吉見義明の蘭印強制売淫事件裁判に対する認識って、ケッコ〜テキト〜。
  当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。)

 本題じゃないが、性病が蔓延する慰安所って、軍慰安所じゃなく一般娼館のことかな?
 軍が性病罹患対策をしていなかったのであれば、新規慰安所開設しても性病蔓延は防げない。
 単に慰安婦の絶対数が足りなかったための新設なら納得する・・・が、吉見の事だから軍指定の慰安所と一般の娼館・売春施設と区別出来てないんじゃないか?w



 幹候隊長が第16軍司令部のガイドラインを無視したと決め付けているワケだが、ガイドライン無視は「強制売淫目的の婦女誘拐」を有罪にするためのオランダ側の主張であって、事実はガイドラインに従って徴募していたと判断するのが妥当である。

判断根拠(主として女性基金調査に基づく、以下同)
・徴募は、陸軍第16軍だけではなく、第25軍と共に海軍でも実施され、加えてオランダ人を含む民間業者も実施していた。
・徴募の際は、陸軍憲兵・海軍特警隊と共に州庁の役人も同行していた。
・軍も州庁も日本の官僚機構であり、公に徴募する際にガイドラインが無い、若しくはガイドラインを無視するとは考え難い。
・憲兵が同行する徴募の際に、徴募担当の幹候将校がガイドラインを無視する事は出来ない。よく「上官の命令は絶対」というがそれは直属上官の命令であって、上級幹候隊員が下級憲兵に命令する事は出来ない。もし威圧等でその場は見逃したとしても、憲兵が司令部に報告すれば幹候隊が処罰され、報告をしなければ憲兵も処罰される。
・第16軍司令部のガイドラインを通達した兵站部将校は、主に不作為責任を問われて死刑になっている。一方、「ガイドラインを無視した実行犯」の幹候隊長は懲役刑である。吉見はそこに何の疑念も抱かないから、「徴募の際ガイドラインは無視された」というオランダ側の主張を安易に信じ込むレベルの認識しか無かっただけの事。
 

   複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。

 「35人のオランダ人女性を強制的に集め・日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、連行」って、吉見は「裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された。」と知っていて、強制・強制と繰り返している。
 だが、良心的オランダ人女性10名は、戦犯裁判においても真実を語り、強制性を否定した事になる。(彼女らは、報復ムードの中でも、自身に誠実だった方達だったと思う。女性基金の支給に花と感謝コメントを返してきた方がいたらしいが、好きで娼婦になったワケじゃない人生の一時期について、日本の慰藉行為は救いだったのかもしれないね。)

 オランダ側は、「理由も判らず強制連行され、
意味も判らない日本語だけの同意書にサインを強制された後に、身体検査・慰安所連行・強姦」と主張しているのだが、強制を認定されなかった女性10名はガイドラインに従って応募し、強制連行された?女性らと同じ抑留所から同じバスに乗り、カナリ通りの建物でマレー語と日本語で記載された慰安婦同意に、承諾の上サインしているのである。
 また、蘭語堪能の日本人がいた慰安所では、面談して慰安婦応募の意思確認まで行われている。
 吉見は
オランダ側主張だけを採用し「強制売淫目的の婦女誘拐」行為と決め付けているワケだが、納得して自主応募した同行女性10名の存在を何故無視出来るんだろうか?
 
「理由も判らず強制連行、読めない日本語だけの同意書にサイン強制」と主張する自称被害女性25名だが、同行女性10名と同じ条件で応募し、同意の上のサインはしていないと何故判断出来たのだろうか?
 
自称被害女性達は、抑留所から連行される時・サインする時に、自主応募した10名に何も聞かなかったと、何故判断出来たのだろうか?


   3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。

 被害を捏造・誇張するために、性奴隷即ち無給の強姦主張がパターン化しているワケだが、軍慰安所は無料施設ではない。
 利用する将兵は、所定の料金を支払っている。(一例、将校・4ギルダー、兵・1.5ギルダー、慰安婦取り分1/3)
 確かに、この料金を管理人が全額ピンハネしていた可能性はある。ただこの場合、定期的に慰安所を巡回する憲兵に親告すれば、管理人は(スマランの場合は下士官、予備役かは不明)逮捕され、営倉入りである。
 この犯罪行為を、スマラン市内の全4軒の軍慰安所・1軒の民間軍指定慰安所管理人が行い、かつ憲兵が見逃していたとは考え難い。

 オランダ人慰安婦に性病罹患や妊娠があったというが、そもそも軍慰安所は性犯罪防止以上に、性病感染防止を目的としていた。
 性病感染は部隊の恥であり、感染が発覚すればリンチが待っていた
日本軍の場合、慰安所に行かなくとも衛生具を携帯していなければ外出許可が出ないほど、厳しく教育されていた。勿論、不心得者がいた事までは否定しない。
 ただ、性病をうつした者・妊娠させた者が、日本兵であった確率は低いであろう。

