2010年09月23日
本日のネタオチ
▼真央、キム・ヨナ、遼らに学ぶ 「一流」のメンタルトレーニング法
一流の勝負力(著)久瑠 あさ美
基本的には、スポーツ選手ならザ・シークレットのDVDに出てくるヴィジュアル・モーター・リハーサルのことです。
頭の中でいきいきとその願望が実現したかのように・・・例えばゴルフなら、望みどおりのショットができて、ボールがドンピシャのところに落ちることをいきいきと映像化してから打つと、たいていがそうなる、と。
営業マンなら、競合見積りでクライアントから御社に決定しましたという電話がかかってくることを生き生きと想像してから、プレゼンに赴く。また飛び込み営業なら、望む部署の決定権を持った担当者が話を聞いてくれる情景を生き生きと想像してから、チャイムを押す。
私はザ・シークレットのDVDを十数回見てから、自動車をショッピングセンターの駐車場に入れるときなど、本当にこれを当たり前に行うことを習慣にしてしまっているので、今日みたいな無茶苦茶混んでいる日でも雨に濡れなくてすむ屋上以外のエレベーターの近くのスペースにほとんど待たずに車を停めることができてしまう。電車のイスなんかでもそうだ。
そういうときに私は私は神様だから最高の場所に車を停める権利があるからそうなるのだと信じているのだ。そしてそうなると決めた以上、もしかしたら駐車する場所を探してぐるぐる走りまわらなければならなくなるかも、とか、屋上に停めて雨に濡れなければならないかもなどという、私のかくなるべしと決めたことに反するいかなる思考も、起こることを許さないのだ。
あなたが天王寺から大阪まで行きたいなら、黙って環状線に乗ればよいのだ。弁天町でスリにあうかもしれないとか、鶴橋で痴漢に遭うかもしれないとか、京橋でやくざにからまれるかもしれないとか、西九条でハイヒールの女に足を踏まれるかもしれないとか、そうした考えは、あなたの天王寺から大阪に移動したいという戦略目標を達成するために、どんなプラスになるだろうか?そんな思考は何のプラスにもならないのである。
大部分の人が引き寄せの法則を使いこなせない最大の原因は、そういうことだ。ある願いを叶えたいと思っていながら、その現実化の足をひっぱる願いを10倍ももっているからだ。
だから余計なことは考えるな、というのである。
そうした余計な足を引っ張る考えが一切存在しないとき、あなたが頭の中で強く願う思考はちょっと時間がかかても必ず実体化する。
それともう一ついえることは、イメージしてそれをすでに叶えられたと信じて想像することは、実は感謝と同義なのである。
感謝とは、ありがたいということだ。今置かれている状況に感謝ではない人間は、将来願いが叶えられても不平不満たらたらに違いないのだ。
だから五日市剛氏のツキを呼ぶ魔法の言葉でもそうだし、竹田和平氏のありがとう百万回運動でもそうだが、とにかく感謝することがよきものごとをひきよせる現実的なパワーと源になるのだ。
ホ・オポノポノでは、何かトラブルが起きた場合、そのトラブルの原因となった記憶に対して「ありがとうございます」という。極端な話、いやな不快なことでも「ありがとうございます」と言うがよい。
あなたの人生は絶え間ない因果の応報の連続であり、不快な出来事もちゃんとした過去世のカルマ返しという理由があるのだ。雨の日に電車に乗っていて、濡れた傘が洋服についたので「バカヤロウ」と怒鳴れば、あなたはそのカルマを解消するチャンスを自ら棒に振ったことになる。べつに口に出して相手に言わなくても「これで私のカルマが一つ解消できた。その過去世の因果がどのようなものかはわからないが、とにかくありがとう」と認めて、心のなかで言っておくと、あなたはそのカルマを解消したことになる。
そうすると、真我を覆う記憶の再生である思考の雲がちょっとだけ薄くなるのである。
そうするとあなたは余計な思考に邪魔されている神の力をより自由に使うことができるということになる。
だから、ビジュアライゼーションが苦手なら、何に対してもありがとうと一日中心のなかでいいから言っておくことだ。
そうすればあなたは成功するであろう。
▼ではなぜ「自我」が「苦の原因」とされるのでしょうか?(FTKST Magazine)
