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( ´∀`) サカつく04 2ch攻略板情報 (´∀` )
【モデル選手 南米その他】
■日本人  ■欧州  ■南米その他

■3との相違点などの注意点
基本的に前作にも登場した選手は同じ名前で出て来ている。
■国籍別INDEX
■ブラジル ■アルゼンチン ■コロンビア ■ウルグアイ ■チリ ■パラグアイ
■エクアドル ■ペルー ■ボリビア ■メキシコ ■アメリカ
■ナイジェリア ■カメルーン ■モロッコ ■エジプト ■チュニジア ■ガーナ
■アルジェリア ■ザンビア ■コンゴ ■リベリア ■マリ ■ギニア ■DRコンゴ
■韓国 ■中国 ■サウジアラビア ■イラン ■北朝鮮 ■タイ ■マレーシア
■ウズベキスタン ■カザフスタン ■オーストラリア ■ニュージーランド


【ブラジル】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アデマール アデミール
1950年W杯得点王。『魔法の砲兵』と呼ばれバスコ・ダ・ガマやフルミネンセなどで活躍した往年の名選手。州選手権優勝等に貢献し自身もリーグ得点王などを獲得した。途中、センターフォワードから左ウイングに転向したが、持ち前の得点力は衰えるどころか更に磨きが掛かった。
50年W杯ではジジーニョ、ジャイールとのトリオで大活躍し得点王を獲得している。特にスウェーデン戦では一人で4得点をあげてブラジルの圧勝に貢献している。しかしチームも彼自身も絶好調で迎えた2次リーグ最終戦の対ウルグアイ戦(この大会は決勝トーナメントが無かったので、これが実質的決勝戦だった)引き分けでも優勝が決まるという絶対的有利の中、地元の声援を背に先制点を決め優勝をほぼ決定付けたかに見えた。
しかしその後まさかの同点、逆転ゴールを浴びてブラジルは敗北。20万人を越えるマラカナンの大観衆は悲嘆に暮れ、ショック死する人も数人いたほどであった。
この悲劇は大きな影を落とし、この試合を最後にブラジル代表のユニフォームはそれまでの白を基調としたものから黄色を基調としたものへと変更され「カナリヤ色」のユニフォーム誕生のきっかけとなった。
アルサウド アルシンド
元鹿島、川崎Vなどに所属。「トモダチならアタリマエー」
エレ ペレ
説明不要の神様その1
カレーラ カレカ
グアラニ、サンパウロで活躍後欧州へ。ナポリではマラドーナとコンビを組み黄金期を築く。
W杯でもゴールをあげて活躍しているが、82年W杯では直前に負傷し欠場。チームは黄金の中盤を武器に勝ち上がるがイタリア戦でストライカー不足に泣き2次リーグで姿を消した。
後に柏レイソルにも所属し柏のJ昇格に貢献。その後母国に帰り37才で引退。
ガンジャ ガリンシャ
62年W杯得点王。小児マヒの影響から左右の足の長さが違うという身体的ハンデを武器に変え、独特のフェイントで次々と敵を置き去りにした名選手。
58年W杯では当初レギュラーではなかったが大会途中からペレと共に出場し優勝の原動力となる活躍を見せた。62年のW杯では途中離脱したペレの穴を埋め連覇に導く。
晩年は恵まれず、アルコール依存症などで苦しみ49才の若さで亡くなった。
ジュオブーニ ジェオバンニ
-
ジョイルジャーノ ジャイルジーニョ
70年W杯で全試合得点という記録を残した。ボタフォゴで憧れのガリンシャからポジションを奪い、素晴らしい活躍を披露。前線ならどのポジションでも高いレベルでこなす器用な選手。マルセイユ移籍は失敗に終わったが母国に帰り復活。リベルタドーレスカップをクルゼイロにもたらした。その後はボリビアのクラブを経てボタフォゴに戻り38才で引退。
W杯では3度出場を果たし、冒頭の通り70年大会では全試合で得点。主に右ウイングとしてプレーしたが攻撃的MFとしても素晴らしい能力を発揮した。
タストン トスタン
クルゼイロのスーパースター。州選手権5連覇、得点王3度獲得などチームの中心として君臨していた。
70年W杯では大会直前の試合中、ボールが目を直撃し網膜剥離を起こし出場絶望と言われたが奇跡的に復活を遂げ、ペレらと共に母国の優勝に貢献。
しかし結局はその網膜剥離が原因となり、26才の若さで引退を決意。引退後は眼科医に転身した。
余談だが、キャプテン翼に出て来る「ロベルト本郷」のモデルになったという説がある人。
ドザシッチ ドニゼッチ
元ヴェルディ川崎所属。ヴェルディでは芽が出なかったが、帰国後に才能が開花し、クルゼイロのエースとしてリベルタドーレスカップを制覇。翌年にはトヨタカップで来日。この頃ブラジル代表にも選ばれている。
トミーニャ トニーニョ
Jリーグ創成期、清水や浦和で活躍。
モナコなどで活躍したソニー・アンデルソンの兄。
バパ ババ
62年W杯得点王。ガリンシャやペレらと共に母国のW杯連覇に大きく貢献。アトレティコ・マドリーでも活躍した。
フリードリッヒ アルツール・フリーデンライヒ
ペレを超える、生涯ゴール数世界記録保持者(1329ゴール)であり伝説のストライカー。
父親がドイツ人、母親がブラジル人で、黒人として初めてブラジル代表に選ばれた。1919年のコパ・アメリカ得点王に輝きチームを優勝に導いた。『チグリ(虎)』と呼ばれ速さと強さを兼ね備えたストライカーだったと言われる。1969年、84才でその生涯を閉じている。
ブリト ベベット
94年W杯ではロマーリオをコンビを組み優勝に貢献
ベウバル バウベル
横浜Fなどに在籍
ラインダース レオニダス・ダ・シルバ
『黒いダイヤモンド』。ボタフォゴやバスコ・ダ・ダマで活躍。1938年W杯得点王。3位入賞に貢献した。ブラジルが生み出した初の世界的名手。『オーバーヘッドキック』を広めた人(考案者とも言う説もある)
ローマン ロマーリオ
94年アメリカW杯の英雄。バルセロナやPSVでも活躍。『悪童』と呼ばれるように素行に問題がありトラブルメーカーでもあったが、ひとたびピッチに立てばチームに勝利を運ぶ英雄であった。
FWとしては小柄だが卓越したスピードと左右両足の正確なキックを武器に活躍。バスコ・ダ・ガマで2年連続得点王獲得し、それを手土産に欧州に移籍。PSVでもリーグ優勝3度、3年連続得点王の偉業を達成。その後クライフ監督率いるバルセロナに移籍しここでも得点王を獲得するなど華々しい活躍を披露する。
スーパースターである当時のヨハン・クライフ監督に真正面から食って掛かって助言にも耳を貸さず衝突する事もしばしばだった。その後は母国に帰りフラメンゴや古巣バスコ・ダ・ガマに所属。2003年からはカタールに移籍している。
代表ではソウル五輪で銀メダルと得点王を獲得し89年のコパアメリカではチームを40年ぶりの優勝に導く。93年のW杯南米予選ではレギュラーだったミューレルとトラブルを起こしチームを追放されたが、予選落ちの危機的状況になり代表復帰。見事ゴールを決めて予選突破を果たした。
本大会ではまさに絶好調でブラジルを見事優勝に導き、同年FIFAの世界最優秀選手賞を受賞した。
その後も98年、02年W杯の南米予選突破に貢献しているが本大会ではいずれも直前で怪我などの影響もありメンバー落ちの屈辱を経験している。
【OMF/SMF】
ザザ ジジ
58年W杯で画期的な4-2-4システムの中盤に君臨し優勝に貢献した。
『フォーリャ・セッカ(枯れ葉舞い)』と呼ばれる独特の鋭いFKも大きな武器だった。
ボタフォゴやフルミネンセで一時代を築き、59年に当時世界最強のレアル・マドリーに移籍。しかしチームの中心人物であったディステファノと馴染む事が出来ず、僅かな在籍期間で帰国。帰国後は再び活躍しボタフォゴの連覇などに貢献した。
代表では何と行っても58年W杯優勝の立役者。54年大会にも出場しベスト8に入っている。62年大会でも34才のベテランながらチームを支え見事連覇に導いた。67年に現役引退。
彼の残した「ボールは恋人」と言う言葉はその後「ボールはトモダチ」とキャプテン翼にも姿を変えて登場する。
サムソン 吉田 ネルソン 吉村