 また、週1回の身体検査は、主として性病検査である。
 確かに戦争末期には医薬品全般が不足していたのは事実だが、性病感染が判明して
軍医が治療しなかったとは考え難い。
 もしそれが事実なら、完治まで営業停止命令された筈だが、そこに一切触れていないのも矛盾がある。


 身体検査時に医師が強姦するって、オランダじゃ~普通にある事なのかもしれないか、占領下の蘭印・未だ戦場になっていない地域では、軍医には従軍看護婦が随行していた。
 日本の看護婦の前で、軍医が強姦して恥じないなんて、特亜とオランダでしかあり得ないケースなんだよwww。



 しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、 1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。

 アンバラワ抑留所のリーダーが帰国後に類似証言しているが、「自分の娘を連れ去られたリーダー」というのはガセ。
 同証言は、原文を確認しなければならないが、強制連行について解放要請したのかしたのか、廃業願いの履行要請したのかが定かではない。

 「事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管した」というのは、抑留所の所管が、州庁から地域により陸軍16軍・25軍・海軍に変更されたという事。
 つまり、戦犯法廷で日本軍側が「州庁の娼婦徴募システムを軍が採用した。」と主張していた通り、もともと娼婦募集は州庁の発案で、州庁管轄の全抑留所で実施または実施予定であったという事である。
 軍政下、売春業を管轄していたのが州庁なら、娼婦不足と抑留生活改善支援の為にオランダ人元娼婦や希望者募集を考えるのは、戦況が逼迫し物資不足の蘭印では、不当とまでいえない。
 娼婦募集とはつまり、軍慰安婦に特定したものではなく、市中にあった敵性オランダ人を除く欧米人や、中国・朝鮮を含む一般の売春業者に許可したものであった。

 この話に日本軍も乗り、ほぼ共通のガイドラインの下に、軍慰安婦を募集したものと判断するのが妥当である。

 「日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。」・・・吉見が言い始めたのかは定かではないが、これを受けて「日本軍紀は弛緩しており、戦争犯罪の婦女誘拐・強制売淫・強姦が処罰されなかった。」などと指摘する者が多い。

 だが戦犯裁判において、日本側はガイドラインに従った募集である旨供述し、口裏合わせ不能の帰国者も同旨無罪を主張している。
 オランダ裁判が有罪認定したからといって、その根拠は被害証言だけであり、無罪証拠となる同意書や募集要項・通達が法廷で採用・検討されたか否かは公開されていない。
 また、同じように起訴しようとした
ムンティラン抑留所では、抑留所側が応募リストを作成したとウッカリ証言してしまって不起訴になっている。
 何より、スマラン事件当事者のオランダ女性35名のうち、10名は募集要項に同意し、強制は無かったと認定されているのである。

 
オランダ軍の戦犯判決が正しいという前提で、「当時の日本軍紀は弛緩しており、戦争犯罪の婦女誘拐・強制売淫・強姦が処罰されなかった。」・・・これ、当人はオランダ軍検察官にでもなったつもりで講釈ぶってるに過ぎないワケだが、こんな主張が通るなら、「当時軍政下の日本軍紀は厳正であり、軍法会議が行われなかったのは、戦争犯罪の婦女誘拐・強制売淫・強姦が行われていなかった証明である。」を前提として、「オランダ軍戦犯裁判は、事実を歪曲捏造した報復裁判に過ぎない。」という主張も可能である。

 「
処罰も行なわなかった。」というのは、事実に反する。
 市中で自由行動が許されていた欧米人の証言では、「慰安所閉鎖後、憲兵が地位を失った。」とある。
 陸軍省の佐官が視察に来て、抑留女性5,000名のリーダーから強制売淫事件を告発されたとしたら、慰安所閉鎖だけでは済まない国際問題である。
 強制売淫事件が発生していたのであれば、軍慰安所を企画した司令部兵站将校、募集行為を部下に命じた幹候隊長、オランダ女性引率担当の
幹候隊将校、同行した憲兵・州庁役人、抑留所長、同意署名担当将校、身体検査担当軍医、4か所の慰安所管理下士官(おそらく予備役)、民間軍指定慰安所の管理者が、軍法会議・処罰されていた筈である。
 ところが、強制売淫として取り扱われず、憲兵が処罰されたのみだという。
 この憲兵とは、おそらく徴募に同行した者ではなく、慰安所巡察を担当していた憲兵であろう。
 つまり、オランダ人慰安婦の廃業願いの取り扱いに問題があったが故の処罰、と考えるのが妥当である。

