玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 83


50音インデックス


■83歳の
 シンクロニシティ


■83歳-?
孟子
エピクテトス
呉承恩
小杉未醒/放菴
石田 天海
ジャン・アンジャイン
安立スハル
清野春彦

■83歳-前半
八木彩霞
西山夘三
中内 功
エドガー・ドガ
トーマス・ジェファーソン
ヘルムート・ニュートン
古今亭志ん生(五代目)
ヴィクトル・ユゴー
フェルナン・ブローデル
相馬愛蔵
伊藤真乗
オットー・ビスマルク
アーメット・アーティガン
黒澤止幾
ジークムント・フロイト
ミース
ジーン・ケリー
甲斐庄 楠音
ウィリアム・バロウズ

■83歳-後半-1 →進む
チャールトン・ヘストン
ヴォルテール
W・M・ヴォーリズ
坪井 善勝
オマル・ハイヤーム
ゲアハルト・ハウプトマン
ジョセフ・マーフィー
ピーター・ベネンソン
羽仁もと子
高野素十
ジョーゼフ・キャンベル
マックス・ローチ
鶴岡一人
杉田玄白
ハーバート・スペンサー
山県有朋
ルートヴィヒ・クラーゲス
正宗白鳥
若槻礼次郎
ポール・ニューマン
ルイ・リュミエール
ヘンリー・フォード
サミュエル・ベケット
金大中/キム・デジュン
アンドリュー・カーネギー
井上 靖

■83歳-後半-2 →進む
白洲次郎
貝原益軒
ジャン・デビュッフェ
竹内 均
トニー・ゼール
松江豊寿
江橋節郎
本多光太郎
藤沢秀行
大隈重信
桑原武夫
清岡卓行
桜むつ子
イデス・ヘッド


■83歳のエポック


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83歳の語録

 

「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」
(ドガ)

「貧乏はするもんじゃねぇ。味わうもんだ」
(志ん生)

83歳のシンクロニシティ!

  • 83年の生涯には二人の画家がリンクする。ドガとデビュッフェだ。
     
    ●代表作『花束を持って挨拶をする踊り子』で知られるフランスの画家・エドガー・ドガ(1834.07.19〜1917.09.26)は孤独のうちに寂しく他界し83年2ヶ月と7日の生涯(蟹座)。
    ●フランスの画家ジャン・デビュッフェ(1901.07.31〜1985.05.12)も、死因?で83年と9ヶ月と13日の生涯(獅子座)だった。

  • 83年の生涯には「ニュートン関連」もシンクロする。
      
    ○近代自然科学の基礎を築いた英国の大科学者・アイザック・ニュートン(1642.12.25〜1727.03.20)は、膀胱結石で84年2ヶ月と23日の生涯(山羊座)だった。
    ●現代写真界の巨匠・ヘルムート・ニュートン(1920.10.31〜2004.01.23)は、ハリウッドで交通事故し83年2ヶ月と23日の生涯(蠍座)。二人はジャスト1年違いの生涯年月日だったのだ。
    ●科学雑誌「ニュートン」編集長で地球物理学者の竹内均(1920.07.02〜2004.04.20 AM5:41)も、心不全で83年9ヶ月と18日の生涯(蟹座)を閉じた。二人は同じ1920年の生まれでもある。

  • 福井県出身の竹内均とリンクして、同県出身の桑原武夫も享年83歳だ。

    ●「俳句第二芸術論」を提起し、新京都学派と呼ばれる共同研究組織を「猛獣使い」のようにオルガナイズした桑原武夫(1904.05.10〜1988.04.10 )も肺炎で83年11ヶ月ジャストの生涯(牡牛座) だった。

  • また竹内均と均繋がりで中内功も享年83歳だ。

    ●スーパー・ダイエーの創業者で、日本の流通革命の旗手と言われた中内功(1922.08.02〜2005.09.19)も、脳梗塞で83年と1ヶ月と17日の生涯(獅子座)であった。


    (2006.12.15更新)       



83年?の生涯

孟子
Moushi/Mencius   【孔子に次ぐ亜聖】

(BC372.不詳〜BC289.不詳)
死因?---?座

  • 中国、戦国時代の思想家・儒学者。魯国(山東省)の鄒(すう)の人。名は軻(か)、字は子輿(しよ)、子車。英語ではラテン風に"Mencius"と呼ばれる。
  • 孔子の仁の徳に基づく礼治主義を継いで諸国を遊説したが用いられず、退居して教授と著述に専念。その弟子たちとの言行が『孟子』7編に記録されている。
  • 彼は礼を父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫とし、人間の本性を性善説で把握、覇道を排して王道による天下統一を説いた。つまり、天意は仁心に基づいた民生安定にあるので、天子はこの民本主義の仁政を行う責任を負っていて、その成否によって生じる天下民心の向背に基づいて天から任免されるとした。
  • 学を孔子の孫の子思の門人に受けた。孔子の思想を継承して諸国に遊説したが容れられず、退いて故郷の鄒で門人の教育にあたり、孔子の意を祖述して『孟子』七編を作成。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け、『孟子』は南宋の朱子が『大学』・『中庸』・『論語』と合せて四書とし、のち儒教の必読書となる。
  • 孔子に次ぐ人として亜聖とも呼び、また後世には孔孟と並称されるようになり、「孔孟の道」は儒教の代名詞となった。
    また、孟子の母も賢母として知られている。孟子の母が教育環境を配慮して三度転居したという伝説、「孟母三遷」は有名。
  • 「孟子は「人の性はもともと善である」という性善説で有名だが、同時に「悪い支配者は殺してもよい」とする革命皇帝の思想を展開している」(1)。
  • 「孟子が理想的な善政のあり方の一つとして、〈70の老人に肉を食べさせられるようにする〉ことを挙げている。当時、肉をたらふく食べるのは、すべての人の夢だった」(2)
  • 「〈性善説〉:孟子の説。人間の本性は善であり、人はすべて惻隠(そくいん)(あわれみ痛ましく思う)羞悪(しゅうお)(不善を恥じ憎む)辞譲(へりくだり譲る)是非(正邪を判断する)の四つの情を備えていると説いた」(3)。
  • 「古川柳に、「おっかさん又(また)越すのかと孟子言ひ」とある。子供の教育にふさわしい住環境を求めて、孟子の母が引っ越しを重ねた「孟母三遷」の故事は知られている。墓地のそばから市場のそば、さらに学校のそばへ居を移したという。住んでみれば希望の地が失望の地になり、容易に理想の環境と出合えないのが教育のむずかしさだろう」(4)。
  • 〈自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人というども吾いかん〉---吉田松陰が好んで使ったとされる孟子のことば。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「中国の古代思想家5
    (2)日経新聞2004.04.18朝刊「漢字ことば散策」より抜粋。
    (3)読売新聞2005.12.07夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (4)読売新聞2007.01.26朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.01.27更新)




▲中国、戦国時代の思想家・孟子。

 

孟子語録

◆「人間はだれでも他人の不幸を見過ごせない同情心がある」

◆「天の将(まさ)に大任をこの人にくだすさんとするや、必ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為(な)なさんとするところに払乱せしむ」。
(天がある人に大任を授けるときは必ず、まずその人の心身を苦しめ、窮乏の環境におき、すべてその人のすることには逆行する事態を起こし試練を与えるということ)

83年?の生涯

エピクテトス
Epictetus       【奴隷出身の哲学者】

(55.? 〜 138.?/136.?/135.?)
死因?---?座

  • 生没年、生い立ちは定かではない。フリギアのヒエラポリスで生まれたと考えられている。エピクテトス(エピクテートス)という名も本名ではないとの説もある。
  • 55年頃、フリギア(小アジア)のヒエラポリスに生まれる。父は不明。母は奴隷の身分であったという。奴隷として売られて皇帝ネロの統治下にあるローマへ。主人はエパプロディトス(ネロの解放奴隷)。ローマでは彼の生活は不健康だったという。
  • エパプロディトスの許しを得てストア派の哲学者ムソニウス・ルフス(Musonius Rufus)に就いて哲学を学ぶ。いつの時点でかは不明だがエピクテトスはエパプロディトスから解放され自由になった(エパプロディトスは95年にネロの自殺幇助のかどで死刑に処せられている)。
  • 89年から95年の間に皇帝ドミティアヌスに追い出される。
    亡命後の95年、ドミティアヌス帝の哲学者追放によってエピクテトスはギリシアのニコポリスに移住し、学校を開く。皇帝ハドリアヌスも訪問した。ここでアレクサンドロス3世の伝記を書いたアッリアノスは勉強した。
  • 後にエピクテトスの言葉を書き残すことになるアリアノス(Flavius Arrianus, c0095-c0175)が弟子になったのはこの頃のこと。エピクテトスは通説によれば136年頃歿した。
  • エピクテトスは書物を残さなかった。弟子のアリアノスによる『語録』(Diatribai)とその要約ある『提要』(Encheiridion)が伝存している。人間が完全に支配できるのは自分の意志だけであり、意志外のものはかならずしも自由に支配することはできないとの認識を基調とした倫理的思想は、マルクス・アウレリウスをはじめ後世に影響を与えいている。
  • 「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではない一切のものである。われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである」(1)。
  • 「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死が恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である」(2)。
  • 「君が知恵の正しい進歩を欲するならば、次のような誤った考えをまず取り除かねばならぬ、「自分の財産を不注意に取り扱うならば、やがて生計の道を失うだろう。自分の息子を罰しなければ彼は悪人になるであろう。」不安の心を抱いて贅沢三昧に暮らすよりも、恐れと憂いなしに死んだ方が勝っている。自分が不幸になるよりも、息子が悪人になる方が勝っている」(3)。
  • 「忘れてならないことは、君は人生において、饗宴の席におけるように振る舞わなければならぬことである。馳走の皿が君の前に回ってきたなら、手を差し伸べてその中から控えめに少しの分量をとれ。君の好むものが、しばらく回ってこなかったからといって、強いてそれを求めてはならぬ。むしろそれが君のところに回ってくるまで待っていよ。妻子や身分や富に関しても同様に振舞うが良い。そうすれば君は、いつかは神々の客人となるであろう」(4)。
  • 「あまりに長く肉体上のことに、例えば飲食やその他のことに、かかわっているのは、品性の卑しいしるしである。これらのことはすべて余計なものとして取り扱わねばならぬ。時間と精力とは、もっぱら精神のために用いなければならぬ」(5)。
  • 「たまさん お忙しいところ、どうもありがとうございました。彼は奴隷時代に主人に足を折られ、杖なしでは歩けなかったそうです。そんな彼が残した詩です。
    〈奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛、貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき〉(イロスは「イーリアス」に登場する乞食)こちらhttp://www.geocities.jp/timeway/kougi-16.htmlより」(6)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    哲学の劇場 > 作家の肖像 > Epictetus
    エピクテトス-Wikipedia
    (1)〜(5)以上、ヒルティ『幸福論』「エピクテトス」(草間平作訳)より---「ストア派
    (6)投稿者:koromoさん..2007/ 9/24 13:27:34(月) [2387]

