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[19752] 【実験・習作】読み専が書くローゼンメイデン二次創作 (再開)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/21 22:51
※ご注意
 本作の趣旨は実験ですが、書いてる本人は実力が無いので本文書くのも全力投球状態です。

 ただし、実験対象は本文内容ではなく、あくまで「1日でどれだけの分量書けるか」です。

 9回の実験の結果、【転生オリ主物】では10kB/日程度は書けたわけですが、同じ話の続きで主役を交代したらどう書けなくなるか(執筆速度が鈍るか)を検証したいと思います。
 ジャンルとしては【転生オリ主物】→【特定登場人物強化物】になるかと思います。

 取り敢えず内容整理のため転章として少し長目のも挟まりましたが、実験を再開いたします。



 以下本文は、9記事目までが【転生オリ主物】の実験、10記事目以降が【特定人物強化物】という形になります。

 9記事目までは趣旨に沿ってオリ主の一人称視点のみで進行しました。
 10記事目以降は投稿分ごとに視点を変更する予定です。



[19752] 最初の投稿 (実験開始時の趣旨が書いてあります)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/19 16:38
これは雑談掲示板【転生オリ主物は何故増えたのか考えてみよう】スレッドを見ていて
「本当にオリ主転生物って書きやすいんだろうか?」という疑問を持った、普段読み専の黄泉真信太が、数年ぶりに書いてみたSSです。
本来わざわざ発表する意味はないものですが、一応「このくらいの分量書けました」の証明的な意味合いで投稿させていただきます。

実験結果としては、確かに書き易いですね。
私は以前SSを書いていた頃も相当の遅筆で、一日に20行程度進めば御の字でしたが、約1日で100行程度書き上げられました。
うーん、これなら確かに流行るのも分かるような気がする。

おっと、忘れるところでした。本文入ります。

***********************

 確かその日は寒かったと思う。
 コートの襟を立てていたのは覚えている。髪が湿っていたような気もするから、雪だったのかもしれない。まあ今となってはどうでもいいことだ。
 帰宅途中だった俺は、交差点で信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始めた。そこに、信号無視の車が突っ込んできた。いや降雪時だったとすれば、ブレーキが間に合わずにオーバーランしてしまったのかもしれない。どちらにしろ今となっては確かめようもないし、結果も変わらない。
 横滑りするような車と、驚愕に目を見開いている運転手が俺の「前世」での最後の記憶だ。
 こちらの世界におぎゃあと生まれて思ったことは「ああ、生まれ変わりってあるんだなあ」という感慨だった。
 そこから十数年はある意味で忍耐の日々だった。詳しく書こうとすると愚痴の羅列になるので割愛するが、赤ん坊時代のままならない状態とか、小学校までの学校の授業の退屈さといったらなかった。
 三歳頃円形脱毛症になって親を大いにビビらせてしまったが、振り返ればあの頃が一番苦労していたような気もする。

 しかし、後知恵だからもうどうしようもないが、当時の俺に言ってやりたい、と二度目の中学生をやっている俺は思う。
 いっそ生まれ変わりを公言するか、秀才とかって触れ込みにして脳の柔らかいうちに余分に勉強やっとくべきだった。まあ俺の頭なんで早晩馬脚は現しただろうが、十年間ほどまともに勉強していたら末は学者先生とは行かないまでも今後の受験なんかで随分と楽ができたはずだ。
 実際のところは、元来騒がれるのが嫌いでなおかつ勉強嫌いの俺はひたすら「生まれ変わり」であることを隠し、退屈な時間をただただ惰眠やらなにやらに浪費してしまった。
 結果として、二度目だというのに俺はまたもや優秀な何かを発揮することもなくこの人生を過している。当然、進学関係については親やら担任の笑顔を見ることもほとんどない。
 宿題が必須なのは転生云々に関係ないが、予習復習も必要なのだ。一度通った道とはいえ、主観時間でもう三十年近く前になる中学校時代の勉強内容はかなりの部分が俺の鳥頭から抜け落ちていて、特に英語やら古典の文法関係はほとんどお天道様に返却済みだった。
「現実は散文的ってやつか……」
 最初の頃はバレて騒ぎになるのが厭で隠すのに苦労した生まれ変わり云々も、今となってはばらしてみたところでオカルト好きな連中の話題の種程度にしかなりそうもない。若しくは比類なき痛い子として匿名掲示板あたりで祭り上げられるだけだろう。
「歴史は何のために俺をこの世界に呼び込んだのか……」
 うろ覚えの半村良の某小説の台詞を呟いて、俺は机に突っ伏した。まあ気楽な学生生活を他人の二倍送れているからありがたいといえばありがたいわけだが、しかし。
「また病気が出た」
 いや、独り言だって。
「テストの点が悪かったからって、自分が異世界人って設定で言い訳するのはどうかと思う」
 はいはいそうですね。顔を机に付けたまま、俺は右手をひらひらと振ってみせた。
 最初にこの呟きを追及されたとき、咄嗟に邪気眼っぽい言い訳をしたのは拙かった。冷静に受け流しとけば変な口癖で済んだところだが、いまや変なやつという認識が広まりつつあるらしい。
「まあ次は本気出す」
「そうしてね」
 前の席から返って来た声は明らかに何の期待もしてなかった。
 この遣り取りもなにやら既に恒例になりつつあるな、と考えてから、ふとあることを思い出して俺は顔を上げた。
「そろそろ始めたほうがいいんじゃね?」
「……うん」
 前の席に座っていた柏葉巴は小さく頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
 柏葉は学級委員で、これから始まるホームルームでいくつかの連絡と評決の司会をすることになっている。整った顔立ちの美人なんだが若干物静か過ぎるのと、頼まれごとを断れない性格なのが災いして、どうも常に損をしているような気がしてならない。

 ……っと、今更そういう説明は要らないかもしれない。
 そう、ここは──某元首相も空港で読んでいたという噂のある、例の──ローゼンメイデンという漫画の世界、またはそれにごく近い世界なのだ。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた~~~


 そして、今は本編開始前の状況。ここは主人公桜田ジュンの所属する一年三組の教室。原作で数回にわたって「厭な記憶」としてリフレインされる、彼が中学一年生の折の「桑田由奈嬢文化祭のプリンセスに選ばれること」の段というわけだ。
 もっとも、この段階では柏葉がクラスの面々に淡々と連絡を行うだけだ。この場で即何かが起きるわけではない。
 主人公桜田ジュンが不登校の原因となる「中学生の男子が描いたにしては本格的過ぎるプリンセス用のドレスのラフデザイン」を課題提出用のノートに思わず走り書きしてしまうのは今夜のこと。翌日うっかりそれを消し忘れたまま提出したことが全校集会でのカタストロフィに繋がるのだが、そこまではまだ数日はある勘定だ。
 とはいえ、既に俺という異分子がこの場に混じっているわけで、今後の出来事が漫画のまま進むとは限らない。絵を描き上げた桜田がハッと気付いて消しゴムでゴシゴシやってしまったり、そもそもノートでなくその辺のチラシの裏にでも描いてしまえばそこで終わりではある。
 腕を上に伸ばして大欠伸をしがてら桜田の席を見遣ると、眼鏡を掛けた中性的な顔立ちの少年はごく真面目に正面を向いていた。ふむ、まあ取り敢えずホームルームの内容を聞き漏らして例の絵を描かないとかいう事態にはならないらしい。

──さて、どうしたもんか。

 ローゼンメイデンでの大イベントの一つと言っても過言でない場面に刻一刻と近づいているのに、どうして俺が落ち着き払っているかって?
 それはぶっちゃけ、事態がどう転ぼうと中学生としての俺の生活にはさして影響がないからだ。
 ローゼンメイデンという作品(面倒なので以下「原作」と呼ぶことにする)は、恐らくどう展開してもドールたちとその媒介となった人々以外にほとんど影響が出ない話なのである。
 酷な言い方をしてしまえば、この後桜田が不登校になろうとなるまいと、ドールたちが血みどろの死闘を繰り広げようとまったり安穏と時を過そうと、同級生としての俺には殆ど関係ない。せいぜい「桜田君登校してね寄せ書き」を書いたり「同級生のみんなで桜田君のうちに説得に行ってみるイベント」が起きる可能性が出たりするかどうかの違いである。
(ちなみに、後者は原作ですら起きていない。桜田の家に連絡に行ったのは柏葉で、説得に行ったのは担任だった)
 そのうえ、これからの出来事が原作どおりに進むかどうかも分からない。俺が何もしなくてもイベントが起きない可能性さえあるのはさっき言ったとおりだ。
 そんなこんなで、俺としてはいまいち盛り上がりに欠けてしまうのである。

──ただ、まあ。

 それとは別の立場というのも当然ある。それは、曲がりなりにもこちらの世界で十数年という時間をかけて成長してきたゆえのしがらみというやつだ。

 欠伸をしながらそんなことを考えていると。
「──各学年から一人投票でプリンセスを選出するんですが……」
 お、きたな。
「一年はうちのクラスの桑田由奈さんに決まりました」
 原作どおりの柏葉の言葉に、まばらな拍手といくつかの賞賛の声があがった。斜め前の席に座った桑田は恥ずかしそうにありがとうを返している。
 桑田は可愛さと美人さがほどよく調和した女の子といっていいだろう。性格も穏やかで友人も多い。過度に嫉妬を買うこともなければ、このことで天狗になるようなこともあるまい。まあ、無難な人選と言えるのではないか。
「──文化委員会でデザインを募集していますので……」
 ちらりと振り返ってみると、桜田はぼんやりと桑田のほうに視線を向けていた。おそらく、頭の中ではそろそろドレスの形が出来始めているのだろう。いかにもそんな雰囲気だった。

 やれやれ、と俺は溜息をつく。結局、何もなければ筋書きはおおむね原作どおりに進むわけか。
 言い換えれば、桜田ジュンに厭な思い出を作らせるかどうかは俺の胸先三寸ということだ。
 俺がちょっかいを出さなければ、桜田は原作どおり桑田の衣装のラフスケッチを国語のノートに描き上げ、それを担任で国語教師の梅岡が発見して掲示板に貼り付け、さらに全校集会で名指しまでされて桜田は引きこもり一直線ということになるだろう。あまり後味のいい選択肢とは言えない。
 反面、引きこもり状態にならなければ、今後のストーリーは原作どおりに進まないはずだ。下手をすると(原作の設定にのっとるならば)もうローゼンメイデンはこの世界に現れないかもしれない。そうなってしまって、果たしていいものなのだろうか?
 正直なところどちらも御免蒙りたいのだが、上手いこと両立できる方法は思いつきそうもない。そして、どちらにしても俺の状況にはさして変化がおきるとは思えない。どうにも気の進まない二択問題ではある。



 翌朝の目覚めは最悪だった。何年かぶりに上司に仕事の失敗を責められる夢なんてものを見てしまった。それだけ自分の決定に自信がもてなかったのだろう。

 前夜寝る直前まで考えてみて、結局俺はちょっかいを出してみることに決めた。
 理由はいくつかある。
 まず、このまま進んだら間違いなく全校集会でゲロの臭いを嗅がされることになるということ。これは文句なしに厭だと言い切れる。それに、原作では詳らかに語られていないが、そういう事件が起きたらクラス全員、いや文化祭自体が微妙な雰囲気になってしまうのは間違いない。なにしろ全校生徒が一堂に会する場所でやらかしてしまうわけだから。
 二度目とはいえ、既にどっぷりとこちらの人生に漬かってしまっている俺としては、折角の文化祭が白けてしまうのは楽しいものではない。ならばその要因は取り去っておくべきだろう。
 次に、個人的な興味もある。外部から来た俺のような異分子が、いわばこの世界の歴史に働きかけるわけだ。その結果がどうなって行くのかというのは興味深い。バタフライ効果というやつが現出するのか、それとも歴史の修正力というやつが働くのか。
 まあ、原作でしばしば語られていた世界の分岐というやつが起きて、原作で出てきた「巻いた世界」「巻かなかった世界」以外の世界、というオチになっていくだけかもしれない。それはそれで楽しめそうな気もする。
 そして最後に、これが一番でかい理由になるだろう。
 桜田ジュンは一応単行本を全部買う程度にはファンだった漫画の主人公であり、なおかつ現在は俺のクラスメートでもある。
 俺という小人物は、そいつが公衆の面前でゲロを吐いた挙句不登校になってしまうのを知っていながらみすみす見逃して、後からああだこうだと悩まずにいられるほど神経が太くないのだ。

 さて、その実行の方法だが。

「よう、おはよ」
「おはよう……今日は早いんだね」
 君が始業三十分前に来るなんてなんかの前触れかな、と苦笑するクラスメートに、俺はにやりと笑って課題のノートを振って見せた。
「なあんだ。宿題やってなかったの」
「うむ」
 うむじゃないでしょ、と言いながらそいつは俺のノートを覗き込み、眉をしかめた。
「なにこれ……?」
「すげーだろ」
 俺は胸を張ってみせた。課題ノートの1ページ丸まる使って、原付バイクのチューニングポイント……排気ポートを何ミリ削るとか、キャブレターのセッティングはどうとかびっしり書き込んである。
 当然、普通の中学生が覗き込んだところで、何がなにやら理解できないだろう。
「昨日の晩、就寝時間を削って考えた」
 それは大袈裟だが、それなりに時間は掛っている。キャブの断面図を描いていたらつい懐かしくなってしまって、課題を最後までやる時間がなくなってしまったのは事実だ。
「いや、そうじゃなくてさ。これ課題ノートでしょ。こんな落書きして」
「アイデアが浮かんだら即書きなぐる。これがいい物を作る鉄則らしい」
「いやでもさ、提出物に宿題の代わりに落書きしてたなんて、さすがの梅岡先生でも怒ると思うよ」
「だから、今宿題もやってるって」
「むちゃくちゃだよー」
 そんなやりとりをしているうちに、次第に人が増えてきた。そのうちの何人かは俺たちの遣り取りに気付いて、俺の机を覗き込んで行ったりする。
 最初の奴と問答をしながら課題の残りをやっつけ、よっしゃと言いながら顔を上げると、ちょうど数人のクラスメートがこちらを覗き込んだところだった。
 その中に桜田の顔があることを確認して、俺はガッツポーズを取った。
「どうだ、始業前に終わったぜ」
「だからー、落書きが問題なんだってば」
 すかさず最初の奴が言う。ナイスだぜ相棒。
「んー」
 俺はきょろきょろと周りを見回す振りをして、桜田の顔を窺った。まだこちらを見ている。よし。
「やっぱ落書きはだめですか?」
「だめです」
 俺は妙にレスポンスのいいクラスメイトに内心感謝しつつ、筆記用具入れから消しゴムを取り出した。
「勿体無いが仕方ないか……」
「当然だね」
「ちぇっ」
 実際のところ消してしまうのは惜しいような気もするが、俺は丁寧に消しゴムを動かした。さらば幻のポッケ強化計画。もう二度と日の目を見ることはないだろう。だが、これも全て桜田のためだ。
 すっかり消えたところでノートを持って立ち上がると、もう桜田は自分の席についていた。何かノートのページを切り離すような作業をしている。そこに桑田用ドレスのラフデザインが描かれているであろうことは容易に想像できた。

──畜生、その手があったか。

 恐らくちょっかい出しは所定の成果を収めたのだろうが、ある種の敗北感が湧き上がってくるのは何故だろう。

 ともあれ、そんなこんなで、俺の行動によってこの世界は原作から違う道を辿り始めた。それがどういう結果を齎すかは、まだなんとも言えないのだが。



[19752] 今日はこれだけ書けました
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/24 22:59
実験のつづきです。

本当にオリ主物は簡単なのか? ということで、実験継続です。
自分的には最初の数キロバイトをでっち上げるよりも続けて書いて方が大変なので、執筆1日分ごとに掲載していきます。
とりあえず、本日はここまで書けました。
まだペースが落ちていませんが、ネタは練っていません。行き当たりバッタリです。

