*七巻までネタバレ/静臨+ヴァローナ










そういえば最近ここらを彷徨いているのを見かけないなとは思ってはいだが、わざわざご丁寧にやって来てくれるとは予想していなかった。招かざる客とでも言おうか。

いきなりインターホンを連打され仕方なく腰を上げドアを開いた途端この仕打ちだ。勢いよく肩口に突き立てられたナイフを見つめ、静雄は溜め息を吐く。たまの休暇だというのに、穏やかに家で過ごすことさえ許されないようだ。
案の定ナイフは服を破っただけで、本来なら柔らかな皮膚を突き破り鮮血を垂らす筈の其処には五ミリ程しか刺さってはいなかった。しかし攻撃した相手もそれは分かっていたようで、素早く手を引っ込めると今度は顔面へ向けて刃を翻す。

「っ、ぶねえなこのノミ蟲野郎が!!」

咄嗟に横へ回避すると、そのナイフはさっきまで静雄の顔があった場所を掠め、後ろにあった平和島と書かれた安っぽいアパートの表札に突き刺さった。びきりと血管を浮かせた静雄の顔色を窺うこともせず、再度攻撃に出ようと腕を振り抜いた相手―――臨也は、彼にしては気味が悪いぐらい押し黙ったまま。
何だこいつ。俺の家までやって来て久しぶりに面を拝んだと思ったら喧嘩かよ。
不審に思いつつも大事なバーテン服を破られた怒りは収まることはなく、拳を繰り出したがひらりとかわされる。そう簡単に当たってくれるとは思っていないがこんなにも軽やかにかわされると腹が立った。


「何の用だよ手前、臨也!!!」

息をつく間もなく首目掛けて突き出されたナイフを持った手首を掴み、静雄は無表情のままの臨也を怒鳴りつける。臆することもなく臨也は手首を引こうと足を蹴り上げた。
なんだこいつ。
池袋で鉢合わせして喧嘩に発展、とはいつものパターンなのだが、わざわざ臨也が静雄の家まで出向いて殴りかかることは無かった例だ。その逆はあるのだけれど。

それに静雄とまともにやり合ったって勝てないと最初から分かっている臨也なら、そろそろ逃げの態勢に入る筈だ。それが今日は逃げる素振りを見せるどころか殺意剥き出しで掛かってくる。
とうとうおかしくなりやがったのか?ここまで殺意を隠そうともしない臨也なんてらしくない。静雄は訝しみながら蹴りをかわし、臨也の手首を握る手のひらに力を込めた。無論折るつもりなんてさらさらないが、これ以上抵抗されても困るのだ。


「おら、何しに来たのかはっきり言えよ。喧嘩売りに来たってなら買ってやるぜノミ蟲」


静雄の言葉に肩を揺らし、臨也は俯けていた顔をばっと上げた。


「………シズちゃんの、ばか!!!」


その顔には露になった怒りと殺意しか浮かんでいない。感情を滅多に他人に悟られないように振る舞っている臨也からは想像もできない表情だった。

つーか、え?馬鹿?俺に馬鹿っつったよなこいつ。

ご近所さんにも聞こえるような大声で静雄を罵った臨也は、息を切らせながら流れる水のように言葉をつらつらと並べ始めた。


「俺がちょっと池袋離れてる隙にすっごい噂広まっててさあ、何?何なの?平和島静雄に女が出来たってどういうこと、あの女どういうこと?!浮気だよねこれ、所詮シズちゃんにとって俺なんか体だけが目当てだったんだよね!!しかも粟楠茜にもなつかれやがってこの天然女たらし!!恥ずかしくないの?!もうシズちゃんなんて知らないばーかばーか東京湾に沈められちゃえ!」

「……………、あ?」



正直臨也が言っている言葉が始め理解出来なかった、が、茜の名前を出されてようやくピンときた。つまりこの男は最近よく行動を共にするようになったあのロシア人の女―――、ヴァローナのことを色々と誤解しているらしい。
まあ確かに誤解されても仕方ねえかもなあ。と悠長なことを思う。
女っ気のなかった静雄の周りに現れた女性に池袋が食い付くのは当たり前といえば当たり前だろう。あの自動喧嘩人形に春がきたと街の人々は噂し、その噂は尾ひれがつきどんどん広まってそして臨也の耳に入った、というところだろうか。


「待て待て、ヴァローナとは本当に何も」
「言い訳なんか聞きたくないね!………何さでれでれしちゃって」


怒りに満ちた臨也の目を見て思わず絶句した。その赤い瞳には一杯の涙が溜まっていて、今にも零れ落ちそうだったからである。

(なるほど、……)
さすがに鈍い静雄でも察することが出来た。さしずめやや暴力的な嫉妬というところか。嬉しくないといえば嘘になるが、こういう分かりにくい意思表示は相手の感情を汲み取るのが苦手な静雄にとっては非常に困る。ましてや毎回宥められる側である為にこうして泣きそうになっている臨也をどう宥めればいいのか分からない。

