激しい闘志の表現からなにか、日馬富士らしいひと細工がある戦い方が出るのではないか、この大関らしいどことなく含みのあるコメントもあったしと思っていたが、そういった気配もなく、一気に勝負を決められてしまった。
遠慮なくいうと、白鵬と大関陣との間には埋め難いほどの実力差があるようだ。この勝負にもならない勝負を見ていて、ひとつ気にかかることがあった。白鵬が四場所無敗で、六十二連勝を果たしたことはいうまでもないことなのだが、来場所はどうなるのだろうか。
大相撲の仕来り通り、番付の下位の方から相手を選び出し、取り組みを作っていくのだろうか。こんなことは私が心配するまでもないのだが、大相撲の伝統と仕来りを破って、新たなことを始めるわけにもいかないだろう。
だが、ここ二、三日話題になって来ている通り、六十三連勝の記録を残しているのは、谷風だという。これは話題に取り上げるのも恐ろしいほどの大横綱である。テレビが茶の間を占領して、娯楽の質を変えてしまうまでは、芝居、話芸の主人公として大スターであった。現に横綱の免許を最初に受けたのは谷風といわれる。
その谷風の連勝記録が、なんと九州場所の初日に、白鵬と並ぶことになる。これは記録上の話だから、手加減も修正も効かない。白鵬が無事に九州場所に登場して勝利すれば、谷風の記録は過去のまた過去のものになってしまう。
それは、記録とはもともとそういう性格のものなのだが、なんとなく寂しいではないか。
九重親方の場合は、御本人が健在で記録が破られることを喜んでいるとの言葉があったが、谷風の記録がという話題が現実味を帯びてきたとなると、双葉山の六十九連勝はどうなるのかと考えないではいられない。
しかし、現実に、九州場所が始まると六十九連勝の記録は、余命“旦夕(たんせき、短いの意)”のものになってしまうだろう。ここで考えられるのは、大相撲には昔からの不文律があって、必要な場合には、取り組みを、番付の順を無視して上げ下げすることがあり得る。しかし、九州場所に入って、ほんの一週間の中に、そうそうあざといこともできないだろうし、どう考えても、旦夕の命となった宿命を受け入れるしか解決方法はないのではなかろうか。これは、大相撲の門戸を外国人に開放した時に、どう考えるべきかを議論してみる必要があった問題なのかもしれない。
全くもって、喜ぶべきか悲しむべきか判断に迷う。といっても、六十九連勝の記録を長生きさせるために、白鵬の助力を仰ぐことなどあり得ない。私なりの率直な感想を述べようとすれば、こんな日が来るとは思わなかったというべきか。そして、相撲文化の担い手として白鵬が登場したのだから、もし、六十九連勝が無事に命ながらえたとしたら、いつの日か更に驚異的な連勝記録を作ってくれと願うだけである。 (作家)
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