━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
陸軍史あちらこちら−(83) 荒木肇
特別企画『小銃と日本人─幕府歩兵隊と幕長戦争(1)─』連載第8回 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□はじめに──幕府の西洋銃隊のおこり「歩兵組」
読者の皆さんは「だんぶくろ」という言葉をご存じだろうか。漢字では「駄荷袋」と書いたようだ。筆者が子供の頃まで、何でも入れる雑な袋のことをいった記憶がある。
幕末、1863(文久3)年のことである。江戸の街を、紺木綿の筒袖(つつそで:袂のない上着)と同じく紺木綿のシャモ袴(はかま)を穿いて、腰には脇差しのようなものを帯に通した連中が歩き回った。
シャモ袴は裾がしまっている。そのズボンがいやにだぶだぶしていたから、「だんぶくろ」と町民はあだ名をつけた。これがのちの時代になっても悪名高い「幕府歩兵」である。
悪名を高めたのは仕方がない。田舎から連れてこられた農民上がりが多かった。都会生活のルールが分からない。コンプレックスもある。兵営では厳しい訓練を受けてもいたし、故郷から離れてストレスも溜まっていたことだろう。みんな幕府旗本の知行地から、連れてこられた人たちである。屯所(とんしょ)といわれた兵舎での集団生活だった。やらされていたのは西洋銃隊の訓練である。
身分は幕臣の最下層の、その中でも最底辺の、「小揚(こあげ)に次ぐ」といわれた立場だった。「小揚」とは幕府御米蔵にいた人足である。給与は年に3両1人扶持。余談になるが、時代劇に出てくる武士への悪口、「サンピン侍」とはこれだった。旗本の家にいる若党や侍はこれが給料の相場である。
前にも書いたが裏長屋に住む職人の年収が17〜18両、よくて20両ほど。1人扶持とは1日あたり5合の米を支給されたことをいう。余録になっていたのが、米俵の間からこぼれ落ちた米を集めることで、それを米屋におろした。それでようやく喰っていた。
歩兵たちは、年に10両くらいは貰えたらしい。いや、実際は旗本領では応募者は、まずいなかったから、20両、所によっては30両などという相場も立ったという。身分は低かったけれど、小揚や黒鍬(くろくわ)といわれた幕府の土工兵より給与面では恵まれていたといっていい。
歩兵はよく酔っぱらって集団で暴れた。ふつうの日本人には馴染みがうすかったドンターク(休日)が月に6回、歩兵には与えられた。全員の3分の1ずつが「遊歩」として外出が許されていた。そうすると屯所にいたくないので、とにかく出かける。町が珍しくて仕方がない。大都会江戸は地方から見れば、異文化社会である。当時の日本人は封建社会の中でひどく差別意識が強かった。米倉人足より下の身分で、元は田舎の「どんびゃくしょう」である。冷たい目を向けたり、意地悪もしたりしただろう。
歩兵たちも、見世物小屋で木戸銭を払わない。無銭入場である。とがめれば乱暴狼藉を働く。すぐに腰の銃剣を抜いて振りまわす。鎮圧に出た警察組織の言うこともきかない。トラブルが起きれば、あっという間に仲間の歩兵が集まってきて大騒動になる。
芝居小屋の騒動では死人まで出た。酔って中に入ろうとした歩兵が木戸番に止められて暴れた。客席でも脇差(銃剣)を抜いて振りまわし、客は総立ち、我先に逃げ出そうと大騒ぎになった。市中取り締まりの武州岩槻藩の家来がやむなく抜刀し、取り押さえたら、歩兵は死んでしまった。それを聞いた歩兵たちは激高して屯所から抜けだした。およそ300人あまりが、周辺を占拠してしまった。解散させるのに、たいへんだったという。
▼幕府の大改革
1854(嘉永7)年に日米和親条約が締結された。老中首座阿部伊勢守に非常の決断をさせた。和親条約の次は貿易交渉である。つづいて無法な、武力を背景にした開港交渉をしかけてくるに違いない。ときの幕閣は、異論もなく、武装強化宣言を通した。
大船の建造を解禁する。これまで積載量1,000石(およそ排水量100トンあまり)制限を廃棄した(江戸時代独特の法運用で2,000石くらいのフネはあったが)。西洋式軍艦を購入して運用術を導入し、海軍建設の基礎を築く。防衛のため、品川や長崎に砲台をつくる。品川沖に今もある「お台場」の一部はその名残である。
江戸城下にある諸藩の藩邸での軍事教練も解禁。兵器、弾薬、銃砲の国元からの搬入も許した。伝統的な「入り鉄砲に出女」を取り締まる方針の大転換である。将軍お膝元の安寧を守るための厳重な政策が、あっさりと放棄された。絶対的な武力の力で君臨した幕府は、意外や自分から統制力を捨てたといってもいい。
もっとも、幕閣のこの決断は、やはり徳川家の絶対的優越を信じた上のものだっただろう。まだまだ、誰もが幕藩体制が崩れるなど思ってもいなかったのだ。
▼剣と槍こそ有効だと信じた講武所
「講武所風(こうぶしょふう)」という髪型があった。月代(さかやき)を狭く剃った、幕末の江戸の武士たちの流行である。新選組の近藤勇や土方歳三なども当時、大たぶさといって左右の鬢(びん)をふくらませた、こんなヘアスタイルだったという。
まず、幕臣の再訓練からだ。そう考えて、1854(安政元)年7月、幕府は武術教習所にあたる講武場(のちに所)設立委員会を発足させた。ところが、開所は翌々年にずれこんだ。安政の大地震のおかげである。
教科書などではサラリと被害規模くらいはふれられるが、実は、安政2年10月の大地震のもたらした影響は軽視できるものではなかった。建設途上の「御台場」も崩れた。いまの官庁街にあたる大名小路(だいみょうこうじ)の被害も大きく、幕府は軍事費の支出に加えて、復興資金の手当てという、弱り目に祟(たた)り目の有様になった。
では、講武所とはどんな組織で、どんな人たちが通ったのだろうか。勝海舟の『陸軍歴史』から見てみよう。とりあえず指導者から。
