寂しさに溺死した人の続き(静臨+正)
*寧ろ正臣メイン







ああ、見なきゃよかった。どうして俺はこんなにも間が悪いというか、運の悪い人間なのだろう。

俺、紀田正臣は只今絶賛後悔中だ。自分の浅はかさというか、好奇心の強さを心から恨もうと思う。

最初に聴こえたのは怒鳴り声だった。学校の帰り道、なんとなく日の暮れかけた街を一人でぶらぶらとゲームショップを冷やかしたりしてさ迷って、さあ帰ろうと人通りの少ない路地裏の近くを通った時。
がん、という痛々しい音と共に、誰かの怒号が聴こえてきた。どこかで聞いたことのある、そう、池袋の街を震え上がらせるその声は。

(静雄、さん…?!)

そうだ。間違える筈がない、静雄さんの怒鳴り声だった。
それは路地裏の近くのビルの間から聴こえてくる。誰かを殴っているのだろうか。それにしては周りへの被害が少ないし、それに。
もう一つ、言い争う声が聴こえてきたのだ。その声は、そう、これまた間違える筈がない。

(臨也さん…?!じゃあ、静雄さんと臨也さんが怒鳴り合ってる、ってことか?)

静雄さんと臨也さんが殺し合うのはいつものことだけど、決して臨也さんの方は感情的にはならず怒鳴ったりはしない。しかもあんなビルの隙間なんて狭いところじゃやり合わないのに。
一体何が起こってるってんだよ。
好奇心に負けて、声のする方へ一歩、また一歩と進んでいく。押し殺したような声と、時折荒げられる怒号。近付いていく度に二人のやり取りがはっきりと耳に入ってきた。

「ふざけんな、なんで手前はいつもそうなんだよ!」
「ふざけてなんかないよ。寧ろ君の方がふざけてんじゃない?!」

そっと顔を覗かせて様子を窺う。薄暗い陰を作るビルの間に、二人はいた。
静雄さんが臨也さんの胸ぐらを掴んで、ビルの壁に押し付けている。臨也さんの口元には何回か殴られた痕があって、青黒く変色していた。爛々と輝く赤い瞳だけが強く、憎々しげに静雄さんだけを捉えている。

臨也さんが、怒鳴ってる。あの冷静沈着で、さらりと人に抱かれるような人間が。
その事実に呆然としながら、俺は二人のやり取りから目が離せなかった。


「きったねぇ淫売野郎が!そうやって誰にでも腰振って喘いでんのかよ!」
「シズちゃんだって寄ってくる人間は誰でも抱くタラシ野郎のくせに!俺のこと言えた柄じゃないだろ!!突っ込む穴があればなんでもいい訳?!」
「手前こそ突っ込んでくれる相手がいりゃあ何だっていいんだろ!!」

(――――あ、)

臨也さんの浮気性と、静雄さんの浮気性についてはよく知っている。二人はそのことでようやく衝突しているらしい。ちょっと、遅すぎやしないだろうか。
臨也さんはこの前泣きそうな顔で俺に抱いて、とせがんできた。半分は冗談だったのだろうけど、笑えていなかった。
きっと限界だったのだろう。静雄さんが他の人間を抱くことを黙認し続けることが。そしてきっと同じく、静雄さんも限界だったのだ。

二人とも、おかしいのだ。俺から見たって分かりやすいぐらい愛し合っている筈なのに、その愛を試すようにわざわざ他の人間に靡く。自分を、相手を、傷付けてまで。

「っ、ああ、そうだよ!!突っ込んでくれりゃなんでもいいよ!!」

堰を切ったように臨也さんが挑発する。どう見たって嘘なのに、静雄さんは勢いよく拳を振り上げた。
―――あ、痛い、それ。
ばきっという音に思わず俺が目を瞑ってしまった。当の殴られた臨也さんは地面に血の混じった唾液を吐いて、相手をきつく強く睨んだ。赤い瞳の奥がゆらゆらと揺れている。誰も見たことないような、臨也さんの一番弱い部分。
臨也さんが泣いてしまう。何故静雄さんはそれに気づかないのだろう。気づかないふりをしているのだろうか。


