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[19087] G線上のアリア aria walks on the glory road【転生オリ主・オリ設定多数】
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/23 19:43
○ご挨拶

 はじめまして、キナコ公国と申します。
 唐突に思い浮かんだネタでしたが、大体の全体構想ができましたので、今回の投稿に踏み切らせていただきました。
 拙作ですが、お楽しみ頂ければ幸いです。



○ご注意

・このSSはヤマグチノボル氏作、ゼロの使い魔の二次創作にあたります。
・二次創作だというのに、原作キャラはずっと後半になるまで出ません。
・設定については、原作本編、アニメ全話を基準にしています。外伝(烈風の騎士姫など)についてはあまり考慮しません。
・原作の主人公達とは視点が完全に違うため、若干貴族階級、宗教に対してアンチ成分が入るかと思います。
・TS系オリ主、オリキャラ満載(笑)。しかもオリ設定多数。基本的には中世~近世ヨーロッパを参考に、ハルケギニアの情勢下ではどうなるかを考慮して捏造中。
・地名・人名で実在の名称が出てくる箇所がありますが、実在のものとは一切関わりがありません。ご了承ください。
・感想、批判、指摘など熱烈歓迎します。


○目次

1~9話     第一章 貧民少女アリアの決意
幕間
10~       第二章 商店見習アリアの修行 



※改訂について

・チラシの裏掲示板にて初投稿。(2010/5/24)

・ご指摘にあった引き取り価格について見直しました。金貨30枚→10枚少し。ただし、合計金額は20~30枚程度となります。なお口入屋の奴隷的階級の紹介価格については14世紀のヨーロッパにおける奴隷価格を参照として設定しております。1ドゥカート金貨を5万円価値、1エキュー金貨を1万円価値として換算。(2010/5/27)

・ネタ作品というには長くなりそうなので、題名からネタを削除しました。(2010/6/4)

・ご指摘にあった1話、TNTの話をポリエチレンの話に差し替えました。他、気付いた誤字、不足部分の改訂(2010/6/20)

・チラシの裏掲示板からゼロ魔掲示板に板変更。(2010/6/24)

・19話、読み直して明らかに戦闘描写が不足だったので追記。(2010/8/5)

・中世欧州での商社関係について、より詳しい資料を手に入れたため、ちょこちょこと改訂はじめます(2010/9/20)

・なにやら誤解を招いてしまったようなのでちょっと26話を改訂。ロッテとアリアが言い出した利息は、単なるじゃれ合いのつもりでしたので……(2010/9/23)



[19087] 1話 貧民から見たセカイ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/20 22:42
『僕』は死んで。
『私』は生まれた。 

 平民と言う名の持たざる者に。

 神様やら精霊が現れたわけもなく、転生用隕石を召喚したわけでも、転生用トラックを依頼したわけでもない。
 塾講師のバイトの帰りに、バイクで事故った。若者にありがちなスピードの出し過ぎによる単身事故。ただそれだけ。

 気付けば性別も、名前も、年齢も。全てが変わって、日本ではない、地球ですらないここにいた。

 最初は夢だとおもっていた。事故った『僕』が植物人間にでもなって見ている妄想の類。

 しかし違った。それはあまりにもリアルすぎた。
 
 『私』には何の力もない。美しくもない。魔法も使えない。
 ただあるのは私が『僕』だった時の知識と記憶だけ。

 『僕』は、理系の大学院生で、有機化学系の研究室の住人だった。簡単にいえば、六角形の化学式を大量に扱う分野だ。

 しかしそれがこのセカイで何の役に立つのだろうか。

 例として、もし『私』が、『僕』の専門知識を活かして、ポリエチレンテレフタラート(ペットボトルや衣服などに使われている高分子重合体)の大量生成によって繊維関係の商売で儲けよう、と思ったとする。

 結論から言おう。無理だ。

 ポリエチレンテレフタラートとは、テレフタル酸とエチレングリコールという化合物を重合させて得られる材料なのだが、この原料は二つとも化石燃料を由来とする化合物である。

 だが、化石燃料がまともに利用されていないこのセカイで、どうやって大量に必要となる原料を手に入れる?
 まさか、化石燃料の採掘、精製を行うところから手掛ける?夢物語だ。
 それ以外にも、工業的生産を行うための施設は?理論を理解できる大量の技術者は?などなど、いくらでも問題点は挙げられる。

 他の科学的知識だって、大多数は“現代”でなければ実現できないものばかりだ。
 そもそも、『僕』からすれば、研究室で使っていたような試薬などの実験材料や実験に使う器具は外部から“購入して当然”のものだったし、電気や化石燃料などのエネルギーだって、“あって当然”のものだった。
 そのような“当然”の物を用意する事から始めて、最終的な目的を果たせる者がいたとしたら、そいつは一体どんな人間なのだろう。少なくとも『僕』の知る限り、そんな超人は現実には存在しない。
 現代社会の文明は、非常に細かく分類された専門知識を沢山の人間で分業することによってなりたっているのだ。

 たった一人が所有している場違いな知識など、セカイから見れば塵に等しい。

 結局、『私』は何もできない。ならば、このセカイのルールに従って生きるのみ。

 だから『私』に『僕』の知識があるのは特に意味はない。

 じゃあ『僕』の記憶は?

 せいぜい思い出して感慨に浸る程度の意味しかない。この辛い生活の慰めにはなっているので、知識よりは若干意味があるのかもしれない。

 別に地球に帰りたい、とは思っていない。だって『僕』は死んだのだから。あちらの両親には申し訳ないが、そこはもう、これまでの『私』の人生の中で受け入れてしまった。
 日本という国だって、学生が思っているほど気楽な世界ではないし、一歩レールを踏み外せば緩やかな死が待っている。
 そう考えれば、どちらのセカイが楽だ、なんて事はないのかもしれない。

 ただ、このセカイよりは救いがあった。少なくても、自分の能力と運次第でのし上がれるチャンスは多いのだから──





 ここが“あの”トリステインである、とはっきりと断定できたのは、私が6歳頃まで成長してからだった。

「貴族様に逆らってはだめだ、アリア。魔法で殺されてしまうからね」
「偉大なるブリミル様、ささやかな糧に感謝します」
「ねぇアリア、知ってる?アルビオンっていう国はお空に浮いてるんだって!」

 と、このような断片的な情報から、薄々そうではないかと思ってはいたのだが。

 確信したのはこのセカイの“原作”に綴られていた人物である、モット伯爵によって、近所にいた器量良しと評判のお姉さんが連れられて行った出来ごとを見たからだ。自分の目で見ることによって、ここが“ハルケギニア”である、ということを確信した。
 勅士の仕事のついでに寄ったとの噂だが、こんな辺鄙なところまで食指を伸ばし、しかも使者に任せず自分で足を運ぶとは。私はモット伯爵の情報ネットワークの広さとフットワークの軽さに脱帽していた。

「くそ……好き勝手やりやがって!サラ……」

 婚約者だった若い男は、そういってうなだれるだけだった。情けない男だ。
 まあ仕方ないけど。誰だって自分の命が一番惜しい。当然、私も。

 それにしても、せめて貴族に転生したかったものだ。“原作”から考えるに、とりあえず食うには困らないだろう。“原作”で起こる主人公達の物語に関わらない貴族ならば、下手したら寝てるだけでも生きて行けそうだ。偏見だろうか。
 きっと貴族から見たこの世界と、平民、それも限りなく農奴に近い私から見たこの世界では全く違う。

 “原作”にもマルトーや、シエスタといった平民は存在した。しかし彼らは私と同じではない。
 彼らは平民の中でも、上流、もしくは中流平民といえる部類の平民だ。対して私は下流平民、所謂、貧民層なのだ。なんせ主食が芋なんです。ひもじいんです。
 
 という訳で、私の実家はとても貧乏である。
 私は物心ついた時から、稼業である農業を手伝っていた。そうしなければ生きられないからだ。ただ、それでも私の現在の年齢である10歳まで無事に生きてこられたのは運がよかった。

 どこが?と思うかもしれないが、
 もし運悪く凶作の年が続いていたら、口減らしの対象になっていた可能性が高い。
 もし感染症にかかっていれば、治す手段はなく、そのまま死んだだろう。
 もし村に亜人や賊という脅威が現れていたら、何も出来ずに蹂躙されただろう。
 こう考えると、命の危機なく生きてこられた私は運がいいのだ。

 もちろん私は今でもこちらの文字は読めない。この村から出たこともないので、それが普通なのか、特殊な土地柄なのかもわからない。
せいぜいわかるのは、この村が王都からは程遠い、トリステインのどこかの片田舎であるオンという地域にあるらしいという事だけだ。
 
 農業やってるなら、理系なんだし現代知識を活かせるだろう、とか普通思うよね。私も思ったの。
 でもね、現代にある道具も施設もエネルギーも使わずに、簡単にできることなんて既に実践されてましたから!残念!ハルゲキニア農業6000年の歴史斬りっ!

 資金があれば、簡単な農薬もどきや肥料くらいは作れるかもしれないけど、そんなものはないし。
 そもそもただの子供、いやむしろアホの子とすら思われている私(口語を覚えるのが遅かった事で、アホだと思われたらしい)が考えを言ったところで、誰も従ってくれないので、もしそんなアイディアが閃いても宝の持ち腐れになるだろう。

 税率は6公4民という事らしいが、この困窮具合からして、確実にもっと取られていると思う。村人の殆どは文字も読めないし計算もできないので、そこにつけこまれているんだろう。
 ま、貴族の比率が全人口の1割というすさまじい歪みがあるので、税金が高いのも当然だろう。
 中世ヨーロッパでは確か、准男爵やら叙勲士などの下級貴族を合わせても、貴族の割合は全人口の2%にすらみたなかったはずだから。
 むしろ社会が成り立っているのが不思議だったりする。

 権力を濫用して女を漁ったり、切り捨て御免的な感じの事をする貴族もいるらしい。まあそういうのはかつての地球でもあったんだろうから不思議でもないが、やられる側になってしまったからには、感情的に簡単に納得できるものでもない。

 それでも私達は従うしかないのだ。魔法はコワイ。まあ、実際に魔法を見たことはないのだけれど。
 本当に救いがない。きっとこのセカイにはブリミルはいても、神も仏もいないのだ。



 私はブリミル教が嫌いである。何故なら貧民の立場にある私からすると、ブリミルはとんでもないエゴイストに思えてしまうからだ。

 その最たる理由として挙げられるのが、自分の子孫のみを繁栄させるために作られたような、圧倒的な暴力である魔法を使えるか使えないかで、2極化したカーストのシステム。

 勿論魔法による恩恵は、古き良き時代には多大にあったのかもしれない。でも今現在、私は何の恩恵も受けていない、と言い切れる。ここら辺に亜人やら賊が出た事ないしね。
 極論だが、魔法の存在が、技術の発展を阻害するという、ありがちな理論が成立するとすれば、損害を被っている、とすら言える。
 この宗教を平民が有難がっているのがこのセカイのスゴイところだ。家畜としての教育が行き届いてるとしかいいようがない。

 これから私は一生をこのまま搾取され続ける側で費やすしかないのだろうか、とそこまで考えたところで、邪魔が入った。
 
「アリアっ!またあんたはボケっとして!さっさと顔洗って外に出な!」

 ふぅ、やれやれ。考えに浸ることすら許されないのか。現実は常に非情である。

 さあ、今日も仕事だ、頑張るぞ。





 ざっく、ざっく。一心不乱に畑を耕す美少女ではない少女、私。今日も元気だ空気がうまい。

「ぐぁ……、もう腕が、あがら、ない」

 手に持っていた鍬を放りだして、私は畑にへたり込んでしまった。
 我ながら情けない。まだ昼過ぎだというのに、限界がきてしまった。しかし、この体、ずっと仕事を手伝っている割に貧弱なのだ。きっと栄養が足りていないせいだろう。
 ここ数年、肉を食った覚えがないのだ。欲しがりません、勝つまではってか。何に勝つのかは知らないが。

 せめてまともな農具があればいいんだが。木製の農具じゃね。少し硬い土でも、掘り返すのに苦労する。地球じゃ12世紀くらいに殆ど鉄製に替わってた気がするけどなあ。もしかすると、この村が辺境すぎるだけで、他の村では鉄製の農具を使っているのかもしれないが。
 まあ、ないものをねだっても仕方ない。出来ることをするだけさ。

「ほんと、役にたたない娘だよあんたは。どうしてあんたみたいなのが生まれてきたんだろうね」

 近くで作業していたこっちの世界のオカアサンが忌々しげにへたり込んだ私を睨む。
 おいおい、実のムスメなんだぜ!もう少しオブラートに包もうよ。役に立たないこちらも悪いのだけれど。

「ごめんなさい、少し休んだらまた頑張りますから」

 少しむかついたが、ペコリと頭を下げておく。私は子供だけどガキではないからね。

「あっそう、ま、別に頑張らなくてもいいんだけどね」
「えっ?」

 オカアサンの謎めいた発言に思わず聞き返す。頑張らなくてもいい、とはもしかして、ゆっくり休みなさい、という事だろうか!?
 やはり母親だな、と少し感動してしまった。すぐに後悔したが。

「あんた、売ることにしたからさ。まあ最後くらい家でゆっくりしてたら?」

 オカアサンの目、冷たい目だ。まるで養豚場の豚を見るような冷たい目だ。「可哀想だけど明日にはお肉になって店先にならぶ運命なのよね」ってかんじの!

 「売る」とはつまり人身売買だろうか。
 冗談でも言っていい冗談と悪い冗談があるだろう、と少し憤った私だが、飽くまで冗談だろう、と思っていた。



 一月後、私はセカイをまだまだ甘く見ていた事を痛感する。





つづけ






[19087] 2話 就職戦線異常アリ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/05/27 12:40
 今、荷馬車に揺られて運ばれている私は、農村から売られたごく普通の女の子。強いて違うところをあげるとすれば、前世の記憶があるってことかナ──

 どうしてこうなった!





 オカアサンが私を売る、と宣言してからおよそ一月後。

 いつも通りの朝、私は野良仕事に出る準備をして、食卓に向かった。

「今日は仕事をしなくていいんだよ」

 仕事用のボロを着ている私を見て、ニコリと微笑むオカアサン。
 いつもなら「ろくに役に立たない癖に、飯だけはしっかり食べるんだねえ」と心底呆れた顔で嫌味を言われるところである。

 正直、不気味だ。その不自然な態度に不安が募る。



 いつも通りの質素な朝食を食べ終わった後、奇妙な笑顔を張りつかせた両親に手を引かれて、私は村の広場へやってきた。

 行商人か何かだろうか、広場には荷馬車を連れた商人風の大男が待っていた。この小さな村に行商人が来るとは珍しい。

「?」

 もしかして、いつも頑張っているムスメに服か玩具でも買ってくれるのだろうか?
 そうか、オカアサンはツンデレだったのか……
 不気味だなんて思った自分が恥ずかしいです。ごめんなさい、これからはもっと頑張るよ!
 
「その娘か?」

 大男は低い声で両親に尋ねる。

「ああ、そうだ」

 オトウサンが珍しく声を発して大男の問いに答える。
 はて、どういう事?この男は流れの仕立て屋か何かで、私のサイズに合わせた服や靴でも作るのだろうか。

「……ではこれが代金だ」

 大男はそう言って懐から小さな袋を取り出してオトウサンに渡す。それを見てオカアサンは、オトウサンから袋をむしり取って、中身を取り出す。

 中から出てきたのは金貨。パッと見で10枚前後だろうか。

 なぜこちらが金を受け取るのだろうか。謎は深まるばかりだ。

「まあ、こんなに!ありがとうございます!」

 オカアサンが金貨を数えながら大男に礼を言う。その表情はとても人間とは思えない醜い笑顔。いや、きっとオーク鬼だってこんないやらしい顔はしないだろう。

「どういう事なの?」

 流石に耐えきれなくなって口を開いた。
 一体何が起きているのか説明して欲しかった、いや薄々解ってはいたが。

「その、なんだ。……ま、頑張れ」

 いつも無口なオトウサンは、バツが悪そうに、私から目をそらしながら呟いた。
 ちなみに私に兄弟姉妹はいないので、これで家族全部だ。

「なんだ、まだ説明していないのか?」

 大男は呆れたように言う。オトウサンは恥ずかしそうに頭を掻く。オカアサンは私には見向きもせずに、未だに金貨を弄っている。

「俺から説明しようか?」
「……お願いします」

 私は大男の提案を受け入れる。大男はウチの両親の様子を見て、自分が説明しないと話が進まないと感じたらしい。

「簡単にいうとだな……。お前は商品としてウチの商会に引き取られる事になったんだ」

 大男の無機質な声が現実を突き付ける。

 やっぱりそれか。
 その程度の感想しか出てこなかった私は、どこか人として壊れているのかもしれない。

 どうやって人身売買のツテを探してきたのかしらないが、「売る事にした」というオカアサンの言は本気だったらしい。

 ウチの財政が厳しいのは知っていたが、そこまでとは知らなかった。いや、役立たずのタダ飯喰らいを追い出しただけか。
 結構、ムスメとして色々頑張っていたつもりだったんだけどなあ。まあ10年も面倒を見てくれたのだから、感謝すべきなのかもしれないけれど。





「乗れ」

 逃げ出す事もできずに、荷馬車に積みこまれる私。逃げられたとしても飢えて死ぬだけだ。人間諦めが肝心。このセカイでは特にね。
 大男が手際よく私を荷馬車に備え付けられた鎖でつないでいく。

 両親は特に感慨もないようで、金の確認を済ませると、そそくさと家に戻っていった。その姿は荷物の引き渡しを終えた宅配業者に似ていた。

 荷馬車の中には、私の他に、私と同じくらいの年から、10代後半とおぼしき年までの女の子が3人程積まれていた。
 目が死んでいる赤毛の娘。憤っている感じの長身の娘。良く分かっていない金髪の娘。
 三者三様であるが、全員が望まぬ状況であるのは間違いない。

 まあ、他人の事なんて今は心配している場合ではないのだが。

 私はおそらく奴隷的なモノになるんだろう。
 的なモノ、というのはこのセカイに表立っての奴隷階級はないはずなのだ。人を商品として扱うあの大男は口入屋、わかりやすくいえば、人材派遣会社のようなものかな?

 なので私はこれからどこかの商家や、大農家やらに無制限に使える労働力として紹介され、そこに奉公するという形になるのだろう。といっても、彼らの屋敷で働くようなメイドではなく(可能性が無いとは言わないが)、普通の人がやりたがらないような、所謂3Kな仕事に回される可能性が高い。
 両親に金を先払いしたということは、私がそれを働いて返すということで、私に給料がでることはないだろうが。

 元貧農で、見た目も貧しい私が貴族に紹介されることはないと思う。
 年齢的なものから娼婦として売られる事もまだなさそう。客を取れるまで養っていては店側が損をするはずだ。もし10歳の幼女に興奮する人間が多かったらアウトかもしれないが。
 村にはそんな人はいなかったが(少なくとも私の知る限りは)、街ではロリコンが主流かもしれん。それは考えたくないな……。

 まあ正直、今までの生活を考えると大して変わらないかもしれない。いや、もしかしたら今までよりマシな生活が待っているかもしれない。きっとそう。いや、絶対!
 これはある意味チャンスだ。輝かしい未来へのスタートなのだ。私の人生はここから始まるのだ──



 でも幼女趣味の変態主人の玩具にされる事だけは勘弁してほしい。それならば過酷な肉体労働で過労死した方がマシに思える。

 できれば優しく金持ちで紳士な主人、業種は屋敷付きのメイド。というのが私の願望だ。少々大それた願いだろうか。





 どうやら私が最後の積み荷だったらしく、荷馬車はそれ以降人を乗せることなく進んでいった。

 厚手の黒いホロを被せてある幌馬車なので、外の様子を見ることはできない。光が遮られ、昼か夜かの区別もつかない中、私を含む4人の荷物達はどこにつれていかれるのか分からない不安に駆られていた。

 そんな状況が原因なのか、馬車の中の空気は最悪だった。

 金髪がふとした事で「どうして私がこんな目に」と泣きだし、長身がそれを「私も同じだし」と慰める。
 金髪が「あんたと一緒にしないで」と長身の慰めを拒絶する。
 すると金髪の態度に長身が怒り出す。
 赤毛はそんな2人の様子にオロオロとするばかり。

 馬車の中はこんな事の無限ループだった。ろくに会話をしていないので名前は知らないが、この状況で他人に気を向ける事ができるとは随分と余裕のある奴らだ。
 私は喧しい金髪の泣き声と長身の怒鳴り声に辟易としていた。

 そんな中、救いだったのは、意外にも大男の面倒見が良かった事だ。無愛想ではあったが。
 一日二食の食事の用意や、野営の番、馬車の御者などは全て男が一人でやり、私達はただ食っちゃ寝しているだけだった。
 商品は大切に取り扱うように言われているのかもしれない。





「出ろ」

 他の娘と会話することもなく、私自身は殆ど無言で馬車に揺られる事幾日か。どうやら目的地に着いたらしく、私達は馬車から下ろされた。

「連いてこい」

 この男は一語しか喋られないのだろうか。と思うほど大男は無愛想に私達へ指示を出す。
 大男が行く先は、やや無骨な構えだが、結構大きな建物だ。これが口入屋の店舗のようなものだろうか。

 周りにも石造りの建物が多く立ち並んでおり、ここが今までいたような寒村ではなく、それなりの規模をもった都市だ、という事がわかる。

 キョロキョロと辺りを見回しながらも、とりあえず私達は男について建物の中に入っていく。

「ここでしばらく待ってろ。一人ずつ入ってもらうから」

 お、久しぶりに文章を喋った。
 先程の建物の2階にある、立派な扉の前まで連れてこられると、私達はそこで待たされる事になった。扉に文字が書かれた金属製のプレートが貼ってあるが、文字が読めないので何の部屋なのかはわからない。先程まで一緒だった男は、部屋の中に入っていった。
 一人ずつ呼ばれるという事は、おそらく面接部屋みたいなものか。

 ここで、好印象を与えられれば、良い就職先が見つかるかもしれない──

「お前からだ」

 先程の男がドアから顔を出して私を指す。ありゃ、私がトップバッターですか。



「失礼します、オンの農村から来たアリアと申します」

 軽く会釈をしながら入室する。気分は就職活動中の学生である。
 勿論、椅子を勧められるまでは座らない。常識だ。いや、私が座る椅子なんてないんだけどね。

「ふむ」

 入った部屋には、髭を蓄えたやせっぽちの初老のオッサン。ただ、異常にその眼光が鋭いため、ただのオッサンでない事はわかる。この口入屋のボスといったところか。
 
「服を脱げ、全部だ」

 とんでもない事を言い出したよこの人。あの、一応私、子供とはいえ女なのですが。

 私は、『僕』だった頃の記憶はあるし、現在の性格もそれに基づいたモノになってしまっており、およそ女らしくはないとは思う。しかし10年もこの体と付き合っているのだから、自分は女である事は自覚しているし、人並みの羞恥心も持っているのだ。

 まあ脱ぐけども。ここで抵抗しても何の意味もないどころか、マイナスになりそうだし。それに、別にイカガワシイ事をされるわけではなく商品の品定めといったところだろう。

「クセのある栗毛に、瞳は薄茶、肌は色白……か。しかし栄養が足りんな。細すぎる。まるで病人だ」

 ボスは私をなめまわすように視姦しながら、羊皮紙になにやら書き込んでいる。
 
「すいません」

 私は何か責められた方な気がして謝る。栄養が足りないのは自分のせいでもないとは思うが。

「別に謝らんでいい。文字はよめるか?」
「読めません」

 即答である。

「そうか」

 文字が読めないなら他もできないだろう、と判断したのか、他の質問はこなかった。

「容姿は、まあもう少し肉がつけばよくなるだろう。性格も従順、一応の礼儀も弁えていると。ま、しかしこれでは星はやれんな」

 ボスはうんうん、と頷きながら、謎の言葉を呟く。

「あの……星とは?」

 疑問に思ったので恐る恐るだが質問してみる。

「知らなくてもいいことだが。まあいい、教えてやろう。お前らの値段のグレードだ。お前は最低のグレードだな」

 そう言ってボスはニヤリと口の端を吊り上げる。
 ボスの説明によると、紹介料のグレードがあるらしく、3つ星から星なしまで4つのグレードがあるそうだ。私のような何の取り柄もない小娘は、星なし評価という事だ。

 いや紹介料高くなった所で私達に関係なくね?むしろ高いんだから、その分働かされる気がするのだが、と思ったが、グレードが高い方がまともな主人に拾われやすいのだそうだ。
 星無し娘の運命は最底辺の過酷な労働くらいしかないらしい。それにすら引っかからなかった場合は……そこから先は聞けなかった。その運命は口にするのも憚られるらしい。

(やっべええ!このままではッ……!考えろ。考えるんだ。思考をkoolに。私にも何かあるはずだ!)

 本当にまずい。このままでは地獄行き確定である。私は背中に嫌な汗を掻きながら必死に思考する。


 
 そして見つけた。私の武器を!

「私、文字は読めませんが計算はできます。自信があります!」
「何……?くくっ、ハッハハそんな事があるわけがなかろう。文字が読めんのにどうやって計算を覚えるんだ。大体貧農出身のお前にそんな技能があるとは思えんわ」

 私の必死のアピールは軽く笑い飛ばれてしまった。
 本当に出来るんですよ?微分積分でも複素数でも3次方程式でも!いや、今ならミレニアム懸賞問題すら解けるッ!

「全く、笑わせてくれる娘だ。とにかくお前は星無し!よし、もう下がっていいぞ」
「あ、あの本当にっ…………はい」

 喰い下がろうとしたが、黙れ、とばかりに鋭く睨まれてしまい、すごすごと引きさがる。

 面接はこれで終了らしい。私は服を着て、失礼します、と失意のうちに部屋を出る。入れ替わりに、一緒に連れてこられた金髪の娘が部屋に入る。
 


(終わった。終了っ……!残念、私の人生はここで終わってしまった…………)

 終了という言葉が脳内にリフレインする。

「ねぇ、あんた何されたの」

 よほど私が酷い顔をしていたのか、外に残っていた娘の内、最年長らしき長身の女が、部屋から出た私にそんな質問をしてきた。会話するのはこれが初めてだ。その表情は険しい。
 もう一人の赤毛の娘も興味があるらしく、神妙な顔で私を覗きこむ。

「特に何も。単なる品定め「イヤっ、イヤよ!何するのよ、やめなさいっ!」……って感じじゃないかな」

 いちいち全部説明する気力もなかったので、適当に返そうと思ったのだが、部屋の中から怒号が飛んできたため、途中で声がかき消された。
 脱げって言われて拒否ったのかな。全く、あの金髪はしょうがない奴だな。

「ちょっと、なによ今の声……」
「……っ」

 長身の娘は自分の体を掻き抱いて身震いし、赤毛の娘は目をギュッとつぶって何かに耐えているようだ。

「大丈夫、ひどい事はされないはずだから」

 私は2人を安心させようと声をかけた。もう私は“終わった”という諦めからか、他人を気遣う余裕が持てていた。
 
「ひぐっ……ひぐっ」

 丁度タイミング悪く、部屋から泣きじゃくる金髪の娘が出てくる。一刻も早く部屋からでたかったのか、ほとんど素っ裸で、服は手に持っていた。
 さぞかしおぞましいことをされたのだろうと思ったのか、赤毛と長身のテンションは恐慌状態に陥った。

 ふぅ、やれやれ。私にできる事はもうないな。

 そう考えて、私は目をつぶり、彼女達の悲鳴やら嗚咽の声を完全にシャットダウンした。





つづく、はず






[19087] 3話 これが私のご主人サマ?
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/05/27 16:16

 帝政ゲルマニア、ザールブリュッケン男爵領フェルクリンゲン街。トリステインの南部とガリア北東部に隣接する交易都市の一つである。

 いや、受け売りだけどね。まあとにかく、これが私の現在地らしい。



 面接の後、私達は主人が決まるまでの宿舎に案内された。宿舎といっても、ボスとの面接を行った建物と同じ建物内の一区画である。

 宿舎に用意された部屋は殺風景でこぢんまりとした2人部屋で、寝る時は床に雑魚寝だ。
 私の同室になった娘は、10代半ばの物知り少女だった。
 彼女は元々ゲルマニアの裕福な商家の娘だったらしく、世間の情勢や地理にも詳しかった。また、口入屋の商売についても知識が豊富だった。

 客に呼ばれない時は、基本的に自分達の事しかしなくてよいので、暇な時間が結構ある。正直、ここの生活は実家より随分楽だ(売れた後は知らないが)。
 そこで、彼女に世間話がてら、色々と情報を聞いてみたのだ。

 ちなみに彼女は、容姿は並みだが、文字も読めて、商売用の計算もでき、教養もあるので3つ星クラスである。実に妬ましい。
 彼女の実家が何の商売をしていたのか少し気になったが、それを聞くのはタブーだと思い、それについて質問するのはやめておいた。



 どうやら私がいたオン、という地域は、トリステインといっても南の端、ゲルマニア、ガリアに隣接する地域だったらしい。
 あの何日かの馬車旅で、いつの間にか国境を渡っていた、というのだから驚きだ。

 しかし仮にも領民を商品として積んだ馬車が国境を渡れるのか?という疑問が浮かんだ。
 いくら非力な娘達とはいえ、貴族にとっては領民は一応財産のはず。勝手に売買されて、国外に流出までしてはそれだけ税収の面で損害を被るのだ。

 と、そんな疑問をぶつけてみたが、普通の人間を攫ってくるような賊の類なら勿論止められるが、売買されて各々のコミュニティから追放された時点で、人ではなくモノ扱いになるらしい(決して安いモノではないが)。
 勿論、無秩序に売買されて領民が減っては領主が困るので、口入屋と領主の間で「今回は○人買います。だからこれだけ払います」と話がついているという。その場合、領主側に支払われる代金は家族に払ったものと同等、つまり私の原価は金貨20~30枚程度(エキュー金貨なのか新金貨なのかは不明)と言う事になる。
 そして、そのモノが国境を越えた所で、単なる交易と見做されるとの事だ。

 この口入屋は、ゲルマニアの商会ギルドに属していながら、トリステインの寒村を中心に人集めをしているらしい。トリステインの農村は、ガリアやゲルマニアよりも、圧倒的に貧しい所が多く、人が安く多く買えるそうだ。
 それを聞いた私は、日本の企業が外国人労働者を違法に安い賃金で働かせていたのを思い出して切なくなった。

 ちなみに上流貴族(男爵以上)あたりになると、奴隷同然の奉公人など取らずに、自分の領地内で募集を掛けるか、ウィンドボナあたりの大きな商会に求人を任せて、普通の平民と正式な雇用関係を結ぶそうだ。

 ここのような口入屋から奉公人を買うというのは、世間体的にあまりよくないのだ。

 その事を考えると、どう頑張ってもマトモな主人に当たりそうもない気がして怖い。
 


 

「出ろ。そろそろ時間だ。風呂に入っておけ」

 ノック無しで部屋に入ってきた大男が、客との面会がある事を告げる。

 客に会うのはここに来てから一週間ほど経つが、これで3回目だ。
 普通はもっと頻繁に呼ばれるらしいのだが、文字が読めない事と、10歳という年齢もあり、私は人気が無いらしい。
 会う、といっても個人的に会う訳ではなく、客の希望に合う娘達を連れて行き、その中から気に入った者がいれば引き取る、というシステムだ。まあ、商品の陳列のようなもの。陳列時の服装は勿論、素っ裸である。



 1回目の客は、どうみても助平心丸だしの成金っぽいハゲデブ。多分ロリコン。何せ背後に回られて、フンフンと匂いを嗅がれましたからね私。ちらっと目に入ったその下半身はこんもりと……。マジで鳥肌モンでした。
 大方、抱き枕代わりのペットを買うつもりで来ていたんだろう。

 不幸にもハゲデブの餌食になった娘は、私と一緒に連れられてきた、あの泣き虫金髪だった。

 私は自分が災難から逃れられた安堵とともに、犠牲となった彼女に同情し、心の中で合掌した。アレに買われていたら自殺モノだったな多分。



 2回目の客は、1回目よりさらに酷かった。見た目は善良そうな中年と育ちの良さそうな少年。
 
「パパ、コレどうかな」
「ソレが気に入ったのか?う~ん俺としてはもう少し活きが良さそうなのがいいんだが。主人、試し打ちしてみてもいいかね?」
「申し訳ありませんが、お代を頂く前の行為は控えて頂いております」

 私を指さして、あからさまなモノ扱いをする親子。まあそれはいいとして。
 “試し打ち”って。その手に持ってる鞭と棒は何なの。親子揃って嗜虐趣味の変態ですか……。

「むぅ、鳴き声を聞けねば決められんではないか」

 ほっ。ボスが止めてくれて助かった。エエ人や……。
 
 結局親子は試し打ち出来なかったのが不満だったのか、誰を引き取ることもなく去っていった。
 この親子に買われていたら、自殺モノというより他殺モノになっていた。

「チッ、何が試し打ちだ。ロクに商品を買った事もないくせに。次からは出入り禁止だな」

 親子が去った後、それまでの笑顔は何処へやら、ボスは不愉快そうに歪めた顔で吐き捨てる。
 それとなしに尋ねてみると、あの親子は“試し打ち”と言って何回か娘に怪我をさせた挙句、引き取りもしなかったらしい。

 なるほど、それで止めたのか。商品を傷モノにした挙句、金を落とさないのは客じゃないっすよね。納得納得。…………はぁ。



 とまあ、2回ともロクでもない客だった。そういう訳で、客と会うのが少し怖いのだが、少なからず楽しみにしている事もある。

 それが風呂だ。

 なんと、蒸し風呂ではなく、きちんとお湯を張った風呂で体を洗えるのだ。
 これは、少しでも客への印象を良くして、早期に買ってもらうためのラッピングのようなものだ。臭い娘なんぞ印象最悪だからね(ここまでの客層を見ると臭いに反応する特殊な人間もいそうだが)。



 さて、楽しく嬉しい風呂にも入った。髪もセット。戦闘準備完了だ。
 少しでもまともそうな人なら、アッピールしまくってやろう。

 あまりに売れ残ると、口にするのも憚られる悲惨な末路が待っているらしいし……





「リーゼロッテ様、お待ちしておりました」

 客用の正面エントランスで、口入屋のボスが、客らしき若く美しい女性を恭しく出迎える。その表情は気持ち悪いほどの営業スマイルだ。



 この口入屋に女性客は珍しい。助平目的にしても、労働目的にしても、圧倒的に男性客が多いからだ。

 このあたりの地域はトリステイン・ガリア・ゲルマニアの3国の国境近くである事が影響して、旅の商人などを相手にした宿場町が多く、飲食店や娼館などの娯楽施設が多く存在する。そんな事情から、この店の最大のお得意様はそんな風俗産業を扱う商人なのである。

 元々、この口入屋では、男の奉公人も扱っていたのだが、その客層のせいで、売れ残りが多数出てしまっていた。なので、今は女、それも20歳未満の若い娘専門の口入屋になっている。

 そんないかがわしい店に客としてくる物好きな女性客は、このリーゼロッテくらいのものであった。



「ああ、今日は事前に言った通り、新しく入った娘を見せてくれ。全員だ」

 リーゼロッテは笑顔を貼りつかせたボスに目も向けずに、端的に用件だけを言う。

「……かしこまりました。ではこちらに」

 ボスは一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔を作りなおしてリーゼロッテを案内する。

(不気味な女だ。ここ数年でかなりの数の娘を買っているが、一体何に使っているんだか。まあ、こちらとしては売れればそれでいいんだがな……)

 ボスは内心そんなことを思いながら、娘達が控えている大広間へと歩を進めた。

 ギィ、と広間の扉が開かれる。集められた娘は新規に連れてこられた3人の娘。

 アリア、赤毛、長身の3人だ。

「む、4人ではなかったかな?」

 リーゼロッテは直立して並んでいる3人を一瞥し、主人に疑問を投げかける。

「はい、1人は5日前に他のお客様に売れてしまいまして」

 主人は申し訳なさそうに頭を下げる。

「そうか。ではこの3人に面接を行う。ミスタ、悪いが外してくれ」

 これがボスがリーゼロッテを不気味に思う理由の一つであった。
 毎回、この商会の主である自分を退出させて選考を行うのだ。
 もちろん自分がいない間に商品である娘達を傷モノでもされれば、即出入り禁止なのだが、特にそんなことはなく、後で娘達に聞けば、特に何もなかったという。
 ただ、面接の内容は何なのかを何故か覚えていない、というのだ。それがまた気味が悪い。

「……わかりました。終わりましたらお呼び下さい」

 気味が悪いとは思っていても、安定して店に金を落とす上客なので、機嫌を損ねるわけにはいかない。ボスは最敬礼で頭を下げると、静かに広間から退出した。
 




 おお……ないすばでぃー!

 心の中で叫ぶ私。面会場所である広間にやってきたのは、恐ろしく美人な若い女性だった。女性は胸元と背の大きく開いたショートラインの青いドレスに、白い薄出の肩かけを羽織り、手にはサッチェル型の上品なハンドバックを携えている。
 歳の頃は10代後半。腰まで伸ばした美しいブロンドのストレートヘアに、穏やかな雰囲気を演出する若干垂れ気味な大きな青い瞳と、高く通った鼻筋。情に厚そうなプルンとした唇。そのプロポーションは奇跡的なバランスで均整がとれており、露出の多い衣装をつけているのにかかわらず、下品さを微塵も感じさせない。

 女性ならば性的な心配もないし、身につけているものも明らかに高級品だ。マントと杖は見えないので、銀行家や、大商人、もしくは資産家のご令嬢か何かだろうか。その性格までは分からないが、柔らかな外見(顔)から判断すれば、とてもではないが酷い人には見えない。



 これはちゃーんす!滅多にない優良物件!行くぞ私!頑張れ私!勝ち取れ私!

「さて、では自己紹介から始めようか。私はリーゼロッテという。よろしく頼む」

 そう言ってリーゼロッテお嬢様は軽く会釈する。
 結構クールな喋り方だが、私達のような商品風情に頭を下げるなんて、間違いなくイイ人である。これは絶対逃してはならない!

「アリアです!トリステインのオンにある農村から参りました!年齢は10歳、何でもやります!やれます!頑張ります!」
「……フリーデリカ」
「ヤネット、です」

 あれ~?何か温度差がひどいな。
 他の2人は就活を舐めているとしか思えない態度である。
 フフ、素人のお二人さんには悪いがここは私が貰うよ。

「元気がいいな君は」
「ありがとうございます!」

 私に向かってニコリと神々しい笑顔を向けて下さるお嬢様。好感触……!これはもう内定確実か?!

 などと思っていると、お嬢様がいつの間にか急接近して、私の顔を覗きこんでいた。鼻と鼻がぶつかりそうな距離で。

「へぁ?!」

 突然の事に変な声を出してしまう。マズい!落ち着け、私。
 私を覗きこむその綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。あれ?瞳の色が……

「ね………く…よ」

 お嬢様が何かを呟くが、はっきりとは聞こえない。

 ……何か……ね……むい…………

「うまそうだ」

 そんな言葉が聞こえた気がしたところで私の意識は途切れた。

 



「……んむ?」

 どれだけ経ったのか。頭が働かない。焦点が定まらない。自分の状態がわからない。

 周りを見れば、長身と赤毛は放心したような様子で立っている。私もそうか。あのお嬢様は……口入屋のボスを呼んできたようだ。お嬢様の瞳はやはり透き通るような青だ。さっきのは見間違いだったのか。

「フフ、この栗毛の小さい娘……アリアといったか。いくらで引き取れる?」

 お嬢様はそう言って、私を背後から抱き締める。ローズ系のいい匂いがした。
 何も覚えてないけど、いつの間にか私に決まったみたい。

 え、決まった?しかもなにこの親愛表現?嬉しい事は嬉しい。だけど何かが変だ。

「星無しですのでエキュー金貨で150、新金貨で200になります」

 凄い粗利ですねボス。まあ宿舎での生活費の分もあるしね。流石に中流以下の平民だと買うのは厳しい価格。

「ふむ、そんなものか」

 お嬢様改めご主人様は、ハンドバックの中から、金貨の詰まっているであろう袋を取り出し、ポン、と惜しげもなくボスに手渡す。

「その中に代金分入っているはずだ」

 えええ、そんな丼勘定?経済感覚がマヒしてませんか、ご主人様。

「お買い上げ有難うございます。では事務室で手続きを致しますので、こちらへ」
「うむ。娘達は少々疲れているようだ。手続きが終わるまでアリアに飲み物を。それ以外の娘は下がらせてやってくれ」
「かしこまりました」

 買った私だけではなく、他の娘をも気にかけて下さるご主人様。

「ああ、それと適当な服も見繕ってやってくれ。裸のままでは可哀想だろう」
「は、わかりました。おい!」

 ご主人様の要望通りに、ボスは下男に指示を出す。その後、私にここで待つように言ってから、ご主人様とボスは広間のドアから退出していった。
 私如きにここまで気遣いをしてくれるなんて、優しすぎやしないか。
 私は用意されたシンプルなデザインのブラウスとスカートを身に付けながらそんな事を考える。

 美しく、優しく、金もある。こんな人が私のご主人様になるというのか。一体何の目的で?不謹慎極まりないが、目の前のリーゼロッテという女性が不気味に思えてしまう。
 それにこの優しさは私を売った日のオカアサンを思い出させる。

 馬鹿らしい。

 オカアサンとご主人様は全く違うじゃないか。こんなに素晴らしいご主人様への猜疑心が消えない私は、きっと心が汚れているのだ。





「待たせたな、アリア」
「いえとんでもございません、ご主人様」

 半刻ほどで、ご主人様は事務室での書類手続きを終えたらしく、広間へと私を迎えに来てくれた。

「ご主人様はやめてくれないか?リーゼロッテでいい」
「は、はい。ではリーゼロッテ様と」
「よし、では行こう」

 私に微笑みかけるその表情はとても柔らかで、美しい。裏などあろうはずもない。

 先程まで抱いていた疑念は完全に吹き飛ばされ、この主人に選ばれた嬉しさと、他の主人に選ばれなかった安堵感が一斉に込み上げてきた。

 もしこの時の表情を鏡で見ていたら、きっと緩みきっただらしない表情をしていた事だろう。



 ご主人様に手を繋がれて、外に待たせた立派な装丁の施された箱馬車へと連れられて行く。気分はまるでシンデレラだ。
 そこに着くまでにすれ違う娘達に、私は優越感を感じていた。私は幸せを約束されたのよ、貴女達もがんばってね、と。

 高揚した気分のまま、私とご主人様を乗せた馬車は動き始める。

 私は輝かしい未来を夢想しながら、ゆっくりと流れていく景色を眺めていた。





つづくようです






[19087] 4話 EU・TO・PIAにようこそ!
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/05/29 18:16

 ここはまるで楽園だ。



 それまで御馳走だと思っていた物とは比較にもならない程、美味しい食べ物。
 朝までぐっすりと安心して眠れる、ふかふかで柔らかい天幕付きのベッド。
 よく手入れされた色とりどりの美しい花々が咲き乱れる庭園。
 ファッハヴェルクという様式で建てられたという、お洒落で立派なお屋敷。
 新参者の私にも親切にしてくれる使用人達と、いつも笑顔の優しい旦那様。

 そして美しく気高いリーゼロッテ様。



 今日も綺麗なおべべを着せられて、私は優雅にティータイム。

「アリア様、紅茶のおかわりはいかがでしょうか?」
「ええ、お願いします、ありがとう」

 お気に入りのテラスで、老執事に傅かれる元貧農娘。私である。

(苦しゅうないわよ、セバスチャン。なんつって。さて、ではお茶請けの方も頂こうかな?パクっとな。んん?)

「今日のお菓子は少し甘みが強すぎますね。料理人さんに精進するよう伝えて下さる?」
「かしこまりました、アリア様」

 セバスチャン改め屋敷の老執事ライヒアルトさんは、私の苦言に嫌な顔一つせず了承の意を示す。



(あぁブルジョワジーって最高!はぁ世の中やっぱ金だよね~。カネ)

 私はすっかり調子に乗っていた。いや、乗りまくっていた。その姿はまるで拾った宝くじで一等前後賞を当てたホームレスである。



 何故こんな事になっているのかというと、話は2週間程前に遡る。





 リーゼロッテ様に引き取られた私は、フェルクリンゲンから北東へ馬車で3日ほどの距離にある、長閑な景色の広がるウィースバーデン男爵領と呼ばれる地域に向かっていた。

 ウィースバーデン男爵領は、ザールブリュッケン男爵領のすぐお隣の領地なのだが、なんとその北には“あの”ツェルプストー辺境伯領が広がっており、その力はやはりというか絶大で、この辺一帯の貴族のボス的な存在であるそうだ。



「リ―ゼロッテ様のご実家は男爵領の内にあるのですか?」
 
 揺れる箱馬車の中、私は向かいの座席に座るリーゼロッテ様に質問する。

 ウィースバーデンは農村地帯、言い方を変えれば田舎らしい。そのような地域に実家があるとするなら、何の稼業を営んでいるんだろうか。

「ああ、言っていなかったか。私はその男爵家の長女でね」
「そっ、あ、きっ、貴族様?!……で、でも杖とマントが」

 さらりと為された爆弾発言に畏れ慄く。

 ちょ、そんな重要な情報は先に仰ってくれないと……。

 貴族ではないと決めつけていた私にとっては寝耳に水だった。
 貴族の証である杖とマントは身に着けていなかったし、私が貴族に買われる訳がないとおもっていたのだ。しかも上級貴族はあんな口入屋には来ないんじゃなかったのか。

 貴族、と聞いて途端に委縮する私。貴族は怖いものである、と10年間教え続けられてきたのだ。実は貴族などと言われればビビってしまう。



 男爵というと、貴族の中では下の階級というイメージがあるが、間違いなく上級貴族である。

 下級貴族とは一般的に準貴族の事を指す。即ち准男爵、叙勲士(騎士)、及び爵位無しの貴族である。
 基本的に領地持ちの上級貴族は非常に裕福であり、一部の上流平民(例えばゲルマニアで爵位を買えるような実力者)を除けば、その財力は平民と比較するのも馬鹿らしい。
 財力と権力と暴力を兼ね備えた者が真の貴族。その3つが揃っていたからこそ、ハルケギニアは6000年の長きに渡る封建社会を維持する事ができているのだろう。



「……今回はお忍びだったのでね。馬車の中に隠してあったんだ。ほら」
「しっ、失礼しましたっ!今までのご無礼、何とぞお許しを……」

 リーゼロッテ様は座席の下に無造作に置かれてあった杖とマントを掴み、こちらに見せる。
 それを見た私は速効で土下座である。その反射速度はリアクションタイム0,06秒の壁を破っていたと思う。

 貴族であったなら今までの態度では不敬に当たるかもしれない。
 
 せ、折檻される!いや、まかり間違えば殺される?!

「アリア、とりあえず座席に戻って」

 美しい顔を顰めて、這いつくばる私に拒絶を示すリーゼロッテ様。

 やや強い口調に押され、私はのろのろと座席に戻って縮こまる。
 卑屈すぎて逆に怒らせてしまったのだろうか、と私の背中を嫌な汗が伝う。

「貴族は嫌い、か」
「い、いえ。そんなことは」

 慌てて否定したが、正直に言うと、あまりいい感情は持っていない。
 私は特に恩恵も受けずに搾取されてきた側なのだから当然と言えば当然である。

「誤魔化さなくてもいいよ。君の立場から見れば貴族が嫌いなのが普通だ。正直に言ってくれ」
「う……!嫌いというかその!怖い、かも、です。その、貴族様は怖いモノだと……」

 だが嫌いなどとは口が裂けても言えまい。ただ、実際に嫌いというよりは怖いと感じているのは事実である。

「なるほど。……では私も怖いかな?」
「い、いえ、リーゼロッテ様はお優しい方だと思います。ただ貴族様だと聞くと、反射的にというか本能的にというか……」

 リーゼロッテ様は自身の胸に手を当てて尋ねる。私はそれを否定する。

 彼女が怖いわけではない。貴族というカテゴリーが怖いのだ。

「少し意地悪な質問だったか。私が言いたいのは、私が貴族だからといって今までの態度を変えないでほしい、いやむしろもっと砕けてくれても良い。貴族だからといってそんなに怯えられては、私は悲しい」

 言い終わって、ふぅ、と悩ましげな溜息をつくリーゼロッテ様。

「わ、わかりました、努力します」
「ふふ、努力するというのもおかしいが。まあそういう事だから必要以上に肩肘を張らないでくれ」

 リーゼロッテ様は、あの柔らかい微笑みを私に向ける。

 その表情はまさに太陽。緊張や警戒という名の防寒着が脱がされていく。

 うん、大丈夫。この人は怖くない。



「しかし何故男爵家のご令嬢が、何故あのような下賤な場所に?」

 正真正銘の上級貴族のお嬢様が、何故あのような口入屋に出向いて私を買ったのか。
 私が口にした疑問に彼女は少し間を置いてからこう答えた。

「あの口入屋に連れてこられた年端もいかない娘達が、買われた先で奉公と称した虐待を受けていると聞いてな」
「それは……恐らく本当です」

 リーゼロッテ様の前に面会した2人のような客が多いのであれば、間違いなくそうだろう。

 ふとあの泣き虫金髪の顔を思い出す。あの娘は今どうしているのだろうか。
 もう流す涙も枯れ果てているかもしれない。

「あの街の領主でもない私の力では全てを救う事は無理だ。しかしせめて気に入った娘だけでも、他に買われる前に私の元で保護したいと思っている。……自分でもただの偽善的な自己満足だとは分かっているのだが」
「…………」
「私は貴族とは名ばかりの小娘だよ。結局何も解決できていないのだからな」

 自嘲的な笑みをこぼすリーゼロッテ様。その表情は自責の念からか苦痛に歪んでいるように見える。

「私如きが偉そうに言う事ではないと思いますが……リーゼロッテ様はご立派だと思います。自己満足だと仰られましたが、それによって救われた私のような人間もいます。どうかご自分を責めないでください。私はリーゼロッテ様のような方こそ真に貴き一族と言うのだと思います」

 こんな考え方をする貴族もいるのだ、と私は感動し自分の思ったままを口にした。
 貴族は平民の事などただの家畜か道具にしか見ていない、と思っていたが、この人は違う。
 
 いや、上級貴族とはもしかするとこういうものなのかもしれない。口入屋に玩具を買いに来るような金を持った大きな子供とは違うのだ。

「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。君は優しいな。それに年齢に見合わない聡さを持っている。10歳でそのような世辞を言えるとは」
「世辞ではありません。本心です」

 世辞を言っていると言われて、少しムッとした私はその言葉を否定する。生意気に聞こえてしまったかもしれないな、と私は少し後悔した。

「やはり君に決めて良かった。想像以上に……」
「?」

 想像以上に、なんだろう。その微笑の表情から、マイナスのイメージではないことは分かる。生意気な事を言った私への好感度は悪くなさそうで、ほっとする。



 そしてここから話は思わぬ方向に突き進んでいったのである。



「……いや、いつもは連れてきた娘は、屋敷の使用人として働いてもらっているんだが、今回は特別なんだ」
「特別、ですか?」

 リーゼロッテ様は、先程までの緩んだ表情を締め直し、真剣な表情で私を見つめる。

「ああ、実は君には私の妹になってもらいたい」
「成程、そういう事ですか。妹に成る仕事ですね。…………はっ?い、いもうとっ?な、何を仰って……妹とはあの、姉妹の妹ですか?!」
「それ以外に妹という単語の意味があったら教えてほしいが」

 はい?

 何を言ってるんだこの人?私は平民、それも奴隷的な階級の貧民ですよ?
 リーゼロッテ様の妹と言う事は、男爵令嬢になるという事で。

 私がお嬢様?ブルジョワジー?何十階級特進ですか?

 何コレ。何処産のシンデレラストーリー?
 いやいやいや、ないない。夢だ、これは。妄想の類。私の妄想が生み出した白昼夢。

 私はリーゼロッテ様のあまりの突飛な発言についていけず、ポカンと口を開けてアホ面を晒す。
 
「……ア、アリア」
「はっ」

 私を呼ぶ声が思考の海から現実に引き戻される。
 あれ、こっちが現実?思考が追いつかない。

「すまない。突然すぎて驚かせてしまったようだ。信じられないのも無理はない。順を追って説明するから落ち着いてくれないか?」

 リーゼロッテ様の提案に、私はただコクコクと頷く。

「まず、そうだな。今代のウィースバーデン男爵、つまり私の父なんだが。彼は大分前から心を病んでいてな」
「それは…………申し訳ありません、何と言ったらいいのか」

 こういう時になんと言ったらいいのだろうか。ご愁傷様ですとは言えない。適切な言葉が浮かばない自分にやきもきする。

「気にしなくていい。その原因は5年前に事故で私の実妹を亡くした事でね。少し嫉妬になってしまうが、父は私よりも妹を異常なほどに溺愛していた。……妹が死んだ事が認められなかった父は、当時妹と同じくらいの年齢だったカヤという使用人の娘を自分の娘だと主張し始めた」
「まさか」

 なんというか、気の毒に。
 その結末は少し予想はできたものの、私は黙って続きを聞く事にした。

「うん、カヤは妹ではないといっても父は全く聞きいれなかった。結局カヤの母に折れてもらって、カヤを妹して仕立て上げることになったんだ。領主をいつまでも錯乱させておくわけにはいかないからね。5年前から最近まで、カヤには妹に仕立て上げてからは父も落ち着いていたんだが……」
「何か問題が起きたのですね?」
「ああ、1月程前からカヤに対して、『お前のような女はしらん、私の娘は何処に行った!』と怒鳴り散らすようになってな。どうやらカヤが成長しすぎてしまったらしい。父の中では妹は10歳の少女のままらしい。そこで代役を探していたんだ」
「それで、私をカヤさんの替わりの妹役に、という事でしょうか?私にそんな大役が務まるかどうか……」

 リーゼロッテ様、私に貴族のご令嬢を演じられるような素養はありません。なんたって貧農出身ですから!貴族としての礼儀?マナー?何それ、おいしいの?

「アリアなら絶対大丈夫。実は君に初めて会った時に妹にそっくりで驚いたくらいなんだ」
「はあ……」

 力強い断定に、曖昧な返事しか返せない。
 貧農の小娘が貴族令嬢にそっくりとかありえるの?そうすると妹さんはあまり美人ではなかったのか……おっと、これは不敬だ。

「それに妹の名前なんだが」
「はい?」
「ファーストネームが“アリア”だったんだ」
「えぇっ?!」

 な、ナンダッテー?!珍しい偶然もあるものですね。うん。

「これはきっと運命だよ、アリア。妹役を探していた所に、あの口入屋に妹にそっくりな、名前まで同じな君がいたんだ。もしかすると君は始祖が遣わせた天使なのかもしれないな」
「う、運命……」

 熱っぽい目で語りかけるリーゼロッテ様。
 少女と言うのは総じて運命だとか、そういうのに弱いのである。『僕』の記憶を持っている『私』とて同じである。

「あまり難しく考えないでほしい。気楽にやってくれればいいんだ。私や周りの使用人達だってきちんとフォローする」
「でも……」
「大丈夫、きっとできる」

 そういって私の頭を撫でるリーゼロッテ様。

 妹役をやるのは最早決定事項のようだ。だが悪い気は全然しない。

 よし、やってやろうじゃないか。誰もが認めるリーゼロッテ様の妹になってみせよう。

「……わかりました!その大役、見事果たして見せましょう!」
「これは頼もしいな。期待している」





 と、以上のような事から2週間が経ち、冒頭に戻るわけである。
 
 当初、アリアは不安だらけだったのだが、リーゼロッテの父であるウィースバーデン男爵は、拍子抜けするほどあっさりとアリアを娘と受け入れ、屋敷の使用人達は、アリア様の生き写しだと持て囃し可愛がった。



 現在アリアはティータイムを終えて、庭園でメイドさん達とお戯れ中である。

「しかし、ほんとにそっくりだねえ」
「あはは、そう言ってもらえると自信がつきますよ」

 そう言ってアリアの頭をやや乱暴に撫でまわすのは、この屋敷のメイド長である。前妹役であるというカヤの母とはこの人である、との事だ。

「妹歴の長かった私から見ればまだまだね。オーラ的なものが足りていないわ」
「はいはい、カヤは厳しいなあ」

 前妹役のカヤは現在は屋敷のメイドとして働いている。屋敷で最も歳が近いのはこの15歳のカヤであったため、親しい友人のような関係になっている。

 心配していたマナーや礼儀についてもうるさく言われる事はなく、今はただ楽しんでいればいい、とリーゼロッテは言う。
 妹役との事だが、男爵の手の届く所で普通に過ごしてさえいれば、男爵は落ち着いているようで、特別に何かをしているわけでもない。



 男爵やリーゼロッテの膝の上で豪華な食事を頂き、お気に入りのテラスで優雅なティータイムを過ごし、美しい庭園で使用人達と戯れ、眠くなれば柔らかいベッドの上で寝るだけだ。

 怠惰にして華麗、まさに頭カラッポなワガママお嬢様を体現した生活である。



 人は悪い環境に置かれてずっと慣れない事はあっても、良い環境に置かれると、3日で慣れ始め、1週間でこういうものかと納得し、2週間する頃にはそれが当然となってくる。

 最初は恐縮しっぱなしだったアリアもだんだんと気持ちが大きくなり、現在では立派なお嬢様になってしまっていた。
 その容姿も、ここに来た当初は痩せぎすだったのに、今ではふっくらとしてきており、綺麗な衣服を纏ったその姿を見れば少し残念な感じの貴族令嬢に見えないこともない。

(『私』にこんなイイ事があるなんて。神が本当にいるならお礼を言いたいくらいだわ)

 “10歳の”アリアは与えられる幸せに疑念を抱く事もなく、今生で初めて訪れたと言ってもよい我が世の春を満喫していた。

 その無防備な姿はまさにこの世の穢れを知らない暢気な乙女。





「……クひ、本当に楽しみだよ、アリア」

 庭園で無邪気に戯れるアリアを、自室の窓から観ていたリーゼロッテの呟きは、誰にも聞かれることなく消えて行った。





つづく、多分






[19087] 5話 スキマカゼ (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/01 19:45

 『私』と『僕』は同一の存在である。

 ふたつはセカイに生まれた時から共にあった。
 だが、本来『僕』は目覚めるはずではなかった。

 だって、ここは『僕』のセカイではなく、『私』のセカイなのだから。





 『僕』がこのセカイで初めて覚醒したのは、『私』が4歳になったばかりの頃だった。



「このっ、馬鹿がっ!どうしてこんなこともできないんだっ!」

 気付けば『僕』は、見覚えのない白人の女に罵声を浴びせられながら殴られていた。素手ではなく麺棒のような短い棒で。

(何だよ、何なんだよこれ)

 自分はバイトの帰り道、急いで帰宅していて……それで?

「聞いてるのかいっ!?」

 呆けたような顔を浮かべた僕の態度に腹を立てたのか、白人女の暴力は更にエスカレートする。

 痛い。痛すぎる。

 手を振り上げる白人女の表情は怒りに満ちている。だが、その中に微かに、しかし確かな愉悦の色が混じっている。

 間違いない、この女は異常者だ。止めないと、まずい。

「いい加減にしやがれッ!キ○ガイめッ!」

 『僕』は立ちあがって白人女の暴挙を止めようとする。

「え?」

 だが短い。
 背が。手が。届かない。

「ようやく口を開いたと思ったらなんて口の聞き方だい?!この親不孝者めっ!いつも通りっ!“ごめんなさい”だろうがっ」
「あグっ……かふっ……」

 親不孝?意味不明な言葉と共にめった打ちにされる。
 気が付いたら見知らぬ女からリンチって。あまりにも理不尽過ぎやしないか。

「はぁ、はぁ……はっ、そこで反省してな!」

 何を反省しろと。

 白人女は動けなくなった『僕』を見てようやく満足したのか、捨て台詞とともに立て付けの悪そうな木板のドアをバタンと閉めて出て行った。



「痛え……てか……寒ぃな」

 びゅうびゅうと吹きこんでくる冷たい隙間風が肌を刺す。

「……で、ここは何処だ?」
(うちのなやだよ)

 痛む体を何とか起こして周りを確認すると、成程、そこは納屋というのは相応しい古臭い農具などが並んでいる──『僕』が見知らぬはずの場所。

 なのに、知っている。
 既視感というやつだろうか。いや、そんなものじゃない。

「どうなって……」
(あなたはわたし)

 誰だよ。人の思考を邪魔しやがって。

「なに、いってやがる。『僕』は……あり、ア?さっきのはオカアサン……?」
(うん、そうだよ)

 僕は一体どうしたんだ?さっきから僕は何を喋っている?
 日本語でも英語でもない。そういえば、学部時代に必修単位を埋めるために取った仏語に近い気もするが……。

 いや、そんなことよりもその内容だ。

「……何で『僕』がこんなこと、知って、る?」
(だってわたしだもの)

 意味が分からない。僕は僕だ。

 そう、僕はアリア、せんしゅう4さいに……?現在はM2の院生でのうかのむすめ。単身事故を起こして、オカアサンにせっかんされた……?

「う……、気持ち悪い。それに痛ぇし寒いわ……ハハ、最低の夢だなこりゃ」
(ごめんね、ごめんね)
「なんで謝るんだよ」
(わたしがおこしちゃったの)

 起こした?
 あぁ……そうだった、“奥”で寝ていた『僕』は『私』に起こされたんだった。

「オカアサンが怖いのか」
(おかあさんはこわい。いたい)
「……ほとんど毎日だもんな」
(うん。わたしはここ、きらい。だから)

 そうそう。『私』はこのキタナイセカイが大っきらい。だから『僕』に向かって叫んだんだ。

 タスケテ、と。



 馬鹿な。誰の思考だ、今のは。

 これは夢か妄想に決まっている。早く醒めなければ……明日は論文の中間発表がある。

「ゆめ、ちがうよ」
(はぁ……)

 夢という事を否定してくる夢の住人。ユングの夢分析だとこういう夢はどんな意味があるんだっけ。

「たすけてよ」
(『僕』には無理だ。諦めろよ)

 うるさいガキだ。お前の事など知った事か。

「あきらめる?」
(あぁ、どうにもならんことなら諦めて生きろ。その方が楽だぞ……)





「……夢、か。ふふ、随分久しぶり、あの夢は」

 『私』は与えられた自室のベッドの上で目を覚ます。ふと窓を見ると、外はまだ真っ暗だ。
 あ~変な時間に起きちゃったな。

「うぅ~……さむっ」

 この部屋は立派なのだけど、どこからか隙間風が入ってくるらしく、夜中は結構冷える。あの時の夢を見たのはこの寒さが原因かもしれない。

 寝直してもいいのだが、いかんせん目が冴えてしまって眠れそうにない。
 さて困った。どうすべきか。

(鍵が開く朝まで部屋でじっとしててもいいけど……さすがに退屈かな……)

 

 この屋敷では、私の身の回りに設けられたいくつかのルールが存在する。

 その一つが就寝前に外から自室のドアを施錠される事(内からは開けられない構造)。

 これは、幼い私が夜中に勝手に出歩いて怪我などをしないためと言う事なのだが、不便と言えば不便だ。
 夜中に何か用事がある時は呼び鈴(といってもただのベルだが)を鳴らして、夜番の使用人に来てもらう事になっている。

 それと似たようなものに、自室の窓が開かないようになっているという事もある。

 窓を開けたまま寝てしまうと風邪をひくし、私の部屋は2階に位置しているので、窓から落ちてしまったりしては困るとの事だ。

 少々厳重過ぎるような気もするが、大事に扱われている結果と思えば、多少不便であろうともその気遣いが嬉しいもの。本当にこの屋敷の人達は優しい。

(…………)



「あれ、開いてるや」

 所在無しに部屋の中をうろついていた私がふとドアノブに触れてみると、重厚な木製のドアは、キィ、と特に抵抗なく開いた。

 どうやら今日はカヤが鍵を掛け忘れたらしい。ふふ、朝になったら注意してやろう。

「ちょっと厨房にいくだけだし、いいよね……」

 夜中に出歩く時は、“必ず”呼び鈴を鳴らす事、と言われているのだが。

 少し小腹の空いていた私は、厨房に何か余り物がないか探しに行く事にした。そんな用事ともいえない事で夜中に人を呼び付けるのも悪いだろう。



(そっと、そーっと)

 私は皆を起こさないように、そっとドアを開けて忍び足で部屋を出た。

「ん?」
 
 1階に下りて厨房に向かう途中、どこからかボソボソと話し声のような音が聞こえてきた。

(こんな夜中に何だろう?)

 不思議に思った私が真っ暗な廊下を見渡すと、一階玄関近くの部屋から微かにランプの光が零れていた。

 あの部屋は確か、執事室。老執事ライヒアルトさんの部屋だ。



(うーん、独り言かな?なんか気になるなあ……)

 ちょっと躊躇したが、好奇心に負けた私は執事室のドアに耳を近づける。

 盗み聞きなんてあまり良くない事だとは思うけど、もし私の話題だったりしたら、と気になってしまう。

「──もあと1週間────」

 ん、独り言ではなく、誰かと話し込んでいるようだ。誰だろう。女の声だけど……

「しかし、──イイ趣味を──」
「──しても妾──演──は自分でも────思わんか?」

 話しているのはリーゼロッテ様、なのか?声の質もその口調もいつもと違っている気がするけど……。
 それにしても内容が気になる。何があと一週間なんだろう。

 私は頭が埋まるのではないか、というほどピッタリとドアに耳をくっつけた。

「さあ、それはどうでしょうか。何ともお答え致しかねますな」
「ハッ、芸術がわからぬ失敗作はこれだから駄目なんじゃ」
「くっく、前衛的なモノは理解できぬ年寄りの頑固者でして」
「ち、妾の方が年上だと知っておろうが。嫌味な下僕じゃ。今すぐ物言わぬ肉くれにかえてくれようか」
「おお、怖い怖い」

 やはりリーゼロッテ様の声。ライヒアルトさんより年上?ジョークでも言い合ってるのかな。
 話している内容もよくわからないけど物騒だし……ブラックユーモアという奴だろうか。

「ま、それはもうよいわ。……で、小娘の経過はどうじゃ」
「順調ですよ。来た頃は蒼白だった顔色もここ最近で赤みがさしてきましたし。体も大分肥えてきました」

 小娘っていうのは私の事か?むぅ、陰ではそんな風に言われてるとは。
 確かに小娘ではあるけれど、ちょっと嫌な気分だ。

 でも私の体に気を使ってくれているみたいだし、文句を言う筋合いでもないよね。こんなにいい思いをさせてもらっているのだし。

「たわけ。妾は小娘の体など興味はないぞ。あるのはお前らだけじゃろうが。聞いとるのは妾の“脚本通りに”進んでおるかどうかじゃ」
「あぁ、そちらはもう。アレはこれまでの娘以上に阿呆のようですな。完全にこちらを信じ切っていますよ。あの緩みきった表情でわかるでしょう?」

 え?何の事?

「ふん、まあ妾の書いた脚本なのだから当然じゃな。わかっておると思うがスヴェルの夜までは絶対に気付かせてはいかんぞ?」
「そう何度も念を押さずとも、十分に存じております。主も心配性ですな。寿命が縮みますよ?」
「そう言って前に気付かれた事があったじゃろうが」
「あぁ、あの首を吊った娘ですか。大丈夫ですよ。あの娘は最初からこちらを疑ってましたからね」

 ドクンッ、と心臓が跳ねる。鼓動が速い。息が荒くなる。

 ダメ、これ以上聞いたら……。

「しかし今回は下準備も長かっただけに楽しみですな。天国から地獄、全てが覆った時にどんな反応をするのか」
「妾が手掛ける舞台ぞ?最高の表情をするに決まっておる!絶望、悲哀、逃避、憤怒、混乱。どれじゃろうな……あるいは入り混じるか……その表情に味付けされたスヴェルの夜の乙女の血……あぁ、想像するだけで絶頂に達してしまう!クッひヒヒゃひヒあヒ」

 歪んだ嗤い声と、不気味な言葉。女の声は狂気に満ちている。

 リーゼロッテ様?これが?

 嘘。

「全く……もう少し上品な笑い方はできないのですか……。で、後処理の方は?」
「クひ、使用人ももういらんだろう?血は勿論妾がもらうが、肉の方は貴様らにくれてやる。人間の肉はまずくて喰えんでな」
「それはそれは、主の寛大なお心遣い感謝致します。しかしあの味がわからんとは難儀ですな。私など段々と肥えてきたアレを見て涎を垂らさないようにするのが大変ですよ。あの柔らかそうな尻などオーブンで焼けばトロトロに……」

 何これ。意味が分からない。分かりたくない。

 やめてよ。

 折角キレイナセカイだったのに……壊さないでよ……





 私はふらふらと執事室のドアから後ずさり、無意識のうちにそこから逃げようと静かに歩き出した。



 もし盗み聞きをしていた事がバレたらどうなるのだろう。

 確信があった。気付かれたら“終わる”と。
 絶対に音を立てては、いけない。そう思うと、自分の鼓動や息遣いが地平の果てまで響きそうな騒音に聞こえてくる。

 外に出たい。今すぐここから逃げ出してしまいたい。

 しかしそれは無理だ。この時間は全ての扉の鍵が掛けられている。窓を割れば音で気付かれる。



 とりあえず今は、自室に戻ろう……。
 
 私は今夜、自室から出なかった、ずっとベッドで寝ていた。そういう事でなければならないのだから。



 辺りは静まり返っている。他の部屋に灯りはついていない。どうやら起きているのはあの2人だけのようだ。

(いける)

 階段に向かって1階の廊下をすり足で進む。ギシ、と軋む床板の音が憎い。
 2人のいる執事室を何度も振り返り、後ろを確認する。中ではまだあの話が続いているのだろうか。

 やっと階段まで辿り着く。手すりを掴みながらなるべく体重をかけないように階段を上る。

 大丈夫、誰も後ろからは来ていない。上りきった。
 
 自室まではあともう少し。あそこまでいけば、きっと。





「……何をしているのかな」

 ゴールまであと一歩。





つづきます

※長くなったので前後に分けました。ここからしばらくシリアルかも……。






[19087] 6話 スキマカゼ (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/03 18:10
「……っ!」

 背後から唐突に掛けられた問い。
 それはとても静かな声だったが、私には怒り狂うドラゴンの咆哮よりも大音量に感じられた。

 私は刑の執行を言い渡された死刑囚のように硬直する自身の体を、無理矢理に捻って背後の人物を確認する。



 カヤだった。

 私は声の主が執事室に居たあの2人でなかった事に安堵し、ほぅ、と息を漏らした。

 カヤならば大丈夫。この娘があんな恐ろしい企みに関わっているわけがない。絶対、私の味方になってくれるはず。
 でも先程盗み聞いた内容を、まだ話すわけにはいかない。もしかしたら私の聞き違いかも……しれないし。

「何でもないよ。ちょっとぶらついていただけ。そうだ!今日鍵かけわすれてたよ?」
「……どうして勝手に部屋から出たの?」
 
 私はおどけた調子でカヤの質問に答え、最後にその話題から逃れるように話を逸らした。
 カヤはそれを無視して質問、いや詰問を続ける。その表情は虚ろで、感情が読めない。

「どうして、ってだからただの散歩……」
「部屋から出る時は“必ず”呼び鈴を鳴らす事、って知ってるよね?」

 カヤは言葉を発しながらじりじりと私に近づく。
 その何とも言えない迫力に、私は後退を余儀なくされ、程なく壁際に追いつめられた。
 私に詰め寄るカヤの瞳はまるで深い洞穴。顔にぽっかりとあいた単色の穴。その声色はいつもの張りのある元気なものではなく、ひたすらに冷淡なものだった。

「え、と……あの」
「…………」

 壁に背がつき逃げ場がなくなった私はしどろもどろになって言い訳を探す。
 カヤは何も喋らず、ただ私を見る。睨むのではく、覗きこんでいる。まるで庭園の草木を這う芋虫を観察をするかのように。

「ご、ごめんなさい。もうしません」
「……そう」

 もう謝るしかなかった。何か寒気がする。もうここにいたくない。早く自室に戻って寝よう。

 そうだよ、寝て起きればこの悪夢も終わっているはず……。

「寒くなってきたから、私部屋に戻るね」
「…………」

 私はそう宣言して、追い詰められていた壁から離れ、回れ右をした。
 カヤは無言で私に付き従う。後ろから刺すような視線を感じる。居心地が悪い。

 まさか、カヤも……?嘘……でしょ?

 結局、そのまま最後までついてきたカヤは、私が自室に入ると手早くガチャリと鍵をしめた。

「じゃあ私は行くから……早く寝ることね」
「うん……」

 ドア越しにかけられる言葉は忠告なのか。



「ルール破っちゃ……ダメダヨ?」

 去り際にカヤが残していった言葉。忠告などではない。……これは警告だ。





 こんな状態でベッドにもぐった所で、眠れるわけがなかった。
 相変わらず部屋には隙間風が吹いている。カチカチと鳴る歯がうるさい。視界が小刻みに震える。

「寒い……」

 頼りない自身の肩を抱きしめながら私は呟く。
 
「私、どうすればいい?」
(…………)

 牢獄の鉄格子のように開くことのない窓から庭園を眺めて考える。いつも美しいと思っていた庭園は、夜の闇に晒されているせいか、酷く寒々しいものに見えた。



「あれは、誰……?」

 何とはなしに、庭園を眺めていた私だったが、不意にそこで佇んでいる人物がいる事に気付いた。

 メイド長、カヤの母だ。その表情までは読み取ることはできないが、どうやらこちらを見上げているようだ。
 
(こんな時間に何を?とてもじゃないけど庭の手入れをするような時間じゃない)

 私はその姿に薄気味の悪さを感じ、視線は向けずにメイド長を視界に入れる。しばらくの間、その動向を探っていたが、彼女は微動だにせずこちらを見上げたまま直立している。

 置物のように静止している彼女からはまるで生気が感じられない。

「これって……」

 監視、サレテイルノカ?

 そういえば昼間には、私が何処に行くにも必ず誰かが付いてきたような気がする。何だかんだと理由をつけて。
 それはこうやって監視するため?

 内から部屋の扉が開かないのも、窓が開かないのも……。
 設けられたルールは私を逃がさないようにするため?

 まさか、この屋敷の全員が……?

 その考えに至った時、何かがガラガラと崩れるのを感じ、奇妙な浮遊感を覚えた。例えれば、天を突く塔が一瞬にして消滅し、その最上階から投げ出されるような。

「……うっ……うぇ、おぇぇえ……」

 私は急激に落下していく気分に耐えられなくなって、その場で嘔吐した。

(やれやれ、だ)





「はぁ、はぁ……よそう。あれは違う。あれは空耳。私は何も聞いていない。カヤやメイド長の様子がおかしかったのも夜中で寝ぼけていただけ。明日になればきっといつも通り」

 床にへたり込んだ『私』は、汚れた口を寝巻の裾で拭いながら、再び芽生えてくる疑念、いや限りなく確信に近い考えを遠ざけようとする。

(……あれだけの事を聞いてまだそんな事を言ってるのか。いい加減に目を覚ませ)

 私の中の『僕』の部分が警鐘を鳴らす。

「うるさい……うるさいうるさいっ!私はそんな事聞きたくない!ここは楽園。私は運良く救われた。リーゼロッテ様だって、旦那様だって、皆が私を歓迎してくれている。誰もが望んだハッピー・エンド。それでいいじゃない」

 『私』は頭を激しく左右に振って、『僕』を拒絶する。
 『私』は受け入れたくない。それを受け入れてしまえばきっと、このキレイナセカイが綻んでしまう。

(目を逸らせばそれで解決するのか?売られた娘が何の苦労もせずに幸せを掴む?ハハ、御伽噺にすらそんな話は存在しない)

 『僕』はそんな甘い夢を信じていない。いや、本当は『私』だって信じていなかった。

「何よ、私が幸せになったっていいじゃない……。ずっと虐げられてきた挙句に売られたんだ!私を買いに来る客も異常者ばかり!もういい、もうキタナイセカイはいらない!」
(思考を放棄するなよ。主観的に感じるな。客観的に考えろ)

 『私』と『僕』がせめぎ合う。夢と現。虚構と真実。感情と理性。

 顔はいつのまにか流れ出した涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。こんな顔は誰にも見せられない。

「いや、いや……」
(現実から逃避してる場合じゃない。このままだと確実に“消える”ぞ?)

 消える──死ぬではない。消える。セカイから存在がナクナル。

「うあ……」

 最期の記憶が蘇る。『僕』がセカイから“消える”記憶。圧倒的で根源的な恐怖。



 いやだ、消えたくない。『私』はまだ……………………生きたい。



 『私』が『僕』に圧されていく。

(さっき盗み聞いた内容だけじゃない。リーゼロッテの言葉は最初から疑問と矛盾だらけだ。ほら、思い出せ!)

 とどめとばかりに、『私』が“奥”に押し込めていた記憶が次々と脳内に再生されていく。



《ね……く…よ》
 
 あの呟きはなんだったんだ。赤い瞳、何かの魔法?私の意識がないうちに何を調べていた?

《うまそうだ》

 あれは現実に聞いた言葉。そう、私を見て美味そうだ、と確かに言っていた。

《この栗毛の小さな子、……アリアと言ったか?》
《ファーストネームがアリアだったんだ》
 
 妹と同じ名前だと言っていたはずなのに、なぜ名前がすぐに出てこない?普通は容姿よりもその名前の方が印象に残るのではないか?

《代役を探していた》
《父の中では妹は10歳の少女のままなのだよ》
《妹にそっくりで驚いた》
《運命だよ、アリア》

 それなのに何故あの時、他の2人も面接していた?妹の代役は10歳くらいでないと駄目なのだ。あの場にいたのは私の他はどうみても10台中盤は超えている娘だけだった。



 それ以外にも出来すぎた偶然、とってつけた言い訳のような物言いが明らかに多すぎる。挙げていけばきりがないほどに。

 どうしてこんな事に気がつかなかったんだ?

 いや、私は本当は知っていた。ただ見ないフリをしていた。

 理想を絵に描いたような完璧過ぎるご主人様。
 私の身分には分不相応な甘美で魅力的な誘い。
 何もせずともただ与えられ続ける至福の時間。

 世の中にウマい話はない。あったとしても私にそんな話はこない。何故なら私にそんな話を持ってきても誰も得をしないからだ。

 にも拘らず、私は全ての不自然さに目を瞑り、臭い物に蓋をしていた。

 彩られたキレイナセカイを壊したくなかった?言い訳にもならない。





「一体、何をやっていたんだ『私』は……」

 私はスッと立ちあがり、顔を拭い、汚れた寝巻を床にかなぐり捨てた。

 あまりに不甲斐ない自分への怒りによって、『私』は『僕』を、理性を取り戻していく。

 思えばあの口入屋で面接のあった広間に現れたリーゼロッテの姿を見た時から、私は理性を失っていた。感情が独り歩きしていたのだ。
 そして先程、決定的な会話を盗み聞くまで、その状態が続いていた。

 魔性。そんな言葉が頭をよぎる。

「あ゛ああああっ!」

 私は悔しさや苛立ちを吐き出すことによって、湯のように沸いていた思考を冷却した。

 

 リーゼロッテ様、いやリーゼロッテは間違いなく真っ黒だ。

 あの紅く変色する瞳、杖無しでの魔法のような力、理性を失わせる程の存在感、そして盗み聞いた会話の内容の異常さ。

 あの女は十中八九、人間ではない。

 リーゼロッテがやたら血に拘っていた所をみると、亜人である吸血鬼なのか?それならばその下僕といわれていたライヒアルトは屍人鬼ということか。
 吸血鬼ならば、最初の面接の時の呟きは何らかの先住魔法という事で説明がつくかもしれない。

 しかし、疑問が残る。記憶では吸血鬼というのは日光に弱いのではなかったのだろうか。

 リーゼロッテは昼間であっても日笠もささずに外出していた。

 それに吸血鬼が屍人鬼を作れるのは確か一体までという制限があったのではないだろうか。これについては少し記憶に自信がないが。
 それを正しい知識と仮定して、リーゼロッテが吸血鬼、ライヒアルトが屍人鬼だとしたら、カヤはメイド長は何者なんだ?人間であるのに従っているのか。それとも吸血鬼の仲間?