剣術師範では男谷(おだに)精一郎、伊庭(いば)軍兵衛、松平上総介(かずさのすけ)、榊原鍵吉、桃井(もものい)春蔵、三橋虎三、近藤弥之助、井上八郎ほかなどの大剣客。槍は高橋謙三郎(後、伊勢守、号は泥舟)、駒井半五郎などの当代一の名手。弓は小笠原鐘次郎といった名流。砲術となると、江川太郎左衛門(英敏)、下曾根金三郎、高島四郎太夫、それに勝麟太郎ほかといった洋式兵学者がずらりと並んだ。そして、戦場での格闘術の伝統をひく柔術を教える師範までいた。
退屈な方もおられるだろうが、師範役について少し解説をしたい。剣術を学んだり、幕末小説になじんだりした方には見覚え、聞き覚えのある顔ぶれであろう。
男谷は勝海舟の従兄にあたる。直心影流(じきしんかげりゅう)の遣い手で、当代一といわれた。幕府正規武官の御先手頭(おさきてかしら)を務めていた。講武場開設を早くから唱えてもいた。榊原鍵吉の師匠である。
伊庭は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)、桃井は鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)、三橋はその弟子。松平上総介は柳剛流(りゅうごうりゅう)、幕府名門の当主にして剣の名人、千葉周作の北辰一刀流からは井上八郎、本家の一刀流からも近藤弥之助という豪華な顔ぶれである。
槍では筆頭師範が、後に、「幕末の三舟(さんしゅう)」の一人だった高橋伊勢守(泥舟:でいしゅう)。将軍のボディガードも命じられた天才。ちなみに、後の2人は、ご存じ勝海舟と山岡鉄舟(てっしゅう)。こうしてみると、三舟とは武芸の達人がそろっていることがわかる。勝も道場剣術の腕前は、かなりのものである。父親も剣術は達者だったし、従兄も名人となると、金貸しだった男谷検校(けんぎょう)の血の中にそうしたDNAがあったのだろう。
とうとう幕末になって、ついに剣術や槍遣いの時代が来たといえる。西洋人は火兵(銃器)に頼り、接戦に弱い。近くに引きつけて刀や槍にものをいわせるという主張が大まじめにされた。師範役の中にも、そうした声が高かった。それまでの竹刀剣法ではない、実用的な刀術を目指す気分が猛然と湧いてきた時代でもある。
興味深いのは、アメリカ生活の経験者だったジョン・万次郎なども、幕閣の諮問に答えて、アメリカ人は拳銃を携帯するが、刀剣は持ち歩かない。稽古もしていないなどと言った。現地の経験者がいうことだ。やはり、アメリカ人は大したことはない。誰もがそう思ったことだろう。万次郎が、当時の軍隊を見てこなかった結果だろうか。
アメリカの南北戦争は1861(文久元)年から65(元治元)年まで続いたが、銃剣などによる肉迫格闘がずいぶん行われていた。野砲は榴弾(爆裂して破片効果をあげる)、榴霰弾(上空で爆発して斜め前下方に子弾をばらまく)、霰弾(散弾銃のように前方に子弾を撒く)を発射して敵歩兵や騎兵をなぎ倒した。戦場にはミニエー・ライフル銃弾が飛びかっていた。
そんな中でも、両軍の歩兵は銃剣を揃えて密集隊形で前進していたのが実態である。南軍の中には、とうとう小銃、弾薬が不足して、棍棒、スコップなどを振りかざして突撃した例もあるという。
砲術ではやはり西洋兵学を修めた人が主に集められている。江川も大曾根も蘭学者。勝海舟もまた同じ。江川は有名な反射炉を造った英龍(ひでたつ)の息子、オランダ砲術の高島も同じく徳丸原で演習をした秋帆の跡継ぎである。下曾根は「持頭(もちがしら:持弓、持筒などの指揮官)」といわれた将軍直属の正規武官である「持筒頭(もちづつがしら:親衛銃隊長)」だった。彼も高島流の西洋砲術を学んでいた。
▼誰が稽古をさせられたか、そして実態
とにかく、法令によれば、幕府のサムライ全員が生徒である。寄合(よりあい:おおむね2,000石以上の無役)、御番衆(両番といわれた小姓番、書院番などの親衛隊士、他に大番、新番、小十人などの正規武官)、小普請(こぶしん:無役の旗本・御家人)、各部局の役人(つまり文官)、布衣(朝廷6位相当官の高級旗本)以上・以下、惣領(跡継ぎ)次・三男、厄介(やっかい:当主の世話になっている叔父など)、諸組同心まで、日割りで訓練するとある。もちろん、出席は義務だった。
さらには、成績評価にあたっては実力主義をとる。無役の者も成績が良ければ番入りもできるだろう。次・三男でも番入りにするし、厄介でも別に家禄を支給するだろう。その代わり、出席しない、出てきても真面目に努力しない者は処罰するというのだ。
また、稽古は「形稽古」ではなく、「試合稽古」をせよ。剣術も「型」ばかりではなく、実際に竹刀で撃ちあって勝負を決するがいい。
そして、西洋流の銃術だが、射撃場(当時は角場といった)の規格が興味深い。15間(約27メートル)、30間(同54.5メートル)、そして1町(同109メートル)となっていた。前装式ゲベール銃の実用射程と重なっている。もちろん、訓練用の火薬や銃弾は官給する。
習ったのはオランダ式の銃隊教練である。兵隊になったことがない人には、何が辛いといって、鉄砲を持たされることの辛さが、まず絶対に分からない。重さ4キロである。長さは140センチをこえている。これをいつでも手放すことがない。号令のもとに一斉に動作を合わせて、肩にかつぐ、おろす、構える、歩く、装填をする。旧軍人も、今の防衛大学校学生も、新しく入隊した自衛隊員も、みな口を揃えるのが執銃訓練の辛さである。
のんびり暮らしてきた幕府の旗本、御家人の多くも、銃隊教練には閉口した。いや、ほとんどが、その苦しさに嫌気がさした。地面に寝ころび、立ち上がり、走る。走ることだけでも苦しかったことだろう。サムライたちは、いわゆる「ナンバ」走りしかできなかったからだ。日本人の誰もが、いまのような歩き方、走り方をするようになったのは、歴史上ではごく最近にしかすぎない。小学校入学前の教育も整い、就学してからも体育で訓練されているからだ。
日本映画では『隠し剣 鬼の爪』という好作品があった。原作とはいささか異なったストーリーになったが、幕末の洋式兵制の採用が描かれていた。その中で、主人公も含めて徒士たちの苦労がよくわかる映像があった。