(2007.09.24更新)




▲古代ギリシアのストア派の哲学者・エピクテトス。


◆奴隷時代に主人に足を折られ、杖なしでは歩けなかったといわれるエピクテトス。

エピクテートス語録

◆「幸福への道はただ一つしかない。それは意志の力でどうにもならない物事は悩んだりしないことである」

◆「君のものだけを君のものであると思い、君のものでないものを事実そうであるように自分のものでないものと思う。エピクテートス」

◆「哲学は人間の外側のものを与えない」

◆「人間を不安にし、驚かすものは、『物』ではなくて、『物』についての人間の意見と想像である」

83年?の生涯

呉 承 恩
Go Syou On   【「西遊記」の生みの親】

(1500.?〜1583.?)
死因?---?座

  • 中国・明代の作家。71歳で西遊記を書き始め83歳で没したとされるが不詳。
  • 中国・唐時代の僧・玄奘三蔵(三蔵法師)が7世紀、インドに教典を求めての大旅行を記した「大唐西域記」。これを16世紀、明時代の呉承恩が民間伝承をとりまとめ、小説として発表したのが「西遊記」。
  • 「中国,明代の口語長編小説。『水滸伝』『三国志演義』『金瓶梅』とともに四大奇書とされる。明の呉承恩撰。1570年(隆慶4)ごろ成立。民間に語り継がれて伝説となった,玄奘三蔵の西天取経の話にもとづき,呉承恩が100回の物語にまとめたもの。天地の精気を受けて花果山水簾洞(すいれんどう)に生まれ,72般の変幻の術を悟得した石猴(いしざる)孫悟空・豚の猪八戒・河童の沙悟浄が,唐の太宗の命を受けた三蔵法師を助けて天竺へ行き,経典を得てのちともに成仏するという筋。途中81の危難に会うが,なかでも金角大王・銀角大王や牛魔王との戦いは有名。全編ユーモアと人道主義にあふれ,とくに3従者の性格描写はみごとである。テキストには繁本・簡本ともに多数あるが,今日伝存する『西遊記』の9割近くまでが陳士斌の『西遊真詮』(清刊本)である。口語の邦訳には『中国古典文学全集』(平凡社)がある」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「西遊記

(2004.06.27更新)




▲「大唐西域記」の民間伝承をとりまとめて「西遊記」を発表した呉承恩。

83年?の生涯

小杉未醒/放菴
Misei Kosugi   【村山槐多を可愛がった画家】

(1881〜1964=明治14年〜昭和39年)
死因?---?座

  • 栃木県日光に生れる。本名は国太郎。
  • 明治29年五百城文哉に学ぶ。明治32年小山正太郎の不同舎に入る。明治35年大平洋画会員。この頃から未醒と号。小川芋銭との交友がはじまる。
  • 同38年石井柏亭らと雑誌「平旦」を創刊、同40年雑誌「方寸」が創刊され同人として参加。大正11年春陽会の創立に加わる。翌12年放庵と改号。
  • 昭和2年老荘会を発足させ、同4年華厳社を組織した。昭和10年帝国美術院会員。春陽会に所属しながら、絶えず日本画を制作しつづけた。代表作は「水郷」。新潟県新赤倉で没。
  • 「この人が槐多を可愛がってくれていた小杉未醒さんです。---日光在住の洋画家・五百城文哉に学んだのち、上京して小山正太郎の不同舎に入塾、未醒と号して主に太平洋画会展で活躍し、文展でも二度にわたって最高賞を受賞します。その間、漫画家や挿絵画家としても頭角をあらわし、美術雑誌『方寸』などの創刊に関わり、のちには横山大観と知り合ったことから、再興日本美術院にも当初から同人として参加して洋画部を主宰しました。 院展の洋画部は第7回展で解散したため、未醒らは新たに春陽会を結成しますが、それからも、親友であった山本鼎の農民芸術運動に協力するなど、その芸術活動にはたいへん幅広いものがあります。また、早い時期からテニスや野球を楽しんでいたスポーツマンとしても知られ、国木田独歩芥川龍之介といった作家や、その周辺の学者、思想家、財界人たちとの親密な交友関係もありました。大正の終わり頃から号を放庵(のちに放菴)と改めて、次第に水墨と淡彩による表現への関心を深め、日本画の世界においても独自の境地を創造しますが、晩年は新潟県赤倉の山荘に住んで、仙人になったと評される生活を送り、1964(昭和39)年に没しました。代表作には東大安田講堂の壁画や「水郷」「山幸彦」「奥の細道画冊」などがあり、それらの作品にあらわれた 自然への優しく確かなまなざしは、幼い頃に過した日光の風土に対する回想が基調になっているとされています。(美術館開館のリーフレットより)」(1)。
  • 槐多と未醒の年の差は、ちょうどボクとユリウスさんくらいです。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    0039
    (1)「未醒ちゃん

(2006.05.22掲載)




▲日本画の世界においても独自の境地を創造し、晩年は新潟県赤倉の山荘に住んで、仙人になったと評される生活を送った小杉未醒/放菴。

 

83年?の生涯

石田 天海
Tenkai Ishida    【日本が世界に誇る大奇術師】

(1889.?〜 1972.?)
死因?---?座

  • 愛知県名古屋出身。本名 石田定次郎。
    当時大人気を誇った松旭斎天勝一座の一人として、1924年にアメリカ合衆国巡業へ。そこでスピード感溢れるスマートなアメリカ人のショーに感銘を受け、お絹夫人とともにアメリカへ残留を決意。
  • その後、1958年に帰国するまで30年以上にわたってアメリカショービジネス界で活躍した。演技者・天海の手先には「怪しさ」が感じられず、難易度の高い技法を完璧に、また自然な仕草で演じていた。
  • 天海の「時計の取り出し」「煙草の手順」に適う者はいないと言われたほどの絶品。 天海よりも先にその手順を演じていたカーディニに「模倣だ」として訴えられたことがあるが、仲介者を交えた行った演技披露対決に勝利したエピソードが有名。
  • クロースアップからステージに至るまで多岐に渡る業績を残し、また研究家としても数々のオリジナルマジック、技法、そして古典の改案などで活躍した。
  • ダイ・バーノン、ボウボウ、ハリー・ブラックストーン、チャーリー・ミラー、ハーラン・ターベルといった著名な奇術師と親交が厚く、現在でも海外で「TENKAI」の名は広く知られている。
  • また、テンカイパーム、テンカイ・アジャストメントジョグ、テンカイガードナームーブ、テンカイターン、テンカイチェンジなど数々の技法を考案し、 海外の有名なマジシャンにもかなりの影響を与えた。
  • 日本では、天海の業績を讃え、後進を表彰する意味で石田天海賞が創立されていた(現在は停止)。年に一度、創作奇術で活躍した人間に与えられるもので、1967年から約30年間続いた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    石田天海-Wikipedia

(2006.07.13掲載)




▲30年以上にわたってアメリカショービジネス界で活躍した石田 天海。

 

 


83年?の生涯

ジャン・アンジャイン
John Anjain   【米政府が唯一、認定した被害者】

(1921?〜2004.07.20)
死因不明だが、がんの治療を続けていた---?座

  • マーシャル諸島ロンゲラップ島の元村長。1954年3月1日、に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で「死の灰」を浴び、多くの村民と共に被ばく。
  • 療養先のハワイで死去した。81歳。死因は不明だが、がんの治療を続けていた。同諸島共和国上院議員でめいのアバッカ・アンジャインさんらが明らかにした。 
  • ロンゲラップ島は実験現場から約160キロ離れていたが、死の灰が風に流され島民82人が被ばく。 当時1歳の息子も被ばくして19歳の時に死亡、米政府が唯一、核実験が原因で死亡したと認定した被害者となった。
  • 1954年3月1日の同実験では静岡県の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員も被ばく、日本で大きな社会問題となった。
  • ビキニ環礁で行った水爆実験は女性水着“ビキニ”の語源である。
  • 「ビキニの語源の推定です。ビキニ以前に発表された大胆な水着が、最も小さい意味で「アトム(原子)」と呼ばれていたことや、1946年に、フランスのデザイナー『ルイ・レアール』がセパレーツ型の大胆な水着を世界で初めて発表したその同じ年に、原水爆実験がビキニ環礁で行われたことから、その衝撃をなぞらえ、「ビキニ」と呼ばれるようになったらしい」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.07.22夕刊
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.09.29(Thu) 02:44[641]

(2005.09.28更新)




▲米政府が唯一、核実験が原因で死亡したと認定した被害者となったジャン・アンジャイン。
▲写真はヨハネさんから情報を頂きました。


 

 

 

 

83年?の生涯

安立スハル
Suharu Anryu    【『この梅生ずべし』】

(1923.?〜2006.02.26=大正12年〜平成18年)
肺炎---?座

  • 京都の生まれ。
  • 16歳で結核を発病、休学中に作歌を始めた。
    23歳の時 洋裁店を開くが挫折。
    26歳で 宮柊二に感銘を受けた。
    この頃 結核が悪化 余命二ヶ月と診断されるが 持ちこたえ長期にわたって療養生活に入る。
    29歳で『コスモス』に入会。
    41歳の時『この梅生ずべし』を上梓した。
    歌集は此れ一つであり 以降は 『コスモス」や短歌総合誌に文章や作品を発表するにとどまった。
  • 妹母に先立たれ 平成18年2月26日午後9時45分、肺炎のため岡山市内の病院で死去、83歳。
  • 安立スハルの歌
    「馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る」

    「金にては幸福は齎(もたら)されぬといふならばその金をここに差し出し給へ」

    「神は無しと吾は言はねど若し有ると言へばもうそれでおしまひに」

    「自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ」

    「家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす」

    「青き眼にヒロシマの何を見しならむただゆるやかに歩み去りたり」

    「島に生き島に死にたる人の墓遠目に花團のごとく明るむ」

    「今しがた小鳥の巣より拾ひ上げし卵のやうな一語なりしよ」

    「一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く」

    「大切なことと大切でないことをよりわけて生きん残年短し」

    「あとにただ白骨だけが残ること目をみひらいて見つめ申しぬ」

    「有様は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むる」

    「うつくしき毬藻のやうな地球といふそを見ることもなくて終らん」

    「「ああ駄目だ、日本は負ける」と言ひし父を憎みき昭和十九年ごろ」

    「いつとなく決まりしかたちものを書く机の上に花を置かざる」

    「立ち憩ふ輓馬(ばんば)のまなこ覗きみればとてもかなはぬやさしさを持つ」

    「近江路もここらあたりはしんしんと山たたなはる思想のごとく」


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    KUREMUTU CLUB: 必読短歌5 〜正岡子規・山中智恵子・安立スハル
    安立スハル 『この梅生ずべし』 - 世界の隅の静かな日々の記録

(2010.09.02掲載)


★肖像を探しています。

▲「金にては幸福は齎(もたら)されぬといふならばその金をここに差し出し給へ」の歌で知られる歌人・安立スハル。




 

 

 

 