高校の頃は世界は簡単だったな。
苦の原因=おめこがしたいのにできなかったから。
▼UFOとその影?グーグルアースがとらえた白色の円形物体(イスラエル・ネゲブ砂漠)(カラパイア)
▼「なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか」 - ベネディクト16世(In Deep)
キリスト教がトマスアクイナスの神学の世界観の上に構築した「神」は、言葉に過ぎない。
キリストの直弟子である聖ヨハネもヨハネの福音書の冒頭で神は言葉である、とそういっている。
しかし言葉の上に構築された神を信じろというのは、全く意味が無い。
民主党のマニフェストニダ!このマニフェストを信じるニダ!というものと同列なのだ。
確実に存在しているといえるのは、宇宙の森羅万象を観照しているあなたの意識だけだ。思考ですら、目の前のパソコン同様、あなたの意識によって観照されることによって存在している外部のうつろいゆく幻にすぎぬ。
あなたは宇宙の森羅万象を観照している神である。
外に言葉で創り上げた神を構築してそれを拝む必要はこれっぽっちもないのだ。
その言葉にすぎない神の代理人であるベネディクト16世が何かが存在したほうがいいというのは当たり前なのである。その何かという虚構の上にカトリック教のすべての組織や財産、そして2000年にわたる歴史が作り上げられているからだ。
▼『美味しんぼ』でかつて日本が朝鮮人に行った“強制連行”を学ぶ(FTKST Magazine)
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幸せを呼ぶ「観音の絵」―苦しみも悲しみも消え生きる勇気がわく! (著)草場 一壽
この人の神様仏様の絵は本当に不思議。
あの五日市剛さんも絶賛しています。
生命の実相―頭注版 (第7巻)(著)谷口 雅春
生長の家がいわゆるニューソート運動・成功哲学に基づいた教義を持っているということは知っていたが、古本屋で見つけて読んだんだけど、開祖の書いた生命の実相の一連のシリーズすっげえ。
ザ・シークレットやセドナメソッドやラマナマハリシなどが説く不二一元思想が全て盛り込まれている。
一流の勝負力(著)久瑠 あさ美
基本的には、スポーツ選手ならザ・シークレットのDVDに出てくるヴィジュアル・モーター・リハーサルのことです。
頭の中でいきいきとその願望が実現したかのように・・・例えばゴルフなら、望みどおりのショットができて、ボールがドンピシャのところに落ちることをいきいきと映像化してから打つと、たいていがそうなる、と。
営業マンなら、競合見積りでクライアントから御社に決定しましたという電話がかかってくることを生き生きと想像してから、プレゼンに赴く。また飛び込み営業なら、望む部署の決定権を持った担当者が話を聞いてくれる情景を生き生きと想像してから、チャイムを押す。
私はザ・シークレットのDVDを十数回見てから、自動車をショッピングセンターの駐車場に入れるときなど、本当にこれを当たり前に行うことを習慣にしてしまっているので、今日みたいな無茶苦茶混んでいる日でも雨に濡れなくてすむ屋上以外のエレベーターの近くのスペースにほとんど待たずに車を停めることができてしまう。電車のイスなんかでもそうだ。
そういうときに私は私は神様だから最高の場所に車を停める権利があるからそうなるのだと信じているのだ。そしてそうなると決めた以上、もしかしたら駐車する場所を探してぐるぐる走りまわらなければならなくなるかも、とか、屋上に停めて雨に濡れなければならないかもなどという、私のかくなるべしと決めたことに反するいかなる思考も、起こることを許さないのだ。
あなたが天王寺から大阪まで行きたいなら、黙って環状線に乗ればよいのだ。弁天町でスリにあうかもしれないとか、鶴橋で痴漢に遭うかもしれないとか、京橋でやくざにからまれるかもしれないとか、西九条でハイヒールの女に足を踏まれるかもしれないとか、そうした考えは、あなたの天王寺から大阪に移動したいという戦略目標を達成するために、どんなプラスになるだろうか?そんな思考は何のプラスにもならないのである。