※22:58 タイトルがおかしな位置についていたので流石に直しました。分量は増減していません。

***********************

 最初は何かの見間違いかと思った。
 次に、これは夢なんじゃないかと極ありきたりの疑いを持った。
 試しに自分の頬をつねってみた。痛かった。
 最後に、それがここにある訳と自分がここにいる訳を結びつけようとしてみた。なにやら繋がるような気も繋がらないような気もする。
 長いため息を一つついてみる。それから意を決して一つしかない質問の片方の選択肢にチェックをつけ、運勢判定サイトの「結果を見ます」ボタンをクリックする。
 わずかなローディングの時間が過ぎ、ごくありきたりの結果が表示された。ブラウザの戻るボタンをクリックしたが、再表示されたページにはよくある毒にも薬にもなりそうもない質問が並んでいるだけだった。


~~~読み専の俺が転生オリ主物を書いてみた 2日目~~~


 そして今、俺は幼稚園児くらいの背丈の、やけに不機嫌そうな黒衣の天使とテーブルをはさんで向き合っている。
「茶でも飲むか?」
「いらないわよ」
 苛々した調子で即答した彼女は……ああ、説明は要らないか。
 どういう巡り合わせか分からんが、俺はローゼンメイデン第一ドール水銀燈のネジを巻く役に抜擢されたのだった。
「まあ、説明は理解したんだが」
 目の前の銀髪のお嬢様がいつまで経っても茶菓子に手をつけないので、俺は月餅を引っ込めてチョコレートを置いてみた。お、これは食べるのか。
「だったらさっさとこれを嵌めて契約しなさいよぉ」
 不貞腐れた調子で無造作に指輪を投げて寄越す。その手つきは華麗といってもいいんだろうが、片手では食いかけのチョコを持ってるから、なにやら拗ねたおこちゃまという感じで微笑ましい。
「何ニヤニヤしてんのよぉ。緊張感のない奴」
「いや、全然。光の加減でそう見えるだけだろ」
 そう言ってやると、ちっ、と言いそうな表情をしてそっぽを向いた。
「ああもう……なんでこんなのを選んだんだか」
 鋭い視線を傍らでチカチカ光ってる蛍の親分みたいなものに向ける。そいつは困ったようにくるくると回って、部屋の隅に逃げ込んでしまった。
「あのちっこいのが工作とかスカウトを担当してるわけ?」
 確か人工精霊だったか。物を運んだり攻撃の増幅だかなんだかもしてたり、かなり優秀なサポート役だ。
「まぁね……そんなことはどうでもいいんだけど」
 じろり、と赤い瞳がこちらを見る。俺は思わず笑いを引っ込めた。さすがにこういう表情には迫力がある。
「契約か」
 俺は腕を組んで天井を見上げた。安物の丸型蛍光灯が僅かに揺れ動いている。


 正直に言うと、運勢判定サイトで「まきますか まきませんか」を見るまで、こういう事態は全く予想していなかった。
 なにしろ俺のちょっかい出しが成功したにもかかわらず、同級生たる桜田ジュン君は現在ご自宅に天の岩戸状態なのだ。
 結果として工作が不発に終わってしまった俺としては、歴史の修正力というのはあるんだなあと実感し、このまま進めばほぼ原作どおりの展開になるだろうと漠然と考えていたのだ。

 桜田が引き篭ってしまった理由は実に簡単だった。
 あの日、俺のちょっかい出しを見た桜田は国語の課題ノートに描いたプロはだしのラフスケッチを思い出し、そのページを切り離して提出した。
 結果、ラフが梅岡教員の目にとまって無断で掲示されることはなく、数日後の全校集会で名指しされた桜田が吐いてしまうこともなかった。
 そこまでは良かった。俺も心中胸をなでおろしたものだ。
 だが、破局はあっけなく訪れた。
 数日後の朝、いつものように始業ぎりぎりに登校した俺が見たものは、教室の黒板に書かれた大量の中傷の言葉と、その中心にある桜田の例のスケッチ、そして教壇の前で蹲って吐いている桜田とそれを取り囲んでいる野次馬だった。
 俺が教室の入り口あたりで呆然としている間に桜田は教員を含む何人かに連れられて退場し、以来学校に姿を見せていない。
 タネを明かせば簡単なことだ。
 あの日桜田がノートのページを切り離しているのを、以前から桜田に付き纏っていた馬鹿どものひとりが見ていたのだ。ほどなく連中のうちの誰かがそれを桜田の鞄から持ち出し、黒板に貼ったというわけだ。
 中傷の言葉を書いたのはそいつらだけではないらしい。消す前に見た限りでは、女子のものと思しき字を含め、軽く十人は下らない種類の筆跡が黒板に躍っていた。
 「桜田が桑田の『エロい』衣装を密かにデザインし、それをばらされるとゲロ吐いた」という噂は文化祭前には全校に尾鰭をつけて伝播してしまった。その後行われたプリンセス云々が微妙なムードになったのは言うまでもなく、クラスについて言えば文化祭自体も白けたものになってしまった。
 最悪の顛末だった。小賢しい工作などやってもやらなくても何の変化もなかったわけだ。

 異分子たる俺が積極的な介入を試みてもこの世界の歴史の流れには逆らえないのだろう、とこの件で俺は悟らされた。
 同時に、不謹慎ではあるが安心もした。これでローゼンメイデンの物語は成立する。桜田ジュンはいずれドールの螺子を巻き、彼女等とともに自力で成長していくのだろう、と。


 しかし現実にはご覧のとおりだ。
 原作ではこの街の大学病院に入院しているジャンクな(失礼)美少女のもとに現れ、どうやら半ばその子のために戦っているらしい黒翼の天使が、なぜか今現在目の前で俺に契約を迫っている。
 まずいだろう、これは。
 まきます、の選択肢にチェックを入れて送信ボタンを押した段階では、まさか相手が水銀燈だとは想像しなかった。
 ストーリーと媒介(契約者)との関わりにおいて、原作のドールたちは概ね二つのグループに分かれる。一つはストーリー上欠かすことのできない媒介と、深く契約しているドール達。もう一つは原作開始時点での媒介が誰であれストーリーの上ではあまり重要でないドール達だ。
 水銀燈は間違いなく前者だ。しかも水銀燈と媒介は愛憎だの立場だのという点で非常に似通っていた。少なくとも、人間である俺より水銀燈の方がよほど原作での媒介の少女に似ているだろうと思えるくらい、お似合いのはずなのだ。
 だから螺子を巻く相手は雛苺か金糸雀になるものと決めて掛かっていたのだが……。
 視線を正面に戻してドールにしては大きな、人間としては小さすぎる存在を見やる。俺の態度に退屈したらしく窓のほうを見ている横顔もまた、人間というには整いすぎ、人形というには硬質な生気に溢れすぎているような気がする。
「契約しなくてもパワードレインはできるんだよな」
 水銀燈は若干眉根を寄せてこちらを見たが、目顔で肯定した。俺は腕を組んだまま一つ息をついた。
「まあこっちが死なない程度なら力は吸い取ってもらって構わんが、契約するのは待って貰えないか」
「あらぁ、怖いのぉ?」
 くすくすと笑う。非常に残念ながら、見惚れてしまいたくなるほど美しい。凄艶というのはこういう姿を言うのだろうか。
「うん、ぶっちゃけ怖い」
 どう考えてもこのドールの相方に相応しい少女がいる。その子は自分だけの天使を待っているのだ。偽善かもしれないが、その子からこの黒衣の天使を奪ってしまうのが怖い。
 そんなこっちの気分を知ってか知らずか、水銀燈は今度は満足そうに笑った。
「いいわぁ。そのくらい聞いてあげる。どの道貴方は私の糧になるんだもの」
「それはありがたい」
 俺は素直に頭を下げた。変な人間、と水銀燈は笑いを大きくした。表情がころころ変わるのは思春期の少女のようで、少しばかり可愛らしく、そして意外だった。


 翌朝、俺は大学病院に向かった。
 起床したときまず鞄の有無を確認したが、部屋に似つかわしくない鞄は相変わらず昨夜の場所に鎮座していたし、そっと開けてみると黒い逆十字のドレスを着たドールも消えずにその中で眠っていた。やはり原作どおり、夜型なのだろう。
 土曜日だというのに正面玄関は混雑していた。どうやら幾つかの診療科は土曜日も外来を開いているらしい。
 人ごみを縫って案内窓口に行き、柿崎めぐという名前の少女がどの部屋に入院しているのか尋ねると、あっさり西棟の716号だと教えてくれた。プライバシーの保護上あまり芳しくないんじゃないか、とも思ったが、俺はありがとうと素直に礼を言ってその部屋に向かった。
 なんとなく違和感を感じたのは、病棟のエレベータに乗っているときだった。

──脳神経外科……放射線科……腎臓内科……

 何気なく眺めた診療科ごとの病棟分けを全部読み終わる前に、エレベータは目的地に到着した。
 ナースセンターの前を過ぎ、個室の並ぶ一角に入ってからも違和感は消えなかった。むしろ、次第にはっきりしていった。
 716号の前には「柿崎めぐ」と名札が掲示されていた。ドアは閉まっていたが、俺はノックせずにそこを開けた。
 広く、設備の整った個室だった。窓は大きいが、壁の面積に比べれば広いとはいえない。ベッドは窓に近づけられており、座ったままでも手を伸ばせば窓を開けられそうな配置だった。
 部屋の主は眠っていた。酸素マスクをつけ、点滴と心電図計が繋がっている。他にも何やら大掛かりな機材があったが、俺にはどういったものかよく分からない。
 ただ、近づいて覗き込んだとき確実に分かったことがある。
 この少女にはもう、契約だかなんだか知らないが、そういったものに耐えうる余力なんぞ残っていない。手足は明らかにむくみが出ていたし、頬は紅潮しているくせに肌には全く艶がない。到底、原作のようにベッドの上で両手を広げて元気な電波発言をできるような状態ではなかった。
 西向きの窓から空を眺め、俺は循環器内科の領分のはずのこの患者が、腎臓内科の病棟の外れ、ナースセンターから最も遠い場所に、一等広い個室を与えられている理由が漸く分かった気がした。

 ここからの眺めはすばらしいのだ。いつでも本物の天使が孤独な命を空へと攫って行ってくれそうなほどに。

 柿崎めぐの病室の中にいたのは二十分ほどだったろうか。その間、誰も病室を訪れることはなく、柿崎めぐが目を覚まして電波なことを言ったり癇癪を起こすこともなかった。
 帰り際にナースセンターの前で俺を呼び止めた看護士は、ひとしきり俺に柿崎めぐの近況、というよりはほとんど病状を話してくれた。
 時折非難がましい口調が挟まれていたのは、俺のことを柿崎めぐの親族か友人だと勘違いしたからだろう。実際のところ全く見ず知らずの他人なのだが、特に訂正する必要もなかった。俺は黙って彼女の話を聞き、丁寧な説明に感謝してその場を立ち去った。


 自宅に帰り着いてみると既に正午を過ぎていた。
 ごく簡単に昼食を済ませてから畳の上にごろりと転がり、現在の状況と考えを整理しようとしているうちに、しまりのない話だがいつの間にか寝ていたらしい。
 目を覚ますとベランダの窓は開け放たれており、部屋の中に夜風が吹き込んでいた。昼寝にしては長いこと寝ていたものだ。
 鞄は元の位置にあったが、中身はもぬけの殻だった。馴れ合う気はないと原作で言っていたが、どうやらそれは俺に対しても同じらしい。水銀燈は水銀燈、といったところか。
 昨日の今日で別段気を使われたわけではないと思う。しかし今はそのドライさが有難かった。お蔭様で今後について考えをまとめる時間ができそうだ。

──さて。

 俺は特に何をするでもなくこの十数年を生きてきた。生まれ変わりということを意識してはいたものの、何か特殊な能力を発揮することも、異次元転生者狩りエージェントみたいな存在が出現して命を狙われるなんてこともなかった。
 なけなしの原作知識とやらを使って桜田ジュンのトラウマを作らないために下手な工作もしたが、それもあっという間に覆されてしまった。それ以来俺は転生したという利点を生かして能動的な何かを試みることは諦めていた。
 だが、今になってローゼンメイデンの媒介として選ばれたということは、俺にはやはり何等かの役割が与えられているのかもしれない。
 元の世界に極近いが異なる世界の戦国時代に移動した自衛隊の面々が生き延びるために戦っていったことが結果としてその世界の信長や秀吉たちの不在を埋めることになったように、俺にもなにがしかの代替的役割が求められているのか。

──だとすれば、それは柿崎めぐの不在を埋めるものなのだろう。

 その認識は実に面白くなかった。人選としても疑問が残る。
 手前味噌な話だが、俺は原作の柿崎めぐほど派手に壊れてはいないと思う。転生した体は五体満足だし、あれほどピーキーである意味素直な性格でもない。
 実を言えば、俺は水銀燈に力を与える代わりに、柿崎めぐとの契約を提案するつもりだった。原作のままならば、二人の関係は他者が入り込む余地のないほどぴったりと平仄が合っている。
 しかし今朝見た光景は、柿崎めぐに本来の役割を押し付けるのが無理だということを嫌でも分からせてくれた。

 頭を振りながら台所に立ち、ケトルを火にかけていると、蛍の親玉のような光が横切ったかと思うとくるりと顔の周りで一回りした。
 部屋のほうに視線を遣ると、暗い空を背景に、銀色の髪を靡かせた黒衣の天使が開け放った窓から入ってくるところだった。
「あら、起きてたわけぇ? もう目覚めないかと思ったのに」
 くすりと笑う彼女は掛け値なしに美しい。
「生憎と、そう簡単には死ねないもんでね。誰かさんと契約しなきゃならないから」
 へえ、と彼女は肩をすくめ、昨夜と同じように無造作に指輪を放って寄越した。
「決心がついたんならさっさとしなさぁい。また、怖くならないうちにね」
「そうだな、お言葉に甘えさせてもらうとするぜ」
 ケトルの笛が間抜けな音を立てる狭い台所で、俺は水銀燈と契約を交わした。



[19752] 今日はこのくらいしか書けませんでした。トホホ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/26 23:30
はい。いい感じに失速してきました。
元々が遅筆&纏めておかないと伏線も張れない人なので、行き当たりバッタリはいろいろ辛いですな。

では本文。

*************************************


「ハハッ、この『シルヴィア』は最強だぜェ!」
「1/7のピースを足してやっただけでこの能力アップ…全部集めたら、そして完成したらどんな化け物になるのだこれは」
「ンな事ァ知るかよ! 今はこいつのパワーを存分に使いきってやる。その次は2個目、それから3個目だ! どんどん強くなるぜこいつはよォ」
「ああ、そうだな…」
「ボヤボヤしてる暇はねーぜ。見ろ。早速お出ましだ」
「……! 『アゲート』と『ピンクコーラル』か。思ったより早かったな」
「さあ、おっ始めてやるぜ、ALICE GAMEをよォ!」

 Advanced Logistic & Inconsequence Cognizing Equipment。それは、自律型学習コンピュータの究極の形である。
 1年戦争終結後、モビルスーツを含む宇宙機パイロットの深刻な不足に悩んだ地球連邦軍は、完全な無人兵器による戦闘を構想していた。その制御A.I.として開発されたのがALICEであった。
 しかし、ALICEと、その搭載機であるスペリオルガンダムは確かに高性能であったものの、そのコストはあまりにも高すぎた。
 ALICEを中心とする無人戦闘システムの開発が難航するうちに人工的ニュータイプ──強化人間の実用化の目処が立ち、研究は中止され、ALICEとスペリオルガンダムも4機を試作したのみで量産は放棄された。
 後にペズンの叛乱と呼ばれる一連の紛争において、α任務部隊に配備された1機のスペリオルガンダムが実戦に参加したものの、母機の大気圏突入の際にそのALICEは失われてしまった。
 残る3機も数年のうちに分解・破棄され、その機材はあるものはスクラップとなり、あるものは分解されて安価な二線用装備に流用されて、ALICE達はモビルスーツの無人化計画とともに時代の徒花として消えていった。
 公式には、そのように記録されている。

 宇宙世紀0097。世に言う【ラプラス戦争】の直後から、この物語は始まる。



「なるほどね……」
 俺は夜食を食いながら見ていたDVDの音量を少し下げた。夜中に見るにしてはこのアニメはだいぶ音がでかい。
「退屈な感じぃ……」
「同感だ」
「なら、なんで見てるわけぇ?」
 窓枠に腰掛けた水銀燈が至極当然な質問をしてくる。俺は首を傾げ、少し間を取ってから答えた。
「んー、なんだろな。話題づくり? 友達との」
「くっだらなぁい」
 そう鼻で笑いながらも、昨日借りてきたDVDをきっちり全部見ているのはどういうわけなんだか。
 にやにやしながら、俺はお茶漬けの残りを掻き込んだ。

 今後のことをいろいろと考えているときにふと「こっちの世界ではローゼンメイデンの代わりにどんなアニメが放映されたんだろう?」などという下らないことを思いついたのは随分前のことだった。
 そのときは、番組名と宇宙世紀物のガンダムの続編らしいということを知っただけで満足してしまった。さほど興味も湧かなかったし、よくよく考えれば長寿人形劇くんくん探偵シリーズなど、深夜枠どころかゴールデンタイムの番組さえ違った編成になっている。ローゼンメイデンの代わりどころの話ではなかった。
 それを今になって見ている理由は、番組のあらすじをたまたま伝え聞いてしまったからだ。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 3~~~


「アリスゲーム?」
 単語としてはこの世に生まれる前から知ってるが、その名前を人間の口から聞くのは初めての言葉だった。
「なんだ知らないのかよ。これだから種と00しかガンダムしらねー奴は」
「悪かったな」
 残念ながら彼のご期待には添えない。何故ならタネとかゼロと言われてもさっぱり理解できないからだ。
 俺が知ってると言えるのは前世で見ていたVガンダムとかGガンダム程度のものだ。物心ついた頃にゼータガンダムとかをやってたのは覚えているが、内容は完全に忘れている。難しい話だったというから、若しかしたら当時は理解できなかったのかもしれない。
 向こうで死ぬ数年前に「MAJOR」の裏番組で新作のガンダムを放映していたのも知っていたが、それは全く見ていない。ビール片手にぼんやり見るにはライスあったけマジうめー♪ の方が気楽だったのだ。
 こちらの世界でも同じ番組を見てしまっているのは許されることと思いたい。さすがに昨今の規制下では未成年がビールを買ってくるわけにはいかないが、十数年ぶりに見る再放送のようなもので懐かしさがどうしても前に立つのだ。
「アリスってのは超すげえAIなんだ」
 メガネを掛けた、いかにもという感じのクラスメートは、得意げに語り始めた。
「けど、開発途中で解体されて七つに分割されちまった。んで、それぞれが別々のモビルスーツに補助コンピューターとして搭載されたわけよ」
「へえ」
 何やら怪しい話になってきた。
「AIは七分の一になっても自分で学習して機体制御できるわけ。けど、全部集めれば超すげえパワーになるんだ。ニュータイプよりつええの」
 ニュータイプはエスパーみたいなもんじゃなかったっけ。
「だからそれを奪い合うのがアリスゲーム。んで、モビルスーツに乗ってるAIがさあ」
 その後何十分かに亙る彼の懇切丁寧というか執拗というか微妙な説明を要約すると、要するに演出上の都合で「AIの操っているモビルスーツ」を表現するのに、オーバーラップで少女たちを重ねるような手法を取ったらしい。
 AI自体も女性の人格が与えられているという設定で、実際に喋りながら戦う。まさに萌え狙いというか、あざとい商法だ。
 ALICEを現出させるために少女たちは文字通り死闘を繰り返す。擬人化しているといってもロボット同士だから、腕がもげたり体が消滅したり、人間同士ならスプラッタになるところを美しく演出できたという。
 モビルスーツの擬人化としては斬新な方法だったようで、当時はその筋の人々には大人気、2ちゃんねるには各AIごとのファンスレが立ち、ガレージキット屋からはフィギュアのみならず限定品のドールまで発売されたとか。
「で、お前さんは誰が好みだったわけ?」
「そりゃーもちろんサファイアだろ! さふぁ子は俺の嫁! ボクっ子は正義!」
 そうですか。
 肩を竦めて辺りを見回すと、放課後の教室に残っていた面子は呆れたようにこちらを眺めていた。普段寛容な柏葉の視線さえもだいぶ低温になってきている。
 できれば声を慎んでほしいものだ、と思わず溜息が出てしまう。桜田にこの厚顔無恥さの半分でいいから分けてやりたい。そうすれば、学年が変わったのを切っ掛けにしてでも登校を再開するように誘えたのに。


「ちょっと」
 細い指が俺をつつく。はっとして顔を上げると、画面は青くなっていた。眠気に負けてついうとうとしてしまったようだ。
「終わってるわよ」
「あー、すまん」
 結局今晩も水銀燈は四話分のDVDを最後まで見ていたらしい。こっちは最後の一話分ほどはストーリーがあやふやなのだが。
「半分にした方がいいんじゃないのぉ? お馬鹿さぁん」
「返却期日の関係があるからなー」
 前期後期と特別篇で合計二十六話、まさに元居た世界でのローゼンメイデンの放映話数そのままのアニメだが、それを全部一気に借りてきたのだ。一週間で見終えるためには毎日四話ずつ消化しなくてはならない。
「ぷっ」
 本当に馬鹿ねえ、と笑う彼女は、原作よりも幾分肩の力が抜けているような気がする。
 原作では柿崎めぐに対して心を許していることを認めたくなくて(または心を許してしまっている自分を見せたくなくて、かもしれない)自分のスタイルを貫くべく突っ張っていたが、俺に対してはそうする必要もないほど見下しているというわけだ。
 それが残念とは思わない。原作の媒介とは違い既に契約を交わしているのだし、同じようになぞることには意味がないだろう。こちらのやり方で付き合っていけばいいだけの話だ。
 ただ、関係がべったりしていないことにはいささか問題がある。
「そういや、昨日話してた『本物の』アリスゲームはどうなってるんだ」
 こうして聞かなくてはならないこともその一つだ。
 桜田が実際に媒介になっているかどうかは確認が取れていないが、少なくとも原作の桜田は頻繁に戦いの場に連れて行かれていた。戦いの経緯についても、お互いに話して愛情を深めていたようなフシもある。
 しかし、今のところ俺にお呼びが掛かったことはない。向こうからゲームの進行状況を報告してきたこともない。尋ねてみたのもこれが初めてだった。
「貴方には関係ないでしょ。必要になったらいつでも力を吸い上げてやるから安心しなさぁい。そのための契約なんだから」
 余裕のある含み笑いとともに、ある程度予期していた言葉が返ってくる。俺はDVDプレイヤーの電源を落とし、台所に向かいながら窓枠の天使を振り向いた。
「そりゃ、そっちはそれでいいかも知れんが、こっちだってパワードレインを受けるんだからな。それなりに進行状況くらい知りたいと思っても当然だろう」
 水銀燈は頬杖をつき、若干面白くなさそうな顔でふぅんと鼻を鳴らした。
「今のところ、進展はなし」
「まだ全機揃ってないってとこか?」
 先ほどのDVDに引っ掛けてそう言ってみると、はっきりと機嫌が悪くなったのが見て取れた。
「まあそうね。その割に、もう一人中途半端に脱落してるけど」
「……そりゃ、早いな」
 雛苺か、と喉まで出掛ったが、どうにか抑えた。雛苺が真紅に負けてから蒼星石が自刃するまでなのかと思ったが、展開は原作どおりとは限らない。
「勝った者がローザミスティカを奪わないなんて……恥知らずもいいところだわ」
「ゲームの勝者はローザミスティカを奪う決まりだったっけ?」
 小さなティーカップに紅茶を淹れてやると、意外にも素直に受け取って口をつける。淹れ方が適当なので不味い紅茶だと思うが、彼女は文句も言わずに返事をした。
「取り決めなんてないわ。でもゲームの目的はローザミスティカ。それを奪わないなんてイカレてるのよ……真紅のやつ」
 ふむ、まあここまでは原作どおりか。多分負けたのは雛苺で間違いないだろう。
 俺は自分の分の紅茶をマグカップに注いで窓から外を眺めた。水銀燈に肩が触れたが、彼女は少し避けただけで文句は言わなかった。
「まあ、物は考えようじゃないか?」
 日付が変わって、街の明かりはそろそろ消え始めていく。ある意味で一日中で最もさびしい時間帯だ。なんとはなしに、水銀燈に似合うような気がするのはなぜだろう。
「真紅ってやつのローザミスティカが二つになっちまえば、その分だけパワーアップするんだろ? お前さんにしてみれば、相手がチョンボしてくれて大ラッキーじゃないか」
「……」
 水銀燈がこちらを向く気配が分かったが、俺は気づかない振りをして続けた。彼女の言いたいことがなんとなく分かるような気がしたからだ。
「どうせ奪い合うことになるんなら、相手のミスはこっちの加点だ。後ろ向いてニヤリと笑って、その状況を有利に使ってやればいいのさ」
 片目を瞑って見上げると、黒衣の天使は毒気を抜かれた表情で何かを言いかけたがそれを引っ込めて、紅茶の残りを飲み干した。
「不味いわね、これ」
 そう言ったときには、彼女はもうごく当たり前の表情に戻っていた。
 そいつは失礼、と俺が頭を下げると、水銀燈は優雅といえる手つきでこちらにカップを返して寄越した。
「温度はめちゃくちゃだし、苦すぎるわよ。せめて次からはミルクを入れて」
「了解」
「全く……退屈しちゃう。少し飛んでくるわぁ」
「俺は寝るとするか。紅茶の効き目もないし。もう目が落ちそうだ」
 水銀燈はふわりと宙に浮き、くすりとこちらをみて笑った。
「それは死ぬときの表現でしょ、おばかさぁん」
「そうだったっけ」
 水銀燈はくすりと笑い、机の上のPCを指差した。
「起きたらそこの大きな箱で調べなさぁい。……おやすみ」

 おやすみ、と返す間もなく、黒衣の天使は銀色の蛍を従えて闇の中に消えていった。

 俺は暫くその後姿を見送っていた。どうせまた明日もDVDの鑑賞会と決まっているのに、名残惜しいような気がするのはなぜだろう。
 PCを振り返り、ひとつ欠伸をする。明日登校する前に紅茶の淹れ方くらい調べておこう。いや、原作でも真紅が何巻だかで淹れ方をのりに教えてたよな。確か本棚のあの辺りに……
「ああ、そうか……」
 当然のことに気づいて苦笑いする。この世界には「ローゼンメイデン」はないのだった。眠気のせいなのか、どうもおかしな調子だ。



[19752] 取り敢えず今日はここまで。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/28 00:08
はしょりすぎ感バリバリですが、こんなところで。

**************************

「ああ、別に風邪も引いてないし、元気にやってるよ。そっちこそデモとか巻き込まれないようにね。……あはは、それじゃ」
 毎度ながら、通話を切ると唐突に寂しさが襲ってくる。部屋の中に一人ということを意識する瞬間だ。
 この春の人事異動で両親は東南アジアの現地法人に出向させられた。長くても数年で戻るということもあり、俺は社宅から小さな安アパートに移って元の中学にそのまま通学している。
 今の状態を考えると便利といえば便利な状況というべきか、生活が落ち着き、まるで彼女を迎えるための環境を整えたようなタイミングで水銀燈は現れた。何やら胡散臭いものも感じるが、その点は深く考えないことにしている。
 ともあれ、生まれ変わったとはいえ、赤ん坊の頃から十数年間同じ屋根の下で暮らしていた両親が居なくなるのは寂しいものだ。一人暮らしそのものは大学時代から数えて十余年続けていたから慣れているが、かえってそのせいで一人暮らしに新鮮味もなく、不便なところばかり目に付いてしまう。
「電話?」
 振り返るともう一人の住人が目を覚ましたところだった。既に鞄は閉じており、テーブルの上に腰掛けている。この辺りの隙を見せないのが水銀燈の矜持なのだろう。それとも、鞄が開いただけでは気配に気づかないこちらが鈍いだけなのか。
 俺は生返事をして固定電話の子機を戻した。
「今日は早いんだな」
 まだ土曜日の午後三時を僅かに過ぎた時間だ。大抵二十時過ぎに起きてくる彼女としては例外的な早起き、というよりは夜中に起き出したようなものと言っていい。
「どうでもいいじゃない。早めに目が覚めることだってあるのよ」
 僅かながらいらつきの混じった声に苦笑しながら台所に立っていき、冷たい麦茶を持って戻ると、水銀燈はどこか思いつめたような表情で視線をこちらに向けていた。
 今日に限ってどういう風の吹き回しなのか。異例ずくめだなと思いつつ、早くも汗をかき始めているコップを渡すと、水銀燈は受け取った姿勢のままそこに視線を落とした。
 一体何を思い悩んでいるのか、とちらりと考えたが、原作の動向まで含めると心当たりがありすぎてとても推測しきれるものではない。お互い無言のまま時間が流れた。

「──扉が開いた」

 唐突に沈黙を破ったのは水銀燈のほうだった。何の扉だと聞き返す間もなく、彼女はコップを置いて立ち上がり、漆黒の翼を広げた。
「行くわよ、メイメイ」
 主の声を聞いた人工精霊が慌てたように鞄から飛び出すのも待たずに、彼女は慌しく青い空にむけて飛び立った。途中ちらりとこちらを振り向いたような気がしたのは、俺の勘違いか、それとも相棒がついてきているか確認したのだろうか。
 彼女の残していった何枚かの黒い羽が部屋の中に舞っている。それがゆらゆらと床に落ちる頃には、黒衣の天使も銀色の相棒も既に昼の光に呑まれて見えなくなっていた。
「扉、か……」
 俺はその言葉の意味するところを思い出そうと、曖昧な記憶を手繰り始めた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 4~~~


 忌々しいくらい良い午後だった。PCの画面を睨む俺の機嫌が悪くなっていくのと逆比例するかのように、時折振り返って見てみる空は雲の量を減らしていき、その色も秋の空のように高く澄んで行く。

──畜生。

 俺は机の天板をぶっ叩いた。安物キーボードが音を立てて跳ね上がる。クラッシャーよろしく叫びながらキーボード自体を叩きまわさなかったのは、ひとえに俺に染み付いた貧乏性のせいだ。
 生まれ変わった場所がローゼンメイデンの世界だと気付いたときから、俺は原作について備忘録を付けていた。
 準備が良かったと誉められるような代物ではない。これからの役に立つかもしれないという功利的な動機すら建前のようなもので、本音は「記憶の中にしかない好きな作品を忘れないうちに記録しておきたいから」程度のものだった。
 そんなものだから、書いていて思い出すこともあれば、書いてしまったことに安心して忘れてしまうこともある。扉云々はまさにそれだった。

『バーズ版三巻
 翠星石が気づく(ロールがほどけて可愛い)
 翠:扉が開いているです……
 蒼:行くよレンピカ(出撃)
 翠星石、ジュンに懇願。告白っぽい。ジュンドキドキ。でも罠(ピアノ線引っかかって転ぶ)
 ……』

 ここまで読めば、いくら頭の良くない俺といえど流石に思い出す。
 蒼星石が扉を開いたのだ。それを翠星石と水銀燈が知ったことで、この時点で登場していたドールと桜田ジュンが全員nのフィールドに揃う。そして当然のようにゲームが始まり、真紅が腕をもがれるのだ。水銀燈に。
 原作最初の大きな戦いだが、実のところここでゲームは半ば終わっていたかもしれない。真紅の腕をもいだことで欲を出した水銀燈が蒼星石との約束を反故にし、蒼星石まで攻撃するようなことがなければ。
 架空戦記ネタで喩えるならばミッドウェイの兵装転換とか真珠湾の第三次攻撃のような「痛恨の一事」に値するだろう。後知恵でいろいろ考えられるところも含めて。
 もっとも、原作において全ての事柄は兎頭の慇懃無礼紳士に操られている可能性もないではないから、決着がつかなかったことは既定事項だったのかもしれない。

──いずれにせよ、俺はここで待つほかない。

 nのフィールドに俺は単独で侵入できない。全てを桜田に話した上で同道する手は(成功の可否は無視するとして)あったのだろうが、今となっては時間的に間に合わない。
 原作どおりに進まない可能性が僅かながらある、という点だけが慰めだ。
 水銀燈が蒼星石との共同戦線を張る際の口実として使った「殺したい相手がいる」というのが柿崎めぐの父親を指していたなら、おそらく柿崎めぐと面識すらないであろう今の水銀燈には蒼星石と共同戦線を張る理由がない。
 いや、分かっている。それは俺の希望というか手前勝手な妄想に過ぎないことは。
 損得ずくで考えれば、何か適当な理由をこじつけても蒼星石を抱き込んだほうが水銀燈としては得策だ。そもそも原作の取引きにしてからが、手を組むための虚偽の口実に過ぎない可能性もあるのだ。
 俺はもう一度机を叩いた。マウスが床に転がり落ち、画面のカーソルがあらぬところに飛んだ。
 舌打ちをしてかがみ、マウスを拾い上げる。こんなことは意味がない、と俺の中の冷静な部分が告げる。物に当たったところで何も変化はおきない。

──だいたい、何故こんなに悔しがる必要がある?

 原作どおりに進ませればいいではないか。真紅が片腕を無くすことで真紅と桜田ジュンは確実に成長できたのだし、二人の絆も深まった。むしろ、妨害や偶発的な要因で不首尾に終わらせてしまう方が、二人にとっては不幸だし俺にとっても損ではないのか。
 第一、nのフィールドに入り込んだからといって俺に何ができるわけでもない。せいぜい水銀燈の媒介として狙われる程度のものだ。

──理屈はわかってる。

 だが、何かが気に喰わないのだ。それはただ能動的な関与を諦めねばならないから疎外感を受けたというような理由ではない。むしろ──
「なっ……」
 マウスを置こうとして画面に視線をやって、俺は息を呑んだ。光沢加工をしたモニターが半球状に盛り上がり、波打っている。
「これは……ッ」
 何が起きたのか把握する前に、俺は何かの手に掴まれてモニターの中に引きずり込まれていた。


 モニターが広めで良かった。17型なら途中でつっかかっていただろう。
 引っ張り込まれた瞬間、俺はモニターから飛び出していた。とっさに受身を取り、目の前に迫っていた床に激突するのをどうにか避けたはいいが、柔道の授業そのままに手を斜め横にバタンとやったら椅子の脚らしい部分にしたたかに打ち付けてしまった。
「ってえな」
 手をぶらぶらやりながら立ち上がると、そこは見覚えがあるようで全く異質な場所だった。
 知らない店の暖簾をくぐったら自分の部屋に出たような奇妙な感覚。それと、自分の体が自分のものでないような感触。これは……
「いらっしゃぁい……」
 上の方から声が響いてくる。振り仰ぐと、黒い翼を持った少女と、青い服を着てでかい鋏を持った少年がゆっくりと降りてきた。いや、少年と呼ぶのはいくらなんでも失礼だろう。
「水銀燈と……蒼星石」
「初めまして、水銀燈のマスター」
 蒼星石は俺と視線の合う所まで降りてくると、帽子を脱いでお辞儀をした。所作は完全に少年のそれだ。宝塚で男役をやったら国民的な人気女優になれるだろう。
「ここはnのフィールド。その中の、貴方の記憶とイメージの世界さ」
「ほお。それはそれは」
 特に意味もなく裾を払ってみるが、当然のように埃は付いていなかった。肩を竦めて顔を上げると、水銀燈と目が合った。
「やあ。俺の世界にようこそ、お二人さん」
 蒼星石はもう一度礼をし、水銀燈は鼻を鳴らした。
「汚くて狭いところね。ある程度想像はしてたけど」
 そう言ってわざとらしく周囲を見回す。蒼星石が小首を傾げた。
「想像? 君が毎日帰っている場所じゃないのかい」
 水銀燈は胡散臭そうに俺を見、それから蒼星石に向き直った。
「見るのは初めてよ。ここも、そしてそこの男の姿もね」

 俺は改めて自分の身体を見た。血管の浮き出たがさがさした手。洗いざらしのツナギ。多分一回り背が伸びて、体型自体も変わっている。懐かしい「俺」の姿だった。
 そう。ここは俺が十数年間忘れずにイメージしてきた、生まれ変わる前の俺の部屋だ。壁も天井も机も、あちこちに無造作に置かれたパーツやら工具の山も。
 既にそこで暮らしていた時間よりも回顧している時間の方が何倍にもなってしまっているが、俺の記憶の中では強固に結晶化して崩れることはなかったらしい。まるで本物のように、本棚の本の並びまで手に取れそうなほどはっきりと質感を持っている。

──ローゼンメイデン。

 近づいて、恐る恐る本棚から出してみる。ある種の恐怖と期待がない交ぜになった興奮は、しかし読もうと開いてみたときに急速に凋んだ。漫画はカバーと形だけで、中身は白紙だった。一巻から順に全部開いてみたが、全て同じだった。
 一つ大きく溜息をつき、ま、世の中こんなもんなんだろう、そう上手くは行かないものさ、と漫画を元通り棚に戻したところで、俺は二人がこちらを見つめていることに漸く気が付いた。

「やっと戻ってきたみたいね」
 水銀燈が呆れたように言った。
「説明してもらうわよ、人間。貴方は一体何者?」
 言い終わると同時に、黒い羽が俺を取り囲む。蒼星石も一歩引いたところで鋏を持ち直した。
 後から考えればあまりにも急転直下の展開だったわけだが、そのときの俺には恐怖や驚きはなかった。原作どおりに進んでいないことへの疑問やら考察やらも浮かんでこなかった。

 ただ、二人が──水銀燈がこちらをねめつけている視線に全く温度がないことだけが、些か悲しく思えた。



[19752] 2日掛りました。説教&言い訳モード難しすぎ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/06/30 22:22
いきあたりばったりで書いてるとキャラが崩れてきます。
もう崩壊の一途。

とりあえず、オリ主転生物といえばSEKKYO!! というわけで(偏見)
思いっきり説教?軽い罵倒?してもらいました。

説教と言い訳難しいよママ。2日かかった。
それともペースダウンの序曲なのか?
実験続きます。
以下本文。

※22:21 冒頭のこの文書かずに投下してしまったのでここだけ追加。

***************************


「何者って言われてもな」
 いきなり実力で脅迫とは理不尽だとは思ったが、編成自在の羽毛の軍団と斬り突き両用の武器を持った相手に丸腰で勝てるわけがない。俺はまあまあと手を上げながら、その場に座り込んだ。
「見てのとおり、機械弄りが好きでヲタクなオッサン『だった』だけの、無力な一般市民だぜ」
「信じられるものですか」
 水銀燈が警戒を緩める素振りはない。
「それが何故姿形を変えて子供になっているわけ? しかもその漫画、題名がローゼンメイデンなんて、ありえないじゃない」
「確かにな」
 そりゃ、ありえない話だ。死んだと思ったらおぎゃあと生まれて、あまつさえその先が愛読してた漫画の世界だったなんてな。実際に死ぬまでそんな可能性を考えたこともなかった。
 生まれ変わってからでさえ、同じクラスに桜田やら柏葉の名前を発見するまで、そんなトンデモな異世界に迷い込んでいるなんてことは想像もしなかった。生まれ変わったこととどうやら十数年ほど時間を遡行していることだけで奇天烈体験は腹一杯だった。
 結局のところ、俺は異常な環境に放り込まれたにもかかわらず、これまでただ漫然と生きているだけだったとも言えるし、逆の見方をすれば目の前のことで一所懸命だったとも言えるだろう。
 いずれにせよ確かなのは、こちらの世界に生まれ変わったからといって、日常のこまごました俗事をCtrlキーでスキップできるようなことはないということだ。
 生まれ変わったと言っても飯を食わなければ死ぬし、金がなければ飯は食えない。痛いものは痛いし、無くし物は探さなければ出てこないのだ。
「物分りが悪いわけでもなさそうねぇ」
 俺は頷いてみせた。頭が良くないのは自分でも承知してるが、現状を受け入れる能力だけは人並み以上にあるつもりだ。
 俺の態度を従順になったものと解釈したのか、水銀燈の顔から険が消えた。
「なら、さっさと洗いざらい話しなさぁい。それとも──」
 羽がこちらを指向する。まあ、痛い目に遭わせるだけのつもりなのは明白なんだが、それでもこういうシチュエーションは嬉しいものじゃない。
「痛いほうがいいのかしら?」
 そう言ってうっそりと笑う顔には、契約を迫ったときに見せたものと同じ凄みと色気が同居していた。
 やはり彼女はSっ気があるらしい。それも原作そのままというわけだ。
 俺はやれやれと肩を竦め、これまでの経緯を話し始めた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 5~~~


 水銀燈は片膝を立てて窓枠に座り、気だるい風情で夜空を眺めている。
 nのフィールドに俺を引きずり込んだ日から、こっちが起きている間だけでも毎日一度はそんな姿を見せるようになっていた。
 媒介の危険性について考えているのかもしれないが、今のところ契約を解除したりエネルギーを吸い取りきって殺してしまうつもりはないらしい。
 ただ、それまでも大して多くなかった会話は、あの日を境にほとんどなくなった。俺との間に新たに一線を引いているのは間違いなかった。
 俺はと言えば、相変わらずだ。面倒臭い宿題を片付け、翌日当てられそうな所だけ渋々予習して、後は雑事に追われている。毒にも薬にもなりゃしない。

「ねえ」
 水銀燈が声を掛けてきたのは、課題を終わらせて立ち上がろうとしたときだった。
 随分久しぶりのような気がしてそちらを見ると、思ったよりは近くに、そっぽを向いたままの彼女の姿があった。手の届くほどの場所ではない。それでも近いと思うほど、最近は距離を置いていたということかもしれない。
「前の暮らしに戻りたいと思ってるでしょ、貴方」
「なんだい藪から棒に」
 俺は何回か目をしばたたいた。てっきりアリスゲームの話か、契約を破棄したいとかいう話をするのだとばかり思っていた。
「言い方を変えるわ。今の生活は楽しい?」
 俺は絶句するしかなかった。全く予想外の質問だった。何も言えないでいるうちに、水銀燈は自分で回答を口にした。
「楽しくも、おかしくもない。生まれ変わってからずっと。違って?」
 目の前の水銀燈はいらついた調子で、しかし何かを辛抱強く耐えているようにも見える。
「最初は変な人間だと思っただけ」
 斜め下を向いたまま、半歩だけ彼女がこちらに歩み寄る。
「次は、退屈なやつって思った」
 じり、とまた距離を詰める。
「そして、真紅の話をしたとき──ぞっとしたわ」
 あのときか、と俺はぼんやり思い出す。真紅が雛苺のローザミスティカを奪わなかったことをラッキーだと俺が言い放ったときだ。
「貴方の中には何かある。とても空虚で深い闇が。それがどうしても知りたかったからあの世界に行って、……貴方の話を聞いて、やっとものすごい勘違いに気が付いたってわけ」
 どんな勘違いなんだ、と言おうとしたが、何かに縛られたように口が動かなかった。しかし、言われなくても何故か分かっているような気がした。

「貴方の中には何もなかった。
 いいえ、むしろ貴方はここにいない。歩みを止めて、終わってしまった夢の底にこびりついているの。
 ここに居る貴方は抜け殻。
 義務感は持ってる。社会にも順応してる。
 でもそれはただ、目の前のことだけに対処しながら、日々を繰り返しているだけ。
 人間としての生活も、媒介としての私に対してのありようも全部そうなんでしょう?
 当たり前よね。貴方の時間は、こちらの世界にくる前の瞬間で止まっているのだもの」

 水銀燈はそこで漸く顔を上げた。
 それは今まで俺に見せたことのない、真摯な怒りの表情だった。

「貴方は生きてない」

 何かの圧力に襲われたような気がして、俺は体を震わせた。彼女の怒りに満ちた双眸は俺を真っ直ぐに射抜いていた。
「器となるべき体は生まれかわっている。生命は確かに生き返っている。でも、心は死んだままなのよ。魂の時間は止まっているのよ。生まれたときからずっとね」
 それは、俺のありように対する全否定だった。
 言われるとおりだった。自分でも薄々は考えてきたことだけに、纏めてぶつけられると反撃する言葉もでてこない。図星をつかれたようなものだった。
 怒りがないといえば嘘になる。だが、それは目の前の小さな天使に対してのものではなかった。こんなときでもどこか他人事のように覚めた目でこの世界を見ている自分自身への怒りだった。

 温度の低い怒りに目を閉じ、また開く。水銀燈は視線を脇にやりながら、まだそこにいた。赤い瞳がちらりとこちらを見た。
「本当……むかつくったらないわ。こんな死人と契約したなんてね」
 自分の言葉が終わらないうちに彼女はくるりと俺に背を向け、何も言わせないタイミングで窓の向こうに飛び去った。銀色の相棒がどこからか漂い出、俺の周りをくるくると二度ばかり回ってから彼女の後を追った。

──追わなきゃ。俺も。

 何故かは自分でもわからない。反射的にそう思った、としか言えない。
 いつものように理屈を捏ね回すことはなかった。
 俺は玄関先に停めてある自転車の施錠を乱暴に解除し、飛び乗って彼女の飛び去った方向を目指して走り始めた。
 当てはない。ただ、追いかけなくてはならないという気持ちだけが先に立って、俺は子供のようにがむしゃらにペダルを踏み込み、夜道を駈けた。


 街路灯だけがぽつぽつと灯る中を、闇雲に自転車を走らせていると、不意に一つの光景が浮かんできた。
 天井の高い、戦争映画に出てくるようなコンクリ剥き出しのぼろぼろの教会のような建物の中。運び去られた聖母像と埃まみれの説教壇の間に立つ黒くて小さい姿。
 解体寸前の古い礼拝堂は、大学病院の裏手に、確かまだあったはずだ。
 大通りを逆走し、ニアミスした酔っ払いの怒鳴り声を後ろに聞き流し、最後に「工事中」のバリケードにぶつかって派手に鳴らしながら俺はその場所に辿り着いた。
 庭は重機の置き場になっているものの、礼拝堂はほとんど完全な形でまだそこにあった。
 入り口の扉には×字に板が打ち付けられていたが、世話好きの案内人が待っていた。
「メイメイ」
 俺の言葉が聞こえるのかどうかは分からないが、人工精霊はついてこいと言うように礼拝堂の脇に回り、割れた窓を教えてくれた。
「済まないな」
 人工精霊はくるくると回り、ろくに月の光も差し込まない室内を、闇に溶け込むような服を着た天使のところまで案内してくれた。

 水銀燈は不貞腐れたような顔で、割れていない窓の近くに座り込み、窓越しに外を見ていた。
「……何よ。無様に生きてる人形に情けでもかけに来たわけ?」
 俺は黙って水銀燈と同じ窓際に並んだ。彼女はこちらを見なかったが、どけと言うことも自分からよそに移ることもなかった。
「きちがい人形師に作られ、そいつの顔をもう一度見るために自分たちの命を奪い合う七体の可哀想なお人形。一段高いところから見ていればさぞかし楽しい見世物でしょうね」
 激烈な内容の言葉だったが、彼女の口調は静かだった。
「知ってるんでしょう? これから起きることも」
「ある程度のところまでは」
 原作の連載が終了する前に俺は死んだ。だから、結末は知らない。いつ結末がつくのかも知らない。
「だがそいつは漫画の上のことだ。この世界のことじゃない」
「詭弁ね。貴方が媒介であること以外、ほとんど漫画をなぞってるって言ったのは貴方よ、異邦人」
 水銀燈はぴしゃりと俺の言葉を抑えた。
「もしもこの先が貴方の知っている漫画とは違っても、ここまでの出来事を貴方は全部知っている。私たち薔薇乙女のことも」
「謎が明かされている部分はね」
「私の心の中も覗いていたのでしょう。悪趣味すぎるわ。ただの媒介のくせに」
 薄く笑ったが、からかうような響きはなかった。乾いた笑いだった。
「君の心じゃない」
「同じことよ。きっと。貴方が漫画を読んでイメージしている『水銀燈』を言葉にすれば、私と同じになるはず。それは、私が心を覗かれたのとどう違うというわけ?」
 正論だった。何も言えない。
「貴方にしてみれば、ここは舞台の袖みたいなもの。貴方は時の止まった夢の中で、漫画で描かれたのと同じ場面の再演を舞台のごく間近で見ているだけ」
 ただしそこには少しばかり危険もある。その部分は水銀燈は指摘しなかった。
「いっそのこと、螺子を巻かなければ良かったのに。そうでなければ持ってる知識を全部使って可哀想なマリオネットたちを好きに操れば良かったのに。貴方はどちらも選ばなかった」
 肩を竦め、いっそさばさばした調子で、半ば自嘲するように彼女は喋りつづける。
「観ている分には面白いけど、そこまでのめりこむ『作品』でもなかった、ってわけね。私達の人形劇は」
 ちがう。それほどの知識量を俺は持っていない。全員を手玉に取るなんて不可能だ。

──いや、果たしてそうか?

 水銀燈の言うのは極論だ。だが、真実を突いている。
 あの日、あのサイトで「まきません」を選べば、少なくとも俺の前に水銀燈は出現しなかった。そのまま、流れるままに任せて行けば、全く関わりを持たないことだって有り得た。
 逆に、その気になればできたことはいくらでもある。水銀燈の思うところに沿って手助けしてやることもできたし、桜田の同級生という立場も利用すれば、桜田の家に入り浸るなどして逆に真紅に肩入れすることさえもできた。
 そのほかにも、例えば薔薇屋敷の主人を無益な犯罪をするなと諭してみたり、誰か特定の一人だけにそれとなくその後の情報を垂れ流すだけでも、場合によってはその後の展開は大きく変わりうる。
 nのフィールドに引き込まれた日にしてからが、ダメ元で桜田の家に電話を掛けて状況を確かめるという選択肢もあったはずなのだ。
 それらは成功したかもしれないし、失敗する目の方が大きかったかもしれない。ただ、真剣にこの世界と向き合っていくなら、手を出してしかるべき枝だった。
 情けない話だ。「まきます」を選んだとき、柿崎めぐの状態を見て指輪に口付けたとき、そのいずれのときにも俺は、誰かの力になろうと思ったのではないのか。

「確かにゾンビだな、俺は」
 病院のベッドの上でしか暮らしていない柿崎めぐの方が、俺よりもよほど生きている。
 彼女の代わりを務めるには、今までの俺では役者が足りない。
 柿崎めぐを水銀燈が愛せたのは、彼女が不遇だからというより、もがきながら懸命に生き方(と、恐らく死に方)を探っているのに共感したからなのだろう。
 不遇さはともかく、その懸命さが、俺にはない。
「だけど、椅子の上にふんぞり返った観客で居ようとした訳じゃない。結果的には、そう見えるかもしれないが」
 水銀燈は言い訳を聞く気はないと言いたげにそっぽを向いた。だが、その場から去ろうとはしなかった。
「俺はただ、臆病だったんだ。その辺の砂粒くらいの度胸しかないチキン野郎だから、手を出すのをひたすら怖がってた」
 桜田が傷つきながら成長していくのを止めてしまうことが怖かった。水銀燈が、翠星石が、蒼星石が、真紅が、雛苺が原作どおりに痛みを抱きつつも変わっていくのを邪魔したくなかった。
 本気で何かを変えようとするなら、それによって引き起こされる痛みを受け止めなければならない。俺にとってはそれが、漫画のキャラクターたちが自分の知らないものに変化していくことだったのかもしれない。
「失礼な話だよな。君たちは全力で生きて、前に進もうとしているのに、俺は重心を後ろに残したままちょっかいを掛けようとしてたんだから」
 そのくせ、契約した相手が姉妹の腕を引き千切ることを原作の展開から勝手に予想して、それを止めさせたいと考え、止めるのが無理だと思えば癇癪を爆発させたりもした。その意味ではまさに彼女の言うとおり、ダブルスタンダードな観客だ。
「本当にごめん。それから……ありがとう。そんなに真摯な言葉をくれて」
「……お礼なんか要らないわよ」
 僅かな間があって、そっぽを向いたまま、水銀燈はぶっきらぼうに呟いた。
「私はただ──」
 がさりと物音がして、俺は反射的にそちらを振り向き、水銀燈も言葉を呑み込んで立ち上がった。
「やあ、水銀燈。水銀燈のマスターも」
 青い光が近づいてくる。メイメイがすっと飛び上がり、それを迎えるようにくるくると回った。
「貴女がここに来るなんて珍しいわね、蒼星石」
 二つの人工精霊の放つ僅かな光と、外からの薄明かりに照らし出されたのは、見覚えのある青い服を着た少年のような少女だった。



[19752] ペース復活?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/01 23:09
え、SEKKYOUってオリ主がするのが本当なの?
あたしまたやっちゃった……?

ってことで今回は有名な神殺しのチート武器登場です。
でも、お約束で1回使い切りみたいだね!
しかもついでに覚醒したっぽいです。
何この詰め込みすぎ。

****************************


「約束を果たしに来たんだ。君が探し物の在り処を教えてくれたお陰で、時間に余裕ができたからね」
 蒼星石は色の違う瞳で俺を一瞥した。瞳には紛れもない生きた意思の光があるが、表情はビスクドールのように硬質だった。
「お邪魔だったかな」
「構わなくてよ。話は済んでるわ」
 水銀燈はこちらを見ずに答えた。蒼星石は軽く頷き、ちらりと窓の外の重機を見た。
「外はだいぶ準備が進んでるようだけど、鏡はまだあるのかい」
「まだ壁に嵌ったままね。丸ごと壊すんじゃなぁい?」
 水銀燈は奥の部屋に続いているらしい入り口に視線を向けた。扉は壊れたのか運び出されたのか既になく、黒い穴がぽっかりと口を開けている。
「そう。来た甲斐があったよ」
 蒼星石はまたこちらを見上げた。
「彼も一緒でいいのかい」
「ええ」
 水銀燈は頷くと、ふわりと宙に舞った。
「自分の目で確かめればいいのよ。どんなに歪な形をしているか」


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 6~~~


 床のない世界というのは初めてだった。
 水銀燈が無言で先頭を飛び、蒼星石も泳ぐように頭から「下」に向かって舞い降りていく。俺は足を下にしてそれに続いた。
 床に相当する部分はないのに天地は存在していて、天には太陽のようなものがかかり、一本の太い幹が曲がりくねりながらそこへと伸びている。
 底の見えない巨大な井戸のような世界だった。幹はさながら井戸に投げ込んだ水汲み桶の縄のような按配で、幹の末も、根元もどうなっているのかは遠すぎて見えない。
 俺たちはそれに沿って緩やかに降りていった。
 幹の周囲には幾つかの光がまとわりつくように見えている。近づくと、それは一つ一つが小さな苗だったり雄大な樹木だったりした。心の木というやつなのだろう。
 幹そのものも一様ではない。曲がり、枝分かれし、ときには繁茂しているかと思えば全く心の木が見当たらない場所もあった。
「心の木の姿が人の数だけあるのと同じように、世界樹にも無限の様相がある」
 いつのまにか蒼星石が隣にいた。
「違うのは、世界樹は決して死なないこと。心の木は容易に枯れたり朽ちたりするけど」
 そう言って伏目がちになる。思いつめたような表情だった。
「……伐り倒すのかい」
 彼女は驚いたような顔で俺の顔をまじまじと見たが、すぐに元の硬い表情に戻った。
「そうか、すべてお見通しだったね」
「たまたま知ってるだけさ」
 会話はそこで途切れた。暫く無言のまま、俺たちは先を行く水銀燈を追って降下を続けた。
「どんな結果が出ることになろうと、マスターがそれを望むのであれば、僕は鋏を使う」
 ぽつりと呟くように彼女は言った。
「たとえそのために誰かが犠牲になるとしても」
 俺はごくりと唾を飲んだ。硝子のように割れる世界と力尽きた蒼星石が、昨日読んだかのように浮かんでくる。
「……それが、媒介や自分自身であっても?」
「それは──」
「見えたわよ」
 だしぬけに前から声がかかった。俺たちはそれ以上会話を交わすこともなく、水銀燈の示す場所に向かった。

 俺のものだというその心の木は、水銀燈の言葉で思い描いていたものとは全く違っていた。
 捩れたり曲がったりはしているが、それなりに大きく根を露出させながら、枝を伸ばして立っている。ただ一つの点を除けば、立派だろうと鼻を高くしても良さそうな按配だった。
 そう、完全に枯れていることを除けば。
「この木は不思議だね」
 蒼星石は木の周りを一周して首を傾げ、近づいてきて俺の顔を見上げた。
「枯れてから十数年経っている筈なのに元の姿を留めている。こんな木は初めて見るよ」
 木に近づいて一回りしてみる。遠目からは立派に見えたが、近づくと樹皮は腐ってきており、根元近くにはウロがあいて草か何かが生えてきていた。張っていると見えた根も、単に浮いてきているだけなのかもしれない。
 それでも、見上げれば葉の一つもないまま、うねる幹は頑強に天を目指し、枝は恐らくほとんど折れもせず頭上で存在を主張している。
「あの世界、そのままね」
 水銀燈は不快感を隠そうともせずに言い捨てた。
「とうに終わってるくせにしぶといったら……」
 蒼星石はウロの辺りに屈みこみながら、考えを整理しているような口調で、水銀燈に答えるともなく言った。
「人は何かに依存しているものだ。現在、未来への希望、他者……過去に囚われることだってある。それが強くなれば、こんな形もあり得るのだろう」
 ご覧、と立ち上がった彼女に促されるまま、俺はウロの中を覗き込んだ。幾本かの雑草に混じって、小さいが明らかに若い樹木とわかるものが生えていた。
「それが今の貴方の木よ」
 肩越しに水銀燈が言う。俺は一歩下がり、枯れた木全体を見上げ、うろの中の小さな木に視線を戻した。
 生まれ変わってから十数年。それは年数だけ取ってみれば一度死ぬまでの年月の半分近くにもなる。それなのに、この違いはどうだ。
 頭の中がもやもやとしたもので満たされていく。漠然とした不快感のような。
「うろは木の成長を妨げているけど、守ってもいる」
 蒼星石の声が、なぜか少し遠く聞こえた。もっとも彼女は俺にではなく、背後の水銀燈に語りかけているようだった。
「それでもいいのかい?」
 一拍置いてから水銀燈の声がする。
「構わないわ。やっちゃって」
「契約者と僕たちの心は繋がっている。マスターの木はドールの木と同じだ。それも分かっているんだね」
「構わないわ」
 今度は間髪をいれずに返事があった。
「いざとなれば契約を解除すればいいんだもの。簡単なことよぉ。そうでしょう?」
「君は……」
 蒼星石の声に僅かに苦笑の響きが混じったような気がした。
「なによ」
「いや、わかったよ。……レンピカ」
 靄が立ち込めてきたようだった。うすぼんやりとした視界の中、蒼星石の手の中にあの大きな鋏が出現した。
 彼女は鋏を構えると、物も言わず枯れた木の幹に切りつけた。二度、三度。
 次に、逆手からうろの近くを突いた。持ち替えてまた突く。切りつける。
 だが、俺のぼんやりとした目では、木には全く変わった様子は見えなかった。彼女はさらに二度ばかり切りつけて、ぐらりとその場に蹲った。
「蒼星石?」
 水銀燈が座り込んだ蒼星石に歩み寄った。

 俺もそこに行こうと霞の掛かったような視界の中を歩き出したが、何かに蹴躓いた。
 緩慢な動作でそれを見遣る。
 何であったか理解すると、唐突に霞は晴れてしまった。

「手ごわいね……これは」
 蒼星石は疲労感を滲ませていた。
「……十余年変わらずにここにあったのは偶然じゃないってことね」
 水銀燈は憎しみさえ感じさせる声で言い、思い切り幹を蹴りつけた。ばらばらと腐った樹皮が落ちてきたが、それだけだった。

「何かのSFかファンタジィで読んだことがある。『異界の由来を持つ物質は、その世界の構成物でなければ壊すことができない』。まあ、よくありがちな便利設定だと思うが」
 二人がこちらを向き、信じられないものを見るような目になった。
 俺はさっき拾い上げたチェーンソーを目の前に置き、オイルタンクと燃料タンクを確認した。どちらも満タン。キャブレターの燃料ポンプをくちゃくちゃやると、懐かしいガソリンの匂いが鼻を突いた。畜生、そろそろタンクのパッキンの交換時期だったか。
 だが、構わない。どうせもう二度と使うことはないのだ。今回使うには十二分だ。
「仲間内でバカやってな。チェーンソーのエンジンでバイク動かそうとか。そのために阿呆みたいにチューンしたエンジンのなれの果てがこいつだ」
 小さい素朴なエンジンだが、少しでも馬力を上げたくてだいぶ長いこと弄っていた覚えがある。結局その計画がポシャったときにも、捨てるのが忍びなくて元通りチェーンソーに組み込んだほどだ。だから、この場に現れたんだろう。
「きっとこれは、死んだ俺に対して誰かがくれた最後のプレゼントなんだろう」
 リコイルスターターを引く。一度では掛からない。
「だから、自分のなれの果ては自分で始末させてくれ」
 四度目でかかった。こいつにしては優秀だ。
 耳栓が一緒に現れなかったのは誰の不備なんだろうか。耳を聾する轟音が辺りに響き渡った。
 俺はオイルの飛び散るチェーンソーを大事に構え、身振りで安全圏に出ていろと二人を下がらせて、幹に刃を食い込ませた。
 腐りかけの枯れ木などこいつの手に掛ればあっという間だ。二人の位置を確認し、逆側に木を倒すまで、ものの二分と掛らなかった。
 伐りながら、手応えが妙に軽いような気がして、俺は手元を見た。
 情報連結を解除された朝倉涼子のように、役目を終えつつあるチェーンソーは光の粒子になって消え始めていた。
「もうちょっとだけ保てよお前。いい子だから」
 うろの周りを注意深く切り広げる。チェーンソーの起こす風で、なよなよした若い木が揺れ動く。まだ持ち手と刃は残っている。まだいける。
 若い木の障害物になりそうなものをあらかた削り終えたところで、轟音は止んだ。手の中にはガソリンとオイルの匂いだけが残っていた。
 俺は二人を振り向いた。水銀燈が微笑んだように見えたが、そのまま彼女はかくりと倒れこんだ。慌てて駆け寄ろうとした瞬間、俺の目の前も急速に暗くなってきた。
 恐らく、『俺』はここで消える。なんとなくだが、わかってしまった。
「蒼星石っ……水銀燈を連れ帰ってくれ」
 その声が出たのか、それとも頭の中で形成されただけなのかはわからない。俺の視界は黒一色になり、そして、すぐになにもわからなくなった。



[19752] 2日で200行。多いのか少ないのか?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/04 00:07
今回は「インターミッション」って言うんでしょうか。
ボトルショーって言うのかもしれませんが、あまり前後に関わらない(予定の)話ですな。
こういうの一度やってみたかったんですが、文章量がだらだら増える増える。やっぱり、あんまり良いものじゃないのかも。

**********************

 意識の底。奔騰するイメージ。縦横に流れて自分を攫う濁流。
 自分が何者であるかなどわからず、達観して流れに身を任せる余裕もなく、ただ、自分を保たなければ呑まれて消えるという恐怖だけがあった。
 どうにか姿勢を保ち、方向を定めて移動を始める。何処へ辿り着こうとしているわけではない。ただ、せめて流れの緩やかなところに出たかった。ここは危険すぎる。

 どれだけそうしていたかはわからない。
 いつのまにか、目の前に一つの人形が流れていた。
 優雅に拡がる灰白色の髪、切れ長の紅い眼、逆十字を標された黒いドレス。なんだろう、確かに見覚えがある。ひどく古いようでとても懐かしいイメージ。
「あなた……だれ」
 名前は……なんだったか? 思い出せない。自分のも、人形のも。
 まあ、何だっていい。その場でそれぞれを識別できれば問題ない。ジョン・ドゥとメリー・ドゥでも一号と二号でも。
「たすけて……ここから出たいの」
 まだあどけなさの残る白い顔を大きくゆがめ、必死にこちらに手を伸ばしてくる。待ってくれ。こっちだってここから出る方法なんか知らないんだ。
 しかし逡巡する暇はない。いま手を繋がなければ、どんどん離れていってしまう。
 辛うじて手を取り、胸元に引き寄せる。
 瞬間、横合いから突風のような激しい流れが押し寄せた。咄嗟に両腕で人形を抱き締める。
「こわいよ……おとうさま」
 胸元にしがみついてくる人形は、おこりのように体をがくがくと震わせている。

──守ってあげなくてはいけない。

 頭のどこかでそんな声がする。
 そうだ。ここにはこの子と自分だけだ。この小さな存在を護ってやれるのは他にいない。
「お父さんのところに行きたいんだな」
 腕の中で頷く気配があった。
「わかった。一緒に行こう」
 どうせ何処に行く当てもないのだ。それなら、目標がある方がいい。
 それにしても、名前は何だっただろう。確かに知っていたはずなのにどうしても思い出せない。
「君の名前を──」
 教えてくれ、と言い終えることはできなかった。今までで最も激しい流れが横合いから襲ってきたからだ。
 大きな波の圧力とともに、頭の中に記憶の奔流が押し寄せる。
 麻枝准なら「耳の中に無理やり鉄棒を押し込まれるようなもの」と書くのだろうか。理解不能の事柄が、そのほとんどは痛みを残すだけですり抜けていく。覚えていられるのは頭の中に引っかかったごく僅かな残滓でしかない。
 それでも、腕の中の人形の名前を思い出すには十分だった。あまりにも繰り返し繰り返し、記憶が絶えてからも反復して思い出していた名前のひとつ。
「──『水銀燈』」
 なぜ忘れていたのだろう。人形師ローゼンによって作られた七体の人形。その最初の一体。こんな大切なことを。
「わたしのなまえ……?」
「そうだ。君は誇り高いローゼンメイデンの第一ドール」
 人形は口の中で何度かその言葉を反芻し、かぶりを振った。
「お父さんに会いたいんだろう? だったら思い出さなくちゃいけない。何故会いたいのか、どうやったら会えるのか」
「おとうさま……おとうさま……」
 人形は必死に何かを思い出そうとし……そしていきなり、激流が途絶えた。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 7~~~


 どのくらい歩いたろうか。『水銀燈』のかすかな記憶だけを頼りに、無限とも思える世界を俺たちは彷徨していた。
 どれだけ歩いても飢えもしなければ渇きもしなかった。不思議に思ったが、『水銀燈』が言うにはここは夢の世界らしい。
 その説明だけでなんとなく納得したような気になるのは、まだ俺の方の記憶が整理しきれていないせいだ。もやもやして絡み合った記憶は、奔流が去ってからもほとんど解けていない。
 なぜか、疲労感だけはあった。疲れて座り込めばそこが野宿の場所になり、目覚めれば出発だった。そうしたサイクルをどれだけ繰り返したかも覚えていない。
 ただ、変化は確実に起きていた。『水銀燈』が次第にこちらを見上げることが多くなり、出発を渋るようになってきたのだ。いまや、お父さん探しは俺が『水銀燈』を引きずりまわしているようなものだった。

「ねえ」
 そしてついに、決定的な瞬間が訪れた。
「もう、疲れちゃったわぁ……」
 俺の前を飛翔していた『水銀燈』がいきなり地面に降り、膝を抱えてしまったのだ。
「もう少しだけ探してみないか、折角ここまで頑張ってきたんだから」
 『水銀燈』は首を振った。
「きっとどれだけ探しても、どんなに求めてもお父様には会えないのよ」
 俺は黙ってその隣に座った。なぜか最初から分かっていたような気がした。会えないと認めたくないのは俺のほうだったのかもしれない。それでも、何がしかの可能性があることを信じたくてここまで来たのだ。
「ここから出ようか」
 その言葉を口にするのは勇気が要ったが、言うのは俺でなければならなかった。
「外に出たら、どうなるの」
「わからない」
 俺は正直に答えた。
「でも、どうなったとしても、ここで絶望しているよりはいい」
「外には、なにがあるの」
「……そうだな」
 俺はまだ解ける気配のない記憶の断片をいくつか取り上げ、思いつくままに喋ってみた。
 外には他のドールたちがいる。ここから出て記憶が戻れば、『水銀燈』はローザミスティカを巡って他のドールたちと敵対することになるかもしれない。
 相手には神業級の職人もいる。それは何人ものドールのミーディアムになっている少年で、彼らの絆は深い。遣りあうとなれば分は悪い。
「それでも、君は独りじゃない。ミーディアムもいる。それから……」
「あなたは?」
 不安そうな瞳が俺を見上げる。
「あなたはそこにいてくれるの?」
 その肩を抱きかかえると、緊張の糸が切れてしまったように胸の中に倒れこんでくる。俺は大きな息をついて、震えている灰白色の髪を宥めるように撫でた。
「出るときは一緒だ。俺も君も同じ世界に行く」
 突然、目の前に扉が現れた。
 驚きはなかった。夢の世界なのだから当然だろう、と漠然と思った。俺は人形を抱き上げ、扉を開けて世界を越えた。


 扉を抜けて出た先は、最悪といっても最高といっても良かった。
 「向こう」の出口は姿見のような鏡だったが、それを通り抜けるとドールたちがこちらをあっけにとられたような表情で見つめていた。その数三体。
 どういうことだと俺は緊張し、俺の腕の中の人形は記憶が一気に戻ったらしく音を立てるような勢いで俺から離れた。
 その後のてんやわんやの騒ぎはひどいもので、ノリさんが顔を出して(彼女にしては珍しい)雷を落とすまで続いた。
 後から知ったところでは、ドールたちはジュンに裁縫するからと部屋を追い出され、鏡のある部屋で遊んでいたところだったらしい。全く、どんな間の悪さだ。

 既にアリスゲームは終わっていたが、『水銀燈』は他のドールたちとは若干距離を置いていた。これまでの経緯からして止むを得ないのだろう。
 『水銀燈』と『蒼星石』のミーディアムの病状が気懸かりではあるが、その他は平穏な日々が続いている。
 俺はあまり話し相手の居ない『水銀燈』の相談に乗ってやったり、ミーディアムたちと話して他のドールとも遊んだりもした。
 『蒼星石』は、時折双子の姉の手も借りながら、再び老夫婦と静かな時を過ごしている。
 ジュンを巡る『翠星石』と『真紅』の関係は次第に恋の鞘当て状態となり、両者のミーディアムでもあるジュンとしてはストレスの溜まる日々らしい。
 図書館で一緒に課題を片付けているとき、ジュンは二人の見え見えのアタックについてあれこれと零すのだが、全て惚気にしか聞こえないのは何故だろう。
 『雛苺』は再びトモエをミーディアムに選んだものの、少々居づらいのか桜田家に入り浸っている。恋の板ばさみに悩むジュンとしては、ある意味で気兼ねなく話のできる『雛苺』はいいお相手らしく、最近は部屋でわざと遊ばせておくこともあるようだ。
 『金糸雀』とそのミーディアムはいいコンビで、二人して他のドールを撮りまくっている。特に『翠星石』か『真紅』がジュンとツーショットになったところを狙い撃ちするのがいいのだとか。
 お見舞いがてらそんな他愛のない近況話でメグと盛り上がった後、俺は病院の屋上に出た。
 手すりに凭れて見るともなく町並みを眺めていると、『水銀燈』が隣に飛んできて手すりに座った。
「いい風だわぁ」
「そうだな」
 目を閉じてみる。隣に『水銀燈』を感じているせいか、古い記憶が呼び覚まされては消えて行った。
 甘いような、それでいて苦いような不思議な感覚だった。暫く存分にそれを味わってから、俺は自分の手を見つめ、予想していたとおりのモノを見つけた。

「──そろそろ終わりでいいよ」

「……な、何? どうしたのよ」
 唐突な言葉に驚いてこちらを見る『水銀燈』を片手で制し、俺はもう一方の手でそのモノをぐいと引いた。
 若干の痛みと手ごわい感触があったが、力任せに引き絞るとモノは巻きついていた手から離れた。そのまま振り向きざまに両手で引くと、それはずるりと動いてぴんと張りつめる。病的に白い、太陽の光を受けたことのないいばらの蔓だった。
 その先に何が居るかを俺は知っていた。
「いい夢をありがとう、第七ドール」
 その瞬間、世界は池の表面に張った薄い氷の膜を踏み抜くように割れ落ちていった。


「……どういうこと……?」
「全ては偽りだったってやつさ」
 俺は茨を引き千切りながら、素早く周囲を見回した。以前水銀燈と蒼星石に連れて来られた事のある場所だ。死んだときの俺の部屋を模したという世界だった。
 ただ、部屋の中はがらんとしていた。あのときはもっと大量にあったはずの家具や私物はほとんどなくなっており、玄関の戸は開け放たれて闇がぽっかり口を開け、力を失った白い茨がそちらへと伸びている。
 心の木を伐り倒したためなのだろうか、うそ寒い光景だった。
「出て来てくれてもいいんじゃないか? 夢のお礼くらいしたいんだがね」
 玄関に向かって怒鳴ってやると、ゆったりとした足取りで相手が現れる。柔らかな、柔らかすぎる声が場違いすぎる舞台に響いた。
「残念ですわ……もうお気づきになってしまわれたのですね」
 薄暗い部屋の入り口に立っているのは、純白の茨を従えた、純白そのものの小さな姫君だった。
 無垢そのものの顔立ちをした、何色にも染まっていないがゆえに何色にも染まろうとする貪欲さを持つ夢喰鬼とでも言うのだろうか。瞳に狂気を宿しているわけでも、所作に異常な点があるわけでもないのに、一目見ただけで悪寒が背筋を這い上がるのが分かる。
「夢を操ったというの、このドールが」
「そういうことになるかな」
 なんでもいいから武器になるものが欲しかったが、がらんどうに近い部屋の中には得物になりそうなものは見当たらない。いや、あるにはある。だが遠い。むしろ相手のほうがそれに近い位置に居る。
「第七ドールって言ったわね。名前は?」
「さて、名前か。何だったかな」
 俺は肩を竦めて一歩下がった。白い少女は満足そうな表情で優雅に会釈した。
「申し遅れました……初めまして。私は薔薇乙女の末の妹、雪華綺晶」
「手の込んだ夢をありがとうよ、雪華綺晶。こっちの自己紹介は必要なさそうだな」
 背中が壁際の本棚に行き当たった。埃っぽいその上を後ろ手でなぞると、なにか四角い小さなものがあった。それを急いで握りこむ。藁にも縋るとはこのことだ。
「ええ……存じていますもの、黒薔薇のお姉さまのマスター」
 雪華綺晶は微笑み、右手をこちらに向かって伸ばした。それとともに白茨がぞろりと動き出す。
「さ、参りましょう? 黒薔薇のお姉さまもお待ちです」

「!?」

 俺の脇で灰白色の髪のドールが驚愕に目を見開く。俺は心にずきりと痛みを感じながら、純白の妖怪を睨みつけた。
「……水銀燈を確保してるとはね」
 苦い思いが広がる。この夢の世界に残っているのは自分だけだと思っていたのだが。
 蒼星石に叫んだつもりだったが、やはり間に合わなかったのか。勢いで心の木を伐採する前にこうなる可能性について考えておくべきだった。
 俺か蒼星石が心の木を伐り、俺たち二人がダメージを受けて無防備になる。この夢喰鬼には俺を捕食し、水銀燈を葬り去る絶好の機会だったというわけだ。
 それにしても。
「タイミング良過ぎるじゃないか、大したもんだよ」
「お褒め戴き恐縮ですわ」
 雪華綺晶は言い終わらないうちに手を一振りした。ザッと床と擦れ合う音が立つほどの勢いで、一群の茨が俺に殺到し……
「させないわよ!」
 『水銀燈』の召喚した両手剣がそれを両断した。
「まあ……」
 雪華綺晶は隻眼を丸く見開き、片手を口に当てて無邪気な驚きの表情を作った。
「まだこんな力が残っているなんて……貴女は──」
「言うなッ」
 両手剣が唸りを上げ、力任せに振り払われた一撃は雪華綺晶の寸前まで迫り、彼女の纏う茨と服の端を切り裂いた。
 雪華綺晶の表情はしかし、驚きから含み笑いに変わっていた。軽く体を開いて次の一撃をやり過ごすと、『水銀燈』の後ろに回りこんで耳元で言い放った。

「──ただの、舞台装置の消え損ないですのに」

 その言葉に鋭く胸を抉られたのは、『水銀燈』ではなく俺のほうだったかもしれない。
 だが、躊躇する暇はなかった。俺は転がりこむような勢いで部屋の隅に打ち捨てられた物を拾い上げた。
「あら、そこではお逃げになった意味がありませんわ」
 囁くような声は、もう間近に迫っていた。
 振り向くと、純白の隻眼鬼は俺に手を伸ばすところだった。茨の間から、倒れている『水銀燈』の姿がちらりと見えた。音も無く倒したのか、活動限界だったのか。
「おいたをしないで、参りましょう? お姉さまのところに」
 満面の笑みで、雪華綺晶は俺の顔を両手で挟んだ。
「ああ……そうするしかないみたいだな」
 俺は拾ったものを持った両手を体の前でちぢこめた。茨とドールの体がのしかかり、殴りつけることすらできなくしようとしている。
「うふ……聞き分けの良い方は、大好き──」
「──だけどな、行くのは俺だけだ」
 左手でジッポーのフタを開けて点火し、同時に右手で殺虫スプレーのスイッチを押す。
 何かを感じたらしい雪華綺晶は反射的にとびすさったが、彼女の茨に簡易火炎放射器の炎が浴びせ掛けられるのを防ぐことはできなかった。
 火力は大したことはないはずだ。だが、茨は生木が燃えるときの独特の匂いを放ちながら呆気なく燃え始め、あっという間に俺と雪華綺晶の間には灰の緩衝地帯ができてしまった。
「ここは俺の夢の世界だ。あんたとしてはその方が手の込んだ罠を構築しやすかったんだろうが、ここでは俺の精神もアストラル体であるあんたも同時にダメージを受ける可能性がある。裏目に出たな」
 雪華綺晶は呆然と茨を見つめていたが、やがて無言でそれを引っ込めた。
「悪いが、俺のご都合主義がある程度通るこの世界じゃ、こんなチンケな火炎放射器でもあんたを焼き殺すことができるかもしれん。ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない」
 ハッタリもいいところだった。ご都合主義云々は今この場ででっち上げた嘘だ。だが、軽く恐慌状態に陥っている雪華綺晶には効果があったらしい。
「……はい……」
 呆然とした顔色のまま、彼女は空間に穴を開けて出て行った。

 がらんとした部屋の中には、俺とアニメ版ローゼンメイデンの水銀燈の形をしたドールだけが残された。
 俺は屈んでドールを抱き上げた。かくん、と手足が重力に逆らわずに折れ曲がる。夢の世界で重力もくそもないものだが、俺がそういうイメージで捉えているからなのだろう。
 どうして未だにこのドールが形を留めているのかはわからない。本来はこの世界の上に構築された幻影が割れてなくなったときに消えていてしかるべきだった。

──まあ、そんなことはどうでもいい。

 実時間ではほんの短い時間だったのかもしれないが、俺は伐り倒したときに心の木から湧き出た記憶の奔流の中でこのドールと出会い、旅をし、暮らした。
 その中で、本来雪華綺晶が配置しただけのドールの中に自我に近いものが芽生え、この夢の世界とはいえ、実際に動き回るまでに急激に成長した。そう思いたいような気がした。
「君は」
 物がなくなってしまった机の上にドールを横たえながら、そっと囁いてみる。
「幸せだったかい?」
 偽りの幻影とはいえ、ほんのいっときだが、まるでアニメ版ローゼンの終了後のような世界に生きて、楽しかっただろうか。苦しかったのだろうか。

 人間が使うなら片手で振り回せるような小さな両手剣を拾い上げたとき、部屋の窓が波立ち、銀色の使者が飛び出してきた。
「メイメイ」
 水銀燈の相棒は嬉しそうに俺の周りをくるりと回った。
「連れて行ってくれるんだろ、水銀燈のところに」
 もちろんだとばかりに、メイメイは窓に飛び込んだ。
 窓をくぐる前に、俺は机を振り向いた。
 蒼星石や翠星石に連れられてこの世界にまた来ることはあるかもしれない。だが、次に来たときはもう、机の上は空っぽになっているような気がした。
「さようなら、『水銀燈』」
 懐かしいその名前を呼んで、俺は窓に体を沈めた。



[19752] 遂にきたスランプor行き詰まり状態
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/06 10:15
今回は一番難産でした。
文章前後の繋がりがよくなくなったり、冗長になったりしているのではっきり分かるかと思います。

ちなみに、この実験では本来やるべき工程を最初から手抜きしています。
行き当たりばったりで書いていることもそうですが、実はろくに推敲もしていません。書けた分そのままを上げています。

あくまでどれだけ書けるか、が実験の第一目的ですので、本文を読まれる方はご注意ください。

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 メイメイに連れられてやってきた先に広がっていたのは、湿気と温度を無くした濃霧の中のような光景だった。
 数メートル先、というのも視覚的なイメージに過ぎないわけだが、とにかく何も見えない。それでいて暗いという印象はなかった。
 ためしに、何故か手にしたまま消えていない剣を前に突き出してみたが、剣の先端は霧に巻かれるようなこともなくクリアに見える。物が何もないから霧が濃く見えるだけなのか。
「なんていう世界なんだ、ここは」
 メイメイに尋ねてみるが、人工精霊は困惑したようにジグザグに飛んでみせるだけだった。こちらの言うことは通じるようだが人工精霊のほうでは俺に伝えようが無いのだ。
 いやまて、この濃霧には覚えがあるはずだ。
 嫌な予感を抱きながらおぼろげになってしまった記憶を必死で探る。ほどなくして、それは記憶の闇の中から見つかった。
 原作の連載中断前くらいに何度も出てきた場所。金糸雀以外の五姉妹がみんな捕まったり、あるいはそれぞれの想い人を追いかけて行き着いたところ。
「例の雪華綺晶が罠を張ってたエリアか」
 頷くように二度ほど跳ねてから、ついてこいと言うようにメイメイは先に立って飛んでいく。
 舌打ちしながらその後を泳ぐように漂っていくと、ほどなくそれは現れた。

──繭か?

 紡錘形の真っ白なものが、蜘蛛の巣のような網の真ん中に鎮座している。更に近づくと、網も繭も同じものでできているのが分かった。白茨の蔓だ。
 これがそうだと言うように、メイメイは繭の周りを回ってみせた。
「入念に巻いてくれたもんだな」
 予想はしていたが、中身がまるで見えないようになるまで巻きつけてあるとは思わなかった。体を拘束するにしては物々しすぎるんじゃないのか。
 なんにしても、雪華綺晶が現れないうちにこれを切り開かなければならない。先ほどの火炎放射に対するショックのせいで自分の世界かどこかに戻っているのだろうが、気を取り直して出てこられたら今度は手の打ちようがない。
 どれだけ使えるか分からなかったが、俺は剣を振るって蜘蛛の巣状の白茨を切り始めた。最悪の場合繭のままでも、蜘蛛の巣からは切り離そう。無様なだけかもしれないが、切り離せれば抱いて逃げ回ることもできる。
 白茨は意外に脆かった。原作でも茨の刺自体で誰かを傷つける描写は確かほとんどなかったが、これも同じだった。思い切り握って引っ張り、テンションを掛けて一本一本斬っても、茨を持った手は痛い程度で済んでいる。
 だが、斬り落とすたびに他の痛みが走り抜けていった。

 ──586920時間38分ぶりね、真紅。
 ──なぁにそれ。意味あるのぉ?
 ──そういうおままごとにはつきあってられなぁい……

 俺が直接知らない水銀燈の記憶の断片が、茨を一本断ち切るたびに浮かび上がるのだ。それ自体が痛々しいわけではない。痛むのは俺の内心の何処かだった。
 俺と契約してから今日までの水銀燈の闘いを、俺は原作でしか知らない。
 大筋は同じなのだろう。だが、概略を知っていればそれで良かったのか? 良いはずがない。
 水銀燈が笑い、怒り、驚き、虚勢を張り、内心悔しい思いをしていたとき、契約者の俺はほぼ知らぬぞんぜぬを通していた。
 彼女は何も言わなかった。聞かれて答えたのは雛苺が真紅に敗北したこと、それなのに真紅がローザミスティカを取り上げなかったこと程度だ。
 それは俺を必要以上に巻き込むのを嫌っていたせいだ。契約のときは大仰な言い方をしていたが、要は、媒介は必要なときに力を貸してくれればいい、それ以上のことは求めないのが彼女なのだ。
 ローザミスティカに関しては容赦も仮借もないが、自分の媒介には必要以上の関与をさせない。
 本人が意識しているかどうかは分からないが、それが水銀燈の戦い方だった。

「くそったれっ」
 普通の媒介に対してならそれでいい。しかし、俺は水銀燈の行動はおろか、その後何が起きるかまでも知っていた。その気になれば安全に、かついくらでも力になってやれたのだ。
「くそっ、このっ」
 俺は半ば自分への罵りを口に出しながら、柄が細すぎて握りにくい剣を不器用に振るった。

 ほどなくして、繭は蜘蛛の巣から離れた。
 雪華綺晶はまだ現れない。
 メイメイに安全な場所まで案内してもらうことも考えたが、繭が世界を飛び越えるときにどうなるか、自信が持てなかった。中にいる水銀燈もどうなるか分からない。できればここで開けて連れ帰りたい。
 剣を茨の間に強引に滑り込ませ、削ぐようにして断ち切る。いかにも分厚そうな繭を相手にするのには心許ないやり方だが、中にいる水銀燈を傷つけたくなかった。
 不思議なことに記憶の断片は現れなかった。いや、不思議ではないのかもしれない。茨が何らかの方法で雪華綺晶に接続されているのだとすれば、雪華綺晶が俺にわざと水銀燈の記憶を見せていた可能性はある。
 俺は独り言も漏らさず、機械的に白茨を切りつづけた。手にマメができて潰れ、皮が剥けて握ったところの茨にリンパ液と血が滲む。純白だった繭は切り口のあたりが薄汚く汚れていった。

 やがて茨の中に銀色の髪と黒い翼が見えてきた。
「はは、メイメイ。ご主人様だぜ」
 俺は思わず安堵の息をつき、人工精霊を振り仰いだ。メイメイはチカチカと光って返事をした。
 俺は暫く雪華綺晶のことも忘れ、ひたすら丁寧に剣を動かした。だが、剣を動かして更に白茨を切り続けていくと、突然妙な違和感を覚えた。
 その原因は考えるよりも早く自分の目に飛び込んできた。

──ドレスもなにも着てない?

 水銀燈は胎児のような姿勢で、こちらに背を向けて繭の中に横になっている。手足の球体関節は丸出しで、衣装は何も着ていなかった。
 裸を見た、というような興奮はない。むしろ、別のことが頭に浮かんでしまった。

──雪華綺晶にボディを奪われたドールは、素体になっていた。蒼星石も雛苺も。

 まさか、という焦りの思いが、鈍っていた作業のペースを早くした。どうにか体を持ち上げられそうな状態まで繭を切り開いたところで、俺は待ちきれずに水銀燈を繭から抱き上げた。
「水銀燈っ」
「……う……あ」
 背中から漆黒の翼を生やした少女は、のろのろと苦しそうに動き始めた。
「わかるか? 水銀燈──」
 俺が安堵を噛み締める前に、水銀燈は俺の胸にくずおれる。
 その瞬間、今までにない鮮明で連続的な記憶が、洪水のように頭に流れ込んできた。


 俺が水銀燈と距離を置いている間に、事態は原作の筋どおりに、しかもかなりの部分まで進んでしまっていた。

 水銀燈は蒼星石に探し物を教えることとバーターで、俺を夢の世界に連れて行くこと、そして危険だと思ったら俺の心の木をズタズタにしてしまうことを要求した。
 そしてあの日、俺の夢の世界を見た水銀燈は、俺があまりにも予想の斜め上を行く存在だと知って判断を保留した。
 原作では後から乱入してきた桜田と三人のドール達は、水銀燈が俺を即座に夢の世界に引きずり込んだことで間に合わずにニアミスで終わってしまったらしい。
 だが、今度は蒼星石に水銀燈が探し物の在り処を教える段になって、再び夢の世界で会同した二人を桜田たちが追いかけてきた。
 激しい戦いの末、水銀燈は真紅の右腕を引っこ抜き、勢いに乗って全員を倒しにかかったが、これは裏目に出た。
 結局その場では蒼星石とは敵対したが、水銀燈も約束は違えなかった。
 今日、彼女は蒼星石に探し物の在り処を教えた。いつものようにあてどない探索に出ようとしていた蒼星石は、水銀燈と同道して心の木の位置を確かめ、探し物が見つかったと契約者に告げ、彼から翠星石を説得するよう求められると桜田家に赴いた。
 そこからあとは、俺の見てきたとおりだった。

 声が聞こえる。
「真紅の言うとおり……ジャンクなのは私」
 それが水銀燈が呟いている声なのか、頭の中に響いてくるメッセージなのかは分からない。
「ローザミスティカを集めてお父様に会う、そのためだけに動いてる機械みたいなもの」
 なにか言ってやろうとした瞬間、頭の中を今度は整理されていない映像が駆け抜ける。戦っているときの情景ばかりが順番もごちゃごちゃに圧縮されていた。
 最後に、赤い腕を根元から引き千切るさまが浮かぶ。
「姉妹を壊して、六つのジャンクに変えて、それでどうなるの。たった一つの願いがかなうだけ」
 大きな手のようなイメージが浮かんで消える。その後に、桜田を守るように前に立つ真紅と雛苺の姿が浮かび上がる。
「アリスゲームがあるかぎり、姉妹の絆も、マスターとの絆も引き千切られて消えていく。
 だったら、最初からなくていい。千切られてから絶望するくらいなら、最初から絶望していればいい。
 世界には私と、お父様だけいればいい……」
 すべての映像は消え去った。

「……真面目過ぎるよ、君は」
 俺は息をついて、小さな背中を抱き締めた。
 多分、これは体と離れた水銀燈の意識下の心なのだろう、とやっと見当を付ける。原作で桜田が出会った水銀燈も、夢の中で膝を抱えていた。物理的な体の方は蒼星石が連れ出してくれたのだろうか。
「あまり生真面目だから、長い間にそんな風に固まってしまったんだな」
 この声が届くかどうかはわからない。だが、届かなくても構うものか。
「俺がそれを解いてやれるかどうかはわからないけど、死人にどこまでできるか、挑戦してやるよ」
 そろりと立ち上がり、彼女の体に引っかかっていた茨を取り去ってやる。
 メイメイがくるりと回り、彼方を指し示すように飛んでみせた。お帰りはあちらというわけだ。
 俺は頷き、人工精霊の後に続いた。
「逃げ回ってばかりの死人の俺と、馬車馬みたいに真っ直ぐ生き急いでる君。お互いぶっ壊れでいいコンビかもしれないな」
 腕の中から、お馬鹿さぁん、という声が聞こえたような気がした。


 くたびれた古いブラウン管テレビを点けたことがあるだろうか。
 リモコンも前面ボタンもないそれは、選局か音量のツマミを引くとトゥン、と独特の通電音がして、音だけが聞こえ始める。
 最初は画像は映らない。画面の真ん中だけがなにやら光っている。
 半秒くらいの間を置いて、光っている部分が全体に広がり、やがてぼんやりと薄暗い画像が映りだす。

 まさにそんな風にして、俺の意識はゆっくりと戻ってきた。
 目を開くと、そこが以前見たことのある場所だとわかる。薄暗い解体寸前の礼拝堂の、撤去され損ねた鏡の前だった。蒼星石が俺を眠らせ、三人で夢の扉をくぐった場所に戻ってきたわけだ。
「お目覚めだね」
 小さな声がする方を見る。蒼星石が手近な瓦礫に座ってこちらを見ていた。傍らに黒い羽毛と銀色の髪が広がっている。水銀燈だった。鞄の中にいるときのように、胎児のような姿勢で横になっている。
 俺はがばっと跳ね起き、そのままの勢いで思わず乱暴に抱き上げた。

──軽い。

 ぞくりとする。こんなに軽いとは思っていなかった。なんとなく、同じ背丈の人間の子供と同じような重さを想像していたのかもしれない。
 黒衣の天使は力なく俺の胸に頭を凭せ掛けた。黒い羽が何枚かふわふわと目の前に舞う。
 背中を冷たいものが伝い落ちる気がした。細い顎の下に手を遣って上向かせる。端正な顔にはまったく表情がなかった。

「意識はないけど、迷子にはなっていない」
 蒼星石の声に俺は安堵の息をつき、水銀燈を助け出してくれた礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
 振り向いてありがとうと頭を下げると、蒼星石は微笑んで首を振った。
 この少女はこんなに柔和な顔もできるのか。初めて見る彼女の表情に、今まで見せていたのとは違う一面を垣間見たような気がした。
「貴方は心の木を一気に伐り倒した。そこから記憶が噴出したのが原因なのだろうね」
 蒼星石は手を伸ばし、目の前に浮かんでいる黒い羽をつまんだ。微笑は翳り、また硬質な表情に戻っている。
「僕らにも心の整理をする時間は必要なんだ。いちどきに多すぎる情報をぶつけられたときにはね」
 そう言う彼女は、自分の心の整理はついているのだろうか。いやに多弁な気がする。まるで、言葉を発することで自分自身を落ち着かせようとしているように。
 しかし、それは無理もないことかもしれない。
「……怖いものだね、いざとなると」
 寂しそうな、それでいてニヒルな笑いが、かすかに浮かぶ。
「水銀燈をここに運んできたとき、見えてしまった。彼女の近くにいたせいかもしれないね」
 何を見たかは言われなくても分かった。
 たぶん遅くとも数日のうちに、薔薇屋敷と呼ばれている結菱家で、蒼星石は桜田とドール三体を迎え撃つことになる。
 物事が原作どおりに進んでしまっていることを疑う要素はもうない。水銀燈が真紅の腕をもぎ取り、その呵責に耐えていたのだから。
 そして、予定外のことが何も起きなければ多分全ては蒼星石の見てしまったとおりに進む。何も起きなければ、だが。
「それでも、やるのかい」
 色の違う瞳がこちらを見た。
「やるよ」
「望まない結末が見えているのに?」
 蒼星石はもてあそんでいた羽を指で弾き飛ばした。色の違う瞳は決意の色を湛えていた。

「それが、『僕』だから」

 月が翳りかけていた。暗がりに慣れた目でも色が分からなくなりかけている中で、彼女は背を向けて立ち上がった。
「だいぶ夜更かしをしてしまった。僕はもう行くよ。明日は万全の状態で臨みたいからね」
 何気ない一言だったが、蒼星石がもう戻れないところまで来ていることを俺は確信した。
 蒼星石が翠星石を連れ帰るのを諦めた翌日、桜田と三人のドールは薔薇屋敷に乗り込むのだから、もう彼等への宣戦布告は済んでしまっているはずだ。恐らくここにくる直前に桜田の家に赴いたのだろう。
「俺は暫く様子を見て、ぼちぼち帰るとするよ」
「それがいいだろうね。水銀燈も貴方の近くに居た方が目覚めが早いだろう」
 何事もないような言葉を俺たちは交わした。
 蒼星石は迷いの一切ない足取りで鏡に向かい、人工精霊を呼んだ。彼女の忠実な相方は無駄のない動きで鏡に近づき、表面を波立たせた。
「明日は敵対するかもしれない。もしそうなったときは全力でお相手するよ、水銀燈のマスター」
「望むところだ」
 俺は腕の中の小さな少女を見つめた。
 水銀燈に、考え方やらやり方について言ってやりたいことはある。
 だが、彼女が望むなら望むだけ、俺は力を与えるだろう。媒介だから、契約者だからというのはさして重要じゃない。いずれ強制的に力を奪われるからでもない。
 顔を上げると、蒼星石は鏡に腕を突きたてていた。波紋が広がり、腕は異空間に入り込んでいく。
「それじゃ……」
「蒼星石」
 振り向いた彼女に、水銀燈を抱いた窮屈な姿勢のまま俺はもう一度頭を下げた。
「ありがとう。君のお陰で俺たちは助かった、二人とも」

 蒼星石がここに連れてきてくれなければ、水銀燈の体は心と離れ、ずっとnのフィールドを漂うことになったはずだ。そして、そうなってしまえばいずれ俺もあの白い夢喰鬼に捕食されてしまっていたに違いない。
 俺が心の木を伐り倒した瞬間に記憶が噴出し、その一部を「見てしまった」だとすれば、水銀燈の体を抱えてこちらの世界に戻ってくる時点で蒼星石は既に知っていたはずだ。
 自分が明日自刃に近い形で契約者の望みに決着を着けることも、そのとき自分が翠星石に託そうとしたローザミスティカを、水銀燈が横合いから奪うかもしれないことも。
 それでも蒼星石は水銀燈の体を夢の世界から連れ出し、無防備な状態の彼女を置いてひとり姿を消すこともなかった。
 そんな蒼星石の姿勢は甘いといえば甘いのかもしれない。しかし、今は素直に感謝したかった。

「僕は特別なことは何もしていない」
 蒼星石は照れたようにかすかに微笑み、静かに首を振った。
「水銀燈との約束を果たしただけさ」
 それ以上は何も言わず、蒼星石は鏡の中に消えていった。



[19752] 元スレ落ち……だと……
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2010/07/09 22:25
原作を読んでみて心の樹≠記憶でないか、ということで少々変えたわけですが、……。
どうにも上手く行かないため無理矢理元の想定のように捻じ曲げて書く破目に。

それはいいのですが、元スレが既に落ちていたというショッキングな話を耳に……(つД`)
元スレが落ちてしまっては実験を続ける意味もありませんので、ここらで男坂エンドと行きたいと思います。
ここまで合計100kb弱。自分にしては平均10kb/執筆日程度というのは、分量としてはそれなりに書けたと思います。
内容はアレですが久しぶりに書いてみて楽しかったです。

それでは、またどこかのSSの感想掲示板辺りでお会いしましょう。
お目汚し誠に失礼しました。

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 水銀燈は家に帰り着いてからすぐに意識を取り戻した。
 運んでいる間でなくて良かった。自転車の前籠に入れられて運ばれるというのは彼女にとって愉快な体験ではなかったろうから。
 もっとも、そのことを知らなくても水銀燈の機嫌が良くないのは同じだった。
「人間に抱きかかえられていたなんて……おぞましいったら」
「じゃあどうすれば良かったんだ、あのまま目を覚ますのを廃屋で待ってろとか?」
「その方がまだマシだったわ」
 水銀燈は窓枠に横向きに座った。怒気のせいか顔が紅潮しているのが、薄暗い照明の下でも分かる。
「それで、用向きはなぁに? 聞くだけは聞いてあげる」
 俺は細めのショットグラスにライム汁と氷を入れ、アルコールの代わりに水で割った。レモンを添えてストローを挿して手渡しながら、明日のことはどうするつもりなのかと尋ねた。
 水銀燈は緑色の液体を飲みにくそうに口に含み、酸っぱさをまともに食らってなんとも言えない顔つきになったが、それについてはコメントせずに答えた。
「貴方から力を吸い上げることになるかもね」
「横取り決行か」
「そうよ。好機は好機。見逃すわけにはいかないもの」
 赤い瞳がこちらを見る。
「ただし、蒼星石があのとおり動くかは分からない。そこは五分五分」
 片膝を立てて窓枠に背をもたせ、月を見上げながら片手でグラスを揺らす。もう少し細いグラスならさぞかし絵になるだろう。
「かなり苦しむことになるんじゃないのか、取り込んだら」
「大したことはないわ、そんなこと」
 言い切って、またストローを咥える。勢い良く吸い上げて、また眉を顰めた。
「翠星石に揃えさせる訳にはいかないのよ」
 空になったグラスをこちらに差し出す。お代わりかと尋ねてみると、別のものにしなさいと少し強い口調になった。