日本リーグ時代ヤンマーで活躍、外国人助っ人の草分け的存在となった。
ブラジル生まれの日系三世。67年日本第一号の外国籍選手として19才で来日。当時、プロ選手は認められていなかった為、彼は「転勤して来た旋盤工」という扱いで日本にやって来た。弱小チームだったヤンマーに加入後、ネルソンはそのサッカーのレベルの低さに愕然とするが、その中にいた釜本とホットラインを築きチームをJSL屈指の強豪へと押し上げた。
その後、ネルソンの成功に続けとカルロス・エステベスやジョージ小林らを加入させ、日本リーグ4度優勝、天皇杯3度優勝を果たし黄金時代を築いた。
その後70年に「吉村大志郎」と言う名で帰化、今では当たり前の事となった「スポーツ選手の帰化」への先鞭をつけた。(もっとも、ネルソンの場合は日系人であった為か帰化申請は非常にスムーズに通っている)その後W杯予選や五輪予選にも出場したが、メキシコ五輪後の世代交代に失敗した日本代表は急速に下降線を辿ってしまい本戦出場は果たせなかった。
引退後はヤンマーの監督に就任。その後セレッソ大阪のスタッフなどを務めた。彼が付けた道筋をラモスや呂比須が歩き、今三都主がその道を通りまだ見ぬ世界へと踏み出そうとしている。
シポス ジアス
-
ジード ジーコ
説明不要の『白いペレ』。82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。2004年現在、日本代表監督。
ジェイソン ジェルソン
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ジオバーニ ジオバンニ
バルセロナで活躍しカップウィナーズカップやリーグ優勝などに貢献。
サントスで頭角を表し96年からバルセロナに移籍。ロナウド、デ・ラ・ペーニャらと共に圧倒的な攻撃力でタイトルを次々と獲得。しかしリバウド移籍により出番を失い、99年からギリシャのオリンピアコスに移籍。リーグ優勝に貢献する等して活躍している。
天才肌で波のある選手だが、ハマった時は素晴らしい活躍を見せてくれた名選手。98年W杯代表メンバーだったがわずかな出場時間に留まった。
リバウドをして「自分のテクニックはジオバンニの足元にも及ばない」と言わしめた程の選手。
ジジール ジジーニョ
-
ジャルミーニャ ジャウミーニャ
-
セルジオエダ セルジオ越後
解説者でおなじみのあの人。
ソクラウス ソクラテス
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。
医師免許を持っていた事から「ドトール」とも呼ばれた。医大生時代にボタフォゴでデビュー。その後得点王を獲得し強豪コリンチャンスに移籍。3度の州選手権優勝に導く。84年からはフィオレンティーナに移籍したが1シーズンで帰国。その後はフラメンゴやボタフォゴなどで活躍し89年に引退。引退後は診療所を開き、スポーツ医療の発展に貢献している。
代表ではやはり82年W杯の『黄金の四人』が有名。同チームでは主将も務め2得点を挙げた。翌年のコパアメリカで準優勝、86年のW杯ではベスト8進出とタイトルを手にする事は出来なかったが絶大な人気を誇っていた。
パリSGなどで活躍したライーの実兄でもある。
ニーニョ ジーニョ
元横浜フリューゲルス。ブラジル代表としても活躍。
ビルマスク ビスマルク
元川崎V、鹿島で活躍。
マルセレーノ マルセリーニョ・カリオカ
-
リベイロ リベリーノ
74年W杯の東ドイツ戦で、壁に入った味方がしゃがみ込んだ隙間を通してFKを直接ゴールに決めるという離れ業を披露した。ペレなき後のセレソンの10番を背負った名手。
引退後一時、清水の監督を務めていた事がある。
レドゥー エドゥー・マランゴン
元横浜フリューゲルス。魔法の左足から繰り出されるFKを武器に活躍。Jリーグ初期に数々の名ゴールを生み出した。
レバートン エバートン
元横浜マリノスで活躍。
【DMF】
クラドウド クロドアウド
-
ジョー 小森 ジョージ 小林
-
セレゾン トニーニョ・セレーゾ
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。鹿島の監督も務めた。
ドゥッカ ドゥンガ
94年W杯のブラジル代表主将。ジュビロ磐田でも主将を務めた闘将。
ファルク ファルカン
82年W杯のクアトロ・オーメン・ジ・オーロの一人。元日本代表監督。
【SDF】
エメラウド エベラルド
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カルベルト カルロス・アルベルト
名古屋グランパスに在籍したトーレスの父
ジャウミ ジャウマ・サントス
ニウトンとは姻戚関係はない
ジョルジョ ジョルジーニョ
94年W杯優勝メンバー。元鹿島。世界最高の右サイドバックと呼ばれた。
ジャンノール ジュニオール
-
ネリーノ ネリーニョ
-
バランコ ブランコ
-
【CDF】
アントン ザーゴ
-
ギー ドミンゲス・ダ・ギア
-
クラジオ クラウジオ
FKを武器にベルマーレ平塚で活躍。
ジェニオール ジュニオール・バイアーノ
-
セガール ジュリオ・セザール
80年代のブラジル最高のセンターバック。長身を生かしたヘディングや優れたフィジカルを生かした当たりの強さで、空中戦には無類の強さを誇った。グアラニで活躍後欧州に渡りフランスリーグのブレストやモンペリエで活躍。フランスカップに優勝。
90年からはセリエAユベントスに加入、UEFAカップ優勝に貢献した。その後94年に移籍したドルトムントではリーグ2連覇をはじめ、チャンピオンズリーグ、トヨタカップなどを獲得。その後は母国ボタフォゴやパナシナイコス、ブレーメンなどでプレーした。2001年リオ・ブランコで引退。
代表では86年W杯でレギュラーとして活躍。ジーコらと共にベスト8進出に貢献。しかし準々決勝のフランス戦は1-1でPK戦にもつれこみ、5人目のキッカーとして登場。無情にもPKはポストを叩き敗退した。
なおこの試合は「W杯史上最も美しいゲーム」と呼ばれている名勝負なので、機会があれば是非一度見てみる事をお勧めする。
トラス トーレス
元名古屋グランパス。
ニュートン ニウトン・サントス
『百科事典』とも呼ばれた、50〜60年代に活躍したブラジル史上でも最高の左サイドバックの一人に数えられる名手。当時のブラジルが採用した4-2-4システムには欠かせない両翼の一端を担った。
生涯ボタフォゴで過ごし、州選手権優勝等に貢献。24才で代表入りを果たし、10年以上に渡って不動の左サイドバックとして君臨した。W杯にも3度出場しそのうち2度優勝を果たしている。なお、ジャウマ・サントスとの間に姻戚関係はない。
余談だが、彼が代表不動のレギュラーとして君臨している頃、一人の若者がボタフォゴの入団テストを受けに来た。その時ニウトンはその若者からボールを奪う事すら出来ず、コーチに「すぐあの若者と契約を結んでくれ、あんな奴が敵に回ったらたまらない」と進言した。
こうしてガリンシャは晴れてボタフォゴの一員となり、栄光のキャリアの第一歩を踏み出す事となったのである。
フラビーニョ フラビオ
ガンバ大阪に在籍。
ブラトン ブリト
-
ポーザ ウィルソン・ピアザ
-
ペリーラ ペレイラ
元川崎でJリーグMVPも獲得。後にコンサドーレにも在籍
ルイス・ペリーラ ルイス・ペレイラ
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【GK】
カジュエイロ カルロス・ジェルマーノ
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ゲルマール ジウマール
-
シジュマル シジマール
Jリーグ黎明期の清水の守護神。センセーショナルな活躍を披露
ジマール ジルマール
元C大阪の守護神。
タファー クラウディオ・タファレル
94年W杯優勝メンバー。90年、98年大会にも出場。パルマやガラタサライで活躍。UEFA杯優勝等に貢献。
フェニッキス フェリックス
-
レオーネ レオン
-

