【ドイツ】 |
 選手名(登場名) |
 モデル選手名(本名) |
 コメント、備考 |
【FW】 |
アブラムシック |
リュディガー・アブラムチック |
- |
ヴァラー |
ルディ・フェラー |
陽気なヒゲのオッサン。『狐』の愛称で親しまれる。
2002年W杯ではドイツ代表監督として準優勝。 |
オルヴィネディッツ |
フランク・オルデネビッツ |
リティに誘われ日本へ。市原や仙台に在籍。94年Jリーグ得点王。
『オッツェ』といえば思い出す人も多いか。 |
グラゴスキー |
ユルゲン・グラボウスキー |
- |
クリスチャン |
ユルゲン・クリンスマン |
『黄金の隼』。クラブではタイトルに恵まれなかったが、代表になると豹変したストライカー。ユーロ96では主将としてチームを牽引。見事優勝に導いている |
コーフェン |
エドモント・コーネン |
1934年W杯得点王 |
ズーラー |
ウーべ・ゼーラー |
『西ドイツの太陽』。生涯タイトルに恵まれなかった非運の名選手だが、ドイツ代表のシンボルとして愛されたスター選手。
「デア・ディッケ(太っちょ)」と呼ばれた小太りの体型ながらスピードと得点感覚に優れ、ハンブルガーSVで頭角を表しリーグ優勝などに貢献。ブンデスリーガの初代得点王にも輝いている。
17才で代表入り、58年から4大会連続でW杯に出場しており、66年と70年大会では主将として活躍した。
生涯ハンブルガー一筋の現役生活を貫き、72年に引退。現役引退後はクラブの会長などを務める。 |
トム |
クリスチャン・ティム |
- |
ビリヤコフ |
オリバー・ビアホフ |
ウディネーゼで得点王、ミランでスクデット獲得に貢献。2003年キエーヴォで引退。
代表では96年欧州選手権決勝で2得点を決め逆転優勝の功労者となる。その後98年、2002年W杯にも出場。2002年は途中出場が多かったが準優勝に貢献。 |
ファッチャー |
クラウス・フィッシャー |
- |
ベルフェンダイン |
ベルント・ヘルツェンバイン |
- |
マウアー |
ベンヤミン・アウアー |
- |
D.ミューレン |
ディーター・ミュラー |
- |
G.ミューレン |
ゲルト・ミュラー |
『爆撃機』。70年バロンドール受賞。同年W杯得点王。
バイエルンのエースとしてリーグ優勝、チャンピオンズカップ3連覇などに貢献。W杯では2大会で14ゴールをあげ最多得点記録を塗り替えた。74年大会ではトータルフットボールのオランダを下した決勝ゴールをあげ見事チームを優勝に導く。その後28才にして代表引退し、晩年はアメリカのNASLで活躍。 |
ルベルジュ |
ホルスト・ルベッシュ |
- |
K.ルンゲ |
カールハインツ・ルンメニゲ |
『ミスターヨーロッパ』。2年連続バロンドール受賞
若い頃はウイングだったがバイエルン移籍を機にCFへ。ベッケンバウアー退団後のバイエルンの中心選手として活躍。3度の得点王に輝く。
後にインテル移籍したが、怪我の影響で芳しい結果を残せなかった。
80年欧州選手権では優勝に導く原動力となったが、W杯では2度決勝に進みながら2度とも涙を飲んでいる。
引退後はバイエルンのフロント入りしクラブの復権に奔走した。 |
ワルサー |
フリッツ・ヴァルター |
本名は『フリードリッヒ』。
生涯カイザースラウテルン一筋で活躍。ヒールキックを得意技としたテクニシャン。カイザースラウテルンの躍進の中心的人物となった。若い頃はFWだったが後にMFとして活躍。
18才でフル代表入りを果たすが第一次大戦に巻き込まれ選手としてのピークの数年を戦場で過ごした。戦場での体験が元で復帰後も一切飛行機での移動を拒否していた。