 ~~~読み専の俺がローゼンメイデンの転生オリ主物を書いてみた 9~~~


 チョコレートと冷たい紅茶で口直しをしてから、水銀燈はやや機嫌を直したようにテーブルの向こう側に座った。
「如雨露と鋏が揃ったら、さっきの貴方と同じことがいつでもできるのよ。他人の生きた樹相手にね」
 チェーンソーのようには行かないが、時間を掛ければ人間の心を確実に殺してしまえる。
 それで他のドールの媒介を端から潰していけば、アリスゲームは翠星石の思いのままというわけだ。
「性格的に無理なんじゃないか、そういうことは」
 桜田の許にいる姉妹は、真紅を除けばある意味ゲームを半ば投げていると言っていい。翠星石は特に、桜田と蒼星石がいればゲームなどどうでもいいと考えて……いたと思う。
「今みたいに他のドールがそれぞれ孤立している状態で──お馬鹿さんの真紅は雛苺を半端な形で従わせているけど──独りで倍の力を持っていたら、どう考えを変えるか分かったものじゃないわ」
「疑い深いなぁ」
「──今ここで力を全部吸い上げてあげましょうか?」
 俺は少し考えてから肩を竦めてみせた。
「それはあまりいい方法じゃないように思えるな。まあ、取り敢えず今は勘弁」
「いつまで他人事みたいに言えるかしらね」
 水銀燈はふんと鼻で笑ってまた窓の外に視線を転じた。
「とにかく、他の姉妹に渡してしまうくらいなら私が持っている方が安全というものよ。真紅が2つめを持つことがあり得るのだから、特にね」
「……雛苺の分、か」
 しかしそれは同時に、あの雪華綺晶に雛苺のボディが奪われることを前提にした話でもある。

──あれだけは駄目だな。

 先ほど夢の中で会った白いドールを思い出すだけで、耳の後ろが粟立つような気分がする。
 他愛ないハッタリであっさり引いてくれるあたり、案外目の前の黒衣の少女などより余程与し易い相手かもしれない。チャンスを掴むのは上手いが、手が込みすぎていて墓穴を掘ったようなところもある。稚拙と言ってもいいだろう。
 蜘蛛のような捕食方法にしても、単独になったところを狙って行くやり口も、独りローザミスティカの争奪を放棄して姉妹の体を欲しがることも、存在の特異性とこれまでの経緯を考えればいっそ哀しく致し方ないことなのかもしれない。
 だが、なんというか、駄目なのだ。頭では分かってもいざ対面して相対してみると生理的に受け付けない。
「七番目は誘き出して叩くしかないわ。今のところね」
 水銀燈はどこか作文を読むような調子で言った。
「そのためには雛苺と蒼星石のボディは餌として必要ってことか」
「そう。物質化しているところを潰すほかに七番目を倒す方法はないのよ」
「いや、もう一つある」
 水銀燈は訝しげにこちらを見る。俺はその前に菓子を並べた。
「相手が例の取引を持ちかけてきたらそれを呑む。君はゲームに勝利し、相手は君以外の全姉妹の体を手に入れる。履行されればどちらにもハッピーエンドだし、場合によれば隙を突いて倒すことだってできるだろ」
 水銀燈は菓子に伸ばしかけていた手を中途で止め、何か言いかけてやめた。
 ふっと息をついて彼女が口にしたのは、恐らく最初に言おうとしたこととは別の言葉だった。
「自分を買い被るのもいい加減になさい、お馬鹿さぁん」
 どこかわざとらしいゆっくりした手つきで菓子を手に取り、包み紙を綺麗に剥いて中身を口に入れる。
「あれは漫画のジャンクな媒介と私が特別親密な関係にあったから持ち掛けられた話でしょう。媒介が貴方じゃ有り得ないわぁ」
「それもそうか」
 口ではそういいながら、俺は眉間に縦皺を寄せるような勢いで眉を顰めた。……そうだったのか?
「ええ。間違いないわ」
 彼女もなぜか少し早口に言い、ティーカップに口をつける。
「で? それだけなのかしら、用件は」
 明日のために少し寝ておきたいんだけど、と彼女は時計を見上げた。俺も釣られるように壁の時計を振り返る。
 あの世界の中での体感時間は莫大な長さだったが、実際の時間ではまだ日付が変わったところだった。まさに夢の中ということなのか。
「もう一つあるんだ」
 正面を見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合って、自然に俺は居ずまいを正した。
「俺の前世の記憶は多分、次に目覚めたときには消えてる」
 水銀燈は固まったような、口の端を吊り上げるような表情になった。

 短期記憶は睡眠時に整理されるという話だ。おそらくその時に、前世の記憶は抜け落ちていく。根拠はないが確実な予感がある。
 今も次第に昔の記憶の鮮明さが失われていくのが分かるのだ。
 さっきの取引うんぬんの話も、水銀燈に指摘されても、漫画の中で柿崎めぐのことを絡めていたかどうかあやふやのままだ。PCの中のカンペを見れば分かるかもしれないが、それは読んで思い出すというよりは読んで知るということに近い作業になるだろう。
 案外今の今まで前世の記憶を引っ張っていられたのは、さっき噴き出した記憶にあてられているからで、本来の古い記憶は既に消えているのかもしれない。どちらにしても長いことは保たないだろう。
 前世の記憶が消えたときの俺は、果たしてどんな木偶の坊になるのか。
 幸か不幸か元々頭のいいほうではないから、傍目から見れば何の変化もないように見えるかもしれない。

「当然の報いね。自分で自分の心を刈り取ったんだもの」
 水銀燈は冷ややかに言い放ったが、表情は少しずつ歪んで行き、すぐに嘲笑に変わった。
「あは、あっはははは! そう! 今まで散々何でも知ってるって顔で余裕ぶってたくせに! あはははは」
「余裕ぶってた訳じゃないさ」
 俺はぶつぶつと応えた。実際のところ、特に水銀燈の螺子を巻いてからは状況を変えたくない心理が先に立って、余裕どころか逆に思い悩むことが多かった気がするが、さっきの謝罪を繰り返すのは気恥ずかしい。
 目の前の黒い翼の少女は、そんなこちらの態度を見てか、まだ笑いつづけている。
「あは、あは、あはは……おっかしー」
 目の端に涙さえ浮かべているのが少々癪だ。
 さすがに笑いすぎだろう、と目の前の菓子と飲み物をさっと片付ける。水銀燈はむっとした顔になって笑いやんだ。
「それで何が言いたいわけ? もう役立たずだから契約を解いて下さい、ってことぉ?」
 人をあしらうときの、少しばかり語尾を伸ばすような言い方になってこちらの様子を眺める。
「そうねえ、媒介としては使うけど、お望みなら契約は解いてあげてもいいわよぉ? どっちにしても──」
「それは好きにしてもらっていい」
 俺は被せるようにして水銀燈の言葉をさえぎった。
「俺の覚えていた限りのことは、さっきの一件でまるまる君に伝わってる。つまりこっちに記憶があってもなくても、情報源としての俺の役目は終わってるってことに変わりはない」
 あとは、純粋に水銀燈の力の媒介としての役目だけだ。それも、別に契約を必要とするわけでもない。彼女がその気になればいつでも誰でもドレインはできるのだから。
「ただ、一つだけ──今の気持ちを整理しておきたいんだ」
 水銀燈はまた口の端を吊り上げるような表情になった。
「遺言のつもり?」
「まあ……そんなとこかな」
「殊勝なこと」
 そう言う顔はまた嘲笑の一歩手前という風情だった。俺は目を閉じてひとつ息を吐き、よしと水銀燈を見据えた。
 水銀燈が笑いを引っ込めてこちらを見直す。目が合ったところで漸く俺は口に出した。
「君が好きなんだ」

 元々、俺は誰かの熱烈なファンというわけではなかったと思う。思う、というのは今もその頃の記憶が次第に抜けていくのが分かるからだ。
 ただ、強いて言えば漫画では水銀燈と雪華綺晶がお気に入りのキャラクターだった。
 メインヒロインの真紅や、そこに親しく出入りしている姉妹には(ヒキコモリだからどうとかいうことは置いておいて)マスターとの楽しい暮らしがある。自然と、かけがえのないみんなの今を守るというような雰囲気になる。特撮ヒーロー物の王道のような話だ。
 だが水銀燈には暮らしはない。たった一人の壊れかけの媒介がいるだけ。
 雪華綺晶に至っては誰もいない。理解者すら与えられず、アリスゲームの盤上に立っていると言いながらも目的はゲームの進行ですらない。
 何故かそういうところが、当時の俺にはツボだったのだろう。

 その前提があって今の気持ちがあるということを、俺はネガティブな意味では捉えていない。昔憧れていた子に似た人を好きになったっていいじゃないか、と思う。
 また逆に、昔の記憶がなくなってしまえば、何かのストッパーが外れて彼女に対して年齢相応の熱烈な恋をするかもしれない。それも否定しない。
 ただ、今の気持ちが、昔の記憶が無くなってからも同じように続くことはないだろう。
 仮に同じところから続くとしても、それは今の俺の預かり知らない新たな始まりなのだ。
 その意味では、これはまさしく遺言のようなものだった。

「人形に恋をするなんて、とんだフェティストね」
 やれやれと水銀燈は大仰に肩を竦め、掌を天井に向けて首を振ってみせた。
「死人は人間を愛することもできないってことかしら?」
「そりゃ斬新な視点だな」
 思わず苦笑すると、水銀燈は楽しそうな笑い声を立てた。
「まあ、それで……君には怒られてばかりだったし、苛々もさせたし、迷惑ばかりかけどおしだったけど」
「そうね。こんなに手のかかる媒介は初めてだったわ。契約がこんなに重荷になるなんてね」
「そこは悪かったと思ってる」
 何度目になるかわからないが、俺は頭を下げた。
「だけど、君に会えて良かった。本当に感謝してる」
「当然ね。どれだけ感謝されても足りないわぁ」
 それ寄越しなさいよ、とさっきこちら側に寄せてしまった菓子を指す。
「手厳しいな」
 目の前に置いてやると、当然でしょ、と水銀燈は菓子の子袋を破った。
「言いたいことはそれで終わり?」
「ああ」
 俺は椅子を引いて立ち上がった。
「御清聴ありがとう。シャワー浴びて寝るよ」
 彼女は菓子をぽりぽりと齧りながら、視線をこちらに向けもせずひらひらと手を振った。
「そうなさぁい。これ食べたら私も鞄に入るわぁ」
「おやすみ、水銀燈。寝坊するなよ」
「失礼ね、貴方じゃないわよ。おやすみ」


 シャワーを浴びて寝間着に着替え、部屋に戻ると、水銀燈の姿はなかった。
 言っていたとおり、明日のために早めに鞄の中に戻ったのだろう。動機は違うが、彼女も蒼星石と同じく、俺の知っていたそのままの行動を取ることになったわけだ。
 布団を敷いて蛍光灯を消し、布団に潜り込む。複雑な気分だった。
 結局俺の存在はなんだったのだろう。俺の記憶を持とうが持つまいが、今後の彼女達は同じ道を行くということなのか。
 妙な話だが、自分が完全に消えてしまうとかいう、ありがちな悲劇的な状況でないのがもどかしいような気もする。現に、こんな状況だというのにもう睡魔がそこまでやってきている。我ながら緊張感のない話だ。
 朝起きたら記憶がだいぶ欠落していて、ひょっとしたら忘れたことさえ分からないかもしれない。まあ、それだけの話だ。どちらかと言えば喜劇的かもしれない。
 うつらうつらとそんなことを考えていると、かすかな風を切る音が聞こえた。
「まだ起きてる?」
 水銀燈は少し離れたところから声を掛けてきた。開け放たれた窓枠に座っているのかもしれない。
「いま布団に入ったところさ」
 なんとなくそちらに寝返りを打とうとすると、いいから寝なさいよ、と水銀燈は言った。
「柿崎めぐって子の病室を覗いて来たのよ」
 意外だが、なんとなく頷けるような気もする。
「少しは元気になったのかい、彼女」
「さあね……」
 そこで暫く声が途絶え、かさりと小さな音がしたかと思うと、今度は背中のあたりで声がした。
「貴方の記憶を見せられて、あの子のことを可哀想だと思ったし、興味も湧いたわ。少しはね」
 でもあの子じゃ駄目ね、とふっと息をつく。
「私は天使じゃないから」
「漆黒の堕天使でいいじゃないか」
 ぼすっ、と腰の辺りに衝撃がくる。蹴ったのか殴ったのか。
「ああもう全く、最後まで口の減らないったら」
 ぼすぼす、と更に何度か、あまり力の乗っていない攻撃を加えたあと、水銀燈は続けた。
「あの子が螺子を巻いていれば、今より確実に癒されてたでしょうね。あの子のために自分を犠牲にしても何かしてあげたいと思っていたかもしれない。七番目に捕えられたら何処までも追いかけて探しに行ったかもね」
「間違いなく、そうなってたさ」
 柿崎めぐと水銀燈の境遇はとてもよく似ていた。二人はお似合いのカップルみたいなものだったはずだ。
「でも、メイメイも私も貴方を選んだ。今はそのことを後悔してないわよ」
 どんな返事を口にすればいいか戸惑ったが、ありがとうという月並みな言葉しか返せなかった。
 暫く水銀燈は黙っていた。俺の方はさっきの彼女の一言で安心したせいか、現金にも眠気がまた忍び寄ってきていた。
 はっきりしない意識の中、多分こんな言葉を聞いたような気がする。

「今までこんなに世話を焼かせた媒介はいなかったけど……どういうわけかしらね。嫌いじゃなかったわよ、貴方のこと。
 ……おやすみなさい、良い夢を」



[19752] こんな続き方はどうなのか。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/19 16:48
主役・口調・文体を変えたらどう書きにくくなるのか? の実験のため再始動。

貯まって来るまでsage進行です。

(元)オリ主激変。
書いてるこっちは大真面目、見ているあなたはドッチラケ?
なお、視点は(元)オリ主ですが、彼はこれ以降視点の一つを務めますが筋の上では脇役です。

10/7/17 19:33 初投稿です。
10/7/17 19:42 一部修正。
10/7/19 16:45 この部分修正。

**************************************

 夢。
 夢を見ていた。

 見たことのない、柔らかな表情で赤い眼の女の子に手を引かれて、ひどく懐かしいところに二人で戻ってゆく夢だった。

 その女の子が水銀燈と同じ服装をしていた理由はなんだろう。
 理由はすぐに思い当たった。俺は真っ赤になった。
 布団から顔だけ出して、恐る恐るテーブルの脇の大きな鞄を見てみる。
 幸いというかなんというか、黒いドレスの小さなお姉さんはまだ起きていないみたいだ。

 うはぁぁぁぁぁぁ。恥ずかしすぎる。死にたい。ていうか死ぬ。俺乙。

 俺は布団に包まったままゴロゴロと転げまわった。あれはこの後一生忘れられそうもない。

 俺は、ローゼンメイデンの第一ドール水銀燈の契約者だ。もっとも、水銀燈からはもっと簡単に「媒介」とか「人間」で済まされている。たまにマジになると「貴方」に昇格するからちょっと嬉しい。
 彼女と出会ったのは四月の頭で、それから俺たちは少しずつ愛を育んできた……訳じゃない。
 そもそも媒介とか契約は好き嫌いとあんまし関係ないみたいだし、水銀燈は俺のことを全然そういう目で見てないらしい。
 でも、俺のほうでは水銀燈を好きになってしまった。それについては色々とあるんだけど、あれだ、上手く言語化できないってやつ。別の言い方すると説明が面倒臭い、ってかぶっちゃけ恥ずかしい。

 取り敢えず、俺は水銀燈に昨日の晩、君が好きだと告白してしまったのである。

 彼女の反応は超クールだったけど。
 そりゃそうだよな。水銀燈は人間じゃない。生きてるけど人形だ。レンアイ対象としてどーかとは思う。

「でもしょうがないだろっ、好きになっちゃったんだから」

 う、口に出したらまた恥ずかしくなってきた。もう一度ゴロゴロと転がってから、俺は立ち上がって頭をぼりぼり掻いた。
 取り敢えず、水銀燈が起きてくる前に布団畳んで着替えて朝飯食ってしまおう。うん、それがいい。


 ところで、今日はとても大切な日なのだ。
 あ、俺がじゅうろくさいになったひ、ではない。まだ中学生なんで念のため。
 今日、桜田ジュンとローゼンメイデン三人が、坂の上のでかい屋敷に殴りこみにいく。水銀燈はそれに便乗して、戦闘で弱った奴からローザミスティカを奪おうとしているらしい。

 凄い! なんて頭脳派な行動! さすが冴えてますね姉御!

 ……じゃなくて、それはどうかと思うんだ。
 どういうわけか知らないが、悪いことが起きそうな気がするんだよね。ローザミスティカはローゼンメイデンのエンジンみたいなもんだけど、それ2つ持ってるからってパワーが単純に倍増ってこともないみたいだし。
 なんつってもエンジンの燃料は俺の生命力? らしいから、俺が一緒にいないと何個持ってても大して変わんないだろうし、俺がいるときでも燃料が倍に増えるわけじゃないんだよな。
 で、敵はエンジン3つに燃料タンク1つ、とエンジン1つにタンク1つの組み合わせ。
 水銀燈としては多分エンジン1つの方が弱ったとこで、そいつのミスティカゲットだぜ! なんだろうけど、相手のほうがだいぶ弱っててくれない限り、まともに相手したら逆にやられてしまうんじゃないのか。
 あと、ミスティカを奪ってツインエンジンになってちゃんと動くのか? ってのも気になる。
 なんで気になるのかよくわからんけど、絶対まずいことになりそうな予感がする。
 心臓移植とかでもそのときは大丈夫でも、後から拒否反応とか出て結局上手くいかないことがあるだろ? ミスティカもそんなことになりそうな気がするんだ。
 そんな訳で、俺としては水銀燈を止めたい。彼女を止めるなんて媒介として失格かもしれないけど……それに、そんなことをして嫌われるのも怖いけど、悪い予感がおさまらないんだ。

 問題はその方法だったりする。
 水銀燈に直接言うのは、多分無理。俺の言うことで行動を変えるようなお姉さんじゃありません。
 それに、細かいとこまでは覚えてないんだけど、昨日寝る前に話した時は水銀燈も悪いことが起きるかもしれないって覚悟はしてるみたいだった。覚悟完了した人を説得するのは俺には無理だ。
 次は、水銀燈に頼んで俺も一緒に連れてってもらうこと。んで、羽交い絞めとかで腕力に任せて止める。
 これも×。今まで水銀燈が俺を戦いに連れてったことは一度もないんだ。今度に限ってOKしてくれるなんてことはあり得ない。
 こっそり後をつけていくのもダメ。
 今度の戦いはnのフィールドって亜空間みたいなところが舞台になる。もし自力でそこに入り込めても、多分中で迷子になってしまう。
「やっぱし、あの方法しかないかなぁ」
 歯を磨きながら、もごもご呟いてみる。気乗りしないんだけどしょうがない。
 あ、今度から歯磨き粉は塩の味のしない奴にしよう。なんか気持ちが悪い。


 鞄が開いた気配がないのを確認して、俺はそぉーっと家を出た。コーンフレークと牛乳で朝飯にしたのは初めてだけど、ガス台使ったりして気配で水銀燈を起こしたくなかったんだ。
 まず、手土産が必要だ。何がいいんだろう?
 最初に開店したばかりの本屋に寄ってみる。なんとなく直感が閃いてハヤカワのSFを手に取った。
「三冊で2400円かよ……」
 あうち。いきなり痛い出費になってしまった。
 次になんとなく選んだのは「レンジでできるお料理入門」。こっちは1000円台で済んだ。
 それからおもちゃ屋でちっちゃな人形何体か。店員さんに妹さんに上げるの? と聞かれてしまった。ハイと答えたらにこにこしながら簡単にラッピングしてくれた。何故か胸が痛い。あと財布にも痛かった。
 最後に、不死屋で売れ線の菓子を買い込む。これで準備は完了だ。
 同時に俺の小遣い分もほとんど終了してしまったけど、これも水銀燈のため……。な、泣いてなんかいないもぅん。
 時計を見るともう十一時前だ。やばい。急がないと昼飯の時間になってしまう。


「えーと……こんにちわー……」

 俺が主に眼のあたりから出た汗を拭いながら向かった先は、桜田の家だった。
 桜田は、今は三人のローゼンメイデンの契約者なんだけど……一年のときにちょっとした事情から不登校になってしまった。
 そこから、俺たちは一度も顔を合わせていない。

 文化祭のときに学年対抗で女王を決めるんだけど、そのための衣装のデッサンを桜田が宿題のノートに描いてたのをクラスの奴が見つけて、面白半分に黒板に貼り出した。
 下手ならまだ良かったんだろうけど、桜田の描いた衣装は誰が見てもプロ級だったんだよな。それがエロいとか上手すぎるとか、衣装のモデルの桑田が可哀想だとかで大勢がよってたかって黒板に文句を書き殴ってしまった。
 俺が登校したときはもう、桜田が黒板の絵と落書きを見てゲロ吐いて保健室に連れて行かれるところだった。なんのことかよく分からずに黒板拭いたけど、黒板消しで足りずに雑巾で拭き取ったくらいひどい落書きだった。
 実は、俺は偶然……だったと思うんだけど、その何日か前、桜田が宿題のノートにやばそうな絵を描いていたのを知ってる。でもそのときは、桜田も自分で気がついてデッサンを描いたページを切り取ってカバンに仕舞っていた。
 それをわざわざ見つけ出して、多分放課後か登校時間前に貼り出した奴がいたわけだ。不登校の直接の原因はそいつらってことになるんだろうけど、担任の梅岡先生がそいつらを連れて桜田の家に謝りに行っても桜田は会いもしなかったみたいだ。
 当たり前って言えば当たり前か。クラスみんなにいじめられたようなもんだし。
 学年が変わってクラス替えもあった。一応桜田といじめた連中は別クラスになるように組まれたみたいだけど、桜田はまだ一度も学校に顔を出していない。
 ちなみに俺は相変わらず桜田と同じクラスで、担任も梅岡先生のままだ。
 桜田だって、登校してくればそれなりに楽しいと思うんだけどなあ……。でも、家に三人も可愛い女の子がいれば、そっちのほうが楽しいのかもしれない。

 そんなこんなで、あまりどころかとても気乗りしないけど、俺は桜田家のインターホンを鳴らした。
「はーい、どなたですか?」
 なんか可愛い系の声がインターホンから聞こえる。う、これはまさかドールの誰か? いやいやいや、まさかなー。
 いや、そうじゃなくて。挨拶しないと。
「桜田ジュンくんの同級生です、はじめまして」
 一瞬間が空く。なんか厭な間だな、と思っていたら、半オクターブくらい高くなった声で、まあ、どうぞどうぞって言われて扉が開いた。
 顔を出したのは、ちょっと桜田に似た、ウェーブのかかった髪の女の子だった。桜田のお姉さん……かな?
「こんにちは、ジュンくんのお友達なのぅ? はじめまして」
「はい、桜田くんに会いたいなって……」
「あらぁ、それじゃ上がって待っててもらっていいかしら? いまジュンくんお部屋なの」
 俺を客間っぽいフローリングに通すと、お姉さんはぱたぱたと廊下を走っていった。
 やべえ、むちゃくちゃ可愛いじゃんお姉さん! これは引き篭もりたくなるね! ってか都合四人のハーレムかよ! 普通に学校行く気なくなるんじゃね?
 ってお姉さんは学校行ってるなら関係ないか。
 あーでも畜生、引き篭もりなのに女の子たちとキャッキャウフフのリア充とかどうなってんだよ。世の中不公平すぎるだろ。

 そんなことを考えていると、スリッパの音がぱたぱたと聞こえてきた。
「ごめんなさいね、そのぅ……ジュンくん、今ちょっと具合が良くないみたいなのぅ……」
 お姉さんの顔は困ったような、ちょっと泣きそうな感じだった。うん、明らかに嘘だよねそれ。なによりもその表情が物語ってます。
 この人をもっと困らせるのは心が痛むんだけど……ここは言うしかない。

「大事な話なんです。蒼星石のことで──」

 言いかけた途端、がたん、とドアの外で音がした。反射的にそっちを向くと、ガラス戸にひっついてる髪の長い金目銀目と、金髪縦ロールの小さな姿がある。
 しかしなんだ、盛んに指差してなんか言ってるけど、俺の左手の薬指がそんなに気になるのか?
 左手の甲を見せてコンニチワと手を振ってみると、金目銀目がせいいっぱい手を伸ばしてドアレバーをぐいっと押し下げ、ドドッと走ってきて……お姉さんの足の後ろに隠れた。もう一人も同じように走ってきて、逆側に隠れる。なんだそりゃ。
「あ、あのぅ……二人とも」
「や、やい人間、蒼星石の何を知ってるですか! 洗いざらい全部吐きやがれですコンチクショウ!」
 お姉さんの後ろからべそかきそうな顔で言われても怖くないんですけど。っていうかお姉さん無茶苦茶困ってるじゃん。
「それとその指輪、契約の指輪なのよー。誰のなのー?」
 あんまりびびってない感じの縦ロールの子が、俺の左手を指差して首を傾げる。
「あ、これは──」
「チビ苺は黙って真紅とチビ人間を呼んでくるです! こいつの尋問は翠星石の仕事なのです!」
「うゅ……」
 チビ苺……雛苺って子だよな、確か。しぶしぶという感じでお姉さんの足から手を放して、俺とお姉さんと金目銀目……こっちが翠星石か。その三人を交互に見つめている。
 お姉さんは俺の方を見てごめんなさいと言うように頭を下げた。
「それじゃヒナちゃん、一緒にジュン君たち呼びに行こう?」
「うー、うん」

 お姉さんに手を引かれて、なんか名残惜しそうにこっちを振り返りながら雛苺がドアの向こうに消えると、部屋には俺と翠星石だけになった。
 視線を合わせてみる。びくっとしてソワソワし始める。
「あ、えーとその……」
 ぎくぎくって感じになった後、泣きそうな目でじーっと睨みつけてくる。

──ファンが多かったのも道理だな。この上目遣いは反則だろう。

 ん? 今なんでそんなこと思ったんだ俺。そもそもファンってなんだよ。
 まあいいか。
「薔薇屋敷に行くんだよな?」
「なっ、なんでお前がそれを知ってるですか」
 いちいち反応するのが可愛い。くそう、桜田……この調子であと二人もいるなんてマジでハーレムじゃねーか。
 でも……あれ?
「白ァ切るつもりですかっ、とっとと喋りやがれですこのアホ人間」
「あ、蒼星石から聞いたんだ、昨日の晩」
「え……」
 じりじり接近していた翠星石の勢いが止まった。
 と同時に、俺のほうも思考が止まってしまった。
 蒼星石から聞いたのは間違いないんだけど、おかしい。なんだかその前から知ってたような気がする。蒼星石から聞いたんじゃなくて確認を取っただけみたいな覚えも……
「蒼星石と、会ったですか」
「うん」
 それは確実。夢の中じゃない。っていうか、俺と蒼星石と水銀燈で俺の夢の世界に入ったんだけど、さっきの話を蒼星石から聞いたのは出てきた後だ。……ん? いや合ってるはず。
 あるぇー、確認取ったってのが覚え違いなのかな。どうも昨日の晩のことはよく思い出せない。
 まあ、大事なことに気を取られてて、細かいことは忘れちまったんだろう。忘れるくらいだから大したことはないんだ。うん。
 なんて考えてたら、翠星石が俯いてしまっている。
「やっぱり、戦うって言ってたです……?」
「……うん」
 あ、やばい。泣く。
「う……」
 ぽろぽろと落ちる涙はまるで真珠のようで。じゃなくて。
「泣くなー!」
「な、泣いてないですコンチクショー!」
 顔を真っ赤にしてなんか手当たり次第に投げつけようとしたみたいだけど、生憎とフローリングの床の上には投げるもんがない。
 どうするかと思ったら接近戦に持ち込んできた。フッ、だが貴様は所詮ちびっ子! 立ってしまえば圧倒的な背丈の差が……あれ?
「ちょ、あ、足痺れて立てねえしっ」
「フッ……お前の動きは見切っていたです、くらえっ」
 翠星石は数少ない飛び道具、クッションを投げつけ、俺の視界を奪ってからフライングボディプレスをかましてくる。たまらずひっくり返ったところをそのままマウントポジションに移行しやがった。
 くそぉ、体勢が崩れすぎていなければ……ていうかつい正座してた俺が悪いんだけど。
「うわわ、いて、いててててっ、髪むしるなっ」
「さあさあさあ、観念して全部ゲロするです……って」
 翠星石の動きが止まった。チャンスとばかり相手の両腋の下に手を突っ込みリーチの差を最大限に利用してひきはがし……
「……ん?」
 なんだか翠星石は脇の方に視線を向けている。
 その先を追ってみると。

「会ったばかりだというのに随分仲がいいのだわ」
「ヒナ知ってるの。二人はすでに強敵と書いてトモと読む仲なのよー」

 雛苺とお姉さんに挟まれるようにして、赤いドレスを纏った片腕のドールと、それを抱いている桜田がいた。
 視線を戻す。自分の姿を確認してみる。OK。
 俺は半分膝を立てて仰向けに寝っ転がり、両手を真上に最大限に伸ばして、翠星石さんを精一杯高い高いしています。
 あ、やっと向こうもこっちを見ました。目が合ったでござる。

 眼を反らさず見詰め合う俺たち二人の瞳の間に何か見えない光が交錯してッ……
 漢と漢の友情が今ッ……!!

