かんかんかんかんかんかん。
耳障りな踏切の音が脳内で埋め尽くされる。でも決して、この音が嫌いな訳じゃなかった。

かんかんかんかんかんかん。
繰り返されるそれ、赤く点滅するランプ、仕切られた空間。ここから先を通ってはいけない。そう、黄色と黒で示されたただの棒を、乗りこえてみたくなる。

人間ってそういうものだろう。

踏みはずしたくなる。言いなりになりたくなくて愚かな行為に走る。そして、……。

俺には人間がわからない。わかったふりをしていつも裏から人間を操って高みの見物をするけど、本当は何もわかってはいない。
どうして特定の人間を愛せる。どうして愛していると言い切れる。どうして見えもしない将来に希望がもてる。
未知の可能性をもったその生物を俺は心から愛していた。そして心から恐れている。
だから俺は、その大勢いる人間の中の一人として、人間に成りきろうとしたんだ。
(わからないけどわかったふりをして、俺はただの人間だと、…思い込んでいる)
わからない。


普通の人間は、この踏切を乗りこえたいと思うのか。危ない橋を渡りたがる、人間って、そういうものだろう?と100%自信を持って言えるのに、心の中では否定している。違うかもしれないじゃないか。あそこで踏切を開くのを待っている女は、中年の男は、違うかもしれないじゃないか。


かんかんかんかんかんかん。
やけに長い警鐘音は相変わらず耳をつんざいていた。
やがて遠くから見えてきた電車が此方へと近付いてきて、あっという間に轟音を響かせ目の前を通ろうとする。


―――今だ。

何が今だ、なのかは理解できなかった。ただ俺の頭は指令を出し、その声を受け取った俺の体は従順に足を踏み出す。前へ、もう一歩前へ。電車が通過しようとする。轟音と共に巻き上げられた前髪がぱたぱたと鬱陶しく揺れた。

あ、と思った時には既に電車は通り過ぎていて、俺は強い力で手首を掴まれていた。喧しい警鐘音が止んで、ゆっくりと踏切が上がっていく。車や、人々が線路を渡って向こう側へと消えていった。

「なに、」

俺の手首を掴んでいるのは、金髪のバーテンダー。サングラスの奥の目は睨むように俺を映し出していた。

シズちゃんだ、と痺れた脳がようやく働いた。殺せ。シズちゃんだ。
懐から出したきらきらと光るナイフを指に滑り込ませて、俺の手首を掴んでいる手に向かって突き立てる。殺せ。殺すんだ。

踏切を渡っていく人々がぎょっとした顔をしているのが視界の端に映った。シズちゃんは涼しい顔して手首を掴んでいるのと逆の掌でナイフを掴んだ。信じらんない、素手でだよ。やっぱ化け物だ。

「放してよ。俺、シズちゃんとこんなところでじゃれるつもりは無いよ」
「手前、なに考えてやがる」
「なにって?」

ぎらぎらした目はいつも通りだったけど、普段だったら標識やら自販機やらを投げてくる筈なのに何もしてこない。冷静なシズちゃんって気持ち悪いなあ。

シズちゃんは真面目な顔をしたまま俺の手首をぎゅっと強く握った。痛い。痛いけど、その痛みがぼんやりしている俺の頭を、視界を、覚醒させるように現実に引き戻す。


「飛び込もうと、してたろ」
「…………………………まさか。あれ、そんな風に見えちゃった?」

そりゃ、走ってる電車に向かって歩こうとしてたら飛び込み自殺にも見えるだろう。自分の言葉にツッコミを入れながら、俺はへらりと笑った。


飛び込む気は、あった。のかもしれない。だけど、死ぬ気はなかった。
おかしな話だろう。飛び込んだらその時点で死ぬというのに。俺は死にたくないけど、その境界線を越えようとしたんだ。

「イカれてやがんのかよ」
「素敵に無敵な俺に限ってそんなことはないよ。ちょっと、どうでもいいけどいい加減放してくんない?痛いんだけど」
「嫌だ」
「ガキかよ。なにシズちゃん、そんなに俺が好きなの?」
「放したら、お前また飛び込もうとするだろ」
「人の話聞いて欲しいなぁ。だから、飛び込もうとなんかしてないってば。そんなに俺に生きてて欲しいの?」

シズちゃんってばいい奴ー。わざとらしく笑みを浮かべて、挑発するように言ってみても、彼の額に青筋が浮かぶことはなく。むしろ、腕を引かれて俺は前につんのめった。

「ちょ、危な――――え?」


ふわり、と。
抱きしめられたのだと気付いたのは随分と経ってからだった。煙草の匂い。視界に入る金髪。
抱きしめられた。誰に?金髪の、煙草の匂いを纏ったバーテンダー服の。

「……シズ、ちゃん?」


かんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかん。
また警鐘音が鳴り出して踏切が閉まる。ゆっくりと下りていく、ここから先は進むなと無言で示す黄色と黒の棒。

かんかんかんかんかんかん。
俺の驚いた声は、踏切の音に掻き消されて消えた。黙ったまんま俺を抱き締めるシズちゃんは、更に腕に力を込めた。だから痛いって。肋骨折る気?つか、なんで抱き締めてんのひょっとしてシズちゃんってそっちの人?
言いたいことは山ほど浮かぶけど、言葉にはならなかった。今何か喋ったら、なんでかわからないけどシズちゃんが泣いてしまう気がしたから。

シズちゃん、放してよ。殺すよ。
そう言って、握り締めたナイフを彼の脇腹に突き刺せばいい。それが出来ないのは、シズちゃんの体温が意外と心地よくて、人間になるにはこの温もりが必要だと気づいてしまった。それだけのこと。

ああ俺は人間じゃなかったんだ。だってこの温かさを、人間の体温を、知らなかった。


「シズちゃん」

かんかんかんかんかんかん。

「シズちゃん」

かんかんかんかんかんかん、

「俺、人間が好きなんだ。でも人間がわからないんだ。ねえ、シズちゃんは、」

かんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかん、

「あの踏切を飛び越えてみたいと、思ったこと、ある?」


かんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかん。

シズちゃんは無言のまま、俺の顎を掴んだ。上向かされて、視線が絡み合う。

人間ってなんだろう。どうして愛を確かめ合うんだろう。人間って、何の為に生きてるんだろう。

唇が近付く。俺は抵抗も忘れて、シズちゃんの唇を受け止めた。


遠くで轟音がする。
電車がまた通ったのだ、と、未だ鈍い頭が伝えた。








耳を塞いだから、こころが泣いた

(愛してみたいのだと、この境界線を乗りこえてみたいのだと、叫んだ)(意味のないことだと分かってるけど、人間って、そういうもんだろう)







- mono space -