83年?の生涯

清野春彦
Haruhiko Seino     【水俣病闘争にささげた半生】

(1923.?~2006.10.26)
前立腺癌---?座

  • 新潟水俣病の舞台となった阿賀野川に近い新潟県水原町(現阿賀野市)生まれ。東大法学部を卒業すると、女手一つで育ててくれた母親の面倒を見るため、郷里に戻って弁護士になった。
  • 4大公害裁判の先駆けとなった新潟水俣病第1次訴訟(67年提訴)の弁護団に加わった。「水俣病とはどういうものか」を論じる病像論を担当、高い評価を受けた。
  • 不正義を許さない弁護士だった。新潟地裁のある公選法違反事件の公判。はぐらかそうとする被告を「まだ分からないのか」と厳しく諭した。
  • 弁護人の追及に検察官は「補足尋問はありません」と舌を巻いた。この被告はその後も、頼ってきたという。費用を払えない依頼人の仕事も引き受け、謝礼は甘夏みかん一箱ということも。
  • 暴力団員の弁護も引き受けた。理由は「いかに暴力団が割に合わないかを教えるため」だった。熱く思いを語る一方で沈着冷静だった。
  • 水俣病の被害者団体や労組、政党、弁護団などで結成された共闘会議の議長に79年に就任、調整役に徹した。長期化する裁判。原告は次々に倒れ、平均年齢も70歳を超えた。
  • 熊本中心の水俣病の政治決着に合わせた和解は「生きているうちの解決を目指した苦渋の選択」だった。「患者らはこれからも苦難の道です」と話してくれたことが心に残る。
  • 2000年、脳梗塞で倒れた。その後、関西訴訟の最高裁判決(04年10月)が行政の責任を認め、現行の認定基準を否定した。だが、国が判決に従わない問題の根幹はいまだに病像論にある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2007.08.07掲載)




▲弁護士、新潟水俣病共闘会議議長・清野春彦。




 

 

 

 

83年と9日の生涯

八木彩霞
Saika Yagi   【「森永ミルクキャラメル」のデザイナー】

(1886.12.05〜1969.12.14)
死因?---射手座

  • 洋画家。愛媛県松山市北夷子町(現三番町)出身。本名 八木熊次郎。 愛媛師範学校を明治43年卒業 。愛媛県内の小学校に大正5年まで勤務 。
  • 神奈川県横浜市元街小学校に転勤し勤務 。大正7年「森永ミルクキャラメル」のデザインを作 成し、現在もそのままで80年余のロングランとなる。
  • 大正11年明治天皇のご尊像の油彩によるご下 命があり1面は宮内省にもう1面は明治神宮に奉 納し宝物殿に現存。
  • 大正11年 松山15代当主久松定謨伯爵の松山 の久松家別邸の建築にあわせて愛媛県松山市 「萬翆莊」の壁画を依頼される 当時のまま現存。
  • 大正14年まで横浜市元街小学校に勤務。同年退職ヨーロッパに向かう パリへ留学 。ソルボンヌ大学文学部とグランショミール美術学校に通い日本人会の会員となる。画友藤田嗣冶の紹介で当時モンマルトルの丘に住んでいた印象派・後期印象派のアトリエに通い研究。
  • 昭和2年帰国以後教育界・画壇にて活躍。帰国直後の昭和2年3月25日に「愛媛県温泉郡 小野尋常高等小学校」(現松山市小野小学校)に招かれ講演。
  • 「当時の野中先生が画聖と紹介されたことやシベリ ヤ鉄道で帰国した話を5年生の時に聞いた記憶 を現在88歳の渡部登先生から聞きました。小野小学校の郷土副読本「ふるさと小野」に彩霞さんの記事がのっています 父親の故郷である当時の小野村北梅本を しばしば訪れており民家に思わぬ絵が たくさん残っています」(1)。
  • 「1925年パリに渡り、サロンコンクールで入賞。レオナール・フジタは親友で、彼の死に際して筆を折ったということです。彼のお孫さんがHiRo彩霞という名で、ベルギーで画家として活躍しています」(2)。
  • ボクは味よりも、“おまけ”に釣られたグリコ派でした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「2004/03/28 81488: 松山と横浜をむすぶ1枚の壁画 :宮内マキノb ...」
    (2)投稿者:みさん2006.07.0 5(Wed) 18:17[1970]

(2006.07.11掲載)




▲現在もそのままで80年余のロングランとなる「森永ミルクキャラメル」のデザインを作 成した八木彩霞。

(肖像はみさんから提供を受けました)



 

 

 

 

83年1ヶ月と1日の生涯

西山夘三
Uzou Nishiyama   【ダイニングキッチンの生みの親】

(1911.03.01〜1994.04.02)
死因?---魚座

  • 建築学者。大阪生れ。1933年京大工学部卒。
  • 住宅問題、都市計画などを専攻、京大教授を務めるかたわら特に住宅設計に力を注いだ。
  • ダイニングキッチン誕生のもととなった『食寝分離論』など、従来の直観的・芸術的デザインを排し、科学的な調査研究に基づく住宅設計を提唱。
  • 著書『住宅問題』『現代の建築』など。
  • その著作において、学生時代お世話になりました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.11.22更新)




▲京大教授を務めるかたわら特に住宅設計に力を注いだ西山夘三。

 

 

 

 

83年1ヶ月と17日の生涯

中内 功
Isao Nakauchi    【ダイエーグループ創始者 】

(1922.08.02〜2005.09.19)
脳梗塞---獅子座

  • 大阪生まれで神戸育ち。小さな薬屋の息子として生を享ける。1941年神戸高等商業学校(現:神戸商科大学)卒業。
  • 1942年日本綿花(現:ニチメン)入社。1943年応召、フィリピンへ転戦し、捕虜となる。太平洋戦争の激戦地フィリピン・ルソン島を彷徨い、奇跡的に生還。
  • 終戦後はヤミ市を舞台に人生の再スタートを切る。空襲で焼け野原になった神戸の闇市で始めた医薬品販売が事業の原点となった。
  • 1987年に「良い品をどんどん安く」をモットーにした安売り店「主婦の店ダイエー」1号店を大阪市に開業。キャッシュレジスターの導入や、独自の流通網を築きあげることで、思い切った値下げ作戦を展開する。戦後日本経済の発展とともに成り上がった。高度経済成長の波に乗り、ダイエーを全国最大のスーパーチェーンに育て、大量消費時代の幕を開けた。
  • 1970年売上1000億円突破。1972年東証一部上場。売上高で三越を抜いてダイエーを小売業日本一に成長させた。1980年小売業初の1兆円企業に育てた。コンビニや百貨店、ホテルなどにも進出。
  • 1988年にプロ野球南海ホークス(当時)を買収、1992年ダイエーホークス発足。1990年経団連副会長。1992年にリクルートを傘下に収める。
  • しかし、1990年代になると、バブル経済の崩壊と阪神大震災、大規模小売店舗立地法の緩和による競争激化に直面、経営が一挙に悪化。1999年に社長を、2001年には取締役を退いていた。
  • 2004年12月、ダイエーが産業再生機構の支援を受けることになり、自身が保有していたダイエー株を処分、名誉職のファウンダー(創業者)も辞めダイエーとの関係が完全に切れた。
    オーナーを務めた「福岡ダイエーホークス」もソフトバンクに売却された。
  • 著書に「わが安売り哲学」がある。
  • 大量仕入れによる安売り商法で消費者を味方につけ、それまでメーカーに握られていた価格決定権の奪取を試みた。値引き販売をめぐっては家電最大手、松下電器産業と対立、独自の低価格テレビ発売でも話題を集めた。
  • 「中内氏がメーカーに牙をむいて安売りを始めなければ、コンビニエンスストアーも100円ショップもなかったと思う」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)読売新聞2005.09.20朝刊 佐野眞一。

(2005.12.31更新)




▲スーパー・ダイエーの創業者で、日本の流通革命の旗手と言われた中内功。



◆福岡 ダイエー・ホークスの王監督と。


中内語録

◆「価格を決めるのはメーカーではなく、消費者であるべきだ」

◆「馬鹿と天才とは、この世に存在することはまれである。全てが我々凡人の世界である。その中で半歩前に踏み出すことのできる勇気を持つ事が大切である」




83年2ヶ月と7日の生涯

エドガー・ドガ
Hilaire Germain Edgar Degas  【クロッキーの天才】

(1834.07.19〜1917.09.26)
孤独のうちに寂しく他界 ---蟹座

  • 43歳頃描いた代表作『花束を持って挨拶をする踊り子』で知られるフランスの画家。パリの裕福な銀行家の息子として生まれる。
  • 最初は法律を学び、その後、国立美術学校に入る。イタリアに留学し、古典派の影響を受け、ゾラの自然主義文学のグループを知り、印象派へとスタンスを変える。
  • 40歳頃ころ印象主義のグループに参加、戸外の光の下で描く方法をとらず、つねにアトリエで作品を制作し、独自の画風に到達した(蟹座は外が嫌いなのだ)。
  • 裸婦や踊子、洗濯女やサーカスの芸人等を華麗あるいはリアルに描き、視点の選び方、構図の工夫、色彩とマチエールの美しさ等に独特の才能を示した。彫刻や版画、パステル画にもすぐれた。
  • 正確なデッサンと鋭い線、鮮やかな色彩で知られ、人物の動きの瞬間的なポーズを巧みに捉えたクロッキーの天才。ポーズや色彩には日本の版画家葛飾北斎らの影響もうかがえる。
  • 36歳のときに普仏戦争に志願して従軍したことが原因で目を痛め、60歳頃からほとんど見えなってしまい、晩年 は、手さぐりで小彫刻を作っていた。
  • 「ドガは1856年(22歳)で『北斎漫画』を見て驚嘆、北斎にのめり込んでいった」(1)。
  • 「ブルジョワの夫人から街娼まで、あらゆる女性の身体を描いたドガ」(2)。
  • 彼は私生活でも鋭く激しい性格のため妻もなく、友人も、門人も無いという孤独のうちに寂しく亡くなったといわれている。やな性格だったのかな?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.02.29朝刊「美の美」より。
    (2)「読売新聞2006.06.11朝刊 小倉孝誠著「身体の文化史」の林道郎の書評より抜粋。

(2006.06.11更新)




▲正確なデッサンと鋭い線、鮮やかな色彩で知られ、人物の動きの瞬間的なポーズを巧みに捉えたクロッキーの天才ドガ。 自画像。

◆「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」

◆「自然を前にしたときでも、構成を忘れてはならない」(ドガ)