54年W杯で無敵の「マジック・マジャール」を下して優勝を果たした時の主将。58年大会でも37才だったが代表に復帰して出場。ベスト4進出に貢献した。 |
【OMF/SMF】 |
ウーバイン |
ウーベ・バイン |
浦和レッズに在籍 |
エッフェルバーグ |
シュテファン・エフェンベルク |
問題児としても知られるが、強烈なキャプテンシーとFKを武器に活躍した90年代のドイツを代表するプレーヤー。
名門ボルシアMGで注目を集め、90年にバイエルンに移籍しレギュラーを獲得するが、92年に監督に暴行をはたらく事件を起こしチームを追放。セリエAのフィオレンティーナに移籍する。その後2年で母国に帰り、古巣ボルシアMGに復帰。
98年にはバイエルンに復帰し、年齢的な衰えが囁かれる中だったが、リーグ3連覇やチャンピオンズリーグ優勝などに貢献、再びチームの中心選手として活躍した。2002年ヴォルフスブルクに移籍するが、ユルゲン・レバー監督の減量命令に反発し退団。2003年からはカタールのアル・アラビに移籍した。
92年欧州選手権で活躍し代表のレギュラーに定着するが、94年W杯で「観客に向かって中指を立てる」という非紳士的行為をやってしまい強制帰国、以後代表追放されてしまう。
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シェスター |
ベルント・シュスター |
『金髪の天使』。驚異的なキック力とパス精度を誇る80年代のドイツを代表する司令塔。
1FCケルンでデビューしすぐに注目を集める。20才で代表入りし、80年欧州選手権優勝。大会後すぐにバルセロナに移籍し、ここでもすぐにチームの中心選手として活躍。84-85シーズンにはリーグ優勝を果たし、翌年のチャンピオンズカップでは準優勝。
しかし監督やフロントと衝突し徐々に出番を減らされ、89年にはレアル・マドリーに移籍。ここでもリーグ優勝に貢献したが、またしてもトシャック監督と衝突しアトレティコ・マドリーへ新天地を求めた。その結果、このスペインの3大クラブ全てでプレーした史上初の外国籍選手となった。
この3つのクラブでそれぞれタイトルを獲得した後、母国に戻りレバークーゼンに入団。36才で現役を引退した。
代表としては欧州選手権に優勝した後、ベッケンバウアー監督自らが何度となくスペインに渡り直接説得を試みたが、決して代表のユニフォームに袖を通す事は無かった為、結果として一度もW杯の舞台に立つ事なく現役を退いた。
これは一説によれば、彼のバルセロナ移籍に対して、ドイツサッカー協会が圧力を掛けて妨害しようとした事への報復ともいわれている。ドイツは伝統的に自国の有望な若手や代表選手の国外流出に対して神経質なところがあり、96年欧州選手権でブレイクしたビアホフのようなケースは非常に稀である。 |
ダル |
トーマス・ドル |
- |
ネットァー |
ギュンター・ネッツァー |
『賢人』と呼ばれた天才MFで、「駿馬のイレブン」と呼ばれたボルシア・メンヘングラッドバッハ(ボルシアMG)の中心的存在。
『センチメートル・パス』と呼ばれた驚異的なパス精度を誇り、世界最高レベルのFKを武器に活躍、バイエルン・ミュンヘンの宿敵として君臨した。
代表では72年欧州選手権ではゲームメーカーとして見事チームを優勝に導く。この時の西ドイツ代表は歴代でも最強との呼び声が高い好チームであった。しかしW杯ではオベラートとのポジション争いに敗れ僅かな出場に留まった。
ただ実際は当時ドイツを二分する強豪の一つであったボルシアMGの象徴であるネッツァーと、その宿敵バイエルンの象徴であったベッケンバウアーとの間に何らかの確執があったと言われている。事実オベラートはベッケンバウアーに高く評価されており、監督より影響力の高かったベッケンバウアーの意向が色濃く反映された部分があったのかもしれない。