 そしてあの会話の中でのこの台詞。

《これまでの娘以上に阿呆のようですな》
《あぁ、あの首を吊った娘ですか》

 これはつまり私が最初の獲物ではない、ということ。

 前の獲物が私と同じような待遇を受けていたとしたら、屋敷の人間は全員その存在を知っているはず。
 その娘がある日突然消えたとしたら?死体が内々に処理されたとしても、疑問を抱くはずだ。噂にくらいはなっていないとおかしい。

 しかし、そんな話は毛先ほども聞いたことがない。

 何故か。全員が事情を知っているからこそ噂にならないのだ。即ち屋敷全体がグルである可能性が非常に高い、ということになる。



「まるでホーンテッド・マンションね……」

 この状況では流石に愚痴も零したくなる。期限は多く見積もってスヴェルの夜が訪れる丁度1週間後まで。屋敷内の人間はおそらくだが、全て敵。対してこちら側の戦力は現状では無力な平民の小娘一人。

 まさに今までのツケがきている。最初から気付いていればまだやりようがあったかもしれないのに。
 
 しかし愚痴を言っている状況ではない。

 今は後悔するな。この状況から脱出することができれば、その後に飽きるほどすればいい。
 どちらにせよ、ここに連れてこられるのは私が拒否しようとなんだろうと、避けようがなかったのだから。

 今はこれから何をするかを考えるしかない。





 戦う。
 これは駄目だ。話にならない。私などあちらが魔法を使うまでもなくジ・エンドだ。不意打ちをできたとしても致命傷を与えるような攻撃が出来るとは思えない。却下。

 交渉する。
 何を交渉のネタにするんだか。材料のない交渉は不可能。そもそも、あの狂人のような女相手に話し合いなど通じるとは思えない。却下。

 誰かが助けに来てくれる、もしくは奇跡が起こる。ピース。
 あほか。まだこんなことを考えているのか私は……。却下却下。大却下。

 逃げる。
 最も現実的な案だ。しかし成功率は非常に低い。監視が常に付いている可能性が高い事と、屋敷の周りには何もない見渡しのいい場所である。しかも私は足が遅い。ただ逃げるだけでは成功率はほぼ0パーセントである。
 だが現状これしか選択の余地はない。よってこれを突き詰めて考えるしかない。

 つまり逃亡の成功率を上げるために、何かしらの仕掛けを打つ、これしかなさそうだ。この屋敷にある材料で。



「あは、随分と絶望的じゃない」

 私はやや自嘲的に苦笑する。だが、決して言葉通りに絶望しているわけではない。

「覚悟。決めるわ。私は絶対に“諦めない”」

 私はいつかの私を救ってくれた“諦める事”を『僕』に向かって否定する。
 諦める事で確かに楽にはなれるけど、それは結局、何の解決にもならない。

「私はこの程度の事、自力で乗り切ってやる。そしてこんな偽物のセカイは抜け出して、本物のキレイナセカイを掴むんだ!」

 誰でもない、私は自分に覚悟を言い聞かせる。それは絶望的な状況におかれた自分を鼓舞するための虚勢かもしれない。しかし、間違いなく私の本心でもある。

 これでやっとスタートラインに立てた気がする。私の人生は絶望から始まる。それでいい。

 絶望の後にはきっと希望があるんだから。





(これで……夢の時間も終わりか)

 胸にポッカリと開いた穴に隙間風が通るような虚しさを感じる。
 私はこのキレイナセカイが好きだった。それが無くなってしまった痛み。



 でもやっぱり私は夢見る少女じゃいられない。

 私は飽くまで現実で幸せを掴むんだから。押し付けられた夢の中の幸せなんて要らない。





 私は現実を向きあうために、まずは先程嘔吐したブツを片づけることにした。





つづくと思われます






[19087] 7話 私の8日間戦争
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/06 18:51

 タイムリミットまで あと8日。



 朝食の席に向かうため、私はいつも通りの時間帯に自室を後にした。

 輝いているように見えた屋敷の光景は、今は色褪せて、虚飾に満ちたものにしかみえない。
 よくよく見てみれば、ただの古ぼけた木造屋敷である。まあ、それなりに広く、趣味の悪い装飾はなされているが。

 食堂へ向かう途中、1階の廊下で私に気付いたカヤがパタパタと走り寄ってきた。彼女は開口一番、私に謝りを入れる。

「昨日はごめんなさい、言い過ぎた!」
「……大丈夫、こっちが悪かったんだから」

 カヤの様子は普段に戻っていた。一瞬、やはり昨夜の事は間違いだったのでは、などと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。

 恐らく、昨晩、私が無断で部屋の外に出ていた事はリーゼロッテに筒抜けだろう。
 ただ、私が拘束されていない事を考えると、執事室での会話を盗み聞いていた事まではバレていないのだと思う。
 よって、私が余計な疑念を抱かぬよう、昨日の態度を取り繕っておけ、とリーゼロッテか老執事ライヒアルト辺りがカヤに命じた、というように考えるのが妥当ではないだろうか。

 謝り続けるカヤをいなし食堂のドアを開けると、穏やかな微笑みをたたえたリーゼロッテが待ち構えていた。
 私はその表情をみて吐き気を催したが、表情には出さないように努めた。
 
「アリア?どうしたんだ。顔色がよくないぞ」
「いえ、問題ありません。昨夜は少し夜更かししてしまって。ご心配おかけして申し訳ありません、リーゼロッテ様」
「それはいかんな。睡眠はしっかりとらなければ」

 少し強い口調で私に言い聞かせるリーゼロッテ。虫酢が走る。睡眠をとらなければ、味が落ちる、か?

 しかし、私があちらの企みに気付いている事を悟らせてはいけない。この場で全てが終わってしまう。
 そう、飽くまで私は何も知らない無邪気で哀れな子羊でなければならないのだ。

「はい、以後気をつけます!」

 ペコリと元気に頭を下げる私を見て満足気なリーゼロッテ。心の中では馬鹿な小娘と嘲っているのだろう。
 確かに昨日まではその通りだったのだけれども。



 あまり味のしない朝食を食べ終わった後、私はいつものように庭園には出ることはしなかった。

「今日は少し寝不足みたいだから部屋で大人しくしてる」
「そっか。何かあったら呼んでね?」
「ええ、ありがとう」

 私は心配そうな表情を貼りつかせたカヤにそう断ってから、今日一日は策を練るために自室に引きこもる事にした。





「ああ、もう。あれもだめ、それもだめ。結局この手しかないか……この部屋の配置を活かして……」

 自室に引きこもって半日、窓から見える空は赤く染まっていた。

 半日かけて私が考え付いた中で最も有力なのが、屋敷に火を放ち、その混乱に乗じて逃げ出す事。
 名付けて火事場泥棒作戦である。我ながら情けないがその程度しか実用できそうな案は考え付かなかった。

 とりあえず、これをメインに策を展開していきたい。それと併用したいのがトンネル掘って大脱走作戦である。

 これ自体は穴を掘って地下通路を作りそこから脱走という、荒唐無稽なものである。
 一体何カ月かかるんだ、しかも一人で……。とすぐにこの案は不採用となったわけだが、この案の地面を掘るという発想自体は使えるのだ。

 常に監視の目がある昼に脱走するのは不可能。
 ならば夜しかないのだが、夜は鍵が閉められるので、ドアから外には出れない。庭園から窓を監視されているので、窓を割っての脱走もダメ。

 ではどうするか。横が駄目なら縦しかない。

 この屋敷の壁面は煉瓦と漆喰で固めており、とてもではないが破壊する事はできない。しかし、上下の天井と床は、基礎の木組みの上に細長い床板を何枚も渡して床面を作り、その上にタイルが張られているだけなのだ。

 これは以前、老執事ライヒアルトに屋敷の建築様式を尋ねた時に得た知識。その時はこんな事になるとは思わず、単なる世間話のネタの一つとして何となく聞いただけだったのだが。
 ライヒアルトは「変わった事に興味がありますな」と怪訝な顔をしていたが、今思うとこれは本当にファインプレイだった。

 まあ、そういう構造なので、タイルを剥がして、その下にある床板を部分的にでも破壊してしまえば、床に穴を開けて逃走経路を作ることができる。
 私の体格ならタイル一枚分でも外すことができれば通る事ができるはず。勿論素手では無理なので道具は必要だろうが。

 床に空ける穴の先にある部屋、つまり自室の真下に位置している部屋は倉庫部屋だ。

 この配置はいい。とてもいい。すごくいい。
 
 倉庫部屋は作戦の鍵となる部屋だ。

 その理由としてまず挙げられるのは、誰も使用していない部屋である事。
 これが、誰かの寝室だったりしたら、穴を開けても即バレして終了だからである。

 二つ目として、物品が多く保管されている事があげられる。
 つまり、脱走のための武器となりえるものが存在している可能性が高い部屋であるという事だ。

 そして三つ目。倉庫部屋には荷物搬入用なのか普段は使われていない勝手口が存在する。
 この勝手口さえ開けば、廊下に出て正面玄関に向かったり、窓をぶち割って大きな音を立てる危険を冒す必要性がなくなる。最短の逃げ道が確保できるのだ。

 火を付けずに、静かに倉庫部屋の勝手口から逃げ出すという事も考えた。しかしこれだけでは弱いと感じた。
 その場合逃げた事に気付かれたら屋敷の人間全員の注意がこちらに向かってしまう。

 つまり誰も私がいなくなった事を気にもかけないような状況、非常事態を作りださねば、逃げられる気がしないのだ。
 150エキューで買った貧民娘と、屋敷の非常事態なら屋敷の方を優先するはず。はず…………。



 そんなわけで、今日から床板を剥がす作業を開始する。
 その位置はもしこの部屋に立ち入られても、気付かれにくいベッドの下の部分にすることにした。

 やはり、自室で隠し事をするならベッドの下と相場が決まっている。





「ふぬぅうううう」

 晩餐をかきこんだ後、床板と格闘する私。その顔はゆでダコのように真っ赤になっていた。

 とりあえず、道具は自室にあった金属製の靴ベラを使用。タイルは簡単に外せたのだが、底にある床板が手強い。
 思ったより薄く、しかも古いために朽ちかけているのは幸運だが、それでもかなり頑丈だ。

「あっ」

 折れた。

 靴ベラの方がな!

「くぅ、まさか屋敷全体に固定化の魔法でもかかってりして……」

 なんてことを呟いてみたけれど、そんなことはなさそうだ。固定化が掛っているのに床板が朽ちかけているわけもない。

「まずは道具を確保しないとどうしようもない……そう、バールのようなものを……」
 
 そんなことをブツブツと言いながら、ベッドにダイブする私。いや現実逃避してるわけじゃないですよ?
 鍵はもう閉められているのだ。道具の確保は明日にするしかないのである。



 ここですぐに寝てしまう程、私の神経は太くないので、火事場泥棒作戦を突き詰めて考えることにした。

 火種としては、自室に備え付けてあるランプの火を使えばいい。

 ただ単純に火を付けても燃え広がらない恐れが高い。事前に火の勢いを増す事のできる材料を確保しておきたい。
 例えば油。石油由来のガソリンや灯油があればいいのだけど、それは存在しない。
 なので、食用油か、油ではないがランプなどに使われている燃料用のアルコールという事になりそうだ。
 これは倉庫部屋にある事を期待する。明日にでも倉庫部屋を調査せねばなるまい。

 次に火付けの場所だ。これは上の自室から付けた方がいいだろう。火も煙も下から上にのぼるわけだから、上から先に火が出た方が気付かれにくい。
 だがそれだけでは屋敷全体をパニックに陥れることはできないだろう。なので、上の出火が気付かれ次第、下の倉庫部屋に火を付けて脱出。これがベストだ。

 最後に、作戦決行の時期。こればかりは作業の進み具合による。
 企みの首謀者と思われるリーゼロッテがスヴェルの晩までは絶対に気付かれるな、と命令していたのだから、こちらのアクションに気付かれなければ、その時まで行動を起こさないだろう、と思いたい。信じたい。
 勿論、できるだけ早い方がいいが、準備が不完全な状態での作戦決行は避けたい。ただでさえ成功する確率は低いのだから。

 正直かなり不安だらけの作戦だが、仕方あるまい、何せ昨夜までは何もしていなかったのだから。



「はぁ、しかしこれって逃げられたとしても確実に極刑ね……」

 思い出したように独りごちる私。

 貴族の屋敷に火を付けるなど(本当に貴族かどうかは不明だが)、どう考えても斬首かそれ以上の刑だろう。

 しかしやるしかないのだ。

 その後追われる事になろうとも、今を生き抜かねばその後はない。
 そこら辺の認識を誤魔化して、後腐れのないように上手くやろうなどと考えていたら、生涯地を這うどころか、天に召されてしまう。

「ふぁ……」

 いつの間にか窓の外は白んでいる。昨日からほぼ一睡もしていなかった私は、目を閉じるとすぐに眠りに落ちていった。





 翌日。私は床板を破壊する道具を確保するために、屋敷内を探索することにした。また、昨日考えた通り、倉庫部屋に必要な材料があるかどうかの調査もしなければならない。

 問題は監視の目。

 昼間はやはり常に監視されているように感じる。
 現在、私は朝食を終えて屋敷内で考え事をしながらぶらついているわけだが、当然のようにカヤがぴたりと私に付いている他、多数の視線を感じる。

 そもそも普通は使用人というものは朝から晩まで忙しいはずなのだ。手隙の時間などそれほどあるわけがない。にも関わらず、私の相手をさせているのは監視以外の何物でもない。

 昼間の内に下手な動きはできない、という事だ。ならば……。

「かくれんぼでもして遊ぼっか」

 少し考えた後、私は後ろに控えるカヤだけでなく、周囲にいる使用人にも聞こえるように大きな声で、こんな提案をした。
 普通に屋敷をうろつき回って、道具探しなどしていたら疑われる可能性が大なので、戯れに乗じる事にしたのだ。

 これならば、屋敷の中のどこにいても、怪しまれまい。もちろんリーゼロッテの私室を始めとして、立ち入れない場所も多いが。
 ちなみに、かくれんぼはハルケギニアの子供の間でも割とポピュラーな遊びである、と思う。私の居た村での認識ではあるが。

「随分と楽しそうだな。私も混ぜてもらっていいかな?」

 その声を聞きつけたのか、ふらりと現れたリーゼロッテが後ろから私の肩に手を置いた。

「…………っ」
「うん?」
「リーゼロッテ様が私と遊んで下さるなんて嬉しいっ」
「おっと。フフ、甘えん坊だなアリアは」

 私は突然のその行動に心臓が鷲掴みにされたように硬直してしまったが、すぐにリーゼロッテに抱きついて感激の意を示し、不自然な間を空けてしまった事を誤魔化した。

 リーゼロッテの体からはいつか嗅いだ事のある香りに混じって、微かに獣のような臭いがした。体に染み付いた血の臭いだろうか。
 強い薔薇の香りがするフレグランスはこの臭いを誤魔化すためのものか。あぁ、気持ち悪い……。

 それにしてもこんな子供の遊びに参加するだって?ただの気まぐれか?
 いや、一昨日の晩に出歩いた事で、少しこちらを疑っているのかもしれない。疑いを強める事のないように気をつけなければ。

 結局、リーゼロッテや男爵の私室、鍵の置いてある執事室などには近づかない事を条件にかくれんぼをする事、つまりこの屋敷を探索する事は了承され、戯れが開始された。
 ちなみにかくれんぼの鬼役はリーゼロッテがする事になった。適役すぎる……。

 

 遊戯の開始と同時に、まず私が向かったのは件の倉庫部屋。

「こっちは小麦粉、この壺の中は……この臭いはハシバミの実からとった油か。……燃料用のアルコールは、これか。こっちは量が少ないな……」

 部屋に入ってすぐ、倉庫部屋内の物色を始める。厨房の隣に位置しているだけあって、食品関係の物が多く保管されている。

 大量の小麦粉があったので「粉塵爆発だッ!」とか叫んでいる自分の映像が頭をよぎったが、どう考えても実現性は薄いのですぐに没となった。
 確かに小麦粉は粉塵爆発を起こしやすい粒子ではあるのだが、あれは空気中の粒子濃度が重要なのだ。高すぎても低すぎても爆発は起こらない。適当に小麦粉を屋敷内にばら撒いた所で成功する可能性は薄い。
 というか、実際爆発が起こったとしても着火した自分が巻き込まれて死ぬ。

 ともあれ、食用油と空きビンは大量にあるようなので、これに詰めて運べれば作戦に使う分の油は確保できそうだ。



 倉庫部屋で手早く調査を済ませた私は、鬼に見つからない内に移動し、床板を破壊するための道具がありそうな部屋を回る事にした。

 庭園にある物置小屋を覗いてみると、様々な種類の農具が存在していた。その全てが金属製の刃がついているものである。

 ちょ、鉄製農具って。やはり木製農具を使用していた私の生まれた村は特殊、というか貧乏だったのか……。

「まあ、それは置いておいて……これは使えそうね」

 この小屋に収められているのは、庭園の手入れ用の道具らしく、刈込み鋏、鋸、刃鎌、ピッチフォークなどが大型で使えそうだ。

 これならば床板を破壊できそうだ。農具の取り扱いは慣れている。
 私は一番応用が利きそうだな、と思いピッチフォークを手に取ってみる。鋸だとほとんど隙間なく敷かれている床板を破壊するには向いていないだろう。

「問題はこれをどうやって部屋に持ち込むか……」

 そう、それが問題だ。衆人環視の中、無断でこんなものを持ち込むことはできまい。
 誰かに許可を貰わなければならないが、その理由付けをするのは難しい。
 
「見つけたぞ、アリア」
「あら、見つかっちゃいました?」

 私が考えに集中していた所に鬼畜、いやリーゼロッテが倉庫部屋のドアを開いて入ってきた。またもや不意を突かれたのだが、そう何度も硬直してはいられない。

「フフ、私の勝ちだな。……ん?なんだそれは?そんな物に興味があるのか?」

 リーゼロッテは私が掴んでいたピッチフォークを指さして問う。

 ここだ、ここでリーゼロッテを納得させれば、この道具を部屋に持ちこめる。アイディアを捻りだせ、ひり出せ、私の脳味噌!

「はい。私は農民出身なのでこのようなものが懐かしく感じられるのです。身近にあると何となく“安心”できるというか……」

 眉を下げて悲しげな表情を作る。テーマは故郷に思いを馳せる少女。

「……ふむ、そんなものか。ではそれはアリアにあげよう。どうせあまり使っていないものだからな」
「へっ、いいのですか?」

 肩すかしを喰らった気分だ。リーゼロッテは私が「欲しい」とおねだりする前にあっさり喰いついてきてくれた。
 “安心”という言葉が効いたのか?それともそんなものを持ったところで何ができる、とタカを括っているのだろうか。流石『優しいリーゼロッテ様』は心が広い。

「ありがとうございます、大事にします!」

 私は満面の笑顔を作って礼を言う。油断してくれて本当にありがとう、三流脚本家のリーゼロッテ様。





 そんなこんなでピッチフォークを入手した私はその日の夜から本格的な作業を開始した。

 倉庫部屋の中に必要なものが揃っている事は分かったので、自室と倉庫部屋の間を開通させてから夜間にじっくり運び出せばいい。
 昼間に倉庫部屋から廊下を伝って部屋に運び込むのは無理がありすぎる。

 ということで翌日以降の昼間の時間はなるべく疑いをかけられないように、いつも通りの行動を心がける事にした。
 自室に何日も籠るのもまずいので、やはり作業はほとんど夜にしかできないのだが。

 夜間の作業時は、音を最小限に抑えるように気を使う。大きな音を立てては、たちまち誰かが駆けつけてくるだろう。
 作業の進行は遅れるが、作戦実行前にジ・エンドだけは避けなければならない。あまり力任せの行動が出来ない事にやきもきしながらの作業となった。



 作業開始から3日目にしてようやく床板を取り除くことに成功する。
 朽ちかけた床板を突いたり、揺すったり、削ったりしながら、やっとの事で破壊できた時の達成感はなかなかのものだった。

 さらに、自室と倉庫部屋を行き来するために、自室のタンスに収納されていた丈夫そうな服を縄状に結び、昇降用のロープを作る。
 使用する時はベッドの足にでも括りつければいいだろう。

「はぁ、まずは最初の難関クリア、か」

 しかしここで安心できないのが辛いところ。まだクリアすべき課題は残っている。



 作業開始から4日目。
 この日は、倉庫部屋の大きな壺に入った食用油とアルコールを空きビンに詰めて必要な分だけ上の階に運び、タンスの中に貯蔵していった。

 アルコールは量が少なかったので、屋敷を燃やすための材料としてばら撒くのではなく、燃えやすそうな生地にアルコールを染み込ませたもので瓶に蓋をして、火炎瓶もどきにすることにした。効果の方は使ってみない事にはわからないが。

 爆発物でも作れればいいのだが、日用品からそれを作りだすような知識は『僕』の知識にはない。最低でもニトロ化に必要な濃硫酸と濃硝酸くらいはないと……。
 
 あらかた油の運搬が終わった後は、他に武器になる物がないか、倉庫部屋の中を隅から隅まで漁ることにした。

「やっぱりもう使えそうなものはない、なあ。まあこれでも持っておくか……」

 さして目ぼしいものを見つけられなかった私は、食器棚の中に入っていた小振りのナイフを2本、懐にしまい込んだ。
 こんなものが役に立つとも思えないが、要するにお守り代わりである。刃物は魔を遠ざけるという迷信もあるしね。



 作業開始から5日目、倉庫部屋の勝手口の構造を調べる。
 4日目は油の運搬と武器漁りに夢中になっていて、危うくこの重要な確認を忘れるところだった。

 これで執事室から鍵を持ってくる事が必要になったらかなり厳しい状況になる。

 勝手口は、かなり古びた南京錠で内側から施錠されていた。錠の足(ツル)の一部が錆ついていて、かなり脆くなっていそうに見える。

 屋敷の外部からの侵入者に対する安全意識は予想外に低いようだ。出入口の鍵が老朽化しているのに取り替えていないとは。
 まあ、この屋敷に賊が押し入ったとしても、賊の方が餌食にされそうだけど。食物的な意味で。

 この勝手口は、出入りの商人が搬入に来た時しか開くことはないはず。つまり、毎日点検することはないのではないか?ならば。

「これも壊そう」

 ガツ、とピッチフォークの先を南京錠の錆びている部分にぶち当てると、カン、という高い金属音が鳴り響く。

「……っば」
 
 予想外に響いた音に、思わず口に手を当てる。
 慌ててベッドの足に括りつけたお手製ロープを伝って自室に戻ったが、しばらくしても誰も起き出した様子はなかった。

 その後、もう一度下に降りて、金属音を殺すために毛布で南京錠を包みながら、昨日拾ったナイフを使って作業することにした。

 この作業は夜通し続いた。脆くなっていそうな部分を重点的に攻めて、なんとか夜が明ける前に南京錠のツルの切断に成功する。
 あとは作戦決行の時まで、鍵が壊れている事に誰も気付かない事を願うのみである。






 とりあえずこれで予定していた全ての準備は終了。あとは実行に移すだけだ。

 期日までは、あと2日。いやもう夜明け前なのであと1日か。

「決行は明日の夜中、しかないか。全くギリギリもいいところ」

 期限ギリギリの準備完了になってしまったとはいえ、ここまで気付かれずに、かつ身動きが取れない状態になっていないのは運が大きく味方している。
 まあリーゼロッテに買われること自体が大凶だったので、その反動でも来ているのかもしれない。
 
「あとは決行するだけ、か。まあ、それが一番の問題なのだけれど……」

 そう言って、私は作戦決行前の最後の休息を取ることにした。これが最期の休息にならないように祈りながら。


 


つづくかな






[19087] 8話 dance in the dark
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/20 23:23
 草木がざわめく音と、虫の音が耳に障る。赤と青が混じった色の淡い光だけが、草原の中にポツンと佇む、年老いた屋敷を照らしている。
 屋敷の窓際では、絵に描いたような美女が、ぼんやりと夜空を見上げている。その透き通るような青い瞳に映り込んだ双月はまだ重なりきってはいなかった。

「くふ、狸娘め、いつになったら事を起こすのじゃ?もう時間がないぞ?」

 くっくっ、と前屈みになりながら面白そうに喉を鳴らす窓際の美女、リーゼロッテ。
 
「踊らされている事に気付いておる癖にあの腹芸、中々に見事、じゃが」

 彼女はそこで一旦言葉を切り、ゆったりとした仕草で踊るように窓際から離れた。

「あの戯れの時の態度は不自然すぎたわの。所詮はほんの子供。まだまだ妾の女優ぶりには程遠いわ」

 鏡台の前まで移動した彼女は、鏡の中に映り込んだ自らの美貌を確かめた。



 実はアリアに叛意があるのは疾っくの疾うに露見していたのだった。その事を知っているのはリーゼロッテ本人だけであったが。

 アリアが覚悟を決めた夜、執事室でのライヒアルトとの会話を盗み聞きされていた事まではリーゼロッテは知らない。

 だが、その夜の後のアリアの態度の些細な変化をリーゼロッテは見逃さなかった。
 かくれんぼなどという子供の遊戯に参加したのは、アリアが思った通り、疑いを持っていたからだ。
 ただ、その疑いはアリアが想定していたよりもずっと強い物であったが。

 そして、アリアがピッチフォークを手に入れようとした時の不自然な態度で、その本心が完全に透けてしまったのだった。

 アリアは上手くいったとほくそ笑んでいたが、その生の大半を人間を欺く演技者として過ごしてきたリーゼロッテから見れば、自分に抵抗するための武器を得るための稚拙な演技にしか見えなかった。

 だが、その叛意を知ってなお、リーゼロッテはそしらぬふりをして、武器と成りえる道具をアリアに与えた。
 
 何故か。

 この屋敷で今まで獲物とされてきた娘のうち、企みに途中で気付いた娘はたった2人だけだった。
 
 その内1人は恐怖のあまり錯乱し、気が触れてしまい、もう1人は以前ライヒアルトが言っていた通り、絶望のあまり首を吊って自害したのである。
 それは、年端もいかない無力な娘達としては極めて正常な反応だったのかもしれない。
 何せ、閉じ込められた箱庭の中で、得体の知れない化物達の餌として飼われている事実を知ってしまったのだから。

 しかし強者であるリーゼロッテから見れば、それは酷く“つまらない”ものに思えてしまった。その心境は死んでいる餌に興味を持てない肉食獣のようなものだ。

 一方、事実に気付いてなお、理性を保ったまま抵抗を試みようとしているアリアの姿は、新鮮で興味深いものだった。
 
「しかしあんなもの一本で妾と戦う気か?……くふふ、いい、いいぞ!その無知、無茶、無謀!クひゃハはハは」

 彼女は最早耐えきれない、といった風に天を仰ぎながら大口を開けて嗤いだす。

 興味深い、といってもアリア自身にはさほど興味を覚えたわけではない。
 リーゼロッテは精一杯の抵抗が何の役にも立たないものだと知った時の表情もまた最高のものではないか?と思ったのだった。

 そう、リーゼロッテはアリアを舐めていた。舐め過ぎていた。

 リーゼロッテは、あの晩の会話を盗み聞きされていた事は知らないため、アリアがスヴェルの晩が舞台の刻限であると言う事に気付いている事は当然知らない。
 アリアがすぐに事を起こさないのは内心では怯えており、刻限を知らないため、いつ行動を起こすかの決心がつかないからだと考えていた。

 あの頼りない農具を武器にして自分と真っ向から戦うつもりなのだ、と勘違いしていたのだ。

 まさかアリアが逃亡のための作戦を立てて、時間をかけてその準備をしているとは考えてはいなかった。
 当然と言えば当然だ。長い時を生きてきたリーゼロッテから見れば、アリアなど少々賢しいだけの小娘にすぎないのだから。そんな小娘ができる抵抗といえば、玉砕覚悟の特攻しかあるまい、と高を括っていた。

 そのため、叛意を持ったアリアをすぐに殺したりするような事はせず、今か今かと、その抵抗の時を楽しみにして、泳がせていたのである。
 


「む……?」

 狂笑していたリーゼロッテは突如その眉をへの字に歪めて、スンッ、スンッと鼻をひくつかせる。

「なんじゃ、この臭いは……。気のせい……か?」

 彼女は微かに漂ってくる異臭を感じて、私室のドアを開けて部屋の外を確認する。

 リーゼロッテの私室はアリアと同じく2階部分にあるが、リーゼロッテの私室は西側、アリアの私室は東側に位置している。
 ちなみに2階部分に私室があるのは、この屋敷の主という事になっている男爵(仮)と、リーゼロッテ、アリアの3人だけである。

「何やらハシバミ臭いような気がしたが……。まぁ、晩餐に出されたサラダのせいじゃろうな……。あんなまずい物を出すなといつも言っておるのに……あの失敗作め。あの油もハシバミ臭いから買い換えろと言ったのにずっとそのままじゃし……もしかして妾は下僕に嫌われとるのか?」

 彼女は気の利かない料理人と使用人に悪態を突きながら、乱暴にドアを閉めると、そのままの勢いでベッドに倒れ込んで不貞寝し始めた。
 
 彼女はその臭いだけで吐き気を催すほど、ハシバミ草が大嫌いだった。







 ぴちゃぴちゃ。ぬちゃぬちゃ。ぬるっ。



「あぅ、濡れちゃった」

 油で。服が。

 リーゼロッテが独りごちていた頃、アリアはハシバミの実から抽出された食用油を布団や毛布、シーツ、カーテン、余った衣服などにたっぷりと染み込ませながら、自室の床と倉庫部屋の床に大量にばら撒いていた。

 リーゼロッテが感じた異臭とはこの臭いであったのだ。

 しかし、ハシバミから取れた油はそれほど強い臭いがするわけではなく、鼻先に近づけてその臭いを嗅がなければ、無臭に感じる程である。
 アリアとリーゼロッテの部屋は、同じ2階にあるとはいえ、その距離はゆうに20メイルはある。ドアを隔てていることもあって、普通の人間ではその臭いに気付くはずはないのだが……。

「うげ、ロープまで油でねっとりしてる」

 たっぷり時間を掛けて撒いた油は、自室の床に空けた穴から倉庫部屋にぴちゃぴちゃと滴るほどの量になっていた。

「時は満ちた、ってやつね……」

 アリアは緊張した面持ちでそう呟きながら、花柄の三角巾を頭に巻きつけ、きつく結んだ。
 
 そう、ついに作戦を決行する時が来たのだ。

 全ての準備を終えたアリアの左手には部屋に備え付けてあったランプ、右手には柄の先にアルコールを染み込ませた布を巻き付けたピッチフォークが握られ、腰には1ダース程の火炎瓶もどきが靴ひもで束ねられている。

 ……勿論、本人は大真面目なのだが、何と言うか、その、少々奇抜というか、奇怪な出で立ちだった。

「すぅー、はぁー」

 独特の衣装を身に纏ったアリアは目を閉じながらゆっくりと深呼吸して、緊張に高なる鼓動を落ちつかせる。



 …………。
 
 そこから数分間、深呼吸をした後、屈伸運動したり、背伸びしたりして、ようやく決心がついたのか、アリアはランプの灯を付けた。

「っしゃあ!」

 その掛け声とともに、火事場泥棒作戦の火蓋が切られた。

 アリアは火種である左手に持ったランプから、右手に握った松明代わりのピッチフォークの柄の先端に火を付ける。
 ボゥ、と燃え上がった松明の火を、床にばら撒いた油を染み込ませた毛布に近づけると、程なくそれに引火した。

 アリアは1箇所の出火に満足することなく、次々と別の場所から火を付けていく。

 あらゆる方向から引火した炎は、布地を伝って、床、壁へと連鎖的に燃え上がっていった。

「これで終わりだッ!」

 燃え盛る炎を見て若干ハイになったアリアが目をギラギラさせながらトドメとばかりに、口に火を付けた即席火炎瓶を半ダースほど次々と炎の中にぶち込んだ。

 火炎瓶を投げ込んだ場所からは、大きな火柱があがり、部屋の中は火をつけた本人自身すらドン引きするほどの火力になっていく。

「ふっ!」

 炎が屋敷の床や壁面に燃え広がり始めた事を確認すると、アリアは手早く1階へと飛び降りた。昇降用のロープはすでに2階で燃えている。

「さて、次はあの化物どもが気付くまでは様子見ね……」

 そう、2階の自室から1階の倉庫部屋が繋がっている事はまず気付かれていない。だが、上が消し止められれば、それは露見してしまうだろう。
 なので、誰かが上の惨状に気付いて、屋敷の人間が消火のために集まった所で下から火をかけるつもりなのだ。これならば、下から出た火が気付かれにくくなる。

 アリアは天井に空いた穴からチラチラと覗く、燃え盛る地獄のような光景を見ながら、倉庫部屋の隅で息を殺して作戦が次の段階に移る時期を待つことにした。





「主様っ、大変、大変でございます!」

 バン、ドアが開け放たれる。慌てて不貞寝していたリーゼロッテを叩き起こそうとするのは、庭園からアリアの部屋を監視していたメイド長だった。

 彼女が異変に気付いたのは、すでに炎が燃え広がった後だった。
 外から窓を見上げていた彼女は、部屋から黒い煙がもくもくと立ち上るまで、それに気付けなかった。

 火災が起こっている事に気付いた彼女は、大急ぎで屋敷の中に入ったが、既にかなりの勢いで炎が燃え上がっており、自分一人ではどうしようもないと判断したため、主であるリーゼロッテの所へ駆け込んだのだった。

「……騒々しいぞっ!……ん?なんじゃこの焦げ臭いのは?」

 不機嫌そうに、目覚めたリーゼロッテだったが、強烈な焦げ臭さを感じてその怒りは収まった。
 メイド長はオロオロしながらも、リーゼロッテにその理由を説明する。

「そ、それが。あの小娘の部屋のあたりから火が出たようでして……どうすればいいかと」
「何だと?あの小娘、まさか自棄になって火をつけたのか?ぐうぅ、此処まで来て自害とは…………」

 リーゼロッテは悠長にはぁ、と溜息を漏らし、ひどく落胆したように顔を俯けた。

「こんなことならさっさと食しておけば……。うぐぅ、あれは実に美味そうじゃったのに……あぁあっ、もう!もう!もうっ!」
「……あの、そんなことを言っている場合ではなくてですね。このままでは屋敷全体が燃えてしまうかと」
「そんなもの水でも汲んできて消せばいいじゃろうが。妾は落ち込んでおるのじゃ。そっとしておいてたもれ……」
「ですから!そんな場合ではありません!実際見て頂ければわかります!」
「分かった!分かった!全く煩いのう……はぁ」

 リーゼロッテは面倒くさそうにだらりと立ち上がると、背中を押されながらのそのそと部屋の外に出る。

「う……」

 その光景に、リーゼロッテは目を丸くして絶句した。

 2階の廊下中に黒い煙が蔓延しつつある。
 その炎は大きく燃え上がり、すでにアリアの部屋だけでなく、その周辺を飲み込みつつあった。

 彼女は火事と聞いたが、それは小火程度の規模のものだと思っていた。まさかこれほどの惨事になっているとは思わなかったのだった。

「……おい、何でこんなになるまで気付かんのじゃ?」
「申し訳ありません、私も混乱しておりまして……」
「くそっ、もういい!さっさと動ける者は全員叩き起こして火を消せ!すぐじゃ!すぐ!」
「はっ!」

 惨状を見て焦ったリーゼロッテがメイド長に指示を出す。



 それから程なく、駆け回るメイド長によって、総勢10名の屋敷の住人が集められ、消火活動が始まった。

「ライヒアルト、お前は火に水をぶつけろ!カヤは下から火を消すのに使えそうなものを探して来い!他の者は周りの床や壁を壊して延焼を防げ!」

 リーゼロッテが他の者に指示を出していく。その隣で屋敷の主であるはずの男爵(仮)は借りてきた猫のように大人しくしていた。

 男爵(仮)はリーゼロッテの指示通り、先頭を切って床や壁を素手で破壊し始める。まるで化物のような膂力である。
 他の者は手に持った道具を使って、炎が燃え移りそうな場所を破壊していく。カヤだけは下の階へと走って行ったが。

「凝縮《コンデンセイション》!」

 老執事ライヒアルトは水の系統魔法の初歩である、【凝縮】によって水の塊を発生させると、燃え盛る炎の中心である、アリアの部屋に向けてタクト型の杖を振るった。

 上流貴族の屋敷に仕える執事は、高い教養と貴族の常識を知っている事を必要とされているため、貴族出身でありながら、その地位を継げなかった者が取り立てられる事が多い。
 ライヒアルトは元々、下級貴族の家の次男坊であった。そのため、系統魔法を使う事ができたのだ。
 ランクは最低のドットであるが、水メイジであった彼が全力で作りだした水球は人の背ほどもあるほど大きかった。

 しかし、彼らは知らなかった。

 その火災が油によって引き起こされたものだと言う事を。そして油が原因の火災に水を直接かけてはいけない事も。

「ガッ?!」

 爆発。

 ガンガンに熱された大量の油に大量の水。水蒸気爆発が起こるのは当然の結果である。

 近くにいた何人かは、その衝撃に吹き飛ばされ、また、もう何人かは爆発によって撒きあがった炎と、飛び散った油によって大火傷を負い、廊下をのたうち回って呻き声をあげる。その中に、男爵(仮)や、メイド長の姿も含まれていた。

 無事だったのは、水を放ったライヒアルト、1階に走って行ったカヤ、そして後方で指示を出していたリーゼロッテの3人だけ。

 図らずも、リーゼロッテ達の消火活動はアリアの作戦の効果を助長してしまったのだ。

「ぐぅあああっ」

 先頭に立っていた男爵(仮)は、完全に火達磨となって、苦しそうな叫び声をあげていた。

「こ、これは一体……?ち、治癒を」
「たわけ、死人に治癒魔法など効くか!それよりさっさと水を出して火を消してやれ!とりあえずさっきのよくわからん爆発で火は小さく……」
 
 ライヒアルトが呻き声をあげる男爵(仮)に治癒をかけようとするが、リーゼロッテによって制された。
 しかしそこで、さらにリーゼロッテ達を追い詰める知らせが、階段を慌てて走り上って来たカヤから知らされる。

「リーゼロッテ様、下からも炎が!」
「な、何じゃとっ?!どういう事……」

 そこまで言ったところで、おかしい、とリーゼロッテは感じた。

(今臭いを放っているのは、床でのたうち回っている下僕達が焼ける臭いだ。あの小娘が焼ける臭いはしていたか……?)

 彼女は燃え盛る炎を横目に、顎に手でさすりながら思考する。

(それに、ただ火をつけただけでここまで勢いよく燃え広がる物なのか?まさかあのハシバミの臭いは……)

 そこまで思考した所で、彼女は何かに気付いたのか、ハッとした表情を見せた。

「く、くく。クひ。くヒャハははアッ!やってくれたわ、“狸娘”がッ!」
「ぬ、主様?!」

 非常事態の中、突如大口を開けて愉快そうに笑いはじめたリーゼロッテに、カヤはその正気を疑った。

「小娘と思って舐め過ぎたか……。まさかまさか……こんな素晴らしい反撃をしてくるとは。カヤ、ライヒアルト。貴様らは火をなんとか消し止めろ!妾はあの狸娘を追う!」
「何を……?すでに小娘など中で焼け死んでいるのでは……」
「たわけっ、ではなぜ下から火が出るのじゃ!あの狸娘の仕業に決まっておろうが!アレはもう屋敷から逃げ出しておるに決まっておるわ!」

 リーゼロッテはそう叫ぶと、爆発によってやや下火になっていたアリアの部屋の方へとふらふらと歩き出す。

「主様、何を……」
「……成程。どうやって逃げたかと思えば。狸娘、ではなく土竜娘、であったか。面白い、実に面白いぞッ!」

 リーゼロッテは床に空いた穴を見下ろして、そう吐き捨てると、鼻をひくつかせながら、開かない窓を勢いよくぶち破って外に飛び出していった。







 はぅ、はふ、はぅ、はぁ



 少女の荒い息が夜の草原に響く。

 アリアは草原を風のように、とはいかなかったが、全力で走っていた。
 
 心臓が爆発しそうだ、足の感覚が無くなってきている。

 アリアの体力は限界に近付いていたが、それでもなお走り続けた。止まる事は許されないのだから。
 その右手にはもう火付けに使ったピッチフォークは握られておらず、灯を消したランプだけが握られていた。屋敷を出る際に捨ててきたのだ。灯りをつけていては、すぐに見つかってしまいそうだったから。
 腰に巻きつけた火炎瓶も残りは2つだけ。全て使用してもよかったが、もしもの時のために取っておいていた。

 燃え盛る屋敷は既に遥か後方。

 アリアが勝手口から屋敷を出たのは、屋敷の住人が上に集められた直後だった。
 既に走り出してから半刻近い時間が経ち、貧弱なアリアの足でも、屋敷とは相当な距離が開ける事に成功していた。

「はぁ、ふう。さすがに、もう、大丈夫、か?」

 アリアは屋敷からどれだけ距離が離せたのか確認するため、首だけで後ろを振り返る。

「……んっ?」

 黒い粒。

 最初は黒い粒に見えた。

 それが猛烈な勢いで、屋敷の方向から一直線にこちらに近づいてくる。

 いや、あれは黒い粒ではない。髪をなびかせながら、凄まじい勢いで駆けてくる。
  


 嘘でしょ……。あれは。



 リーゼロッテ。



「はぁ、はぁ……なんでよぉっ……!」

 その理不尽な走行速度と、的確すぎる察知能力に、泣き事をいいながらも、アリアは走った。

 アリアは知らなかった。リーゼロッテが僅かな匂いで人間を追えることを。そして獣のようなスピードで走れることも。

 アリアは、街道の方向とは明後日の方向を向いて逃げており、その距離もかなり開いていたため、内心ではもう追って来れないだろう、と思っていた。
 そもそも、屋敷が今現在燃え盛っているのに、リーゼロッテ本人がこちらを優先してくる事自体が、アリアにとっては誤算だった。

(ダメだ、これじゃ確実に追いつかれる)

 後ろを振り返って、更に縮まっている距離でそう思ったアリアは足を止め、追ってくるリーゼロッテに向き直ってランプの灯を付けた。

「あ゛あぁああっ!」

 アリアは奇声を発しながら、火炎瓶に火を付け、もう間近に迫っている、三日月のような口をしたリーゼロッテ目がけて投げつける。

 これだけの勢いで直線的に向かってくるならば、自分に向かって飛んでくる瓶は不可避のはず、と考えて。

「かっ!」

 しかし、リーゼロッテが右腕を横薙ぎにしてそれを払うと、火炎瓶はあっさりとたたき落とされて、地面を焼くだけとなってしまう。

 いつの間にか進行方向に回り込んだリーゼロッテが、にや、と歪んだ笑みを浮かべてアリアの前に立ち塞がっていた、

「……っ!化物……め」

 アリアは観念したように、懐からナイフを取り出して両手に持ち、正面に構える。

「くっふ、追いついたぞ、アリア?成程成程、今まで行動を起こさなかったのはこんなものを作って脱走の準備をしていたためか?……くくひヒハハっ!」

 割れた瓶の残骸に目をやりながら、怒りとも愉悦ともしれない表情を浮かべるリーゼロッテの瞳は深紅に染まっている。

「…………あら、こちらの本心はばれていたという事?どうやってばれたのかしら。演技には自信があったのだけれど?」

 アリアは開き直ったように、ふてぶてしい態度でリーゼロッテにそう返す。

「くヒ、妾をなめるなよ、小娘。あんな稚拙な演技で妾を欺けると思うか?そういう貴様こそどうやってこちらの思惑に気付いた?」
「それを教えて私に何か得があるの、かしらッ?!」
「くっククク……この狸娘がッ!」

 抉るように突きだされたナイフを、怒号とともに蹴りあげられた足が狩る。
 その衝撃で手から離れたナイフは、高く高く放り出され、その行き先が見えないほど遠くへと飛ばされていった。

「そんなもので妾と戦うつもりじゃったのか?随分と舐められたの……」
「ぐっ……」

 心外だ、という表情をするリーゼロッテに、獲物を失ったアリアはじりじりと後ずさる。

「くく、逃がさんよ。枝よ、伸びし森の枝よ。狸娘を捕らえよ」

 リーゼロッテがそう呟くと周りに生えていた草が、意思を持った蔓のように伸び、逃げようとするアリアの足を拘束してしまった。

「う……先住、魔法、いえ精霊魔法ね。処女の血が好きなんて趣味の変態はやっぱり吸血鬼?」
「ご名答」

 リーゼロッテはその問いに答えると同時に、アリアの鳩尾に拳をぶちこんだ。

「かっ、はっ……!」
「狸め。折角手に入れた妾の塒を台無しにした挙句、その軽口、万死に値するぞ。貴様は血を吸うだけでは飽き足らん……生きたまま腹腸を引きずりだしてやろうか?」

 リーゼロッテはうずくまるアリアの前髪を乱暴に掴みあげて問う。
 憤ったような台詞だが、何が面白いのか、リーゼロッテの表情はむしろ愉悦に満ちていた。

「冗談……そんな悪趣味な舞台はお断りよ。脚本の書き直しを要求しますわ、三流脚本家さん?」
「くく、大根役者は黙って脚本家の言う事を聞いて踊るものじゃ。この、ように、なッ!」

 ぼす、という鈍い音とともに、まるでダンスを踊るかのように、アリアの体は右へ左へ激しく揺すられる。
 足が絡め取られているために、逃げる事も、吹き飛んで威力を殺すことすらできない。

「……っ、ぐっ、かふっ……あぅ……ぅ」
「くヒャヒふふへっへヒ、ケきャぁあああぁあああ!」

 殴る。蹴る。突く。投げる。絞める。また殴る。

 汗が滲む。涙が零れる。唾液が飛び散る。胃液が逆流する。血が滴る。

 奇声を発しながら、狂ったように腕と足を振り回すリーゼロッテ。しかしこれでも十分手加減をしている。勿論嬲るためだけの手加減だが。
 彼女が本気ならば、アリアなど一撃で死んでいる。それ程の力の差があるのだ。

「…………」
「おや、殺してしもうたか?」

 リーゼロッテは動かなくなったアリアの顎先を人さし指でクイと持ちあげて呼吸を確認する。
 喉が潰れかけているのか、ヒュゥ、と空気が漏れだすような弱々しいものだが、確かに呼吸は行われていた。

「ほう、まだ生きておるか。なかなかに命根性が汚いの。……ではそろそろ頂くとするか。まぁ安心せい、お前は中々に面白いからの。死んだ後は妾の正式な下僕にしてやろう」

 リーゼロッテは、動かぬアリアの頸動脈に齧りつこうと大口を開けて、その艶めかしい舌をアリアの首に這わせていく。



 ざしゅっ。



 そして何かを突き立てる音が響いた。

「がフっ?!」

 声をあげたのは、リーゼロッテ。
 
 目を剥くリーゼロッテの喉元には鈍い輝きを放つナイフが無惨に突き刺さっている。
 動けぬはずのアリアはそのナイフを握って、傷口が広がるように掻き回す。

 アリアはリーゼロッテのサンドバッグにされながら、ずっとこの瞬間を狙っていた。相手が吸血鬼ならば、最後には絶対に大口を開けた間抜け面を晒して無防備になると。
 懐の中に忍ばせた最後の武器である“もう一本の”ナイフはその時のために隠していたのだった。

 いくら吸血鬼といえど、首を刺されて、掻き回されては死ぬしかあるまい。






「……綺麗な薔薇には刺がある、ってね?」

 アリアは小さな声でそう呟くと、ふらふらしながらも、全身を使って立ちあがる。

(何とか……生き残ったけれど、かなり、まずい、かも)

 いいように攻撃をうけていたアリアの体は、内臓にまでは損傷がなかったものの、所々骨にヒビが入り、全身が打撲のような状態になっていた。

 正直、動くのも厳しい満身創痍の状態だ。

「痛……くぅ……」

 それでも、アリアは体に鞭打って吸血鬼の骸に背を向けて歩き出す。
 こんなところに留まっては居られない。屋敷から次の追手が来るかもしれないし、血塗れのまま立ち止まっていては、獣の餌になってしまうかもしれない。

(とりあえず、人の居る場所まで……それからの事は、そこに行ってから……)

 

 その時。



「くふ、どこにいく?主を置いていくなど……」

 後ろから掛けられた声。

 アリアは、その声を聞いた途端、糸を切られたマリオネットのように、ぺた、と力なく尻餅をついてしまった。

 尻餅をついたまま後ろを振り返ると、リーゼロッテは何もなかったようにそこに立っていた。首につけたはずの痕はどこにいったのか既に霧散している。

「は、はは……何よ、それ」

 アリアはその理不尽に、乾いた笑いしか出せなかった。

「惜しかったのう……突いたのが心臓ならば妾も死ねたかもしれんぞ?」
「畜生……畜生、畜生!」

 余裕綽々のリーゼロッテに対し、目にうっすらと涙を浮かべ歯噛みするアリア。

「いやはや、ここまでやれる娘だとは。本当に面白いぞ。しかしさすがにもう万策尽きたようじゃの?」
「いや、だ……私は……こんなところで……」

 リーゼロッテの両腕が、アリアの肩を掴む。

「さて、ま、折角だし血は貰って置くかの……」
「うっがぁあああ!」

 アリアは最後の力を込めて体をばたつかせるが、リーゼロッテの圧倒的な膂力で体を抑えつけられ、首筋にその牙を突き立てられる。

 ぷち、と自分の血管が食いちぎられる音。

(こんな……こんな終わりって)

 ちうちうと、血が吸い上げられる音と、それに伴う奇妙な快感。走馬灯のように『私』のつまらない人生がアリアの脳内を巡る。

(……私は……ぜったい……キレイ、な、せか、いを…………)

 自らの願望、いや決意を思い浮かべた所で、アリアの意識はプツリと途切れた。





…………



[19087] 9話 意志ある所に道を開こう
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/23 17:58
 旧ウィースバーデン男爵領、現皇帝直轄領アウカムの農村──

 まだ薄暗い空に昇り始めた白い太陽。
 ウルの月も終わりに差し掛かっているというのに、朝の空気は肌寒い。
 どうやら本格的な夏の到来はまだまだ先のようだ。

 農民達の朝は早い。
 水を汲む音、窓を開ける音、野蔡を刻む音、鍋を火にかける音、子供が走り回る音。
 まだ外は薄暗いというのに、朝の生活音が村中に溢れていた。

 活気に溢れているように見えるこの村も、一時期は領主によってかけられた限度を超えた高すぎる重税によって、多くの領民が逃げ出し、過疎化してしまっていた。

 この国、ゲルマニアに限らず、封建制度に基づく社会制度を形成しているハルケギニアでは、領民、とりわけ農民が、領主に無断でその土地から住所を移動することは重罪とされている。
 にも関わらず、領地からの脱走を企てた者が多いのは、文字通り死ぬほど困窮していたからである。

 基本的に、領主は国に対して税金を納める義務は持たない(王や皇帝は直轄領からの家賃収入のみを得る、ただし有事の際にはその限りではない)。
 なので、自領の領民にかける税金の軽重は、完全に領主の裁量へと委ねられている。
 つまり、領主は領民に対して、生活できない程の重税を課して自身が贅沢しようとも、反対に税をあまり取らずに自身が清貧に甘んじても、全くの自由なのである。勿論、相場というものはあるが。

 なので、ウィースバーデン男爵が領民に対して、重税を掛けた事自体は特に問題はなかった(税を納める領民としては大問題だが)。

 ただ、その重税によって、領内から多数の難民が出た事がまずかった。
 難民が他の領へと逃げ込む事で、他人様の領地の治安を悪化させてしまったのだ。

 その失態が原因となって、5年程前、ついにウィースバーデン男爵は失脚し、領地と爵位を失った。つまりお家取り潰しである。

 この処置は領主である上級貴族の権限が強い、というか強すぎるトリステインあたりではありえない程厳しいものである。
 しかし、他国の王と比べて、皇帝の権威が低いゲルマニアでは、中央集権化を進める手段の一つとして、皇帝直轄領の増強を図っている。
 ただ、当然だが、大した理由もなく貴族達の領地を召しあげてしまう事は、いくら皇帝でも不可能である。
 領主を追い出す理由が必要なのだ。例えば、他の貴族達から見ても、領主として不適格だ、と思わせるようなネタが。
 他の領を巻き込むような派手な失態は、誰の目にも分かりやすいネタになる。なので、それを起こしたウィースバーデン男爵は絶好のカモとして、国から狙われたのであった。

 その後、この村を含むアウカムの農村地帯は皇帝直轄領とされ、村民にかかる負担は大幅に減った(国税は貴族が掛ける税より一般的に安い)。それによって、除々にだが、村に活気が戻っていった。
 現在では、村は元通り、とまではいかないが、まずまずの復興を見せていた。

 さて、領地と爵位を失ってしまったウィースバーデン元男爵だが、領地郊外に建っている本邸や、そこに貯め込んだ財産までは没収される事はなかった。爵位を失ったとはいえ、まだ貴族の地位までは失っていなかったのだ。
 これは、先代のウィースバーデン男爵と懇意であった、ザールブリュッケン男爵の口添えが大きい。それによって、せめてもの温情措置として住み慣れた屋敷で隠居生活をすることが許されたのである。



 良く晴れた日であれば、このアウカムの農村からもその屋敷を見る事が出来る。
 その屋敷は、圧政を敷いたかつての暴君への揶揄と皮肉を込めて、「化物屋敷」と呼ばれていた。

「しっかし化物屋敷が燃えちまうたあ、やっぱり天罰ってのはあるもんだねえ」
「ざまあ見ろってやつだね。領地を取り上げたくらいじゃ、始祖はお許しにならなかったのさ」

 村の女達は朝の井戸端で好き勝手な事を喋っている。始祖による断罪──そのような教えはブリミル教にはないはずだが。
 どこの世界でも井戸端会議の内容などいい加減なものだ。

「だけどあの子、大丈夫かねえ。ずっと眠ったまんまらしいけど」
「あぁ、火事になった屋敷から逃げてきたって使用人の妹の方かい?可哀想にねえ」

 さして心配とも可哀想とも思っていない顔でそんなことを言う女達。

「しっかし、姉の方は相当な美人だね、ありゃ。うちの亭主なんて、にやにやしちまって気持ち悪いったらないよ。本当に使用人なのかい、あの娘」
「ひ、ひ、ひ。大方アッチの方のご奉仕を担当していたんだろうさ。『ご主人様、コチラのお掃除もさせてイタダキマス』なんつってね」

 指をしゃぶるような動作をしながら、気色悪い声色で女の一人がそう言うと、どっ、と下卑た笑いが巻き起こる。

 こうやって根も葉もない憶測があたかも真実のように認識されていくのだ。本当に、女の噂話というのは性質が悪い。





 ちちち、という小鳥達の囀りが耳触りだ。
 窓から差し込む、強烈な日の光が憎らしい。
 冷たい外気が、起きろ起きろと肌を刺激する。

 もぞもぞと全身を芋虫のように動かして、布団の中に潜り込む。

「ぅ~ん、もうちょっと…………」

 ……ん?

「あれ?」

 目をぱちくり。手をにぎにぎ。足をばたばた。

 生きてる?

「知らない天井だ」

 そんな汎用性の高い台詞を口にしながら、私はゆっくりと体を起こした。

「……傷がない?」

 自分の体をきょろきょろと見渡して、首をひねる。

 ほとんど全身バキバキだったはずなのに、その痕すらなく、体のどこも特に痛まない。
 身につけている衣服も、豪奢なフリル付きのお嬢様衣装ではなく、質素で飾り気のない村娘の衣装に変わっていた。

 まさか2度目の生まれ変わりか?と少し頭を過ったが、窓に映ったクセ毛で貧相な顔は見慣れたものだった。



「どこだここ」

 私はのそりと、硬い寝床から這い出ると、寝かされていた部屋の中を見渡した。

 部屋の造りは、何となく、私の実家と似ている。つまり質素、というかまあ、貧乏臭い造りである。
 木板が剥き出しの部屋には特に大きな家具はなく、小さな窓が一つだけ。実に殺風景だ。

 あの化物屋敷にこのような部屋はない。

 窓を開けて顔を覗かせてみると、少し肌寒い風に乗って薫ってくるのは土の匂い。
 うん、どうやらここはどこかの農村らしい。窓の外には私が見慣れている風景が一杯に広がっていた。

「これって……もしかして」
 
 助かったの?と私は声には出さずに自問した。答えは当然返ってこない。

 どう考えても絶望的な状況だったはずだけど……誰かが助けてくれたのだろうか?それとも何か奇跡が?

「どうでもいいわね……」

 助かった理由について考えても無駄なので、私は考えるのをやめた。そんな事は些事だ。今確かに生きている、という事実に比べれば。

 そう、私は生き延びたのだ。

 根源的な恐怖から脱却した事を実感し始めると、私の中にじわりと、しかし圧倒的な安堵感が込み上げてくる。

「はぁ」

 普通はここで、喜色満面で飛び跳ねるのかもしれないが、私は深い息をついて、ぺたん、と硬いベッドの隅に腰掛けた。
 別に嬉しくないわけではない。ただ、あまりの安堵に、緊張の糸が切れ、全身が弛緩してしまったのだ。



 しばらくそのままぼぅっとしていると、ガタ、と部屋のドアが開き、私よりも少し年上であろう少年が部屋に入ってきた。

「……あ、どうも。おはようございます」
「お、やっと起きたの?3日も寝てたんだよ、おまえ」

 私が頭を下げると、少年はちょっとキツイ調子で返してきた。
 多分この少年はこの家の住人だろう。見知らぬ余所者など歓迎されないのが当然だ。ましてや、私はここに来てから3日もベッドを占領していたらしい。
 あまりいい感情は持たれてはいないだろう。家に置いてくれていただけでも、感謝せねばなるまい。

「そうなんですか。ご迷惑をおかけしました」
「ま、いいさ。それに礼ならおまえの姉さんに言えよ」
「……姉?」
「そうそう。気絶したおまえをここまで背負ってきたって……」

 姉?私を助けてくれたのはその人という事か。私との関係を聞かれて、説明が面倒だから姉妹という事にしたんだろうか。

 なら、ここは話を合わせておいたほうがいいかな……。

「では後で礼を言っておかなければなりませんね。それで、姉はどこに?」
「他の家に泊まってる。畑に出るついでに連れて行ってやろうか?」
「じゃあお願いします」

 言葉はぶっきらぼうだが、この少年はなかなかに面倒見がいいらしい。

 私の姉を名乗っている恩人には、ここを離れる前に礼を言っておかなければなるまい。信用できそうな人間ならば、街まで連れて行ってもらえるようにお願いするのもいいかもしれない。
 流石に私一人で街道を行くのは厳しい。

 とりあえずこの村に置いてもらえるような事はあるまい。いつまでも余所者を置いておくような余裕はないはずだ。
 まあ、街にいってもコネもスキルもない小娘に就ける仕事などないかもしれないが……。コネ……か、ふむ。
 
 私はさきほどの少年に手を引かれて、村の中を進む。
 東の空に昇る太陽が眩しい。足の裏に感じる土の感触が気持ちいい。朝の清浄な空気が肺を満たす。懐かしい芋の朝食の匂いが漂ってくる。村人達の談笑が聞こえる。

 五感を心地よく刺激され、生き延びられて良かった、という実感が湧いてくる。
 これからの事は少し心配だが、今しばらくはこの喜びを噛みしめていてもいいかもしれない。





「おーい!妹さんおきたよ!」

 少年は、村で最も大きい家までくると、入り口の戸をドンドンと叩く。

「はい、今行きますね」

 とても綺麗なソプラノが、家の中から返された。

 そうとても綺麗なのに、私はその声を聞いて全身が逆立った。
 私の視線はゆっくりと開いていく戸に釘づけになる。体が縫いつけられたように動かない。



 そして家の中から出てきたのは。



 見事に腰まで伸びた美しい金髪。
 空のように澄みきった青い瞳。
 決して下品にならない抜群のプロポーション。

「起きたのねアリア、姉さん嬉しいわ」

 とぼけた口調でそんな事を言う吸血鬼、リーゼロッテが立っていた。

「なっ、んっ、……はっ……はっ……」

 呼吸が上手く出来ず、「なんでここにいるんだ」と、口を開くも言葉にならない。

「あれ、どうしたんだ。はっはっは、無事に再開できた感激のあまり声がでないか」
「どうにも妹は昔から感情の波が激しいみたいで。お恥ずかしいですわ」
「それじゃあ水を差しちゃ悪いね。お邪魔虫はこの辺で消えるとするかい」

 直立したまま固まっている私の背中を、パンと一回叩いて少年が遠ざかっていく。
 ま、待ってくれ……行かないでくれ……ちょおおぉ!

 私が遠ざかる背に向けて突き出した手も虚しく、少年の後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまった。
 もう村人のほとんどは畑に出ているらしく、周りに人の気配はない。

「さてと……」
「く、来るなっ?」

 リーゼロッテは周りに私以外がいなくなると、素早く私の首根っこを捕まえて、無人の家の中に連れ込んだ。丸腰の私に為す術はない。

 リーゼロッテはそのまま、私を奥の部屋に連れ込み、無理矢理椅子に座らせた。

「く……」

 私は何とか逃げ出そうと、椅子から立とうとするが、リーゼロッテに肩を押さえられてしまう。

「そう身構えるな。お前をここまで運んでやったのは妾なのじゃぞ?ついでに傷を直したのも妾じゃ。感謝すれども恐れることはあるまいて」

 誇らしげに胸を張って言うリーゼロッテ。 先程の丁寧な口調とは打って変わって、素の口調だ。

 いや私を殺しかけたのはお前だろ……。
 しかし何故そんな事を?というか、傷を治す?そんなこと吸血鬼に出来るのか?
 
 一瞬の内にぐるぐると回る思考。体は上手く動かないが、頭だけは働いていた。
 そしてフラッシュバックするあの言葉。

《死んだ後は妾の正式な下僕にしてやろう》

 と言う事は…………。

「……ったしは、死んで、るの?」

 何とか口をついて出てきたのは、そんな疑問だった。
 生きている、と自分では思っていたが、もしかすると、リーゼロッテの屍人鬼として使役されているだけなのかもしれない。

「どう考えても生きとるじゃろ。何をいっておる?」

 心底不思議そうな顔で私を見下ろすリーゼロッテ。

 本当なのか?いや、ここでこの吸血鬼が嘘をつく理由がないか。
 と言う事は私は死んでいない。ならばますます分からない。

「何故殺さない?私を下僕にするつもりなら、殺して屍人鬼にすることもできるはずっ……!」
「ほう、屍人鬼とな。そんなことまで知っておるのか」

 私の質問には答えず、リーゼロッテは感心したように自分の顎を撫でる。

 口惜しいが、私にはこの吸血鬼に武力で対抗する術はない。逃げる術もない。
 ならば、私にできるのは……精神的に屈しないことくらいだ。

 そうやって腹を括ると、ふっ、と体が軽くなり、呼吸もほぼ正常に戻っていった。



「答えなさい」
「くふ、殺されかけた相手に対して随分と強気じゃな。……ま、良い。狸娘よ、お前は妾の食糧兼奴隷として仕えてもらう。お主の血は最高に美味じゃったからな。生きたままでなければ血は吸えんから殺すのが惜しくなったんじゃ」
「……あら、それは光栄。でもその理由は嘘臭いわね」

 私はピシ、とリーゼロッテに指を突き付ける。

「な、何が嘘なんじゃ!根も葉もない事を言うでない!」

 リーゼロッテはその指摘に狼狽する。それこそ嘘だという理由ではないかと思うのだけれど。
 どうやらこの自称女優はアドリブが苦手らしい。

「ま、私は血の味なんてわからないけどね。でも貴女言ってたでしょ。スヴェルの夜に、全てが覆された時の最高の表情をした処女の血がイイって。なのに、あの晩の、しかも企みに気付いていた私の血が“最高”に美味、なんていうのはおかしいんじゃない?」
「う……そんな事を聞いておったのか」
「……不思議ね。どうして私如きに嘘をつくのかしら?」

 苦虫を噛み潰したような顔をするリーゼロッテ。図星か。

 何故嘘をついたのか。それは知られてはマズイ弱みがあるという事だ。

 リーゼロッテが私を殺す気ならば、既に殺されているはず。つまり、私を生かす事であちらに何か得があると言う事、もしくは私が死んではあちらに都合が悪い事があるのだ。
 その理由がそっくりそのまま、あちらの弱みになっているのかもしれない。

 ならば、あちらの言う事を何でも聞くのは得策ではないだろう。やりようによってはこちらが優位に立てる、という事までは無くても、同等の条件に立つ事はできるかもしれない。

「へっ、屁理屈じゃ。血の味は妾が一番知っておる!……それにの、お主には犯した罪の責任をとってもらわねばならん。贖罪は生きたままするべきであろう」
「は?責任ですって?」

 嘘を言った事を誤魔化すかのように、リーゼロッテが新しい切り口で攻めてきた。

 随分とふざけた発言に、私は憤慨して睨みつけながら聞き返す。
 責任を取ってほしいのは私の方だ。私が『僕』の理性を持たない普通の娘だったら、疾っくの疾うに発狂している。
 正直、私だって全ての善意が悪意に見えてしまうトラウマになりそうなくらいだ。

「おいおい、狸娘よ。あれだけの事をしておいて惚けてはいかんぞ」
「へえ、何があるのか教えてもらえないかしら、吸血鬼さん」

 眉をあげて、脅すような態度で迫るリーゼロッテに、私は飽くまで強気の態度に出る。ここで引いては駄目だ。

「あくまで白を切るか。では教えてやろうではないか。妾の快適な寝床を炭クズにした罪の責任じゃ。本来なら貴族の屋敷に火をかけるなど斬首モノじゃぞ?それを妾に仕える事で許してやろう、というのじゃ。妾の寛大な心に感謝するがよい」

 私を見下ろし尊大な態度でそう言い放つリーゼロッテ。
 うん、確かに火を付けたのは犯罪だよね。

「それは自業自得ってやつじゃない?私をそこまで追い詰めたのは貴女よ?というかその言い草だと、やっぱり貴女が男爵令嬢だなんて話は真っ赤なウソね。……まあ、いくらゲルマニアとはいえ、吸血鬼が爵位を取れるはずもないのだけれど。大方、貴女があの屋敷を乗っ取っていたってところかしら。そんな貴女に許してもらう道理はないわ」
「……ぬ」

 私の推測が当たっているのか、押し黙るリーゼロッテ。何これ。ちょっと快感かも。

「それにあのダンシャクとやらがここらの領主っていうのも嘘でしょ。さすがに領主の屋敷が吸血鬼に乗っ取られているなんて、すぐにばれるはずだもの。上級貴族ならば貴族同士の交流もあるだろうし。でも3週間、私は外からの来客も見なかったし、ダンシャクや貴女が外出したのを一度も見なかった。つまり、その正体は世間と隔絶された、若しくは引き籠りになったお金持ちのご隠居、といった所ね。……さて、貴女の嘘はどこまで続くのかしら」

 私は座らされていた椅子から立ち上がり、一気に虚言を暴いて畳みかける。
 
 リーゼロッテはそれに対して、論点をずらして反撃してきた。

「お主の付けた火で、焼けたのは屋敷だけではない。屋敷の使用人達も黒焦げになったんじゃぞ?これは絶対、確実じゃ。心が痛まんのか?」
「ふうん」
「ふうん……って、それだけかの?」

 お前に良心はないの?と言いたげな表情で、私に事の顛末を詳しく語るリーゼロッテ。

 あの使用人達はこの世の人じゃないだろうから心は痛まない。

 屋敷から脱出する前に、私は倉庫部屋で、リーゼロッテが命令する声を聞いていた。
 あの時、ダンシャクまで完全にリーゼロッテの言いなりだったからね……非常事態だというのに吸血鬼の命令にあそこまで従うという事は、どう考えても屍人鬼か何かだろう。リーゼロッテがどうやって複数の下僕を使役しているのかは不明だが。

 私が彼らに出来ることは、吸血鬼に殺されてしまったのであろう屋敷のみんなの冥福を祈るだけだ。

 リーゼロッテの身振り手振りを交えた語りによると、屋敷の火を消そうとしたであろうカヤ達だったが、リーゼロッテが屋敷に戻ったころには、力及ばず屋敷とともに燃え尽きていたらしい。
 
 私はその思わぬ大きな戦果に驚きを覚えた。まさかリーゼロッテの下僕が全滅していたとは。
 よくそこまで燃えてくれた物だ。正直半焼が関の山かと思ったんだけど……。何かあちらが余計な事をして火の回りをよくしたのではないだろうか。

「私を殺そうと画策していた化物共が死んで、何故私が心を痛めなきゃならないの?……それにさっきから論点がずれているわ。何故私が生きたまま、貴女に仕えなければいけないのかって事を聞いているのだけれど?」
「う……」

 私は顔の前に人指し指をピンと立てて、話が脱線していたのを立て直す。
 リーゼロッテは言葉につまり、俯いて困ったような表情を浮かべる。

「貴女が私を生かさなければならない理由。当ててみましょうか?」
「ほう……」

 私の提案に対して、俯いていたリーゼロッテは顔を上げた。

 ここから先に私が喋ろうとしているは完全な憶測に過ぎない。
 これは賭け。半分でも当たっていればリーゼロッテに対して優位に立てるはずだ。

「何故貴女が、わざわざ口入屋に出向いて娘を調達していたか、を考えればおのずと答えは出る」
「何故じゃ?」
「ただ娘を調達するだけなら、攫ってくればいいだけ。まあ、脚本がどうとかそういうのは抜いてね。なのに、貴女は金を払ってまで、賎民の、つまりコミュニティから放逐されて、まだどこにも属していない娘達を買い漁っていた。つまり、貴女は目立ちたくなかった。平民でもいなくなってしまえば噂になるもの」
「…………」

 部屋の中を徘徊しながら憶測を、さも自信ありげに披露する私。無言になるリーゼロッテ。
 よし、ここまでは当たっているのかもしれない。

「まあ、吸血鬼っていうのは、目立ちたくないものだろうけど、そこまでやるのはちょっと過剰じゃないかしら。……単純に神経質だからなのか。それとも誰かに追われている、とか」

 リーゼロッテは目を閉じて私の憶測を静かに聞き入っている。あとひと押しか?

