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( ´∀`) サカつく04 2ch攻略板情報 (´∀` )
【モデル選手 欧州】
■日本人  ■欧州  ■南米その他

■3との相違点などの注意点
基本的に前作にも登場した選手は同じ名前で出て来ている。
■国籍別INDEX
■イタリア ■フランス ■ドイツ ■オランダ ■イングランド ■ウェールズ
■スコットランド ■北アイルランド ■スペイン ■ポルトガル ■チェコ ■スロバキア
■ハンガリー ■セルビア・モンテネグロ ■クロアチア ■ルーマニア ■ブルガリア
■ベルギー ■オーストリア ■スイス ■ポーランド
■アイルランド ■デンマーク ■スウェーデン ■ノルウェー ■フィンランド
■ロシア ■ウクライナ ■ベラルーシ 


【イタリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
グランチェアーニ フランチェスコ・グラツィアーニ
-
スキレッチ サルバトーレ・スキラッチ
90年地元開催のW杯で彗星のように現れ神憑かり的な活躍。得点王も獲得。
貧しい家に生まれ、少年チームでプレイしていたが16才頃から家計を助ける為にサラリーマンとして働いていた。しかしプロになる夢を捨て切れず18才で当時セリエCだったメッシーナに入団。B昇格に大きく貢献し、後にセリエB得点王を獲得。この活躍が目に止まり遂に名門ユベントスから声が掛かる。89年、入団したシーズンに15得点を挙げコッパイタリア、UEFAカップ優勝に貢献。
この活躍により、90年母国W杯の代表に滑り込みで選ばれた。当初はエースであるヴィアリのバックアップメンバーであったが、大会直前の負傷からかヴィアリに本来のキレが無く、緒戦のオーストリア戦、途中出場を果たすとファーストタッチで0-0の均衡を破る先制点をあげチームを救うと、続くチェコスロバキア戦でも2ゴールと大活躍。「トト」と呼ばれ救世主として注目を集めた。
準決勝でアルゼンチンから先制点を奪うもチームはPK戦の末惜しくも敗退。しかし3位決定戦でもゴールをあげ、自身は大会得点王を獲得した。
W杯後は怪我などもあり調子を落とす事も多く、インテルを経て94年からJリーグ磐田に移籍。怪我も多かったが95年は得点ランキング2位となるなど要所でゴールを決めてチームに貢献。J昇格間もない磐田をJリーグ屈指の強豪に押し上げる切っ掛けを作った。特に清水との「静岡ダービー」では異様なまでの勝負強さを発揮しチームを勝利に導いた。
98年に34才で現役引退。イタリア代表通算7得点だが、そのうち6点を90年W杯で挙げており、生来の勝負強さをまさに人生最高の舞台で爆発させた名FWである。
スピアジオ アンジェロ・スキアビオ
1934年W杯得点王
タブッキ クリスチャン・ブッキ
-
ビアネリ ジャンルカ・ヴィアリ
ユベントスで活躍後チェルシーで選手兼監督も経験。90年W杯では大会直前の負傷もあり期待を裏切ってしまった。
ピオール シルビオ・ピオラ
ラツィオなどで活躍。38年W杯優勝に大きく貢献。
プロ・ヴェルチェリでデビューし、長身を生かした空中戦と当たりの強さを武器にラツィオで2度の得点王を獲得。後にトリノやユベントスにも移籍したがチームとしてのタイトルには縁が無かった。
プロ・ヴェルチェリ時代には一試合で6ゴールを奪い、今なお一試合の最多得点記録として残っている。
38年W杯では5得点を挙げ、W杯史上初の連覇に貢献。決勝戦ではハンガリー相手に決勝点を挙げている。
その後は43才まで長く現役を続けノヴァラで引退した。
ビッテゴ ロベルト・ベッテガ
『白い羽』と呼ばれたユベントスのエース。78年W杯ベスト4に貢献
マサロッティ ダニエレ・マッサーロ
ミランなどを経て一時清水エスパルスにも在籍。94年W杯にも出場
マンティリ ロベルト・マンチーニ
『ミスターサンプドリア』。ラツィオでもスクデット獲得。引退後は現役時が嘘のような沈着冷静な名将ぶりを発揮している。
ラバナッシュ ファブリツィオ・ラバネッリ
『シルバーフォックス』と呼ばれる名選手。
リーベ ルイジ・リーバ
『サルディーニャの太陽』。強豪からの誘いを拒み続け、弱小チームだったカリアリを見事スクデットに導いた。68年欧州選手権優勝。70年W杯準優勝。
ロゼイ パオロ・ロッシ
『黄金の子』。ビアツェンツァで得点王を獲得後78年W杯でベスト4進出に貢献。その後八百長騒動に巻き込まれ2年の出場停止を受けるも82年W杯直前に復帰。1次リーグでは眠っていたが2次リーグで突如目を醒ましゴールを量産。得点王を獲得し優勝に大きく貢献した。中でも特に優勝候補筆頭のブラジルを下したハットトリックは印象的。同年バロンドール獲得。
その翌年ユベントスに復帰しスクデットやチャンピオンズカップを制するが故障に泣き、ミラン、ヴェローナを経て31歳の若さで引退。
【OMF/SMF】
アントニオーロ ジャンカルロ・アントニョーニ
フィオレンティーナの象徴的存在。タイトルにこそ恵まれなかったがキャリアの殆どをフィオレンティーナに捧げた。誰よりもフィレンツェを愛し、またファンに愛された名選手。
クンティ ブルーノ・コンティ
82年W杯優勝の原動力となった右サイドハーフ(右ウイング)。83年ローマにスクデットをもたらした。
ジャンベーラ ジャンニ・リヴェラ
69年バロンドール受賞。元祖ファンタジスタ。『ゴールデンボーイ』と呼ばれミランに黄金期をもたらした。
60年に故郷のクラブからミランに引き抜かれレギュラーとして活躍。 翌年スクデットを獲得。その後もスクデット、コッパイタリア、カップウィナーズカップ、チャンピオンズカップ優勝の原動力となった。
代表では62年から4大会連続でW杯に出場。最も優勝に近付いた70年大会では準決勝でドイツを下す決勝点を挙げ決勝進出に貢献したが、決勝はマッツォーラの控えとして僅か6分しか出場出来ずチームは敗退し、当時の代表監督に大きな批判が集中した。この時代のアズーリでは常にマッツォーラとのポジション争いが起き、あまり出場機会に恵まれなかった。
引退後は政治家に転身し、国会議員を務めた。
ディマティニ ロベルト・ディ・マテオ
-
マッツーロ サンドロ・マッツォーラ
父バレンティーノはトリノの伝説的名選手。「グランデ・トリノ」と呼ばれた伝説のチームの主将だったが、『スペルガの悲劇』(※1)と呼ばれる飛行機事故で死亡。
偉大な父と比較される事を避け、キャリアの全てをインテルで過ごした。チャンピオンズカップでは大会タイ記録の7点を挙げるなどし連覇に大きく貢献したほか、リーグ優勝、インターコンチネンタルカップ優勝など数々のタイトルをクラブにもたらした。
代表では20才でフル代表入りを果たし3度のW杯出場、68年欧州選手権では見事優勝を勝ち取っている。70年大会ではミランのエース、ジャンニ・リヴェラとのポジション争いを制しレギュラーを勝ち取り準優勝、74年大会でもレギュラーとして活躍した。

※1「スペルガの悲劇」
1949年5月4日、リスボンで行われたベンフィカとの親善試合の帰路、トリノのメンバーらを乗せた飛行機が、トリノの郊外「スペルガの丘」の教会に墜落。爆発炎上した。(乗員乗客18名全員死亡)
モンテイロ フランチェスコ・モリエーロ
-
【DMF】
オレウリ ガブリエレ・オリアリ
-
ジャーティ フェデリコ・ジュンティ
-
タラダリ マルコ・タルデッリ
ユベントスで全ての欧州カップ戦を制覇。82年W杯優勝の影の立役者。引退後はインテルの監督等を歴任。
ディオニジオ アンジェロ・ディ・リービオ
ユベントスで数々のタイトルを獲得後宿命のライバルであるフィオレンティーナへ。移籍当初は宿敵ユーベのレギュラーだった為ファンからも疑いの眼差しを向けられるが、そのひたむきなプレーで評価を勝ち取った。その後財政難によるチームは崩壊、セリエC2からの再出発を迫られた。
チームメイトのほとんどが他のクラブに新天地を求める中、沢山のオファーを全て拒み、年俸9割減を受け入れチームに残留。そして04年チームはプレーオフの末ペルージャを下し、遂にA復帰を果たした。しかし若返りと年俸抑制を計りたいオーナーの意向により突然解雇されてしまった。
【SDF】
カベラーニ アントニオ・カブリーニ
80年代ユベントス黄金期の不動の左サイドバック。怪我で30歳にして代表引退。奇しくもそれが若きマルディーニにチャンスを与える事になった。
ファケットー ジャシント・ファケッティ
『鉄のキャプテン』。今なおイタリア史上最高のサイドバックと呼び声が高い。生涯インテル一筋で一度も退場処分を受けなかった。アズーリでも主将を務め68年欧州選手権優勝、70年W杯準優勝。
【CDF】
ジャントーレ クラウディオ・ジェンティーレ
『エースキラー』と呼ばれ82年W杯ではマラドーナ、ジーコをマークし優勝に貢献。ユベントス黄金期のメンバー。
シレオ ガエタノ・シレア
バレージが超える事の出来なかったイタリア最高のリベロ。ユベントスで獲得出来るほぼ全てのタイトルを手中に収める。引退後、36才の若さで交通事故死
バンチ フランコ・バレージ
80年代〜90年代のミラン黄金期の象徴的存在。チャンピオンズカップ連覇やW杯準優勝などを経験。
18才でトップデビュー後ミラン一筋のキャリアを過ごす。八百長騒動で80年にセリエB降格を味わうがチームに残留し再昇格に貢献。22才で主将を任されリベロとしてチームを統率し、名将アリゴ・サッキの元で数々のタイトルを獲得。
94年W杯では大会中に膝を負傷したが、手術を行い奇跡的に決勝の舞台に立ち、ブラジルの強烈な攻撃を跳ね返し、120分間ロマーリオとベベットを完封。しかしPKを決める体力は残っておらず、最後のR・バッジョのキックがバーを越え、イタリアはPK戦で敗れた。その3年後現役を退いたが背番号6はミランの永久欠番になっている。
ベルガミ ジュゼッぺ・ベルゴミ
キャリアの全てをインテルで過ごし、主将も務めた。スクデットも獲得しアズーリでも長く活躍した。
ホロバティ フルビオ・コロバティ
-
【GK】
オリビネリ アルド・オリビエリ
-
ゾンガ ワルター・ゼンガ
90年W杯3位に貢献。強烈なキャプテンシーでインテルでも不動の守護神だった。晩年にはアメリカMLSにも移籍し活躍。
ドフ ディノ・ゾフ
今でもイタリア史上最高のGKと言われる。30才を過ぎてからユベントスに引き抜かれ実力を発揮した大器晩成型。遂には40才でW杯優勝も果たす。
少年時代にインテルやユベントスのテストを受けるが身長が低いという理由から落選。その後故郷のクラブを経てウディネーゼに入団しプロデビュー。しかしデビュー戦で5失点を喫するなど若い頃は苦い経験が多かった。しかしマントヴァやナポリ移籍を経て成長し、遂にあこがれのユベントスから声が掛かった時は既に30才になっていた。しかしここからも脅威の成長力を見せ6度のスクデットを始め数々のタイトル獲得に貢献。
代表では68年欧州選手権優勝に始まりその後も4度のW杯を経験。82年大会では41才で代表の主将を務め、「老眼」と揶揄されながらも見事に優勝を勝ち取った。代表通算出場試合数もマルディーニに抜かれるまで1位に君臨していた。
引退後はコーチや監督を経験。ユベントスやラツィオの監督としてUEFAカップ優勝などに輝いた後、2000年欧州選手権では代表監督も務め、守備的過ぎると批判を浴びながらも、見事準優勝に導いている。