 強制売淫事件が有罪となったのは、元慰安婦の25/35名の証言が採用されただけであり、10/35名の証言は無視されている。
 オランダ側の記録は、全公開されているワケではなく、ガイドラインは勿論、重要証拠となった筈のサイン済み同意書がどうなったかも一切公開されていない。

 
 終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された。

 同スマラン事件では、13名が起訴され、スマラン州長官1名は無罪(州庁企画の募集実態が明らかになれば困る事と、日本軍人の犯罪を強調したかったが故と思われる。)。
 付記すれば、民間軍指定慰安所の管理者・・・実態はオランダ女性だったが、夫の日本人が戦犯訴追され、獄中死している。・・・自決と噂されていたようだが、拷問死であった可能性は否定出来ない。

【2010.08.24 Tuesday 21:48】 author :
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鳩山首相「村山談話を受け継ぐ」 オランダ首相に改めて表明
MSN産経 2009.10.26 22:48

 鳩山由紀夫首相は26日、首相官邸で来日中のオランダのバルケネンデ首相と会談し、共同記者会見を行った。会見で鳩山首相は、先の大戦におけるオランダ人犠牲者に関して「村山談話を作ったとき(平成7年)に政権の中にいた人間として、この思いはしっかりと新しい政権の中に受け継がせていただく」と述べ、日本が侵略と植民地支配を謝罪した村山談話の踏襲を改めて表明した。

 バルケネンデ首相は「過ぎ去った戦争の問題、強制売春の問題など、非常にデリケートな問題として両国関係に残っている」と指摘。その上で「だが、鳩山首相からはっきりとした立場表明と再確認をいただき歓迎している」と述べた。バルケネンデ首相のいう強制売春問題とは、インドネシアにおけるオランダ人慰安婦問題を指すとみられる。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091026/plc0910262249023-n1.htm


 鳩山首相自身は悪人ではないのだろうが、政治家としては非常にお粗末だから、小沢幹事長のお飾りであり日本にとって有害な人間である事は間違いない。

 
 そんな鳩山首相が、オランダのバルケネンデ首相と会談し、先の大戦におけるオランダ人犠牲者に関して、村山談話の踏襲を表明し、バルケネンデ首相は「(村山踏襲を)歓迎している」と応じている。
 
 東京裁判が、インドネシアを植民地にしていたオランダに対する日本の侵略を「平和に対する罪」と認定し、その判決を講和条約で受諾しているから、その後の日蘭議定書で諸問題は解決されたのである。
 
 従って、「両国関係に残っている問題」は存在しない筈なのだが、オランダから病院船問題を持ち出されれば追加賠償に応じ、強制売淫問題を持ち出されれば追加援助・医療補償に応じて来たのが日本である。
 
 そして現在、日本政府並びに保守系世論においても、日蘭間の強制売淫問題を否定する動きは一切存在せず、第三国の慰安婦問題に蘭人元慰安婦が便乗日本批判を行っていても、蘭人元慰安婦の強制売淫問題を否定・批判する具体的動きも存在しない。
 
 然るに、本問題を再々蒸し返しているのは、オランダ側である。
 
 朝鮮人元慰安婦とオランダ人慰安婦の問題は、道義的にも法的にも一切関係が無い点を説明し、理解を求めれば済むものを、オカワリ謝罪を繰り返せば、ユスれば再々賠償要求に応じると思わせるだけである。
 
 
 オランダに謝罪したいのなら、東京A級裁判が認定したオランダの植民地支配を妨害した罪、インドネシアの蘭印BC級裁判が認定したインドネシア人独立運動を弾圧しなかった罪・独立運動を支援した罪を、反省したらどうだい。
 
 日本がオランダを植民地化しようとした事実が存在しないのに、オランダに日本の植民地支配を謝罪する?って、謝罪内容・相手が間違ってるんだよ。


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【2009.11.07 Saturday 08:06】 author :
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スマラン強制売淫事件戦犯・死刑判決をどう「読む」か
 オランダは、スマラン強制売淫事件戦犯裁判記録を公表していない。
 オランダに都合のよい一部や要約を小出しにして、被害者然としているわけだが、公表を拒んでいる側にまだ良心があるからとしても、検証し難い事を利用していまだに日本叩きをしているオランダ人がいるのだから、日本人も隠された部分を自由に「読む」べき時ではないか。