「追われているとしたら、世間から隔絶された金持ちの屋敷なんて吸血鬼の隠れ家には最適だものね。……しかし、その隠れ家が無くなってしまった。そして金も隠れ家と一緒になくなってしまったから口入屋から新しい娘は買えない。ならば、次の隠れ家が見つかるまでは私を生かして食糧にしようっていうわけよ。どう?」
 
 私は真っ直ぐにリーゼロッテの眼を見ながら、そうやって締めた。

 気分は名探偵だ。といっても、推理に確信も証拠もないので、全てが的外れであるかもしれないが。



「ま、話半分と言ったところじゃが……」
「あら、半分も当たっていた?」

 舌を出して言う私に、リーゼロッテが口に手を当てて、しまったという顔をする。
 この反応だと全部ということはあり得なくても、私の憶測は半分以上当たっていそうだ。

「……やはりお前は、ただの餓鬼ではないわの。あの脱出の手際といい、腹芸といい、そしてその思考。どうみても齢10の小娘には見えんぞ?一体何者じゃ?」
「……もう少し仲良くなったら教えてあげる」

 私はリーゼロッテの質問を軽くいなす。言う必要がないし、言ったところで信用しないだろう。「前世の記憶がある」と言ったって誰が信用すると言うのか。
 
「ほう、仲良くなったら、か。では妾に仕える気はあるのかの?」
「そうね。私の出す条件を飲んでくれるなら、いいわ」
「条件、だと?そのような事が言える立場か?」
「飲んでいただけないなら、私は首でも吊って死ぬわ。それじゃ貴女も困るんじゃない?」
「……く、ク、自分の命を盾にするか」

 嘲るように喉を鳴らすリーゼロッテ。何とでも思えばいい。私の唯一の交渉材料は私の命しかないのだから。

「ま、聞くだけ聞いてやろうではないか。お前は何を望む?」
「私が望むのは、一方的な主従の形ではなく、飽くまで協力者、パートナーという形を要求する、という事よ」
「パートナー、じゃと?」
「ええ、不満?私に協力してくれれば、死なない程度なら血も提供するし、私の目的が達成できれば、貴女の安全も保障できるようになると思うのだけれど」

 怪訝な顔で聞き返すリーゼロッテ。
 それはそうだ。どう考えても調子をぶっこいた要求だが、通す。道理が通らなくても通す。

「……目的とは何じゃ」
「成り上がりよ」

 私は真っ直ぐと前を向いて、力強く宣言した。
 リーゼロッテは興味深そうに目を細める。

「ほう……何故そんな事を?」
「今回の事で嫌と言うほど身にしみたのよ。結局、力がなければ、あるものに踏みつけにされるだけっていうことがね。それはどこのセカイでも同じ。だったら、私は上に行く。使えるものは何でも使う、それこそ吸血鬼でもね」

 そして上から見るセカイはきっとキレイだ。それこそ、“原作”で綴られている遥か上のセカイのように。

 だから私は這い上がる。そこに行くまでに泥に、血に塗れる事になろうとも。

 それはまだ脆弱な意志かもしれない。しかし、それを紡いでいけば、やがては鉄の意志となるだろう。

「魔法も使えない、金もない、人脈もないお前がどうやって力をつけるのだ?」
「そこで貴女に協力してもらう、ってわけなのだけれど。協力してくれるなら、15年、いえ10年以内に貴女に安住の地を提供すると約束する。吸血鬼にとっては短いものでしょう?」

 しれっと私がそう言うと、リーゼロッテは大口を開けて笑い始めた。

「くク、クひゃははッ……やはりお前は面白いの。妾に向かってこんな無謀な啖呵を切った人間は今まで見た事がないぞ?」
「お褒め頂き至極恐悦。それで返答は?」

 結論を急ぐ私の問いに、リーゼロッテは黙って右手を差し出した。
 私もそれに倣って右手を差し出す。

 白魚のような右手と、ささくれ立った小さな右手はがっちりと組まれた。

「契約成立、ね」
「くふ、せいぜい妾が心変わりせんように気を付けるんじゃな」

 ニヤリ、と含んだ笑みを見せ合う二人。



 この時から、リーゼロッテと、私の奇妙な協力関係が始まったのだった。





 善とは何か──人間において力の感情と力を欲する意志を高揚する全てのもの
 悪とは何か──弱さから生じる全てのもの
                          フリードリヒ=ウィルヘルム・ニーチェ





第一章「貧民少女アリアの決意」終
幕間へ続くのです




[19087] 1~2章幕間 インベーダー・ゲーム
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/21 00:09
 ガリア王国首都リュティス。30万の人口を誇る、ガリア最大の都市である。
 その東の端に存在するヴェルサルティル宮殿の荘厳さは、見る者を圧倒し、魅了する。

 さて、そんな華麗なる一族が住まうに相応しい絢爛な宮殿だが、その中には、日の当たらない場所も存在する。
 
 そんな陰気さが漂う場所の一つである、北側の離宮の一室では、青い髪の美青年が長椅子の上で仰向けになって、羊皮紙の束を眺めていた。
 美青年はいかにも「退屈だ」と言わんばかりの気だるさを醸し出している。

 彼の前には俯いたまま、跪く騎士風の細身の男が一人。
 細身の男はそのままの姿勢で微動だにせず、美青年が口を開くのを待っていた。

「ふむ、取り逃がしたか」

 美青年は興味なさ気に、読み終わった羊皮紙の束をぞんざいに床へ放った。
 羊皮紙の表題には、“リュティス貧民街におけるモンベリエ侯爵家令嬢変死事件について”と書かれている。

「は、申し訳ありません。令嬢殺しの下手人、いえ標的はゲルマニア国境付近で見失った模様です」
「無様だな」
「しかしながら標的を追う際に、元メイジを含むあちらの戦力6体を無力化。残りは重傷を負わせた標的1体です。対してこちらの損害は3名。今現在も四号と五号が標的を捜索、追跡中であります」

 細身の男は、美青年の短くも辛辣な言葉に、ピクリとも表情を変えずに淡々と現状報告を行う。

「良い。もう捨て置け。下らん理由でこれ以上の人員を使ってもな」
「は?しかし、被害者は南部の有力貴族、モンベリエ侯爵家の長女ですし、彼女は魔法学院で預かっていた生徒でもあります。下らんというのはいくらなんでも……」

 美青年の突飛な発言に、ここに来て初めて細身の男は表情を変えた。それは困惑の表情。

「世間知らずの小娘一人が貧民街に迷い込んで野垂れ死んだだけだろう?」
「しかし、モンベリエ侯は令嬢殺しの下手人が上がってこない事で、日に日に王家への不信感を強めていると聞きますが……」

 リュティスは王家が直轄する国の首都だ。ましてや、死亡した侯爵令嬢は国が管理している魔法学院の生徒であったのだ。

 そこで、令嬢が他殺と思われる変死をしたとなれば、当然、王家側の責任を追及される事となる。
 モンベリエ侯爵家側は、王家側に対して、事件の早期解決と娘を殺した下手人の引き渡しを要求していた。その程度の要求が通らない、となれば王家に対する不信感が強まるのも無理はない。

 ただ、この事件は令嬢の自業自得とも言える面もある。

 リュティス魔法学院は他の国の魔法学院と比べて、規則が厳しい事で有名だ。
 それは意味もなく厳しい訳ではなく、様々な謀略が渦巻くガリアの中心において、学院で預かっている上級貴族達の子女を誘拐や謀殺から防ぐために設けられている。
 学生にとっては、自分達を不必要に縛る枷にしか見えないかもしれないが。

 その規則の中に“学院の敷地外へ出る事を禁ずる”というものがある(例外として、長期休暇の際の帰省だけは認められている)。
 しかし、年頃の学生達、特に辺境の領から出てきた者にとっては、華やかな王都に好奇心を抱くのは当然だ。

 そんな学生の中には、規則を破っても街に出たい、と思う愚か者もいるのだ。

 令嬢は愚か者の一人だった。

 好奇心旺盛な令嬢は、夜の街に遊びに出るために、学院に出入りしている平民に扮装して学院を抜け出したらしい。変死体として発見された令嬢の服装は、何処から見ても平民にしか見えないものだった。
 街へと出た令嬢はフラフラと遊び回っているうちに、貧民街に迷い込んでしまい、そこで襲われたとみられている。

 つまり、彼女が規則を破りさえしなければ、事件は起こらなかったのだ。

 令嬢が学院の規則を破った上、薄汚い貧民街でメイジでもないものに殺されたとなればモンベリエ侯爵家、引いてはそこを管理していた王家の面子は丸潰れになる。そのため、令嬢の死は公式には突発的な病死と発表された。

 そうなれば、表立った機関が動くわけにはいかないため、本来は存在しないはずの組織である、北花壇騎士団にお鉢が回ってきていたのだった。

「どちらにせよ標的はもうゲルマニアに逃げ込んでいるだろう。そうなれば手は出せん。それに仮にもガリアの侯爵を任せられている家が、娘一人死んだ程度で、国に反旗を翻すような馬鹿な事はするまいよ。……もし反旗を翻すならそれはそれで面白いかもしれんが」

 美青年は本当に愉快そうな表情で、物騒な事を言い放つ。
 細身の男はその言葉に眉を顰める。

「ジョゼフ様、さすがにそれは……」
「ここでは団長だ。これまでの調査結果はモンベリエに丸投げしておけ。後はそちらで勝手にやるだろう。先にも言った通り、余はこの件にこれ以上の人員を割くつもりはない。これでこの話は終わりとする」
「……御意」

 北花壇騎士団長ジョゼフが憮然とした口調で言い放つと、細身の男はそれ以上何も言わずに退出した。



 部屋に一人残されたジョゼフは、横になっていた長椅子から立ち上がると、先程放った羊皮紙の束を拾い上げ、再び目を通しだした。

「侯爵令嬢の殺害方法、様々な先住魔法を駆使する事から、標的は極めて異質かつ強力な吸血鬼と思われる。日の光に強く、一体で何体もの下僕を操る、か」

 その報告内容に、ジョゼフは、ふ、と自嘲的な笑みを漏らす。

「亜人の世界にも才能というものがあるのだな……」

 独り言を呟くジョゼフの背中には、どことなく寂寥の色が漂っていた。





 ガリアの第一王子、ジョゼフが独りごちていた頃。

 重傷を負っているはずの標的は、帝政ゲルマニアの南西端に位置する交易都市フェルクリンゲン街の安酒場で杯を呷っていた。

「全く、あやつらときたら娘一人喰った程度で大騒ぎしおって。大体貴族の娘が貧民街におるなどおかしいじゃろうが……」

 酒場の隅の席で、ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、安いワインを水のように腹に流し込む逃亡者、リーゼロッテ。
 彼女は、完全に酔っ払っているのか、珍しく素の状態であった。テーブルと床に散らばった空き瓶の数を数えれば、そうなってしまうのも無理はないが。

「しかし貧民街で娘を漁るのも駄目ならどうしろと……おまけに下僕も全て失くしてしもうたし……はぁ、もう泣きそうじゃ」

 がっくりと項垂れるリーゼロッテは、割と本気で泣きそうだった。



 2週間程前、リュティスを根城にしていたリーゼロッテはいつものように、“食糧”を調達するため、貧民街を徘徊していた。

 彼女が貧民街に狙いを絞っていたのは、いつ野垂れ死んでもおかしくない貧民ならば、ある日突然消えてもあまり騒ぎにはならないと考えていたからだ。
 貴族は勿論のこと、普通の平民を“食糧”にしてしまえば、追われる身になるかもしれない。

 それなりの年を重ねた吸血鬼だけあって、彼女は用心深かった。

 彼女は人間、特にメイジを敵に回した時の厄介さを知っている。
 高位のメイジであっても、一対一の勝負ならばリーゼロッテに分があるのだが、人間の厄介さとは数を恃みにすることである、と彼女は考えていた。

 しかし、彼女は失敗した。

 その日獲物にした貧民街をうろついていた薄汚い格好をした娘は、貧民どころか貴族令嬢、それもガリア国内でかなりの実力を持つモンベリエ侯爵家の長女であったのだ。

 餌食にされてしまった令嬢も不運であったが、リーゼロッテからしても酷いハズレを引いてしまったと言える。
 敵を作らないように貧民に狙いを絞っていたはずが、国という大勢力によって追われるハメになってしまったのだから。


 
「とりあえずガリアに戻るわけにもいかんし、新しいネグラを探さねばな……」

 愚痴を言うのにも飽きたリーゼロッテは席から立ち上がり、カウンターへと向かう。
 別にカウンター席に場所を移して飲み直すわけではない。
 
「店主、話が聞きたいのじゃが」
「ぁあ……じゃ、その前にお代を払ってくれねえか?しめて3エキュー23スゥ8ドニエだ」
「む、計算を間違えているのではないか?高すぎるぞ」
「あれだけ飲んでこれなら安いだろうが!」

 髭モジャの店主の言葉に、「本当かのう……」と小声で呟きながら、渋々金袋から金貨を取りだすリーゼロッテ。

 吸血鬼といえど、“食糧”や“生存”以外の目的で人間を脅かすようなことはあまりなく、普段は人間社会のルールに従うのが一般的だ。
 吸血鬼の中には、ブリミル教徒として名を連ねている者までいる。本当に信仰しているわけではないだろうが。

 吸血鬼は個としては強者かもしれないが、種族全体で見ると、数が非常に少ない上に、群れで行動しないため、社会的には弱者とすら言える。
 むしろ、その目的以外の事については、吸血鬼である事を気付かせないために、人間として模範的な生活をしている者が多く、考えようによっては人間の賊よりマシかもしれない。

 ただ、リーゼロッテに関しては、それが当てはまるかどうかは疑問符がつくのだが。

「へへ、毎度。で、何が聞きたいんだ?」

 金貨をひったくるようにして受け取った店主は、ほくほく顔でそう尋ねる。やはりボッタクリなのかもしれない。

「そうじゃな……この近くで住み込みの仕事があれば教えてほしいのじゃが」
「仕事、ねぇ」

 店主はイヤラシイ目でリーゼロッテの身体をじろじろと見回しながら、含みを持った言葉を吐く。
 何が言いたいのか分かったリーゼロッテは、ぴしゃりとそれをはねつける。

「いや、妾はそういう仕事はせんぞ?こう見えても身持ちは堅くての」
「へ、そうかい。だが、ここは職を斡旋する場所じゃねえからなぁ……」

 このセカイでは、“普通の仕事”においては、知り合いのツテで職につくのが一般的だ。
 ふらりと現れた余所者が職にありつけるほど、優しいセカイではない。ましてや仕事を選ぶのならばなおさらだ。
 
「そう言わずに、の?」

 リーゼロッテは、店主の手に自分の手を重ねて、耳元でおねだりするように囁く。

「そんな事されてもな……酔っ払いだし」
「……ちっ、本当に男かお主は。ホレ、これなら喋りたくなるじゃろ」

 男の興味がなさそうな反応に、リーゼロッテは先程までのしなはどこへやら、不機嫌そうにエキュー金貨を1枚テーブルに放った。

「……あぁ、思いだした。そういやウィースバーデン家の屋敷で使用人を募集してるって噂だな」
「ウィースバーデン家?」
「お隣の領の“元”領主だった貴族さ。ここからだと馬で北東に2,3日ってところか。そこの屋敷に仕えてた使用人が軒並み辞めちまったらしくてね。ただし、それでわかるとおもうが、あまりいい待遇や給料じゃあないぞ。集落からも大分離れているしな」
「貴族でも金がない貴族なのかえ?」
「いや、財産は没収されなかったって話だからな。金はたんまり持ってるはずだが、そういう奴程ケチ臭ぇもんさ」
「ふむ……金持ちの隠居屋敷、か」

 リーゼロッテは、その変化に気付かないくらい僅かに、口角を吊りあげた。

「ま、俺が知ってるのはそれくらいだな。他に知りたきゃ口入屋でも当たってみろよ」
「ほう、この街には奴隷屋もあるのか……ん?奴隷……金持ちの屋敷……?」

 何かを思いついたのか、顎を手でさすりながら考え込むリーゼロッテ。
 
 店主は、“奴隷”という言葉に、声のトーンを若干落として注意する。
 一応、このセカイでも奴隷は違法となっているので、あまり声を大にして連呼することはよろしくない。

「奴隷じゃねえって、奉公人。人聞きが悪いよお嬢さん。まぁ、ウチらには買えるようなもんじゃないけどな」
「そうじゃの……。それにしても奉公人、か。その手があったか……」
「ぁん?どうかしたのか?」
「あ、いや、助かったぞ。とりあえずその屋敷を訪ねてみる事にしよう」
 
 既に心ここに在らず、と言った感じのリーゼロッテは、足早に酒場を後にした。



 彼女は、馬を借りるでもなく、てくてくと徒歩で北東に向かって歩き始める。
 大分飲んでいたはずなのに、その足取りは確かだった。

 しかし、ここからウィースバーデン家の屋敷まで徒歩で行くとなると1週間以上はかかってしまうだろう。備えも無しにその距離を行くのは、“人間”ならば無謀である。

「誰もおらんか……?」

 リーゼロッテは人気がない街の外れまで来ると、辺りをきょろきょろと確認する。

 誰もいない事を確認した彼女は、名馬も青ざめる猛スピードで、北東に向かって駆け始めた。





 それからおよそ1週間後。

 帝政ゲルマニア南西部の皇帝直轄領、アウカム農村地帯の郊外に佇むウィースバーデン元男爵家の屋敷。
 その屋敷は、爵位のない貴族のものとは思えないほど豪奢なものであった。勿論、豪奢といっても、先のヴェルサルテイル宮殿とは比べるべくもないが。

 一日の仕事が終わった夜の食堂では、テーブルに置かれたランプを囲んで、屋敷の使用人達が総出で話し合いをしていた。
 総出、といってもたったの3人しかいないのだが。

「やはり来ませんか、この屋敷に仕えたいという者は……」

 そう言って、使用人達の年長者である老執事ライヒアルトは溜息をつく。
 
 2年前、この屋敷の主であるウィースバーデン男爵は、領内の失策により他領をも混乱させたとして、領主不適格の烙印を押され、領地だけでなく爵位も取り上げられてしまった。
 残ったのはこの本邸であるこの屋敷と、ここに貯め込んでいた財産だけ。

 先代のウィースバーデン男爵の時代からこの家の執事として仕えてきたライヒアルトにとって、ウィースバーデン家の没落は我が事のように堪えた。

 先代の男爵は賢君といわれる程の人格者だったのだが、その一人息子である今代の男爵、いや元男爵は、どこでひねくれてしまったのか、異常なまでに強欲で傲慢な上、猜疑心が非常に強かった。

 その妻と娘すら自分の財産を狙っていると疑い、くびり殺してしまう程に。



 そんな元男爵は爵位と領地の取り上げのショックから、ますます偏屈になり、自室に引き籠るようになってしまった。もはや家の存続は絶望的といっていいだろう。

 当然、強欲な元男爵が使用人達に払う給金など雀の涙であり、そんな彼の人望は紙よりも薄かった。
 それでも領主のうちは、その権限によって使用人達を屋敷に留めていたのだが、それを失くしてしまってからは、30人近くいた屋敷の使用人も、1人、2人と辞めて行き、現在ではたった3人だけとなってしまっていた。
 
 残っているのは、この家に最期まで付き従う覚悟を持っている老執事ライヒアルトと、コブ付きの上にすでに中年を迎えつつあり、新たな職場が見つからなかったメイド長、そしてその娘のカヤだけであった。

「困ったわねぇ。さすがにたった3人じゃ屋敷を維持することもできやしませんよ。今までの評判は仕方ないけど、せめて今からでも給金を上げる事はできません?」
「旦那様が健在ならば進言するところなのですが、今の状態では……」

 メイド長の問いを、ライヒアルトは否定する。
 現在の元男爵は、まともに話をできるような状態ではないのだ。
 今現在も屋敷の財布を握っている元男爵は、人が足りなければ無理矢理にでも連れてこい、と癇癪を起こすばかりだ。

「この際、口入屋で奉公人を買ってしまうというのはどう?いい考えじゃない?」

 カヤが名案だとばかりに、指をパチ、と鳴らして提案する。

「いけません、カヤさん。貴族たる家の者があのようないかがわしい物に関わるなど。」
「えー、いいじゃない!もう男爵家じゃないんだし~」
「カヤ!」

 頬を膨らませるカヤの頭に、メイド長のチョップが振り下ろされた。ライヒアルトはそれを見て苦笑する。

「しかし、これだけ広い屋敷に4人だけとは寂しくなったものですなぁ」

 ライヒアルトは、無駄に広い食堂を見回しながら呟いた。
 
 実際、この屋敷は使用人3人程度で管理できるような広さの屋敷ではない。
 それを示すように、屋敷のあちらこちらが痛んできていた。その痛んだ部分が視界に入るたびに、ライヒアルトの心もチクリと痛む。



「あれぇ?」

 若干重い沈黙が続いていた食堂で、不意に不貞腐れていたカヤが素っ頓狂な声をあげた。

「どうしました?」
「誰か来たみたい」

 そう言われて耳を澄ますと、玄関の方から、こんこん、とノッカーが叩かれる音が聞こえてくる。
 しかし、今は夜、それもかなりの夜更けだ。使用人の希望者にしても、こんな時間に訪れるわけがないだろう。

「おかしいですね、こんな時間に……」

 不審に思ったライヒアルトは、腰につけてあるタクト型の杖を握りしめながら立ち上がった。
 スザンナとカヤは、ライヒアルトの目配せで、自室へと足早に引き上げていく。



「どなたでしょう?」

 玄関まで来たライヒアルトは、扉の外にいるであろう人物に向かって問いかける。

「私、リーゼロッテと申します。この屋敷で使用人を募集していると聞きまして……」
「成程、そうですか。しかし今は夜更けですし、些か非常識ではありませんかな?」

 使用人の希望者と聞いて、一瞬ライヒアルトは心躍ったが、いくらなんでもこの時間に貴族の屋敷を訪れるなど、あまりにも常識が無さ過ぎる。
 そう思って、ライヒアルトは若干きつい調子で問い詰めた。

「……申し訳ありません。馬が途中で逃げてしまってこの時間になってしまったのです。どうか面接だけでもしていただけませんか?」
「私としても、そうして差し上げたいのは山々なのですが、主から夜更けに扉を開けるのは禁じられていまして」

 特にそんな禁止事項はなかったが、単なる門前払いの言い訳である。
 いくら人に困ってるとは言っても、こんな非常識な者を、屋敷の使用人にするわけにはいかないのだ。

「……そう、ですか。でも私、この屋敷が気に入ってしまいましたの」
「は?」

 何を言っているんだ、とライヒアルトは思い、聞き返した。
 まるで屋敷の主のような言い草だ。使用人の希望者だという癖になんというふざけた態度か。

「一番近くの村でも馬で1日はかかる辺境。屋敷の住人はたった4人。人付き合いもなく世間から隔絶している。おまけにお金持ち、なんですってね?」
「な、何を?」

 瞬間。

 玄関の分厚い木扉の隙間を縫うように、蔓のように伸びた草がにゅるにゅると屋敷内に侵入し、意思を持つかのように動いて扉の鍵を開けて見せた。

 リーゼロッテの【生長】、枝操作とも言われる精霊魔法(先住魔法)である。

「お、のれっ!亜人かっ……!」

 ライヒアルトは怒号とともに、後ろに跳んで杖を構えて詠唱を始める。

 バン、と扉が開かれると同時に、スペルを発動した。

「水鞭《ウォーター・ウィップ》!」

 ライヒアルトは水の系統魔法では数少ない攻撃手段の一つ、ドットスペル【水鞭】を侵入者目がけて振り下ろす。



 が。



「ぐ、ふっ」

 鞭を放った時、既にリーゼロッテの右腕はライヒアルトの心臓に刺さっていた。

「遅すぎるぞ?」
「…………」

 リーゼロッテが言葉を投げかけるが、ライヒアルトは既に事切れていた。

「……ふむ、弱い。やはり妾を追ってきたのはメイジの中でも特に厄介な連中だったらしいの……。ま、これでも使い道はあるじゃろ」

 そう呟くと、リーゼロッテはライヒアルトの遺体に向かって手をかざす。

「血よ、躯を流れる血よ、我の意のままに動け……」

 リーゼロッテがそうやって呟くと、ライヒアルトの遺体は紫色の光に包まれる。

 そして。
 
「目覚めはどうじゃ?新たな下僕よ」
「おはようございます、主よ。調子はまずまず、といった所ですかな。私の事は以後はライヒアルトと」

 何事もなかったかのように、むくりと起き上がったライヒアルトが、リーゼロッテに敬礼する。

 【傀儡】。死者に偽りの生命を与えて操る、高位の精霊魔法である。

 一説によると、この力を封じた指輪があるということだが、その力は考えられない程大量の死者を操れる上に、生者すらも操る力があるという。
 個人単位で使える傀儡は、それほど強力なものではなく、操れるのは、身体が朽ちていない死者に限られ、その数もせいぜい10体程度が限界だ。
 
「さて、ライヒアルトとやら、お前は他の使用人を拘束しておけ。妾はこの屋敷の主に会ってくる。ま、一刻後には妾がこの屋敷の主だがな」
「諒解致しました。彼奴の部屋は2階の西奥でございます。では、せいぜいお気を付けて」
「何かカンに触る言い方じゃの……失敗してしもうたか?」

 リーゼロッテはそう言って首を傾げながらも、元男爵の私室へと向かう。
 


 彼女はこの1週間、じっくりと時間をかけて、この屋敷の周りを調査し、近くの村で情報を集めていた。近くといってもかなり離れてはいるのだが。
 その結果、この屋敷を乗っ取ってしまうのが最良という考えに至ったのだった。

 今までも、乗っ取りを敢行したことはあった。あったのだが、長続きしなかった。
 いくら【傀儡】を使って操れるとはいえ、その家の主、もしくは使用人達が何らかのコミュニティに属していた場合、不自然さを嗅ぎつけられて、いずれはばれてしまうのだ。

 その点この屋敷は、世間と隔絶されている上に、金もある。
 まさかリーゼロッテもこれほどまでに乗っ取りに適した場所があるとは思わなかった。



「ほう、そなたがこの屋敷の主か」

 元男爵の私室のドアを乱暴に開けたリーゼロッテは、まるで自分の部屋であるかのように堂々と立ち入りながら、本来の部屋の主に問うた。

「だ、誰だキサマはっ!誰の許可を得てこの部屋に入っているのだッ!」

 元男爵は、額に青筋を浮かべて怒鳴るが、リーゼロッテは全く動じなかった。

「許可なら妾がしたぞ?この屋敷の新たな主がな」
「ふざけおって……ふざけおってぇ!俺を馬鹿にするなぁああ!」

 唾を撒き散らしながら喚く元男爵。もはや、その精神はとうの昔に異常をきたしていた。

「はぁ、くだらん奴じゃの。さっさと終わらせるとするか。ま、この屋敷の主じゃったことに敬意を表してキサマは屍人鬼にしてやろう」

 リーゼロッテはつまらないモノを見る目で、元男爵を見下しながらじりじりと近づく。

 屍人鬼《グール》とは、精霊魔法とは違った、吸血鬼の特殊能力である。

 吸血鬼一人につき一体しか造れないが、能力的には生前と変化がない【傀儡】と違って、身体能力が獣並みに強化された下僕を造ることが出来る。

「死ねっ!死ねえぁっ!」

 呪詛の言葉を振りまく元男爵だが、精神を病んでいる彼は、杖を取るわけでもなく、ただ子供のように手足をジタバタさせているだけだ。その姿は哀れとしかいいようがない。

「黙れ、下郎」
「ぐ、ぇ……」

 リーゼロッテは煩く喚く元男爵の首を、握りつぶすかのようにミチミチと締めながら、その首筋に牙をたてた。
 屍人鬼を作る場合は“吸血”によって殺さなければならないのだ。

 苦い顔で血を吸い上げるリーゼロッテと、目を見開きながら蒼白になっていく元男爵。
 
 抵抗は、できなかった。
 


「うっぷ、まず……吐き気がするわ……。やはり血は処女に限るのう」
「…………」

 好き勝手な評価を吐きながら口を拭う吸血鬼を尻目に、かつて暴君として君臨していた元男爵は静かにその生涯を閉じた。

 彼のデスマスクは驚きと恐怖で醜く歪み、遺体の股からは糞尿が流れ出していた。

 その死には名誉も誇りもまるでなく、それでいて理不尽だった。
 因果応報。それが彼の死には最も似合う言葉かもしれない。





 ともあれ、この時からリーゼロッテはこの屋敷の主として君臨する事になり、屋敷に残された財産を使って、奉公人の娘を買い漁る日々が始まった。
 
 それは、彼女の今までの生の中で、最も安全な生活だった。

 初めは、ただ娘を買ってきては喰うだけであったが、暇を持て余したリーゼロッテは段々とそれにスパイスを加えるようになっていく。
 即ち、娘を食する過程として、脚本をつくり、舞台を演出し、予定した日程通りにそれを遂行していく、というある種のゲームだ。
 喰い終わった娘たちの中で使えそうな者は、リーゼロッテの【傀儡】によって、人手不足の屋敷の使用人として再利用される事になる。

 実に悪趣味ではあるが、享楽的な彼女の性格では、辺境の屋敷における安全な生活は退屈すぎた。
 退屈を持て余した彼女の唯一といってもいい娯楽がこのゲームだったのだ。

 だが、娘たちにとっては、命賭けのゲームであるものの、主催者にとっては所詮はただの遊興である。やはりリーゼロッテは満たされない。
 時が経つにつれ、彼女の口癖は、いつしか「つまらんのう……」になっていった。



 だが、これより3年後、リーゼロッテは退屈な生活を一変させ、その生き方すら変えてしまう不思議な少女に出会う事となる。





2章へ続きますです





[19087] 10話 万里の道も基礎工事から
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/06/23 18:27

 登り詰める意志を持ったからと言って、山頂に到達できるとは限らない。
 
 成功した者はすべからく意志を持って努力しているが、その逆は成り立たない。
 努力する者は無数に存在し、その全てが成功するほど世の中というものは優しく出来てはいない。

 意志を持つことは、成功への必要条件ではあるが、十分条件ではないのだ。

 “信じていれば夢はかなう”、“努力は必ず報われる”なんていうのはただの美辞麗句、嘘っぱちだ。
 セカイは、ほんの一握りの勝者と、それを支える大多数の敗者で構成されているのだから。
 
 努力、才覚、人脈、運などといった、様々な形の積み木達を積み上げ、組み上げて、仕上がりきった所でやっと、その頂きに届くかどうかといった所なのだ。

 そして、それを積み上げる際の一番下の部分、つまり土台がしっかりしていなければ、いくら積み木があったとしても、絶対にそこまで積み上げることはできない。

 要するに、何事も基礎が大事、という事だ。





 立志伝中の人物になる事を決意をした少女アリアは、その身に持って生まれた知識と、天性の才覚を駆使して、破竹の勢いでハルケギニアの頂上へとのし上がっていくのであった──



「なんて、ね」

 ごとん、ごとんと揺れる荷馬車の中、私は頭に湧いた下らない妄想を打ち切った。

 あの化物の手前、10年以内に確かな成功を掴んでやる、などと大見栄を切ってしまったが、落ちついて考えてみるとかなり厳しい。いや、すっごく厳しい。

 今の私の状態を喩えれば、生まれたままの姿で険しい雪山に登ろうとしているようなものである。
 このままでは、登頂に成功するどころか、1合目前で力尽きてしまうだろう。

 本来持ちえないはずの、『僕』の知識はいずれ大きな武器となるかもしれないが、それを使う以前の問題として、『私』にはこのセカイでの“土台”がないのだ。

「何を一人でぶつぶつと言うておるのじゃ。気持ち悪い」

 荷台の片隅で行儀悪くダラリと足を伸ばして座る化物、リーゼロッテがじとり、とこちらを横目で睨んだ。

「色々と考えていたら、ついつい口に出ちゃってね。悩みがなさそうな貴女が羨ましいわ」

 私はリーゼロッテの言い草に少しカチンと来たので、ささやかな皮肉を返した。
 対等な関係を約束したのに、こちらだけ頭を悩ませているなどずるいではないか。

「くふふ、そりゃ妾は完璧な存在じゃからの。悩みなど欠点がある者が持つ物よ。……ま、強いて言えば悩みがない事が悩みかのぅ」
「あ、そう……」

 私の毒が通用しないとは。この吸血鬼、やはり中々に強敵のようだ。



 さて、協力関係となった私と吸血鬼は、お世話になったアウカムの村人達に礼を言ってから別れを告げ、街に向かう事になった。
 いつまでも村に置いてもらう訳にもいかないし、薄情なようだが、身を立てる事を決意した以上、田舎に用はないだろう。

 リーゼロッテも二つ返事でその考えに同意した。
 というか、彼女は本来、田舎よりも都会の方が好きな性質らしい。「妾はリュティス育ちじゃからなぁ」とか言って自慢していた。はっ、どうせ私は田舎者ですよ。

 村を出る際、借り物の服をそのまま着て行くわけにはいかないので(というか返してくれと言われたので)、私が身につけている村娘の服は、リーゼロッテの喉を突き刺した銀製のナイフと引き換えにして譲ってもらった。勿論、血は拭き取っておきましたよ?
 ちなみにリーゼロッテの方は村長のおっさんにプレゼントされたという清楚なイメージのする純白のワンピースを着こんでいる。材質はシルク。失礼だが、この田舎の村には場違いな高級品だと思う。
 私と随分待遇が違う……。世の中やっぱり見た目が大事という事か。
 
 畜生、私だって磨きを掛ければ……!そう、本気を出せば!

 ……少々脱線してしまったようだ。話を戻そう。

 アウカムの農村地帯には、大きな街はなく、一番近い街と呼べる規模の街は、あの口入屋のあったフェルクリンゲンであるらしい。
 そんな辺境といってもいいこの辺りでは、乗合馬車の駅もないのだが、私達は運良く、丁度村の近くを通りかかった、フェルクリンゲンに向かう商隊の馬車に乗せてもらう事ができた。

 私が「街まで乗せてくれませんか」とお願いしても、「駄目だ」の一点張りだったのだが、リーゼロッテに交渉役が変わった途端に、頭の薄い商人がとろんとした目をして「どうぞどうぞ」などとぬかし始めた。

 その何とも腹が立つ結果に、リーゼロッテはどや顔で「使えないパートナーじゃのう」などと、私を見下し、くつくつと嘲笑っていた。
 鼻の下を伸ばしたエロ商人の残り少ない毛髪を一本残らず毟ってやりたくなったのは言うまでもない。

 そして今現在は、その商隊の荷馬車に乗り込んだばかり、と言ったところだ。

 幌馬車に乗っていると、オンの農村から口入屋に連れて行かれた時の事を思い出すので、正直あまり気分はよくない。

 しかし徒歩で行くとなれば、1週間はかかってしまう上に、娘2人だけの旅など「どうぞ襲って下さい」というプラカードを下げているようなものだ。
 ま、並みの賊程度ならリーゼロッテは歯牙にもかけないかもしれないが。



「で、街に向かうのは良いとして、これからどうするんじゃ?妾としては取りあえず寝床を確保すべきじゃと思うが」

 リーゼロッテは一通りの自画自賛を終えた後、急に真顔になって、これからの事について切り出してきた。
 こちらから切り出すつもりだったのだが、あちらから話を振ってくるとは話が早くて助かる。

「それについては同感。でもそれには先立つモノがないとね。まず仕事を探すわ。貴女、貴族の真似事なんてやっていたんだから、街の商人とかにコネはあるでしょ?」
「ぬ……妾にそんなものはないぞ?」
「はぁ?屋敷に出入りしていた商人もいたはずじゃ」
「そういう面倒な事はライヒアルトに全て任せていたからのぅ……ま、今となっては消し炭となっているわけじゃが」

 遠い目をして語るリーゼロッテ。
 言外に屋敷を燃やした私を責めているらしい。意外とねちっこいな、この吸血鬼。

 しかし、リーゼロッテがコネを全く持っていないとすると、大幅に予定が狂ってしまう。
 このセカイでまともな仕事にありつくには、コネで就職するのが一番いいのだ。
 
 街の衛兵や魔法学院の使用人のように、一般から大々的に募集するような職もあるけれど、倍率が半端なく高いので、私では確実に不合格だし、成り上がるためにはあまり適している職業であるとは言えない。

「ぅ~ん…………」

 どうしたものか、と頭を抱えて悩む私だが、馬車のゴトゴトという喧しい走行音によって、思考が纏まらない。

 しっかし凄い騒音だな、この馬車。そういえば前にもこんなことがあったような?……あぁ、口入屋に連れて行かれる時の馬車の中か。あれはあれで煩かったな。あの赤毛達は売れたんだろうか?……ん、口入屋?
 
「あっ!」

 唐突に俯いていた顔を上げて叫ぶ私。

「なんじゃ突然。どうかしたかの?」
「思い出したのよ……貴女、ちゃんとコネ持ってるじゃないの」
「む?」
「口入屋よ、貴女が私を買った口入屋。あそこから沢山奉公人を買っていたんでしょう?」
「……確かにそうじゃが、あんな所に今更なんの用があるのじゃ?奴隷にでも戻る気か。それでは身を立てる事など不可能ではないか」

 リーゼロッテは、低く、それでいて響く、殺気の籠った声で私を問い詰める。
 「それは契約違反じゃろう?」とでも言いたげな問いだ。

 どうやらリーゼロッテはあの口入屋にいる娘達(特に星無し)の末路をあまり知らないのか、私がもう一度奉公先を探そうとしていると思ったらしい。

 確かにここで奉公人などに逆戻りしては、生涯身を立てる事などできず、リーゼロッテに終の棲家を提供するという約束も果たせないだろう。
 そしてこの吸血鬼は、私が口だけの利用価値がない娘であると判断すれば、間違いなく、容赦なく、躊躇いなく私を殺す。

 私はその事を再確認させられて、ゴクリと唾を飲みこんだ。
 
 協力関係を結んだ時、私がリーゼロッテに対して切った啖呵は本心であり、あの場を乗り切るために口から出まかせを言った訳ではない。
 しかし、行動でそれを示し、結果を出さなければ、この吸血鬼が満足するわけがないのだ。
 
「安心して。口入屋に行くといっても、商品に戻る気は更々ないから」

 詰問に対する私の答えに、彼女は黙って立ち上がると、ゆらりとこちらに近づいてきた。

 なんだ?まさか、答え方がまずかったのか?それとも誠意が感じられなかったとか?

 ちょ、待てよ!短気過ぎるって……!

「はっ、話せばわかる!」

 私は銃口を向けられたかのように、座ったまま手を突き出して、じりじりと迫るリーゼロッテを遮ろうとする。

 当然そんな事でリーゼロッテが止まる事などなく、彼女の細い腕が、物凄い力で私の両肩を固定する。動けない。



 そして、彼女は汗ばんだ私の首筋を……。



 舐めまわした。



「ひゃあっ?!」
「ふむ、この味は嘘を吐いている味ではないのぅ」

 突然の奇怪な行動に、私は腰を浮かせて悲鳴を上げた。
 リーゼロッテは訳のわからない事をのたまっている。どこかで聞いたことのある台詞だ……。

「な、なにすんのよ」
「妾達にとっては、お主らの汗も大事な糧の一つじゃからの。その味で大体の事はわかるぞ?」

 ドサ、と私の隣に腰を下ろしながら、自身満々にそんな事を言うリーゼロッテ。
 後半の部分の真偽は不明だが、このセカイの吸血鬼は人間の血だけではなく、汗も食糧としているらしい。

 ますます吸血鬼という種族が変態に思えてきたのだが、気のせいだろうか。



「はぁ、脅かさないでよ、全く……」
「くく、意外とビビリじゃの、お主?……しかし奴隷屋に行った所で、どうするつもりじゃ?まさか奴隷屋の使い走りでもする気か?」
「そうね、それもありかも」

 しれっと、そう答えた私に、リーゼロッテは馬鹿にしたような口調で言葉を返す。

「くっく、お主、正気か?自分を売り飛ばしたような所で働くなど」
「ま、できればあそこよりも、もっと大きな商家でも紹介してもらって、商売の勉強をしながら働くっていうのがベストね。人を扱う商売をしているんだから人脈は結構あるでしょ、あの口入屋も」
「ぬ、商売の勉強じゃと?」
「そ。正直なところ、今の私じゃ成り上がるなんて夢のまた夢。だからまず力をつけるの」
「商人になるのかえ?」
「私が成り上がるには、財力をつけるしかないから。大金を稼ぐには職人や労働者じゃ駄目。飽くまで経営者として上に立たなきゃ。そのために必要な修行ってところかな」

 暴力、財力、権力の3つの力のうち、平民(というか賎民?)である私が今から身につけられるものとして、最も現実的なのは財力なのだ。

 そして圧倒的な財力を持つことができれば、他の2つの力も手に入れる事が出来るかもしれない。
 何せこのゲルマニアという国では爵位すら金で買えるという拝金主義が罷り通っているのだから。

 とはいっても、平民から領地持ちの上級貴族にまでなれるのかどうかは知らない。
 国が富裕層から金を巻き上げる為に爵位という名誉を売りつけているだけかもしれないしね。ま、そこまで高望みする必要もないかもしれないが。



 仮にそうだとしても、血統主義で凝り固まっているトリステインよりは、実力主義の気風が色濃いゲルマニアの方が、平民が成り上がるには適しているだろう(ただし実力がなければ、ゲルマニアに居る方が悲惨かもしれないが……)。

 そう考えると、連れてこられた理由は最低だとしても、トリステインの片田舎からゲルマニアの交易都市に来られたのは、幸運だったとも言える。
 ただの農民であったのなら、国境を渡る事は出来なかっただろうしね。

「しかしお主、文字が読めないのではなかったか?商家の小僧のような事をするとなれば、算術も出来なければなるまい。どうする気じゃ?」
「計算については問題ないわ。文字については……貴女、読み書きは出来る?」
「出来るに決まっておろうが。しかし、文字が読めん癖に自信満々に計算が出来るじゃと?クひヒ、やっぱりお主はおかしなやつじゃの」

 口入屋のボスと同じような事を言うリーゼロッテ。くぐもった嗤いと相まって非常に不愉快である。
 いくら美人だといっても、この嗤い声を聞いたら一万と二千年の恋も醒めてしまうだろう。正直キモい。

「その笑い方はやめた方がいいと思うわ……。で、読み書き出来るのなら、私に教えてくれない?」
「ふむ……。教えてやっても良いが、こちらも一つ条件を出そう」
「あら、何かしら」

 表面では余裕ぶっている私だが、とてつもなく厄介な条件だったらどうしよう、などと内心ビクついていた。

「妾がお主に協力する代わりに、お主は妾に血を提供して、終の棲家を与えるという約束じゃったな」
「ええ、そうだけど」
「まあ、条件というより言い忘れなんじゃが。妾の好みは処女の血じゃ」
「はぁ、そう言ってたわね。それで?」
「じゃから、お主が誰かと乳繰り合ったりすると、血の価値はなくなる」

 随分も回りくどい言い方をする。要は男と付き合うな、という事か?

「あ~、はいはい。そう言う事ね。色恋沙汰に興味はないから心配する必要はないよ」
「ほう。じゃが、今は良くても、後々問題になるかもしれんぞ?」
「そうはならないから大丈夫。何なら始祖に誓いましょうか?」

 何が面白いのか、にやにやとした表情のリーゼロッテに、私はそれはないと断言する。

 『僕』の影響なのか、『私』も全く男に興味はないのだ。むしろ“そういう事”に関しては、嫌悪感の方が強い。
 誤解を招きそうなので断っておくが、だからといって女が好きという訳ではない。

「ふむ……どうやら本気で言っているようじゃの……」

 リーゼロッテは可哀想なモノを見る目で私を見つめる。

「何か勘違いしてるみたいだけど……。別に私がモテないから、興味がないなんて言っている訳じゃないから」
「……みなまで言うな。分かっておる」

 ぱん、と私の肩を叩いて励ますように言うリーゼロッテ。
 
 くそ、何かすごいムカツクな……。こんな下らない話はとっとと打ち切らなければ! 

「もうその話はいいわ。それより街についてからの打ち合」
「待った。本題に入る前に“食事”にしよう。腹が減ってはなんとやら、とな」

 リーゼロッテは私の提案を遮って、イイ笑顔をしながら私の腰に手を回す。

「ちょ、こ、心の準備が」
「問答無用、じゃ」

 この後、有無を言わせず美味しく頂かれました。





 商人共の馬車に乗り込んで2日半。

 ようやくフェルクリンゲンに着いた妾達は、休みも取らずに奴隷屋に直行することになった。
 妾は一晩ゆっくりと休んでからが良かったのじゃが、狸娘が譲らんかった。中々に強情な奴よ。


 
 狸娘の大言壮語に乗ってやったのは、何もその約束とやらを信用した訳ではない。
 妾とて、何の力も持たぬ小娘が成り上がれる程、人間の世界は甘くない事は知っておる。
 
 ただ、妾が今まで見てきた人間と比べて、こやつは“面白い”。

 何が面白いかと言えば、餓鬼とは思えぬ胆力や行動力もあるが、何より、その言動の端々に、どこか浮世離れしたというか、まるで遠い世界からやってきたかのような、ちぐはぐな感じを受ける事がある。

 一体こやつは何者か。その化けの皮が剥がれるまでは、玩具にしてやっても良いと思ったまでの事。
 どうせあの屋敷の退屈な生活にも飽きていた事だし。しかし下僕はともかく、金が無くなったのは痛いのう……。

 ま、妾に頼り切りになるようなつまらん玩具なら、さっさと殺して新たなネグラを探すところじゃが、とりあえずは様子見か。

「……っと、ちょっと!」

 おっと、何時の間にやら奴隷屋に着いておったらしい。見慣れた無骨な建物がもう目の前じゃ。

「ぼぅっとしてるけど大丈夫でしょうね。ちゃんと打ち合わせ通りにしてよ?」
 
 狸娘が疑いの目で妾を睨みつける。こやつ、妾に殺されかけた事をもう忘れておるのじゃろうか……。
 
「わかっておる。ま、見ておれ。お主に演技の手本というものを見せてやろう」
「あ、そ」

 しらけた態度で、妾の言を流す狸娘。くっくく……、段々と腹が立ってきたわ。





「私がこっちから入るのは何か場違いな気がするわね」

 正面入り口から奴隷屋へ入ると、狸娘は落ちつかない様子できょろきょろと辺りを見回す。そう言えばこちらは客用の入り口だったか。

「主人を呼べ」
 
 妾は高圧的な態度で、走り寄ってきた若い下男にそう命じた。
 いつもはこんな態度はせんのじゃが……。

「さて、果たしてそう上手くいくかの?」
「いくかの?じゃなくて、いかせるのよ」

 狸娘とそんな事は喋っているうちに、いそいそと奴隷屋の主人が駆け足で参上してきおった。

 うむ、なかなか殊勝な心掛けじゃ。

「これはこれは、リーゼロッテ様ではありませんか。本日はご来店の予定は聞いておりませんでしたが、どうかなさいました、か?……む、その娘は」
「どうも……」

 狸娘が軽く会釈するが、主人はそれを無視して話を続ける。

 妾は偉そうに腕を組みながら、いかにも不機嫌という顔を作り、狸娘も不貞腐れたような表情をして妾の後ろに控える。

「この娘に何か不具合でもありましたでしょうか?」
「ああ、酷過ぎるな。こんな礼儀知らずの娘を売り物にするなど、どうなっているんだ?」

 妾が眉を吊りあげて憤慨してみせると、主人の顔に困惑の色を浮かぶ。
 ま、憤慨しているフリなのじゃが。

 狸娘が書いた脚本によると、まずは妾が店側の不手際によって怒っている事を示して、主人の思考力を鈍らせろ、という事じゃ。
 いきなり働き口を紹介しろ、などというのは不自然すぎるし、怪しまれるから、という事らしい。

「……この度は不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません。しかし、その娘、いえ星無しの奉公人の教育に関しては、引き取ったお客様方がなさっていただくようにお願いしているのです。それはリーゼロッテ様にも契約の際に同意して頂いているはずなのですが」

 主人は深々と頭を下げながらも、店側に非はないと言い張りおる。ま、確かにそんなことが紙切れに書かれておった気もするな。
 しかし、妾の恫喝に委縮せんとは、さすがに商人の端くれと言ったところか。
 
「確かにそうだが、限度というものがあるのではないか?」
「そうすると契約を解消したい、という事でしょうか?しかし、引き取られてから一月近く経っておりますし……」

 さらに詰め寄るに妾に対して、のらりくらりとかわす主人。
 
 次に、少し態度を軟化させて歩み寄る、と。

「いや、私の方もそれは望んでいない。引き取った以上は責任を持たねばな」
「はぁ……」

 合点がいかぬ、というように間の抜けた顔をする主人。
 
「ただ、さすがに酷過ぎる。礼儀以前に、乱暴がすぎる。屋敷は壊すわ、使用人に怪我はさせるわ。それについて注意しても不貞腐れるばかりで……これではどちらが主かわからん」
「何よ、さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事言っちゃってさ。ちょっと金持ちだからっていい気にならないでよね!」

 狸娘が空気を読まず、頭の足りない餓鬼のように大噴火して見せた。
 ま、実際は妾が言った以上の事をしているが。屋敷も使用人も灰にしおったからな……。

 妾は暴れる狸娘をあやしながら、肩を竦めて主人の方に視線だけ向けて問いかける。

「この通りだよ。そちらにも非はあると思わないか?」
「それは……。仰るとおりです。まさかそこまで問題のある娘だとは思っておりませんでした。私共の不徳の致すところです」

 主人は妾の後ろで不貞腐れた表情をしている狸娘を睨みつける。

 さて、あと一息か。

「そう思うのなら、この娘を教育する場を紹介してほしい。うちの屋敷では手に余るのだ。できれば礼儀だけではなく、知恵もつく商家の下働きが良い」
「むぅ……それならば、うちで躾させましょうか?」
「いや、どうしようもない娘だが、この娘はすでに我が家の一員だからな……。ここの奉公人候補としてではなく、普通の下働きとして使ってくれないか」
「しかし商家の下働きとなれば、それなりの知識が要ります。その娘は確か文字すら読めなかったのでは……」
「何?この娘は乱暴者だが、文字も読めるし算術もできるぞ?主人の確認が間違っていたのではないか?本当にきちんと審査しているのか?」

 狸娘によると、ここの審査は適当もいい所で、書面と齟齬があっても何らおかしくはないらしい。
 文字が読めんとなると、それを理由に断られる可能性が高いからの。

 狸娘によると、“嘘も方便”という言葉があるらしい。良い言葉を知っておる。

 ま、言葉は喋れるのじゃし、働くまでにある程度覚えさせれば問題なかろう。

「そ、そんな馬鹿な」
「……私もこの店とは長いからね。快く引き受けてくれればこの事は水に流そうじゃないか」

 主人がうろたえだした所で一気に畳みかける。

 妾がこの店に落とした金はこの3年で3000エキューを下らない。
 そんな妾が、このタイミングで将来的な損得をチラつかせれば……。

「…………わかりました。それならば、うちよりも私の従兄弟がやっている商店の方がいいでしょう。うちで働いているのは男しかおりませんからな。紹介状を書いて来ますので、少々お待ちいただけますか」
「そうか、引き受けてくれるか!いや、流石。私が見込んだ店の主人だけはあるな。話がわかる」
「いえいえ、こちらの不手際でご迷惑をおかけしてしまいました。この程度なんでもありませんよ」

 主人は何度もこちらに頭を下げながら、奥に引っ込んでいった。
 事務室で紹介状とやらを書いてくるのであろう。





 どうやら狸娘の書いた脚本は上手くいったようじゃ。

 ……妾の脚本は狸娘に台無しにされたのに、狸娘の脚本が成功するとは何か癪じゃが。
 やはりただの餓鬼ではない、という事か?

 そんな事を考えて、ふと後ろに目をやると、狸娘は無邪気な笑みを浮かべてこちらを見上げていた。

「さすが、自分で女優というだけはあるわね。よくやってくれたわ。でも、従兄弟の商店といっていたけれど、どこにあるのかしら?案外ウィンドボナの大商会とかだったりして!」

 うーむ、目を輝かせてはしゃぐ姿は丸っきりただの子供にしか見えぬが……。

「ま、あと10年もあるのじゃ。ゆっくりと見定めるとするか」

 口の中でそんな事を呟きながら、妾は落ちつかない“アリア”を眺めた。





続く!






[19087] 11話 牛は嘶き、馬は吼え
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/10 00:17
 商家への紹介状を受け取った私達は、リーゼロッテが持っていたなけなしの金を叩いて、北部行きの駅馬車に乗り込んだ。
 あまりこの吸血鬼に借りは作りたくなかったのだが、文無しの現状では甘んじるしかあるまい。

 駅馬車とは、客から運賃を取って、街から街へと運ぶ乗合馬車、つまりバスのようなものだ。

 ヨーロッパにおいて、公共交通機関の走りとして乗合馬車が走り始めたのは17世紀のフランスでの事。
 それまでは、管理費のかさむ馬車は裕福な上流階級の人間しか利用できなかったという。

 大きな街では下水道も発達しているというし、インフラの面ではルネサンス期のヨーロッパよりも、ハルケギニアの方が大分進んでいるのではないだろうか。

 ま、農村に居た頃は、そんな風には全く思っていなかったが。
 都市と辺境ではかなりの格差があるのだろう。

 この駅馬車は、通常の馬車よりも速く、1日に150リーグ近い距離を走破する。

 それでもフェルクリンゲンから目的地までは、道が曲がりくねっている事もあり、4日の時間を要した。



 その間、私はリーゼロッテから読み書きを教わっていたのだが、複雑怪奇なガリア文字を覚えるだけで精一杯だった。
 もうほとんど暗号にしかみえない……。

 結局、私が4日使って覚えられた単語は、数と挨拶程度の単語だけ。文章を読み書きするどころではなかった。
 あまりの覚えの悪さに、リーゼロッテには阿呆を見る目で「頭悪いのう」などと蔑まれるし。

 あぁ、思いだしたら悲しくなってきた。

 どうしても文字に抵抗感があるんだよね。まぁ、平仮名、片仮名、漢字を併用している日本語よりは簡単なのかもしれないけど。

 ただ、口語自体は話せるので、文字と単語の綴りさえ覚えてしまえば、そこからは苦労することはないだろう。いや、多分。




 
 さて、そんなこんなで、私達が現在やって来ているのはツェルプストー辺境伯領ケルンの街。
 ゲルマニア西部において、最大の規模を誇る商業都市である。

 この街に、ボスの従兄弟が経営するという“カシミール商店”は存在する。
 ウィンドボナではなかったが、これだけの都市にある商店だ。かなり期待しても良いかもしれない。



 ここで私が疑問に感じたのは、広いゲルマニア国内でも有数の規模を誇る大都市であるのに自治都市ではない事。

 その政治形態や、文明の進み具合からして、大都市においては商工業者を中心とした平民達が封建領主から脱却し、王や皇帝の庇護下で、自治都市を形成しているのではないか、と思ったのだが……。

 ちなみに、神聖ローマ帝国の皇帝などは、都市の自治権を庇護する代わりに徴収される商業税によって、収入の8割を賄っていたといわれている。
 それだけ都市部の収入はオイシイのだ。ゲルマニアも皇帝の権力を増したいのなら、これを逃す手はない気がするんだけどなあ。

 自治都市が繁栄していない理由は、やはり“系統魔法”が一因にあると思う。

 単なる暴力装置でなく、ハルケギニア社会の形成自体に寄与している系統魔法の存在によって(実際に見た事は未だに無いけれど)、それが使えない平民の発言力が、昔のヨーロッパに比べて圧倒的に低い事が一つの要因になっているのかもしれない。

 自治都市とは元々、都市の支配に不満を持った平民達が経済力と武力を持って、封建領主に対抗して生まれたものであるのだから。
 
 故に、ハルケギニアにおいて、その街が繁栄しているかどうかは、その領主の器量によってかなり左右されると思われる。
 ここまで発展した都市であるケルンを領地に内包していると言う事は、ツェルプストー辺境伯の経営手腕が優秀である事を示しているのではないだろうか。



 その人、つまり今代のツェルプストー家当主であるクリスティアン・アウグストは、このケルンではなく、もっとトリステイン国境寄りのアーヘンという地域に城のような邸宅を構えているらしい。
 有事の際は、国境近くで外敵を撃退して都市部への被害を防ぐという狙いなのだろう。中々に頼もしい。

 この人物が、“原作”の主要人物の一人、キュルケ嬢の血縁者なのかどうかは断言できない。
 もしかすると、ここは“原作”に似て非なるハルケギニアなのかもしれないし、“原作”と同じハルケギニアであったとしても、年代的に全くずれているかもしれないからだ。

 一度だけ見たことのある物語の登場人物であるモット伯爵も、実は別人なのかもしれないし、子孫や祖先なのかもしれない。
 しかし私が見たモット伯は引き締まった30代前半くらいの美丈夫だったのだが、物語の中に出て来るモット伯ってそんな容姿だったっけ?

 何か違うような……。



「しっかし、虚無の曜日でもないのに、昼間から凄い人混みね」

 私はケルンのメインストリートに溢れる人々を眺めて感想を漏らした。

 人、人、人。

 この辺り一帯の商業の中心地だけあって、狭い道は商人風の男達でごった返していた。

 ハルケギニアでこれほどの人の群れを見たのは初めてだ。まるでお祭りでもやっているかのような喧騒である。

 肉の焼ける香ばしい匂いや、蜂蜜や果物の甘い香りが、空き腹の私の鼻腔を刺激する。

 その匂いの源となっている道の両脇に所せましと立ち並んだ露店には、様々な食料品を始めとして、細工品、毛皮、毛織物などの衣類、果ては怪しげな秘薬のようなものまで、様々な品が並べられている。

 ここまで多くの露店が出ているなんて、いくら都市でも、平時ではあり得ないのではないだろうか。

「この程度で、人が、多いなどと、リュティスに比べれば、全然っ」

 人の波に流されながら、苦しそうにほざくリーゼロッテ。
 いや、全然説得力ないから。

「ま、それは置いておいて、カシミール商店を探しましょう“ロッテ姉様”」
「やはり気持ち悪いのぅ、それ」

 リーゼロッテの苦情は無視して、紹介状と一緒に渡された地図を見ながら、カシミール商店を目指して歩き出す。



 ケルンに着く前に、私とリーゼロッテの関係は姉妹という事で通すように決めたのだ。
 見た目は全然、これっぽっちも似ていないので、腹違いの姉妹。そういう設定だ。

 その際、リーゼロッテの呼び名は“ロッテ姉様”もしくは“ロッテ”。
 私の呼び名は名前自体が短いので、普通に“アリア”だ。
 
 姉妹なのだから、愛称で呼ぶのが妥当だろう……。



 何故、そんな設定をしたのかというと、誰かに関係を聞かれた時に、姉妹と言っておくのが最も角が立たないから。
 まさか吸血鬼とその食糧でござい、なんて言う訳にはいかない。

 それに、口入屋のボスから聞いた話によると、商店の下働きといっても、住み込みではなく、間借りしなければならないらしい。

 都市によっては低所得者向けの集合住宅がある街もあるらしいが、ケルンにはそれはない。
 なので、複数の商店が共同で出資している寮に住み込みではなく、“間借り”しなければならない。家賃は給料から差っ引かれるとのことだ。
 これは通いの従業員への配慮と言う事だが、要は「従業員だからってタダで住ませる場所ねぇから!」って感じかな。

 その際、一応家賃を納める形となるのだし、家族という事ならば、その間借りした部屋に住めるのではないかという浅い考えだ。
 今後もロッテから読み書きを教わらなければならないし、下手に離れて住んで、この吸血鬼が血に飢えでもしたら、街中に犠牲が出てしまいかねないので、できるだけ一緒にいた方がいいだろう。



「はぁ、参ったわ。人多すぎ、街広すぎ、道複雑すぎ……」

 地図上ではそう距離はないはずなのだが、多すぎる人と複雑な街並みによって、なかなか目的地まで辿りつけない。
 もし辺境伯に会う機会があれば、是非とも街の区画整理を提案したい。道が複雑なのも有事の際の備えなのかもしれないが。

「のぅ、少し休まんか?……丁度、そこの店にベリーのタルトがあるようじゃし。甘い物好きなんじゃろ?」

 疲れた顔のロッテは道端の露店を指さす。その露店には、簡易な造りのカウンターと椅子があり、そこで休む事ができるようだ。

「いや、それは私じゃなくて貴女が食べたいんじゃ……って。そういえば、貴女って食べ物の味分かるわけ?」

 声をひそめて疑問を口に出す。ロッテもその問いに対して、囁くような声で返答する。

「わかるに決まっておろう、そのくらい。中には血や汗しか食べられんようなヤツもおるようじゃが……。それではとても街や村では暮らせんじゃろ。人間社会におるのに、食を摂らない者など目立ってしょうがないからの」
「あれ?それなら血とか吸わなくてもよくない?」
「それとこれとは全く話は別じゃ。妾は確かに人間の食物もいけるが、それだけでは腹は満たされん。酒にもあまり酔わんしな。酔った気分にはなれるが」
「ふーん。良く分からないけど、消化器官が人間とは別物なのかしら……。でもお金あるの?」
「金貨はもうないが、銀貨ならまだ沢山あるぞ?」

 ロッテは腰元に下げた袋をじゃらじゃらと鳴らす。
 まあ、それなら大丈夫だろう。お言葉に甘えて、目的地に着く前に腹ごしらえでもしておくか。



「はいよ、ベリータルト2人前ね」
「おぉ、来た、来た」

 舌舐めずりしながら、待ってましたとばかりに皿にがっつくロッテ。
 そんなにコレが食べたかったのか。確かに美味そうではあるけども。

 それにしても、随分と人間臭い吸血鬼だ。ロッテが変わり者なのか、それとも吸血鬼っていうのはみんなこんな感じなのだろうか。

 私はタルトを貪るロッテを横目に、露店を切り盛りしているオバちゃんに話しかける。

「この街っていつもこんなに賑やかなんですか?」
「おや、アンタ達も余所から来たのかい。いや、今は特別さ」
「特別?」
「ああ。つい最近に領主のツェルプストー家に第一子が生まれたばかりだからね」
「へぇ、そうなんですか。でもそれって人が多い事と関係あるんですか?」
「ツェルプストー家はここらの商人の元締めみたいな存在でもあるからね。祝いの挨拶がてら商売しに来てる連中が多いのさ」

 そういえば、ツェルプストー家というのは、商会もやっていたんだっけ。

 なるほど、それで各地の商人達が祝辞を述べにやってきているという訳か。まあ商売の方がメインなんだろうけど。
 しかし全員がそうではないとしても、この人数は凄い。よほど影響力のある商会なのかな。

 しかし、第一子ねえ……。もしかするともしかして。

「その第一子って女の子ですか?」
「ああ、そうだけど」
「その子の名前は……“キュルケ”だったり?」
「確かそんな名前だったかねえ、って。様をつけなさい、様を」

 眉間に皺を寄せて、小声で注意するオバちゃんだが、私の耳にはその声は届いていなかった。



 これは。



 思わぬ収穫だ。



 ツェルプストー家の第一子であるキュルケ嬢が、“あの”キュルケであれば……。
 今は“原作”の物語よりも前の時代と言う事になる。
 
 年数でいえば、え、と。魔法学院が確か、日本の高等学校くらいの年齢からだったはずだから、15年以上は前と言う事か。
 “原作”のキュルケの年齢っていくつだったっけ……。段々と“原作”についての知識が薄れているなぁ。

 とはいっても。

 将来、物語が“原作”通り始まったとしても、私が何をしようと、それに関わる事はないだろうからあまり気にしなくてもいいかもしれない。
 もしかすると、物語自体が始まらない可能性もあるわけだし。

 一応物語全体の流れだけは忘れないようにしておくか。いつか何かの役に立つかもしれないしね。

「……え」

 私がそんな事を考えているうちに消えていた。

 私の皿にあった美味そうなタルトが……。
 犯人と思しき、隣の席に座る吸血鬼は素知らぬ顔で欠伸をしていた。

「アンタ、ねえ……」
「ん?“姉様”に向かってそんな口の聞き方はいかんぞ?」

 “姉”の余りの意地汚さに呆れた顔で注意しようとする私だったが、その“姉”は私が言葉を出す前に、自分の人指し指を私の唇において黙らせる。

「結局自分が食べたかっただけなのね……。ま、貴女の金だし、私が文句を言う筋合いもないけれど……」
「くふ、そういう事じゃ」

 悪びれもせず、口の周りにべっとりとついた蜂蜜を、舌で器用に舐め取るロッテ。

「……食べ終わったなら行くわよ」

 結局少しも腹を満たせなかった私は、苛立ちながら席を立った。





 あの人混みで一杯のメインストリートに戻るのは嫌だったので、地元民だという露店のオバちゃんから教えてもらった別ルートを通ってカシミール商会へと向かう私達。
 
 メインストリートから少し裏に入った所にある道は、道幅は狭いものの、驚くほどに空いていた。
 
「さすがに地元の人ね。これならそう時間はかからないかも」
「もう少し食べたかったのう……」

 名残惜しそうに、露店のあった方向を振り返るロッテ。

「そんな余裕ないでしょ、全く……。一皿60スゥもするのよ、あれ」
「ケチくさいのぅ。若いころから銭勘定ばかりしておってはロクな大人になれんぞ?」
「商人になろうって言う若人に言う台詞じゃない事は確かね」

 てくてくと歩きながらそんなことを話す偽姉妹。
 
 しばらくして、姉の方が思い出したように切り出す。

「そういえば、お主が仕事に出ている間、妾は寝ていればいいのか?」
「いや、少しは働く意志を持とうよ。自分の喰い扶持くらいはなんとか稼いでくれないと」

 惚けた顔でニート宣言をするロッテ。私は即座に突っ込みを入れた。
 どうやらあの屋敷の生活で怠惰な思考が身についているらしい。

「でも妾は血だけあれば大丈夫じゃぞ」
「あんたは血と寝床だけあれば生きられるんか……それならそれでもいいけども。さっきみたいな散財はできなくなるわよ」
「む……確かにあれは捨てがたいのぅ……。それに街に住む以上は、舞台も見たいし、服も買いたい」
「ならそれは自分で何とかして。そこまでの余裕はないと思うから」
「やっぱケチ……」
「いや、ケチとかそういう問題じゃなくてね」

 おそらく、大きな商店であったとしても、初任給はそれほど期待できまい。下働きなので当然だ。
 勿論、無駄遣いするような金はあるわけがない。そんな金があったら貯蓄に回す。

「甲斐性のない旦那じゃのう」

 悪戯っぽく肩を竦めて言うロッテ。

 誰が旦那か。

「経済観念のない嫁はお断りよ。……ま、貴女の仕事については寝床が決まってからじっくり話合いましょう」
「はぁ、面ど…………。ぬ、あれがその商店ではないのか?」
 
 急に言葉を切ったロッテは、前方に見えてきた一際大きな石造りの建物を指さす。



 その堅固な造りをした建物の1階部分は馬車ごと入れるようになっており、大きな倉庫になっているようだ。
 しかも周りの建物が大体2階建なのに対して、一際目立つ3階建である。
 そして、小売するための店舗部分になっているはずの場所は見当たらない。

 これでは商店というより、商館《フォンダコ》と言った方がよい。
 しかし、確かに地図が示す位置と一致しているように見える。

 まさか本当に大商会だったのか?



 とりあえず、私は事の真偽を確かめるために、商館の門前で箒を掛けている坊主頭と言ってもいいくらいに、髪を短く刈り込んだ少年に声を掛けた。
 おそらく彼はこの商館の下働きの一人なのであろう。

「あの、すいません。ここがカシミール商店でしょうか?」
「あ?確かにここはカシミール商店だけど……。ここはお前みてーな餓鬼がくるとこじゃねーぞ?ほれ、どいたどいた」

 坊主頭は、私にかまっている暇はないとばかりに、しっしっと手を振る。人を餓鬼呼ばわりする割には、こいつも見た感じ10代前半だろうに。

 しかし、どうやら本当にここがカシミール商店らしい。
 あの口入屋のボスから辿ったツテとしては最上級ではないだろうか。



 あの屋敷の事件以来、私はツイているのかもしれない。そう、私は今ノッている!ついに私の時代が来たのだ──



 私が自分の世界に片足を突っ込みかけた時。

「キサマも餓鬼じゃろうが……。それより妾達はここの主人に用があるのじゃ。さっさと呼んでまいれ」

 ロッテが坊主頭に高圧的な態度で指示を出した。
 おいおい、まんま“お客様”の態度じゃないかそれじゃ……。

「え……、どこかのご令嬢でしたか……?す、すいません!今すぐ呼んできますので少しお待ちをっ!」

 ロッテを見て即座に坊主頭は態度を変え、慌てて回れ右をして、全速力で建物の中に消えて行った。

 ふぅ、やれやれ。どいつもこいつも……。
 
「お主、妾がおらんとどうしようもないのぅ?」

 ロッテは意地悪そうに、そんな言葉を投げかけてくる。……いまに見てなさいよ。





 程なくして、先程の坊主頭が、ずんぐりむっくりな中年男を連れて戻ってきた。
 おそらく彼が、この商店の代表であるカシミール氏であろう。

 彼は人好きがしそうな笑みを浮かべながら、こちらに向かって会釈する。

「どうもお待たせして申し訳ありません。それで、本日はどのようなご用件でしたか?」
「はい、私を従業員として雇って頂きたいのです。それで、フェルクリンゲンの商店からの紹介状を持って来まし、た?」

 私がそこまで言うと、カシミールの笑みは見る見る内に消え、眉間にしわをよせて、物酷く険しそうな顔になった。

「フェルクリンゲンの商店ってのは、奴隷屋をやッてる奴の事か?」

 客ではないとわかった途端に、急に態度も口調も変わるカシミール。
 こっちが素の顔か……。これは厳しそうだ。

「あっ、はい、そうです」
「ちィ、あの野郎。まぁた面倒臭ェ事を押し付けやがって…………」

 カシミールは頭痛がするように手で額を押さえて、ぶつぶつと独りごちる。
 ええぇ、何コレ?最初からあまり歓迎されていない雰囲気が……。

「あの……?」
「あぁ、悪ィが仕事なら他を当たってくれねェか?ウチも子供を雇っている暇はねェからな」

 カシミールは不愉快そうに吐き捨てると、そのまま建物の中に戻ろうとする。



 え、何を言って……。

 話が違うじゃないか。



 私は慌ててカシミールを引きとめようとする。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「客でもねェ奴にかまってる暇はなくてな」

 にべもない。

 だが、「はい、そうですか」などと引き下がるわけにはいかない。
 ここで職に就けないような事になれば、破滅の道が待っているのだから。

「これ、待たんか。妾達とて遊びで来ているわけではないのじゃ」

 そこでロッテが助け舟を出す。私が就職できなければ、彼女にも打撃になってしまうのだ。

「なんだ?あんたは」
「その娘の姉じゃ」
「あんたも雇ってくれ、なんて言うんじゃねェだろうな?」
「いや、働くのは妹だけじゃ。しかし、妾達はお主の従兄弟の紹介状で、わざわざフェルクリンゲンからここまでやって来たのじゃぞ?それを無碍にするなどおかしいであろう」
「……ふん、そうかい。だが関係ねェ人間は黙っていて貰おうか。ここで働きたいってのはこの娘だけだろうが」
「ぬ……」

 カシミールは、そう言い切ってロッテを黙らせると、不意に私に向き直る。
 この人はロッテの色香や、高圧的な雰囲気にも動じない器量を持っているようだ。

「お前、生まれは?それに今いくつだ?」
「え、と。トリステインの農村の出身です。年は数えで10になります」

 その答えを聞いてカシミールは、はぁと嘆息を漏らす。

「俺だって意地悪でこんな事をいっているんじゃあない。……いいか、商家の下働きってのは商人の家系の、それも男がやるもんだ」
「でも!私は女だからといって甘い考えは持っていません!」

 必死にアピールする私だが、カシミールは更に続ける。

「それに年だって低すぎる。普通は6歳くらいから読み書き算術を習って、早い奴でも12歳から、普通は14歳くらいからってのが相場だ。そういう下地がない農民のお前じゃ話にならねェんだ。それに10歳の娘じゃ体力だってもたねェよ」
「農民の体力を舐めないでもらいたいですね。それに算術には自信がありますが」

 カシミールの言に、私は薄い胸を突き出して、強気に反論する。
 読み書きの事については敢えて口にしなかった。マイナス要素になる情報をわざわざ言う必要はない。

「……それじゃ、試してみるか?」

 カシミールは、腕を組みながら、口の端をニヤリと吊り上げたサディスティックな笑みを浮かべる。

「試す、とは?」
「要は試験ってやつだ。それに合格すれば下働きとして雇う事を考えてやってもいい」

 “考えてやってもいい”か……。
 くそ……。完全に足元を見られてるな……。



 しかし、引けない。やるしかない。



「わかりました。その試験を受けます」
「ほぅ……」

 考えるまでもなく即答した私に、カシミールは細い目をさらに細めて感嘆の声を漏らした。

「おい、いいのか?こやつ、試験などと言っているが、雇う気などさらさらないのかもしれんぞ……」

 リーゼロッテが不安そうな顔で私に耳打ちした。

「いいのよ。どうせ他にアテはないんだから。それにここで引いたら女がすたるってね」
「はっはは、威勢だけは中々のもんだ。……だが、今は仕事中だからな。その気があるなら夜にもう一回出直してこい」

 そう言い残すと、カシミールはくるりと踵を返し、こちらを一度も振り返ることなく、巨象のような建物の中へと戻っていった。



 まるで私の行く手を阻むかのように見下ろすその建物を、私は負けじと睨みつけたのだった。





続きます






[19087] 12話 チビとテストと商売人
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/04 20:15
 私とロッテは、夜になるまでの時間を潰すため、ベリータルトを売っていた露店に戻っていた。

 前回と違って、私達の前にあるのは一杯8スゥの安紅茶だけであったが。
 流石に一皿60スゥもするベリータルトなど食べていられる身分ではない。



「まったく、あやつは何様のつもりなんじゃ!あぁ、思いだすだけで腹が立つ!」

 ロッテはそうやって悪態をつくと、手に持ったティーカップを乱暴にテーブルへと叩きつけた。
 先程からこれで何度目だろう。数えておけば良かったかな。

 ロッテはカシミールの態度がよほど気に喰わなかったらしく、あれからずっと腹を立てているようだ。

「ちょっとあんた!ソレ割ったら弁償してもらうからね」
「う、すまん……」

 露店の主人であり、放っておけば割られてしまいそうなカップの持ち主でもあるオバちゃんは、声を荒げてロッテを注意する。

「大体、お主も悪い!なぜもっと怒らんのじゃ!さっきからだんまりを決めおって。妾だけ怒っていたら馬鹿みたいではないか」

 ロッテは収まりきらない怒りの矛先を私に向けたようだ。

 はぁ、やれやれ……。

 私だって怒りを感じていないわけではないんだけどね。わざわざフェルクリンゲンから紹介状を貰ってやってきたのに門前払いされそうになったし……。
 ただ、私とロッテでは怒り方が違うのだ。私は苛々すると無口になるタイプなのである。

「しかし、なんだってそんなに荒れているんだい」
「む、聞いてくれるか?実はのぅ……」

 ロッテはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、オバちゃんに事のあらましを大まかに説明した。
 幾分、脚色はしてあったが。「妾を無視するなんて、不能に違いない」とか……。



「なるほどねぇ。でも試験をしてくれるってだけでも、カシミールさんはかなり譲歩したんじゃないかと思うけどね」
「どこが譲歩しとるんじゃ!」「どこらへんが譲歩してるんですか?」

 カブった。

 普通なら身内からの紹介状があれば、それだけで採用決定のはずなのだ。
 むしろこちらが譲歩しているではないか。

「確かに商人ってものは、平民の中では一番夢が見られる職業かもしれない。でもその数は少ない。何故だか分かるかい?」

 私は唐突に振られたその問いに答えられなかった。ロッテも首を傾げている。

 そういえば、農民から商人になったなんてあまり聞いたことがない……。
 血気盛んな若者であれば、出世を夢見て農村を飛び出す事だって多いだろうに。
 
「分からないようだね。答えは簡単さ。一人前の商人を育てるには金がかかるからだよ」
「どういう事ですか?」
「商人っていうのは、一部では貴族様並みに教育熱心なんだよ。子供には無理をしてでも私塾に何年も通わせて、それを学び終えた時に初めて見習いとして使われるのさ。だからその教育ができていない人間は商人にはなれないんだよ」
「でも、それは働きながらでも……」
「見習いといっても、一人の商人。確かに下働きで学ぶことは多いよ?でも最低限の事ができていないのに、働かせてもらおうなんて甘すぎるんじゃないのかい?」
「う……」

 あまりの正論に言葉に詰まる。

 今の私の状況は、喩えるなら大卒以上を要求している求人に中学生が応募しているようなものなのかもしれない。

「確かに、普通なら門前払いされて当然なのかもしれないわね……」

 私はそう言って、はぁ、と溜息をついて項垂れる。
 怒りで上がっていた熱は冷め、私の気分は一気に氷点下まで下降してしまった。



「たわけ、落ち込んでいる場合か」
「いだっ」

 ロッテはお葬式のように沈んでいた私の頭をポカリと拳骨で叩く。

「何すんのよ!」
「商人共の事情はどうあれ、お主が成り上がるには商人になるしかないんじゃろう?」

 ロッテはやや厳しい口調で私に問う。
 
「……そうね。落ち込んでいる場合じゃなかったわね。今は試験の事に集中しなきゃ」
「わかれば良いのじゃ」

 少し気恥ずかしそうにそっぽを向いていうロッテ。他人を励ますのにはなれていないらしい。

「あんた達、何やら訳ありみたいだねぇ。そろそろ店じまいだし、私で良ければ相談に乗るよ?ま、あたしはただの売り子だし、ウチはカシミールさんの所みたいな大きな商店じゃないけどさ」

 私達の会話を聞いていたオバちゃんは心配顔でそんな提案をする。
 建前かもしれないけれど、かなり、いや凄くイイ人かも。

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫です。試験なんて軽くパスしてみせますよ」

 私は右腕に力こぶをつくってオバちゃんの提案を辞退した。

「くふふ、言い切りおったな?これは落ちた時が見物じゃなぁ」

 ロッテは意地悪くそんな事を言う。全く、受験生に「落ちる、滑る」は禁句だっての。

「相談に乗ってもらえるなら、私よりも姉の仕事を紹介してもらえると助かります。手がかかる姉なので」
「何じゃと?」

 私がそう言ってやり返すと、ロッテは心外だ、というように頬を膨らませる。

「ははは、そうかい。まぁ、農民から商人になった人間がいない訳じゃないさ。あんたに才覚があれば、カシミールさんだって認めてくれるはずだ」
「ありがとう。では私はそろそろ行きますね」

 辺りはもうすっかり暗くなり、道端の露店もすでに後片付けに入っている店が多くなってきている。

 カシミール商店も店じまいの時間だろう。

「おい、妾はどうすれば……」

 席から立ち上がろうとした私に、ロッテは不安げな顔でそう尋ねる。

「私の方は、どれくらい時間が掛かるのか分からないし、明日までは別行動ね」
「ふむ、そうか。では折角だし、街の見物でもしようかの」

 ロッテは遊ぶ気満々らしい。いや、仕事を探してくれ、ほんとに。

「姉さんの方は私に任しときな。何、これだけ器量良しなら仕事はすぐに見つかるさ」

 オバちゃんはそう言って、早速遊びに出ようとしたロッテの肩をがっちりと抑える。
 いや、ほんと助かります。

「それでは姉の事はおまかせしますね」
 
 嫌じゃ嫌じゃと喚くロッテを無視してオバちゃんに礼を言うと、私は一路、試験会場へ向かうのだった。
 




 商店に着くと、丁度カシミールが自ら正門を閉めている所だった。

「こんばんは。試験を受けさせてもらいに来ました。もう店じまいですよね?」
「来たのか……」

 カシミールは面倒臭そうな顔をして言う。
 やはりあまり歓迎はされていないようだ。

「ま、とりあえず入れや」

 私はその言葉に従って、正面から商店の中へと足を踏み入れた。



「おぉ……」

 壮観。

 思わず私は立ち止まって辺りを見回す。

 入ってすぐの1階の倉庫には、毛皮、リネン、家具、家庭用品、穀物袋、塩、食料品、羊毛、中身が分からない壺や瓶、謎の石ころなどが、大量に、だが整然と並べられていた。

 入荷したばかりなのか、毛皮だけは整頓されておらず、乱雑な山積みになっていたが。

 その外観から予想はできたものの、これだけ大量の商品を扱っているとは……。
 商品の種類も実に多種多様だ。それに比例して人脈も広いに違いない。

 やはりこの商店で働きたい、いや働かなければならない。ここでの経験は絶対に私の糧となるだろう。

「ほれ、物珍しいのはわかるが、さっさとしな」

 立ち止まっていた私を、軽く小突いたカシミールは、正面にある石の階段を昇っていく。試験は上の階で行うらしい。



「おい、チビっ娘。俺はお前の名前も聞いていないんだが」

 コツコツと階段を昇っている途中、カシミールが思いだしたようにそう切り出した。
 そういえば、マトモに自己紹介すらしていなかった……。

「すいません、申し遅れました。アリアと言います。よろしくお願いします」
「ふむ……。しかし女のくせに商人に成りたいなんざ、変わったヤツだな」

 女のくせに、ときたか。

 ま、男は外で仕事、女は家で家事というのが一般的な考えなので仕方ないのかもしれないが。
 
 魔法によって男と女の力関係がほぼ対等な貴族ならともかく(それでも家を継ぐのは男)、魔法の使えない平民の場合、性によって体力の差がはっきりしているため、どうしてもそのような考えになってしまうのだ。
 このセカイには男女雇用機会均等法も育児休暇もないし。

 しかし、そういう風に言われるのはあまり気分のいいものではない。

 身綺麗にして花嫁修業をしていれば良いお嬢様達と違って、私は泥水を啜っても自分で身を立てるしかないのだから。

「商人として大成するのに重要なのは己の才覚と志では?そこに男も女もない、と思いますが」
「ほぅ、チビっ娘のくせに大した見栄を張るじゃねエか。だが、商人は男の世界だ。女と言うだけで相当なハンデになるぜ?舐められる、つまはじきにされる、何か失敗すれば、“やっぱり女だから”と馬鹿にされるってなもんだ」
「その程度の事は覚悟の上です。私は(生命の危機的な意味で)命懸けなんですから」

 その答えを聞いて、カシミールはふん、と鼻を鳴らす。

「ま、最初の問題は正解ってところか」
「へ?」
「今の受け答えだ。落ちついたいい反論じゃねェか。弱気になったり、冷静さを欠いたりしやがったら、そこでつまみ出す気だったんだがな」
「も、もう試験って始まってたんですか?」

 カシミールはその問いには答えず、ただくつくつと笑うだけだった。
 遊ばれてるんじゃないでしょうね……。





 さて、カシミールの後についてやって来たのは、3階の一番奥にある部屋。

 西側にドア、東側に大きめの窓が一つ、それを覆うのは白い無地のカーテン。
 家具の材質はほとんどがウォールナット材で統一されており、赤黒い木肌が高級感を漂わせている。

 ただ、どれもかなり年季が入っているが。

 どっしりとした事務机の上には何も書かれていない羊皮紙が数枚と、羽根ペン、インク壺などが置かれている。

 机の周りには、椅子が二脚。そのうち一脚は、部屋の調度には似つかわしくないオーク材を用いた小さく低い椅子だった。
 もしかすると、私の試験のために他の部屋から持ってきてくれたのだろうか?いや、それはないか……。

 そして圧巻なのは、部屋の壁にびっしりと並んだ本棚。

 その中には、羊皮紙の束が纏められたものや、書簡のようなものが大量に保管されているほか、結構な数の本が収められていた。



 本というのは高価なものである。これは作家の取り分が多いわけではなく、本に使われている紙、つまり羊皮紙が高いのだ。
 
 羊皮紙とはその名の通り、羊の皮で作った紙。
 その長所としては、耐久性が高い事、防水性が高い事など。羊皮紙は1000年の寿命があると言われているほどだ。
 ただ、動物の皮革が原料なので、植物性の紙ほど大量生産ができないため、どうしても高価になってしまう。

 結果的に、本という物は私のような貧民には、縁のない高級品となってしまっている。

 ま、下層階級の人間は読み書きができない者がほとんどなので、仮に本が安かったとしても縁のない物になってしまうだろうが。

 それにしても、その高級品を個人でこれだけ蔵書しているとは……。
 上級貴族でもここまでの蔵書をしている者はほとんどいないのではないだろうか。貴族の読書事情なんて知るはずもないから、断言はできないけれど。

 この部屋の持ち主は金を持っているだけではなく、かなりの勉強家である事がわかる。



「ここは?」
「事務室、ってところだな。ま、半分は俺の書斎みたいなもんだ」

 やっぱりそうなのか。これだけの大商店を築くには、相当な努力をしたのだろう。

「……随分と勉強熱心なんですね」
「物持ちがいいだけだ。物が捨てられねエ性質でな」
 
 カシミールは少し照れくさそうに鼻の頭を掻く。

「さ、無駄話はここまでだ。とりあえずそこに座れ」
「……はい」

 席を勧められた事から、おそらく筆記の試験なのだろうか。
 私はそわそわと落ちつかない様子で、ちょこんと小さい方の椅子に腰かけた。

 カシミールは私を椅子に座らせると、本棚の中から、表紙の擦り切れた本を一冊選び出し、ぱらぱらと頁をめくる。



「こいつをやってもらおうか。机の上にある紙とペンは自由に使っていい。ただし紙は一枚100スゥだからな。後で払ってもらうぞ」

 カシミールはそう言って、大きい方の椅子にどかりと腰かけ、机の上に本を広げた。
 広げた本の頁には数字が羅列されている事から、おそらく算術の問題だろう。

 さりげなく紙の代金を要求するあたり、さすが商人といったところか。抜け目ない……。

 しかし、ここでいいところを見せれば、グッと雇用に近づくはず。

 ただ、一つ問題がある。

「言いにくいんですが」
「何だ?」
「問題が読めません」

 本に乗っているのは全て文章問題だったのだ。

「お前……もしかして読み書きできねェのか?」
「読み書きは鋭意勉強中です。その代わりと言っては何ですが、昼間に言った通り、算術はかなり得意です」

 ここで文盲な事を誤魔化しても仕方あるまい。だって問題が読めないんだから……。

「あれだけの威勢を張るんだから、読み書きくらいは当然出来る物だと思っていたんだが……」
「でもこの試験は算術の力を見る物ですよね?」
「け、しれっと言いやがって。……ま、確かに読み書きの試験をする予定はなかったが」

 カシミールは困ったような顔で、頭をかりかりと掻いた。

「では読み上げをお願いします」
「はぁ、全く面の皮の厚い娘だ」

 「読み書きできないのは論外だな」なんていわれないかと、内心はびびりまくっていたんだけどね……。





「ふむ……こいつは……うぅむ」

 カシミールは唇を撫でながら唸った。その視線の先には私が算術問題の解答を書いた羊皮紙。



 出された算術問題は、『僕』の知識を持つ私にとっては、どれも鼻をほじりながらでも解けるようなシロモノだった。

 その内容は、比率から始まり、比例、幾何、簿記論など。簿記論といっても帳簿のプラスマイナスを合わせるだけのものだったので、そう難しい物ではなかった。

 ま、商売で使う実践数学というのはこのくらいで十分なのだろう(経済学とは勿論違う)。
 なんちゃらの最終定理だとか、なんとかロイド曲線だとか、そんな小難しいものは必要ないのだ。



「どうでしょう?」

 私は自信満々に解答用紙と睨めっこしているカシミールに問いかけた。

「いや……全問正解、だ。全問正解なんだが……」
「はい?」
「この文字はなんだ?それにこの記号みたいなのは……」

 カシミールは私の書いた数式を指さして問う。
 
 あ゛。

 そういえば計算の時、もろにアラビア数字とか、数式記号を使っていたのだ。
 答えだけは下手くそなガリア文字で書いているのだが……。



 これってもしかして、マズイのか?
 ま、まさかとは思うけど、い、異端とか?密告されちゃう?



 そうだ!こういう時、このセカイにはとても便利な言い訳があるじゃないか!