「………手前なんざ、もう知らねえよ。男好きの尻軽淫売の相手してるほど、俺は暇じゃねえんだ」



絞り出すような、静雄さんのその言葉を聞いた途端、臨也さんの顔が大きく歪んだ。怒り、憎しみ、殺意―――絶望、痛み、悲しみ。色んなものがごちゃごちゃに混ざって溶けた表情になった臨也さんは、静雄さんの胸ぐらを掴み返した。唇がわなわなと震えていて、真っ白だった。
瞳いっぱいに涙の膜が張られていて、今にも零れ落ちて壊れそうで。


「そうかよ!……そうかよ!!!シズちゃんが俺だけを見るんなら俺だって…ッ、俺だってねえッッ、シズちゃんだけを見てたよ!!!」


慟哭。
空気を揺るがす、ほぼ悲鳴に近いような叫びだった。臨也さんの苦しみがはっきりと胸に届いて切り裂いてくる。あの人は泣かなかった。ただ、ただ唇をぎゅうっと噛み締めて、静雄さんの手を振り払い俺のいる反対の方向にコートを翻し駆けて行ってしまう。

「臨、也」

静雄さんは追いかけようとはしなかった。頼りなく走り去っていく脆い背中を見送って、はぁ、と溜め息を吐く。

(ずるい、ずるいあんまりだ)

理性より先に本能が動いた。その辺に落ちていたゴミ捨て場のプラスチックで出来たゴミ箱を引っ付かんで、その金髪目掛けてぶん投げる。
あ、死ぬかもな、俺。浅はかな行動ばかりする自分に嫌気が差したのは一瞬だった。感情が沸騰したように高ぶっていてそれどころじゃない。

あっさりとゴミ箱を受け止めた静雄さんは、煙草を乱暴に揉み消して此方を振り返った。襲い掛かってくる様子はない。

「…………お前、いつから」
「…わりと、最初からっス」

ずるい。この人は、この人たちはずるい。大人の余裕というものを盾にごちゃごちゃした物事から身を守るんだ。自分の感情には振り回されて泣き喚いて怒鳴るくせして、相手の気持ちを知ろうともしない。理解しない。例え、愛しい相手であっても。


「なんで追い掛けないんスか」
「っ、」

サングラスの奥の目が、僅かに揺らぐ。殺されたって構わない、ただ俺は、この大人たちにどうしようもなく腹が立ったのだ。
逃げんなよ。相手を理解しようともしないで愛ってもんが成立するわけないだろ。


「臨也さんが、どんだけ悩んで悩んで悩んでるか、あんた知らないでしょうが!!そのくせに淫売とか、罵って、あんなに傷付けて!」
「ガキには、関係ねえよ」


また新しい煙草に火を付けながら静雄さんが金髪をがしがしと掻いた。いつもなら怒る筈なのに、そんな素振りも見せない。これだ。この余裕が、嫌なんだ。なんでキレないんだよ。

「ああそうっス、俺はガキっスよ!あんたらのことなんて一つも知らねえ。だけどな、あんたらみたいな大人にはなりたくねえっスよ!あんたらの愛ってそんなもんなのか?!そうやってお互いを傷付けないと確認できねえのかよおっ!!!」


静雄さんも、臨也さんも最低だ。絶対にこんな大人にはなんねえ。

静雄さんは暫く無表情で俺の叫びを聴いていたが、そうかよ。と一言返してまた煙草を揉み消した。そして。

俺を一発殴り飛ばした。

「――――っ!」
「意見ありがとよ。お礼だ、受け取っとけ」


それは俺のクソ生意気なガキへの教育でもあるんだよ。
そう告げて、静雄さんは僅かに笑みを浮かべた。俺はというと、壁に衝突してその場に蹲ることしか出来なかった。でも、手加減はしてくれたらしい。口の端が大いに切れて大量出血と鼻血が止めどなく溢れてくるぐらいで済んだ。
静雄さんは俺に一瞥をくれると、素早く身を翻して臨也さんが去って行った方向へと駆けて行った。ああ、追い掛けるんだ。


「っ、バカヤロオオォォ!!」


遠ざかっていくバーテン服に向かって、目一杯怒鳴ってやった。
怒鳴ってから気付く。成る程ね。



そうかあいつら馬鹿なんだ

(大人になるにつれて狡くなる、逃げるようになる、目を逸らすようになる)(馬鹿なことを繰り返して、愛する人を傷付けるようになる)

やっぱ俺、大人になんかなりたくねえや。














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