「……いいかげん下ろしやがれです」
「はい、そうですね」


「えーと、順番ぐちゃぐちゃになっちゃってすいません、これ……」
 幸い潰れもせず原形を留めている菓子箱をテーブルの上に置く。向かいに座っている雛苺の瞳がぱあっと見開かれた。
「うにゅーなのー」
「うにゅう? い、いや苺大福だけど」
「ふふ、ありがとうございます。ヒナちゃんは苺大福のことをうにゅーっていうのよ」
 お姉さんは優しく笑って雛苺に苺大福をあげている。なんか、和むなぁ。姉妹っていうか親子みたいだ。

 そういえばこの子達、似てないけどみんな水銀燈の妹なんだよな。
 正面で左手一本で不器用に紅茶を飲んでる赤いドレスの子……真紅を見て、なんだか複雑な気分になった。
 真紅の右腕は、水銀燈が壊した。事故とかじゃない。最初からやる気で、もぎ取った。俺はその場にいなかったけど知ってる……ん? なんで知ってるんだろう。
 多分本人から聞いたんだと思うけど、いつ聞いたんだか忘れてる。今日はやけに多いな。
 俺の頭がぶっ壊れなのは置いとくとして、やっぱ、姉妹で壊し合いするのって良くないよなぁ。こんな風に楽しくやってるのに、最後はみんな壊れて独りだけになっちゃうなんて切な過ぎる。

 水銀燈は切なくないのかな──

「──で、お前は蒼星石の何を知ってるですか」
 はっとして隣を見ると、翠星石がこっちを見上げている。
 テーブルが小さいんで渋々隣に座ることにしたみたいだけど、こっちとしてはさっきのどたばたのせいか、他の子や桜田に隣に居られるよりは気が楽だ。
 これが拳と拳で語り合った仲というやつなのか? いやいや。
 しかし、何から話していいのか……
 ほんの少しの間微妙な沈黙が流れた。
 一番最初に動いたのは、お姉さんだった。
「……ジュンくん、お姉ちゃんちょっとお台所に行くからよろしくねっ」
 ごゆっくり、と俺に頭を下げてお姉さんは出て行った。明らかに空気読んで席を外したな、お姉さん……。

 なんとなくドアが閉まるまでお姉さんを見送ってから、俺はその場の人をそろりと見回した。
 桜田以外全員こっち見つめてる、というより睨んでる。当たり前か。
「蒼星石が薔薇屋敷で私たちを待っている。それは知っているわ」
 ティーカップを置いた真紅が静かに言った。
「昨日の晩、蒼星石本人が言い残して行ったの。だから、私達は薔薇屋敷に行かなければならない」
「そっか……」
「貴方がそれを告げに来ただけならば、用はもう済んでいるのだわ」
「あ、いや俺はそのことを言いに来たんじゃない」
「そう」
 真紅はちょっと微笑んだ。あ。今の……ひょっとして助け舟なのかな。
 ありがとうと言うのもなんだけど、ちょっとだけ真紅に頭を下げて俺は話し始めた。
「蒼星石は、自分のマスターがほんとは何を望んでるか知ってるんだ。マスター本人は気づいてないみたいなんだけど」
 不思議なほどすらすらと言葉が出てくる。まるで俺じゃない誰かが喋ってるみたいだ。
 ちらっと翠星石のほうを見ると、俯かないでちゃんとこっちを見ていた。
「だけどマスターが気づかなければ、蒼星石は言いつけどおり翠星石と戦う」
 スカートを握っている翠星石の手がぎゅっと握り締められる。
「気づいたら……どうなるです?」
「蒼星石はマスターの心を覆ってる殻を壊す。それがマスターの本当の願いだから」
「それは……ダメです!」
 翠星石はがばっと立ち上がって俺の襟元を掴んだ。
 ぐっ、二度までもインファイトに持ち込むとはッ、このちっこい少女のどこにこんなスピードとパワーがっ……
「や、やめれ」
 なんとか翠星石の両肩を押さえる。取り敢えず止めさせないと俺が死ぬ。ていうかマジやばい、主に絞め落とし的な意味で。
「マスターの心は蒼星石の心なんです。それを無理矢理壊すなんて……そんな無茶したら蒼星石まで……」
 攻撃再開かと思ったら、翠星石はそのまま下を向いてしまった。
 やばい。これは、また泣く。
「冷静におなりなさい、翠星石」
 真紅がぴしゃりと言うと、翠星石ははっと気づいたように俺の襟元から手を放した。
 凄いな真紅。なんかリーダー的存在みたいだぜ。っていうか、俺にお説教するときの水銀燈にちょっと似てる。
「それで、貴方は蒼星石を助けたいのかしら」
「うん」
 くちゃくちゃになってしまった襟を直しながら俺は頷いた。
「俺は心の専門家じゃないけど、蒼星石は少し焦ってる気がする。心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。切っ掛けは要るにしても、マスター自身が少しずつ突っついて壊していけばいいと思うんだ。蒼星石と一緒に」
 お、今の言葉ちょっとかっこ良くね? 俺えらい!
 しかし、相変わらず自分の口からでてると思えないほど滑らかに回ってるよな台詞。
「それに、蒼星石がもし大怪我したり……もう会えない、とかになったら、マスターは当然心に別の重荷を背負うだろうし、みんなも悲しいだろ?」
 俺に肩を掴まれたままの翠星石が顔を上げてこくりと頷いた。
「だから、止めさせたいんだ。みんなと蒼星石が戦うことも、蒼星石が無茶をすることも」

「……ねぇ」
 む? 結構いいところだってのになんだ。
 声のほうを振り向くと、いつのまにか雛苺がテーブルのこっちにきて、翠星石の右肩の辺りを指差している。
 そこにあるのは翠星石の肩をわっしと掴んだままの俺の左手くらいなもんなんだけど。何が問題なのかな?
「誰の指輪なのか教えてほしいのよ」
 雛苺の人差し指は俺の薬指の付け根の辺りにある指輪を指している。
 俺は翠星石の肩を放して、指輪を見つめた。
「これか」
 今言っちゃっていいのかな、とも思うけど、どうせいつかはばれることなんだよな……。

「……水銀燈の契約の指輪だよ」

 その瞬間、部屋の中の温度が三度ほど下がったような気がした。



[19752] そして視点も変わっちゃう。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/17 19:37
今回は視点も変えてみます。

10/7/17 19:36初投稿です。

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 雪華綺晶は水晶の森の中で膝を抱いていた。

 戸惑っていた。
 戸惑う、ということ自体が初めてなのかもしれない。彼女は作られて放たれてこのかた、あらまし同じことだけを繰り返してきたし、それは最初から成功が保証されていて、失敗などすることは今まで一度もなかったからだ。
 薔薇乙女達は常に似たような形で媒介と契約を交わし、そしてさまざまな形で契約を解く。その「お下がり」の媒介のうち、使えそうなものを夢の中に引き込み、あるいはこちらから夢に入り込んで自分の領域に確保する。
 媒介を引き込むことは簡単だった。引き込めるような媒介を見分けるのが簡単だったと言い換えてもいい。
 薔薇乙女を失った媒介たちは大なり小なり消えない寂しさを背負い込む。媒介となる資質を持つような人間にとって、永く自分の傍にあった薔薇乙女は自身の一部のようなものだ。もう逢えないと分かっていても心がそれを否定したがっている。
 雪華綺晶に必要な工作は、彼らの見ている夢にほんの少し手を加え、彼らが決して目覚めたいと考えないくらいに幸せなものに変化させることと、そうして閉じこもった彼らの意識を自分の領域に運び込んで幸せな夢の中で遊ばせつづけることだけだった。

 周囲を見回す。水晶の結晶の中には何人もの媒介たちが、眠りについたときの姿のままで収められている。

 雪華綺晶の欠けた心、欠けた実存を埋め、放って置けばすぐに弱ってどこかに消え去ってしまうはずの不完全な魂をローザミスティカの近くに保つためには、媒介たちを確保し、夢を見続けて貰わなければならない。
 大抵の場合はひとつの時代にそうして確保できる媒介は一人か、多くても二人に過ぎなかった。それを彼女は大切に「遊ばせた」。数は多くないから失敗は許されなかった。糧が途切れれば、ローザミスティカだけでは彼女を保つことはできないから。

 これまで彼女が捕えてきた媒介たちは、自分から幸せな夢を拒むことはなかった。
 媒介として選ばれる人間達に心の強い人々は多くない。薔薇乙女を求めたからこそ選ばれ、薔薇乙女を愛したからこそ別離がくれば悲しみに沈む。
 今回も、そのはずだった。違っているのは、媒介が契約を解除される前に媒介の心が壊される予定という点くらいだった。
 契約の相手が水銀燈で、どういうわけかその本人が媒介の心を壊す瞬間に立ち会うというのは好都合だった。普段は他の姉妹に比べて媒介に依存しないし依存させない水銀燈だが、媒介の心を壊す現場に立ち会って無事で済むはずはない。
 水銀燈が心に大きな負荷を掛けられ、何もできない隙を狙ってそのボディを盗む。心を壊されて脆弱になった媒介は夢の世界に引き入れて遊ばせる。場合によっては水銀燈の心すら自分の領域の水晶に閉じ込めて無為に遊ばせることができるかもしれない。
 しかも、どちらかは失敗に終わってもいいのだ。
 ボディを失った水銀燈は精神だけの何もできない漂流者に成り下がるだろうし、媒介は無力な人間に成り下がる。そしてボディさえ手に入れてしまえば自分ははれて物質界の一員となれる。
 仮にそちらが不発に終わっても、媒介の心を確保してしまえば、当面の糧を確保できるだけでなく水銀燈に対しても何等かの交渉ができるだろう。
 やり方は複雑になるが、流れで見ればいつもの手順だ。できなくはない。なにしろ、相手は完全に無防備なのだから。
 そんな風に考えていた。

 それでも、二つの作業を平行して行うのは失敗の危険がある。
 雪華綺晶は慎重に段取りを整えた。
 万にひとつの失敗もないように、幸せな夢を見せるのは媒介の精神世界で、と決めた。媒介の記憶と想念の世界でなら、そこのパーツを使って夢の構成を補強することができる。より「本物らしい」夢を展開するほうが媒介の誘導には効果的だ。
 そのために彼女は媒介が好み、彼の世界の延長線上で違和感がないものを彼の世界から「借りて」幻覚の罠の中に配置さえした。夢の中で媒介がそれに依存してしまえば、もし夢だと分かってしまったとしても、彼はもうそこから抜け出たいなどと思うことはないだろう。
 水銀燈についても、最初からボディを欲張らずに心を縛りつけることを選択した。ボディにはローザミスティカが残っているはずだから、心が朽ちないまま確保したとしても雪華綺晶の思うまま扱うわけには行かない、という事情もあった。
 心を失ったボディはいつでも回収できる。魂が離れていけばいずれローザミスティカもボディから抜け出てしまうだろう。自分の手元に手繰り寄せるのはそれからでも問題はない。
 ローザミスティカには拘りはなかった。むしろそれよりも物理的な身体が欲しい、というのが雪華綺晶の本音だった。
 体を得て、煩わしく不確定な糧の確保という制約から解放されれば、自分もやっと他の姉妹と同じスタートラインに立てる。いや、自分の能力を考えれば、物理的な体躯に依存している他の姉妹よりも一気に優位に立てるだろう。
 ここから動かず、生きるためだけに生きることには飽きている。かといって、死ぬ気もない。

 彼女は既に長いこと機会を待ちすぎたのかもしれない。
 いつ自分がローザミスティカに興味をなくしたのかさえ、覚えていない。
 孤高の人形師ローゼンが彼女を今のありように作ったのも、このnのフィールドに放ったのも、ローゼンの考える至高の少女──アリスとするためだった。
 そのためには姉妹全てのローザミスティカを揃えることが必要の筈だった。少なくとも、そう思われていた。
 しかし、彼女はあまりにも永く、同じ目的の姉妹の誰一人とも接触を持つことなく、それでいて姉妹たちの姿を見つめながら生きてしまった。
 姉妹の誰もが次の媒介と契約するまで眠りに就いているときも、媒介もゼンマイも鞄も、話し相手の人工精霊さえも持たない彼女はひたすらここで待ちつづけていた。しかも、それはほとんどが自分が生き延びるための糧を見定め、確保し、そこから細々と心を吸い上げて生き続けるために根を張るだけの待機だった。
 途方もない、孤独。
 永い永い時間の間に、アリスというもの自体に対する考えさえも変わってしまった。
 姉妹達はお互いに争って生命の欠片を奪い合い、勝者を定めることを当然と考えている。だが、それに勝ち残ったところで、他の個性は全て失われるしかない。ローザミスティカは生命の源であって、心ではないからだ。
 自分はからっぽの白、器すら持っていない。だが、姉妹達のボディを集め、その心を確保すれば。
 自分はからっぽ。からっぽだからこそ、何色にも染まることができる。ときとして烈しく、愛しく、切なく、無垢で、気高く……
 ただひとつでなく、製作者の呻吟して生み出した全ての個性、つまり心と形を兼ね備え、時宜に応じてそれを着替えることができる。
 それこそが至高の少女ではないのか?
 ならば、それに成り得るのは、無機の器というしがらみを持たないがゆえに自由に器を乗り変われる自分しかいないではないか。
 それは──詰まるところ彼女自身の物理的な実体を持ちたいという欲求が先にあってこじつけた、論とも呼べない考えなのかもしれない。
 だが、雪華綺晶はそれを信じた。なにがしかの目的がなければ、彼女は自らの在りようを保つことさえ危うかった。

 視線をゆっくりと動かし、茨のひと揃いに目をとめる。
 そこは昨日の晩に焼かれたまま、灰色に薄汚れていた。

 不思議だった。
 タイミングこそシビアだったが、その分いつもより周到に夢を誘導した。そのために、水銀燈の媒介が最も好むだろう人形を、彼の記憶の中から選んで幻覚の中に配置したほどだ。
 案の定、最初の幻覚にするりと媒介を入り込ませることはできた。あとは、放っておいてもそこから媒介は自分で夢を紡いでゆく。今までそこに例外はなかった。
 水銀燈の心を確保するのも簡単だった。媒介の近くで倒れた水銀燈の心は全く無防備にnのフィールドを漂っていて、彼女はそれを茨の中に完全に封じてしまうことさえできた。
 いくらか誤算があったとすれば、媒介が蒼星石に水銀燈の身体を物質世界に持ち帰るように警告したことと、蒼星石が予期していたかのように機敏に脱出してしまったことくらいだった。
 だが、それは些細なことでもあった。心を確保していればボディは抜け殻に等しい。いずれ奪い取ることができる。
 そこまでは、何等の問題も起きなかった。全ては手はずどおり進んでいたはずだ。
 蹉跌が生じたのは何処だったのか。考えてみるが、分からない。
 確かなのは、媒介を雪華綺晶の領域に引っ張ろうとする前に、向こうから夢を破ってしまったことだ。それも、何かが切っ掛けで偶然見破られたというよりは、途中からずっと気付かれていたように思える。

 そこからは、彼女にしてみれば一方的な展開だった。
 力と言葉で媒介を誘導しようと試みたが媒介はそれに乗らず、あまつさえ戦い慣れた薔薇乙女なみに狡猾に自分の世界の構築物を使って彼女に反撃し、最後は恫喝で彼女を退けた。
 媒介の夢の中に配置しただけの人形が、夢が破れた後も確固たる存在のまま残り、自分に刃を向けたのも予想外の出来事だったし、自分が呆然としてここに戻る間に彼が水銀燈の心を封印から解き放ち、易々と物質世界に帰還してしまったのも慮外の痛恨事だった。
 もっとも、あのとき自分が水銀燈の心の傍で媒介を迎え撃ったとして、結果が変わったとは思えない。いや、圧倒的優位にあったのは彼だった。恐らく、自分は手もなく捻られて魂と生命──ローザミスティカ──を切り離され、こうして自分の領域に戻ることもなく永久に無意識の海を彷徨する魂のひとつになっていただろう。

 千歳一遇と言うべき好機を逃した。それは口惜しい。しかし、それだけではない。
 もっとぞくりとした、何か。肌が粟立つような感覚。それに、彼女は戸惑っていた。

 他の姉妹がその感覚を説明されたら、それを恐怖だと表現するかもしれない。
 同じ感覚を抱いた水銀燈なら、多分それが異質なものに対する本能的な嫌悪感だと理解するだろう。
 いずれにせよ、雪華綺晶は戸惑い、そして、既に存在しないものの影に萎縮していた。結果的には、そのことが彼女に大きな見落としをさせてしまうことになる。

 (この項終わり)



[19752] 書きにくいのかもしれない。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/19 23:13
早くも分量が減っております。
オリキャラ視点なんですが、やはり辛いか。

これ以降の時間帯、急用で書けそうもないので時間が早いですが投下して今日の分の〆と致します。

23:09 脱字のため意味不明の部分を添削。

***************************************************


 言った途端に、みんな凍りついたような表情になった。
 それだけじゃない。元々熱い視線じゃないのは分かってたけど、この視線の冷たさは何よ。北海道から一気に南極って感じだ。
 やっぱまずかったかなぁ……。

「……尋ねてもいいかしら」

 固まった中で一番先に動いたのは真紅だった。
「貴方の今までの話、水銀燈も同じことを知っているのでしょう」
 俺は頷いた。水銀燈は全部知っている。蒼星石が翠星石と戦うことになっても自分から心の壁を壊すことになっても、隙を見て一番弱っている誰かを倒してローザミスティカを奪うつもりなんだ。
 真紅は、そう、と頷いて俺を真っ直ぐ見詰めてきた。
「それでは、貴方が此処に居て私達に話をしていることはどうなのかしら」
「水銀燈には言ってないよ」
 案外、こっそり起き出して来たからまだ寝てるかも……
「でも、遅かれ早かれ気付くことになるでしょうね」
 う、確かに……。起きてたらとっくにばれてるかもしれない。水銀燈は俺の考えそうなことなんて全部読んでしまいそうな気がする。
「それは仕方のないことだけれど、貴方はそれでいいの?」
 ちょっと意外な一言だった。俺はまじまじと、片腕の無い金髪の女の子を見つめた。

「蒼星石の戦いを止めれば、水銀燈の目論見は実現しないのではなくて?」

「え……それは……」
 背筋を冷たい汗が流れるってこということを言うんだなきっと。
 なんでこんなに眼光鋭いんだこの子。眼の色や物の言い方は違うけど、ほんと水銀燈に良く似てる。
「どういうことですか真紅」
「少しは察しろよ」
 あ、今桜田に言われてむくれた翠星石に凄く親近感が湧いたような気がする。
 でもあれか。翠星石が気付かなかったのは蒼星石のことで頭がいっぱいだからかも。ちぇっ。
「水銀燈はお前たちの誰かが負けたら、ローザミスティカだっけ? ……それを奪うつもりだってこと」
 桜田もすごいなぁ。偏差値高いだけはある。でも、それをそっぽ向いてぶっきらぼーに言う辺りは……やっぱり桜田だな。
「た、確かに奴の考えそうなことですぅ……」
 翠星石はちらっと俺を見上げた。釣られるように雛苺もこっちを見上げる。小首を傾げてるのはなんでだ。
「そうなの?」
「うん、合ってる」
「わー!」
 雛苺はまんまるく目を見開いた。銀英伝の最終巻みたいに言うと両目と口で三つのOを作ったって感じ。
「真紅すごいのー! くんくん仕込みのパーフェクトな推理なのよー」
「いいからお前は黙ってこっち来い」
 桜田がひょいと手を伸ばして雛苺を抱き上げ、なんとも言えない雰囲気が周囲に漂った。

 いいタイミングで、かちゃ、と音がしたのは、真紅がティーカップを置いたからだ。音を立ててしまってちょっと口惜しそうな表情になったのは見なかったことにしてあげよう。
「貴方がやろうとしていることは水銀燈を不利にするかもしれない。それで良かったのかしら」
 真紅の視線を俺は受け止めた。
「良くなかったかもしれないけど」
 改めて言われるとちょっと迷うのは確かだ。でも。
「もう教えちゃったし、蒼星石には無事でいてほしいし……それに、なんか嫌な予感がするんだ。ローザミスティカをそんなふうにして手に入れたら、水銀燈になんか悪いことが起きる気がして」
 たっぷり一拍の間、真紅は俺の目を黙って見返していた。それから、ぱちぱちと二度ばかり瞬いて、視線を斜め下に逸らした。
「……そう」
 それはちょっぴり寂しそうで、でもなんか優しい感じのする顔だった。
 アンニュイっていうんでもなくて、なんかこう、見てるだけで切なくなってくるっていうか。
 あああああ、桜田お前関係ないほう向いてる場合じゃないだろ! なんかフォローしてやれよ! だっこするとか!
「──るのね……」
 真紅はそのまま、小さな声で呟いた。
「え?」
 よく聞こえない。なんなんだろう。
「貴方の行動が正しいか、正しくないかは分からないけれど」
 俺が目をぱちくりしている間に、こっちに向き直った真紅は、もう元の生真面目な表情に戻っていた。
「教えてくれてありがとう。想いは私達にも伝わったのだわ」
「ど、どういたしまして」
 なんとなく気圧されるような感じでぺこっと頭をさげたとき、がちゃりとドアの開く音がして、何か非常に美味そうな匂いとお姉さんの元気のいい声が流れ込んできた。

「さあ、みんなお昼ご飯よぅ。ジュン君のお友達もご一緒にどう?」
「あ、俺はその……」
「ごはんっ」
「ヒルメシですぅー」
「いただくのだわ」
 三人の子はそれぞれ嬉しそうな声を上げて、どたばたとてとてと部屋を出て行った。背丈がちょっと小さめだけど、普通にお腹を空かせたがきんちょって感じだ。さっきまで超シリアスな雰囲気だった真紅も、後姿だけ見ていると子供にしか思えない。
 どうしたもんか、と立ち上がると、桜田と目が合った。
「いいのかなぁ」
 桜田は困ったような顔つきになってポリポリと頭を掻いて、そっぽを向いて口を尖らせた。
「……食べてけば?」
 俺が素直にありがとうと言うのと、腹が鳴ったのは同時だった。
 桜田は口に手を当てた。実に厭な場面が俺の脳内にフラッシュバックする仕種だ。
 おいおいおい! これで吐くとかありえねーだろ……と思っていたら。
「ぷ、くくく」
 どうやら、俺の腹の虫は桜田の笑いのツボを刺激してしまったらしい。
 俺はふうっと溜息をついた。ハハハ、こやつめ。脅かしやがって。
「笑うなよ」
 そう言うか言わないうちにまたもうひとつ腹が鳴った。
 ああああ畜生。なんだこの間の悪さは。
 なんかますますツボにはまってしまったらしく背中を向けて笑いつづける桜田に続いて、やれやれと肩を竦めながら俺は部屋を出た。

 まあ、いいか。
 ほんとのことを言うと、なんかちょっぴり解放されたような気分もあるんだ。ここに来たのは同級生って立場じゃないけど、やっぱりこいつは俺の同級生だから。
 みんなによってたかって黒板に酷いこと書かれてゲロ吐いて顔見せなくなった桜田が、ここで腹抱えて笑ってる。
 月並みだけどそれがなんとなく嬉しい。
 水銀燈や蒼星石たちのことはもちろん大事だけど、それとは別の大事なものもあるんだよな。

 (つづく)



[19752] 漸く主役登場
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/21 22:57
今回は視点を擬似神視点としてみました。
段落ごとの各個視点みたいな感じになってしまったのはまだまだ修行が足りません。

一見ペースは下がってないようですが、内容見ていただいている方にはお分かりの通り、原作の展開をなぞっている部分が多いのでまだなんとも言えません。

しかし、原作最大の急展開というか、この結菱さん&蒼星石編、独自解釈入れつつ書いてもまだしっくり来ない部分です。
どっかに良い解釈サイトとかないですかね?

*******************************************


「じゃあ、みんなお夕飯までにちゃんと帰って来るのよぅ」
「わかったから早く行けっての」
 ジュンが口を尖らせるのを見て、のりはやっと踵を返した。
 ここは薔薇屋敷と呼ばれる高台の家。華族の出の一族が優雅に暮らしていたというが、昭和の中頃から急速に没落していき、今は見る影もない。とはいえ、広大な家と庭を手放さずに維持するだけの資産は残しているらしい。
 のりはもう一度振り返った。よく見る屋敷の姿にどこか違和感を感じたからだ。
 暫く考えて、あ、と彼女は思い出す。

──お庭の薔薇がお手入れされていたのね。荒れ放題だったのに……

 ジュンが急に薔薇屋敷に行くと言い始めたことについて、のりは詳しいことを知らない。三人のドールと、今日の昼前に尋ねてきたジュンの同級生という少年が関わっているらしいことは分かったが、それ以上踏み込むことはできなかった。
 自分は一歩退いたところから見ていた方がいい。
 自力で動く人形の真紅が家にやって来てからというもの、ジュンが不思議なことに巻き込まれているのは明らかなのだが、自分は彼が教えたがらないことまでは知りたがらない方がいいのだ、と彼女は割り切ることにした。
 真紅が来てから、ジュンは少しずつ明るくなっている。自分も可愛い小さな妹達を持ったようで、大変だけど楽しい毎日が過ごせている。
 今はそれでいい。いつか、教えてくれることもあるだろう。
「さあ、今日のお夕飯はみんなの分、腕によりをかけて作らなくちゃね。ジュンくん、久しぶりの遠出だもの」
 どんなときも、みんなが安心して帰る場所を作っておくのが自分の役目だ。
 暗い気分を振り払うように青い空にうんうんと頷いて、のりは坂を下っていった。


 現実世界ではのりが今夜の食材を買い足すためにスーパーマーケットに入った頃になるだろうか。
 蒼星石が用意した舞台で、一同は対峙していた。
 ある女性──蒼星石の契約者である結菱老人の過去に深く関わる人──の、心の木がそこにある。
 老人が蒼星石に命じたのは、その木を蒼星石の持つ庭師の鋏で切り刻むことだった。

 半世紀以上昔の話である。
 結菱老人には双子の弟が居た。二人は何をするにもお互いを必要とするような関係だったが、弟はある外人女性と恋に落ち、引き留める兄から逃げるようにして彼女の待つ海外に渡ろうとした。
 渡ろうとした、というのは、その途上で海難事故に遭い、船もろとも海の藻屑と消えてしまったからである。
 結菱老人(当時は未だ青年だったが)は突然のことに呆然とした。
 損傷が激しいものの、その船に乗り合わせた客の中に東洋人は一人だけ、ということで形ばかりの遺体確認に立ち会った彼の中で、何かが音を立てて崩れていった。
 こんなのはちがう。死んでいいはずがない。ならば目の前のこれは誰だ。誰の遺体だというのか。
 ……簡単なことだった。
 その場の人々に向かい、彼はとんでもない話を始めた。スキャンダルと言っていい内容だった。
「死んだのは、兄です。彼は僕の名前を騙って、船に乗りました──」
 その瞬間、彼は法的に死んだ。
 同時に、自分が手がけようとしていた一切の事業も失うことになった。家は傾き、彼の手元にはほとんど財産は残らなかった。
 だが、そんなことさえも彼には些細なことだったかもしれない。自らの半身と認めていた弟が、もう二度と戻ってこないのだから。

 弟の名前を使い、薔薇屋敷に逼塞しながら、老人は半世紀をずるずると生きてきた。消し残しの蝋燭が一本だけ点いているような人生だった。
 それが俄かに熱を持ったのは、ごく最近のことだった。
 弟が恋に落ち、死ぬことになった原因の女性が、生きていることをひょんなことから知ったのだ。
 老人は彼女を激しく憎んだ。弟と同じ船に乗り、同じように事故に遭い、同じく海の藻屑と消えたはずの女がいまだに生きて結婚をしていまや孫に囲まれた幸せな生活を送っている。
 許せるものではなかった。
 老人は双子のドールの螺子を巻き、そして、女性の心の木を腐らせ、刈らせることを命じた──。


 結菱老人の夢の世界。それが彼の執着対象である女性の心の木の場所まで広がっているのは、彼の執念の強さの故だろう。あるいは更に強く、女性の心の木をこの場に現出させるほどの頑強な妄執なのかもしれない。
 どちらにしても、今の翠星石には無関係だった。
 蒼星石に心の木を傷つけさせるわけにはいかない。それは人を直接手にかけるのと同じだから。
 誰にもそんなことは許されない。まして、こんなことで蒼星石の手を汚させるわけにはいかないのだ。
「今日は君と存分に戦えると思ったのに……」
 蒼星石はシニカルな笑顔で言った。
「木を背にしてもまだ如雨露を持ち出さないんだね、翠星石」
 翠星石は顔を上げた。既に二度ばかり蒼星石に跳ね飛ばされていて、木にぶつかった背中と腕がずきずき痛む。
 でも大丈夫。まだ、泣いていない。まだ自分はがんばれる。
 だが、彼女の目の前の双子の妹はあくまで冷徹だった。
「君が無抵抗を貫くなら僕にとっては好都合だ。心の木を切り倒す前に君も倒してしまおうか」
「蒼星石、貴女は──」
「真紅」
 翠星石は真紅の言葉を遮った。
「これは……私達の戦い……ですなの。真紅たちは見守っていてくださいです」
「うぃー……で、でも」
 雛苺が翠星石と真紅を見比べ、真紅は一拍置いてから返事をした。
「わかったわ。でもローザミスティカを奪われそうになったら、その時は否応無く手を出させてもらうわよ」
 それは目の前に見えている蒼星石でなく、姿を現していない水銀燈かもしれない。真紅は言外にそう含めていた。
「……はいです」
 翠星石の人工精霊が、彼女の得物──庭師の如雨露を召喚した。
「一人は怖いです……けど、頑張るですよ」

「翠星石……」
 少し離れたところで、水銀燈の契約者である少年は無念そうな声を上げた。
「それでいいのかよ……ってぐるぐる巻きじゃ俺にはどうしょーもないけどね!」
 ジュンよりちょうど頭ひとつ大きい少年は雛苺の苺わだちで縛り上げられていた。
「ジュンの言いつけなの」
 雛苺は申し訳なさそうに言った。
 のりに言われるまま桜田家で昼食をご馳走になった少年は、そのままこの場所に連れてこられていた。要は水銀燈が来襲したときの人質のようなものらしい。
 水銀燈は契約者に限らず、その場の人間を媒介として力を得ることはできる。しかし契約した者の方が力を使いやすい。放っておけば水銀燈が彼を伴って来襲することも十分考えられる。
 同じなら手元で拘束しておいたほうがいい、というわけだ。
「ヒナは真紅のけらいで、ジュンは真紅のマスターだから、言うこと聞かなきゃなの。ごめんね」
「この状態で頭なでなでしてもらってもあんま嬉しくない……」
「うゆ……」
 雛苺にしてみれば、可哀想だな、と思う。何か出がけにジュンと真紅がひそひそ話をして、どうしたんだろうと思ってそっちに行ったらジュンが怖い顔をして雛苺に命令したのだ。戦いが始まったら縛り上げろ、と。
 悪いことしたわけじゃないのに縛るの? と聞いたら、悪いことをするかもしれないから縛るのだとか。よく分からない理由だったが、真面目なときの真紅とジュンの命令は絶対だった。
 すっかりアヒル口になってしまった少年に、雛苺はごめんねと謝った。あとでマポロチョコくらいは分けてあげてもいいと思う。
 ジュンがその様子をじろっと見遣った。
「頭まで巻いてもらったほうがいいか?」
「いえ、結構です」
 少年は即答した。

 鋏を構えて翠星石に突き進んだ蒼星石は、視界をいきなり如雨露の起こした霧で塞がれ、一瞬たじろいだところを心の木の枝で突き飛ばされた。翠星石の力は場所が限定されるものの、弱弱しいものとは到底言えなかった。
「やる気になってくれたみたいだね、嬉しいよ」
 体勢を立て直し、蒼星石は不敵に笑った。今の攻撃で頬が傷付いてしまったが、痛みは気にならない。
 自分には契約者がついているが、それは相手も同じだ。更に、翠星石には手負いと能力を制限されたコンビとはいえ真紅と雛苺がついている。相変わらず状況は有利とは言えなかった。
 しかし、だからこそ克ちたかった。
 昨晩、今後のことを僅かに見せられたうえで水銀燈の契約者と話したことを思い出す。
 なにが起きるか見えてしまったのになお自分の気持ちを貫くのか、と彼は尋ねてきた。
 彼に曖昧な一言で返したのは、自分の気持ちがはっきりと言葉にできるところまで行っていなかったからだ。
 今なら言える。これは自分が「双子の庭師の片割れ」でない、自分自身になるための戦いなのだと。
 確かにここで死ぬかもしれない。自分のローザミスティカは誰かに奪われるかもしれない。だが、そんなことは些細なことだった。ここから何度契約者を代えて生き続けても、双子の片割れのままでは何も変わらない。
 その思いの強さが、どこか迷いのあるような翠星石の防禦を掻い潜った。何度か弾かれ、防がれながらも、蒼星石は霧を抜け、翠星石の間近に飛び込んだ。
「僕は君を断ち切る、翠星石。僕が、僕自身になるために」
 金属質な音を立てて鋏が半開きにされる。蒼星石がそれを僅かに引き、突きの姿勢に入ろうとした瞬間、翠星石は心の木を後ろに庇ったまま、結菱老人を睨み付けるようにして叫んだ。
「思い出すです陰険おじじ! おじじの望みはこんなことなんですか? 蒼星石も分かってるはずです、おじじが本当は何をしたいのか!」
 一瞬の間があって、空間は酷い振動に見舞われた。

「地震!?」
「違うわ、これは」
 この空間が、記憶自体が揺さぶられているのだ、と真紅は気付いた。
 老人が何かを思い出そうとしている。恐らく──
「本当の願いに関わる何か、なのね」
 振動の中で真紅は水銀燈の媒介の少年の方をちらりと見遣った。苺わだちに絡めとられたまま、雛苺と一緒になって無様に目を回しながら揺さぶられている。まだ水銀燈の気配はなかった。
「いつ仕掛けてくるの……」
 必ず来る、という確信はある。媒介ですらあれだけのことを知っていたのだ。水銀燈自身が把握している情報はもっと正確なのだろう。それを利用して、最も効果的な瞬間を狙ってやってくるに違いない。
 しかし、何時なのか、何処からになるかは分からない。そのときに自分は皆を守れるだろうか?
 右腕が無いからといって薔薇の花弁を操る技には関係ない。しかし、幾分軽くなったバランスの悪い身体でどこまで俊敏な行動が起こせるか自信がなかった。

──ジュン。もしかしたら、ここでアリスゲームは終わってしまうかもしれない。

 もちろん、その結末が自分の思い描いていたものでないことは間違いない。勝者はこの場に姿を見せている誰でもない。
 それは絶望に近い感覚だった。傍らの眼鏡の少年に縋り付きたい気分を断ち切るように、真紅は翠星石たちの方を見つめた。彼女が弱気を見せていいのは、ジュンと二人になったときだけだ。


「思い……出した」
 振動の中心で車椅子に乗ったまま頭を抱えていた老人は、ぼそりと呟いた。
「私は彼女を」

──好きだったのだ。

 記憶がつながった瞬間、振動は嘘のように止まった。

 弟と老人は似すぎるほど似ていた。何をするにも常に一緒だった。二人は当然のように同じ一人の女性に恋をした。
 皮肉にも、そのことが弟が兄から離れてゆくきっかけになった。
 弟のほうが人間として正直だったのかもしれない。彼は女性の心をつかみ、兄弟でやってきた事業も財も捨て、駆け落ち同然で女性の故郷へと旅立ち、その途上で死んだ。
 老人が弟の名前を名乗った理由は、弟を失った喪失感だけではなかった。

 ──何故自分は愛されなかったのか。どうして弟なのか。自分と弟は二人で一人、同じ半身のはずなのに。何故なのだ。理不尽だ。
 ──そうだ、死んでいいのは恋に破れた双子の兄なのだ。弟になることで、自分は女性を勝ち取ったことになる。愛されたのは、自分ということになる。

 病的、倒錯も甚だしい心境と言えるかもしれない。それは老人もどこかで理解していた。そして、そのような思考をした自分を認めたくなかった。
 だから、いつのまにか記憶の中で綺麗な話に摩り替えてしまっていたのだ。
 女性を殺したいほど憎むのも道理だったかもしれない。彼女の存在自体が、自分の一番触れたくない汚い部分にざらりと障るサンドペーパーのようなものなのだから。

「ようやく、分かった」
 顔を手で覆ったまま、老人は搾り出すように言った。
「私が殺してしまいたかったのは、彼女でも弟でもない──」
 弟の名前を借り、自分の心を繋ぎとめている、自分自身の影だったのだ。

 蒼星石は心の木の前から老人のもとに歩み寄った。
 自分でも驚くほど、気持ちの角が丸くなっている。何かずっしりと心にのしかかっていた重石のようなものが嘘のように消えていた。
「マスター……やはり、それが貴方の本当の望みなんだね」
 車椅子の上で、老人の姿は哀れなほど小さく見える。恐らく、自分もそうなのだろう。
 蒼星石は独り言のように呟いた。
「僕も同じだ。半身なんかじゃない、本当の自分自身になりたくて」
 ずっと永いこと、もがいて、あがいて。
「そして気が付けば、自分自身の影にがんじがらめに縛られている」
 いや、それを気付いてもなお、自分はその欲求を満たすことも解消することもできずにいた。
「だからきっと、僕は貴方の願いを叶えてあげたかったんだ。そうすれば自分もこの迷路から抜け出せるような気がして」
 力なく提げていた鋏を持ち直す。
 認めたくなくて言わずにいたことを口に出してしまったせいか、不思議なほど心が軽かった。
 とん、と宙に舞う。

「だめえっ、蒼星石!」
 如雨露を抱えたままの翠星石は慌てて立ち上がった。
「蒼星石!」
 真紅は目を見開き、蒼星石の方に飛び出した。間に合わないことは分かっているが、見過ごすことはできない。
 周囲の声が聞こえないかのように、蒼星石は鋏をふりかぶった。

「それで貴方が解き放たれるなら、僕は──」

 瞬間、彼等の目の前に黒い羽毛が舞った。
 横合いから突進してきた黒と銀の何かが、蒼星石を突き飛ばすようにして彼女の動きを止めた。

「かっこつけタイムは終了よ、自殺志願のお馬鹿さぁん」
 突然の奇襲に倒れこんだ蒼星石を抱き起こしながら、彼女を突き飛ばした張本人──水銀燈は囁いた。
「生憎だけど、貴女にはもう少しやってもらいたいことがあるのよ」
 そこで周囲を見回す。僅かな差で間に合わず、目の前のことに呆然と立ち尽くしている真紅を見つけ、にやりと笑いかけた。
「わざわざうちの媒介を運び込んでもらって悪かったわね、真紅。お陰で間に合ったわぁ」

 (つづく)



[19752] 一週間ぶり。120行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/27 17:00
暫く纏まった時間が取れませんで、書かないでおりました。
さて、今回は120行ほどです。

相変わらず原作無いとわけわかめですね。
内容読んでいただいてる方には申し訳ない。


*******************************************

「どうしたわけ? 揃いも揃ってお間抜けな顔しちゃってぇ。私がここに来ることは知っていたでしょうに」
 蒼星石を抱き寄せながら水銀燈は微笑んだ。
 真紅ははっと我に返り、急いで周囲を確認した。庭師の鋏はさきほどの衝突で蒼星石の手から離れ、少し向こうに転がっている。翠星石は二人を挟んで鋏の逆側にいた。
 雛苺は言いつけどおり水銀燈の契約者を拘束していて、すぐにはこちらに来れそうもない位置に居る。
 ジュンは慌てたようにこちらに急いでいるが、まだ遠い。
 蒼星石を人質に取られたような状態だった。

「水銀燈……」
 蒼星石は困惑していた。水銀燈の両腕は蒼星石の背中に回され、黒い羽と両方で彼女を抱きすくめている。
「邪魔しないでくれ。僕は……」
「聞こえなかった? 貴女にやってもらいたいことがあるの」
「僕を止めない方が君のゲームは有利になるはずだろう」
 結菱老人の心の影を壊すことは、蒼星石にとってそのまま自分の心を壊すことと同義だった。そうなれば結菱老人の心は救われるが、彼女はローザミスティカを失って物言わぬ人形になる。
 水銀燈はそのローザミスティカを奪えばいい。少なくとも、蒼星石が『見た』未来ではそういう筋書きになっていたはずだ。
 それでも蒼星石は、他の選択肢を取らなかった。彼女なりの意地のようなものもあったし、何より結菱老人のために心の影を壊したかった。
 水銀燈は意外そうな顔をした。
「あら、まさか本当に契約者の心の影とやらに体当たりして自殺するつもりだったの? ゲームを放棄してまで、たかが媒介ひとりのためにそこまでするぅ?」
 からかうような声に、蒼星石は俯いて唇を噛んだ。
「僕には僕の価値観がある」
「そうね。私には理解できないけど。美しくないもの、お父様の意思に逆らって、僅かな時間を共にするだけの媒介のために死ぬなんて」
 それは耳に痛い言葉だった。父の望みどおり究極の少女になることが彼女達の目的だったはずなのだから。
 しかし、そう言いながらきゅっと力を込める水銀燈の腕や、身体をきつく取り巻いている黒い羽にふと懐かしいような温かみを感じてしまうのは、蒼星石の錯覚だろうか。
「君だって人のことは言えないじゃないか、マスターの──」
「とにかく、貴女にやってもらいたいことがあるの。勝手に自殺されちゃ困るのよ」
 水銀燈は急に早口になって蒼星石の言葉を遮った。
 普段なら、蒼星石は水銀燈の顔に僅かばかりの焦りか照れのようなものを見出したかもしれない。しかし、今の蒼星石にそこまでの余裕はなかった。
「僕が易々と君に従うとでも……?」
「あら怖い目。でも、この体勢でそんな反抗的な口を利いても説得力ないわよ?」
「く……」
 蒼星石は絶句した。
 水銀燈は自分を固く抱きすくめていて、容易に動けない。華奢な水銀燈がしているからそうは見えないだけで、鯖折りやベアハッグに近いような按配だった。
 そのうえ黒い翼までが身体を包んでいる。その羽は何かあれば即座に自分を切り刻める。得物のない自分の不利ははっきりしていた。
 だが、言葉に詰まったのは有利不利のためではない。
 傍から見れば、熱烈に抱きつかれて親しげに囁き交わしているような姿勢だったからだ。しかも、自分自身どこかでこの状態に安心感さえ抱いている。
 そんな蒼星石の混乱を見透かしているように水銀燈は目を閉じ、くすくすと笑う。珍しく、全く険のない笑顔だった。
「分かったら落ち着いてこれからの身の振り方でもお考えなさいな」
 口を蒼星石の耳元に寄せ、相変わらずからかうような口調で囁く。
「これから……?」
「そうよ。
 契約者の望みを叶えるために命を懸けました、なんて格好付けじゃなくてね。
 じっくりお考えなさい。生きている貴女がその死にかけの老人にしてあげられることは何なのか。
 死んでしまったらそこの薔薇園も、老人の心の木も手入れをする人が居なくなるのよ。庭師の仕事は契約が終わるまで続くのではなくて?」
 蒼星石は色の違う両目を大きく見開いた。
「水銀燈……」
 暫くそのまま水銀燈の閉じた目を見つめていたが、やがて視線を逸らすと首を振った。
「……頭を冷やして、よく考えてみるよ」
 まだ、ありがとう、と素直には言えなかった。
「そうなさいな、不器用な庭師さん」
 水銀燈は目を開き、蒼星石の拘束を解いてぽんと軽く肩を押し、数歩分後ろに飛びのいた。
 ぐらりとよろめく蒼星石を駆け寄ってきた翠星石が抱きとめ、安堵したのか堰を切ったように泣き始める。黒い羽が数枚、二人の周りを舞っていた。

「真紅」
 名前を呼ばれて振り返ると、ジュンが傍らにいた。
「あいつ……なんで蒼星石を助けたんだ?」
「分からないわ」
 ただ、真紅も呆然と成り行きを見ていたわけではない。蒼星石と水銀燈の会話は小声過ぎて全ては聴き取れなかったが、蒼星石を水銀燈が説き伏せたのは見て取れた。
 水銀燈の媒介が言っていた言葉を思い出す。

 ──心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。

 水銀燈は同じことを別の言葉で伝えたのだろう。
「どういう風の吹き回しなんだよ。それともアイツが嘘ついてたのか?」
 ジュンは雛苺が頑張って引き摺って連れてこようとしている少年を指差した。
 水銀燈がこの場で敗れた者──または蒼星石──のローザミスティカの横取りを狙っていると言ったのは他ならぬ彼なのだ。
 蒼星石を助けてしまったら、ローザミスティカは手に入らない。水銀燈の行動は腑に落ちないものだった。
「彼が嘘をつく意味はないわ。何の得にもならないもの」
 水銀燈のほうに、何か行動を変えるような判断の変化があったのだろう、と真紅は思った。その原因まではわからないが。
「今は水銀燈の行動に感謝しましょう。少し不本意だけれど」
「……」
 ジュンは不決断に黙っていたが、水銀燈をちらりと見遣ると真紅を抱き上げた。
「ジュン?」
「やっぱり僕はあいつを信用できない」
 ジュンは自分の体で真紅を庇うような姿勢になった。
「お前の腕をもぎ取って、一度は一緒に組んだ蒼星石を裏切ったりした奴じゃないか。か……感謝なんてできるもんか」
 真紅の右腕の付け根を自分の胸に押し付けるように抱き締めて、ジュンは水銀燈を睨みつけた。
「……ジュン」
 ジュンの鼓動と自分への想いを感じながら、真紅はふと、その中にかすかな危うさのようなものも感じ取っていた。

「丸々全部聞こえてるわよ。おばかさん」
 水銀燈はジュンのほうを向き、やれやれと肩を竦めた。
「ま、感謝なんて興味ないし、筋違いもいいところだけど……メイメイ」
 呼ばれて、銀色の人工精霊はするりと彼女の脇に控えると、心得たとばかり何かを召喚した。
 水銀燈の背丈の半分ほどもある両手剣だった。それを、水銀燈は無造作に放り投げた。
 唐突な行動に身構える真紅とジュンの脇を抜けて、両手剣は雛苺の引き摺っている苺わだちを両断した。
「わぷっ」
「のわぁ」
 突然のことに何がなんだかわからずに雛苺は前のめりに倒れ、苺わだちで曳かれていた水銀燈の媒介の少年はわだちでぐるぐるに縛り上げられたまま放り出され、両手剣の近くまで転がっていった。
「おはよう、人間。一晩で随分働き者になったようね」
 水銀燈は少年に若干笑いを含んだ声を掛けた。
「お、おはよってもう昼過ぎだぜ」
「定番の口答えね。それにしても、想像してはいたけど無様ねぇ」
「う……ごめん。でもなんだこの剣。こんなの持ってたの?」
 少年は不審そうに両手剣を眺めた。人間が使うには柄が細い片手剣というところか。いずれにしろ、蒼星石の鋏並に物騒な意匠の得物だった。
 水銀燈は何故か僅かに落胆したような表情になった。
「それは貴方の得物よ。どうやら忘れてしまったようだけど」
「俺の?」
 少年は芋虫のように身体を捻りながら首を傾げて見せた。全く思い至るフシが無いと言いたそうな声に、水銀燈はやや不満そうに腕を組んだ。
「ええそう。好きなように使ってとっととこっちに来なさい」
「でもどうやって使うんだか……手は縛られてるし」
 少年がぶつぶつ言いながら首を捻っていると、両手剣はひとりでに動いて苺わだちと彼の身体の間に入り込み、わだちをすぱりと切断してその場に落ちた。
「勝手に動いたの……」
 雛苺はびっくりして目をぱちくりした。少年本人も呆気に取られた表情をしている。
「なんだこれ、考えただけで切れた」
「全自動なんて便利ね。予想外だわ」
 情けない声を上げる少年が滑稽に見えたのか、水銀燈はくすくす笑ったが、すぐにそれを引っ込め、早く来なさいと少し強い調子で言った。
「勝手に抜け駆けするような媒介にはお仕置きしなくちゃね」
 少年は一瞬びくりと強張ったが、こわごわと剣を拾い上げる。

「うゅ……」
 雛苺は少年とジュンを交互に見遣った。もう縛らなくてもいいよね? という視線なのだが、ジュンは水銀燈と少年に向かって身構えていて、雛苺のほうを向いている余裕は無さそうだった。
「そんなに怖い顔しなくたっていいのよ」
 こっちを向きもしないで水銀燈の出方を窺っているジュンに、雛苺は聞こえないくらいの声で呟いて口を尖らせる。ちょっとだけ不満だった。

 この少年は怖くない。それに嘘もついていない。
 なんとなくそれが分かったから、雛苺は最初から怖がらずにお話することができたし、人見知りの翠星石もすぐに馴染めた(と、雛苺は思っている)。
 怖くなく正直者というのは、裏を返せば他人に言われるまま主体性なく、あるいは刹那的に行動していて何も考えていないだけなのかもしれない。
 もっとも雛苺はそこまで細かく考察しているわけではなかった。あくまでも怖くないと思っているだけだ。

 少年が雛苺の方を向き、ごめんな、と片手で拝むようなしぐさをして、水銀燈に向かって小走りに駈けて行く。さっき雛苺を転ばしてしまったことを謝ったつもりらしい。
「ジュンも真紅も命令しないから、ヒナ縛らなかったのよ?」
 にこにこして手を振ってから、「いいの?」と言うようにもじもじふらふらと漂っているベリーベルに雛苺は言い訳をした。



[19752] ほのぼのと。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/07/31 00:13
今回は行数は多いですが分量はいつも並です。

うーん、なかなかまとまって時間取れないので間隔が開いてますが、一日毎のペースでは1~9投稿目とあまり変わってないですね。
オリ主物は実は大して書きやすくないのか?