「だから、…………そんなんじゃねえって」
面倒くさい。さすがに口にすることは憚れたが、口下手な静雄にとってこれ程面倒くさい事態はなかった。
うだうだと言いくるめるのは臨也の得意分野であって、その当の臨也は今目の前で喚いている。ああどうしたものか。このままでは近所に迷惑を掛けることになるかもしれない。顔をしかめながら対処法を思案していると、不意に揉め合う二人に抑揚のない声が掛かった。




「静雄、お迎えに参りました。トムが助けを求めています。休暇中に申し訳ないことを頼むことをお詫びします」




どこかおかしい日本語を操りながら、凛とした声を紡ぐ女は気配もなく立っていた。今最も来て欲しくなかった人物。
うげ、と思わず声が洩れるのを止められはしなかった。

「ヴァローナ…」
「肯定します。私はヴァローナです。取り立て先の客でトラブル、用心の為に静雄の存在を要求します」
「いや、今ちょっと」

空気読んでくれ。

静雄に手首を掴まれて暴れていた臨也がぴたりと動きを止めて、目を見開きながらヴァローナの姿を確認したのを見た。ここで戦闘とか始まったら確実にアパートが全壊する気がする。

これは、ひょっとして修羅場というやつじゃないか?いつだったかテレビドラマで見た誤解に誤解を重ねたごちゃごちゃした泥沼関係を思いだしながら、静雄は今まで味わったことのないような戦慄が背筋を駆け上がってきたのを感じた。


「へぇー、綺麗なオネエサンだね。これがシズちゃんの新しい彼女かあ」



ヴァローナ以上に抑揚のない声で、絶対零度の笑顔を浮かべながら何処か虚空を見ながら呟いた臨也を、静雄は生まれて初めて怖いと思い知る。無表情のまま臨也を見据えるヴァローナは全く事態を把握していないらしい。ただ静雄にだけが用件があるとでもいうように、臨也に一切の興味は向けていなかった。
どうやら仕事が入ったのでヴァローナが迎えに来た、といったところなのだろう。よりによってこんな時に来なくていいのに。タイミングの悪さへの怒りを誰にぶつければいいのか。

「だから彼女じゃねえって…!」
「うわー本当に綺麗なオネエサンだねー。ボンキュッボンだしねー。シズちゃん好きそー」
「ちげえっつってんだろうが」
「……………」


思わず怒鳴りそうになってから、臨也の顔を見てぎょっとする。
臨也は堪えきれなかったらしい涙をぼろぼろと溢しながら顔を歪め、憎しみの籠った目で誰もいない空間を睨んでいた。多分、臨也が抱えているのは、静雄がヴァローナと共に自分から離れていくのではないかという不安と、自分が一人で生きているのに静雄の周りには沢山の人間がいるという焦りだとか羨望だとか。きっと一番大きいのは静雄の側にいられるヴァローナへの嫉妬であろう。

漠然とではあるがそれを汲み取った静雄は、何とかこの変な空気を変えたかったのだが、こう臨也に泣かれては何も言えなかった。
一方のヴァローナは突然泣き出した臨也に目を向け、
「何故泣いているのか教えてください」
全くの無表情で問うた。自分が原因でこんなことになっているのが分からないのも無理はないが、この状況で臨也とヴァローナが会話するのは危険ではないか。鈍いなりに雰囲気を感じ取っていた静雄はとにかく誤解を解こうと口を開いたものの一方的にぴりぴりした空気を纏う臨也に結局何も言えずに止まってしまう。


「ヴァローナさん、ていうの」
「…肯定します」


暫くの沈黙が降りる。
臨也は未だ泣き顔のままヴァローナを睨んでいるし、ヴァローナもなんとなく察したらしく不思議そうな表情のまま無言を守っていた。………重い。二人の間に立たされた静雄は苛立つことさえ許されず何も言えないまま。

その沈黙を破ったのは臨也だった。いきなり静雄の前に立ち、涙を拭いて叫ぶ。


「シズちゃんは俺のだからね!!!」

「いやだからマジでヴァローナとは何も、」


静雄の訂正の言葉を遮るように、すかさずヴァローナが口を開いた。



「否定します。静雄は私のものです」



…………は?


時が止まった気がする。
相変わらず冷静な無表情の仮面を貼り付けた彼女は平然と言い放った。静雄は、私のものだと。
ヴァローナにとってそれは『平和島静雄は自分が殺す』という意味であり臨也が言ったような好意的な意味では無いのだが、何せ状況が状況である。その言葉は臨也だけではなく、静雄までもをフリーズさせた。
ややこしいことになってしまった。痛む頭を抱えたい気分ではあったが、一番追い詰められているのは臨也だろう。唇を震わせて絶句している。

「ヴァローナ、さん、えーと…それはどういう」
たっぷり間を置いてから恐る恐る質問した臨也に、ヴァローナは間髪入れず答えた。

「そのままです。静雄は私のターゲット、殺すのは私です。あなたも静雄を狙っているのですか―――アカネのように」

この場合ヴァローナの言う狙うとは『平和島静雄の命』という意味になる、が、そんなこと混乱した臨也には分かる筈もなく。また赤い瞳に涙が浮くのを見て静雄はいよいよ大変なことになったのを理解した。修羅場だ。あの昼ドラみたいに泥沼な関係なのだ。誤解に誤解が重なって崩壊へと進む、そんな昼ドラの宣伝を思い出す。