幕臣の多くは稽古への出席を嫌がり、銃の操作を覚えるくらいで、あとの身体を動かす訓練はほとんどできなかった。
▼「歩兵組」ができた文久の軍制改革案
将来は国民軍だが、今はとりあえず、将軍の親衛隊をつくろう。
1862(文久元)年6月、軍制改革の上申が出された。『全国御備えの儀は暫く置き』という。この「全国御備え」というのが国民軍ということになるだろう。もともと西欧諸国では、王の親衛兵力は少ないというのが上申者の認識である。本邦のような封建制度では、諸侯が兵力をますます増やすかも知れない。だから、バランスを失うかもしれないが、とりあえず、徳川将軍の親衛隊を強化しよう。こうした意見である。
『陸軍歴史』の中に、このときの編制案が載っている。
兵種は3つ、それぞれ軽・重に分けた歩兵・騎兵・砲兵である。重歩兵は6個連隊、各連隊は2個大隊編成。これの徴集源は『兵賦(へいぶ)』といわれた旗本たちに割り当てられた差し出し人員である。500石は1人、1,000石は3人、3,000石は10人を知行地から集めてこいというようになった。これが「だんぶくろ」の正体である。
軽歩兵は、お目見え以下の幕臣で執銃なのに帯刀し、機動兵力。中でものちに、「先鋒(せんぽう)」といわれた隊員は「撤兵(さっぺい)」とも称された。親衛狙撃隊といわれた800名あまりの4個大隊は、旗本である小十人組(ただし騎乗はしない)、富士見宝蔵番、天守番、徒士組などの御家人たちの正規武官(下士官級:ただし徒歩兵)から集められた。
重騎兵は6エスカドロン(騎兵中隊)で576騎。お目見え以上、あるいは諸組与力で騎兵銃携行。軽騎兵は2個中隊、192騎で短槍をもつ。身分はやはり、お目見え以上。
重野砲兵は12斤砲と12拇(ドイム)ホーイッスル砲(榴弾砲のこと)、軽野砲兵は6斤砲と、やはり同前の榴弾砲を装備する。重は固定砲座であり、江戸城外郭諸門を守備する。軽は機動運用し、一部は騎砲兵にする。人員は諸組同心(足軽にあたる:卒)をあてるとある。
封建身分制を残していくと、どうしてもこうなる。誇り高き旗本は騎乗の士にしなくてはならない。軽歩兵は帯刀するのが権利である。銃剣のみで戦えとは誰も言えなかった。
西欧の騎兵とは、乗馬突撃もするが、徒歩戦では小銃手としても戦う存在である。これが、なかなか徹底出来ない。個人的な勇武を要求された戦国時代の騎馬武者のイメージが誰にもあったからだ。
戦国時代、江戸時代を通じて編制を踏襲した諸藩の騎馬武者には2種類あった。1つは「物主(ものぬし)」といわれた「お殿様」である。これは独自の知行地を持ち、自分の家来を抱えている者。ご領主様であり、規模の大小はあっても、武士団の長である。
もう1つは、物主に従う騎馬に乗った、その家来である。これは、物主個人の家来であり、軍役規定にも数が決められていた。500石も取る旗本の殿様は、騎馬2騎を従える規定になっていた。これは殿様のボディガードであり、勝手な戦闘は許されない。
それに対して、西欧流の騎兵とは、隊長の統制に服し、密集して騎馬突撃をし、偵察、連絡などを任務とする。明治になって反政府言論人として立場を貫いた成島惟弘(なるしま・これひろ:柳北の号で知られる:1837〜1884)は幕府奥儒者の出身だが、幕府最末期には騎兵頭(騎兵大佐相当)になり、近代騎兵の創設には多くの苦労をした。隊員の意識改革が何よりの課題だったのだ。
▼文久頃の歩兵隊経費
歩兵は四ヵ所に駐屯した。西の丸下(霞ヶ関)、大手前(大手町)、小川町(神田小川町)、三番町(靖国神社)である。そこには1小隊40人が共同生活する長屋が建てられた。1大隊は800人だから、生活隊舎だけで20棟が必要だった。それに炊事場や弾薬庫、銃などの修理工場、装具を備蓄する建物や、その他、さまざまなバラックが建ち並んだ。
森田武氏によれば、文久3年の陸軍入用(経費)は合計146,000両、銃砲製造費が120,000両、各種建設費には48,000両が記録されている。これを米価で換算して、1両40,000円で研究者などは紹介している。それぞれ58億4千万円、48億円、19億2千万円になって、いまの実感からではあまりに低価格になってしまう。60億円では、武装ヘリ1機も買えない。庶民が使うジャンボジェット機でも100億円くらいがふつうである。
現代では、米が物価、とりわけ庶民の感覚の基準にはなりにくくなっている。学者は、この数字を挙げて、『軍備は金がかかる』と結論づけられるが、どれくらい実感を持たれて語られているのだろうか。
筆者は、幕末期には、江戸や大坂の町民の平均が年収20両くらいと考えている。豊かな職人一家が月に2両も収入があると上層といわれた。現在の平均が一世帯年収およそ500万円とする。たしかに、下層の人の割合は、いまと比べれば、ひどく高かった。
しかし、ふつうに考えれば、「100俵6人泣き暮らし」などと言われた小十人組の生活実感は、年収35両=140万円と見るより、年収875万円の方が近いと思われる。なんだ、900万円近くで「泣き暮らし」は嘘くさいなどと思わない方がいい。彼らの武装も、格式を維持するための経費もぜんぶ入っているのだ。下女や中間などの人件費もかかる。当主夫妻、老親夫婦、子供2人で合計6人。それに最低でも下女1人、草履取りに小者・中間が必要である。いかがだろうか。
1両約6,000文とみて、1文銭は40円。16文のソバが640円。なんとなく生活実感に近くないだろうか。
筆者は、この計算法、2両=50万円から、生活実感から見た値段で、1両=25万円を採っている。今後も、銃器の値段などでは、それを採用させていただきたい。
▼歩兵隊調練
