部課長の基本
2010年 3月 13日

「秋山真之」自分の屁にも気づかない集中力

いちど飲みはじめたら、だらだらと最後までつきあい、翌日、二日酔いになるようなタイプでは、けっしてなかったのだ。

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秋山真之の「奇行」エピソードは、兄好古に比べても格段に多い。

日露戦争中、東郷平八郎大将率いる連合艦隊旗艦「三笠」上だけでも――。

バルチック艦隊があらわれる直前、東郷が「三笠」の司令長官室に各司令官と参謀長らを招集したときには、みなが緊張しているさなか、突然、真之はテーブルの皿に盛られたリンゴにひょいと手を出して、いきなりかじりはじめた。だが本人はリンゴを食べていることすら忘れているような顔つきだった。同席した者は「しようがないヤツだ」「こいつ、とうとうアタマにきたか」とあきれた。

真之の煎り豆ボリボリは有名だが、自分の部屋のみならず、艦橋にいようが、となりに東郷がいようが、おかまいなしでボリボリやっていた。上司たちは、まるで類人猿でも飼っているつもりで我慢していたらしい。

煎り豆ばかり食べているからか、デカい屁をひっていた。仕事中、力を入れて勢いよく屁をぶっぱなす。ぶっぱなしておいて、「あ、屁か」と言うのが常だった。

そして艦橋や甲板でなにか思いつくと、部屋にもどってベッドにごろりと横になり、天井をにらんだまま瞑想し、いつまでも考えている。真之の補佐として参謀を務めていた飯田久恒少佐は、秋山がいつ寝ているのか不思議だった。

飯田は、秋山のことを、こう思っていた。

「この人は頭がいいから名参謀だが、ふつうだったら変人だ」

バルチック艦隊が姿をあらわし、大本営へ「敵艦隊見ゆ」の電文を送るさい、飯田久恒少佐らが執筆した「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直(ただち)に出動、之を撃滅せんとす」の文章のあとに、真之は付け加えた。

「本日天気晴朗なれども浪高し」――有名な名文だが、これは、前の日に大本営の予報課長兼観測課長が5月27日の天気を予報してきた電文「天気晴朗なるも浪高かるべし」を引用し、改めたものだった。

日露戦争後、佐世保港に停泊中の旗艦「三笠」で爆発が起きて港内に沈没(このとき日本海海戦の戦死者の3倍近い339人が死亡)し、連合艦隊の旗艦は「敷島」に替わった。

その「敷島」の乗組士官たちの凱旋祝賀会が横浜の料亭で開かれたときのこと。

席上、指名を受けた真之は、長唄「勧進帳」を朗々と歌い、一同をうならせた。だれも、真之がこんな芸をやるとは思っていなかったのだ。

じつは真之は、横浜碇泊中の「敷島」の幕僚室で蓄音機をくりかえしかけて練習していた。

真之は大酒飲みではなかったが、軍艦が入港すると、ほかの士官たちといっしょに料理屋に行き、だれよりもはしゃいで、「唄え、飲め」と騒いだ。だが深酒はせず、ほどよく切りあげて軍艦にもどり、まったく別人になって仕事をしたという。

ふだんでも、同僚たちとは、あまり飲まず、ひとりで料亭に行っては、芸者を3、4人あげて、ちびりちびりやりながら、言いたい放題しゃべりまくってから、さっと引き揚げるのが真之の遊び方だった。

いちど飲みはじめたら、だらだらと最後までつきあい、翌日、二日酔いになるようなタイプでは、けっしてなかったのだ。

海軍兵学校時代、真之は、ほかの者にくらべて要領が良く、要点のつかみ方がうまく、試験問題の山の張り方がずば抜けており、しかも集中力があったため、つねにトップだった。

その姿勢は生涯変わらなかった。人前では、まるで「変人」だったが、他人の見ていないところでは、持ち前の集中力で仕事をしていた。「天才」と言われていようとも、他人の数倍の努力をしていた。真之とは、そんな男だったのだ。

プロフィール

楠木 誠一郎

作家

くすのき・せいいちろう●1960年、福岡県生まれ。日本大学法学部卒業後、歴史雑誌編集者を経て作家となる。近著に『秋山好古と秋山真之』(PHP研究所)、『幕末ミステリー坂本龍馬74の謎』(成美文庫)など。

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