【フランス】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ギバール ステファーヌ・ギバルシュ
レンヌ、オセールで得点王を獲得。98年W杯ではチームは優勝したが、無得点に終わる。
ピエール ジャン・ピエール・パパン
イニシャルから『JPP』と呼ばれたフランス史上最高のストライカー。85年に移籍したベルギーリーグのクラブ・ブルージュで脚光を浴び、祖国の名門マルセイユに加入。マルセイユ時代には5年連続得点王の偉業、リーグ4連覇を達成している。91年にはチャンピオンズカップで大活躍しチームを決勝に導くが惜しくもPK戦で敗れた。しかしこの活躍によりバロンドールを受賞。
その後移籍したミランでは2度のスクデットなどを獲得。チャンピオンズリーグでも優勝を果たしている。しかしこの頃から負傷がちになり移籍したバイエルンでもこれと言った活躍が出来ず、母国へ戻っている。99年ギャンガンで現役を引退。
自身のキャリアのピーク時とフランス代表の低迷期が不幸にも重なり、92年欧州選手権はグループリーグ敗退、90年と94年のW杯は欧州予選敗退、96年の欧州選手権は負傷により欠場、自国開催の98年には既にキャリアのピークを過ぎており、W杯出場は結局一度も果たす事は出来なかった。
フォンテイン ジュスト・フォンテーヌ
W杯1大会13得点の記録保持者。58年大会の得点王。
当初は控えだったがレギュラーの負傷によりスタメンに。レイモン・コパとのコンビで緒戦でいきなりのハットトリックを達成。その勢いをかり一気に得点を重ね一躍シンデレラボーイになった。
コパとはクラブでも後にチームメイトとなり、ランスでリーグ優勝、カップ優勝を共に勝ち取った。
しかし故障に悩まされ28歳で引退に追い込まれる。
ロットー ドミニク・ロシュトー
-
【OMF/SMF】
カンター エリック・カントナ
本来『キング』と言えばカズではなくこの人。カンフーキック、襟立て、ナイキのCM。リーズに移籍しリーグ優勝に貢献、翌年マンチェスター・Uに加入してキャリアのピークを迎える。
まさしくトラブルメーカーと呼ぶにふさわしく、起こした事件や監督、チームメイト、対戦相手とのいざこざは枚挙に暇がない。しかしひとたびピッチに立てば、決定的な仕事をこなし数々の勝利をチームにもたらし続けた。
代表では監督と衝突して代表追放されたり、母国W杯の直前メンバー落ちするなど、残念ながらW杯にはとことん縁が無かった。結局この母国W杯に出場する夢が叶わなかった事をきっかけに31才の若さで現役を退いた。
コプ レイモン・コパ
58年バロンドール受賞。レアル・マドリーにも在籍しチャンピオンズカップ5連覇の一翼を担う。しかしディ・ステファノの意向によりチームを追われる。
デュキャナン ジャン・ティガナ
84年欧州選手権優勝に貢献。プラティニを支えて活躍した。三銃士の一人。
ミシェル ミシェル・プラティニ
『将軍』。3年連続バロンドール受賞。セリエA3年連続得点王。スクデット、チャンピオンズカップなどありとあらゆるタイトルを手中に。84年欧州選手権でも得点王。優勝に導く。三銃士の一人。
その独特のFKは「プラトッシュ」とも呼ばれ、MFとしては出色の得点力を兼ね備えていた彼のポジションは「9.5番」とも呼ばれた。
多くのタイトルを手にしたプラティニだったが、ただ一つ「ジュール・リメ杯」にだけは手が届かなかった。
ルイーズ ルイス・フェルナンデス
84年欧州選手権優勝に貢献。三銃士に彼を加えて「四銃士」と呼ぶ事もある
【DMF】
カラン クリスティアン・カランブー
レアル・マドリーでチャンピオンズリーグ優勝。98年W杯で優勝。
余談だが奥さんが超美人。
ジュリアス アラン・ジレス
三銃士の一人。ボルドーを強豪クラブに押し上げた。代表でもプラティニを支え活躍。非常に小柄な選手だったが卓越した判断力とスピードでフランス代表にまで登り詰めた。
キャリアのほとんどをボルドーで過ごし、リーグ2連覇を果たしている。
代表では84年欧州選手権優勝に貢献、W杯でも82年、86年ともにベスト4に進出した。
『シャンパンサッカー』と呼ばれる華麗なパスワークを武器にしたフランス代表の中心がプラティニであった事は誰もが認めているが、それも献身的なプレーと高いテクニックでプラティニを支えたジレスの活躍があってこそだった。
デュジャルダン ディディエ・デシャン
98年W杯、EURO2000を連覇したフランスの主将。ユベントス時代はスクデット、チャンピオンズリーグ優勝に輝く。
89年にマルセイユに移籍しその年にリーグ優勝を果たす。その後ボルドー移籍を経てマルセイユに復帰。チャンピオンズカップ優勝を経験する。94年から移籍したユベントスでキャリアのピークを迎え、3度のスクデット、コッパイタリア、欧州スーパーカップなどに優勝。94-95シーズンにはチャンピオンズリーグ優勝に貢献。翌年トヨタカップも制しクラブ世界一に輝いた。他にもCLでは2度の決勝進出を果たしている。その後はチェルシーとバレンシアを経て2001年現役引退。
代表では何と言っても母国で開催された98年W杯優勝チームの主将を務めた事で知られている。他にも96年の欧州選手権ではベスト4、2000年の同大会では史上2度目のW杯とユーロの連覇を果たした。
引退後は現役時代からその資質を見込まれていた通り指導者として活躍。03-04シーズンにはモナコの監督としてチームをCL準優勝に導く。
ジダンの陰に隠れてしまっているが、プラティニ以降低迷していたフランスにとってデシャン無しでの復権はあり得なかったと言っても過言ではない。
【SDF】
アムロノス マニュエル・アモロ
80年代フランスを支えた名サイドバック。マルセイユやモナコで活躍。
【CDF】
トゾール マリウス・トレゾール
78年、82年W杯フランス代表の主将。
ブランドー? ロラン・ブラン
モデル選手の名前は未確定。
98年W杯優勝時の主将。
【GK】
ジャンポール リオネル・シャルボニエ
-
ライオネル ベルナール・ラマ
-

