「手前、いい加減にしろよ」
本当はその無表情の横っ面を張ってやりたいぐらい腹が立っていた。自分が何をしたか、どれだけ俺を追い詰めれば済むのか。何も、分かっていない。
俺の部屋の床に座り込んで、髪についた精液を「固まっちゃった」なんて言いながらティッシュで拭き取る男は、俺の怒りを堪えた声を聞いて此方に目を向けた。なんで平然とした顔をしていやがる。手前には常識とか罪悪感ってもんがねえのかよ。頭ん中朽ちてんじゃねえの。
「シズちゃん、そんなに怒んないでよ」
「黙れ」
同じく精液がこびりついて固まったコートを脱ぎながら、臨也は困ったように笑う。
怒るな?どうやったらそんなふざけた口がきけるんだ手前は。
仕事の帰り道だった。俺の住むアパートのすぐ傍には駐車場がある。よくそこではイチャついているカップルやら何やらがたむろしているのだが、今日も例外なく人影があった。
だけど、いつもと様子が違う。人影は二つ。暗くてよく見えないが、一人がもう一人を抱え上げ、腰を打ち付けている。遠くからでもよく分かる、その動作。
(………おいおい)
こんなところで盛んなよなぁ、嫌なもん見ちまった。野外セックスなんて風邪ひくだろ。
イチャつくのも大概にしろ、とその一組のカップルに心中で吐き捨て、歩を進めようとした時。
「…ん、ぁ、もうイッ…ひあ!」
耳が拾った喘ぎ声には、聞き覚えがあった。ぞわり、と背筋が粟立つ。
―――また かよ。
俺は盛大に舌打ちして、アスファルトを蹴りその駐車場へと駆け戻った。
そして見知らぬ男に抱かれていた臨也を乱暴に引っ張ってきて、冒頭に至る。男はとりあえずぶん殴っておいた。
床に座って悪びれもせずに言葉を並べる臨也をも殴らないように、と俺は必死に耐えていた。こんなことしょっちゅうじゃないか。
仮にも恋人同士であるにも関わらず、臨也は見ず知らずの男に抱かれ、そして必ず俺にバレる。わざとバラしているのだろうが。
その度に俺は臨也を怒鳴りつけてはいたが、決して殴りはしなかった。何か理由があるのだろう。そう思い、根気強く耐えてきた。
俺の思いも知らずに、こいつは、また。しかも俺の目につくような場所、。あんなデカい声で喘ぎやがって。
ぐ、と拳を握り締める。耐えろ。沸々と沸き上がってくる怒りを腹の底に沈める。最近、皮肉にも臨也のお陰で怒りをセーブするのが上手くなった気がする。
「―――臨也」
「ん?」
「なんで手前は、わざとそうやって俺を挑発すんだよ」
「挑発なんてしてないよ」
「じゃあなんで他の男に抱かれんだよ!!」
一瞬、俺の怒鳴り声に肩を揺らした臨也は、すぐにニコッと笑顔を作った。
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
俺が本当に愛してんのはシズちゃんだけなんだから。
ぶちっ、という頭の音が聴こえた気がする。目の前が真っ白になった。
何だと?今まで俺が必死に耐えて耐えて耐えまくったことをどうでもいいで一蹴して、何が愛してるだ。ふざけんな。
握った拳を振り上げて、臨也の頬に叩き込む。手加減は、しただろうか。臨也が血を吐いて床に叩きつけられる。歯が折れていない限り、一応力は加減したらしい。
「俺だけを愛してるってほざくんなら、その浮気をやめやがれ淫売がッ!!!」
吼える。周りの空気がびりびりと痺れて、臨也が小さく身震いしたのが見えた。
それでもぶちギレた俺の頭には抑止は聞かず、足は勝手に臨也の腹に蹴りを食い込ませた。咳き込んで血を床に吐き続けるのを見ても冷静になれない。
ぐ、と臨也の胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。赤黒く唇の周りだけ変色させている。だらだらと血を伝わせる口端からは、自嘲のような笑いが洩れた。
「シ、ズちゃん」
「るっせえ!今までどんだけ俺が耐えてきたか知ってるか?!手前は、何が、したいんだよっ!」
また頬を殴りつける。ぴっ、と血が飛んで俺のワイシャツに染みを作った。