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「これがヤツの遺留品の山ですか……」
 翠星石は顎に手を当てて首を傾げ、買い物袋をじろじろと見比べた。
「小さいのが一つ、薄ぃーのが一つ、そして大きいけど軽そうなのが一つ……むむむ」
「中身は何かしらね」
 真紅はそう言うもののあまり興味なさげに、ジュンの膝の上に陣取って本を開いている。右腕の代わりにジュンがページをめくっていた。
「スリルでサスペンスなのー」
 雛苺は開けたくてしょうがないと言いたげに、紙でできた買い物袋をつついてみている。
「迂闊に突付くなですチビ苺!」
「うょ?」
 思わず一歩下がった雛苺の耳元に手を当て、翠星石はヒソヒソ囁く。
「ヤツにとってここは紛れもない敵地……午前中、ヤツは相当の覚悟をキメて乗り込んで来たに違いねえです。
 自分が殺されたときはこの家の全員道連れにする!
 まさに決死の潜入! です」
「ふぇ!?」
「いや、あいつ玄関から入ってきたし、思いっきりリラックスしてただろ。いきなりお前と取っ組み合ってたし」
「つまりこの中身は」
 翠星石はキッと買い物袋を指差し、睨みつけた。
「な、中身は……?」

「ずばり爆弾です……!」

「キャー!!」
「ない、ないから!」
 ジュンは空いている左手をぶんぶん振って、妄想街道を突っ走りはじめそうな翠星石を止めた。



 薔薇屋敷全体と契約者三人、薔薇乙女五人を異空間に巻き込んでの大立ち回りは、現実の時間では十分にも満たないものだった。
 水銀燈は自分の媒介の少年を羽根で突付きながらnのフィールドから去り、ジュンは現実世界の屋敷で紅茶をご馳走になった後、ドール三人を連れて帰途についた。
 帰る道すがら、結局何も起きなかったようなものですぅ、と翠星石は軽口を叩いたが、桜田家に帰ってみるとちょっとした騒動のタネが出現していた。
「ジュン君たちが帰ってくる前にお電話があったのぅ、女の子から」
 のりは困ったような顔をしていた。
「うちのバイカイからドールたちへのプレゼントらしいわよ、適当に開けちゃってねって。バイカイって何かわからないから聞き返したんだけど、すぐに切られちゃって……」
 そう言ってのりが示したのは、客間のテーブルに置かれたままになっている、少年が薔薇屋敷に行く前に渡し損ねていた手土産だった。

「このままでは埒が明かないわね。ジュン、包みを開けて頂戴」
「お前達宛ての荷物だろ? 自分で開けろよな」
 口ではぶつぶつ言いながらも、ジュンは真紅を膝に乗せたまま、小さな包みを買い物袋から取り出してナイフで丁寧にセロハンテープを切り、包装紙を開いた。
「ご本なの」
「随分小さなペーパーバックね」
「文庫本って言うんですよ。この国ではありふれたサイズです」
 ジュンが広げた包装紙の上に、翠星石が一冊ずつ本を並べた。真紅は題名を眺めて首をひねった。
「どれも随分個性的な題名なのだわ。どんな本なのかしら」
「SFだろ」
 ジュンはあまり関心なさそうに題名を眺めた。
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『人間の手がまだ触れない』『時間外世界』……
 知っている題名はあったが、読んだことのあるものはなかった。
「きっとこれは私かジュンに読んで欲しいということね。SFというのは読んだことがないけれど」
「『ドールにプレゼント』って言ったんだから、対象はお前だろ」
 少しだけ面白くないようにジュンは言い、今度は薄めの包みを開いた。
「これは翠星石向きのようね」
 真紅は思わず微笑んだ。
 翠星石は料理をのりから教わっているのだが、のりがいないときに火を使ってはいけないと釘を刺されている。「レンジでできるお料理入門」という題名のその本は、今の翠星石にはぴったりだった。
「翠星石おめでとうなのー」
 雛苺がふらつきながら一生懸命差し出す大判の料理本を、翠星石はぶすっとした顔で受け取った。
「ま、まあ貰ってやらんこともないです。翠星石は寛大ですからね」
 こんなもので懐柔されるほど安くもないですけどね、と言う口調は、しかし満更でもなさそうだった。
「最後のこれは……?」
 どういうわけか一番大きな包みだけは綺麗にリボンが掛っている。ジュンは気をつけてそれを外し、包装を解いた。
 覗き込んでいた雛苺の顔がぱっと明るくなる。
「お人形なのー!」
 ごく薄い透明プラのケースの中に、十センチを少し上回るほどの人形が七体入っている。だいぶ時期を過ぎてしまったアニメのキャラクター人形だった。
 実はワゴンセールで千九百円の値札が付いた在庫処分品だったのだが、そのことは買った当人しか知らない。
「ヒナだよねっ、ねっ」
 雛苺は飛び跳ねながらみんなの顔を見回した。
「なーんか一人だけ沢山ですけど……しゃーねーです。確かにチビチビが喜びそうな大きさですし」
 翠星石も雛苺が寝転がって遊んでいる人形のサイズを思い出していた。
 落書き用の画用紙やぬいぐるみなどは思い切り大きなものが好みの癖に、おままごとに使う人形は小さなものが好きなのだ。
「そうね、雛苺の好きなサイズだわ」
 言いながら、ふと真紅は首を傾げた。何か引っかかることがあるような気がする。

 五インチ=約十二分の一というサイズは、丁度標準的なドールハウス用人形の大きさだった。その大きさの人形で遊ぶことに雛苺は慣れていた。以前、雛苺が幼い少女と契約していたとき、その少女が雛苺と遊ぶときによくドールハウスを持ち出していたからだ。
 コリンヌ・フォッセーという名のその少女との暮らしは、雛苺に多大な影響を与えていた。それは雛苺本人も気付かないほど深く心に入り込んでいる。

 だが、そこまでは翠星石も真紅も知らない。知っていたら何かに気付いたかもしれないが、二人ともこのときはそこまでの推理やら憶測を巡らせることはなかった。
 ジュンが唐突に口を開いたからだ。
「雛苺」
「うぃ?」
 歓声を上げていた雛苺は、ジュンの声に訝しげに振り向いた。少しばかり思いつめたような言い方だった。
「これ、一旦僕が預かっていいか」
 その言葉に真紅と翠星石もジュンの顔を覗き込む。ジュンは先ほどまでの仏頂面を止めて、無闇に真剣な顔つきになっていた。
「ど、どうしたですかジュン、そんなに人形が気に入ったですか?」
 翠星石の言葉にジュンははっと顔を上げた。そして何故か頬を赤くしてしどろもどろに、いや全部じゃなくて半分でいいとか、雛苺の人形を取り上げてしまうつもりはないというようなことを言い訳した。
「ジュンが欲しいなら、全部ジュンに上げてもいーよ」
 雛苺はにこにこして答えた。
「ジュンの机の上に飾ってあっても、ヒナも見れるもん」
 手にとって遊べないのはちょっぴり悲しいけど、本棚や机の上に飾ってある人形たちの仲間が増えるのは雛苺にとっても嬉しいことだった。最近はそういった人形の埃を払ってあげたり、あちこちいろんな角度から見つめて意外な表情を見つけたりするのも楽しくなっている。
「……そうじゃない」
 ジュンはどういうわけかますます顔を赤くしていた。
「と、とにかく……これとこれとこれ! あとこれ……だけ、暫く、僕が、預かっとく、からな!」
 言いながら、物凄い勢いで人形をプラケースから出して抱え込んでしまう。勢いに押されて雛苺はただあいあいと頷くしかなかった。

 客間からジュンの部屋に移動してもジュンは人形をどこかに並べたりはせず、机の上に置いてパソコンを弄りだした。
 恒例の「ジュンのぼり」もすげなく断られた雛苺は、運んできたプラケースを覗き込んだ。
「うーと、残ったのは紺色と、黄色と、紫……?」
 プラケースの中には三体だけが残されていた。それを取り出して雛苺はためつすがめつしていたが、やがて何かを思いついたように叫んだ。
「あ、この紺色の子、銀髪でちょっと水銀燈に似てるのー!」
「ほえっ? な、なんてこと言いやがるですか縁起でもない」
 料理の本を広げようとしていた翠星石はびくっとして振り向き、胡散臭そうに雛苺の持っている人形に視線を向けた。
 何故か机に向かったジュンもびくりとしていたが、翠星石の視界には入らなかった。
「そう言われてみれば多少は似てなくもないですけど……銀髪って言ってもかなり白っぽいですし」
 プラケースを眺めて首を傾げ、にやりと笑って残った人形の片方を取り出した。
「それを言うならこの人形のほうが。……黄色い服に緑の髪で、どっかの誰かさんに似てるですよ」
「ほんとだー! かなりあに似てるの!」
「『水銀燈どこかしらー』」
 翠星石が黄色い人形にコミカルなポーズを取らせ、彼女達の姉妹の一人、金糸雀の口真似をさせる。雛苺はぷっと吹き出して、手に持った銀髪の人形で黄色い人形を小突いた。
「『痛いかしらー』『ふん、おばかさぁん』」
「翠星石、物真似上手なの」
「ふっ、口真似なんぞちょろいもんです。『くらうかしら! カナのおとっとき』『何よそれぇ。全然当たらないわよぉ』」
「あは、あはははは! 似てるー」

「……騒々しいわね」
 部屋の隅で人工精霊に苦労して文庫本のページをめくらせていた真紅は、呆れたように溜息をついた。栞を挟んで雛苺の隣に歩いていくと、二人がはしゃいで振り回している人形を見遣る。
「……似ているというほどではないのだわ。色遣いだけね」
 二人に聞こえない程度の声で呟くと、ケースの中に残った最後の一体を見て何かを思い出そうとするように唇に指を当てていたが、何かに得心したように頷くと、懐から時計を出して蓋を開いた。
「あら、もう二十一時を回っているわ」
 少し大きな声で言う。二人がこちらを向いて部屋の壁掛け時計を見上げているのを見遣り、ややオーバーなアクションで、そろそろ寝なくてはね、と言って蓋を閉じた。
「そうですねぇ……とっとと片付けて寝ちまいますか」
「うぃー」
 時刻が二十一時を回っているのは嘘ではなかった。三人は散らかした小物を仕舞うと、ジュンにおやすみを言ってそれぞれ鞄の中に入った。

「……やっと寝たか……」
 ジュンは念のため振り返り、鞄が三つとも閉じられているのを確認して机の上の人形を一列に横たえた。
 赤、ピンク、緑、青。服装自体はほとんど似ていないが、どことなく自分の周囲のドールたちの雰囲気がある。
 水銀燈が見たら、馬鹿じゃないの、と苦笑するか微笑するに違いない。それは、彼女と彼女の媒介が一週間でどうやら二十六話分を見終えた例のアニメのキャラクターグッズだった。
 薔薇乙女とは比較にならない、大量生産品のちいさなドール。それを見ていてジュンは何気なく思いついたのだ。

──こいつらそっくりの服を着せて、改めてそれぞれにプレゼントしてやろう。

 水銀燈の媒介である少年には、彼のプレゼントを勝手にいじってしまって悪いような気もする。だがそこは、自分への当て付けのようにプレゼントを持ってきたのはそっちなんだ、という言い分で開き直ることにした。
 初対面のくせに──自分はそうではないけれども、ドールたちとは初対面だ──なにか手土産を持って来るということ自体、どことなく胡散臭い。なら、こっちはこっちで使ってやったって別にいいだろう。そんな気分もあるにはあった。
「まず真紅からかな……一晩でどこまでやれるかな」
 ひとりごちて、裁縫道具を引出しからそっと取り出す。
「布地、あったかな……」
 色味の似た赤い布を探していると、ことん、と目の前に紺色の人形が置かれた。
「うわっ」
「あら、失礼ね。大声を立てるものではないわ」
 真紅がいつのまにか机の脇まで来ていた。
「お前、寝たんじゃなかったのかよ」
「眠れなくて起きてしまったわ、何をしているの?」
 だいたい分かっていると言いたげな口調で、真紅は机の上を見つめている。ジュンは赤くなった。
「この子達に良い衣装を作ってあげようとしていたのでしょう、恥ずかしがることはないわ」
 でも内緒にしておきたかったのね、と真紅は微笑んだ。
「もう、お前にばれちゃったけどな」
 ジュンは真っ赤になってそっぽを向いた。
「……す、翠星石たちには言うなよ」
「誰にも言わないわ、でも一つお願いがあるの」
 真紅はもうひとつ、黄色い人形もジュンの目の前に置いた。
「この子達二人にも、服を作ってあげてくれないかしら」
 それが口止め料よ、約束したら私も誰にも言わないという約束を守るわ、と真紅は微笑み、抱っこしてちょうだいと片手をジュンに伸ばした。
「……うん」
 ジュンは真紅を膝の上に座らせると、表情を引き締めて作業を始めた。



[19752] 酷暑のためペースダウン。。。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/03 12:25
今回は暑さに悩まされ申した。
クーラー無い地獄の中で書いてるため、はっきり言って頭が回りません。
季節だけを2ヶ月進めたい。まじで。

8/3 12:25くらい
最後のあたり、説明不足であまりにもわけわからん部分を校正。

****************************


「あれ……ここはどこです……?」
 無数の扉が浮いている空間に翠星石はぽつんと立っていた。
「あれは夢の扉」
 そうですか、と合点して小さく頷く。ここは人々の夢と夢の狭間、人々の夢が混在して在るところ。
 それが分かると、ちょっとした悪戯心が湧いてくる。
「折角だからチビチビの夢でも覗いてやりますかねぇ」
 彼女がこうしたところに迷い込むのは初めてではない。夢の庭師としての力がそうさせるのか、まどろんだときにごく近しい人の夢の扉がある場所に出てしまうことは何度かあった。
 開けてみなければ誰の夢の扉かは分からないが、今まで開けた扉は全て、精神的にも物理的にも近い位置にいる人の夢に続くものだった。恐らく自分にとって近しい人の扉ほど近く、遠くに行けば行くほど縁遠い人の夢なのだろうと翠星石は理解していた。
 自分に一番近い存在は、いま一緒に暮らしている桜田家の面々。それでなければ、蒼星石しか思いつかない。
 人見知りを自認する翠星石が全く躊躇せずに適当に手近な扉を開けたのは、そういう理由があってのことだった。

「……なんですか、ここは」

 しかしそこに広がっていたのは、彼女が想像していたような光景ではなかった。
 がらんとしてほとんど何もない暗い空間に、白い髪の人形が仰向けに横たわっている。
 恐る恐る近づいてみると、球体関節人形らしいことが見て取れた。大きさは自分と同じくらい。塗装されているのか、腹部だけが暗い背景に溶け込んで──
「ひっ」
 もう一歩進んだところで翠星石はびくりと立ち止まった。
 人形が目を見開き、こちらを見ている。
 ピンク色の虹彩、シャギーの入った前髪、そしてまるで生きているような顔立ち。
「──」
 それは何かを言いたげに口を開け、右手をこちらにゆっくりと動かす。
 翠星石は異様過ぎる光景に、思わず数歩あとずさった。視線は魅入られたようにそれに固定されていて、外すことができない。
 やがて、もがくようにこちらに寝返りを打つと、それはゆっくり立ち上がって……いや、立ち上がろうとしてがしゃんと崩折れ、胸から上と腰から下が泣き別れになった。
 腹部は、塗装されていたわけではなかった。その球体関節人形には、腹部そのものがなかったのだ。
 上半身はこちらに頭を向けてうつ伏せに転がり、下半身はそれと百八十度捩れた体勢で、腰の空洞を薄暗くこちらに見せながら倒れた。
 だが、やがてそれらはまたもぎりぎりと音を立てるように動き始め、上半身は不器用に手で這いながら、下半身は蠢くように不恰好に這いずりながら、それぞれがこちらにじりじりと……

「──っ」

 そこまでが限界だった。
 目を瞑り、竦んだ足をどうにか動かして回れ右を──しようとしたとき、後ろから伸びてきた手が彼女の肩を叩いた。
「ひぃぃぃぃっ!」
 びくんとして、思わず数センチ飛び上がる。だが、案に相違して、聞こえてきたのは聞き慣れた声だった。
「あら、ご挨拶ね翠星石。そんなに怖がられるなんて、むしろ光栄というべきかしら」
 笑いと毒気を含んだ声。こわごわと目を開くと、にやりと笑う黒衣のドールがいた。
「す、水銀燈……?」
「貴女も酔狂な趣味を持ってるものね」
 水銀燈は失笑する寸前の表情で翠星石の顔を覗き込んだ。
「よりによって、私の媒介の夢を覗くなんて」


 上下が分離してしまった人形を、水銀燈は丁寧に元のように寝かせた。人形はぶつぶつと呟きながら力なく抵抗していたが、下半身と上半身が(腹部の長さほどの距離をおいて)揃うと、やがて安堵したように紅い目を閉じて静かになった。
 水銀燈は翠星石に背を向けたまま人形の手足を真っ直ぐに伸ばして揃え、あやすようにその髪を撫でた。
「……意外です……」
 翠星石はふと思ったままを呟いてしまった。
「何が?」
 水銀燈は振り返りもせずに尋ねた。翠星石はびくりとして両手で口をふさぎ、しまったという表情になったが、もう一度尋ねられて口を開いた。
「……出来損ないとか言ってぶっ壊しちまうと思ってたですよ」
 嘘を言っても仕方がない。正直に彼女は答えた。
 翠星石が認識している水銀燈は、ある意味完璧主義者だった。役に立たないもの、穢れたものは「みっともない」と捨て去ってしまう。自分の媒介の夢の世界の中とはいえ、こんな怪談じみた人形を大切に扱うのは彼女らしくない。
 なにか謂れのある人形なのか、なにがしかの利用価値があるのか、それとも。
「なんか悪いモンでも食ったんですか」
 言ってしまってから翠星石は青くなった。つい、いつもの癖で一言多くなってしまったのだ。怒り狂った水銀燈に羽で縛り上げられるかもしれない。
「貴女、どこまで人を凶暴なイメージで捉えてるのよ」
 水銀燈はこちらを振り向いてわざとらしい溜息をついたが、案に相違して怒りの表情はそこにはなく、ただ呆れたような顔をしているだけだった。ただ──
「壊すには惜しい価値があるから壊してないだけ、かもしれないけれどね」
 そう笑う横顔にはいつもの獰猛さが戻っている。余計な一言はなるべく慎もう、と翠星石は思った。

「始まるわ」
 水銀燈は立ち上がり、上を向いた。
「何がです?」
 釣られるように翠星石もその視線を追う。しかし、見上げてみてもこの夢には夜空もなければ太陽もなかった。漠然としたものが広がっているだけだ。
「夢の切り替わりよ」
 水銀燈がそう言った瞬間、夢の世界は大きな一室に変貌した。
 全く同じパイプ机が何十個も並んでいる。一方の壁には大きな窓があり、開放的な雰囲気の部屋の中はざわめきで包まれていた。
 ジュンが夢の中で着ている服と同じものを着た少年達と、つい数日前に初めて逢った雛苺の元契約者──柏葉巴──と同じ水兵服を着た少女達が大勢、それぞれ何人かずつの小さなグループに分かれてお喋りをしている。
「学校、ですか」
「今日はそんな夢みたいねぇ」
 水銀燈はあまり関心もなさそうに言い、手近にあった大きな机の上に腰掛けた。それは教卓なのだが、翠星石は名前を知らなかった。
 翠星石はなんとなくその机に隠れるような位置に移動する。
「凄い人数ですねー……」
 夢の中とはいえ、あまり大勢の人間が出てくるところは得意ではない。翠星石は身体を縮めるようにして教卓の陰から周囲を見回した。
 そして、あるものを目に止めて大きく目を見開いた。
 ローザミスティカのかすかな脈動が、急にはっきりと聞こえてくる。人間なら「心臓が高鳴る」というところだろうか。
「三、四十人ね。ひとクラス分よ」
 今は授業の合間か昼休みってところかしらね、と水銀燈は言い、つまんないわぁ、と一つ伸びをして、組んだ足の上に肘を置き、上に向けた掌に顎を乗せた。
 しかし、翠星石にとってはつまらないどころの話ではなかった。
「……ジュンがいるです」
 ジュンは、水銀燈の媒介の少年の近くにいた。家で見せるのと同じ、あからさまに機嫌が良くない顔つきで机に座っている。
 思わずそこに近づこうと歩き出し、こちらに来る少女にぶつかりそうになって仔リスのように慌てて机の下に逃げ込む。水銀燈がそれを見て笑ったが、それも耳に入らなかった。

 何度かそんなことを繰り返して、翠星石はジュンと少年の声が聞こえるところまでどうにか辿り着いた。
「──久しぶりの学校だって悪くないだろ?」
 少年が屈託なく笑いながらジュンに言っている。ジュンはぶっきらぼうに生返事を返すと、照れたようにそっぽを向いた。
「気分いい時だけでいいからさ、たまにゃ出てこいよ」
「……ああ」
「クラス換えして、お前んとこイジった連中は別のクラスになったし」
「……うん」
 そこで少年は人の悪そうな笑みを浮かべ、ジュンの耳に手を当て、もう片方の手で誰かを指し示しながら囁いた。
「あいつも待ってるぜ」
 ジュンは顔を上げ、少年の指差すほうを視線で追いかける。翠星石はそのジュンの視線の先を更に追いかけた。
「なっ!?」
 ジュンの顔がぼっと音を立てそうなほど赤くなる。そこには、翠星石も知っている顔──雛苺の前契約者、柏葉巴がきょとんとした表情でジュンたちを眺めていた。
 胸の中に何とも言えない感情が湧き出るのを翠星石は訝しく思った。今まであまり経験したことがないような、腹立たしいようで切ないようなもどかしい気分だった。

 少年はそんな観客がいることを知りもせず、さっと身を引いて、にやにやしながらとんでもない事を言った。
「ま、でも出て来たくない気持ちも分かるぜ」
「……どういう意味だよ」
「なにしろ、お前ん家には恋人が三人もいるもんなぁ。完璧少女の真紅、可愛い妹の雛苺、それと──」
 恋人。ジュンの恋人。
 翠星石はごくりと生唾を飲んだ。顔は真っ赤になっているのが自分でもわかる。
 自分は一体なんだろう? 小さな淑女? ちょっぴり恥ずかしがり屋のお茶目さん? それとも──

「──熱き漢の魂を持つ女、翠星石!」

「何頓珍漢なこと言ってやがるですかっこの馬鹿人間!」
「いてっ、いてててて、向う脛蹴るかよ容赦ねーな翠星石さん!……て、翠星石?」
 少年は脛を押さえながら、信じられないものを見たと言いたげに翠星石を見つめた。
「すっ、好き勝手言ってんじゃねーよです! 翠星石はローゼンメイデン第三ドール、花も恥らうれっきとした乙女です。熱きオトコとかそういう蒸せそうな存在とは無縁です!」
 茹で蛸のように真っ赤な顔で、翠星石は力説した。
 少年がなんと反応していいのか分からずに目をぱちくりさせていると、水銀燈が教卓の上から滑るように飛んできて彼等の脇の机に座った。
 少年はああそうかと長い息をつき、気の抜けたような声で呟いた。
「水銀燈、やっぱり毎晩夢に入り込むのは止めてほしいなぁ」
 水銀燈はそれには答えず、いいものを見せてもらったわ、とにやりと笑った。


「お馬鹿さんね、あれは私の媒介の夢の中の虚像のひとつ。貴女の契約者じゃないのは分かっていたはずでしょう?」
 窓枠に腰掛けながら、水銀燈はくすくすと笑った。
 安物のテーブルの、これまた安物の椅子に腰掛けた翠星石は口を尖らせたが、黙っていた。水銀燈の媒介の少年が見ていた夢の中に出てきたジュンは──もちろん、本物ではない。夢の主が好き勝手に構築した偽者だ。
 分かっていたのに、その姿を見つけただけでどきどきしてしまったし、少年が自分をジュンになんと紹介するか、などという些細なことで羽目を外してしまった。「心の専門家」としても恥ずかしい。
 これ以上、この性格の悪い長女に言質を与えるわけにはいかない。必要最低限以外のことは口に出さず黙っているべきだ、というのが翠星石の考えだった。
 幸いにも水銀燈は翠星石にそれ以上ちょっかいをかけようとはせず、すぐに用件に話を移した。
「ところで、聞きたいことは何なのかしら」
 翠星石は布団に丸まっている水銀灯の媒介に視線を向けた。水銀燈もちらりとそこに目を遣り、割と寝つきは良いほうだから気にしなくていいわよと言った。

「……さっきの夢のことです。切り替わりとか、あの……人形とか」

 それが聞きたいから、翠星石はわざわざここ──現実空間の少年の家に乗り込むような真似をしたのだ。

 少年の夢は、翠星石と水銀燈が現れたことで破れた。最近、毎日のように夢の中に入り込んでは監視している水銀燈に辟易しているらしい少年は、一旦目覚めることを選んでしまったのだ。
 夢の世界が消えていく中、あっさりと「戻るわ」と言って去ろうとした水銀燈を、翠星石は、聞きたいことがあると引き留めた。
 翠星石としてはnのフィールドの中の何処か適当な世界を借りればいいと思っていたのだが、水銀燈はやはりあっさりと、ならば自分達の部屋に来いと言った。
 二人は光沢仕様のパソコンのモニターを通り、この狭くてあまり綺麗とは言えない部屋にやって来たのだった。

「人形ねぇ。何から話せばいいのか分からないくらい長い話になるわね」
 満更茶化しているだけとも思えない言い方で水銀燈は肩を竦めて見せた。
「長くて込み入っている割に、中身がなくて面白くもない話よ。それでも聞く?」
 翠星石はまじめな面持ちで頷いた。最近の若干不可解なことがらが、全てそこに繋がっている。何故かそんな気がしたからだ。
 水銀燈はやれやれと言いたげに天井を見上げ、彼女の言ったとおりの長い話を始めた。



[19752] 南山。じゃなくて難産。
Name: 黄泉間信太◆bae1ea3f ID:d11f58f6
Date: 2010/08/06 18:27
谷先生の新刊(覇者の戦塵シリーズ)が月内に出るらしい。
その頃までには内容的に一区切りにしたいところです。

しかしこれだけの駄文を書くのにこんなに時間掛ってていいのだろうか。

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 昔々あるところに、一人のきちがい人形師がいました。後に素晴らしいオートマータを何体も作りだすことになる、たぐい稀な業の持ち主でした。
 いつの頃からか、その工房の隅の作業台の上に、一体の作りかけの人形が居りました。
 人形は、ほとんど完成していました。白い髪も、薄紅色の眼も、他の人形達に優るとも劣らない出来栄えでした。でも、肝心の、胴の部分がありませんでした。人形師がすぐに次の人形を作り始めてしまったからです。
 人形師は、素晴らしい人形を次々に作り出しました。ぜんまいのネジを巻くと動き出す、最高のオートマータです。人形達はみんな綺麗に造作を整えられ、人形師の手で優しく抱かれて工房を出て行きました。
 作りかけの人形は、工房の隅の作業台の上で埃をかぶったまま、美しく完成した自分の妹達が人形師と共に出て行くのを、いつもただじっと見守るしかありませんでした。
 どうして、自分だけ完成させてもらえないのだろう。
 作りかけの人形はいつも、そう思っていました。悔しかったのです。だって、胴の部分さえあれば、自分も妹達に負けない美しさを持っているのだし、自分のドレスさえももう出来上がっていて、工房の中に飾ってあるのですから。
 あるとき、人形師は、今までで一番素晴らしい人形を作り上げました。
 人形師は、いつもよりもっと念を入れて人形の仕上げをしました。やがて、いつものように完成した人形を抱き上げると、大きな鞄を片手に持って、工房を出て行こうとしました。
 作りかけの人形は、それをじいっと見つめていました。そして、動かない口で必死に叫びました。
 『待って、行かないで。私も連れて行って』
 すると、どうでしょう。動力も入れられていないのに、作りかけの人形の身体はぎしぎしと動き始めたのです。
 作りかけの人形は、必死にかいなを上げました。届かない人形師の背中に手を伸ばしました。立ち上がろうと、身体を前に動かしました。
 でも、やっぱり人形は作りかけのできそこないでした。すぐに前のほうにのめり、そして、胸から上だけが作業台から床に転げ落ちました。胴の部分がないから、立つこともできないのです。
 それでも、できそこないの人形は人形師を追いかけて、両手だけで人形師のほうに這いずりました。
 『お父様、お父様、連れて行って。私を作って、妹達のようにここから連れ出して』
 その目の前で、扉がばたんと閉まりました。人形師は、作りかけの人形のことなど気にも留めていなかったのです。
 工房の木屑だらけの床の上に、できそこないの人形の涙がぽたぽたと跡を残していました。
 」

「──それがさっきの人形なんですね」
「そういうことになるわね」
「……可哀想なお話ですぅ」
 翠星石はもらい泣きしそうな顔になって視線をテーブルの上に落とした。天邪鬼な振りをしているものの、根が素直な性格の彼女にはじんと来る話だったらしい。
「夢の中にあんな風にぽつんと出てくるなんて、その人間はとってもそのお話を気に入ってたんですね」
「ええ」
 水銀燈は吐息のような声で肯定した。
「でも聞いた覚えがない話です……なんていう童話なんですか」
「『Rozen Maiden』ってアニメよ。その中の『Overture』って話ね」
 翠星石はオーバー気味な身振りでテーブルに突っ伏した。
「まじめに教えてくださいです。せっかくいいお話だと思ってましたのにぃ」
「間違えてないわよ」
 口を尖らせる翠星石に、水銀燈は皮肉な微笑を浮かべた。
「そして作りかけのドールは、ローゼンメイデン第一ドールとなる『水銀燈』……」
「だーかーらー!」
 翠星石はテーブルを叩こうとしたが、水銀燈の媒介の少年が布団を敷いて寝ていることを思い出して、行き場を無くした拳をぶんぶんと左右に振った。
「いくらなんでも水銀燈が作りかけじゃないことくらい知ってます。それに翠星石たち……私と蒼星石より先に世の中に出ていっちまったじゃねーですか」
 結構覚悟キメて来たんですからまともに話してください、と翠星石は顎をテーブルに載せて水銀燈を睨みつけた。
 水銀燈はそんな翠星石の視線には構わず、微笑を浮かべたまま淡々と話し続ける。
「契約者として人工精霊に選ばれた者が『巻かないこと』を選んだら、世界はそこで分岐する。幾つもの世界が平行していくけれど、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在しえない……貴女も知っているでしょう」
「そりゃ知ってますけど、いきなり何を……」
「では、その外側に私たちが認識できない別の世界があったらどう? そこは、私たちがフィクションの産物として存在しているところ。現実的な形ではなく、活字の上や映像上の登場人物という形でね」
 水銀燈は肩を竦めた。
「私自身まだ疑問が残ってるけれど、とにかく、そういう世界は存在するのよ。そして、そこで寝てる媒介は、その世界のとある住人が死ぬと同時にこの世界に生まれ変わった異邦人ってわけ」
 翠星石はぽかんと水銀燈の顔を眺めていた。あまりにも現実離れしていて、うまく話が繋がらない。
「そういうことがよくあるのかは分からない。でも、そいつの場合明らかに普通と違ったところがあるわ。それは前の人生の記憶をそっくりそのまま受け継いでいたこと」
 翠星石は斜め下を見た。水銀燈の媒介の少年は、二人がひどくシリアスな話をしていることを知りもしないように眠っている。
 異邦人と言われても実感が湧かない。確かにおかしな、というよりも何かが欠如しているようなところはあるが、少年に前の人生の記憶があって行動しているようには思えなかった。
 彼の行動はどちらかといえば刹那的というか、衝動的な風にさえ見えたのだ。
「そいつの愛読していた漫画のひとつが『ローゼンメイデン』。呆れるほど詳細に記憶に残っていたわ。意識上ではそれほど鮮明に覚えていたわけではないでしょうけど」
「……アニメじゃなかったんですか?」
「元々は漫画だったようね。それがアニメにもなったってわけ。貴女達の好きなくんくん探偵だって人形劇がオリジナルで、絵本や漫画、小説まで作られているでしょう? 順番は逆だけど、同じことよ。
 アニメのほうは私達の現実とは近いけれど、細部は懸け離れているわ。例えば貴女達双子の契約者が没落貴族ではなくて、どこかの時計屋の老夫婦だったり、『水銀燈』がさっきの人形だったりね」
 だいたい分かるかしら、と水銀燈は念を押した。翠星石はこくりと頷いた。

「でも漫画は違う。私達の現実とごく近かった。少なくとも薔薇屋敷の一件までのところは殆ど一致していたわね。
 明確に違っているのは、漫画では私の媒介がそこの異邦人ではなくて病弱な少女だったことくらい。
 そしてもう一つ困ったことに、漫画はもう少し未来のところまで描かれていたってわけ。
 ──つまり、そいつはこれから何が起こるか知っていたのよ」

 それなのにそいつは何もしなかったのよ、と水銀燈はやや呆れたような声で言った。
「もちろん契約したときも、他の契約者とは違って螺子を巻いたら何が起きるか明確に知っていたことになるわね。……何もしないのなら螺子なんか巻かなければ良かったのに」
 翠星石は黙って下を向いた。
 水銀燈の言い分は正しいのだろう。
 契約者といっても一つの典型には収まらない。薔薇乙女と契約して狂ったように愛玩する者もいれば、彼女たちの戦いに身体を張って介入する者もいる。蒼星石の契約者のように自分の目的を果たすための道具として見てしまった者もいる。
 しかし今後のことを知っていても手を出さないというのは、それらとはどこか違っている。ドールに対する執着が薄いか、見世物でも見ているような気分だったのだろうか。

──でも変ですね。

 翠星石は内心首をかしげる。
 その人物像と、自分が見たこの少年のイメージとが全く繋がらないのだ。むしろ反対に、そういった知識があれば何処かに向かって暴走していきそうな性格にしか思えない。
 そのことを問い質すと、水銀燈はあまり面白くなさそうな顔つきになった。
「もう一度質問するわよ。ここからが長くてつまらない話になるけれど、それでも聞きたいかしら」
「覚悟キメて来たって言いましたよね? バッチコイです」
 椅子の上でふんぞり返る真似をすると、安物の椅子がぐらりと揺れた。翠星石は慌ててテーブルにしがみついた。
 水銀燈はその様子を見ても笑いもせずに、少年と契約してからの経緯を話し始めた。



 開いた窓から夜の風が吹き込んできた。
 翠星石は水銀燈が寄越したオレンジジュースを吸いながら、机の上のデジタル時計に視線を向けた。
 既に時計の表示は日付をまたいでいた。
 普段二十一時には寝てしまう翠星石が水銀燈の話をここまで聞き通せたのは、一応一旦寝て起きた形だからというよりも、水銀燈が語った内容が自分達の過去から未来にまで亙って関係することがらだったからだろう。
 いくら一度眠った後とはいえ、そんな重大な内容でなければ話の半ばで船を漕いでいたに違いない。
「どう? 少しは話が見えてきたかしら」
「……」
 翠星石はこくりと頷いてストローから口を離し、水銀燈の長話の間もほとんど寝返りも打たずに気楽な顔をして眠っていた少年を見遣った。

「可哀想な奴だったんですね、この人間も」

 水銀燈は眉根を寄せた。もう少し別な感想が出てくるかと思ったのかもしれないが、斜め下の媒介の頭の辺りに視線を向けただけで何も言わなかった。
「翠星石の頭は欠陥品かも知れんです。今の話を聞いても、真紅や蒼星石みたいに冷静にパッパと整理はできないです」
 翠星石は音を立てないように注意して椅子から降り、少年の布団のほうに歩み寄った。
「ただなんていうか……」
 煎餅布団に横たわり、毛布にくるまって太平楽な表情で寝ている少年の頭の近くに座り、水銀燈を見上げる。
「こないだ、おじじの屋敷に行った日、こいつがいきなりペラペラ喋りだした理由だけは分かった気がするですよ」
 翠星石は数日前のことを思い出していた。
 いきなり現れた、契約者の指輪を嵌めた少年。蒼星石のことをいやによく知っていたこと、やけに子供っぽい振る舞いをしていたくせに蒼星石の意図の説明のときだけは立て板に水といった調子で喋ったこと。
「あれはきっと、伐り倒しちまった心の木の最後の残りカスってやつだったんですねぇ」
「そんなところでしょうね、きっと」
 水銀燈は目を細め、くすりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それも結果的には貴女達を振り回す誤情報に過ぎなかったわけだけど」
 そこは翠星石も苦笑するしかない。
 水銀燈が蒼星石の無茶を止めるという、他の皆にとって良い方に転んだ形で終わったからいいようなものの、少年の持ち込んだ「水銀燈が敗者のローザミスティカの横取りを企んでいる」という話は肝心なところが間違っていたわけだから。
「でも、翠星石の言葉がきっかけで、おじじが本当の気持ちに気付いたのなら──」
 少年がもぞもぞと動いて向こうに寝返りを打った。翠星石は驚いて一歩下がったが、動きが止まると近づいて少年の肩に毛布を掛けなおしてやった。
「こいつのやったことも、全部無駄になったってわけでもないですよ」
 あの日、蒼星石に鋏を構えられたとき、翠星石は少年が言った「本当の願い」を結菱老人本人に思い出させようと声を上げた。
 それが結菱老人に何等かの影響を与え、結果として老人が閉じられた記憶に辿り着けたのであれば、少年のしたことは必ずしも無意味というわけではないはずだ、と翠星石は水銀燈を見上げた。

  水銀燈は翠星石の顔を見つめ、一拍置いて黙って頷いた。
  漫画でも同じタイミングで老人は「本当の願い」を思い出している。そこに翠星石の台詞はなかった。
  だから、実のところ翠星石の言葉は言っても言わなくても同じだったのかもしれない。媒介の行動は全くの無意味だったと言ってしまってもいい。
  だがそのことを教えて翠星石を落胆させたところで、何がどうなるわけでもない。
  それに、この現実と漫画で、老人の心理が完全に同じとは限らない。この世界では、老人は本当に翠星石の言葉で思い出すきっかけを得たのかもしれない。正確なところは時間を巻き戻して検証してみなければ分からないことだ。
  どちらとも言えることなら、翠星石は翠星石の望む解釈を信じていればいい。余計な口を挟む必要はない。真実は人の心の数だけ存在していいのだから。

  問題は、事実がどうなのかが重要になってくることがらの方だ。
  例えば、アリスゲームの真の意味、狙い、といったような。
  それは少年の知識の中にもない、しかしその知識を得て否が応でも考えざるを得なくなったことがらでもある。

「もう一つ確認したいことがあるです」
 いいですか、と翠星石は上目遣いに水銀燈を見上げ、水銀燈は飲みかけていたジュースのコップを置いて、どうぞと返した。
「毎日夢の世界を覗いていたのは、こいつの記憶を……」
 そうよ、と水銀燈は頷いた。
「昔の記憶に強く依存して生活していたせいね。そこがごっそり心から抜け落ちたから、今のそいつの記憶は残りの部分まで穴だらけ。
 それだけならまだ良いのだけど、整合性を取るために残った記憶で強引に辻褄合わせをしてしまうの。スカスカになった部分なんかは無茶苦茶になりかけてるわ」
 だから、なるべく事実に沿うように調整してやるために媒介の夢の扉を開けているのだと水銀燈は言った。
 本来許されるべきではないことかも知れないが、事情が事情だけに看過できないのだと。
「都合のいい嘘で塗り固めた世界が完成したら、目も当てられないものね」
 あの爺さんみたいに、と言われると、翠星石としても頷かざるをえない。
 結菱老人は自分が恣意的に忘れてしまった記憶の辻褄を合わせるために、逆恨みに近い形で昔の想い人を恨み、生きていると分かって手に掛けようとし、それに蒼星石と自分は振り回されてしまったのだ。
 今現在の契約者があんな風になってしまうのを見過ごすことは、翠星石にもできないだろう。
「夢が切り替わるまで──あの人形がいる空間が見えている間のことよ──それが、意識下で辻褄合わせが一番活発にされているときのようね。切り替わってからの夢は、いつもかなり鮮明ではっきりしているわ」
 さっきのようにね、と水銀燈は笑い、翠星石は顔を赤くした。
 まるでテレビドラマの場面を見るように鮮明で精細な光景だったから、思わずその中にいたジュンに我を忘れてしまったのだ。
「いつもはもっと混沌とした状況よ。なまじ鮮明だから余計酷く見えるってのもあるわね」
 伐った晩の記憶なんかは毎回筋書きが変わって迂闊に手を付けられないわ、と水銀燈は肩を竦める。
「ただ、学校の教室が舞台のときは別。大抵貴女の契約者が出てくるのよ。あんな風に話し掛けたのも初めてではないわ。
 過去の記憶があまり関わらない部分で、ずっと気に掛けていたのかもしれない。俗な言い方をすれば「目下一番気がかりなこと」ってわけね」
 契約したドールよりも他のドールの契約者の方が大事なんて呆れたものよ、と言いながらも、水銀燈は満更でもない表情をしている。
 それは、何事にも根本的には無関心で積極的な興味を示さなかったように見えた少年が、昔の心の木を伐ったことで多少は周囲に目を向け始めたことを、水銀燈自身無自覚のうちに喜んでいることの現れだったかもしれない。
 もっとも、翠星石はそこに気を回す余裕はなかった。
「……そうですね」
 ジュンが不登校になった原因を、翠星石はおぼろげながら理解していた。真紅の腕を取り戻したとき、彼の記憶から来る痛みを共有していたし、日常の何気ない会話からも少しずつ経緯の断片を窺い知ることはあった。
 真紅は恐らくもっと的確に知っているのだろう。自分よりずっとジュンに近いから。
「ま、あれは過去の記憶でなくて今の願望だから、私が手を付ける必要はないところよ。
 ただ、お気をつけなさい。あの日よりはだいぶマシになってきたけど、まだ行動に抑制が効かないから。また乗り込んでいってひと騒動起こすかもね」
 内向きに落ちそうになった翠星石の思いを知ってか知らずか、水銀燈はそんな言葉で話を締めくくった。
 翠星石は顔を上げ、大丈夫ですと不敵な笑みを浮かべた。
「失礼なことをやらかしたら、翠星石がしばいてやるです。なにしろ相手が水銀燈の媒介ですからね、何かあれば容赦無しですよ」
 その途端、少年が大きく寝返りを打って翠星石の方を向いた。翠星石は小さな悲鳴をあげて机の下に逃げ込んだ。
 頼もしいこと、と水銀燈は唇の端を上げて笑った。



[19752] 約120行。まだ平均的?
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/10 10:34
リアル条件が良くない割にはあまり行数が減らない感じです。

ジュン君含めみんなが水銀燈に対して刺々しくないのは、資料としてYJ連載分の影響があります。
水銀燈の方で会うたびに喧嘩を吹っかけず、柔軟に相手している余裕があれば、BIRZ版時代でもさほど強く敵対しなかったのではないか?と。

まあ、原作水銀燈は最初からめぐのためにアリスゲームをやってる感があるので、マスターが変わっただけでだいぶ変わるのかもしれませんが。

※8/10 10:35頃 なんか終わりの部分がわけわかめなので整理追加。
 10行ほど増えました。

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 5体目の人形の服が仕上がった。
 ジュンは大きく伸びをして、凝り固まったような身体をほぐした。
 最近、立ち上がろうとしてちらりと後ろの鞄の様子を窺うのが癖になってしまっている。言うまでもなく作業しているところを真紅以外のふたりに見つからないようにするためだ。
 今夜は三人とももう寝入っている。鞄を開けて起き出していることもなかった。
 ジュンはほぅと小さな安堵の息をつき、机の上を手早く片付けた。
 小さな布地を手縫いするのは慣れていたが、真紅以外のドールに見つからないように作業時間を取るのが大変だった。
 夜、彼女等の寝入った後か昼寝の時間を利用していたのだが、どういうわけか最近翠星石が夜の散歩を覚えたらしく日付が変わる頃まで鞄に入らなかったり、昼間は昼間で今仕上げた黄色い人形のモデルが来訪し始めたりと、予定は狂いっぱなしだった。
 ジュンは少し恨めしげに今仕上げた服を人形に着せ始めた。金糸雀という名前の第二ドールは雛苺や翠星石といい仲間のようで、昼間やってきては夕方まで遊んで帰っていく。
 お陰で雛苺と翠星石の昼寝の時間はあったりなかったりで、ジュンとしては中々工作をする時間が取れなかった。
 毎日1体分ずつ作って行けるだろうという目論見はすぐに崩れて、もうあれから二週間以上経ってしまっている。
 それでもここまでは、見本が向こうからいくらでも纏わりついてくるから模倣するのが楽だった。

──あとは、あいつか……

 最後の一体が大問題だった。
 ジュンは引出しを開け、紫がかった濃紺の服を着ていた小さな人形を手に取った。今は元の布を取り去り、ドロワーズだけを履かせている。
 軽くカールが掛っていてやや多目の白い髪は、モデルどおりに輝くようなストレートの銀髪に代えてある。ペイントされていただけの瞳も刳り貫いて自作した小さなアイを入れ、顔の輪郭も地のポリ材に穴があかない範囲で多少整形している。
 実のところ作業が遅延している理由の一つには、他の人形も同じような改造をしていたから余分に時間を食っているという側面もあるにはあった。だが、作り始めるとそういった些細な部分がどうしても気になって仕方ないのだった。
 作るものに安易に妥協しないというか、凝り性というか、彼らしい一面ではあった。

──顔やヘッドドレスは作れたけど、あの服は実物を見ないとどうしようも……

 一度は手を付けたのだが、どうしても上手い具合に頭の中で裁断図が浮かばない。それで送り送りになってしまって、とうとう最後に残ってしまったのだ。
 ジュンにしてみれば、元々真紅に言われなければ作る予定もなかった分だし、そもそもモデルの水銀燈本人に対していい感情は持っていない。
 ならばいっそのこと適当に作ってしまえば良さそうなものだが、そういう選択肢は彼の心には浮かんでこないようだった。
「どうしたもんかな……」
 小首を傾げたものの、いい思案は浮かんでこない。眠気もかなり強くなってきている。
 取りあえず今日は寝よう、と点けっぱなしになっていたパソコンの電源を切ろうとしたとき、モニターの画面が波打つように歪んだ。
 はっとして飛び退き、回転椅子の背もたれの陰に身を縮める。
「まさか……また?」
 彼の懸念どおり、瞬く間に画面は半球状に膨れ上がった。