【ドイツ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アブラムシック リュディガー・アブラムチック
-
ヴァラー ルディ・フェラー
陽気なヒゲのオッサン。『狐』の愛称で親しまれる。
2002年W杯ではドイツ代表監督として準優勝。
オルヴィネディッツ フランク・オルデネビッツ
リティに誘われ日本へ。市原や仙台に在籍。94年Jリーグ得点王。
『オッツェ』といえば思い出す人も多いか。
グラゴスキー ユルゲン・グラボウスキー
-
クリスチャン ユルゲン・クリンスマン
『黄金の隼』。クラブではタイトルに恵まれなかったが、代表になると豹変したストライカー。ユーロ96では主将としてチームを牽引。見事優勝に導いている
コーフェン エドモント・コーネン
1934年W杯得点王
ズーラー ウーべ・ゼーラー
『西ドイツの太陽』。生涯タイトルに恵まれなかった非運の名選手だが、ドイツ代表のシンボルとして愛されたスター選手。
「デア・ディッケ(太っちょ)」と呼ばれた小太りの体型ながらスピードと得点感覚に優れ、ハンブルガーSVで頭角を表しリーグ優勝などに貢献。ブンデスリーガの初代得点王にも輝いている。
17才で代表入り、58年から4大会連続でW杯に出場しており、66年と70年大会では主将として活躍した。
生涯ハンブルガー一筋の現役生活を貫き、72年に引退。現役引退後はクラブの会長などを務める。
トム クリスチャン・ティム
-
ビリヤコフ オリバー・ビアホフ
ウディネーゼで得点王、ミランでスクデット獲得に貢献。2003年キエーヴォで引退。
代表では96年欧州選手権決勝で2得点を決め逆転優勝の功労者となる。その後98年、2002年W杯にも出場。2002年は途中出場が多かったが準優勝に貢献。
ファッチャー クラウス・フィッシャー
-
ベルフェンダイン ベルント・ヘルツェンバイン
-
マウアー ベンヤミン・アウアー
-
D.ミューレン ディーター・ミュラー
-
G.ミューレン ゲルト・ミュラー
『爆撃機』。70年バロンドール受賞。同年W杯得点王。
バイエルンのエースとしてリーグ優勝、チャンピオンズカップ3連覇などに貢献。W杯では2大会で14ゴールをあげ最多得点記録を塗り替えた。74年大会ではトータルフットボールのオランダを下した決勝ゴールをあげ見事チームを優勝に導く。その後28才にして代表引退し、晩年はアメリカのNASLで活躍。
ルベルジュ ホルスト・ルベッシュ
-
K.ルンゲ カールハインツ・ルンメニゲ
『ミスターヨーロッパ』。2年連続バロンドール受賞
若い頃はウイングだったがバイエルン移籍を機にCFへ。ベッケンバウアー退団後のバイエルンの中心選手として活躍。3度の得点王に輝く。
後にインテル移籍したが、怪我の影響で芳しい結果を残せなかった。
80年欧州選手権では優勝に導く原動力となったが、W杯では2度決勝に進みながら2度とも涙を飲んでいる。
引退後はバイエルンのフロント入りしクラブの復権に奔走した。
ワルサー フリッツ・ヴァルター
本名は『フリードリッヒ』。 生涯カイザースラウテルン一筋で活躍。ヒールキックを得意技としたテクニシャン。カイザースラウテルンの躍進の中心的人物となった。若い頃はFWだったが後にMFとして活躍。
18才でフル代表入りを果たすが第一次大戦に巻き込まれ選手としてのピークの数年を戦場で過ごした。戦場での体験が元で復帰後も一切飛行機での移動を拒否していた。
54年W杯で無敵の「マジック・マジャール」を下して優勝を果たした時の主将。58年大会でも37才だったが代表に復帰して出場。ベスト4進出に貢献した。
【OMF/SMF】
ウーバイン ウーベ・バイン
浦和レッズに在籍
エッフェルバーグ シュテファン・エフェンベルク
問題児としても知られるが、強烈なキャプテンシーとFKを武器に活躍した90年代のドイツを代表するプレーヤー。
名門ボルシアMGで注目を集め、90年にバイエルンに移籍しレギュラーを獲得するが、92年に監督に暴行をはたらく事件を起こしチームを追放。セリエAのフィオレンティーナに移籍する。その後2年で母国に帰り、古巣ボルシアMGに復帰。
98年にはバイエルンに復帰し、年齢的な衰えが囁かれる中だったが、リーグ3連覇やチャンピオンズリーグ優勝などに貢献、再びチームの中心選手として活躍した。2002年ヴォルフスブルクに移籍するが、ユルゲン・レバー監督の減量命令に反発し退団。2003年からはカタールのアル・アラビに移籍した。
92年欧州選手権で活躍し代表のレギュラーに定着するが、94年W杯で「観客に向かって中指を立てる」という非紳士的行為をやってしまい強制帰国、以後代表追放されてしまう。
シェスター ベルント・シュスター
『金髪の天使』。驚異的なキック力とパス精度を誇る80年代のドイツを代表する司令塔。
1FCケルンでデビューしすぐに注目を集める。20才で代表入りし、80年欧州選手権優勝。大会後すぐにバルセロナに移籍し、ここでもすぐにチームの中心選手として活躍。84-85シーズンにはリーグ優勝を果たし、翌年のチャンピオンズカップでは準優勝。
しかし監督やフロントと衝突し徐々に出番を減らされ、89年にはレアル・マドリーに移籍。ここでもリーグ優勝に貢献したが、またしてもトシャック監督と衝突しアトレティコ・マドリーへ新天地を求めた。その結果、このスペインの3大クラブ全てでプレーした史上初の外国籍選手となった。
この3つのクラブでそれぞれタイトルを獲得した後、母国に戻りレバークーゼンに入団。36才で現役を引退した。
代表としては欧州選手権に優勝した後、ベッケンバウアー監督自らが何度となくスペインに渡り直接説得を試みたが、決して代表のユニフォームに袖を通す事は無かった為、結果として一度もW杯の舞台に立つ事なく現役を退いた。
これは一説によれば、彼のバルセロナ移籍に対して、ドイツサッカー協会が圧力を掛けて妨害しようとした事への報復ともいわれている。ドイツは伝統的に自国の有望な若手や代表選手の国外流出に対して神経質なところがあり、96年欧州選手権でブレイクしたビアホフのようなケースは非常に稀である。
ダル トーマス・ドル
-
ネットァー ギュンター・ネッツァー
『賢人』と呼ばれた天才MFで、「駿馬のイレブン」と呼ばれたボルシア・メンヘングラッドバッハ(ボルシアMG)の中心的存在。
『センチメートル・パス』と呼ばれた驚異的なパス精度を誇り、世界最高レベルのFKを武器に活躍、バイエルン・ミュンヘンの宿敵として君臨した。
代表では72年欧州選手権ではゲームメーカーとして見事チームを優勝に導く。この時の西ドイツ代表は歴代でも最強との呼び声が高い好チームであった。しかしW杯ではオベラートとのポジション争いに敗れ僅かな出場に留まった。
ただ実際は当時ドイツを二分する強豪の一つであったボルシアMGの象徴であるネッツァーと、その宿敵バイエルンの象徴であったベッケンバウアーとの間に何らかの確執があったと言われている。事実オベラートはベッケンバウアーに高く評価されており、監督より影響力の高かったベッケンバウアーの意向が色濃く反映された部分があったのかもしれない。
引退後は人気コメンテーターとして大活躍し、メディア露出も多い。
フーラー ヘルムート・ハーラー
『(ブロンドの)稲妻』。MFとしては出色の得点感覚を持っていたため、しばしばFWでも起用された。アウグスブルクでデビューしたが、その後移籍したボローニャやユベントスで活躍し脚光を浴びた。両チームでそれぞれスクデット獲得などに貢献している。
代表としては3度のW杯に出場。66年大会では5試合で5得点をあげる活躍を披露した。
フラーエ ハインツ・フローエ
-
ベラート ウォルフガング・オベラート
『デア・シュバッテ(芸術家)』。
魔法の左足を武器に活躍。ケルンには彼の名を冠した道が存在する
H.ミューレン ハンジ・ミュラー
-
リンドバーグ ピエール・リトバルスキー
『ドリブラルスキー』とも呼ばれる程の名ドリブラー。1FCケルンなどで活躍。UEFA杯準優勝やチャンピオンズカップベスト4に導く。
ケルン時代の奥寺のチームメイトで、その縁からか93年よりJリーグでプレー。市原や仙台に在籍。『リティ』の愛称で親しまれていた。90年W杯では優勝に大きく貢献。
M.ルンゲ ミハエル・ルンメニゲ
カールハインツ・ルンメニゲの実弟。浦和レッズに在籍
レーネス ウルリッヒ・ヘーネス
引退後はバイエルン・ミュンヘンのGMを務めている。
【DMF】
バンコフ ライナー・ボンホフ
『雷神』。74年W杯優勝に貢献。
ルンバルト ギド・ブッフバルト
90年W杯決勝ではマラドーナを完封。後に浦和レッズに移籍。
2004年現在浦和レッズ監督。
【SDF】
カロツ マンフレート・カルツ
ハンブルガーSVでチャンピオンズカップ優勝やリーグ優勝などを経験。チームの黄金期を支えた名選手
ブラーメン アンドレアス・ブレーメ
あのベッケンバウアーをして「彼ほど完璧な選手に私が教えられる事など何も無い。」と言わしめた、80〜90年代前半のドイツ代表黄金期には欠かせない左サイドバック。
カイザースラウテルンで頭角を現しDFとしては出色の得点力で注目を集めた。86年には名門バイエルンに移籍。リーグ優勝に貢献。さらに88年からはセリエAインテルに移籍しスクデットやUEFAカップを獲得。クリンスマン、マテウスらと共に「ドイツトリオ」として活躍。
サラゴサで1シーズンプレーし古巣カイザースラウテルンに復帰。97-98シーズンで現役を退いたが最後のシーズンでリーグ優勝を果たし花道を飾った。
代表としては3度のW杯に出場。86年準優勝、90年優勝などに貢献。特に90年W杯決勝では、試合終了間際に優勝を決定づけるPKを冷静に決めた。
ブライナー パウル・ブライトナー
『狼男』。 リベロ、サイドバック、中盤と様々なポジションをこなし活躍。レアル・マドリーやバイエルンに在籍。協会と対立し代表を離れた時期もあったが欧州選手権やW杯での母国躍進に貢献した。
ブリューガー ハンス・ペーター・ブリーゲル
-
ボクツ ベルティ・フォクツ
「駿馬のイレブン」の守備の要。74年W杯決勝ではPKを献上するもその後クライフを完封。
【CDF】
アウゲンテーラー クラウス・アウゲンターラー
バイエルン・ミュンヘンに所属。90年W杯ではスイーパーとしてDFラインを統率。見事優勝に導いている。ベッケンバウアーの懐刀とも呼ばれる。引退後はレバークーゼンやニュルンベルクなどの監督を歴任した。
コーワン ユルゲン・コーラー
『鋼の男』。ユベントス、バイエルン、ドルトムントなどで活躍。代表では鉄壁の守備網の一翼を担いW杯優勝などに貢献
シュベルケンバック シュワルツェンベック
バイエルンや代表でベッケンバウアーとコンビを組み数々のタイトルを獲得した。74年W杯優勝
シュリンガー カールハインツ・シュネリンガー
本職は左サイドバックだったが、センターバックも高いレベルでこなす器用さを持っていた。
当時のドイツの選手としては珍しく、国外で活躍した。1FCケルンでデビューしたが、その後ブンデスリーガが設立されて間もなくイタリアのマントーバへ移籍。その後ローマを経てミランに加入し、ここでキャリアのピークを迎える。
コッパイタリア優勝を始め、スクデット、カップウイナーズカップ、チャンピオンズカップを制覇した。その後インターコンチネンタルカップも獲得しクラブ世界一の座に輝いた。
その後74年に母国に戻りテニス・ボルシア・ベルリンで1シーズンプレーした後現役引退。
代表では58年W杯ではレギュラーでは無かったが出場を果たし、以後4大会に渡りレギュラーとして本大会出場。素晴らしいプレーでドイツ代表を牽引し続けたが、残念な事に成績は準優勝に留まり優勝は果たす事が出来なかった。
70年大会では準決勝のイタリア戦で代表として唯一の得点を挙げている。敗色濃厚な後半ロスタイム、グラボウスキーからのクロスを押し込み奇跡的な同点弾を決めた。この試合は結局ベッケンバウアーが肩を脱臼したままプレーしたり、延長戦にもつれ込んだりと、まさに死闘と呼ぶに相応しい名勝負に数えられており、「ゲルマン魂ここに在り」をまざまざと見せつけたと言う意味で、非常にこのゴールは人々に強烈な印象を残しており、未だに語り継がれている。
トール オラフ・トーン
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バウアー フランツ・ベッケンバウアー
『皇帝』。チャンピオンズカップ3連覇、欧州選手権優勝、W杯優勝、バロンドール2度獲得、監督としても90年W杯優勝。サッカー史上最高のDFで考えられうるほぼ全てのタイトルを手中に収めた。
70年W杯準決勝、イタリア戦では肩を脱臼しながら交代枠を使い切った為、腕を固定したまま最後までピッチに立ち続けた。結果として敗れはしたが強烈な印象を人々に残した。
72年欧州選手権ではネッツァーらと共に圧倒的な強さを見せつけて優勝。74年W杯では監督を凌駕する指導力を発揮し、クライフ率いるオランダを下し優勝を果たす。
晩年は北米リーグに活躍の場を移しニューヨーク・コスモスでペレと共にリーグ3連覇を成し遂げる。その後母国に帰りハンブルガーSVでもリーグ優勝を果たす。
引退後はバイエルン・ミュンヘンの会長職などを歴任。90年W杯では実質的には代表監督だがコーチライセンスを持っていなかった為(ドイツではコーチライセンスの取得が半端じゃなく大変)、チームシェフとして見事優勝にチームを導いている。
フェルター カールハインツ・フェルスター
「天使の顔」とも呼ばれた二枚目だがプレイスタイルは華々しさとは程遠く、1対1に抜群の強さを見せ非常に地味で堅実なDFだった。
シュツットガルトで注目を集め19才でフル代表入りを果たした。当時のドイツ代表はベッケンバウアーは引退したものの、まだまだハイレベルにあり、若干19才での代表入りは大きな驚きだった。
その後80年欧州選手権では優勝、82年と86年のW杯では共に準優勝と長きに渡り西ドイツの鉄壁のDFの一翼を支え続けた。
シュツットガルトでは83-84シーズンにクラブ史上初のリーグ優勝をもたらし、86年にマルセイユに移籍。ここでもリーグ連覇などに貢献した。
ヘルミ トーマス・ヘルマー
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マティアス マティアス・ザマー
東ドイツ出身。
ディナモ・ドレスデンでキャリアをスタート。東西ドイツ統一後はシュツットガルトに移籍しリーグ優勝に貢献。インテルでプレーしたあとドルトムントに移籍。名将ヒッツフェルトの下、リーグ連覇を達成。翌年にはチャンピオンズカップを制しドルトムントを欧州NO`1へ導く。
代表では88年東ドイツ代表としてデビュー。東西ドイツ統一後は初の東ドイツからの代表入りを果たし、94年のW杯メンバーに選ばれる。その後96年欧州選手権ではリベロとして見事にチームを統率。優勝の原動力となった。この活躍により96年バロンドール受賞。ベッケンバウアーと彼しかDFでの受賞は今日まで無い。
その後は故障に苦しみ、98年以降はリーグ戦に出場する事なく2000年に現役を引退。同年ドルトムントの監督に就任。降格の危機にあったチームを立て直し1部残留に成功すると01-02シーズンにはリーグ優勝を果たした。
2004年からはシュツットガルトの監督に就任。
マリウス ローター・マテウス
90年バロンドール受賞。ドイツ代表150キャップを誇る鉄人。
18才でボルシアMGと契約。84年にバイエルンに引き抜かれ中心選手として活躍、リーグ3連覇を果たす。88年からはインテルに移籍し、クリンスマン、ブレーメと共に「ドイツトリオ」として活躍。オランダトリオ擁するミランの好敵手としてスクデット獲得やUEFA杯優勝などに貢献。92年からはバイエルンに戻るが、30才を越えているにも関わらずチームの中心として再び輝きを放ち、リーグ優勝4度、リーグカップやUEFA杯優勝などに貢献した。2000年にMLSメトロスターズに移籍し翌年39才で現役引退。その間大きなスランプをあまり経験せず、まさに息の長い活躍を披露した「鉄人」である。
若い頃は攻撃的MFだったが後にボランチやリベロとして活躍。歯に衣を着せない性格で周囲と衝突する事も多かった。特にクリンスマンとの不仲は有名。
代表としては86年準優勝、90年優勝などを始め、最多出場記録を作るなどの輝かしい実績に包まれている。
望み得るほぼ全てのタイトルを獲得したかに見えるマテウスだが、唯一『チャンピオンズカップ(リーグ)』にだけは手が届かなかった。
98-99シーズンの決勝戦、バイエルン対マンチェスター・ユナイテッド。バスラーのFKで挙げた1点を守り、後半マテウスはベンチに下がる。このまま勝ったと思ったロスタイムの3分間にベッカムのCKから、シェリンガムとスールシャールにゴールを奪われ、悪夢のようなまさかの逆転負けを喫した。俗に言う「カンプ・ノウの悲劇」によってマテウスの夢は絶たれる事になった。
ラーツ ウーベ・ラーン
西ドイツ代表で一時浦和にも所属。FWとして活躍しブンデスリーガでも得点王やMVPを獲得した事があり、通算100得点以上を挙げていた名FWだったのだが、浦和移籍後チーム事情によりリベロを任される事に。そこそこ機能はしたのだが、元々不馴れなポジションの為思ったほどの活躍は出来ず、後に怪我もありひっそりと帰国。
代表でも活躍しチームを86年W杯出場に導いている。余談だがクリンスマンの前に西ドイツの18番を付けていたのが彼である。
【GK】
オルコナー ボド・イルクナー
90年W杯優勝GK
カーワン オリバー・カーン
2002年W杯でGKとして史上初のMVPを獲得。
カフカ アンドレアス・ケプケ
-
シューマイヤー ハラルド・シューマッハー
80年欧州選手権優勝GK
メーヤー ゼップ・マイヤー
GK王国ドイツの礎を築いた名手。74年W杯優勝。チャンピオンズカップ3連覇。

