時が、止まった気がした。
彼の口から零れたのは何より残酷で、薄々予想は出来ていた言葉だった。否、薄々というよりかは確信に近かったか。ああ、ほら、もう分からない。静雄は固まったような空気を吸い込んで、今しがた自分に好意を吐き出した男の顔を見詰めた。
前々から憎み合っている仲ではあったが、………この男が自分に向ける感情が憎悪だけではないとは、勘の鋭い静雄は分かっていたのだ。分かっていて知らないふりをしていた。そして相手も馬鹿ではない。恐らく自分の好意に気付かれていると理解していながら、やはり今まで知らないふりをしながら静雄に毒を吐き続けていたのだ。全くおかしな話ではないか、と、思うのだが、二人の均衡を保つ為にはきっとこの浅い嘘の中で憎み合う他なかったのだろう。

そして、やはり崩してしまった。ぐらぐらと不安定にバランスを保つジェンガを指で押すように、あまりにも簡単に。
臨也は、静雄に好きだと告げたのだ。


「好きだよ、シズちゃん」


あの間抜けなあだ名を呼びながら、彼は真っ直ぐな目を此方に向けてそう言い放った。まるでいつものシズちゃんなんて死んじゃえ、と悪態を吐くような何気なさだった。

それきり。
息が詰まる。臨也は何も言わない。自分が伝えるべきことは全て告げたとでも言いたげに静雄の反応を待っている。

「手前、………」

振り上げた標識の居場所が分からない。どうしようもなくなって引っこ抜いた標識をコンクリートの上に投げ捨て、所在無さげに煙草をくわえてみせた。
今日はやけに人目につかない場所に逃げ込むと思ったら、こんなことを言いたかったのかよ。
苛立ちながら煙草を噛み締めた。いつも通りの鬼ごっこを始めようと思ったら、これだ。本当に調子が狂う。

臨也の目は、普段の人の全てを慈しみながら蔑むあの光を宿してはいなかった。たった一人、特定のものに向けられる真剣な瞳。それだけでこいつは本気なのだと改めて感じてしまう。


臨也は自分が好きだ。それは理解出来ていた。ならば、ならば自分は?平和島静雄という一つの個体は、どうしてこの目の前の男を拒絶することが出来ないのか。そもそも静雄は、臨也について深く考えたことなんてなかった。今まで純粋に、真っ直ぐな殺意しか向けてこなかった相手なのだ。好意を向けられているとは知っていたものの、プライドの高い臨也が自分にその想いを口にするとは思っていなかった。

だから、だからこそ、この関係が良かったのに。どうして告げてしまうのだ。自ら進んで傷付くことも恐れず告白してきた臨也を心底恨めしく思う。


「……シズちゃんは?」



いつまでも沈黙を守る静雄に焦れたのか、ようやく臨也が口を開いた。何処か遠くに聴こえる街の喧騒に紛れそうで紛れない、掠れた声ははっきりと静雄の鼓膜を捉える。赤い瞳に映る自分の姿は、呆気に取られたような、焦ったような顔で、さぞかし滑稽であろう。路地裏のビルの壁に追い詰められているのは臨也の筈なのに、自分が追い詰められているような錯覚に陥った。

からからに渇いた口内は言葉を形成出来ない。
手前なんざ嫌いだ、そう一言言って嘲笑してやれば良いのに、この舌は動いてはくれなかった。ひりひりとした喉の痛みが脳髄を揺さぶる。


「ねえ、シズちゃん。訊いてるんだけど。俺はシズちゃんが好きだよ。シズちゃんは?俺のこと嫌い?」


知るかよ、そんなこと。
出来ればこの踵を翻し逃げてしまいたい。昔からそうだった、逃れようのない事実や現実や真実からは目を逸らして逃げたくなる。人間とはそういう弱いものなのだろう。


相変わらず何も言わない静雄を見て、臨也は溜めていたらしい吐息を思い切り吐き出した。あの人を迷い込ますような笑顔を浮かべない辺り、それなりに臨也も余裕がないことが窺える。



「シズちゃん、俺は、俺たちは、普通に人間を愛せないでしょう。シズちゃんは壊してしまうから。俺は、………俺も、壊してしまうから。普通に愛せたことなんて何一つない。君も同じだろう?」

「……………………だから?」


やっとのことで喉から引き出した声は掠れていた。臨也の声も、珍しく震えていた気がする。
愛せない、と臨也は言った。壊してしまうから。静雄は人間の外見的なものを壊してしまうから、そして臨也は人間の内面的なものを壊してしまうから。だから特定のものを愛せない。

―――ああ、そうか。つまり。


「手前は、傷の舐め合いでもしようって、そう言ってんだな?お互いバケモンだから、弱ぇ人間を壊しちまうから、バケモン同士で慰め合おうって」


臨也は何も言わない。すらすらと嘲るような言葉を並べた静雄の目をはっきりと見詰めて、唇を噛み締めていた。それなのに口元に僅かな笑みが浮かんでいたような気がしたのは、何故だろうか。


同じ地球に生きる生物なのにどうしてこんなにも弱く脆いのだろう。人間を蹴散らす度、自己嫌悪と共に感じる疑問は未だにこの胸に宿ったままであった。静雄が殴るだけで吹っ飛んでしまう、避けることも出来ずに。どうしてこんなにも弱く脆い。そして、それはきっと臨也も感じていた疑問なのだろう。
どうして少し背中を押してやっただけなのに、ここまで精神を崩壊させてしまうのか。そこまでの過程を自分で作ってしまう人間を愛しく思うと同時に、物足りなさも感じていたのだ。


だからお互いが必要なのだ。静雄の暴力に屈しない臨也が、臨也の甘言を笑い飛ばす静雄が。


―――下らない。それこそ甘言じゃあないか。


「だって一緒だろ」


いつの間にか、臨也は笑っていた。クイズを解いた子供のような、幼く無邪気な笑み。故に残酷で時に人を殺すことも出来る。

「俺たち、同じでしょ?……一人っきりになる運命なのもさ、人から避けられるのもさ」

だから俺は君が好き。ねえ逃げないでよシズちゃん。

いつもの余裕を取り戻した調子で言われた筈なのに、どうして彼の瞳には縋るような頼りない光がゆらゆらと揺れていたように見えたのか。そんなこと知る由もないが、そうやって静雄しか見ることが出来ない臨也が心底哀れに思えた。勝手に臨也の髪の毛に伸ばされた指先が、ただただ熱い。







(それでも、この自ら孤独を選んでしまった酷くかなしい個体に触れてみたいのです)














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