常岡浩介が味わった怒りと絶望「死を2度覚悟した」
週刊朝日 9月24日(金)16時30分配信
常岡氏がアフガニスタンの武装勢力から解放されたのは現地時間9月4日のこと。157日間に及ぶ監禁生活から生還した日のことを、常岡氏はこう振り返った。
「解放された日の夜、現地の日本大使館でカレイの煮付けをいただいたんですよ。大使は冷凍モノだからと恐縮されてましたが、和食って、こんなにうまいものかと思いました。ただ、ずっと床に寝ていたものだから、ふわふわの布団がかえって居心地悪く感じられましたけど(笑い)」
常岡氏が拉致された4月1日にさかのぼろう。
前日の3月31日は、反政府勢力タリバーンの幹部だった知人のつてを頼ってアフガニスタン北部のタリバーン支配地区に入り、現役司令官のインタビューに成功した。その夜は幹部宅に1泊、翌日の午前9時ごろ、支配地区から約9キロ離れたイマム・サヒーブという町にタリバーンの青年兵士と車で戻る途中だった。
「携帯の電波が入り始めたことでタリバーンの支配地区から抜けたことがわかり、ツイッターに書き込みをしました。そのわずか約2分後でした」
前方に、覆面姿で銃を構えた兵士2人が立ちはだかり、銃口を向けて車を止めた。常岡氏の「ジャーナリストだ」という説明を無視して乗り込んでくると、常岡氏ら2人を目隠しし、兵士の一人が車を走らせた。近くで別の車に乗り換え、目隠しを外されたときは民家の小さな部屋にいた。そこでタリバーン兵士だけが解放された。
「お前らは誰だ」
常岡氏が尋ねると、若いほうが「政府軍」、中年の兵士が「ヒズビ・イスラミ(イスラム党)」と名乗った。
常岡氏によると、イスラム党は、パシュトゥン人の武装勢力で政府側に加担し、タリバーンと戦っている。
「お前は異教徒か」
若い兵士がこう叫んだ。
「私はイスラム教徒だ。カブールに連絡してくれ。私が日本人ジャーナリストだということはすぐわかる」
常岡氏は2000年にイスラム教に改宗した。これまで検問でジャーナリストだと名乗れば、通過は許されてきた。タリバーン支配地区からやってきたことで疑われているのだろうが、素性が判明すればただちに解放されると軽く思った。
だが、カメラや取材機材を取り上げられ、長座布団が敷かれた部屋に閉じこめられた。それから昼夜、マンスールと名乗る22歳の兵士が見張りにつく日々が始まった。
「アメリカ人なら殺してやろうと思った」
常岡氏を襲った中年兵は、常岡氏が礼拝する姿を見て、そう言った。
常岡氏が置かれた立場を悟ったのは監禁されてから2週間以上たった4月18日。携帯電話を手にした兵士に命じられた。
「『タリバーンに捕まった』と言え。イスラム党だとは絶対に言うな」
電話を取ると、日本大使館とつながっていた。なぜタリバーンの名前を出したのか、そのときは理解できなかったが、初めて自分が人質であることに気づき、殺されるかもしれないと足が震えた。
30分足らずの通話は電波状態が悪く、2度切れた。常岡氏は「政府側の戦いをしている勢力」と表現し、誘拐団がイスラム党であることを暗に伝えた。
監禁場所は転々とし、延べ30カ所近くに及んだ。いちばん長く閉じこめられたのは、イマム・サヒーブから5キロほどの所にある集落の民家の離れだった。
6畳ほどの監禁部屋は暑く、衛生状態は劣悪だった。着替えは3週間に1度、洗髪は10日に1度許されただけだった。
「飲料用の井戸水は泥水でした。あるとき透明度が高いなと思って日にかざすとミジンコのような微生物だらけ。私は沸かしたお茶を飲ませてもらえたので助かりました。現地の人間は腹を下すこともあるようですが、平気で飲んでました」
食事は三食与えられた。パンとスープ状の煮込み料理が定番。兵士が宴会の土産だと言って出してくれたラム肉の煮込みがうまかった。空腹に苦しむことはなかった。
「高さ約4メートルの壁に囲まれた敷地に果樹園があり、その隅っこに小さな穴を掘ったトイレをつくりました。水をもらって左手で直接お尻を洗うのですが、見張りのマンスールが見ている前で用を足すのが苦痛でした。現地の兵士は水を使わず乾いた土でこそげ落とすらしいですね。さすがにそれはまねできませんでした」
仮設トイレは、母屋で飼っていた鶏の餌場になった。便にたかる虫を食べるらしい。ある日、その鶏がスープの具になっていた。
「まずかったです(笑い)。餌がなんだか知っているからか、マンスールは『俺はいらない』と食べませんでした」
下っ端の兵士はいつも和やかだった。常岡氏の名前「コースケ」は、パシュトゥー語で「女性器」を指すらしく、それをネタにからかわれたこともあった。
5月中旬、誘拐団の本当の目的を、母屋に住む農民に耳打ちされた。
「あいつらカネを欲しがっているんだぜ」
後に要求額は100万ドルと聞いた。
神学校を卒業し、きまじめな性格のマンスールは、自らの行いに罪の意識があったようだ。
「俺たちは日本人の敵になってしまったのか」
と尋ねるマンスールに、
