海保による中国漁船長逮捕と労働者・市民の立場 かけはし2010.9.27号 |
尖閣諸島=「日本領土」主張にはどのような歴史的正当性もない |
「中国の軍事的脅威」を煽りたて緊張を作り出す菅政権の強硬策 |
日本と中国、台湾とのあいだで帰属をめぐり摩擦が続いている釣魚諸島(日本名:尖閣諸島)付近で、中国の漁船が日本の海上保安庁の巡視船に拿捕、船長が「公務執行妨害」で逮捕、送検されるという事件が発生した。この海域で中国漁船の船長が逮捕され送検されるのは初めてのことである。九月十七日外務大臣に就任した前原誠司は、所管である国交省のトップとしての最後の業務として沖縄・石垣市を訪れ、今回の事件で「活躍」した海上保安庁の巡視船を視察し、「この海域に領土問題はない。われわれの使命を粛々と果たしていくことが国民に誇りを与える」と乗組員を激励し、両国の摩擦の火に油を注いでいる。日中の労働者人民は、日本帝国主義戦争による侵略の歴史と未解決の課題を確認し、日中の支配階級・階層による「領土主義」的衝突を断固と拒絶し、国際連帯に貫かれた階級的利害を基礎にした問題の解決を模索する必要がある。
「領海警備」の反動化
事件の経過を追ってみよう。海上保安庁による情報という限界があるが、そこからも小泉政権時代から強化されてきた領海警備における一層の反動化を垣間見ることができるだろう。
九月七日午前十時十五分ごろ、巡視船「よなくに」(1349トン、89メートル)が釣魚諸島の最北に位置する久場島(中国名:黄尾嶼)の北北西十二キロ付近で漁網を揚げていた漁船を発見。日本政府の主張に従えばこの地点は基線(海岸線など)から二十二キロ以内の「領海」にあたることから、退去するよう警告した。
海上保安庁によると、退去の警告を受けた中国漁船は船首を「よなくに」の左舷側船尾に接触させて逃走したことから巡視船計四隻とヘリコプター一機で追跡している。しかし、非武装の漁船が、およそ十倍も大きい武装した巡視船に対して何らかの威嚇および敵対的行動をとるだろうか。漁船の船長は取り調べの中で「わざとぶつけたわけではない」と証言している。
最初の接触から四十分後の十時五十六分ごろ、久場島の北西約十五キロの地点で二度目の衝突が起こった。中国船は、巡視船「みずき」(197トン、46メートル)の再三の停船命令に応じず、急に方向を変えて左前方の「みずき」に左舷を衝突させたという。つまり、およそ四十分間、数キロの範囲内を四隻の巡視船とヘリ一機で追い回された挙句の衝突と言える。
海上保安庁のホームページに掲載されている「尖閣諸島」に対する警備方針は次のように記されている。「同諸島周辺海域では、中国漁船、台湾漁船が多数操業しており、同諸島領海内において、不法操業を行い又は漂泊・徘徊等の不審な行動をとった場合には、巡視船により厳重に警告の上、領海外に退去させることとしている」。
つまり、最初の段階で、警備方針通りに「領海外に退去させる」ことに徹していれば、今回のような事件には至らなかったはずである。
その後中国漁船は午後一時前に、久場島の北西約二十七キロの日本の排他的経済水域(EEZ)内で停船し、拿捕された。つまり、すでに「領海外」であり、警備方針である「厳重に警告の上、領海外に退去させる」という目的は達成していたはずである。にもかかわらず、あえて拿捕しなければならない理由があったとすれば、さらに高いレベルの政治的判断が影響したと考えられる。
中国船の拿捕は二度目の接触からおよそ二時間後のことであり、政治的判断を仰ぐには十分すぎるほどの時間であるし、また報道発表されている最初の接触(10時15分ごろ)よりもはるか以前の段階で中国船の存在を捕捉していたことは明らかであり、追跡・拿捕を実行した際の政治的リスクを判断する時間的余裕は十分にあったはずである。この間に巡視船がどのような判断を行い、また第十一管区海上保安本部との間でどのような交信があり、政府中央がどのような判断を下し指示を受けたのかなど、一切は明らかにされていない。
たとえ報道にあるように、その日(9月7日)の夜になって初めて「政府高官らが官邸で協議し、逮捕の方針を確認した」(朝日新聞)としても、それは一定の政治的判断を示したということである。そこには前述の前原大臣の「この海域に領土問題はない。われわれの使命を粛々と果たしていくことが国民に誇りを与える」という立場が色濃く反映されていたことは疑いないだろう。