引退後は人気コメンテーターとして大活躍し、メディア露出も多い。 |
フーラー |
ヘルムート・ハーラー |
『(ブロンドの)稲妻』。MFとしては出色の得点感覚を持っていたため、しばしばFWでも起用された。アウグスブルクでデビューしたが、その後移籍したボローニャやユベントスで活躍し脚光を浴びた。両チームでそれぞれスクデット獲得などに貢献している。
代表としては3度のW杯に出場。66年大会では5試合で5得点をあげる活躍を披露した。 |
フラーエ |
ハインツ・フローエ |
- |
ベラート |
ウォルフガング・オベラート |
『デア・シュバッテ(芸術家)』。
魔法の左足を武器に活躍。ケルンには彼の名を冠した道が存在する |
H.ミューレン |
ハンジ・ミュラー |
- |
リンドバーグ |
ピエール・リトバルスキー |
『ドリブラルスキー』とも呼ばれる程の名ドリブラー。1FCケルンなどで活躍。UEFA杯準優勝やチャンピオンズカップベスト4に導く。
ケルン時代の奥寺のチームメイトで、その縁からか93年よりJリーグでプレー。市原や仙台に在籍。『リティ』の愛称で親しまれていた。90年W杯では優勝に大きく貢献。 |
M.ルンゲ |
ミハエル・ルンメニゲ |
カールハインツ・ルンメニゲの実弟。浦和レッズに在籍 |
レーネス |
ウルリッヒ・ヘーネス |
引退後はバイエルン・ミュンヘンのGMを務めている。 |
【DMF】 |
バンコフ |
ライナー・ボンホフ |
『雷神』。74年W杯優勝に貢献。 |
ルンバルト |
ギド・ブッフバルト |
90年W杯決勝ではマラドーナを完封。後に浦和レッズに移籍。
2004年現在浦和レッズ監督。 |
【SDF】 |
カロツ |
マンフレート・カルツ |
ハンブルガーSVでチャンピオンズカップ優勝やリーグ優勝などを経験。チームの黄金期を支えた名選手 |
ブラーメン |
アンドレアス・ブレーメ |
あのベッケンバウアーをして「彼ほど完璧な選手に私が教えられる事など何も無い。」と言わしめた、80〜90年代前半のドイツ代表黄金期には欠かせない左サイドバック。
カイザースラウテルンで頭角を現しDFとしては出色の得点力で注目を集めた。86年には名門バイエルンに移籍。リーグ優勝に貢献。さらに88年からはセリエAインテルに移籍しスクデットやUEFAカップを獲得。クリンスマン、マテウスらと共に「ドイツトリオ」として活躍。
サラゴサで1シーズンプレーし古巣カイザースラウテルンに復帰。97-98シーズンで現役を退いたが最後のシーズンでリーグ優勝を果たし花道を飾った。
代表としては3度のW杯に出場。86年準優勝、90年優勝などに貢献。特に90年W杯決勝では、試合終了間際に優勝を決定づけるPKを冷静に決めた。 |
ブライナー |
パウル・ブライトナー |
『狼男』。
リベロ、サイドバック、中盤と様々なポジションをこなし活躍。レアル・マドリーやバイエルンに在籍。協会と対立し代表を離れた時期もあったが欧州選手権やW杯での母国躍進に貢献した。 |
ブリューガー |
ハンス・ペーター・ブリーゲル |
- |
ボクツ |
ベルティ・フォクツ |
「駿馬のイレブン」の守備の要。74年W杯決勝ではPKを献上するもその後クライフを完封。 |
【CDF】 |
アウゲンテーラー |
クラウス・アウゲンターラー |
バイエルン・ミュンヘンに所属。90年W杯ではスイーパーとしてDFラインを統率。見事優勝に導いている。ベッケンバウアーの懐刀とも呼ばれる。引退後はレバークーゼンやニュルンベルクなどの監督を歴任した。 |
コーワン |
ユルゲン・コーラー |
『鋼の男』。ユベントス、バイエルン、ドルトムントなどで活躍。代表では鉄壁の守備網の一翼を担いW杯優勝などに貢献 |