装備はゲベール銃だった。前装式円弾、発火は雷管式。まず、最初は、銃を持たせない。いまでいう各個教練である。直立不動の姿勢から始まる。膝が伸びない、前かがみになって胸が張れない。歩き出せば右手と右足が同時に出てしまう。これも当然のことである。幼い頃から農作業を手伝い、身体が固まる頃にはすっかり農民らしい体つきができあがっている。鍬をふるう姿を考えてみよう。前のめりになって、膝を曲げ、右手が前、右足は前であろう。
死語になったが、膝の裏を「ひかがみ」という。昭和になっても、陸軍では「ひかがみを伸ばされた」という言葉があった。ひどく叱られるという意味である。直立不動の姿勢を取らせられて、説教された時などに使った。
昭和になっても、兵卒の多くは農民だった。江戸の歩兵は、まず、近代的な身体に変えなくては兵隊にはなれなかったのである。
「かしらあー、右!」の号令で、小隊全員が顔だけ右を向く。指揮官を確認することから始まったといわれる。「なおれ!」で元に戻す。「小隊、前へ進めっ!」で前進するが、このとき必ず左足から踏み出す。いまの学校でも、あまり熱心ではないが、一応、行進は左足から出すようにさせている。旧陸軍からの伝統で、手の平は開いて真っすぐ振り出す。ちなみに自衛隊は、アメリカ式で手はグーである。
足の歩幅は75センチ、速さは毎分75歩になる。速歩は110歩。駆け足は歩幅90センチ、歩数は150歩である。時速に直せば、それぞれ、約3.4キロ、4.95キロ、8.1キロになる。これが西洋タイプ近代兵士の基本である。
4キロの銃をもち、1キロの銃剣(全長60センチもある)をさげ、胴乱(弾薬盒)には重い実弾をこめ、ランドセル(背嚢)を背負い、このスピードで歩き、走る苦労を想像されたい。ふつうの日本人は走ることなど、めったになかったのである。
号令通りに、整列、行進、前進、後退、停止、斜め行進などができるようになって初めて銃が渡される。
□ご挨拶
歩兵隊の最初の戦場、「天狗党の乱」、そして「幕長戦争」までたどり着けるかと思いましたが、第1回のシリーズはこれまでとなりました。
今回で、「軍事情報」に掲載いただいた8回の特別企画は、一応の終わりに致します。また、資料を集め、諸大家の研究成果も下敷きにした「小銃と日本人」を続けて書いています。2カ月間、応援、ご教示、まことにありがとうございました。再開されましたら、よろしくお願い致します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━
◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
|
2010-09-29 08:59
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(1) |
|
自衛隊 /
荒木 肇 先生 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1523/
私の高校の二年年下の 後輩である女性が
北朝鮮に拉致されたまま、戻ってきていません。
私と同じ高校に同じ時期 通っていました。
そして私と同じように同じ電車に乗り、
阪神〜神戸方面の大学に通っていた女性です
もしかしたら、私が拉致されていたかもしれないのです
私が、日本で子育てもし、仕事もし、親とも旅行したり
幸せに何十年も暮らしている間、彼女は
親にも会えないで、孤独に北朝鮮で苦しい日々をすごしているのです
彼女のかけがえのない人生数十年、
ご両親の数十年はかえってこないのです
こんな理不尽な事、あっていいのでしょうか!!
絶対に許すことはできません
三宅博先生の取り組んでおられる
特定失踪者問題調査会の最初で最後の大規模アピール集会が
行われます!!
秋田美輪さんのご両親もご参加なさると
三宅先生にお聞きしました
(今、現在は徳島に住んでいらっしゃいます)
北朝鮮による
拉致被害者救出のための集い
〜拉致被害者・特定失踪者問題へ
理解と関心を〜(仮称)
特定失踪者問題調査会
http://www.chosa-kai.jp/index2.html
●開催日時
平成22年10月23日(土)
式 典 13時30分〜16時30分
展 示 10時00分頃〜17時00分
●会場(東京都庁前)
式典:都民ステージ 展示・ワークショップ:都民広場
●主催者
東京都(予定)、都議会拉致議連(予定)、特定失踪者問題調査会
●来賓要請予定
内閣総理大臣、拉致問題担当大臣、国会議員(拉致議連)、知事、家族会、救う会ほか
●展 示・ワークショップ
◇写真パネル展示他
拉致被害者パネル・特定失踪者パネル展示(東京都提供)
特定失踪者パネル展示(調査会提供)
都ポスター「東京へ、帰せ!」展示 、国ポスター展示
ビデオ放映(「めぐみ」、「しおかぜ」等)調査会のグッズ展示・販売
◇展示ブース
しおかぜ収録、水中スクーター、バルーン展示(調査会予定)
各協力団体(しおかぜネットワークほか)による展示ブース等
協力団体
有本ご夫妻を支援する大阪の会、映像教育研究会、大澤孝司さんと再会を果たす会、河嶋功一君を探す会、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(※)、北朝鮮人権委員会、北朝鮮難民救援基金(※)、北朝鮮による拉致と人権問題に取り組む法律家の会(※)、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(※)、埼玉しおかぜの会、桜応援団、35生島孝子を救う会、救う会愛知、救う会いばらき、救う会えひめ、救う会神奈川、救う会高知、救う会埼玉、救う会埼玉東部の会、救う会三重、東京ブルーリボンの会、中村三奈子さんを探す会、名古屋ブルーリボンの会、日本映画ファンしおかぜの会、日本青少年、古川了子さんの救出を支援する会、町田救う会、民社人権会議、山本美保さんの家族を支援する会、UIゼンセン同盟ヤングリーブス(※)、予備役ブルーリボンの会、拉致被害者を救うコスモスの会、ワシントンDCらち連絡会、ほか有志の皆さん(8月25日現在)