「え、とですね。私の算術の先生は“東方”出身でして。東方の文字と数式を使ったやり方なんですよ、それ」
「東方、ねえ」

 じろりとこちらを睨むカシミール。

 思いっきり疑われているんですが……。

「ええ、東方なんです。オリエントなんです。これホント」
「詳しく教えろ」

 カシミールは挙動不審になった私に構わず、解答用紙に書かれた方程式を指し示す。

「え、やり方は一緒だと思いますよ?」
「いや、違うだろ。普通のやり方だと……」

 カシミールは数字の後に“足す”、“引く”、“掛ける”といった単語を書く。
 その数式はまるで一つの文章だ。わかりにくいことこの上ない。

 なるほど、数式は同じでも、それに使う簡素な記号がないのか。

 『僕』の世界でも数式記号がつかわれ出したのは14~17世紀の事だし、このセカイにそういう記号が存在しなくてもおかしくはない。
 数学というか算術を専門にやっている人の間では使われているのかも知れないが、それが一般に普及していないという可能性も考えられる。

「雇っていただけるなら、喜んでご教授致します」
「ぐ、汚いぞ……」
「私は見合った対価を要求しているだけです」
「むぅ……」

 カシミールは頭を抱えて、悩んだような表情をする。
 どうやら彼は非常に知的好奇心が強いようだ。さすが商人である。

 異世界の偉大な数学者達が発明した数々の数式記号を知る事ができるなら、私を雇い入れる程度むしろ安い買い物だと思うけど……。

「次で最後にしてやる。それで手を打て」
「……内容は?」
「倉庫に毛皮が山積みになってたろ」
「なってましたね」
「朝までにあれを全部日陰干し」

 カシミールは真顔でそう言い放つ。

「あれって……どのくらいあるんでしょうか」
「900リーブルだな」
「きゅ、きゅうひゃく?!」
「まぁ、商人用の目方(※トロイ衡)だから普通の単位に直すと、700弱ってとこか」

 いやそれでも十分やばい量なんですが……。

「それが出来たら文句無しで雇ってやる」
「……絶対、ですよ?」
「皺が出来ないようにきちんと伸ばしてから干せよ?」
「わかりました、やります」

 そうと決まったらこうしては居られない。
 朝までのタイムリミットに間に合うようにしなければ。

「いい加減にやっていたら終わらねェからな。死ぬ気でやれ。俺はそろそろ寝る」

 欠伸をしながら言うカシミールを尻目に、私は1階に向かって駆けだした。





「しかし東方の数字ってのは簡単に書き過ぎじゃねェか?」

 俺はチビっ娘を下に追いやった後、“東方”の算術について、あれやこれやと考えていた。

 この東方の数字ってやつは簡素化されていて分かりやすいが、帳簿なんかには使えねえ。後から簡単に捏造されてしまいかねないからな。
 おそらくは計算のスピードをあげるために作られたものなんだろう。正式な数字は他にあるに違いない。

 しかし、この数式記号ってやつは便利だ。東方では常識なのだろうか。
 だとしたら、算術の教育がかなり発達しているってことだ。大多数の人間が知らねェと、こんな記号は使えやしない。

 算術が発達しているってことは商売も発達しているんだろう。

「東方か……」

 多くの商人が一度は夢見る一攫千金。それが東方との貿易。
 どこから仕入れているのか知らないが、たまに入ってくる東方産の品は、目ん玉が飛び出そうなくらいの値段が付く事が多いのだ。

 若い頃はハルケギニア中を行商して回ったもんだが、さすがに東方には言った事がねェ。
 死ぬまでに一度は行ってみたいもんだ。



 そしてあのちびっ娘。あの歳でここまで自在に算術を使いこなしてるとは、正直驚いた。計算だけなら俺より速いし正確だろう。

 しかし、いくら東方の算術つったって、読み書きを教えずに教えられるのか?
 それに餓鬼とは思えないような言動をしやがるし……。

 ま、商人としてはまだまだ話にならねエが……。



「おっと、もうこんな時間か」

 考えに没頭しているうちに、お天道様が顔を出していやがった。

 徹夜のまなこに朝日が沁みる。

「半分くらいはできてるかね」

 俺はそう独りごちながら、夜通し座っていた椅子から立ち上がって伸びをすると、体の節々がぱきぱきと音を立てた。

 ちびっ娘の体格では900リーブルの毛皮を全部、なんてのは無理だろう。ウチの若い奴にやらせてもかなりキツイ量なのだから。
 ま、しっかりやってりゃ雇い入れてやるか。随分と必死みたいだしな……。



 俺が人を雇う上で一番重視してるのは、読み書きでも算術でも、ましてや体力でもねェ。
 商売で一番大切なのは溢れんばかりの情熱だ。ま、これはどの仕事でも言えることかもしれんがな……。



「さて、様子を見に行くか」

 俺はもう一度伸びをしてから、あいつが作業しているであろう倉庫へと向かった。





「うぉ?!」

 倉庫に広がった予想外の光景に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 乱雑に山積みしてあった毛皮はそのほとんどが、綺麗に整頓されて干されていたのだ。
 元の場所に残っている毛皮は、あとほんの数枚しかなくなっていた。

「これ全部あいつ一人でやったのか?」

 干してある毛皮を確認するが、きちんと伸ばされており、雑に扱った痕跡はない。

 まさかここまでやるとは思わなかった。どうやら口だけじゃあなかったようだな……。
 中々に根性がありやがる……。

「それにしてもあいつは何処にいった?」

 労いの言葉くらいはかけてやるか、と思って辺りを見回すが、倉庫内に人影は見当たらない。

 どうしたものかと考えていると、残っていた毛皮がもぞもぞと動いた。

「うげっ、何だ?」

 おそるおそる、気色悪く動く毛皮は剥ぐと、汗と毛皮の油だらけになったチビっ娘がいた。

「ぐぅ……」
「寝てやがるよ……」

 恐らく毛皮を持ちあげた時に、力尽きてその場でぶっ倒れたんだろう。

「くっくく、大したチビっ娘だな」

 大口を開けて寝ているチビっ娘の能天気な寝顔を見ていると、自然と笑いがこぼれた。
 
 しかしここに寝かしとくのはまずいな……。仕方ねェ、運ぶか。

「どっこいせっ、と」

 その体を持ち上げると驚くほど軽い。ロクに食ってねェなぁ、こいつ。

 なるほど、そういう意味で、命懸け、か。
 その理由は悪くはねェ。飢えた精神ってのは、這い上がる人間には必要不可欠なものだからだ。



 しかし、こいつは案外、イイ拾い物をしたのかもしれねェな……。



「くく、これからガッツリ扱いてやるから覚悟しとけよ」

 俺は腕の中で寝息を立てているチビっ娘にそう言い聞かせると、従業員寮へと歩き出した。

 

 

続く

※あまり設定とかは載せたくないんですが、単位関係についてだけは、後々設定を纏めた物を載せるかもしれません。劇中で○g相当とか説明すると明らかにおかしいので……。





[19087] 13話 first impressionから始まる私の見習いヒストリー
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/09 18:34

 一代で莫大な財産を築きあげ、国家にも多大な利益をもたらした私は、ゲルマニア、いやハルケギニアの商人でその名を知らぬ者はモグリと言われるほどの大商人となっていた。

 そんなある日、私は皇帝アルブレヒト3世からの呼び出しを受け、首都ウィンドボナの皇宮へと参上したのだ──
 


 そして私が今立っているのは、皇帝や宰相、ゲルマニアの中枢を担う高級官僚達が勢揃いした謁見室。
 その内装は御伽噺に出てくる王子様のお城のように煌びやかだ。



 なんてキレイなセカイなのだろう。



「この度、皇帝閣下から直々の召喚を承りまして、馳せ参じましたアリアと申します。閣下におかれましては、ますます……」

 私は皇帝の前で膝をつき、恭しく頭を下げて口上を述べる。

「あれが大商人のアリア女史か」
「さすがというか、貫録が違いますな」
「いや、それよりも美しい。商いの女神とはよく言ったものだ」

 宮廷雀達は、私が口上を述べているのにも関わらず、声をひそめてそんな話をしている。
 
 鬱陶しいわね……。聞こえてるっての。
 ま、いつも言われる事だからもう慣れたけどね。



 口上を述べ終えると、金ぴかに飾り立てた大躯の皇帝は玉座から立ちあがってこちらへ向かってきた。

「大商人アリアよ。よくぞ来てくれたな」

 皇帝は私の肩に、ぽん、と手を置いて、親しげに笑いかける。

 私もついにここまで来たのね……。

「いえ、とんでもございません。私のような者を、このような絢爛な宮殿にご招待して頂けるとは光栄の極みでございます」
「謙遜するな。そなたの数々の功績、まさしく貴き者に相応しい」

 ふ、ふふ。もっとよ、もっと褒め讃えてもいいのよ?

 私はにやけたくなる衝動を必死で抑えて、さも意外であるという態度を取り繕う。

「それはもしや」
「うむ、そなたをゲルマニアの貴族として任命する。これからは国のため、民のためにその手腕を振るってくれ。期待している」

 皇帝は深く頷きながら、力強い口調でそう言った。
 
 駄目だ、もう表情が保てない。にやけた顔を誤魔化すために頭を下げて謝辞を述べる。

「はっ、ありがたき幸せ。私でお役に立てる事があれば、いつでもお申しつけくださるよう」
「ほぅ、良い心掛けだ。では早速やってもらいたい事があるのだが」
「は、何でございましょう?」

 コホン、と咳払いする皇帝。
 “いつでも”というのは建前のつもりだったのだが、すぐに頼みたい事があるらしい。

 ふぅ、やれやれ。貴族というのも楽じゃないわね。



「倉庫に毛皮が山積みになってたろ」
「はぃ?」

 その聞き覚えがある言葉に、私は驚いて顔を上げた。

「朝までにあれを全部日陰干し」
「えぇ?!」

 皇帝はいつの間にかカシミールにすり替わっていた。

「な、なんで?」

 私は訳がわからず混乱し、後ずさる。



 皇宮の謁見室に居たはずの私は、いつの間にか商店の倉庫に立っていた。
 宰相や、高官達が居たはずの場所には積み上げられた大量の毛皮達が……。



「うわわぁ?」
 
 驚愕の声を上げる私。

 それもそのはず。なんと、毛皮達はわらわらと自分で動きだしたのだ!

「ひぃっ」

 まるでよく訓練された兵隊のような動きで、毛皮達は私を取り囲むように陣形を組んでいく。

 私が逃げる事もできずに、口をポカンと開けて腰を抜かしていると、毛皮達が次々と言葉を発し始める。

「商品なんだから乱暴に扱うなよ」
「皺ができないようにきちんと伸ばせよ」
「ほらほら、朝まで時間がないぞ?」
「できなかったらあの吸血鬼に殺されるんじゃない?」
「賤民から商人になろうなんて無理に決まってるし」

 粘ちっこく、厭らしく、腹立たしく私を攻め立てながら、毛皮達は除々に近づく。

 そして獣臭い毛皮達は私に覆いかぶさろうと……。






「来るなぁっ!」
「うがっ?」
 
 ゴチ、と鈍い音がして、頭に強烈な痛みが走る。

「いっつぅ……あれ」

 ふと見ると、ロッテがしかめっ面で額をさすっていた。どうやら頭と頭がぶつかったらしい。

 それよりもここは何処だ、と辺りを見回すが、薄暗くてよく分からない。
 あまり質の良くない、硬いベッドの上にいる事は確かなのだが。
 
「……どうなってるの?」
「うなされていると思ったら、突然跳ね起きをおってからに……」

 うなされていた?
 あぁ、なんだあれは夢だったのか。それにしても欲望丸出しな夢だったな……。

「あと、言いにくいんじゃがの」
「何よ?」
「お主、クサイぞ」
「ちょっと。さすがに言っていい事と悪い事が、って、う、ホントだ……」

 “仮にも”乙女にクサイとは何事か、とカチンと来たのだが、ふと自分の身体から獣の臭いがする事に気付く。
 毛皮の臭いが体に移ってしまったのか。

 臭いだけでなく、感触の方も汗でべとべとしていて、これはさすがに気持ち悪い。
 水浴びするか風呂に入りたい……。

「あ!」

 そこで私はハッとして、思わず声を上げた。

「そうだ、試験!」

 私は試験中だった事を思い出し、がば、と慌ててベッドから飛び出す。

 ヤバイ、非常にヤバイ。
 寝ている場合じゃなかった。まだ課題は終わっていなかったはずなのだ。

「ま、落ち着け。試験は合格だそうじゃ。あの店主、明日の朝から店に来るように、と言っておったぞ」

 狼狽していた私に、予想外の言葉が掛けられる。

「合格?」
「うむ。大体、ここはあの商店の従業員寮じゃし」

 ロッテは親指で部屋の壁を指して言う。

「本当に?」
「本当じゃ」
「というか、それなら何故貴女がここにいるの?」
「……お主、集合場所も決めずにさっさと行ってしまったじゃろう」

 そう言えば。別行動なのに集合場所も決めてなかったし、時間も曖昧だったか。

 本当に就職先が決まったのなら、私としてはロッテとお別れでも良いんだけど。
 ま、そういうわけにもいかないか。

「それで今日になって、あの店主を訪ねたらお主がここに居ると聞いてな」
「今日になって、ってもしかしてずっと寝てたわけ?私は」

 窓から見える外の景色は真っ暗。
 作業中に意識が飛んでから、私は丸一日眠りこけていたらしい。

 しかし寝ている間に合格していたとは、何とも間抜けな話だ。それもロッテから結果を聞かされる事になるとは。

「はぁ、そっか。ま、何とか雇ってもらえることにはなったわけね」

 私は安堵の溜息を漏らして言う。
 課された作業はまだ終わっていなかったはずだが、“東方”の算術が効いたのかもね。



 これで晴れて賤民から平民に戻る事ができたということだ。
 平民といっても所詮は商店の見習いだから、貧民には変わりないかもしれないが。

 何にせよ、これで成り上がりの階段一段目には足を掛けられたのかな?

 こうして寝床もゲットできたわけだし。
 ……ん?寝床と言えば。



「そう言えば貴女は此処に住めるのかしら。カシミールさんに聞いていなかったわ」
「姉という事なら、家賃さえ払えば住んでもいいと言っておったぞ」
「家賃、か。いくらか聞いてる?」
「一人につき月2エキューだそうじゃ。ま、造りはボロいが家賃は安いからの、上等じゃろう。丁度二人部屋なのも都合が良い」

 ロッテは部屋をぐるっと見回して言う。

 月2エキュー……。それって安い、のか?

 私の給金はいくらなのだろう。

 明日、商店に行けば詳しい説明があるのだろうか。というか、何を生業にしている店なのかも聞いていないんだよね。大方交易関係だとは思うけど……。



「ところで貴女の仕事はどうなったの?」
「う」

 思い出したように切り出した私の問いに、ロッテの身体がびくり、と跳ねた。
 
 あ~。やっぱりか。しかし素の状態だと、本当、分かりやすい吸血鬼だわ。

「駄目だったのね……」
「仕方なかろう。碌な仕事がないんじゃもの」

 ロッテはそっぽを向いて気まずそうに言う。一応、仕事は探していたらしい。
 ま、露店のオバちゃんも一緒だったし、怠けられなかったのだろう。

「仕事自体はあるの?」
「あるにはあったが、どれもキツそうじゃし。ほら、妾はデリケートじゃから……」

 もじもじと指いじりをしながら言うロッテ。どこらへんが繊細なのか聞きたい。

 そもそも、仕事なんてどれもキツイと思うんだけど。楽な仕事があったら教えてほしいっての。

「……家賃分くらいは働いて欲しいなぁ」
「えぇい、分かっておる!うるさいぞ!元はと言えば……」

 私がじとりと半眼で睨んで言うと、ロッテは声を荒げて文句を言う。

 逆切れって。あんたは子供かい。
 
「怒らない、怒らない。今度一緒に仕事探しにいきましょう。私からもカシミールさんあたりに聞いてみるから」
「ふん……」

 私の提案にも、不貞腐れた態度で返すロッテ。

 本当、面度臭いな、この姉は……。

「ま、私は水浴びしてくるから。その間に機嫌を直しといてよ」
「おぉ、そうしろ。上から下まできちんと洗う事じゃな。部屋が臭くてたまらんからの」
「はいはい、ご迷惑おかけして申し訳ありませんね」

 とまあこんな言い合いをしながら、私とロッテの新生活のスタートとなった夜は更けて行った。





 そして翌朝。

 私は東から顔を出したばかりの太陽の光を背に受け、欠伸を噛み殺しながら、カシミール商店へ向かって出発した。

 朝に来いと言われても、いつ頃かわからないので、とりあえず私は日の出と同時に寮を後にしたのだ。

 初日から遅刻してはまずいしね。
 多分早すぎるだろうけど、開いていなければ門の外で待っていればいいだろう。



 新しいコミュニティに入る時は、第一印象が大事。
 そこで印象が悪いとなると、後々までそのイメージが響いてしまう。

 やる気がある新人、というところを見せなくてはね。



 ロッテの方は今日も仕事探し(の予定)だ。

 彼女の容姿は確かに優れているが、それを武器にして職探しをすると、どうしても性風俗というか、ソッチ関係の仕事になってしまうようだ。
 確かに、私もそっち系の肉体労働はご遠慮願いたいものである。まぁ、酒場で働くとかはいいけど、売春系はちょっとね。

 そして容姿に関係ない仕事といえば、あまり人がやりたくないような仕事、つまり貧民や賤民が生業としているような、掃除人(拾い屋)、ポーター(荷物持ち)、その他、単純肉体労働の作業員くらいしかないという。

 これらの仕事は、他の職業と比べても、3K(危険かどうかはわからないが)な仕事である上に、身入りも非常に少ない。
 年収にして60エキュー程度(つまり月給は5エキュー前後という事になる)しか稼げないそうだ。
 
 誰でもできるような仕事は安いという事だろう。

 ま、確かにロッテにも沢山稼いで貰った方がいいだろうし、昨日言った通り、カシミールにいい仕事がないか聞いてみるか。

 ロッテは読み書きが出来るんだし、顔の広そうなカシミールならば何かいい仕事を知っているかもしれないからね。





 さて、私が商店に着くと、すでに坊主頭の少年が店の前で箒をかけていた。
 
 あちゃ、私が一番乗りじゃなかったのか。

「おはようございます!今日からこちらでお世話になる事になったアリアといいます」

 元気に声を張り上げて頭を下げる。
 新人は元気が一番、ってよく言うしね。

「あれ?お前、昨日の」
「はい」

 坊主頭は怪訝な顔で、じろじろと私を観察する。
 こいつ、やっぱり失礼な奴……。

「世話になる、ってもしかしてここの見習いって事?」
「はい、そうです」

 嫌なヤツだが、ここで怒ってはいけない。笑顔、笑顔。

「おいおい、まじかよ。親方もこんなのを雇うなんて、目が曇ったんじゃ……」

 坊主頭は、私が雇われたのがよほど信じられないのか、頭を抱えて嘆きの言葉を口にする。
 


 さすがにちょぉっと、ムカついてきちゃったかな……。



「誰の目が曇ってるって?」

 私がぷるぷると震えだした握りこぶしを必死に抑えていると、坊主頭の後ろから重低音の声がした。

「あっ、親方……。いや、その、それは言葉のアヤというか」
「この馬鹿たれ。お前もまだ見習いをはじめてから1年も経ってねェだろ。仲良くしやがれ」

 しまった、という顔をしながら言い訳する坊主頭に、カシミールの拳骨が落ちた。

「あだっ、すいませぇん」

 もんどり打って情けない声を出して謝る坊主頭。
 ふっふ、いい気味。

「それじゃ、お前らも中に入れ。皆にコイツの紹介をしなきゃいけねェからな」

 カシミールは私の頭に、ゴツい手を置いて指示を出した。
 
 って、聞き逃せない事が。

「え、皆って。もう皆さん出勤しているんですか?私が一番乗りかと思っていたんですが……」
「あぁ、店の掃除やら何やらの作業があるからな。正規の駐在員はもう少し遅いが……。見習いは日の出前に仕事を始めてるぞ。ま、初日だから大目に見るが、明日からは遅刻しないようにな」

 そう言ってカシミールは店の中に入っていく。

「け、いきなり遅刻とはね」

 坊主頭は殴られた腹いせのように捨てゼリフを残してカシミールの後に続いた。
 まぁ、それを言った後、また拳骨を貰っていたけど……。

 しかし、日の出前だって?
 そんなアホな。農民時代ですらそこまで早い事はなかったのに……。
 


 がっくりと肩を落としながら店の中に入ると、1階の倉庫内では、3人程の若い男が、なにやら羊皮紙とペンを持って作業している。
 どうやら品数を数えたり、秤を使って計量をしているようだ。帳簿との合わせか何かだろうか。

「よし、一旦作業ヤメ!」

 カシミールがぱんぱん、と手を叩いてそう言うと、3人はすぐに手を止めてこちらを振り向いた。

「今日は新入りを紹介する。お前らも自己紹介してやれ」

 カシミールは私の背中を押して、前へと突き出す。

 遅刻はしてしまったが、ここできちんと挨拶だけはしておかないと。

「はじめまして、トリステイン出身のアリアと申します。若輩者ですが、よろしくお願いします!」

 お願いします、と同時に最敬礼すると、一番年長っぽい優しげな顔の青年がぱちぱちと拍手をしてくれた。
 おぉ、この人はいい人っぽい。



 私の挨拶が終わると、年長の青年は他の見習い達に目配せするが、隣の二人組は無表情に佇み、坊主頭は腕を組んで不機嫌そうにして口を噤んでいる。

 青年はふぅ、と諦めたように息を吐くと、その雰囲気を打破するかのように明るい調子で喋り始めた。

「えぇと、じゃあ僕から。見習いのリーダーをさせてもらっているエンリコといいます。歳は17歳で、ここに務めて4年ってところかな。わからない事があったら何でも聞いてくれて構わないから。よろしくね」

 そう言って爽やかな笑みをこちらに向けるエンリコ青年。

 その容姿はなかなかの色男だ。
 錆色の髪を後ろで纏めており、一歩間違えれば女と見間違えてしまいそうな顔立ちをしている。

 この人がリーダーなら安心か、な。

「ほら、次は君達でしょ」
「……ギーナ」
「……ゴーロ」

 エンリコが隣でぼぅっと佇んでいたノッポの二人組を小突いて発言を促すと、ぼそぼそと名前だけを呟いた。

 なんか暗そうな人達だなぁ……。
 
 カシミールもその無愛想な様子を見て、頭痛がするように額を抑える。
 注意しないところを見ると、そういう性格だと思って諦めているのか?

 というか、この二人。顔も体型もそっくりだ。
 揃ってひょろりとした長身に浅黒い肌、切れ長の目。

「ごめんね、この二人はあまり喋るのが得意じゃないんだ。見ての通り双子の兄弟、歳は14歳。見習い歴2年ってところかな。無口だけど悪い人達じゃないから安心してね」

 エンリコが喋るのが苦手らしい二人に代わって紹介すると、双子は揃って小さく頷く。
 よろしく、という意味の頷きなのだろうか。
 
 でも口下手って商人としてまずいんじゃ……。沈黙は金なりとは言うけれども。



 貴族の間では忌み嫌われるという双子だが、平民の間では、双子だからといってどちらかを殺したり、幽閉したりすることはない。

 オンの農村にも双子の兄弟、姉妹は普通に存在していた。

 貴族の双子嫌いは、その社会的地位や財産の相続問題から発生したものであると思われる。
 つまり後継ぎ候補が双子だった場合、将来相続を行う時、争いの火種となる可能性が高いのではないか。

 見た目も能力も似通っている者が多い上、先に堕ちたのが兄なのか、それとも後に堕ちた方か、それすらも人によって解釈が異なるのだから、争いが起きるのは必然といっても過言ではないだろう。

 爵位持ちの貴族だった場合は特に、家を継げるか継げないかで、その貴族の人生は大きく変わってしまうのだから。
 
 家を継げなかった者は、自分自身で叙勲でもされない限り、爵位も領地も無い下級貴族となってしまうのだ(それでも平民の平均年収の5倍近い年収を得る職には就けるのだけれど)。

 だからといって土地を割って兄弟に分け与える事は、常識のある貴族ならば絶対にしないだろう。

 公爵とかそういう上の上である貴族家の子息であれば、家を継げなくても、子爵という地位があるトリステインのような国もあるが、“たわけ者”という言葉がある通り、通常の貴族にとって、領地を割って兄弟姉妹に分け与える事は愚か者のする事なのだ。



 だが、このような相続問題は平民に関してはあまり当てはまらない。
 平民は土地を持たないし、爵位という公的な地位もないからだ。

 平民の相続といえば、せいぜい貯めた財産や、商人ならば自分の店に関しての事程度で、何もそこまでして双子の片方を抹消する必要はないのだ。



「最後はお前だ。さっさとやって仕事に掛かるぞ」

 私が双子についてあれこれ考えを巡らせていると、今度はカシミールが口を噤んでいた坊主頭を促した。
 
 何故か理由はわからないが、私はこの坊主頭に嫌われているっぽい。

「……俺はフーゴ。へ、せいぜい迷惑を掛けないようにしろよな、ちんちくりん」

 偉そうに腕を組みながら、すごい上から目線で言う坊主頭ことフーゴ。
 
 それを見たカシミールはつかつかとフーゴへと歩み寄り、ごつ、と拳骨が落とされた。

「まったく、お前は何回言ったらわかるんだ」
「うぐ、すいませぇん!」

 三度、同じ事をして殴られるとは。
 学習能力のないヤツね……。

 カシミールがフーゴに説教をし始めると、エンリコがこちらにやってきて、私に耳打ちした。

「見苦しい所を見せちゃったね。ただ、彼はプライドが凄く高いだけなんだ。あまり嫌わないであげてね」

 エンリコはウィンクしながら、「頼むよ」と念を押す。
 見習い同士の人間関係にも気を使うとは、リーダーというのも大変だ。

 それにしてもプライド、ね。

 まるで貴族みたい。エンリコには悪いけれど、正直、フーゴに関しては好きになれそうにはない。

 ま、仕事に支障が出ない程度の付き合いにしておけばいいか。



「よし、見習いに関しては、全員覚えたな?」
「はい、何とか」

 説教を終えたカシミールは、私に向き直って確認を取った。
 この商店の見習いはこれで全部らしい。思ったよりは少ないかな?

「あとは経理と買付担当の正規駐在員が一人ずつと、連絡員が数人いるんだが……。ま、今はいねェし、後でもいいだろう。一緒に仕事するのはこの4人だからな。仲良くやれや」
「わかりました」

 カシミールの言葉に私はコクコクと頷いて了解の意を示した。
 
 他にもここで働いている人はいるらしいが、今は不在らしい。
 駐在員ってさっきも言ってたけれど、従業員の事だろうか。それと連絡員っていうのも謎だ。あとでエンリコにでも聞いておこう。



「じゃ、エンリコ。早速コイツに仕事を教えてやってくれ。男だと思ってビシバシしごけよ」
「はは、わかりました」

 カシミールはエンリコにそんな事を言いつける。

 なんて余計な事を言うんだ、この人は。
 
「お、お手柔らかに」
「緊張しなくても大丈夫。とりあえず、帳簿と現物の合わせからやろうか」
「あ、はい。あの……その前にお聞きしたい事が」

 私を引っ張っていこうとしたエンリコは、早速の質問に足を止めて、笑顔でこちらに振り返る。

「何だい?」
「この商店って一体何をしている所なんですか?」

 私としては当然の質問だった。

 のだが。

「…………は?」

 振り向いたエンリコの表情は笑顔から引き攣った表情に変わっていた。

「えぇと、それってどういう……」
「あ、と。ご、ごめんなさい」

 何かまずい事を言ったのだろうか。慌てて謝るが、場に何とも言えない空気が流れている。
 あぁ、背中に嫌な汗が……。

「おい、本気かよ。ばっかじゃねぇ?」

 フーゴがあきれ顔で私を見る。
 
「……すごいね」「……大物かも」

 双子はぼそぼそと二人で喋りながら、不思議そうな顔で私を眺める。

「……」

 そしてカシミールはあんぐりと口を開けて固まっていた。



 私の第一印象によるイメージアップ作戦は、初日からの遅刻、そして後から冷静に考えれば、あり得ないこの発言によって、あえなく潰えてしまったのだった。





つづく






[19087] 14話 交易のススメ
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/20 20:16
 長い初日の仕事が、終わった。

「うぅ……ずびばぜん……」
「気にしなくても大丈夫。初日はみんなそんなもんだよ。かく言う僕も最初はしょっちゅう裏で吐いていたからね、はは」

 膝に手を付いて謝る私。本当、もう吐きそうです……。
 エンリコは私の肩をぽん、と叩きながら気を遣ってくれる。

 やっぱりいい人だなぁ。そこに痺れる、憧れるゥ!ってやつだね。
 美形だし、さぞかし女にモテる事だろう。

 でもその気遣いで余計に情けなくなってしまったり。実際、私は役立たずだったのだ。



 さて、私の仕事はやはり単純作業がほとんどだった。

 当然だが、私自らが取引を行ったり、契約書を作成したり、お金の管理をしたりするような事はない。

 ちなみにそれを行っている駐在員と呼ばれる正規の従業員には、今日は会えなかった。
 買付担当の人はずっと外回りをしているというし、経理兼公証担当の人は部屋に籠りきりで、一度も出てこなかったのだ。



 見習い《ガルツォーネ》の一日は、まず早朝の在庫確認から始まる。

 計量に関しては、数で数えるもの、天秤に乗せて重さを量るもの、物差しのような棒で長さを測るものなど様々だ。

 これについては、単位についてエンリコに説明してもらいながらの作業となった。



 一般的なハルケギニアの単位が統一されているかどうかはわからないのだが、商業的な単位としては、基本的にどの国でも、ガリアのシャンパーニュ地方を発祥とする、トロイ衡とよばれる度量衡を用いているそうだ。
 一部アルビオンの年寄り達は独特の単位を使うらしいが、詳しい事はエンリコも知らないという。

 まぁ、単位がはっきりしていないと商業取引なんてまともにできないものね。



 長さの単位はリーグ、メイル、サント。

 これは一般に使っている単位と変わりない(リーグは商業取引ではまず使わないけれど)。
 サント以下に関しては1/10サントなどと分数で表わし、サント以下の単位は存在していない。

 小数については概念自体がないようで、私が布地を計量している時に、うっかり「10.4メイルです」と口にしたところ、皆一様に、「何それ?」という顔をしていた。
 とりあえず「“東方”の数字の数え方です、てへ」とか言っておいた。

 いやぁ、東方って、ほんっとうに、いいものですね。



 重さについてはトロイリーブル、トロイオンス、グレイン、それにサン・ポワという単位が用いられる。

 リーブルは“天秤”という意味があり、一般的にもこの単位が使われているが、トロイ衡では通常のリーブル単位のおよそ5分の4程度の重さとなっている。
 きっとシャンパーニュの商人が物の量を誤魔化した事が発端なんじゃないの?と勘ぐってみたり。

 オンスは“1/12”という意味。その名の通り、リーブルのおよそ1/12に当たる。

 グレインは“大麦の一粒”が語源で、非常に小さな単位であり、金などの少量で価値が高いものを計量する時に用いられる。

 サン・ポワは“100倍の重さ”という事で、リーブルの100倍の重さを示し、大口の取引の時に使われるそうだ。

 いつか私もサン・ポワ単位で金銀財宝を取引するような大商人になるのだ。ふふふ。



 そしてそれらの合計などを計算する時は、頭で計算するだけではなく、倉庫の隅に仕切られたスペースに備え付けられている算盤《アッパゴ》というものを使用する決まりとなっている。
 これは様々な色のついた球を盤に並べていくことで、誰の目にも間違いがないか確認できるようにするものであり、金銭の取引の際にも使用される。
 私塾で算術を教えるときにもこういったものを使うらしい。まさにソロバン教室、と言った所か。



 さて、在庫確認の時は「これくらいなら私でも十分やれる」と思っていたのだけれど、甘かった。ベリータルトの100倍くらい甘かった。

 少し日が高くなって来た頃から、連絡員と呼ばれる人達や、個人の行商人(遍歴商人というらしい)がひっきりなしにやってくるようになり、それとともに殺人的な忙しさが襲ってきた。

 彼らの応対は、カシミール、いや“親方”か、エンリコあたりがやっており、私の出る幕はなかったのだが、彼らは一様に大きな荷物を抱えてやって来る。
 さらにその中には、商店の中から別の荷物を持っていく者もいる。

 その荷物を移動させたり、整理したりするのは私達見習いの仕事なのだ。
 
 そして、これが本当、半端なく重いものが多い。

 羊毛や銀鉱石がみっちりと詰まった箱、どでかい穀物袋や塩の袋、香料や酒の詰まった瓶のケース、家具なんかは言わずもがなである。

 どう考えても一人で持てるようなモノではないのだが、エンリコや双子くらいになると、ひょい、という感じで、軽々と持ち上げてしまう。
 坊主頭ことフーゴは小柄なのもあって、私と一緒で苦戦しており、「人に言う割には大した事ないじゃん」と心の中で舌を出したものである。

 また、行商人や連絡員が連れてきた馬の世話などもあり、休んでいる暇は全くなかった。



 そしてそのラッシュが終わると、もう夕刻。

 当然昼ごはんを食べる余裕はないのだが、ラッシュが終わってから、見習いの者が全員で賄いを作る。

 これは結構楽しい作業だ。自分達が食べる物なので、それほど気を使わなくてもいいしね。
 まぁ、荷物運びと整理のせいでグロッキーだった私はあまり喉を通らなかったんだけど……。

 賄いを食べ終わると、最後にお掃除タイムが待っている。

 これが終われば、一日の仕事は終わりという事になるのだが、商店はとにかく広いので、かなりの時間がかかるし、重労働となってしまう。





 全てが終わった今の私は、溶けたバターのようになっており、外はすっかり暗くなっていた。

 明日筋肉痛になっていなければいいのだけれど……。間違いなくびっきびきになっているだろうなぁ。

「アリアちゃん、これから時間あるよね?」
「え、はい。大丈夫ですけど」

 エンリコがへたって座り込んでいた私に話しかける。
 おや、まさか歓迎会とかしてくれるのかな?と私はボケた事を考えていた。

「いや、朝の質問にも答えていなかったし、折角だから見習いのみんなで勉強会でも開こうかと思ってるんだけど、どうかな?」
「あ!そ、そうでした。お願いします!」

 私は馬鹿です。本当にすいません。

 そういえば、“あの”朝一で空気を凍らせた質問にはまだ答えてもらっていなかったのだ。
 まぁ、今日一日の仕事で交易を生業にしている商社だろうという当たりはついているけど、詳しい事は全くわかっていない。

「よし、それじゃ黒板のある部屋……うん、いつも通り経理部屋がいいな」
「でも経理に使う部屋って大事な書類とかあるんじゃ」

 経理ということは帳簿やら何やらもあるはずで、見習いの私達が入るのはまずい気がする。

 それにしても黒板があるのか。あれって魔法学院とかにしかないものだと思っていたけど違ったのね。

「いや、ヤスミンさんが帰る時に、帳簿や大事な物は親方の部屋に全部持って行っちゃうから大丈夫だよ」
「ヤスミンさん?」
「あぁ、経理担当の駐在員をやっている人だよ。アリアちゃんが来る前は、この商店で唯一の女性だったんだけど」
「女性なんですか?でも商人って男の世界とか聞いたんですが」

 親方、女の人もしっかりといるじゃないですか。

「あの人は元々商人じゃなくて算術の私塾をやっていた人だからね。かなりの変わり種だよ。性格の方も少し変わっているけど、ね」
「あ、そうなんですか……」

 女商人なら話を聞いてみたいと思ったんだけどなあ。
 しかし人当たりのいいエンリコが顔を顰めるとはどんな人なんだか。

「じゃあみんな経理部屋に集合ね」

 エンリコはギーナ・ゴーロ兄弟とフーゴに向かって言う。

「……了解」「……先に行ってる」

 双子はコクリと小さく頷いて、二人でさっさと行ってしまった。
 うーん、二人の世界という感じだろうか。仲のいい兄弟だ。

「エンリコさん、俺もっすか?」
「ん、フーゴ君は何か用事があるの?」
「いや、特にはないっすけど……でも今日の勉強会はコイツのためなんっすよね?」

 私を指さして嫌そうな顔で言うフーゴ。そんなに私が嫌いか。

「うん、そうだけど。君のためにもなると思うよ?人に教えると言う事はその人の三倍は知識がなくちゃいけないからね」
「でも」
「まさか来ないなんて言わないよね?」

 エンリコは笑顔でフーゴの肩を掴む。その腕には太い血管が浮き出ており、ぎちぎちという音が聞こえてきそうだ。

 いいぞ、もっとやっちゃえ!

「わ、わかりましたよ。行くっす、行きますから!」
「よしよし。同僚の輪を乱しちゃいけないからね」

 涙目で肯定の意を示すフーゴに、エンリコが満足そうに頷く。

 普段温厚な人ほど怒らせると怖いというのは本当だ。私は怒らせないようにしないと……。

 若干エンリコへの恐怖を覚えた私だったが、初めての“勉強会”は、見習い全員参加で行われる事になった。





 さて、カシミール商店の“勉強会”。今日は臨時ということだが、普段は週末に親方や正規の従業員が講師となって行われているらしい。

 商店の見習いをしている者は、独立を目指す者、実家の商売を継ぐための修行に来ている者、そのまま正規の従業員として雇われる者、の三者に分けられるだろう。

 私は当然、独立を目指す者だ。
 他の見習い達はどうなのか、今のところはわからないが、どの道に進むにせよ、商人としての知識は非常に重要。

 そこで、カシミール商店では私塾では教えられないような商売のテクニックや、国際情勢、金融取引などの議題を取り上げて、議論形式で勉強していくそうだ。



 きちんと若手を育てる意志が見える辺り、この商店は“当たり”なのだろう。



 今回の勉強会に関しては他の見習い達による私への講義、という感じみたいだけどね。

 いや、本当貴重な時間を割いてしまって申し訳ないです……。
 

 
 私達が集まった経理部屋と呼ばれる2階の部屋には、エンリコの言うとおり、帳簿と思われるような書類は一切なかった。
 そのかわり、筆記具や紙が乱雑に散らかっており、インクで汚れ放題になっている事務机が痛々しい。

「また散らかしてるなぁ。この前の週末に掃除したんだけど……」

 エンリコが部屋の惨状を見て端正な顔を歪める。
 双子はやれやれ、と言った感じで肩を竦めて首を振る。
 フーゴは深く溜息をつく。

 この部屋の主のヤスミンさんは結構ずぼらな性格のようだ……。
 算術の先生をしていたというし、学者肌の人(悪く言えばやもめのような生活をする人)なのかもしれない。


 
「では今日の勉強会を始めます」

 私を含む他の見習い達を席につかせて、黒板の前で開会宣言をするエンリコ。いや、先生。

 双子は無表情に拍手をし、フーゴはふくれっ面で面白くなさそうにしている。

「さて、では最初にアリアちゃんに問題です」
「えっ」
「商売の基本とは何でしょう?」

 開幕早々、漠然とした質問を投げかける先生、エンリコ。

「う~、モノを作って売る事です?」

 自信無さげに答える生徒の私。でも間違ってはいないはず……。



「ぷっくくく、さすがちんちくりんの百姓は言う事が違うな!」

 フーゴは私の答えを聞いて腹を抱えて笑いだした。

「……職人向き」「……確かに」

 双子にまでそんなことを言われる始末だ。

 えぇ、違うの?『僕』の知識によると、モノ造りが全ての基本だって……

「はい、みんな茶化さないように。ただ、確かにアリアちゃんの答えはちょっと違うかな」
「うぅ」
「ただ、北部の人だとそういう考え方をする商人もいるからね。完全に間違いって訳ではないよ」

 エンリコはソフトに言ってくれているが、やっぱり間違いは間違いらしい。

「エンリコさん、甘いっすよ……」
「それじゃ、フーゴ君。答えを言ってみて」
「ういっす。商売の基本は“取引する双方が等価の物を交換し、双方が利益を出す”です。わかったか、ちんちくりん」

 得意げにふんぞり返って言うフーゴ。でもそれってどういう事?

「はい、フーゴ君正解。でも一言多いから気を付けるように。どう、アリアちゃん、わかった?」
「えぇと、つまりどういう事でしょう?」
「分かりやすく言うと、“その時、その場所で等価のもの”を交換し、その差益によって両方が得をしようという考え方の事。……そうだなぁ」

 未だ理解していない私の表情をみて、エンリコは少し首を捻って考えた後、黒板に図を描いて説明をする。

「例えば、アリアちゃんが湖のほとりに居たとします。その時に水を買いませんか?と言われたらどう?」
「無視、しますね」
「だよね。いくら安くても水がいくらでもあるような所では絶対に水は売れない。じゃあ砂漠で何日も彷徨っているところで同じ事を言われたらどうかな?」
「あっ、なるほど……そういう事ですか」

 私はポンと、手を叩いて納得する。さすがエンリコの説明は分かりやすい。

 つまり、需要と供給の関係を上手く活かして儲けようという事か。

「でも双方が得をする、というのは?自分が儲ければいいんじゃ……」
「……相手の利益を考えないと」「……商売は長続きしない」

 今度は双子が私の質問に答える。静かだが、諭すような口調だ。
 自分の事だけってのはダメってことか。なかなか難しいものだなぁ。



「はい、と言う事で、その考えを基本としているこの商店は遠隔地商業、つまり交易を生業としている商社です。これが朝の質問の答えだね」
「あ、やっぱりそうなんですか」
「ただ、この店は商社といっても、本店というより支店的なものに近いけどね」
「支店、ですか?」

 本店?支店?え、ここって親方の店じゃないの……?

「そう。商社というのは、個人の遍歴商人、つまり行商人だね。彼らとは違って、定住したまま遠隔地取引をするんだけど、その時に一番重要なのは、はい、フーゴ君どうぞ」
「えと、“正確かつ迅速な情報”っすね」

 うーん、即答できるとは、さすがにフーゴも威張るだけあって知識はあるんだなぁ。

「その通り。そういう訳で、大商会になればなるほど、国内外にたくさんの支店や代理店を置いて、その情報を集めようと躍起になっているんだよ。その情報を伝えるのが連絡員の役目ってわけ。単に荷物を運んでいるわけじゃないってことだね」
「情報っていうのはどういうものなんですか?」
「物価相場の変動もあるし、社会情勢の変化、地域で起こった出来事とか色々だね。例えば、ロマリアで新教皇の選挙があるだとか、ゲルマニアの東で飢饉が起こったとか、アルビオンで反乱の兆しアリ、とかね。そういう情報は商人にとっては全て儲け口になるんだ」

 アルビオンで、のあたりでビクリ、としてしまう私。
 それって“原作”の、アレだよね……。まさかそんな情報まで既に掴んでいると言うのか?!



「……飽くまで例え」「……反乱なんて起こらない、大丈夫」

 双子が青い顔をした私を慰めるように言う。
 いや、そういう意味で青くなったわけではなくて、商人達の情報収集力に驚いたと言うか。

 でもこの二人、実は中々イイ奴なのかもしれない。ちょっとイメージアップかな。

「はは、例えがちょっと物騒だったね。ごめんごめん。……まあ、この商店はそういう大商会の支店みたいなものって事だよ。完全に傘下というわけではないんだけどね」

 ふむ、支店のようなものだからこそ、“駐在員”と“連絡員”というわけか。
 
「その大商会っていうのは、もしかしてツェルプストー商会とか?」
「おいおい、ケルンにツェルプストー商会の本店があるのに支店があるわけねーだろ。少しは頭使えよ」

 フーゴが横から馬鹿にしたように口を出す。
 く、いちいち突っかかって来るなぁ。だって私はそれしか大商会なんてしらないんだもん。

「フーゴ君、駄目でしょ。ツェルプストー商会は、ウチの最大の取引先だね。ケルンのあるゲルマニア西部は彼らのテリトリーだから、西部の特産である穀物や食料品、それと諸外国からの輸入品は、ツェルプストー商会から買付しているよ。逆にウチで扱っている銀鉱石や、羊毛、羊皮紙、絹、毛皮、馬なんかはそっちに卸しているから、持ちつ持たれつといった感じかな。南部と西部は同盟を結んでいるしね」

 何と、ツェルプストー商会は取引先なのか。しかし同盟とは何だろう。

「南部と西部、と言う事は、この店は南部の大商会の支店?」
「そうそう。南部のアウグスブルグを本拠地としているフッガー商会。カシミール商会の正社員《ファットーレ》名簿にもフッガー伯の名前があるし」

 は、伯爵、ですと?!

「せ、正社員ということはその方もこの商店に、き、きちゃったり?」
「そんなわけ無いだろ。正社員ってのは従業員じゃなくて出資者って意味だし。つーか貴族くらいでいちいちビビってんじゃねーよ、みっともねぇ」

 フーゴは嫌悪感を隠そうともせず、吐き捨てるように言う。
 ありゃ、こいつは貴族嫌いなのかな?

「うん、言い方は良くないけどそう言う事。ゲルマニアじゃ貴族が商売に出資するのは普通だしね。ゲルマニアの四大、いや五大商会組合《アルテ》の代表者も、全て商会を経営してる貴族だし。それで他国から“商人の国”とか“野蛮”なんて言われているみたいだけど。まぁ金回りのいいゲルマニアに対するやっかみが半分だろうね」

 へぇ、貴族が先導して商売をしているのか……。むぅ、これは成り上がるのも大変そうだなぁ。
 しかし、色々とよく分からない単語が出てきたなぁ。



「ゲルマニアの五大商会ってなんですか?というかアルテって……」
「そうだね。そこから説明しなきゃいけなかったか。商会組合(アルテ)っていうのは、ゲルマニアがまだ統一されていなかった頃の都市内商業組合(コムーネ)が前身となっているんだ。ロマリアなんかではまだこのコムーネが現役だね」

 そういえば、ロマリアは今も都市国家の連合国だったわね。貧富の差が激しいはずだけど、商売は栄えているのかな?
 海上貿易が存在するのなら、地理的には商売が最も栄える土地のはずだけれど……。

「つまり都市毎にある商人の集まりのようなもの?」
「さすが、アリアちゃん。飲み込みが早いね。ただ今は都市毎というよりは、地方毎、つまりゲルマニアの東西南北、それと中央のアルテの5つに統一されている。だからこれを五大商会アルテと呼んでいるんだ。ちなみに、ゲルマニアでは、アルテに属していない商人は商人として認めれられない」
「えっと、認められないとどうなるんです?」
「モグリの商人じゃ、仕事を回してもらえないだろうね。他にも、都市部で商売をする許可が下りないし、他の商人と取引もできない。アルテに所属するのに大金がかかるわけじゃない。遍歴商人だって所属してるし。それに属していないということは信用されないのは当然さ」

 つまり、商会組合(アルテ)に属していないような商人は怪しい奴しかいない、という事か。
 アルテは商人の身元保証をしてくれるらしい。

「この商店はどこのアルテに属しているんですか?」
「良い質問だね。カシミール商店は西部にあるけれど、フッガー家の資本が入っているし、親方は元々、南部の人だからアウグスブルグ商会アルテに属しています。ちなみにフーゴ君も南部出身だね。ギーナ君とゴーロ君は北部、僕はここ、西部が生まれ」

 ふむ、所属するアルテがどこかっていうのは、その店が建っている場所よりは出資者の出自によるところが大きいという事か。

 それにしてもみんな色々な所から来ているのね。私に至ってはトリステインだし……。
 


「ところでアリアちゃんは将来的にはどうするつもり?トリステインからわざわざここに来たってことは独立を目指しているのかな?」
「あ、はい、そのつもりです」

 ま、ゲルマニアに来た理由は、能動的なものではないのだけれど……。
 これは秘密にしておこう。さすがに口入屋に売り飛ばされたとは言いたくない。というか、言ったらフーゴあたりは奴隷女とか言いそうだし……。

「け、お前みたいなちんちくりんが独立できるんだったら俺はとっくに独立してらっ?!ちょ、ギーナさん、ゴーロさん!や、やめっ」
「……人の目標を笑うのは」「……よくない」

 茶々を入れたフーゴを、双子がタッグ技で締め上げる。
 “目標”というところに若干力が籠っていたので、もしかすると何か思うところがあるのかな。

「だったらなおさらゲルマニア国内の商業地図を覚えておいた方がいいね。モノの流れを、五大アルテの関係と照らし合わせてみようか。それで今日はお開きにしよう。国際取引に関しては少し難しいからまた今度ってことで」
「あ、はい」
 
 エンリコは未だに締められるフーゴを無視して、そう提案すると、黒板に何やら図を書き始める。



「大体こんな感じの関係かな」

 エンリコがチョークを置いて手をぱんぱん、と叩く。



                                   北部 ハノーファー工業商会組合 リューネベルグ公爵
                                   (毛織物、衣類、武器、フネ、火薬、鍛冶、細工、馬具、家具、生活用品) 

                                                     ↓                             ↑↓
西部 ケルン交易商会組合 ツェルプストー辺境伯  → 中央 ウィンドボナ中央金融・商取引組合 皇帝アルブレヒト3世 ← 東部 ドレスデン資材商会組合 ザクセン=ヴァイマル辺境伯
(穀物・食料品・酒・塩・香料・輸入品全般)                                                   (鉄鉱石、黄鉄鉱(硫黄)、銅、魔法石、木材、木炭、石炭)
                      ↑↓                            ↑       
            
                                   南部 アウグスブルグ自由商業組合 フッガー伯爵
                                   (銀、羊毛、羊皮紙、家畜、絹、毛皮、蜂蜜)



 黒板に書かれたのはこんな図だった。さすがに覚えきれそうにないので、羊皮紙を一枚貰って板書する。

 まぁ、私はまだ字が読めないので結局エンリコに読ませてしまったが……。



 当然だが、地方によって特産品が異なっているようだ。

 まず、ガリア、トリステインに隣接する、ここケルンを中心とした西部は、国際交易による輸入品全般が目玉。
 それと肥沃な穀物地帯を持っているため、ゲルマニアの食糧庫にもなっている重要地域だ。
 国際交易をするつもりならば、西部と相場は決まっているらしい。う~ん、やっぱり私が独立する時に所属するのはここがいいかしらね。

 そしてこの商会が属しているアウグスブルグを中心とするらしい南部は、ハルケギニアでも有数の銀鉱脈を持ち、それが目玉となっている。
 他に、新興産業として、羊、馬などの牧畜や、養蚕、養蜂を行っているという。
 東方じゃなくても絹はあるんだね。というか当たり前か。貴族の着る服って大体シルクだし。

 次に工業都市が多く存在する北部。ここはゲルマニアの目玉である工業製品を売り物にしている。
 工業製品ならなんでもござれで、商人と職人の結びつきが強く、メーカー的な要素が強いという。
 『僕』の知識を活かすなら北側の方がよくない?なんて思ってしまう。

 最後に鉱山、炭鉱、林業地帯となっている東部。悪く言うと田舎なのだが、ここがゲルマニアの縁の下の力持ちといったところではないだろうか。
 何せ、鉄、銅、硫黄、木材など工業的に重要なものが大量に採掘されているらしいのだ。
 最近では炭鉱も開発されているらしく、非常に安定した実績を挙げている地域でもある。
 ま、お堅い分、新参者には少し厳しい組合みたい。



「これって、北と南とか、東と西の交易はウィンドボナを通るという事ですか?」
「うん、アルテ同士で同盟を結んでいる南と西、それと北と東は直接取引をするんだけどね。それ以外は一度ウィンドボナを経由する事になっている。だからウィンドボナには各地の物産が全て集まっている、というわけ」

 私の質問にエンリコはすらすらと答える。さすがとしか言いようがない。

 それにしてもなるほどなぁ。これも中央集権化政策の一環なのかもしれない。
 モノが皇帝直轄の都市であるウィンドボナに溢れているということは、それだけ皇帝の力を示す事にもなるしね。

「それと、中央の金融取引組合っていうのは一体?皇帝が出資者なんですか?」
「あぁ、大分昔に高利貸しが問題になったことがあってね。その時は貴族が随分破産して没落したらしい。その対策として、金貸しの規制をするために、皇帝の許しを得た商人以外は金融業ができない事にしちゃったんだ」

 逆に言うと、一番美味しいところは皇帝が握っているという事になる。

 ゲルマニアの皇帝は他国の王より格下といわれているけど、こういうところはしっかりしているよなぁ。

 他国の王室はどうなっているんだろう。

「それにしても完全に組織化されているんですね、正直ちょっと意外でした」
「ま、ゲルマニアは新興国と言われてはいるけれど、それなりに歴史はあるしね」

 まぁそうだよね。実際他の国が長すぎなだけだよねぇ。
 6000年って……。10倍くらいサバを読んでいそうな気がする。

「さすが“商人の国”ですね。すごいです」
「へ、弱小国のトリステインなんかとは格が違うからな。格が」

 フーゴが私の褒め言葉に気を良くしたのか、胸を張って自慢する。
 君を褒めた訳じゃないから勘違いしないようにね。
 


「じゃ、今日はここまでにしとこうか。少しはためになったかな?」
「えぇ、凄くためになりました!ありがとうございます」

 講義が終わった後、窓から外を見ると完全に真っ暗で、道を歩いている人はほとんどいなかった。

 私はエンリコだけでなく、双子にも頭を下げる。無知な私のためにわざわざ時間を割いてくれたのだ。感謝せざるを得ないだろう。

 フーゴ?知らないよ、そんな人。



「よし、じゃ忘れ物をしないようにね」
「はい。ん……?忘れ、もの?」

 そこで私は思い出した。用事を忘れていた。

 一つは給金の事。

 いくら貰えるのかはわからないが、前借でもしないと生活できないまでに金がないのだ。
 昨日の夜ロッテと数えたのだが、手持ちの有り金の残りは864スゥ、8ドニエ。これではとてもではないが一カ月生活するのは無理だ。

 もう一つはロッテの事だ。

 あの吸血鬼を無理にでも職に就かせないと、このまま引き籠り化してしまいそうなのだ。
 それは非常に困る。
 早いうち、いや今日のうちに親方に相談をしておきたい。

「あの、まだ親方っていますかね」
「3階の事務室にいると思うけど……何で?」
「ちょっと私行ってきます、今日は本当にありがとうございましたっ」

 そう言ってもう一度深々と頭を下げると私は3階に向けて走り出した。





 その私の後ろ姿を見ながら、見習いのメンバーが口々に感想を述べていた。

「はは、面白い子だなあ。仕事で大分参っていたと思ったらもう元気になってる」

 エンリコは苦笑しながら言う。

「……それに頭も良い」「……うん」

 双子がそれに同意しながら、褒め言葉を口にする。

「褒めすぎっすよギーナさん、ゴーロさん。知ってて当たり前の事じゃないっすか」

 フーゴはそれに反発して文句をつける。

「でも実際あの子は頑張っていたしね。今日のところは。フーゴ君は、意味も無くあの子を虐めないように」
「……虐めてたら」「……お仕置きする」

 エンリコが「めっ」と釘を刺し、双子がさらに脅しをかける。



「みんな甘過ぎるぅー!」

 私が去った後の経理部屋では、そんなフーゴの叫びが響いていたと言う。





つづくでござる






[19087] 15話 カクシゴト(前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/19 00:24

「おとこは、きたなくののしるおんなのくちびるをふさぎ、おしてたおしました。しゅうどうふくをちからまかせにやぶりすてたおとこは、けだもののように……?」
「どうした?続けるがよい」
「……って、何よ読ませてんのよ、この変態吸血鬼!」
「っくく、中々、読めるようになって来たではないか」
「はぁ。まぁ、ね。内容に気付かずに読んでしまうあたり、まだまだな気もするけど」

 悪びれる様子もなく、平然としているロッテに怒るのも馬鹿馬鹿しい。
 軽く溜息をついた後、私は硬いベッドの上にぼふ、とダイブした。
 


 現在は仕事が終わって、従業員寮の自室で読み書きの勉強をしていたところだ。

 これは毎日の日課。できるだけ早く覚えなきゃね。
 紙は高いので、エンリコが私塾時代に使っていたという石板とチョークを借りてきて使っている。

 口語が話せるだけあって、一度文字と単語さえ覚えてしまえば、それほど苦労はしない。
 ただ、書く方はまだまだだし、ロッテが教えてくれる単語は何と言うか、偏っている。

 エロ系とか。

「それはそうと、明日、一緒に行くわよ」
「前に言っておった仕事か?面倒じゃの……」

 ベッドの上からロッテに声をかけると、気が進まなそうな声でロッテが答える。
 明日は虚無の曜日。カシミール商店の定休日である。



 私達がケルンに来てから、二週間あまりが過ぎていた。

 私はこの期間で、全身筋肉痛になりながらも、少しずつ仕事にも慣れ、何とかやっていく目途が立っていたのだが、ロッテは未だに無職という体たらくだ。

 読み書きを教えてもらっていなければ、もはやただのごく潰し。

「面倒、じゃないわよ。全く。働かざる者食うべからず、っていうのよ」
「それは東方のコトワザというやつか?」
「いい言葉でしょう。貴女にぴったり」
「……ち、イヤミなヤツじゃ」

 ロッテはうんざりとした顔をして、プイ、と横を向く。

 現在の生活は私の給金を前借りしてなんとかやりくりしている。



 私の初任給は月に6エキュー。年収にすると、72エキュー。

 一般的に貧民とは、平民の平均年収、120~130エキューの半分以下の収入の者を指すから、私は晴れて貧民から脱却したことになる。ギリギリだけど。

 それと仕事用の丈夫な服と靴が支給された。男物なので、少しサイズは大きいが、これは嬉しいオプションだった。何せ服は一着しかもっていなかったからね。

 昇給は能力と年数によって変化するらしい。

 エンリコなどは、見習いでありながら、私の倍近い給金を得ている。ま、あの人はそれだけ仕事ができるし、当然なのかも。

 そして私が前借したのは、二人分の家賃を引いた今月分の給金、2エキュー。とてもではないが、二人分の生活費を賄える額ではない。

「今度は逃がさないから」
「ふん、お主ごときに捕まる妾ではないわ」

 初日の勉強会の後、その事を相談すると、「あれくらいの器量良しならば」とこの街の旦那達が贔屓にしているというキレイ所が集まっている酒場を勧められた。

 宿が一体になっているタイプではなく、極めて健全なタイプの酒場だという。

 健全な酒場ってなんだよ。
 ま、売春宿や娼館に比べたら、確かにマトモなのかも。

 ちなみに、酒場などの接客業や、武器屋のような小売業の定住商人の場合は、当然、その地域の商会組合(アルテ)に属している。
 商社や遍歴商人と違って、その方が地元に根付いた仕事がやりやすくなるからだ。



 虚無の曜日でも酒場はやっているということで、先週の休みにも、ロッテとともに酒場へと行く予定だったのだが、何時の間にか逃げられてしまっていた。

 ちなみに商人が多く集まるこのケルンでは、文字の読み書きができるのは特別なスキルではないらしく、それによって職が決まるような事はないそうだ。世知辛い。

 最近では、この吸血鬼、自分で仕事探しもしていないようで、昼間は街をぶらぶらとしているらしい、とは露店のオバちゃんからの情報だ。
 その割に、部屋に保管してあったなけなしの生活費を露店などで使い込んでいた事もあり(今は私が肌身離さず持っている)、私のイライラは頂点に達しつつあった。

「妾、最近気付いたんじゃ」
「何?」
「働いたら負けかな、と」
「……ぶち殺すぞ、ヒューマン」
「それは妾が言った方が適切な台詞……ぬぉ、やめんか、これっ!は、鼻が曲がる……っ」
 
 イライラをさらに煽るような発言にプチ、ときた私は腰にぶら下げた袋からハシバミ草の粉末を投げつけると、ロッテは両手で顔を覆って逃げ惑う。

 ロッテの苦手なモノその一。ハシバミ草。
 ま、その二はまだ発見できていないのだけれど。

 以前から食事の時に、全く皿に手を付けない事が何度かあったので、不思議に思った私が調べると、全てハシバミ草の入った料理だった事に気付いた。
 以来、私はハシバミ草を乾燥させて砕いた粉を入れた袋を常時持っている。私がロッテにできる唯一のささやかな抵抗だ。あまりやりすぎると後が怖いが……。

「げほっ、ぐほっ……。わ、妾が悪かった。行く、行くから」
「約束よ。破ったら部屋中にハシバミ草の粉を撒いて締めだすから」
「分かった、約束、する。分かったからもうやめて」
「よし、それじゃおやすみ」

 苦しそうに喉を抑えるロッテの言質を取ると、週末の疲労感に耐えきれず、私はそそくさとベッドに潜るのであった。





 翌日の虚無の曜日の夕刻。
 
 私達は酒場の開店前を見計らって、親方から勧められた酒場“蟲惑の妖精亭”へとやって来た。どこかで聞いたことのある名前の響きだ……。

 ロッテも観念したのか、今回は逃げずに足を運んでいた。よしよし、偉いぞ。

「ここね、蟲惑の妖精亭というのは」
「ふむ……普通、じゃな」

 外観は至って普通の大衆酒場。大きくもないし、派手でもない。これといった個性のない建物だ。

 私達は“じゅんびちゅう”と書かれた立て札が掛けてあるスイング・ドアを潜ろうとすると。

「はい、アン、ドゥ、トロワ!ミ・マドモワゼル!」
「ミ・マドモワゼル!」

 中から先導する甲高い中年とおぼしき女性の裏声と、可憐な女性の声の合唱が聞こえてきた。

 あれ、これどこかで覚えが……。

「こらこら、スカロンちゃん。声が出てないわよ。恥ずかしがってちゃ駄目でしょう」
「は、はい。すいません」

 どうやら合唱に参加していなかった男が、その事を責められているようだ。

 スカロン……?はて、誰だっけ。どこかで聞き覚えが。



 私とロッテが怪訝な表情で顔を見合わせた後、背伸びして中を覗くと、叱っているのは小柄な中年女性で、叱られているのは黒髪のがっしりとした巨躯の男だった。

 その後ろには厚く化粧を塗ったおねぃさん達が、やや困り顔で控えている。

「はて、黒い髪とは珍しいのぅ。初めてみたぞ」
「あの人どこかで会ったっけ……?」

 首を傾げる私だが、頭に靄がかかったように思いだせない。

「それにしても貴女がいなくなると、男手がなくなって困るわねぇ。独立の話、もう少し先延ばしにならないかしらん?」
「すいません、こればかりは……ん、どなたですか?」

 黒髪の男、スカロンが、ドアの前に立ち止まって様子を伺っていた私とロッテに気付いて小走りでやってくる。

 どうやら、スカロンはこの酒場の従業員のようだ。

「どうしたの、お嬢ちゃん?」
「すいません、この酒場で従業員を募集していると聞いて来たんですが」
「え?でもここは、お嬢ちゃんみたいな小さな子が働くようなところじゃ」
「あ、働くのはこの人です。私の姉なんですが……」

 我関せずとばかりにぼうっと突っ立っていたロッテをスカロンの前に押し出す。



「あらっ」

 ロッテの姿を確認するや否や、後ろに控えていた中年女性は、座っていた椅子をガタ、と蹴倒し、獲物を捉えた猛禽類のように、猛然と駆けてくる。

「あらあらあら、これはまぁ」
「な、何じゃ」

 中年女は目を輝かせながら、ちょこまかとロッテを四方から観察する。

「貴女、ここで働きたいって本当かしらん?」
「う、うむ。そういう事になっておるが……」

 その勢いに圧倒されたのか、中年女の質問にどもるロッテ。

 先程のスカロンとの会話から、この中年女がこの店の主人なのであろう。
 というか、それならこれって面接はじまってんじゃん?!

「トレビア~ン」
「はっ?」
「はい、みんなも一緒に、ト・レ・ビ・ア・ン」

 女主人は、他のおねぃさん達の方に向き直り、両手を開いて復唱を要求する。
 うぅん、何と言うか……すげぇテンションだ。

「ト・レ・ビ・ア・ン!」

 おねぃさん達は楽しげに、スカロンはヤケクソ気味に声を張り上げる。

「何なんじゃ……。というかお主はこの店の主人なのかえ?」
「ふふ、主人というのは、少し違うわねん」

 あれ、主人じゃないのか?

「では一体?」
「私の事はミ・マドモワゼルと呼んで頂戴」

 ロッテがその返答に訳が判らんといいたそうな、困惑の表情を浮かべるが、女主人は構わず続けた。
 
 ダメだろ、その態度は……。それじゃ面接落としてくれといっているようなものだって……。

「それにしても貴女、素晴らしいわ。奇跡のようなプロポーションじゃないの」
「む……まぁ、な」
「お顔をチャーミングで素敵よぉ。それにこんなに伸ばしているのに髪は艶々でサラサラ。どんなお手入れをしているのかしら?」
「そ、そうかの?いや、特には手入れはしておらんが……」
「ナチュラルビューティー?あぁん、ちょっと嫉妬しちゃうわ。私なんてお手入れしててもこのザマよ」

 体をくねくねとさせながら、ロッテの容姿をベタ褒めする女主人。
 最初は訝しげな表情をしていたロッテもまんざらでもないようで、顔がにやけてきていた。

 ロッテも女だと言う事だろう。自信のある容姿を褒められて嫌な気分になる女はいないのだ。

「じゃ、奥で冷たいものでも飲みながら、お話しましょうか」
「うむ、わかった」

 そう言うと、女主人はロッテを引き連れて、奥の部屋に消えて行った。この分なら無事に決まるかもしれないわね。さすが親方情報、頼りになるなぁ。


 
 完全に蚊帳の外となった私は、同じく置いてけぼりになっているスカロンの顔を覗き見る。
 やっぱり会ったことはないよなぁ。とすると、まさか“原作”の登場人物、か?

 こんな地味な人いたっけなぁ。



 スカロン、“蟲惑の”妖精亭、女装、筋肉、トレビアン………………はっ!



「あの、つかぬことをお聞きしますが」
「何だい、お嬢ちゃん」
「スカロンさん、でいいんですよね」
「ああ」
「もしかして、トリステイン出身です?」
「そうだけど、それが何か?」
「娘さんの名前はジェシカ?」
「ははは、子供はいるけどまだ嫁さんの腹の中。男か女かもわからないのに、名前なんてまだないよ」

 ふぅむ。結婚はしているみたいだけど、まだ子供は生まれていないのか。奥さんはゲルマニアの人なのか?

 目の前にいるスカロンは、黒髪が珍しいものの、大柄でがっしりとした、至ってノーマルな青年だ。

 これが、“あの”スカロンになるのだろうか。やはり人違いかもしれない。

 ま、本人だとしてもだから何だ、という感じもあるけども。なんというか、有名人に会う気分というかね。

「そうなんですか。ところで先程の独立がどうとかいう話は……?」
「あぁ、子供も産まれる事だし、そろそろ故郷で独立しようと思ってね。トリスタニアでここと同じような酒場をやるつもりだよ。もっとも、年内はこの店の従業員だけどね」

 その店が“魅惑の妖精亭”なのかな。

 スカロンの奥さんって“原作”では死んでしまっていたっけ……。
 それがアレになる原因なのかも。

「しかし、何でそんな事に興味があるんだい?」

 はた、と考え込んだ私に、訝しげな顔で私に質問を返すスカロン。

「あ、えぇと、そう、実は私も商店で独立を目指して見習いをやっているんです。それでお話を聞きたいな、と思って」
「女の子で商売の道を目指すなんて珍しいね。何をやっているお店?」
「交易です」
「えっ、商社なのかい?」
「はい」

 スカロンは商社と聞いて驚いた顔をして聞き返す。



 交易商人は、商人の中でも花形と呼ばれる存在ではあるが、実際は非常に厳しい世界でもある。

 失敗すれば大損、体力のない商社などでは、一瞬で破産する事もあり得る、リスキーな商売なのだ。
 ゲルマニアでは貴族が商社に投資する事はままあるが、商才、知識のない貴族が中途半端に手を出して破産、没落していった例も珍しくないという。

 それでも交易に手を出す者が多いのは、成功した場合の利益が莫大な額に膨れ上がる可能性を秘めているからである。

 そんな危険な商売を娘にやらせようとする親は、商家でも少なく、他の商売ではちらほら見られる女性商人も、交易商人に至っては皆無と言っていいほど少ないらしいのだ。

「そりゃすごい。やっぱり実家が交易をやっている商家なのかな?」
「いえ、実は私もトリステイン出身でして。こちらに商売の修行をしに来た、といった感じです」
「その歳で……?しっかりしてるというか、何と言うか……。親御さんが心配しているんじゃないかい?」
「……大丈夫です」

 そこはあまり触れないでほしいところだ。
 ま、普通はそう思うか。

「ところで、あの人本当に君のお姉さん?……その、あまり似ていないものだから」
「えっと、それはいろいろ訳ありでして。腹違いの姉妹というか……」
「あ、ごめん、言いづらいことだったかな」
「いえ、大丈夫です。全然気にしていませんよ」

 むぅ、似ていない、か。私だってもう何年か成長すればあれくらいには……。




「おぉい、決まったぞ!」

 しばらくの間、スカロンとそんな話をしていると、ロッテが奥の部屋から出てくるやいなや、そんな声を上げた。

 え、決まったって?
 何このスピード採用?……ずるい。

 もっと、試験とかさ、そういうので苦しむ所が見たかったのに……。

「あの、本当に採用なんです?」
「もっちろんよ。ロッテちゃんならすぐに売れっ子になれるわ」

 私がロッテと一緒に出てきた女主人に確認すると、彼女は上機嫌にそう答えた。

 あはは、やっぱり女は見た目なんだね。

 世の中の理不尽に憤りを感じるが、ま、とにかくロッテの仕事が決まって良かったか。
 これで生活苦ともお別れできればいいな。

「それで、仕事はいつから?」
「今日から、じゃ。くふふ、お主のしょっぼい給金より稼いでみせるぞ」
「そのショボい給金にタカる気満々だったのはどこのどなただったかしら……。ま、そういう事なら頑張って」

 しかし、気が早いことだなぁ。というか、何でこの人俄然やる気になっている訳?