「ごきげんよう、人間。客観的な時間では371時間23分ぶりね」

 モニターの画面が破裂するように黒い羽が噴き出し、そこからうっそりと微笑みながら出てきたのは、彼がまだ右手に握ったままの小さな人形のモデル。水銀燈本人だった。

「な、何の用だよッ。真紅たちならもうみんな寝てるぞ」
 ジュンは椅子を盾にして、というよりは椅子の陰に隠れて水銀燈の様子を窺った。彼女は以前ここに現れたときと同じように笑いを顔に貼り付け、机に腰掛けてこちらを眺めている。
「そう、真紅も寝てるの。それは丁度良かったわぁ」
 とは言っているものの、眠りに就いている時間を狙って来たに違いない。もう時計の針は夜中の一時をとうに回っている。
 とすると、彼女の目的は……
「言わなくてもお分かりのようね。貴方に用事があって来たの」
 さすがにうちの媒介とは違うわね、と水銀燈は机を降り、ジュンの隣に歩み寄る。
 ジュンは素早く椅子を回して距離を取った。
 水銀燈が逆に回る。ジュンは椅子を回してその反対側に動く。
 そんなことを数回繰り返すと、水銀燈は肩を竦めて椅子の上に飛び乗った。背もたれを掴んでいるジュンの手を、水銀燈の小さな手が、しかしかなりの力で押さえる。
 二人は背もたれ越しに顔を合わせた。正面から至近距離で見詰め合う形になって、ジュンは思わず視線を逸らした。
「……前言は撤回するわ。案外似たようなものねぇ」
 ジュンは頬を赤らめた。くすくすと笑う声の邪気の無さに、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまったのかもしれない。

「それで……何の用なんだよ」
 結局こうなるんだな、とジュンはティーカップを水銀燈の前に置きながら口を尖らせた。
 水銀燈はちらりとそれを眺めただけで、手を付けようとはせずにジュンを見詰めた。
「勿体ぶった話は得意じゃないから、用件から言わせてもらうわ。──取引しない?」
「取引? ぼ、僕が?」
 吃るほど大層な話じゃないわよ、と水銀燈は黒い羽根を一枚拾い上げ、指で弄んだ。先ほどパソコンの画面から出てきたときにばら撒いた羽根だ。また掃除しなきゃいけないのか、とジュンはちらりと考える。
「そう、貴方の可愛いお人形について、ね」
 気のない風の水銀燈の言葉に、ジュンの肩がびくりと震えた。
「お前、これ以上まだ真紅を……」
 あら怖い顔、と水銀燈は笑う。
「でも早とちりしない方がいいわよ? 用件は確かに真紅のことだけれど、あの子をどうこうしようって訳じゃないわ。むしろ逆」
「逆って」
「それのことよ」
 水銀燈は弄んでいた羽根を人差し指と中指の間に挟み、手首のスナップを利かせてダーツのように飛ばした。羽根は部屋の隅に向って飛び、歪んだ鳥籠に当たって床に落ちた。
「それを、元通り真紅に戻す方法を教えてあげる」
 鳥籠の中にはドールの腕が納まっている。
 nのフィールドから拾い上げてくることはできたものの、どうやっても鳥籠から出すことができないでいる真紅の右腕だ。
「その代わり私に協力しなさい、人間」
「──お前ッ」
 ジュンの顔が赤くなった。今度は恥ずかしさとか照れではない。
「元はと言えばお前がやったことじゃないか! それを今更っ」
 水銀燈は落ち着き払い、真紅に負けないほど優雅な動作で紅茶を口に運んだ。
「確かに腕をもいだのは私よ。今更否定はしないわ」
 かちりとも音を立てずに、機械仕掛けの人形のように精確にカップをソーサーに戻す。
「そして、普通なら欠けたパーツを戻すなんて有り得ない。だから、真紅は諦めて現状を受け入れようとしているわ。当然の反応ね。……でも」
 水銀燈はジュンの手を指差した。
「貴方にはできる。恐らく世界でただ一人、神業級の職人たる資質を持っている貴方だけはね」
「そんな……何言って」
「あら、真紅にも言われたことがあるんじゃなくて? 思い出して御覧なさいな」

 ジュンは瞬いた。確かに似たことは言われたことがある。

 ──その指はきっと魔法の指だわ。
 ──いまに、王女のローブだって作れるわ。

 そのときちらりと見せた真紅の瞳は、二人だけのときに見せる甘えるようなそれとも、偶に見せる優しいそれとも違っていた。まるで夢見るような、憧憬にも似た何かを感じさせるものだった。
 ジュンは水銀燈を見詰めた。水銀燈の紅い瞳は甘酸っぱさなど微塵も含まずにこちらを見据えていた。
「……僕が、そんなに凄い腕前を持ってるわけないじゃないか」
 ジュンは俯いてかぶりを振った。
「たまたまぬいぐるみを直したりしただけだ。裁縫なんて、ただの遊びで」
「別に遊びだろうが食べるために厭々商売してようが、この際関係ないのよ。貴方にはその資質がある。大事なのはそれだけ」
 水銀燈は部屋の隅を指差し、次に真紅の鞄を指した。
「そこの腕をその子に付け直すことはできる。貴方にはそれを可能にする資質がある。でも現状ではまず、あの鳥籠を開けなくてはならない」
 それは資質とは無関係なのよ、と水銀燈は言い、溜息をついた。
「真紅が諦めているのは案外そっちなのかもね」
「そっちって何だよ」
 水銀燈は直接それには答えなかった。
「あの子は姉妹の中でも一番諦めが早いの。智慧があるから抑制が利き過ぎているとも言えるわね」
「……そんなことないだろ」
 ジュンは普段の真紅の姿を思い返して、むしろ正反対だろうと思った。契約した自分を下僕と言い、何かといえばこき使う。生粋のお嬢様タイプだ。もちろん悪い意味で。
 腕をなくしてからは、どちらかと言えば甘えん坊にシフトしてきたような気はするが……。
「あの子は本当に不器用だから」
 苦笑するように水銀燈は口の周りを歪める。
「下僕、家来、そういう風に定義づけしないと契約者に甘えることもできないのよ。覚えておくと良いわね」
 水銀燈はまた紅茶を口に運んだ。冷めかけているのが気にならないのか、と思ってしまう。
 自分が目の前の水銀燈と真紅とをつい重ね合わせてしまっていることに、ジュンは気づいていなかった。
「だいぶ脱線したけど、ともかく貴方は鳥籠を開けなくてはならないわね。そして、それを為す鍵は物理的な物や方法ではなくて、貴方の心」
 ジュンは息を呑んだ。
「翠星石も言ってた。籠は僕の心だって」
「そうね。あの子もそこまでは踏み込んだのねぇ」
 もう一歩踏み出せばいいのに、と水銀燈は呟いた。翠星石が、ドールが契約者に抱く想いとは一線を画した感情をジュンに向け始めているのを知っているからだが、当のジュンには勿論知る由も無かった。
「……僕は、何をすれば」
 ジュンは顔を上げて尋ねた。それは二週間前に翠星石から籠のことを聞いて以来考えつづけ、どうすればいいのかわからずに保留していた課題だった。
 思い返せば水銀燈の媒介が置いていった人形を薔薇乙女たちに似せようとしたのも、そこから目を離したくて別のことに逃避した証なのかもしれない。
 それで二週間も無駄にしてしまった、とジュンはちくりと心が痛むのを感じる。

 もっとも、ジュンはつい内罰的にそう思考してしまうのだが、周囲──彼を取り巻くドールたち──は鳥籠についてそんな風に捉えてはいない。
 ジュンが翠星石とnのフィールドに入り込み、傷だらけになりながら鳥籠を持ち帰ったことも、腕力ではどうしても鳥籠を壊せないと諦めるまで、どれだけ必死に開けようとしていたかも知っているからだ。
 当面は手をつけられずにいるのだろう。でも籠を見えるところに置いているから、まだ諦めてはいない──と思っているだけだ。
 薔薇乙女の外れたパーツを元通りにできることなどないと考えているから、当然といえば当然のことだった。
 むしろ、臆病だと自他共に認めてはばからないジュンがそこまで頑張ったことを多かれ少なかれ肯定的に捉えてさえいる。
 翠星石がジュンに胸をときめかせるようになったのも、そのときnのフィールドで痛い記憶に苦しみながらも鳥籠を茨の中から取り出したのを見たことがきっかけだった。
 真紅とジュンの立場に立てば籠を開けることを安易に諦めるべきでないわけだが、それを知っていたのは水銀燈だけだった。

「その前に、私に協力してくれると約束してもらえるかしら?」
 水銀燈はまた顔に微笑を貼り付けていた。そこまでお人好しではないのよ、と言外に語っているようでもある。
「……わかった」
 僕にできることだけだぞ、元はと言えばお前のせいなんだからな、と念を押すように言うジュンを、水銀燈はろくに見てもいない。
 彼女の視線はジュンの肩越しに、彼の机の上のあるものに向けられていた。
「じゃ、まず協力の一つ目」
「うっ……うん」
 何を言われるのか、とジュンは唾を飲み込んだ。
「なんでもいいから服を着せてくれない? ドロワーズだけで放り出されてるのはいい気分じゃないから」
 ジュンは水銀燈の視線を追い、自分の机を振り向いて頬を染めた。
 机の上には、さっきつい仕舞い損ねた小さな人形がモニターにそっと立てかけられたままになっていた。



[19752] またも難産。100行
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/16 08:16
今回は話の途中で時間切れです。
問題なく時間取れれば続きは明日投稿します。

結果的に今回投稿分では、なんか蒼い子が暗いだけの話になってしまったなぁ。

8/16 難構文訂正。

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「……いや、水銀燈の役に立つっていうのは嬉しいんだけどさぁ」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の上に上半身を起こして、パジャマ姿の少年は頭を掻いた。
「いくらなんでもこりゃ、寝にくいっていうか……」
 そう言ってばつが悪そうにぐるりを見回す。
 狭いアパートの一室に、彼の布団を中心にして、ドールと人間合わせて都合七人が座っている。この場に金糸雀のマスターがいれば失神しそうな眺めだった。
「時間も時間だし」
 窓の外は鮮やかな夕焼け空だった。少年のいつもの就寝時刻とはだいぶ違っていた。
「大丈夫、僕が貴方を眠らせる。確実に夢に入れるようにね」
「そうです。蒼星石の力を信じられないですか」
 双子の庭師がそう言っても、少年はまだ首を傾げている。
「そうは言っても、みんなの役に立つ夢なんて一発必中で見れるかどうか……」
「この期に及んで女々しいこと言うんじゃねえです」
 翠星石は腕を組んで少年を見下ろした。
「人数が多いのは全員一緒に夢の中に入る必要があるからです。そうじゃなけりゃこんな狭っ苦しい部屋にわざわざ来やしねえですよ」
「そうね、浴室の鏡が使えて良かったのだわ。パソコンから出ていたのではジュンが引っかかってしまったでしょうね」
「……僕一人なら、別に歩いてきても良かったんだぞ。鏡を通ってきたのは嵩張る物を抱えてたからで」
「そんなこと言ってるくせに、真紅を抱いて離さないところがジュンの可愛いところかしら」
「真紅だけ抱っこしてもらってずるいの。ヒナもジュンのぼりするのよ」
「よせ、ますます重たいだろっ」
「重いとは聞き捨てならないわ、私達ドールは人間の女の子ほど重くなくてよ」
「絶対的な重さってのはあるだろ」
「ジュンはひ弱かしらー」
「自分でも認めるヒッキーだから仕方ねーですよ」

「えーとぉ」
 少年は苦笑いして窓の方を見遣った。西の空を染めている夕焼けを背景にして、いつものように窓枠に座っている水銀燈は、黙って呆れたように部屋の中を眺めていた。
「そろそろ始めようか」
 枕許に座った蒼星石の生真面目な言葉に、それまで騒いでいた者も静かになった。
「これから貴方を眠らせる。横になって、目を閉じて」
「あ、うん。オーケー」
 少年は言われるまま枕に頭を載せ、目を閉じた。
「姉ちゃんのときはいきなり眠らせたくせに……」
 ジュンが口を尖らせると、蒼星石の動作は一瞬止まった。無表情だった横顔が複雑な表情に変わっていく。
 翠星石はジュンをぽかりと叩いた。
「余計な茶々入れんなです! 蒼星石を悲しませるのはジュンといえども許さんですよ」
「……ごめん」
「謝る必要はないよ。君が言ったことがらは事実だ。僕のほうこそ、あのときは手荒い真似をして悪かった」
 蒼星石は立ち上がり、帽子を取ってジュンに深く一礼した。
「次に逢ったら君のお姉さんにも謝っておくよ」
 顔を上げ、硬い表情のまま帽子を被り直して、少年の額に手をかざす。
「始めるよ」
 少年は薄目を開けて蒼星石を見た。視線が合って蒼星石が瞬く。少年が気にするなと言うように頷くと、蒼星石は薄く微笑んだ。
 少年は目を閉じ、布団に入ったままガッツポーズを取った。
「おう、もうジャンジャンやっちゃって。バッチコーイっス」
「お前も無駄口叩くなです」
 翠星石は容赦なく少年の腰の辺りを蹴っ飛ばした。ぐぇっというような呻きの後、了解、と少年は眉を顰めながら返事をした。
 痛そうな声に、ハッと気付いた金糸雀と雛苺が水銀燈を見遣る。しかし、彼女は自分の媒介が蹴られても軽く肩を竦めただけで、窓枠から離れて少年の枕許にふわりと降り立った。
 ほどなく、少年は寝息を立て始めた。
 同時に彼の頭上の空間が、さながら池に小石を投げてできた波紋のように揺らぎ、夢の世界への入り口が現れる。
「急ぐわよ」
 水銀燈は短く言い、飛び込むように夢の中に入っていった。
 翠星石がすぐに続き、他の姉妹たちもそれぞれ夢の中に入り込む。ジュンは戸惑うような素振りを見せたが、真紅が促すと意を決したように波紋の中心を越えて行った。
 その場に残ったのは蒼星石だけだった。

 真紅が心配そうな視線を自分のほうに向けているのを軽く頷いて返し、ジュンの背中を見送ってから、蒼星石は少年の顔を見下ろした。
 硬い表情は崩れない。そのまま、淡々と蒼星石は呟く。

「貴方はこうなることを恐れていたんだね。

 水銀燈が一番のお気に入りではあるけれど、僕達全員を好きだった貴方は、僕達が互いに傷つけあいながら成長していく漫画の展開を肯定的に捉えていた。
 貴方自身は死ぬまで読むことができなかった漫画。そのラストに希望を抱いていたのだろうね。
 だから、自分が柿崎めぐの立ち位置になることで、漫画の展開になるべく近い方向に進むようにと願っていた。
 『巻かない』を選ぶことはできなかった。それは次の時代に僕達の成長を持ち越し、もしかすると成長の機会を永遠に逸してしまうことになるから。
 積極的に水銀燈に手を貸すこともできなかった。自分がストーリーに手を加えることで、それでストーリーが変化することよりも、僕達の誰かの成長を阻害してしまうのを、臆病な貴方は恐れていたんだね。

 それなのに、どうして貴方は──」

──自分で自分を切ってしまったのか。水銀燈に完全な知識と膨大な量の記憶、そして僕には不完全な知識と貴方の思考の軌跡だけを与えて。

「臆病な僕には、水銀燈と契約してからの貴方の選択を間違っていると指弾することはできない。
 僕も、同じ立場になったら迷ってしまうかもしれないから。

 でも、心の木を伐ってしまった理由は判らない。理解できない。
 何通りでも推定はできるけれど、どれも決定的ではないんだ。それに、どれであっても我侭な僕には納得できそうにないよ。

 真紅の腕は戻らず、彼女の契約者はまだどこか絆が欠けている。僕との別離を知らない翠星石は子供のままで、逆にその後を見せられてしまった僕は水銀燈の言葉を受け入れて、おめおめとこうして生きてしまっている。
 知識を得た水銀燈は何か大きな事を考えているようだし、ここにいる貴方はもう、貴方ではない。

 僕達のちっぽけな世界は、貴方が恐れていた方向に動いているんだ。貴方が心の木を伐ることで、自分のスタンスを放棄してある意味で積極的に僕達に関わり始めたときから」

 蒼星石は膝を抱いて座り込んだ。
 その目の前に、青い人工精霊がすっと現れる。
「レンピカ……?」
 人工精霊は二度ばかり瞬くように光ると、主人の命令もなしに何かを召喚した。
「両手剣か」
 見覚えはある。薔薇屋敷の一件で水銀燈が召喚し、この少年に向かって「貴方の得物よ」と言ったものだ。
 蒼星石は座り込んだまま、手を伸ばして剣の柄を握った。いきなり、両手剣はまるで人工精霊のように強く明滅した。
「──っ」
 何かが、頭の中に流れ込んでくる。
 人工精霊との会話や念話のような整然としたものではない。剥き出しで未整理の汚くて醜い情報。
 それでも、言いたいことはおおむね理解できた。
「……貴方はやはり、飽くまでも水銀燈の契約者。そういうことなんだね」
 蒼星石は首を振り、長い息をついた。
「臆病で疑心暗鬼の塊、と自分自身を評価していた貴方に、そこまで信頼されている水銀燈が羨ましいよ」
 剣はちかちかと二度ばかり光り、また一塊の情報を蒼星石に叩きつけると、初めて硬い顔を崩して驚いたような表情になった彼女をその場に残し、そのまま幻影のように薄れて消えていった。

 蒼星石は立ち上がり、まだ揺らめいている夢の中への入り口を見上げた。
「まだ間に合うかな? どう思う、レンピカ」
 レンピカは一度だけ瞬くと、最短距離で入り口を潜り抜けて夢の中に飛び込んでいった。
 何事にも独りで果断に対処していた我武者羅な貴女はどこに行ったのですか、と言いたげなその行動に蒼星石は一瞬苦笑いを浮かべる。
「……どうも弱気になっていていけないな、あれから」
 一つ首を振ると帽子を目深に被り直し、生真面目な表情に戻って自分も波紋の中に身を沈めていった。



[19752] なかなか進まず。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/22 00:09
取り敢えず8/13投稿予定だった分。
盆中なかなか接続も執筆もできませんでしたよ。

8/18 難構文・間違い等訂正。
8/22 細部の酷いところ修正。

**************************************************************

「真っ暗なの……」
 雛苺はジュンの右足にしがみついた。
「夢の主の心の闇を表現しているかしら」
 金糸雀は左足に要領よく掴まる。ジュンはしがみつくなと口を尖らせたが、二人は無視して話を続けた。
「第0世界ほどではなくても、夢はその人の深層に迫っているから」
「うー」
 雛苺はきょろきょろと周囲を見回したが、どれだけ見直してもなにやら薄ぼんやりとした不定形のものが見えるばかりで、不気味としか言いようのない空間だった。
「こんなのがあの子の夢なんて、信じられないの」
 水銀燈の媒介とは薔薇屋敷の一件のときに会っただけだが、そんな闇を抱えているようには到底思えなかった。むしろ裏表ない素直な人物に見えたのだ。
 だから水銀燈の媒介だと言われてもなんとなく悪い感情が湧かなかった。
 しかし、これは酷い。絶望して何もない世界より不気味だった。
「人の心は一筋縄ではないわ。特に夢や無意識の領域は──」
 真紅は雛苺を諭そうとして言いかけた台詞を飲み込んだ。隣にいるジュンがぎゅっと拳をつくったのに気づいたからだ。
 真紅は黙ってその拳に手を重ねた。一筋縄でいかないのはジュンの心も同じだ。自分の趣味に対して劣等感とプライドを合わせ持っているから一層複雑なのかもしれない。
「これが貴女の見せたかった物なの?」
 真紅の声に、数歩前に立っていた水銀燈は振り向いて首を振った。
「あら、せっかちねぇ。こんな殺風景な眺めなんてわざわざ見に来るわけがないでしょう?」
 それとも化け物が出そうで怖くなったのかしらぁ? とからかうような声になったが、自分の言葉にそれぞれがどう反応したかを確かめることもなく、また前を向いた。
「これがあいつの夢の全てって訳じゃないわ。今は、パソコンで言えば電源スイッチを押してから使えるようになるまでの時間ね」
 水銀燈は左右を見渡して何かを見つけると、ついていらっしゃいと先に立って歩き始めた。
 一歩前を歩いていた翠星石はジュン達を振り返り、大丈夫ですよというように頷いてそれに続く。残りの面々は顔を見合わせたが、黙って水銀燈の後を追った。


 彼女は孤独で、絶望していた。
 自分が何者かはよく分かっていない。何故此処にいるのかも完全には理解できていない。
 ただ、自分が此処から動けないこと、そして此処には殆ど誰も来訪しないことは知っている。
 昔の記憶は断片的にしか存在していないし、前後の順序も判然としない。
 記憶の多くの部分は、忘れてしまい心に浮かばないという状態でさえなかった。記憶そのものが最初から存在しないのだ。
 持っている記憶さえも、その殆どは自分の体験ではない。植え付けられり与えられた擬似的なものだ。もっとも、彼女自身はその違いの意味を知らなかった。
 彼女の意識は毎日一回から数回、ほんの数分間だけ開いて閉じられる。
 その時間、自分の存在する場所の裏側で、混乱した作業が忙しく続けられていることなど彼女は知らない。
 作業が済んで、そのときの夢の舞台が整ってしまえば、彼女の存在する空間は閉じられ、彼女の意識も閉じこめられるのだ。

 最近、毎日一度かせいぜい二度、彼女を訪れる者がいる。
 それは彼女の心をかき乱し、擬似記憶を励起させる。だが、いつも彼女はそうやって提示された記憶を一つに繋ぎ、纏めることができない。
 彼女に与えられた時間はそれほど短いものでしかなかった。
 それでも、彼女はその者の来訪を期待するようになっていた。
 彼女にとって、それだけが他者との繋がりだったからだ。
 今日も彼女は胴のない体を苦労して動かしながら、それが来るのを待った。
 暫くしてそれがやってきたとき、彼女はいつもとは比べ物にならないほど心が突き動かされるのを感じた。


「見せたいと言ったモノの一つは、あれよ」
 水銀燈が指差した物を見て、金糸雀はまあと口元を手で押さえてジュンの服の裾を掴み、雛苺はびくりとしてジュンの後ろに隠れながらもこわごわそれを見詰めた。
 裸の球体関節人形だった。それがぽつんと横たわっている。
 服も着せられておらず、腹部のパーツもない。まるで作りかけの状態だった。
 ジュンは首を傾げ、右隣を歩く真紅に視線を向けた。
「なんでこんなとこに人形が置いてあるんだ?」
 真紅はジュンを見上げることもせず、人形に歩み寄る。
「分からないけれど、確かに不自然ね。何もない場所にドールだけ……」
「あいつ、そんなに人形に興味あるのかな」
 そんな風には見えなかったけどな、とジュンは両足を掴まれて歩きにくそうに人形に近づく。
「興味ではなくて……あの人形のことを気に掛けていたのです」
 翠星石がジュンを振り返った。
「哀しい過去を持った人形のことを、ずっと気にしていたから、ああして夢に……」
 真紅は立ち止まり、首を振った。
「いいえ、それでも不自然よ」
 どういう意味ですか、と尋ねる翠星石の手に真紅は左手で触れた。
「優しい翠星石、でも今は事実を見て。あの子は夢の世界の一部ではないわ。魂がある。生きているのよ」
「そんなの、ブーさん人形とかと同じだろ」
 ジュンは自分の部屋の呪い人形達を思い出していた。適当に通販で買った人形達だが、魂があると言ったのは真紅だし、現実に動いたところさえ見せられている。
 喋り出したりこそしなかったものの、真紅や水銀燈が力を付与しただけで暫くの間活発に動いてみせたりしたのだ。
「そう。だから不自然なの。夢の世界は、当人が夢を見終われば閉じてしまう。そこにヒトの手で作られた人形が存在するなんて」
 翠星石は「あ」という形に開いた口を手で覆い、人形の方を見遣った。
「人形は自力では動けないわ。でも、私達以外にここには誰もいないし、訪れる者もほぼ存在しえない」
 真紅は人形の傍らまで近づいた。
「一体誰が、何のためにここに人形を置いたというの、水銀燈」
 水銀燈は微妙な笑みを浮かべ、人形を挟んで真紅の向かいに回り、腰をかがめた。
「流石と言うべきかしらね。ご明察よ、真紅。その話をするために──」
 水銀燈はぎくりとして言葉を中途で止め、弾けるように跳び退った。真紅も後ろに大きく跳んで身構える。

 倒れていた人形がむくりと上半身を持ち上げ、真紅に視線を向けたからだ。

「しん……く……しん、く……」

 薄紅色の瞳は真紅に向けられ、のろのろと右腕が差し伸べられる。繋がっていない下半身ももがくように動く。
 胴部が無いのにもかかわらず、人形は立ち上がる動作をしようとしていた。
 あまりにも異様な光景に、真紅はさらに数歩後退した。元来、この手の化け物じみたシチュエーションはあまり得手ではないのだ。

「しんく……真紅ぅ……真紅……!」

 何かを懇願するようだった表情が、いきなり凍りつき、そして次の瞬間には憤怒と憎悪に染まった。

「真紅ッ……! うああああああああああっ!」

 どっ、と音を立てるようにして、人形の背中から黒いものが噴出する。後方でそれをまともに食う形になった水銀燈は咄嗟に腕を顔の前で交差させ、視線を背けた。
「翼……なの?」
 雛苺は瞬いた。人形の背中からは、一対の長い黒色の翼が禍々しく伸びていた。
 噴き出した物は細かく分かれ、ひらひらと周囲に舞っている。それはこの場の誰にとっても、よく見慣れたものだった。
「黒い羽毛……。水銀燈のと同じかしら」
 のんびりとした口調で言いながら、金糸雀はすっとジュンの前に進み出る。
「事情は分からないけど、念のため、ジュンは後ろにいて欲しいかしら」
 ウィンクをしながら事も無げに言う彼女にジュンが返事をしようとしたとき、次の変化がおきた。

「わたしは……壊れてなんか……」

 歯を食いしばるようにして立ち上がろうとしている人形の口から、途切れ途切れに言葉が発せられる。その間も、人形の視線は真紅に固定されていた。

「ジャンク、なんかじゃ……ない!」

 その言葉と共に、まるで胴部が存在しているかのように人形は立ち上がる。青白い炎のようなものが人形の体を包み、それが収まると裸だった人形は濃紺のドレスを纏っていた。

──そっちの方に記憶が繋がったか……

 水銀燈は舌打ちをし、自分も翼を広げる。この事態は想定していなかった。
 翠星石や真紅の寝ている間に話をつけ、桜田ジュンだけを連れてくるべきだったか、とちらりと考える。
 そもそも彼女としては、ジュンだけにこの人形の存在を知らせればそれで事は足りた。蒼星石に頼んで媒介を眠らせ、ジュンと二人で夢の世界に入ればいいだけの話だった。
 それがこんな大人数になってしまったのは、翠星石に説明したときのもどかしさから、様々なことを一纏めにして一度の説明で済ませようという思惑を持ってしまったことが原因だった。
 もう一つには、誰と遭遇しても人形は大して反応を返さないだろう、と高を括っていたという側面もある。
 まさか、真紅という名前にここまで激烈な反応を返すとは思っていなかったし、人形の記憶が真紅に対する憎悪と怒りの部分で繋がるというのも予想外だった。
 要は急ぎすぎてしまったのだが、それにしても。

──時系列を追って……最後に作り直されたか、その手前の破壊されたところ辺りまで順序良く思い出してくれれば好都合だったのに。

 あるいは、そういう「製造時」に与えられた記憶でなく、実際に「彼」と見た夢の末尾まで思い出すか、そうでなくても自分が体験したことを優先して思い出してくれれば。
 しかし、今となっては繰言だ。
「よりによって最悪のところに繋がるとはね」
 水銀燈は独語し、人形を大きく回りこんで真紅のもとに向かった。
 あの人形の力は未知数だが、元々あまり闘いが得意でない真紅が、片腕を失った状態でまともに相手ができるとは思えない。攻撃されるなら手助けが必要だ。
 今はまだ、真の意味での脱落者を出すわけにはいかないのだから。

「水銀燈と同じ格好なの……」
「逆十字のドレス……」
 雛苺が息を呑み、ジュンが目を見張る。金糸雀は人工精霊を呼び、いつも持ち歩いている傘をバイオリンに変えた。
「念のためかしら」
 愛想良く片目を瞑ってみせたが、その場の誰も、何も起きないなどとは思ってはいなかった。

 翠星石は混乱していた。何がどうなっているのか、分かるようでいて分からない。
 彼女は水銀燈から、媒介が生まれ変わる前の世界で視聴していたという「ローゼンメイデン」の話の筋を全て聞いたわけではない。ただ漠然と、水銀燈に相当するドールがひどく哀しい存在だということを知っているだけだ。
 それでも、人形が憎悪を抱いている対象が真紅でないことは分かっている。あの人形は、自分の物語の中の『真紅』と、目の前の真紅を取り違えているのだ。
 『水銀燈』が『真紅』をそこまで憎悪する理由については、水銀燈は端折って話さなかった。あの時点ではそれは特に必要のない話だったし、『水銀燈』が誰を憎もうと自分達にはあまり関わりのないことでもあった。
 哀しいハンデを背負い、お父様への想いで動いている第一ドール。そんな思いで人形を見ていたのに、目の前の人形はむしろ『真紅』への怒りで動き始めている。
「一体何があったですか、『水銀燈』と『真紅』の間に……」
 それに答えるだけの知識を持っているのは水銀燈だけだった。
 翠星石は真紅と人形の間に割って入ろうとする水銀燈の姿を目で追いながら、何かこの場で自分にできることを必死に見つけ出そうとしていた。



[19752] 今回は二日分です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/22 00:08
260行ほどありますが、二日分です。
前日分をだいぶ書き直してしまったので二日分纏めました。

8/22 誤字等修正。

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「っあああ!」
 目の前の人形から、無数の黒い羽根が放たれる。攻撃方法もその姿も、まるで水銀燈そのものだ。少なくとも真紅にはそう思えた。
「ローズテイル!」
 薔薇の花弁をぶつけ、自分に向かってくる羽根だけは辛うじて反らす。
 何がどうなっているのか分からないのは真紅にしても同じだった。ただ、降り掛かる火の粉は払わなければならない。
 真紅にとって幸いなことに、人形の第一撃の狙いはめちゃくちゃだった。怒りに任せて方向だけを示して放った、荒っぽい攻撃だった。
 同じ攻撃を繰り出したのが水銀燈だったら、片腕では逸らしきれなかったに違いない。
 いや、水銀燈の攻撃には限らない。人形が冷静に真紅を狙えば同じことだ。悪いことに、人形の飛ばした羽の速さ、密度、量といったものはむしろ水銀燈のそれよりも苛烈だった。
「弾くだけ?」
 人形の顔に、初めて憎悪と憤怒以外の表情が生まれる。それはかすかな疑惑だったが、すぐにまた怒りで上書きされてしまった。
「本気でかかってきなさいよ! それともまだ、わたしを小馬鹿にしてるの?」
「待って。貴女は何か勘違いをしているわ。私が貴女に会うのはこれが初めてよ」
 言いながら、真紅は後ろを確認した。
 ジュンの前には金糸雀がバイオリンを持って立っている。雛苺もジュンの陰から出てこちらを見守っている。視界の隅では翠星石が人工精霊に命じて如雨露を召喚していた。
「私は確かに真紅。ローゼンメイデンの第五ドール。でも貴女は……一体何者なの?」
「白々しいことを! それとも、わたしを存在しなかったことにしたいわけ?」
 人形は嫌悪感の詰まった言葉を放った。薄紅色の虹彩が異様な光を放つ。
「いいわ、そっちがその気なら、嫌でも分からせてあげる。金輪際無視できなくさせてやろうじゃないの!」
 どっ、と音を立てそうな勢いで黒い羽根の束が形成される。
「行け!」
 人形が手を振ると、それは大きく口を開けた獣のような頭部を持った蛇に変化し、奇怪な叫び声を上げながら真紅に迫った。
「ローズテイル!」
 紅い花弁が蛇の頭部を叩いたが、蛇は全くダメージを受けた様子もなく、一瞬の遅れが生じただけで真紅を指向してくる。直撃されるのはステップを踏んで辛うじて避けたが、そこに行き過ぎた蛇の体が鞭のようにしなって襲ってきた。
「ッ…」
 真紅の身体は横ざまに払われ、高く舞い上がった。
「真紅!」
 ジュンは思わず駆け出していた。金糸雀と雛苺が制止の声を上げたが、無視する。手を伸ばし、ヘッドスライディングするような恰好でどうにか落下する前の真紅を拾い上げた。
「ジュン」
 真紅は一瞬だけ安堵したような表情になったが、すぐに気づいて警告した。
「左! 来るわ」
「えっ……うわっ」
 真紅を胸元に抱え込み、そちらを向いたジュンの左肩を、蛇の胴の一撃が容赦なく叩いた。ジュンは真紅を抱えたままごろごろと転がった。

「真紅のミーディアム? 無駄なこと──」
 人形が蛇を引き戻そうと腕を振ったとき、いきなりその半身に十数本の黒い羽根が突き立った。
「何ッ」
 痛みよりも驚愕を感じたように人形はそちらを向く。
「貴女も左ががら空きよ、お間抜けさん」
 水銀燈はにやりと、しかしあまり余裕のない声で言い、横合いから滑り込むように飛んで来てジュンと真紅の脇に立った。
「お前っ、何やってたんだ」
 一番人形と真紅の近くに居たくせに、とジュンがなじると、水銀燈は肩を竦めた。
「真紅ったらとっとと逃げればいいのに、正面きって防ごうとするんですもの」
 真紅はジュンに抱かれたままむっとした顔になっただけで、水銀燈にはその表情を見せなかったが、ジュンは腹立ちを隠そうとしなかった。
「他人事みたいに言いやがって……あいつなんなんだよ!」
「第七ドールに作られて、ここに独りぼっちで放置されてる哀れな幻影よ」
「第七?」
 真紅はジュンの懐から顔を覗かせた。
「貴女、末妹に会っていたの」
「ええ、一度だけね。……詳しいことは落ち着いてから話すわ、流石にこれは想定外だったけどね」
 言いながら、横薙ぎに来た蛇の頭部に燃える羽根をぶつけて炎上させる。蛇は退いたが、炎もすぐに消えてしまった。
「まずあいつをどうにかしろよ。ここにみんなを連れてきたのはお前なんだぞ!」
「善処はするわよ」
 水銀燈は前を向いたまま薄く笑った。このまま素直に正面から力をぶつけ合ったら勝ち目はない。人形の力は出鱈目に強力だった。
 それは雪華綺晶が水銀燈の媒介に対して、他ならぬこの夢の世界での短い闘いで抱いたのと同じ印象だったが、水銀燈もそこまでの知識は持っていない。
 ただ、雪華綺晶と違って彼女には目の前の人形に対する勝算が全くないわけでもなかった。
「とんだとばっちりを喰ってしまったものね、真紅」
「謝罪の言葉と受け取っておくわ。それはいいのだけれど」
 真紅は腑に落ちないといいたげな表情だった。下手をすれば壊されていたかもしれないのにここまで冷静で居られるのは、真紅らしいといえばらしい態度ではある。
「どうして私の名前を知っているの、あの子」
「それも落ち着いてから」
 水銀燈は答えながら人形の様子を窺った。
 人形は自分の姿とよく似たドールを見て少なからず動揺しているようだった。攻撃は散発的に続けているが切れがなく、どれも水銀燈の手で防がれている。
「今のところは、『そういう風に作られたから』というありきたりな回答で満足してもらうしかないわね」
「偽りの記憶を埋め込んで作ったというの……」
 真紅は絶句して人形を見遣った。
 おぞましいと言いたげな表情になっているのは、真紅の美的感覚というよりは倫理観の方が関わってくるかもしれない。記憶、時間、経験といったものに対して彼女は潔癖だった。
 水銀燈がその表情を見れば皮肉に顔を歪めたかもしれないが、生憎と彼女は前に注意を向けていなければならなかった。
「ええ、それもごく短時間に。ほぼ即座でしょうね。もっとも──」
 黒い羽根が雨のように降り注ぐ。水銀燈は舌打ちして翼を広げ、自分達に降り掛かる分を防いだ。

──こんな形で存在し続けることまで予測していたかどうかは別だけれど。

 媒介が水銀燈を雪華綺晶の「繭」から救い出したときに、水銀燈は媒介と雪華綺晶のやり取りの記憶を「見て」いる。そのせいで人形のことも知っているのだが、当の人形に対して雪華綺晶は冷淡に「ただの舞台装置」と言っていたはずだ。
 雪華綺晶は媒介を他の契約者達と同じように自分の糧とする腹積もりだったのだろう。人形は媒介に心地よい幻を見させ、抵抗力を失わせるための道具に間違いない。
 本来、そういった道具は幻が破られればそれとともに消え失せるものだ。それだけの力しか持っていない。
 人形がこうして残っている理由は、雪華綺晶の能力の高さによるものではあるまい。媒介の心という全くの異物──あるいは薔薇乙女ですら到達し得ない遠い異世界とこの世界との接触による歪み──に触れているうちに、人形自体が命を持ち、自律して動き始め、実体を持たぬままこの夢の世界に定着したのか。
 恐らく、推論は正しい。直接の証拠はないが。
 第一、雪華綺晶がそこまでの能力を持っているのなら、姉妹の誰かがnのフィールドに入ったところを一人ずつ葬っていけばアリスゲームは簡単に終わってしまう。
 今まで散発的に続けられたゲームで誰一人落伍者が出ず、かつ誰も雪華綺晶に出会ったことがなかったのだから、nのフィールドだけに根を張る異質な存在とはいえ、雪華綺晶が出鱈目な力を持っていないことは明らかだ。
 また、そうでなければ、水銀燈自身が自分らしくなく回りくどく手配りをしていることも全くの無駄ということになってしまう。

──全く、厄介なものを産み落としてくれたものねぇ。でも、こうなったからには有効に利用させてもらうわよ。

 既に自分と蒼星石の記憶の中にしか居ないツナギを着た男と、全身が禍々しいほどの白さに包まれていた雪華綺晶とを若干恨みがましく思い出しながら、水銀燈は人形に向かって一歩踏み出し、そこで思わぬところから放たれた声に舌打ちした。

「い、いい加減にするです、『水銀燈』!」

 翠星石には、目の前の状況は絶望的に見えていた。
 手負いの真紅、力を制限された雛苺、媒介のいない金糸雀、戦い慣れていない自分。ジュンが居るとはいえ、四人でせいぜい水銀燈一人分の力しかないだろう。
 その水銀燈でさえ、隙を見て初手を取った後は防戦一方に回っている。人形の方では水銀燈の姿を見て動揺したのか攻撃を躊躇っているようだが、それでもジュンと真紅を庇うように立っている水銀燈は防禦で手一杯に見える。
 人形が本気に戻ったら、多分今度は勝てない。全員がらくたとなってこの夢の世界に閉じ込められたままになってしまう。
 それだけは避けなければならなかった。

 人形が横目で翠星石をじろりと見る。翠星石はびくりとしながらも、必死に言葉を継いだ。
「『真紅』とお前の間に何があったか知らねぇですが、そこにいる真紅はお前の知ってる『真紅』ではない……です」
 人形の攻撃の手が一旦止まる。翠星石はなけなしの勇気を振り絞った。
「翠星石達は……ここにいるお前以外のドールは、お前とは別の世界の存在なのです。それとジュンも」
「……有り得ない嘘をつくんじゃないわ」
 人形は翠星石に向き直った。翠星石は思わず目を瞬き、如雨露の取っ手をぎゅっと握り締めて自分に言い聞かせる。大丈夫、まだ泣いてない。まだ頑張れる。

「時間稼ぎにはなりそうね」
 水銀燈はふっと息をついて、ジュンを振り返った。
「金糸雀と雛苺のところまでお戻りなさい。真紅を抱いたままね。早く」
「水銀燈──」
 真紅が何かを言いかけたが、ジュンは真紅を抱く腕に力を込めて立ち上がった。
「わかった」
 水銀燈は返事を聞く前に翼を広げ、翠星石の元に飛んだ。

──これで金糸雀が技の出し惜しみをしなければ、防戦で負けることはないわね。

 むしろ今まで傍観に徹していたことが訝しいくらいだが、金糸雀には金糸雀なりの思惑があるのだろう。この場に自分の媒介が居ない不利というのもあるだろうし、何か他の考えもあるかもしれない。
 人形が自分と概略同じ種類の攻撃しか繰り出さないのであれば、金糸雀の技とは相性が悪い。それは、水銀燈自身が単独で行動している金糸雀を真っ先に狙わなかった理由でもある。
 それよりも翠星石の蛮勇が問題だった。

「真紅は私を無視し、アナタは嘘をついて惑わすの? そう! そんなにわたしを除け者にしたいってわけ」
 人形は一群の黒い羽根を礫のように放った。翠星石は咄嗟に如雨露をかざし、彼方にある世界樹の枝を呼び寄せて伸ばす。羽根は全て枝に阻まれた。
「やるじゃないの」
 人形の顔が獰猛な笑みを湛える。
「これは防げないわよ」
 また蛇のような形に羽根を集め、世界樹を回りこむように放つ。翠星石は別の枝を伸ばしてそれを防ごうとしたが、蛇はその隙間を縫って翠星石を突き飛ばした。
「きゃっ……」
 倒れこんだ翠星石を、蛇が大きく口を開けて飲み込む態勢になる。翠星石は慌てて立ち上がろうとするが、蛇の口の方が早かった。
 翠星石は観念して目を閉じかけたが、その耳に金属質の音が聞こえ、続いて蛇の発する耳障りな叫びが響いた。
 こわごわと目を開くと、蛇は庭師の鋏に顎を切り離されて退却するところだった。
「……蒼星石!」
 蒼星石は翠星石を振り返って済まなそうに微笑んだ。
「遅れてごめん」
 全くです、と減らず口を叩こうとしたが、言葉にならなかった。翠星石は蒼星石に抱きつき、蒼星石は戸惑ったようにその頭を撫でた。
 大きく回りこんできた水銀燈は二人の様子に肩を竦め、人形の方を見遣った。

「双子が揃ったか」
 人形は舌打ちし、真紅の姿を追って辺りを見回す。赤い服のドールは、契約者に抱えられて金糸雀のもとに向かうところだった。
「させないっ」
 人形は翼を長く伸ばし、ジュンの足首を掴んで締め上げた。
「うわっ」
 たまらず、ジュンはバランスを崩して前のめりに倒れる。それでも、真紅を抱えた腕はそのままだった。
「放してジュン、あの子の狙いは私なのよ」
「もうばっちり全員ターゲットになってるよっ」
 ジュンは顔を赤くして怒鳴った。
「そ、それに──」
 立ち上がりながら何かを言いかけた彼の背中に、黒い羽根が降り注ぐ。相変わらず狙いは絞れていないが、それでも少なくない数の羽根がジュンの服に突き立った。
「っ、こ、こういう攻撃なら僕の方が身体が大きい分、打たれ強いだろ」
 そのまま、痛みをやせ我慢して真紅を守るように背中を丸めて立ち上がる。
「しぶといわね」
 人形は羽根を滞空させ、それに炎を灯した。
「燃やしてあげる──」
「それこそ、させるものですか」
 撃ち出す寸前の羽根の群れに、全く同じ羽根の一群が横合いからぶつけられる。羽根同士が接触して燃え上がり、下に落ちた。
「小癪なッ」
 人形は腕をぶんと振り、伸ばした翼を薙刀か大鎌のように振るった。
「くっ……」
 水銀燈は咄嗟に自分も羽根と翼で防ごうとしたが、力負けして横ざまに放り出され、倒れこんだ。
 起き上がりながら、受けるのでなく避けるべきだったと後悔したが、後知恵でしかない。その間に人形はジュンに向き直って一撃を放っていた。
 相変わらず芸のない乱射だった。しかしジュンと、たまらず金糸雀の制止の声を振り切って駆け寄っていた雛苺の足を止めるには十分だった。
「ひゃぅ!」
「ぐぅ……」
 痩せ我慢も限界だった。ジュンはよろめき、その場に尻餅をついて座り込んだ。半身になりながらも人形の方を向いたのはほとんど意地だけだった。
「しぶとさだけは大したものね」
 人形は嘲笑した。
「ミーディアムに用はないの。さっさと抱えてる真紅を放しなさい」
「ジュン」
 真紅は俯いてしまったジュンの頬に触れた。
「……もう、やめろよっ」
 ジュンは振り絞るような声を出し、真紅は驚いて手を引っ込める。痛みに耐えながら立ち上がると、ジュンは顔を上げて人形を見た。
「ミーなんとかってのは、僕は知らない。お前が何者かとか、何があったかなんて興味もない。だけどっ」
 右手で真紅を抱えなおし、人形を睨みつける。
「八つ当たりか、恨みか知らないけど、もうこいつらを苛めるなっ」
 薔薇の指輪の嵌った左の拳を突き出す。その手はみっともないほど震えていたが、それでもその顔には決意の色があった。

「どうしてもやりたいなら、ぼ、僕が相手になってやる!」

 人形の隙を窺って次の一撃を入れようと身構えていた水銀燈ははっとして目を見張った。

──そうか、これで。

 その直感は正しかった。
 真紅を抱えたジュンの足元から、いきなり一本の巨大な薔薇の蕾がぬっと生えた。足を掬われるような恰好になったジュンはまた尻餅をつき、真紅はジュンの腕の中から出て薔薇を見上げる。
「なんだこれ……」
 薔薇はゆっくりと開花してゆく。その中心にあるものを見て、ジュンは息を呑んだ。
「真紅の……腕?」
 その瞬間、ジュンの指輪から赤い光を放つ糸がするりと伸びた。
 それは真紅の右腕の関節部と真紅の肩の穴をテンションゴムのように繋ぎ、花弁の中の腕を勢いよく引き寄せた。

「私の……手」

 拍子抜けするほど呆気なく、真紅の右腕は元通り繋がっていた。
「い、今のなんなんだ? ど、どーしちゃったんだ一体」
 つい先ほどの必死の決意もどこへやら、全く状況を理解できないと言いたげに、ジュンは指輪と自分の手を眺め回す。

「凄い……です」
 蒼星石にしがみついていた翠星石の手にきゅっと力が篭る。
「ジュン……」
 蒼星石は翠星石の顔をちらりと見て、戸惑ったようにまた前を向いた。翠星石の瞳には素直な憧憬と、恋する者の熱が篭っていた。それは蒼星石の見たことのない、眩しい色だった。

「まさか。そんなこと」
 雛苺を助け起こしながら金糸雀は信じられないと言いたげに瞬いた。
「薔薇乙女の外れたパーツを全バラせずに組み直すなんて非常識なことができるのは、お父様本人か……」
 雛苺は金糸雀を見上げた。
「ジュンはマエストロなのよ、カナ」
 金糸雀は頷き、生唾を飲み込んだ。
「……凄いわ、ジュン……やっぱりあれは本当だったのかしら」
「あれって?」
 雛苺に答えることも忘れたように、金糸雀は真紅とジュンを見守っていた。

 水銀燈は構えを解き、人形に数歩歩み寄った。
「そろそろ続きを思い出しても良いのではなくて? 『水銀燈』」
 自分で自分の名前を呼ぶというのも奇妙なものだと思いつつ、呆然と立ち尽くしている人形に声を掛ける。
 人形は鋭い動作で振り向いたが、その瞳は不安定に揺れていた。
「貴女の記憶にもあったのでしょう、今と似たような光景が」
「うるさい!」
 人形は黒い羽根を数本飛ばしたが、水銀燈は上体を軽く開いただけでそれを避けた。狙いが甘すぎ、先ほどまでの鋭さもなかった。