ぐったりとした体を床に放り投げ、馬乗りになる。抵抗を忘れた四肢はフローリングに投げ出されていた。
「そんなに俺と別れたいのかよ!だから他の奴に媚び売ってんだろ?!じゃあ別れてやるから二度と俺の目の前に現れんな!」
我を忘れて怒鳴っていた。こんなにも嫌な怒りを覚えたのはいつ以来だったか。好きに相手をいたぶれないもどかしさ。自分も相手も傷付ける雑言を吐く辛さ。
ひしひしと心を苛まれても、この唇は罵ることを知らない。完全に俺は視界を確認することを忘れていた。ただ臨也を愛してるが故に繰り返し殴りつけ、罵る。こんなに一方的に臨也を殴ったのは初めてだった。
元はというと、臨也が悪い。こいつが浮気ばかりする尻軽だから。
そう言い訳する冷静な自分が何処かにいて、それが更に自己嫌悪をじわりと胸に暗く広げて染み渡った。
「………………やめて」
怒りのあまり真っ白に染まった視界のせいで気づかなかった。臨也が腕を顔の前でクロスさせ、顔を庇っていることを。そして、消え入りそうなか細い声で、やめて欲しいと懇願していることを。
「っ、」
慌てて我に返り口をつぐむ。この喉は、どれだけ臨也を傷付ける言葉を発してしまったのだろう。握り締めた拳は、力を入れすぎたせいで真っ白だった。
「臨也、手前………。泣いてんのか?」
顔を隠したまま震えている臨也の体から退いて、問う。泣いてないと強がる声さえも震えていた。相当、怖かったらしい。
「臨也、」
腕を無理矢理ほどかせて、抱き寄せる。勢いよく胸に飛び込んできて顔を埋めた臨也は、やはり泣いていたようだ。胸元が涙で湿っていくのが分かった。殴られた血も一緒に擦り付けられて、ワイシャツが汚れていく。それを見てどうしようもない罪悪感が込み上げてきた。
「悪、かった」
乱暴に臨也の頭に手を置く。そのままくしゃりと撫でて、俺は自分の行為を心から悔いた。
いくら臨也が悪いといってもやり過ぎた。普段どんなに喧嘩したって言わないような罵りを嫌というほど叫んで殴って。
(最低だ、)
震えが収まらない体をなるべく優しく抱き締めた。
「ごめん、…………なさい」
俺にしがみつきながら、臨也がぽつりと謝罪する。こいつが謝ったことなんて初めてだ。今まではもうしないよ、と言って誤魔化してばかりいたのに。少し驚きながらも、続きを待った。
「俺ね、シズちゃん」
「………ああ」
「シズちゃんが、怒るから。いっぱい浮気したらシズちゃんが怒ってお前は俺のもんだって言ってくれるから、」
だから。
その先を言えずに言葉を途切れさせた臨也の顔をそっと上げさせる。
何だよそれ。つまり、それって俺に構って欲しかったってことかよ。
傷だらけになった臨也の目一杯に溜まって流れ出す涙を掬ってやる。今、ちょっと可愛いって思っちまった。
不覚にも愛しさが込み上げた。馬鹿かこいつ。こいつこそ真性の馬鹿なんじゃないか?どこまで不器用なんだろう。
「別れたいんじゃないんだよ…」
「、分かってる」
えぐえぐとガキみたいに泣き出した臨也にそっとキスをする。僅かに血の味がした。
「本当に、馬鹿だな…手前は」
「ごめ、なさい」
「構ってほしいならそう言え」
珍しく素直な臨也が可愛く思えて、額にも唇を押し付ける。くすぐったそうに目を細めて腫れた口元を少しだけ綻ばせるのに心臓がどくりと脈を打った。毒のない臨也はいつもよりずっと幼く見えて愛しい。いつもそうして甘えてくりゃいいのによ、こいつはそういうところ意地っ張りで不器用で馬鹿なんだ。そうさせたのは俺だけども。
「もう、しねぇな?」
子供に話しかけるように問うと、こくりと頷いた気配がした。
「シズちゃん」
「んだよ」
「…シズちゃん」
「んだよ、つってんだろ」
「………もっと構ってよ。つまんないんだもん…」
「………っ」
拗ねて唇を尖らす臨也が堪らなくて抱き締め直す。痛いよシズちゃん、と文句を溢した唇に今度は噛みつくようなキスを落とした。
劣情は口をつぐむ
(好きなだけ構ってやるよ、だからもう何処にも行くな)(祈るように、抱き締めた)