「秋田美輪さんの早期帰国を願う会」 ホームページより
http://save-akitamiwa.com/top.html
知ってください、
北朝鮮に拉致されたとされる、ひとりの女子大学生のことを
今から25年前の1985年12月4日、一人の女子大学生が兵庫県神戸市の街から忽然と失踪しました。女性の名前は秋田美輪さん。神戸松蔭女子学院大学の文学部国文科に在学中で、当時まだ21歳でした。
その日、秋田美輪さんは大学の学食で友人と食事をし、午後1時過ぎに校門付近で別れたあと、その晩8時過ぎに自宅へ「友人宅に泊まる」と電話があってから、消息不明となりました。そして翌日、秋田さんのハンドバッグと靴が秋田さんと何ら接点のない、神戸から120km離れた日本海側の海岸で発見されました。
靴は波打ち際まで5メートルほどの場所に置かれてあり、そこから海に入って行くかのように、足跡が残っていました。地元の警察は当初、自殺の可能性を疑い、付近の海中を調べましたが、手掛かりは何も見つかりませんでした。のちに学内調査も行われましたが、自殺の動機となるような証拠や証言は何ひとつ出てきませんでした。
そして、その後の警察などの調査過程で明らかになったいくつかの不審点から、海岸に残された遺留品や足跡は、秋田さんを自殺と見せかけるための偽装工作であったという見解に結びつきました。その偽装工作を施したとされているのは、日本人を拉致するために北朝鮮から忍び寄ってきたと見られる、拉致実行犯の工作員たち。
これらのことから秋田美輪さんは北朝鮮に拉致されたとされ、日本国政府が拉致被害者認定をした17名のほかに、やはり拉致の可能性が認められる人たち、すなわち特定失踪者の認定を受けるにいたりました。
※現在日本の特定失踪者の方々は、全国で約470名いるとされています。(平成22年3月現在)
その残酷な現実
拉致という北朝鮮の犯した事件が、罪のないひとりの女性から、そのかけがえのない人生を奪い去りました。秋田さんは今この瞬間も、「帰りたい、日本へ帰りたい…」そう心の中で叫んでいるに違いありません。そして拉致は事件の被害者だけでなく、肉親や恋人、友人たちとの絆(きずな)を引き裂くという残酷な現実をもたらしています。
秋田美輪さんのご両親とそのご家族は、途方もなく長い時間をずっと、悲しみと苦しみを抱いたまま美輪さんの帰りを待ち続けています。拉致は北朝鮮という国の指導者らが工作員を使い、自分たちの都合で他国の生命と財産である国民を奪うことを目的とした、卑劣な犯罪行為です。そしてその犯罪は、今もなお続いています。
事件の行方〜父正一郎さんのお話から
秋田美輪さんは全国の特定失踪者の中でも、とくに拉致に遭った可能性が濃厚な1000番台特定失踪者です。
事件当時の経過
秋田美輪さんが失踪した翌日、遺留品が見つかったことから、美輪さんのお母さん嶺子さんのもとに警察から連絡がありました。当時、徳島に単身赴任中だったお父さんの正一郎さんは、嶺子さんからの連絡を受けて、一緒に美輪さんの遺留品が見つかった現場の兵庫県竹野町(現豊岡市竹野町)の弁天浜に向かいました。到着した現場でふたりが見たものは、沖合いに停泊する巡視船、アクアラングを背負った数名の捜査員、そして海岸周りの小山の近辺を山狩りする消防団員たちでした。この大掛かりな捜査は翌日も続けられましたが、美輪さんの発見に繋がる手掛かりは何も見つかりませんでした。結局、証拠らしい証拠が発見されることがなかったため、秋田美輪さんは行方不明者として処理されました。
いくつかの疑問点
けれども秋田美輪さんを行方不明とするには、あまりにも不自然ないくつかの疑問点が残されています。まず、残された美輪さんのバックの中には急行券がありました。この急行券の使用距離範囲は大阪駅から150km。これではせいぜい城之崎までしか行けず、弁天浜までは30km程度足りません。さらにこの急行券は、当時の改札口を通過したことを示すはさみの切り込みや、検札したことを証明するハンコが入っておらず、未使用のままでした。また、財布の中には定期代の1万8千円がそのまま残っていました。そして神戸松蔭女子学院大学内の美輪さんのロッカーの中から、失踪した日の数日後に提出することになっていたレポートが発見されます。これらは状況証拠に過ぎませんが、それでも、たんなる自殺や行方不明者として考えるには疑問を持たざるを得ません。
救出活動の日々
秋田美輪さんが失踪してから週間の間、父正一郎さんは、竹野や城之崎の駅やバス停付近で、美輪さんの写真を手に、学生さんや通勤されている人たちに聞き込みを行いましたが、目撃者はいませんでした。やがて捜査は打ち切られ、遺留品はすべてご両親のもとに返却されます。単なる行方不明ではないと思った正一郎さんは、警察に再捜査をお願いしに行きます。しかし何度行っても、警察は耳を貸そうとはしてくれません。そうして最終的に再捜査が行われたのは、秋田美輪さんが失踪してから2年後のことでした。
警察への再捜査の依頼と並行して、美輪さんのご両親は、毎年月上旬にある行方不明者の相談会に足を運び、美輪さんと同じ年ごろの全国の漂流死体や怪死事件の遺体を見て回りましたが、該当する者はいませんでした。小泉元首相が最初に北朝鮮を訪問した2002年の11月、正一郎さんと嶺子さんは兵庫県警に、容疑者不詳のまま告発状を提出しました。政府に対して、拉致事件として最初から捜査をやり直してほしいとの思いからです。それにもかかわらず、現在も美輪さんは、未だ日本国政府から拉致被害者として認定されることなく、美輪さんのご家族はたたかい続けているのです。
|
2010-09-29 01:56
|
記事へ |
トラックバック(4) |
|
拉致問題 /
北朝鮮 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1520/
全国の自治体は那覇議会に続け!!
拉致問題、北朝鮮ミサイル問題、今回の領土問題は
自治体からも 抗議議決を!!