「ねっ、狙うもなにもシズちゃんは俺のだよ!だから殺すのも俺!」
「否定します。あなたに静雄の殺害が可能とは思えません。静雄は私のターゲットです」
「ターゲットって何さ…!シズちゃんは俺ので、俺はシズちゃんのだもん」

そうだよねシズちゃん。
子供のように縋る目で此方を見上げてくる臨也に、ようやく我に返った。とりあえず誤解を解かなければならない。どうしてこんなごちゃごちゃしてしまったのだ。

静雄は臨也の肩を掴むと、勢いよく抱き締めた。一瞬びくりと体を強張らせた臨也は大人しく腕の中に収まり、ヴァローナはそれを見て目を丸くする。


「…ヴァローナ、臨也は俺の恋人なんだよ」
「………………は?」


理解不能、というようにヴァローナが声を上げる。てっきり臨也も静雄を殺そうとしているのかと思い込んでいた彼女にとってそれは衝撃でしかなかった。


「えーと、つまりだな…。臨也はその、お前と俺が付き合ってんじゃねえかって誤解しててこういうことになったんだけどよ」
「…………………………。把握しました。会話に齟齬が生じていたことを肯定します」


静雄の胸に顔を埋めてぐずぐずと泣いている臨也を見て、ヴァローナは納得したような表情を浮かべる。いつだったか彼女は池袋で出会った黒い服の女に、この国は同性同士で愛し合ったっておかしくないということを習ったのだ。そんな本もその女から借りた。内容は破廉恥極まりなくピンクと肌色で埋めつくされていたような思い出しかないが、そういうことも知識としてヴァローナの中に組み込まれた。
何だっけ、あれ。あの女性はボーイズラブとか言ってた。それを萌えと呼ぶのだとも教わった。

その女は確実に狩沢でしかないのだが、ヴァローナはとりあえず目の前の事態を呑み込もうと結論を出した。


「つまり、静雄の心臓を狙うのは私。静雄のハートを狙うのはイザヤということですね。肯定を求めます」
「何だその恥ずかしい質問」
「狙ってんじゃないの俺のなのシズちゃんのハートは」
「臨也手前はややこしくなるから黙っとけ」

静雄が臨也の頭を再び自分の胸に押し付ける。乱暴な動作ではあったが、静雄の目が優しいことに気付いたヴァローナは敢えて黙っていた。

これが愛というやつなのか。ボーイズラブというやつなのか。
………よく分からない。

「抱擁、接吻、性交。二人はそのような関係なのですね」
「…………」
「否定ですか?」
「………いや」


あまりに直接的な質問に静雄は瞠目しつつ俯く。彼のそんな様子を見るのは初めてで、少し新鮮に思いつつヴァローナは本来の目的を思い出した。
「静雄、それではごゆっくり。取り立て先のトラブルは私が解決します」
「んなこと頼めねえよ。俺も行く」
「結構です。人間弱い、私だけで充分です」
「…………………」

自分の体から離れようとしない臨也を見て、静雄は納得したらしい。引き剥がすのは相当困難だろう。
どうにかして誤解は解けたというか、静雄が臨也を抱き締めたことで丸く収まったのだ。静雄は溜め息を吐きながら臨也の髪をすく。

「…それでは、失礼します」

どうも見せつけられているようにしか見えない。そんなことを思いながらヴァローナは身を翻し、会社に戻る為にアパートの階段を降り始める。静雄はやや申し訳なく感じながらその後ろ姿を見送った。
それにしても気まずかった。ヴァローナにやはり今度一から日本語を教え直した方がいいのかもしれない。再度安堵の溜め息を吐いて、バツが悪そうな顔をしながらやっと静雄の体から離れた臨也に告げる。


「…分かったろ、ヴァローナとは何もねえって」
「でも」
「何もない」

きっぱりと言い切った静雄にこれ以上噛みつくことなんて出来なくて臨也は口ごもった。だってさっき何気なく受け流しちゃったけど静雄の心臓を狙うのは私とか言ってたし。不満そうにしている臨也の唇を有無も言わさず塞ぎ、そしてここが玄関前だということにようやく気付いた。やや強引に臨也を家に引き摺りこみ、ドアを閉めると思い切り抱き締める。


「俺は、手前が思ってる以上に手前のことが好きなんだよ。分かれノミ蟲」
「知らないよそんなこと。だってシズちゃん、色んな人が寄ってくるじゃん」

なにこいつ可愛い。
まだ少し臨也が涙声なのに気付いて、思わずそう感じた自分がいた。臨也が思っている以上、いや自分が思っている以上に、自分は臨也のことが好きらしい。







ようはきみがすごくすき、まる

(要は君が凄く好き。)





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