83年2ヶ月と21日の生涯

トーマス・ジェファーソン
Thomas Jefferson    【自由の使徒】

(1743.04.13〜1826.07.04)
死因?---牡羊座

  • アメリカ独立戦争における大陸会議の代表としてアメリカ独立宣言を起草した啓蒙思想家。米国を人類最善の希望を担った「自由の帝国」とみなした。
  • ピーター・ジェファーソンとジェーン・ランドルフの息子としてヴァージニア州に生まれる。両親は共にヴァージニアに入植して何世代も経た家族の出であった。ウィリアム・アンド・メアリーカレッジに入学し多くの改革を試み、続いてヴァージニア大学に入学。
  • リパブリカン(republican)党の党首で、ヴァージニア邦知事、国務長官、初代大統領ワシントンの下での国務長官、第2大統領ジョン・アダムズの下での副大統領。
  • 1801年に第3代大統領に新都市コロンビア特別区(翌年ワシントンと命名)において58歳で就任(任期:1801年3月4日-1809年3月4日)。前大統領:ジョン・アダムズ。次大統領:ジェームズ・マディスン。ファーストレディはマーサ・ウェイレス・ジェファーソン。本職は弁護士、農民。政党は民主共和党。
  • 前年の大統領選挙では、フェデラリスト党がアダムズの再選を目指したのに対して、リパブリカン党はジェファーソンと前上院議員アーロン・バーの2人を立て激しい選挙戦を展開した。投票に結果は、ジェファーソンとバーが選挙人の73票、アダムズが65票を獲得したため、下院における決選投票となり、実に36回の投票でジェファーソンが選ばれた。
  • 大統領就任演説では、「賢明でつつましい政府」を訴えた。
    そこでは、自らが過ちを犯すおそれについても謙虚に語られている。、つつましさ、謙虚。それらを欠いた「自由の帝国」は独善以外のなにものでもないからである。
  • ジェファーソンは、1803年にナポレオン1世から1、500万ドルでミシシッピ川から西部地域の210万平方キロのルイジアナを購入し、ロッキー山脈に至る地域を併合。西部開拓農民の利益をはかるなど、合衆国発展の基礎をつくった。
  • バージニア州モンティセロに没す。
  • ジェファーソンは、初代のワシントン、2代目のアダムズ大統領が見せたヨーロッパの貴族のような華美な装飾を嫌い、儀礼の簡素化につとめたことでも知られる。おかげで英国公使をパジャマ姿で迎えて激怒させたエピソードでも有名になった。
  • ジェファーソンに対する歴史的評価は、「自由の使徒」として有名であり、リンカーンとともに今直アメリカ国民に人気があるが、奴隷制に対する態度は死ぬまであいまいだった。なお、ジェファーソンが夫人の没後、混血の黒人奴隷のサリー・ヘミングス(Sally Hemings)との間に3人の子供をもうけていたとの風説が大統領在任時からあったが、その子供の1人の子孫の遺伝子の分析と彼の嫡流のそれが一致、そのため、嫡流の人々で結成するジェファーソン協会(Monticello Association of the Descendants of Thomas Jefferson)の99年の年次会合にヘミングスの末えい35人が招待された。
  • ワシントンから200キロ、ヴァージニア州シャーロットビル市の近郊の丘の上に美しい庭園と巨大な図書室を持つ2、000エーカー(約8平方キロ)の記念館(邸宅)があり、そこから地平線まで続く樹海が展望できる。
  • 多くの歴史家はジェファーソンを歴代大統領の中で最も優れた人物の一人として考える。ジョン・F・ケネディ大統領は1962年にホワイトハウスへ49人のノーベル賞受賞者を招いた席で「私はこの席が、トーマス・ジェファーソンが一人で食事をした時を除いて、ホワイトハウスにかつて集められた最も特別な才能と知識のコレクションだと思う。」と語った。
  • 「トーマス・ジェファーソンについて豆知識です。有名な話ですが、彼は、ライバルである前大統領のジョン・アダムスと同じ日に亡くなっています。しかも、50回目の独立記念日に。笑っていいのか分かりませんが、ジョン・アダムスの最期の言葉が『Thomas Jefferson survives?』だそうです。寿命でもライバル視していたのでしょうか?ジェファーソンは数時間前に亡くなっていましたから、アダムスの勝ちですね(^_^;)ただ、独立宣言で『all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.』と言いながら、家では黒人奴隷を100人以上こき使ったり、ネイティヴアメリカンから土地を取り上げたり、やっぱりアメリカ人なんですね」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    トーマス・ジェファーソン
    (1)投稿者:センサー石畑さん 2005.02.24(Thu) 03:46

(2005.02.24更新)




▲アメリカ独立戦争における大陸会議の代表としてアメリカ独立宣言を起草した啓蒙思想家トーマス・ジェファーソン。

83年2ヶ月と23日の生涯

ヘルムート・ニュートン
Helmut Newton   【現代写真界の巨匠】

(1920.10.31〜2004.01.23)
ハリウッドで交通事故---蠍座

  • 現代写真界の巨匠。1920年ドイツのベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれる。 12歳で既に自分自身でカメラを買い写真を撮り始める。
  • 彼はマーティン・ムンカッチのルポルタージュに魅了され、自身も写真家を志す。1936年からベルリンのファッションおよび演劇専門の女性写真家エルセ・サイモン(通称イヴァ)の見習いになり写真を学び始める。
  • ナチの迫害を逃れて1940年にオーストラリアに移り市民権を獲得、メルボルンで写真スタジオを開く。この頃にジューン夫人(アリス・スプリング)と知り合う。
  • 1952年には、ヴォーグ・オーストラリア版で仕事を始めます。1957〜1958年にはヴォーグ・イギリス版と契約して、一時ロンドンに住む。
  • 1962年にパリに移り住みヴォーグ・フランス版の仕事がきっかけで実力が認められる。初期のニュートンの写真は映画やドラマをヒントにしたものが多く見られる。しかし70年代以降に開花するヨーロッパ上流階級の退廃的な雰囲気と潜在的な暴力、エロティシズムを感じさせるスタイルのベースをこの時代の写真に発見することができる。
  • 60年〜70年代にかけて各国のヴォーグ誌、マリークレール、エル、シュテルン、プレイボーイで大活躍。
  • 彼のスタイルは1971年に心臓発作を起こして大きな転機を迎える。それ以降ニュートンは自分の体のことを考え自分の望むイメージしか撮らなくなる。雑誌やクライエントの為に心臓に負担のかかるプレッシャーの中でアイデアを絞りだすことをやめた。彼は戦前のベルリン時代からの自分自身の体験をベースにしたイメージのみを撮影することになる。 彼の写真スタイルはより激しいセクシーさやエロティシズムを追求するように変貌していく。今までファッション写真ではタブーであった 売春婦、フェティシュ、女性の男装などをモチーフに取り入れるようになる。時代の流れを先取りしたイメージは最初ポルノだとの物議をかもした。しかしこのスタイルの変化が彼のオリジナリティーを確かなものにし、特に写真集 "White Women"を1976年に出版後は彼は写真家どころかアーティストの地位を不動のものとする。
  • 1975年からオリジナル・プリントの展示、販売を初め、彼の作品は世界中のギャラリー、美術館で 展示されるとともにコレクションされる。
  • 1981年よりモナコに在住、80歳を過ぎても現役で広告、ヴォーグ誌、ヴァニティー・フェアー誌で作品を発表していた。
  • 日本ではヘアヌードがブームの1993年に石田えりの写真集「罪」を撮り下ろしてベストセラーになった。画家サルバドール・ダリらの肖像写真でも知られる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.01.24朝刊 
    ヘルムート・ニュートン プロフィール ...

(2005.09.26更新)




▲現代写真界の巨匠・ヘルムート・ニュートン。


▲石田えりの写真集「罪」。


83年2ヶ月と24日の生涯

5代目・古今亭志ん生
Shinsyou Kokontei   【昭和の大看板】

(1890.06.28〜1973.09.21)
死因?---魚座

  • 昭和期の落語家。東京は神田の生まれ。本名美濃部孝蔵。
    名人橘家円喬に入門して後、小円朝、4代志ん生、三語楼などにつき、また一時は講談師にもなったり、改名も16回に及んだが、この間に奔放自在の芸をみがき上げた。
  • 破天荒な道楽のため、「なめくじが這う」ような貧乏長家暮しが長く続いたが、1939年(昭和14)五代目古今亭志ん生を襲名。「火焔太鼓」など人情噺や滑稽噺に天才的な冴えをみせた。西の桂文楽と並ぶ名人とうたわれ、芸術祭賞を受賞し確固たる地位を築いた。
  • 著作「なめくじ艦隊」で語られる極貧生活は有名。「昭和の名人」生き方そのものが落語であったといわれる。
  • 長男は十代金原亭馬生、次男は三代古今亭志ん朝。芸名は江戸後期から五代を数える。
  • 初代〔1809-1856〕は幕末の人情噺(ばなし)の名手。《お富与三郎》《小猿七之助》などを得意とした。4代〔1877-1926〕も明治〜大正に渋い芸をうたわれた。
  • 「タイムマシンがあったら、いつの、どこへ行くか?」落語好きなら、答えは決まっている。「昭和30年代までさかのぼって、人形町の末広で志ん生を聞く」である」(1)。
  • 「〈極貧生活に道楽三昧〉、八方破れの生きざまを芸の肥やしに、天衣無縫と呼ばれる至芸を確立した五代目古今亭志ん生。誰にもまねできないリアルな人物描写、聞く者をぐいぐい引き込んでいく独特の間は、逝って30余年、今なお落語ファンを魅了して止みません」(2)。
  • 「人生そのものが落語だった」(3)。
  • 若い頃から「呑む・打つ・買う」の三道楽を究めた志ん生。 極貧と破天荒な暮らしで磨いた名人芸。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.03.07朝刊「よみうり堂本」。
    (2)読売新聞2006.01.07朝刊新聞広告より抜粋。
    (3)日経新聞2009.01.20朝刊 新聞広告より

(2009.01.23更新)






▲生き方そのものが落語であったといわれる5代目・古今亭志ん生。

志ん生語録

◆「貧乏はするもんじゃねぇ。味わうもんだ」(志ん生)


