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いのちの条約:COP10・NAGOYA 多様性の島・小笠原から/番外編

 ◇「自然は宝、守る」島思う住民たち

 小笠原諸島(東京都)では、世界自然遺産登録を目指すための環境整備が国や都の主導で着々と進む。しかし、将来にわたって島の自然を引き継ぎ、守る担い手である島民は、自然遺産を巡る動きをどう受け止めているのだろう。思いを聞こうと島を巡った。【八田浩輔】

 小笠原聖ジョージ教会の牧師、小笠原愛作さん(79)=写真<1>=は、移住者が増える島で、戦中から米軍占領下での生活を知る数少ない一人だ。太平洋戦争が迫った1939年、本名のアイザック・ゴンザレスから改名し、「目の色が違えばスパイと呼ばれる時代」も経験した。祖父は1909年の教会設立当初の牧師、ジョゼフ・ゴンザレス氏。小笠原には、欧米系の開拓者の子孫も暮らす文化面での多様さもある。

 小笠原諸島では、終戦直前に島民は本土に強制疎開し、国内初の陸上戦が行われた硫黄島では日米両軍合わせて2万人以上が戦死した。戦争を知るからこそ、自然遺産への特別な思いもある。「世界が貴重な自然を遺産として共有し分かちあう。平和な時代だからできる」と言う。

 自然の価値に加え、島の歴史も次世代に引き継ぎたいとの思いが強い。「希望の島にするために、一人一人が自覚を持って真剣に考えていかなければいけない」

   ◇   ◇

 今春、父島にネコを模したログハウスができた。通称「ねこ待合所」。ノネコの世話係を務めているのが石間紀子さん(42)=写真<2>右。「建物の中で四季を感じられない生活から離れたかった」と本土で続けた看護師を辞め、6年前に移住した。

 ペットとして飼われていたネコは捨てられると野生化し、貴重な鳥類を襲う。島では捕獲作戦が始まり、ここで一時的に飼養されている。その後、里親を探すため1000キロ離れた本土へ船で送られる。石間さんは、捕獲から船に乗せるまでの10日間程度、休みなくノネコの面倒を見る。

 月に5回程度の出航日に大泣きする光景はすっかり定着した。「最初は警戒しているネコの顔が和らぎ、愛着が出たころに送り出す。切ないが、島のためだから」

 専門家は「ノネコの問題は数年で解決したい」と言う。石間さんがネコと向き合う日は続く。

   ◇   ◇

 レストランの看板からホテルのオブジェまで、島を歩けば作品にあたる。父島に構えた工房で、島の木を使って家具=写真<3>=や海の動物の彫刻を手がける滝沢浩さん(64)。最近は厄介者の外来種モクマオウで国の出先機関の看板を作った。

 70年代前半に特撮ヒーロー番組で主役を演じ、大手飲料メーカーやバイク会社のコマーシャルに出演した元人気俳優だ。ブラウン管から姿を消したのは33年前。難病と闘う妻の主治医から遠地療養を勧められ、「すべてを捨てて」島へ渡った。

 80年代後半から、島はクジラやイルカを見るツアーで活況に沸いた。同じころ、土産店にはバリ産の木彫りが並んでいた。「なぜ島のものを使わない」と、試しに自生する木で彫ったクジラが評判になった。それから建設業者で働きながら腕を磨いた。図面は引かずに素材の形を生かす。そんな作品づくりを通して「自然は島の宝」だと学んだ。

 「宝がなくなろうとしてから大騒ぎしても遅い」。自然遺産に話が及ぶと穏やかな口調に力がこもった。

   ◇   ◇

 父島でペンション「てつ家」を営む中村哲也さん(43)=写真<4>=は、大手百貨店社員だった。バブルのさなか、都心店舗の食料品売り場でマネジャーを務め、2万円もする小さな本マグロのさくが飛ぶように売れた。

 そんな価値観を小笠原が変えた。18年前に趣味のサーフィンで初めて来島し、豊かな自然に魅せられた。それから5年間通い続け移住を決意。島内のかっぽう料理店で修業し、06年に独立した。島で出会った妻、それに犬2匹と、海辺を散歩する時間が何よりも幸せという。

 好きで移り住んだ島が、世界的な価値基準に上ることは素直にうれしい。「美しいものを手をかけながら守っていきたい」。新参者と自覚するが、島への思いは強い。

毎日新聞 2010年9月27日 東京朝刊

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