回想~小学校1・2・3年生~
小学校~中学校くらいの回想をちょっとずつ書こうと思います。暇人なので(笑)暇な時にでも読んでください(*^-^)やっぱり回想は「~だ調」で書こう。
~序章~
私は小さい頃の記憶があまりない。神戸で生まれ育ったらしい。いちばん古い記憶は年長だった6才の時に「くすり。」といって怒られたできごとだ。
私は昔から大人が苦手で特に小さいころはそれが顕著だった。「くすり。」というのは「私が今持っているこの薬の袋を開けて水を持ってきて口をあーんさせて飲ませて下さい。」の略だった。
単語しか言えなかったのだ。しかも、かなり私は過保護に育っていた。服は小学校3~4年まで着させてもらっていたし、お風呂でもお母さんに洗ってもらっていたし、朝も私は顔を洗面所に出しているだけでお母さんが石鹸をあわだてて洗ってくれていた。
そんなだから、幼稚園のころはよっぽどひどかったのだろう。それを見兼ねた星先生は私のためを思ってしかってくれたのだ。今になって考えてみればなんていい先生なんだろうと思う。小学校になってもこれではやっていけない。
あとの記憶は縄跳びで前跳びが三回もできるようになったとお母さんに自慢した記憶。砂あそびかお人形さんごっこしかしたことのなかった私にしたらすごいできごとだったのだろう。
私は幼稚園に行って子どもの世間を知れてほんとうによかったと思う。
~小学校1、2年~
私は入学した頃、千葉県の柏市というところに住んでいた。ピアノと水泳とバレエも少し習っていた。
毎朝まゆみちゃん家に行き、一緒に登校していた。帰りはおしろいの花の種を割って二人で顔に塗って「おけしょー!!」と言って遊んでいた。学校で何をしていたかは覚えていない。授業参観で母がビデオを撮っているのが嫌だったことくらいだろう。
そういえば、私の家には「真美子1~20」とラベルの貼られたホームビデオが残されている。長女だったから大切に記録されているのだろう。記憶があまりない私にとってはありがたい。今度まとめて見てみたい。
小学校1~2年のころの一大事件は「空中自転車回転」だろう。私は週末になるといつも妹と、お父さんと一緒に『自転車探検』に出かけていた。近所を自転車で廻ってまわるのだった。探検でもなんでもない。
ある日私はお父さんにかっこいいところを見せたくてしょうがなくなった。いつもは見ているだけの100メートル位の距離ですごく急な坂があった。
「パパと○○(妹)ちゃんは下におって見てて!!今から自転車で降りるから!!」
と、言って長い坂を一人で登って行った。私は立ち漕ぎがかっこいいと思っていた。その立ち漕ぎであの急な坂をビューンと降りることができたらどんなにかっこいいだろうかと胸を高鳴らせながら登っていった。
「今から降りるからね~ちゃんと見ててよぉー!!」
と叫び、私は地面から足をペダルに乗せた。だんだん速くなってゆく。そして私は立ち上がった。
「まみやん!!危ない!!」
とお父さんが叫んだのを覚えている。
「え?」
と言った瞬間、私の自転車はつまずき、宙に浮いた。そして、世界が回った。自転車から手をはなせばいいのに、恐怖でサドルをにぎりしめていた。自転車が止まると同時に私は土に汚され、すりむけた肘や膝や手から血が染み出してくるのを見た。そして、これまでにこれほど泣いたことがないくらいに泣いた。
どうやって帰ったかは覚えてないが、家にいたお母さんが泣いて父に怒り、「なんでそんな危ないことするの止めんかったの!!」と言っていた。父は「3回転はしたわ。あんなコケ方して擦り傷だけで済んだんは奇跡や!!」とか言っていた。妹はひたすら「回転、回転、まみちゃん回転!!」と言っていた。
お気楽な家族である。私はばんそうこうだらけになってヒーロー気分だった。次の日学校で自慢したことは間違いないだろう。
この事件の他は、特に目立った出来事もなかった。非常に運動神経が悪く、普通に歩いていても転んでばかりで母が心配していたことは覚えている。
今とは違って病弱で大人のように偏頭痛持ちで、しょっちゅう保健室に行って熱を出すくせに、皆勤賞を狙っていた健気な(?)子供だった。
~三年生~
私はカチューシャの大好きな女の子だった。このころ私の髪の毛は腰まであった。この前、なぜそんなに伸ばさせていたのか母に聞いたところ、驚きの真実が発覚した。