83年2ヶ月と26日の生涯

ヴィクトル・ユゴー
Victor-Marie Hugo 
            【『レ・ミゼラブル』の生みの親】

(1802.02.26〜1885.05.22)
死因?---魚座

  • 『レ・ミゼラブル』で知られるフランスの詩人、小説家、劇作家。ナポレオン軍の将軍の子で、幼時スペインなど外地に滞在。
  • 少年期から文学に熱中し処女詩集『オードと雑詠集』(20歳)以後作家生活に入る。
  • 初期は王党的で『東方詩集』などの作品があるが、次第に自由主義、人道主義に向かい、戯曲『クロムウェル』(25歳)の序で古典派の美学や劇作法を攻撃、ロマン主義の理論的支柱となる。『エルナニ』(28歳)は初演時に大騒動が起きたが、ロマン派の勝利を画した。
  • 中世を描いた歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』、抒情詩集『光と影』などの発表後は、41歳での娘の溺死や政治生活のため作品がとだえる。
  • 43歳で上院議員。二月革命を機に共和政を支持し、49歳でのナポレオン3世のクーデタ以後の19年間は亡命生活を送る。この間に抒情詩の傑作『静観詩集』、人類史をうたう叙事詩『諸世紀の伝説』の第1集、小説『レ・ミゼラブル』などを書く。本書は『ああ無情』という邦題で刊行されている。
  • 帝政没落とともにパリに戻り、死に際しては国葬の礼を受けた。
  • その本領は詩にあり、詩語・詩法両面で近代詩の基礎を作った。デッサンにおいても優れた作品をのこす。
  • 「ヴィクトル・ユゴーは父親が軍人・将軍で爵位までもらった人物に似て、容姿にすぐれ、たいへん情熱的な男で、魅力的な女性がいるとすぐにその女性を天使や女神に祭りあげて、自分の思いを詩にあらわして相手に捧げ、数々の浮き名を流した。したがって後にユゴーの評伝を書いた有名なアンドレ・モロワなどは、ユゴーのこうした女性関係を皮肉っている。ヴィクトール・ユゴーはある夫人と関係をもち、しかも彼女とベットに入っている現場を、警察に押さえられた。夫人は拘置所に入れられ、ユゴーも危うく逮捕されかかったが、代議士の身分を楯に警察を威圧して、その場をのがれ、妻のアデールではなく愛人のジュリエットとともにパリの北東20キロのオンフェルメイユの町に身をかくした。これがエナルディエ夫婦の宿屋のモデルとなる。1845年のことである。この直後、ユゴーは『レ・ミゼラブル』の原型に当たる原稿を執筆し始めたのである。(1)。
  • 「いまこそユマニテ(人間愛)の復興を=リディ・ユイグ(ドラクロア友の会名誉会長)、ユゴーの精神は、時を越え、空間を越え、国境を越えて」(2)。
  • 「ヴィクトル・ユゴーの最後の言葉です。晩年の5月18日、彼は倒れ、ベッドの中で言った。「君、死ぬのはつらいね」「死んだりなさるものですか」「いや死ぬね」しばらくして「ここで夜と昼が戦っている」とつぶやいた。22日の朝から臨終の苦しみが始まり、午後1時37分に息を引きとった。最後の言葉は「黒い光が見える」だった。このときすざましい嵐がパリを襲い、雷が鳴っていたそうです」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)小倉孝誠『19世紀フランス光と闇の空間』人文書院。
    (2)電車の中刷り広告をメモ。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.06.04(Sun) 14:21[1689]


(2009.07.26更新)



▲ヴィクトル・ユゴーとジュリエットの肖像:アンドレ・モロワ『ヴィクトール・ユゴーの生涯』より

 

83年3ヶ月と3日の生涯

フェルナン・ブローデル
Fernand Braudel   【アナール学派第2世代の重鎮】

(1902.08.24〜1985.11.27)
死因?---乙女座

  • フランスの歴史家。シャンパーニュとヴァロワの間のフランスの小村に生まれる。
  • ソルボンヌを卒業後、21歳の時アルジェリアでリセの教師となり、1932年まで在職。この間、文書史料の収集に没頭。又、アンリ・ベール、アンリ・ピレンヌ、リュシアン・フェーブルらと知り合う。
  • 1935年〜37年、ブラジルのサンパウロ大学に出講。帰途、船中でリュシアン・フェーブルと運命的出会いをする。この年、高等研究院第四セクションに、フェーブルの推薦でポストを得、翌38年、『地中海』の著述を開始するが開戦となり、マジノ戦線へと派遣された。
  • 40年7月捕虜となり、マインツで2年、リュベックで43年5月まで収容所生活を送った。この間、学童用の粗末なノートに『地中海』の草稿を書きつけ、フェーブルに送る。
  • 終戦後、1946年、『アナール』誌の編集長となる(〜69年)。翌47年、学位論文『地中海』の審査を経、1949年にフェーブルの後任としてコレージュ・ド・フランスの教授就任(〜72年)。
  • 1956年(64歳)のフェーブルの死後、『アナール』の発展を中心的ににない、高等研究院第6セクション(現在の社会科学高等研究院)の責任者として活躍(〜72年)。
  • 1984年にはアカデミー・フランセーズの会員にも選出される。1985年、サヴォワにて死去。主著として『地中海』の他に『物質文明・経済・資本主義』などがある。
  • 「アナール学派」第2世代の重鎮で、きわめてグローバルな歴史研究と歴史における時間にかんする史論を展開し、世界システム論にも大きな影響をあたえた。
  • ヨーロッパ、アジア、アフリカを包括する文明の総体としての「地中海世界」を、自然環境・社会現象・変転きわまりない政治という三層を複合させ、微視的かつ巨視的に描ききった。
  • 国民国家概念にとらわれる一国史的発想と西洋中心史観を“ひとりの歴史家”としてのりこえただけでなく、斬新な研究機関「社会科学高等研究院第六セクション」「人間科学館」を設立。
  • 人文社会科学を総合する研究者集団の『帝国』を築きあげた、不世出の巨人。20世紀歴史学の金字塔『地中海』を著した「アナール派」の総帥。総合科学としての歴史学を確立した最高の歴史家。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    フェルナン・ブローデル

(2008.11.24更新)



▲人文社会科学を総合する研究者集団の『帝国』を築きあげた、不世出の巨人・フェルナン・ブローデル。

83年3ヶ月と6日の生涯

相馬愛蔵
aizo Souma    【新宿中村屋の創業者】

(1870.11.08〜1954.02.14=明治3〜昭和29)
死因? ---蠍座

  • 長野県出身。東京専門学校(早稲田大)に入学、市ヶ谷教会で洗礼を受ける。1891年(M24)蚕種製造に携わる。 1897年(M30)星良(黒光)と結婚。
  • 1901年(M34)上京、東大赤門前の本郷中村屋を譲り受け、パン屋を始め1904年クリームパン発明。 1907年新宿に開店。1909年現在地に移転。
  • 店の裏にアトリエをつくり、萩原守衛中村つね彝、中原悌二郎、 戸張狐雁らの出入盛んとなる。1915年(T4)ラス・ビハリ・ボース(1-1-6-12)亡命、頭山満と協力して保護。 1918年(T7)長女俊子ボースと結婚。
  • 1919年林圭、ニンツア、エロシェンコが身を寄せる。
  • 1923年関東大震災時、朝鮮人保護。中村屋を株式会社に改組。1926年新宿三越デパート進出。
  • 19 27年(S2)身を寄せる異人から学び、純印度式禁易化、ボルシチ、中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、 朝鮮松の実入りカステラなど、国際商品でデパートの進出に対抗し成功。
  • 1937年中村屋店員の人格向上のために研成学院を創立。
  • 1938年「一商人として」(岩波書店)刊行。 1952年パール博士、インド独立支援感謝のため中村屋訪問。1953年中村屋製品のデパート進出はじまる。
  • 「うーん、相馬ご夫妻は日本の芸術史や食文化史に与えた影響は多大なのにイマイチ現代の世に名前が知られていない感じがします。カレー、クリームパン、その他色々…ルーツを気にすることが無いほど食べ物が浸透しているからでしょうか?縁の下の力持ちのスタンスだったお二人は死後の名声にはこだわらなかったとは思うのですが…」(1)。
  • 「オマケです。同じく、不鮮明ですが黒光さん(左)と御嬢さんの俊子さんの写真です。インドの民族衣装を着ておられます(右欄)」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト :
    相馬愛蔵
    (1)投稿者:Miwa さん..2009/ 7/23 07:56:45(木) [5498]
    (2)投稿者:Miwa さん..2009/ 7/23 08:11:49(木) [5499]

(2009.07.24更新)



▲明治・大正期の実業家で、店の裏にアトリエをつくり、妻・黒光とともに萩原守衛らを支援した相馬愛蔵。


◆相馬愛蔵の墓


83年3ヶ月と21日の生涯---2006年生誕100年

伊藤真乗
Shinjo Ito   【宗教家で昭和の仏師】

(1906.03.28〜1989.07.19=明治39年〜平成元年)
死因?---牡羊座

  • 山梨県北巨摩郡長坂町で生まれた。航空技師として海軍に従事し、その後昭和3(1928)年に除隊、石川島飛行機(石川島播磨重工業の前身)に入社。
  • 伊藤家には先祖代々伝わる易学があり、真乗氏もこの易学を父親から口伝され、航空技師の仕事を続ける傍ら、易学による人生相談なども行っていた。
  • 昭和7(1932)年、従兄弟の友司と結婚。友司も真乗と同じ郷里出身である。
  • そのうち宗教に傾倒するようになり、ついには会社を退職し宗教に身を投じることとなる。また妻の友司の家系は代々霊能者であり、友司自身も霊能を持っているとされる。
  • 夫妻は昭和10(1935)年に運慶作といわれる大日大聖不動明王を入手し、自宅のある立川市南幸町にて「立照閣」を設立。
  • 同年、長男が急死しいきなり教団の先行きに暗雲が立ち込めるが、夫妻は高尾山にて荒行を行い、長男の死は「抜苦代受」(信者の苦悩を代わりに受けたため早世した)と結論付けた。
  • のち真乗氏は真言宗醍醐派の総本山・醍醐寺において修行を積み、翌年には僧籍を得た。昭和13(1938)年には、現在の総本部がある場所に真澄寺を設立、このとき団体名称を「立川不動尊教会」とした。まだ一派独立を認められるほど大きな団体ではなかったため、立川不動尊教会は真言宗の傘下に属することとなる。
  • 真乗氏はその後も醍醐寺で修行を重ね、昭和16(1941)年には醍醐寺より大阿闍梨の地位を与えられ、一宗一派を創始する資格を得た。が、当時の政治状況により一派独立どころか宗教活動自体も厳しく制限されたようである。
  • 戦後になり、昭和23(1948)年には「まこと教団」として再出発、真言宗から独立するが、昭和25(1950)年に「まこと教団事件」がおきる。修行と称してリンチを受けたとして、真乗氏が側近から告訴されたものである。この裁判の過程で信者数は激減し、教団は壊滅状態になったという。
  • そこで、組織の再興を図るため昭和26(1951)年に名称を現在の「真如苑」に変更、昭和28(1953)年には事件の裁判が進行中であったが法人認可を得ての再々出発となった。
  • 同時期、教祖夫妻の次男が急死するなど教団にとっては逆風の中を突き進みつつ、結局裁判で真乗氏は執行猶予付きの有罪判決を受けるにいたった(提出された証拠にいくつかの疑念があるとされ、事実上無罪とする見方もある)。が、真乗氏は教団再興に力を注ぐためとして控訴を断念している。
  • その後、教団は教勢拡大に邁進し組織は拡大したがそれでも順調とはいえず、摂受院・友司氏が亡くなった頃から前述したような教祖一族の内紛が発生、有力幹部の脱退や、三女・真砂子(現苑主・伊藤真聰氏)の自殺未遂事件、あるいは前述した次女・孔子による暴露攻撃等数々の「法難」が続く。
  • 一時期は信者数が減ったとされているが、芸能人を広告塔に使うなどして再び順調に信者数が増加し、今や日本でも有数の資金力を持つ大教団に発展した。
  • 新興宗教では、往々にして教祖自身や教祖一家についてのスキャンダルについて後が絶えないが、真如苑も例外ではない。しかし、創価学会同様、教団は着々と信者を増やし豊富な資金を有している。
  • ただ、真如苑では他の大きな新興教団とは違い学校や病院等の施設は持っていないようである。
  • 真如苑を信仰している芸能人(以下の情報はマルコポーロ最終号(1996年刊)より。)高橋恵子(女優)、高橋伴明(映画監督)、島田陽子(女優)、沢口靖子(女優)、鈴木蘭々(タレント)、松本伊代(タレント)、SAM・CHIHARU・ETSU(TRF)、大場久美子(タレント)、石原真理絵(女優)、渚ゆう子(歌手)、小森和子(映画評論家)、海老一染之助染太郎(演芸) ※現信者の方からの話では、このうち島田陽子、石原真理絵などはすでに信者ではないという。
  • 「伊藤真乗の本音:伊藤真乗は、次女(昭和44年に発生した教団内の利権争いにより教団を離脱)に対して常々、〈貧乏人は創価学会へ行け。中流は立正佼成会。金持ちだけが真如苑に来ればいいんだ〉と語っていたそうです。要するに、そういう教祖であり、教団なのです」(1)。
  • 生誕100年記念「伊藤真乗の目と手」展。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    全私学新聞2006.10.25朝刊
    伊藤真乗-Wikipedia
    真如苑
    (1)「真如苑の誤りを破す