今回の事件は来年への中国の予行演習であり、
日本の対応、日本人の反応、どう攻撃・抗議してくるか
外交は?経済は?などを見るための
来年 5月・6月・7月にかけての襲撃前シュミレーションである
尖閣を襲う中華の高波
五月三日付「産経新聞」は、日本固有の領土である尖閣諸島(中国名・釣魚島)に対し、領有権を主張する台湾団体「中華保釣(尖閣防衛)協会」が世界各地の華人団体を結集し、世界中から船などで同島上陸を目指す「全球保釣大同盟」を結成する計画を推進していると報じた。一九七二(昭和四十七)年の沖縄返還に伴い、アメリカから日本へ尖閣諸島の施政権が返還されてから四十年となる来年七月十六日に合わせ、傘下団体に同諸島上陸を呼びかけるという。
尖閣諸島は沖縄の南、八重山列島・石垣島の北北西に浮かぶ小群島で、総面積は皇居前広場の十一倍に過ぎない。明治二十年代に古賀辰四郎・善次父子が開拓に乗り出し、島に群棲(せい)する海鳥の羽毛収集をはじめ様々な事業を手がけ、最盛期には二〇〇人を越える従業者が鰹節生産に従事した。しかし昭和十五(一九四〇)年、燃料不足で古賀商会が撤退してからは無人島となっていた。ところが、一九六八(昭和四十三)年に調査で同海域には大量の石油資源が存在することが確認されるや、それまで全く無関心だった中国と台湾は、自国の地図や公文書を改竄(ざん)までして領有権を主張するようになり、日中平和友好条約締結直前の一九七八(昭和五十三)年には、百隻を越える中国武装漁船団が五日間も同海域に居座るという事件も発生した。
この事態に日本政府と自民党は危機感をもったが、中国の反発を恐れ何の対抗措置もとらなかった。しかるに日本最大の右翼団体とされる日本青年社は日中条約締結当日、同諸島最大の魚釣島に建設した灯台に点灯し、十年後にはその建て替え灯台、また一九九六(平成八)年には北小島に二基、合計四基の灯台を建設し、二十六年間これを保守管理し、二〇〇五(平成十七)年には小泉内閣の要請でこれを国家に移譲した。この間の一九九六年には、香港の活動家が同海域での抗議活動中に海に飛び込み溺死したり、同年と二〇〇四年には台湾人や中国人が海上保安庁の警備をかいくぐって魚釣島に上陸し、国旗などを振り回し、領有権を誇示する事件を起している。
最近、中国海軍の外洋進出は著しく、四月十日には十隻からなる中国艦隊が沖縄本島と宮古島の間を通過して太平洋に出て、これも日本領の沖ノ鳥島付近で訓練をしたのち東シナ海に帰還したが、航海の行きと帰りの二回、中国艦搭載のヘリコプターが海上自衛隊の護衛艦に異常接近するという挑発行為を行った。さらに日本政府の抗議に対し「日本の監視活動に対する必要な防衛措置だ」「中国の艦艇が、さらに多く頻繁に外洋に出ることに日本は順応すべきだ」と開き直る有様で、いよいよ尖閣諸島をめぐる官・民あげての日中決戦の日は近い。(平成二十二年五月十四日)
政治学者 殿岡昭郎
★来年6月17日ニセ民間人を上陸させる支那人民解放軍
平成22年9月13元警視庁通訳捜査官=坂東忠信。頑張れ日本全国行動委員会。有楽町交通会館前にて
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-11225522
9.18釣魚台領土回復旗揚げ大会主催委員会
http://ameblo.jp/dominionsdevotion/entry-10589827204.html
今年4月21日に「中華保釣協会」が発信した「918収復釣魚大領土昇旗大会」によると、アメリカ中華商会とアメリカの台湾大学校友会聯合は、「台湾中華保釣聯合会」「北京海外学人センター」「中国民間保釣聯合会」「中国台湾ネット」「中央電視台網站」「海峡論壇」「香港保釣行動委員会」「保釣大聯盟」「アメリカ中華商会」「アメリカ台湾大学校友会」「海峡飛虹」「毓祥行動小組」「中国台湾ネット」「海峡之声広播電台」に呼びかけて、「918収復釣魚台領土昇旗大会主●委員会(9.18釣魚台領土回復旗揚げ大会主催委員会)」を立ち上げようとしています。
そして、今年9月18日、ロサンゼルスのAnaheim会議センターで会議を開き、世界全土の尖閣諸島領土回復を支持する組織代表を招き、学者や専門家と企業トップが出席する「旗揚げ大会(昇旗大会)」開催を計画。
「いかにして中華民族が団結し釣魚台領有を回復するか」や「2012年に釣魚台領土回復するための全人民大選年」を提案し、全世界華人ネットワークの一大連署をもって、台湾から一人の「智恵ある釣魚台回復のための総統(有智慧収復釣魚台領土的総統)」を選出、中華民族大団結の歴史的任務を完成させる、としています。
そしてそのための方法が以下のように具体的に策定されています。
1 釣魚台領土回復にはまず中国人の団結が必要であり、
優れた中華民族文化をもって、
領土回復の使命を成し遂げねばならない。
第一の工作としてはまず、全世界で華人がそれぞれに
「釣魚台回復宣伝文化行動班」を設立すべきである。
これをもって各地で行動班による文化宣伝活動を展開する。
2 私たちは関係組織を招待し協力して
「2010年9月18日ロサンゼルス全世界華人釣魚台回復旗揚げ大会」
を挙行し、これをもって「2012年釣魚台回復大選年」の
大きな旗を掲げる。
この「使命大旗」は全世界華人の大団結であり、
同時に全世界の華人支持による力で、台湾から一人の
「智恵ある釣魚台回復のための総統
(有智恵収復釣魚台領土的総統)」を選出する。
3 「全世界華人釣魚台回復旗揚げ表明大会」の中で、
外交事務・民族団結事務・領土防衛事務・教育延長事務などの
専門的課題研究討論会議を個別に成立させる。
4 「大旗組織」を打ち立てる前に、
アメリカ台湾大学校友会とアメリカ中華商会を発起人として
「全世界華人釣魚台回復ネットワークステーション
(全球華人収復釣魚台網站)」を設立、
これをもって「918大会」招待開催前の連絡ターミナルとする。
http://snowdrop.iza.ne.jp/blog/entry/1796009/
尖閣衝突 抗議決議へ 那覇議会、
県内で初
沖縄タイムズ http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-09-17_10302/
尖閣諸島周辺で起きた海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件に対して、那覇市議会(金城徹議長)は16日に開いた議会運営委員会で、抗議決議と意見書案の調整に入った。開会中の9月定例会に提案、全会一致で可決される見通し。県内では初めてと見られる。