【アルゼンチン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ガーニャ? クラウディオ・カニーヒア
カニージャとも言われる。リーヴェルでプロデビュー後欧州へ渡り、アタランタなどで活躍。95年に母国に帰りボカでマラドーナと共にプレイ。99年からは再び欧州へ渡りアタランタやダンディー、レンジャースで活躍。2003年からはカタールに移籍。
代表ではその長髪をなびかせ突進する独特のスタイルから絶大な人気を誇り、マラドーナらと共に90年W杯で活躍しチームを決勝に導く。しかし決勝戦では累積警告により出場出来ずドイツに敗れた。
94年W杯でもバティストゥータやマラドーナらと共に活躍し2得点をあげるも大会中に負傷。マラドーナもドーピングでチームを追われ決勝トーナメント緒戦で敗退。
その後一時期代表から離れるが2002年W杯直前に代表復帰を果たし、滑り込みで本大会のメンバー入りする。だが本大会ではベンチから主審に罵声を浴びせ退場処分を受けるなど、試合に出場する事なく、チームもグループリーグでまさかの敗退を喫し大会を去った。
ガルダーノ ホルへ・バルダーノ
マラドーナらと共にW杯を勝ち取った。2004年までレアル・マドリーのGMを務めた。
ケンダル マリオ・ケンペス
『エル・マタドール』
バレンシアなどで活躍し、国内組を中心とした78年W杯のチームに例外的に国外組から召集。 見事期待に答え母国の優勝に貢献。自身も得点王、MVPを獲得。
コウスロウ フェリックス・ロウストウ
1940年代に無敵を誇ったリーヴェルプレートのFWライン『ラ・マキナ(機械)』を形成した一人。キープ力に優れ『扇風機』とも呼ばれた。 右ウイングを担当。
R.ディナス ラモン・ディアス
リーヴェルやインテルで華々しい活躍を披露。
名門リーヴェルでデビューし得点王を獲得。82年から欧州に渡り活躍。88-89シーズンに移籍したインテルでは、アルド・セレーナとの見事なコンビでスクデットの獲得に大きく貢献。その後モナコを経て古巣リーヴェルに復帰。得点王を獲得しチームの不振脱出のきっかけを作る。
93年からはJリーグ、横浜Mへ移籍し圧倒的な決定力でゴールを量産。記念すべきJリーグ初代得点王を獲得。
代表では79年ワールドユースでマラドーナらと共に優勝を果たし自身も得点王を獲得。しかしその後はマラドーナと対立した為、代表レベルでの活躍には恵まれなかった。
引退後はリーヴェルの監督に就任しリベルタドーレス杯で優勝してトヨタカップにも来日した。
デステファン アルフレッド・ディステファノ
説明不要の凄い人その2
デルトーニ ダニエル・ベルトーニ
-
バティスタ ガブリエル・バティストゥータ
迫力満点の豪快な『バティゴール』を量産した、90年代を代表する名ストライカーの一人。
ボカなどで活躍後にセリエAのフィオレンティーナに加入。当時のフィオレンティーナはチームのアイドルであったロベルト・バッジョを手放したばかりで、その後継者としてバティを獲得。加入初年度からゴールを量産し周囲の信頼を勝ち得る。
その後チームはB降格を喫するがバティは多くの誘いを断りチームに残留。1年でA復帰を果たす原動力となり、94-95シーズンにはセリエA得点王も獲得。
その後もポルトガル代表のルイ・コスタとのホットラインでゴールを量産していたがスクデット獲得には至らず、2000年に財政難のチーム事情もありローマに移籍して遂にスクデットを獲得。
その後は怪我もあり出番が減少した事などから02-03シーズンにインテルに移籍。シーズン終了後カタールへ新天地を求めた。
代表では92年コパアメリカで優勝、自身も得点王を獲得。94年、98年のW杯では2大会連続のハットトリックという偉業を達成。02年W杯ではクレスポとのポジション争いや起用法から生じた確執が囁かれるも本大会メンバー入り。しかしチームはまさかのグループリーグ敗退を喫し大会から姿を消した。
なお日本が悲願のW杯初出場を果たした98年大会のグループリーグ緒戦で対決し、日本を沈める決勝ゴールを挙げている。
パルド アベル・バルボ
リーヴェルで活躍し89年からセリエAウディネーゼへ加入。多くのゴールを挙げて活躍し93年ローマに引き抜かれる。ここでもゴールを量産し、エースとして活躍。その後パルマやフィオレンティーナを経て祖国の名門ボカでプレイ。02年頃現役引退か。
代表では90年、94年、98年と3度出場を果たし94年大会で1得点を挙げている。
バロスロット ギジェルモ・バロスチェロット
97年からボカに所属。バロシュロットとかギジェルモとかと呼ばれる事もある。
名将カルロス・ビアンチの元でリベルタドーレス杯優勝に貢献し、トヨタカップでも来日。
ペネルベラ アドルフォ・ペデルネラ
1940年代に無敵を誇ったリーヴェルプレートのFWライン『ラ・マキナ(機械)』を形成した一人。センターフォワードを担当した。後にディステファノと入れ代わる。
メディーナ ラモン・メディナ・ベージョ
元横浜M。ディアスらと共に活躍。
メニャス フアン・カルロス・ムニョス
1940年代に無敵を誇ったリーヴェルプレートのFWライン『ラ・マキナ(機械)』を形成した一人
モレナ ホセ・マヌエル・モレノ
1940年代に無敵を誇ったリーヴェルプレートのFWライン『ラ・マキナ(機械)』を形成した一人。2枚目だった事などから『エル・チャロ』と呼ばれ、 インサイドレフトを担当。
想像力溢れるプレイと多彩なテクニックを武器に活躍。リーヴェルのユース育ちでトップデビュー後メキシコのエスパニョールにも一時在籍したが、この2チームでリーグ優勝を果たすなどして大きな注目を集めた。
その後チリやコロンビアのチームに移籍。それぞれのリーグで優勝を果たし『4つの異なる国のリーグでそれぞれ優勝を果たす』という快挙を達成した。 代表としてはW杯に出場する事は無かったが47年のコパアメリカに優勝。
ラグナーラ アンヘル・ラブルーナ
1940年代に無敵を誇ったリーヴェルプレートのFWライン『ラ・マキナ(機械)』を形成した一人
レーケ レオポルド・ルーケ
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【OMF/SMF】
エンリカ エクトール・エンリケ
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オスティス オスカル・オルティス
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オラティルコエチャ フリオ・オラルティコエチェア
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オルトナー アリエル・オルテガ
90年代希代のドリブラーとして活躍。マラドーナの後継者と呼ばれ期待され、若くして代表入りを果たした。
リーヴェルに入団後監督だったパサレラにより抜擢され17才でトップデビューを果たすと、リーグ優勝、リベルタドーレス杯優勝など数々のタイトルをもたらした。