【オランダ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
エンセンブリーク ロベルト・レンセンブリンク
トータルフットボールを支えた左ウイング。キャリアの殆どをベルギーなどの国外リーグで過ごした当時としては珍しい選手。
ネップ ジョニー・レップ
スピード感溢れるドリブルを持ち味にアヤックスなどで活躍した右ウイング。74年W杯の準優勝メンバー。78年W杯でも準優勝に輝く。
W杯では通算7得点を挙げ、後にフランスのサンテティエンヌに移籍し若きプラティニの良き手本となった。
バステン マルコ・ファン・バステン
『神は8日目にマルコを創造した』
80年代最強・最高のストライカーで、3度のバロンドールに輝いた。当時世界最強を誇ったACミランのエースストライカーで、オランダが生み出した最高のストライカーでもある。
アヤックスでクライフに見出され活躍。その後ACミランに移籍し、フリットやライカールトと共に「オランダトリオ」として驚異的な活躍を披露。「サン・マルコ」と呼ばれ愛された。
代表では88年欧州選手権、イングランド戦でハットトリックを決め、決勝のソ連戦では伝説的なスーパーボレーを決めて母国を優勝に導く。しかし残念な事にW杯では華々しい活躍を披露する事は出来なかった。
その後は度重なる故障により、4度にも及ぶ手術を行うが結局完治せず、惜しまれつつ31歳の若さで無念の引退に追い込まれる。スーパースターがひしめくACミランが、何年も満足にプレイ出来なかった選手を解雇せず、最後の最後まで復活を待ち続けた程の選手。
その存在感と功績は、いまだに彼の幻影を追うミラニスタたちを大いに苦しめている。
【OMF/SMF】
キースケンス ヨハン・ニースケンス
アヤックスでチャンピオンズカップ3連覇に貢献した「もう一人のヨハン」。PK職人としても有名であった。74年、78年W杯準優勝。
後にバルセロナに移籍しカップウイナーズカップなどのタイトルをもたらした。アメリカ北米リーグでもニューヨーク・コスモスでプレー。ペレらと共に黄金期を作り上げた。
グラーフ ヨハン・クライフ
『フライング・ダッチマン』。トータルフットボールの化身。
「クライフ・ターン」などを武器にアヤックス、バルセロナなどで活躍。バロンドール3度獲得、チャンピオンズカップ3連覇などを成し遂げる。
74年W杯では圧倒的な強さで勝ち進むが決勝で惜しくも西ドイツの粘り強さに屈する。しかしそのセンセーショナルな活躍は注目を集め歴史に名を刻む名チームとなった。
バルセロナ時代は『エルサルバドール(救世主)』と呼ばれクラブに栄光をもたらした。その後アメリカNASL、ワシントン・ディプロマッツやフェイエノールトに在籍。
引退後監督としてもアヤックスでカップウイナーズカップ優勝、バルセロナに悲願のチャンピオンズカップ優勝とリーガ4連覇をもたらし、黄金時代を築いた名将。

蛇足だが彼のニックネームである「フライング・ダッチマン」を「空飛ぶオランダ人」と訳すのは誤りとする事も多いが、
フライングダッチマンとは元々「ケープタウン付近に現れた幽霊船」の意味であり、ワーグナーのオペラ、Flying Dutchman(邦題「さまよえるオランダ人」)の題材にもなっている。『神の怒りに触れたオランダ人の船長が呪いをかけられ、決して沈まぬ幽霊船で永遠にさまよう運命となって云々…』という話。
元々英語圏における「Dutch」ってのは大航海時代の影響からか、あまり好意的な意味では使われない事が多い。(ダッチワイフはちと違うけど)。また「まるで飛ぶような速度で走る=Flying」って意味で使われており、例を挙げるとF1の往年の名ドライバーであるジム・クラークは「フライング・スコッツ」、ミカ・ハッキネンは「フライング・フィン」と、共に「さまよえる〜」よりは「空飛ぶ〜」に近いニュアンスで使われている。
その為「空飛ぶ〜」と訳すのが近い意味なんじゃないか…ってのが個人的な考え。
R.デムール ロナルト・デ・ブール
デ・ブール兄弟の弟。
フォーリット ルート・フリット(グーリット)
『黒いチューリップ』。スリナム系の血を引いている。独特のドレッドヘアを振り乱し、長身ながらスピードとテクニックに優れ、カリスマ的人気を誇った名選手。センターフォワードからリベロまでありとあらゆるポジションをこなす器用さと高いレベルの戦術理解力を持っていた。
フェイエノールトで頭角を表しリーグとカップのダブル達成に貢献し、自身も年間最優秀選手に選ばれる。85年にPSVに移籍するとリベロながら24得点を挙げる活躍を披露。リーグ連覇をもたらす。
87年に当時としては破格の移籍金でファン・バステンらと共にミランに移籍。ここでキャリアのピークを迎える事になる。マラドーナ率いるナポリを打ち破り、ミランに久々となるスクデットをもたらした。この活躍によりバロンドールを受賞。
翌年チャンピオンズカップを獲得し、その次年度も連覇を果たし、トヨタカップも制覇する。
代表でも88年の欧州選手権に主将として出場。母国を国際大会初タイトルへと導いた。しかしW杯ではサッカー協会やチームの内乱、自身の負傷などもあり満足な活躍を披露する事が出来なかった。
晩年は負傷の影響もあり華々しい活躍を披露する事はあまり出来なかったが、それでもサンプドリアやチェルシーなどではタイトル獲得に貢献しており、特にチェルシー時代は選手兼監督としてチームを支えた。97年現役引退。
5ヶ国語を話すインテリでもあり、歌手としても活躍してオランダ国内のヒットチャートで1位を取った事もある。
なお何度か離婚や結婚を繰り返し、後にクライフの姪エステルと結婚した。04-05シーズンから古巣フェイエノールトの監督に就任。
監督時代に「セクシーフットボールをお見せする」の名言(迷言?)を残しているが、それがどういうものかは彼本人しか知らない。
余談だが本人は「フリット」と呼ばれるのをあまり好んでいないらしい。その理由は「天ぷら(フリッターと言う)」を連想させるからカッコ悪いという事だそうだ。
フォンヘネハン ビム・ファンハネヘム
フェイエノールトでチャンピオンズカップ優勝。74年W杯準優勝メンバー。
【DMF】
ビャンセン ビム・ヤンセン
74年W杯のメンバー。圧倒的な運動量で守備面に多大な貢献をし、69-70シーズンにはフェイエノールトでチャンピオンズカップを制した。晩年は北米リーグに参加しクライフとと共にワシントン・ディプロマッツでプレーしており、この時チームとして来日し、ゼロックスカップにも参加している。
引退後、指導者としてJリーグ広島の監督や浦和のコーチなどを務めた。
ビント アーロン・モハメド・ヴィンター
-
ファンデンバーグ ジェラルド・ファネンブルグ
88年欧州選手権優勝。PSVでチャンピオンズカップも制する。ローマとの契約問題のもつれなどがあり、ジュビロ磐田に移籍。磐田の発展に寄与した。
ヨンス ヴィム・ヨンク
アヤックス時代はベルカンプとのホットラインを生かして活躍。海外では今一つの成績に終わったが、98年W杯ではベスト4進出に貢献
リッカート フランク・ライカールト
ACミランのオランダトリオの一人。数々のタイトルを獲得。
引退後はオランダ代表監督を経てバルセロナの監督に。
【SDF】
シュールビム ビム・シュールビア
74年W杯のメンバー。76年欧州選手権では3位入賞に貢献。78年W杯にも出場。右サイドバックだったが積極的な攻撃参加を武器に活躍。アヤックス黄金時代のメンバーでもある。
ニーマン アーサー・ニューマン(ヌーマン)
PSVで活躍後グラスゴーレンジャーズでプレー。チームをリーグ優勝に導いた。左サイドバックとして活躍し、94年と98年のW杯に出場している。2003年現役引退。
ルクロール ルート・クロル
アヤックス、オランダ代表で活躍した左サイドバック。本職はサイドバックだが様々なポジションをこなせるユーティリティ性を持っていた
78年W杯ではリベロと主将を務めチームを準優勝に導いた。後に北米リーグ(NASL)のバンクーバ・ホワイトキャップスにも在籍。チームメイトだったクライフやニースケンスの影に隠れたのか、それともDFとしてベッケンバウアーと同時代に生まれた不幸からなのか、世界的な評価はそれほど高くないが、過小評価をされている名選手の一人であろう。
85年に現役引退した後は指導者の道を歩み、エジプト代表監督やアヤックスのコーチなどを務める。
【CDF】
クルーマン ロナルト・クーマン
大砲とも呼ばれるFKを備えたリベロ。88年欧州選手権優勝メンバーでアヤックスやPSV 、バルセロナで活躍。トヨタカップにも2度出場しているが残念ながら2度とも敗れている。
バルセロナではリーガ4連覇に貢献。PSVでも3シーズン中全てでリーグ優勝と、まさに優勝請負人のような活躍を披露した。残念ながらW杯ではベスト8止まりで大きなインパクトは残せなかった。
また異なるチームでチャンピオンズカップを制している数少ないプレイヤーの一人であり、バルセロナで獲得したチャンピオンズカップ決勝戦では見事なFKで決勝点を挙げた。
なお兄のエルウィン・クーマンも代表として活躍している。
バーン アリー・ハーン
74年W杯の準優勝メンバーでリベロとして活躍。中盤もこなす器用な選手で、高い戦術理解度と絶妙のラインコントロールでトータルフットボールを最後尾から支えた。
2002年W杯の後、中国代表監督を務める。
ベルリスゲン ビム・レイスベルヘン
74年W杯に出場。レギュラー選手の怪我などによりスタメンに名を連ねたが、よく穴を埋めて活躍した。76年欧州選手権にも出場してゴールを挙げている。クラブではフェイエノールトに所属し活躍。UEFA杯などを勝ち取っている。
【GK】
べスパ ルート・ヘスプ
ファン・ハール監督の下、バルセロナの正GKを務めリーグ優勝などに貢献。しかし契約更新せず母国に帰国。オランダ代表にも選ばれている。
ヤングバルート ヤン・ヨングブルード
74年W杯の正GK。この大会ではグローブを使わず素手でゴールマウスを守った。守備範囲が広く足元のテクニックもある器用な選手で、フィールドプレイヤーとして試合に出て得点する事もしばしばあった。スーパーセーブを連発するタイプではなかったが、安定感と広い守備範囲、スイーパーのようなカバーリング能力と高い戦術理解力を備えたGK。若い頃のファン・デル・サルを思い浮かべると近いだろうか。
また当時のオランダはアルファベット順に背番号を割り振りする慣習があり、その影響で背番号8を背負った珍しいGKとしても知られている。W杯の前くらいまではアマチュアの選手だったような記憶があるが定かではない

【イングランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ウィーナン リアム・ウィーラン
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
グリーンス ジミー・グリーブス
173cmと小柄だが、豊かなスピードや優れたポジショニングを武器に60年代にチェルシーやトッテナムで活躍したストライカー。
チェルシー在籍時、18才でリーグ得点王を獲得したのを皮切りに生涯で6度のリーグ得点王に輝く。61年にはミランに移籍したがわずか10試合出場に留まった。ただこの10試合で9ゴールを決めており、イタリアで成功を掴めなかったのは、ホームシックや生活習慣の違いなどが原因では無いかと言われているが、実際の所はよく分かっていない。
帰国後はトッテナムに在籍。リーグ優勝こそ果たせなかったものの、9シーズンで4度の得点王、FAカップ優勝、カップウイナーズカップ優勝等数々のタイトルをクラブにもたらしている。その後ウェストハムに移籍し31才で現役引退。選手生活晩年はアルコール依存症に苦しみ結果的に選手生命を縮める事になった。
代表としては62年W杯で全試合フル出場を果たしベスト8に進出したが、エースとして期待を集めた66年の地元W杯では、負傷もありハーストにポジションを譲ってしまい活躍出来なかった。ただ代表キャップ57試合で44得点という驚異的な得点率を誇っており母国W杯時の不振が実に悔やまれる。
ジェファード ジェフ・ハースト
ウエストハムで活躍。66年W杯では当初は控えだったがエースだったグリーブスが負傷した事でスタメンに抜擢。まさに救世主と呼べる活躍を披露。決勝戦では未だに物議を醸す疑惑のゴールを含むハットトリック。見事優勝に導いた。
その後現在に至るまで、W杯の決勝戦でハットトリックを決めた選手はいない
ソニー トム・フィニー
『プレストンの鉛管工』。本職は右ウイングだったが、左右両ウイングを器用にこなした名選手。弱小チームであったブレストン・ノースエンドに所属しておりタイトルに恵まれず無冠の帝王とも呼ばれた。
代表では同じポジションにスタンリー・マシューズがいたため、年下でもあり器用であったフィニーが左ウイングに回る事で最強の両翼を構成した。W杯にも3度出場しており10年以上に渡って代表として活躍した。晩年はセンターフォワードも務め、38才で現役を引退している。
チャールズ ボビー・チャールトン
66年バロンドール受賞。ミュンヘンの悲劇の数少ない生存者。キャノンシュートを武器に活躍し、チャンピオンズカップを制覇。母国開催のW杯では見事に優勝。
テイマー トミー・テイラー
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
ディッグ ディヴィッド・ペッグ
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
トレジャー トレバー・フランシス
ノッティンガム・フォレストのチャンピオンズカップ優勝に貢献。その後セリエAなどでも活躍。
ハート ロジャー・ハント
-
マリッシュ スタンレー・マシューズ
『ドリブルの魔術師』。初代バロンドール受賞者。35年間一度もカードを貰わなかった名選手。
17才でプロデビューを果たし、19才で代表入り。まだ移籍が活発な時代では無かった為、弱小チームであったストーク・シティでそのキャリアの多くを過ごすが、タイトルには恵まれなかったが、38才で遂にFA杯優勝を果たす。
独特の「マシューズ・フェイント」を武器に活躍を続け、50才まで現役を続けた。彼が現役でいる間に彼の功績を表彰しようと設立されたのがバロンドールである。後にフットボーラーとしては史上初のナイトの称号を与えられる。
ライテル イアン・ライト
『愛すべき悪童』。クリスタル・パレスで頭角を表しアーセナルに移籍。シーズン途中の加入にも関わらず得点王を獲得。98年アネルカにポジションを奪われて移籍。
マンチェスター・シティで活躍するショーン・ライト・フィリップスの父。
レッカー ゲリー・リネカー
86年W杯得点王。晩年Jリーグに移籍するが怪我の為満足なプレイは出来ず引退。引退まで一度もカードを受けなかったジェントルマン。
レスターを1部昇格に導き、エバートン、トッテナムなどでも得点王を獲得する活躍。一時バルセロナにも在籍していたがあまり実績は残せなかった。
晩年Jリーグ名古屋に移籍するが怪我の影響もあり華々しい活躍はできず94年に引退。イングランド代表通算48得点。
引退後、故郷レスターが財政難に陥った時は私財を提供してクラブを救った。
【OMF/SMF】
エールマン エディ・コールマン
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
エドガー ダンカン・エドワーズ
1950年代マンチェスター・Uの中心選手。16才でリーグデビュー、18才で代表デビューと未来を嘱望されていたが、1958年「ミュンヘンの悲劇(※1)」により死亡。
年齢に見合わぬ落ち着きとファイティングスピリッツ、テクニックからパワーまで全てを兼ね備えた完璧なキャプテンでバスビー・ベイブスの中心的存在。彼の前ではボビー・チャールトンですらバイプレイヤーになってしまうほどであった。存命であれば代表キャップも100を裕に超えたであろうと未だに囁かれる伝説的選手。
彼が作った「18才と183日」というフル代表でビュー記録は43年後、オーウェンに破られるまで惨然と輝き続けた記録である。

※1「ミュンヘンの悲劇」
1958年2月6日、欧州チャンピオンズカップ(当時)の対レッドスター・ベオグラード戦を終え準決勝進出を決定させた帰り道、マンチェスター・ユナイテッドの主力メンバーを乗せた飛行機が、給油の為に寄ったミュンヘン空港で離陸に失敗して事故を起こし、選手やジャーナリストなど23名が帰らぬ人となった。
この事故の数少ない生存者には監督のマット・バスビーと若干20才だったボビー・チャールトンらがいる。彼らは必死にチームを建て直し、事故の10年後遂に念願の欧州チャンピオンズカップを制する。
カッペル スティーブ・コッペル
-
ガッシュ ポール・ガスコイン
『ガッザ』の愛称で親しまれた名選手。度重なる怪我とアルコール中毒に悩まされながらも皆に愛された。小太りでおよそサッカー選手の理想とは掛け離れた体型で、プレイスタイルもまた、従来のイングランドのサッカー選手とは一線を画し、ファンタジーに溢れていた。
ニューカッスルでデビュー後、当時としては最高額の移籍金でトッテナムに移籍。FAカップ優勝に貢献する。その後ラツィオに移籍するが負傷などの影響で活躍出来ずスコットランドリーグの強豪、レンジャーズに移籍し復活。リーグ優勝などに貢献した。その後はミドルズブラやエヴァートンなどに所属したがアルコール依存症や怪我に苦しみあまり活躍出来ず、その後中国やUAEのクラブにも所属した。
代表では90年W杯でリネカーらと共に活躍、ベスト4進出に大きく貢献した。しかしその後、94年W杯欧州予選では度重なる負傷でコンディションを崩し予選敗退を喫し、98年大会では大会直前にホドル監督により代表を外され出場出来なかった。96年の欧州選手権では中心選手として活躍しベスト4進出に貢献している。
余談だがラツィオ時代、練習中にデビュー間もない若手に激しいタックルを受けて骨折という大怪我をした事があり「チームのスターを怪我させてしまった」と取り乱す彼にガスコインはシューズをプレゼントした。彼はそれ以降相手を怪我させてしまう激しいタックルではなく、読みとポジショニングで勝負できるDFになろうと人一倍努力した。
そのシューズは今も『彼=アレッサンドロ・ネスタ』の宝物になっていると言う。
クロスワデル クリス・ワドル
90年W杯ではベスト4進出に貢献。テクニカルなドリブラー。
ケルガン ケビン・キーガン
『マイティ・マウス』。78、79年2年連続バロンドール受賞。
小柄ながら豊富な運動量と高い決定力で恐れられた。リヴァプールで数々のタイトルを制覇。 その後ハンブルガーSVに移籍し、同チームに黄金期をもたらした。ただ不運にもW杯とは巡り合わせが悪く、怪我などもありわずか1試合出場に留まった。
引退後はニューカッスルやフラム、マンチェスター・Cの監督などを歴任。ユーロ2000では代表監督も務めたがグループリーグ敗退に終わった。
シャーメッド ティム・シャーウッド
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プレット デビッド・プラット
アストン・ヴィラで頭角を表し、ユベントスやサンプドリア、アーセナルで活躍。90年W杯では見事なゴールを挙げて注目を集めた
【DMF】
M.ジャーンズ マーク・ジョーンズ
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
リンス ポール・インス
マンチェスター・Uやウエストハムで活躍。リーグ優勝等に貢献。代表では98年W杯に出場。
【CDF】
アダムスカ トニー・アダムス
アーセナル一筋の生活を送った名DFで数々のタイトルを獲得。代表でも長く活躍した。02年引退。
ジェント ジェフ・ベント
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
ジャック ジャッキー・チャールトン
ボビー・チャールトンの兄。本名は「ジャック」。長身から「ジラフ(キリン)」と呼ばれ、生涯リーズに所属。 当時2部リーグに所属していたリーズを1部に引き上げ、フェアーズカップ、FAカップに優勝、悲願のリーグ優勝にも導いた。
クラブレベルでは華々しい活躍だったが代表に呼ばれたのは30才近くと遅かった。しかし66年W杯では全試合出場を果たし見事弟のボビーと共に母国を優勝に導いた。
引退後はミドルズブラの監督などを歴任した後、アイルランド史上初の外国人代表監督に就任し、弱小国だったアイルランドにW杯常連国への道筋をつけた。
余談だが監督時代、インタビューでとある記者に『監督業のコツ』について質問された彼はさらりとこう答えたという
「君たちがタイプを見ずにキーボードが打てるように、私は試合の際に何が正しくて、何が正しくないか、本能的に知ることができる」
パレスター ゲリー・パリスター
-
ビャルン ロジャー・バーン
1950年代マンチェスター・ユナイテッドの主力選手。1958年の「ミュンヘンの悲劇」により死亡。
モーア ボビー・ムーア
正確なフィードと冷静な読みで最終ラインに君臨した名DF。66年地元開催のW杯で優勝した時の主将で『ザ・キャプテン』と呼ばれたウエストハムの象徴的存在。
ウエストハムではFAカップに優勝し、23才の時には当時の史上最年少記録でリーグMVPを獲得。翌年にはカップウイナーズカップ優勝に導く。結局生涯で4度のMVPを獲得している。
代表では62年W杯の直前に代表入りし、本大会でもレギュラーを務め全試合に出場した。その後主将を務め、66年の母国W杯では見事優勝を果たし、自身も大会MVPに選ばれている。
しかし70年W杯では大会直前に窃盗罪で逮捕されてしまい4日間勾留される屈辱を味わった。もちろん無実の罪ですぐに釈放されたが、当時の南米と欧州の外交上の微妙な関係などからでっちあげられたと言う説がある。この事件の影響からかチームは本大会で精彩を欠きベスト8で敗退した。
だがそんな黒い噂が駆け巡る中、ブラジルとの試合後にペレとムーアの間でユニフォーム交換が行われ、この光景は南米と欧州の和解の象徴として非常に印象深いシーンとして歴史に残っている。
晩年はフルハムを経てアメリカNASLに在籍し78年に現役を引退した。その後93年、ガンにより51才の若さで死去。
ロート ビリー・ライト
-
【GK】
クレメント レイ・クレメンス
-
サルトン ピーター・シルトン
代表125キャップを誇る名手。41才まで長く代表のゴールマウスを守り、47才まで現役を続けた。
地元レスターで16才の時にデビュー。その後老いたとは言え元イングランド代表の不動の守護神だったバンクスからポジションを奪い、正GKになる。その後ストーク・シティを経て77年にノッティンガム・フォレストへ入団。ここでリーグ優勝とチャンピオンズカップ優勝を味わい、試合には敗れたものの第一回トヨタカップにも出場。その後はサウサンプトン、ダービー・カウンティなどチームを転々とし、97年レイトン・オリエントにて現役を引退した。
このシーズンで「リーグ1000試合出場」という前人未到の大記録を達成。この時既に47才になっていた。
代表でも長く不動の守護神として君臨。82、86、90年と3大会に名を連ねている。特に90年W杯では既に41才であったにも関わらず守護神としてチームに貢献しベスト4進出を果たす。ただ86年W杯アルゼンチン戦では伝説の「神の手ゴール」「5人抜き」をマラドーナに決められてしまった。
彼ほどの名手を持ってしてもマラドーナの前に立てば引き立て役になってしまう程、当時のマラドーナはまさに圧倒的な存在感を放っていたのである。
ジーマン デヴィッド・シーマン
90年代から長くイングランド代表のゴールマウスを守った守護神。クラブでもアーセナルの守護神として数々のタイトル獲得に貢献。2004年に引退。
バング ゴードン・バンクス
その名前から『銀行』とも呼ばれ鉄壁の守備を誇った。
70年W杯では神様ペレをして「私が見た中で最高のセービング」と言わしめた。
事故の影響で目を痛め一度引退するが、後にアメリカ北米リーグで復帰し2シーズンプレーした。