大部分の人が引き寄せの法則を使いこなせない最大の原因は、そういうことだ。ある願いを叶えたいと思っていながら、その現実化の足をひっぱる願いを10倍ももっているからだ。
だから余計なことは考えるな、というのである。
そうした余計な足を引っ張る考えが一切存在しないとき、あなたが頭の中で強く願う思考はちょっと時間がかかても必ず実体化する。
それともう一ついえることは、イメージしてそれをすでに叶えられたと信じて想像することは、実は感謝と同義なのである。
感謝とは、ありがたいということだ。今置かれている状況に感謝ではない人間は、将来願いが叶えられても不平不満たらたらに違いないのだ。
だから五日市剛氏のツキを呼ぶ魔法の言葉でもそうだし、竹田和平氏のありがとう百万回運動でもそうだが、とにかく感謝することがよきものごとをひきよせる現実的なパワーと源になるのだ。
ホ・オポノポノでは、何かトラブルが起きた場合、そのトラブルの原因となった記憶に対して「ありがとうございます」という。極端な話、いやな不快なことでも「ありがとうございます」と言うがよい。
あなたの人生は絶え間ない因果の応報の連続であり、不快な出来事もちゃんとした過去世のカルマ返しという理由があるのだ。雨の日に電車に乗っていて、濡れた傘が洋服についたので「バカヤロウ」と怒鳴れば、あなたはそのカルマを解消するチャンスを自ら棒に振ったことになる。べつに口に出して相手に言わなくても「これで私のカルマが一つ解消できた。その過去世の因果がどのようなものかはわからないが、とにかくありがとう」と認めて、心のなかで言っておくと、あなたはそのカルマを解消したことになる。
そうすると、真我を覆う記憶の再生である思考の雲がちょっとだけ薄くなるのである。
そうするとあなたは余計な思考に邪魔されている神の力をより自由に使うことができるということになる。
だから、ビジュアライゼーションが苦手なら、何に対してもありがとうと一日中心のなかでいいから言っておくことだ。
そうすればあなたは成功するであろう。
▼ではなぜ「自我」が「苦の原因」とされるのでしょうか?(FTKST Magazine)
高校の頃は世界は簡単だったな。
苦の原因=おめこがしたいのにできなかったから。
▼UFOとその影?グーグルアースがとらえた白色の円形物体(イスラエル・ネゲブ砂漠)(カラパイア)
▼「なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか」 - ベネディクト16世(In Deep)
キリスト教がトマスアクイナスの神学の世界観の上に構築した「神」は、言葉に過ぎない。
キリストの直弟子である聖ヨハネもヨハネの福音書の冒頭で神は言葉である、とそういっている。
しかし言葉の上に構築された神を信じろというのは、全く意味が無い。
民主党のマニフェストニダ!このマニフェストを信じるニダ!というものと同列なのだ。
確実に存在しているといえるのは、宇宙の森羅万象を観照しているあなたの意識だけだ。思考ですら、目の前のパソコン同様、あなたの意識によって観照されることによって存在している外部のうつろいゆく幻にすぎぬ。
あなたは宇宙の森羅万象を観照している神である。
外に言葉で創り上げた神を構築してそれを拝む必要はこれっぽっちもないのだ。
その言葉にすぎない神の代理人であるベネディクト16世が何かが存在したほうがいいというのは当たり前なのである。その何かという虚構の上にカトリック教のすべての組織や財産、そして2000年にわたる歴史が作り上げられているからだ。
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幸せを呼ぶ「観音の絵」―苦しみも悲しみも消え生きる勇気がわく! (著)草場 一壽
この人の神様仏様の絵は本当に不思議。
あの五日市剛さんも絶賛しています。
生命の実相―頭注版 (第7巻)(著)谷口 雅春
生長の家がいわゆるニューソート運動・成功哲学に基づいた教義を持っているということは知っていたが、古本屋で見つけて読んだんだけど、開祖の書いた生命の実相の一連のシリーズすっげえ。
ザ・シークレットやセドナメソッドやラマナマハリシなどが説く不二一元思想が全て盛り込まれている。