【ブラジル】 |
 選手名(登場名) |
 モデル選手名(本名) |
 コメント、備考 |
【FW】 |
アデマール |
アデミール |
1950年W杯得点王。『魔法の砲兵』と呼ばれバスコ・ダ・ガマやフルミネンセなどで活躍した往年の名選手。州選手権優勝等に貢献し自身もリーグ得点王などを獲得した。途中、センターフォワードから左ウイングに転向したが、持ち前の得点力は衰えるどころか更に磨きが掛かった。
50年W杯ではジジーニョ、ジャイールとのトリオで大活躍し得点王を獲得している。特にスウェーデン戦では一人で4得点をあげてブラジルの圧勝に貢献している。しかしチームも彼自身も絶好調で迎えた2次リーグ最終戦の対ウルグアイ戦(この大会は決勝トーナメントが無かったので、これが実質的決勝戦だった)引き分けでも優勝が決まるという絶対的有利の中、地元の声援を背に先制点を決め優勝をほぼ決定付けたかに見えた。
しかしその後まさかの同点、逆転ゴールを浴びてブラジルは敗北。20万人を越えるマラカナンの大観衆は悲嘆に暮れ、ショック死する人も数人いたほどであった。
この悲劇は大きな影を落とし、この試合を最後にブラジル代表のユニフォームはそれまでの白を基調としたものから黄色を基調としたものへと変更され「カナリヤ色」のユニフォーム誕生のきっかけとなった。 |
アルサウド |
アルシンド |
元鹿島、川崎Vなどに所属。「トモダチならアタリマエー」 |
エレ |
ペレ |
説明不要の神様その1 |
カレーラ |
カレカ |
グアラニ、サンパウロで活躍後欧州へ。ナポリではマラドーナとコンビを組み黄金期を築く。
W杯でもゴールをあげて活躍しているが、82年W杯では直前に負傷し欠場。チームは黄金の中盤を武器に勝ち上がるがイタリア戦でストライカー不足に泣き2次リーグで姿を消した。
後に柏レイソルにも所属し柏のJ昇格に貢献。その後母国に帰り37才で引退。 |
ガンジャ |
ガリンシャ |
62年W杯得点王。小児マヒの影響から左右の足の長さが違うという身体的ハンデを武器に変え、独特のフェイントで次々と敵を置き去りにした名選手。
58年W杯では当初レギュラーではなかったが大会途中からペレと共に出場し優勝の原動力となる活躍を見せた。62年のW杯では途中離脱したペレの穴を埋め連覇に導く。
晩年は恵まれず、アルコール依存症などで苦しみ49才の若さで亡くなった。 |
ジュオブーニ |
ジェオバンニ |
- |
ジョイルジャーノ |
ジャイルジーニョ |
70年W杯で全試合得点という記録を残した。ボタフォゴで憧れのガリンシャからポジションを奪い、素晴らしい活躍を披露。前線ならどのポジションでも高いレベルでこなす器用な選手。マルセイユ移籍は失敗に終わったが母国に帰り復活。リベルタドーレスカップをクルゼイロにもたらした。その後はボリビアのクラブを経てボタフォゴに戻り38才で引退。
W杯では3度出場を果たし、冒頭の通り70年大会では全試合で得点。主に右ウイングとしてプレーしたが攻撃的MFとしても素晴らしい能力を発揮した。 |
タストン |
トスタン |
クルゼイロのスーパースター。州選手権5連覇、得点王3度獲得などチームの中心として君臨していた。
70年W杯では大会直前の試合中、ボールが目を直撃し網膜剥離を起こし出場絶望と言われたが奇跡的に復活を遂げ、ペレらと共に母国の優勝に貢献。
しかし結局はその網膜剥離が原因となり、26才の若さで引退を決意。引退後は眼科医に転身した。
余談だが、キャプテン翼に出て来る「ロベルト本郷」のモデルになったという説がある人。 |
ドザシッチ |
ドニゼッチ |
元ヴェルディ川崎所属。ヴェルディでは芽が出なかったが、帰国後に才能が開花し、クルゼイロのエースとしてリベルタドーレスカップを制覇。翌年にはトヨタカップで来日。この頃ブラジル代表にも選ばれている。 |
トミーニャ |
トニーニョ |
Jリーグ創成期、清水や浦和で活躍。