(2007.01.10掲載)




▲新宗教の教団真如苑の開祖・伊藤真乗。

 





◆真乗が最初に制作した本格的作品「大涅槃像」(1957年)


83年3ヶ月と29日の生涯

オットー・ビスマルク
Otto von Bismarck   【鉄血宰相】

(1815.04.01〜1898.07.30)
死因?---牡羊座

  • ドイツ第二帝国を建設したドイツの宰相。プロイセン、ドイツの政治家。ユンカー出身。
  • 1848年の三月革命に際しては反革命派として活躍。革命後プロイセン公使としてドイツ連邦議会に派遣され、駐露・駐仏大使を歴任。
  • 1862年プロイセン首相兼外相となり、有名な鉄血演説を行い、議会を無視して軍備拡張を強行。
  • 小ドイツ主義を唱え、普墺戦争、普仏戦争を勝ち抜いてドイツを統一。1871年ドイツ帝国成立とともに帝国初代宰相となり、以後20年間その職にあってヨーロッパ外交の指導者となる-
  • 1878年ベルリン会議を主宰、また三帝同盟、ドイツ・オーストリア同盟、三国同盟、再保障条約などの同盟関係によってフランス孤立策をとり、ドイツの安全を確保しようとした。しかし内政面ではカトリック教会弾圧(文化闘争)、社会主義弾圧(社会主義者鎮圧法)を図っていずれも失敗。1890年皇帝ウィルヘルム2世と衝突して辞職。
  • 「たまさん 鉄血宰相ビスマルクの若き日の逸話をお供えします。家柄は名家だったが、貧乏臭い姿のゲッチンゲンの大学生だった頃。美しい令嬢が馬車でゆくのをみかけて、屋敷まで後を追ってゆき、その父親に「お宅のお嬢さんとは許しあった仲です。結婚させてください」「そんなバカな。娘を呼んで聞いてみよう」呼ばれて入ってきた令嬢にウムをいわさずキス。半分失神している娘を抱いて「ホラ、ごらんの通り」といった。そしてその後、婚約にまで持っていった。未来の妻に出した恋文もありますが、長いし、書くのも恥ずかしいので、これで置いておきます」(1)。
    ---鉄血宰相ビスマルクの若き日に相応しい逸話ですね。これこそ略奪婚っていうんですか? しかし残念ながら今や、このような雄らしい男も、キスされて半分失神してしまうような令嬢も存在し得ません。時代と環境と遺伝子が織りなす人生のモザイクを思います。
  • 高校の世界史で憶えた鉄血宰相ビスマルク。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2008.09.06更新)


◎ドイツ帝国の初代宰相

▲ドイツ第二帝国を建設したドイツの宰相オットー・ビスマルク。

◆「政治は可能性の芸術である」

83年4ヶ月と14日の生涯

アーメット・アーティガン
Ahmet Ertegun
         【アトランティック・レコードの創業者】

(1923.07.31〜2006.12.14)
ステージ裏で転倒---獅子座

  • トルコのイスタンブール生まれ。外交官の父親が駐米大使に就任したのに伴って、米国へ移った。黒人音楽のファンで、1947年個人的な楽しみの延長でハーブ・エイブラムソン氏と一緒にアトランティック・レコードを設立。
  • その後、兄と一緒にジャズミュージシャン、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)、R&B歌手レイ・チャールズ(Ray Charles)、ソウルシンガー、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)などのヒット曲を次々と生み出し、同社をR&B、ジャズのメジャー・レーベルへと押し上げた。ロックの黄金時代になると、英国のロックバンド、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)やイエス(Yes)、ローリング・ストーンズ(Rolling Stones)などと契約を結び、時代と共に移り変わるアーティストたちを育てていった。
  • 第一線からは退きながらも、創設者として同社に携わっていたアーメットだったが今年の10月29日、ビーコン・シアター(Beacon Theater)で行われたビル・クリントン(Bill Clinton)元大統領の60歳の誕生日を祝うローリング・ストーンズのコンサートを訪れた際、ステージ裏で転倒。病院に入院した後、昏睡状態に陥り、意識を取り戻すことなく, 14日、ニューヨーク市内の病院で亡くなった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2007.01.25掲載)




▲R&B、ロックで一時代を築いた男・アーメット・アーティガン。



◆アーメット・アーティガン氏(写真右)。ローリング・ストーン誌を創刊したヤン・ウエナー氏(左)とミック・ジャガー氏(中)=2004年撮影。


◆レイ・チャールズとアーメット・アーティガン氏


◆アレサ・フランクリン(左)を送り出したアーメット・アーティガン氏

 



 

 

 

 

83年4ヶ月と17日の生涯

黒澤止幾
Toki Kurosawa    【日本初の小学校女性教師】

(1806.12.21〜1890.05.08=文化3年〜明治23年)
死因? ---牡羊座

  • 名は、「とき」「登幾」「登幾子」「止幾」「止幾子」「時子」「と起子」など、さまざまな表記がある。別名、「李恭(りきょう)」。
  • 文化3年(1806年)、常陸国水戸藩領茨城郡高野村(現在の、茨城県東茨城郡城里町錫高野)に、父将吉、母総子の長女として誕生。止幾の家は、代々宝寿院という修験道場(山を神として敬う古来日本の山岳信仰と神道、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教の道場)を運営し、その傍らで、寺子屋を開いていた。
  • 父将吉は、修験者(山伏)で、水戸藩領の久慈郡小島村(現在の茨城県常陸太田市小島)の鴨志田家から婿養子に入ったが、止幾が2歳のとき離縁となり、黒澤家を去っていった。そのため、止幾は母総子と祖父吉荘に育てられることになる。特に祖父吉荘から『大学』『実語経』『今川』などの教えを受けていた。
  • ところで、黒澤家の家系は、藤原氏の流れを組む、二階堂遠江守為憲の11代の後胤、下総守頼綱の4代の孫、下総国相馬の城主黒沢玄蕃掾頼定の後裔である。藤原氏を勤王の家系としてとらえ、止幾自身が、その藤原氏の流れを引いていることを強く意識し、雪冤運動(徳川斉昭の無実を晴らす運動)を行う契機の一つになっていることが、後に朝廷に献上した長歌の中にうかがい知れる。
  • 止幾は、文政7年(1824年)19歳の春に、父の実家である水戸藩領久慈郡小島村の鴨志田彦蔵将時に嫁いだ。止幾は、1人娘で生家を継承すべきであったが、父の実家に嫁ぎ、その子に生家を継がせる約束で嫁いだといわれている。文政10年(1827年)に長女久子が、天保元年(1830年)に次女照子が誕生。しかし、夫彦蔵は放蕩者であった。いさめても聞く耳をもたない夫の非行を改めさせようと、ひたすら神に祈りつつ、苦渋と忍従に明け暮れた生活を送っていた。この小島時代の止幾は専ら農業に励み、紅花の栽培などに従事していた。そうして小島における8年間、止幾は、ひたすら貞節を尽くし家のため、夫のため、子供のために苦労を重ねた。しかし、その甲斐も無く、天保2年(1831年)に夫が死亡したので、やむを得ず、翌天保3年の秋、2人の子供を連れて錫高野の生家に戻った。
  • 天保3年に2人の娘と錫高野の実家に戻った。この時、長女の久子が、祖父の生家である鴨志田家に嫁ぐ約束であったが、、その相手である鴨志田定衛門次男辰助が19歳で病死してしまった為、鴨志田家と黒澤家の婚戚関係は断絶することになる。
  • 一方、黒澤家においては、祖父吉荘は既に亡く、止幾は、母総子と二人の娘たちの家計を助けるため、櫛(くし)や簪(かんざし)を江戸で仕入れ、行商によって各地を巡っていた。その行商範囲は、上州草津の湯元まで行っていることがわかっている。
  • 女性1人で、大変危険な行商の旅であったと察するが、止幾はその間、地方の文化人と交流を深め、俳諧・狂歌・漢詩・和歌などを学んできた。更に行商の先々で各地の志士達と交流をもっていたとも推察できる。
  • 天保10年(1839年)には、祖父吉荘死後空席となっており、那珂郡小野の南窓院が兼務していた宝寿院の院務を司るため、母総子の婿として、その南窓院から助信法印を迎える。止幾は、この義父となった助信法印にも、和漢の書を学んだ。
  • この助信法印は、詩歌・俳諧のみならず、浄瑠璃までも作る才能の持ち主であったという。また、天保14年には、水戸藩藩政改革における寺院破却に際し、率先して賛同した人物でもあった。、しかし彼は安政元年(1854年)病気のため実家の南窓院に戻り、翌年に亡くなった。止幾は、この義父助信法印に、文化的にも思想的にも大きな影響を受けたと思われる。
  • 安政5年(1858年)4月、彦根藩主井伊直弼が幕府大老に命ぜられ、停滞した幕政を一挙に挽回しようとして、天皇の許可を待たずに日米修好通商条約に調印した。これを知った徳川斉昭等は、不時登城し井伊直弼に対し無断調印したことを激しく面責した。
  • このため幕府は斉昭等に対し不時登城の罪により厳しい罰則を科した。「重謹慎」を命ぜられた斉昭のため、水戸藩士民は大挙して江戸に上り、斉昭の雪冤運動を行い水戸藩内は騒然となった。幕府は勤皇派に対する圧力を強め、多くの志士達が捕らえられ投獄さて、あるいは斬罪となり、その数は百名に達した。これが「安政の大獄」と呼ばれる幕府の圧政である。この風聞が次第に伝わり、勤王の志厚い止幾は、黙って見ていることが出来ず、烈公の無実を京都の朝廷に訴えようと決意した。安政6年2月22日、止幾は母の許しを得て女性の身でただ一人故郷を後に、一路京都へと旅立ったのである。止幾が54歳のときだった。
  • 止幾は東海道を行く考えであったが、通行人の激しい東海道は途中、取締りが非常に厳重であったので、笠間から下館を通り桐生を過ぎ、草津に到着した。3月2日のことだった。それから、信州路より長野へ入り、松本、塩尻を経て関ヶ原大津から3月25日に京都へ入った。故郷を出て24日目であった。止幾は、水戸の旅人が宿泊するという京都の扇屋に宿をとり、朝廷に差し出す献上の長歌の清書をして、座田右兵衛維貞に献上の長歌を託した。
  • 京都における幕府の警戒は一層厳重で、関東から女の密使が京に潜入したという噂はたちまち京都に広まった。大阪に向かった止幾は、そこで役人に捕らえられ、再び京都へ護送され厳しい取調べを受けた。2ケ月近い入牢の末、5月15日、政治犯として重罪人扱いとなった止幾は、唐丸籠に乗せられ江戸へと護送された。途中の宿場宿場では、女性志士を見ようとする見物者が大勢詰め掛けた。そして、江戸伝馬町の獄舎に入った。この牢には、吉田松陰をはじめ多くの志士達も捕らえられていた。
  • 厳しい尋問を受け続けたが、やっと疑いが晴れ、刑が確定したのは10月27日であった。幕府は、止幾に「中追放」を命じ、常陸の国への出入りを禁止したので、小石川や下野国茂木の知人宅に身を寄せ、12月6日密かに実家に戻り、9ケ月ぶりに老母と対面した。
  • 翌年、1860年3月3日、大老井伊直弼は激昂した水戸浪士等の襲撃を受けて暗殺された。(桜田門外の変)幕府の威信もすっかり衰え、止幾の追放もいつしか緩やかになった。
  • 安政元年8月5日、故郷へ戻って、祖父伝来の寺子屋を継いで、私塾の経営にあたることになった。
    止幾が初めて門人をとって教えたのは、嘉永4年(
  • 1851年)の夏、行商生活の合間に草津の菊屋旅館に滞在した際、娘の主馬女の手習いの師匠として読み書きを教えたことに始まる。この草津には半年ほど滞在している。
  • 更に嘉永5年2月には、錫高野村の近隣えある塩子村(現在の城里町塩子)にて、土地の有志から懇願されて子弟の教育に従事することになる。ここでは、教場として、富田・富岡・阿久津・館氏などの邸宅があてられた。この塩子村には、安政元年(1854年)5月まで滞在し、再び草津へ湯治に向かい、この間また菊屋権太郎の世話で、湯本平兵衛なる人物の娘須久女と次男次郎に読み書きを教えた。ここには、8月の始めまで3ケ月間滞在し、その後は錫高野に戻り、寺子屋を継承する。
  • こうして止幾は行商生活に終止符を打ち、錫高野の実家で寺子屋の師匠としての人生を踏み出すのである。当時、先師(義父助信)より継承した門人は16名であった。それから安政6年2月末に上京するまでには、81人に達していた。
  • 京都より帰郷後、萬延元年11月より、寺子屋を再興して、明治5年4月に至る12年間に約200人余り、それから更に、明治の学制改革以後にもまた、教え子を請うものが少なくなかった。多年、心に掛かっていても、思うに任せぬ老母への孝養も、今は日夜、老母の膝元に住んで、心の限りを尽くして奉仕することが出来ると同時に、祖先伝来の事業を継承して私塾を経営することが出来る時節に遭遇したのである。貧しいけれども清く、寂しいけれども正しい教育者としての一路を歩んでいたのである。
  • 明治2年(1869年)3月に府県施政順序の中に小学校設置の1ケ条が設けられ、翌3年2月、大中小学規則が定められた。更に明治5年8月「学制」が発布され、小学校が設置されることになる。小学校の設立方式には各府県によって次の3つの基本的な類型があったとされる。
  • 更に学制では、「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノニ非サレバ其任ニ当ルヲ許サス」とされているが、これはただの将来を目的にしたものに過ぎず、当面どういう人材を教育に当てるかは少しも指示していない。そこで当面教員にあてられるべき人材源としては、まず、藩学や郷学の後身である県学の教師群、家禄で生きている士族、神官や僧侶、農商ながら学問の素養のある者、そして何と言っても、従来の家塾や寺子屋の師匠群があった。
  • 各府県とも、とりあえず相当程度、家塾の教師を教員に当てたが、特に家塾保護の方式を取った茨城県では、家塾への信頼感が背景にあった。
  • このような中で、明治6年5月に、止幾も自宅を教場として小学校教育を始めた。この時、止幾は68歳であった。この教場は、錫高野地区の、学制に基づく最初の小学校で、止幾自身も茨城県における最初の女性教師とされている。止幾は、1年間主に漢学を教えたと言われている。そして、明治7年5月に新校舎が設立されると同時に、臨時的な採用であり、高齢でもあったため教職を辞した。しかし、その後も教えを請う者が少なくなかった為、再び実家の寺子屋の経営に当たり、明治23年85歳の高齢で亡くなるまで、近隣の青少年を教え続けた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト :
    黒澤止幾(とき) 日本初の女性教師
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2008/11/10 09:38:09(月) [3886]

