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韓国併合100年@東北(上)

2010年09月28日

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津軽海峡の海沿いには、今も大間鉄道のための橋脚が残る=むつ市大畑町

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木野部峠の碑を前に、大間鉄道のトンネル跡を見る則田忠雄さん(左)と金田一道次さん=青森県むつ市大畑町

―未来へ忘れぬ苦難―

 「この峠で朝鮮人が働いていたんだ」

 下北半島の北側、青森県むつ市大畑町の木野部(きのっぷ)峠。晴れると津軽海峡の先に北海道が見える。則田忠雄さん(84)は戦時中、海に面した険しい峠の岩場で土木作業する朝鮮人の姿を何度も見た。何を作っているかはすぐ分かった。「大間鉄道だ」

●過酷な工事●

 軍需物資などを運ぶため本州最北の軍事鉄道として1937年に着工。大間にあった軍事拠点への交通路を確保するため、工事は急ピッチで進められた。43年に未完のまま中断されるまで、トンネルや橋脚が次々とできた。「下北の地域文化研究所」(斎藤作治代表)などによると、500人以上の朝鮮人がかかわったという。

 工事最大の難所が木野部峠の二つのトンネルだった。今は入り口がコンクリートでふさがれ、岸壁に数本の橋脚だけが見える。「今にも岩が崩れ落ちそうなところで働いていた」と則田さん。違いはすぐに分かった。「朝鮮人はふんどし1枚、破れた足袋の代わりにセメント袋で足をグルグル巻きにしていた」

 小学校卒業後に勤労奉仕隊として工事にあたった金田一道次さん(81)は回想する。「毎朝、『半島人』は100人くらいずつ2列に並んで現場へ歩いた。両側にヒモが張られ、逃げた人は棒頭(現場監督)追いかけられ、棒でめった打ち」

 トンネル工事で多くの朝鮮人労働者が亡くなったという。だが、当時を知る人は減り、大間鉄道の存在も忘れられつつある。危機感を覚えた則田さんは地元有志と01年に「大間鉄道を語り継ぐ会」を結成。翌年、現場で亡くなった労働者の慰霊も込め、木野部峠に「大間鉄道木野部トンネル跡」と書いた高さ3メートルの碑を建てた。

 金田一さんもよく碑に足を運ぶ。トンネル跡の方を見ながら「日本のことを恨んでいるんじゃないか」。5千人以上とされる朝鮮人労働者のほとんどは、戦後の混乱の中で下北半島を去り、当時の労働状況はいまだ明らかにされていない。

●人気冷めん●

 一方、困難を乗り越えながら残った人もいる。そして、盛岡に名物が生まれた。

 冷めんの登場は1954年。元祖は「食道園」と言われる。在日朝鮮人の青木輝人氏が、故郷・咸興(ハム・フン)の味を再現した。市民に受け入れられ、市内に「冷麺」の看板を掲げる店が増え始めた。

 食道園から33年、邉龍雄(ピョン・ヨン・ウン)さん(62)が始めた店は「ぴょんぴょん舎」だ。

 神戸市で生まれ、幼児のころ岩手に移り住んだ。「中原」と名乗り、盛岡の小学校に入学。「朝鮮人」と訳も分からずいじめられた。日本を憎んだこともある。

 20歳のとき、「邉」を名乗る決意をした。経理専門学校にいた時だった。

 「中原、お前誰に投票する?」「おれ、日本人じゃないんだ。選挙権ないんだ」

 年末に衆院選が控えていた。友人は、邉さんが韓国人だと知り、驚きを隠さなかった。彼を悪いとは思わなかった。「むしろ中原と名乗っていることが問題だ」。2年後、東京の短大入学を機に名字を変えた。

 盛岡に戻ってからも在日韓国人の輪の中から盛岡を見ていた。だが、そんな自分に疑問を持ち、86年に盛岡であった「ニッポンめんサミット」に携わった。日本人と同じ土俵で街を考えたかった。冷めんをつくった。

 翌年、店を開いた。先祖のいる韓国・済州島は海や川に囲まれた美しい場所だ。でも、盛岡の自然や人間にも愛着を感じる。「併合から100年たったけど、まだ国と国との関係は改善されなきゃいけないこともある。お互いをよく知って今後を考えなくては。私個人は、市民として街づくりにかかわっていく」

 ぴょんぴょん舎は今、東京・銀座にも店を構え、全国の物産展でも盛岡の冷めんの代表格として人気だ。


 韓国併合から100年の今年、歴史のその後や人々の交流を東北で取材した。

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