その後、石垣海上保安部は九月十三日、船長を除く船員十四人全員を中国政府の用意したチャーター機で帰国させ、石垣港で差し押さえていた漁船についても同日正午すぎに、代理の中国人船長の操船で中国に向け出港した。公務執行妨害容疑で逮捕された船長は十九日に拘留期限を迎えることから、石垣地検は十日間の拘留延長を申請するという報道もなされている。
侵略と植民地支配の歴史
この海域は、一九七一年六月に調印された沖縄返還協定によって、米国から日本へ「返還」されるという事態に対して、中華民国および中華人民共和国から領有権の主張がなされている。七二年五月十五日、沖縄返還協定により尖閣諸島も合わせて日本に「返還」され、その後、右翼団体「日本青年社」が七八年に魚釣島に灯台を建設、八八年、九八年にも灯台改築などが行われ、二〇〇五年二月には国に無償委譲されている。
今回の事件に際して、日中双方の政府、メディア、民間世論は一斉に「古くからの領土」「歴史的に固有の領土」など騒ぎ立てている。だが、労働者に祖国などないのと同じように、歴史的に固有な領土など存在はしない。国家は階級支配の道具である。釣魚諸島の歴史は、日本が近代ブルジョア国家から帝国主義へと進むなかで、琉球(沖縄)に対する侵略支配の確立、そして台湾、朝鮮半島、中国大陸への侵略の一環として、何ら国際法的な根拠もないまま日本帝国主義によってどさくさにまぎれて強奪された領土であることを、日本の労働者民衆は何度でも確認しなければならない。
「領土主義」との闘いが重要
九月十二日に投開票が行われた名護市議会選挙では、基地移設反対を訴える候補が過半数を大きく上回った。右派の論客は「沖縄から米軍基地が撤退したら、尖閣諸島が中国に略奪される」などという脅迫を殺し文句にしている。百年前の侵略で獲得した領土をアメリカ軍に守ってもらおうなどという主張は極めていびつであり、同じように日本帝国主義の侵略の歴史の被害を現在に至るまで負わされてきた沖縄人民の「基地はいらない」というたたかいを踏みにじるものである。
この批判は、沖縄民衆のたたかいに寄り添いつづけている社民党、共産党の堅持する「尖閣諸島日本帰属論」にも向けられるべきだろう。基地のない島を願う沖縄民衆とともに、東アジア規模での労働者民衆の歴史を切り開く上でも、日本帝国主義による侵略の歴史と戦後の日米安保体制を基盤とした「領土主義」を拒否しなければならない。普天間基地の即時閉鎖、名護における基地建設の阻止はその最前線のたたかいである。
未曽有の危機にある資本主義システムは、歴史的、政治的、経済的、民族的なありとあらゆるてこを用いて、自らの生き残りの道を模索するだろう。資本主義にかわる戦争と搾取のない世界を目指す日本の労働者人民は、意識的に政治の舞台に登場しつつある民主党政権における「領土主義」との闘いに臨まなければならない。
労働者、市民の原則的態度
いま、釣魚諸島(尖閣諸島)における侵略の歴史を強調することは極めて重要である。それは、国境と資本によって分断される対立と搾取の東アジアではなく、連帯と希望にみちた東アジアを作り出す労働者民衆の未来を作り出すからである。
この原稿を執筆している九月十八日は、日本帝国主義が中国東北部を全面的に軍事支配に置くことになった柳条湖事件(満州事変)の七十九年目に当たる記念日で、中国では官民を挙げた記念式典などが開かれる。「満州」の経済的中心地であった瀋陽をはじめ、北京、上海などの日本大使館、領事館に対して、「釣魚台は中国の領土」を主張する中国民衆が抗議行動を行っている。
当然、それを意識した中国政府は、数回にわたり中国要人ともパイプを持つ丹羽宇一郎駐中国大使を呼び出して抗議をしている。また中国政府は、日中の中間ラインの中国側にある海域のガス田開発に関する両国政府の交渉の中断を日本政府に伝えたうえで、掘削を中止していた春暁ガス田に「修理機械」を搬入し日本政府の強硬な姿勢をけん制している。前原外務大臣は「約束が違う」として日本でも報復的に単独開発を行う旨の挑発的発言を行っている。
中国政府の主張は翌年の「沖縄返還」を控えた一九七一年十二月三〇日に「外交部声明」として発表された立場と同じである。「釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼は台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一部である」。
われわれは中国政府の主張を、領土的、民族的立場から支持するわけではない。何にもまして、東アジア労働者人民の国際連帯の基礎を再構築するための政治的主張として、帝国主義侵略戦争の過程でかすめ取られた釣魚諸島の領有を主張する日本政府には一片の正当性もないことを中国、台湾、朝鮮半島の労働者民衆に向けてアピールすることが重要なのである。二〇〇四年に中国人活動家による釣魚諸島への上陸に対する小泉政権による逮捕に対して、当時の「かけはし」に掲載された論文の結論部分を紹介する。