モナコなどで活躍したソニー・アンデルソンの兄。 |
バパ |
ババ |
62年W杯得点王。ガリンシャやペレらと共に母国のW杯連覇に大きく貢献。アトレティコ・マドリーでも活躍した。 |
フリードリッヒ |
アルツール・フリーデンライヒ |
ペレを超える、生涯ゴール数世界記録保持者(1329ゴール)であり伝説のストライカー。
父親がドイツ人、母親がブラジル人で、黒人として初めてブラジル代表に選ばれた。1919年のコパ・アメリカ得点王に輝きチームを優勝に導いた。『チグリ(虎)』と呼ばれ速さと強さを兼ね備えたストライカーだったと言われる。1969年、84才でその生涯を閉じている。 |
ブリト |
ベベット |
94年W杯ではロマーリオをコンビを組み優勝に貢献 |
ベウバル |
バウベル |
横浜Fなどに在籍 |
ラインダース |
レオニダス・ダ・シルバ |
『黒いダイヤモンド』。ボタフォゴやバスコ・ダ・ダマで活躍。1938年W杯得点王。3位入賞に貢献した。ブラジルが生み出した初の世界的名手。『オーバーヘッドキック』を広めた人(考案者とも言う説もある) |
ローマン |
ロマーリオ |
94年アメリカW杯の英雄。バルセロナやPSVでも活躍。『悪童』と呼ばれるように素行に問題がありトラブルメーカーでもあったが、ひとたびピッチに立てばチームに勝利を運ぶ英雄であった。
FWとしては小柄だが卓越したスピードと左右両足の正確なキックを武器に活躍。バスコ・ダ・ガマで2年連続得点王獲得し、それを手土産に欧州に移籍。PSVでもリーグ優勝3度、3年連続得点王の偉業を達成。その後クライフ監督率いるバルセロナに移籍しここでも得点王を獲得するなど華々しい活躍を披露する。
スーパースターである当時のヨハン・クライフ監督に真正面から食って掛かって助言にも耳を貸さず衝突する事もしばしばだった。その後は母国に帰りフラメンゴや古巣バスコ・ダ・ガマに所属。2003年からはカタールに移籍している。
代表ではソウル五輪で銀メダルと得点王を獲得し89年のコパアメリカではチームを40年ぶりの優勝に導く。93年のW杯南米予選ではレギュラーだったミューレルとトラブルを起こしチームを追放されたが、予選落ちの危機的状況になり代表復帰。見事ゴールを決めて予選突破を果たした。
本大会ではまさに絶好調でブラジルを見事優勝に導き、同年FIFAの世界最優秀選手賞を受賞した。
その後も98年、02年W杯の南米予選突破に貢献しているが本大会ではいずれも直前で怪我などの影響もありメンバー落ちの屈辱を経験している。 |
【OMF/SMF】 |
ザザ |
ジジ |
58年W杯で画期的な4-2-4システムの中盤に君臨し優勝に貢献した。
『フォーリャ・セッカ(枯れ葉舞い)』と呼ばれる独特の鋭いFKも大きな武器だった。
ボタフォゴやフルミネンセで一時代を築き、59年に当時世界最強のレアル・マドリーに移籍。しかしチームの中心人物であったディステファノと馴染む事が出来ず、僅かな在籍期間で帰国。帰国後は再び活躍しボタフォゴの連覇などに貢献した。
代表では何と行っても58年W杯優勝の立役者。54年大会にも出場しベスト8に入っている。62年大会でも34才のベテランながらチームを支え見事連覇に導いた。67年に現役引退。
彼の残した「ボールは恋人」と言う言葉はその後「ボールはトモダチ」とキャプテン翼にも姿を変えて登場する。 |
サムソン 吉田 |
ネルソン 吉村 |
日本リーグ時代ヤンマーで活躍、外国人助っ人の草分け的存在となった。
ブラジル生まれの日系三世。67年日本第一号の外国籍選手として19才で来日。当時、プロ選手は認められていなかった為、彼は「転勤して来た旋盤工」という扱いで日本にやって来た。弱小チームだったヤンマーに加入後、ネルソンはそのサッカーのレベルの低さに愕然とするが、その中にいた釜本とホットラインを築きチームをJSL屈指の強豪へと押し上げた。