うちの父は「髪フェチ」だったのだ。「髪を切らんとってほしい。」と結婚した時に言われ、母は忠実にそれを守って、伸ばしていた。そしてなぜか、私たち姉妹の髪も切られることはなかったのだ。
しかし、それを見兼ねた祖母の強い促しによって母、私、妹はそろって髪を切った。父はさぞショックだっただろう。
それは置いといて、父はホラー好きだった。うめずかずおのマンガやら、エクソシストやらオーメン(666)など今の私でも見られないようなビデオを見せたがった。そして、寝る前に必ず怖い話しを聞かせるのだった。でも、私たち姉妹はそれが好きで、「いつもの話,して~!!」と頼むのだった。
すると父はお決まりの、「ダダダダーン!!ヒュー!!キャー!!キキキキィー!!(車のブレーキの音)」と臨場感を盛り上げる為の効果音を発したあと、「むかしむかしこの辺りには病院が立っていました…」などとゆう作り話しをして聞かせるのであった。しかし、父はいつも途中で眠ったりしてしまうので話しはむちゃくちゃに進み、気がついたらみんな眠っていた。平和に育ったものだなぁとつくづく思う。
小学校では『よっちゃん』と子供たちから呼ばれる担任の先生に教わってもらっていた。この先生は授業の前に必ずベロで口の周りを一周させる変わった癖があったので、子供たちから真似をされたりしていた。今風に言ういじられキャラだろう。
そんなよっちゃんは「真美子さんのお母さんは石川さゆりに似ている」と全然似ていないのに絶賛していたので、母は「よっちゃんはいい先生やねぇ」とよく言っていた。
楽しい学校生活を送っていたが、ある日私は転校することになった。茨城にマイホームを買ったのだ。母はカナダに留学したことがあり、マイホームは絶対カナダの輸入住宅がいいと言っていて、まさに理想の家が茨城で見つかったからだった。私が喘息持ちだったため、田舎に引っ越すためでもあった。
よっちゃんは私のためにお別れ会を開いてくれた。24枚フィルムを二個使い果たすくらいの写真を撮ってくれた。私は泣いてしまって一晩中考えたお別れの言葉が言えなかった。
最後の学校の日に、よっちゃんに私は呼び出された。そしてきれいな包装紙に包まれたプレゼントを渡された。プレゼントはフランス人形の絵だった。先生からプレゼントをもらうなんて思ってもいなかったのですごくうれしかったのを覚えている。
引越しの日、同級生の森本君が家にやってきた。森本君は一年からずっと同じ筆箱を使っているということでバカにされていた。クラスに一人はいそうないつも鼻水が固まっている子だった。隣になったこともあり、彼の「手足口病」を移されたこともあった。手足口病とは正式な病名で、名称の通り、手と足と口の中に口内炎みたいなものが大量にできる病気である。一週間アイスしか食べられなかった。
そんな森本君がいきなり荷物を運び終わった、がらんとした家に「好きだ!」といいながら侵入してきた。家の場所をどうやって知ったのかはいまだに分からない。私はフリーズし「帰れ!」と恥ずかしさのあまりぶっきらぼうに言い放った。父は「まみやんもてもてやな」と大爆笑していた。
私と妹は2階に逃げた。「まみちゃんどうするん?」と妹に言われ、私は「逃げるしかない!!」と言った。森本君はすぐに2階にやってきた。「逃げろ~!!」と言って、私達ははしごでロフトに上って避難した。ほっとするのもつかの間、森本君ははしごを上ってこようとするではないか?!ここまで来たら逃げ場はない。私は無我夢中ではしごを揺らした。森本君はしばらく粘っていたが、ついに怒って帰ってしまった。お得意の固まった鼻水をはしごにつけて…
今考えてみればひどい話しだ。でもその後ずっと父にその話しで冷やかされたのだから、おあいこだろう。今でも父は時たま思い出したかのように「あの時「帰れ」と言った真美子はかっこよかったで。」と森本君不法家進入の話を語りだす。
茨城に引っ越してからも三年二組の友達と文通を続けていた。『落とし物箱から「○○(苗字)まみこ」って書かれた消しゴムと定規がまたあったよ』という報告の手紙がよく来た。私は昔から落し物が多いなど注意力に欠けていたらしい。
そんなこんなで茨城で新しい生活が始まるのだった。
1 ■無題
ヾ(´ω`=´ω`)ノオハヨー
僕の子供の頃は音楽しかしてなかった!
友達もいなかったんで
(^^;)