「当たり前だ。戦争が終わったら敵は敵じゃなくなるけど、泥棒は最後まで泥棒だろ」
常岡氏がそう言い返すと、彼はひどく落ち込んだ。
殺されると意識したのは5月29日のことだった。
常岡氏が監禁されている部屋に、別の件でスパイ容疑をかけられた農民が運び込まれた。目隠しをされ、手足の流血がひどかった。
その2日後の夜、常岡氏は部屋を追い出され、入れ替わりに、手に手術用のゴム手袋をして、刃物を持った兵士たちが入った。
約2時間後、部屋に戻されると農民は消えていた。羊をさばくように、刃物で首を切断し処刑されたのだと、常岡氏は想像した。
「兵士たちは直前までふざけっこをして笑っていたんです。その同じ人間がためらうことなく人を殺せるなんて、メンタリティーが僕らと根本的に違うと思いました。上から指示されれば、俺も羊みたいに殺される、なんでこんなことになったのかと、後悔ばかりが頭をよぎりました」
耐え難い退屈に深い絶望を何度も何度も味わった。
「窓から見える果樹園で、ハトが巣作りして雛を育てていたんです。気が狂いそうになると、そんな風景に癒やしを求めていました」
6月14日、再び日本大使館に電話するよう命令された。72時間以内に要求に応じなければ処刑するという内容で最後通告だという。
ところが、電話の相手はなぜか、毎日新聞の特派員だった。誘拐団の正体を特派員に伝えた後、「話す相手が違う」と兵士に教えると、兵士は特派員に代わって電話に出たアフガニスタン人の助手に脅迫内容を大使館に伝言するようお願いしていた。
72時間後、何も起きなかった。
「身代金をとれない人質をこれ以上拘束し続ける余裕はない。それなのに私は殺されなかった。そのとき初めて生きて帰れるかもしれないと思いました。同時に『これがお前たちのジハード(聖戦)なのか』と、怒りがわき上がりました」
常岡氏の読みを裏付けるように、その後の監視態勢は徐々に緩んだ。見張りやその上官から、幾度となく解放が間もないことをにおわされるようにもなった。
7月上旬、解放まで主に過ごすことになる民家に移された。食事は格段に充実し、食卓にはメロンやスイカが並んだ。マンスールと違い、そこの見張り兵士は礼拝すらろくにしない信仰心の薄い連中だった。
断食月「ラマダン」が8月11日に始まった。日本のテレビで流れた拘束中の常岡氏の映像は、その日に撮影されたものだった。
「ラマダン前に解放されると信じていたのが裏切られ、ビデオを撮るということはまた脅迫でも始めるのかと思い、半ば呆然とした気持ちで兵士の質問に答えたのを覚えています」
解放は突然だった。9月3日、監視の兵士が、
「あすバザールでお前の靴と服を買ってやる。そしてその翌日、解放だ」
と告げた。半信半疑の常岡氏に翌日現れた上官は、
「解放は今日になった。頭を洗いなさい」
昼の礼拝を終えると、外に車が待っていた。途中3回車を乗り換え、そのたびに同乗者の顔ぶれが違った。カブールに近づき、舗装された道路を走るようになり、やがて大統領府が見えた。やっと気持ちが緩んだ。
「本当だったんだ」
157日間の監禁生活でひげはヤギのように伸び、体重は10キロ近く落ちていた。
事件について常岡氏はこう分析する。
「イスラム党の犯人グループはタリバーンを騙って悪事を働き、アフガン政府は正体を知りながら、タリバーンの仕業だと発表しました。政府は軍閥の暴走を許し、それを隠蔽するカルザイ政権の指導力の欠如と腐敗を物語るものです。救いは日本政府が身代金要求に応じなかったことです。成功体験を与えたら、他の軍閥もこれに倣い、アフガンは誘拐ビジネスの国になってしまう。復興の芽が摘まれてしまうところでした」
外務省の退避勧告に逆らって危険地域を訪れ、拘束されたことについては、
「批判を受けるのは当然だと思います。政府側の軍閥が危険であることを知らずに訪れた僕の力不足でした。しかし、危険だから行くなと言われて、メディアが『そうですね』と従うのは責任放棄です。紛争地域は最前線の情報こそいちばん重要なのだから、メディアはそれを黙殺してはいけないと思います」
来年7月には米軍が撤退を始め、2014年末をめどにアフガン国軍に治安維持権限を移譲することが決まっている。日本政府も社会基盤整備などの費用として、5年間で50億ドル(約4500億円)もの支援を表明している。
「日本政府は事件の真相究明を求めるべきです。現地の実情を知らずに腐敗した政府にカネだけ渡すことは非常に由々しき事態です」
常岡氏は自らの体験を元にそう訴える。
本誌・國府田英之、中村 裕
つねおか・こうすけ 1969年生まれ。早稲田大卒業後、NBC長崎放送記者を経てフリーに。著書に『ロシア語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)がある。同書で、平和運動や人権にかかわる秀作を発表したジャーナリストに贈られる「平和・協同ジャーナリスト基金賞」の奨励賞に選ばれた
最終更新:9月24日(金)16時30分