シュベルケンバック |
シュワルツェンベック |
バイエルンや代表でベッケンバウアーとコンビを組み数々のタイトルを獲得した。74年W杯優勝 |
シュリンガー |
カールハインツ・シュネリンガー |
本職は左サイドバックだったが、センターバックも高いレベルでこなす器用さを持っていた。
当時のドイツの選手としては珍しく、国外で活躍した。1FCケルンでデビューしたが、その後ブンデスリーガが設立されて間もなくイタリアのマントーバへ移籍。その後ローマを経てミランに加入し、ここでキャリアのピークを迎える。
コッパイタリア優勝を始め、スクデット、カップウイナーズカップ、チャンピオンズカップを制覇した。その後インターコンチネンタルカップも獲得しクラブ世界一の座に輝いた。
その後74年に母国に戻りテニス・ボルシア・ベルリンで1シーズンプレーした後現役引退。
代表では58年W杯ではレギュラーでは無かったが出場を果たし、以後4大会に渡りレギュラーとして本大会出場。素晴らしいプレーでドイツ代表を牽引し続けたが、残念な事に成績は準優勝に留まり優勝は果たす事が出来なかった。
70年大会では準決勝のイタリア戦で代表として唯一の得点を挙げている。敗色濃厚な後半ロスタイム、グラボウスキーからのクロスを押し込み奇跡的な同点弾を決めた。この試合は結局ベッケンバウアーが肩を脱臼したままプレーしたり、延長戦にもつれ込んだりと、まさに死闘と呼ぶに相応しい名勝負に数えられており、「ゲルマン魂ここに在り」をまざまざと見せつけたと言う意味で、非常にこのゴールは人々に強烈な印象を残しており、未だに語り継がれている。
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トール |
オラフ・トーン |
- |
バウアー |
フランツ・ベッケンバウアー |
『皇帝』。チャンピオンズカップ3連覇、欧州選手権優勝、W杯優勝、バロンドール2度獲得、監督としても90年W杯優勝。サッカー史上最高のDFで考えられうるほぼ全てのタイトルを手中に収めた。
70年W杯準決勝、イタリア戦では肩を脱臼しながら交代枠を使い切った為、腕を固定したまま最後までピッチに立ち続けた。結果として敗れはしたが強烈な印象を人々に残した。
72年欧州選手権ではネッツァーらと共に圧倒的な強さを見せつけて優勝。74年W杯では監督を凌駕する指導力を発揮し、クライフ率いるオランダを下し優勝を果たす。
晩年は北米リーグに活躍の場を移しニューヨーク・コスモスでペレと共にリーグ3連覇を成し遂げる。その後母国に帰りハンブルガーSVでもリーグ優勝を果たす。
引退後はバイエルン・ミュンヘンの会長職などを歴任。90年W杯では実質的には代表監督だがコーチライセンスを持っていなかった為(ドイツではコーチライセンスの取得が半端じゃなく大変)、チームシェフとして見事優勝にチームを導いている。 |
フェルター |
カールハインツ・フェルスター |
「天使の顔」とも呼ばれた二枚目だがプレイスタイルは華々しさとは程遠く、1対1に抜群の強さを見せ非常に地味で堅実なDFだった。
シュツットガルトで注目を集め19才でフル代表入りを果たした。当時のドイツ代表はベッケンバウアーは引退したものの、まだまだハイレベルにあり、若干19才での代表入りは大きな驚きだった。
その後80年欧州選手権では優勝、82年と86年のW杯では共に準優勝と長きに渡り西ドイツの鉄壁のDFの一翼を支え続けた。
シュツットガルトでは83-84シーズンにクラブ史上初のリーグ優勝をもたらし、86年にマルセイユに移籍。ここでもリーグ連覇などに貢献した。 |
ヘルミ |
トーマス・ヘルマー |
- |
マティアス |
マティアス・ザマー |