 この怠惰な吸血鬼をやる気にさせるとは、この女主人、やり手だ。

「ミ・マドモワゼル」
「あら、何かしら。妹さん?」
「姉をよろしくお願いしますね。ビシビシ扱いてやってください」
「ほほほ、任せなさい。お姉さんはワタシが責任を持ってスターにしてみせるわ」

 私が女主人に頭を下げると、彼女はどん、と胸を叩いて言う。

 さて、無事にロッテの就職も決まったわけだし、私はそろそろ退散しますかね。
 帰りにちょっと買いたい物もあるしね。

「何じゃ、お主もう帰るのか?妾の仕事ぶりを見て行けばよいのに」
「悪いけど、明日からの仕事もあるし、今日は寝溜めしておきたいのよ」
「折角の休日を睡眠にあてるとは、虚しい青春じゃのう」

 放っとけ。
  
 ロッテの物言いにカチンときた私は、そこで彼女との会話を切り上げて、カウンターの中で作業していたスカロンに声を駆ける。

「それじゃスカロンさん、私は帰りますので」
「おや、もう帰るのかい」
「えぇ、明日も朝が早いので」
「頑張りなよ」
「はい、そちらも奥さんを大事にしてあげて下さいね。産後、産前は特に体調を崩しやすいですから」
「ははは、言われなくても」

 私は真剣な表情でスカロンに忠告するが、スカロンは軽く流してしまう。

 “原作”通りに奥さんは死んでしまうのだろうか……。
 かといって、何が原因で死ぬ事になるのかもわからないのに、私にできる事は何もない。

 知っていて何もできない、というのも、もどかしいものね……。



 そんな事を悶々と考えながら私はロッテを残して酒場を後にしたのだった。





後編に続く
例の如く、半端なく長くなってしまったので二つにぶった切ります。話が進まねぇ……。






[19087] 16話 カクシゴト(後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/20 20:16

 アリアが“蟲惑の妖精亭”を後にしてから、数時間後。

 今日も今日とて、“蟲惑の妖精亭”はこの街の富裕層を中心とした客でごった返していた。



「ロッテちゃん、3番テーブルのお客様から、ご指名よ!」

 女主人の威勢のいい声が店内に響く。

「ま、またか……少し休ませてくれんか、の」
「はは、初日からこんなに指名をとるなんて凄いじゃないか」

 膝に手をついて弱音を吐くロッテに、厨房で料理を作っているスカロンから声が掛る。

「そう、かのう。これだけ忙しい割にはあまり儲けが無いような……」
「どこが?!さっきからかなりチップを貰ってなかった?」

 ロッテの懐には、客の中年男達が撒いた大量のチップによって、どっしりと重くなった財布袋が入っていた。

 ただ、彼女の金銭感覚は、3年間の屋敷生活によってかなり狂っていたのだった。
 何せ、一人につき最低でも150エキューはする奉公人をほいほいと買っていたのだから。

「ロッテちゃーん、早く、早く!」
「ぐ、行ってくる」
「あ、これ持っていってね、リーゼロッテさん」

 そう言ってワインと鶏料理の盛られた皿をずい、と突き出すスカロン。
 ロッテは渋々、といった感じでそれを受け取って、指名のあったテーブルへと向かう。



「ご指名ありがとう~、新しく入ったリーゼロッテで~す。よろしくお願いしますぅ」

 もしアリアが聞いていたら爆笑したであろう、少し頭の足りないような猫なで声を出すロッテ。

「おぉ~、こりゃ別嬪さんだなぁ!ささ、こっちへ」
「失礼しま~す」

 指名した髭の中年男は満足げに頷き、自分の隣の席を勧めると、ロッテはにこり、と笑いかけながら、しゃなりと座る。

 もはや別人である。さすが女優を自称するだけの事はあるようだ。
 
「今日はお仕事お休みなんですか?」
「あぁ、店の方は若い奴に任せてあるからな」
「えぇ~、お店をやってらっしゃるんですか?すごぉ~い」

 世辞を言いながらロッテは、両手を祈るように組んで目を輝かせながら上目遣い。
 
「え、へへ。まぁ、ちっちゃこい店だけどよ」
「またまた、謙遜しちゃって。でも、そういう控えめなところも素敵だわ。お髭もとっても似合っているし。お客さん、モテるでしょう?」

 当然ながら、そんな事を本心で思っているロッテではない。

 はっきり言って、この髭男、どうみても女にモテそうにはない顔なのだが、髭は手入れしているし、服もパリッと決めている。
 こういう男は、心のどこかで自分はイケてるはず、と思っているのだ。

 それを一目で見抜いたロッテはその自尊心を擽ってやっているに過ぎない。

「い、いやぁ。俺はもう結婚してるしな」
「そうなのぉ?勿体ないなぁ」
「勿体ない?」
「結婚は結婚。恋愛は恋愛だと思いません?」
「それは……どういう?」
「あぁん、言わなきゃだめ?」

 自分の頬に両手を当て、体をくねくねとさせるロッテ。
 実に思わせぶりな態度である。

「まさか、そんな事……ほ、本当かい?!」
「だけど私こういう仕事をしているから……相手にしてくれませんよね?」
「そんなわけないじゃないか、大歓迎だよ!はは、ははは」

 ロッテがやっているのは、いわゆる色恋営業というやつだ。

 何だかんだ理由をつけて、「私に会いに来る時はお店に来てね」というアレ。
 これに引っかかると、まず理性をやられ、次に金を毟られる。そして金がなくなると音信不通になってしまうという恐るべき営業方法である。
 短所はあまりやりすぎると、恨みを買って後ろから刺される事であるが、ロッテに至ってはその心配はない。

 こんなえげつないテクニックを駆使するという事は、彼女とて、屋敷に来る前は人間に紛れてそれなりの人生経験を積んでいる、という事だろう。




(人間の雄など単純なものじゃな。ちょっと気があるフリをしてやればイチコロよ。くふふ、クひ、くひゃ)

 ロッテは堕ちていくおっさん達を見て心の中でほくそ笑む。

 そして、おっさん達は、自分達にこんなに若く美しい娘が靡くわけがない、と思いながらも積むのだ。チップを。山のように。

 まるでその数を競い、その勝者こそが、その花を手に入れる事ができるかのように錯覚して。



 男とは、げに悲しい生き物である……。



 この日、ロッテは勤務初日にも関わらず、ダントツでトップの売上(チップ)を獲得。

「しかしケチくさいやつらばかりじゃの……。100(エキュー)や200くらいポン、と出せる男はおらんのか」

 しかしロッテは不満顔で、そんな愚痴を漏らしていた。

「恐ろしい子……」

 それを耳にした蟲惑の妖精亭の先輩である女の子達は、突如現れた強欲な新星に、思わずそんな事を口走ったと言う。





「くぁ、流石に客も少なくなって来たのぅ」
「そろそろ店じまいも近いからね。明日から仕事の人も多いし」

 両手を上に突き出し、伸びをしながら言うロッテ。スカロンは食器を片づけながら答える。

 そろそろ夜も更けに更け、蟲惑の妖精亭の閉店時間も近づいて来ていた。
 酒や料理を楽しんでいる客の数もまばらになり、店の女の子達の中には、既に帰り支度を始めている者もいた。



 そんな閉店準備が始まったころ。



「キャー!」

 突然、耳をつんざくような黄色い歓声が上がった。

 ロッテが何事か、とそちらを見ると、入店してきた一人の青年に店の女の子達が群がっているようだ。

「何なんじゃ、一体」
「あぁ、あれは劇作家のジルヴェスター様だよ。“天才”なんて呼ばれてるすごい先生さ。店の常連でね。若い上に男前だし、気前もいいから店の女の子達に人気があるんだ」
「ほう、それは中々期待できそうな男じゃの。どれどれ…………っ?!」

 背伸びして劇作家ジルヴェスターを見た途端、ロッテは固まった。
 
 彼はすらっとした長身で、男性にしてはよく手入れされているプラチナブロンドに碧い瞳。確かに男前なのだが、ロッテはそれに見惚れたわけではない。

 もっと、別の理由があった。

「ち、面倒な……」
「どうしたんだ?」
「い、いや何でもない。……ちょっと妾、気分が悪くなってしまったのでな。裏に行って来るぞ」
「おい、大丈夫か。顔が青いぞ」

 何やら焦ったようにその場を離れようとしたロッテだが。

「おや、新人の方がいるのですね。では、今日はその方を」
「ええ~、今日はあの娘ばっかり指名されてるんですよ~、ずるい~」

 わざとらしく、大きな声でロッテを指名する声が聞こえてきた。

「すまん、主人。妾体調が悪くて……」
「何言ってるの、さっきまであんなに元気だったじゃないの。ほらほら、疲れた時も笑顔、笑顔」
「これ、本当に……っ」

 ロッテの意向を無視してぐいぐいとロッテを押していく女主人。
 仕事なので当然といえば当然だが……。



「ほう、これは美しい。まるで、御伽の国から抜け出してきた姫君のようですね」

 ロッテを見ると、芝居がかった仕草でジルヴェスターがその容姿を褒めたたえる。

「…………」

 しかし、ロッテは目を逸らしたまま、それに答えない。見かねた女主人がフォローを入れる。

「申し訳ありません。この娘ったら、緊張しちゃってるみたいで。ほら、ジルヴェスター様は男前ですから、うふふ」
「ふふ、構いませんよ。女性が初対面の男の前で固くなるのは自然な事ですから」

 気にした様子もなく、柔和な笑みを浮かべるジルヴェスター。

「では、お邪魔虫は退散致しますわねん、ロッテちゃん、しっかりね!」
「お、おい」

 ロッテは引きとめようとするが、女主人は二人から離れていってしまった。

 残されたのはロッテとジルヴェスターの二人だけ。他の女の子達やスカロンは、遠巻きにこちらの様子を見ているだけだ。

 声までは届くことはあるまい。
 


「どうぞ、お席に」
「……失礼」

 仄かにムスクの香りを漂わせるジルヴェスターは、自分の隣の席にハンカチーフを敷いて、席を勧める。

「はじめまして、ですね」
「えぇ、ハジメマシテ」

 笑みを崩すことのないジルヴェスターとは対称的に、ロッテの表情は暗い。

「まぁ、そう警戒しないで下さい。折角のワインの味が悪くなってしまいますよ」
「……余計なお世話、じゃな」

 気遣いに対して刺のある言葉で返すロッテ。

 ロッテが素の状態であればそれほどおかしな発言でもないが、先程まできちんと客に対応していた事を考えれば、明らかに不自然な対応である。

「おや、どうやら嫌われてしまったみたいですね。これは残念」
「貴様のような気障な男を好くほど落ちぶれておらんわ」
「はは、手厳しい。この性格は仕事柄といったところでね。直しようがありません」

 両手を開いて肩を竦めるジルヴェスター。

「……さっさと用件を言え。先住者」

 ロッテはジルヴェスターを睨みつけながら、命令を下す。


 
 そう、彼もまた吸血鬼。それもロッテよりも以前からこの街をネグラとしている者であった。



「無粋ですねぇ。出会いは一期一会、と言います。もう少しこの時間を楽しみませんか?」
「下らん」

 指をぱちん、と鳴らしておどけてみせるジルヴェスターに、苦虫を噛み潰したような顔をするロッテ。

「ふむ、あまりそういった気分にはなれないといったとご様子。……わかりました、手短に用件を伝えましょう。今日はですね、この街から退去しては頂けないか、というお願いに参ったという次第でして」

 要は俺の縄張りだから出て行け、という事だろう。
 
 吸血鬼同士の縄張り争いは熾烈を極め、新参者が縄張りを荒らした場合、問答無用で殺し合いに発展する事もありうるのだ。
 そういう意味では、わざわざ退去勧告を申し渡しに来たジルヴェスターは紳士的、とも言えた。

「……嫌だ、と言ったら?」
「ふふ、困ってしまいます」
「そうか、では頭を抱えていれば良い。どこへ行こうと妾の勝手じゃ」
「にべもありませんね。……そうそう、ウィースバーデンの屋敷の住み心地はいかがでした?」

 ぴくり、とロッテの体が跳ねる。その様子を見てくつくつと面白そうに笑うジルヴェスター。

「……成程、こちらの事情は既に把握済み、という事か」
「えぇ、もっとも、完璧にと言う訳にはいきませんでしたが。貴女の素性程度は、ね。最初は目を疑いましたよ。同族が堂々と憎たらしい太陽の下で歩いているんですから。あれは【変化】で人間に化けているといったところでしょうか?」
「わかっておるなら聞くな、鬱陶しい」
「ふふ、正解だったようですね。しかし、そんな芸当ができる同族は普通いませんよ?素晴らしい才能です。さすがは」
「……余計な事をベラベラと……反吐が出る」

 何かを言いかけたジルヴェスターの口に皿の料理を突っ込み黙らせるロッテ。
 その先は彼女の触れられたくない事であったのかもしれない。

「おしゃべりな男はお嫌いですか?」
「嫌いじゃな。捻り殺してやりたいくらいに」
「ふふ、それは怖い」

 吸血鬼は一般的に日光が弱点である。それは実はロッテも変わらない。
 普通に日光の下に晒されれば、その皮膚は焼け爛れてしまうだろう。

 しかし、彼女は昼間には、精霊魔法の【変化】を使って、その身を人間へと変える(最も外見が変化しているわけではないが)事によって、日光を克服していたのだった。

 ジルヴェスターが言うように、そのような事が出来る吸血鬼はまずいない、と言っていい。
 【変化】は元々、韻竜など、知能を持った幻獣種が人型を取るための魔法であるのだ。
 吸血鬼などの亜人がそれを駆使する事は極めて難しいとされている。
 
 スカロンはジルヴェスターの事を“天才”と言ったが、吸血鬼として“天才”であるのは、実はロッテの方だった。

「……しかし、それだけ調べ上げたならば尚更、貴様では妾には勝てん、と分かるじゃろうが。何を考えておる?」
「ふふ、果たしてそうでしょうかね?こう見えても腕には少々自信がありまして。ここ100年ほど、この街を動いておりませんのでね」

 それは100年もの間、縄張り争いで負けた事が無い、と言っているのだ。

「どうせ“森の敗者”共程度の相手しかおらんかったのじゃろう?」
「まぁ、そうでしょうね。どれも手応えがなくて退屈でした」
「くふ、それで妾にも勝てると?」
「えぇ。おそらくは、ね」
「……貴様、妾を奴らのような脆弱な存在と一緒にするか!」

 ジルヴェスターの言葉に、ロッテは今にも立ち上がりそうな姿勢になり、怒気に満ちた声で言い放つ。



 “森の敗者”とは、同族との勢力争いに負けたり、人間によって追われ、野に下った吸血鬼達、そしてその子孫の事を指す。
 吸血鬼の世界では、その名の通り、敗者として蔑視の対象となっている。人間で言う、賤民のようなものだ。

 当然ながら、吸血鬼の世界にも、厳格なヒエラルキーが存在するのであった。



「ふふ、これは失礼。しかしながら、貴女の今の立場は彼らとあまり変わりありませんよ」
「何じゃと?」
「ガリアでは貴女のやったことの後始末で大変だそうです。モンベリエ侯爵家、でしたか。家の威信にかけて“報復”する、などと言って、私兵やら傭兵を動かして国内の吸血鬼狩りをしているそうですよ。勿論貴女の事を最優先でね。……全く、困った物です」

 ふぅ、と溜息をついて額に手をやるジルヴェスター。

 モンベリエ、と言えば、ロッテの“食糧”として命を落とした令嬢の家である。
 
 ガリアでも有数の力を持つ大貴族、モンベリエ侯爵家は、一人娘を手にかけたロッテを未だに追っていたのだ。それも総力を挙げてだ。

 つまりロッテは追われる者。それは森の敗者達が辿る道と同じではないか、と言っているのだ。

「ち、もう3年も経つのにしつこい奴らじゃの」
「人間というのは不思議な物です。生ある仔を捨てる親もいれば、死した仔のために狂ったような愛情を見せる事もある」
「く、くく、吸血鬼が人間の愛を語るとはな、お笑いじゃ」
「ふふ、そうですかね?」
「ふん……。しかしそれではますます出て行けんな。ガリアにも帰れんではないか」
「まことに申し訳ありませんが、そちらの事情は我々には関係ないのです。どうしても、というのであれば実力行使、という事になりますが、よろしいでしょうか?」

 若干強い口調で、毅然として言うジルヴェスター。

 その言葉でロッテの纏う空気が変わった。



 即ち、戦闘態勢。



 今にも飛び掛りそうなほど獰猛に牙を剥き出しにしたロッテの青い瞳は、徐々に深紅に染まっていく。

「この身の程知らずが……あの世で自分の浅はかさを悔やむが良い……」

 殺気を込めた声で威嚇するロッテ。

「まぁ、落ち着いて下さいよ。さすがにこんなところで騒ぎを起こす訳にはいかないでしょう。それは貴女も同じ事では?」
「妾は一向に構わんが?」
「やれやれ、貴女は些か好戦的過ぎます。そんな事をしては、あの娘、アリアちゃんでしたっけ?彼女にも迷惑がかかりますよ?」

 ニタリ、と厭らしい笑みを浮かべるジルヴェスター。
 
「貴様……」
「えぇ、彼女には私の屍人鬼を監視に付けてあります。何せ貴女と深い関係にあるようですからね。……しかし何故あんな人間の小娘に肩入れしているのです?それも生かしたまま。貴女ともあろう方が」
「べ、別に……肩入れなどしておらん。あやつは、妾の……、そうじゃ食糧兼奴隷といった所でしかない」
「ほぅ……私には貴女があの娘に従っているように見えましたが」
「愚弄するか、貴様……」

 米神に青筋を立てるロッテ。もはや暴発寸前だ。

「いえ、そんなつもりは。ついつい余計な事を喋ってしまう、私の悪い癖です。申し訳ない」
「………………」
「こちらとしても、すぐに出て行け、とは言いません。新しいネグラを見つけるにしてもそれなりの時間はかかるでしょうし」
「…………それは、譲歩してやる、という意味か?」
「えぇ、そう取って頂いて構いません。こちらとしても無益な争いはしたくありませんのでね。具体的には、年内に引き揚げて頂く、という事で。どうでしょう、これだけ時間を取れば問題ないのでは?」
「……わかった、考えておく」
「ふふ、良い結論を導き出す事を願っていますよ。私としては、貴女のような美しい方の死に顔はみたくないのでね」

 ジルヴェスターはそう言って、ロッテの顎を指先で持ち上げるように触れる。

「こ、この無礼者っ!」

 激昂したロッテは、椅子を派手に吹き飛ばしながら立ち上がり、店中に響くような怒号を上げた。

 彼女にとって、吸血鬼の男に触られるのは、人間の雄に触れられるのは訳が違うのだ。
 それは人間の女が、家畜やペットに触られるのは気にしないが、恋人でもない男に触られるのを嫌うのと同じ事。
 


「ど、どうしたの?」「何かあったの?」「トラブル、かしら?」

 遠巻きに見ていた店の女の子達が騒ぎだす。

「どうかなさいましたか、ジルヴェスター様?」

 トラブルとみるや、スカロンが厨房から飛び出して、急いで駆け付けて来る。
 どうやら彼は、蟲惑の妖精亭のバウンサー的な役割も果たしているらしい。

「申し訳ありません。私の言動で、彼女に不快な思いをさせてしまったようです」

 そう言って、自分の財布袋を丸ごとロッテに差し出すジルヴェスター。
 どうやら吸血鬼達の金銭感覚がおかしいのはロッテに限ったことではないらしい。

「……ふざけるなっ!下衆がっ」

 ロッテは敵意を剥き出しにして、その手を撥ねつける。

「リーゼロッテさん、どうしたの?!落ち着いて……」
「えぇい、離せっ!」
「な……す、すごい力……っ」

 スカロンは激昂したロッテを後ろから羽交い締めにして抑えつけるが、本気になったロッテの力は、如何に大男のスカロンといえど、到底抑えきれるものではない。

「ジルヴェスター様、今日のところは……」

 いつの間にか出張って来ていた女主人がジルヴェスターに、やんわりと退店を促す。

「えぇ、すいません。なんだかトラブルを起こしてしまったみたいで」
「ほほ、お気になさらず。私の方からよぉく言い聞かせておきますから、ご安心を……」

 ジルヴェスターに付き添い、出入り口へと消えて行く女主人。

 ロッテはその様子を、憎々しげに歯噛みしながら眺めていた。





「帰ったぞ……」

 ぼそぼそ、と元気のない声を出しながら、自室のドアを開けるロッテ。

 ロッテが部屋に帰ったのは、丁度アリアが出勤する頃になってからだった。
 客に、それも常連に対して暴言を吐いたロッテは、あれからこってりと女主人に絞られたのであった。

 売上はトップでも、初日からあんな騒動を起こせば当然である。
 クビにならなかっただけマシ、といったところだろう。

「ほふ、ほはへひなはい(おう、おかえりなさい)」

 アリアは朝食の黒パンを咥えながら、肩を落としたロッテを出迎える。

「何じゃ、一人で食っておったのか。なんて薄情な奴なんじゃ」
「ほんはほほ、いっはってぇ(そんな事いったって)」
「食ってから話せ……まったく、汚ないのう」

 嫌そうに顔を顰めるロッテの言葉に、珍しく素直に従い口の中の物を急いで腹に押し込むアリア。

「一応、帰ってくるまで待とうと思ったんだけどさ。あんまり遅いからね。もう出勤しなきゃいけないし」
「む、もうそんな時間だったのか」
「どうせ何か失敗して絞られていたんでしょう?」
「さあ、の……」

 いつもなら言い返してくるロッテがしおらしく、しゅんとしているのを見て、アリアは訝しげな顔をする。

「何か、貴女、変じゃない?本当に何かあったの?」
「な、何でもない、何でもないぞ。ただ、ちょっと叱られてしもうただけじゃ」

 ロッテはジルヴェスターの事はアリアには話さないつもりだった。



「はぁ、初日から雷貰ったのかぁ。その分だと給金も期待できなさそうね……。折角買ったのに無駄になりそう、アレ」
「アレ?」

 アリアが顎でしゃくる方をロッテが見ると、なにやらコルクの栓をした大き目の瓶が、二つ、置いてあった。

「なんじゃ、ただの瓶詰め用のガラス瓶ではないか。それも空っぽの」
「空じゃないわ、良く見なさい」

 その言葉に、ロッテが瓶に近づいて良く見ると、片方の瓶には20(ヴァン)スゥ銀貨が1枚と、ドニエ銅貨が3枚ほど入っていた。

 瓶のコルクには下手くそな字で「アリア」と書かれている。

「何じゃこれは」
「貯金箱、よ。独立するにはお金がかかるからね。そこに少しずつお金を貯めようと思って」
「ふむ……。もう一つの瓶は何じゃ?」
「貴女用の、よ」

 その言葉に、ロッテがもう片方の瓶のコルクを見ると、こちらには「リーゼロッテ」という、これまた下手くそな字が書かれていた。

「妾にも貯金せよ、というのか?」
「別に強制はしないけど、さ。勿論、自分の給金は好きに使えばいいわ。けど、放っておいたら貴女の場合、めちゃくちゃな金遣いですぐに素寒貧になりそうだしね。せめてもの親心ってやつよ」
「……なぁにが、親心じゃ、このっ」
「うげ、怒った」

 怒ったようにアリアを追い回すロッテだが、その表情は柔らかかった。



(……下手くそじゃが、もう名前は書けるようになったのじゃな。それに貯金、とはな。どうやら本当に妾との約束を守る気らしい。くふふ、律儀というか、阿呆というか)

 自分では否定するだろうが、ロッテは確かに愛着を感じ始めていたのだ。この生活に。

 だからこそ、それを壊しかねない事はアリアには隠して、密やかに決着をつけるべきだ、と考えていたのだった。

「しかし貯金か。そうじゃ、どうせなら競争でもせんか?」
「競争?」
「どちらが多く溜められるか、という競争じゃ。負けた方は勝った方の言う事を一つ、なんでも聞くというのはどうじゃ?」
「貴女、結構無謀ね。こういうのは、コツコツと地道な努力を続けられる者が勝つのよ?浪費家の貴女じゃ相手にならないわ」
「それは、どうかの?」

 ニヤリと、笑って懐からじゃらじゃらとイイ音のする袋を取り出すロッテ。

「ちょ!何それ?!」
「妾にかかればこんなものよ。天才とは、何をやらせても一流、という事じゃな」

 言いながら、ロッテは自分の貯金箱の中にエキュー金貨を1枚放った。

「き、金貨ですってぇ?」
「くふ、お主の方がこれに追いつくのは何時になるのかのう?」
「ぐぐ……見てなさいよ。レースはゆっくり、じっくりの亀が最後は勝つんだから」

 悔しそうな表情を見せるアリアをニヤニヤと見下すロッテ。



「あ、やばっ、もうこんな時間じゃない!」

 しばらくの間そうしていた二人だが、不意に窓から入って来る光に気付いたアリアが悲鳴に似た声を上げる。

 空はもう白んできていた。

「また遅刻か?駄目な奴じゃのう」
「うっさい。それじゃ行ってくるから」

 バタバタと慌ただしく駆けて行くアリア。





 その後ろ姿を眺めながら、ロッテは思い出したように呟いた。

「何が、譲歩じゃ。年内には出て行け?上等じゃ、あの気障男め……。次に会った時は八つ裂きにしてくれる……」

 そう呟くロッテの表情は、物語の中で語られる、恐ろしい化物である吸血鬼そのものであった。



 この隠し事が、後々、どんな事件を引き起こすのかは、この時はまだロッテも、そしてアリアも知る由も無かったのである。





つづけ





[19087] 17話 晴れ、時々大雪
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/20 20:36
 ケルンの冬、特にこのヤラの月の肌寒さは中々に厳しいものがある。

「よく降るわね……」

 ほわほわと降りしきる雪を、窓から眺めてぼんやりとぼやく私。

 外は一面さらりと降り積もった白銀世界。
 私と同じくらいであろう歳の子供達が、白い息を弾ませて、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んでいる。

(はぁ、私も普通の家に生まれていたら、ああやって遊んでいる歳なのよね……)

 なんて、自分の境遇を悔やんでも仕方ないのだけれど。

 ゲルマニアに来て初めての始祖の降臨祭の期間も終わりを迎え、また忙しい毎日が始まっていた。

「ぼうっとしてんじゃ……」
「おわっ!」

 余所見をしていた私は、フーゴの注意も虚しく、ずる、と脚立の上から滑り落ちてしまう。

「つつ、気をつけやがれ、馬鹿!」
「ごめん、ごめん」

 フーゴが下敷きになってくれたおかげで、怪我はしなかったようだ。

 彼とは、年が近い事もあり、何かとセットとして扱われる事が多い。
 彼としてはそれが気に喰わないらしいが……。



 現在は年始の大掃除の大掃除の真っ最中。

 カシミール商店では、というか、多くの商店では年末の商戦で大忙しである年末ではなく、年始めに掃除をするのだ。
 まぁ、年始めは年始めで忙しいのだけれど、貫徹当たり前の、地獄の年末に比べればマシだろう。

 う、今思い出しても吐きそうになってきた……。
 あの年末の恐怖が今年も来るのかと思うと、今からゾっとするくらいだ。

「って、いつまで触ってんのよ」
「え?あ……。わ、わりぃ」

 私が冷めた目で睨むと、フーゴは慌てて、私の尻を鷲掴みにしていた手を引っ込める。
 低かった背も少し伸び、体も若干丸みを帯びてきた今日この頃。

 年が明けて、私は11歳になっていた。

「へ、元はと言えばお前の不注意じゃねぇか。それにちんちくりんの尻触ったって嬉しかねーよ」
「だらしなく鼻の下伸ばしてたくせに。このエロ河童」
「この……っ!てめぇのケツなんて頼まれたって触らねえよ、ドブス!」

 パチパチと火花を散らしながら睨みあう二人。

「はい、はい、そこまで。喧嘩した罰として倉庫の掃除は全部二人でやること」
「えぇ……」「そりゃないっすよ……」

 エンリコが、ぱんぱん、と手を叩いて仲裁に入る。
 
 くそぅ、フーゴのせいで私までペナルティを喰らったじゃないか……。

「アンタのせいだからね」
「お前のせいだろ」

 またもや睨みあいを始めた私達を見て、はぁ、と溜息を漏らすエンリコ。

「ほらほら、早くしないと帰れなくなるよ」
「くぅ……」
 
 すごすごと作業に戻る私とフーゴ。年始めから残業確定である。
 もう、泣きたい。

「全く、この2人はいつになったら仲良くなれるんだか……」
「……違う」「……逆」

 エンリコの独り言にギーナとゴーロが意見する。

「逆?」
「……ケンカするほど」「……仲が良い」
「そんなものかなぁ?」

 腑に落ちない顔のエンリコに、うんうんと頷く双子。
 断じて違うからね。勘違いしないように。



 ま、こんな感じで今日もカシミール商店は概ね平和である。


 
「アリア、いるか?」

 ぶつくさ言いながら、たまにフーゴと言い合いをしながら、しばらく作業を続けていると、親方の呼び声が聞こえた。

「どうしましたー?!」
「ここの、面積の求め方がわっかんねェんだが」

 窓を拭きながら、背を向けて親方に答える私。、
 親方は、ボリボリと頭を書きながら、私が年末に出した宿題の書いた紙をぺらぺらと揺らす。

 読み書きの方は、毎日欠かさず勉強していた事もあって、既に問題はなくなっていた。
 ロッテに習ったせいか、スラングがやたら多い気がするけどね。

「あ~、わかりました。えっと、どうしよっかな」
「行ってこいよ」

 フーゴは顎でしゃくって早く行け、と促す。
 ほぅ……珍しい事もあるもんだ。

「ごめん、じゃ行ってくる。あとよろしくっ」
「お前の分は残しといてやるよ。俺は優しいからな」

 ニヤリ、と笑って返すフーゴ。本当、イヤな奴だ。



 これがこの半年で変わった事の一つ。

 親方が“東方”の算術(というか現代数学)を教えてくれ、と言う事で、正規の終業時間が終わった後、私が数学を教える事になっていた。

 彼に数学を伝授する授業料として、月に2エキューを給金に上乗せしてもらっている。

 教えているのは、商売に使えそうな統計、幾何、行列の知識。

 商売には全く関わりのない分野はスルーしておいた。
 ちなみに先程、親方が分からないといっているのは楕円の面積の求め方である。

 親方は中々勉強熱心で、既に基礎的な数学の考え方はモノにしているから驚きだ。
 私としては、ハルケギニアの人には中々理解できる物じゃないだろうな、とタカを括っていたのだが。

 ともかく、これで月の収入は8エキュー。月に貯金できる額もかなり増えた。
 
 独立の日も近い、と言いたいところだが、お金は勿論、まだまだ色々な物が不足している事を痛感する毎日だ。





 そしていつも授業に使っている、例の3階の事務室(親方の書斎)。

「そういやぁ、お前が来てからもう半年になるな」
 
 カシミールは問題用紙と睨めっこしながら、そんな事を呟く。

「えぇ、おかげさまで」
「で、金は少しは貯まったか。独立を目指してるんだろう?」
「まぁ、少しずつですが。姉には負けますけどね」
「はっはは、そりゃ蟲惑の妖精亭のナンバー1には勝てねえだろ」
「むぅ……」

 悔しそうに言う私を笑い飛ばす親方。

 ロッテは入店以来、蟲惑の妖精亭のナンバー1の座をずっと維持しているのだ。

 その収入は相当なもので、月に30エキュー近くを稼ぎ出している。
 私の3倍以上の収入だ。

 意外にもあまり散財はしていないようで、貯金箱の中身も私のものとは歴然とした差になってしまっている。

 正直悔しいが、ロッテが真人間(?)になったと思えば、私も少しは安心だ。

「独立、か。懐かしいな。俺も駆けだしの頃は苦労したもんだが……」
「親方は行商人をしていたんでしたっけ?」
「あぁ、10年くらいな。それで金を稼いで、コネを作って、定住商人としてデビューしたってわけよ」
「やっぱり最初は行商人としてスタートするのが普通なんですか?」
「駐在員で金を貯めて、正社員(出資者)側に回るっていうやり方もある。その方が危険は少ないが、確実に遠回りだろうな」
「早く身を立てたいなら行商人、じっくりと安定を目指すなら駐在員、ですか」
「まあ、腕に自信があるなら行商人、ないなら駐在員だな。まぁ、自信がないやつが商売するな、って話もあるが」

 とすると、私はまず行商人、つまり遍歴商人を目指すべきだろう。
 ロッテとの約束もあるが、私自身が早く上のセカイを見てみたい、というのが大きい。

「行商人を選んだとして、初期投資ってどれくらいかかりますか?」
「……そうだな。まずは行商に絶対必要な馬車。2頭立ての馬車として、普通の馬が一頭大体80~120エキュー。馬車はピンキリだが、商売道具だからな。それなりに丈夫なのを買うとして、平馬車のいいヤツで150~200エキューってところか。次に組合(アルテ)への加入費と年会費が50~100エキュー。ケルンなら安いから50だな。それと最初の仕入れ、雑費、その他もろもろを考えると……まぁ、500エキュー程度を見積もっとけば問題ないだろう」
「ふむ、500かぁ。ロッテ……姉さんのお金が使えればなぁ……」
「……馬鹿野郎、商売の最初から人の金をアテにしてんじゃねェ!」
「あだぁっ……ぅう、すいません」

 親方の鉄拳が飛ぶ。
 カシミール商店の教育方法はスパルタ方式なのだ。

 しかし、500エキューならば、そう非現実的な数値ではない。
 おし、やる気出てきた。

「まぁ、良く考えて決めるこったな。行商人を選んだ場合、商会の後ろ盾はねェから、一つの失敗で破産する危険が高い。それに旅を続けるっていうのはキツイし、賊やら亜人やらに襲われる可能性もある。いい事ばかりじゃねェんだ」
「でも保険がありますよね?」
「行商人が保険に金を回せるほど余裕があるか、馬鹿」
「う……」

 保険、というのは、荷にかける積荷保険だ。

 その内容は、荷を不慮の事故で破損したり、紛失した場合に、それと同額の金銭を保証してもらえるというシステムだ。

 昔は、空輸保険といって、フネでの輸送にのみ掛けられる保険であったが、近年では、商人の絶対数の増加により、陸路での輸送にも適用されるようになっていた。

 これは銀行家、両替商の業務の一つなのだが、保険金はかなり割高で、大商社ですら、その保険金をケチる事もあるらしい。

「ま、独立以前に、仕事中にぼけっとしているようじゃ全然駄目だがな」
「げ」

 そう言って親方がニヤ、と口を歪めると、もう一つ拳骨が飛んで来た。

 うぇ、見られていたのか……。
 親方は見ていないようで結構見ているから恐ろしい。

「あぁ、そうだ。仕事と言えば。お前、明日一日は外な」
「へ?」

 思い出したように言う親方に、間の抜けた返事を返す私。
 外、ってこの寒空の下、ですか?

「明らかに嫌そうな顔をするんじゃねェよ……。勘違いしてるみたいだが、別に外で作業しろ、とは言ってねェ」
「え、じゃあ、どういう事です?」
「ツェルプストー(商会)に、買付の勉強に行ってもらう。新年の買付はモノが多くなりがちだからな。その作業のついでってところだ」
「か、買付っ?!わ、本当ですか?!」

 買付、という言葉に途端に目を輝かせる私。
 それもそのはず、外回りである買付に付いて行く、正式な商店の一員として認められた、という事なのだ。

 ちなみに、エンリコが初めて買付に付いて行ったのは、3年目の冬だったと聞いたことがある。

 私って実はかなり評価されているのかも……!

「ま、そういう事だ。明日に備えて今日はもう帰」
「わっかりました!お先に失礼しまっす!」
「あ、あぁ」

 テンションの上がった私は皆まで聞く前に、全速力で事務室を飛び出した。

 何か忘れているような気もするけど、気のせいだろう。



「くっくく、あの変わり身の早さ。おまけに強欲で自分勝手。なかなかに商人向きな性格をしていやがる」

 一人事務室に残されたカシミールは、誰ともなくそんな事を呟いていた。

 



 帰り道、私はいつものルートで蟲惑の妖精亭に寄り道する。
 ロッテがここに就職してからというもの、夕飯はここで食べさせてもらっているのだ。


 
「こんばんは、スカロンさん」
「お、いらっしゃい。お姉さんはまだ勤務中だけど、先に食べておくかい?」
「はい、お願いします。いつもすいません」

 年内に独立するはずだったスカロンはまだこの店で働いている。
 独立といっても、出来あいの店をオーナーから買い取る、という形を取るらしい。

 それがこの店の姉妹店である、“魅惑の妖精亭”なのだそうだ。
 
「奥さんと娘さんはお元気ですか?」
「もう、ばりばり元気さ。嫁さんの方なんて、お姉さんの噂を聞いて、また蟲惑の妖精亭で働く、なんてライバル心を剥き出しにしてるよ」

 はは、と愉快そうに笑いながら、料理を盛った皿を出してくれるスカロン。幸せの絶頂と言った感じかな?

 スカロンの奥さんは蟲惑の妖精亭で結婚前はナンバー1を張っていた女性らしい。
 娘の“ジェシカ”も将来は美人になるのだろう。

「しかし、こうして笑っていられるのもアリアちゃんのお陰だけどね」
「大した事はしてませんよ。私は親方に秘薬の手配を頼んだだけですし」
「駄目駄目。商人なら謙遜なんてしないで恩を着せておかなきゃ」
「……そうですね。じゃあ、もっと感謝しなさい」
「はは、その調子だ」

 偉そうに胸を張る私に、手を叩いて言うスカロン。
 


 実は、スカロンの奥さんが出産後、著しく体調を崩したのだ。
 
 すぐにでも治療が必要な状態で、水メイジはスカロンの方で早急に手配できたものの、その症状に合う秘薬が見つからなかったらしい。

 スカロンの奥さんがピンチ、という事をロッテから聞いた私が、その水メイジから必要な秘薬の情報を聞き出して、親方に手配を頼んだのだ。
 目的の秘薬は、カシミール商店から緊急の連絡を受けた国際交易に強いツェルプストー商会によって、秘薬などのマジックアイテムの本場であるガリアから早急に取り寄せられ、事なきを得たのだった。

 もしかしたら、これで“スカロンの奥さんが死ぬ”という運命は変えられたのかもしれない。

 その時の秘薬はかなり高価なもの(云百エキュー)だったので、そのせいでスカロンの独立が遅れたんだけどね。

 まぁ、奥さんの命に比べれば些事だろう。


 
「交易商として独立したらトリスタニアにも遊びにおいで。サービスするよ」
「ふふ、何年掛かるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします」

 そう言って私は頭を下げる。



 よし、行商人として独立したらまずトリステインに行ってみようかな?

 売る物は……。とりあえず最初は無難に、北部製の質のいい金属農具あたりか。

 ゲルマニアの農村では当然のように使用されているものだけれど、トリステインではまだまだ出回っていないはず。
 私の故郷のように、木製農具を使っている時代遅れな辺境の農村すらあるのだ。

 トリステインはどちらかと言えば農業国だし(というか他に産業が……)、そういう実用的な物の方が売れるだろう。
 あぁ、でも農民は金がないから……。利益が取れるかどうか微妙な所、かも。

 うん、商売に行くならタルブ地方あたりの、農村でも比較的裕福な地域が良いだろう。私の故郷のような貧しい農村では商売にならない。
 農民相手ではなくて、領主に直接交渉にいくのも手か。農具を取りかえる事による、税収増加の期待値をチラつかせれば飛びついてくるやもしれない。

 仕入れはウィンドボナ経由じゃなくて、ハノーファーかハンブルグの工房から直接仕入れたい。
 いや、入市税まで考えるとカシミール商店に仕入れを頼んだ方が安くつくかも……。直接仕入れるなら、北部とのコネが必要、かなぁ。



「……えんのか、馬鹿妹」
「いったたったた」

 私が気持ちよく妄想にふけっていると、後ろから突然頬を抓られた。

「おや、ロッテさん。今日はもうアガリですか」
「んむ。今日は早番じゃからな」

 ロッテはそう言って私の隣の席に着くと、私に出された皿に盛ってあった一口サイズのチェリーパイをパクリと頬張る。

「あっ、コラ!それ楽しみにしてたのに!」
「くひヒ、妾を無視した罰じゃ」

 悪戯っ子のように笑うロッテに私の毒気は抜かれてしまう。

「はぁ、もういいわよ」
「そうか。では、これで食事は済んだな。そろそろ帰ろうぞ」
「え、もう帰るの?」
「暗い夜道は危険じゃからの。人通りが少なくなる前に、な」
「……そう?」

 らしくない事をいうロッテに、少し訝しげな表情を見せながらも、黙ってそれに従い帰り支度を始める私。

 最近、ロッテの様子が少しおかしい気がするんだよね……。
 まぁ、元々変なヤツだけど、そういうのとは違うというか……。

「どうした。妾の顔に何かついておるか?」
「ん、別に?変なヤツ、って思っただけ」
「……ほぅ。また、意識を失うまで吸われたいらしいのう?」

 意識がなくなるまで血を吸うのはロッテが得意としている報復方法の一つである。

 これをやられると、すごく気持ちイイ……じゃなくて、翌日までグッタリしてしまうからシャレにならない。

「あ、今日は駄目。明日は大事な日なの」
「大事な日?」
「そそ、買付に連れて行って貰える事になってさ。ついに一人前と認められたっぽいよ?」
「ふむ、買付……か。外に出るのか?」
「そりゃそうでしょうが」
「……気をつけるんじゃぞ」
「え?あ、うん」

 やっぱり変なロッテ。

 最近は行き帰りの時もやたらとこういう注意を促してくる。
 何かあったのか、と聞いても何もないの一点張りだし。

 不気味だ。

 私は何とも気味の悪い違和感に、首を傾げながら帰路についたのだった。





 翌日。

 朝一から、“私達”はケルンの中心部にそびえ立つ、ツェルプストー商会本社へとやって来ていた。

「ウチの商店より、更にデカイわね」
「当たり前だろ。ウチは飽くまで支社。こっちはゲルマニア四大商会の本社だぜ」

 いつものように「そんなことも知らないのか」と、偉そうに言うフーゴ。

「何でアンタまでいるのよ」
「そりゃこっちの台詞だろ、使えない癖に出しゃばってんじゃねーよ」
「ふん……大体なんでアンタ、ここにまで“ハタキ”なんて持ってきているのよ」
「いや、これは……」

 フーゴは何故かいつも掃除に使う“ハタキ”を腰にぶら下げて持ち歩いている。
 本人に言わせると、気付いた時にいつでも仕事ができるスタイルなのだとか。

 仕事=掃除かい。見習い根性の染みついている事で。

「それ、カッコイイとでも思ってるわけ?まじダサイんだけど」
「言わせておけば、このっ……」
「何よ、このくらいで怒るなんて度量の小さい男ね」

 あわや掴み合いの喧嘩になりそうな雰囲気を出す私とフーゴ。

「はぁ、またか……」

 頭痛がするように頭を抑えるエンリコ。

 見習い組からは、この3人が買付の手伝いに駆り出された。
 双子は留守番組である。

「2人とも、いい加減にしときなさい。今日は外の人の目に触れるんだから、商店の恥を晒さないように」
「……はぁい」「……ち、わかりました」

 珍しく、厳しい態度で言うエンリコに、一時休戦、と言った感じで渋々離れる私とフーゴ。



「で、エンリコさん。今日は何をするんですか?」
「うーん、まぁ、僕達のする事はいつもとあまり変わらないよ。親方が競り落とした商品を次々と馬車に積み込む、ってだけかな。重い物も多くなるから気を付けてね」
「競り?」
「そう、初物競り、ってやつだね。普通は商社の場合は競りに参加せずに、事前に契約している値で取引するんだけど、今回みたいに、特別な時期や行事がある時はウチや他の商社も競りに参加するんだ」
「へぇ、何か面白そうですね」

 ちょっとワクワクしてきた。オークションみたいなものだろう。
 私も参加してみたいなぁ。

「さ、そろそろ始まるからね。僕達も行こう」
「はいっ」「ういッス」
 
 



 競りの会場はツェルプストー商会本社の中庭。
 
 競りにかけられる現品の一部(と言ってもかなり大量)が中庭に所狭しと並べられ、買付に訪れているのであろう、入札者席に陣取った商人達は、今か今かと、競りの開始を待っているようだ。

「ほへ~、なんかエラく殺気だってますね、ココ」
「まぁ、誰だって新年一発目にコケたくないしね。初物競りの成功はゲン担ぎの意味もあるんだ。それもあって入札者のメンバーも結構凄いよ。ゲルマニア中のやり手の買付担当者が来ているからね」
「親方、大丈夫ですかね」
「はは、親方はやり手中のやり手。心配ないさ」

 親方は私達より先に会場入りしており、入札者席の最前列に陣取っていた。
 その表情は真剣そのものである。まぁ、あれなら心配するまでもないか。

「ところで、あれって何ですか?」

 私は入札者席の前に設置されている、黒板を細切れにしたような札を沢山差した大きな看板のような物を指差す。

「あれは入札表だね。入札した値段をあの札に書いてどんどん表に差していくんだ。新しい入札は上に、古い入札は下に、って感じで移動させていく。いちいち消したりしていたら間違いが起こるかもしれないからね。“入札”っていう語源はあの札の事なんだ」
「あ、なるほど、納得」「へえ、そうなんっスか」

 む、フーゴと被ってしまった。コレについては知らなかったみたいね。通りで大人しいはずだ。

 エンリコの話から、どうやら、この競売は、入札者側(買い手)のみが値段を提示する、シングルオークションで、かつ値段が公開される、公開入札方式、という方式が取られているようだ。

 所謂、最も一般的に知られている競売の形である。



 

「お集まりの皆様、大変お待たせ致しました!毎年恒例、ツェルプストー商会の初競りを開始致します!」

 私達がエンリコの説明に聞き入っていたところ、いつの間にか入札表の前に登場していた、競りの司会、といった服装をした男が良く通る声でそう宣言する。

「おぉ~」「早く始めろーっ!」「待ちくたびれたぞ!」

 その宣言がなされた途端、会場に蔓延していたどよめきは、皆の様々な歓声にかき消された。

 その大音量に、私は会場全体が揺れているような錯覚を覚え、思わず耳を塞いだ。

 すごい、まるでお祭りのようだ。いえ、お祭りなのかもね。

「皆様、ご静粛に、ご静粛に。開会の前に、本商会代表、クリスティアン・アウグストより皆さまに」
「ハァ~イ、元気してるぅ?」

 司会の男の後ろ側からひょっこりと現れ、その声をかき消す形でお茶目な言葉を吐いたのは、褐色肌に赤毛の、スマートな青年だった。
 
 あれが、ツェルプストー辺境伯、なのか?

「今日は俺の商会の競りに参加してくれてありがとう!愛してるぜ、お前らっ」

 パチ、とウィンクを飛ばして言うツェルプストー辺境伯(?)。

 ゲルマニアでも屈指の貴族であるだけに、会場を埋め尽くしている商人達もどう反応していいのか分からず、何とも言い難い気まずい雰囲気が会場に漂っていた。

 何か、凄く軽薄な感じがするんですが……。
 私としてはもっと、重厚なとっつきにくそうなオッサンを想像していただけに、びっくりだ。

「よぉし、お前らっ!商売に一番大切なのは何だっー?」

 しかし、その雰囲気に構わずツェルプストー辺境伯はなおも続ける。

 資金?人脈?いやいや、先見の才だ。などと商人達が口々にその疑問に対する答えを述べる。



「ち、が、あ、う!何事も一番大切なのは“情熱”だっ!」

 静まり返っていた会場は、その言葉によって拍手と歓声の音に再び包まれた。

「はっはは、それじゃ、その情熱を忘れずに今日は楽しんで言ってくれよな!よし、挨拶終わり!」

 何ともすげぇ、挨拶ですね。ツェルプストー辺境伯。
 これが“あの”キュルケの父親なのか?娘以上にぶっ飛んでるんじゃないの……?


 
「フーゴ君、アリアちゃん。僕はちょっと倉庫の方で手伝ってくるけど、どうする?しばらくここで競りを観ていてもいいよ?」
「あ、観たいです!」「お、俺も」
「じゃ、用ができたら呼ぶから、勉強しておくこと」
「はい」「ういッス」

 ツェルプストー辺境伯の挨拶が終わった後、エンリコがそんな提案をしてきた。
 これを観ずに、倉庫で作業しているのは勿体ないというものだ。



「では栄えある一番目の商品はっ、アルビオンからっ!グラーナを大量に使用した高級毛織物だぁーっ」

 入札表の前に、見本であろうキレイな染色をされた毛織物が掲示された。

 グラーナ、というのはアルビオンで生産される最高品質の羊毛の事である。
 または、それを染め上げる赤色染料の事を指すこともあるが、この場合は羊毛の方で間違いない。

 現在では各国で牧畜されている羊だが、未だにアルビオンの羊毛の質には勝てないと言われているのだ。

「毛織物か。こりゃウチの親方は手は出さねえな」
「なんで?」

 顎に手をやったフーゴの訳知り顔の発言に、疑問を投げかける私。

「ウチの本社のある南部は羊毛の生産地だろ?いくら質がいいつったって羊毛製品じゃ需要がねーからな。買うのは金の余ってる貴族くらいってなもんだ。北部は毛織物自体を生産してるから同じく需要がない。あれを買うとしたら、西部の連中か東部の連中だろうな」
「なるほどねぇ」

 フーゴも興奮しているのか、珍しく私の疑問に素直に答える。



 事件はそんな時に起こった。



「もし、君がアリアちゃんかな?」
「はい?」

 私達が競売の行方に熱中していると、ふと後ろから声を掛けられた。
 声を掛けてきたのは、大柄で屈強そうな、しかしどこか暗い感じの男。

「はい、そうですけど。何か?」
「ちょっと一緒に来てもらえないかな」
「え、困ります」

 意味の分からない突然の勧誘に、私は当然拒絶の意を示す。

「本当にちょっとでいいんだけどなぁ」
「おい、何なんだよ、てめぇ」

 なおもしつこく誘ってくる大男に、明らかに不機嫌な様子になったフーゴが私の前に立ちふさがり、喧嘩腰に男に詰め寄る。
 あれ、何か男らしいぞ、今日のフーゴは。

「邪魔だよ」

 そう言って詰め寄るフーゴを突き飛ばす大男。

「な、何するんですか?!」
「……っ、てめぇっ!」

 倒れたフーゴに駆け寄ると、フーゴは当然激昂していた。
 しかし、この騒ぎにも関わらず、競売に熱中して大声を張り上げている周りの人間は気付かない。

 仮に気付いても、下らない小競合いだと思って捨て置かれているのかもしれない。

「嫌でも来てもらうよ、主からの命令は絶対だからね」

 そう言って厭らしく微笑む大男。



 身の危険を感じ、逃げようとした瞬間。




「む、ぐぅ……っ」

 私の口は塞がれ、大男に軽々と抱え上げられてしまっていた。

 そして大男は外に向かって尋常ではないスピードで走り出す。

(だ、誰か、助けてっ!)

 しかし、この非常事態にも、周りの人間は気付いていないのか、関わりたくないのか、一様に無関心。

 競売の値を吊り上げる声だけが、私の耳に虚しく響く。



 しかし、一人だけ、追いかけて来てくれる人物がいた。



「待ちやがれ、てめぇっ!アリアを離せ、クソ野郎がっ」

 フーゴだった。

 彼だけは顔を真っ赤にして、必死の形相で追いかけて来てくれる。
 腰から抜いた“ハタキ”を手に持って。

 あれ、あんなに仲が悪いはずなのに、何でだろう?やっぱり、商店の仲間、だからかな……?
 というか、ハタキなんて持っても役に立たないよ、馬鹿。

 私は異常事態についていかない頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを考える。





「おかしいな……何処行っちゃったんだ?全く、あの二人は……」

 二人を呼びに来たエンリコは、その二人が直面している危機をよそに、暢気にぽつりと呟いていた。






つづけ





[19087] 19話 紅白吸血鬼合戦
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/06 00:53
 時間は、少し遡る。
 具体的には、黄色い太陽が、真上からケルンの白い景色をプリズムに反射させている頃。

「ふぅ……」

 自室でだらだらと過ごしていたロッテは、外の景色に目をやりながら、悩ましげに白い息を吐きだした。

 ちなみに、今日は遅番であるので、ご出勤は夕刻を過ぎてからである。
 断じて仕事をさぼっているわけではない、という事は彼女の名誉のために付け加えておこう。



 最近溜息の数が増える一方の彼女。

 その原因は、お水としての人生に疲れた、などという事ではない。
 言うまでもなく、同族でありながら敵対しているあの男、ジルヴェスターの事であった。

 最初の邂逅以来、彼が蟲惑の妖精亭に現れる事はなく、劇作家としての噂も、とんと聞かなくなってしまった。

 要するに雲隠れしてしまった、という訳である。

 何とか先手を取りたい彼女は、彼が活躍していたという、ケルンの中央劇場を訪ねても見たが、劇作家であるという触れ込みが本当だと分かった事以外に収穫はなかった。
 何処に住んでいたのか?普段は何をしていたのか?親しい友人は?などという情報は皆無。

 捜索は完全に行き詰ってしまい、そこからは何の進展もみられず、気付けば約束の期限を過ぎてしまっていたのだ。



(むぅ。未だに何の動きも見せんとは……もしや妾には勝てんと悟って尻尾を巻いたか?)

 ロッテは顎に手をやって思考する。

 戦えば必ず自分が勝つ、と彼女は確信している。
 それは驕りでも何でもなく、実力と経験に基づく圧倒的な自信。

(……だったら良いのじゃが。奴の自信はあれで本物のように見えたし、荒事になるのは避けられまい。……じゃが姿を隠したという事は正面切ってやり合う気はないという事。となると、何らかの搦め手で来るはず……)

 そもそも、単純に自分の力量に自信があるのなら、無駄な時間など設けず、その場で戦闘になっていたはずだ。
 それをしなかったという事は、ジルヴェスターは自分の実力がロッテに劣る事は把握している、という事。
 向こうとしては、できれば穏便に済ませたかったはずなのだ。

 その上で勝利を得ようとするならば、何らかの策を投じて来る事は明白だった。

(そうなるとアリアの方を狙って、それを交渉材料にする、という可能性も無きにしも在らず。アレは弱っちいからのう……。うぅむ、やはり妾がついておるべきか?いや、あれだけの自信を見せておきながら、そこまで情けない手を使ってくるか?飽くまで可能性の一つじゃし、四六時中妾がついておるわけにもいかんし……)

 ロッテは神経質そうに部屋の中をせわしなく歩きまわる。

(結局、あちらが動きが分からない以上、具体的な手は何も打てんのか。あぁ、もう苛々する……)

 最終的に諦めたロッテはアリアがよくするように、ベッドにダイブして、腹立ち紛れに枕をぼす、と壁に投げつけた。
 
 こんな答えの出ない無限ループな思考が、ここ最近、彼女の脳内で繰り返されていた。



 彼女は自分自身では、知謀に長けた脚本家である、と考えているが、客観的に見れば、それは全くの見当外れである。
 それよりも、演技者の適正の方が遥かに高い。

 考えるよりも、感覚を頼りに、実際にやってみた方が早いという天才型。人にモノを教えるのは大の苦手と言える。
 よくもまあ、アリアに読み書きを教えられたものだ、と思うが、生徒の方が優秀だった、という事にしておこう。

 この手のタイプは考えれば考える程、ドツボに嵌って失敗する。
 策士としての資質は、どちらかと言えば、アリアの方に分があるだろう。



 実は、彼女もその事には薄々気付いてはいる。
 いるのだが、この件についてアリアに相談する事はおろか、知らせる事もしなかった。

 それは、一種の見栄とプライド。

 本人は否定するだろうが、妹に自分の弱みを見せたくない、という姉の心境に近いものから生まれた見栄。
 吸血鬼同士の争いに人間の手を借りてどうする、というプライド。

 この二つがあったために、彼女は飽くまで、今回の出来事に関しては、独力で片づけるつもりであったのだ。





 とん、とん、とん。

「む……。何じゃ、まさか時間を過ぎておったか?」

 暫くの間、ロッテが不貞寝していると、不意に自室のドアがノックされる。

 時間が過ぎた、というのは蟲惑の妖精亭への出勤時間の事。
 以前にも、こうやって寝過した事は何度かあり、その度に若干眉を吊り上げたスカロンがわざわざここまで迎えに来るのだった。



 しかし、窓の外の太陽の傾きを見てみると、まだ若干余裕がありそうな時間帯である事がわかる。

 彼女は訝しげに思いながらも、立て付けのあまりよくないドアをギィと開いた。

「誰ぞ?……ぬ、お主は確か、アリアの勤め先の」
「……ど、同僚デス。こ、こ、こんちは」

 扉を開いた先には、カシミール商店の双子見習いの片割れ、ゴーロが緊張のためか、蒼白な面持ちで立っていた。
 
「(なぁんか、変な奴じゃのう……)見ての通り、妾しかおらんのじゃが。何か用かえ?」
「……お、おお、落ちついて聞いてクダサイ」
「妾は十分落ちついておるが。主こそ落ち着いた方が良いぞ」
「……アリアが、ですね」
「アレがどうかしたか?」
「……これが、その、門に。商店の」
「読めばいいのか?」
「……はい」
 
 訳が分からない、という顔をするロッテに、自分の口から事実を告げる事を迷ったゴーロが例の書状の写しを渡す。

「…………」
「……もしかすると、悪戯の可能性も。何の要求も書いてませんし」

 ゴーロは、目を剥いて書状を持った手をわなわなと震えさせるロッテを励ますように声をかける。

 商店のメンバーには、一応本当の姉、という事で通っている。肉親が誘拐されたなど、どんな無愛想な人間でも気を使うのが普通だろう。



 しかし、彼女は。



「……臆病者めがッ!」
「ふわっ?!」

 落ち込むどころか、罵声を口にしながら、ごぉん、と壁を一発。
 腰の入った拳で抉るように叩くと、寮全体がぎし、と軋んだ。

 ゴーロはその凄まじい威力への驚愕のあまり、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「想定していた、想定はしていたが。その中で最も恥ずべき物を選びよるとはな……。奴にはプライドと言う物がないのか?!」
「……あの、犯人に心当たりが?」

 怒りを隠そうともせずに吐き捨てるロッテ。
 その様子に恐々としながらも、ゴーロは疑問を口にする。

「……まぁ、の。それよりもお主」
「……はい?」
「妾は少し用が出来た。蟲惑の妖精亭に行って今日は休むと伝えておけ」
「……え」
「では頼んだぞ。また小言を貰うのは勘弁じゃし、無断欠勤は3日分の減棒なのでな」
「……あ、何処に行くんですか?!」
「ちょっとワルモノ退治に、の」

 ロッテはそう言ってちらり、と獰猛な笑みでゴーロを一瞥すると、すんすん、と鼻を鳴らしながら、カツカツと靴を踏み鳴らして外に向かっていった。



「……ところで、蟲惑の妖精亭って、どこ?」

 ロッテの後ろ姿を呆然と見送りながら、ゴーロは絶望したような顔で呟く。

 蟲惑の妖精亭。健全な青少年には関わりのない場所である。





 所は変わって、ケルンの北に広がる森の奥深く、とある資産家の別荘。

 別荘、といっても、あまりにも不便な場所であったため、大分昔に打ち捨てられており、既に人が寄りつくような場所ではなくなっていた。
 捨てるなら最初からそんなところに建てるな、と思うのだが、金の余った人間のすることは、いつの世も凡人には理解できぬものだ。
 
 手入れを全くしていない別荘の天井の板は剥がれ、木組みが剥き出しになり、窓は割れ、床や壁に亀裂が入っている。
 元はさぞかし立派だったであろう、ガリア産の高級家具も使い物にならないほど劣化していた。
 人が住まない建物というのは、あっという間にぼろぼろになってしまうのだ。



 さて、その中でも、何とか部屋の体裁を保っていた窓のない小部屋に、少年と少女が仲良くロープでぐるぐる巻きにされたまま寝かされていた。
 


「ん、ん…………寒っ」

 壁に僅かに空いた隙間から吹き込む、肌を切り裂くような冷気に当てられ、少女の方、アリアは目を覚ました。
 その刺激のせいか、起きたばかりだというのに、妙に頭は冴えていた。

「ここは……?んげっ。……やれやれ、こんなところでもセット扱いとはねぇ……」

 アリアの後ろ、というかぴったりと背中合わせとなっているのは、寝息を立てて暢気に眠っているフーゴ。

「ま、死んではいないだけ、マシ、ね……」
「お目覚めになられましたか、眠り姫。スイートルームの寝心地は如何でしたでしょうか?」
「……?」

 突然掛けられた声に、アリアが身をよじってそちらに目をやると、椅子に腰かけてにやにやと厭らしい笑みを向けるジルヴェスターと、その隣には、例の大男が無表情に佇んでいた。

「……これでスイートとは、随分と質の悪いホテルね。せめて暖房くらいは入れた方がいいんじゃないかしら?」

 アリアは、それを睨みつけるでもなく、飄々としながら皮肉を述べた。

「これは大変失礼。しかし、随分と肝が据わっているのですね」
「吸血鬼と“お話”するのはいつもの事よ」
「私は彼女ほど甘くありませんよ?」

 心外だ、という風に若干目を剥いて言うジルヴェスター。

「同じ、とは言ってないわ。ロッテの方が貴方なんかよりも数倍怖いもの。……しかし、やっぱりアイツ絡みなのね。最近あいつの様子が変だったのははそういう事、か」
「くく、言いますね。成程。彼女が助けてくれる、という信頼というわけですか?」
「信頼、ね。そんな大層なものじゃないけど。ま、来るでしょうね。自分の所有物《おもちゃ》を盗られて黙っているようなタマじゃないし」

 アリアは勝ち誇ったような笑みを見せる。

 アリアがロッテを“信頼”しているかまではわからないが、“信用”はしているようだ。

「ふふ、それが聞きたかった。彼女に招待を断られてしまってはどうしようと不安になっていた所でして」
「あら、招待状でも送ったの?」
「商店の方に届けさせて頂きました。貴女方の住んでいる寮に部外者が近づくのは人目に付きますし、何より、彼女と鉢合わせてしまっては怖いので」
「ふぅん……随分と慎重、というか臆病ね。でもそんな事をしたら貴方の呼んでいない、招かれざる客まで来るかもしれないわよ。例えば、役人とか」
「平民の子供が1人2人誘拐された所で官憲は動きませんよ。万一動いたとしても、貴方のニオイを追跡できる彼女しかこの場所は割り出せません」
「……一応は考えているって訳か。でもアイツを呼びだしてどうするつもり?戦うだけなら別にこんな回りくどい事をする必要はないわよね」
「戦いにも色々とやり方というものがありまして」

 意味深げに笑みを浮かべるが、多くを語る気はないジルヴェスターは、そこで話を区切ろうとする。

「なるほどね。どうして争っているのかは分からないけど、要するに、正面からロッテとやり合うのは分が悪い。だから、斜めから攻めようって訳か」
「……まぁ、そんなところです。もっとも、彼女と真正面からやり合える同族など、ハルケギニア中を探してもそうはいないでしょうが。何せ、彼女は我々のような上位の吸血鬼の中でも、名門中の名門の血統、あなた達人間で言うところの、いわゆる“王族”のような物ですから」
「……は、王族?アレが?」
「ええ、ご存じありませんでしたか?」

 アリアは突然もたらされた情報に、思わず目を剥く。

 まあ、飽くまで人間世界に例えればの話で、実際は吸血鬼の世界に王族などはいないのだが。 

「初耳ね。アイツ、どんだけ私に隠し事してんのよ。まぁ、それならあの妙な言葉遣いも納得いくけど……」
「ふ、所詮、吸血鬼が人間に心を許すことなど無い、という事ですね。……さて、そろそろ彼女もやってくるでしょう。私は歓迎のご挨拶に行って参りますので、これにて失礼させて頂きます」
「あら、つれないわね。もっと色々教えてほしいわ」
「続きは彼女の血で祝杯をあげながらでも」

 そう言って乾杯する真似をすると、ジルヴェスターは椅子からスッと立ちあがり、大男に向かって小声で何やら指示を出す。



「ちぇ、俺は餓鬼のお守りかよぉ。主も人使い、いや屍人鬼使いが荒いぜ……」

 指示が終わると、大男は面倒臭そうに、頭をぼりぼりと掻いてぼやく。

「文句がお有りでしたら、“交換”してもいいのですよ?先程も子供相手に醜態を見せてくれましたしね」
「あ、いや、それは勘弁して下さいよ。俺だってまだ死にたくはねえ」
「実際、既に死んでいるんですけどね……」
「へへ、違えねえ」

 奇妙な掛け合いをしながら、ジルヴェスターと屍人鬼の二人組は、重そうな音のする扉を開けて部屋を出る。
 程なく、がちゃり、と錠前の下りる無機質な金属音が部屋の中にも響いた。

 どうやら、これで完全な密室となってしまったようだ。

 恐らく、大男が部屋の外で扉の番をするのだろう。この部屋は、ただ一つの扉以外に脱出路はないので、そこを押さえておけば逃げ場はないのだ。



「はぁ、緊張したぁ……。でも結局、大した情報は聞き出せなかったわね……」

 二人が出て行ったのを確認すると、アリアは大きく安堵の息を吐いた。

 屋敷での経験上、恐怖に対する耐性はかなりついているものの、やはりコワイ物はコワイのだ。

「……おい」
「ぶるわぁ!」

 とりあえずの危機が去って安堵したところに、突然後ろから掛けられ、アリアは不細工な悲鳴を上げて、腰を浮かせた。

「あいつらより俺にびびってどうすんだよ……」

 声の主はフーゴ。いつの間にか彼も起きていたらしい。

「……あんた、何時の間に起きてたのよ?」
「ついさっき、な。それより、お前どういう事だよ?何で吸血鬼なんてヤバイものに関わってんだ?もしかして、お前も吸血鬼、なのか……?」
「違うわよ!私は正真正銘、れっきとした人間!」
「……そーか。ま、お前が吸血鬼なわけないよな……。けど、今の奴の他にもう一匹いるんだろ、吸血鬼。お前の知り合いみたいな事言ってたけど……」
「き、聞き間違えよ!実は、私が姉が、えぇと、……そう!吸血鬼退治、というか亜人退治専門の……アレよ、傭兵なのよ。凄腕の。伝説級の。何て言ったっけ、アレ?」

 ロッテが吸血鬼だと知られるのはまずいアリアは、完全にテンパりながらも苦しい言い訳を考える。

 もし、無事に帰れたとしても、ロッテが吸血鬼だという事がバレれば、当然一緒にいるアリアもやばい。
 吸血鬼に与しているなど、昨今、ロマリアから目の敵にされている新教徒などよりよほど論外だ。
 異端審問にかけられる事すらなく死刑台に直行だろう。

「は?あの美人の姉ちゃんがメイジ殺し?」
「そう、それ!あの吸血鬼は、実はその昔、私の姉が退治した吸血鬼の子供……じゃなくて、仲間だったの。その仇打ちに来たって事らしいわ」
「……なんか、すげえ嘘くせえ」
「そ、そう言えば、メイジと言えば。系統魔法を使えるあんたこそ何者?」

 胡散臭そうに言うフーゴに、必死で話題を逸らそうとするアリア。

「あー……あれな、みんなには内緒にしろよ」
「何で?別にいいじゃん」
「馬鹿、俺が貴族だと判ったら、みんなが変に気を使うだろうが。それじゃ修行になんねーよ」
「は、貴族?没落した家とか、メイジの血を引いた平民、とかじゃないの?!」
「……あ」

 つい口を滑らせてしまったフーゴは、思わず声をあげた。

「き、貴族といっても、どうせ下っ端の、しょっぼい役人とかでしょ?!」
「……まぁ、どうでもいいけど。フッガー伯爵家の一員だよ、一応な」
「フ、フッガー家……」

 フッガー家と聞いて、アリアは、ちょっと泣きそうな顔になった。



 それもそのはず、フッガー家といえば、ゲルマニア南部の商会組合を率いる、ゲルマニアでも有数の上級貴族である。
 というか、カシミール商店の共同出資者でもあり、本社の代表でもある。

 つまり、現在のアリアの立場から見れば、完全に天上人。

 そのご子息に今まで散々罵声を浴びせた挙句、自分のせいで誘拐事件にまで巻きこんでしまったのだ。
 これはロッテが吸血鬼だとバレなくても無礼打ち、よくても商店をクビにされ、国外追放されるかもしれない。



「……あの。これまでのご無礼、何卒」
「あぁ、もう!だから言いたくねーんだよ。貴族だとわかった途端手の平を返しやがって……」

 フーゴはがっかりしたように吐き捨てると、アリアはやれやれ、という風に溜息をついて、先程の発言を訂正する。

「あー、やめたやめた。あほらし。あんたが貴族だろうが裸族だろうが、どうでもいいわ。だって吸血鬼の方が怖いし、強いし。実際あんたもあの吸血鬼に手も足もでなかったしね」
「へ、いつも通りのムカツク口が戻ってきたな。それでいいんだよ、馬鹿」

 いつもの口調でアリアがそう言うと、満足気にフーゴは笑う。

「……で、何でそのお貴族様が見習いなんてやってるわけ?お家でマナーのお勉強でもしていた方がいいんじゃないの?特にあんたの場合は」
「なぁにが、マナーのお勉強だ。お前こそ少しは女らしくしやがれってんだ。……ま、俺は、伯爵家つっても、所詮は三男だからな。そのままいけば、爵位は当然ないし、せいぜいお前の言うようなしょっぼい役人か下っ端の軍人、それかどっかの屋敷の執事とか。そういう立場にしかなれねー。つまんねーだろ、そんなもん」
「つまる、つまんないの問題?安定した生活はできるでしょうに」

 フーゴは同意を求めるように言うが、アリアは馬鹿にしたような口調で返す。
 
 それはそうだ。並みの平民から見れば、下級貴族と言えども平民の平均所得の4倍以上の収入を得られるのだから。
 まぁ、確かに大商人にまでなれば、そんな額は鼻で笑ってしまうレベルではあるが。

「お前だって農民が嫌でゲルマニアまで出てきたんだろうが」
「まぁ、私の場合は特殊よ、特殊」
「特殊ねぇ。ま、いいや。俺の“ご先祖様のように”、商人として成り上がろうと思ってな。敢えて安定した身分を捨てて、ゼロからのスタート。どうだ、格好いいだろう」

 ふんぞり返って言うフーゴ。縛られているというのに、器用な奴である。



 フッガー家と言えば、商人から成り上がった家系としても有名だ。

 初代フッガー家の当主ヤコブは、平凡な地方の小売商の家に産まれたものの、それを良しとせず、アウグスブルグの商家見習いとして交易の道へと入る。

 そこから遍歴商人、高利貸しなどを経て、当時南部を支配していたさる大貴族に、大量に貸し付けていた借金のカタとして、当時は小規模だった銀鉱の採掘権を獲得。
 その銀鉱をゲルマニア、というかハルケギニア一の銀鉱に発展させ、銀の交易によって膨大な利益を得て、一気に成りあがった、というまさにゲルマニア・ドリームのお手本のような存在であった。
 また、貧しい労働者用の集合住宅を、ほとんど無償でアウグスブルグに提供するなど、慈善家としても名が高い。

 最も、それはかなり昔の事で、今はフーゴのように、メイジの血が脈々と流れる正真正銘の貴族となっているが。



「どうかしら。私から見ると、底抜けの阿呆にしか見えないんだけど。下級貴族からのスタートの方がいいんじゃないの?」
「無理。下級貴族がそれ以上を望むなら、軍人として戦役を挙げるとか、そのくらいしかない。軍人とかなりたくねーし。それに比べて、商人は無限の可能性があるからな」
「ふーん、無限の可能性、ねぇ。ま、阿呆には変わりないけど、上を目指す姿勢だけは、中々の物ね。少しは見直したかも」
「ほ、ほんとか?!」
 
 アリアの何気ない褒め言葉に、少し、というかかなり嬉しそうに言うフーゴ。

「まあ……それもここを抜け出して生き延びないと、意味はないけどね」
「言うなよ……折角考えないようにしてたのによ」
「はぁ」「ふぅ」

 しかし、その気分に水を差すかのように、アリアが現実を突きつけると、二人して大きな溜息を吐いた。



「……とりあえずこのロープをなんとかしましょう。これさえ外せれば、なんとかなるわ」
「なんとか、って……外しても、あの大男が外で見張ってんだろ。しかも唯一の出入り口には鍵が掛かってるし」
「大丈夫、私に考えがあるのよ。あんた、何か、尖ったものとか持ってない?」
「さすがにそういうもんは縛る前に取り上げられて……」

 そう言いながらも、ポケットをまさぐるフーゴ。

「ま、そうよね。さすがにあるわけ……」
「いや、待て。あったぞ。俺のポケットに布切り用の小刀が入ってる」
「嘘?!……随分と舐められたものね……。所詮人間の子供に何が出来る、とでも思っているのかしら。まぁ、それならそれで好都合だわ」
「だな」
「さあ、ロープを切りなさい、フーゴ」
「あいよ、りょーかい。でも考えってなんだよ。俺の杖も取られちまったし、鍵が開けられたとしても、あの化物には勝てねーぞ?」
「化物退治には、ちょっと自信があってね」
「ふ~ん……」

 アリアの確信に満ちた回答に、様々な疑問を抱きながらも、フーゴは小刀を動かす手を休める事なく作業を続けた。





 すんっ、すんっ。

 高く整った形の鼻をひくつかせて、雪深い森の中を、飢えた狼のように疾走する、メイジ殺し、もとい吸血鬼リーゼロッテ。

(んむ、要所要所にわざとニオイを残しておるな……。待ち伏せか?つまらん罠じゃの)


 分岐点のある場所には、必ずと言っていいほど、“ニオイ”をこすりつけたような痕があり、そのおかげで、ロッテは驚く程簡単に北の森を突きとめた。
 もっとも、そのニオイが分かるのは彼女をおいておらず、現在、同じ敵を捜索中であるクリスティアン達がこの方法で目的の場所へと辿りつくのは不可能であろうが。

 罠、とわかりながらも突き進むロッテ。それくらい今の彼女は“キレて”いた。

(しかし北の森、か。……くっく、森を戦場に選ぶとは、奴こそ森の敗者そのものではないか)

 街と違って、この時期の森に立ち入る人間はまず居ない。

 なので、ここからは、ニオイがなくとも森に降り積もった雪についた、足跡を辿れば良いはずだったのだが。



(おかしい、足跡が消えた……。それに、ニオイも?)

 しかし、森の途中、丁度木々が密生しているあたりで、はた、とその痕跡が消えていた。
 どうしたものか、とロッテはそこで立ち止まってしまう。

(ここからは上の枝を伝っていったのか……。それにしてもニオイもないのは何じゃ?何らかの精霊魔法……何っ?!)



 びゅん。



 ロッテが立ち止まった瞬間、鋭く尖った枝の槍が、頭上からロッテに襲いかかった。

 それは捕縛などという、ヌルい目的ではなく、必殺の一撃。

「ぬぅっ」

 しかしロッテは、驚異的な反射神経で、木の葉のように宙を舞い、それを回避してみせた。

 まるで猫のような機敏さ。

「む……何じゃ、ここで決着をつける、という事か」

 ぐるりと辺りを確認すれば、森に生える無数の枝が、うねうねと触手のように動きながら、四方八方からロッテを狙っている。



「よかろう、やってみろっ!この、リーゼロッテに対してっ!」

 彼女は紅い瞳を獰猛に光らせ、腰を落として体勢を整えると、戦闘の開始を高らかに宣言した。



(枝よ、伸びし枝よ……愚かな侵入者を穿て)

 それに呼応するかのように、ひゅひゅん、っと襲いかかる伸びし枝達。
 スコールのように降り注ぐ枝は、いかなる達人でも躱す事は不可能。

「ち、姿を見せずに終わらせる気か?甘いわっ!」

 気合一閃。

 それを全て、片手で薙ぎ払うロッテ。
 襲いかかった枝達は、あまりの威力に、クッキーを砕いたかのように粉々に粉砕される。

「ふっ」

 息を着く事無く、雪を蹴りあげ、地を駆ける。

(これだけ、こちらの急所を的確に攻撃してくるという事は、敵はそう遠くには居ないはず……)

 そう判断したロッテは、鬱陶しい木々の相手をするのを二の次にし、まずはジルヴェスターの索敵に力を傾ける事にした。

 系統魔法と違って、精霊魔法には精神力による限度はない。
 よって、こういう場合、相手が疲れるまで躱し続ける、というのは得策ではなく、術者の本体を探すことが先決なのだ。



「くそ、何処じゃ、何処におる?」

 しかし、何時まで地上を捜し回っても、その姿は掴めない。

 かなりの距離を駆けまわり、その間も無遠慮な木々の攻撃にさらされ続けたロッテの体には、無数の擦禍傷が刻まれていた。

 深い傷は一つもなかったが、息もつかせぬ攻防により、その動きには目に見えて疲れが見え始めていた。
 【再生】という能力はあっても、肉体の疲労はどうにもならないのだ。

「下にいないとすれば、上か!」
(ふふ、それはどうでしょう)

 地には敵がいない、と判断したロッテは天を仰ぎみる。
 高く生い茂った木々の上ならば、こちらの状況も掴みやすいであろう。

「うおぉっ」

 そう考えた時には、彼女は、手近な樹の太い幹を、“垂直に”駆け登っていた。
 猫のように、と言ったが、訂正しよう。既に、彼女の動きは野生の獣を超えている。
 




「ぐっ……。最悪、じゃなこれは……」

 しかし、樹上はロッテにとっては更なる地獄だった。

 待ち受けていたのは、地上とは比べ物にならぬほど、密生した枝の大軍。
 しかも、それを不安定な足場で、相手にせねばならない。

(さあ、行きなさい!)

 上下左右、あらゆる方向から一斉に飛びかかる枝の兵隊達。
 向かってくる数を数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどの枝の突進。

 多数に無勢も甚だしい。

 これだけの数を全ていなすのは不可能と判断したロッテは、自らも同じ精霊魔法【生長】で応戦しようとする。

「えぇい、小賢しいっ!……枝よ、伸びし枝よっ!妾に仇なす事を許さん!」

 突進する枝は、ロッテの命令に対して、ピクリ、と一瞬、止まった。 

 が。

「何っ?!」
(無駄ですよ)

 しかし、それは長くは続かず、その突進は止まらなかった。

 万全の状態であれば、おそらくロッテの命令の方を優先したであろうが、態勢を崩しながらの精霊への呼びかけが不完全な詠唱では、いかに術者が優秀であっても、威力は半減してしまうのだ。

「くっ」

 虚を突かれた彼女は、やむなく、亀のような防御態勢を取る。
 如何に彼女が頑丈といえど、急所をぶち抜かれればタダでは済まない。

「ぐっ……くそっ、姿さえ見えればっ!姿を見せろ、卑怯者めっ!」
(ふふ、卑怯で結構。これが、私の“やり方”ですので)

 ロッテは、突き刺さった枝を勢いよく引きぬいて投げ捨てると、怒りに髪を逆立てて罵声を浴びせるが、当然それにジルヴェスターが応えるはずもない。

 これが彼の必勝を支えてきた戦法なのだから。
 無策で挑んだロッテの方が甘いのだ。

「しつこい……っ?」
(足元がお留守ですよ)

 執拗に襲いかかる枝達の攻撃。

 上半身の急所への攻撃に気を取られたロッテは、同時に足元に伸びていた枝に気付けなかった。

「……っ!」

 ぎゅるっ、と巻き付いた枝が、勢いよく彼女を天から地へと叩きつける。

 そこに待っていました、とばかりに矢のような追撃が襲いかかる。

 ざしゅっ、ざしゅっ、と巨大な獲物に群がるピラニアのように、枝達は何度も何度も地を突き刺す。

 大量の雪が粉塵のようにキラキラと宙に舞い上がる。
 地震のような衝撃に、木々に降り積もった雪が大きな音をたてて滑り落ちる。
 枝が密集しすぎて、一つの大きな繭のようなものを作り上げていた。
 
(ここまで、ですかね?)

 しかし、終わりではなかった。

 ぱぁん、とその繭が強い力によって破裂する。

「があぁああっ!」

 ぶちぶち、と枝を引き裂く音とともに、ロッテの咆哮が森に響く。

「く、くヒ、けひゃぁああっ、もう、殺すっ、お前は1000回殺すッ!」

 四肢のあちこちの肉が裂けているが、長い髪を山姥のように振り乱して、怒り狂う彼女は未だに健在だった。



(やれやれ、これでも倒せませんか。頑丈ですねぇ。ま、気長に行きましょうか、気長に、ね)

 ジルヴェスターは、その怒りの雄たけびを、まるで心地良いクラシック音楽を観賞するかのように聴きながら、不敵ににやりと微笑んだ。





つづけ






[19087] 18話 踊る捜査線
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/07/29 21:09

 フーゴは激怒した。
 必ず、あの大男に追いつかねばならぬ、と決意した。

(くそっ……馬鹿みてぇに速ぇ)

 フーゴは、はっ、はっ、と息を切らしながらも、まるで黒い風のように走り去る、アリアを抱えた大男に食い下がっていた。
 人気の無い方へ、無い方へと、ケルンの街を走り抜けて行く二人を見咎める者はいない。



 足は鉛を巻きつけたかのように重い。

 心の臓がばっく、ばっく、と限界を告げる。

 頭がクラクラして、どこかに吹っ飛んでしまいそうだ。

 それでもなお、フーゴは走り続けた。
 


 そこまでして、何故。

 その理由は彼自身もあまりよく分かってはいない。
 ただ、彼の深い所で、彼女を助けねば、という衝動が湧き起こっていた。

(全く、世話の焼ける子分だぜ……)

 彼はその理由を職場の先輩、兄貴分として、彼女を助けねばならないのだ、と自分の中で納得させた。



(ぐ、こんな事ならもう少し真面目に“練習”しておくんだった……)

 ぼぅっとしてきた頭でそんな後悔をするが、すぐに頭を切り替える。

(この先は袋小路じゃねーか。あの野郎、どういうつもりだ……?ま、いい。それなら)

 ラストスパートとばかりに、軋む体に鞭打って大男を追い詰めるフーゴ。
 手にはアリアが馬鹿にした“ハタキ”がしっかりと握られていた。



「…………」
「……はぁっ、はぁっ追い詰めた、ぞ。変態野郎」

 袋小路の石壁を前に、はた、と立ち止まった大男に、ハタキを突き付けてそう宣言するフーゴ。
 あたりには大小様々なゴミが散乱している。どうやらここは、ゴミ捨て場にもなっているようだ。

「追い詰めた……?ぷ、くく、俺は煩い小虫をここで始末しようと思っただけさぁ」

 大男は両手を広げて余裕の表情を見せる。

 それはそうだ。フーゴと大男では体格が違いすぎる。取っ組み合いになればやられるのはどちらか明白だ。

「むぅぐ、むっ、むぅき(フーゴ、一人じゃ無理だって!)」

 アリアは塞がれたままの口でそう叫ぶ。

「はっ、何言ってるかわかんねぇよ、馬鹿」

 馬鹿、と言いながらも、アリアを安心させようと、歯を見せて笑うフーゴ。

「むげふ、むぐ!(逃げろ、馬鹿!)」

 それを見てときめく訳も無いアリアは、さっさと逃げろと、言葉にならない言葉で返す。

「ぷ、くく、そんな“ハタキ”を構えて正義の味方ごっこかよ、小僧。餓鬼はさっさとお家に帰らねえと怪我するぜ?」
「やれるもんならやってみろよ、木偶の棒」
「は、それじゃお言葉に甘え、てっ!」

 ひゅん、と一閃。

 言い切るや否や、一瞬でフーゴとの間合いを詰めた大男は、鋭い風切り音を立てる廻し蹴りを放った。

 アリアをその腕に抱えたまま。

 凄まじい、身体能力。
 
「がッ……?」

 繰り出された蹴りの初速は異常。非情。過剰。

 到底、人間の反応速度ではかわせるものではない。

 案の定、フーゴはそれに反応できず、後ろに大きく吹き飛ばされた。

「おいおい、もうオネムかよ」
「む、むぅぐ……」
 
 あまりの呆気なさに拍子抜けしたかのように呟く大男。

 倒れ込んだフーゴにもう興味はないのか、大男は袋小路から立ち去ろうとする。



「……す……る……でる」
「あぁ?まだ起きてたのか……」
 
 フーゴはまだ意識を失ったわけではなかった。
 大男は、何事かを呟くフーゴにぴくりと反応する。

「面倒臭ぇ……余計な騒ぎは起こすな、つってたが餓鬼の一匹くらい、いいやな」

 厄介そうに首をコキコキと鳴らしながら、大男は未だに倒れているフーゴにトドメを刺そうと、獲物を付け狙う獣のように、じっくりとその間合いを詰めて行く。

 アリアが必死に身動ぎするが、がっちりと彼女の身体を締めつける太い腕の拘束を解くことは出来ない。

「……仕事はきちんとこなす。子分も守る。“両方”やんなくちゃあならないってのが“兄貴分”のツライところだよな……」

 惨めに倒れたまま、大男にハタキを向け、どこかで聞いたような台詞を吐き出すフーゴ。
 台詞は格好いいが、地に這いつくばった態勢ではあまり格好がついていない。

「なぁに、言ってやがる。ビビりすぎて頭がイカれちまったのかぁ?……ぅん?…………
な、何っ?」

 馬鹿にしたような態度でニヤけていた大男の表情が凍りついた。

 突如起こった、予期せぬ現象によって。

「むぅ?!」

 大男に掴まっているアリアすら、その事を忘れ、ただ目の前で起こった信じられない事に目を剥いていた。



 一体何が?