1948/2/14(起訴ではないか調査中・・・そう重要じゃないか)
バタビヤ(現ジャカルタ)スマラン強制売淫事件戦犯裁判判決

・州庁関係
 三橋弘 スマラン州庁陸軍司政官 求刑懲役5年 判決無罪

・幹部候補生隊関係
 能崎清次 陸軍中将 スマラン駐屯司令官? 求刑死刑 (1949/2/18判決?)
  強制売淫罪・強姦罪・抑留者不当処遇罪 判決懲役12年

 池田省三 陸軍大佐 (兵站将校ではない) 求刑死刑
  強制売淫目的誘拐罪・強制売淫罪・強姦罪 判決懲役15年
 (公用帰国中で、慰安所開設は無関係 発狂で一時判決留保)

 村上類蔵 軍医少佐 求刑懲役10年
  抑留者不当処遇罪 判決懲役7年

 中島四郎 軍医大尉 求刑懲役20年
  強姦罪・抑留者不当処遇罪 判決懲役16年
 (慰安婦の検梅担当 後日梅毒発症者が見つかった為)

 石田英一 陸軍大尉 求刑懲役2年
  抑留者不当処遇罪 判決懲役2年

・第16軍 兵站担当者と副官
 岡田慶冶 陸軍少佐 兵站将校代理 求刑死刑
  強制売淫目的誘拐罪・強制売淫罪・強姦罪 判決死刑
  (移送命令・危害を与えると脅迫)

 河村千代松 陸軍少佐 求刑懲役10年
  強制売淫目的誘拐罪・強制売淫罪 判決懲役10年

 (大久保朝雄 陸軍大佐 兵站将校・責任者 1947/1出頭命令拒否し寺で自決)

・慰安所経営者
 古谷巌 スマラン倶楽部 軍属 元曹長 求刑死刑
  強制売淫罪 判決懲役20年
  (拒否に対し暴行)

 森本雪雄 日の丸倶楽部軍属 求刑懲役20年
  強制売淫罪 判決懲役15年

 下田真治 青雲荘(双葉荘)軍属 求刑懲役5年
  強制売淫罪 判決懲役10年

 蔦木健次郎 将校倶楽部軍属  元曹長 求刑懲役5年
  強制売淫罪 判決懲役7年
  (兵士用慰安所に移すと脅した)

参考
 青地鷲雄 櫻倶楽部(バタビヤ)民間人 1946/10/25判決?
  強制売淫罪 判決禁固10年 獄死・・・自決を主張する者アリ
 (バタビヤ市長(軍政監部)の要請で仕方なく慰安所開設)
 (経営は蘭人の妻が担当し強制売淫関与無し)
 (基金調査で13番目の被告とする報告がある。)
 (親分肌の人徳者、蘭語・現地語に堪能。蘭情報通で軍協力者)

 先ず留意すべきは、敗戦時のスマラン州庁・三橋州長が起訴され、無罪になっている点である。

 蘭印の軍政は、人口密のジャワ・スマトラは陸軍、ボルネオ・セレベス以東は海軍が担当した。
 陸軍は独立支援、海軍は独立弾圧と方針は異なるが、共通する行政は各州庁が担当し、売春など風俗業もオランダの慣行を尊重し管轄していた。
 
 日本軍占領当初、オランダ人の抑留は行われていなかったので、市中にはオランダや欧州各国民間人・日本人・華僑やインドネシア人などの風俗業は、そのまま営業を続けていた。
 しかし、1942/4、約2000名のオランダ人官吏を拘禁し、以後戦況の逼迫につれ約11万人のオランダ民間人(うち女性8万人)を11か所に抑留し、自治生活をさせた。
 当然ながら、オランダ人娼婦は勿論、業者も女衒も抑留されて市中からいなくなった為、売春婦・慰安所・業者の補充が必要であった。
 
 首謀者扱いで刑死した岡田少佐の獄中「青壮日記」には、抑留者を徴募して慰安所を開設する州庁案を熊崎中将が知り、当時の宮野スラマン州長官の了解を得て、第16軍司令部に慰安所開設の許可を受けた旨の記載がある。
 司令部との具体的交渉は幹候隊の池田大佐が行い、州庁と調整の上、司令部の兵站将校・大久保大佐と「本人自主志願と同意書署名の条件」を定め、兵站代理の岡田少佐が実施を担当したという事であろう。

 岡田少佐の記述「抑留者を徴募して慰安所を開設するのは州庁の発案」が事実であろうと考えるのは、スマランより前のムンティラン抑留所の徴募時には、憲兵、日本人業者と共に、マゲラン州長が出向いており、スマラン州支庁だけの単独案では無かったからである。

 これは、敵国の女性を娼婦にしてやろうという悪質なものであったとは限らない。

 食糧や医薬品の欠乏で3割近くが死亡してしまった抑留所もあった環境で、合法だった元娼婦を含めた救済が出来れば、軍側も抑留側も助かる面があったからである。

 また従来の問題ある一般の徴募方法は、軍が慰安所開設許可を与える為、「本人志願・同意署名」の条件を付け、民間慰安所にも適用される事になった。
 陸軍所管地域だけでなく、海軍所管地域でも同条件の徴募が実施されており、各州庁全体の方針でもであったようである。
 