「貴女の記憶の大部分は私も持っている。ええ、ほぼ同一でしょうね。なにせ、出所は同じですもの」

 それどころか、今や人形の構成要素そのものが全て水銀燈の知識の中にあると言っていいし、人形自身が体験したことも媒介の記憶として概ね知っている。
 水銀燈は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。こういうシチュエーションを好む者もいるのだろうが、少なくとも彼女にとってはあまり愉快な感覚ではなかった。
「何を言って……」
 人形の動揺は激しくなった。水銀燈は視線を逸らした。警戒しなければ危険なのは分かっているが、どうにも自分自身を見ているようでやりきれないのだ。
「他人から与えられた記憶だけで自己完結していてはつまらないわよ。貴女には貴女自身の体験があるでしょう。思い出しなさい、そこまで」
「わたし自身の……?」
 人形は頭を抱え、小さく震え始めた。

「貴女は今とほぼ同じシチュエーションで『真紅』と戦って敗れた。
 媒介──ミーディアム、と言ったかしら?──の力を得た、貴女の姉妹の中でも最高傑作の『真紅』には、媒介なしの貴女では為す術もなかった」

 何故そんな極端な設定にしたのかと言いたい気分はあるが、こればかりはどうすることもできない。今更異世界のアニメ製作者に問い質すことはできないのだから。
 ちらりと見遣ると、真紅はじっとこちらを見詰めている。水銀燈は話を続けた。

「その後、貴女はローゼンの弟子である人形師の手で修復され、彼の思惑に乗って姉妹達と戦い、そして姉妹ともども、その人形師のドールに薨された」

 彼女に柿崎めぐという媒介がいたことは省いた。最後に腹部を作りつけられて再生されたことも。
 何故かそこは人形に思い出させるままに留めて置いた方が良いような気がした。

「──そこまでが、貴女に捻じ込まれていた記憶。
 残念だけど、そこにいる、貴女が躍起になって羽根を当てていた真紅は、翠星石の言うとおりの存在よ。
 貴女の記憶にある『真紅』とは、言わば同名の別人ね」

 人形は何も言わずに蹲った。身体の震えはおこりのように大きくなっている。

「そこから先──九秒前の白のような世界で誰かと出会ってからが、貴女の大事な記憶。
 本物の、貴女自身の記憶ということになるわね」

 水銀燈はできるだけ柔らかくそう言い、ゆっくりと人形に近づき、肩に手を触れた。
 人形は反射的にそれを払いのけた。水銀燈は一歩下がって身構えたが、人形はそれ以上何もせず、震えつづける。
「今は思い出せなくてもいい。でも、それは君だけの大切なモノだ。君自身が思い出さなければ、他に知る者はいない。いつか、思い出して」
 いつのまにか水銀燈の隣に来ていた蒼星石が、どこか自分自身に語りかけるような響きでそう言うと、人形は初めて、かすかに頷いてみせた。

 そのまま、暫く誰も言葉を発しなかった。
 やがて、水銀燈は人形が肩を震わせて涙を流していることに気付いた。先ほどまで薔薇乙女六人を相手に大立ち回りを演じていた姿が信じられないほど、邪気のない姿だった。
 水銀燈は大きく息をついて構えを解いた。
 首をひとつ振って脇を向くと、若干非難の色を含んだ蒼星石の視線があった。
「真紅の腕、真紅のマスターの決意……こうなることを知っていてわざと利用したのかい、『水銀燈』を」
「まさか」
 水銀燈は力なく笑った。
「あれがあの男並みの法外な力を持ってるなんて、予想外もいいところよ」
 あの男、というのが誰を指すのか、蒼星石には言わずもがなだった。彼女達二人、それに恐らく雪華綺晶と蹲ったままの人形の記憶以外にもう何処にも存在しない異邦人。
 結局、彼がその力を発揮したのは一度だけで、それもその殆どは彼女達の前ではなかった。しかも、本人はそれをまともに認識していたかどうかも怪しい。
「でも、君はあの剣を使わなかった」
 蒼星石は硬い表情のまま、淡々と指摘した。追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「メイメイに召喚させることはできたはずだ。あの剣なら、彼女を貫くことも切り捨てることもできた。違うかい」
 水銀燈は肩を竦め、頷いた。
「ええそうね。何が何でもあの人形を屠るって気はなかったわ。使える物は何でも利用する方が有利でしょう?」
 アリスゲームのためにはね、と水銀燈は笑い、蒼星石は思わず苦笑してしまう。
「……敵わないな、君には」
「何のこと?」
「僕は君ほど──」
 蒼星石が続きを言いかけたとき、蹲っていた人形の姿が不意に消えた。
「時間のようね。だいぶ手間取ったけど」
 水銀燈はやれやれと首を左右に傾けた。
「どういうこと?」
「夢が、切り替わるです」
 翠星石が真紅に告げる。
「ここからは、あのアホ人間の普通の夢です……」



[19752] 切り悪いところですいません。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/24 09:45
約130行。

非常に切りが悪いところですが、タイムアップのため今日のところはここまでです。

8/24 おかしなところ改訂。最近誤字とかのチェックが甘くなりすぎてる。登場人物大杉なのか。

*************************************************

 目映い光が辺りを包んだかと思うと、そこは明るい昼過ぎの教室に変わっていた。
 当番が給食道具を片付けた後なのか、教室の中には一クラスの半分ほどの人数が残ってそれぞれに好きなことをやっているようだった。
「最近こればっかりね」
 水銀燈はひょいと手近な机の上に飛び乗った。
「突拍子もない場所が出てこなくなったのはいいけれど、あまり変化がないのもつまらないものね」
「突拍子もない場所?」
 蒼星石は水銀燈を見上げて首を傾げる。
「例えば架空の宇宙ステーション、例えば古生代のジャングル。他にも記憶のどこから出てきたのか分からないような混沌とした場所とか……一度は教会の中、ってのもあったわね」
 水銀燈は遠くを見るような目になってそう言い、自分の言葉に慌てたように首を振った。
「……そうなのかい」
 蒼星石はそんな水銀燈の仕草を見なかった振りをして、内心でくすりと笑った。どうも例の病院裏の廃教会が舞台という訳ではなさそうだった。
「僕には新鮮だよ、この光景も。初めて見るものも沢山ある」
 へえ、と水銀燈は意外そうな声を上げて蒼星石に視線を向けた。
「貴女は契約した相手の夢をいつも覗いているものだと思ってたわ」
 蒼星石は苦笑した。
「マスターが命じれば毎日でも夢に入るさ。でも、できればあまり覗いてしまいたくないんだ」
「……それもそうね」
 水銀燈はまた視線を戻した。
 記憶の補正という、水銀燈が時間を掛けて手作業でやっていることを、蒼星石や翠星石は(それぞれ手段が偏っているとはいえ)自らの能力であっと言う間に片付けてしまうことができる。
 それだけに、一旦覗いてしまったら自分の思うように契約者の心を変えたくなってしまう誘惑も大きいのだろう。
「でも、君のしていることを否定するつもりはないよ」
 蒼星石も前を向いた。ジュンや水銀燈の媒介の少年の姿を目で探しながら、若干の羨ましさが混じった言葉を口にする。
「鋏で枝を切り揃えたり、如雨露で水を遣ったりして──ばっさりと不要なところを整形するのは簡単だ。
 自制さえしなければどんな相手に対してでもすぐにできる。それが僕たち双子の力だから。
 でも、君のやっていることは違う。よく知っている相手に、その人のことを想って接していなければできないことだ」
「それは誇大評価ね。私はこいつの記憶を、自分のできる範囲で、破綻が起きないように自分に都合のいい方向に改変して再構築させようとしているだけかもしれなくてよ」
 水銀燈は礼を言う代わりに素っ気無くそう切り捨て、大きく辺りを見回した。
「他の子は何処に行ったのかしらね。こう人間が多いと見付けにくいわ」
 ややわざとらしくやれやれといった風情を作り、水銀燈は天井近くまで舞い上がった。
 蒼星石は微笑んでそれを見上げ、視線を転じて教室の中の喧騒を眺めた。
 夢にしてはとても鮮明で、細かいところまで作られている。明るく開放的な雰囲気こそ正反対だが、心の木を伐る前に見たこの夢の主の夢の世界とどこか似ているように彼女には思えた。

──夢の世界を緻密に構成するという点では、心の木を伐る前の貴方も、今の貴方も変わらないのかもしれない。

 その感覚に安堵してしまうのは何故だろう、と蒼星石が首を傾げたとき、彼女が注意を向けていなかった教室の入り口の方から声があがった。

「しっかりするですチビ人間! ここはアホ人間の夢の中です、現実じゃないですよ」

 翠星石は制服姿になったジュンの袖をつまんで必死に言い聞かせた。
 ジュン達──ジュンと、彼と契約している二人、それに真紅を介してジュンから力を得ている雛苺──が出たのは同じ夢の中でも教室ではなく、その外側の廊下だった。
 廊下自体は薄暗く、まるで教室とは別の領域のように静かだった。
 水銀燈と蒼星石のように教室の中に移動しなかったのは、水銀燈の媒介の少年と彼等との距離を示しているのかもしれないし、ジュンの側で無意識に拒否感のようなものが働いたのかもしれない。
 ともあれ、三人の薔薇乙女達は引き戸を潜って教室の中を見回し、初めて見る光景を珍しがったり、既に何度か同じような光景を見て慣れている翠星石が得意げに雛苺に説明をしたり、と夢の風景を楽しんでいた。
 しかしそうしているうちに、彼女達の契約者の方は次第に顔色を悪くして、遂にはその場に座り込んでしまったのだ。
「どうしたのかしら」
 教室の中から金糸雀が顔を出したときには、ジュンは立てた膝を抱え込んで座り、俯いて上目遣いにぼんやりとした視線を引き戸に向けているだけで、翠星石と雛苺が話し掛けても反応を返さないところまで悪化してしまっていた。
「ジュンは大丈夫かしら」
「ここは、ジュンの心の傷に直に触れる場所なのだわ」
 金糸雀は真紅に目顔で尋ね、真紅は目を伏せて呟いた。
「ジュンも夢に入ることを決めたときに、こうなることをある程度は覚悟していたようなのだけれど……」
「そう……」
 頑張ってジュン、と金糸雀が右腕にそっと触れたが、ジュンはかたかたと震えるだけだった。
 それでもこの場から逃げ出したいと言ったり、目や耳を塞いでしまわないだけ、ジュンとしては意地を張っているのだ。ジュンの服装が制服に変わっているのもその表れだった。
 何度かトラウマに触れたときのジュンを見ている真紅にはそれが痛いほど分かったが、口にするのは躊躇われた。
 意地を張っているということは、この教室はジュンにとって、自分の力で何食わぬ顔で克服したい事柄なのだ。そうであれば、なけなしの意地を張っているなどと見抜かれたくもないだろう。
「貴女達、姿が見えないと思ったらここに居たの」
 水銀燈はもう一つの引き戸から出て廊下を飛んできたが、ジュンの様子を見ると眉根を寄せた。
「……まずいわね」
「あら、どうってことないのだわ」
 真紅は努めて明るい声で言った。
「確かに下僕は少し具合が悪そうだけど、私達に問題はなくてよ。それとも、私達だけでは貴女の用向きに差し障りが出るのかしら」
 水銀燈は何かを言いかけたが、真紅に問い掛けるような視線を向けると、一つ二つ瞬いてその言葉を飲み込み、ふっと息をついて別の台詞を口にした。
「そうね、差し障りはないわ。その気なら中の様子は見えるものね」
 実際には、引き戸を潜らなければ中の様子は見えない。それどころか音もほとんど漏れてこない。だが、水銀燈は厭味でそんなことを言っているわけではなかった。
 水銀燈は翠星石と雛苺の肩に手を置いた。
「貴女達はこっちにいらっしゃい。金糸雀、貴女もね」
 翠星石は抗議の声を上げそうになったが、水銀燈の顔を見て頷いた。部屋の中では少年の記憶が再生されている、それも何か重大な時点の記憶だろう、と見当をつけたからだ。
 そして、それは正しかった。当たっていなければよかったと後悔したくなるほどに正しかった。

 水銀燈に促されて三人がめいめい振り返りながら教室の中に入ってしまうと、真紅はジュンに寄り添って座った。
「ジュン」
 名前を呼ぶのは今日何度目だろうと思う。
 返答はないと思っていたのに、ジュンは僅かに身じろぎして真紅に視線を向けた。
「……お前は、入らなくていいのかよ」
「貴方を置いて行くわけにはいかないもの。全くどうしようもない下僕ね」
 こういうときの突き放した物言いは水銀燈の方が上手いのだろう、と真紅は僅かに羨望を覚えた。自分はどうしても何処かに本音がちらついてしまう。
「どうせ、どうしようもない奴だよ僕は」
 ジュンは恐怖も嫌悪感も何もかもぐるりと一周してしまったのか、膝を抱えるように組んだ腕の中に顔の下半分を埋めたまま淡々と言った。
「ウソの学校の中でも、こうやって教室に入れないで座ってるし」
 真紅は暫く黙ったまま、ジュンの横顔を見詰めていた。
 自虐の言葉には慣れていない。下手に慰めてはいけないのだとは思うが、では何と言葉を掛ければ良いのか、彼女には今ひとつ良い方法が浮かばない。それがもどかしく、そして自虐の言葉を安易に口にするジュンに苛立ちも感じる。
 それならば、と真紅はひとつ息をつき、素直な心境を口にした。
「ホーリエの選択に文句を言う気はないけれど、貴方の一体何処がこの真紅と共鳴しているのかしら」
「……なんだよ、急に」
 真紅は手を伸ばし、今度は顔をこちらに向けたジュンの頬に触れた。
「私の瞳を覗いて御覧なさい」
 ジュンは無言で真紅の瞳を見た。
「どう、何か見えて?」
 ジュンは何回か瞬いたが、よく分からないと言いたげにかすかに首を傾げる。
 真紅は僅かに落胆したが、それを表情には出さずに静かに語り始めた。
「人は皆、心に海を持っている。貴方も行ったことがあるでしょう、あの無限に広がる無意識の海のほんの一部がジュンの心の領海なの」
 人と薔薇乙女が契約するということは、薔薇乙女がその人の心の海から力を汲み上げることを契約することなのだ、と真紅は説明した。だから契約者の心が薔薇乙女に流れ込むことも起き得るのだと。
 だから、人工精霊はそれぞれの乙女の心に似合う心の持ち主を選ぶ。ホーリエがジュンを選んだということは、真紅の心とジュンの心は似通っているか、何処か平仄が合っているということなのだ。
「マスターの心はドールの心。蒼星石がマスターの心の影を壊していたら……あの子の魂は遠くに行ってしまったでしょうね。それ程までに契約者と私達は……今のジュンと真紅は近いものなのよ」
 私の瞳の中に貴方の心は映っていて? と真紅は小さな両手でジュンの頬を挟むようにして顔を近づける。
 だが、ジュンは辛そうな表情になって視線を逸らしてしまった。
「……僕はお前と近くなんかない」
 ジュンは腕を解き、真紅の肩を掴んでそっと引き離した。真紅は何も言わずにジュンを見詰めた。
「わかってるさ、そんなこと」

 真紅がジュンに薔薇乙女と契約者の繋がりを語っている頃、教室の中では過去の情景のリプレイが上演されていた。
 水銀燈がジュンの状態を見て表情を険しくしたのも当然だった。
 リプレイされているのは昨年の文化祭の前、ジュンのクラスから学年対抗プリンセスの候補が選ばれたことが発表されたことから始まる、ジュンにとっては非常に厳しい情景の連続だった。教室に入る前から躓いているのでは、到底正視に耐えられないだろう。
 水銀燈の媒介の少年は、一貫してあまりやる気のない風で教室の真ん中後方に座っている。雛苺の前契約者とは仲が良いようで折々に話はしているが、全体としてみれば何にもあまり関心を向けずにぼんやりと過ごしているようだった。
 リプレイの中のジュンはそうではなかった。プリンセス候補に選ばれた少女の方を熱っぽい視線で見遣り、翌日にはその娘をモデルにした衣装のスケッチを、あろうことか課題のノートに描いてしまっていた。
「随分積極的かしら」
 金糸雀は目をぱちくりさせた。
「でも、あのノートは国語のノートみたいだけど……」
 金糸雀の言葉が届いたわけではないが、ジュンもどうやらノートを提出する寸前にそのスケッチを描いたことを思い出したらしい。ジュンはそのスケッチを描いたページだけをノートから切り取り、鞄に仕舞いこんだ。
 水銀燈以外のドール達が息を呑んだり小さな悲鳴を発したのはその後の場面だった。

 ジュンが衣装のラフスケッチを描いたノートのページが黒板の真ん中に貼り出されている。
 勿論、賞賛の意味合いでなど欠片もない。むしろ反対だった。濃緑色のはずの黒板は色とりどりのチョークで書き殴られた非難、揶揄、悪意ある煽り文句といったもので埋め尽くされ、大袈裟に言えばほとんどその色を留めていない。
 遅れて教室に入った少年が見たのはその黒板の惨状と、その前で座り込んでしまっているジュンの姿だった。
「これは……」
 蒼星石は呆然と黒板を眺めた。
「酷いの……ジュン悪くないのよ」
 雛苺は泣き出し、金糸雀に縋り付いた。
「醜い嫉妬。才のある者が疎まれるのはいつも同じかしら」
「嫉妬だけではないです」
 翠星石はどうにかこらえていた。中傷の一つを指差す。
「男らしくないマイナーな趣味持ってる……って、排斥の対象になってるですよ」
 ジュンは既に数人の大人に抱えられて教室を出ていた。教室の中は事情を知らずに黒板を見て驚く者、黒板に中傷を書いた者を非難する者もちらほらと居たが、大半は黒板を遠巻きにして無感情な顔で眺めているだけだった。
「難しいことはわかんないけどさ、苛めの構図、ってヤツ? あれだよ」
 水銀燈の媒介の少年はドール達を振り向いてそう言い、黒板を消し始めた。しかし、チョークを大量に浪費して書かれた文字たちは分量が多すぎ、なかなか一気に消せない。
 結局少年はバケツに入れた雑巾を持ってきて、濡れ雑巾で黒板を拭いた。
「桜田は頭はいいんだけど、友達を作るのが下手で大抵一人ぼっちだったからさ」
 少年はドール達に向き直り、苦い声で言った。
「お高く止まってる、って言うヤツもいたし、変な趣味持ってるって前から噂を広めてるヤツもいた。そういうのが一気に噴き出したんだよな」
 もちろんジュンの鞄から絵を盗み出して黒板に貼り付けた者が直接の原因なのだが、少年はその一人か数人だけに罪を擦り付ける積もりはないようだった。
「あとは、便乗、便乗さ。多分半分くらいのヤツはただ面白がって書いただけ。雰囲気に乗っただけだ」
 少年はバケツの水で雑巾を洗い、残りをどうにか消してしまった。
「あと、俺みたいなヤツもいる」
 少年は本来の色になった黒板に、何にもしなかったヤツ、と書いた。一拍の間自分の字を見つめて、そして雑巾で拭き取った。
「注意すればできた。前から桜田の粗を探して付き纏ってるヤツがいるのは知ってたし、黒板の事だって、桜田より先に見つけたヤツが消しちまえば、桜田が見ることはなかったんだ」
 みんな最低ヤローだよ、もちろん俺もだ、と少年はクラスメイトを一纏めにして吐き捨てた。
「俺は桜田が課題ノートになんか描いて学校に持ってきたのは知ってたんだ。あのとき学校に持ってくんなよって注意しとけば、何も起きなかったかもしれない」
「意味のない繰言よ。それとも自虐で許しを請いたいの?」
 水銀燈は媒介の妄想を冷徹な言葉で止めた。

 蒼星石が水銀燈の心境を知ったら、微笑むか苦笑したかもしれない。
 媒介は実際には回りくどい方法でジュンにとってのカタストロフィを回避しようとし、それ自体は成功した。ただし、ジュンにとっては更に辛い結果を招来することになった──水銀燈はそのことを説明せずに、彼の言葉だけを窘めて話を終わらせた。
 その行為をしたことで、ある意味で更に酷い結果を招いたのだ、と告げるのは、行為の意図が何処にあったかの記憶を持たない彼にとってあまりに残酷な気がしたからだ。

 自分がそこを敢えて触れないことは、水銀燈が自ら口にしたように「都合の良い記憶の捏造」とも言えるのではないか、という認識は針のように水銀燈の内心のどこかを刺した。だが、彼女はそれを無視して言葉を続けた。
「あちこち記憶を失っていても、後悔する癖は抜けてないようね。卵が割れた責任の所在を後からどう論争しても、卵は元には戻らないわよ」
 その言葉は間接的に媒介のした行為をも赦すものだったが、口にした本人以外は恐らく誰もそのことを知らない。
「……ごめん」
 少年は素直に頭を下げた。
 水銀燈は軽く頷き、今日は本当に悪い方にばかり事が進んだわね、と溜息をつく。一気呵成に物事を進めるというのは、なかなかに骨が折れることだった。



[19752] どうにか。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/08/25 09:23
人数多いのはやりにくいですな。
約100行。

8/25 ひどいところを手直し。最近手直しばっか。

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 教室の風景はまた賑やかな昼休みに戻っていた。
 いち早く気を取り直した金糸雀が少年にあれこれ質問し、少年もすぐにいつもの調子に戻ってそれに答える。どこか薄ぼんやりしていたモノも少年が説明にかかると急にはっきりとした輪郭を持って存在し始めるのは、夢の中特有の光景だった。
 雛苺は巴の姿を見つけて盛んに話し掛け、抱っこしてとおねだりしてみたり、膨れたり笑ったりしてみている。もちろん夢の中の虚像だからろくに反応を返しはしない。雛苺もそれは分かっているはずなのに、楽しそうに巴の隣に寄り添っていた。
 蒼星石と水銀燈も少年の傍でなにやかやと話をしているのを確かめてから、翠星石はそっと教室の引き戸を開けた。ジュンのことが気になっていた。

──まあ、真紅がついてるから、大丈夫なんでしょうけど。

 翠星石にも、自分より真紅の方がジュンに近いのは分かっている。普段の日常では等距離と言ってもいいが、こと重大な局面では真紅とジュンは表裏一体といってよいほど近い存在だった。
 ジュンが何かを乗り越えようとするときは、必ず真紅が関わっていた。nのフィールドに漂っていた腕を取り戻したときもそうだったし、先ほどの人形との戦いでも、ジュンは真紅を必死に護ろうとして何かを吹っ切り、腕を繋ぎなおすことができたのだ。
 真紅がいればジュンには他に助けなど要らないだろう。
 それでも翠星石はジュンの様子を確かめたかった。理由は自分でもよく分からないが、自分だってジュンをマスターにしているのだから当然だ、と思うことにする。
 何処となくもやもやした気分のまま引き戸を開けると、ちょうど真紅が引き戸の前にいた。
「ジュンは……」
 真紅は少しだけ驚いたような表情になったが、大丈夫よ、とはっきりした声で言った。
「これから中に入ろうと思っていたところよ」
 翠星石は真紅の背後を見た。ジュンは廊下の壁に手をついて、前かがみになりながらもどうにか立っている。操り人形のようにぎこちなく、それでも一歩ずつ引き戸に向かってきていた。
 頑張って、と翠星石は声には出さずにジュンを見つめた。これで中に入れれば、ジュンは多分何かもう一つ吹っ切ることができる。
 それは何なのか、具体的には分からないけれど──
「──翠星石」
 思わず身を乗り出していた翠星石を真紅がつつく。
「あ、はい」
「もう水銀燈の用向きは終わってしまったのかしら」
 翠星石は一拍の間考え、いいえ、と答えた。
 教室の中は少年を中心にして雑談に花が咲き、何とはなしに和気藹々といった雰囲気になっている。普段の水銀燈ならそういうことを無駄だと断じて、用事は終わったと皆を追い出してしまうはずだ。
「元々水銀燈はジュンに話したいことがあったはずです。だから、多分」
「中で待っている、ということ?」
「はい」
 もっとも今はみんなアホ人間と騒いでるだけですけどね、と翠星石は水銀燈を真似て肩を竦めてみせた。
「そう。だったら、どうしても中に入らなくてはね。これだけ前座芝居を長く見せて貰ったのですもの、本番くらいはこちらから出向かなくては」
「……だから、そのために、もうここまで来てるだろっ」
 ジュンは青い顔のまま強がってみせる。
「ぼ、僕は別に教室に入れないわけじゃないんだ。ただ、ちょっとこういう世界に慣れてないから、調子が悪いだけで」
「それならば早くなさい、あまり待たせると水銀燈が痺れを切らして襲い掛かってくるかもしれないわよ」
「……わかってるよ」
 いざるように引き戸に近寄るジュンを、真紅は微笑んで見守っている。翠星石は何故かそれを見詰めるのが苦しくて、ジュンの顔に視線を向けた。
 ジュンが減らず口で言い訳ができるような心境になれるまでに真紅がどれだけ頑張ったのか、翠星石にはわからない。ただ、真紅は必要ならばいくらでも時間を掛けてジュンを励ますだろう、ということは知っている。
 真紅は不器用だ、と水銀燈は言った。そうかもしれない。それでも、真紅には時間がかかっても自分のやり方を通すだけの粘り強さと、それを裏付ける賢さと忍耐がある。
 翠星石はそういった資質には劣っている。その代わり、直感で物事を見抜く力や行動力には長けていた。
 そういった長所は、真紅にとってはいっそ眩しいくらいに映ることもあるのだが、今の翠星石自身としては全く意味のないことにしか思えなかった。
 むしろ、如雨露を持たないときの自分は全く無力だ、と思う。いつでも直截な言葉か捻くれた台詞しか掛けてやれないなんて。それでも──

「──頑張るです、ジュン」

 言ってからハッと気づく。今度はつい口に出してしまった。
「言われなくても頑張ってるだろ」
 ジュンは言葉だけはすげなく、しかしあるかなしかの感謝を込めて返事をした。
 翠星石は思わず口元を手で覆った。

──翠星石の気持ちが、通じたのですか。口を滑らせただけなのに……

 そんなことは契約しているから当然なのかもしれない、とは思う。しかし、それでも素直な嬉しさが胸を満たしていく。
 翠星石は泣いているのか笑っているのか自分でもよく分からない顔で、頷く代わりに毒づく。
「そんなヘナヘナな姿勢で言っても説得力ゼロですぅ。悔しかったらもっとシャキっと背中伸ばして二本の足で立ってみやがれですこのチビ人間」
「うるさい!」
 ジュンは顔を真っ赤に染め、今度は本当に怒りを露わにした。
「た、立って堂々とすればいいんだろ。やってやるよ」
 もう、引き戸まではわずか数歩の距離だった。ジュンは翠星石の言ったとおり、壁に寄りかかるのをやめ、背中を伸ばしてギクシャクと引き戸に歩み寄る。
 だが、それはあと僅かのところで止まってしまった。

 三人とも、暫く無言だった。
 あと一歩。それがなかなか踏み出せない。
 こんなときジュンの肩を抱いたり、後ろから支えて導いてあげられたら、と翠星石は思う。偶然にしても気持ちは伝えられるが、そういったことは彼女には無理なのだ。
 それは人形と人間だから、とか、作られたときに与えられた性格付けが、とかいった高尚なこととは無関係だった。単に、彼女とジュンの背丈の差だけの問題だ。
 それでも、できることはないわけではない。彼女は真紅の手を取った。
「翠星石……?」
 真紅の手を、ひどく震えながら引き戸の方に伸ばそうとしているジュンの手に重ね、自分もそこに手を添える。真紅はやっと得心したように頷き、ジュンの手を引き戸の取っ手のところに導いた。
「ほーらジュン、また前かがみじゃねーですか。陰険おじじもびっくりの前傾姿勢ですぅ。いっそ杖でも突きますか?」
 目の前の真紅は安堵したように微笑んでいる。それは先ほどまでの作った微笑ではなく、彼女自身の嬉しさが滲み出た笑いだった。
 ジュンがどもりながら抗議するのを聞きながら、自分は今度はちゃんと笑えているだろうか、と翠星石は思った。


「さて……全員揃ったわけだけど」
 少年はきょろきょろと周囲を見回した。
 彼の近くには蒼星石と水銀燈が座り、雛苺は無理をしてどうにか巴の虚像の膝の上に乗り、他の四人はジュンを真ん中にして、入り口近くの場所に集まっていた。
「みんな集めて、どんな話があるんだい」
 言葉を向けられた水銀燈は、最近お気に入りらしい教卓の上に飛んでいった。そこに腰を掛け、ジュンに視線を向ける。
「初めに言っておくけど、今日はことごとくサイコロに裏切られた心境」
 彼女にとっては概ね悪いほうにばかり転んだわけだが、水銀燈は悔しさや苛立ちは見せなかった。
「そこの媒介が酷い夢を見たお陰で、結果的には話したかったところ以外まで生々しく見せられたわけだけどね」
 皮肉たっぷりの口調で言ったが、当の本人には上手く伝わらなかったようだ。媒介の少年はどちらかと言えばこそばゆいような表情をしている。
 水銀燈はまじまじとその顔を見遣り、全員の視線が少年に集まってから大仰に肩を竦めてみせた。
「ま、事故だと思って頂戴。本人にもどんな夢を見るのかまでは操れないのだから」
 そもそも全員同意の上で同行したのですものねぇ、と言い置くのも忘れない。
 ブーイングこそ出なかったが、何人かはぶすっとした顔になった。
「あの子についても、やはり事故なのかしら」
 真紅は生真面目な表情のまま、真っ直ぐに水銀燈を見る。水銀燈は視線を逸らさずに答えた。
「あの人形の件は私の見込み違いよ。予想外もいいところだったわ。甘く見過ぎていたかもね」
 動き出して立ち上がるくらいのことは想定していたが、真紅を見て一気に記憶が戻るとは思いもよらなかった。しかも完全に全てというわけではなく、考えうる限り最悪の時点まで。
 まるで何者かにその辺りを操られているようでもあった。
 もっとも、仮に操る者がいたとしたら、その正体には大体目星はついているのだが。
「それで話っていうのは……」
 ジュンはそちらに興味が向いているようで、水銀燈を急かした。意地の悪い見方をするならば、彼にとってここは依然として居心地が良くない場所だから用件を早く済ませたいのかもしれない。
「人形のことなのか?」
「まずはそれね」
 単刀直入に言うわ、と水銀燈はジュンに視線を向けた。
「人間、貴方には、あの人形のボディと衣装を作って欲しいの」
「え? ぼ、僕があれの……なんでだよ」
 ジュンは混乱しているようだった。水銀燈はそれを無視して、事も無げに続ける。

「勿論、あの人形を現実世界に存在させるためよ」

 何のことか分かっていない少年以外の全員が一様に息を呑んだ。
 最初に小首を傾げてコメントしたのは金糸雀だった。
「水銀燈らしい大胆な提案ね、でも理由がわからないかしら」
 彼女は水銀燈の意図を肯定も否定もしなかったが、他の反応は概ね否定的だった。
「水銀燈、遂に頭イカレちまったですか」
 翠星石は直截な言葉を放った。
「アンタがその……『水銀燈』に拘りを持ってるのは分かってますけど、無茶苦茶です。そんなことできるかも分からんですし、出来たとしても何になるって言うんですか」
 真紅は翠星石を手で制してジュンを見遣り、水銀燈に視線を戻した。
「此処にいればあの子は曲がりなりにも自分の力で動けるのだわ。此処は幻影──アストラルでも存在することができる場所なのだから。でも現実世界ではそうは行かない。エーテルの体が自律して動くためには誰かが力を与えるか、それに代わるものが必要よ」
 例えばローザミスティカのような──真紅ははっとして水銀燈を見詰めなおす。
「まさか、貴女はローザミスティカを……」
「そうなったら美しいお話ね。でも生憎とただの可哀想な人形にそこまで入れ込むような趣味は持ち合わせてないわ」
 むしろ逆ね、と水銀燈はあっさり首を振った。
「此処を含めて、nのフィールドにあれを置いておくのは危険なのよ。おわかりでしょう、さっきのことだけでも」
 その点について異議のある者はいなかった。
 更にもう一つ、と水銀燈は若干間を置いて続けた。
「あれの力を雪華綺晶──第七ドールが利用する可能性もあるわね」
 真紅は瞬き、先程の水銀燈の言葉を思い起こした。
「貴女、第七に逢ったと言っていたわね、水銀燈」
「ええ。中々の狂いっぷりだったわよ」
 水銀燈は何かを思い出すように視線を天井に向けた。
「彼女は何もかも異質。それに、言わばあれの生みの親でもあるわね。もっとも意図して作り上げたのではなくて、勝手に育ってしまったのでしょうけど」
 真紅は少し顎を引き、金糸雀と視線を交わした。
「詳しく教えて欲しいのだわ、水銀燈。私たちの末妹と、あの子の作られた経緯を」
 水銀燈は頷き、長くなるわよ、話してるこっちがうんざりするほどにね、と前置きをしてから、自分の媒介のこと、そして雪華綺晶のことを順を追って語り始めた。



[19752] メインPCお亡くなり。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/08/29 00:11
240行くらい。のはず。

8/27訂正:嘘です。140行。240ってなんだよorz すみません。

いつにも増してテンションの低い長話ですみません。
いやもうテメーのテンションが低いもので。

PC早く来ないかなぁ。

8/29 何箇所か修正。

**************************************************

 水銀燈が長い話を終えると、その場には何とも言えない空気が流れた。
 事前に話を知っていた双子の庭師以外の者にとって、水銀燈の媒介が奇妙な存在だったことはもちろん驚くべき事実には違いない。しかし未だに見たことのない第七ドールの異質さはそれを遥かに上回る衝撃だった。
「実体を持たないゆえに、何にも縛られない自由な存在……」
 そんな都合のいいものなのだろうか、と真紅は首を傾げる。
「制約はあるのよ。現実世界に出て行けない、力を振るえない、というのはアリスゲームを遂行する上で絶対的な不利かしら」
 金糸雀は床に丸を描くように傘の先を回した。
「捕食者としては優秀でも、正体を知られて警戒されて、例えばnのフィールドでいつも複数で行動されたら息を潜めてるしかないの」
 今度は動き回っている生徒の虚像を傘の先でひょいひょいと示す。なにやら彼女としては傘を説明の補助に使っているらしいが、お世辞にも役に立っているとは言えなかった。
「それにマスターの心を糧にしてるなら、一人か二人しか起きていない時代に姉妹の数を減らしていったら、下手をするとその先自分の糧が断たれてしまうかしら」
 翠星石は得心したようにぽんと手を鳴らした。
「今まで誰も会ったことがなかったってのは、そういうことだったですか」
「推測だけど、多分間違いないかしら。七人全員が揃って『起きている』時代に一気に勝負を掛けないと雪華綺晶の勝ち目はない。しかも複数を一時に相手取ったら勝てないかもしれない。こいつはハードルゲロ高かしら」

 ただし、と説明をしながら金糸雀は思う。
 こちらとしてもnのフィールドに潜む雪華綺晶を最初のターゲットにするわけには行かないから、初期配置時点ではさほど不利とは言えないかもしれない。
 何しろ何処にいるのかさえ知られていないのだから「誰かの次」の目標にするしかない。そして、雪華綺晶側は戦いの行く末をじっくり観察した上で、戦いがnのフィールドで行われているときを選んで好きなように介入できる。あわよくば漁夫の利を狙うこともできよう。
 気長に考えれば、どこか戦機が動いたところで後の先を取ることが出来る彼女はゲームのプレイヤーとして特殊だが立場は互角とも言えるだろう。
 だが、それは正体が知られるまでの話だ。
 金糸雀は巣を張って昆虫を待ち構える蜘蛛を思った。巣を掛ける場所をどれだけ選んだところで、そこに巣があると分かれば虫はなかなか寄り付かない。
 そして今、最初の待ち伏せに失敗してしまい、巣の在り処を虫達に知らせてしまった蜘蛛はどう行動するのだろうか?
 巣を掛け変えて更に時を待つのか、それとも慣れないけれども襲撃者として動こうとするのか。

「なんか、厭だな俺」
 水銀燈と雛苺がジュンのところに集まり、結果的に少し皆と離れてしまった自分の席で、少年は呟いた。
「どうしたんだい」
 隣の席に器用に座った蒼星石が少年を見上げる。
 彼女にとって、水銀燈の長い話を聞いているのは微妙な心境だった。退屈とは言わないがあらましは知っていたし、言わば当事者の一人でもあったからだ。
 それでも、蒼星石は同意や意見を求められたとき以外は黙って聞き役に徹していた。語る方に加わるには彼女の関わり方は薄すぎた。
 それについては致し方ないと思う。何しろ雪華綺晶が二人を襲撃したとき、彼女は自分自身のことで手一杯だったのだから。
「アリスゲームが大事ってのは知ってるけど、今の説明じゃ……なんていうか」
 昔の俺なら上手く説明できたのかな、と少年は情けない笑いを浮かべて蒼星石をちらりと見る。彼女は困惑して首を傾げることしか出来なかった。
「雪華綺晶って最後に生まれたんだよな」
「そうだね」
 蒼星石は少し遠い目をした。

 人形師にして錬金術師ローゼン、彼女等の父であり創造主は、膨大な時間を費やしてローザミスティカを生成した後、最高の素体──ローゼンメイデンを創り上げた。
 しかしローザミスティカを七つに割ったひと欠けずつを入れられた彼女達も、彼の追い求める究極の少女たり得なかった。
 一体作っては嘆息し、二体作っては絶望に打ちひしがれながらも、ローゼンは自分の娘達に愛情を持って接することは止めなかった。姉妹の数が六人になったときも、彼はまだ創るのを止めようとはしなかった。
 しかし、姉妹の誰にも見せずに七体目を作った後、ローゼンは遂に絶望の淵から帰ってこなかった。彼は近くて遠い何処かに去り、彼女達は野に放たれ、そして──

「作ったときはみんな、その時の最高傑作なんだよな」
 少年はぽつりと言った。蒼星石ははっとして少年の顔に視線を向けたが、少年は考えを言葉に纏めようと必死になっているだけで、その一言に特別に意味を持たせたわけではないようだった。
 蒼星石はまた、そうだね、とだけ答えた。
 彼女達は皆、最高傑作でありながら同時に不完全だった。それが薔薇乙女の誇りであり負い目でもある。
 彼女達が皆アリスになろうとするのは、父に逢いたいという願望のためだけではなく、真の最高傑作かつ完全なモノに成るためでもある。いや、何人かにとってはむしろその方が重要なのかもしれない。
「だったら……どうして雪華綺晶だけ、独りぼっちにしたのかな」
 少年は蒼星石に視線を向けた。彼女は返事に詰まり、その視線をただ受け止めるしかなかった。
「あの説明のままじゃあ、まるでアリスゲームをするためだけに生まれてきたみたいじゃないか」
 それは記憶を失ったことでほとんど何も知らない状態になってしまった少年だからこそ生まれた感想なのかもしれない、と蒼星石は思った。
 幼稚な感想かもしれない。だがいつもそうであるように、今回もまた彼女には頭ごなしにその感想を否定することはできなかった。
「……僕達だって似たようなものさ」
 金糸雀を中心に、雪華綺晶に対してどうすべきか、というような話題になりかけている他の面々を眺めながら蒼星石は呟いた。
「人間が子供を作って自分の遺伝子を残すように、僕たちはアリスゲームを克ち抜いてアリスになる。そう刷り込まれているんだよ」
 どんなに動くさまが似ていても、彼女達は人間ではない。遺伝子を残すことを最初から否定されているという点では生物であるとさえ言えない。
 しかしどれほど外見が同じだからといって、ただの自動人形でもない。自律して自我を持ち、生きる意味と闘う意味を明確に持っているのだから。
「本来、他のことは全てそのための準備や布石に過ぎない。マスターとの生活も、姉妹での語らいも……」
 少年は蒼星石を見詰めた。その視線を感じながら彼女は敢えて淡々と言葉を続ける。
「雪華綺晶の立場では偶々そういったものが周囲に無いだけなんだ。
 それに……これは僕の推測に過ぎないけど、彼女が本当にマスター達の心を吸って生きているのなら、その心に触れることだってあるんじゃないかな」
 最後の一言は、どちらかと言えば蒼星石の願望に近かった。
 少年は暫くの間、どうにか彼女の言葉を納得しようとするように黙り込んでいた。やがて、申し訳なさそうにごめんと首を振った。
「……それでも厭だな、俺。良いとか悪いとかじゃなくて、なんか、上手く言えないけど、厭だ」
 蒼星石はますます困惑して少年を見詰め返した。
 もしかしたら自分は何か大事な視点を欠いているのではないか、とふと感じてしまったからだ。
 少年は何を誤解したのか、ごめんな、とまた頭を下げ、ついでに帽子の上から蒼星石の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 どうやら彼なりの謝罪のつもりらしいが、少年の撫で方は壊れ易い人形に対するものというよりは親しい元気な男の子を構ってやるときのように粗雑だった。
 父親からも今までのマスター達からも、こんな撫で方をされたことはなかった。彼等は常に彼女を大切なドールとして丁寧に扱ってくれていたし、そもそも頭を撫でるという行為自体、あまり一般的でない場合が多い。
 しかし、不思議と少年の手の感触は悪いものではなかった。彼女は素直にそのがさつな謝罪を受け入れた。

 蒼星石がもう少し散漫な性格か、そうでなくても気持ちに余裕があれば、少年の直前の言葉の意味をおぼろげなりとも理解したかもしれない。
 しかし、こういった契約者以外との些細な触れ合いが雪華綺晶には有り得ない、彼女の世界は完全に閉じているのだとこの場で再認識するには、蒼星石の感性は生真面目過ぎていた。


 夢から出ると、空はもう真っ暗だった。部屋の真ん中に敷いた布団で相変わらず太平楽な表情で眠っている少年をそのままにして、ユニットバスの鏡からジュンと薔薇乙女達はそれぞれの家に戻った。
 ジュンの部屋に戻った真紅は右手で時計を持って時間を確認し、ひとつ溜息をついた。右腕側で何かをするというのは久しぶりの感覚だった。
 もっとも、真紅にとっては片腕が戻ったことよりも、何処かが欠損していても自分は自分なのだということを知ったときの方が嬉しかった。右腕がなくても不便なだけだ。今なら、負け惜しみでなくはっきりとそう言える。
 今も彼女に背を向けてなにやらパソコンに熱中しているジュンをちらりと見遣り、もう一度時計に視線を落として先程のことを思う。

 別れ際、真紅は最後に鏡の前に残った。ちらりと部屋を振り返る。
「水銀燈」
 蛍光灯が消されて豆電球の明かりだけになった部屋の中で、水銀燈は姉妹達を見送ろうともせず、窓枠に座ってなにやら外を眺めているようだった。
「教えて貰ってもいいかしら」
 薄暗い中で水銀燈がこちらを向いた。真紅は風呂場を出て部屋の戸の前まで歩み寄った。
「あの人形がどうして『真紅』をあれほど憎んでいたのか」
「『そういう風に作られた』では満足できないの? さすが、無駄な知識欲の塊ねぇ」
 くすくすと笑い声が夜風に乗って吹き込んでくる。
「茶化さないで。……知りたいの」
「呆れた」
 水銀燈は肩を竦めた。
「どう考えたって面白くない物語なのはお分かりでしょうに」
「それでも知りたいの。お願い」
 貴女が話したくないのなら諦めるけれど、と言うと、水銀燈は座っていた足を組み替えて視線をまた窓外に向けた。
「腹部のないドールが勝手に動いて貴女の足元に擦り寄ってきたら、貴女はどうする?」
 ああ、聞くまでもなかったわねぇ、と水銀燈はにやりと笑い、先程の光景を思い出した真紅は恥ずかしさとからかわれたことへの怒りで頬を僅かに染めた。
「作られると同時に工房を出され、それからアリスゲームにのみ生きていた『真紅』は違う反応をしたのよ。どうやら、心霊現象には強かったようね。
 ローゼンメイデンの第一ドールと名乗るだけで、ただ『お父様』を求めること以外にろくに記憶も知識も持っていなかったその不完全な人形に手を差し伸べたってわけ」
 とは言っても、そのとき人形はもう逆十字のドレスを着ていたのだけどね、と水銀燈は自分を指差す。真紅はどきりとしたが、黙って頷いた。水銀燈の仕草は、まるで自分自身のことを話しているかのようだった。ただ、それは──
「世に放たれてから幾つかの時代を経て、その間ひたすら姉妹と戦い続けてきた彼女にとっては、その人形に優しくしてあげること自体が慰め……というのは言い過ぎかしらね。癒しだったのかもしれない」
 それは、まるで水銀燈自身が──
「『水銀燈』は作りかけの習作。あるいはジャンク。ローザミスティカも胴体部も持たないのに自律して立って動く化け物とも言えるわね」
 化け物という言葉に真紅が抗議しかけるのを、貴女だって化け物と思ったでしょう、と水銀燈はにやりと笑って制した。
「その人形が、人形らしく楽しく暮らしてくれること。それが彼女の望みだった。
 でも人形はあろうことかローザミスティカを手に入れ、いよいよおおっぴらにローゼンメイデンを名乗ることになってしまった」
 ローザミスティカは誰かから奪ったのではなくて、『お父様』が後から思い直して彼女にくれたらしいわ、と水銀燈はシニカルな笑いを浮かべる。
「どうして……」
「そこは明かされていないの。だから実も蓋もない言い方をすれば、作劇上の都合でしょう。『水銀燈』をより悲劇的に見せる為の。
 劇中の経緯から敢えて推測するなら、やっと『お父様』への想いに気付いて遅まきながら第一ドールとして認めてあげた、という筋なのかもね」
 水銀燈はあっさり切り捨て、あっさりと続けた。
「ともかく、それで彼女は思ったままを口にしてしまうのよ。貴女は作りかけの可哀想なドール、究極を目指して作られた私達とは違う、ってね」
 真紅はなんとも言えない気持ちになって水銀燈を見た。

「『水銀燈』は怒って『真紅』が大切にしていたブローチを壊してしまう。それは『お父様』から貰った大切なもの。それを見て、彼女は遂に本音を吐くのよ。
 『どうして……ジャンクのくせに。作りかけの……ジャンクのくせに!』ってね」

 端折っているけどだいたいこんなところね、と水銀燈は薄く笑った。これじゃ恨まれてもしようがないでしょう? と肩を竦める。
 真紅はありがとうと言い、ごめんなさい、と頭を下げた。
「謝るようなことをされた覚えはないけど」
 水銀燈は首を傾げた。真紅はふるふると首を振った。
「『真紅』のことを話していた貴女は、まるで自分の過去を振り返るようだったわ」
「そう?」
「ええ。貴女──戦いだけに生きていたという『真紅』は、貴女にとてもよく似ていたから。そんな風に突き放して話すのは、辛いのではなくて?」
 それなのに、私は貴女に無理を言ってしまった。ごめんなさい、と真紅は俯いた。
 水銀燈はやや困惑したように黙っていた。そういう視点があるとは思わなかったのかもしれない。
「それから、もう一つ」
 真紅が続けると、水銀燈はくすくすと笑った。
「やけに素直なのね。いいわ、神父の代わりに懺悔を受けてあげる」
「茶化さないで」
 真紅は少しだけむきになったような声を出したが、すぐに改まった調子になった。
「……ジャンクなんて言って悪かったわ」
 水銀燈は今度ははぐらかすようなことは言わなかった。それは『真紅』が『水銀燈』に放った言葉のことでないのは、説明されるまでもなかったのだろう。
 真紅はもう一度、ジャンクなんて言ってごめんなさい、と呟くように言い、顔を上げた。不粋だとは思うが、聞きたいことができたのだ。
「貴女の知っている世界でも、私は同じことを言ったのかしら」
「……シチュエーションに違いはあったけれどね」
 水銀燈は漫画の場面のように激昂する代わりに、真紅の右手を取った。
「そして貴女はこうも言っていた。
 『ジュンが迷子のぬいぐるみや私の右腕を蘇らせたように、呼んでくれる声に気付きさえすれば、誰もジャンクになんてならない。そうジュンが私に教えてくれた』
 ──それは、この世界でも貴女の想いとして捉えていいのかしらね?」
 真紅は目を見張り、それから返事の代わりに水銀燈の手をきゅっと握った。
「本当になんでもお見通しなのね」
 本音を言えば少しだけ怖い。今の水銀燈に仕掛けられたら、勝ち目はないように思う。
「たまたま知ってるだけよ」
 真紅は知らないことだが、水銀燈は以前、自分の媒介が蒼星石に答えた言葉を使った。それなりの諧謔を秘めた言葉なのだが、その意味も真紅には分からなかった。
 ただ、水銀燈に自分の心持ちが伝わっていることだけは、素直に嬉しかった。自分は元々戦いが得意ではない。それよりは、こうして姉妹や契約者、そしてその周囲の人々と心を通わせていたいのだ。