東ドイツ出身。
ディナモ・ドレスデンでキャリアをスタート。東西ドイツ統一後はシュツットガルトに移籍しリーグ優勝に貢献。インテルでプレーしたあとドルトムントに移籍。名将ヒッツフェルトの下、リーグ連覇を達成。翌年にはチャンピオンズカップを制しドルトムントを欧州NO`1へ導く。
代表では88年東ドイツ代表としてデビュー。東西ドイツ統一後は初の東ドイツからの代表入りを果たし、94年のW杯メンバーに選ばれる。その後96年欧州選手権ではリベロとして見事にチームを統率。優勝の原動力となった。この活躍により96年バロンドール受賞。ベッケンバウアーと彼しかDFでの受賞は今日まで無い。
その後は故障に苦しみ、98年以降はリーグ戦に出場する事なく2000年に現役を引退。同年ドルトムントの監督に就任。降格の危機にあったチームを立て直し1部残留に成功すると01-02シーズンにはリーグ優勝を果たした。
2004年からはシュツットガルトの監督に就任。 |
マリウス |
ローター・マテウス |
90年バロンドール受賞。ドイツ代表150キャップを誇る鉄人。
18才でボルシアMGと契約。84年にバイエルンに引き抜かれ中心選手として活躍、リーグ3連覇を果たす。88年からはインテルに移籍し、クリンスマン、ブレーメと共に「ドイツトリオ」として活躍。オランダトリオ擁するミランの好敵手としてスクデット獲得やUEFA杯優勝などに貢献。92年からはバイエルンに戻るが、30才を越えているにも関わらずチームの中心として再び輝きを放ち、リーグ優勝4度、リーグカップやUEFA杯優勝などに貢献した。2000年にMLSメトロスターズに移籍し翌年39才で現役引退。その間大きなスランプをあまり経験せず、まさに息の長い活躍を披露した「鉄人」である。
若い頃は攻撃的MFだったが後にボランチやリベロとして活躍。歯に衣を着せない性格で周囲と衝突する事も多かった。特にクリンスマンとの不仲は有名。
代表としては86年準優勝、90年優勝などを始め、最多出場記録を作るなどの輝かしい実績に包まれている。
望み得るほぼ全てのタイトルを獲得したかに見えるマテウスだが、唯一『チャンピオンズカップ(リーグ)』にだけは手が届かなかった。
98-99シーズンの決勝戦、バイエルン対マンチェスター・ユナイテッド。バスラーのFKで挙げた1点を守り、後半マテウスはベンチに下がる。このまま勝ったと思ったロスタイムの3分間にベッカムのCKから、シェリンガムとスールシャールにゴールを奪われ、悪夢のようなまさかの逆転負けを喫した。俗に言う「カンプ・ノウの悲劇」によってマテウスの夢は絶たれる事になった。
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ラーツ |
ウーベ・ラーン |
西ドイツ代表で一時浦和にも所属。FWとして活躍しブンデスリーガでも得点王やMVPを獲得した事があり、通算100得点以上を挙げていた名FWだったのだが、浦和移籍後チーム事情によりリベロを任される事に。そこそこ機能はしたのだが、元々不馴れなポジションの為思ったほどの活躍は出来ず、後に怪我もありひっそりと帰国。
代表でも活躍しチームを86年W杯出場に導いている。余談だがクリンスマンの前に西ドイツの18番を付けていたのが彼である。 |
【GK】 |
オルコナー |
ボド・イルクナー |
90年W杯優勝GK |
カーワン |
オリバー・カーン |
2002年W杯でGKとして史上初のMVPを獲得。 |
カフカ |
アンドレアス・ケプケ |
- |
シューマイヤー |
ハラルド・シューマッハー |
80年欧州選手権優勝GK |
メーヤー |
ゼップ・マイヤー |
GK王国ドイツの礎を築いた名手。74年W杯優勝。チャンピオンズカップ3連覇。 |