「……人型創造《クリエイト・ゴーレム》」

 フーゴがのろのろと立ち上がりながらそう呟くと、目の前の石畳がぼこぼことせり上がり、人の形を成していく。



 造りは粗く、材料も所詮は石。大きさも精々大男と同じ程度で、数もたった一体。
 しかし、それは紛れも無く土の系統魔法、《クリエイト・ゴーレム》であった。



「め、メイジだとぉ?」
「ゴーレム、ちんちくりんを助け出せ!」

 フーゴが“ハタキ”を振ってゴーレムにそう命じると、無骨な造りのゴーレムは、それに見合わないスピードで大男へと向かって行く。

「ぐっ」 

 ゴーレムは単純だが、重い打撃を両の腕から、次々と繰り出す。

 それに対して、大男は防戦一方。
 時たま、蹴りなどで応戦するも、硬いゴーレムの身体に傷を付けることすら出来ない。

 大男は、徐々に壁際に押し込まれ、苦悶の表情を見せ出した。

「ちっ、面倒臭ぇ!面倒臭ぇえっ!」
「ひゃっ」
 
 異常な身体能力を誇る大男とて、さすがにゴーレム相手では荷物を両腕に抱えたままの戦闘はまずい、と判断したのか、大男はアリアを宙に放り出した。

「危ねっ!」
「おわっ」

 フーゴはそれを見てすかさず、宙に舞うアリアを目がけてダイビングキャッチ。

「……っと、無事か?!」
「お、おお。大丈夫。ありがとう」

 所謂、お姫様抱っこという、何とも気恥ずかしい格好に、やや顔を赤らめるアリアの無事を確認すると、ほっ、と溜息を漏らすフーゴだが、すぐに表情を引き締めた。
 
「おし、走るぞ!」
「わ、わかった!」

 大男の相手をゴーレムに任せたまま、フーゴはアリアの手を引いて、再び走り出す。

「く!待て!待ちやがれぇ!」

 未だにゴーレムと戦闘を続けている大男の罵声が後ろから聞こえるが、二人がそれに振り向くことはなかった。

「あ、アンタ、メイジだったの?!」
「ンな事は後でいい!喋ってる暇があったら走れ!」
「だって、メイジ、なら、飛行《フライ》?で逃げるとか……」
「……俺は《練金》と、《クリエイト・ゴーレム》しか、使え、ねーんだよ!」
「えぇ?!」
 
 息を切らしながらも、疑問をぶつけるアリアとそれに答えるフーゴ。

 フーゴが告白した通り、彼が使えるのはその二つのスペルのみであった。
 コモン・マジックを飛ばして《クリエイト・ゴーレム》とは、何ともバランスの悪いメイジだ。

 しかしその未熟なメイジの勇気が、少女の危機を救ったのだ、と、締め括りたい所なのだが……。





 いつの間にか現れた、黒いローブですっぽりと全身を覆った男が、袋小路の出口に陣取り、逃げ道を塞いでいた。

「ちィ、新手かよ」

 舌うちをしつつ、男に正対して杖を構えるフーゴ。

「……全く、こんな小娘一人攫ってくる事も満足に出来ないとは。情けないですねぇ」

 やれやれ、といった調子で首を横に振るローブの男。

「おい、ちんちくりん。お前何か恨みでも買ってんのか」
「……残念ながら心当たりは、無いわ」

 フーゴは訝しげにそう問うが、少し逡巡するも何も思い当たらないアリア。

「くく、これは勇ましい。まるでお姫様を守る騎士殿ですね」

 ローブの男は、アリアを庇うように構えるフーゴを嘲るように言う。

「けっ、こんなちんちくりんを捕まえて、何が“お姫様”だ。カンに触るクソ野郎だぜ」
「……同感。“騎士殿”なんて、ジョークにしてもタチが悪すぎるわ」

 ローブの男に対して、若干の余裕を見せてダメ出しをするフーゴとアリア。

 と言うのも、この男は、先程の大男よりも大分線が細く、組みしやすそうに見えたからだ。
 
「これは失礼、お気に召しませんでしたか」
「えぇ、全然っ!」

 アリアはいつの間にか手にしていた、道端にゴミとして捨てられていた棒切れを持って男に突進する。

「おらぁあっ!」

 フーゴもそれに合わせて、全力の体当たりを試みる。

 系統魔法の同時行使は不可能。
 ならば、大男の方に回しているゴーレムを解除するよりも、こちらの男は二人掛かりの肉弾戦で倒してしまった方が得策だ、と二人の考えは一致していた。

「やれやれ、これは勇ましいというより、無謀と言うべきか……」

 しかし、柳に風、といった風にふわりふわりと、その波状攻撃を悉く躱す男。

 まるで宙を舞う紙のような、重さを感じさせない流麗さ。

「くそっ、当たらね、えっ」
「こいつっ!」

 ぶんぶんと必死に攻撃を振り回し続ける二人だが、ずっと走り続けていた疲労からか、目に見えてその動きが鈍ってきていた。

「お二方とも大分お疲れのご様子。そろそろお開きにしましょうか」

 男はローブからチラリと覗く口元を三日月のように歪めると、ぶつり、と何かを呟いた。
 
「何をぶつぶつ、と……?」

 男が呟きを終えると、ふわり、とどこからともなく、抗う事のできない眠気を誘う風がフーゴとアリアを包んでいく。

 その風に当てられた二人の動きは、さらに緩慢になり、やがてその動きは停止してしまう。

「な……杖なしで……ま、ほう……?」
「なるほど……そ、ういう事、ね……」

 あり得ない、という表情のフーゴと、妙に納得したような表情を見せるアリアは、眠気に耐えきれずその場にへたり込む。

「それでは、良い夢を」

 男はよく訓練された執事のように、こなれた様子で胸に手を当てて、深々と頭を下げる。



 その芝居がかった気障な仕草を確認したところで、二人の意識は夢の中に飛んだ。





 夕刻。

 辺りの景色が朱から、黒に変わる頃。
 ツェルプストー商会、新年恒例の初競りも大詰めを迎えていた。

 この日のために各国から取り寄せられた、選りすぐりの商品達が次々と高値で落札されていく。

 司会者は、出だしと変わらぬハイテンションで、買い手を煽る。
 入札者席では、狙い通りの落札が出来て雄叫びをあげる者、胸を撫でおろす者、価格が高騰しすぎて頭を抱えて悩む者、全く落札が出来ずに落ち込む者など、十人十色の様相を見せていた。 
 目の玉の飛び出るような額の取引に、アリア達と同じく、荷物運びのために駆り出された見習い達からは溜息が漏れる。



 しかしここに別の理由で溜息を漏らす見習いが一人。

「馬鹿タレ!お前が付いていながら何をやってんだ!」
「す、すいません!」

 怒り心頭の親方、カシミールと、肩をがっくりと落とした見習い頭、エンリコ。

 カシミールは、つい先程、本日の競りで予定していた分の予算を使い切り、入札を終わらせていた。
 そこで、さぁ、帰ろうという段になってから、アリアとフーゴがおらず、そのせいで、荷が半分も纏まっていないという事に気付かされたのだ。

 彼が怒るのも当然である。

「まぁ、お前に言ってもしょうがねェんだけどよ……。そう言う事はもっと早く言え。帰る時になってが人手がいません、荷が纏まっていません、じゃどうしようもねェだろうが」
「以後は気を付けます……」

 カシミールは頭痛がするように額を抑えながら、買付られた大量の荷を親指で指し示す。

「しっかし、あいつら、何を考えてやがるんだ?」
「でも、あの2人が仕事を放ってどこかに行っちゃうなんておかしいですよ。2人とも仕事に関しては真面目ですし」
「会場の中は全部探したのか?」
「はい、くまなく。他の商店の見習い達にも聞いてみたんですが、それらしい子供は見ていないと」
「つぅ事は外か。仕事中に仲良く連れ合いかよ。餓鬼のくせしてマセてやがるな、あいつら……」

 苛々とした様子で吐き捨てるカシミール。
 エンリコはそれに異議を唱える。

「いやいやいや、そりゃないでしょう。あの2人、相当仲悪いですからね」
「お前って、顔に似合わず鈍いなぁ。そういうの……」
「え、そういうのって、どういう事です?」
「……いや、何でもねェよ。単なる年寄りの邪推、いや愚痴だ」

 とぼけた表情をするエンリコに、カシミールは、はぁ、と溜息を漏らして、その話題を打ち切った。

 人当たりも良く、容姿も端麗なエンリコに女の影が無いのは、この鈍重さのせいやも知れぬ。

「それにしても、この荷物、どうしましょう……」
「……ひとっ走り商店に行ってギーナとゴーロを呼んで来な。さすがにお前一人じゃキツイだろ。どうせ今日は誰も来る予定はねェし、店じまいにしとけ」
「それしかないですかね。ふぅ、じゃ行ってきますよ……んっ?」

 エンリコがふと、会場の出入り口の方を見ると、商店で留守番をしているはずの双子のうち、一人だけがこちらに向かって来るのが見えた。

「ありゃ、あっちから来たか。帰りが遅いから様子を見に来たのか?何にせよ、呼ぶ手間が省けたじゃねェか」
「いえ、何か様子が変ですよ。すごく慌てているみたいですし」
「そういうのは敏感だな、お前……。俺にはあいつらの表情の動きがわからんぞ」
「それだけじゃないですよ。彼らが“単独”で行動するなんておかしくないですか?」
「む……確かにそうだな。店の方で何かあったのか?」

 双子が別々に行動することはまずないのだ。
 
 と言う事は、何か変事があったのだろうか、と勘ぐるのが普通である。



「……親方、大変」

 駆けつけた双子の片割れが、カシミールの下にやってくるや否や、開口一番、そう報告した。

「えぇと、お前は…………ふむ、ギーナの方か。ゴーロはどうした?」
「……兄貴は、アリアの姉貴の所」
「あ?どういう事だ」
「……これが店の正門に挟んであった。とにかく読んで」

 カシミールはギーナが差しだした紙をひったくるようにして受け取り、目を通す。

 途端にだらけ気味だったカシミールの顔の筋肉が引き締まり、眉間に深い皺が刻まれた。

「……これは、まずいな」
「……すごく」

 カシミールの焦ったような呟きに、ギーナはコクリと頷く。

「何が、あったんです?」

 エンリコは、事情はわからないが、ぴりぴりとした空気を感じ取り、若干緊張した面持ちでそう尋ねた。

「アリアが、誘拐されたらしい。多分フーゴの奴も一緒だ」
「誘拐って、あの、人を攫う……?」
「それしかねェだろうが!」
「ですよね……って!シャレになりませんよ、それ!」
「だから、マズイ、っていってんだよ!くそっ、何てこった!折角モノに成って来た所だってのに……。おい、ギーナっ!文面はこれだけか?」

 カシミールは誘拐犯からの書状をぺらぺらと揺らして催促するようにギーナに問う。

 それはアリアを預かっているという旨と、ロッテに知らせろ、とだけ書いた書状だったのだ。
 さしたる要求もなく、脅迫もない。何処に来い、とも書いていない。
 ロッテを名指ししている事から、彼女に関係のある人間の仕業という事はわかるが、これだけでは、事件を解決する糸口にすらならない。

「……それだけ。他には何も」
「まさか悪戯じゃねェだろうな。この文面じゃ、何をすればいいのかわからねェし、役人に持って行っても追い返されるのがオチだぞ」

 頭をがりがりと掻いて、悪戯であってくれ、と願うように言うカシミール。

 そもそも、平民の子供がいなくなった所で役人が動くとも思えないのに、悪戯とも取れるようなこの文面では、更に望みが薄い。

 役人達が本腰を入れる貴族の子女の誘拐事件では、被害者の命が助かることもしばしばあるが、平民が誘拐された場合は、その限りではなく、ほぼ死体になって発見される、もしくはそのまま行方不明になるのが常なのだ。

「……2人とも店には帰っていない。寮にもいなかった」
「あいつらがいなくなったのは、朝、か。流石にこの時間まで街で遊び回っているって可能性は低いか」
「でしょうね。特にアリアちゃんは倹約家ですし。街で遊んでいるってことはないと思います」

 エンリコはアリアの倹約家(ケチ)ぶりを指摘して、事の信憑性を高める。

「とすると、真面目に誘拐のセンが強いな……。しかし、そうなると、フーゴが一緒っていうのはある意味運が良かったかもしれねェ。あいつの素性を明かせば役人も……?」
「お、親方、後ろ」
「あ?」

 ぶつぶつと呟くカシミールに、エンリコが強張った表情で後ろを指さす。



「よっ、カシミール。役人が何だ、とか言ってたが、どうかしたのか?」
「おっと……これは、ツェルプストー辺境伯。実は少し困った事になっておりまして……」

 声を掛けてきたのは、ツェルプストー商会代表、クリスティアン・アウグストその人であった。
 後ろには護衛なのか、下級貴族風の男を従えている。

 南の大商会、フッガー商会のケルン支部の代表であるカシミールとは、大きな身分の差こそあれど顔見知りであったのだ。

 カシミールが最敬礼で頭を下げると、エンリコとギーナもそれに倣った。
 
「はっはは、まさか競り落とした品をもう盗まれたのか?しょうがない奴だな」

 おどけて言うクリスティアンはおよそ厳格などという言葉とは程遠い、人好きのしそうな青年だ。

「親方、辺境伯に相談して頂いた方が役人に掛け合うより確実かもしれません」
「……自分も、そう思う」

 エンリコとギーナが、カシミールにそう勧めると、カシミールも黙って頷く。

 確かに、木端役人の所へ行くよりも、この地の領主でもある彼に直談判した方が話は早いだろう。
 もしかすると、取引先のよしみで、便宜を図ってくれるやもしれぬ。

「おいおい、何だ、お前ら。何週間も糞が出ねーような深刻なツラして。そんなにやばい事情なのか?」
「実は、ウチの見習い共がですね……」

 カシミールが身ぶり手ぶりを交えて、事の次第を説明する。

 最初は、競売の成功によって上機嫌だったクリスティアンの表情は、説明が続くにつれて、どんどんと不機嫌な表情へと恐慌していった。

(うわ、やっぱり平民の誘拐なんて、貴族にとってはどうでもいい事を聞かされて怒っているのかな……)

 エンリコは腕組をしつつ、口をへの字に曲げて、しかめっ面をしたクリスティアンを見てそう推測した。

 しかし、彼は全く違う事で腹を立てていた。



「……俺の、商会の競売会場で誘拐事件、だと?」

 ぴくぴくと、口角を震えさせて怒りを露わにするクリスティアン。

「しかも、挙句、それを餌にしてその姉までも手篭めにしようとしている、だとォ……」

 クリスティアンの口元の震えは、段々と全身に伝わり、額には青筋がしっかりと浮き出ていた。

「ええ。それと、男の見習いも多分一緒でして。その見習いというのが、実は」
「男なんぞどうでもいい……」
「は?」
「その姉妹は美人姉妹なんだろう?」
「まぁ、姉の方は蟲惑の妖精亭という酒場のナンバー1を張っているくらいですから、かなりの器量良しかと思いますが……」
「何っ?!あの高レベルな女の子ばかり集めている店のか?」
「え、あ、はい」

 何故クリスティアンが蟲惑の妖精亭の従業員事情を知っているのだろう、と思いつつ、カシミールは首を縦に振った。

「と、言うことは……妹の方も数年後には……。なるほど、ね。俺の庭で、俺のモノを盗んでいくとはな。くっくく、ふざけた野郎だ」
「あの、辺境伯?誘拐されたのはウチの見習い……」
「あれ、でも待てよ?その野郎を俺がカッコ良く倒したら、姉妹揃って、俺にベタ惚れじゃね?これってむしろチャンスじゃ……」

 百面相をしているクリスティアンは自分の世界に入り込んでしまっているようで、既にカシミールの声は届いていないようだ。

 見かねた護衛の下級貴族がカシミールに耳打ちする。

「つまり、辺境伯はですね。『領内の美人は全て俺のモノ』と言っているんですよ」
「…………はぁ?」
「馬鹿みたいですが、あの人は本気なんです。貴賎問わず、女を口説くのがライフワークみたいな人ですからね……。とにかく、誘拐された子についてはひとまずはご安心を。恐らく辺境伯自ら、全力で動くでしょうから。動機はきわめて不純ですけど……」

 呆れるカシミール他、商店のメンバー達。

 クリスティアンは病的な女好きであった。
 と言っても、どこぞの色狂いの貴族のように、権力を嵩に来て女を侍らす訳ではない。

 彼は狩人なのだ。

 その狩人ぶりときたら、正妻との結婚式の最中に、別の女性を口説いていた、という逸話すらある程。
 彼の迸る“情熱”には、奥方ですら、とっくの昔に匙を投げているらしい。

 それでも、歴代のツェルプストー家の面々から比べるとまだマシな方、というから、げに恐ろしきはツェルプストーの血という所か。

「しかし、辺境伯自らってのは……有難いんですが、大丈夫なんですかね?」
「まぁ、この事件に関しては大丈夫でしょう。もっとも、後始末が大変そうですけど……。あの人、やりすぎる所がありますからね。この間の盗賊団の討伐だって……」

 下級貴族は聞いてもいないのに、つらつらと愚痴を吐き出す。

 どうやら、彼は護衛というより、奔放すぎるクリスティアンに対するお目付け役のようだ。



「ありゃ、辺境伯は何処行った?」

 下級貴族の男の愚痴を聞いているうちに、いつの間にか、クリスティアンの姿が忽然と消えていた。

「……あそこ」

 ギーナが指し示した方向は、入札表前のステージ。

 そこに、クリスティアンは渋い顔をして仁王立ちしていた。
 突然の彼の乱入によって、競りは一時中断してしまっているようだ。

「何をする気なんでしょう……?」
「私もわかりません。やれやれ、全く派手な事が好きなんだから……」

 首を傾げたエンリコに、下級貴族は疲れたような顔でそれに同調した。



「競りも大詰めだが、ここでお前らに頼みがあるっ!」

 しばらく、仏頂面で佇んでいたクリスティアンだが、会場中の視線が自分に集まるのを確認すると、山の向こうまで届きそうな大声を張り上げた。

「なんだ?」「俺たちに頼みだって?」「商品を返せとか言わないよな……」

 ざわ、ざわ、とどよめく会場。

「今日、この会場で非道の輩によって、商人見習いの女児が攫われたっ!これがどういう事か解るかっ?!見習いってのは、ゲルマニアの商業の未来を担う、言うなれば金の卵だ!それを商人がこれだけ集まった会場で堂々と攫って行きやがった!……つまり、俺達はそのクソ野郎に舐められているんだっ!」

 舐められているという言葉に、更に会場のどよめきが大きくなっていく。

「さて、こんなクソ野郎を許していいのか?舐められっぱなしでいいのか?」
「良くねぇっ!」「ぶっちめろ!」「ぶッ殺せぇ!」

 会場中の犯人許すまじ、という雰囲気に、うんうん、と頷くクリスティアン。

「よっしゃ、流石はゲルマニアの商人だっ!……だが、悲しいかな、野郎をブッ殺そうにも何処に居るかわからねえ!そこで、お前らには情報を集めてほしいっ!商売の情報網を使って野郎がどこにいるか割り出せ!有力な情報をくれた奴には、今日の競りのトリを務める予定だった、ガリア産の宝飾細工一式をくれてやるっ!」

 気前のいい発言に、おおっ、と沸く商人達。

 クリスティアンは、今から役人を使って、ちまちまと捜査するよりも、今日、ここに集まっている商人達の情報網を使って、犯人の足取りを追った方が早く確実だと判断したのだ。
 それにしても、ガリア産の宝飾細工一式を進呈とは、大盤振る舞いにも程があるのではないだろうか。

「それじゃ、とりあえず解散だっ!集めた情報はツェルプストー商会に持ってきてくれ!」

 解散の一声とともに、会場の商人達は、我先に有力な情報を手に入れようと会場を後にしていった。


 
 こうして、カシミール商店見習い誘拐事件は、ツェルプストー辺境伯の音頭によって、ケルンの街全体を巻き込んだ、大騒動へと発展したのである。



「ふぅ、とりあえずこんなもんだな。後は情報が入ってくるまでは待機ってところか」

 演説を終え、ステージから降りたクリスティアンがカシミール達に向かって言う。

「辺境伯。ありがとうございます!」

 カシミールは、感謝の念を込めて深々と頭を下げる。
 エンリコとギーナも、その後ろで頭を垂れる。

「……礼を言うのはまだ早いぜ。野郎の居場所すらまだ分かっていないんだからよ。ま、居場所さえ分かれば、俺がちょちょ、っといって、解決して来てやるから安心しとけ」
「はっ。しかしそれにしても……」
「何だ?」
「いえ、情報の見返りに宝飾細工一式というのは流石にやりすぎかと……よろしかったのですか?」

 クリスティアンが情報の見返りとして提示した宝飾細工一式は、競りのトリを飾る商品だけあって、今日一番の高額品のはずなのだ。
 カシミールとしてはありがたい事ではあるが、同時に心苦しい事でもあった。

「えっ?代金はお前んとこの商店に請求するに決まってんじゃん」

 当たり前のように言うクリスティアン。

 そう、彼もまた一級の商人なのである。自分の損益になるような事をするはずがないのだ。

「はは……そう、ですよね……」

 カシミールは乾いた笑いを吐き出しながら、もし会う事があれば、犯人のクソ野郎を1発と言わず、100発は殴ってやろう、と心に誓った。





つづけ



[19087] 20話 true tears (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/11 00:37
 ロッテの怒りが頂点に達した頃。



 屍人鬼の大男は、少年少女を監禁した部屋の前で、だらしなく足を崩して座り込み、ぷかぷかとパイプの煙を燻らせていた。

「暇すぎる……。“釣り餌は生きていなければ”なんて、どうせ後でブッ殺すんだから、先にヤッちまえばいいのによぉ~。あ~、すげぇイライラするぜぇ」

 大男はそう吐き捨てると、不愉快そうに泥のついた足でパイプの火を揉み消した。

「大体、何で俺が、こんな所で見張りをしなきゃいけね~んだよ。全く、少しは使われる立場になってみろってんだ」

 ついには本人が居ない事をいい事に、主であるジルヴェスターにまで悪態を突く始末。

 大男は完全に弛んでいた。

 まあ、それも仕方のない事だ。
 小さな子供二人を閉じ込めた部屋を見張るだけの、欠伸がでるほど退屈な仕事。片方はメイジとはいえ、杖を取り上げられた状態であるし、何が出来る訳でもあるまい、と考えるのが普通だろう。

「ん?」

 だが、ここで散漫になっていた大男の注意を引きつける出来事が起こった。



『フーゴ、ここからなら逃げられそう』
『しっ!大きな声を出すなよ、気付かれちまう』

 それは、部屋の中から聞こえて来る少年少女、二人の会話だった。
 
(何だ……?何を言ってやがる。この部屋には、この扉以外に出口なんぞないはず)

 そう思いながらも、大男は扉に耳をピタリとつけて中の様子を窺う事にした。

『じゃ、レディーファーストね』
『どうでもいいから、さっさと行けよ』
『それじゃお言葉に甘えて。よい、っしょっと。……この穴きっつ』
『け、太り過ぎじゃねーの』

 二人の会話の他に、ぎしぎし、と何かが軋む音が部屋の中から聞こえてくる。

(抜け穴、だと?馬鹿な。そんなものがあるわけがねえ。何回も入念に調べたはず…………ん、待てよ?はぁん、こいつは)

 二人の会話の内容に、ピン、ときた大男は、中の二人に聞こえるように大声で呼びかける。

「逃げる振りをして、俺に扉を開けさせようって魂胆か?くっくく、所詮は餓鬼の浅知恵ってもんだぜ。そりゃあよ、使い古されてカビが生えているような手だ!」

 その呼び掛けに、一瞬二人の会話は途切れたが、応答はなかった。

(ちっ、だんまりかよ……。聞こえてんのは間違いね~はずだが。ま、一応注意だけはしておくか、注意だけはな)

 大男は、先の会話は二人の演技だという自分の考えを正しいと判断はしていたが、大事を取って、聞き耳だけは立てておくことにした。
 万一、自分の判断が外れていて、本当に逃げられてしまったら、彼の主からどのような仕打ちを受けるかわからないからだ。
 
『……よっし、二人とも何とか通れたわね。あのウスラ馬鹿が勘違いしてるうちに、急ぎましょう』
『おう、さっさと帰ろう』

 その会話を最後に、二人の会話は終わり、部屋の中から聞こえてくる音が消えた。

(くかか、ウスラ馬鹿だとよ。一丁前に挑発かよ。……まあ、縄くらいは解いたのかもしれんが。しかし、そこまでよ。それでお前らの冒険は終わりだ。せいぜい中で気張ってろや。っくく)

 結局、大男は無視を決め込むことにした。
 少しすれば、ボロを出して音を立てるさ、と考えたのだ。





 それからおよそ半刻後。

 大男の予想は見事に裏切られていた。

「…………おかしい。さすがに長すぎる」

 半刻近い時間が経っても、部屋の中からは、虫の這いずる音すら聞こえてこなかった。

(……まさか、本当に抜け道があったのか?そういや、猫が何とか通れるくらいの穴があったような気も……あいつらは小柄だし、それを広げればひょっとして……。いや、そんなはずは)

 長い沈黙の時間が、ついに大男の心に焦りと迷いを生じさせた。

“交換しますよ?”

 額にうっすらと汗を浮かべた大男の脳裏に蘇るのは、主のあの一言。

 交換、つまり下僕を取り換えるという事。
 ジルヴェスターのような、通常の吸血鬼は一人一体までしか下僕を作れない。

 それは即ち、大男の消滅を意味していた。

(くそ、まずい。とりあえず中を確認だけはしておくか。……何、もし誘いだったとしても、ねじ伏せてやりゃあいい、所詮は餓鬼2匹よ)

 大男はそんな打算をしながら、がちゃがちゃ、と焦りながら鍵を回し、開かずの扉を解き放った。



「ぐ……馬鹿な!」

 転がるように部屋の中へ飛び込んだ大男は辺りを見回しながら叫ぶ。

 部屋の中はもぬけの殻。
 拘束されていた二人の姿は忽然と消えていた。

「くそっ!一体何処から逃げた?……ここかっ?ここか?それともここかぁっあっ!」

 焦燥感から来る苛立ちを感じ、部屋に備え付けられていた家具を、次々と蹴り飛ばす大男。

 板の割れる音、ガラスの飛び散る音、大男の怒声が奏でるアンサンブルが部屋中に響き渡る。
 しかし大男がいくら部屋中をひっくり返しても、二人が見つかる事はなかった。



「はぁ、はぁ、畜生…………ん?」

 一通り暴れて、少し落ち着きを取り戻した大男は、ようやくそこで違和感に気付く。

「……そういや、あいつらを縛ってた縄は……持って行ったのか?」

 確かに、何かに使えると思って持って行った可能性はあるが、子供には結構な重さのはず。
 ただ逃げるだけならば、無用の長物のはずだ。

「それに……ここにデカイ本棚があったような……?」

 部屋の中で一際大きく目を引いていた家具だ。見間違いではなく、確かにあったはず。
 その証拠に、本棚があったはずの場所の床板には、日焼けを免れた痕があった。



 疑念を抱いた大男が、詳しく調べようと、のろのろと本棚があったはずの場所に向かった、その時。



「今っ!」

 頭上から鋭い声が飛ぶ。

「何っ!?」

 大男が反射的に上を見上げると、何か黒いモノが視界を塞いでいた。



「──っ!」

 ぐしゃ、という頭蓋が粉砕される音。
 ぐちゅ、という蛙が潰されたような嫌な音。
 最後にどすん、と重い衝撃音が部屋に響き渡り、部屋全体に振動が伝わる。

 大男の視界を遮ったのは、縄を括りつけられた、消えたはずの本棚。

 成人男子3人分はあるであろう、重量級の凶器が突如、天井から落下してきたのだ。
 大男は予期せぬ攻撃を躱す事はおろか、声を上げることすら出来ず、その場に崩れ落ちた。
 
「や、やったか?!」

 小刀を手にして、剥き出しになった天井の木組みの上からフーゴが叫ぶ。

「ちょっと待ってて、確認してくるわ」
「お、俺も行くって……」

 同じく天井の木組みに腰掛けたアリアがそれに応えると、二人は猿のように、するするとロープを伝って下に降りて行く。



 実は、大男の推理は当たっていた。
 あたかも部屋の中に抜け道があるように振舞っていた二人の掛け合いは全て演技で、大男を部屋の中に招き入れるための誘いだった。
 大男の調べ通り、部屋の中には二人が抜け出せるような穴など存在していなかったのだ。

 とはいえ、部屋に誘い込んだとしても、大男の計算通り、二人の負けはほぼ確定している。

 大男にとって誤算だったのは、二人が凶悪な武器を用意していた事だ。

 掛け合いの前、アリアの“考え”によって、二人は、この部屋で最も重量がありそうなモノである本棚に、自分達を拘束していた太い縄を入念に括りつけ、その縄を肩に担いで壁を昇り、剥き出しになった天井の木組みの丸太を滑車代わりにして、それを天井高くまで吊り上げていたのだ。

 二人にとって幸運だったのは、その時の作業音に大男が気付かなかった事。
 注意力が散漫になっていた大男はそれに気付けなかったのだ。

 その後、自分達も天井裏に移動し、部屋の外にも聞こえるように、声を大にして台詞を読み上げ、その後はひたすら息を殺して待機していた。
 「やはり引っかからないのでは」という不安と「早く来てくれ」という焦燥を感じながらも、勝利の引き金である、食器棚を支えている縄に小刀を這わせて。

 故に、大男が初志を貫徹して、無視を決め込んでいれば彼の勝ちは揺るがなかった。
 二人が逃げ出しさえしなければ、大男の勝ちなのだから。

 しかし、彼は、二人と同じように不安と焦燥を感じ、そこから出た迷いに負けた。

 つまり、彼は我慢比べに負けたのだ。
 

「私の勝ちね」

 アリアは屍人鬼の遺骸を足蹴にしながら誇らしげに勝利を宣言した。

 着地の衝撃に変形した本棚の下からは、どす黒いオイルのような体液が流れ出ている。
 アリアが先程から、大男だったモノをげしげしと蹴り込んでいるが、何の反応も見られない。
 どうやら、完全にその機能は停止しているようだ。

「う、うぇ……エグぃ……」

 フーゴはぐしゃぐしゃになった黒い塊に、思わず吐き気を覚え、口を押さえる。

「しっかりしなさい、男の子でしょうが」
「んなこと言ったって……普通は吐くぜ?何だよ、このぬめっとしたの……おぇ」

 たまらず後ろを向いて嘔吐するフーゴに、アリアはふぅ、と溜息を吐く。
 
「貴族がこの程度で吐いていたら話にならないでしょうに」
「……お前、なんでそんな平気なんだ?今は化物とは言え、元は人間なんだろ、コイツ」

 フーゴは服の袖で汚れた口を拭って言う。

「飽くまで、元人間よ。最初から死んでいたんだから、成仏させてあげただけじゃない。むしろ感謝して欲しいわ」
「……はっ、大したヤツだよ、お前は」
「ふふ、言ったでしょ。化物退治には自信があるって」

 フーゴの呆れたような褒め言葉に、アリアはふわりと歳相応ではない魅惑的な笑みを浮かべた。

「お、おぉ」
「ん?」
「……いや、何でもねぇ。それより早くこんな辛気臭い場所はずらかろうぜ」
「……そうね。ただ、ちょっと気になる事があるのよ」
 
 アリアは小首を傾げながら、大男だったモノの前に座り込む。

「気になるって……その肉塊がか?」
「実は、ここで目が覚めた時から気になってたんだけどさ。泥が、ね。付いてるのよ」
「泥?」
「ええ。私の服にも。そしてこいつの足にも。あら、あんたの服にも付いてるわね……」

 アリアはフーゴのズボンの汚れた部分を指して言う。

「泥くらいついてもおかしくないだろ。あいつら森を進んで来たんだろうし」
「だからおかしいのよ。今の時期、森には雪が降り積もってんのよ?泥なんてつくわけないじゃない」
「……む、確かにそうか」
「うぅ~ん」

 アリアはそのまま考えに没頭しようとするが、フーゴがそれを制する。

「馬鹿、そんな事やってる場合か。さっさと逃げんぞ!」

 その意見は非常に正しい。考えに耽っていられるほど、悠長に構えている場合ではない。
 もし吸血鬼が戻ってくれば、今度こそ勝ち目はないのだから。

「……分かったわ。とりあえず、ここは出ましょう」

 アリアは未だ納得がいかない顔をしながらも、フーゴの意見に従い、廃屋を後にした。





 はぁ、はぁ、と少年少女の荒い息使いが、暗い森の中に響く。
 外気は寒いとは言え、激しく運動する2人の身体は汗でほんのりと湿り、月明かりがそれをキラリと反射させた。

「あぁ、もう、歩きにくいったら……」
「ほれ、手、出せ」

 深い雪にずぶずぶと足を取られて思うように進めないアリアに、フーゴが手を差し伸べる。

「それにしても、変ね」

 素直に差し伸べられた手を取ったアリアが眉間に皺を寄せて言う。

「何が?」
「足跡が無いの、あの廃屋に運ばれてきた時の」
「南に向かってんだから方向は問題ないぜ、多分。足跡なんて、風に晒されて消えちまったんだろ」
「……そう、かな」

 その答えにまたもや納得がいかないアリアは、とある推測を頭の中で構築しながら、道無き道を進むのであった。





 どれだけ森の中を歩き回っただろうか。

「きヒャアああぁっ!」

 不意に、ずしん、と何かが倒れる音と揺れとともに、耳をつんざく、気が違ったような絶叫が森に木霊した。

 ただならぬ奇声に、何事かと二人はびくり、と警戒を強め、その場に伏せる。

「何なのよ、この声は?」
「あっちだ」

 フーゴが顎でしゃくった方向を見れば、暗闇の中で激しく舞うように動く影が一つ。

「くはっ、くヒゃっ!出てこぬなら、全て薙ぎ払った後で、撃ち落としてくれるわっ!」

 狂笑しながら暴れ回る影は、その宣言通りに“素手で”大樹を殴り倒し、蹴り倒し、放り投げていく。

「あ、あれ、もしかして。お前の姉ちゃんじゃ」
「ぁんの、単細胞。完全にブチ切れてんじゃない……」

 その光景を見て、アリアは頭痛がするように米神を押さえた。

「いや、ブチ切れるとか、そういう話じゃねえって!何なんだよ、あれは……?今ぶん投げた丸太の上に乗って飛んでたぞ?!」
「だ、だから、伝説級のメイジ殺し、なのよ。うん。生きるイーヴァルディって感じ?その気になれば、ドラゴンだろうが、スクウェアメイジだろうが、エルフだろうが、軽く捻り殺せると言っていたわ、確か」

 そんな事は誰も言っていない。
 ドラゴンやスクウェアメイジは知らないが、【反射】持ちのエルフは多分無理だ。

「すげえ……」
「そうでしょう、凄いのよ。超凄いのよ。さすが、私の姉よね」

 華奢に見えるうら若き美女が、ミノタウロスも泣いて逃げ出す膂力を披露し、暴虐無尽に森の中を暴れ回る。それも、不気味に嗤いながら。

 俄かには信じられない光景に開いた口が塞がらないフーゴと、背中に嫌な汗を掻いて訳のわからない事を口走るアリア。



(もう、あの馬鹿!一体何考えてんのよ!……そりゃ、助けに来てくれたのは、ちょっと、嬉しいけどさ……。いやいやいや、そんなことを考えてる場合じゃない!)

 目まぐるしく変化する思考によって、アリアの表情はしかめっ面から、急ににへらと笑ったと思えば、今度は凛々しい顔つきになったりと忙しい。

「ちょっと私、行ってくる。あの馬鹿を落ちつかせないと……」
「へっ、ここまで来て一人で行く気かよ。俺も行くからな」

 アリアがコクリと頷くと、二つの小さな影は、暴れ狂う影に向かって走り出す。



「ロッテっ!」

 ロッテの顔が見えるほどの位置まで来ると、アリアがロッテに呼び掛けた。

「け、クヒ、きゃあぁああっ」

 しかし、極度の興奮状態にあるロッテは、それに気付かず、突進をやめようとしない。
 嬉々として木々を倒して回るその姿は、まるで泥酔運転のブルトーザー。

「ありゃ、聞こえてねーのか?」
「全く、世話のやける……」

 アリアは眉を顰めて、いつも腰に巻き付けている袋を手にした。

「喰らえっ、れーざーびーむ!」

 謎の言葉を吐きながら、腕を大きく振りかぶって、それを全力で放り投げるアリア。

「ひゃ、ぶっ?」

 鋭い縦回転の掛かった袋は、見事狙い通りにロッテの顔面に命中し、ぼふん、と音を立てて、緑色の粉末を撒き散らした。

「け、がふっ、ごほっ、うえぇええっ……!何じゃ、これはっ?!臭いっ……!ハシバミ臭いいぃっ!」

 顔を両手で覆って、その臭いにのたうち回るロッテ。
 そう、アリアが投げつけたのはハシバミ草の粉末がたっぷり詰まった袋だったのだ。



「どう、少しは正気に戻った?」

 アリアは蹲るロッテを見下ろして、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「え、うあ、あ、お主?ぶ、無事じゃったのか?」

 未だにツーンとする鼻頭を押さえて、狐につままれたような顔でアリアを眺めるロッテ。

「えぇ、おかげさまで」
「……ほ、そうか。全く、この弱者めが。簡単に捕まりおってからに……」

 ロッテは悪態を突きながらも、安堵の表情を見せる。

「それは申し訳ありませんでした。でも、隠し事をしていたアンタが一番悪い」
「……う」

 アリアにびし、と指を突きつけられて、言葉に詰まるロッテ。
 
「大体ね──」
「アリアっ、後ろだっ!」



 そのままアリアの言葉責めに突入かと思われたが、そこでフーゴの切羽詰まった檄が飛んだ。



「へ?」

 惚けた顔で言われるがままに後ろを振りかえるアリア。
 
 振り向いた先には、鋭く尖った枝の槍。

「な……」
「チっ!」

 思わず目を閉じて尻餅を着くアリアを尻目に、ロッテは舌うちを一回。
 
「せいっ!」

 再びアリアが瞼を開けた時、枝は残らず地に叩き伏せられていた。

「おわっ」「ひゃっ」

 ロッテは間髪いれずに、アリアとフーゴを両脇に抱えて、地を這うような姿勢で駆けだす。

「だ、大丈夫っすか?俺、結構重いっすよ?」
「そんな事を言っておる場合では……というか、主、誰じゃっけ?」
「あ、俺は妹さんの、えと、同僚で」

 フーゴはロッテに抱えられたままの態勢で悠長に自己紹介を始めた。

「そんなのは後っ!とりあえず黙って逃げる!ロッテ、全速前進!」
「お、おう」

 街の方向に向かって指示を出すアリアの気迫に、フーゴは黙って首を縦に振る。

「それは、駄目じゃ」

 しかし、ロッテはその勧告に、頑として首を横に振った。

「何を──」
「ここであやつを倒さねば、また同じことの繰り返しじゃ」

 アリアの言を遮って、強い口調でロッテが言う。

「……確かに。一理は、あるわね。でも、あんたさ」
「ぬ……?」
「相手が何処にいるか把握してないでしょ?」
「じゃからヤツを引き摺り出そうと、片っ端から木を倒していたんじゃ」

 当然のように言うロッテに、右脇に抱えられたアリアは小さく溜息を着いた。

「これだけ暴れ回って出て来ないなら、多分、上にはいないわ」
「何?!ならばどこにいるというのじゃ」
「ヒントは泥と消えた足跡、よ」
「さっきもいってたな、それ」

 反対の脇に抱えられたフーゴが思い出したように、合いの手を入れる。

「勿体ぶらんでさっさと教えんか」
「つまり、多分ここらへんのどこかに、あの廃屋と繋がっている地下道みたいなものがあると思うのよ」
「地下、じゃと?」

 予想していなかったアリアの推論に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で聞き返すロッテ。

「そう。あのスカした吸血鬼はそこにいると思う。多分、私達を廃屋に連れて行く時もその地下道を使ったのよ。だから、私達の服や、屍人鬼の靴に泥がついていたし、廃屋からここに来るまで、あいつらの足跡は見つけられなかった」
「なるほど……」

 フーゴはその推論に感心したように唸る。

「そういえばニオイも消えておったの。確かに、地下を通ったとすれば、説明はつくかもしれんが……」
「だからね、地面を掘り返したような痕がある場所を探せば」
「……無理じゃ」

 アリアの推理には納得したものの、その勧告にはまたもや首を振った。

「は、何で?」
「この有様でどうやってそれを探すと言うのじゃ?」

 ロッテは走りは止めずに、視線をぐるりと回す。

 それに倣って辺りを見渡せば、枝の攻撃によって掘り返された痕やら、ロッテが縦横無尽に暴れまくった痕で、地面はすでにぐちゃぐちゃだった。
 
「これじゃ、確かに無理ね。かと言って、あの廃屋に戻るのは論外。危険すぎる」
「……やっぱり、街に戻ろうぜ。相手がどこにいるかわかんねーんじゃどうしようもねーよ」
「そうね。私もここは一旦、退いた方がいいと思う」

 両脇に抱えた荷物は口をそろえて撤退を促す。

「ぐ、しかし……」

 それでもなお、後退を渋るロッテ。

「ロッテ、気持ちは分かるけど…」
「待て、何か来る」

 突然鼻をぴくぴくとさせ、こちらに迫ってくる何かに気付いたロッテは、ピタ、と立ち止まってそちらの方向を睨みつける。

「まさか、他の敵?」
「街の方からかよ……やべえぞ」

 だとしたら、最悪だ。
 街の方向からやって来ているという事は、退路が塞がれてしまうという事だ。

「いや……どうにも人間のようなんじゃが」
「へ?」

 3人は呆けた表情でそちらに視線を向けた。



「なぁ、姉と妹、どっちの方が美人だと思う?」
「さあ……?」
「何だ、つまんない奴だなぁ。そんなんだから未だに独身なんだよ、お前」
「放っておいて下さい。貴方と違って一途なタイプなんですよ、僕は」
「ぷっ、一途とか言っちゃって。ついこの間、本命に振られたばっかりなんだろ?ん?」
「三度は言いません。放っておいて下さい」
「……正直、すまんかった。分かったから、雇い主に向かって杖を構えるのはやめような」

 前方から何とも緊張感のない会話をしながら近づいてくる男が二人。



「お、あれじゃね?噂の姉妹ちゃん達は」

 こちらに気付いたらしい燃え盛る炎のような髪をした男がこちらを指さして言う。

「……みたいですね。捕まっていたはずですが、自力で脱出したんでしょうか?」
「はっはは、そりゃ頼もしいコ達だな。お~い、無事か~?!」

 暗闇に映える白い歯を見せて、暢気な口調で手を振るのは、ツェルプストー辺境伯、クリスティアン・アウグスト、その人であった。

 



まとめられねぇ……という事で後半に続く





[19087] 21話 true tears (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/13 13:41

「吸血鬼の仇打ち……?」
「はい。姉を狙っての犯行だと思われます」

 これまでのおおまかな事の経緯をアリアに説明され、難しい表情で腕組みをするクリスティアン。

「それにしても、どうやってここを探し当てたんです?」
「ふ、この程度、ゲルマニア商人の情報網を使えば造作もない事よ。二人の子供を抱えた大男がこの森に入って行くのを見た、つう情報が入って来てな」

 クリスティアンは長い赤髪を掻き上げながら、誇らしげに胸を張って言う。
 
 ジルヴェスター達が人気の無い場所を選んで移動していたとはいえ、完全に人の目を避ける事など出来ようもなかったのだ。



(ひゃ~、辺境伯と直で喋っちゃったよ。これは貴重な体験ね)

 いきなりの辺境伯の登場に、最初こそ面食らったアリアだったが、その後はある程度、落ち着いて話をすることが出来ていた。
 
 以前のアリアであれば、恐縮のあまり心臓麻痺を起こしかねない場面であったが、様々な困難を自力で乗り切ってきた彼女の心臓は、毛が生えているどころか、毛むくじゃらのもっさもさになっていた。
 吸血鬼に拉致されるという死に直結する異常事態にも、ウィースバーデンの化物屋敷の時のように、『私』と『僕』の精神が乖離する事なく、冷静な対処が出来ていた事も、彼女が成長している事の証と言えるだろう。

「で、ホシは土の中。こちらから手出しはできない、と」
「おそらくは、ですが」

 アリアがクリスティアンに説明した事の次第(改竄済み)は以下の通り。

──姉(ロッテ)はかつて、ガリアにおいて数多くの武勲を立てた有名な傭兵であった。
 現在は傭兵稼業からは引退し、妹(アリア)とともに新天地を求めてゲルマニアに渡って来たのだが、昔のしがらみからはそう簡単に抜け出せるものではなかった。
 何年か前、姉が討ち取った吸血鬼の仲間が、その仇打ちに来たのだ。
 正面からの戦いでは姉に敵わない事を知っていた吸血鬼は、卑劣にもその妹を人質に取ったのである──
 
 とまあ、嘘八百の出鱈目である。少しは真実も混じってはいるが。

 ロッテが吸血鬼であるとばれるわけにはいかない、というアリアの意図を汲んだのか、彼女はその説明に突っ込みを入れることはなく、ただ目を閉じて黙していた。

「それにしても……この娘が、有名なメイジ殺し、ねぇ?」
「……な、何じゃ。本当じゃぞ、妹の言っている事は嘘偽りない真実じゃからな?」

 クリスティアンに疑惑の目を向けられ、悪戯がばれた子供のように、あたふたと狼狽するロッテ。

(馬鹿、それじゃ疑って下さいといっているようなもんじゃないの!)

 アリアは背中にどばどばと嫌な汗を掻きながら、肝心な所で演技力のないロッテを心中で罵った。
 ここで彼女が吸血鬼だとばれようものなら、たとえ敵の吸血鬼を退けたとしても、その後に待っているのは身の破滅である。

 しかし、クリスティアンは、その危惧とは全く別方向の行動を見せ始める。



「君は“情熱”という物をご存知かな?」
「は?」
「香水はローズ系、か。とても良く似合っている。君は薔薇のような美しさと、危険な刺を持っているのだから」
「一体、何を、言って、おる?」

 様子のおかしいクリスティアンを警戒するように、じり、と後ずさるロッテ。

「凡百の男では、その刺の鋭さに近づくことも出来ないだろう」
「…………」
「しかぁし!俺ならばその鋭い刺で幾千の傷をつけられようとも、受け止めてやる事ができるっ!」
「主が何を言いたいのか、妾にはさっぱりわからん」

 どこまでも偉そうな平民娘(実際は吸血鬼だが)のロッテ。
 その様子を見ていたアリアとフーゴが小声で会話を交わす。

(お前の姉ちゃん、色々とすげえな……)
(もう、やだ、あの馬鹿……)

 ちょっと泣きそうな顔で頭を抱えたアリアの脳裏には、不敬によって無礼打ちにされる姉妹の未来がぼんやりと映し出されていた。

「……よし、じゃあ単刀直入に言おう」
「うむ、そうしろ」
「俺と、突き合わ……もとい、付き合わない?」

 斜め45度からキメた表情で単刀直入すぎる言葉を吐くクリスティアン。



(駄目だこの領主、早く何とかしないと)

 この時、仲良く肩を落としたアリアとフーゴの思考は珍しく一致していたという。



「クリスティアン様っ!今、そんなことを、している、場合じゃないでしょうっ!あぁ、もうっ、キリが無いっ!イル・ウォータル……」

 そのクリスティアンに命じられ、到着直後から、鬱陶しく襲いかかる枝の相手をさせられていた下級貴族風の従者が突っ込みを入れる。

「馬鹿野郎、話しかけるなっ!今いいところなんだっ!ツェルプストー家の執事たるもの、そのくらいできなくてどうするっ?」
「酷過ぎる……っ?!うわっ、やばっ……水盾《ウォーター・シールド》!」

 クリスティアンの理不尽な叱責に、泣きそうな顔をしながらも孤軍奮闘する執事の男。
 
(頑張って、執事さんっ……!)

 アリアは自分と同類の臭いがする不遇な執事に、心中で声援を送った。



「ふむ……そういう事か。考えてもよいぞ?」
「ちょ、あんたまで、何を言って……」

 しばらく押し黙っていたロッテだが、不意に何かを決断したかのように口を開き、今度はアリアがそれに突っ込みを入れた。

「おぉっ、本当か!?」
「んむ。嘘は言わん」
「よっしゃ!それじゃ、ここは寒いからな。早速、街に戻って暖かいベッドで」
「ただし、妾に協力をしてくれたらじゃが。見たところ、主はかなりの使い手じゃろ?主ならば、地下の不届者を炙り出せる手段もあるのではないか?」

 先にフーゴに見せた妹のものよりも、数段洗練された破壊力を持つ妖艶な笑みを浮かべて言うロッテ。
 さすがは姉、といった所だろうか。

「ふっふふふ……何だ、そんなことでいいのか。お安い御用だ。元々、俺の商会の競売で舐めた真似をした野郎を許す気もなかったしな。……おい、お前は下がって防壁を張っておけ!俺の女に怪我をさせたらタダじゃおかないからな!」

 先程まで、戦闘を執事に丸投げしていたクリスティアンは、それに応え、人が変わったようなやる気を見せる。
 執事の男に向けて鋭く指示を飛ばすと、実戦向けに設えられた、無骨で飾り気のない杖を手にとって前線に駆けだしていく。

 ロッテは、人間の力は借りない、という吸血鬼のプライドよりも、自分やアリアに害を為す不届者を確実に始末する事を決断したのだ。

「下がって、防壁って、まさかアレ、ですか?……少しは自重してくださいっ!」
「ええいっ、黙れ、黙れっ!俺はリーゼロッテちゃんに、いい所をみせるんだっ」
 
 青い顔をした執事がクリスティアンに嘆願するが、駄々っ子のような主人によって、にべもなくそれは却下された。
 それなりの水の使い手である従者ですら畏怖するようなアレ、とはそれほどに危険なのだろうか。

「はぁ……皆さん、私の後ろへ隠れていて下さいね。巻きこまれたら確実に死にますから」
「は、はいっ」

 何かを諦めた表情の執事はアリア達に向かってそう言うと、胸まである大きなスタッフを突き出して、先程使った【水盾】《ウォーター・シールド》よりも長い詠唱を始めた。
 おそらく、もっと強力な防御壁を張るつもりなのだろう。



「“情熱”の焔を見せてやる……」

 クリスティアンは真っ赤に燃え盛る炎のような髪を逆立て、獰猛な笑みを浮かべて呟いた。





 一方、アリアの推測通り、地中に潜っていたジルヴェスター。

「馬鹿な……。この程度の事件の解決に領主が出てくる、だと? 」

 彼は全く予期していなかった事態に焦っていた。
 その焦りを象徴するかのように、いつもの鼻に付く丁寧な言葉遣いは消え去っている。

 クリスティアン・アウグスト・フォン・アンハルト・ツェルプストー。
 若干19歳にして、名門ツェルプストー家の全てを受け継いだ天才(災)的メイジ。
 敵からは“赤き破壊の悪魔”と恐れられ、味方からは“赤き情熱の英傑”と囃される彼の武勇は、吸血鬼であるジルヴェスターですら知っているほどに有名なものだったのだ。

 通常、大貴族になれば、領内の事件といえども、相当な重大事件でない限り、その解決に自ら乗り出すような真似はしない。
 このような事件は、小飼いの地方役人(下級貴族)か、もしくは都市で雇った衛兵や、自警団の仕事である。

 というか、身代金などの要求すらない誘拐事件など、役人すら出張ってくることはないだろう、と踏んでいた。

「それに、あの小娘。何故、あそこにいるのだ?何故、私が地下に隠れている事を知っている?何故、何故……っ!あの役立たずは何をやっている!」

 ジルヴェスターは、怒りに任せて地を殴りつけ、己の命令をこなせなかった下僕の無能さを罵った。



 彼の潜伏している地下空間は、元からここに存在していたものではなく、彼がロッテに宣戦布告をしてから、長い時間を掛けて下僕に作らせたものだ。

 自らの姿は晒さず、地上から響く“音”を頼りに、一方的に攻撃を繰り出す。

 それが圧倒的上位者であるロッテに対抗するために、彼が考えだした作戦。
 火竜山脈よりも高いプライドを持つロッテであれば、一旦戦いの火蓋が切られれば、たとえ、肉を引きちぎられ、骨を砕かれ、敵の姿が見えなくとも、退却をすることはない、という打算もあった。

(あの女を斃す事が出来ていれば、今後は厄介な争いなどしなくてもケルンの街は永劫に私のものだったというのに……。くそぉ、人間共めぇ……)

 ロッテとの実力差が明白である事は、ジルヴェスタ-自身が良く分かっていた。
 そんな彼が何故、わざわざ彼女に喧嘩を吹っ掛けたのか、といえば、それは功名心と野心からであった。

 確かに、吸血鬼の世界のヒエラルキーの中で最上位に位置している一族の一員であるロッテを打ち倒した、となれば、他の吸血鬼達はジルヴェスターの力を恐れ、もう面倒な縄張り争いなどしなくても済むようになるだろう。

 しかし、彼はあと一歩の所で、勝利を掴むことが出来なかった。
 彼が相手にもしていなかった、メイジでもない、ただの少女によって。

 彼がアリアを誘拐したのは、ロッテをこの場所に導くための餌にするために過ぎなかった。
 しかし、その餌によって、策を暴かれ、下僕を失い、その上、非常に厄介な相手まで呼びよせられてしまったのだった。
 
 

(いや、落ち着け。地下に潜っている事がばれたとはいえ、まだ私の居場所が完全に特定されたわけではない。……とはいえ、ここは一旦引いた方が良いか?今からでも逃げることは十分に可能なはず……)

 茹った頭を必死に落ち着かせて、善後策を練り始めるジルヴェスター。
 
 その結果として浮かぶのは、退却の二文字。
 この状況下では、どう考えても、もはや彼に勝ち目はなかった。

「ちっ、覚えていろ、この借りは必ず……っ?!」

 ジルヴェスターは、誰にも聞かれる事のない捨て台詞を吐き、その場から逃げ失せようとした、その時。

 

 異変が起きた。



「な──」

 巨人がハンマーで地面をぶっ叩いたかのような激震が走る。

 酒に酔った時のようにぐにゃぐにゃと揺れる視界。
 天井から石礫が崩れ落ち、からからと不安を誘う音を立てる。
 常人ならば立っていられないような、平衡感覚を狂わせる大揺れ。

 ジルヴェスターはそれに耐えきれず、体勢を崩して、その場にへたり込んだ。

「ぬぅっ……」

 何とか体勢を立て直そうとするジルヴェスターだが、そこで彼は、更なる異変に気付き、顔を歪めた。

(馬鹿な、地下とはいえ、今は冬だぞ?)

 暑い。暑いのだ。
 立って居るだけで汗が噴き出してくる程に、暑い。
 
 確かに、土の中には保温効果があり、冬でも外よりは格段に暖かいが、この温度は異常だった。
 それに、この揺れが始まる前はそんな事は感じなかったのだ。
 
「一体、どうなって──」

 彼は最後までその言葉を紡げなかった。

 天から地を切り裂いて、災厄が降ってきたから。





「ふっははははっ!どうだぁ?情熱の味はっ?」

 高笑いをするクリスティアンの頭上から凄まじい勢いで降り注ぐのは、真っ赤に燃え盛る流星の群れ。

 彼がぶんぶんと杖を振り回す度に、流星は一つ二つと地上へと降り注ぐ。

 そのたびに起こる大震災のような揺れと、耳をつんざく轟音に、 特大の【氷壁】《アイス・ウォール》の中に控える観客達は、耳を塞ぎながら膝を着いていた。

「みなさんっ、絶対に、ここから出ないでくださいっ」

 【氷壁】《アイス・ウォール》を指して大声で叫ぶ執事の男。

「出るなっ、ていうか、動けるわけないっ、でせ、う」

 頭を抱えて亀のように丸まったアリアが、揺れに舌を噛みそうになりながらそれに応える。

「ありえねぇ……」

 自身もメイジであるフーゴは、余りにも常識外れな魔法の威力に呆れ、ぼそ、と呟いた。

 地表を覆っていた大量の雪は、融解を通り越して一瞬で昇華。
 水分をたっぷり含んでいるはずの生木が発火し、見る見る内に燃え尽きる。
 陥没と隆起を繰り返す地面は、三十路を越えたお肌のように荒れている。


(本当に、あり得ないわね)

 アリアも内心でその呟きに同意した。

 もはや、これは『僕』の知識の中にある、科学的常識の範疇を超えた、非科学的な幻想《ファンタジー》そのもの。
 鬱蒼とした天然の要塞であった雪の森は、ちっぽけな存在であるはずの、人間一人の力によって、荒廃した灼熱の地獄と化していた。

「ほほ、中々に使える人間じゃの。これは、真面目に考えてやってもよいかのう?」

 ロッテだけは、その光景に大層ご満悦なようで、手を叩きながら満足げに目を細めていた。



 クリスティアンが放った魔法は、火と土の混合スクウェアスペル【流星】。
 火球《ファイア・ボール》系のトライアングルスペルに、土の質量をプラスしたものを連発するという彼が最も得意とする破壊の魔法である。
 
 単純な火力としては、他の系統のスクウェアスペルとは比較にならない程、圧倒的な威力を誇る。
 破壊を司る“火”。その本分を存分に発揮した魔法と言えるだろう。

 欠点と言えば、その範囲があまりにも大き過ぎるため、味方をも巻きこむ危険性がある事と、戦後の後始末が大変になる事か。


「おらぁっ、さっさと出てこねえと、土の中で蒸し焼きになるぜ?」

 降伏勧告をしながらも、なおも流星を雨あられのように降らせるクリスティアン。
 美女を前にした彼の精神力に限界という文字はない。



 ぼこっ。



「え……?」

 未だ氷壁の中で丸まっていたアリアは足元で起こる今までとは違う揺れに気付き、小さく声を漏らした。



 ぼこぼこっ。



「がぁああっ!」

 咆哮と共に、突如地中から、アリアの目の前に飛び出してきた黒い塊。

 その一部が、アリアの足首にぎゅるん、と巻きつく。

「うわ、わわわっ」

 足首を掴まれたまま逆さ吊りにされるアリア。
 そのアリアの鼻先を、つん、と噎せるような肉の焼ける臭いが刺激した。

 黒い塊の正体は、焼夷弾の直撃を受けたかのように焼け焦げた衣服と、爛れた皮膚が一体化し、無惨な姿になったジルヴェスターだった。

「動くなっ!この糞餓鬼の脳味噌をぶち撒けるぞっ!?」
「ぐっ」「…………」

 そこに飛びかかろうと、一斉に動きだしたロッテとフーゴを一喝し、その動きを制するジルヴェスター。
 
「しまった……っ!」
「あの野郎……どこまでもふざけた真似を……」

 遅れて異変に気付いたクリスティアンと執事の男は歯噛みをするが、人質を盾にされては魔法で攻撃する事もできない。
 吸血鬼が相手とはいえ、これは飽くまで誘拐事件。
 犯人を斃しても、人質が無事でなければ意味が無いのだから。

「き、きき、大逆転、と言った所だな。この糞餓鬼共も随分と味な真似をしてくれた……」
「離せっ、このっ……!」
 
 嗤っているのか泣いているのかわからない程爛れた顔で、不気味な嗤い声を鳴らすジルヴェスター。
 アリアも必死に足をバタつかせるが、足首をぎりぎりと万力のような力で締め付ける手から逃れる事はやはりできない。
 いかに満身創痍と言えど、女児程度の力で対抗出来る程は弱っている訳ではないらしい。

「もう、やめておけ。どう足掻いても貴様に勝ち目はない」

 ロッテは諭すような口調で言うと、制止を振り切ってずい、とジルヴェスターの前に出る。

「動くな、と言っているだろうがっ!」

 それに激昂したジルヴェスターがアリアの首に手を掛ける。

 当事者以外の全員が、緊張にごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。

「“そんなモノ”を盾にして、妾が引くと思うか?」

 ちらり、とアリアの顔を一瞥して言うロッテ。

「き、ききっ、今さらそんな事を言って、通用するかよっ!人間に飼われた豚めっ」
「……何じゃと?」
「まさか鼠臭いメイジの力を借りるとは。貴様は誇りを捨てた豚だっ!」

 ジルヴェスターは、自分の卑劣を棚に上げ、声を大にしてロッテを罵る。

「くヒ、くひゃ、はははっ」
「何が、可笑しい……?」

 ロッテは、その酸っぱい葡萄を嘲るように嗤う。

「妾が豚なら、お前は地を這いずる蛆虫、いや、クソ虫じゃな」
「誇りを捨てた貴様が何を言うっ!」
「おっと、これはクソ虫に失礼か。クソ虫でもお前よりはマシな品性をしておるわ」
「き、ヒ、あまり私を怒らせない方がいいぞ……?」
「丸っきり三下の台詞じゃな。まぁ、お前にはそのくらいが丁度いいか」
「き、きキっ、キキキっ!」
「くふ、くヒ、ひゃはは!」

 罵り合い、さも愉快そうに嗤い合う二人の吸血鬼。

 他の“三人”は、その二人の異常な掛け合いに圧倒され、クリスティアンさえもただ、凍りついたようにそれを見守るだけであった。

「殺すっ!」

 狂笑から一転、オーク鬼のように醜く顔を歪めるジルヴェスター。

「アリアっ、放てっ!」
 
 ロッテが声高に叫ぶ。

 アリアはにや、と口だけを歪めてそれに応えると、手に持った武器を素早くジルヴェスターに向かって投げつけた。



 ぼふんっ。



「ぶっ……は?!」

 ジルヴェスターの顔面に炸裂したのは緑色の粉末を撒き散らす“例の”爆弾。
 
 ロッテが先程の罵り合いに乗った理由は、アリアから注意を逸らさせるため。
 絶妙のアイコンタクトを受け取ったアリアは、その隙を狙って腰に下げていた袋を手にしたのだ。

「うが、鼻がっ……」
 
 予期せぬ人質の反撃に、後ろへたじろぐジルヴェスター。

「シッ」

 その瞬間、ひゅおん、とブロンドの稲妻が地を走った。

「──っ?」

 ジルヴェスターが瞬きをした刹那。



 こっ、こっ。



 ジルヴェスターの遥か後方から、ロッテが靴を踏み鳴らす音が響いた。



「な、なんだ?こけおど、しかっ……?あ、あれ?息が……くる、し」

 交錯した刹那、何をされたかわからなかったジルヴェスターは、訳も分からず狼狽する。

「…………」

 ちらり、と感情を感じさせない無機質な表情で後ろを振り返ったロッテは、右手に持った赤黒い何かの塊をジルヴェスターに見せつけた。

「それ、お、俺……のっ?しんぞ……」

 ジルヴェスターは思うように動かない腕を必死に伸ばすが、それはもう、どこにも届くことはない。

「Allez a enfer.(堕ちろ)」

 驚く程冷たい声で放たれた声とともに、彼女の手の中で命の灯が一つ、ぐしゃり、という音とともに、吹き消された。





 周りの景色が漆黒から、爽やかなブルーに変わっていく。
 長い夜がようやく明けようとしていた。

「いや~、さすがにメイジ殺しっていうだけはあるな。あれだけ速くちゃ、俺でも危ないかもしれんね」
「ふ、主の焔も中々に圧巻じゃったぞ?あれほどの使い手はなかなかおるまいて」

 強者の二人、クリスティアンとロッテは、まるで遠足の帰りのように清々しい顔でお互いの健闘を讃えあう。

「……何か通じる物があるみたいですねぇ、あの2人」
「……あの人は、気楽でいいですけどね。見てくださいよ、この有様……。この後始末、一体どれだけの時間がかかるのか……。ま、場所が人気のない森で良かった、といえば良かったんですが。はぁ……」

 執事の男は丸坊主になった森を振り返って溜息を漏らした。

「で、どうする?今すぐ俺の部屋に来る?いっちゃう?」
「うむ、それはいずれ、考えておこう」
「え?」
「誰も付き合う、などとは断言はしておらんが」
「ちょ、そんな殺生な」
「何、妾に会いとうなったら、蟲惑の妖精亭に来るが良い。今日の礼分くらいは奢ってやろう」
「あれだけ頑張ったのに……」
「馬鹿たれ、領主が領民を助けるのは義務じゃろうが」
「くっ、こうなったら、妹ちゃんの方でも……将来性に期待して」
「あんな子供にまで欲情するとは、お主、見境というものがないのか?!」

 ロッテに窘められ、がっくりと肩を落とすクリスティアン。
 普通なら無礼打ちにされてもおかしくないような会話であるが、美女にとことん甘く、弱い彼にはそんな考えは微塵もない。むしろ、そんな会話すら楽しんでいるフシがあった。

 彼がこの後、度々職務を抜け出して、蟲惑の妖精亭に顔を出すようになるのは言うまでもない事だ。



「はぁ、散々な目にあったぜ」
「全くね。これも誰かさんが隠し事をしていたせいよ」

 フーゴのぼやきに同意し、ロッテの方をじとり、と睨みつけるアリア。

「あぁ、わかった、わかった!もう隠し事はせん。そのかわり、お主の正体も教えるんじゃぞ?」
「アリ……いや、ちんちくりんの、正体?」

 ロッテの意味深な発言に、フーゴが訝しげな顔で聞き返す。

「あはっ、あははっ、何でもないわ、こいつ、さっきの戦いで使った頭が沸いてるのよ。本当、単細胞なんだから」
「何じゃとっ?このっ」
「ちょ、いだっ、やめなさいよ、この馬鹿力!」
 
 生意気な妹を捕まえて、びしびしと頭を小突く姉。
 その平穏な光景に、ケルンの青空には、晴れ晴れとした笑い声が響き渡った。
 




 そして、森を抜けてみれば。

「ケルン商会組合ばんざぁ~い!ゲルマニアばんざぁ~い!」
「クリスティアン様っ~、こっち向いてぇ」
「ロッテちゃん、無事っ?!」
「良かったなぁ、うん、良かった……っ!」
「ブラボー、おぉ、ブラボー!」
 
 巻き起こる大歓声と拍手喝采。

 久々に帰って来た家族を出迎えるかのように、たくさんの人々が街の入口に待ち構えていた。
 その中には、安堵の息を漏らすカシミール商会の面々、泣いて喜んでいる蟲惑の妖精亭のメンバーも顔をそろえていた。

「ひゅぅ、こりゃ、大層なお出迎えだ。さっすが俺だな」

 クリスティアンはその大観衆を眺めながら、軽口を叩く。

「これは……?」
「事件の解決に関わった商人共と、噂を聞きつけた野次馬ってとこだな。はっは、暇人共が雁首を揃えやがって」

 アリアの問いにクリスティアンが答える。

 彼は、暇人、といったが、彼らにもそれぞれ仕事があり、生活がある。
 わざわざここに出張ってくれたのは、多少なりとも街の仲間が危険に晒されている事を心配してくれてのものだろう。



「お前、泣いてんのか?」
「へっ……?」

 フーゴに指摘されて、自分の顔をぺたぺたと触るアリア。

 その頬にはうっすらと一筋の滝が流れていた。

「やだ、何これ……止まんない」

 止めどなく流れる泪を拭うアリアだが、流そうと思って流しているものでないそれは、拭う先からどんどんと溢れて来る。

「け、泣き虫め」
「くふふ、まだまだ餓鬼じゃの」
「うっさい!もう、何で止まらないのよっ!」

 フーゴとロッテのからかいに反発するアリアだが、その表情に浮かぶ喜びの色は隠せなかった。

 それは、人々の温かさに、自然と心が弛んでしまったために噴き出した涙。
 故郷に捨てられた彼女に、新たな故郷が出来たという、歓喜の涙だった。



 雨降って地、固まる。

 この日、アリアは本当の意味で、この国の一員となったのだった。





つづけ






[19087] 22話 幼女、襲来
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/08/19 10:05

 まだまだ厳しい寒さの続くハガルの月。
 あらかた誘拐事件のゴタゴタも片付いてきた、ヘイムダルの週の虚無の曜日。

 私とロッテは、珍しく二人揃って、ケルンの市街へ買い出しに出かけていた。

「あ~、すっげぇ寒いわぁ。……さっさと済ませて帰りましょうか」

 本日は晴天、とは言え、風が異常に冷たいせいか、休みの日だというのにメインストリートはそれほど混んでいなかった。
 これならば、すぐに用事を終わらせてしまうことも可能だろう。

「いや、それは駄目じゃ」
「はぁ?」
「劇場で新演目が公演されておってな。ほれ、劇の作家が交代したじゃろ?これが中々に評判がいいようでの。これを見ずに帰るなどあり得んわ」
「私はパス。お金と時間の浪費よ、そんなもの」
「はぁ、主は芸術を愛でる美しい心を失ってしまったのじゃなぁ……。その年で金の亡者とは哀れなヤツよ」

 道端で干からびた蛙の死骸を見るような目で私を見るロッテ。
 ふ、私がそんな安い挑発に乗るとでも思っているのかい?

「別にあんたが行くのは止めないわよ?一人で行ってきたらいいじゃない」
「……それが、一人はちょっと、のう」
「何でよ」
「いや……その演目が、“イーヴァルディの勇者”での」
「丸っきり子供向けの演目じゃないの」
「んむ。だからの、主もきっと楽しめると思うのじゃ」
「なるほどぉ?お子様向けの劇を一人で見に行くのは気恥ずかしいから、私の付き添いという形にしたいわけだ」
「うぐ」

 図星を突かれて悔しげな表情を見せるロッテ。


 “イーヴァルディの勇者”は、ハルケギニアの桃太郎のようなもの。
 幼子の寝物語に聞かせるような御伽話なのだ。いい年してその劇を見に行くのは確かに恥ずかしいだろう。

 それにしてもどこまで人間臭いんだ、こいつは。



「のぅ、一回だけ、一回だけ付き合ってくれればいいのじゃ」
「だから一人で行きなさいって」
「おっ、“5000エキューの美貌姉妹”じゃないか」

 意図を見抜かれても、なお食い下がるロッテをいなしながら歩いていると、店先でフリカデルを焼いていた肉屋の店主が、ちょっと黄ばんだ歯を見せて声を掛けてきた。



 “5000エキューの美貌姉妹”と言うのは、誘拐事件以来の、私達の通り名のようなもの(ケルン限定だけど)。
 ロッテの美貌にちなんでつけられたものだろうが、私まで美人なような気分になれるので、ちょっと気に入っていたりする。

 あの事件の後、1週間くらいは仕事そっちのけで、ケルン中の小さな個人商店から大きな商会までをくまなく訪ね、迷惑を掛けたお詫びをして回ったこともあり、私達はケルンではちょっとした有名人になっているのだ。
 あまり有名になるのも考えものなのだけれど(吸血鬼的な意味で)、商人としては、顔が売れるのは悪い事ではないだろう。

 ま、怪我の功名ってヤツだね。

 ただ、ロッテが凄腕のメイジ殺しであるという情報(嘘)はあの場に居た5人以外には秘密という事にし、ツェルプストー伯が単独で事件を解決した、という事になった。

 これは私の提案。下手にロッテの強さが知れ渡ると厄介な事になる。
 吸血鬼だという事がバレなかったとしても、荒事に巻き込まれる事は避けられまいという事で、そのように取り計らってくれるように辺境伯にお願いしたのだった。



「こんにちは」
「どうだい、寄って行かないかい?安くしとくよ」
「うぅ~ん」

 フリカデルの焼ける香ばしい匂いが私を誘惑する。

 あ、フリカデルと言うのは、馬肉をミンチにしたものに小麦粉のツナギを合わせて、それを丸めて焼くという、ゲルマニアの名物料理。
 美味いんだよ、これ。

「おぉ、焼き立てか。暖まれそうじゃの。買おう、すぐ買おうぞ」

 ロッテは涎を垂らさんばかりの物欲しげな表情で催促する。
 姉妹共有の財布の紐を握っているのは私の方なのだ。

「……いくらですか?」
「おうっ、1個60スゥだぜ」
「ちょっと、キツイわね。2つ買うから、もう少しオマケしてくれません?」
「そう言うと思ったよ……2つで110でどうだ?」
「もう一声下げて100で」
「しゃあねえ、色々と大変なんだろうし、これくらいは協力してやらねえとな」
「ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げてサン・スウ銀貨(100スゥ銀貨)を手渡し、アツアツの包みを2つ受け取る。



 色々と大変、とは、私に借金ができてしまった、という事を指している。
 まぁ、実はそれほど大変な額ではないのだけれども。

 何故、私が若い美空で借金を背負ってしまったのかと言うと、その原因は、辺境伯が商人の情報網を活用するためのカンフル剤として使った、ガリア産の高級宝飾細工一式である。

 その代金、5000エキューがカシミール商会に請求された時は、私の目の前は真っ暗になり、その場でぱたん、と気を失った。

 ちと恥ずかしいが、それも仕方のない事だと思う。5000エキューとか、私が何年働けば返せるんだ。というか、下働きじゃ一生返せないっての。
 そうなったら独立どころではなく、賤民に逆戻りではないか。
 実は5000エキューでもかなり割り引いてくれた方らしいけども。何せ、競売にかければ、トリを飾る事もあって、その2割、3割増しに釣り上がってもおかしくはなかったらしいから。



 さて、それで結局どうやって底辺に逆戻りする事を免れたのかと言うと。
 
 商会に属する支店同士には、“損害分散”という制度が存在する。

 これは一体どういう制度かというと、ある一つの店が“どうにもならない理由で”大きな損害をカブった場合、商会に属する他の店にも損害をノんでもらい、大きなリスクを回避する、というもの。
 天災や事故の度に、支店が一つ減ったりしてしまっては、商会全体の利益を保っていくことは難しい。
 そんなリスクを避けるために考え出された制度が“損害分散”なのだ。

 ただ、それは飽くまで“どうにもならない理由”に限られ、買付の失敗などの経営上のミスや、不注意による物品の破損などの人的ミスには用いられることはない。

 今回はそれが即時に適用された最も大きな理由は、カシミール商店の親分である、フッガー家の三男、フーゴが一緒に誘拐されていた事が大きい。
 フッガー家の一員を助けるために仕方なく被った損害、として、商会全体で損害をノむ事が承諾されたのだ。

 それを親方から聞いた時、貴族の坊ちゃんに下働きをさせている事を実家にばらしてしまって大丈夫なの?という疑問が湧いた。
 当然の疑問だろう。平民が貴族の息子を扱き使っている、などと知られれば、フツーはかなりヤバイ。

 その疑問を親方にそれとなくぶつけてみると、フーゴがカシミール商店で下働きしている事はフッガー家の方では最初から把握済み、とこっそり教えてくれた。
 何でも、将来のための勉強になるから、なるべく厳しく躾けてやってくれ、と頼まれているらしい。

 ただ、夫人、つまりフーゴの実母だけは、その事に納得していないらしいのだが……。
 きっと私のアレとは違って、子煩悩な母親なんだろうなあ。

 フーゴとしては家を飛び出して、好き勝手にやっているつもりらしいが、実はお釈迦様の掌の上のお猿さんって所ね。



 ま、とにかく、その制度によって、ゲルマニア国内外に存在する、フッガー商会の資本の入った10の店舗に損害をノんでもらって、実際にカシミール商店で払うのは500エキューとなった。
 そのうち、「半分は俺の監督責任だ」と親方が半分を負担し、残り250エキューをフーゴと私で2等分し、私の借金は125エキューとなったわけだ。
 これくらいならば、独立資金が少し増えてしまったと考えれば問題ない。

 色々と手を回してくれた親方にマジ感謝です。



 ちなみに、5000エキュー相当のお宝を手に入れたのは、血眼になって情報をかき集めていた一線級の商人達ではなく、ケルンの北のはずれで生活雑貨の小売店を細々と営んでいた老夫婦だった。

 何でも、老夫婦が日課の散歩をしていた所、偶然にも人相の悪い大男がぐったりとした子供二人を抱えて北の森へ入って行くのを目撃し、これは大変だ、と役人に報告しに来たらしい。
 目撃情報に与えられる報償など一切知らなかったそうで、訳も分からず手渡されたその報償の価値を聞くや否や、二人揃って泡を噴いて卒倒したそうだ。

 まさに無欲の勝利、と言ったところだろうか。う~ん、無欲、なんてのは私には到底無理な境地だなぁ。



「んむ、美味いの」
「はぁ、結局誘惑に抗えなかったわ……」

 ケルンのメインストリートを二人並んで歩きながら、フリカデルをはぐはぐ、と行儀悪く貪る私達。
 心なしか道行く人達の好奇の視線を感じるが、まぁ、こういうのもたまにはいいだろう。

「これ、食べ終わったら劇場じゃぞ」
「まだ、言ってるわけ?ま、私ももう少し大人向けの演目なら付き合ってあげてもいいんだけどさ。どうせあんたが稼いだお金だしねぇ」
「なんと、濡れ場がなければ駄目と申すか、このマセ餓鬼め」
「誰もそこに限定はしていないんだけど……」

 大人向け=エロという思考が、もう、人として(吸血鬼だとしても)駄目だと思うよ?

「そうじゃ、濡れ場で思い出した」
「何よ?」
「主、まさかとは思うが、あの小坊主とイイ仲になっていたりはせんじゃろうな?」

 ぶっ。いきなり何を言うかと思えば。鼻から咀嚼中のモノが少し出てきたじゃないか……。

「念のため確認しておくが、男と付き合うのは契約違反じゃからの?」

 ムカツクにやけ面をしながら私を覗きこむロッテ。
 なるほど、私をからかって遊ぼうという算段か。そうはいくか。

「ご心配頂いてありがとう、姉様。でも私、そのような浮いた話には一切興味がございませんの。ごめんあそばせ」
「ち、何じゃつまらん」
「あんたこそ、辺境伯に迫られているって噂じゃない。この前スカロンさんに聞いたわよ?」
「たわけ。妾が人間と付き合う訳がなかろうが。阿呆か」
「ですよね……」
「そもそも、妾のタイプから大きく外れておるしな、あやつは。妾は無口でニヒルな男が好きなんじゃ」
「え、それ初耳」

 意外だ。

 あれだけ男に追わせといて、実は男を追うタイプとは。これは追っている男達、涙目の事実だわ。

「まぁ、あやつは話も上手いし、金払いもいいから、店では中々の人気者になっておるがな。……しかし、あれだけの頻繁に店に顔を出すとは、よほど暇なんじゃろうなぁ」
「いや、どう考えても暇なんてないはずだけれど……」

 私の脳裏にあの執事さんが枕を濡らしている図が浮かんだ。
 ツェルプストー家に仕えるのは凄まじく大変そうだなあ。

「しかし、やはり貴族という身分はお得じゃの。お主も早く貴族になって妾に楽をさせてくれ」
「いや、別に私は貴族にまでなる気はないんだけど」
「何を言っておる。成り上がると言ったからには、一国の主くらいにはなってみせい」
「そんな無茶な……」

 簡単に言ってくれるわね……。
 
 確かに、ここゲルマニアでは他国と違い、平民が貴族になる事は少なからずあるし、私にも将来的にその可能性がないわけではない。はず。

 ただ、フッガー家のように、爵位と領地を得た平民はゲルマニアの歴史を紐解いても、片手で数えられるほどしかいないと聞いている。
 ロッテが言う「貴族」とは、こういう上級貴族の事を指しているんだろうね。

 それは無理、とは言わないけれど、かなり厳しいと思います、お姉様。
 
 平民が貴族になるパターンで、最も多いケースは、貴族という肩書だけを国から買い受けるというもの。
 その場合、爵位無しの平貴族という扱いになる。
 戦功によって得られるシュバリエ(叙勲士)などとは違い、貴族年金などは一切出ない。

 貴族の位を得たからと言って、ぽっと出の平貴族では社交界にデビューも出来ないし、お金が入るわけでもない。ましてや魔法が使えるようになるわけはない。
 こんな阿呆臭いものを、大金を叩いてまで買う価値があるのか、と思うのだが、富豪として有名になると、国の方から貴族になれ、と打診してくるらしい。

 つまり、国としては、「あなたは貴族です」と言ってやるだけで、平民の富豪達から大量の収入をせしめることができるボロい商売なのだ。
 さすがにお上に貴族に成れ、と言われて断る訳にもいかない。中々にエゲつない制度である。

 これって、何て“サムライ商法”?という感じだが、ま、名前だけでも貴族になれる事を有難がる人もいるので、一慨に悪徳だ、とも言えないだろう。



「貴族と言えばさ、あんたってお仲間の内ではやんごとなきお方なんだっけ?」
「その事には触れるな、と言ったはずじゃが?」

 うぅん、この話の流れならポロっとこぼすかと思ったけど駄目か。

 お互いに隠し事はしないという約束はしたが、ロッテにはあまり触れられたくない所があるらしく、昔の事に関してはあまり聞くな、と釘を刺されていた。

 でもちょっとくらいいと思うのよ。ね、ちょっとくらい。
 だって吸血鬼の世界とか、どうなっているのか興味が湧くでしょ、普通。

「だって、気になるし……」
「そう言う主だって、正体を明かしておらんではないか。主は何かと言えば“東方”と言っておるが、それ、嘘臭いぞ?妾の目は誤魔化せんからの」
「……う」

 そう、私もまだそれについては話してはいなかった。
 
 実はロッテには『僕』の事を話してもしまってもそれほど問題はないと踏んでいるんだけどね。何て言っても吸血鬼ですから。
 私が『僕』の事を隠している理由は、“異端”とされる事が怖いからであって、そうなる危険がない相手なら、別に隠すような事でもない。

 ただ……。変人認定をされる覚悟がいるのよね……。

 もし誰かに「前世の記憶があるの」と打ち明けられたとしたら、普通の人はどういう対応をするのだろう。

「君、頭大丈夫?」「いい医者を紹介するよ?」「天然とか流行んねぇから」「私、そういうのはちょっと……」「実は私も。前世では王子様に守られるお姫様だったの」

 うわあ……。言いたくねえ。

 いや、もしかした下らん嘘を吐くな、とブチ切れられて散々な目に合わされるかも……。

「こ、この話はお終いっ!気分直しに“イーヴァルディの勇者”でも見に行きましょ?」
「む、逃げたか」
「ほ、ほら、早くしないと私の気が変わっちゃうわよ?」
「よし、すぐ行くぞ」
「あででっ、ちょっと、耳引っ張らないでっ!痛いっ、痛いってばぁ」
 
 ずるずるとロッテに引き摺られて劇場に向かう私。
 あぁ、耳も痛いけれど、街の人達の視線が一番痛いよ……。
 
 その時、私は、その視線の中に、好奇のものではない、敵意のものが混じっている事に気付けなかった。





「あれが、今回の事件の原因になった、という平民、かしら……?」

 物陰からじゃれ合う姉妹の様子を見ていた、小さな女の子が、小鳥のさえずるような声で呟く。

「はい。連絡員の報告によると、あの娘に間違いありません」

 その連れ合いらしき、メイドの姿をしたゴリラ、失敬、たくましい女性が憎々しげに眉間に皺を作ってそれに答える。

「そう。ふふ、見てなさい。笑っていられるのも今のうち。きちんと責任は取って貰いますわよ……」

 幼女は姉妹を見つめる目に炎を宿しながら、固く握った拳をぷるぷると震わせた。



 事件の火消しはもう済んだ、と思っていた。
 しかし、それは、私が関知しない所にまで飛び火し、ぼうぼうと燃え盛っていたのだった。





 そして翌日。
 カシミール商店はいつもどおりの営業だ。

「それでは、良い旅を」
「あいよ、行ってくらぁ」

 行商人や連絡員達の荷を造って笑顔で送り出す。これもまた、見習い業務の一つである。

「くぁ」

 そうして午前中の作業が全て終わった所で、昨日の疲れを残した私は大口を開けて欠伸をする。

「アリアちゃん、この間まで大変だったんだから、あまり無理はしないでいいよ。ツラいんだったら午後は早退してもいいからね?」

 そんな私を見てエンリコが声を掛けてきた。
 さすがエンリコ。気遣いができる大人の男だ。

 言い寄る娘は相当な数がいるらしいが、修行中だから、と全てお断りしているらしい。
 そういう真面目な所もモテる一つの要因なんだろうけどね。
 いや、ただ鈍いだけ、という噂もあるんだけど。

「ありがとうございます。でも、ただの遊び疲れですから。大丈夫ですよ」
「へぇ、アリアちゃんが遊び疲れなんて珍しいね」
「実は昨日、姉に散々連れ回されまして……」

 劇場で芝居を見終わってからも、あれやこれやとロッテに付き合わされたのだ。
 結局、昨日、部屋に帰ったのは完全に暗くなってからだった。

 自分は夕方からの仕事だと思って、いい気なものである。

「あぁ、あの美人のお姉さん。噂によると辺境伯と熱愛中って話だけど、それって本当なの?」
「話が飛躍しまくってますよ、それ。実際は酒場の客として顔を出しているってだけみたいです」
「なんだ、やっぱり噂は所詮噂かぁ。さすがに辺境伯ともあろうお方が、平民とそういう関係にはならないよね。“5000エキューの美貌姉妹”ならもしかして、と思ったんだけど」

 いや、多分なりますよ、あの人は。クリスティアン・アウグストはヤりますよ。
 身分制度に比較的ルーズなゲルマニア貴族の中でも特異中の特異点でしょ、あの人。

 しかし、この街は噂が巡るのが早いわ。尾ひれがつくのもまた早い。
 商人の街だから情報の流通がいいのかもね。
 


「おい、ちんちくりん。作業台の鋏、きちんと片づけとけよ。出しっぱなしだったぞ」

 そうしてエンリコと楽しく談笑していると、仏頂面のフーゴがそこに割り込んできた。

 何でこいつ、こんなに不機嫌なのよ……。

 何か、あの事件の後、フーゴは今までにも増して、私を目の敵にしているような気がする。
 う~ん、あの事件で、少しは仲良くなったかと思ったんだけど。やっぱり、巻きこんじゃったのを怒っているのかねえ。あの後、フーゴも一緒に挨拶回りさせられてたし。

「今日、私、検反なんてしてないわよ。変な言いがかりは止めてよね」
「あ、それ、僕だ。ごめん、片づけてくるよ」

 検反作業とは、入ってきた布地や絹地、皮革などに、売り物に成らないような不良部分がないかどうかを調べ、あった場合はその部分を切り落としてしまうという作業だ。

 非常にちまちまとした作業で、精神的苦痛が伴うため、私はあまり好きではない。
 そういう作業はギーナとゴーロの領分だ。あの双子って不器用そうに見えて、手先がめっちゃ器用なのよね。

 と言う事で、多分、犯人はエンリコじゃなくて双子のどっちかだと思うけど、喧嘩にならないように自分のせいにしてくれたんだろう。

 まったく、いい人過ぎるぜ、エンリコさん。



「あぁ、行っちゃった。あんたが変な事言うから……」
「……何だよ、そんな残念そうな顔しやがって。お前ってさ、も、もしかして、エンリコさんみたいな人が好きなのか?」

 ちらりと気まずそうに横目でこちらを窺うフーゴ。

「はぁ、何言ってんの?まぁ、あんたみたいな捻くれ者よりはエンリコさんの方が女にはモテるでしょうよ。気が利く上に美形だしねぇ」
「お、俺だって結構」

 フーゴは自分の顔を指して言う。何だ、俺だってイケてるじゃねーか、とでも言いたいのか。
 そういう事を自分で言うから駄目なんだよ、あんたは……。

「あんたの場合、顔は良くても性格が駄目だって言ってんの。ま、女にモテたかったら、まずは優しくすることを心掛けなさいな」
「うぐ、ぐ……。このちんちくりんめ、偉そうに」
「お、久々にやるかい?」
「へっ、望む所よ」
 
 いつものように龍虎、いや言いすぎた。犬猿の如くフーゴと対峙する。



 ごんごん。



 さあ、第一ラウンド開始か、という所で、正門のノッカーを激しく叩く音が聞こえた。



「ありゃ、おかしいわね。午前中はもう終わり、って札出してるのに」

 カシミール商店では、昼の休憩時には、正門は締めてしまう事になっている。

 そうしないと、こちらの休憩時間などお構いなしに客がやって来てしまうので、休憩にならないのだ。
 さすがに門を締めておくと、時間を改めてくれることがほとんどだ。
 たまに、こういうせっかちな人もいるんだけどね。

「まったく……空気読めよ……。はいはい、今開けますよ、っと」

 いそいそと不満そうにフーゴが正門に走る。



「げ……っ」

 しかし、格子状になっている門の手前まで行ったところでフーゴは蛇に睨まれた蛙のように立ち竦んだ。

「こっ、ここここ」

 目を剥いて固まったフーゴは、締めた鶏のような声で鳴く。

「…………?」

 不審に思い、門の外を見ると。

 私と同じか、少し低いくらいの背丈の幼女と、メイドの格好をした、やたらとごつい体つきの若い女が立っていた。
 女の子の方はマントを羽織り、背丈に不似合いな長いステッキを持っている事から、どうやら貴族のようだが……。

「何よ、あの人達ってあんたの知り合い?」
「いや……知らない。見たこともない人達だ。……う、俺、頭痛いから……今日、早退するわ」

 そう言って、そそくさと帰り支度を始めるフーゴ。
 
「変ねえ……今日って、商人以外の来客予定なんてあったっけ?」
「ないっ。だからあれは無視しようぜ。どうせタカリに来た役人かなんかだよ」
「それはないでしょうよ、このケルンで……」
 
 ケルン、というかゲルマニアの殆どで、商人に対する不当な税の取り立てが行われる事はまずない。

 ゲルマニアで商人を敵に回しては生きていけない、と言われている程、商人の力が強いのだ。
 上級貴族と繋がりのある商人も多いし、中には多数のメイジを用心棒にしている大商人まで存在する。

 そして何よりも組合(アルテ)の横の繋がりが強い。アルテは大きな家《ファミリー》である、と定義されているのだ。
 例え小さな商店が相手であろうと、木端役人なんぞが舐めた真似をしたら、次の日には、ライン川に物言わぬ躯として浮かぶハメになるだろう。
 
 まぁ、組合組織が脆弱なトリステインあたりでは割とよくある話らしいけど……。


 
「あぁ、もうじれったい!ヘンネ!」

 いつまでも開かない扉に業を煮やしたのか、外の幼女は従者に命令を下す。
 え、何をする気だ?