 軍慰安所開設の場合、地域部隊が慰安所管理を担当するのであるから、軍医を含めた地域部隊の将兵が徴募・移送・検診などを担当した為、スマランの場合は幹候隊の将校らが抑留所を回ったのであろう。
 また、民間慰安所の場合は、日本人や欧州人の経営者が州庁の許可を得た上で、州庁の役人と共に抑留所で徴募、地域によって憲兵(陸軍)または特警(海軍)が同行したと思われる。 
 
 何故、三橋州長が起訴されたかと言えば、州庁が事前に抑留所リーダーに応募リストを作成・提出させ、そのリストを元に、日本兵または業者が出向いて選別したという岡田少佐の主張が事実であったのを、検察も承知していたからであろう。

 実際、例えば1箇所5000名の抑留者からリストアップするには、リーダーの協力がなければ、日本側の抑留体制では不可能であるし、事実積極的に協力したリーダーもいたのだから、無駄な事をする必要はない。。
 意思を無視した強制連行を行えばリスト無し選別は可能であっても、その場合時間浪費と抑留者の抵抗・反発は避けられなくなる。
 
 しかし、スマラン事件では、州長の判決は無罪となったのである。

 これは、アンバラワの抑留所リーダー・イルデラ夫人が、リスト作成・協力を否定して「憲兵からリストを渡された」と証言し、元慰安婦がリスト掲載承諾・応募事実を否定したからである。
 
 不起訴となったムンティラン抑留所リーダーも、「日本人が指名した若い女性の名前を書き、あとで名簿にしタイプするように依頼された。」と日本側がリストを作成していた旨主張している。
 その後、1944/1上旬に、リストの女性たちが事務所に呼び出され意思確認、1/25に抑留所内の教会で身体検査後に連行という事になっている。
 そして、同日連行時に、日本人が「道徳観念に薄い」女性リストをリーダーに渡したと主張しているのだが、リーダー補佐が「1月25日に連れて行かれた若い女性を返してもらうため、その後リストを作成し日本人に渡した」とだけは認めている。
 リストの証言が曖昧であった事と、抑留者側で作ったリストは、当然ながら本人自主志願・承諾を得て作成した筈だから、検察は起訴を諦めたのだろうね。

 アンバラワ抑留所リーダーの1946/6/24・帰国後証言では、抑留所視察の将校に直訴したのは彼女らしい。
 そこまで出来た女性が、強制連行時に他の抑留所では可能だった筈の、リーダーらしい最後までの抵抗が出来なかったというのが判決結果である。

 しかし別の視点では、州庁の募集を受けてリーダーが応募者リストを作成し、志願女性は納得して慰安所に行ったのだが、慰安婦になった女性が応募を後悔しているという情報は、甘い抑留管理で抑留所にも届いていた筈である。
 そこで偶々視察に来た将校に、リーダーらしい責任として慰安婦を辞めさせるよう訴えたという見方が出来るだろう。

 尚、完全に隔離されていたわけではない抑留生活では、情報は良く伝わるもので、州庁が全抑留所で慰安婦を募集しており、最近ムンティラン抑留所で応募があったと、アンバラワ抑留者が知っていた可能性はある。


 岡田少佐は、強制売淫目的誘拐罪・強制売淫罪・強姦罪で、ただ一人死刑になっている。
 しかし彼は、兵站担当将校として採用条件を満たした慰安所開設を許可しただけで、命令する権限はない。
 不作為責任を限りなく追及する戦犯裁判だから、誰か処刑者を出すしかなかったのは判る。
 しかし、被害者の処罰感情は、犯罪命令者・実行者に対しより強くなるものである。
 元慰安婦が、事実として強制売淫事件の被害者であったなら、意思に反して抑留所から強制連行した幹候隊員と、売春を強要した慰安所経営者に、より重い処罰を望む筈である。
 まして、兵站将校の許可基準が守られていれば、慰安婦に成らなかったというのだから、兵站将校の命令を無視した幹候隊員と経営者を憎むのが当然だろう。

 ところが判決は、岡田少佐を総責任者扱いにして、処刑しているのである。
 判決文では、「自由志願・自発就業の2点を立会将校は確認する義務があるが、岡田少佐はその確認を点検する義務を怠った。
 同意書の内容説明は無く、日本語で読めず、質問は荒々しく遮られた。
 売淫拒否事例が岡田少佐に報告されなかったとは考え難い。」などと記載されているらしい。