(2008.11.11更新)



▲大河ドラマ『花の生涯』では山岡久乃が演じた日本初の女性教師・黒澤止幾。


▲京都へ旅立つ様子(止幾6代目の子孫清一氏が伝聞により描いたもの)


▲黒澤止幾の墓(城里町錫高野)

 

「彼女の知名度には不相応とも思える程のヴォリュームを割いて頂きまして、誠に有り難う御座いました。---なお、以前は生家の前に在り来訪者の休憩所とされて居た『とき』と言う蕎麦屋は移転しましたが、奥の和室には「顕彰室」として縁の品々が並んで居ります。こちら」(1)。


83年4ヶ月と17日の生涯---2006年生誕150年

ジークムント・フロイト
Sigmuhd Freud   【精神分析の創始者】

(1856.05.06〜1939.09.23)---2006年生誕150年
口腔癌との激しい闘いの末、安楽死---牡牛座

  • オーストリアの神経病学者、精神分析の創始者、無意識の発見者。オーストリア・ハンガリー二重帝国の小都市フライベルク(現チェコ・プリボル)のユダヤ人家庭に生まれる。
  • 彼が4歳から住んだ19世紀後半の古都ウィーン。都市化が進み、人口増加、貧富の差の拡大など様々な都市問題が浮かび上がった時代である。とりすました市民生活の裏側で、売春や賭博が横行していた。市民社会の表と裏という二重構造は、ちょうど意識と無意識に符合する。無意識の思想は、時代の要請だった。
  • ウィーン大学医学部卒業後、比較解剖組織学の研究に従事。1885年―1886年パリでJ.M.シャルコーに師事し、ヒステリーに関心を寄せる。
  • J.ブロイアー、W.フリースとの親交のなかから精神分析の基礎理論が生まれ、技法も整備されていく。
  • 1900年(44歳)『夢判断』を出版し20世紀の思想に大きな影響を与える。1908年ウィーン精神分析学会設立、第1回国際精神分析学会開催。10年には国際精神分析学協会を設立。
  • 主著『ヒステリー研究』(1895年)『性欲論三篇』(1905年)『自我とエス』(1923年)『トーテムとタブー』(1912年―1913年)『ある幻想の未来』(1927年)『文化への不満』(1930年。
  • 多くの症例研究で展開された無意識論、エロス論、心的装置論などは,理性に基礎を置く西洋思想を根底から揺さぶる衝撃力をもち、20世紀の人間諸科学に圧倒的な影響と示唆を与え続ける。
  • フロイト自身はダーウィンの影響を受けた近代合理主義者で、自我や科学的知性によって無意識を制御しようと試みた人だった。怖いことや不快なことは、抑圧されて無意識の領域にしまい込まれる。しかし意識と無意識の間では絶えず葛藤があり、抑えつけられた感情や欲望は変形され、夢や神経症などの形で登場してくる。そんな正体不明なものを言語化すれば、神経症は解放へ向かうのだ、と「心の中に潜む他者」暴いた。
  • 無意識の存在を想定したのはフロイトだけではないが、人格全体の中でその働きをとらえ、無意識の概念を広げる一方、心の病の治療法を生み出したのが功績。1930年ゲーテ賞受賞。
  • 口中の白板症がガンに変わるまで67歳から80歳まで33回の手術を受け、上顎、口蓋全部を切除し、鼻孔と口腔が一つになり、人工顎と人工蓋と義歯をはめた。
  • そんな中で『神経症と精神病』『幻想の未来』などを著し、患者の治療にあたった。ユダヤ人であったため、ナチ政権に著書を焚書され、財産は没収され、ロンドンに亡命。
  • その翌年はじめて主治医にモルヒネを請い、安楽死をとげる。ウイーンに残った彼の妹4人はナチスのガス室で殺された。
  • 「古典となった精神分析をテロや民族紛争の解決に応用し、新しい価値を見出そうとする精神科医の試みが注目されている」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2006.05.27夕刊(ウィーン 石黒穣)より抜粋。

(2006.05.28更新)




▲無意識の発見した精神分析の創始者・ジークムント・フロイト。

83年4ヶ月と21日生涯

ミース
Ludwig Mies van der Rohe 
              【近代建築の三大巨匠の一人】

(1886.03.27〜1969.08.17)
死因?---牡羊座

  • ドイツ、アーヘンに生まれる。10歳から13歳まで石工の父を手伝いながら、アーヘンのカテドラル附属学校に学ぶ。
  • 1905年、ベルリンに出て、1907年までブルーノ・パウルの事務所で、1908年から11年にかけてペーター・ベーレンスの事務所でル・コルビジェやグロピウスと共に働く。
  • ミースはここで鉄とガラスという新しい材料に出会い、そしてそれを扱うための技術と構法を学んだ。ミースがそこで学んだといえるのは、むしろベーレンスの古典主義的とも言える形態への追求であった。
  • 1912年(26歳)に独立。ベルリンで事務所を開くが、1914年から18年にかけて第一次世界大戦のため従軍。戦後、ハンス・リヒターやドゥースブルフ、リシツキーらと親しく交流し、ロシア構成主義やデ・スティルに近づく。
  • 1921年(35歳)の末にベルリン市高層建築家協会が募集した高層オフィス・ビルのコンペに、翌年「鉄とガラスのスカイスクレイパー案」を提出。1920年代の最も創造的な建築概念として名をあげた。
  • 1929年のバルセロナ万博では、ドイツ・パビリオンの設計を担当。この時に、スペイン国王夫妻の王座としてデザインされたのがバルセロナ・チェアである。
  • のちドイツ工作連盟の副議長。1930年(44歳)、ハンネス・マイヤーの後任としてバウハウス校長を引き受けるが、ナチスの激しい攻撃により1932年には閉鎖される。
  • ナチスに追われバウハウスを閉校して1937年アメリカに亡命。1938年シカゴのイリノイ工科大学教授となる。同大学の配置計画と建物の設計に従事。金属とガラスによる表現の可能性の限界を追求。最小限の材料を建築の形態的要素に整理統一し、最大の効果を発揮させようという考え方を基礎としてシカゴのレークショア・アパート、ニューヨークのシーグラム・ビル等の高層建築を設計。
  • 彼は幼い頃から仕事の手伝いなどを通して、組積構造の可能性と限界を学び、そこからまた無意識のうちに材料と技術の関係を正しく捉えることこそが物づくりにとって最も重要であることを身体で知った。
  • 「私は古い石工の家に生まれたので、手工芸は全く馴染み深いものであった…手仕事の美に対する私の感受性は、経済的生産の形式としての手工芸は失われてしまったという認識を妨げるものではなかった」。その意味で彼の家庭環境は「バウクンスト(建造様式)」の姿勢を受け継ぎつつ、時代に対する姿勢に対しては反面教師となってあらわれている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2006.01.17更新)