【ウェールズ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
イラシュ イアン・ラッシュ
リヴァプールに数々のタイトルをもたらした名ストライカー。しかしユベントス移籍は失敗に終わった。
ジョールズ ジョン・チャールズ
『静かなる巨人』。FWからDFまで幅広くこなし、ユベントスでは得点王に輝くなど大成功を収めた。
スパーク マーク“スパーキー”ヒューズ
マンチェスター・U復活の原動力となった。リーグ優勝等に貢献したがファーガソンによりチームを追われる。チェルシーでもタイトル獲得に貢献。晩年は母国代表のプレイングマネージャになり、引退後そのまま監督にスライド就任。
ユーロ2004予選ではギグスらを擁し、イタリアを破り旋風を巻き起こすが最終的にはプレーオフでロシアに惜しくも敗退。

【スコットランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ジャストン ジミー・ジョンストン
-
デルグリッシュ ケニー・ダルグリッシュ
キーガンが去った後のリヴァプールを支えた名選手。3度のチャンピオンズカップ優勝に輝く。
ラー デニス・ロー
『金髪の悪魔』と呼ばれ恐れられた。64年バロンドール受賞。
彼の熱狂的なファンが自分の息子に同じ名を付け、後のデニス・ベルカンプが誕生したのは有名な話。
【DMF】
ブロミナー ビリー・ブレムナー
『暴れん坊』とも呼ばれたリーズのキャプテン。中盤での厳しいチェックとタイミングの良い攻め上がりで活躍。
17才でトップデビューを果たし当時2部にいたリーズを1部に復帰させ、リーグ優勝やFAカップ、フェアーズカップ優勝にも導く。特に69-70シーズンの活躍は目ざましく、リーグMVPにも選ばれた
代表では74年W杯にキャプテンとして出場したが惜しくも予選リーグで敗退。

【北アイルランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ベルファスト ジョージ・ベスト
『5人目のビートルズ』とも呼ばれ絶大な人気を誇った天才ウイング。 マンチェスター・Uで活躍しチャンピオンズカップ優勝、バロンドール受賞等を経験する。練習嫌いとして知られ『最高のレベルを極めるには、即興で創られる芸術が必要なんだ』との名言を残した。
その後奔放な私生活とアルコール依存症により選手生命を縮め、31才で現役を退いた時には全盛期の輝きは見る影も無くなっていた。彼の引退から4年後、母国はW杯出場を果たすが、当然そこに彼の姿は無かった。
ホワイトナイト ノーマン・ホワイトサイド
-
【OMF/SMF】
ブランター ダニー・ブランチフラワー
トッテナムの伝説的英雄。強豪とは言えないスパーズをリーグ優勝、FA杯優勝、UEFA杯優勝に導いた。
【GK】
ジャニング パット・ジェニングス
スパーズやガナーズのゴールマウスを長く守った名GK。
41才まで現役を続け、北アイルランド代表として歴代最多の119キャップを誇る。W杯は37才の時、82年大会に出場。86年大会にも出場しブラジルに敗れ引退。

【スペイン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アムンソン アマンシオ
-
キサ キコ・ナルバエス
-
サリヴァン フリオ・サリナス
バルセロナなどで活躍。W杯でも86、90、94と3大会連続出場。その後Jリーグ横浜マリノスに移籍。
バトラゲーニョ エミリオ・ブトラゲーニョ
『エル・ブイトレ(はげ鷲)』。レアル・マドリーでリーガ5連覇、UEFA杯優勝など数々の実績を残したマドリーの英雄。
ファント フランシスコ・ヘント
『カンタブリアの疾風』と呼ばれたレアル・マドリー黄金期の左ウイング。通算6度のチャンピオンズカップ優勝など輝かしい実績を持つ
ファント ファニート
-
ミッチー ミッチェル
-
【OMF/SMF】
ルイーザ ルイス・スアレス
『アルキテクト(建築家)』と呼ばれ、バルセロナで活躍。その後インテルに移籍し黄金期をもたらす。
60年バロンドール受賞。64年欧州選手権優勝。
【DMF】
アマル ギジェルモ・アモール
-
ガルディ ジョゼップ・グァルディオラ
バルセロナの下部組織で育ち、ヨハン・クライフに見い出されトップデビュー。リーガ優勝とチャンピオンズカップ優勝を経験。バルセロナ黄金時代の中核を成した。
2001年、若返りを計ろうとするチームへの配慮からか、後継者とも言えるシャビの更なる成長を促す為か、シーズン途中に異例の退団表明。翌年からセリエAに移籍するがドーピング騒動などに巻き込まれ、その実力に見合った活躍を披露出来ず、その後カタールに移籍。
代表としてはU-23スペイン代表として92年地元バルセロナ五輪で金メダルを獲得。その後もフル代表入りし94年W杯では決勝トーナメント進出に貢献し、キャリアのピークで98年W杯を迎えるはずであったが、前年に故障に見舞われ棒に振る事になったのが惜しまれる。
特に98年大会前のスペイン代表は、数年間に渡り親善試合を含め負けが無く『無敵艦隊』と呼ばれ優勝候補にも挙げられる程充実していたが、チームの心臓部とも言えるグァルディオラを本大会で欠き、スビサレッタの致命的ミスなども重なり、無敵艦隊は予選リーグで沈んだ。
【CDF】
シエロ フェルナンド・イエロ
長くレアル・マドリー不動のレギュラーとして活躍。5度のリーガ制覇、3度のCL優勝などスター軍団の主将として数々のタイトルを獲得。ボランチ、リベロ、センターバックと幅広いポジションをこなせる器用さを有しており、DFながらPK、FKの名手で91-92シーズンにはとてもDFとは思えない21ゴールを挙げている。
しかし02-03シーズン後、クラブ側との衝突から突如解雇されカタールのアル・ラヤンへ移籍。
代表でも長くレギュラー、主将として活躍したが、大きな大会ではベスト8止まりに終わった。DFながらラウールに塗り替えられるまでスペイン代表の最多得点記録を保持していた。
ピコ パコ・ヘメス
-
【GK】
スビレッダ アンドーニ・スビサレッタ
ビルバオやバルセロナなどで活躍。代表の正GKとしても長く君臨。しかし98年W杯ナイジェリア戦で致命的なミスを犯してしまい敗戦。それが切っ掛けとなり現役引退。

【ポルトガル】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
エスタシオ エウゼビオ
『黒豹』と呼ばれた同国史上最高のストライカー。65年バロンドール受賞
アフリカ、モザンビーク生まれ。当時はポルトガルの植民地だった為、他の多くのプレイヤーと共に彼もポルトガルのユニフォームに袖を通す事になった。その後ベンフィカを11度のリーグ優勝とチャンピオンズカップ優勝に導き、自身も7度の得点王とバロンドールに輝いた。
圧巻は66年W杯北朝鮮戦。開始早々3点のリードを許すがその後エウゼビオ一人で4得点を挙げて、チームは5-3の大逆転勝利を収め、チームは3位。彼も同大会の得点王にも輝く。
【OMF/SMF】
コルーナ マリオ・コルナ
-
ディコン デコ
04では実名化されたから多分居ない?
ヒュットレ パウロ・フットレ
スポルティング・リスボンからポルトに移籍。ポルトでリーグ連覇、チャンピオンズカップも制覇。その後アトレティコ・マドリーで活躍。幼いラウール・ゴンザレスの憧れの名選手だったのは有名。
96年に選手生命に関わる大怪我を負うが何とか復活を果たす。しかし全盛期の面影は無く、Jリーグ、横浜フリューゲルスに移籍するが活躍できずそのまま引退。
W杯には86年大会に出場するもグループリーグ敗退に終わる。
【DMF】
ソウザ パウロ・ソウザ
ゴールデン・ジェネレーションの一員。豊富なスタミナと戦術眼、驚異的なダイレクトパスの精度を誇り、ユベントス時代は世界最高の守備的MFの名を欲しいままにした。
ベンフィカとスポルティング・リスボンを経て94年ユベントスに移籍。当時はミランの黄金時代でユーベは9年もの間スクデットから遠ざかっていたが、見事この年スクデット奪還を果たす。
翌年チャンピオンズリーグ優勝も果たしキャリアの絶頂期を迎えるが、同時に膝を負傷してしまい、翌年にはドルトムントに放出されてしまう。
ドルトムントでは故障に苦しみながらもチャンピオンズリーグ決勝進出に貢献。決勝戦では古巣ユーベと直接対決だったがこれを制し、見事リベンジを果たした。これにより「異なるチームで2年連続チャンピオンズリーグ制覇」という偉業を達成した。
これらの活躍により再びセリエAの舞台を踏む事になるが、膝の故障の悪化とフロント側との衝突などもあり活躍する機会に恵まれず、インテル、パルマを経て2000年にギリシャの名門パナシナイコスに移籍。
ここではレギュラーとして活躍しチームのチャンピオンズリーグの1次リーグ首位通過に大きく貢献するなどして活躍。しかしまたしてもフロントと衝突し退団。スペインのエスパニョールに新天地を求めるが、度重なる負傷の為2002年7月、31才の若さで現役を退いた。
代表では89年ワールドユース優勝メンバーで(通称『ゴールデン・ジェネレーション』)フィーゴやルイ・コスタらと組みその後フル代表でも素晴らしい中盤を形成したがタイトルには恵まれなかった。
引退後はポルトガルサッカーの発展の為に奔走、母国で行われた2004年欧州選手権では大会の運営に携わった。同世代であるフィーゴやルイ・コスタの活躍と史上初の決勝進出という母国の快進撃、そしてギリシャに無念の敗戦。
本来その舞台に立っているべきだった男は、いかなる思いでその光景を見つめていたのだろうか。

【チェコ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ステラルビー トマス・スクラビー
-
ネジェドニー オルドリヒ・ネイエドリー
1934年W杯得点王
【OMF/SMF】
ハショック イワン・ハシェック
市原、広島でプレー
ヨセブスト ヨゼフ・マソプスト
『フィールドのスラローマー』と呼ばれ62年W杯でチェコスロバキアを準優勝に導く。同年バロンドール受賞。
【CDF】
コバレツ ヤゼク・コバネツ
-