・確認を点検する義務は、岡田少佐ではなく憲兵にある。
・法廷は慰安婦の同意書を証拠採用もせずに、被害主張を全面採用しているだけ。
・憲兵が報告を受けたのち、岡田少佐に報告する場合はあるが、少佐が全て知っていた筈とは、考え難い決め付け。


 岡田少佐は、強制売淫目的誘拐・・・所謂強制連行の実行犯では無く、また、強制が事実であったとしても、連行した幹候隊員は、幹候隊内の指揮命令系統に従って実行したものであって、岡田少佐に指揮命令権は無い。

 日本陸軍内の違法行為取り締まりは地域の憲兵隊の担当であり、慰安所開設時や、月1回以上の慰安所巡察業務があった憲兵隊長を訴追する方がまだ妥当である。

 同じく、少佐は兵站担当であって、強制売淫があったとするなら実行犯は慰安所経営者であり、これを取り締まる義務のあった憲兵も責任を免れない。

 強姦については、強制売淫が即ち強姦であるとコジツケたか、その強姦を容認したから共同正犯と扱われたのか、それとも実際強姦を行ったのかはわからない。
 しかし、戦場ではない軍政下の蘭印で、佐官が性犯罪を犯して示しがつくとは思えない。


 下部部隊員や慰安所経営者を死刑にするより、第16軍本部の将校を処刑したかった…ただそれだけの事ではないかと思う。
・・・当然に、元慰安婦の証言は、重要な部分にウソがあるが、それはまた別稿で。



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【2009.07.08 Wednesday 23:07】 author :
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オランダは、準特亜露国家・・・じゃね?
 オランダ人元慰安婦のオハーンは、元慰安婦達が女性基金の償い金と日本の総理大臣の謝罪を受けた今も、欧米で反日糾弾を継続している。
 またオランダも、日蘭議定書・条約で国交回復し賠償問題解決済みの今も、元朝鮮人慰安婦の強制連行に関する意見広告などについて、2007/6、オランダ下院フェルベート議長が河野衆院議長に釈明要求書を送付したり、バルケネンデ首相が「あまりにも不適切」と不快感を表明している。
 
 イスラエルを讃えてるわけじゃないが、かの国は「のむひょん」の「日本の朝鮮人迫害はユダヤ人抹殺レベル」発言に対して「一緒にすんな!」と一蹴した。
 
 一方、オランダは、元朝鮮人慰安婦の「朝鮮人慰安婦強制連行はオランダと同じ」発言に、「こっちにも謝罪賠償オカワリ寄こせ!」と同調した。
 日本の国連常任理事国入りには反対し、オランダを訪問すれば、天皇陛下は卵を投げつけられ、竹下・海部・小泉首相は、解決済みの蘭人捕虜処遇について公式に謝罪要求される。
 1991、来日したヴェアトリクス女王は、天皇に謝罪要求し、宮中晩餐会で「蘭人捕虜処遇批判」発言している。 ちなみに、1995インドネシア訪問時「植民地支配は互恵的」と発言したのも、この女王。
 補足すれば、オランダはインドネシア独立時に、インドネシアからしっかり賠償をセシメテいる。

 
 イスラエルは、杉原千畝領事と共に、当時ユダヤ人救済に奔走したハルビン特務機関長樋口季一郎中将、大連特務機関長安江仙弘(ノリヒロ)大佐を民族の恩人として顕彰している。
 ユダヤ人は義理堅く、ハルピン特務機関長・第5軍司令官で占守島戦闘のソ連戦犯訴追から樋口中将を救い、安江大佐はシベリヤ連行済みで救えなかったが、上海でユダヤ人集中に苦労しながら救済活動をしていた犬塚大佐が、後任の海軍基地司令のマニラ虐殺責任を被せられそうになっていたのを救っている。
 
 一方、オランダは、終戦後、日本軍・城戸部隊がインドネシアの独立勢力に人質となっていた日本人救出の際、約900名のオランダ人も虐殺寸前に解放し、担務した40名の和田憲兵隊に涙ながらに感謝した・・・のだが、間もなく戦犯裁判で和田憲兵隊長以下3名を、戦時中スパイ容疑者を拷問したという理由で処刑している。
 
 
 
 日蘭条約で補償問題は終結し、日本はサ講和条約でB級戦犯判決を受諾しているのであるから、アムネスティ条項は日蘭双方に適用がある。
 従って日本側が、蘭印(オランダ領東インド・インドネシア)裁判の強制売淫事件判決についてトヤカク言うのは控えるべきなのだろうが、女性基金事業から謝罪賠償オカワリ済みでもオハーンは現在も反日活動を継続し、病院船撃沈(?)の賠償オカワリ済みでもオランダは反日を改めない。
 