97年から欧州に渡り、バレンシア、サンプドリア、パルマなどを渡り歩くが、欧州の早いパスワーク主体のサッカーにはそのドリブル主体のプレイスタイルはフィットせず「持ち過ぎ」という烙印を押されてしまい失意の帰国。
しかしリーヴェル復帰後は水を得た魚のように活き活きとしたプレーを披露。若きアイマールやサヴィオラらと共に活躍する。2002年W杯後にはトルコの強豪フェネルバフチェに入団するが、無断帰国しリーヴェルとの契約を結ぼうとするなどトラブルを起こし裁判に。結局法外な賠償金を請求され、そのままサッカーに対する情熱を失ったと言い残し、引退に追い込まれている。
代表ではW杯にもレギュラーとして出場しているが、期待を集めた98年大会ではオランダ戦で相手GKファン・デル・サールに頭突きを食らわせて退場。結局その後アルゼンチンは敗れ戦犯として批判を集めた。
非常にテクニカルな選手で、素晴らしい才能を持っていたが、精神面の未熟さが脚を引っ張ることが多かったように思う。また『ダイブの名手』としても知られており、素晴らしいテクニックを持ちながらそういうプレーに走りがちな点を、監督や指導者が何度もたしなめる事があったが、彼は一向に耳を貸す事は無かった。ただ、晩年にリーヴェルに復帰した時はそういうプレーも鳴りを潜め、素晴らしいテクニックを随所に披露しクラブの英雄となっている。
余談だが代表デビューはなんと、あのマラドーナとの交代出場だった(親善試合だったが)その為『マラドーナ2世』と呼ばれる事が多かった。
シボレ エンリケ・オマール・シボリ
「カベソン(でか頭)」と呼ばれたアルゼンチン史上に残る名選手。その天才的な左足のテクニックは「エル・グラン・スルド(偉大な左足)」とも呼ばれ恐れられた。
52年にリーヴェルプレートでデビュー。4度のリーグ優勝に導き、20才でフル代表入りを果たし、コパアメリカ優勝に貢献。この活躍が目に止まりユベントスに移籍。ポニペルティやジョン・チャールズらとコンビを組み怒濤の快進撃を見せる。スクデットを3度獲得し自身も得点王に輝いた。他にもコッパイタリアにも3度優勝、チャンピオンズカップでも敵地サンチャゴ・ベルナベウで無敗だったレアル・マドリーを見事に倒すなどの活躍を披露した。
ただかなりの激情家としても知られており、セリエA在籍の12シーズンで合計33回もの退場処分を受けている。その為監督やチームメイトとの対立や衝突も多く、65年にはユベントスを追われナポリに移籍。
しかしここで同じようにミランを追われたブラジル人、アルタフィーニと名コンビを組み活躍。リーグ2位にまでチームを押し上げ、ナポリの人々に熱狂をもたらした。
当時は今と規定が違った為、若い頃アルゼンチン代表でプレーしたシボリもイタリア代表としてプレーする事が出来た。(と言ってもシボリの父はイタリア移民なので国籍取得が容易だった) この為、当時は欧州国籍の選手にしか受賞資格が無かったバロンドールも61年に受賞している。
62年W杯にイタリア代表として出場し8ゴールを挙げている。69年に現役引退。引退後は古巣リーヴェルの監督やアルゼンチン代表監督などを歴任した。
彼がナポリの街をを去って10数年後、彼と同じくアルゼンチンから来た左利きの天才が、この街に再び熱狂をもたらす事になるのだが、それはまた別のお話。
スカービレ ギジェルモ・スタービレ
1930年第一回W杯得点王
ヒュズティ リカルド・ジュスティ
-
ビスカンティ ダビッ・ビスコンティ
横浜Mなどで活躍。
ブルーチェ ホルへ・ブルチャガ
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ホリバ フェルナンド・ニコラス・オリバ
-
D.マルドラド ディエゴ・マラドーナ
説明不要のとんでもない人その3。
U.マルドラド ウーゴ・マラドーナ
ディエゴの弟。コンサドーレやアビスパなどに在籍。
【DMF】
アラビレーズ オズワルド・アルディレス
78年W杯優勝メンバー。アルゼンチンは「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。
大会後はイングランドに渡りトッテナムで活躍。35才で現役を引退。
引退後は監督として実力を発揮。特にJリーグでは清水、横浜、V川崎の監督を歴任している。実は弁護士資格も持っている。
カジェリコ アメリコ・ガジェゴ
-
ザパタ グスタボ・サパタ
元横浜M
バフィスタ セルヒオ・バチスタ
-
ベルデ セルヒオ・ベルティ
-
【SDF】
オルビン ホルヘ・オルギン
-
タランティリ アルベルト・タランティーニ
-
モートン フェルナンド・モネール
元横浜F。
ただ現役時代よりも「サンマサーン!サンマサーン!モネーネデース!」の印象が強い人が多いかもしれない。
【CDF】
ジェリー オスカール・ルジェリ
-
パサーリャ ダニエル・パサレラ
若干24才の時に78年W杯で優勝したアルゼンチン代表の主将を務めた。『エル・ゲレーロ(戦士)』と呼ばれ、勇猛果敢な姿勢と素晴らしい統率力でチームを牽引し、母国の悲願であるW杯優勝を勝ち取った。174cmと決して大柄ではないが、並外れた身体能力を生かしヘディングを得意とした。またキッカーとしても優秀でDFながら代表で20ゴール以上を決めている。
リーヴェルで活躍後82年からイタリアへ渡りここでもリベロとして活躍。フィオレンティーナやインテルでプレーしDFとしては脅威のゴール数を残した。
86年W杯ではチームの中心となったマラドーナに名指しで批判され、ラモン・ディアスらと共にスタメンの地位を追われ1試合も出場出来なかった。
引退後は98年W杯の代表監督に就任。厳しい規律を選手に課し「長髪禁止令」を発令。当時の主力であったレドンドはこれに反抗しチームを追われた。しかしチームは準々決勝で敗退し辞任に追い込まれる。
その後はウルグアイ代表監督やセリエAのパルマの監督などを勤めるがロクな成績を残す事が出来ず解任や辞任に追い込まれた。
現役時代もそうだったが「自分にも周囲にも妥協を許さない」性格は成功をもたらす事も多いが、時として批判の的になる事も多いようだ。
パラオン ホセ・ルイス・ブラウン
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バルガン ルイス・カルバン
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フシュークォ ホセ・ルイス・クシューフォ
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【GK】
オアー カルロス・ロア
W杯でも活躍したが宗教上の理由でピーク時に突如引退。後に復帰している。
ゴルコチェア セルヒオ・ゴイコチェア
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ジョール ウバルド・フィジョール
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ピード ネリ・プンピード
-