▲ドイツ生れの米国の建築家・ミース・ファン・デル・ローエ。

【ファンズワース邸】:彼が設計したいちばん有名な住宅であり、完成型ともいえる。求めた空間とディテールを実現するため、不思議な構造になっている。

【バルセロナ・パヴィリオン】:バルセロナ万博において設計されたドイツ館。

【バルセロナ・チェア】:バルセロナ・パヴィリオンにおいて、スペイン王が座するために設計された椅子。結局、王がその椅子に座ることはなかったが、現在でもベスト・セラーの作品。実はミース自身が座るとちょうどよいように設計されているため、幅広なのだという逸話がある。

【シーグラム・ビル】:フィリップ・ジョンソンと協働で設計された、彼の代表的な高層建築。グランドレベルの公開空地は、当時の典型であったセットバック手法に対して、かなり衝撃的であったといわれている。

【『Less Is More』】:有名な言葉。このあまりにコンセプチュアルな言葉が、多くの人々にミース像を誤解させており、それは今も何ら変化していない。

 

83年5ヶ月と10日の生涯

ジーン・ケリー
Gene Kelly    【『雨に唄えば』】

(1912.08.23〜1996.02.02)
死因?---乙女座

  • アイルランド系の両親の元、ピッツバーグに生まれる。兄と一緒に8歳からダンス教室に通ったが、近所の子供に女々しいとからかわれて辞めてしまうが、15歳の時に再開。ペンシルベニア州立大学でジャーナリズムを学ぶつもりだったが経済的な理由で中断。
  • 1931年にピッツバーグ大学経済学部に入りなおし、1933年に卒業。大学在学中もダンスコンテストなどに出場していた。また、1930年に家族がダンススタジオをはじめていたので、そこで教えてもいた。
  • 1938年からブロードウェイでダンサーをしていたが、1941年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー入りをし、1942年に映画デビュー。デビュー作は『フォーミー・アンド・マイ・ギャル』でジュディ・ガーランドと共演した。
  • この後、たくさんのMGMの作品に主演し、ハリウッドの黄金時代を築いた。更に、監督・脚本・振り付けもこなすマルチな才能も見せ、まさにMGMの万能選手であった。代表作品には『雨に唄えば』、『踊る大紐育』、『巴里のアメリカ人』などがある。また、『錨を上げて』でMGMのカートゥーン「トムとジェリー」のジェリーと競演するシーンがある。
  • 名ダンサーフレッド・アステアと共にMGMの二枚看板として活躍したが、実は2人の共演は少なく、1946年の『ジーグフェルド・フォリーズ』と、1976年の『ザッツ・エンタテインメント PART2』の2作にとどまる。とはいえ1作目の『ザッツ・エンタテインメント』では互いの名シーンを紹介しあうなど、終生お互いへのリスペクトは欠かさなかった。
  • ケリーのダンスは躍動感に溢れ、アクロバティックな中にも緻密に計算された素晴らしさがある。また、スタントマンを使わない事でも有名で、映画が出来上がってから会社が知るといった事も間々あったらしい。
  • アステアの華麗で洗練されたダンスとはまた違った素晴らしさがあり、このタイプの異なる2人がいたからこそ、二枚看板と言われた所以かも知れない。
  • エピソード :曰く「フレッド・アステアがダンス界のケーリー・グラントだとしたら、私はマーロン・ブランドだ」。
  • 主な作品・映画:『雨に唄えば』/『踊る大紐育』/『巴里のアメリカ人』

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジーン・ケリー- Wikipedia

(2010.07.21掲載)



▲アメリカ合衆国ペンシルベニア州生まれの俳優、ダンサー、振り付け師ジーン・ケリー。




▲「聖書への反逆」(1960年)


▲「踊る大紐育」

83年5ヶ月と24日の生涯

甲斐庄 楠音
Tadaoto Kainosyo    【大正時代の日本画家】

(1894.12.23〜1978.06.16=明治27年〜昭和53年)
持病の喘息の発作 山羊座

  • 本姓は「甲斐荘」。兄に高砂香料工業創業者である甲斐庄楠香がいる。
  • 甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で9500石の旗本となった裕福な武士であった。父・正秀は甲斐庄氏の跡継ぎ養子となったものの、後に離縁となり別家を建てたという事情があり、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。しかし、幼少時から喘息を患い病弱であり、過保護に育てられた。
  • 中学校に入学してから絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し竹内栖鳳らに学ぶが、授業にほとんど出席しなかったため1年留年してしまう。その後専門学校、研究科と進む中でいくつかの展覧会に出品し、村上華岳に認められるようになる。
  • 大正7年(1918年)に国画創作協会に「横櫛」を出品。岡本神草の「口紅」とともに入賞候補に挙げられる。このとき、「横櫛」を推した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳の仲裁で金田和郎の「水蜜桃」が受賞したのだが、このことで新進作家・甲斐庄楠音は有名になる。しかし、後に土田麦僊との確執を産む原因ともなる。
  • 大正11年(1922年)、帝展に「青衣の女」(ちなみに同年の国画創作協会落選作品であった)が入選したことで、大正13年(1924年)に国画創作協会の会友となる。定期的に作品を発表できる場を得た楠音は、その後精力的に作品を発表したが、大正15年(1926年)に国画創作協会に出した「女と風船」が土田麦僊に「きたない絵」とされ出品を拒絶される。昭和3年(1928年)には「新樹社」を結成し活動の場を移す。しかし昭和6年(1931年)に会員の大量脱退事件が起き、新樹社は実質解散に追い込まれる。
  • その後は「蒼穹社」に出品をしていたが、昭和15年(1940年)、溝口健二と知り合ったことで映画界に転身、以後は映画の時代風俗考証家として活躍するようになる。この溝口の縁で昭和18年(1943年)に芸術関係者のサークル・「山賊会」に参加。俳優の初代・水谷八重子、川口松太郎、花柳昇太郎、千宗左、千宗室、永楽善五郎、吉井勇ら幅広く各界人と交友。昭和28年(1953年)には自身が風俗考証を担当し、溝口が監督をした「雨月物語」がベネチア映画祭銀獅子賞を受賞する。
  • しかし、絵の道をあきらめたわけではなく、昭和24年(1949年)には新規に美術団体を結成しようとして資金難から失敗している。昭和31年(1956年)に溝口が死去したのをきっかけに映画界を去り、以後は「山賊会」の活動を通じて絵画を発表するようになる。昭和38年(1963年)に京都市美術館で行われた国画創作協会回顧展に過去の作品が出品されたことから再び注目されるようになるが、年齢や健康の問題もあり、晩年は寡作であった。
  • 昭和53年(1978年)、友人を訪問中に持病の喘息の発作により死去。享年83。墓所は金戒光明寺にある。
  • 生涯独身であったが、青年時代に婚約者に裏切られたことが原因とも、ホモセクシャルであったとも言われる。このことが独特の画風にも少なくない影響を与えているという説もある。
  • 画風:基本的に画題は人物、それも女性が多く、風景画は非常に少ない。土田麦僊に「きたない絵」と言われたのは先述したが、岸田劉生には「デロリとした絵」と評された。それまでの日本画とは異なる暗い色調でグロテスクであり、ややもすればリアルを通り越してモデルの欠点を強調する傾向は、確かに人によって好きずきの分かれる画風である。大正時代末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表であろう。
  • 「「穢い(きたない)絵」と忌避された。---後年は映画の時代考証で活躍した。---自己演出の気味が強かった人のようだが、虚実、性差が入り交じる地点に、深い意味での性の悲しみが立ち上がる」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    甲斐庄楠音-Wikipedia
    (1)読売新聞2009.04.19朝刊「よみうり堂本」より抜粋。

(2009.10.01掲載)



▲昭和20年代〜30年代の風俗考証家・甲斐庄 楠音。


▲「島原の女」大正9年

83年5ヶ月と28日の生涯

ウィリアム・バロウズ
William Seward Burroughs  【カット・アップ技法】

(1914.02.05 〜 1997.08.02)
死因?---水瓶座

  • 米国の小説家、俳優。本名はWilliam Seward Burroughs II(ウィリアム・シュワード・バロウズ二世)。
  • アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイース生まれ。実家は比較的裕福な資産家だった。ハーヴァード大学卒業(英文学専攻)。T・S・エリオットについて学ぶ。
  • 卒業後は定職に就かず、米国内、欧州、南米を点々とした。ビート世代と呼ばれるジャック・ケルアックらと知り合った。 1949年にメキシコ・シティに定住。1953年に、『ジャンキー』を書く。これがデビュー作となったが、まったく顧みられず一時は作家を断念する。
  • モルヒネ、ヘロイン等ドラッグの常習者として有名で、若い時分にはドラッグを妻と共に多量服用し酩酊状態となり、ドラッグを断とうとすると深酒に走るという悪循環を繰り返す。ふられたあてつけに小指を詰めたり、泥酔状態でウィリアム・テルごっこをした結果、妻を誤って射殺したなど逸話は数多い。
  • その後、モロッコのタンジールに移住。40代のときに15年以上浸ったドラッグと決別、以後はドラッグに反対する姿勢も見せる事となる。そしてアレン・ギンズバーグらのすすめにしたがって書きためていた断片をまとめ、『裸のランチ』として発表。これが同性愛を含むグロテスクナンセンスな描写のために書評で批判されたり発禁処分になったりしたためにかえって話題をよび、実験小説の雄として一躍有名となった。
  • 1995年発表の「夢の書 わが教育」が遺作となり、1997年8月2日、死去。83歳。
  • 文章を書いた後、それをバラバラに切ってランダムにつなげる、いわゆる「カット・アップ技法」という独自の文体を作り上げ、駆使したことでも有名。だがその後、1980年代に入ってストーリー性も重視したスタイルへと移行している。
  • 『裸のランチ』は、カナダの映画監督・デヴィッド・クローネンバーグにより映画化されたが、部分的な映像化に留まっており、原作以外のバロウズ作品からの引用・解釈も見られた。
  • 日本語訳は主に山形浩生や柳下毅一郎、鮎川信夫らが行っている。
  • 「ウィリアム・S・バロウズ 映画:『ビートニク』

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウィリアム・S・バロウズ-Wikipedia

(2007.10.17掲載)




▲ビートジェネレーションを代表する作家、ジャック・ケルアックにつづく小説家ウィリアム・シュワード・バロウズ。




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