【スロバキア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【GK】
メロ ミロスラフ”MIRO”メンテル
浦和レッズに在籍。

【ハンガリー】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
コシテュ サンドール・コチシュ
『ゴールデンヘッド』の異名を取り驚異的なヘディング能力を武器に活躍。
マジック・マジャールのストライカー。54年W杯得点王。78年自殺。
ティゴール ゾルタン・チボール
マジック・マジャールの名ウイング。52年オリンピックで金メダル獲得に貢献。
フンバルト フローリアン・アルベルト
67年バロンドール受賞。チャンピオンズカップで1試合5得点、得点王などを獲得。フィレンツヴァロシュでフェアーズ杯(後のUEFA杯)にも優勝。
17才で代表入り、62年W杯ブルガリア戦でハットトリックを記録。得点王。チームもブラジルを破るなど活躍。
ブガイ ラズロ・ブダイ
マジック・マジャールの右ウイング。
ブストス フェレンツ・プスカシュ
マジック・マジャールの主将。左足の魔術師。ハンガリー動乱の後レアル・マドリーに移籍。ディ・ステファノらとコンビを組み黄金期を形成。
ベネット フェレンツ・ベネ
東京オリンピックで12得点を挙げ得点王に輝く。チームも金メダルを獲得した。W杯ではブラジルを倒すゴールも決めた。
【OMF/SMF】
ヒゼブチ ナーンドル・ヒデクチ
マジック・マジャールのセンターフォワード。当時の表記ではセンターフォワードだが、やや下がり目の位置でプレイしていた。2002年死去。
【GK】
グロスキー ジュラ・グロシチ
マジック・マジャールのゴールマウスを守った守護神。

【セルビア・モンテネグロ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
イェルロビッチ ドラゼン・イェルコビッチ
ユーロ60、62年W杯で得点王を獲得。
ジェイッチ ドラガン・ジャイッチ
ユーゴスラビアが生み出した史上最高のタレント。68年欧州選手権準優勝
スコイトビッチ ドラガン・ストイコビッチ
『ピクシー』。90年W杯で一躍注目を集める。
その後マルセイユに移籍するが怪我や監督との確執、八百長騒動などに巻き込まれ94年名古屋グランパスに移籍。そのプレイはまさにJリーグの財産であった。
95年天皇杯優勝など華々しい活躍を見せリーグMVPなども獲得。しかし代表では92年欧州選手権の出場権を有していながら政治問題に巻き込まれ参加権利を剥奪されてしまい、98年W杯まで国際舞台に上がる事すら出来なかった。
2001年1stステージ終了後に惜しまれつつ現役を引退。「年金リーグ」と揶揄され、衰えたビッグネームと中堅どころの外人選手が多かったJリーグに『世界とは何か』を教え続けてくれた名選手。引退後はセルビア・モンテネグロのサッカー協会会長などを務める。
ビヤトビッチ プレドラグ・ミヤトビッチ
『バルカンの速射砲』と呼ばれ、バレンシアやレアル・マドリーなどで活躍。マドリーではCL優勝に導く。
晩年は病の息子を看病する為、数々のオファーを断りスペイン2部のレバンテに在籍。2004年現役引退。
ラビチェビッチ デヤン・サビチェビッチ
『ジェニオ(天才)』の異名を持ち、90年代ミランで大活躍。チャンピオンズカップ優勝に輝く。
しかし代表では全盛期に政治的理由から国際舞台から締め出され活躍出来なかった。
【OMF/SMF】
チャフスキー ズラトコ・チャイコフスキー
-
バスロマル ネナド・マスロバル
市原、福岡に在籍。
【DMF】
マリノビッチ スラビシャ・ヨカノビッチ
-

【クロアチア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
スカル? ダボル・シュケル(スーケル)
98年W杯では母国を3位に押し上げる活躍。自身も得点王を獲得した。
国内リーグで活躍後スペインのセビリアへ移籍。そこでも活躍し名門レアル・マドリーに引き抜かれリーグ優勝に貢献。97-98シーズンはチャンピオンズリーグも優勝。その後はアーセナルやウェストハムを経てドイツの1860ミュンヘンで2003年現役引退。
代表では何と言っても98年W杯の大活躍が光る。2002年大会も参加したが出場は1試合に留まりチームもグループリーグ敗退に終わった。
98年大会では日本とグループリーグ2戦目に対決、決勝ゴールを挙げて日本に世界との差を痛感させた。
トゥレ アルミール・トゥルコビッチ
-
ボバシッチ アレン・ボクシッチ
マルセイユ、ユベントス、ラツィオなどで活躍。98年W杯は怪我に泣き出場出来なかった。
92シーズンから加入したマルセイユでは得点王とリーグ優勝に貢献。チャンピオンズカップではミランを破り優勝を果たす。しかし八百長騒ぎに巻き込まれラツィオに移籍。その後96-97シーズンにはユベントスへ移籍しスクデット獲得とトヨタカップ優勝に貢献。翌年再びラツィオに戻るが怪我や起用法などの問題で2000年にプレミアのミドルズブラへ。2003年現役引退。
代表では独立間も無い祖国クロアチアの為に獅子奮迅の活躍を疲労し母国を2大会連続のW杯出場へと導いている。しかし98年W杯は大会前にヒザを故障し不参加。2002年は出場を果たしたもののピークは過ぎておりチームもグループリーグ敗退に終わった。
もし万全な状態で98年大会に出場していればフランスの優勝は無かったかもしれない、と言われる程当時のスーケルとボクシッチの2トップは強力だったのである。
ララトビッチ ミラン・ラパイッチ
ペルージャ時代に中田とコンビを組み活躍。2002年W杯ではイタリアを破る決勝弾を挙げた。
【OMF/SMF】
アシモビッチ アリョーシャ・アサノビッチ
-
アルニ ロベルト・ヤルニ
左サイドの神とまで呼ばれた名選手。ベティスやレアル・マドリーで活躍。CL優勝も経験。98年W杯では3位に大きく貢献
プロシキ ロベルト・プロシネツキ
『バルカンの黄金銃』と呼ばれた。W杯で「異なる国でゴールを挙げた唯一の選手」という記録も持つ。
レッドスターでチャンピオンズカップ優勝、98年W杯3位に大きく貢献。
ボロン ズヴォニミール・ボバン
90年代のミランの司令塔として君臨。ディナモザグレブ時代、18才で主将を任されるなどチームの中心選手となり活躍していたが、90年、レッドスターとの試合中の暴動でサポーターを守る為警官に飛び蹴りを入れ4ヶ月の出場停止処分を受ける。これによりW杯出場も棒に振る事になったが、逆にファンから愛されるきっかけになった。
91年からはミランに移籍し1年間のバーリへのレンタルを経てミランの主力として活躍。スクデット制覇やチャンピオンズリーグ優勝にも貢献。2001年セルタに移籍するが皇帝モストボイとのポジションの兼合いからか起用法に不満を漏らしシーズン半ばで引退。
代表では何と言っても98年W杯で母国を初出場3位に導いた事が挙げられる。グループリーグで日本と対戦した試合は欠場したが、後に「日本は技術的には申し分ない素晴らしいチームだった。しかしあの時の我々とは背負っているものが違い過ぎた」と語ったと言う。
同じW杯初出場国だったが「W杯に出る」事を目標としていた国と「W杯で勝つ」事を目標としていた国。1-0のスコアが意味する壁を乗り越える為には、日本はまだ4年の歳月を必要としていた。
【DMF】
ゾルト ズボニミール・ソルド
-
【CDF】
スティッチ イゴール・スティマッツ
-
ビミッチ スラベン・ビリッチ
-

【ルーマニア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ドラゴミレス イリエ・ドミトレスク
94年W杯ベスト8進出に貢献
ラザレフ マリウス・ラカトシュ
-
【OMF/SMF】
タジ ゲオルゲ・ハジ
『東欧のマラドーナ』と言われ、3大会連続で母国のW杯本戦出場に貢献。94年はベスト8に進出。晩年移籍したトルコのガラタサライをUEFA杯優勝に導いた。
【DMF】
Ga.ポラック ガブリエル”GABI”ポペスク
PSVやバルセロナで活躍。その後トルコのガラタサライでハジと共にUEFA杯優勝に貢献。
【CDF】
ブロディッチ ミオドラグ・ベロデディチ
-
ぺトレンコ ダン・ぺトレスク
-

【ブルガリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
エスタディノフ エミール・コスタディノフ
-
ストニコフ フリスト・ストイチコフ
94年バロンドール受賞。W杯では王者ドイツを準々決勝で下す活躍を披露して母国をベスト4に導き、自身も得点王にもなる。クライフ監督の下バルセロナで数々のタイトルを獲得。チャンピオンズカップを制しトヨタカップでも来日し見事なゴールを決めている。後にパルマやJリーグの柏、アメリカのMLSなどでもプレーした。
CSKAソフィア時代問題を起こし永久追放処分を受ける(結果的には約半年で復帰)など頻繁に問題を起こしており、よく単なる問題児に見られるが、実は6ヶ国語を話せるなどなかなかの頭脳派でもある。
94年W杯準々決勝ドイツ戦の直前に彼が残した名言がある。
「向こうは空の上、こっちは地上だけど、俺にだって奇跡を起こすことができる…」
彼は見事に奇跡を起こした。
【OMF/SMF】
バリコフ クラシミル・バラコフ
ストイチコフらと共にブルガリア黄金期の中心選手。シュツットガルトのボビッチ、エウベルとのコンビは「魔法のトライアングル」と呼ばれ相手チームから恐れられていた。
べネフ フリスト・ボネフ
70年代のブルガリアを代表する名選手。ロコモティフ・プロフディフではタイトルに恵まれなかったが代表では主将を務め、70年、74年W杯に出場し2得点を挙げた。76年には日本にも来日し日本代表とテストマッチも行った。(結果は日本の1分2敗)。後にギリシャのAEKアテネに移籍し国内カップ戦で優勝。代表通算96試合47得点の記録を残した(これは現在も同国の最多記録)。
94年W杯ではコーチとして母国の躍進に貢献。その後代表監督となるが、ストイチコフら中心選手たちとの関係が悪化し、98年W杯で惨敗を喫して解任。
ルチコフ ヨルダン・レチコフ
-

【ベルギー】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
カールマンス ヤン・クーレマンス
80年欧州選手権準優勝、86年W杯で4位に貢献。
ノリス ルク・ニリス
-
バンホースト ポ−ル・バンヒムスト
-
【OMF/SMF】
ビルマッツ マルク・ヴィルモッツ
-
シフォン エンツォ・シーフォ
イタリア人だがベルギーで生まれ育ち、18才で代表入り。86年W杯ではベスト4進出。その後も長くベルギー代表の10番を背負い続けた。母国のアンデルレヒト、イタリアのユベントス、トリノ、フランスのモナコなどで活躍。トリノではUEFA杯優勝に輝いている。
【SDF】
ベイツ エリック・ゲレツ
ベルギー代表の不動の右SB。86年W杯の4位に貢献。
フィジカルやテクニックなどが飛び抜けていたわけではないが、優れた戦術理解力でチームメイトの信頼を集めていた。特にラインコントロールに秀でており、優れたキャプテンでもあった。
祖国の名門スタンダール・リエージュでデビューし注目を集める。81-82、82-83シーズンにリーグ優勝を果たしミランに移籍する。しかしリエージュ時代の八百長疑惑に巻き込まれ出場停止処分を受けてしまう。
その後85年にPSVに移籍すると輝きを取り戻し、在籍7シーズン中に6度の優勝、3度のカップ戦優勝、チャンピオンズカップ優勝などクラブに黄金期を築いた。
代表としては80年欧州選手権で準優勝に輝くとその後3大会に渡り不動の右サイドバックとしてW杯出場を果たす。特に86年大会ではシーフォらと共にキャプテンとしてベスト4という素晴らしい成績を収めた。
92年に現役を引退。引退後はクラブ・ブルージュやPSVのなどの監督を歴任、指導者として活躍している。
【GK】
パドローム ミシェル・プロドーム
長年パフの控えに甘んじていたが90年代に華々しい活躍。94年W杯ではベストイレブンに選出される。
ポフ ジャン・マリー・パフ
バイエルン・ミュンヘンと母国代表のゴールマウスを守り続けた守護神。80年欧州選手権準優勝、86年W杯4位に大きく貢献。

【オーストリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
シンドラー マティアス・シンデラー
痩せていた体型から『紙の男』と呼ばれ「ブンダーチーム」の中心的選手でオーストリア史上最高の選手。
34年W杯では地元イタリアに敗れ4位(当時のイタリアはムッソリーニ政権下で、ありとあらゆる要素がイタリアに味方していた)。38年W杯は第二次大戦に巻き込まれ祖国はナチスドイツに併合され消滅。
ユダヤ人であった為ナチスに追われ続け、逃亡生活を続けていたが最後にはチームメイトに密告され、全てに絶望し恋人と共に自殺。35才の短い生涯を閉じた。
クルンケル ハンス・クランクル
黄金の左足から繰り出されるシュートでゴールの山を築いた70〜80年代のヨーロッパに名を轟かせた名ストライカー。オーストリアの名門ラピッド・ウィーンで活躍、生涯で5度の得点王に輝く。特に78年は41ゴールをあげ「ゴールデン・ブーツ」を獲得している。
78年W杯に出場し、強豪西ドイツを下すなどして1次リーグ首位通過に貢献。このシーズンのバロンドール選考でも2位に入った(受賞はケビン・キーガン)
W杯後にはこの活躍でクライフの穴を埋めるべくバルセロナに入団。初年度にいきなりリーグ得点王を獲得し、カップウイナーズカップ優勝にも輝いた。
しかし交通事故に遭ってしまい退団、帰国を余儀なくされ、わずか1シーズンでラピッド・ウィーンに復帰する。復帰後はリーグ連覇などに貢献、自身も得点王を獲得。
82年のW杯にも出場を果たし再び1次リーグ突破に貢献。85年のカップウイナーズカップでは同国クラブ史上初の決勝進出も果たした。89年に現役引退。
ホルスト アントン・ポルスター
80〜90年代のオーストリア代表の中心選手。国外のクラブでも活躍し、98年W杯欧州予選突破の原動力となる
【CDF】
フュルブリンガー ファイヤージンガー
ドルトムントなどで活躍しトヨタ杯も獲得している。代表でも98年W杯予選で活躍。
【GK】
アクセル ミハエル・コンセル
-

【スイス】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
トゥルマシズ クビライ・トゥルキルマズ
-
【GK】
カスパロ マルコ・パスコロ
-

【ポーランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ラコ グジェゴシ・ラトー
74年W杯得点王。母国の3位入賞に貢献。
【OMF/SMF】
ダイナ カジミエシ・デイナ
-
バニュック ズビグニェフ・ボニエク
80年代のポーランドサッカーを代表する名選MFで82年W杯3位の原動力。
78年W杯では1次リーグの首位通過に貢献し、4年後の82年大会ではこの大会の優勝国イタリアと1次リーグで同居するが首位で通過。2次リーグではハットトリックを達成し準決勝進出を果たした。しかし累積警告で準決勝を欠場しチームは再び対戦したイタリアに完敗した。3位決定戦ではプラティニ擁するフランスと対戦するがボニエクが復帰したポーランドが勝利を収め見事3位に入賞。
当時の東欧諸国では選手の国外移籍に厳しい制限が設けられており、30才を過ぎないとなかなか認められなかったが、ボニエクはこの活躍で国外移籍が認められ26才でイタリアのユベントスに加入。プラティニやロッシらと組み数々のタイトルを獲得し、チャンピオンズカップも獲得した。
85年にはローマに移籍しコッパイタリアを制し88年引退。
【GK】
ミノフスキー ヤン・トマシェフスキー
-

【アイルランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
ブリーディ リアム・ブラディ
-
【DMF】
パグラー ポール・マグラー
マンチェスター・Uで活躍したが、就任したファーガソンと関係が悪化し更迭。しかし移籍したアストン・ヴィラでは「神」とまで呼ばれ愛された名選手。W杯でも母国の決勝T進出に貢献。

【デンマーク】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アランセン アラン・シモンセン
『小さな巨人』。77年バロンドール受賞。ボルシアMGの黄金期を支えた快足ウイング。その後バルセロナなどで活躍。
ゴルケーア プレベン・エルケーア・ラルセン
『猛牛』と呼ばれ恐れられた「ダニッシュ・ダイナマイト」のエースストライカー。
18才でドイツの名門1FCケルンに引き抜かれる。しかし奥寺らとの外国人枠争いに敗れ、ベルギーのロケレンへ移籍。そこでポーランドの伝説的名手ルバンスキに出会い、人間的にも選手としても大きく成長を遂げる。最終的には主将を任される程成長した後、84-85シーズンにセリエAのエラス・ヴェローナに移籍。シーズン序盤にユベントスを倒すと勢いに乗り、遂に奇跡的なスクデット獲得を果たす原動力になった。
代表では84年欧州選手権でベスト4進出。86年W杯ではハットトリックを挙げるなど活躍。優勝候補西ドイツを下しグループ首位で予選通過を果たす。しかし決勝トーナメント1回戦で『エル・ブイトレ』エミリオ・ブトラゲーニョに4得点を決められてスペインに敗退。
その後母国に帰り90年に現役引退。なお全盛期にバロンドールの投票で2度惜しくも受賞を逃し涙を飲んだ事がある。その時のバロンドールはどちらの年もプラティニ。まさに生まれた時代が悪かったとしか言えなかった。
B.ニストロップ ブライアン・ラウドルップ
ラウドルップ兄弟の弟。 バイエルン・ミュンヘンで活躍後セリエAフィオレンティーナに移籍するがチームは不振を極めB降格を味わう。翌年ミランに移籍するがポジション争いに敗れスコットランドへ。そのレンジャーズで復活を果たし大活躍。リーグ3連覇に貢献しリーグの最優秀選手にも外国人として初めて2度選ばれた。
その後チェルシーなどを経てアヤックスへ移籍。怪我などの影響もあり2000年に31才で惜しまれつつ現役引退。
92年欧州選手権にユーゴの代わりに出場し、まさかの優勝に輝く。98年W杯でも兄と共に活躍しベスト8に導く。大会後若手にチャンスを与える為29才で代表引退した。
【OMF/SMF】
M.ニストロップ ミカエル・ラウドルップ
ラウドルップ兄弟の兄。父もデンマーク代表の選手というサッカー一家に生まれ、ユベントス、バルセロナ、レアル・マドリーと渡り歩き活躍。晩年にはJFL時代のヴィッセル神戸に在籍しJ昇格に貢献。
特にバルセロナではリーガ4連覇やチャンピオンズカップ優勝など黄金期を作り上げた。神戸の後はアヤックスに移籍してリーグ制覇に貢献し現役を引退。所属したチームが次々とリーグ優勝するという強運にも恵まれていた。
86年W杯で活躍した『ダニッシュ・ダイナマイト』の中心選手。しかしその後監督と戦術を巡り衝突。代表召集を拒否し92年の欧州選手権奇跡の優勝メンバーには名を連ねることが出来なかった。 その後98年W杯では弟と共に出場しベスト8進出に貢献。
【CDF】
モルセン モアテン・オルセン
-
【GK】
シュマイゼン ペーター・シュマイケル
『ビッグデン(偉大なデンマーク人)』の愛称で親しまれた90年代世界最高のGK。マンチェスター・Uの守護神。98-99年シーズンはチームの3冠達成に大きく貢献。代表でもユーロ92でスーパーセーブを連発し、奇跡の優勝に輝く。
その後スポルティング・リスボン、アストン・ヴィラを経てマンチェスター・シティで現役を退いた。
『カントナとシュマイケルがいればユナイテッドは1-0で勝てる。なぜならカントナが1点を取りシュマイケルが1点も与えないからだ』

【スウェーデン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
K.アンデルセン ケネト・アンデション
94年W杯3位に貢献。その後はセリエAのクラブを渡り歩き活躍。長身を生かしたポストプレイは当時世界でも1、2を争うレベルだった。
ダーウィン マルティン・ダーリン
94年W杯で活躍。同国史上初の黒人選手の代表入りとして話題になった。
ヘムロン クルト・ハムリン
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【OMF/SMF】
インテション クラス・インゲション
-
ブロマン トマス・ブロリン
『スウェーデンのマラドーナ』と呼ばれ94年W杯では大活躍。
国内クラブで頭角を表し90年W杯の活躍で(チームは全敗に終わったが)翌年からセリエAのパルマに移籍。91-92シーズンにクラブに初のコッパイタリアをもたらす。翌年にはカップウイナーズカップとヨーロッパスーパーカップ優勝も果たし、94-95シーズンには決勝でユベントスを破りUEFAカップも制覇する。
代表では92年欧州選手権で得点王を獲得。チームも初のベスト4進出を果たす。94年W杯ではまさに獅子奮迅の活躍。母国の3位入賞に大きく貢献し自身も大会のベストイレブンに選ばれた。
しかし94年秋の欧州選手権予選ハンガリー戦で大怪我を負い、以降徐々にパフォーマンスを落として行き、95-96シーズンにパルマを去りチームを転々とするが以前のような活躍は出来ず、それが原因で結局29歳での引退を強いられた。
右腕を突き上げてジャンプして回転する独特のパフォーマンスが印象的だった。
【SDF】
ネリュソン ローランド・ニルソン
-
【GK】
B.アンデルセン ベング・アンデション
-
トラマリン トーマス・ラベリ
92年地元開催のユーロでベスト4進出の原動力となる。94年W杯ではPKを止めるなど大活躍を見せチームを3位に押し上げた。

【ノルウェー】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
H.フェロー ハバード・フロー
-
J.フェロー ヨスティン・フロー
-
【CDF】
ルネル ルネ・ブラツェット
-

【フィンランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
バタネン ミカ・マッティ・パーテライネン
-
【DMF】
ラーカイソ ミカ・レーコスオ
-

【ロシア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
イワコフ ワレンチン・イワノフ
62年W杯得点王
フレンコ オレグ・サレンコ
94年W杯で1試合5得点の記録を残し得点王に輝く。
ムハイルチェンコ アレクセイ・ミハイリチェンコ
-
【OMF/SMF】
ラビアコフ イゴール・レディアコフ
-
【CDF】
ティゼーバ アレクサンデル・チバーゼ
-
【GK】
ヤロン レフ・ヤシン
『黒蜘蛛』と呼ばれ、1963年にGKとしては現在も唯一のバロンドール受賞者。56年メルボルン五輪で金メダル獲得。60年欧州選手権優勝にも貢献。
選手生活の中で150以上のPKを止めた伝説を持つ、まさに史上最強のGK。

【ウクライナ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ブラノフ イゴール・べラノフ
86年バロンドール受賞。ディナモ・キエフでカップウィナーズカップ優勝。86年W杯では決勝トーナメント1回戦のベルギー戦でハットトリックを達成し活躍。88年の欧州選手権では見事準優勝までチームを導いた。
その後は29才で国外移籍を果たし、ボルシア・メンヘングランドバッハに入団するがパッとせず、母国に帰り93年に引退。選手としてのピークは短かったが残したインパクトはとても鮮やかだった。
ブロヘン オレグ・ブロヒン
75年バロンドール受賞。初代『ウクライナの矢』。86年W杯ベスト8
ポゴレロフ オレグ・プロタソフ
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【ベラルーシ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
アレイミトフ セルゲイ・アレイニコフ
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