【コロンビア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アリージャ ファウスティノ・アスプリージャ
パルマなどで身体能力を生かして華々しい活躍。
90年にナシオナル・メデジンに移籍し活躍。92年パルマに移籍しUEFAカップ、カップウイナーズカップ優勝などに貢献し、圧倒的なスピードを武器に世界の注目を集める。
しかし素行に大きな問題があり、拳銃発砲事件を何度も起こしたり、97年W杯予選ではパラグアイのGKチラベルトといざこざを起こし、両者退場処分の後で控え室前でチラベルトにブン殴られた事件もあった。
代表でもW杯に2度出場するなど長く活躍したが大きな大会ではあまり結果を残せなかった。特に94年大会は神様ペレが優勝候補に推すなど大いに期待されたが、不調に終わり結局はグループリーグ敗退に終わってしまったのが悔やまれる。
非常に波のある選手で、試合から全く消えてしまう事もしばしばあったが、調子の良い時は手がつけられない程の素晴らしい能力を発揮した。
バレラ アドルフォ・バレンシア
-
【OMF/SMF】
バタンカート アルレイ・ベタンコート
-
バルダーニ カルロス・バルデラマ
まるでライオンのようなカーリーヘアーが印象的な天才パサー。90年代のコロンビア躍進の象徴。
国内の名門デポルティボ・カリで頭角を表し代表に選ばれると87年のコパアメリカで大会MVPに輝き、チームも3位に躍進を果たした。
その後はフランスやスペインのクラブを渡り歩いたがフランスカップ優勝程度の実績に留まった。母国復帰後はまた素晴らしい活躍を披露し、晩年はアメリカMLSに在籍。41才まで現役を続けた。
代表では何と言っても90年代コロンビア躍進の中心的人物で、同国代表最多出場記録も保持、90年W杯では母国のW杯初勝利に貢献。続く94年、98年と90年代の3度のW杯全てに出場。不動の10番として君臨した。
特に期待を集めた94年はリンコン、アスプリージャ、イギータとタレントも揃っており優勝候補の呼び声もあったのだが、油断なのかコンディション不足だったのか、まさかのグループリーグ敗退を喫した。
87年、93年に南米最優秀選手賞を受賞している。また普段からガニ股で股関節が非常に柔らかく、ほぼ全てのキックをインサイドで行っていたという珍しい選手。自らゴールを挙げる事は少なく、スピードには欠けるがキックやパスの精度は天才的であり、一本のパスでゲームを決める事の出来る稀有なタレントであった。
リンリン フレディ・リンコン
-
【CDF】
アスコバル アンドレス・エスコバル
94年W杯、予選リーグアメリカ戦でオウンゴールを献上してしまい優勝候補コロンビアは敗退。大会後母国でマフィアに襲われ暗殺。
【GK】
イラゴリー レネ・イギータ
『スコーピオン』『リベロキーパー』など数々の伝説を残したGK。PK戦で4本止めて自分が決めて勝ってしまったり、ドリブルで攻め上がった所を相手FWにカットされて点取られたりと数々の逸話を持つ