「多国籍資本の新自由主義グローバリゼーションと対決する労働者人民の闘いにとって、ブルジョア民族主義は極めて有害である。国境を超えて自由に支配し、搾取し、収奪する多国籍資本と有効に闘うためには、労働者人民こそ国境を超えてインターナショナルな連帯を作り出さなければならない。日本と中国の多国籍資本も、国境を超えて日中の労働者を支配し、『底辺への競争』に駆り立てている。民族主義的対立は、多国籍資本とその政治体制を利するだけである」。
「だからこそ、ブルジョア民族主義は反動的だという理由で、この釣魚諸島をめぐる対立に超然としていることはできない。侵略した側である日本の労働者人民が、日本帝国主義の侵略と不法な占領をあたかも当然であるかのように認めているようでは、侵略された側である中国労働者人民とのインターナショナルな連帯など作れるはずがないからだ。そのような態度は、中国労働者人民をますますブルジョア民族主義の側に追いやるだろう」。
(「釣魚諸島(尖閣諸島)は中国領である:新自由主義グローバル化と対決する国際連帯のために『領土問題』の認識が問われている」かけはし04年4月5日号、高島義一)
日中人民の国際主義的連帯を
ガス田という資源を背景とした領土領有の主張は、社会主義のスローガンがすでに形骸化して久しい中国社会の中に容易に浸透する。とりわけ経済成長とともに拡大し続けてきた格差と政治的抑圧のなかで育った中国の若い労働者民衆にとっては、自らの「政治的主張」を公然と掲げることのできるものとして釣魚諸島問題がある。
長期的な経済成長を確保する上で資源問題の解決を目指す必要のある中国の支配的階層にとって、中国民衆の中に浸透するこのような民族的主張は、新疆ウィグル地域やチベット、内蒙古などの資源地域への開発ラッシュへの後押しと同じ効果をもつ。だが、「階級間の諸関係抜きで考察された民族問題は虚構であり、虚偽である。それはプロレタリアートの咽喉にひっかかった固まりである」(トロツキー)。
現段階において、中国政府によるガス田開発とそれに反発する形での日本による対抗的開発は、労働者人民にとって必要のない、巨大な資源の無駄と環境的破壊を生むものでしかないだろう。このような無駄と破壊をやめさせる闘いは、「成長戦略」の名のもとに、すでに使い果たした資本主義システムを延命させるために、資源争奪戦を進める日本ブルジョアジーの意向を反映した民主党との対決でもある。
五月から六月にかけて中国全土を席捲したストライキの嵐(それはいまも続いている)のなかで階級闘争の歴史の舞台に登場し始めた新しい労働者階級を、中国の官僚支配体制と民族ブルジョアジーの側に追いやる日本帝国主義の領土的主張を、日本の労働者民衆はきっぱりと拒否し、対決しなければならない。とりわけ、そのほとんどが民族的主張によって彩られている中国国内の左翼状況の中で孤軍奮闘しているであろう国際主義派の左翼へ国際連帯のエールを送り続けるという意味においても、この立場は極めて重要である。
(9月18日、早野 一)
追記:九月十九日、逮捕された船長の拘留が延長された。強く抗議する。
資料
尖閣諸島問題の歴史的経緯
「正当な領有権」を主張して「反中」感情を煽ることは誤り
以下の文章は、市民意見広告運動編『武力で平和はつくれない 私たちが改憲に反対する14の理由』(合同出版刊 2007年4月)の中で「領土は最大の国益問題だ。ロシア・中国・韓国の横暴を制裁すべきではないか?」という問いへの回答として、私が執筆した文章のうち「尖閣諸島」に関わる部分の抜粋。なおこの文章の歴史的経過の部分は、おもに井上清『尖閣列島―釣魚諸島の史的解明』(第三書館刊)に依拠している。なおここでは「尖閣諸島」をとりあえず「領土問題」として扱っているが、日本政府の立場は、「尖閣諸島」に関しては、「北方四島」や「竹島」とも違って「領土問題」ですらない、という強引きわまるものである。 (国富建治)
……中国・台湾・日本の間で『領土問題』になっている「尖閣諸島」をめぐる問題を検討してみましょう。日本側の主張は、「尖閣諸島」(釣魚諸島)は1895年に日本が「領有」を宣言するまでは、いずれの国にも属さない「国際法上の無主地だった」ということにつきます。