現時点での文案では、今回の事件のほか、周辺海域では中国漁船が違法操業を繰り返していると指摘している。現状のままでは日本漁船の安全が確保されないとの憂慮から、政府には中国への抗議や再発防止を促すよう訴えている。管轄の第11管区海上保安本部には警備態勢の強化などを求める。一部の会派が所属議員に周知するため持ち帰り、17日の同委員会で文案調整などを詰める。
中国人船長に刑事罰科せば「大きな嵐が起きる」 一部中国紙 (1/2ページ)
2010.9.19 18:37
このニュースのトピックス:領土問題
【北京=矢板明夫】19日付の中国共産党機関紙、人民日報傘下の国際情報紙、環球時報は、沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)周辺での中国漁船衝突事件で、公務執行妨害の疑いで日本側が逮捕し、勾留(こうりゅう)期限を延長した中国人船長について「日本が船長に刑事罰を科せば、中日関係にはさらに大きな嵐が起こる」と警告した。また、中国軍の羅援少将は中国系香港紙「文匯報」(電子版)で、軍事介入の可能性に言及し日本側を強く牽制(けんせい)した。
環球時報は、中国各地で18日に起こった反日デモを一面トップで報じた。デモで日本大使館への投石など暴力行為がなかったことを評価し、「中国民衆は日本に弱みを握られなかった」と強調した。
2005年に起こった大規模な反日デモの際には、日本料理店の窓ガラスが割られ、日本人への暴行事件が各地で相次いだ。中国当局は今回、暴力行為が発生し、国際社会での中国のイメージが低下することを懸念していたとみられる。
また、同紙は日本問題専門家の言葉を引用する形で「船長に対し(日本が)懲役などの刑事罰を科すことは、中国は絶対に受け入れられない」と強調した。
沖縄・尖閣諸島周辺の日本の領海内で、海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突した事件で、中国側が一層反発を強めたのは、公務執行妨害容疑で逮捕された漁船船長の勾留(こうりゅう)が10日間延長されたからだ。ただ、捜査すべき点が残っていれば、勾留延長の請求をするのは日本側からすれば当然の措置。検察当局は「法と証拠に基づいて厳正に処分する」(検察幹部)として、船長を起訴する方向で検討しているとされる。
海保関係者によると、日本の領海内で起きた外国漁船の違法操業の場合、巡視船による警告で領海外へ追い払うのが一般的。外国人漁業規制法違反容疑などで立件したとしても、略式起訴・罰金刑で終わるのが大半で、勾留されるケース自体が極めて異例だ。
なぜ今回、漁船船長は逮捕、勾留された上、10日間の勾留延長となったのか。
海保の巡視船「よなくに」は7日、中国漁船に対し、領海から立ち去るよう警告したが、漁船はよなくにに接触して逃走。海保は漁業法に基づく立ち入り検査を行おうと無線などで再三にわたり停船を呼びかけたが、漁船は逃走を続け、さらに別の巡視船「みずき」に船体を衝突させた。これが意図的な海上保安官の立ち入り検査妨害だとして公務執行妨害容疑で漁船船長は逮捕された。
「中国船長の逮捕・勾留は当然」 尖閣沖衝突で識者 (1/2ページ)
2010.9.21 00:42
沖縄・尖閣諸島周辺の日本の領海内で、海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突した事件で、中国側が一層反発を強めたのは、公務執行妨害容疑で逮捕された漁船船長の勾留(こうりゅう)が10日間延長されたからだ。ただ、捜査すべき点が残っていれば、勾留延長の請求をするのは日本側からすれば当然の措置。検察当局は「法と証拠に基づいて厳正に処分する」(検察幹部)として、船長を起訴する方向で検討しているとされる。
海保関係者によると、日本の領海内で起きた外国漁船の違法操業の場合、巡視船による警告で領海外へ追い払うのが一般的。外国人漁業規制法違反容疑などで立件したとしても、略式起訴・罰金刑で終わるのが大半で、勾留されるケース自体が極めて異例だ。
なぜ今回、漁船船長は逮捕、勾留された上、10日間の勾留延長となったのか。
海保の巡視船「よなくに」は7日、中国漁船に対し、領海から立ち去るよう警告したが、漁船はよなくにに接触して逃走。海保は漁業法に基づく立ち入り検査を行おうと無線などで再三にわたり停船を呼びかけたが、漁船は逃走を続け、さらに別の巡視船「みずき」に船体を衝突させた。これが意図的な海上保安官の立ち入り検査妨害だとして公務執行妨害容疑で漁船船長は逮捕された。
証拠となったのは接触の様子を撮影した映像だ。左前方を走るみずきに対し、漁船が徐々に左へ寄せていき、衝突する様子が映っているという。海保関係者は「少なくとも避けようとした様子はない」と説明し、漁船の行為が悪質だったことを強調。中国への反論や国際社会にアピールするために映像を公開すべきだとの声もあがっている。
元最高検検事の土本武司筑波大名誉教授(刑法)は「漁船を衝突させる行為は最悪の場合、巡視船が航行不能に陥る危険性もあり、公務執行妨害の程度が大きい。悪質性の観点からも逮捕・勾留は適切で当然の判断。日本は法に基づき毅然(きぜん)とした措置を取るという姿勢を示した」と指摘する。
勾留延長については「延長したということは捜査すべき点が残っているということであり、検察当局は略式処分ではなく、公判請求(起訴)を視野に入れている可能性がある」とみる。
一般的に、容疑者が取り調べに非協力的であったり、完全に黙秘するなどした場合、捜査すべき点が残るケースは多い。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100921/chn1009210044002-n1.htm5
|
2010-09-29 01:55
|
記事へ |
トラックバック(5) |
|
尖閣諸島 /
日本シルクロード科学倶楽部 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1521/
2010-09-29 01:50
|
記事へ |
コメント(1) |
トラックバック(0) |
|
【Team関西】 /
政治 /
日本シルクロード科学倶楽部 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1429/
作者さんからのメッセージです→
この動画を編集中に京都勧進橋公園の件でのまさかの逮捕騒動を知り驚きましたが、在特会会長が述べて
おられるように事の原因を作った朝鮮学校側にもし何のお咎めもないとすれば、これほどの不当対応はない
でしょう。
拘留されている関西四天王の方々をはじめチーム関西の皆様の正義を信じ、その勇気ある行動に敬意を表する
一市民として、励ましの言葉を贈らせていただきます。チーム関西の皆さん頑張って下さい!