【ウルグアイ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ケビチャ ルイス・アルベルト・クビジャ
-
ルベン・トーニャ ルベン・ソサ
-
【OMF/SMF】
フランシスコ エンツォ・フランチェスコリ
『エル・プリンチペ(王子)』W杯や欧州ではあまり活躍できなかったが、リーヴェルで見せた輝きは素晴らしかった。ジダンが憧れた天才MF。コパ・アメリカでは3度優勝に輝いている。97年引退。
ホサンダーテ ホセ・アンドラーデ
-
【CDF】
デーロン ウーゴ・デ・レオン
-

【チリ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
L.カンチェス レオネル・サンチェス
-
ザモラ イバン・サモラーノ
サラスとの『サ・サ・コンビ』で有名だがサモラーノの方が7才年上である。
『雷帝』とも呼ばれるチリの誇るスーパースターで、スイスリーグ得点王を獲得後スペインのセビリアに移籍。92年には強豪レアル・マドリーに移籍。94-95シーズンには得点王を獲得しチームも5年ぶりのリーガ優勝を果たす。96-97シーズンからはセリエAインテルへ移籍しUEFAカップなどに優勝。ロナウドがインテルに加入した時は自身の背番号9を譲り、自分は18番を背負うが1と8の間に小さく「+」を入れ9番への思い入れを見せたのは有名な話。2001年にメキシコの名門アメリカに移籍しリーグ優勝に貢献。
代表ではロハス事件(注1)の影響で出場出来なかったが処分が明けた98年W杯予選では、サラスとのコンビでゴールを量産。南米予選得点王になりサラスが2位とワンツーフィニッシュを決めて見事南米予選を突破。本大会でも二人でゴールを量産し決勝トーナメント出場を果たした。その後シドニー五輪ではオーバーエイジ枠で出場し母国を銅メダルの快挙に導いた。
2002年には母国の名門コロコロに移籍し、翌年現役を引退した。

(注1)ロハス事件=90年W杯南米予選最終戦、ブラジルとの試合中に劣勢に陥ったチリは、再試合に持ち込むためGKロハスが「観客が投げた発煙筒が顔面を直撃した」と嘘の訴えを起こすが後に嘘が露見し、94年W杯も出場停止処分となった。
【CDF】
フェゲーロ エリアス・フィゲロア
『ドン』と呼ばれた南米史上最強のDFの一人。
残念ながら欧州のプレー経験は無いがウルグアイの名門ペニャロールやブラジルのインテルナシオナルなどで優勝に貢献。特にインテルナシオナル時代は在籍したシーズン全てで州選手権優勝という偉業を達成している。
晩年にはNASL、フォートローダーデール・ストライカーズにも短期間ではあるが在籍。自国の名門コロコロで38才で現役引退。
南米最優秀選手賞を74年から3年連続で受賞。南米では攻撃の選手が重要視される為、歴代でもDFが受賞した事はほとんど無い。しかも当時はジーコやリベリーノ、ケンペスと言った名選手達を差し置いての受賞である。なお現在においても「3年連続受賞」を果たしたのはフィゲロアただ一人しかいない。
W杯では66年大会から1大会おきに74年、82年と出場した珍しい記録を持っている。しかしチームとしてはいずれの大会も予選リーグ敗退に終わっている。
ただ当時のチリのチーム力で南米予選を勝ち抜く事が出来たのはフィゲロアの力あってこそである。

【パラグアイ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ヤリュージョ ラウル・ビセンテ・アマリージャ
「バンブ(竹)」とも呼ばれ横浜フリューゲルスに在籍した事もある長身のストライカー。ヘディングとポストプレイを得意とした。
スポルティボ・ルケーニョで頭角を表しスペインのサラゴサに移籍。ここでスペイン国籍を取得し、スペインU-21代表に選ばれるが同時に祖国代表選手への道を閉ざされてしまう。
国籍を取得した事でバルセロナに移籍するが結果を出せず祖国に帰国しオリンピアに入団。ここではチームの中心として大活躍し、リベルタドーレス杯で準優勝と得点王を獲得。その後はメキシコのクラブ、アメリカに一時期在籍するがすぐにオリンピアに復帰。再びリベルタドーレス杯の決勝に進出し、見事リベンジを果たし南米チャンピオンの栄光をクラブにもたらした。
この活躍で90年の南米最優秀選手に選ばれている。その後トヨタカップで来日したが当時世界最強のACミランを相手に0-3と完敗を喫した。
93年にはJリーグの横浜Fに移籍。天皇杯優勝に貢献するが翌年のシーズン中に故障しそのまま現役を退いた。
【GK】
チラバート ホセ・ルイス・チラベルト
FKやPKも蹴るGKとして有名で、通算60点以上を決めている攻撃的キーパーの代表的選手。
15才でプロデビューし、その後国外のクラブなどを経てアルゼンチンのベレス・サルスフィルドで一気にブレイクを果たす。クラブに黄金期をもららしリーグ優勝、リベルタドーレス杯優勝、トヨタカップでも来日しミランを破り優勝。南米スーパーカップも制覇した。
96年には南米最優秀選手にも選ばれ2000年ストラスブールに移籍。チームは降格したがフランスカップに優勝。翌シーズンも残留し1年での1部復帰を果たすものの契約問題により解雇される。
その後母国復帰を決めたが争奪戦が勃発し混乱を避ける為に母国復帰を諦めてウルグアイの名門ペニャロールに移籍。その後は古巣ベレスに移籍した。
代表では89年に代表デビューした試合でいきなり得点を挙げるなど活躍。不動の守護神として君臨した。98年W杯南米予選でも得点を決めるなどして母国の予選突破に大きく貢献。本大会でも活躍し見事グループリーグ突破に導いた。その後2002年大会にも出場し再びグループリーグ突破を果たした。
気迫を前面に押し出すタイプの選手でトラブルを起こす事もしばしばあるが、敗れて泣き崩れるチームメイトを励まし、一人一人抱き起こし健闘を称えるなど心優しい一面も覗かせ、優れたキャプテンとしてもチームメイトに慕われている。
余談だがパラグアイ国内では英雄として崇められており、現役引退後は大統領候補にという声が挙がるほどの人気を誇っている。

【エクアドル】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ペンサー アルベルト・スペンサー
エクアドル史上最高の選手であり60年代世界最高のストライカーとも言われる。59年のコパアメリカで大活躍し、ウルグアイのペニャロールに移籍。ペニャロールのデビュー戦でいきなりハットトリックを決め、その後も圧倒的な得点力を発揮。10年で7度の優勝。326ゴールを決めた伝説的ストライカー。
リベルタドーレス杯の記念すべき初代王者にペニャロールを導き、リベルタドーレス杯では通算54ゴールを決めた。
エクアドル代表ではあったものの、一時引き抜きに近い形でウルグアイ代表でもプレーした経験を持つ。
71年に母国のバルセロナに移籍し1年プレーして引退。引退後は領事などを務めた。
【OMF/SMF】
オギナガ アレックス・アギナガ
弱小国エクアドルを2002年W杯本大会出場に導いた英雄。典型的な南米型10番の系譜を受け継ぐチームの司令塔。

【ペルー】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
カビチャ テオフォロ・クビジャス
-
【CDF】
アクダル エクトル・チュンピタス
-