しかし文献学的にみれば「尖閣諸島」(釣魚諸島)は、明王朝の時代から中国領として釣魚嶼(ちょうぎょしょ)あるいは黄尾嶼(こうびしょ)、赤尾嶼(せきびしょ)などの名前で知られ、倭寇に対する海上防衛区域に指定されており、沿海防衛の地図にも記載されていました。
明治以前の日本の文献で、「釣魚諸島」が記載されているのは林子平の『三国通覧図説』のみで、しかもそれは中国の地図に依拠したもので、その中では釣魚諸島を中国領と色分けしています。17世紀の琉球王朝の官僚が書いた『琉球国中山世鑑』でも、久米島を琉球領との境としています。つまり江戸時代から明治初期にいたるまで、「尖閣諸島」(釣魚諸島)は、日本にとっても琉球王朝にとっても、中国の支配圏内にあるとみなされていたのです。
もともと「尖閣諸島」という名前が付けられたのも、1895年に「領有」を宣言して5年後の1900年になってからで、イギリス海軍の海図にあった「ピナクルアイランズ」(ピナクルpinnacle=尖った峰、あるいは尖塔の意)を意訳したものでした。1895年(明治28年)という「領有宣言」の時期が、明治政府の本格的な対外拡張・侵略と足並みを合わせるものであったことにも注意する必要があります。
明治政府は1872年、琉球王朝を「琉球藩」にし、つぎの侵略対象を台湾に定めますが、その足掛かりとされたのが「尖閣諸島」でした。1885年、海産物業者だった古賀辰四郎による「開拓願い」を受ける形で、政府は沖縄県庁に対して「尖閣諸島」の調査を内命しました。しかし、この内命に対して西村沖縄県令は「これらの島々は中国領であるようだから、実地調査をしてただちに国標を立てるわけにはいかない」と上申しています。
他方、内務卿・山県有朋は同年10月に「中国領であったとしても八重山に近い無人島なのだから日本のものにしてしまっても構わないだろう」と外務卿・井上馨に打診したのですが、井上は「いま国標を立てると、日本への警戒が高まるので国標を立てるべきではない。調査した事実も知られないようにすべき」と親書で山県に返答しています。その後、井上、山県は連名で沖縄県令に対して直ちに国標を立てる必要はないと指令しました。
日清戦争が始まった1894年にも、海産物業者の古賀辰四郎はふたたび釣魚島の「開拓願い」を沖縄県に提出しましたが、この時も沖縄県は「同島の所属が帝国のものなるや不明瞭なりし為」とそれを却下しています。さらに、古賀は内務相と農商務相にも嘆願書を出しましたが許可されませんでした。最終的に釣魚諸島を沖縄県所属として国標を立てることを政府が決定したのは、日清戦争の勝敗の帰趨が決した1895年1月14日になってからのことです。「尖閣列島」の領有がまさしく対外侵略の結果であることは、この経緯からも明白です。
台湾と澎湖諸島の領有問題は、当初から日本の「南方侵略」の拠点として位置づけられていました。第2代台湾総督となった桂太郎(後の首相)は、伊藤博文に送った手紙の中で、台湾支配のつぎは福建省をはじめとした中国南部を「我有に帰せんとする」手がかりであり、さらに「南方諸島に羽翼を伸長する」のに適当である、と書いています。「尖閣列島」の日本領への編入は、アジア太平洋戦争へと向かう歴史にとっての重要な一歩であったことはここからも明らかです。
沖縄の施政権返還にともない「尖閣諸島」の帰属が問題となった1972年3月、外務省は「尖閣諸島は、明治十八年(1885年)以降、政府が再三にわたって実地調査を行い、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年(1895年)一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行い……」という「見解」を発表していますが、政府が「再三にわたって」調査したという事実はなく、一回だけです。
釣魚諸島の日本領への編入の閣議決定は一度も公表されませんでしたし、台湾と澎湖諸島の日本への割譲を決めた「下関条約」の条項にも、釣魚諸島の日本領への編入は記載されていません。つまりドサクサにまぎれて「領土」にしたのが「尖閣諸島」で、「日本固有の領土」であるという歴史的・法的根拠は存在しないのです。
いま、「尖閣諸島」は海底ガス田開発や、「排他的経済水域」をめぐって、中国と日本の間でホットな紛争地帯となっています。この問題をどのように解決するかは、中国・台湾・日本の間での外交的交渉に委ねられるべきですが、日本政府が「中国の脅威」とからめて「正当な領有権」を主張し、意識的な「反中」感情を煽ることはまったくの誤りです。
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