「はい。お任せ下さい」

 ヘンネと呼ばれたガテン系メイドはその命令に太い首を縦に振ると、おもむろにゴツイ南京錠に手を掛ける。
 
「むんっ」

 ヘンネが気合を入れると、替えたばかりの頑丈な南京錠がべきっ、と音を立ててひん曲がった。

 ちょ、握力だけで……。この従者、本当に人間か?

 というか、あの幼女、メイジなら壊さずに【解錠】《アン・ロック》使いなさいよ……。
 あ、幼女だから格好だけで、まだ魔法は使えないのか。

「さぁ、前進よっ、障害は全てたたき壊しなさいっ!」
「はっ、了解しました!」

 幼女の命令通り、ヘンネは門を力づくでこじ開けようとする。
 正門は内から掛けた鍵も開けなくては開かない、という二重のロックになっているのだ。
 
「いっ、今!今、開けますからちょっと待って……」

 それをも無視して逃げようとするフーゴを尻目に、私は慌てて正門に駆けより、鍵を開けた。
 このまま正門まで破壊されては、親方から大目玉をくらってしまう。

「開きました」
「御苦労様」

 鍵を開けると同時になだれ込むようにヘンネが店に入り、その後に我が物顔で、悠々と店に侵入する幼女。

「ふん、まったく。さっさと開けなさいよ、鈍間な娘だこと」

 汚いモノを見るような目で私を見下ろす幼女。
 いや、背伸びしても見下ろせていないけどね。

「あ、えっと……あの、誠に申し訳ありません」
「そんなにことだから吸血鬼などにかどわかされるのですわ」
「へぇぁ?」

 私の事を知っている?
 一体、誰なんだ、この偉そうな幼女は。

「ま、貴女の事は後回しでいいとして……。フーゴちゃ、いえ、フーゴはどこかしら?」
「フーゴ、ですか?はぁ、それならそこに……アレ?」

 フーゴの姿は忽然と消えていた。何と逃げ足の速い奴だ。

 それにしても、やはりこの幼女とフーゴは知り合いのようだ。幼馴染とか?
 
「どこにもいないじゃないの」
「いえ、さっきまではそこに……居たんですけど」
「はぁ、もういいわ。本当、使えない娘ね。とうとうカシミールも耄碌したのかしらね。こんな出来損ないを雇っているだなんて」
「…………ぅ」

 幼女はこちらを見ることもなく、ぽこぽこと、馬鹿にしたように、手に持ったステッキで私の頭を叩く。

 私は「このくそがきっ!」と、思わず出そうになる手を理性で必死に押さえていた。

 ぐっ、私の右手よっ、鎮まれ……っ!



「店の者、全員集まれぇっ!」

 私が必死に右手と戦っていると、ヘンネが大声を出して勝手に召集を掛け始めた。

 いや、何やってんだよ、部外者だろ、あんたら……。
 あれ?でもさっき親方の事を知っているようだったし、丸っきりの部外者ではないのか?



 何事か、とすでに食堂の方に行っていたエンリコや双子が顔を出し、駆け足でこちらに向かって来る。

「……何事?」「……食事中、迷惑」
「それが、この方達がいきなり……」

 ギーナとゴーロは食事を邪魔されたのがよほど不満なのか、珍しく不機嫌とはっきりと分かる顔で文句を言う。

「店の者はこれだけ?」
「主人や、正規の従業員はここにはおりません。しかし、失礼ですが貴女方はどちら様でしょう?もし、部外者であれば即刻立ち去っていただきたい」

 エンリコは幼女の高飛車な態度にも、物怖じした様子もなく、毅然とした態度で言う。
 いいぞエンリコ、かっこいい!どこかの逃げた男に見せてやりたいものだ。

「貴様、ヴェルヘルミーナ様に向かってなんたる無礼──」

 その態度がカンに障ったのか、ヘンネが身を乗り出して声を荒げる。

 ヴェルヘルミーナって、また、長ったらしい名前ねえ。

「よしなさい。久しぶりにフーゴの顔が見れると思って、私も少々、舞い上がっていたようです。名乗りもしなければわからなくて当然よ。ここはアウグスブルグではないのだから」
「は、出過ぎた真似を致しました……」

 幼女が窘めると、ヘンネは肩を落としてすごすごと引き下がる。

 それにしても、アウグスブルグ……?まさか。

「カシミール商店の皆さん、失礼を致しましたわ。私は、ヴェルヘルミーナ・アルマ・フォン・プットシュテット・フッガーと申します」
「ふ、フッガー?……と言う事は、もしかして……フーゴの妹さんっ?!」

 言った後で、私はしまった、と口を押さえた。

 フーゴが貴族な事は内緒だったのだ。
 ごめん……フーゴ。……やっちゃった。やっちまったよぉっ!

「え、どういう事?アリアちゃん」
「……フーゴが」「……フッガー家?」

 エンリコと双子は怪訝な顔で私に問う。

「えぇっと、それは──」
「本当に、失礼な小娘だ事っ!どうやったら私がそんなに幼く見えるのかしら?!」

 私がしどろもどろになっていたところで、突然ヴェルヘルミーナがヒステリーを起こし始めた。
 どうやら年を若く見られた事を怒っているらしい。ふむ、子供の時にはよくありがちな大人になりたい願望というやつかな。

「あの……すいません、もしかしてお姉様でしたか?」
「きぃいっ!この小娘っ!もう許さないわっ!私は今年で33歳!フッガー家正室にして、フーゴの“母”よっ!」

 顔を茹でダコのように真っ赤にしてステッキを振り回すヴェルヘルミーナ。

「おっ、奥様!お気を確かにっ」

 ヘンネはそんなヴェルヘルミーナをひょい、と持ちあげて制止する。
 その姿はどう見ても駄々っ子をあやしているようにしか見えない。



(ひょっとして、これはギャグで言っているのか?)

 反応に困った見習い達は、只々、遠い目をして立ちつくすのであった。





つづけ






[19087] 23話 明日のために
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/20 20:24
「カシミールも不在ですって?」

 ただっ広い倉庫内に、ヴェルヘルミーナの耳に障る甲高い声が響き渡る。

「申し訳ありません。主人は本日、明日と、トリールで行われている、輸入品目の価格協定会議に出席しておりまして」
「もうっ、どうなってるの、この店は?わざわざこの私が出向いて来てあげたというのに!」

 突然来訪しておいて、理不尽にキィキィと喚く幼女、もとい伯爵夫人に、私を含めた見習いメンバー達は引き攣った笑顔を浮かべる。



 エンリコが彼女に説明した通り、今日、明日と親方、そして駐在員の二人はお休み。
 こんな時に限って親方がいないとは、間が悪いとしか言いようがない。

 現在商店の陣頭指揮を取っているのはエンリコだ。

 エンリコは勤続歴5年のベテラン。
 独立を目指しているために未だに見習いなだけで、その実力は既に正規の駐在員と同等と言えるだろう。

 そんなエンリコのおかげもあり、いつもの通常業務だけなら見習いだけでも店は回る。
 エンリコはお金の扱いもある程度任されているし、商品知識、鑑定眼、物価相場などは私を含めた全員が実戦、及び勉強会でかなり鍛えられているから、よほど特殊な商品(マジックアイテム、骨董品、東方の品など。または契約書や証書が必要になる大口の新規、もしくは特殊な取引)でない限り、取引する事にさほど問題はないのだ。

 ちなみに、トリールとは、ケルンから馬車で1日ほど南に下ったところにある小さな宿場町である。

 そこで現在行われているはずの価格協定会議とは、平たく言えば談合の事。
 ある商品に対して、今年度はいくらで、どれくらい、どの時期に購入するか、という事をあらかじめ決めておき、入札を通すことなく安定して商品を手に入れるためのものだ。
 このセカイにおいては、それは別に違法な行為ではなく、商会同士が取引する上では、極めて当然の行為である、と言えるだろう。
 ただ、談合に参加できない、規模の小さな商家の商人達からはあまりいい目では見られないために、トリールのような少し外れた土地での会合になるのであった。



「奥様、主人の不在は仕方のない事です。……とりあえず、ここは坊ちゃんを」
「ふぅ、そうね。私とした事が、また頭に血が昇ってしまったわ……」

 ヘンネが宥めると、意外にも素直に従うヴェルヘルミーナ。
 どうやら自分がカッとなりやすい性格だという自覚はあるようだ。

 それで自重出来ないのだから、余計に性質が悪いと思うのは私だけだろうか。

「では、そこの同じ顔をした二人、フーゴを探してきなさい。すぐによ」
「……どうして?」「……俺達が?」
「つべこべ言わずさっさと行くっ!クビにされたいのっ?」
「……横暴」「……理不尽」
「きぃっ、何て生意気なの、ここの見習い達はっ!」

 やるなあ。伯爵夫人相手に普通に口答えしてるよ……。
 喋らせると結構凄い事いうのよね、この双子。
 
「ギーナ君、ゴーロ君、ここは」
「……わかった」「……仕方ない」
「昼休みが終わるまでには戻って来てね」

 エンリコがそう言って目配せすると、双子は揃って肩を竦めながら、店の外へと出て行く。

「どうして私の言う事は聞かない、の、よっ!」

 双子の後ろ姿を憎々しげに睨みつけながら、ヴェルヘルミーナは手近にあった穀物袋を蹴りあげる。
 うわぁ……。絶対に関わりたくないタイプの人だわ、これ。

「ミセス・フッガー。申し訳ありません、弊店の従業員が大変失礼を致しました」
「ふん、まったくよ。この私を誰だと思っているのかしら?」

 なんて暴君ぶり……。
 成程、フーゴが逃げ出した理由もわかる。さぞかし厳しい母親なんだろうなぁ。

「それにしても、ここは寒いわねぇ……」
「おい。いつまで奥様をこのような薄汚い場所に閉じ込めておく気だ。さっさとまともな部屋に案内せよ」

 ヴェルヘルミーナの言を受けて、ヘンネは脅すようにエンリコに命ずる。 
 暖房設備のない倉庫内は、この時期だと確かにかなり冷える。慣れない人にはキツイだろう。

 しかし主人も主人なら、従者も従者ね……。あんたの檻には上等すぎる程だっての。

「はい、これは気付きませんで、重ね重ね申しわけありません。では応接室に……」
「いえ。貴方はいいわ。……そこの小娘、案内しなさい」
「へっ、わ、私、ですか?」

 唐突に矛先を向けられた私は、挙動不審に辺りを見回しながら自分を指さす。

「……貴女以外に小娘が何処に居るの?育ちだけでなく、頭も悪いのね、貴女」
「え、あぅ、すいません」

 何でここまでボロクソに言われなければいけないのだ、と思いつつも、とりあえず謝っておく。
 こういう高飛車な人間に反発してはかえって面倒な事になる。適当に頭を下げておくのが吉だ。

 それにしても、どうして私を指名したのだろうか。ただの気まぐれだといいんだけど。





「ふぅん、まぁまぁの部屋ね」

 仕方なしにヴェルヘルミーナを2階の応接室に通すと、彼女は当然のように上座に置かれた豪奢なソファにちょこんと腰掛ける。
 その姿は、綺麗に着飾らせたガリア人形のように可愛らしい。うん、外見だけは。

「…………」

 ヴェルヘルミーナの後ろには、ずぅん、と置物のように佇むメスゴリ……、もとい、ヘンネ。
 その佇まいからは、ただならぬ圧迫感を感じる。彼女は単なる従者ではなく、屈強な護衛役でもあるのだろう。
 あの太い腕で殴られたら、サハラを飛び越えて東方まで吹っ飛んで行けそうな気がする。

 というか、すげぇ気まずいよ、これ。
 何で私一人で、こんな高慢ちき共を接待せにゃならんのだ?これじゃまるで生贄ではないか。

「今、紅茶を淹れて来ますので、少々お待ちを」

 と、泣きごとを言ってばかりもいられないのが、雇われの身のつらい所でして。
 まぁ、お茶とお菓子でも与えておけば少しは大人しくなるだろう。

「結構。私はヘンネの淹れた紅茶以外は飲めませんの。……ヘンネ、淹れて来て」
「かしこまりました、奥様」

 ヴェルヘルミーナが厭味ったらしくそう言うと、ヘンネはニヤリ、とこちらに向けて勝ち誇った笑みを見せて、応接室を後にした。

 うん。人をムカつかせる事の天才ですか、貴女達は。



 そうして私とヴェルヘルミーナが二人きりになると、更に険悪な雰囲気が漂い始めた。
 なんというか、座っている彼女からはドス黒い怨念、敵意のようなものを感じる。



「…………」
「あ、あのぉ……ミセス・フッガー」
「何?」
「本日は、一体何の御用でいらっしゃったのでしょう、か?」
「放蕩息子を連れ戻しに来たに決まっているでしょう?そんなことくらいもわからないの、貴女は」
「そっ、そうですよね。失礼しましたぁ……あは、あはは」

 沈黙に耐えきれなくなった私が話題を振ってみても、返ってくるのはこの通り、絶対零度の返答である。
 この人、絶対水メイジよね。それも氷雪系が得意な感じの。

 それにしても、フーゴ、連れ戻されちゃうのか。あんな事件があった後だし、当然と言えば当然ではあるが。
 でも、あいつが納得するとは、到底思えないわね。商売に関しては割と本気で取り組んでいるみたいだし。
 
「まったく、程度の低い……。どうして、フーゴがこんな娘を……」
「え?」
「何でもないわ……。貴女、ちょっと“そこ”に座りなさい」
「は、はい。失礼します」

 “そこ”というのは当然の如く、椅子ではなく床である。どんだけ人を馬鹿にしてんだ、このロリ婆め……。
 と、思いつつも座ってしまう所が、これまた雇われの身のつらい所よねぇ。

 などと思っていると、ヴェルヘルミーナは突然私の顎をステッキでぐい、と持ちあげる。

「い、痛いっ、です」
「大人しくしてなさい。別に取って喰おうと言う訳ではないわ」

 私の抗議を気に留めた様子もなく、ステッキの先からじろりと私を覗きこむヴェルヘルミーナ。

「ふぅん……。思った以上に、いやらしい顔。殿方に媚びる事だけは得意そうね。貴女、商人より娼婦の方が向いているんじゃなくって?」
「は、はぁ」
「何なら、私の知っている娼館を紹介してあげるわよ?いくらなんでも、次の就職先くらい用意してあげなくては可哀想だものね」
「……どういう事です?」
「本当、頭の回転の鈍い娘ね。つまり貴女はクビって事よ、ク・ビ」
「な……っ!ちょっと──う、ぐ」

 横暴もここまで来るとさすがに許し難い。
 私がこの人に何をしたというのか。

 頭に血が昇った私は、ヴェルヘルミーナに詰め寄ろうとするが、ステッキで喉元を押さえられ、動きを封じられてしまった。

「まあ、凶暴な娘。正当な解雇通告に逆上して襲いかかろうとしてくるなんて……」
「げほ、正当、ですって……?」
「当たり前でしょう。大体ね、貴女のせいで商会全体に迷惑が掛かったのよ?そのくらいの処分は然るべきでしょう」
「……その事については、謝ります。多大な迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。しかし、あの事件での私の処分については、もう決着済みのはず。フッガー商会から、不問に処すという回答を頂いております」
「商会としては、ね。でも、“私は”納得していないのよ」
「それは夫人の我儘では?いくら伯爵家の正妻と言えど、独断で従業員を解雇するような権限はないはずです」
「意外と度胸はあるのね……貴族に向かって口答えするなんて」
「口答えではありません、これこそ正当な反論だと思いますが」

 いくらフッガー家と言えど、夫人を商会の正社員(出資者)としているとは考えにくい。
 女性が商売などに手を出すべきではない、という常識は、例え貴族の家でも変わらないからだ。
 ならば、彼女には従業員に対しての人事権は存在しないはず。

 しかも、この商店は親方の出資率が5割を超えるという、経営権の独立した店舗(代理店)なのだ。
 仮に彼女がフッガー商会の正社員だとしても、この店では、我が物顔で振舞えるような立場ではない。

 そう考えると、段々とムカっ腹が立ってきた。
 どうして、こんなロリ婆にここまで謙らなければいけないんだ。

「本当に腹が立つ娘っ!今すぐ出て行きなさいっ!荷物を纏めて今すぐっ!」
「貴女に命じられる筋合いはありません」
「何ですってぇ?!」
「私はカシミール商店に雇用されています。フッガー家によって雇われているわけではありませんので」
「ぐ、むぅ。なっ、何よ、いきなり強気になって……っ!私が命じれば、貴女なんてねぇ!」
「そうやって脅せば誰もが下手に出ると思ったら大間違いですよ?私はここをクビになったら終わりですから。後の無い鼠は猫をも噛み殺す、と言います。……私は精一杯噛みつかせて頂きますわ、ミス・ヴェルヘルミーナ(※)。……あら、ごめんなさい、ミセスだったかしら?」 
「……ふ、ふふ。だっ、誰がお嬢ちゃんですって?……クビにする前に、貴女には少し教育的指導というものが必要なようね」

 爆発寸前の活火山のように、ぷるぷると震えるヴェルヘルミーナ。
 何よ、これくらいでキレるなんて、大した事ないわね、伯爵夫人ってのも。

「まぁ、伯爵夫人から直々にご指導をして頂けるとは、身に余る光栄でございますわ。でも結構。こう見えても、私、本当に高貴な方への礼儀は、十分に心得ておりますので」
「どっ、どういう意味かしら?」

 そのくらい解りなさいよ。
 あれだけ人を馬鹿にするんだから、さぞかし聡明なんでしょうが。

「お気になさらず。……それよりも、私などにご指導をして下さる暇があるなら、ご子息の教育をきちんとなさった方がよろしいんじゃなくって?」
「あの子まで侮辱する気?!フーゴはとても素直でいい子よっ!」

 まさに親の欲目ってやつね。あいつは捻くれ者の意地悪坊主でしょうが。
 まぁ、少しは頼りになる所もあるけども。

「ふふ、子の心親知らず、とはこの事ですね。彼、貴女の顔を見た途端に逃げ出したんですよ。それこそ脱兎の如く、ね。よほど会いたくなかったのでしょうねぇ……。遠路はるばる会いに来た母から逃げ回る、なんて普通はあり得ませんわよね。とっても個性的だわ。どういう教育をなさったのかしら。後学のために教えて頂きたいのですけれど?」
「う、ううう、嘘よっ!そんなはず、そんなはずないわ!嘘を吐いてるのねっ、このフーゴちゃんにタカる害虫めっ!」

 ヴェルヘルミーナは団栗眼に涙を浮かべて叫ぶ。
 なんか、傍から見ると、私が小さな子を虐めているみたいな構図に見えるわよねぇ、これ。まぁいいか、誰も見ていないし。

 というか、フーゴ、ちゃん、って……。それに、害虫って私?

「それって、どういう事ですかね……?」
「あ、あの、えぇと、これは、その。違うの」

 発言の意図を指摘され、わたわた、と慌てふためくヴェルヘルミーナ。
 なるほど……。どうしてこのロリ婆が私を目の仇にしているのか、その本当の理由が何となく見えてきた。

「もしかして、商会に迷惑を掛けたから、などと言う解雇理由は真っ赤な嘘なのでは?」
「うっ……」
「いくら伯爵夫人といえど、勝手な逆恨みで権力を濫用してはマズイと思いますよ」
「何を根拠に──」
「あっ、フーゴだ」
「えっ。ど、どこっ?!私のフーゴちゃんはっ」

 私が窓の外に視線をやって言うと、ヴェルヘルミーナは光の速さで窓の方へ移動し、フーゴの姿を探す。

 やっぱり、そう言う事か……。

 何が厳格な母親だ。完全に的が外れていたわ。
 このロリ婆は間違いなくモンスターペアレントです。本当にありがとうございました。

「ごめんなさい、見間違えでしたわ」
「う、ぐ……」
「随分とご子息を大事にしていらっしゃるんですね。少し彼が羨ましいですわ」
「……母親が我が子を大切に思うのは当然の事でしょう?」

 うん、普通はそうだよね。でも世の中にはそうじゃない親もいるんです。例えば私のアレとかね。
 貴女はその真逆の、やり過ぎ、過保護ってやつだけどね。

「どんな勘違いをしているのか知りませんが、私と彼は何も特別な関係はありませんよ?ただの一同僚です」
「……私を騙そうったって、そうはいかないわ。貴女とフーゴちゃんが、その、イカガワシイ関係になっているというネタは挙がってるのよ!」
「…………はぁ?」

 ちょっと待て。
 誰だよ、そんな訳のわからない出鱈目をこのロリ婆に吹き込んだのは。

「何ですか、そのいい加減なネタは……」
「いい加減ではないわ。我がフッガー家の誇る連絡員による確かな情報よ」
「その連絡員こそクビにしなさいよ……少しは情報を吟味するとかしたらどうなんです?」
「とぼけるのもいい加減になさい!どうせ貴女の方から誘ったんでしょう!この薄汚い女狐めっ!」
「そんなことするかっ!あんな捻くれ者、こっちから願い下げよっ!」

 売り言葉に買い言葉。
 この時の私は、相手がどこのどなた様か、という事など、既にどうでもよくなるほどにヒートアップしてきてしまっていた。

「こっ、このどこの馬の骨ともしれない平民のくせにっ」
「ちょっといい家に生まれただけのくせに調子に乗ってんじゃないわよ!お子様貴族っ!」
「こっ、このっ!」

 ついにヴェルヘルミーナの右手が火を噴いた。
 平手が私の頬に炸裂し、ぱぁん、といい音が響く。

「やったわね……」
「なっ、何よ、その目はっ!私を誰だと」
「ただの過保護な馬鹿親でしょ?」
「きぃっ、もう許さないっ!その無礼、死を持って償いなさいっ!」

 逆上したヴェルヘルミーナは、手元にあったステッキを構えて金切り声を上げる。

 しかし、近過ぎる。この距離なら詠唱を完成させる前に潰してしまえばいい。
 
「イル・アース──」
「スっとろい事やってんじゃないわよっ!」
「あう……っ!」

 ヴェルヘルミーナが詠唱を始めると同時に、ステッキを持った手を、思い切り蹴り上げる。
 手離されたステッキは、きれいな放物線を描き、がしゃん、と窓を割りながら、外に飛び出していった。

「つ、杖を狙うなんて、ひっ、卑怯よ?」
「ケンカに卑怯もへったくれもあるかぁっ!」

 杖を失くして、よろめいたヴェルヘルミーナに肉食獣のように飛びかかる。
 こんな場所で、杖まで抜くとは、もう、頭にキた。

「やめなさい……っ!こっ、こんなことをして、後でどうなるかわかっているの?!」
「ぶん殴られる覚悟もないくせに、杖なんて向けてんじゃないわよっ!」

 馬乗りになってヴェルヘルミーナの顔面を殴りつける。
 もちろん平手などではなく、グーだ。

「あぐっ……なっ、なんてっ、恐ろ、ぶべっ、娘っ、なのっ……」
「今更気付いてももう遅いっ!ほらほら、早く泣きを入れないと、二度と鏡の見れない面になるわよっ」
「小娘がっ、調子に乗り腐って……っ」
「え、えぇ、うそっ?」
 
 ヴェルヘルミーナは蛇のようににゅるん、と身体を捻って馬乗りの状態から離脱する。
 完全に捕まえていたはずなのに……。まさか、この人、見た目に反して、意外と肉弾戦もやれるのか?

「ボディがガラ空きよっ!」
「ご、ふっ」

 ヴェルヘルミーナの下から抉るような拳打が、肝臓に突き刺さる。

「ほら、ほら、ほらぁっ!」
「ぐ、ぐぇっ」

 執拗に急所を捉え続けるヴェルヘルミーナの拳に、私はたまらず後ろに退がって距離を取る。

「く……。ここまで急所を的確に知っているなんて、ただのお嬢様だった訳じゃなさそうね」
「ふふ、甘く見ないで下さる?これでも若い時はバリバリの軍属だったのよ?(前線に出たことは一度もないけれど)」
「まっ、マジで……?」
 
 無い胸を張って誇るヴェルヘルミーナ。呆然とする私。
 この身体で、軍人だって?どうなってんのよ、この国の軍隊は。



「あっははは!いい顔ねっ!さあ、私に盾付いたことを後悔なさいっ!」

 調子付いたヴェルヘルミーナが嬉々とした形相でこちらに駆けて来る。

「お断り、しますわっ!」

 その顔を目がけて、私は改良型ハシバミ袋(試作型)を全力で投擲。

 これは、誘拐事件の後、更に殺傷(?)力を高めるために、刺激臭のあるハシバミの他に、毒茸と毒虫の粉末などを混ぜたものだ。
 試しにロッテに浴びせてみた所、割と本気でキレられた(一日耐久吸血の刑に処された)ので、その威力は以前の比ではないと期待できる。多分。

「何コレっ?目、目が、喉が……っ!ど、毒ぅっ?!」
「綺麗な茸には、毒があるのよっ」

 秋の収穫祭における注意事項のような事を叫びながら、ヴェルヘルミーナの喉を目がけて貫手を放る。
 それを言うなら、綺麗な花には刺があるのよ、なのだが、言ってしまったものは仕方ない。

「あぐぅっ」

 呼吸が苦しくなっている所に、喉を潰す一撃を受け、ヴェルヘルミーナは苦しそうに膝を着いて、こちらを睨みつける。

「く、勝つためには手段を選ばない、この非道さ……貴女、ただの小娘じゃないわね……」
「ふふ、私こそ、舐めて頂いては困りますわ。私は化物退治のスペシャリストでしてよ?(面と向かって戦った事はないけれど)」

 今度はこちらが、最近ちょっと出っ張って来た胸を張って言う。

「戯言をっ!」
「それはどうかしらっ!」

 掴み合った二人は、それから暫くの間、応接室の床をごろごろと転がりながら、上に下にの攻防を展開する。
 髪を引っ張る、噛み付く、頭突き、首絞め、手当たり次第に物を投げつける。

 見る見る内に、二人の顔は、青くはれ上がって行き、見るに堪えないひどいものに変わる。
 綺麗に整理されていた応接室の調度品は、見る影もなくぐちゃぐちゃのぼこぼこ。

 どうみても伯爵夫人と美貌姉妹の戦いには見えない泥仕合。

 彼女達は、世紀の大決戦をしているかのように錯覚しているが、傍から見るとちょっと過激な子供同士の喧嘩にしか見えないのは、言わぬが花であろう。



「……はぁ、はぁ、私を相手にここまで戦えるなんて、小娘にしては上出来よ?」
「……ふぅ、ふぅ、貴女こそ……ただの高慢ちきかと思えば、中々に根性があるじゃないの」

 満身創痍でニヤリ、と微笑み合う両者だが、二人とも膝が笑ってガクガクしていた。

「ふ、ふふ、フーゴちゃんの事さえなければ、もう少し違う形で知り合えたかもしれないわね」
「だから、出鱈目だって言っているでしょうが……。それに、あいつの事を思うなら、私の事なんて関係無しに、家に連れ戻すなんて馬鹿な事は辞めなさいな」
「何故、そう思うのかしら……?」
「親はなくとも子は育つ、可愛い子には旅をさせよ、ってね。あいつは確固たる自分の意志でここに居る。余計な茶々はあいつの成長を阻害するだけよ」
「……小娘の癖に、随分と由緒のありそうな金言を知っているのね?」
「“東方”の先人が残した言葉ですわ。コトワザ、というのよ」
「ふん……。“東方”ねぇ。ま、その先人に免じて、少しは考慮に入れておいてあげる」
「それは光栄です。……でも、決着は付けなくてはいけませんね」
「勿論よ」

 その応答を合図にして、私は最後の力を振り絞り、ヴェルヘルミーナに向かって突進する。

「らあぁっ!」
「せぇいっ!」

 私が繰り出すは、顔面を狙った、右のストレート・パンチ。
 偶然か必然か。ヴェルヘルミーナも同じ攻撃を繰り出していた。

 空気を切り裂く二つの拳が交錯した瞬間、私が目にしたのは、崩れ落ちるヴェルヘルミーナの姿。
 しかし、安堵も束の間、顎に軽い衝撃が走り、直後、星が見えた。

 クロス・カウンター。

 それは全くの偶然だったが、満身創痍であった私の意識を刈りとるには十分すぎる一撃だった。

 こうして、二人の小さな子供達の戦いは、両者ノックダウンで幕を閉じたのだ。





 その夜。

 『覗くな危険』の札が掛けられた従業員寮の一室で、幻想的な淡いグリーンの光が傷ついた私の体を包んでいた。

「痛っ、いだだだだっ、も、もっと優しくしてよ……」

 全身青あざだらけの私は、ロッテの荒々しい治療に口を尖らせる。

「たわけ。治してやっとるだけ有難く思え。大体、貴族と殴り合いなど、向こう見ずにも程があるわ」
「う……ぐぅの音も出ないほどの正論でございます……」
 
 呆れ顔のロッテに諭されて、がっくりと肩を落とす私。
 いつもとは逆の立場である。本当、馬鹿な事をしてしまったよ……。

 私の治療に使われている精霊魔法は【再生】というものらしい。
 ウィースバーデンの屋敷から生還した時もこれを使って私の怪我を治したという。

 【再生】は、ロッテの説明から推測するに、系統魔法の【治癒】とは異なり、生物本来の自然治癒力を高める、という魔法のようで、自然には治らないような身体の欠損や、重大な病などは治せないそうだ。
 というか、痛い。すごく痛い。傷が塞がる時間だけでなく、傷が治る時に発生する痛みまでが凝縮されて襲ってくるために、全身にかなりの激痛が走る。
 便利と言えば便利だが、あまり多用できるようなものでもなさそうだ。あまり大きな怪我に使用すれば、痛みでショック死してしまうだろう。

「しかし、その伯爵夫人とやら、よく大人しく引き退がったのぅ。その場で殺されてもおかしくはないぞ、普通」
「……私もそれはよくわからないのよ。正直、あの時は、あまりにも頭が茹っちゃってて、その後の事なんて考えていなかったんだけど。今考えると身震いがするわ。本当に、良く生きてたわ、私」

 あの後、私の意識が途絶えているうちに、どんな心境の変化かは知らないが、ヴェルヘルミーナ達はフーゴに会う事もなく、足早にアウグスブルグへと帰ったらしいのだ。

 傷だらけになった彼女に、紅茶を運んできた従者のヘンネや、異常を聞いて駆けつけたエンリコ達が「何があったんですか」と、尋ねてみても、「何もなかった」の一点張りで、取りつく島もなかったという。
 ま、貴族が杖を抜いたというのに、平民の小娘にあれだけ酷い目に合わされたなど、口が裂けても言えないだろうが。

 それにしても、ありえない程の無礼を働いた私に対するお咎めが無かったのは不気味だった。それどころか、私の解雇すらなかったことになっていたのだ。

 別に喧嘩の事を隠したとしても、私を罰する理由など「無礼だから」だけでも許されるのだから。
 殴り合いでヴェルヘルミーナの欲求不満でも解消されたのだろうか、それとも被虐趣味でもあるのだろうか。うぅん、わからない……。

「何じゃ、妾はてっきり、咎められない事を計算ずくでの行動かと思っていたのじゃが」
「買い被ってくれてありがとう。でも、今回ばかりは何もないわ。怒りに任せて暴れただけよ」
「くふふ、主もまだまだ餓鬼と言う事じゃの」
「認めたくないものね……」

 私自身、あそこまで怒りの感情が爆発するとは、思いもよらなかった。
 以前の私であれば、何を言われようがはいはい、と従っていたはずなのだが。

 まぁ、それが一慨にいい事とは言えないわね、特に今回は。
 無事で済んだからよかったものの、一歩間違えれば、私の首は胴体に乗っかっていなかったのだから。
 反骨心はあってもいい、というかあった方がいいけれど、身の程は弁えなければね。うん。

「しかしまぁ、どうやったら杖をなくしたメイジ如きに、ここまで痛めつけられるんじゃ?」
「あだぁっ」

 ロッテは意味も無く、ぱこん、と私の頭にできた大きな瘤をたたく。

「やれやれ、まったくもって主は弱いのぅ。うん、弱過ぎる。死に掛けのカメムシくらいに弱いな」
「そ、そこまで言う?凄い根性を持った強敵だったのよ?」

 ロッテは三段活用を駆使してまで私を罵る。
 ちょっと言い過ぎじゃないか、あのヴェルヘルミーナ相手に善戦したよ、私は。
 見かけは幼女だったけど、戦闘力はあのゴリメイドのヘンネ以上よ、きっと。

「最初に杖を狙ったのは、弱者としては正解としても、その後が全っ然、駄目じゃ。杖のないメイジなど、金の無い商人みたいなもんじゃぞ?せめて肉弾戦くらいは勝たんか」
「元軍人だったのよ、あの人。負けて当然でしょ。私はただの素人で、しかも平民なんだから」
「それじゃ、その考えがいかんのじゃ!」

 びしっ、と私の鼻先に指を突きつけるロッテ。
 私としては、当然の主張なのだが、何だかロッテを調子づかせてしまったらしい。

「昨日の“イーヴァルディの勇者”を見て思ったんじゃ。人間、不可能な事など無い、と。平民だろうと何だろうと、その気になれば、ドラゴンにでも勝てるのじゃ」
「いや、あれは御伽噺だし……」
「諦めたら、その時点で人生終了じゃぞ?」
「いや、そういうのは諦めてもいいんじゃないかな、うん。じゃあ、この話はこれまで、という事で一つ」

 この流れはまずい。絶対、何か良からぬ事を言い出すに違いない。
 そう判断した私は、強引に話を打ち切りに持っていくことにした。

「そこでじゃ」
「いや、聞けよ」
「お主は、明日のイーヴァルディを目指せ。妾がマンツーマンで主を鍛えてやろう」
「始まった……」

 出たよ、無茶振りが。何が悲しくてそんな一銭にもならない事をしなくてはならないんだ。

「第一、 主は行商人になるのであろう。それならば、多少の腕はつけておかねばな。たちまちのうちに、賊共にやられてしまっては仕方がないじゃろう?男なら殺されるだけで済むやもしれんが、女じゃったら余計に悲惨な目に遭うじゃろうなぁ……」
「……本音は?」
「うむ。最近暇での。主の読み書きはもう完璧じゃし、先住者も倒した。はっきり言って、死ぬほど暇じゃ」

 悪びれる様子もなく答えるロッテ。
 つまり、大義名分の下、思う存分に私を虐めて暇つぶししよう、という訳か。
 死ねばいいのに……。

「ちなみにお主に拒否権はない」
「うぐ……」

 こちらが言う前に、先手を打たれてしまった。

「くふふ、悔しかったら妾を倒してみるがよい。ほれほれ、来てみい?」
「ぐ、ヴェルヘルミーナ以上にムカツクわね……」
「くヒ、期限は妾が飽きるまで、じゃからな」

 いつだよ、それは。1時間後か、明日か?それとも10年後か?
 くそ……あの芝居を見に行った時点で、全ては終わっていたんだ……。



 こうして、私は次の日から(吸血)鬼コーチ、ロッテからの容赦ない扱きを受ける事になるのである。

 私がイーヴァルディになれるのかどうかは、ブリミルすら知らないだろう。





 一方、ケルンから南に10数リーグ離れた街道では、夜中にも拘らず、かなりのスピードで走行する箱馬車があった。
 箱馬車の扉の上には、1対の黄色いオニユリを象った紋章が彫られている。
 黄色は知性を表し、オニユリは富と誇りを表す。かつて、知を持って財を為し、誇りを得たというフッガー家の家紋である。

「痛いっ、いたたたっ!もっと丁寧に、痛まないようになさい!」
「はっ、申し訳ありません、奥様」

 その箱馬車の中、ヴェルヘルミーナもまた、秘薬を塗り込むヘンネに対して、口を尖らせて文句を言っていた。

「しかし、奥様。坊ちゃんを連れ戻さなくても良かったのですか?まさか、会いもせずに帰るとは……。来る時は絶対、何があっても連れて帰る、と意気込んでいらっしゃったのに」
「いいの。可愛い子には旅をさせよ、というのよ」
「は、はぁ、それはまた変わった金言ですね」
「ふふ、中々に面白い言葉でしょう」

 ヴェルヘルミーナは、アリアが口にした“コトワザ”を、偉く気にいってしまっていた。
 彼女はかなりの金言マニアだったのである。

 これは、性別に関わらず、商家、もしくは商売に手を出している貴族には多く見られる傾向だ。
 そしてそれは、彼らの知的好奇心の強さを物語っている、と言えるだろう。

「ふむ……。私にはよくわかりませんが、奥様がそういうのならそれで良いのでしょう」
「さすがヘンネねぇ。良く分かっているじゃない。まっ、それにこんな顔じゃ、フーゴちゃんに合わす顔がないしね」

 ヴェルヘルミーナは腫れあがった瞼を指して言う。

「ただ、一つだけ解せぬことがあります。何故あの娘の暴挙を不問にしたのか、という事です。私に一言仰ってくれれば、その場で縊り殺してやりましたのに」

 ヘンネは憎々しげに吐き捨てる。
 彼女は主であるヴェルヘルミーナを傷つけられ、内心、腹腸が煮えくりかえっていたのだ。
 従者が主に対して、それほどの感情を持てると言う事は、案外ヴェルヘルミーナには人望があるのやもしれぬ。

「やぁねえ。貴女は物騒でいけないわ。こんなもの、子供の遊びに付き合ってあげただけよ」
「は……しかしですね。あの小娘は坊ちゃんをも」
「その情報が間違っていたのよ。全くの見当外れ。あの小娘、憎たらしい事にあの子には全く興味がないらしいわ……。いや、むしろあの子の方が……。ふふ。さすが私のフーゴちゃん。女を見る目はきちんとしているわね」
「え?」

 ぼそぼそ、と呟いた後半の言葉を聞き取れなかったヘンネが思わず聞き返す。

「いえ、気にしないで。ともかく、あの早とちりな連絡員にはクビを覚悟してもらわないと駄目ね。こんな悪質な偽情報を掴ませるなんて、話にならないわ」
「その連絡員、私がきちんとシメておきましょう」
「よろしくお願いね。いつもの3倍絞っておいて」
「了解致しました」

 ヘンネはやる気十分、と言った風に太い腕をぶんぶんと振り回して了解の意志を示す。
 あぁ、連絡員の運命やいかに。
 
「それはそうと、明日から鍛えるわよ。ヘンネ、付き合いなさいね」
「は、はぁ。何故急にそんなことを?」
「再戦の準備よ。飽くまで遊びとは言え、あんな決着は納得がいかないもの」

 しゅっ、しゅっ、と狭い箱馬車の中で拳を突き出す真似をするヴェルヘルミーナ。

「申し上げにくいのですが……奥様には、その、あまりそういうのは向いていないかと」
「何を言っているの!私にこなせない事などないわ!」
「はぁ、でも、たしか、体術の成績、軍学校ではダントツでビリでしたよね」
「そっ、そそそんな昔の事っ!何よっ、自分がトップだったからって自慢をしているのかしら?!」
「いえ、そんな訳では……」

 この二人、軍学校時代は、身分の差こそあれど、同輩だったらしい。
 通りで息が合っているはずだ。

「昨日の“イーヴァルディの勇者”見たでしょう?魔法が使えなくても、あれだけ強くなれるのよ?貴族である私が強くなれない道理はないわ」
「いや、あれはお話ですからね」
「う、うるさいっ!とにかく、私は、明日のイーヴァルディを目指します!」
「はぁ、やれやれ、本当に困った方です」

 奇しくも、ロッテと同じ思考に行きあたったヴェルヘルミーナ。



 この日から、フッガー家では無駄に身体を鍛える伯爵夫人の姿がたびたび目撃されるようになったという。





つづけ
(※……ミスやミスタの後に、家名ではなく個人名をいれると、お嬢様、坊ちゃま、というニュアンスになります) 



[19087] 24話 私と父子の事情 (前)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:a1a3dc36
Date: 2010/09/20 19:31
 季節は巡り、茹だるような酷暑が続くニイドの月。

 午前の来客がほぼ終了し、手持無沙汰になった私は、箒をもって商店の外に出る。

 ふと外に目をやれば、街頭で半裸の男が、じゃきじゃきと涼しげな音をさせながら、大きな鋸で氷を挽いている。
 子供達は蜜に群がる虫のように、その周りに集って、シャーベット状になった氷を頬張っていく。
 
 ごくりと喉を鳴らして、遠目でその景色を眺めていると、昔よりもちょっぴり長くなった前髪から滴り落ちた汗が目に入り、ぐにゃりと視界が歪んだ。

 ふぅ、と大仰に溜息をついて、作業服の裾で顔を拭う。
 憎らしい太陽を睨みつけながら、大きく息を吸い込むと、胸一杯に、夏の匂いがした。

 当然ながら、私達に夏のバカンスなど存在しない。

 11歳の夏。
 私は思春期の淡い思い出作りなどする暇も無く、相も変わらず仕事に明け暮れていたのであった。 





「あづぃ……」

 昼。
 私は好物の馬肉が入った賄いには目もくれず、休憩室に入って来るなり、べちゃぁ、と融けたチーズの如く、机に突っ伏した。

「お前、食わねーの?」
「いらない……。食べていいよ」

 融けかけている私に、いつの間にか隣の席に移動していたフーゴが話しかける。
 ただでさえ暑いので、もうちょっと離れてほしいのだが、それを口にだして無益な争いになるのも面倒くさい。

 ヴェルヘルミーナの一件で、他の見習い達にも、彼が貴族という事がバレてしまった訳だが、見習い同士の関係はあまり変わっていない。
 これは、エンリコや双子達の性格的なものが幸いしている事もあるが、何より、バレてしまった事を知っても、フーゴ自身がその態度を崩さなかった事にあるだろう。

 目上、というか、年上に対しては、それなりに礼義正しいのよね、こいつは。
 相当な親馬鹿であるはずのヴェルヘルミーナだが、決して甘やかしているだけではなかった、という事かな。

「そんだけダレてるって事は、またとんでもない鍛錬でもやらされたのか」
「まぁね……」

 私がダレているのは、何も暑さのせいだけではない。
 前日の、というか連日の無茶な運動によって、全身を酷い疲労感が支配しているからなのだ。

 そう、ロッテの思いつきで始まった、私の改造計画は依然として続いていたのである。

 当初はすぐに飽きるだろう、とタカを括っていたのだが、その見積もりは全く持って甘く、時が経つほどに、その鍛錬の内容はエスカレートしていた。
 蟲惑の妖精亭の仕事も続いているし、貯金レースも未だに続いている事から省みるに、彼女は根っからの飽き性という訳でもないらしい。

「ちなみに、どんな事をしたんだよ、昨日は」
「生肉を体中に括りつけられた状態で、飢えた野犬の群れの中に放り込まれて、レース・スタート。まさに生存競争よ」
「悪魔の所業だな……。つーか、無事だったのか、それで?どっか怪我とかしてるんじゃねーだろうな?!」
「……近い、顔が近いから」
「うっ、わ、悪ィ」
 
 ぐい、と私の肩を掴んで真剣な顔を近づけるフーゴ。私は眉を顰めてそれを拒絶する。
 心配してくれるのは有難いが、さすがにそんな顔でまじまじと見詰められると対応に困ってしまう。それに暑苦しいし。

「……何とか逃げ切ったわよ」
「は……はは、そうだよな。出来ないと分かっていたら、あの人もそんなことさせねーよな。鬼じゃあるまいし」

 いや、させるんだけどね。実際に、(吸血)鬼な訳で。
 課される鍛錬内容の過酷さに、私が涙ながらに、無理だ、無茶だ、無謀だ、だと訴えても、ロッテは、頑張れ、出来る、気持ちの問題じゃ、の一点張り。
 彼女の考えた鍛錬が中止された試しは一度もない。

 まさに頑固一徹、聞く耳を持たないとはこの事である。

 で、結局昨日は、野犬達から逃げ切れずに、計4箇所をこっ酷く噛まれた。
 その傷は【再生】によって、既に塞がっているわけだが、まさか、精霊魔法で治してもらったから大丈夫なのよ、などとはフーゴには言えない。



 鍛錬を行う時間には、以前は読み書きの勉強に使っていた時間を充てている。
 即ち、仕事が終わってから、私が寝るまでの時間である。
 まぁ、この時間帯くらいしか、仕事の関係上都合がつかない、という理由もあるのだが、人通りが滅多にない時間帯である、というのも一つの理由だ。

 鍛錬の内容は、今のところ、主にというかほとんどが、走る事を基本にしたものだ。
 彼女が言うには、まず何をやるにしても、走は全ての基本という事らしい。

 その理論は強ち間違いとは言えないのかもしれない。
 彼女の言うとおり、賊やら亜人やらに襲われた時の事を考えると、これまでの経験からして、戦えないにしても、最低限逃げ足くらいはつけておいた方が良さそうだし。
 それに、いつまた変な事件に巻き込まれるか分かった物じゃないからね。備えあれば憂いなし、と言うやつだ。

 ま、そういう考えもあり、私は渋々ながら、彼女の暇つぶしに付き合っているわけだ。



「にしても、少しは腹に何か入れといた方がいいんじゃね?お前、今日の午後からは経理の研修だろう」
「経理は事務仕事でしょ?大丈夫、大丈夫。楽勝だって」

 フーゴの弱気な忠告に、私は肩を竦めて軽口を叩く。

 そう、今日から私は研修という事で、経理の仕事を勉強をさせて貰う事になっていた。
 ただ、勉強するだけではなく、実践的に仕事をしながら覚えていく、俗に言う、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)というやつだね。



 経理、と聞いて多くの人がイメージするのは、帳簿付け、というか簿記論だろう。
 それはまぁ、正解ではあるのだが、何も経理の仕事というのは、簿記論だけ知っていれば出来るような代物ではない。

 ならば、どんな仕事なのかというと、商店における経理の仕事は、大まかに分けて三つに大別できる。

 一つ目が出納業務。これは、商店全体の資産管理、必要な予算や経費の調達、取引方への支払い業務など、いわゆる、店の金庫番のような仕事がこれだ。

 二つ目に会計業務。これがすなわち、帳簿付けであったり、決算書の作成などの簿記論が必要な業務に当たる。

 最後に、付随業務。経営状態の分析、税金の申告とその対策、取引の違法性・リスクに関する監査と報告、従業員の給与計算などである。

 この多岐に渡る仕事をこなすにあたり、身につけられる知識や技術は非常に多い。
 資産の運用技術、経営知識、経済学、簿記論、計算能力、国際的な税制の仕組みや法に関する理解、などなど。
 当然だが、これらは、経営者(私が目指す所の遍歴商人もまた経営者である)としても、必要な知識や技術になってくる。

 なので、この研修は独立を目指している見習いには必修とされている。

 ただ、本来であれば、3年程度は勤めた後に実施されるようなレベルのものらしい。
 私はまだここに来て1年半。経理に適正アリ、とでも親方に判断されたのかもしれない。
 ま、計算だけは得意だしなぁ。



「あ~、お前知らないのか……。いや、俺も実際に受けた事はないんだけど、経理の研修ってすげぇキツイらしいぞ」
「え、ヤスミンさんって厳しいの?ほとんど話した事はないけど、優しそうじゃない?」

 研修を担当するのは、親方、ではなく、カシミール商店の経理を一人で切り盛りしている正規の駐在員、ヤスミンである。
 彼女は、鉛色にくすんだブロンドをポニーテールにしている、おっとりとした喋り方をする妙齢の女性で、近所によくいる感じのお姉さんといった感じの人だ。

「いや、それがだな、エンリコさん達の話によると……」
「あれ?そう言えば、そのエンリコさんは?」

 私は長くなりそうなフーゴの話を途中で切って、辺りをきょろきょろと見回す。
 同じくここに居ない双子達に関しては、一足先に休憩室から出て行ったのを見かけていたが、エンリコは昼休憩に入ってからその姿を見ていなかった。

「……あれだよ、ほら、例の独立の件。多分、親方の部屋に居ると思う」
「あぁ……それかぁ。ま、エンリコさんもそろそろ独立してもいい歳だもんねぇ。お金はとっくに貯まっているだろうし」
「だよなぁ」

 声のトーンを一段落としてそんな会話をする私とフーゴ。

 近頃、エンリコと親方の間に、ちょっとした溝が出来てしまっているらしいのだ。
 なんでも、エンリコは、来春あたりには遍歴商人として、独立をするというプランを立てているらしいのだが、親方はそれに反対して、この店の正規駐在員になる事を勧めているらしい。
 
 何故親方がエンリコの独立に反対しているのかは分からない。
 単純に、彼が有能だから手離したくないだけなのか、それとももっと別の理由があるのか。
 
 しかし、エンリコの気持ちは分かる。
 彼はもうこの店に勤めて5年半。年齢もすでに18歳と、遍歴商人として独立するには丁度いい年頃である。
 商人を目指す者であれば、誰だって早く独立したい、と考えるのは至極当然の事。

 と、言う事で、もし何かあれば、私はエンリコに味方する事に決めていた。
 親方に大変な恩義は感じているが、今回ばかりは、その意図がわからないし、エンリコにだって、相当お世話にはなっているからね。



「そろそろ時間か。しかし、お前、結局何も食わね-のな」
「ま、大丈夫でしょ。水分だけは摂ったし」
「……ほれ、これやるよ。舐めとけ」

 フーゴはズボンのポケットから茶色いガラス玉のようなものを何個か取り出す。

「何これ?」
「果物を絞った汁をアメに混ぜて固めたやつ。甘いぞ?」
「へぇ、アメか。一つ貰おうかな」
「全部やるよ、俺、甘いモノ嫌いだし」
「へ?じゃあ、何でこんなの持ってるワケ?」
「……お袋が実家から大量に送って来やがった。餓鬼じゃねーんだっての」

 フーゴはうんざりした顔で言う。
 どうやら、息子を連れ戻す事はやめたものの、完全には放っておけないらしい。

「ふぅん、あの人らしいねぇ。フーゴちゃん?」
「あっ、てめ……!その呼び名はやめろって言ってんだろ!」
「はい、休憩終わりー。これは有難く貰っとくね」
「げっ、何時の間に……」

 掴みかかろうとするフーゴを軽くいなして、くすねとった飴玉を見せると、さっ、と踵を返して、休憩室を後にする。

「ぐむぅ……」

 背から聞こえる、不完全燃焼と言った感じの唸り声に、私はクスリ、と笑いを漏らして、甘酸っぱい匂いのする飴玉を口の中に、ぽい、と放り入れた。





『経理は事務仕事でしょ?大丈夫、大丈夫。楽勝だって』

 そんな風に考えていた時期が、私にもありました……。



「ほら、また手が止まってるっ!」
「すっ、すいません」

 目を吊り上げて、ぴしぃっ、と手にした教鞭で机を引っぱたくヤスミン。
 仕事中の彼女からは、いつものおっとりとした感じは消え失せていた。

 成程、元算術教師という触れ込みは伊達ではない。
 インテリ眼鏡をかけたその姿は、まさにイメージ通りのスパルタ女教師である。

「遅いっ、遅すぎるわっ!それじゃ時間内になんて終わらないよっ!さぁ、さぁ急いで急いで、ハリー、ハリー、ハリィっ!」

 ヤスミンは、教鞭をしならせて、激しい口調で煽りたてる。

 全然優しくない……。この人は、オフの時と仕事の時の性格が別物らしい。

 それにしても……これは、キツイ。

 もう既に陽も傾きかけているというのに、正午からずっとぶっ通しで机に齧りついている。
 だというのに、目の前に積まれた、大量の伝票や、請求書、納付書、報告書などが一向に減っている気がしない。
 その事実がまた精神的苦痛となり、疲労感をさらに倍増させている。

「あの、少し休憩とか」
「駄目よ、駄目。そんなことしたら、アタシが定時で帰れないじゃない」

 なんという……。そういえば、この人は年末のくそ忙しい時期でも定時アガリしていた気がする。
 いや、これこそ正しいOLの姿ですよね。

 とはいえ、彼女の処理能力は凄まじい。
 私が10を処理する間に、彼女は30を終わらせている。
 まさにプロフィッショナルだ。

 まぁ、この規模の商店の経理を一人でこなしている、という時点で、相当有能なのはわかっていた事なのだけれど。
 それに、彼女は会計《コンターピレ》だけではなく、商社公証人(証書や契約書を作成したり、時には裁判で商社を弁護したりする役割)も兼ねており、机上での商業知識は半端ではない。



「あ、そこ、相手方の名前、間違ってる。商業税の方はケルン側でいいけれど、法人税はアスグスブルグ側に支払うの」

 自分の作業をしながらも、目ざとく私の間違いを発見し、指摘するヤスミン。

「え、それって一緒じゃないんですか?」
「商業税はその土地で商売を行うための許可税、つまりショバ代ね。これは業種とその規模によって額が変わるわ。法人税の方は具体的な収入に掛かる税で、その法人が設立された場所に支払うのよ。教えていなかったっけ?」
「いえ」
「そう。じゃあ、今覚えて。……ここの仕事はね、速くて雑は論外だし、遅くて綺麗というのも、てんで話にならないの。速くて綺麗でないと駄目なのよ」
「は、はい。わかりました」

 単純な計算能力だけなら、私も負けない自信はあるのだけれど、専門的な知識を要求するもの(保険・金融関係、税金関係、資産管理・運用など)は、どうしても調べたり、聞いたりしながらの作業になってしまい、とてもじゃないがついていけるスピードではない。

 でも、何となく、彼女の有無を言わせぬ雰囲気に引っ張られて、ついついこちらも無理をしてしまう。

 これをあと何カ月間か続けるのかと思うと、ちょっと気が滅入ってきてしまうけれど、研修が終わる頃には、私の血肉となっているに違いないと思えば……。
 


「ぐぇ……」

 しかし、そう思ってもキツイものはキツイ。

 陽が完全に落ちた頃、ついに限界に達した私は、ぐちゃ、と潰れた蛙のように、ごちゃごちゃに物が散乱した机に倒れこんだ。
 そりゃ、こんなにキツくちゃ、仕事が終わった後に、部屋を整理する気にはとてもじゃないけど、なれないわね……。

「ありゃ、ついにダウンかな」
「……すいません」

 未だ高速で動かしている手を休めずに言うヤスミンに。突っ伏したままで謝る。

「いや、初日にしては頑張った方だよ、君は」
「……他の人はどうだったんですか?」
「エンリコは君の半分くらい、双子君達も陽が落ちる前にはダウンしていたよ」
「は、はは……」

 最初から潰れる事前提のペースでやっていたのか……。
 まぁ、これが普段の彼女のペースなんだろうけども。

 あれ……?そう言えば、何でエンリコだけ、呼び捨てなんだろう。

「そういえば、エンリコ、今度、独立するんだって?」
「あ、はい。そうらしいです」
「ふーん。そうなんだ。あのお人好しが、ねぇ」

 そう言って考え込むように顎を撫でるヤスミン。

「あの、ヤスミンさんって、エンリコさんと何か関係が?」
「ん、知らなかったの?エンリコとアタシは幼馴染だよ。ま、アタシの方がお姉さんだけどね」
「あ~、そうなんですか」
「小さい頃はよく、からかって遊んだなぁ。ほら、あの子って女みたいな顔してるでしょう。だからアタシの服を着せてみたり、化粧させてみたりして。それでも、あの子ってほとんど怒った事がなかったなぁ。で、ついた仇名が“お人好しのエンリコ”。ぴったりでしょ?」
「は、はぁ」

 なるほど、以前に、ヤスミンさんの事を聞いて、エンリコが顔を顰めたのはそういう事か……。

「でも、親方は独立に反対しているらしいです。ちょっと理由はわからないんですけど」
「理由、ねぇ……」
「エンリコさんって仕事ができるから、手元においておきたいのかもしれないですね」
「ウチは買付担当の駐在員はころころ変わるからね。そこにエンリコをどっしりと挿げたいってのはあるんだろうけど……」
「ヤスミンさんは、他の理由がある、と?」
「ま、アタシの主観でしかないから、明言は避けとく」
「えぇ~」

 そこまで思わせぶりにしておいて、生殺しですか。
 何か、幼馴染にしか分からないような理由があるのだろうか。

「しかし、そうなると、一番先にこの商店を卒業する見習いは、エンリコではないかもね」
「他に、近々独立するような人がいるんですか?」
「さぁ、ね?君はどうなの?」
「私はまだまだですよ。金銭的な問題もあるし、実力も不足していますし……」
「おや?意外と謙虚だね。親方さんからは、強欲で自分勝手な女の子って聞いたけど」
「な、なんです、それ?!」
「あっ、これ、秘密だっけ。ごめんごめん、聞かなかった事にして」

 むぅ……。結構私の評価は高いと思っていたのに、これはちょっとショックだ。
 そんな風に思われていたのか。

 でも、それを他の人に言いふらさなくてもいいじゃないか。おのれ、親方めぇ……。

「ちょっと、文句言ってきます!」
「あ、待って──」

 ムカっ腹を立てた私には、がたん、と席を立つと、そのままドアを勢いよく開けて、3階の事務室に向かう。
 ヤスミンが何か言っていたが、それは耳に入っていなかった。



「全く、まだアガリには少し早いのに。やっぱり自分勝手ね……。それに、親方さんは、十年に一人の期待株だ。とも言っていたんだけど、ねぇ」

 ヤスミンは、閉め忘れられて宙ぶらりんになったドアを見ながら、溜息を漏らして苦笑した。





「失礼しますっ!…………あ」

 肩を怒らせて、事務室のドアを叩きつけるように開けた私は、次の瞬間に、間の抜けたような表情で声を漏らした。

「あ~、と、お客様が来ているとは……。失礼しましたぁ……」

 部屋の中には、頑固な皺を額に浮かべて、腕を組む、褐色肌の中年男がいたからだ。
 何故かギーナとゴーロも、何やら不貞腐れた表情で男に向かい合って座っている。

 親方は、私の姿を認めるやいなや、眉を吊り上げ罵声を飛ばす。

「馬鹿たれ、ノックぐらいしねェか!」
「カシミール……この子は?お前の娘か?」
「そんな訳ねェだろう……俺に家族はいねェよ。ただの出来の悪い見習いだ。すまんな、話の途中で」

 中年男から問われると、親方は親しげな態度で言う。
 む……。敬語を使わない所をみると、商売関係の人ではなく、個人的な知り合いだろうか。

 しかしひどい言われようだ。まぁ、私が全面的に悪いのは確かだけど。

「こんな小さな女の子がか?」
「あぁ、こいつはちょっと雇った経緯が特殊でな」
「ふむ……」
「おい、いつまでボサっと突っ立ってんだ。もう行っていいぞ」
「あ、はい」

 親方はこちらを見ることなく、しっしっ、と手を外側に振る。

「別にかまわんぞ、聞かれて困るような話でもないし。それに、こいつらの同僚であれば、是非とも話を聞きたいもんだ」
「そうか?よし、アリア、来い」

 ギーナとゴーロを横柄に見渡して言う中年男に、今度は一転して、ちょいちょい、と手を内側に振る親方。

 私は犬か!
 全く、人を何だと思っているんだ。

「忙しい所、悪いな、お嬢ちゃん」
「いえ、こちらこそお騒がせして申し訳ありません」
「さすが、カシミールの所は、中々に教育が行き届いているな」

 私がこれ以上失礼のないように頭をさげると、中年男は感心したように言う。

「……アリア」「……こんな分からず屋に頭を下げなくても良い」
「あぁ、何だと?」
「……さっさと帰れ」「……クソ親父」
「こんの、馬鹿息子どもっ!」

 双子の敵意剥き出しの言葉に、中年男は、だんっ、と机を叩いて激昂する。

 あれ?

 というか、親父?息子?
 この中年男が、双子の父親……?

 でも、この人、どうみても商人という感じではない。どちらかと言えば、職人気質の頑固親父、といった風情がある。

「とにかく、お前らのどっちが継ぐのか、さっさと決めやがれ!」
「……だからどっちか一人じゃ」「……継ぐ気はないっていってるだろ」
 
 声を荒げる中年男と、それを冷めた目で見る双子。

 うーん、全く話が見えない。



「あの、親方、どういう事なんですか。というか、誰なんです?」

 完全に蚊帳の外である私は、声を顰めて困り顔の親方に耳打ちする。

「北部の、ハノーファーのベネディクト工房は知っているか?」
「えぇと、確か……。そうそう、あのシュペー卿が在籍しているっていう、北部でも有数の金物工房でしたっけ。あ、武器も作ってたかな」
「そうだ。で、あの頑固そうな岩親父が、そこの代表のベネディクトだな」

 ハノーファーのベネディクト工房、といえば、ゲルマニア国内ではそこそこ有名な鍛冶屋集団、つまり金属製品メーカーである。
 その工房が抱える、数多く職人《マイスター》の中でも、有名なのが、高名な錬金術師と言われているシュペー卿だ。

 そこの代表の息子、と言う事は。
 貴族ではないにしても、フーゴと同じで、この双子もいいとこのボンボンなのか……。

 それにしても、また親と子の関係かぁ。
 私にはあまり縁のない事なはずなのに……。

「職人家系だったんですね、あの二人。どおりで手先が器用で、口が不器用な訳だ。でも、それならどうして交易商の修行に来ているんです?」
「あぁ、話せば長くなるんだが──」
「てめぇらっ、いい加減にしやがれっ!」

 ベネディクトの怒声が私達のひそひそ声を掻き消す。
 何事か、と視線を戻すと、一触即発、といった感じでピリピリとした空気を放つ、3人の父子。

「いい加減にするのは」「“アンタ”の方だろうが」
「親父に向かって、アンタ、だとっ?!」
「アンタでも上等なくらいさ」「てめぇ、で十分か」

 ベネディクトは、そこまで聞くと、す、と立ち上がって双子の方につかつかと近づいて行く。
 双子もそれに呼応するように立ちあがり、ギン、とベネディクトを睨みつける。

 両者、目が据わっている。こりゃまずい。親子喧嘩は余所でやっておくれ。



「おい、アリア」
「わかってます、商店内で喧嘩はご法度、ですよね(まぁ、人の事は言えないけどね、私は)」

 商店内で血の雨を降らす訳にはいかない。
 親方と私は、父子の間に分け入って、仲裁を買って出た。

「親子喧嘩もいいがな、そういうのは、余所でやりな」
「どけ、カシミール!あの親不幸者共を成敗しなけりゃいかんのだ!」
「落ち着け、いい歳してみっともねェ!」
「ぐ、離せっ」
「アリア、さっさとそいつら摘まみだせっ!話はまた明日だ!」

 親方がいきり立つベネディクトを羽咬い締めにして叫ぶ。

「ギーナさんと、ゴーロさんも落ちつきましょう、ね?暴力はいけません」
「アリアに言われても……なぁ?」「あのムカツク伯爵夫人をぶん殴った強者だからな」

 いや、そんな、強者認定されても。照れるなぁ、はは。

「って、私の事はいいんです!さ、行きましょう」
「……まぁいいか」「……相手にするのも馬鹿らしいしね」

 そう言って肩を竦める双子達の背中を押しながら、私は、また厄介な事に巻き込まれてしまった気がするなぁ、と心の中で溜息をつくのであった。





後半につづく



[19087] 25話 私と父子の事情 (後)
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/09/15 10:56

 帝政ゲルマニアの主産業とも言える、魔法を介さない、純粋な工業製品を生産する手工業。

 この分野において、我がゲルマニアの技術力と生産力は、ハルケギニアに存在する他の4国の追随を許さない。

 その原因としては、始祖の系譜を継ぐ他国と比較して、がちがちの魔法至上主義ではなかった事が幸いしている。
 勿論、ゲルマニアにもブリミル教は浸透しているし、上級貴族の殆どはメイジである。
 だが、『平民だろうが、力(金)さえあれば、貴族になる事が出来る』という制度に見られる通り、何も魔法だけが力ではないという事を、この国の中枢、つまり皇帝からして認めているのだ。



 そんなゲルマニアの誇る工業製品の大部分を生産しているのは、ゲルマニア北部の地域、特に、ハノーファー(金属・機械)、ハンブルグ(繊維・木材)、ブレーメン(化学・軍需)などの工業都市が有名である。
 
 この地域の商工業的な特色として、最も他と違う所を挙げるとすれば、“商業組合《アルテ》と職工組合《ツンフト》の併合”である。

 他地域においては、職工組合という組織に認められた(一定の技術力水準を満たす事と、親方加入金を組合側に支払う事によって認められる)、“親方”という資格を持つ職工でなければ、工房や工場を持つ事は許されないのが一般的である。
 この制度は、技術の独占、細かい物流の制御、徒弟の育成、職業倫理の徹底、既得権益の保持、という面では優れているのだが、いかんせん、生産量、生産効率という面では上手くなかった。

 何故なら、“親方”達の経営する工場(工房)は、非常に細かく分業された小さなもので、その各々が独立した仕事を行っているからである。
 
 例として、羊毛を原料とする、毛織物を製品として出荷する場合、選毛、洗毛、整毛、梳毛、刷毛、紡糸、整経(織機に経糸を掛ける事)、織布を経て、ようやく毛織物として出荷できる状態になる。
 そして、この各々の工程“全て”に対して専門の職人が存在しているのである。

 これを家内制手工業と呼ぶ。
 
 組合が統率を取っているとはいえ、これだけの職人と設備が別々の工房で、各工程毎に仕事をこなしていたのでは、全体的な進捗の管理は難しく、高い生産性を求めるには無理があった。

 では何故、これだけ細かく分業しなければならないのか。
 その理由は色々とあるのだけれど、最も大きな理由として挙げられるのは、“親方”という人達は、技術者であり、教育者でもあるが、経営者ではないからだ。

 つまり、彼らには分業された工場の壁を取り払い、規模を大きくした場合に、そこに集まる全ての工程に存在する多様な職人を統率し、管理し、折衝する能力に欠けていた。
 実際、“親方”達は、自社製品の営業活動を含む経営努力の殆どを、職工組合に頼り切っていたのである。



 北部には、今も昔も、手工業以外には、特に目ぼしい産業はない。
 厳しい寒さ故に作物の実りは悪く、東部程の天然資源も存在しない。他地域に対抗出来る産業としては、北方の海でのニシン漁程度だろうか。
 もし、北側の海を渡って東方とでも交易する事が出来るのならば、また違っていたのかもしれないが……。

 そこで、北部の大領主であった先々代のリューネブルグ公爵は、地域の短所を補うのではなく、長所をさらに伸ばす事を目指した。
 具体的な方策としては、いくつかの工場の経営権を纏めて経営力を持った富裕商人達に売り、その下で職人達を統率し、生産性の高い大規模工場の実現を果たすことは出来ないだろうか、と考えたのだ。

 それは、変則的ではあるが、工場制手工業《マニュファクチュア》と呼ばれるものであった。

 ただ、それを推進するためにはまず、手工業において絶対的な権限を持った職工組合を何とか丸め込む必要があった。
 商業組合の運営委員《カンスル》でもあった公爵は、改革の前段階として、商業組合と職工組合の業務提携を申し出た。



 しかし、この申し出は、職人側の猛反発に遭い、あっさりと撥ねつけられたのである。
 
 当然だ。
 この事を認めれば、職人達の権益が害される可能性が高いだけでなく、職人が商人よりも下の立場である、と認めるに等しいからだ。
 それは“モノを作るヤツが一番偉い”というプライドを持った職人達にとって、断じて許されない事であった。
 彼らは、貴族にすら頭を下げる事を嫌がる程、自分の腕に誇りを持っていたのである。
 
 だが、公爵は自らの考えを正しいと信じ、曲げず、あらゆる権力を駆使して反発を押さえ込み、長い年月をかけて、強硬にこの改革を断行していった。

 そして、様々な問題が起きた。起きないはずがなかった。

 職人達のボイコット、ストライキ、デモによる生産性の悪化。それに伴う技術者の流出。
 商人と職人の対立による物流と経済の停滞、闘争時代の幕開け。
 失敗に次ぐ失敗による、公爵家自体の権威の失墜。

 市井の人々は、公爵の無能を嘲笑い、皮肉をこめた小唄を唄い、後ろ指を差した。

 結局、先々代の公爵は改革の成功を見る事なく、「それでも私は間違っていない」と言い残し、無念のうちにその生涯を閉じた。
 得てして既存のルールを曲げようとする行為は、人々の理解が得られず、そう簡単には望んだ結果はついてこないものである。
 先見の明があり過ぎた人間というのは、概して不幸なものだ。幸せな人間というのは、愚かな人間なのやもしれぬ。



 翻って現在。

 北部の工業地域は、未だかつてない隆盛を迎えていた。
 そして、その繁栄をリードしているのは、“親方”達が運営する、一つの工程をこなすだけの小規模工場ではなく、領主や富裕商人が出資し経営する、様々な工程と職人を一箇所に詰め込んだ大規模工場だった。

 そう、公爵は決して間違ってはいなかったのだ。
 長きに渡った暗黒の時代を経て、何とか正常に動きだした商人経営による大規模工場は、これまでにない生産性の高さを見せた。
 そして、そこで大量生産された安価な工業製品は、あっという間に、市場を席巻してしまったのである。
 勿論、一時期は失墜しかけていた公爵家の権威も、回復したどころか、以前よりも強固なものとなっていた。



 では、昔ながらの工場の灯は消えてしまったのだろうか。

 そうではない。

 近世ヨーロッパでも、イギリスから始まった工場制手工業の台頭によって、職工組合の制度自体は崩壊してしまったが、それまでの家内制手工業の灯が消える事はなかった(産業革命、及び工場制機械工業の台頭までだが)事を考えれば、それは決して不思議ではない。

 さらに、このセカイ、というかゲルマニア北部では、より穏便な変化を辿っていると言える。
 別に、この改革は商人の利益だけを考えたモノではなく、地域全体の利益を考えた物であったから。

 むしろ、“親方”になれない、一般の職人にとっては、働き口の大幅な増加によって、職を求める遍歴の旅に出る必要もなくなり、安心して修行にはげむことが出来るようになっていた(見習い期間を終え、一端になった職人達は、自分で親方になるか、そうでなければ自分の工房を持つために別の都市に移らねばならなかった。小さな工場では、従業員は殆どが見習いで、あとは親方しか存在しないのが普通であったのだ)。

 そして、“親方”もまた、若い職人の育成には必要不可欠な存在であったので、その制度自体が廃止になる事はなかった。
 その多くは、昔ながらの小さな工場で未だ脈々と、若い世代にその技術を伝え続けているのである。
 


 しかし、その“親方”達の中には、大工場の隆盛を見て、商人の経営者に負けてなる物か、という気概を持つ者も居た。

 彼らは大工場の生産力に対抗するために、他の小工場と提携を結び、ともすれば合併した。
 勿論、彼らの大部分は、経営については素人であり、失敗し破産するものも珍しくなかったが、成功を収めた者も少なからず現れた。



 ベネディクトはそんな成功を収めた“親方”の中の一人であった。

 彼は若くして腕のいい職人であったが、経営に必要なのは、職工としての腕ではない事をよく知っていた。
 そこで、彼は一度自らの工房を休業し(親方の権利はそう簡単には消えないらしい)、商工組合からの紹介で商家に弟子入りし、経営知識を学ぶ事にした。
 
 既に遍歴商人として活躍していたカシミールと知り合ったのも、この下働き《ガルツォーネ》時代であったという。

 しかし、既に20歳を超えていたベネディクトは、商家の見習いとしてはかなりの高年齢で、一つの仕事を覚えるにも大変な苦労をした。
 彼は実に8年もの間(普通は5年程度で見習い期間は終了する)、商家の見習いを続け、実際に工房の経営に着手し始めたのは、30歳を目前にした時であった。
 


 それから、およそ15年。
 紆余曲折ありながらも、彼の工房はそれなりの成功を収め、ハノーファーでも有数の金属製品メーカーとなっていた。
 しかし、今度は別の問題が湧きあがった。

 所謂、後継問題である。

 彼には13歳になる双子の息子が居た。
 当然、“親方”である、自分の後を継ぐ以上、職工としての腕も受け継がせたいのはやまやまではあったが、彼は息子達に自分のような苦労はさせたくなかった。
 なので、その息子達には、幼い内から読書き算術を教え、職工として本格的に修行させるよりも先に、商家への弟子入りをさせ、将来的にどちらの方が経営に向いているのか、その適正を見極める事にした。

 その弟子入り先として、白羽の矢がたったのが、旧知の仲であるカシミールが経営するこのカシミール商店であったのだ──





「と、これが、あいつらがウチに修行へ来た建前上の理由だな」
「……こんだけ長くて建前かい」

 しれっとした顔でいう親方に、私は思わず突っ込みを入れた。



 険悪な親子喧嘩の現場に出くわした後。
 そのまま居残りを命じられた私は、彼らの詳しい経緯を聞かされていた。

 この分だと、今日はロッテとの鍛錬は休みにするしかあるまい。これは僥倖……じゃなくて、残念だなぁ。
 まぁ、業務命令と言われては仕方あるまいよ。

「いや、しかしだな。物事はきちんと説明せにゃいかんだろう」
「後半部分はともかく、前半の北部工業史は要らないですね。その程度の知識なら私でも知っています」
「はっ、半人前が偉そうな口を聞くじゃねェか」
「……全く、年寄りは話が長くて困ります……っ?!」

 有無を言わせず拳骨が飛んできた。
 私は反射的に体を捻って、その拳をするりと躱した。鍛錬の成果ってやつだね。

「避けるんじゃねェ!」
「いや、痛いですしね。……で、本当はどんな理由なんです?」
「……まぁ、平たく言えば、親の手に余る問題児だったって事だわな」
「へ、あの二人がですか?」

 問題児、と言う事はアレか。
 盗んだ馬車で走り出したり、イケナイ粉末に手を出したり、窓ガラスを割って歩いたりしていたのか?
 う~む、とてもそうは見えないんだけど……。

「そうなった理由は分からんが、あいつらはハノーファーじゃ有名な悪たれ坊主だったらしい」
「13歳で?」

 うわぁ……。親の顔が見てみたい、って見たわね、そう言えば。

「で、自分じゃどうしようもなくなったベネディクトの奴は、どこかの商家へ放り込んで、性根を叩き直して貰おうとしたんだが、北部の知り合いの商家じゃ軒並み受け入れを拒否。まぁ、どこもそんな問題児を受け入れたくはないだろう。……それで、俺に泣きついてきてな。仕方なしにウチで預かる事にしたんだ。そうでもなきゃ、工場経営者の息子が、交易商になんざ修行にこねェだろう?」
「……まぁ、実際、畑違いですもんね」

 北部の工場経営者と西部(南部)の商館経営者では同じ商家と言えど大分違う。

 とはいえ、大商会ともなれば、交易以外の業界に手を出している場合も多いが。
 例えば、フッガー商会は、アウグスブルグ交易商会組合に属してはいるが、ウィンドボナ中央金融・商取引組合から許しを得て、金貸し業務も行っている。
 元々フッガー家は、高利貸しで成り上がった家、という理由もあるが、交易商兼金融商というのは、割とポピュラーなのだ。

 ただ、この商店において交易以外はやっていないので、工場経営者の育成にはあまり向いていないと思う。
 もしかすると、私がそう考えているだけで、基本は同じなのかもしれないけどね。

「でも今のギーナさんとゴーロさんは全然そんな感じしませんけど」
「それが、大層な悪たれだと聞いていたから、俺も覚悟していたんだが。いざ働かせてみると、言われた通りに仕事はこなすし、大して問題も起こさない。まぁ、無愛想なのは問題っちゃ問題だがな」
「……つまり実家が嫌だった。というか、ベネディクトさんに反抗していただけだと?」
「ま、そんな所かね」

 なるほど、父親に反抗してグレてしまったというパターンか。
 それで、家を継げ、とか、継がない、の言い合いになっていた訳だね。
 二人じゃないと継がない、なんて言っていた気がするけれど、あれは単なる継がないという意志表示なのか、それとも別の意味があるのか……?

「それで、私にどうしろと?こんな話を聞かせた以上、何かやらせる気ですよね?」
「察しがいいな。お前、あの父子をどう思う?」
「どう思うって……。まぁ、無事に仲直りできればいいですね、としか」
「よし。それじゃ、お前、あの父子の関係を取りなしてみろ」

 いや、そこでその接続詞はおかしいだろう。話、繋がってないですよ?