【ボリビア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【DMF】
マキャベリ マルコ・エチェベリ
「エル・ディアブロ(悪魔)」と呼ばれたボリビアの英雄。国内の育成機関『タウイチ・アカデミー』の出身でボリバール入団後一気にブレイクしスペインのアルバセテに引き抜かれるが環境の違いに慣れる事が出来ず1シーズンで失意の帰国。
しかし94年W杯の南米予選を突破するなどして再び注目を集めアメリカMLS、DCユナイテッドに移籍し大活躍。リーグカップに優勝し翌シーズンからはリーグ連覇を果たして、自身もMVPにも輝いた。2003年に同チームを退団している。
代表ではなんと言っても94年大会の南米予選での大活躍に尽きる。ブラジルを破る大金星の決勝ゴールをあげた事など、本大会出場に大きく貢献した。しかし本大会直前に故障し、初戦の後半から途中出場したが、出場数分後にレッドカードを受け退場。2試合出場停止処分を受け大会を去った。チームもエースを失ってあっさりとグループリーグで姿を消した。

【メキシコ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
U.カンチェス ウーゴ・サンチェス
80年代レアル・マドリー黄金期のエースストライカー。通算5度の得点王、リーガ5連覇、ゴールデンブーツ賞も獲得。メキシコの生んだ最高のフットボーラー。
国内で活躍後81年にスペインのアトレティコ・マドリーに移籍。84-85シーズンに得点王を獲得し注目を集め、レアル・マドリーに引き抜かれキャリアのピークを迎えた。
ここではリーグ5連覇に貢献するなど黄金時代を築いた。その後は国内外の様々なクラブを渡り歩き、97年に現役引退。
代表としてはW杯に3度出場しており、86年大会のベスト8が最高成績である

【アメリカ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ウィリアム ロイ・ウェガリー
-
ニューア ジョー・マックス・ムーア
-
【SDF】
ラモン アレクシー・ララス
94年母国W杯で予選リーグ突破に貢献。

【ナイジェリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アメンテ エマヌエル・アムニケ
-
アモカテ ダニエル・アモカチ
-
【OMF/SMF】
イカカナ ヴィクター・イクぺバ・ノザ
-

【カメルーン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
フランビーク フランソワ・オマンビイク
-
マンガネ マンガ・オンゴネ
-
メラ ロジェ・ミラ
13歳でプロ契約、フランスで失意の時を過ごし、一度は引退したが大統領直々の説得で代表復帰。
38歳で向かえた90年W杯でスーパーサブとして活躍し4得点。王者アルゼンチンを破るなどしてベスト8進出。さらに4年後のアメリカW杯でも得点を決める。この時なんと42歳だった。
【OMF/SMF】
ファべダ テオフィン・アベガ
-
【GK】
ヌベル アントワーヌ・ベル
-
メンコノ トーマス・ヌコノ
-

【モロッコ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
バジール サラエディン・バシール
-
ファーレス アーメド・ファラス
-
【OMF/SMF】
ティムル モハメド・ティムミ
-
【GK】
バキ バドゥ・ザキ
-

【エジプト】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アルカディル モハメド・アル・カティブ
-

【チュニジア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
ディラブ タラク・ディアブ
-
【GK】
ケルクア ショクリ・エル・クエール
-

【ガーナ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
アブズラク カリム・アブドゥル・ラザク
-
イバンデー イブラヒム・サンデー
-
ベレ アベディ・ペレ
-

【アルジェリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ラジャール ラバー・マジェール
-
【OMF/SMF】
ダロウミ ラクダル・ベロウミ
-

【ザンビア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【OMF/SMF】
ルブワヤ カルシャ・ブワルヤ
88年ソウル五輪で活躍。6得点を記録し、イタリアを破る金星をあげた。その後PSVに移籍しロマーリオとコンビを組みリーグ制覇と国内カップ優勝に貢献した。W杯には弱小国の為縁がないが、アフリカ選手権では得点王も獲得した。

【コンゴ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ブギラ ポール・ムキラ
-

【リベリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ウィトラ ジョージ・ウェア
95年バロンドール受賞。『リベリアの怪人』
少年時代はGKとしてプレーしていたが次第に前線のポジションに移って行くという、多くの選手のパターンと逆を行っている。86年には国内最強チーム、 インビンシブル・イレブンに移籍し得点王を獲得。翌年にはカメルーンに移籍し活躍。
22才の時に欧州に渡りヴェンゲル率いるモナコに入団。環境の違いに苦しみつつもフランスカップ優勝などに貢献。後にパリSGに移籍し一気にスターダムに駆け上がった。リーグ優勝、フランスカップ優勝、チャンピオンズリーグでは大活躍を披露し予選リーグ全勝の首位突破に貢献。ベスト4進出を果たす。
そして欧州以外の選手としては史上初めてバロンドールを受賞した。(前年に受賞資格が変更され欧州リーグに在籍する選手であれば誰でも受賞出来るようになった) この活躍が認められミランに移籍し、95-96シーズンのスクデット獲得に大きく貢献した。チーム内での得点王に3年連続で輝いたが、特に96年のヴェローナ戦で見せた自陣ペナルティエリアからのドリブル90M独走ゴールは実に圧巻である。
既に30才を越えていたがその後もチェルシー、マンチェスター・シティなどで息の長い活躍を披露、2001年にUAEのアル・ジャジーラに移籍した。
残念ながら祖国リベリアが弱小国であった為、W杯に出場する事は出来なかった。しかしW杯で活躍したロジェ・ミラやオコチャ、カヌらを抑え、98年にはアフリカの20世紀最優秀選手に選ばれている。
また祖国サッカーの発展にも大きく寄与しており、自腹で代表チームのユニフォームを揃えたり、給料を肩代わりしたりというエピソードの他、祖国の内戦で傷付いた人々を救う為の「ウェア基金」も設立。自らユニセフ親善大使を務めるなど、リベリアの平和にも力を注いでいる。

【マリ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
サリタ サリフ・ケイタ
-

【ギニア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
シェリーマン シェリフ・スレーマン
-

【DRコンゴ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【CDF】
グワンゴ ティシメン・ブワンガ
-