おつるは4分40秒ごろから登場
美化していただきすぎ その直後に四天王登場です
作者さん、ありがとうございます
おまけ・・・懐かしの動画です
在特会関西支部応援動画
こちらも懐かしの・・・四天王がテロリストからおつるを守って下さったのです
注)工作員のコメント多いです
1月30日 カトリック正義と平和協議会・外キ協による政治集会に抗議 @
|
2010-09-29 01:40
|
記事へ |
コメント(4) |
トラックバック(0) |
|
新レインボーマン |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1492/
札幌医科大学 高田純教授 ブログより
国際会議 第10回アジア・太平洋災害医学学会での報告
8月26−28日、札幌にて、浅井康文教授が大会長となり、
第10回アジア・太平洋災害医学学会が開催されました。
北海道知事・高橋はるみ氏、参議院議員・橋本聖子氏ら多くの歓迎を
受け、アジア・太平洋地域の災害医学が真剣に討議されました。
火山、地震、津波、テロ、暴力に関して、各国の取り組み、国際協力、教育問題で、有意義な会議となりました。感謝。
http://www.apcdm10.jp/
高田純札幌医科大学教授は、
東トルキスタンでの中国による核爆発災害の調査報告を発表し、
世界が知らない未曾有の災害、
観光者の健康被害の問題の存在をアピールしました。
しかも親日・親ウイグルの会議参加者に、
「中国の核実験」英語ウイグル語翻訳版が手渡しできました。
2008年以来、シルクロードでの核爆発災害の科学を、
高田は4国際会議での報告を試みましたが、その内、2回妨害を受け
ています。二つとも、論文の口頭発表が受理されてからの排除で、
通常では考えられないやり方です。
両方とも、会議委員のなかにチャイニーズが存在しています。
災害科学として、堂々と、チャイナも科学的に報告すべきこと。
それを、政治問題化し、妨害するとはけしからん。
チャイナは世界三位の核兵器大国ですが、米ソのように、核実験の
科学報告をせず、問題を隠ぺいしています。
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/post_d125.html
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/post_5f50.h
|
2010-09-29 01:38
|
記事へ |
コメント(3) |
トラックバック(0) |
|
日本シルクロード科学倶楽部 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1506/
朝鮮学校無償化、家族会が反対集会 「解決に妨げ」「税金の使用許せない」
産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100829/kor1008292221010-n1.htm
2010.8.29 22:19
拉致被害者の家族会や支援組織「救う会」が29日、政府が検討している朝鮮学校への高校授業料無償化適用に反対する集会を東京都内で開き、「無償化すれば、拉致問題をはじめ、北朝鮮の主権・人権侵害問題の解決に大きな妨げになる」と訴えた。
集会では、朝鮮学校出身の北朝鮮問題専門家らがパネルディスカッションし、故金日成主席と金正日総書記を礼賛する思想教育が行われ、生徒を政治動員している実態が報告された。
田口八重子さん=拉致当時(22)=の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(72)は「無償化すれば、制裁をしている北朝鮮を支援することになり、矛盾を感じる」。田口さんの別の兄の本間勝(まさる)さん(66)は「拉致問題は政府の最重要課題なはずで、無償化も実態を踏まえてきちんと“事業仕分け”してもらいたい」と訴えた。
横田めぐみさん=同(13)=の母、早紀江さん(74)は「拉致被害者も洗脳を受けさせられる。人間の価値観を麻痺(まひ)させる教育に国民の税金が使われることは許せない」と話した。朝鮮学校無償化問題では、民主党内でも批判があり、政府は党内で協議した上で結論を出す見通し。
********************************
拉致被害者の家族会や支援組織「救う会」が、反対していらっしゃるのに、絶対 無償化しちゃだめですよ!!
無償化を強行したら
世界最悪の人権蹂躙政権として、
世間の批判を浴び、
もう衆議院議員選挙も終わりだよ
これでもし、無償化決定したら・・
|
2010-09-29 01:38
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
【Team関西】 /
在特会 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1509/
朝鮮学校無償化で拉致問題 家族会・救う会が無償化反対の要請文
朝鮮学校の高校無償化問題にからみ、拉致被害者の家族会・救う会が文部科学省と政府の拉致対策本部を訪れ、「拉致問題への悪影響が議論されないまま、高校無償化が決定されてはならない」とする要請文を提出しました。
「救う会」が朝鮮学校無償化見送りを要請 「北朝鮮を利するだけ」
2010.8.25 22:20
朝鮮学校無償化適用に反対する要請文を政府に提出した後、報道陣の取材に応える拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表(右)=25日、内閣府 朝鮮学校への高校授業料無償化の適用を政府が検討している問題で、拉致被害者の家族会と支援組織「救う会」は25日、文部科学省などを訪れ、無償化に反対する要請文を提出した。無償化すれば、「北朝鮮に対し、拉致問題で日本が軟化したという間違ったメッセージになる」との家族会の要請に文科省側は明確な回答を示さなかった。
25日、文科省などを訪れたのは、拉致被害者の田口八重子さん=拉致当時(22)=の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(72)と増元るみ子さん=同(24)=の弟で同会事務局長の増元照明さん(54)ら。
飯塚さんら家族会側が「北朝鮮に対し、誤ったメッセージを伝えることになる」「首相も文科相も誰も責任を持って答えていない」と訴えたのに対し、文科省の審議官は「最終的に文科相が責任を持って決める」と述べた。
無償化を検討する文科省の専門家会議が非公開とされている点についての家族会側の質問に、文科省側は「静かな環境で考えるため」とこれまでの見解を繰り返した上で、無償化で出される就学支援金は「学校への助成金ではなく、子供への支援金だ」と強調。実際には、支援金は生徒に直接渡されるわけではなく、学校側に交付されるが、きちんと授業料に使われるかといった監督体制については「検討中」と述べるにとどまった。
要請後、報道陣の取材に飯塚さんは「日本が北朝鮮に制裁をしている一方で、文科省だけで無償化の議論が進んでいる。政府が一体となった判断が見られず、怒りを感じる」と話した。
その上で「無償化になれば、北朝鮮は『勝ち取った』ととらえかねない。さらにしたたかな手を打ってくるだろうし、そういう流れの中で拉致問題がだんだん消えていく恐れがある」との懸念を示した。
増元さんは「支援金が子供たちだけに使われるかモニタリングできるシステムがない。北朝鮮に持って行かれ、金正日政権を利することに使われてしまう可能性がある」と話した。
産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100825/kor1008252225007-n1.htm
|
2010-09-29 01:11
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
【Team関西】 /
日本シルクロード科学倶楽部 /
拉致問題 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1502/
★尊敬する こびき司先生 のニュースです★
川西市長選 元衆院議員・木挽氏が出馬表明 近く自民離党へ /兵庫
川西市長選(10月10日告示、同17日投開票)に1日、
元衆院議員の木挽司氏(51)が無所属で立候補する意向を表明した。
木挽氏は昨年の衆院選兵庫6区(伊丹市、宝塚市、川西市)に
自民党公認で出馬し落選。現在、同党の県第6選挙区支部長を
務めているが、近く、県連に離党届を提出する。
国政を目指す立場から一転、市長選に挑戦するに至った経緯に
ついて木挽氏は、川西市民や市議から出馬要請を受け、
「国政よりも、地域に根差した方が政策を具現化できる」
と判断したと説明。現市政に対して、深刻な財政問題などについて、
説明責任を果たしていないと批判した。
公約には財政再建などを掲げる考えを示した。
木挽氏は西宮市出身。伊丹市議などを経て05年、
衆院議員に当選し、1期務めた。
市長選には再選を目指す現職の大塩民生氏(64)と、
新人で元市議の黒田靖敏氏(68)が立候補を表明している
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100902ddlk28010367000c.html
|
2010-09-29 01:03
|
記事へ |
コメント(7) |
トラックバック(2) |
|
【Team関西】 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/1511/