「何で私が……」
「暇そうなのはお前しかいねェじゃねェか。ちなみに俺は忙しい。死ぬほど忙しい」
「いや、全然暇じゃないですよ。経理の研修もありますしね」
「じゃ、明日一日は仕事を休みにしてやるから、今日と明日でそっちの方を何とかして来い」
「はぁ?!」
「何だ、文句あるのか」
「いきなり休みにされても困りますよ。それに正直言って、今回の件は私とあんまり関係がないじゃないですか」
「馬鹿たれ!そんな事じゃ商人としてはやっていけんぞ」
「いやいやいや、何でそういう理屈になるんです?」
「これだから半人前は……。いいか、商売ってのはな、利益だのなんだのと言う前に、人と人との関係が重要なんだ。見習い仲間の事を関係ないです、何て言うようなヤツにゃあ、独立は到底無理だろうな。“商売をするには、まず人に与えよ”だ」

 親方はそう言って、私の反応を伺うように、じとり、と横目でこちらを睨む。

「うぐ……」
「お前は物覚えはいいが、そう言う所が駄目だ。てんでなっちゃいねェ。“物知りだけでは商売は成功しない”んだよ」

 あうぁ、耳が痛い……。

「でっ、でもですね、これは父子の問題でしょうし、赤の他人が首を突っ込むのは筋違いかと」
「さっきのアレを見たろ?このままじゃ何処まで行ってもあのまんまだ。誰かがテコ入れしてやる必要があるんだよ」
「無理ですって。子供なんですよ、私は」
「都合の悪い時だけ子供ぶりやがって」
「大人ぶった事なんてありませんけど」
「ぐ……。とにかく、これはお前の貧弱な人間力を養う研修の一環だ。ほれ、わかったら減らず口を叩いてないで、さっさと行きやがれ。さっきも言った通り、俺は忙しいんだ」

 椅子の背もたれにだらりと身を預け、しっしっ、と手を振って面倒臭そうに言う親方。

「むぅ……。本当は、自分が面倒臭いだけの癖に……」
「……何か言ったか?」
「いえ、この件が上手くいったら、私に何かご褒美は出るのかなぁって」
「出るわけねェだろう、何だそりゃ?」
「私は“強欲で自分勝手な女”ですから、ねぇ?」
「……ちっ、ヤスミンの奴か。相変わらず口の軽い……」

 私が厭味っぽく言うと、親方は気まずそうに顔を顰める。

「……よし。それじゃ、この件が上手く行ったら、基本の給金を9エキューに昇給してやろう」
「えっ…………。まっ、真剣っすか?」

 真剣と書いてマジと読む。
 あまりにもあっさりと昇給を口にする親方に、私はやや唖然としながらも聞き返した。

「男に二言はねェ、だったか?」
「9エキューって事は、月に3エキュー増えて……。と言う事は年間で36エキュー増える?!……うほほっ」

 親方の言質を取るや否や、夢見心地で金勘定の世界へトリップする私。

「少し落ち着け……」
「……ふひ、ひ、すいません」
「で、やるのか?」
「勿論です!見習い仲間のためですから!人として、当然のことであります!」
「……そうか、頑張れ」
「はいっ!」

 呆れたように言う親方に、満面の笑みで答えて、さっ、と踵を返す。

 目の前に差しだされた極上の餌に、私は小躍りしながら意気揚々と商店を後にした。



「元々、そろそろ昇給はさせる気だったんだが……な。あいつの場合は早い内に外に出してやった方が成長するだろうし……。ま、これであいつも北とのコネができるだろ。遍歴の旅、最初の足がかりには丁度いいさな」

 静寂に包まれた薄暗い商店の中、カシミールはぼんやりとそんなことを呟いた。





 まずは親から話を聞くべきだろうと考えた私は、ベネディクトが逗留しているという宿に向かった。

 ちなみに宿の名前は“美味しいムラサキヨモギ亭”。
 名前はアレだが、平民向けとしてはかなり上等な宿だ。さすが経営者だけあって、結構お金持ちらしい。

 通常これくらいの高級宿になると、宿側のセキュリティも厳しいのだが、受付でカシミール商店からのお使いです、と告げると、すんなりとベネディクトの部屋に通してくれた。
 
「やっとこさ来やがって!この腐れ坊主ど……っ、あ、あれぇ、嬢ちゃん?」
「あ、あはは。こんばんは」

 どうやら双子が訪ねて来たと勘違いしたらしく、鬼の形相で部屋から飛び出してきたベネディクトに、引き攣った笑顔で挨拶する。
 やけにあっさりと通されたのは、双子が来る事を前提に、宿側に話を通しておいたのかもね。

「どうしたい?何か用でもあるのかぃ?」
「えぇと、ちょっと親方に、その、頼まれまして」
「……はぁ、そうかい。カシミールも相変わらずお節介な奴だな」

 溜息を付くベネディクトからは、つん、と濃いアルコールの臭いがした。
 部屋でヤケ酒でもしていたのかねぇ。

「ま、入りな。何もねえけどさ」
「はい、お邪魔します……おわっ?」

 部屋の中へと案内するベネディクト。
 私が会釈しながら入ろうとすると、早速何かに躓いてこけた。
 
 躓いたのはワインの空瓶。

 うん、これはガリア南西部アキテーヌの酒だ。
 ワイン産地としては有名なガリアの品だが、残念ながらこれは2級品。
 ボルドー産の最高級品によく混入されるという曰くつきの酒でもある。
 価格は一本600~800スゥ程度か……。

「じゃなくて。ちょっと呑み過ぎじゃないですか、ベネディクトさん」

 思わず鑑定してしまったが、辺りを見渡せば、部屋の中には10本以上の酒瓶が散乱していた。
 ベネディクト達が商店を出てから、まだそれほど時間は経っていないはずなのだけれど、物凄いハイペースで呑んでいたらしい。

「うるせい、放っといてくれぃ」
「……やっぱり、息子さん達の事ですか」
「はっ、あんな馬鹿共知った事かぃ、今日という今日はもう頭に来た!」

 ベネディクトは声を張り上げて、呑みかけの酒瓶を手に取ると、ぐいっと一気にそれを呑み干した。

「まぁまぁ、落ちついて」
「はっ、これが落ちついていられるかぃっ」
「えぇ、えぇ。そうですよね。……でも、どうして息子さん達、工房を継ぐことを拒んでいるんでしょうかね?」
「知るかい、べらぼうめ。どうせ工房で汗水垂らすなんざやってられねぇって所だろうよ。こっちに来てからは随分と大人しいそうじゃねえかい」
「はぁ、確かに、暴れん坊には見えませんけど」
「どうせあいつらも、交易商の方が楽に儲けれるし、格好いいなんて思ってんだろうさ。最近の若い奴は皆そうなんだ、嬢ちゃんもその口だろ?」

 だらしなくベッドに横になりながら、ひっく、と酒臭い息を吐いて言うベネディクト。
 むぅ、ちょいとカチンと来た。

「……ちょっと待って下さい。それは聞き捨てなりません」
「なんでい、違うってのかい」
「交易商は決して楽ではありませんし、格好良くもありませんよ。はっきり言って、泥臭くてリスクばっかり高い仕事です。ま、確かに成功すれば、見返りは大きいかもしれませんが」
「へぇ、じゃあどうしてそんな所で修行をしているんだい?見た所、嬢ちゃんはイイ所の出だろうに」
「……いえ。全く持って違いますけど」

 ベネディクトは酔ってどろんと濁った眼でじろじろと私を見る。

 どこをどう見たらそう見えるんだ……。
 いかんね、この人完全に酔っ払ってるよ。

「まぁ、それはこの際、横に置いておきましょうか……。それよりも息子さん達と仲直りしてみませんか?ぜったいその方がいいですって(主に私の昇給のために)」
「ふん、あいつらは俺をおちょくってやがるのさ。『二人とも経営者にしてくれるなら後を継いでやってもいい』だとよ。そんなもん無理に決まってんだろ?ふざけた馬鹿共に歩み寄るなんざ御免だね」
「……はぁ」

 うーん、何か聞く耳持たずって感じだなぁ。この分だとまともに話し合いとかしてないんだろうね。

「かぁっ、クソっ、イラつく!」

 ベネディクトは片手で頭を掻きむしりながら、新しいワインのコルクを指の力で抜く。握力半端じゃねぇ。

「……ほれ、嬢ちゃんも呑めや」
「いっ、いえいえ、私はまだ11歳ですので……」
「バーロぉ、オレなんかぁ産湯が酒だったんだぜぇ?」

 ロレツの回らない口調で言いながら、とくとく、と汚れたグラスに安いワインを注ぐベネディクト。
 もうかなり回ってしまっているらしい。

 確かに飲酒の年齢制限はないけれど、流石に11歳の女児に酒を勧めるのはどうだろうか。

「それとも、俺の酒が呑めねえっていうのかぃ?」
「わ、わかりましたよ、呑みますよ。一口だけですよ?」

 泥のように濁った目で睨まれ、思わず呑むと言ってしまった。
 くそ、絡み酒ってのは、ほんとに性質が悪い……。

 『私』は一度もアルコール類は口にした事ないのよね……。『僕』は毎日毎晩呑んでたみたいだけど。
 まぁ、一口くらいなら大丈夫よね?

「では、頂きます」
「いよっ、嬢ちゃんのちょっといいとこ見てみたいっ」
「ごふ……っ!」

 悪乗りしたベネディクトに、ばんっ、と背中を勢いよく叩かれ、私は思わずグラスに入っていたモノを全て呑みこんでしまった。

 や、やばい、まずいとか、そういう事じゃなくて。

 頭が、くらくらしてきた。

 あれ?

 声が。

 おくれてくりゅよ?





「ありゃ、一杯で寝ちまったぃ……こりゃ、参ったな。悪ふざけが過ぎたかぁ」
「…………」

 ぐでん、とした私を見て、ベネディクトはしまったなぁ、という風に鼻の頭を掻く。

「仕方ねえ、カシミールのとこまで連れてっか」
「……おぅふ」
「うおっ?」

 ベネディクトが私を抱えようと近づくが、私はびくん、と電気ショックを与えられたかの如く起き上がる。
 うーん?妙に頭がすっきりしてるなぁ……?

「酒、もうねぇんですか?」
「いや、あるけどよ。ほれ」
「…………くはぁ、効っくぅ」
「おい、そんなに一気に……。大丈夫かよ?」

 私はベネディクトから、ひったくるようにして開けたばかりのワイン瓶を受け取ると、ぐい、とラッパ呑みを始め、ものの数秒で瓶を空にする。

 安ワイン 五臓六腑に 染み渡る 

 うむ、五七五。

「……さて、じゃ、いきまうか?」
「そんなふらふらで、どこに行くってんだい」
「酒のお礼に一丁、頑固者の父子を仲直りさせてやろうかなって。双子君達の部屋にね」
「あ?何を言ってんだ?」
「いいから、いいから、黙ってついて来なさいな。あ、お酒は1本貰ってく」
「お、おいっ、何で俺からあいつらの所に行かなくちゃならねーんだ?!」

 私がに袖を引っ張ると、ベネディクトは必死に拒絶の意思を示す。
 照れてるんですね、わかります。

「大丈夫、何とかなるって……。どぉんと、うぉーりぃ。びぃ、はっぴぃ」
「…………どっちにせよ、送って行かなきゃならんな、こりゃあ」

 何やら肩を落としたベネディクトと、頭がべりーないすな感じな私は、美味しいムラサキヨモギ亭を後にして一路従業員寮を目指すのであった。





「何やっとるんじゃ!遅いぞ、たわけっ!」

 従業員寮へ着くと、入り口で貧乏ゆすりしながら待っていたらしいロッテが怒鳴り声をあげる。
 あー、そういえば、鍛錬すっぽかしたまんまだったっけ。

「へへ、固い事言いなさんな。ヨテイはミテイ~ってね」
「臭っ!酒臭ぁっ!?……主、餓鬼んちょの分際で酒を呑んだのか?!」

 酒瓶片手に言う私に、鼻を摘まんで言うロッテ。

「悪ぃ、俺が悪乗りして呑ませちまったんだよ」
「あ、何じゃ、主は」

 すまなそうに肩を落とすベネディクトに、ロッテは怪かしげな顔で問う。

「ベネディクト、つうケチな職人よ。ここで世話になってるギーナとゴーロの親父だ」
「あぁ、あの黒い双子か……」
「おまえさんは?」
「この飲兵衛の姉じゃ」
「ありゃ、そらすまねぇ……」

 ロッテを肉親、と勘違いしたのか、一層申し訳なさそうにするベネディクト。

「まぁ、まぁ、ここは痛み分けっつぅことでね」
「いや、意味がわからんのじゃが」
 
 ロッテは怪訝な顔をさらに顰める。

「おい、何なんじゃこいつ。酔っ払ったにしても些か様子が変ではないか?」
「いや、やっぱそうなのか。俺もおかしいとはおもったんだけどよ」

 気味悪そうな顔で私をちらと見ながら、ロッテとベネディクトがひそひそと話す。

「なぁにを、こそこそやってんの。ほら、ほら、さっさと行こう。あ、吸血姫も来る?」
「ばっ……。何を言っておる!」

 あっはは、焦ってる、怒ってる。

「吸血……?」
「……どうでもいい事は忘れた方が良いぞ?」
「あ、あァ……」
「ま、これでは今日の鍛錬は休みにするしかないのぅ。……じゃ、妾は部屋に戻っておるからの」

 何か裏があるのではないか、と思わせるほど物分かりのいいロッテ。
 まぁ、私の気のせいだぁね。



「頼もーぉっ!」

 ベネディクトを引き連れた私は、どん、と寮の2階東奥の部屋、つまり双子の部屋を蹴り開ける。

「……アリア?!」「……と、親父かよ。何しに来た」
「ふん……」
 
 一瞬ぎょっとした表情になったギーナとゴーロだが、ベネディクトが居る事に気付くと、たちまち不機嫌な顔で吐き捨てる。
 ベネディクトもまた、仏張面でそれに答える。

「えぇいっ、やめやめっ!」

 険悪な雰囲気を漂わせ始めた場を打破しようと、私は父子の間に割って入る。

「……な、なんだよ」「……おかしいぞ、アリア」
「私が不器用極まりない父子のために一肌脱いであげるつってんの。……そうだ。お酒が入れば少しは本音も喋れるんじゃないの?」

 私はそう言うと、一本と言いながら、三本ほど脇に抱えてきたワイン瓶をどすんと双子の前に置くと、部屋の戸棚にあった不揃いなグラスを四つ持ってくる。

「……やっぱりおかしい」「……酔ってるだけ?」
「呑みなさい。いや、呑め。それとも私のお酌じゃぁ不満?!」
「……いえ」「……頂きます」

 私が瓶をぞんざいに傾けると、双子は恐縮しながらグラスを手に持つ。
 うんうん、人間素直が一番だね。

「ほぅら、おっちゃんも。酒は“心の特効薬”ってねぇ」
「あ、あぁ……(おっちゃん?)」

 釈然としない顔をしながらも、杯を飲み干すベネディクト。
 ついでに私も貰っておこう。



「……ぷはぁ。美味ぇ。よぉし、じゃ、いい雰囲気になった所でね」

 紫色になった口を拭いながら言うと、なってない、と言いたげな顔で私を見る父子。
 
「仲立人として、不肖、この私が双方の言い分を聞かせて貰いましょうか」
「なんでアリアが?」「関係ないじゃん」
「親方の指示」
「……うえ」「……参ったな」
「そしてその上で……っ。どっちの言い分が正しいか、私が判定するッ!」

 そう言って天に拳を突き上げると、三者三様の呆れ顔を浮かべるが、私は構わず続ける。

「はい、では早速、ギーナとゴーロ。……君らは結局、将来的にどうしたいわけ?」
「……それ答えないと」「……駄目か?」
「さっさと言うっ!ウジウジした男は嫌いよっ!」
「……やれやれ」「……はぁ、仕方ないな」

 私が声を荒げると、それに押されるように、ぼそりぼそりと喋り始める双子。

「……俺達は、兄弟二人で何かをやりたい」「それは交易でもいいし、工房でも構わない、と思っている」
「なんだとぉ?どっちでも構わないなんててめぇ、一体何様のつもりだ、ぃっ!?」
「ここは黙って聞きましょう、ね?」
「つつ、はいはい、わぁったよ」

 掴みかかろうとするベネディクトの首筋に、軽く水平チョップを入れて黙らせる。

「つまり二人一緒にやれるなら何でもいい?」
「何でもいい、とは言わない」「けど、そんな所かもな」

 ふぅん、“二人なら継ぐ”というのは本心と言う事か。

「なるほど。それに対しておっちゃんは?」
「いつまでも仲良くおままごとしてられる訳じゃねーんだ。おめえらももう素人じゃねえんだから、二人で仲良く経営なんざ、無理だってわかるだろうよ。一人が家を継いで、他は家を出る。これが常識だろうが」

 ふむ、それはまた極めて正しい意見ではあるね。

「親父はいつもそうだな」「あぁ、まともに俺らの話を聞いた事がない」
「てめぇらこそ勝手ばっかりしてるだろうが!てめぇらのやんちゃで、オレがどれだけ近所に謝りにいったかわかってんのか?」
「職人出の癖に世間体ばっかり気にしやがって」「そんな事だから母ちゃんにも逃げられるんだよ」
「ぐ、ぐぐ……」

 舌戦が終わると、再び睨み合う三人の父子。

 ううむ。一番の原因は、双子とベネディクトがどちらも頑固者ということだぁね。
 双子がグレたのも、それが原因なんだろう。

 この感じだと、他にも色々と複雑な事情はありそうだけど。
 ま、でも今回は後継ぎの問題だけに絞った方が良さそうかねぇ。



「アリア」「お前は俺達の味方だよな?」
「何言ってやがる、オレの言う事の方が正しいに決まってる」

 暫く睨み合いを続けた父子は、今度は睨む標的をこちらに変えて言う。

「ま、結論から言うと、どっちが正しいとかはないわねぇ、実際。だから妥協点を見つけよう、って感じかな」
「妥協点?」
「客観的に見て、明らかに理不尽な言い分なら口を出したかもしれないけど、このくらいの食い違いならどうしろとは言えない。私も親方もさ、結局は赤の他人でしかないから。だったら、後は父子で話し合うなりして、お互い納得のいくようにした方がいいんじゃないかなぁ、と、思う次第で。月並みで悪いけどもね」
「むぅ……。しかしだな、オレが言ってるのは職人の世界じゃ常識なんだぜぃ?」

 自信満々に言うベネディクト。
 だから、そういう問題じゃないっつうの……。頭固いなぁ。

「はぁ。じゃ、双方の言い分だけどさ」
「あぁ」
「“船頭多くして、船、山に登る”という言葉がある通り、確かに二人で経営しよう、なんてのはちょっと無理じゃね、とは思うよ?いくら今は仲が良くても将来が不安だものね。特に結婚なんてした後は、今度は後継ぎの問題で工房が分裂してしまうかもしれないわよね」
「はは、そうだろ、そうだろ。俺はそれを言いたいんだよ」

 とりあえずベネディクトの意見を肯定してやると、彼は上機嫌でそれに賛同する。

「フネが山を越えるのは普通だろ?」「そうだ」
「はいはい、そうね。だけども。それは、おっちゃんの問題じゃなくて、継いだ二人の問題じゃないのかな、とも思うのよね」
「……む」「……ぬ」
「それに、三矢の訓、という言葉もあるし」
「なんだそれ?」「聞いたことない」
「1本の矢なら簡単に折れるけど、3本纏めれば簡単には折れない、と言う事。これは、かのモーリ家の三人兄弟が」
「モーリ家?」「どっかの貴族?」
「……と、まぁ、それは置いといて、つまり力を合わせて結束すれば、怖いものはないという事よ」
「成程、いい事を言う」「あぁ、きっと凄い貴族だ」

 うん、確かに凄い貴族ね。武家だけども。
 
「だから、どっちの言い分にも正しさはある訳。だったら、双方の意見の、真ん中を取りなさいって事。今こうなってるのは、両方ともまともに意見を聞かなかった結果なんだろうし」
「ぐ、むぅ」

 私の推察に、バツが悪そうに唸るベネディクト。

「だから、きちんと真正面から話し合え!思っている事をお互い全部曝け出せ!そして殴り合え!」

 私は酒を呷りながら、父子を煽る。

「へ、成程……。そいつはいいかもしれんな。思えばこいつらを甘やかしたのがまずかったのかもしれねえし」
「老いぼれが俺らに勝つ気かよ」「なめてんのか?」
「おぉ、やってやろうじゃねえかい。表出やがれっ!」

 ぎろり、と睨み合いながら、父子は元気に部屋を飛び出していく。


 
 我ながら滅茶苦茶な裁きだが、この父子には荒療治の方がいいだろうからね。

 余った血を全部抜いてしまえばいい。
 終わった頃には、少しは歩み寄っている、かもしれない。

 後は運を天に任せて。



「これにて一件落着、になればいいんだけど」
「……そう上手くいくかの?」

 表から聞こえてくる父子の罵声を聞きながら呟くと、開きっぱなしのドアからロッテが顔を出した。
 どうやら、自室になんか戻ってなかったみたいねぇ。

「さぁ、ね」
「……いつもなら“上手く行かせるのよ”と言うわの」
「そうかもねぇ」
「言葉選びも、間の取り方も、いつもより年寄り染みていたのぅ?」
「そりゃ、酔ってるからじゃない?」
「……ふん、まだ惚けるか」

 なぁるほど、私の正体を探っているって訳か。
 別に話してもいいんだろうけど。でも、今は駄目だね。

「ま、貴女の知っている『私』ではないかもね」
「……どういう事じゃ?」
「ま、いずれ分かるよ。『私』が話す時が来れば」
「……むぅ、ますます訳が判らん奴……?」

 途中まで言って、突然に手の甲で目を擦り出すロッテ。

「目の錯覚か……?」
「どうしたの?」
「……いや、何でもない。さて、そろそろ部屋に戻ろうぞ」
「そうねぇ。さすがに眠くなってきたし……」

 未だに聞こえてくる父子の激しい対話をバックミュージックにして、5000エキューの美貌姉妹達は寝床に付くのであった。





 そして翌日。

「おうぇぇぇええ」

 私は朝から便器とお友達になっていた。

 とにかく気持ち悪い。これは完全に二日酔いと言うヤツだろう。
 親方から休みを貰っていて良かった……。これでは仕事など出来るわけがない。
 ハルケギニアの商人達は、何としても漢方薬を東方から輸入すべきだ。
 
 さて、昨日の記憶は、ベネディクトの部屋に入った辺りからすっぽりと抜け落ちていた。
 ロッテから聞く所によれば、父子の方は酔った私が何やら上手くやったみたいだけど。

 ふぅむ。さすが私ね。なんつって。

「おい、反吐娘。客が来とるぞ」
「はぁ、ふぅ。え、何?」
「客じゃ!昨日の岩親父が来ておる」
「……今、行くっ」

 吐き気を何とか押さえて、ドアの方向へ向かう。
 
 ふむ、ベネディクトが訪ねてきたという事は、昨日の件か。
 実のところはどうだったんだろうか……。



「おぅ。嬢ちゃん」
「お、おはようござい、うぷっ、ます」

 顔面を紫芋のように腫らしたベネディクト。
 しかしその表情は明るい。どうやらロッテ情報は間違っていなかったらしい。

「その様子だと、何とか仲直りは出来たみたいですね」
「ま、少しマシになった程度だがよ。今度の収穫祭の時期には、とりあえず二人とも家に帰って来るつっててな。そこで改めて話し合いだ」
「そうですか。良かったです。あ、あの二人は……」
「商店に行ってるぜ。オレよりひでえ面にしてやったがな、はっはは」

 ベネディクトは自分の顔を指して言う。
 その場で解決、と言う風には行かなかったようだが、この様子だと、そのとっかかり程度は出来たんだろう。

「ま、礼と言っちゃなんだがよ……。これを受け取ってくれい」
「これ……?」

 どさ、と背中に背負った大きく重そうな麻袋を下ろすベネディクト。
 その中からはかちゃかちゃ、と金属器具の擦れる音が聞こえてくる。

「いや、嬢ちゃんは結構危ない目に遭いやすい体質だって聞いてな」
「はぁ」

 私はトラブルメーカーか。あの双子め、余計な事はよく喋るのね……。

「そこで、ウチで開発した製品よ。嬢ちゃんにも使えそうなものを選んでみたんだが」
「製品?」
「あぁ、ほら」
 
 ベネディクトが麻袋を開けると、中から出てきたのは、様々な武器だった。

 スティレット。フリントロック・マスケット・ピストル。連装式クロスボウ。シュバイツァーサーベル。ハチェット。その他色々。

 成程、私にも使えそうというのは、扱いの難しさは別として、どれも比較的軽量な武器だ、という意味だろう。
 それにしても、どれも一流品である事が見ただけでわかる程見事なものだ。

「これ、本当に貰ってもいいんですか?これだけイイ物なら、売っちゃうかもしれませんよ?」
「好きにすりゃいいさ。これは、他の地域で売れるかどうか、試しに持ってきたサンプルの一部だからな。北部の連中だけで評価し合ってても、同じような意見しか出ないから、カシミールに評価してもらいに来たんだよ。あいつらの事はこれのついでだな」
「えぇと、つまりこれって試作品みたいなものですか?」
「試作品、というかまだまだガラクタレベルだな。どんな欠陥があるかわかったもんじゃねえから、下手に売り捌いたらヤバイ事になるかもしれんぜ」

 額に皺を作って笑うベネディクト。

「ふふ、わかりました。肝に銘じておきます」
「それと、もし嬢ちゃんが独立して、北部の品が欲しくなったらよ。うちに手紙を書くといいさ」
「え、それって……」
「あぁ、言ってもらえれば、オレから組合に話を付けておくからよ」

 余所の組合の人間が、他のシマで商売をするには、かなりの制限がかかるのだ。
 しかし、組合員に個人的な繋がりがあれば、その制限も若干緩くなる。
 武器の贈り物も嬉しいが、これはもっと嬉しい申し出だ。

「あ、是非、よろしくお願いします!……といっても、もうちょっと先にはなると思いますけど……」
「構わんぜ。何年後でも。大した手間じゃあないしな」
「ありがとうございます。でも、できるだけ早いうちに連絡が出来るように頑張りますよ。忘れられたら困りますしね」
「かっ、恩義を忘れるような不義理な男に見えるかい?」

 軽口を叩きながらも、がっちりと握手を交わす、私とベネディクト。
 うーん、瓢箪から駒と言うやつか。思わぬところでこんなコネが手に入ってしまった。

 それとも、親方はこれを見越していたとか?
 いやいや、考え過ぎだろう。



「ほほぅ、これは中々……」

 いつの間にか麻袋の近くに腰掛けたロッテは、スティレットを手に取って、興味深げにまじまじと眺める。

「しかし、これだけあると、どれを使えばいいのか、迷ってしまうのぅ」
「何、一通り使ってみて、しっくりくるのを一つだけを選べばいいのさ。一つの武器を極めるには、膨大な時間が掛かるからな」

 私の方を見て問うロッテに、ベネディクトが横から答える。

「ふむ、なるほど。では、早速試してみんといかんわな。非力なこやつには、こういった武器が丁度いいじゃろうし」
「え?」

 ロッテは言いながら、がしっ、と私の首根っこを掴む。

「ちょ、ちょっと、私、具合が……」
「心配するでない。二日酔いは汗をかけば治るんじゃ。それに、主は昨日の鍛錬をサボったからの。今日は白目を剥いても扱くのをやめんからな」

 やる。ロッテならやるよ、絶対。

「やーめーろぉっ!た、助けて下さいっ!」
「はっは、やっぱり父子も姉妹も仲良くなくちゃあ、いけねえなあ」

 連行されていく私を見て、面白そうに快活な笑い声を飛ばすベネディクトに、心の中で裏切り者、と叫びながら、私は今日も地獄へと引き摺られていくのであった。




つづけ






[19087] 26話 人の心と秋の空
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/09/23 19:14
 蕩けるような夏が過ぎ、街中が大わらわだった収穫祭の繁忙期ももそろそろ終わりを迎えようとしていたギューフの月。



「くっそ、また俺が見回りかよぉ」

 仲間内で貧乏くじを引いた自警団の若い男は、文句を垂れながらも夜の街を見回っていた。

 此処ケルンは、ロマリア連合皇国に存在するような自治都市ではなく、領主の管轄下にある地方都市である。
 とはいえ、ケルン交易商業組合の運営委員《カンスル》であり、ツェルプストー商会の代表でもあるツェルプストー辺境伯は、都市の中核とも言える商人層の意向を無視する事は出来ない。
 よって、街で選ばれた代表者《プリオーリ》達との議会を定例的に開き、その意見を取り入れながらの統治となっている。
 まぁ、辺境伯は権限が少しばかり強い、自治会の固定議長のようなものだと思えば良いだろう。

 完全な自治都市下での治安維持は、自警団や雇われた傭兵などが行うのが一般的であろうが、ケルンでは、領主が雇った下級貴族《メイジ》の地方役人の下に、街で組織した自警団を部下兼お目付け役として配する事で守られているのであった。
 このような治安維持の構造は貴族が所有する商会が存在するゲルマニアではごく一般的なものであり、特に珍しいものではない。



「ふんふーん、ん……?」

 鼻歌交じりに街を順路通りに回っていた自警団の男は、路地の向こう側から聞こえてくる異音に気付き立ち止まった。



 ぱすん。ぱすん。ぱすん。



 何かが一定の周期で土に突き刺さるような音と人の気配。

 この路地の先は袋小路となっていて、昼間でも人通りは殆ど無いと言っていい。
 ましてや、このような夜更けに人が居る事自体が不自然であった。

「全く……。一体何なんだ?」

 面倒そうに愚痴をこぼしながらも路地を進む男。



 その時。



「危なぁーいっ!」

 前方から危険を警告する少女の声。
 鬼気迫るその叫びに、反射的に男はその場で身を屈めた。

「……ん?」

 ひゅっ、と棒状の何かが頭上を通過した音に、男は首を捻る。

「すいませーん、まさか人が来るとは思わなくって」
「あ、あぁ……」

 頭をちょこんと下げながら前から歩いてくるのは、年端もいかない栗毛の少女。
 しかし男の視線は少女の顔ではなく、手に握られた物騒なモノに向けられていた。

「くっ、クロスボウ、か?まさかさっき上を飛んでいったのは……」
「えーっと、矢《ボルト》ですね。手元が狂っちゃいまして……へへ」

 そう、彼女の手に握られていたのは、奇妙な形のボックスやハンドルのついた小型のクロスボウだった。

「て、手元が狂ったって。一歩間違えば、俺の頭に突き刺さってたんじゃ……?」
「本当、危ない所でしたねぇ」

 とぼけた顔で、まるで他人事のように言う少女に、男の神経は大いに逆撫でされた。

「……ちょっと詰所まで来てもらおうか」
「いや、待って下さい、怪しい者じゃないんですよ」
「どうみても、不審、どころか危険人物じゃねーかよ!」

 眉を吊り上げて、顔を紅潮させた男は、少女の腕を掴んで詰所に連行しようとする。

 彼の言い分は全く正しい。
 夜中に、人気のない場所とはいえ、街中でクロスボウを乱射している少女。
 誰がどう見ても不審人物である。



「これこれ、待たんか」
「むっ……。誰だ?」

 突然、少女の後ろからぬぅっと現れた影に、男は腰にぶら下げた安物のショートソードに手をかけて身構える。

「む、妾の顔を忘れたと申すか」
「あれ、ロッテちゃん?……という事は、こっちが妹のアリアちゃん?」

 ロッテの顔を確認すると、男は構えを解き、アリアを掴んだ手を離す。

 彼は蟲惑の妖精亭の客であったのだ。
 尤も彼の安月給では、街の旦那達が通う高級酒場の常連にはなれてはいなかったが。

「うむ」
「でもどうしてこんな物騒なモノを……」
「護身術を身に着けさせようと思っての。ほれ、こやつは以前に誘拐されたであろう?」
「あぁ、なるほど……。って、さすがにこれは危ないだろう」

 困った顔をするアリアが持つ凶器を指して言う男。

「非力な女が屈強な男に対抗するにはこれくらいは必要ではないか、と思うのじゃがな」
「それはそうかも知れんが……。街中でこれを撃つのは、なぁ」
「むぅ……。では、今度からは場所を変えよう。じゃから、今日の所は見逃してくれんかの?」
「しかし」
「ほれ、次に店に来た時はサービスしてやるから、の?」
「じ、じゃあ、一晩無料で付きっきりとかでも?」
「ま、店の営業中なら構わんが……」
「わ、わかった。今回だけは見逃す事にしよう。飽くまで、今回だけね」

 誤魔化すように念を押す男。
 簡単に買収に応じてしまうあたり、まだまだ自警団の訓練も足りぬようだ。

「すまんの。じゃ、引き揚げるとするか。行くぞ」
「はぁい」

 男の言質を取ると、アリアの腕を取ってそそくさと退散するロッテ。
 後には、何を妄想しているのか、だらしない表情で立ちつくす男だけが残されたのであった。





「はぁ……。お主の弩が何時まで経っても上達せんから、あんな駄目男に無駄な時間を費やさなくてはならなくなったではないか」
「何言ってんのよ。元はと言えば、あんたがあんな所で鍛錬をしようって言い出したからじゃないの。大体、私は馬鹿みたいに走らされた後で疲れてんのよ。手元が狂っても仕方がないでしょう?」

 足早に従業員寮へ引き揚げる、というか逃げ去る途中。
 迷惑そうに溜息をついて言うロッテに、私はやや憤慨して言う。

 双子と父の一件以来、毎日の「走る」鍛錬の後に、武器の扱いを習得するための訓練が追加されていた。
 ま、ロッテには武器を扱う知識も経験もない(素手で大木を薙ぎ倒すような人だからねぇ……)ので、私の自主練習みたいなものだけれど。
 ちなみにギーナとゴーロ達は、収穫祭の時期にちょっと実家に戻っていたが、もう帰って来ている。なにやら、あと何年かは分からないが、もう少しこっちで商売の修行を続ける事になったらしい。
 まぁ、今彼らに抜けられてしまうと、商店の方が回らなくなってしまうから、そういう意味では良かったのか。少しは父子仲も回復しているようだし。



 さて、ベネディクトから贈られた多種多様な武器群の中から、私が一つ選び出したのは、クロスボウだった。
 先程は、矢が潰れてしまわないように先端に分厚い布を被せ、柔らかい土の壁に書いた複数の的に向けて射撃の練習をしていたのだ。

 勿論、試作品と呼ばれているだけあって、これは普通のクロスボウではない。

 クロスボウの利点は、同じ遠距離武器のロングボウに比べて、強力な貫通力と射程を持つ上に、熟達にそれほど長期の期間を要さない事が挙げられる。
 逆に欠点は、装填する速度が非常に遅く、連射が効かない事(ロングボウは熟達者であれば1分間に10発~12発は撃てるとされているが、クロスボウは1発ないし2発しか撃てない)である。

 しかし、“リピーティング・クロスボウ”と呼ばれる種である、このクロスボウにはその欠点は当てはまらない。
 台座の上に備え付けられたボックスに、《ボルト》と呼ばれる小型の矢を10発まで装填出来、ハンドル操作(コッキング)一つで、弓を引く動作と矢をつがえる動作が同時に行われるため、非常に素早い連射が可能となっているのである(ただ、通常のクロスボウと比較して、貫通力と射程、命中精度がかなり落ちてしまっているため、一般にはあまり好まれていないらしく、これはその弱点を改良しようと試行錯誤している途中の試作品らしい)。

 スティレット、ハチェット、シュバイツァーサーベルなどの、近接しなければ当たらないような刃物は、熟達するのに時間が要るだろうし、何より、出来れば接近戦なんぞしたくない。臆病さは大事ですよね、うん。
 遠距離武器であれば、フリントロック・マスケット・ピストルなどもあったのだけれど高価な火薬が必要な上に、前込め式の単発銃なので連射も無理と言う事で、これもパス。

 ハルケギニアで後装式の連射が効くような銃が開発されるのは、もう少し先の事だろうなぁ。
 これは理論がどうとかいう問題もあるけれど、工作技術の精密性が問題なのだ。ゲルマニア職人達の腕を疑う訳ではないが、機械工業の発展していないこのセカイでは、仮に知識があってもそれを造る事は不可能だろうね。

 以上の理由から選んだリピーティング・クロスボウだが、まだまだ改良の余地はありそう。
 例えば威力の低さを補うために、矢に毒を塗ったりね……。



「あれしきの距離を走った程度でバテたと申すか?」
「あれしき……って、軽く20リーグ以上全力で走ったでしょうが!?」
「はぁ……その程度で胸を張るか。これだから才能の無い奴は困る。……大体、何じゃその乳は?」
「し、知らないわよ。勝手に大きくなるんだから」

 半眼で私の胸部を睨みつけるロッテに、私は顔を顰める。

 前からちょっとずつぷっくりはしてきていたのだけれど、最近はその成長に拍車が掛って来ており、今では胸部にサラシ布を巻くようになっていた。
 別にあまり大層なモノは要らないんだけどねぇ……。邪魔だし。

「はっ、乳ばかりでかくして、肝心な事はからっきしとはな。エロい事ばかり考えておるからそうなるんじゃぞ?」
「考えるかっ!大体、コレはあんたのせいでもあるのよ?」
「何?どうして妾のせいなんじゃ?」
「それは……。えぇっと、まぁ、とにかくあんたのせいなの!」

 私は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、誤魔化した。
 それを言ったら、どうせ「変態じゃの」とか「さすがの妾もそれは引かざるを得ない」などとからかわれるに決まっているのだ。

 私がロッテのせい、といった理由は、夜な夜な繰り返される、彼女の“食事”にあった。

 “食事”というのは、勿論、私の血を吸うことなのだが、これが言いにくいんだけど、気持ちいいのだ。恥ずかしながら。

 多分、その快感は、その、エロいモノに近いのではないかと思う。いや、実際に経験をした事はないから、知らないけど。
 単なる推論でしかないが、それが私の体を、より女らしくさせようとしているのではないだろうか。
 『僕』の言葉を借りれば、女性ホルモンの分泌が異常に促進されている、的な。



「何じゃその言い草は?ま、良いわ……。それよりも、鍛錬の続きじゃが」
「あ、キリもいいし、今日はもう終わりで」

 まだまだやる気満々のロッテに対して、私はさらりと鍛錬の終了を申し出る。

「まだ寝るまでには時間があるぞ?そんな心構えではいつまでたっても──」
「違う、違う。明日はオルベの農村まで行かなきゃいけないから、早く寝たいのよ」

 長くなりそうなロッテの説教を遮って言う。
 ちなみにオルベというのはケルンから東にある、中規模程度の農村である。
 ま、サボりたいのもあるのだけれど。

「ぬ、また買付契約と言うヤツか?」
「ま、私はただの見学みたいなものだけどね。今回はちょっと遠くだから、帰って来るのは3日後くらいになると思う」

 そう、収穫祭の時期辺りから、私は近場の商社、もしくは農村への買付に連れて行って貰っていた。

 農作物や、食料品が主要な産業の一つである、此処ゲルマニア西部において、夏作の収穫の終わったこの時期は、最も仕入れが忙しい時期の一つ。
 ハルケギニアでは三圃式農業が一般的なようで、冬作の実る春もまた忙しいのだけれど。

 既に三圃式農業が発展しているために、よほど高い税を課せられていたり、不毛の地に存在する農村でなければ、税を収めた後も余剰の生産物が出るため、農民達はそれを売って蓄えを作るのである。
 やはり私の生まれ故郷は、かなり貧困な農村だったらしい。税率が高いくせに、家畜や農具の質は最低レベルだったのである。こういうのは外から見なければ分からないのよね。


 親方は本格的にエンリコを買付担当の駐在員に据えるつもりらしく、彼の指示により、現在はエンリコと正規の駐在員が分担して買付の仕事に当たっている。
 エンリコの身分は形式的には未だ見習いではあるが、実質的に現場の手が足りなくなってきているので、来年度からは見習い要員を1人か2人補充するつもりらしい。

 そして、買付担当員としては新米のエンリコの補助と言う事で、毎日ではないが、フーゴと入れ替わりで週1回程度、その買付に同行する事になっていた。
 経理の研修も依然として続いてはいたが、これもまた、研修の一つなのである。



 さて、買付と言っても、予告なしでその場へ赴いて、小麦を××リーブルだけ欲しい、△△エキュー払うので売ってくれ、もしくは□□という商品と交換して欲しい、などという事をするわけではない。

 取引量の高が知れている遍歴商人であれば、農村地域においてはそのような仕入れをするのが一般的かもしれない(余所の都市部では様々な制限を受ける彼等は、都市から都市へ行き来するよりも、都市から農村、もしくは辺境へ行き来する場合が多いのだ)。

 しかし、定住商人、それも大商社となると、仕入れる量が個人で経営しているような行商の規模とは比較にならない程多くの量を仕入れる事になる。
 そういった大きな商社の各々が勝手に仕入れを行い始めると、市場が混乱してしまう恐れがあり(特定生産物の買占めによる物量の不足や、不当な値の釣り上げなど)、それは必ず摩擦を生み、ともすれば同じ組合、または同じ地域にある商社同士の抗争に繋がる(競争という意味ではなく、血生臭いモノ)事すらある。

 そこで、このような事が起こらないように、、予め取引に参加する、西部地域に存在する商社同士が集まって、他との兼ね合いを取るための談合を開く。
 そこで、『貴社が生産現場から直接的に買付ができるのは、○○村と△△村です。もし不足なのであれば、その他の一次卸商社と相談して取引して下さい』という事を決めてしまう。
 ちなみに、余所の商社が買付を行う場合は、必ずその土地の組合を通さねばならず、その場合は、一次卸である商社を紹介され、生産現場に直接行く事は許されない。
 先にも言った通り、遍歴商人のように、額の小さな取引については、都市部以外ではお目こぼしされるのが通例となっているんだけどね。

 その後、収穫量の予想がついた段階で、指定された農村との価格と物量の交渉、及び、不足分について、他の商社から仕入れるための交渉を行うのである(カシミール商店が西部の農産物を出荷する主な地域は、ホームである南部であり、西部とは主要な作物が異なるため、その需要は高い。よって不足分はかなり多い、と思う。その不足分の取引で最も大きい取引相手がツェルプストー商会なのである)。

 この時に気を付けなければいけない事は、相場に反した値切りや釣り上げを行わない事。
 価格の交渉をするのは当然なのだが、取引相手をコロしてしまっては(相手が本来得られるはずの利益分を過剰に取り上げ、取引する気を失くさせる程に相手側の不況を買ってしまう事)は駄目だ、という事だ。
 逆に、もし相手が吹っ掛けてきたとしたら、交渉する以前に取引を中止して、別の取引相手を探した方が良い。

 そういった要求は、その場での取引が成立したとしても、商社としての信用を失わせてしまう。
 「あの商社の連中はモノの価値が分からん奴ばかりだ」「不当な要求を突きつけるとんでもない輩だ」「あの商社とはもう取引したくない」などという噂が立ってしまえば、そこでジ・エンド。信用を取り戻すには並々ならぬ労力と時間を費やさなければらないだろう。
 全ての商人にとって、信用というものは命綱なのだ。
 
 まぁ、とはいえ、収穫の終わったこの時期だと、既に大体の話はついているため、その内容を確認して契約を完全に済ませて来るだけなんだけれども。
 あまり交渉の難しくないこの時期を選んだのは、エンリコの研修のためでもあるわけだね。



「ふぅむ。主の独立に向けての準備も整ってきているという事か」
「まぁ、そうとも言えるかもしれないけれど……。も~う少し掛かるかなぁ、時間的にも、金銭的にも」
「使えんヤツじゃのぅ……。いつになったら独立できるんじゃ?」

 ロッテは呆れたように私を見下して言う。
 いや、どう考えても1年ちょっとの修行で独立するとか無謀すぎますって。そもそも金銭的に無理だから。

「そんな事言われてもなぁ」
「ふん、主がトロトロとやっている間に、スカロンの奴はもう店舗を押さえたらしいぞ。何やらトリステインにある蟲惑の妖精亭の姉妹店らしいがの」
「らしいわねぇ。来春には独立するって言ってた」
 
 予定よりは独立の時期が遅れてしまっていたスカロンだが、現場復帰した奥さんと力を合わせたお陰か、秘薬の代金分の穴埋めは既に終わったらしい。
 奥さんはロッテからNO.1の地位を取り戻そうと必死だったらしいので、稼ぎもかなりのモノだったに違いない。

 結局一度も返り咲く事はなかったらしいけどね。ロッテの自慢によると。

 春からは彼の作る旨い料理が食べられなくなるかと思うと、少し名残惜しいが、トリステイン方面にも商人関係の知り合いが出来ると思えば心強い。遍歴商人と定住の接客業という畑の違いはあるけれども。

「で、主は?」
「うーん。あんたの協力さえあれば、あと1年ちょっと、かな?」
「協力とは?」
「お・か・ね」

 やや厭らしい笑みを浮かべながら、指で丸を作り、上目遣いでロッテを見る。

「……他人の金を頼りにするでない、とカシミールに言われたのではなかったか?」
「ま、そうなんだけどね。でも、実際は共同経営というのは普通なのよ?一人で経営している商社なんてまずないんだから」

 これは本当だ。

 ゲルマニアにある商社の殆どは、《コンパニーア》と呼ばれる形式で運営されている。
 その意味は、“同じパンを分けあう者”。
 つまり、共同経営者の双方が資本と経営を受け持ち、相互の行動(例えば第三者に対する借金など)に無制限の責任持つのが一般的である。
 だからこそ、損害互助制度などという物も存在したのだ。
 
 これに対して、資本だけを供給して利益を得る形式、《コンメンダ》という運営方法もあるが、そのどちらも共同経営である事は変わりない。

「じゃが、行商人の場合は一人で経営するのが普通なのではないか?」
「……うっ」
「何じゃ、うっ、て?!主、妾を謀ろうとしているのではなかろうな?」

 ちっ。今日は珍しく鋭いじゃないか……。

「ち、違うわよ。そっ、そんなことするわけないじゃない。詐欺じゃあるまいし」
「ふぅ~ん?」

 どもる私に、ロッテは胡散臭そうに目を細める。

「と、とにかく──」
「良いぞ?」
「え?」
「協力、とやらをしてやってもいい、と言っておる」

 薄い笑いを浮かべてロッテが言う。
 こういう時は何か碌でもない事を言うのが相場なのだが。

「本当に?」
「うむ。妾が貯めた金を“貸して”やってもいい」

 ロッテはそこで、ぐい、と口の端を釣り上げた。

「……利率は?」
「ま、大まけにまけて、10倍にして返してくればよいぞ?」
「いいわよ?私が独立する時、その条件で貸して頂戴」
「本気でいっておるのか?」
「えぇ」

 私はにこりと爽やかに微笑む。

「ほぅ?随分と強気じゃな?」
「だって、あんた、返済する時期までは明言していないじゃない。つまり、私がその気になれば、10年後、20年後の返済も可能、と言う事……っ!?」

 私が力強く言い切った所で、高速の拳骨が私の後頭部に突き刺さる。
 さすがの私もこんな不意打ちは躱せない……っ。

「1年で10倍じゃ」
「いだだ……。って、さすがにそれは暴利だって」
「ふん、文句があるなら貸さぬまで」
「……せめて、5倍でお願いします」

 相場を遥かに上回る額を提示して頑として動かないロッテに、私は粘り腰の交渉を試みる。

 高利貸しですら金利は大体年利にして2割程度。これでは高利貸しから金を借りた方がましだ。
 といっても担保も連帯人も存在しない私には借りる術はないが……。

 最終的にはそれより低利息か、もしくは無期限の返済へと話を持っていかなければなるまい。
 猶予期間は一年もあるが、どんな商人と話をつけるよりも、彼女を宥めすかす方が難しいかもしれない、と思った秋の夜であった。





 本日は晴天なり──

 翌日の朝。
 少々肌寒い風は吹いているものの、絶好の旅行日和ともいえる、清々しい見事な秋晴れ。

「よいしょ、っと」

 私は必要最低限の物だけを詰め込んだ粗末な旅行鞄を、カシミール商店の正門前に停められた、一頭立ての軽装馬車に放り込んだ。
 必要最低限のものの中にクロスボウが入っているんだけどね。旅先でも鍛錬を怠るな、とロッテに釘を刺されたのだ。
 
「荷物はそれで全部?」
「はい」
「よし、それじゃ、乗って」

 小さな御者席に座ったエンリコが私に確認する。
 買い付けた荷の運送は、契約終了後、いつも忙しく走り回っているフッガー商会系列の連絡員達に任せるため、私達が馬車で荷を運ぶような事はない。
 よって、オルベの村まではこの小さな軽装馬車で行く事になる。
 御者については、私の馬車扱いの練習にもなるので、途中で何回か交代する予定だ。



「やっぱり、こいつの代わりに俺が行きますって」
「何よ、あんたはこの前、連れて行って貰ったばっかりじゃないの」

 私が馬車に乗り込もうとすると、見送りに来ていたフーゴがしゃしゃり出る。

「いや、二人旅とか、やっぱり危険だろ?」
「何が危険なのよ?」
「そりゃ、お前。男と女が泊……」
「は、何?」

 下を向いて、はっきりとしない事を言うフーゴに、私は苛々したように聞き返す。

「いや、ぞっ、賊とか?そう、賊とかでるかもしれねーだろ。ほら、俺なら魔法で楽勝だし」

 ハタキ杖二代目を掲げて言うフーゴ。
 
 彼は誘拐事件以来、魔法の練習をしているらしい。
 先生がいないので、ほとんど我流みたいだけれど、一応の上達はしているようだ。
 ま、折角魔法が使えるのに、それを磨かないなんてのは、勿体ないものね。
 
「東の街道って見晴らしもいいし、大分安全なはずだけど。しかもオルベの村は辺境伯領内だし」

 目的地までは、馬車で東に半日ほどの距離。
 そして、ツェルプストー辺境伯領は、他の地域と比較してかなり安全とされているのだ。
 賊狩りが厳しいからね、この領内は。

「むぐ……」
「ほらほら、どいたどいた。あんまり馬車に近づいちゃ危ないよ?」
「わかったよ……」

 私がしっしっ、と手を振ると、フーゴは渋々、と言った感じで引き退がる。
 何やら御者席の方へ向かって、敵意の眼差しを向けているような気もするが……。



「くれぐれも、先方に失礼のねェようにな」

 同じく見送りに来ていた親方がエンリコに声を掛ける。

「分かっていますよ……」
「ふん……。ならいいが、な」

 エンリコはやや不貞腐れたようにそれに答え、親方もまた不機嫌に言う。

 そう、未だ、駐在員へと昇格させたい親方と、一個の商人として独立したいエンリコの関係はぎくしゃくとしてしまっているのだ。
 いや、というより、時間が経つにつれ、その溝はさらに深まっていると言えるだろう。

 何とか関係を修復できないものか……。
 エンリコの方に味方をしたい、という気持ちは変わってはいないが、このままの関係を続けられては、こちらが参ってしまう。
 何しろ、この二人は間違いなく、この商店の中心なのだから。

「さ、アリアちゃん、行こう」

 親方とのやり取りをぞんざいに切り上げ、急かすように言って手綱を握るエンリコ。

「……はい。じゃ、行ってきまっす」

 私はエンリコの隣へと腰掛けると、馬車の上から親方に向けて軽く手を上げて見せた。
 ちなみに双子とヤスミンは商店内で作業中だ。

「道中気を付けろよ」
「せいぜいヘマはしねーようにしろよー、偽乳」

 一言余計な見送りの言葉に言い返そうとした所で、馬車の車輪がぎぃ、と音を立てて、ゆっくりと走り出した。
 フーゴ君には、帰ってきた後にクロスボウの的でもやって貰いましょうかねぇ……。





「はい、これ被っておいた方がいいよ。秋とはいえ、日差しが結構強いからね」

 馬車の走行が安定してくると、エンリコは脇から麦わら帽子を取り出して、私へと渡す。
 うーむ。相変わらず、優しいねぇ。

「あ、すいません。気を遣わせてしまって」
「はは、女の子に日焼けは禁物だから。特に可愛い子には、ってね」

 麦わら帽子を頭に載せながら言うと、エンリコは天然の女殺しぶりを発揮する。

 これで狙ってないのだから性質が悪い。この甘~い言葉と笑顔にやられて勘違いした娘が盛大に自爆する事も多いと聞く。
 まさに悲惨の一語。ご愁傷様です、はい。

「……と、それは置いといて」
「ん?」
「エンリコさんは、その、やっぱり独立するんですよね?」
「うん、まあ……。親方には反対されているんだけどね。知っていると思うけど」

 むぅ。いきなり空気が悪くなってしまった。

 とはいえ、折角エンリコと二人きりなのだし、この機会にこういう話をしておくのは悪くないはず。
 できれば、親方との仲を修復するような流れに持っていければ……。

「親方も変ですよねぇ。何でエンリコさんの独立に反対しているんだろ」
「……僕は独立には向いていない、らしいよ」

 自嘲するように、薄い笑みを零すエンリコ。

 同調する事によって、空気を和らげるつもりが、さらにどんよりとした雰囲気を作ってしまった。

「向いてないって……。エンリコさんは凄く仕事が出来るのに、どういう事なんでしょうね」
「はは、ありがとう。ま、親方にしかわからない理由があるのかもしれないね」

 エンリコは口だけで笑って、さばさばとした口調で切りかえす。

 そう言えば、幼馴染であるヤスミンは、親方がエンリコの独立に反対している理由がわかっていたようだけど……。
 私から見ると、エンリコは人当たりもいいし、商売の知識も豊富で、性格も真面目で堅実。全く問題がないように見えるんだけれどねぇ。

「それなら、その理由を親方に問いただせば……」
「アリアちゃん、その話はもういいよ」

 私がさらに続けようとすると、エンリコはややうんざりしたような顔で、話を切る。

 普段は滅多に怒らない彼が、こんな不機嫌な態度を取るなんて、この話題、今はタブーみたいね。

「すいません、無神経でした」
「……さ、この話題はお終い。もっと面白い話をしよう」

 五年以上も独立を目指して、商店で修行を積んで来たエンリコ。
 その彼が親方から「お前は独立に向いていない」と言われた時のショックは相当なものだっただろう。



 彼と比べれば、ほんの僅かな期間の修行しかしていない私には、それ以上彼に何の言葉も掛ける事はできなかった。
 




つづけ



[19087] 27話 金色の罠
Name: キナコ公国◆deed4a0b ID:345b306c
Date: 2010/09/29 20:56
 地平に沈むオレンジの夕日が、収穫が終わった後の、丸裸になった広大な畑を照らしている。
 カァと一つ、寂しげに鳴くカラスの声が、ぴゅうと吹く木枯らしに乗って聴こえてきた。



「はぁ、ぎりぎり……」
「陽が落ちる前には着けたね」

 私が安堵の溜息を漏らすと、隣の御者席に座るエンリコが合いの手を入れる。

 私達が目的地であるオルベに着いたのは、出立した日の夕刻もぎりぎりと言った所だった。
 本来ならば、もう少し早く着く予定だったのだが……。

「こんの阿呆馬……。何で言う事聞かないのっ!」

 村の中程、道が狭くなって来た所で馬車から降り、私は正面から鹿毛の巨体に向かって怒鳴りつけた。

「……ぶるるっ」
「あっ、こ、コイツ……」
 
 阿呆馬は私の叱責を馬鹿にしたようにぷい、と横を向いて、糞(ボロ)をぼとりと尻からひり出す。

 そう、道中で私が馬車の運転を替わった時、この馬が言う事を全く聞かないせいで、到着が遅れてしまったのだ。
 結局、ここまで馬車を運転してきたのは、殆どがエンリコだったのである。

「まぁまぁ、アリアちゃん。馬にそんな事を言っても仕方ないよ」
「ぐむ……」

 同じく馬車から下り、手綱を引くエンリコが怒り心頭の私を宥める。

 馬は人を見るというが、まさかここまで馬鹿にされるとはね……。
 ふ、ふふ……後でシメてやる。

「ま、何にしても今日中に到着出来て良かったよ。完全に暗くなったら馬車を走らせるのは厳しいからね」
「そうですねぇ。さすがに野宿は、ね」

 いくら安全と言われている辺境伯領内とは言え、護衛も無しに野宿するのはあまり良い事とは言えない。
 一応、簡易の寝具は馬車に積んではいるけれども、野生の獣なんかが出る可能性もあるし……。

「はは、女の子に野宿はきついか。……でも行商人になれば、野宿なんていうのは日常茶飯事だからなぁ」

 私が野宿を嫌がっているのは、環境的な問題であると勘違いしたのか、エンリコは小さな子に言い聞かせるように呟いた。

「あ~、そうですね。その時までには慣れるようにします」

 私はそれに対して、苦笑いしながら曖昧な返事を返した。

 野宿自体は構わないんだけど、戦力的な問題が……。
 別にエンリコが頼りない、と言いたい訳ではないが、ロッテとかと比べると、ね?

「うん、いい心掛けだね。……じゃ、とりあえず村長さんの所に向かおうか」
「はい」

 白い歯を見せて笑うエンリコの提案に、私は無表情に頷く。

 村長宅を訪ねるのは、まず村に入った事を報告せねばならないのと、この村に宿があるわけではないので、適当な寝床を見繕ってもらうためだ。
 具体的な契約については明日から、という事になるだろう。上手くいけば明日中には帰れるんだけど、ねぇ。



 ちなみに今回この村で買い付けるのは、小麦、テンサイ、それとザワークラフト(キャベツの漬物)の三種。

 小麦は言わずもがなであろう。
 パンの材料、その他いろいろな料理に使われる、ハルケギニアにおいて、最も重要な穀物だ。

 テンサイに関しては、葉の部分が人間の食用であり、根の部分は家畜の飼料用となる。
 テンサイを元にした砂糖というのは、このセカイではまだ(?)生産されていない。
 その理由は、テンサイから砂糖を作るには、製造初期の段階から高度な化学的処理が必要とされるからであろうと推測される。

 よって、このセカイで砂糖といえば、イベリア半島を始めとした地中海沿岸の気候でしか栽培が不可能なサトウキビを原料としたものであり、それは同じく地中海沿岸でしか生産できないコショウ・ナグメグ・クローブなどを始めとした種々の香辛料(中には他の地域で栽培できるモノもあるため、全てではない)と並んで、ロマリア連合皇国一の特産品である。

 海域に存在する水竜を始めとした幻獣種のせいで、東方との海上貿易がほぼ不可能なセカイにおいて、これは圧倒的なアドバンテージであり、これこそが国土的にはそれほど広くも無いロマリアが、ガリア・ゲルマニアの二大国に劣らない程の商業力を持っている大きな理由の一つなのだ。
 勿論、ロマリアには、その他にも、ガラス細工、陶磁器、硝石、油、塩、顔料、染料(水に溶ける着色料を染料、溶けない着色料を顔料という)、嗜好品、宗教関係用品など、様々な特産が存在しているし、ブリミル教の総本山である、という政治的な強さも絡んではいるのだが。

 ザワークラフトに関しては、キャベツをすっぱくなるまで漬けこんだもので、肉料理などの付け合わせに使用される事の多い、ゲルマニアでは最も愛されている漬物である。
 食品の加工に関しては、都市部の工場ではなく、農村の家内制手工業として行うのが一般的なのだ(小売店で作る、もしくは消費者が自分の家で作るという事も多いが)。



「契約、上手くいきますかね」
「ま、今回は殆ど決まっている取引だから、大して心配はいらないさ」

 村長の家までへの道すがら、私が何となく言った一言に、エンリコが自信ありげに答える。
 いつもの優しい顔とはまた違った、精悍なその横顔に、少しの間見惚れてしまう私なのであった。





 しかし、何故こうも私はトラブルに見舞われるのか。
 どうにも私はブリミルの野郎に嫌われているらしい。



 無駄に眩しい朝日が、東側の窓から差し込む村長宅の食卓。
 
 組合員証書と契約書が置かれた食卓机兼会議机になっているテーブル。
 私とエンリコは、その内容を読む事が出来る村長を含めた、村の主要な人物数名と、そのテーブル越しに睨み合っていた。

「だから、足りないって一体どういう事っ……むぐ?」
「こら、アリアちゃん、落ちついて」

 どん、とテーブルを叩きながらの剣幕に、エンリコが慌てて私の口を塞ぐ。
 
 はっ。いかんいかん、冷静にならなければ……。
 しかし、これは怒っていいレベルの事だとも思うんだけれども。

「本当にすまんなぁ、とは思っとるんだわぁ、こっちも」

 村長がのらりくらりと謝罪の言葉を述べるが、その言葉にあまり誠意は感じられない。



 私達が村に到着した晩は、それなりの歓待を受けながら迎えられ、これならば問題ないだろうなぁ、と勝手に思っていたのだが。
 夜が明けて、質素ながらも温かい朝食を恐縮しながらも頂き、さぁいよいよ契約だ、という時になって、風向きが変わってしまった。

 何でも、今になって取引する産物の量が足りない、というのだ。それも大量に。



「しかしですね、今になって足りないと言われましても。こちらにも購入と販売の計画というものがありますし……。一月前に、弊社から確認を入れた時は問題ない、という回答を頂いたはずなのですが?」

 私の剣幕を止めたとはいえ、流石に人のいいエンリコでも黙ってはいない。
 言葉は丁寧ではあるが、明らかに相手側の失態を責めている口調だ。

「いや、それがだなぁ……」
「村長、はっきり言ったれ」

 額の汗を拭いながら、しどろもどろに言う村長に、一人の村人が野次を飛ばすと、周りの村人からも、「そうだ、そうだ」と続けて野次が飛ぶ。

「確かに、隠しても仕方ないかぁ。……実は、ウチの作物をお宅よりも高値で買ってくれる、という御仁が居ってなぁ」
「そんな馬鹿な……? この村での取引は、私共、カシミール商店という事に決まっていたはず。一体どこの商社です、そんな無法を行っているのは? まさか、また東部の嫌がらせじゃあ……」

 村長の告白に、エンリコは信じられない、といった表情と声色で言う。

 ゲルマニア西部と東部の組合、というか商人同士はあまり仲がよろしくない。
 一見すると派手で華やかな交易業を中心とする(農業も盛んではあるけれど)西部と、地味で堅実な鉱業(金銀でも出れば大きいのだろうけれども、東の鉱山は銅、鉄、黄鉄鋼、その他貴金属以外の金属が中心)や林業などを中心とする東部の商人では、その性格が合わないのだろう。

 風の噂によると、クリスティアン、つまりツェルプストー辺境伯と、東部の大貴族であるザクセン=ヴァイマル辺境伯も犬猿の仲らしい。

「商社? いや、行商の人達なんだぁ、二人組の」
「えぇ?!」「はぁ?!」

 やや困った顔をした村長の返答に、口を閉じていた私も思わず間抜けな声を上げた。

「ぎょ、行商人が、たった二人でこの量の商品を買い付けた、ですって?!」
「しかも、ウチよりいい値で、なんて……」
「有り得ない……っ」

 あまりの驚きに口を揃えて言うエンリコと私。

 纏まりかけていた契約を反故にした相手方への憤りよりも、横槍を入れた相手が遍歴商人である事に対しての驚きが上回ったのだ。

 基本的に遍歴商人が行う取引というのは、商社の取引に支障を来たすような心配がないからこそ、農村部での取引についてはお目こぼしされている。

 何故なら、彼らは取引量が少ないだけではなく、商社よりも良い値段でモノを仕入れるような事はしないからだ。
 当然、商社の買付が決まっているような中大規模の農村では、もし彼らが取引したいと訪ねてきたとしても、彼らにモノを卸す量は必然的に少なくなる。
 
 遍歴商人が農村や辺境で仕入れたモノを、何処に売り捌くのかを考えれば分かる事だ。

 そう、それは大抵の場合、都市部の商社なのである。

 遍歴商人、というか余所の商人が都市部で小売を行う事は、特定の歳市(その時期は各々の都市による)期間以外は許されていない。
 それ以外の時期には、必ず地元商社に卸さねばならない決まりとなっているのだ。

 例を挙げると、丁度、私がケルンに来たばかりの時期も歳市であった。
 なので普段は存在しない露店が道端に沢山並んでいたのだ。
 あれは定期的なものではなく、ツェルプストー家の第一子であるキュルケの誕生を祝って、臨時で開かれていたものだが。

 と、まぁ、そういう事で、遍歴商人が、商社が提示する値段以上でモノを仕入れていては、ほぼ確実に赤字になってしまう。
 単純な競争力では、資本と組織力の差で商社に及ばない彼らは、小回りが効くからこそのニッチな商売を行うべきであり、商社と直に競争するなど自殺行為なのである。

 例えば、商社の買付が殺到する、この時期に農産物を手に入れたいのであれば、商社の積極的な買付の対象となる中大規模の農村を避け、比較的小規模な農村で取引を行う事を選択するとかね。



「参考までに、弊社よりも高値を付けた、とは具体的にどの程度の?」
「ふむ、大体だけんども、3割増しくらいかね」
「3割?!」

 村長の発言に、エンリコが再度目を丸くして驚く。

 そりゃそうだ。
 カシミール商店の仕入れ価格は、買付担当員の収穫前の交渉によって、多少値引かれてはいたが、今年度の仕入れ相場から大きく外れてはおらず、極めて真っ当な価格なのである。
 そこから3割増し、という事は……。

「そんな値段で買いつけて、儲けが出るわけが……。というか、何処に持って言っても赤字になるはず……」
「そんな事、ワシ等に言われても、なぁ?」

 そう、常識外れに高すぎるのだ。
 穀物や野菜類というのは種類や質、そして量は違えど、どの地域でも生産されているものであり、どこに持って行っても2割以上の利益など普通は望めない代物である。
 飢饉や戦争などの理由があれば出るのかもしれないが、少なくともケルンにそんな情報は入って来ていない。

 にも拘らず、ウチが提示した価格よりも3割以上も高い価格を提示するなんて、頭が狂っているとしか思えない所業である。

「……取引対価は何で支払われたのですか?貨幣ですか、それとも物々交換?」
「はぁ、金塊、だけんども?」
「金、塊……?それはリーブル金板ですか?」

 エンリコは疑わしげな表情のまま、村長へと疑問をぶつける。

 リーブル金板、というのは、1リーブル(トロイリーブルではなく、通常のリーブル単位)の重さのゴールドバーである。
 極めて純度の高い黄金の塊であり、その価値はエキュー金貨にしておよそ120枚分。
 
 これは通常、極めて大きな取引にしか使用されないものだし、勿論、一介の遍歴商人が持ち歩くようなものではない。

「いんや、重さは不揃いだったがなぁ。ただ、きちんと村の量りで全体の重さは量ったから、間違いはないはずだぁ」
「重さが不揃い? ……となると、少なくとも、正規に認められたモノではないですね。実際に見てみない事には何とも言えませんが」

 ますます怪しいなぁ。
 金が正規のルートを通じて市場に流れる時は、リーブル金板として、重さと形が統一され、その上で王家や教会の刻印が打たれているのが普通だ。
 それが不揃いとなると、本物の金であったとしても、まともなルートで手に入れたものではないだろう。

「村長、実際みてもらうのが良いんでねえ?このままじゃ、こん人達も納得いかんだろう」
「そうだなぁ。それならこの人達も納得するかねぇ。……おい、誰かいくつかちょっと持ってきてくれんか」

 そう言って村長は村人に目配せをする。
 村人の一人は、無言でそれに頷くと、がちゃ、と玄関の扉を開けて外へ出て行った。

 何しろ金塊というのだから、それをまだ村人に分配はできないはず。
 なので、換金するまでは、村の公共の場所で厳重に保管されているのだろう。



「まぁ……実はまだモノ自体はぁ、あるはずなんだがね」

 村人が出て行った後、思いだしたようにぽつりと村長が独り言のように呟き、僅かに口角を上げる。

「む……」
「行商人さん達は二人組だから、少しずつしか荷を運べん。だから、ちょこちょこと往復でどこかの倉庫に運んどる。後で纏めて売り捌くつもりとも言っておったなぁ」
「つまり?」
「不満があるなら行商人さん達と話合ってくれんかねっちゅうこっちゃ。丁度今日、あの人らが最後の荷を取りに来る予定だから、都合は合うはず。こっちとしては高い方に売りたいんでなぁ」

 村長の身勝手な言い草に、流石のエンリコも呆れたような表情を浮かべる。

 はぁ、つまり両者を競わせて値を釣り上げようと言う魂胆か。
 これだからその場だけの短絡的な利益しか考えられない農民は……。まぁ、私もその一員だったわけだけどもね、昔は。いや、大昔だな、うん。

 既に決まりかけた契約を反故にして、こんな事をしたら、たちまち組合中に話が広まって、翌年からこの村の扱いが悪くなるっつうの。
 どちらにせよ、そんな値段では引き取れないから、もしその行商人達というのが本気で、その狂気とも言える値段を提示しているのであれば、取引は中止せざるを得ないわね……。



 なるべく先方の機嫌を損ねないための配慮か、歯に衣を着せて村長とのやり取りを続けているエンリコ。
 それを横目で見て若干のイラつきを覚えながらも、私は黙ってふぅ、と一つ悩ましげな溜息を吐いた。





「持ってきたで」

 暫くして、先程の村人が小脇に金塊(?)を抱えて戻ってきた。

「戻ったか。じゃ、見せてやりなぁ」
「ほらよ」

 村長が村人へと命じると、ごとり、と板状にカッティングされた金塊(?)がいくつか、テーブルへと置かれた。

「どうだ、見事なもんだろう」

 村長が自信ありげな顔で、ふふん、と鼻を鳴らす。
 うん、確かにぱっと見は見事としか言いようがないほどの黄金である。

「エンリコさん、これは……」
「うん……」

 しかし私は、その金塊(?)を見た瞬間に、眉を顰めてエンリコに呼び掛ける。
 エンリコの何とも微妙な反応を確認すると、私は可哀想なものをみるような目で村長と村人達を眺める。

「……あ?どうしたんだぁ?」

 その視線にむず痒さを感じたのか、村長は不可解な顔で私に尋ねる。



「えぇとですね……。非常に言いにくいんですけども」
「なんだ、はっきり言ってくれんか」
「これ、金じゃありませんよ」
「はっ……?」

 お望み通りにはっきりと事実を告げてやると、村長は何を言っているのかわからない、といった顔で返す。



「な、何を証拠にそんな事をっ……?大体金じゃないなら、一体何だって言うんだ?」

 目が点になった村長に代わって、村人の一人が喧嘩腰に言う。

「えぇと、じゃあまずコレの正体ですけど。黄鉄鋼、といわれる硫黄や硫酸の元になる鉱物ですね。勿論、金とは比べ物にならない価値しかありませんが」
「お、黄鉄鋼?」
「そうです、別名“愚者の黄金”。見た目が金とよく間違えられる事から名づけられた名前です」
「お、俺達が愚かだったと言いたいんか?」

 村人はもう、私に掴みかかりそうな勢いで詰め寄って来る。
 うーむ、混じりモノが結構してある金貨の金と純金はかなり違うから、これが純金と言われてしまえば信じてしまうのかな……。

「いえ、そうは言いませんが。ただ、これはかなり古典的な手口ではありますけどね。……実際に金と並べれば光沢は違いますし、単体での見分け方も色々とあります。この場合、一目で分かりやすいのは、ここです、この部分」

 私は黄鉄鋼の塊に浮かび出た、やや褐色がかった部分を指して言う。
 
「む……。その染みみたいのがどうかしたんか?」
「黄鉄鋼はとても劣化しやすい金属で、劣化が始まると褐鉄鋼と呼ばれるものに変化します。つまり、表面から赤みが掛かって来るんです。……丁度こんな風に。逆に金は凄く劣化しにくい金属ですから、そんな変化は起こしません。以上の理由でこの金塊はニセモノです」
「そ、そんな……」

 私のわかりやすい(?)講義に、村長達はがっくりと肩を落とす。

 そう、これは昔から詐欺に使われる手法で、カシミール商店の勉強会でも取りあげられた事があったのだ。
 商人相手では通用すべくはずもないが、あまりモノを知らぬ農民であれば騙くらかせる、という事だろうか。

 しかしそれにしても、こんな金塊もどきを農村の仕入れに使うなど、不自然すぎる、と疑うと思うんだけど、普通は。
 最低でも、モノを売る前に、これを街の商人の所へ持って行って調べて貰おうとか考えなかったのか?

 この世に、受け身で掴める美味い話などないんですぜ……。



「で、でもよ、これは旅の貴族様が太鼓判を押してくれたんだで?!」
「旅の、貴族、ですか?」
「おぅ、“丁度”その行商人さん達が来た時に、“たまたま”この村に立ち寄っていた貴族様が居ったんだ。そん人が『これは見事な黄金だ』って目を丸くしていたんだから間違いねえだろうがや!」
「うぅん……」

 先程とは別の村人が思いだしたように叫ぶと、エンリコは考え込むように顎に手をやる。

 成程、それで碌に確認もしないままに金だと信じ込んでしまったのか。
 それにしても、旅の貴族、ねぇ?

「おぉ、そうだった、そうだったなや!」
「おめぇらが嘘ついてんじゃねぇのかい?貴族様が嘘吐くわけねーべ!」
「いくら金が惜しいからって言っていい事と悪いことがあんぞ!」

 一人の雄叫びを皮切りに、不安を打ち消すかのように、やんややんやと村人達が騒ぎだす。

 まぁ、その気持ちは分かる。誰だって騙されたとは認めたくない物なのだ。
 ただ、それが詐欺師を蔓延らせる原因の一つだと思うんだけれども。



「ちょ、ちょっと皆さん、落ちついて……」
「これが落ちついてられるかいっ!」

 エンリコが宥めようとするが、村人達はさらにヒートアップして騒ぎたて始める。



「うっるさーいっ!」



 このままでは埒があかないと判断した私は、腹の底から出来る限りの大きな声を絞り出す。
 その耳をつんざく大音量に、村人一同だけでなく、エンリコまでもきょとんとした顔でこちらを見る。



「……はぁ。少し落ち着いて下さい。皆さんの言いたい事は分かります。しかし、私共カシミール商店はそのような嘘は決して吐きません。……商人の誇りに賭けて、誓いましょう」
「ぬ、じゃあ、無関係の貴族様が嘘を吐いているとでも言うんかい?それこそ何の得もないんじゃないんか?」
 
 私の断言に対し、村人はもっともな疑問を吐きだす。

 確かにそう。
 本当に“無関係”であればの話だが。

「その旅の貴族、とやらは一人でこの村を訪ねていたんですよね?」
「あっ、あぁ……そうだなぁ。何でも、魔法修行中の身だとか。中々の別嬪さんでな、マントも着けていたし、杖も持っていたから、間違いなく貴族だと思うけどもね、おそらく」

 私が村長に向き直って訪ねると、何とも頼りない答えが返ってきた。

 あ、怪しい……。限りなく怪しい。
 そんなに放蕩する貴族がいるんだろうか。フーゴじゃあるまいし。

 しかも女と来た。
 下級貴族、だとしてもなぁ。平民の平均賃金の5倍はあるであろう家のお嬢様がそんな事するか、普通?

「……落ちついてよく考えてみて下さい。旅の女貴族、なんてそうそう居るものじゃありません。それに、この村へのルートは、主要な街道からは外れている脇道ですから、普通、旅する人は通りませんよ」
「しかし、実際に来たんだから、そんな事いっても始まらんのじゃあ……?」
「……私が言いたいのはですね。その貴族も、行商人、いえ詐欺師達とグルなんじゃないかと。つまり元より三人組なんじゃないですかね」
「な、なぬ?!」

 そんな事は考えてもいなかったのか、ひっくり返るようにのけ反る村長。
 いや、ちょっとは人を疑おうよ……。善良すぎるのも考えものだなぁ。

 やるなら旅のメイジくらいにしとけばいいのにねぇ。でもそれじゃ、金と断じる説得力が少ないか?

「仮に、その貴族が本物だとしても、見間違えというものはありますし。とにかく、これはニセモノ、120%の確率でニセモノです!」
「む、ぐぅ。しかし……」

 事実を突きつけられると、悔しそうに顔を歪め、未だに何か言いたそうな村人達。

「落ち込まなくても大丈夫です。……その行商人達、いえ、詐欺師達は、今日もこの村に来るんでしょう?それに今まで彼らが持って行った産物も、まだ売り捌いてはいないはず、と仰っていませんでしたか?」
「おっ、おお、そうだった……!」

 ついさっき村長から聞いたばかりの事なのだが、気が動転した彼らはすっかり忘れていたらしい。
 どよどよ、と再び村人達が騒がしくなる。



「じゃあ、その時に私達と皆さんで、彼らをとっ捕まえて、荷のありかを吐かせれば……」
「ちょっと待って、アリアちゃん」
「はい?」

 私が声高に、村人達を扇動しようとした所で、エンリコから待ったがかかる。

「こういう場合は、まず組合の方に相談しないと。それに親方にも報告してからの方が……」

 エンリコの意見は至極正しい。
 それは普通であれば、当然、真っ先にするべきことである。

 しかし……。

「何を悠長な事を言ってるんです?そんな事してるうちに逃げられてしまいますよ?」

 今は非常時、緊急時なのだ。
 残念ながら今からケルンに戻っている暇はない。ここは、私達と村の人達だけで何とかするしかない。

「でも、なぁ。その行商人の人達だって、もしかしたら本当に金だと思っていたのかもしれないし……。ここはやっぱり、組合に判断を仰いだ方が」

 忘れていた。
 エンリコもまた、“善良”過ぎるんだった……。

「エンリコさん、相手に悪意があろうがなかろうが、これはれっきとした詐欺行為です。それに、相手はたった二人、多くても三人なんですから、ここで捕まえておいて、改めて組合に判断を仰げばいいのでは?」
「そ、そうかな?」
「そうですよ、多分ですけど」
「多分って。僕らは役人でも自警団でもないし、なぁ。やっぱり勝手にそういう事をするのは……」

 確かに、私達が詐欺師を捕まえる、なんていうのは、はっきりいって専門外だし、今回の業務にそんなものは含まれてはいないけれど。

 ただ、ケルンに報告に戻るとすると、一日この事態を放置してしまう事になる。

 そうなれば今回の買付は失敗、モノをまともに仕入れられなかったという結果がだけが残る。
 村人達が今回の分は産物を渡さないにしても、詐欺師達は既に大部分の産物を騙し取ってしまっているのだから。



「ですから、その余裕が無いんです!私も時間さえあるなら、組合なり、商店の主である親方に報告なり相談しますが……。詐欺師達は今日が最後なんでしたよね、この村に来るのは?」

 私が話を村長に振ると、黙って村長が頷く。村人達もそれにつられて頷いた。

「ね、今は時間が無いんですよ。ここは私達で判断するしかありません。他に手は……」
「うぅん……」

 私が捲し立てるように言うが、それでもなおエンリコは判断がつかないらしく、頭を抱えて悩み出す。

 もう!堅実なのはいいけど、慎重すぎるのが玉に瑕という奴だなぁ、エンリコは……。



「とにかく、今は身内で言い争っている場合じゃなくて、詐欺師共を……」
「……詐欺師っていうのは、おいら達のことかい、クソチビィ?」

 ドスの聞いた低い声が突然、私達の会話に割り込んで来た。

「……っ?!」

 私は声の主を探して、玄関の方に向き直る。

 何時の間にか村長宅の玄関扉が開きっぱなしになっている。
 開いた扉の向こうには、商人風の格好をした目つきの悪い二人組が、腕を組んで、不愉快そうな表情で立っていた。
 
 格好だけはそれっぽくしてあるが、私の目には彼らがまともな商人には映らなかった。
 なんというか、ヤクザな商売をする方特有の、殺気、というか瘴気というか、そういうものがピリピリと感じ取れたのだ。



「……えぇ、そうよ。ペテン師の方がよかったかしら?」

 私は大きく息を吸い込んだ後、そんな彼らの威嚇するような睨みに臆する事もなく、きっぱりとそう言い放った。





つづけ



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