【韓国】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
イ ソグン イ・ドング
『ライオン・キング』と呼ばれ打点の高いヘッドを武器に活躍。大卒プロ入りが多い韓国では数少ない高卒プロ入りを果たし98-99シーズンにKリーグ新人王を獲得。
18才でフル代表に召集され98年W杯にも出場。「追っかけ」が出るくらいの爆発的な人気を誇った。その後01年にブレーメンに移籍。とまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったがここから長いスランプに陥り、ドイツで活躍出来ずに半年で帰国、02年W杯のメンバーからも落ち、古巣浦項から軍隊チーム入りをした。
コ ジョンホン コ・ジョンウン
-
ジュ ボクン チャ・ボンクン
『アジアの虎』。フランクフルトやレバークーゼンなどで活躍。UEFA杯で優勝も経験している。韓国史上最高のストライカー。
後に母国の代表監督も務めるが98年W杯予選リーグでオランダに0-5の大敗を喫した「マルセイユの恥辱」により、大会途中の異例の監督更迭となった。
ソン スンホン ソ・ジョンウォン
-
ソン ヒギョン ソル・ギヒョン
2002年W杯ベスト4メンバー。ベルギーの名門、アンデルレヒトなどで活躍
チョ・デグン チョン・ウグン
-
リ スンユン イ・サンユン
-
【OMF/SMF】
イ・ヒョンシュ イ・チョンス
2002年W杯ベスト4メンバー。レアル・ソシエダなどで活躍。なべやかんに似ている人と言えば思い出す人もいるだろうか。
オ・ユンジョン ノ・ジュンユン
広島やC大阪などで息の長い活躍を披露。Jリーグの発展に貢献した
ハン サッチュ ハ・ソッチュ
-
【DMF】
パク チャンソク パク・チンソプ
-
ユン・チャンソル ユ・サンチョル
実名でJにいるので出ないかも
【CDF】
イ ミョンセ イ・ミンソン
-
ホン ビョンホ ホン・ミョンボ
アジア最高のリベロと言われ、W杯でも活躍。大学時代に既にフル代表に選ばれ90年W杯にも出場。97年からはJリーグの平塚や柏でも活躍した。
実は94年W杯後に欧州やJリーグ行きの話があったが「日本行きだけは絶対に阻止」という韓国側の圧力により実現しなかった。
Jリーグを離れた後は母国のクラブを経てアメリカMLSのギャラクシーで活躍。2002年W杯では母国をベスト4に導いている。
【GK】
イ・ウジョン イ・ウンジェ
2002年W杯ベスト4メンバー

【中国】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
パオ ライドン ハオ・ハイドン
-
ヤン スコウ ロン・チーハン
-
【OMF/SMF】
バン クォイゴ ペン・ウェイグォ
-
ミャン シンギャ マ・ミンユ
-
【DMF】
ミ ジャンユ リ・ジンユ
-
【CDF】
チェン エンシャ チャン・エンファ
-

【サウジアラビア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アサイラン サイード・オワイラン
『砂漠のマラドーナ』と呼ばれ、94年W杯のベルギー戦では伝説的な60M独走ゴールを鮮やかに決めるなどして活躍し、母国の決勝トーナメント進出に貢献した。
O.アラドサニ オバイド・アルドサリ
-
ジャファー サミ・アルジャバー
-
ファド ファハド・メハレル
-
マジェドラー マジェド・アブドラー
-
【GK】
デヤウエ モハメド・アル・デアイエ
『砂漠の黒クモ』『スパイダーマン』と呼ばれ、超人的な身体能力でサウジアラビアのゴールマウスを守り続けた守護神。同国史上最高はもちろん、アジアが生み出した最高のGKでもある。
非常に手足が長く、黒いユニフォームを好んで着ていた事から黒クモと呼ばれるようになった。94年、98年、02年と3大会連続でW杯に出場しているが、02年大会では12失点を喫し、後に代表引退を表明した。
余談だがプロデビューした頃はFWの選手だったとか・・・人生どこで何が起こるか分からないものだ。

【イラン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
アジズ ホダダド・アジジ
96年アジアカップで母国3位躍進の原動力となり注目を集め、アジアカップMVPと同年のアジア最優秀選手にも選ばれた。
同国の英雄ダエイの名パートナーとして活躍。98年W杯最終予選、アジア第三代表決定戦で日本と対戦した際、マスコミが見てる目の前で直前の練習中に負傷し車椅子で登場する演技を見せ、情報撹乱を画策した事もある。もちろん試合には元気に出場し得点も挙げている。この試合は岡野のゴールデンゴールに敗れ記念すべきW杯初出場を日本にプレゼントしてしまう。
しかしその後のオーストラリアのプレーオフでも活躍し、見事最後の最後、32番目に本大会の出場権を獲得した。本大会でもアメリカを破る歴史的勝利に貢献した。 1FCケルンやMLSサンノゼなどでもプレー。
バエイ アリ・ダエイ
96年アジアカップ得点王。ブンデスリーガで活躍した同国の英雄。93年W杯アジア最終予選では日本を破る決勝ゴールを決め、最終予選の得点王も獲得した。(この時キング・カズも並んで得点王になっている)
96年のアジアカップでは準々決勝で優勝候補の韓国を6-2という圧倒的な大差で下す原動力となり、自身も得点王を獲得した。この活躍でブンデスリーガ、ビーレフェルトに移籍した。
98年W杯予選でも日本を大いに苦しめるが惜しくも敗退。しかしプレーオフでオーストラリアを下し本大会に出場。
大会後バイエルン・ミュンヘンに引き抜かれるがレギュラーを取るには至らずヘルタ・ベルリンへ移籍。その後はUAEのアル・シャバブなどで活躍した。
余談だが、オフト監督時代ジュビロ磐田に移籍するという噂があったが実現には至らなかった。
【OMF/SMF】
バケロ カリム・バゲリ
マハダビキア、ダエイやアジジらと共に、90年代後半のイラン黄金期を支えた中核メンバー。W杯にも出場している
【GK】
ナシャジ ナセル・ヘジャジ
-

【北朝鮮】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
パク・ドォンク パク・ドゥイク
66年W杯の北朝鮮代表のエースストライカー。イタリアを敗退に追い込むゴールを挙げ、チームのベスト8進出に大きく貢献し『東洋のペレ』とも言われた。
引退後は「人民体育人」の第一号として表彰され、ベンツをプレゼントされている。後に北朝鮮代表監督を長きに渡って務めた。

【タイ】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ピヤオン ピヤポン・ピュー・オン
-

【マレーシア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【CDF】
リン・アンチン ソ・チンアン
-

【ウズベキスタン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ジャツケフ オレグ・シャツキフ
-
【OMF/SMF】
キャシモフ ミルジャロル・カシモフ
-

【カザフスタン】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ジュバロフ ビクトール・ズバレフ
-
【OMF/SMF】
ティンチェモフ セルゲイ・ティモフィエフ
-

【オーストラリア】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【GK】
ゴスナッチ マーク・ボスニッチ
元オーストラリア代表の正GK。アストン・ヴィラで活躍し、名手シュマイケルの後継者としてマンチェスター・Uに移籍。99年のトヨタカップではMVPも獲得したがシーズンを通してファーガソン監督の信頼を勝ち得るには至らず、バルテズ獲得によりポジションを失う。その後チェルシーに移籍するも怪我やうつ病を患い、麻薬にも手を出してしまい解雇された。

【ニュージーランド】

選手名(登場名)

モデル選手名(本名)

コメント、備考
【FW】
ルーフォン ウィントン・ルーファー
-

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