したヘリコプターが、銃撃の痕が残る「もく星号」の右の補助翼を回収したか、 銃撃の際に海に落下したものと思われる。

    厚い雲に阻まれて、機長は墜落直前まで三原山への衝突を予測できなかったので、 乗客や乗務員は安全ベルトをしていなかった。ビーコンを発する大島の差木地の上空に向かいつつあると誤解していたのだろう。

    リード大尉と紛失ダイヤ

    ジョンソン基地のリード大尉のこと

    入間のジョンソン基地のリード大尉は、烏丸小路万里子こと小原院陽子と組んで、 米軍が日本銀行から盗んだダイヤを日本各地の米軍基地のPXで売りさばいていたらしい。

    当時の米軍のGHQのESS(経済科学局)のクレーマ大佐と言う盗人がいて、1945年9月30日から翌10月1日にかけて、 装甲車で日銀を包囲し日銀から大量のダイヤを盗んだが、 米軍内部にはそれを売りさばく密売の闇流通組織があり、 入間のジョンソン基地のリード大尉はその重要人物であった。

    入間のジョンソン基地の幹部は、「もく星号」がどうなろうと知ったことではないが、 リード大尉と小原院陽子の持っているダイヤのことがバレるのを恐れた。

    そこで、東京地検特捜部の真似をして、マスコミを利用した情報操作を開始した。

    ジョンソン基地と米軍極東軍の情報操作

    まず入間のジョンソン基地と上層部の米軍極東軍がやるべきことは、「もく星号」が大島の三原山に墜落したことを隠蔽することである。 都合のいいことに、当時は低気圧の影響で悪天候であり、大島の三原山は雲に覆われており、 目撃者はいないと言うことであった。 事実を知っているのは、入間のジョンソン基地の管制塔だけである。

    米軍の管制塔は入間のジョンソン基地にあったが、米軍極東軍は横田基地(東京都昭島市)にあった。 入間のジョンソン基地の管制塔の報告を聞いて、「もく星号は、静岡県舞阪沖で遭難したが救助された」と言う情報をマスコミに流した。

    静岡県舞阪沖は、「もく星号」の航路上にあるが大島より遠いので、誰もが米軍の発表に騙される訳であり、 マスコミや関係者も大挙して静岡県舞阪沖に向かった。

    救援のための飛行機(B29)が用意され、航空庁の関係者も同乗したらしいが、機長のジョナサン少佐は、 白波を見て「もく星号を見つけた」と言い張ったと言う。「あれは単なる白波だ」と航空庁の関係者(名古屋航空保安事務所通信課長森寛三氏)が言っても、 機長のジョナサン少佐は聞かなかったそうだから、米軍極東軍の情報操作の指示を受けて「もく星号を見つけた」と言い張ったのだ。

    マスコミや関係者も大挙して静岡県舞阪沖に向かっている間に、入間のジョンソン基地と上層部の米軍極東軍は、 大島の三原山に墜落している「もく星号」を捜索し、リード大尉と小原院陽子の持っているダイヤの回収作業を行った。 また、「もく星号」に残っている米軍の機銃掃射の痕も消し去らなければならない。

    こうして、大島の三原山に墜落している「もく星号」の乗客と乗員の救助活動は、1952年4月9日早朝から1日も経った4月10日早朝まで行われなかった。 この辺の話は1985年8月13日のJAL123便の御巣鷹山墜落事故の場合と全く同じだ。

    誰かが、東京地検特捜部の真似をして、マスコミを利用した情報操作をしているのだ。

    ジョンソン基地と米軍極東軍が派遣したヘリコプター

    次に入間のジョンソン基地と上層部の米軍極東軍がやるべきことは、大島の三原山に墜落している「もく星号」を誰よりも先に捜索し、 リード大尉と小原院陽子の持っているダイヤの回収作業を行い、「もく星号」に残っている米軍の機銃掃射の痕も消し去ることである。 このために、ジョンソン基地と米軍極東軍が派遣したヘリコプター2機を大島の三原山に墜落している「もく星号」付近に派遣した。

    大島の三原山に墜落している「もく星号」付近に、ジョンソン基地と米軍極東軍が派遣したヘリコプターは、 事故当日の1952年4月9日にも派遣されたと思われるが、残念ながら目撃者がいない。

    ところが、翌4月10日の早朝にジョンソン基地と米軍極東軍が派遣したヘリコプターは、当時の写真新聞サン(のち毎日新聞に吸収)の大島通信員であった 宮田忠彦氏によって発見され密かに写真にも撮られた。

    写真新聞サンの大島通信員宮田忠彦氏にヘリコプターと搭乗員の姿を撮影されたことは、ジョンソン基地と米軍極東軍のミスであったが、 リード大尉と小原院陽子の持っているダイヤの回収作業を行い、「もく星号」に残っている米軍の機銃掃射の痕である右主翼の補助翼を持ち去ることに成功した。

    つまり、ジョンソン基地と米軍極東軍が派遣したヘリコプターは、大島の三原山に墜落している「もく星号」の乗客と乗員の救助活動は、 全く行わなかった。この辺の話も1985年8月13日のJAL123便の御巣鷹山墜落事故の場合と全く同じだ。

    長崎県のマスコミのインチキ情報操作

    長崎県はマスコミのインチキ情報操作のメッカか

    なんと当時の長崎県の地方紙「長崎民友新聞」には、事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事が掲載された。 「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せたのだ。

    これは、上記の「乗客全員無事」という「ニュース」を知った大辻の秘書が、同新聞に連絡する際に気を利かせすぎて捏造した話だったという。 大辻は長崎民友新聞が開催する「長崎平和復興博覧会」の会場内の劇場で漫談を披露する予定だった。 それにしてもお粗末な新聞だ。こんなことで平和復興ができるのかねえ。昔の話だけど。

    どうも長崎県人は、昔からマスコミのインチキ情報操作にひっかかり易い傾向にあるようだ。 だから、民主党に票を入れたり、自民党に票を入れたり、マスコミに騙されやすく定見のない、その日暮らしの浮動票が多いのだろう。

    長崎県の弱点は、そのまま日本の弱点

    以下は、「「もく星号」事件の考察」から引用。

    「もく星号事件」の調査は、米軍占領下ではなく日本の主権の基で行われたが、米軍は占領中と同じ権力を行使して事件の解明を拒み通して、 独立日本の第一歩に汚点を残し、その後の日米関係を暗示するのである。

    一連の黒い霧事件を主権国家でありながら追求せず従来の図式を容認した事が、その後の彼我の関係を占領下と変わらぬ従属国とみなされ、 それに甘んじる事で経済発展を計って来た政財界の姿勢が、国家の責任、国家の義務を自覚しないままに経済大国となり、 対米従属から脱しきれない日本国を形成したのである。

    その陰で米国は占領下と変わらぬ無理難題を国民の知らない所で、より巧妙に日本政府に押しつけて来たのであり、 その様な日米関係の象徴が一連の核疑惑であり、沖縄における占領下と変わらぬ米軍基地の実態である。

    以上