その後、ネルソンの成功に続けとカルロス・エステベスやジョージ小林らを加入させ、日本リーグ4度優勝、天皇杯3度優勝を果たし黄金時代を築いた。
その後70年に「吉村大志郎」と言う名で帰化、今では当たり前の事となった「スポーツ選手の帰化」への先鞭をつけた。(もっとも、ネルソンの場合は日系人であった為か帰化申請は非常にスムーズに通っている)その後W杯予選や五輪予選にも出場したが、メキシコ五輪後の世代交代に失敗した日本代表は急速に下降線を辿ってしまい本戦出場は果たせなかった。
引退後はヤンマーの監督に就任。その後セレッソ大阪のスタッフなどを務めた。彼が付けた道筋をラモスや呂比須が歩き、今三都主がその道を通りまだ見ぬ世界へと踏み出そうとしている。 |
シポス |
ジアス |
- |
ジード |
ジーコ |
説明不要の『白いペレ』。82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。2004年現在、日本代表監督。 |
ジェイソン |
ジェルソン |
- |
ジオバーニ |
ジオバンニ |
バルセロナで活躍しカップウィナーズカップやリーグ優勝などに貢献。
サントスで頭角を表し96年からバルセロナに移籍。ロナウド、デ・ラ・ペーニャらと共に圧倒的な攻撃力でタイトルを次々と獲得。しかしリバウド移籍により出番を失い、99年からギリシャのオリンピアコスに移籍。リーグ優勝に貢献する等して活躍している。
天才肌で波のある選手だが、ハマった時は素晴らしい活躍を見せてくれた名選手。98年W杯代表メンバーだったがわずかな出場時間に留まった。
リバウドをして「自分のテクニックはジオバンニの足元にも及ばない」と言わしめた程の選手。 |
ジジール |
ジジーニョ |
- |
ジャルミーニャ |
ジャウミーニャ |
- |
セルジオエダ |
セルジオ越後 |
解説者でおなじみのあの人。 |
ソクラウス |
ソクラテス |
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。
医師免許を持っていた事から「ドトール」とも呼ばれた。医大生時代にボタフォゴでデビュー。その後得点王を獲得し強豪コリンチャンスに移籍。3度の州選手権優勝に導く。84年からはフィオレンティーナに移籍したが1シーズンで帰国。その後はフラメンゴやボタフォゴなどで活躍し89年に引退。引退後は診療所を開き、スポーツ医療の発展に貢献している。
代表ではやはり82年W杯の『黄金の四人』が有名。同チームでは主将も務め2得点を挙げた。翌年のコパアメリカで準優勝、86年のW杯ではベスト8進出とタイトルを手にする事は出来なかったが絶大な人気を誇っていた。
パリSGなどで活躍したライーの実兄でもある。 |
ニーニョ |
ジーニョ |
元横浜フリューゲルス。ブラジル代表としても活躍。 |
ビルマスク |
ビスマルク |
元川崎V、鹿島で活躍。 |
マルセレーノ |
マルセリーニョ・カリオカ |
- |
リベイロ |
リベリーノ |
74年W杯の東ドイツ戦で、壁に入った味方がしゃがみ込んだ隙間を通してFKを直接ゴールに決めるという離れ業を披露した。ペレなき後のセレソンの10番を背負った名手。
引退後一時、清水の監督を務めていた事がある。 |
レドゥー |
エドゥー・マランゴン |
元横浜フリューゲルス。魔法の左足から繰り出されるFKを武器に活躍。Jリーグ初期に数々の名ゴールを生み出した。 |
レバートン |
エバートン |
元横浜マリノスで活躍。 |
【DMF】 |
クラドウド |
クロドアウド |
- |
ジョー 小森 |
ジョージ 小林 |
- |
セレゾン |
トニーニョ・セレーゾ |
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。鹿島の監督も務めた。 |
ドゥッカ |
ドゥンガ |
94年W杯のブラジル代表主将。ジュビロ磐田でも主将を務めた闘将。 |
