日銀:ゼロ金利解除、速水氏執念 00年上半期議事録公表

2010年7月30日 10時56分 更新:7月30日 16時46分

ゼロ金利解除で会見する速水優・日銀総裁(当時)=日銀本店で2000年8月11日撮影
ゼロ金利解除で会見する速水優・日銀総裁(当時)=日銀本店で2000年8月11日撮影

 日銀は30日、00年1~6月の金融政策決定会合(計10回)の議事録を公表した。6月28日の会合では、導入から1年を過ぎたゼロ金利政策について、速水優総裁(当時)が「金融政策としては半分死んでいたと言ってもいい。早く正常に戻したい」と述べ、景気への配慮からゼロ金利解除に反対だった政府を押し切る形で、早期の金利正常化に強い意欲を示していたことが分かった。

 速水総裁は会合で、「(ゼロ金利政策が続けば)構造改革にしても、必要なところに金が流れないで、死ぬことが分かっているところへ金が出て行くことが続いてしまう」と指摘。ゼロ金利が衰退企業を温存し、成長企業に資金が流れにくくなる弊害を招いているとの認識を示していた。

 当時は、ゼロ金利解除の条件となる「デフレ懸念の払拭(ふっしょく)」が見えてきたかどうかが焦点だった。企業収益の回復は明らかだったが、自律回復の動きが雇用・所得情勢や消費といった家計にまでつながるか、判断が難しい状態。それでも政策委員の間では「デフレ懸念の払拭が展望できる情勢にほぼ到達しつつある」(藤原作弥副総裁)との見方が次第に広がっていた。

 速水総裁が解除を急いだ背景には、ゼロ金利政策導入で陥った金融政策の手詰まり状態を早く打開しないと、景気が悪化した時に打つ手がなくなるという焦りに加え、景気配慮で強まる政治的圧力から、日銀の独立性を守る狙いがあったものとみられる。

 一方、会合では委員から「解除は金融引き締めにほかならない」(中原伸之委員)と、金利の早期正常化に前のめりになっていた速水総裁をけん制する意見も出された。

 日銀は1カ月半後の8月11日、政府の反対を押し切ってゼロ金利解除を決め、利上げした。しかしIT(情報技術)バブル崩壊で米国経済が減速。日本も景気回復が腰折れしたことで、7カ月後の01年3月には量的緩和政策の導入とゼロ金利復活に追い込まれることになり、日銀は「迷走、失策」との批判を浴びた。【清水憲司】

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