 特亜系村山総理が反省と謝罪でオランダに回した償い金は、オランダの反日戦争史展の資金となり、資料化・DVD化して、反日プロパガンダの充実が図られているようだが、他国との友好関係を損なうのは特亜系日本人の策動による場合が多い。
 
 そろそろ日本人も、スマラン強制売淫事件認識を改めるべき時ではないだろうか。



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【2009.07.07 Tuesday 08:03】 author :
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女性基金・オランダ人慰安婦の解説をどう読むか
「女性基金」・慰安婦にされた女性たち−オランダ

一部抜粋
 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2−3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。

 これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。
 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。

 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。

 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。


 上記引用は、基金調査「日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―山本まゆみ・ウィリアム・ブラッドリー・ホートン 」に基づいて記載されている・・・と普通は考える。

 しかし、オランダ公文書館調査報告では、「兵站部責任者の証言によると、慰安所設置の許可は、慰安婦になる女性が志願者である事また日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人の署名がある事を満たしているということが条件」とされているにも関わらず、
「スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。」などと、一応「連行された女性の証言によると」という文を入れてはいるが、蘭人慰安婦の主張をそのままデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」のオランダ例・解説文として掲載しているのである。


 スマラン事件被害者の一部が収容されていたアンバラワ・第4分遣所は、女性5000名規模の抑留所であったが、監視員は将校1、下士官1、朝鮮人軍属3、インドネシア人兵補15、計20名しかいない。(後、数名補充あり)

 そこに幹候隊将校が訪れ、女性を選別・連行していったというのだが、例えば抑留所長の階級が少尉であったとして、直属上官の大尉から抑留所管理を命令されていた場合、他部隊の将校が大佐であろうと、指揮命令系統上、抑留所長少尉に命令して抑留管理下の女性を拘引していく事は出来ない。
 この場合は、幹候隊・抑留所の直属・陸軍第16軍の命令・許可があったから、可能だったのである。
 軍司令部の命令で行われた慰安婦徴募であれば、兵站部が定めた徴募条件の「自主志願・同意署名」は遵守されていたと考えてよい。

 従って、(おそらく数百名単位)適齢の女性を中庭に集めた後、一人づつ抑留所事務所出頭させているのであれば、ここで徴募内容の説明が行われていたと考えられる。
 翌日20名が事務所に出頭、その翌々日に17名が市内に連行され理解不能の日本語同意書に署名強要、慰安所に送り込まれたと元慰安婦の主張通り解説しているのだが、自主志願意思の確認・マレー語併記の同意書サインは何故無視されているのだろうか。

 採用条件無視の強制連行が行われたのであれば、女性を中庭に集めた初日に、選別して連行、日本語だけの同意書に署名させれば済む筈であるし、また慰安婦もそのように受け取れるような証言をしている。
 しかし、上記解説文では、数日かけて2度の事務所呼出し後に、市内移動・同意書署名させた理由については一切触れていない。

 日本側が主張していた自主志願・同意署名という条件を、何故解説・記載しないのだろうか・・・そりゃまあねぇ。

 基金側は、戦犯裁判で有罪となったのだからと、蘭人慰安婦の強制証言が真実と決め付けているが、自決した責任者の将校・死刑となった兵站担当将校・他の被告らは、この採用条件を否定していないようであるし、有罪判決後獄死した民間慰安所の経営者・青地氏は、同意書を受領した上で、意思確認の面談を実施していたという第三者の証言がある。

 基金の日本人調査員は、蘭人慰安婦の主張・蘭印裁判・蘭側調査を採用し、当時の日本軍将校の証言を「信憑性がない」と、根拠無しに一蹴している。
 その延長で、根拠も示さずにに日本側が主張した採用条件を記載しないのは、印象操作ではないか。

 「日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人署名」が条件であった筈なのに、「同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。」という慰安婦証言だけを記載しているのは何故か。
 スマラン事件において、サインした蘭人慰安婦の同意書が日本語だけで記述されていたか否かは、当人の意思確認の証明でもあるから重要であるのだが、基金側は同意書が日本語だけで書かれていた事実を確認しているのか。


 同じくスマラン事件の被害者が連行されたハルマヘラ抑留所では、11名連行・3名解放・・・と経緯記載が無いので、アンバラワと同じ状況で連行されたかのように解説されているが、であるなら元慰安婦の証言をそのまま掲載しているだけではないのか。

 また、同ゲンダンガン抑留所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れた・・・とだけ解説しているが、若い女性の拒否を認め、売春婦だったという噂のあった十数名の「志願者」を連行したのではなかったのか。
 そして、この抑留所の場合、徴募の段階で慰安婦の説明を受けていた事になるが、有名なオハーンがいたアンバラワ抑留所では、スマラン市内連行後の署名段階でも、慰安婦にされるとは思わなかったという証言のままの解説になっている。
 同じ地域の徴募方法で、連行前に慰安婦について説明した抑留所と、連行後の署名段階でも説明なしの抑留所があった事になるのだが、何故蘭側の一方的主張のみを解説文として掲載するのだろうねぇ。



これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだ

 陸軍第16軍兵站部の許可により行われた徴募方法は同じであった筈の他の抑留所では、「強く抵抗し、連行を防いだ。」と解説しているのだが、スマランでも蘭側リーダー達が強く抗議し、女性達は拒否したと証言しているではないか。
 連行を防いだ強い抵抗とは、どのようなものだったのか、全く検証されていないのだが、他の抑留所では強制連行が行われず、スマランで強制連行が行われたと主張する根拠は、ただ有罪判決が確定してるから・・・だけではないのか。

 またスマラン事件では、直接日本兵が抑留所に現れて、事情説明なしに適齢女性を集め、選別した事になっている。
 しかし、後段のムンティラン抑留所の解説では、事前に蘭人リーダーが応募リストを作成しているなど、その他の抑留所や、別組織の海軍の抑留所でも、リーダーの関与程度が連行の有無に関係しているようである。

 下士官所長の海軍抑留所では、リーダーが応募者無しと回答し、所長が上官に報告し慰安婦になった者がいない所もあったようである。
 海軍も同様の徴募方法で慰安婦志願者を募集していたのであれば、陸軍第16軍の幹候隊将校に偶々不心得者がいたという話ではないと思われる。



東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。

 陸軍省から抑留所を視察に来た俘虜管理部の小田島大佐が蘭人抑留者の訴えを受けたというのは事実のようだが、「女性たちが意思に反して慰安婦にさせられている」の原文の意味によって、処罰対象・程度が異なる。

 「意思に反して慰安婦にした」というのであれば、意思確認と同意署名の兵站部の許可条件に反しているのだから、この手続きを担当した将校は「強制売淫目的の誘拐」戦犯である。
 また、慰安所経営者も、意思に反する事を知り得る立場であったのだから同罪である。
 抑留所長や連行担当者については、状況により異なる。

 そして「意思に反して慰安婦を(続け)させられている」・・・志願はしたが短期間で廃業を希望したにも関わらず、その意思に反して慰安婦をさせられている場合である。
 この場合、採用手続きに違法性は無く、採用担当将校・抑留所長・連行担当者は、いずれも処罰対象にはならない。
 慰安所経営者は、廃業意思を知り得る立場ではあるが、多少の支度金弁済の有無やルーズな慣行もあり、慰安所巡察義務のあった憲兵が廃業を担当していたであろうから、本来の責任は憲兵にあったのではないか。

 そして日本軍軍政下であった当時、俘虜管理部の小田島大佐の勧告により、第16軍が下した処分は、何人かの憲兵の降格(降等か歩兵転属かは不明)であった。
 特亜系日本人によると、「日本軍の軍紀は退廃」だそうだが、他国軍と比べて酷いというものでもなく、特に陸軍省大佐や軍司令部が関わっている問題では、犯罪の隠蔽は行われなかったと思われる。



 同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。・・・ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。

 このムンティラン抑留所の慰安婦徴募状況は、スマラン事件で有罪とされたゲンダンガン抑留所のそれとほぼ同じであるが、こちらは不起訴になっている。

 強制売淫戦犯捜査に際し、30名以上の日本人に対して、発狂者まで出すような拷問・虐待・暴行を行い、無理矢理有罪にしたのがオランダ戦犯裁判だったが、ムンティラン不起訴は、抑留所のオランダ人が正直者だったか、オランダ検察が日本人の血と悲鳴に飽きた頃だったのだろうね。


 リーダーが事前に慰安婦応募リストを日本軍に提出していた・・・に関連して。

 「中庭に整列させられた若く美しいオランダ女性の間を、猿のような日本兵が物色して回り、これはという女性を引きずり出し、抵抗すれば殴り付け、トラックに放り込む」って、絵になるだろうよ。
 だけど、実際これをやったら、オランダ女性5000名vs日本側監視員20名だよ。 暴動の連続で、収拾がつかなくなる。

 日本軍抑留監視側は相当気を遣っていた筈で、事実、ボゴール抑留所でおそらく軍属による強姦未遂事件が発生した際は、抑留者全員を前にしてその監視員を自決させているようである。

 抑留者の管理に細心の注意を要した抑留所長なら、元慰安婦証言の「適齢女性を中庭に集める」ような見世物で抑留者間に動揺を与えるより、他の抑留所のように、事前にリーダーらにリストを作成させ、後日そのリストに基づいて個々に意思確認を行う方を選択したであろう。



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【2009.07.06 Monday 06:46】 author :
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