第1章 広島・長崎の原爆は実験だった
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1.原爆実験
1945年8月6日、午前8時15分。アメリカは広島市上空に最初の原子爆弾を投下。
2日をおいて、8月9日午前11時2分、長崎市へ二つ目の原爆を投下。第二次世界大戦末期のことでした。
日本とアメリカの関係を語る上で、計30万人の命を奪った広島、長崎に落とされた二つの核爆弾を忘れることはできない。
この核が使われたことについて、「日本がアメリカに戦争をしかけたのだから仕方ない」という人たちがいるが、それはアメリカの情報操作による誤った見方であり、アメリカが自分たちで開発した原子爆弾を実験するために日本人を虐殺したというのが真相だ。
太平洋戦争の最後の年、1945年に入ると、日本の兵器産業はすでに壊滅的であり、もはや戦う能力はなかった。それでもなお、アメリカ軍による日本の都市への空襲は続けられ、多くの罪のない市民が殺された。
しかし、後に原子爆弾が投下される広島や長崎は、その重点目標からわざと外されていた。新型爆弾を実験するには、事前に爆撃によって被害を受けていない都市の方がデ-タが採りやすいからだ。
また、広島にはウラニウム型、長崎にはプルトニウム型と別々のタイプを投下した。それは、この2種類の原子爆弾を比較するためだった。
また、最も多くの人を殺すために、落とす時間や爆発させる地上からの距離が綿密に計算された。
赤とんぼをとっていた子。朝ごはんを食べていた子、兄弟で絵本を読んでいた子。夏休みもなく勤労動員で働いていた中学生たち。ピカッ。その一瞬、原爆は巨大な火の玉となって爆心地を包んだのです。
爆心地近くの石段に腰掛けていた人は、影だけを残して消えました。
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爆心から少し離れた場所にいた人々も、着物や服はおろか、熱線で肉を焼かれ、髪の毛を焼かれ、皮膚はジャガイモの皮のようにずるりとむけてしまいました。
たちまち音をたてて燃え上がる火。人間が人間でなくなり、子どもも裸で逃げまどい、助けを呼び、泣きわめき、それは地獄でした。地獄としかいいようがありませんでした。「水をください、水を」と叫んで川へ飛び込んだ人たちの声が、その呻きが、わたしにも聞こえてきます。
瞬間的な熱線とともに、普通の爆弾では考えられないものすごい爆風が起こりました。家も学校も病院も何もかも押しつぶし、なぎ倒していきました。長崎の小学校のある先生はこう書き残しています。
「運動場は一面、人間をまいてあるみたいだった。土の見えないくらい倒れていた。たいてい死んでしまって、動かなかった」
爆風が通り過ぎた後は、もう変わり果てた死の街だったのです。
熱戦と爆風。それにもう一つ加えて原爆の恐ろしさは、目に見えない放射能でした。
舞い上がった死の灰。突然降りだした黒い雨。いたるところ、強い放射能でいっぱいだったのです。あの日、運よくけが一つせずに元気だった人々も、しばらくしてからバタバタと倒れ、高熱にうなされ、不気味な死斑が体に現われ、あるいは血を吐いて、なぜそうなったのかわからないままに、次々と死んでいきました。放射能が体を蝕んだのです。
米軍による放射線量調査
長崎の谷口澄輝さんは、自転車で電報配達をしていたとき、後ろからピカッときて地面へ叩きつけられました。当時16歳。肩、背中、尻、両腕などにひどいやけどを負い、1年9カ月間、うつぶせになったままでした。このため、胸は床ずれで肉が腐り、あまりの痛さと苦しさに、何べん叫んだかしれなかったそうです。「殺してくれ、殺してください」と。
かろうじて生きのびた人々も、苦しみながらさまよい、デルタ地帯の七つの川辺に折り重なって死んだ。
恐怖のため、発狂した老婦人。
人々は「ピカドン」と呼んだ、悪魔の火球であった。爆心地の外にいた人々が駆けつけてきた。しかし、救う手だてがなかった。体中の水分が熱線で奪い去られてしまった人々は幽鬼のように放心したまま命が尽きていった。通りすぎる者の足をつかんで、水を求めながら死ぬ人も多かった。
爆風で吹き飛んだ市内電車。乗客はすべて熱線で焼かれ、その死体は線路下に投げ出された。
「肉がねえ、ぶくぶくに焼けただれちゃってねえ。うじがわくんですね」
救護の努力がはじまった。だが、有効な手当ては不可能であった。
「背中の方はですね、ジャガイモの皮をむいたように皮膚が垂れ下がって」
母親の胎内で被爆した子どもたちの不幸が、被爆した人々をさらに苦しめることになった。ある調査によると、胎児死亡、流産、死産など、悲しい経験をした人々の率が意外に高く、生き残った子どもたちにも様々な障害例を見たという。
