「怖いの?」
にぃ、と薄い唇が三日月型に捲れ上がって、腹の立つ笑みが嫌味なぐらい綺麗な奴の顔に貼り付いた。夜の池袋の喧騒から少し外れた路地裏、俺は確かに、この男を追い詰めた筈だったのに。
「俺はねえ、自分で自分の命を絶つような間抜けで愚かで、道徳に反するようなことはしないよ。そんなのは現実から逃げ出す弱い人間がすることだ」
今臨也が俺の目前に晒しているのは青白い手首だった。不健康そうな肌に、一筋二筋、数え切れないぐらいの切り傷が刻まれている。夜の街の不健全なネオンに照らし出された手首から目が離せない。傷の上に傷が重なって固まって、そこだけ妙に厚い皮膚を作り出している。そうして不自然に凹凸の出来ている肌の上に、また傷、傷、傷。
怖いの?と奴は尋ねた。一体何に対して俺が恐れなくてはならないのか、是非教えてもらいたいものだ。ああでも、このノミ蟲にものを教えてもらうぐらいなら俺は死を選ぶだろう。
「ねえシズちゃん、怖い?」
依然にやにやとした顔を崩さないまま、臨也は更にぐい、と手首を俺に近づけた。吐き気がする。ぐらぐら、ぐらぐらと揺れるのはきっと俺じゃなくて折原臨也という人格だ。
怖い?何が?
手前がこうやって手首に意味もない傷痕を無数につけていることか?
それこそ、知ったことじゃない。このノミ蟲が野垂れ死のうが闇討ちされようが、俺には清々しいぐらい関係のないことだからだ。つか、いっそのこといっぺんぐらい死ねばいい。
黙り込んだままの俺を見て、臨也はゆっくりと瞬きをした。男のくせして意外と睫毛が長い。色とりどりの怪しげな光を浴びてその色に従順に染まる目元に、頬に、引き込まれそうだった。
幾らかの甘やかさを含んだ視線でゆっくりと絡め取られる。酷く官能的に見つめられて思わず唾を呑み込む。口元はきちんと笑みを作っているのに、赤く淀んだ瞳だけが、笑っていない。
「人はね、見えないもの、存在しないもの、得体の知れないものに対して異常に臆病だ。ただ怖いもの見たさっていうのかな、その恐れよりも遥かに興味の方が勝る。例えば、底無し沼の底を覗き込んでみたいと願うみたいにさ。そして沼の底にたどり着いたと思ったらもう死んでいる。つまりその沼の底こそが死だったのさ。…あー、話がずれちゃった。シズちゃんにこんな難しい話をしててもしょうがないね。つまりさ、俺は人間が好きなんだ。人間は怖い。どんなホラー映画よりも、怪奇現象よりも、ずっとずっと、怖い。だから俺は人間を知りたいと思う、追い求めたいと思う。でも、きっとさあ、俺が人間の本当を全て知り尽くしたとき、それはきっと、死なんだろうね。だって俺は人間がどんなことを考えているか、どんな思いをしたか大体分かるけど、…死だけは分からないもん。死んだら全て終わりだからさ」
ああ、もう、黙れ。
俺が何もしなければ延々と語ってそうな唇を指で制した。なんだってこいつはこんなにもすらすらと言葉を並べ立てることが出来るんだよ。
語られた理屈なんて一言も頭に入ってはこなかった。人間がどうとか、死がどうとか、俺にとっては心底どうでもいい。きっと、臨也もそうだ。
「で、手前のその長ったらしい話とこの傷は関係あんのか」
手首を掴んで素っ気なく問いかける。迷う素振りもなく臨也はあっけからんと、ううん、と答えた。
「別に。ただこの前こういう話で人を口説いたら結構引っ掛かったってだけ」
「………変な宗教にでも引き摺りこんだのか」
「違うよ、自殺サークル。支離滅裂でもこうやって長くてどうでもよさげな例えを使って話して、まぁ要は死の世界にいきませんか?って。みんなノっちゃってさー、たはは、おっかしいなあ。人間って本当単純で愛しいと思わない?まあさ、単純でも化け物であるシズちゃんのことを愛しいと思ったことなんて一度も、」
「あー、うっせえ黙れマジで」
またべらべらと余計な御託を話し出した臨也の口を、今度は自分の唇で塞いだ。ざらざらして荒れた手首の傷にも噛みつく。軽く歯を立てると塞がりかかっている傷が開いて、血が滲んだ。
「シズちゃん、―――やっぱり怖いの?」
先程と同じ質問を繰り返され、言葉に詰まる。臨也の手首を解放して、代わりに何の感情も浮かべない瞳を覗き込んだ。
「怖い、って何がだよ」
「死ぬのが」
即座に返ってきた言葉に首を傾げる。何を言っているのだろうか。何故そこでそれを訊くのだろうか。
死ぬ、ということが俺にはよく分からない。俺の化け物染みた、というか化け物である体は刃も銃弾も貫かないから、死というものがいまいちイメージできないのだ。
臨也の傷だらけの手首を再度見つめる。
こいつは、どんな想いで、この傷をつけたのか。死ぬつもりはないんだと自分に言い聞かせながら、少しずつ、じりじりとカッターナイフを深く押し当てて、どこまでいけば自分の命が絶たれるのか、考えながら。
なるほど。人間というのは常に、死に興味をもっていかれているという訳だ。さっきの臨也の胡散臭くて小難しい理屈はあながち間違ってはいないだろう。いや、わかんねえけど。
「俺を、殺してもいいよ」
臨也が首を差し出す。綺麗に喉仏が浮き出た、それでいてやはり不健康な色をした男らしい首筋。
俺に自分の身をもってまでして殺人をさせたいのだろうか、こいつは。不愉快に思いながら臨也の肩に手を置いた。
「馬鹿言うんじゃねぇよ」
「いいじゃん、やってみなよ」
今度は臨也の手が俺の手首を捕まえた。そのまま自分の首筋に持っていかれる。
ひたり、掌の冷たい感触に身震いした。折原臨也とは、人間だろう。人間なのにどうしてこんなにも冷たい皮膚を持っているんだ。
爬虫類のように鋭い目が俺を捉えた。傷だらけの手首がちらちらと、袖の間から見える。早くこの手に力を込めて、首を折ってくれ、と。臨也の目がそう訴えている気がした。
ああ、そうか。
「臆病者」
手加減しながら力を込めていく。ぎりぎりと首を締められても臨也は無抵抗だった。うっすらと笑みさえ浮かべて、恍惚とした表情で俺を見ている。
臆病者。とんだ間抜けだな、手前はよ。自分で死ぬ勇気もないから、他人に頼るだなんて、らしくない。らしくなさすぎる。
ぎりぎりぎりぎり。
そろそろ気管も塞がって、息が出来なくなった頃だろう。
「シ、ズちゃん」
名前を呼ばれて、ぱっと手を放した。殺すつもりなんて毛頭ない。こんなところで殺人犯になって堪るか。
けほけほと咳き込みながらアスファルトにしゃがみ込む臨也を見下ろして、密かに自嘲を洩らした。死は怖い。死ぬことは怖い。でも、限りなく、死とは楽園に近いのではないか。きっとそんなことを言ったら臨也は鼻で笑うだろう。全くどこまで矛盾している人間なんだか。
首を押さえて、臨也は一言、
「臆病者」
とそっくりそのまま俺を罵った。
エデンまで連れてって
(生 とは)
(死 とは)
(快楽ですか、悦楽ですか、極楽ですか、)
(無ですか)