ファルク |
ファルカン |
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。元日本代表監督。 |
【SDF】 |
エメラウド |
エベラルド |
- |
カルベルト |
カルロス・アルベルト |
名古屋グランパスに在籍したトーレスの父 |
ジャウミ |
ジャウマ・サントス |
ニウトンとは姻戚関係はない |
ジョルジョ |
ジョルジーニョ |
94年W杯優勝メンバー。元鹿島。世界最高の右サイドバックと呼ばれた。 |
ジャンノール |
ジュニオール |
- |
ネリーノ |
ネリーニョ |
- |
バランコ |
ブランコ |
- |
【CDF】 |
アントン |
ザーゴ |
- |
ギー |
ドミンゲス・ダ・ギア |
- |
クラジオ |
クラウジオ |
FKを武器にベルマーレ平塚で活躍。 |
ジェニオール |
ジュニオール・バイアーノ |
- |
セガール |
ジュリオ・セザール |
80年代のブラジル最高のセンターバック。長身を生かしたヘディングや優れたフィジカルを生かした当たりの強さで、空中戦には無類の強さを誇った。グアラニで活躍後欧州に渡りフランスリーグのブレストやモンペリエで活躍。フランスカップに優勝。
90年からはセリエAユベントスに加入、UEFAカップ優勝に貢献した。その後94年に移籍したドルトムントではリーグ2連覇をはじめ、チャンピオンズリーグ、トヨタカップなどを獲得。その後は母国ボタフォゴやパナシナイコス、ブレーメンなどでプレーした。2001年リオ・ブランコで引退。
代表では86年W杯でレギュラーとして活躍。ジーコらと共にベスト8進出に貢献。しかし準々決勝のフランス戦は1-1でPK戦にもつれこみ、5人目のキッカーとして登場。無情にもPKはポストを叩き敗退した。
なおこの試合は「W杯史上最も美しいゲーム」と呼ばれている名勝負なので、機会があれば是非一度見てみる事をお勧めする。 |
トラス |
トーレス |
元名古屋グランパス。 |
ニュートン |
ニウトン・サントス |
『百科事典』とも呼ばれた、50〜60年代に活躍したブラジル史上でも最高の左サイドバックの一人に数えられる名手。当時のブラジルが採用した4-2-4システムには欠かせない両翼の一端を担った。
生涯ボタフォゴで過ごし、州選手権優勝等に貢献。24才で代表入りを果たし、10年以上に渡って不動の左サイドバックとして君臨した。W杯にも3度出場しそのうち2度優勝を果たしている。なお、ジャウマ・サントスとの間に姻戚関係はない。
余談だが、彼が代表不動のレギュラーとして君臨している頃、一人の若者がボタフォゴの入団テストを受けに来た。その時ニウトンはその若者からボールを奪う事すら出来ず、コーチに「すぐあの若者と契約を結んでくれ、あんな奴が敵に回ったらたまらない」と進言した。
こうしてガリンシャは晴れてボタフォゴの一員となり、栄光のキャリアの第一歩を踏み出す事となったのである。 |
フラビーニョ |
フラビオ |
ガンバ大阪に在籍。 |
ブラトン |
ブリト |
- |
ポーザ |
ウィルソン・ピアザ |
- |
ペリーラ |
ペレイラ |
元川崎でJリーグMVPも獲得。後にコンサドーレにも在籍 |
ルイス・ペリーラ |
ルイス・ペレイラ |
- |
【GK】 |
カジュエイロ |
カルロス・ジェルマーノ |
- |
ゲルマール |
ジウマール |
- |
シジュマル |
シジマール |
Jリーグ黎明期の清水の守護神。センセーショナルな活躍を披露 |
ジマール |
ジルマール |
元C大阪の守護神。 |
タファー |
クラウディオ・タファレル |
94年W杯優勝メンバー。90年、98年大会にも出場。パルマやガラタサライで活躍。UEFA杯優勝等に貢献。 |
フェニッキス |
フェリックス |
- |
レオーネ |
レオン |
- |