この幼い兄弟は、爆心から400mで被爆した。
「足首が切れてるよって。足首がブラーンとね。横にね……」
この少年はすでに抵抗力をなくしていた。この時から3日目に死んだ。6歳であった。
爆風で崩れ落ちた家々の下には
死者たちが横たわっていた。
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2.原爆は多国籍企業の利権のために落とされた
終戦間近、優れた情報網を持っていたアメリカは、日本が戦力、戦意ともに失い、降伏寸前であったことを知っていた。
それにもかかわらず、核爆弾の使用を決定したのは、戦争を終わらせるためではなく、どうしても核を使いたかったからである。
しかも、日本は、日ソ友好条約を頼って、ソ連を通じてアメリカとの和平を図ろうとしていた。
ソ連の書記長スタ-リンは、アメリカのトル-マン大統領に、「日本からの要請に対してどう回答すればよいか」質問している。
スターリン(ソ)、トルーマン(米)、チャーチル(英)
それに対して、トル-マンは、その日本政府の早期和平交渉にソ連が加担しないよう指示した。
やはりアメリカは核爆弾を使う前に戦争を終わらせたくはなかったのである。
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また、アメリカ政府は、原爆開発のために血税を支払った国民を納得させる必要があった。大統領付幕僚長レーヒ提督は、
「20億ドルという巨額の国費を使った以上、それが無駄使いではなかったと、国民に納得させるために原爆は使われた」
と述懐している。
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それは単に実験のためだけではなく、戦後も核兵器市場で莫大な利益を上げようというアメリカの多国籍企業の思惑があった。
アメリカには、ロックフェラー財閥、モルガン財閥という二大財閥がある。彼らこそが原爆開発のためのマンハッタン計画の中心だったのだ。
マンハッタン計画は、1944年、ニューメキシコ州ロスアラモスの「プリンストン高等研究所」(右写真)で、J・ロバート・オッペンハイマー博士やアインシュタイン博士らによって、極秘裏のうちに進められた。
約4兆円(22億ドル)の資金はロックフェラー財閥とモルガン財閥が提供した。
日本に落とされた2個の原爆もここで製作された。
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多国籍企業というのは、国境という枠組みを超え、世界を股にかけ、世界の市場を独占する巨大企業であり、その多国籍企業の集合体がこれらの巨大財閥である。
ロックフェラー財閥は、スタンダード石油から発展したエクソン石油、ナショナル・シティ銀行、軍需産業のベクテル、ウェスティングハウス、大テレビ局のNBCなどを支配する。
モルガン財閥は南北戦争で兵器を売って莫大な利益を上げて「死の商人」と恐れられたデュポン社、鉄鋼のUSスチール、兵器、電気のゼネラル・エレクトリック、自動車や戦車メーカーのゼネラルモータース、ハリウッドを中心とした映画産業を支配する。
さらにこのモルガン財閥の背後には、ナポレオン戦争で莫大な利益をあげ、ヨーロッパ中心に経済帝国を築き上げたロスチャイルド財閥がある。彼らは軍需産業のブリティッシュ・エアロ・スペース、石油のロイヤル・ダッチ・シェル、ロイターなどのマスコミ、それに金、ウラニウムを支配する。
彼らは互いに協力しながら、他の会社を倒産に追い込んだり、買収してその基盤を築いてきた。今では彼らだけで世界の富の90%を支配している。
そんな彼らにとって、核兵器産業は莫大な利益をあたえてくれる新しい市場だったのだ。
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このようにして投下された原爆は広島では20万人、長崎では10万人の命を奪った。また、原爆による放射能は人の遺伝子を破壊し、多くの人に悲惨な後遺症を残した。
アメリカは爆撃後すぐに調査団を送りこんだが、それは人体実験の結果を調査するためであって、被害者の救済には役立てられなかった。
終戦直後、国際赤十字社のジュノー博士が被爆の状況を視察した後に被爆者を救うために赤十字本部に救援物資を要求したところ、アメリカは当時新兵器の原爆の情報と自らの残虐行為を隠すためにジュノー博士の行動を阻止した。その結果、多くの救われる可能性のあった人たちが、救いの手を差しのべられずに死んでいった。
以上のように、日本のマスコミや学校教育がわたしたちに教えている原爆投下の理由は、アメリカにとって都合のいいウソであり、わたしたちはだまされてきたのだ。