 実のところ、もう一つ真紅が知らずに通過してしまった出来事がある。

 水銀燈が漫画の場面のように激昂しなかったのは当然だった。怒る理由がなかった。
 漫画の世界の真紅は、この時はまだ水銀燈が柿崎めぐと巡り逢って、事実上めぐのために戦っていることを知らずに、水銀燈を激昂させる一言を放ってしまった。
『あなたのように人間を糧としか思わない子に、マスターとドールの絆なんてわからないでしょうけれど』
 それは、少なくとも漫画の世界では真紅が水銀燈の「外面(そとづら)」しか見ていなかったことを示している。水銀燈が決して自分の行動の裏を取らせなかった、とも言える。
 だが、水銀燈は敢えてそのことには触れなかった。

「もう二十一時ですか?」
 回想を破る明るい声が響き、階下でなにやらやっていた翠星石が部屋の扉を開けて入ってきた。真紅は目を上げて微笑んだ。
「いいえ、まだ二十四分三十七秒あるわ」
「じゃ、そんなに急がなくても良かったんですねえ」
 むう、と翠星石は少しだけ口を尖らせた。どうやら、明日の朝食用の何かの下ごしらえをしていたらしい。
「もう一度広げて続けてる時間はないですし、しょうがねーです。明日は早起きです」
「食えないもん作るなよ」
 背中をこちらに向けたまま、ジュンがぼそっと言った。翠星石がむかっ腹を立てて怒り、ジュンはそれを軽くあしらう。そのうちに八時からの番組を見終わった雛苺が階段を上ってきて、部屋の中の雰囲気はいつものこの時間帯のように混沌とし始めた。
 真紅はそんな様子を横目で眺め、ジュンの椅子の後ろに陣取って水銀灯の媒介からプレゼントされた文庫本を開いた。今日の夕方まで、一人では開きにくくページをめくりにくかった本だ。
 彼女は微笑んだ。確かに片腕しかないというのは不便だった。しかし、それより大事なことはある。この場の雰囲気、暖かさ、姉妹とジュンの声。
 些細な日常かもしれない。だが、もし何かのために戦うならばこの日常を守るために戦いたい、と真紅は思った。



[19752] またもやタイムアップ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/08/31 00:55
ちょっと資料漁ってるとこれだよ!
書けないですねぇ。停滞してます。

8/31 ちょっと訂正。

********************************************************

「御機嫌宜しゅう、黒薔薇のお嬢さん」
「随分とお久しぶりね、腹黒兎さん」
 二人は同時にお辞儀をする。片方は慇懃無礼に、もう一方はわざとらしく。
「今日もまた御出掛けですか」
「ええ。最近はすっかり暇なんですもの、散歩が日課になってしまったわ」
「おお、それはいけません。変化のない日常はつまらぬもの」
 兎頭の紳士はステッキを傘に変え、ぽんと一挙動で広げてみせる。
「いつ見てもお見事ね、その傘の開き具合は」
 黒衣の少女はくすりと笑う。心底楽しそうに見えないのは、口の端が釣り上がっているからだ。
「ところが魔法の傘だと思っていたそれも、今になってみればごく一般的な自動傘と同じ機能でしかないわねぇ。トリヴィアル(つまらない)!」
「おやおや、これは台詞を取られましたな」
 まさに剥製のような兎の顔からは紳士の表情を読むことはできない。その口調もまた、顔つき以上にその裏側を読めないものだった。
「そうです。科学の進歩は速い。いずれ人は生きて動く人形さえもごく当たり前に作り、それが世に出ることもあるでしょう」
 紳士は傘を畳んだ。傘は元通りステッキに戻っていた。
「そうなったとき、果たして我々は如何様に身を処さねばならないか。非常に重要な案件ですな」
「同情するわ」
 全く心の篭っていない声で少女は答える。紳士は慇懃に帽子を取って礼をした後、小首を傾げて少女を見た。
「ご同情は感謝致しますが、貴女も例には漏れませんぞ」
「ご心配ありがとう。警告として有難く受け取らせてもらうわ。随分貴方らしくない言葉だけど」
 少女は表情を変えずに肩を竦めた。
「でも、ご心配には及ばないわ。私に関してはね」
「それはまた、傾聴に値するお言葉ですな」
 紳士はおどけてステッキをぐるりと回した。
「どんな物も時の流れには無関係では居れません。たとえそれが天才の創り出した最高傑作であっても」
「そうね」
 少女はあっさりと肯定した。
「ただし、それは生きていればの話」
 紳士は首を傾げ、すぐにぽんと音を立てて掌をもう一方の拳で叩いた。
「おお、おお。このうすのろ兎にも話が飲み込めましたぞ。なるほど、なるほど」
 何度も何度も頷いてみせる。
「確かに、アリスはもうすぐ生まれます。そうなれば──」
「──そうなれば用済み。ローザミスティカを失って動きを止める」
 少女は言葉を引き取り、いっそ楽しそうに続ける。
「依然として魂がそこに在ったとしても、物言わぬ人形になってしまえば世俗の自動人形がどうあろうと関係ない。そうでなくて?」
「その通り、いや、まさしくその通り」
 ぱち、ぱち、と紳士は間の不揃いな拍手を送る。まるで歌のように奇妙な拍子を付けていた。
 相手を焦らすように随分長いことそうしてから、口の端を歪める。
「しかし、残念ながら聊かその予測は性急でもあります」
 少女は意外そうな顔を作った。紳士はステッキを振って台詞を続ける。
「死後のことは関係ない、とはよく言われる言葉。しかし首尾良くアリスと成った暁には、果たしてそのように言い切れるでありましょうや?」
「そうね」
 少女はまた、あっさりと肯定した。
「……アリスが生まれるときにはその一部になるのだったわね、皆、一様に」
「そうです、そうですとも、それについてはその通り」
 紳士はまた間の不揃いな拍手をした。
「しかし先程から貴女らしくないお言葉を続けられていらっしゃいますな、黒薔薇のお嬢さん。貴女こそは何を措いてもアリスに成る、そのための生き方を貫いていらっしゃったのではありませんか」
 紳士は少女を覗き込むような仕草をする。少女ははっきりと皮肉な表情を浮かべ、否定も肯定もせずに言葉を返した。
「ところで、私は少々忙しいのだけど。貴方の目的が久闊を叙することだけならば、そろそろお暇乞いをしたいところね」
「おお、これは申し訳ございません」
 紳士はまた慇懃に一礼した。
「わたくしめの用向きなぞ、貴女の貴重なお時間を割かせるほど重大なものではございません。それではこれにて失礼させていただきましょう。また後日」
「悪いわね、ラプラスの魔。それではごきげんよう」
「ごきげんよう、黒薔薇のお嬢さん」
 紳士が帽子を取ろうとしたとき、少女は紳士がしたように不揃いに手を叩いてみせた。紳士は──兎の剥製の顔にそういう表現が許されるなら──微笑に近いものを浮かべ、ぽん、と音を立ててその場から消えた。
 少女は一つ息をついた。
「どういう風の吹き回しなの」
 呟いて、いつものように自分の媒介の夢の扉をくぐった。


 ジュンはパソコンの画面を睨んで口を尖らせている。真紅は当然のようにその膝の上に座り、机の天板に手をついて画面を見守っていた。
「すぐには製作に取り掛からないのね」
 服はあっという間に仕上がったのに、と真紅は壁際のハンガーに掛けられた濃紺の複雑な形状のドレスを見遣る。水銀燈の媒介の少年の夢に入ってから今日までのわずか一週間で、ジュンは水銀燈のものとほぼ同じ形状のドレスを仕上げていた。
 ジュンは型紙さえ殆ど描かなかった。まるで必要な図面が既に全て頭の中にあるように、生地を無駄なく切り、縫い合わせ、刺繍を施して作り上げてしまった。
 しかし工程はそこで止まってしまっていた。服ができてもそれを着させるボディがまだ無かった。
「服のほうは作ったことがあったけど、ボディは初めてなんだ」
 二人が小声なのは、雛苺と翠星石が既に寝ているからだ。
 既に時計は二十三時を回っている。真紅も一度は鞄に入ったのだが、妙に寝つきが悪くて起き出してみると、ジュンがパソコンにかじりついていたのだった。
「フィギュアみたいに型取りしてレジンで複製するか、最初から軽量紙粘土で作る方法しか紹介されてないな……お、ここはビスクの作り方が出てる」
 ジュンは腕の中の真紅をちらりと眺め、何度か見た薔薇乙女達のボディを思い起こしていた。パーツの分割は今風の球体関節人形のように複雑だが、素材はビスク(二度焼き)という手法で作られた、硬くて軽い焼き物……のはずだ。
 本来割れやすいはずのそのボディが強靭なのは、素材や焼き方そのものが特殊なのか、それとも薔薇乙女達の手や顔が自在に動くように何か不可思議な力が働いているのか。
 どちらにしても、今作ろうとしているドールボディにはビスクそのものが使えない。どこかの焼き物工房にでも申し込まなければ、窯のないこの家では焼入れも前段階の素焼きもできない。
「強度的にはウレタンに真鍮線入れるほうがマシなのかな」
 紙粘土は本当に軽量に仕上げられるらしい。その分強度を稼ぐ必要はなくなる。
 しかし、もし水銀燈が意図したように人形が自律して動くなら、薄い粘土ではあまりにも脆すぎるような気がする。いや、その方が都合は良いのかもしれないが。
「でもウレタン型取りだと重さにばらつきが出そうだし……ムクで作ったら重過ぎるだろうし……それはビスクも同じか……」
 ぶつぶつ言いながらページをめくる。真紅は彼女にしては珍しく、興味津々といった風でそれぞれのページの画像を見ていたが、ジュンがページを移動するのに文句を付けることはしなかった。
「やっぱり窯を買って……あれ?」
 ジュンは目をぱちくりさせた。画面が急に真っ暗になってしまったのだ。慌てて本体を見たが、電源LEDは緑に点灯しているし、特に異音もしていない。
「まさか……これってまた」
 その予想は当たっていた。ジュンが真紅を抱えて机の脇に転げ込むのと、画面から黒い羽根が噴き出すのはほぼ同時だった。
「あら」
 肩から先だけ出した水銀燈は、机の横に並んで座ったジュンと真紅を見てにやりとした。
「さすがは真紅のナイトね。準備が良いようで何よりですこと」
「ナイトではなくて下僕だけれど、今の判断は的確だったわ」
 真紅はさらりと言い、下僕かよ、とジュンは口を尖らせた。
「ナイトの方が良いんじゃなくて? 頬が随分赤いわよ」
 パソコンのモニターを窓枠のようにして姿を現すと、水銀燈はそんな軽口を叩きながら一旦モニターから出、真紅の抗議の声を聞き流してまだ波打っている画面の中に腕を突っ込んだ。
「退席するか隠れなさい、真紅。ちょっと厄介なものを引きずり出すから」
 真紅は憮然とした表情になったが、黙って鞄のところまで退却した。それでも完全に鞄を閉じることもなくパソコンの方を見守っている。引きずり出されるものが何なのか、彼女にもだいたい見当はついていた。
 果たして、引きずり出されたものは真紅の推測の通りのモノだった。



[19752] あいも変わらず120行程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/09/04 00:47
更新が遅れちゃいました。

******************************************************

 人形は裸の状態で、やはり相変わらず胴部の無いまま、パソコンのモニターから引き出された。
 胴部がないのにあたかも透明なパーツで繋がったように上下がいちどきに出てきたものの、その身体には全く力は篭っておらず、テンションも掛っていなかった。
「じっ……実体化?」
 いきなりの事態に、ああでもないこうでもないと悩んでいたボディ製作がほとんど必要なくなったことに気が付く余裕もなく、ジュンは目を見張るしかなかった。
「げ、幻影じゃなかったのか」
 妙に軽い音を立てて引き出され、キーボードの上に積み重なったそれは、ドールとしては大きかったものの、どことなく安物の人形のような風情があった。
 引きずり出す、と自分で言っていた水銀燈自身も唖然としている。ただし、彼女の視点はジュンとはまた別のところにあった。
「やけに軽いと思ったら……」
 自分とほぼ同じ背丈の人形を床に降ろし、手早く仰向けにさせると、彼女は内部の見える腰と胸のパーツをしげしげと眺めた。
「やっぱり、未塗装部分を見れば一目瞭然ね」
 人形の表面は白っぽい肌色、というよりは肌色がかったクリーム色に塗装されている。しかし、パーツの内部までは塗装されていなかった。黒い地肌がそのまま表れていた。
「どんな素材で出来てるんだ?……っていうか無茶苦茶だ、なんで実体化できるんだよ。元は想像の中だけのモノなんだろ」
 ジュンは座り込んだまま手を出そうとしない。好奇心に駆られて痛い目を見るのは懲りているのか、それとも別の理由なのか。
「炭素繊維強化プラスチック。俗に言うドライカーボンってやつ。レースマシンのカウルとかに使われている素材よ。軽くて強靭、熱にも強い……ええ、確かに無茶苦茶ね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「こんな複雑なパーツの塊を全部カーボンで作るなんて。想像が産んだモノか、完全に採算を度外視して作った物でなければ有り得ないわ」
「へえ……ってそこじゃないだろ、僕が言ってるのはなんで実体化できたのかってことだよ」
 とは言うものの、素材の名前が出たせいで興味が勝ったのか、ジュンは水銀燈の隣に来て人形の胴部を覗き込んだ。動かないのを見て取った真紅も鞄から出て人形に触れてみる。
「顔や手は、私たち薔薇乙女そのものだわ」
「あいつもそこまでは材質の想像が及ばなかったようね」
 水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつって……雪華綺晶ってやつのことか」
「いいえ。もし雪華綺晶が作るなら、当然陶製の焼き物……ビスクでしょう。末妹が欲しいのは他の姉妹達のようなボディ。こんな素材は美しくないもの」
 水銀燈は言い切って顎に手を当てた。
「これは私の媒介の仕業よ。いくら軽くて強靭な素材だからってドライカーボンで出来たドールを想像するなんて、おぞましいったら」
 あの男らしいと言えばそこまでだけど、と言う口調には嫌悪感だけでなく、妙な懐かしさのようなものも混じっていた。
「この子は雪華綺晶が彼の夢の中に作り出した舞台装置ではないの?」
 真紅は膝の上に人形の頭を乗せ、手櫛で髪を梳いてやりながら首を傾げた。裸の胸の上には可愛らしいハンカチを載せてやっている。
「そして、雪華綺晶が意図しなかったのに舞台装置は何故か勝手に成長して自我を持ち、魂も持った──貴女はそう説明したわ」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣り、お優しいこと、と呟いてから答えた。

「成長というよりはあの男が作っていったのかもしれなくてよ。
 恐らく末妹の能力は夢を誘導すること。誘導するための舞台装置の「材料」は本人の中にあるのだから、複雑な部分は夢の主に勝手に作らせているはず。
 あの男は夢の中を緻密に作り上げる方だった。多分最初は薄ぼんやりしていたこれを、あの男は緻密に作りこんでしまった。自分の夢の世界の都合のいい住人としてね。
 そして、本人は無自覚だったとしても、あの男に纏わり付いていた何か奇妙な力が、これを『誰かが夢の中に置いていった実体のある人形』に近いものとしてあそこに生成してしまった」

 全ては憶測でしかないけれどね、と水銀燈は溜息をついてみせた。つくづく厄介なものに関わってしまったと言いたい気分のようだった。
「桜田ジュン」
「なっ、なんだよ」
 いきなりフルネームで呼ばれて、腰の空洞から球体関節の繋ぎ方を観察していたジュンはびくりとした。なんとなく気恥ずかしいような気分になる。
「胴部だけでもお願いできるかしら。素材は何でも構わないわ。そうね、上下の球体関節さえ十分な範囲で可動して、上半身の重量に負けない程度の強度があればいい」
 ジュンは腕を組んだ。
「レジン──ウレタン系のプラや紙粘土でも?」
「任せるわ。私は樹脂や工作粘土の強度については知識が無いから。貴方がそれで十分だと考えるもので構わないわよ」
「かーぼんというのは使えないのかしら」
 真紅が思いついたように言う。
「同じ素材では揃えられないの?」
「それは、原型を作ってドライカーボンのエアロパーツを作っている工場にでも特注すればできないことはないでしょうけど」
 でも高くつきすぎるわ、と水銀燈は眉をひそめた。
「もちろん技術的には問題ないでしょう。でもあまり現実的とは言えないわ」
「そう……」
 真紅は手を止め、残念そうな顔をして人形の顔を見た。
「貴女がそれでいいのなら、私が口を出す事柄ではないけれど」
 でも、と視線を下に向けたまま呟くように続ける。
「それで本当にいいのかしら」
「どういう意味よ」
 ハンガーに吊るされたドレスを見遣っていた水銀燈は視線を真紅に戻し、小首を傾げる。真紅は暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に続けた。
「神業級の職人がいて、良い素材のあてがあって、ここに奇跡のようにこの子がいるのに、それでも簡単な素材しか使えないなんて」
 残念だわ、と真紅は目を閉じる。
「仕方ないでしょう、それは」
 水銀燈はドライな口調で告げた。
「そもそも、人形のボディにカーボンなんてオーバースペックもいいところだもの。加工の手間を考えたらマイナスと言い切ったっていい。
 無理矢理軽量化しなくてはいけない物でもないし、強度はソフトビニールでも間に合う程度のものなのよ。なんでも金銭を積めば良いというものじゃないの」
「そうかしら」
 真紅は顔を上げ、目を開いて水銀燈を真っ直ぐに見た。
「貴女は『真紅』と同じ間違いをしているような気がする」
 水銀燈は虚を突かれたように黙った。真紅はまた目を伏せた。
「貴女は何故、貴女のマスターがこの子のボディを軽くて強靭な素材にしたいと思ったのか、分かっていないのではなくて?」
 私には素材の良し悪しは分からないけれど、その人の想いはおぼろげに理解できるわ、と真紅は人形の背中に手を回し、何かを拾い上げて水銀燈にかざして見せた。
 水銀燈ははっと目を見開き、何度か瞬いた。
「『水銀燈』は軽くて、しかも強くなくてはいけなかったの。自在に飛んで、戦うために」
 真紅がかざして見せたのは、水銀燈のものと見分けが付かない黒い羽根だった。

「ビスクでできたボディよりも強く、しなやかで、軽いボディがあれば」

 真紅は歌うように言った。何かが乗り移ったようにも見えた。

「『真紅』にも誰にも負けなかったかもしれない。
 狂気と言われ、姉妹から憎まれ、『ミーディアム』にも恵まれなかったけれど、いえ、それだからこそ、せめてボディだけは望みうる最高のものを……」

 口を噤み、羽根をそっと手放して、真紅はまた視線を人形の顔に落とした。

「姉妹で最も物理的な力に恵まれ、契約しなくても媒介に困らない貴女には分からないかもしれないけれど」
 真紅は人形の髪を撫でた。
「貴女のマスターはこの子にもう一つの翼を与えたかったのではないかしら。精一杯生きたけれど、最後まで力を満足に振るうことのできなかった『水銀燈』に……」
 水銀燈はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「それにしては随分と適当な仕事をやらかしたものね。だったら胴のパーツも構築しておけば良さそうなものだけど」
 それもあの男らしいかもしれないけど、と言って、水銀燈はジュンを見た。
「いいわ。自作パーツ関係に強いショップは幾つか知ってる。もしドライカーボンを使いたくなったら言って。口利きはできないけど教えて上げるわ。……強制するわけじゃないけどね」
 ジュンは慌てたように顔を上げた。
「え、でも費用は」
「こちらで持つから心配ないわ。記憶を無くしたといっても本人が作ったものなんだから、作り忘れたパーツの経費くらい捻り出させてもいいでしょう」
 ただし手間賃は貴方に泣いてもらうけどね、と水銀燈はまたにやりとしてみせた。


 水銀燈が窓から去って行くのを見送ってからふと時計を見直すと、もう時刻は零時を回っていた。
「……いつも無駄に緊張させるよな、あいつ」
 はあ、と大きく息をついて、ジュンは真紅を振り返った。
「水銀燈だもの、当然よ」
 真紅もやれやれという表情になっていた。こと、この時代にあってはアリスゲームのために敵対していたから、という部分を差し引いても、元々あまり仲が良いほうではないのだ。苦手と言ってもいい。
「でも、変わったわ」
 真紅は苦労して人形にドロワーズとキャミソールを着せながら微笑んだ。
 ジュンは何故かそれを見ていられずに視線を逸らした。裸のときは胴部が無いことも手伝ってパーツの集合体としてしか意識しなかった人形が、下着を着けただけで急にエロティックな姿に見えてしまったのだ。
「無駄に攻撃的じゃなくなったことか?」
「それはやり方を変えただけかもしれないけれど、他にも変化があるわ」
 真紅は何度も人形の体を不器用にあちらこちらと動かしながら、どうにか下着を着せ終わった。
「他人の言うことを素直に受け入れるようになった。それは、とても大きな変化……」
 言いながら、真紅ははっとして動きを止めた。背中を向けてパソコンを見ていたジュンはその姿には気付かなかったが、真紅の意識に浮かんだ単語を無造作に言い当てた。

「成長って言うんだろ、そういうの」

「……ええ」
 真紅は呆然と頷いた。ジュンからは見えない位置のままだったが。

──私達人形は、成長しない。ただアリスゲームという衝動によって突き動かされているだけ……。

 それが真紅の認識だった。そして、彼女が知り得る範囲内では、今までの時代ではそれは常に正しい認識でもあった。
 彼女達は世に放たれたときのまま、それぞれに付与された精神と性格のまま、眠り、再び起きて契約者を変え、経験と記憶だけを積み上げて生きてきた。そう思っていた。
 そして、その認識こそが真紅の漠然と抱えている絶望でもあった。

──もしかしたら、私はとても大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「──ジュン」
 真紅は水銀燈が「真紅のナイト」とふざけて言った、自分の契約者の名前を呼ぶ。
「なんだよ、急に黙り込んだと思ったら……」
 椅子を回してこちらを向いたジュンに、真紅は両手を差し伸べる。
「抱っこして頂戴」
 全くおこちゃまだな、とジュンはいつものように口を尖らせながら、慣れた手つきで彼女を膝の上に引き上げ、パソコンに向き直るでもなく彼女をゆるりと抱いてくれた。
「これでいいか」
 真紅はもぞもぞと位置を直し、いつものように返事をする。
「ええ。抱っこは上手になったわね、合格点だわ」
 手に手を重ねると、お子ちゃまの癖に人を子ども扱いするなよ、とジュンはそっぽを向いてみせた。真紅はいつものように少し気取った顔になり、ゆっくりと目を閉じる。

──もし、私達が成長できるのだとしたら。

 今はまだそう言い切れる材料は整っていない。だが、もし人間のように成長することができるなら。
 私は、何をすることができるのだろう。何をしたいのだろう。
 心地よいジュンの鼓動と心を感じながら、真紅は眠くなってくるまでのひととき、そんな想像を楽しんでみることにした。




[19752] いよいよやばい。いろいろと。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:94b9d754
Date: 2010/09/09 21:32
やばいこと1.このPCやばい。
やばいこと2.なんか体調よくない。
やばいこと3.そろそろ新PCきてセットアップとかやばい。

というわけで間隔開くかもしれませんのでよろしう。

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 数日が過ぎていた。
 ジュンはハンガーに掛けたままのドレスを見遣り、次に壁際に置いた椅子の上を見て少し疲れた表情になった。
 椅子の上には厚手の型紙で作った筒を胴代わりにして、例の胴のない人形を座らせている。下着だけでは可哀想だと雛苺が言うので今はジュンのトレーナーを着せているが、のりに言わせると「よく眠ってるから、お布団掛けてあげたくなるのぅ」ということで、ときどきタオルケットがその上から掛けられていたりもする。
 ただ、人形自体は相変わらずぴくりとも動かない。
 動力源が無いからだと水銀燈は説明していた。必要ならそのときだけ力を付与すれば動けるわよ、と言ってもいたが、その後水銀燈が力を付与してみたときも一向に動き出そうとはしなかった。
 真紅や翠星石の言うところでは「魂はここにある、でも自分の殻に閉じこもっていて殆ど会話が成り立たない。身動きしたくもないらしい」ということだが、それは水銀燈に無理矢理引きずり出されたからじゃないのか、とジュンは疑っている。あの夢の世界の中での暴れ具合を考えると力ずくで水銀燈がこの人形に勝てるとは到底思えないが、どうにもそんな風に思えて仕方がない。
 彼の推測が当たっているかどうかは兎も角として、問題なのは肝心の胴が原型さえ手付かずということだった。
 既存の人形に胴体部分を作りつけるというのは存外に大変なことだ、とジュンが気付くまでにはそう大した時間は必要なかった。
 胸と腰を採寸してそこに合う丸棒を押し込めば良い、というわけにはいかない。上下には関節を仕込まなければならないし、胴体そのものも単純な筒型で間に合わせるわけにはいかないのだ。大分タイトな球体関節の造り付けが必要になるだろう。
 それに加えてもう一つ問題がある。
 胸と腰のパーツを見る限り、人形はドールというよりはキャラクターフィギュアに近いボディラインをしている。要するにアニメのキャラクター、それも高校生から成年女性に設定されているような体型だった。
 それは正直なところ、ジュンにとって完全にではないものの未知の分野だった。当然ながら似たようなフィギュア類の実物は見たことがない。人形の服飾類はいくつも作ったことはあるが、それはドールだったりぬいぐるみだったりしていて、キャラクターフィギュアのようなものは対象外だった。
 いっそ見えない部分だから適当に作ってしまえばいい、と割り切ってしまえば簡単なのだが、それは彼の内心の何かが許さなかった。職人気質とでも言うのだろうか、納得できるまで徹底して作らなければ気が済まないのだ。
「材質なんて考えてる場合じゃなかったな……」
 人形が現れたときの真紅と水銀燈の遣り取りを思い出しても苦笑する余裕さえない。
 椅子の上の人形の髪を撫で、なかなか取り掛かれなくてごめんな、と小さく呟くと、ジュンはアイデアを得ようとパソコンに向き直った。
 部屋の入り口、ドアの陰から小さな黄色い姿がそれを見守っていたが、ジュンはその姿に気付くこともできなかった。

 金糸雀に似た小さな人形はトコトコとぎこちない動きで歩き、廊下の端で待っている二人の元に戻ってきた。
 その報告に何やら耳を傾けた後、金糸雀はふむふむと頷いてみせる。ジュンから貰って以来、金糸雀は「ピチカート二号かしら」といたくお気に入りで、ちょっとした「偵察」に人形をよく使っていた。
 もっとも、人形の外見はピチカート二号というよりはミニ金糸雀と呼ぶ方が相応しいのだが、そこのところは気にならないのか、敢えて自分の名前を避けているのかは分からない。
「確かにちょっと重症かしら。スランプってやつね」
「うー……」
 雛苺は眉を八の字にして、一生懸命にどうしようか考えているらしい。それは金糸雀からは泣き出す数秒前の顔にしか見えなかったが、案に相違して雛苺は涙を見せずに頑張っていた。
「胴体って難しいのね」
 ぽんぽんと自分のお腹の部分を叩く。
「おへそとかあるからかな?」
「おへそは……うーん、あんまり関係ないかしら」
 金糸雀は動きが止まった人形を拾い上げ、胸の下辺りを指差した。
「球体関節のドールは、普通は二分割で作ってあるの。鳩尾──この辺で上下に分けるのね」
「うん」
 雛苺はこくこくと頷いた。金糸雀は人形の足をひょいと持ち上げる。
「球体関節なら脚の付け根がよく曲がるから──この子はただのソフビ人形だからいい具合に曲がらないかしら──ポーズ取らせるだけなら二分割で十分なのよ。みっちゃんのドール達も二分割や分割なしだけど、股関節の球体関節がしっかり動けば大抵のポーズは取れるかしら」
 雛苺は自分の鳩尾のあたりを手で押さえ、はっと顔を上げる。
「あ! でも、あの子は新しいお腹付けたら、二つも関節があるのよ。三分割なのよ」
「そう! そこが大問題かしら。三分割した人形の胴体を壊しちゃうと後からはとても作りにくいの」
 金糸雀はびしっと人形の下腹部を指差した。
「普通は三分割にはしないのね。人間のお腹は柔らかいし背骨も多関節だから、確かに三分割の方が動きの再現性は高いんだけど、実際問題として二分割だと股関節から鳩尾まで綺麗に作れるし、鳩尾のところで球体関節を入れればほとんど人間と同じポーズができるから」
 そして、少し声を落として続ける。
「私達姉妹の中でも、お腹が完全に別パーツなのは水銀燈だけかしら」
「水銀燈は三分割なのー?」
 知らなかったのー、と雛苺は目を見張った。金糸雀はこくりと頷いた。
「水銀燈はいろいろと特殊なの。違う点は他にもいろいろあるけど……お父様が初めて自分で傑作と認めたドールだから、仕上がりはとても美しいわ。他の姉妹と同じに見えるでしょ」
「うん」
 水銀燈おっかないけど綺麗なのよ、と雛苺は無邪気に言う。それを見て金糸雀は何故か言葉に詰まったような素振りを見せたが、すぐに、ええっと、と唇に指を当てた。
「つい脱線してしまったかしら……そうそうそれでね、後から胴体を作るのは大変なのよ」
 金糸雀は人形の胸の辺りと腰の辺りを人差し指と中指で指し示した。
「胴体が壊れると、大体この間がなくなってしまうことになるのね」
 雛苺が自分の体を触ってみたりしてうんうんと頷くのを待って、金糸雀は話を続ける。
「この部分の細さとか、長さとか、お腹の張り具合なんかは、『大人の』フィギュアの美しさの何割かを占める大事な部分なの。特に、あの子みたいなセクシャルボディの子は、お腹が不出来だと全体のバランスが崩れてしまうかしら」
「ほぇー」
 何故か力説し始めた金糸雀に、雛苺は丸い瞳を瞬いた。微妙な反応に気付くこともなく金糸雀は脇腹と背筋とくびれの大切さを語り、ドールと男性向けフィギュアの違いはそこにあると言ってもいい、とまで言った。
「ジュンは今、そこで壁にぶち当たっちゃってるかしら。他の人の作ったところにパーツを組み入れる形だから、自分の美的感覚とボディを作った人の美的感覚も違うだろうし、前途多難かしら」
「ふーん……」
 雛苺は暫く考えていたが、不意にもやもやの晴れた表情になった。
「いいこと思いついたの! 水銀燈に頼んで、お腹のふくせいを作ればいいのよ。水銀燈も『水銀燈』も三分割なんだから」
 ね? ね? と小首を傾げて金糸雀の顔を覗き込むが、今度は逆に金糸雀の方が難しい表情になってしまう。
「それはちょっと無理かしら……」
「なんでー? 水銀燈なら背丈もおんなじくらいだし、少しちょうせいすればきっと合うのよ」
「確かに削ったり盛ったりすれば寸法はどうにかできるけど、そう簡単な問題じゃないかしら」
 金糸雀は手に持った人形の胴体の部分を軽く指で突ついた。
「水銀燈は確かにパーツ分割は同じだけど、基本は少女体型なのね。ぶっちゃけカナ達と同じ、言わばズン胴ってやつかしら」
 でもあの子はモデル体型っていうかフィギュア体型なの、と金糸雀はお手上げといった素振りをする。
「同じ大きさだからってぬいぐるみの胴体をドールにくっつけたら、みっともないおでぶちゃんになっちゃうでしょ? それと同じことかしら」
 大分大袈裟な喩えではあるが、それだけに雛苺にもよく分かったようだ。
「あぅ……」
 雛苺は困り顔になり、ジュンの部屋の方を見遣った。部屋からは何の物音も聞こえてこないが、多分今もジュンはパソコンと向き合って手懸りを模索しているのだろう。
「まあ、手は無いこともないかしら」
 金糸雀はにっこりと、取って置きの腹案があると言いたそうな笑みを浮かべる。
「ここはカナにお任せかしら!」


「……ってカナはゆーんだけど、ヒナは心配なのよ。カナ、たまに『どじっこぞくせい』が出ちゃってカラ回りするから」
 苺大福をもしゃもしゃと食べながら、雛苺は珍しくませた口ぶりで、ジュンというよりは金糸雀の方を心配しているようだった。
 雛苺に手元の大福を取られ、あーあ、といかにも残念そうな情けない声を出した水銀燈の媒介の少年は、雛苺の隣に座って口の周りについたあんこを拭いてやっている柏葉巴に視線を向けた。
「どんなアテがあるんだろ?」
「さあ……」
 巴は微笑みながら小首を傾げる。夕暮れの公園のベンチに座った巴は少し大人びて見え、柏葉ってこんな顔もできるんだなぁ、と少年は妙な感慨を抱いた。
 少年が巴の表情を見たことがあるのはほとんど学校の中だけだから、その感想は当然とも言える。巴のこの笑顔は雛苺の世話をしているとき以外は殆ど見せないものだった。
 こんな場所で三人が顔を揃えるのは偶然もいいところだった。「ぽすとにお手紙を預けに行った」雛苺を部活帰りの巴が見つけて抱き上げ、そこに買出しに来た少年が通りがかったのだった。なにやら確率を操作されているのではないかとさえ思えるような偶然だった。
「カナはね、マスターがたくさんお人形持ってるって言ってたの」
 そんな少年の感慨には気付きもせず、雛苺は話を続ける。
 金糸雀のマスターの草笛みつはドール好きが昂じて今の仕事に鞍替えしたほどで、部屋には大小さまざまのドールが飾られている。金糸雀がドールについて詳しかったのも、以前から人形のボディに興味があったからというわけではなく、マスターの人形を実際にポージングさせたり着替えさせたりと、みつの助手のようなことをやってみた経験から来たものだった。
 雛苺はそこまで詳しいことを知っているわけではなかったが、金糸雀が任せろと胸を張ったのはそういうことだろうと見当を付けていた。それなりに長い付き合いではあるのだ。
「でも、フィギュアまで持ってんのかなー」
「それはわかんないのよ」
 そこが心配だと言いたそうに雛苺は巴を見上げ、巴は元気付けるようにまた微笑んだ。雛苺はその表情を見てにっこり笑い、安心したように巴の胸に頬ずりする。
 微笑ましい二人の世界を眺めて、少年は思ったままをつい口にしてしまう。

「……お母さんって感じだなぁ」

「ふゅ?」
 こちらを向いた雛苺の口に、割った板チョコのひと欠けを押し付ける。雛苺は疑問符を浮かべたような表情のまま、取り敢えずそれを口に入れ、頬の中で転がした。
「いや、柏葉が雛苺のさ。なんか、雰囲気ってゆーのか、そんな感じ」
「えっ……」
 巴は雛苺の口の周りを拭いていた手を止め、ぱちぱちと瞬いてから一拍置いて頬を薄く染める。雛苺は溶けかかったチョコを喉を鳴らせて飲み込んだ。
「トモエがヒナのママ?」
 無邪気そのものの表情で巴を見上げる。巴はますます赤くなったが、何も言わず雛苺を抱き締めた。雛苺は嬉しそうに笑ってまた巴に頬ずりする。ひとしきりそうしていた後、雛苺はもぞもぞと体を動かして少年に向き直った。
「じゃあね、じゃあね、パパは?」
 明らかに一つの答えを待っている言葉だった。少年は間髪入れずに、期待どおりの答えを返した。

「そりゃあ、桜田に決まってるじゃん」

 わーい、と喜ぶ雛苺と、自分の言ったことの意味を把握しているのかどうか、傍目からは判断できない少年の顔を交互に見比べながら、困惑を絵に描いたような巴の顔は西の空の夕焼けよりも赤く染まっていった。



[19752] 復活の300行。でも二日分。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/09 21:32
PC復活。したと思ったら新PC来た。と思ったらArcadia移転してた。
台風も来た。そんな今日この頃です。
300行くらいありますが二日分なので大して多くありませんな。

そして、今回は大マスター登場の巻でもあります。

*******************************************************
「ええええええええっ、そんなぁぁぁぁぁ」

 日曜の朝の桜田家の応接間に、女性の悲鳴に近い叫びが木霊する。
 実際のところ、それだけならばほぼ毎日のことだ。のりか翠星石か雛苺、あるいは遊びに来た金糸雀。稀には真紅のこともあるが、今日のところはその誰でもないというのが珍しいところだった。
 叫んでいるのは草笛みつ。金糸雀の契約者であり、ドールに対する知識や熱量といったものは、恐らくこの時代に限らず数多の契約者達の中でも最右翼に位置するだろう。
 なにしろ、自分でドールの本体を自作する以外のことは一通りやってしまうだけの熱意があり、その熱意のために仕事も変え、そして将来はドール服のショップを開くという夢さえ持っているのだ。もちろん日本でそういった店を開くことがどれだけ経営的に難しいかは分かっているはずなのだが、それでも夢に向かって突き進んでいる。
 ただ、熱意が昂じて些か猪突猛進が過ぎるきらいはあり、そして、空回りする率もあまり低くはないようだった。

 今日の悲鳴の原因も空回りに近いが、そう言い切ってしまうのは気の毒なところもあった。
「それじゃあ、もう出来上がりってことかしら……」
 ややオーバーに肩を落としているみつの代わりに、金糸雀が恐る恐る尋ねる。あまりの急転直下のしょげっぷりにジュンも気の毒に思うというよりはやや引き気味になっていたが、うん、と小さく頷いた。
「まだこれからが長そうだけど、原型はだいたい出来上がった」
 今朝早くなんだけどさ、と言う口ぶりも幾分歯切れが悪い。
「のり……姉ちゃんも協力するって言ってくれたんだけどさ……」
 どういう種類の協力かはさて置くが、結局ジュンはそれを真っ赤になって断った。のりは非常に残念がっていたが、それもさて置く。天然と言うべきかブラコンと言うべきか、微妙なところだった。
 行き詰まっていたのを解決したのは昨日巴が持ち込んだ、数体の有名メーカー製のフィギュアだった。
 アニメ好きのクラスメートから借り出してきたというそれらは、数年前深夜に放映していたアニメのフィギュアだという話だった。まさに「大きな男の子向け、二次元キャラ立体化フィギュア」と言うべき出来上がりの代物で、真紅に言うところによると凄腕の職人の作品とのことだが、翠星石に言わせれば、チビ人間にはまだ早いです、という品物らしい。
 ともあれ、そのうちの一つがどことなく胴のない人形に似た面影を持っていたこともあって、ジュンは一晩を丸々費やして一気に紙粘土製の原型を粗方完成させてしまっていた。あとは粘土の乾燥を待って球体関節となる部分と接合し、上下のパーツと擦り合わせをすれば原型の完成ということになる。
「──なるほどね。今はどこに置いてあるのかしら」
「僕の部屋。まだスチロール型も外れてないけど」
 その言葉に反応したように、みつはがばっと身を乗り出した。
「ねえ、それ、見せてもらってもいいかな? あ、ううん、文句付けるとか偉そうに指導したいって訳じゃないの。その人形とかジュン君の作った胴体とか凄く興味があるのよ。それからねこれが本命なんだけど──」
「み、みっちゃん、ジュンが引いてるかしら。取り敢えず一旦座るかしら」
 金糸雀は慌ててみつの裾を引っ張った。みつははっと気が付いて座りなおす。
「ごめんなさいね、つい興奮しちゃって」
 てへっ、と舌を出してみせるみつに、ジュンは顔を引き攣らせないように努力しながらこくこくと頷いた。

──なんか、今までで一番凄いのが来たな。

 翠星石といきなり取っ組み合いを始めた水銀燈の媒介もなかなかインパクトが強かったが、彼は一応クラスメートだったこともあってそれなりに馴染みがないでもなかった。しかし今回は全く見ず知らずの女性だし、その上さっきは自己紹介もまともに終わらないうちに真紅と翠星石を両手に抱きしめて頬ずりを始めたのだ。
 巻く・巻かないの話から、自分達がどうやって薔薇乙女を「お迎え」したかというような話をしている間はノーマルだったものの、これでまた暴走しかけた訳だ。やはりこの人は情熱を増幅して少し外れたところにぶち当てる特技でも持っているのではないか、とジュンは半ば嘆息するような気分で考えた。


 水銀燈は宵っ張りで朝に強くない。特に最近は媒介の夢に入り込んでいることもあって、ほとんど昼夜逆転とも言える生活になっていた。
 あまりいい生活習慣と言えないのは分かっている。だが、鞄に入る時間はきちんと取っているし、特段疲労がたまってきているわけでもない。
 それでも自分の夢の中で、知識として知ってはいるが出会うはずのない人物と会話してしまうほどには疲れているのかもしれない。それがごく普通の夢のありようなのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「また君かね」
 長身の男はうんざりしたような素振りで水銀燈を見る。またこの夢か、と水銀燈は舌打ちしたい気分でそっぽを向いた。
「ええ、どういうわけかしらね」
 そこは人形工房だった。小奇麗に整頓されているのに、山のように失敗作のパーツが積まれたままになっている。普通はありえない光景だった。これだけまめに掃除されている仕事場なら、そういうものは誰かが片付けてしまっているはずだ。
「何度来られても、私の人形はそう簡単に完成しないし、もうお披露目先は決まっているんだ。この次の作品までね」
「いいのよ。ここにこうして私がやってくること自体に意味があるのでしょう、きっと」
「それもそろそろ聞き飽きた」
 そう言いながらも、男はいつものように椅子を勧める。水銀燈も素直にそれに座る。そうすると、男は水銀燈に気兼ねすることなく作業を始めるのだ。
「今日もまた、荒唐無稽な話を聴かせてくれるのかね」
 作業台に向いたまま、男は溜息をつくような声で言う。水銀燈はせせら笑った。男が本当はその話を楽しみにしているのは見え見えなのだ。
「気が向いたらね」
 とは言うものの、話さなかったことはない。水銀燈もその話をするのを日課の一つにしているのだった。日課と言ってもあくまで夢の中での話だが。
 暫くの間、男の使う鑿と鑢の音だけが響いていた。
 水銀燈はこの音の出所を知っている。媒介の見たアニメ作品でもなければ、それやら漫画を基に彼が膨らませた想像でもない。自分自身の記憶だ。
 遠い遠い、それでいていつも近い記憶。工房の中で姉妹達が作られて行くのを、水銀燈はこうして椅子に座って見ていた。椅子の上で様々な話を聞いて、様々な受け答えをした。
 ときには椅子を降りて様々にねだりもした。だが、ねだったモノが与えられることはいつもなかった。父親は優しくはあったが、工房の中ではそのときの仕事が最優先だった。
 水銀燈もそれを知っていながらねだるのだった。ほんの少しの間でいいから人形を作っている手を休めて自分の方を振り向いてほしくて。
「その微笑ましい話の娘がまた何故、そんな真っ黒な服を着せられたのかね。ご丁寧に逆十字まで標されて」
 珍しく、男は水銀燈のことを尋ねてきた。所詮自分の明晰夢だ、とあまり関心も無かったので気に留めていなかったが、案外これが初めてかもしれない。
「さあ、何故かしらね」
「はぐらかすのは良くないな」
「はぐらかしているのは貴方のほうでしょう。其処に掛かったドレスと、其処に座った人形が答えよ」
 水銀燈は作業台の上の人形を「座っている」と表現した。実際には、人形には下半身がなかった。
「容姿と服装が似ているからといって、意図するところが同じとは限らん。私には私の、君の父上には君の父上の、それぞれの思惑がある」
 くっ、くっ、くっと男の肩がわずかに震える。笑っているようだった。
「それとも君は、あの出来そこないの作り掛けと自分を同一視しているのかね。あんな、あんな」
 くくくく、と笑いが大きくなる。
「どうしようもない、がらくたと」
 水銀燈は肩を竦める。
「似たようなものでしょ、どちらも。完成に漕ぎ着けたかどうかは別として、所詮は失敗作に過ぎなかった」
「完成したかどうかは重要だと思うがね。それはまだ、失敗作にすらなれていない」
 男は背を向けたまま、持っていた鑿で人形を指し示した。
「作り上げていないからね。完成に近いところまで行ったが作業を放棄した、言わばジャンクの塊の一つに過ぎない」
 そうしてまた、くくく、と笑い、作業を続ける。
「放棄したにしては、随分と未練があるじゃないの。ドレスはこれ見よがしに飾ってあるし、人形自体はがらくたの山に埋もれさせるでもなく、そうして座らせて置いてある。確か名前もついていたわよね。やはり失敗作と見るべきではなくて?」
「私は『まだ、失敗作にすらなれていない』と言ったのだよ。確かにこの時点ではあれはがらくたに過ぎん。そして結果としても、がらくたの域を出なかった。動力源も無しに自ら動き出しただけあって力だけは人一倍あったものの、私の最高傑作に終に及ばなかった。その力を見込んで、後からローザミスティカまで与えてやったのにな」
 まあ、その最高傑作も、結局のところ弟子の作ったドールに敗れたわけだが、と男はさも残念そうに言った。
「結局あれのしたことは、ローゼンメイデンの一人をゲームから退場させ、一人を最後の場面で守ったことくらいか。後者は結果的には無意味な行動だったが。まあ、見方を変えれば与えたモノの対価くらいは支払ったとも言えるだろう」
「あれだけ暴れれば十二分に支払ったと言えるでしょうね」
 水銀燈は人形に視線を向けた。灰白色の髪の人形は動き出す素振りも見せない。
「むしろ貴方の思惑が、アリスゲームという名の下に自分の娘達を殺し合わせる退廃的な娯楽にあったのなら、その人形はどのローゼンメイデンよりも貴方のお眼鏡に適う働きをしたのではなくて? だとしたら、むしろ私と姉妹達なんか足許にも及ばない大成功作よ」
「はは、それは面白い」
 男は鑿を置き、ぱちぱちと手を叩いた。その仕草は誰かによく似ていた。
「だが残念なことに、その人形はがらくたなのだ。今も、そしてこの時点から見た未来においても」
「そうかしら」
「そうなのだよ。何故ならあれは、完璧な少女たり得ない。なにしろ当初は姉妹のうちに数え入れられず、あまつさえ体さえも作り掛けのままなのだから」
「口ではそんなことを言っても、最後の最後で貴方はその人形に対する今までの扱いを見直したのではないの? 復活させるときボディを作ってやったでしょう? まさかお忘れかしら」
「ああそうとも。ご褒美さ。がらくたにしてはよくやったことに対するご褒美。そして新たな、腕力にものを言わせない戦いに挑ませるためのアメ、でもある。実に哀れなものじゃないかね、物理的な力が必要なくなってから物理的な欠損を補ってもらうというのは」
 男の背中がく、く、とまた震えるのを見て、水銀燈はやれやれと肩を竦めた。
「……悪役を気取るなら止めはしないけど、結局のところは薔薇水晶とかいうドールとの戦いの後、貴方はその人形に対しても他のローゼンメイデンと同じスタートラインに立たせることに決めたわけでしょう。だとすれば、その人形はやはりがらくたで終わったわけではないわ。
 むしろ、貴方はその人形をがらくたから失敗作さえ越えて他の姉妹達と同じ場所にまで引き上げるために、ラプラスの魔や自分の弟子までも巻き込んで、現実時間で百何十年も掛けて延々と回りくどいことをやってのけたと言っても過言ではないわね」
 男は黙りこんだ。鑿の音も鑢の音も止まっていた。
「貴方は死んでもそれを認めることはないでしょうけど、貴方達の紡いだ物語は全て、貴方がその人形の立場や状態を他の姉妹達と同じくするための布石だった。言い換えれば他人にも自分にも素直になれない貴方の、その人形に対する不器用な想いの軌跡。そんなふうに見ることも出来なくはないわ」
 かけがえのない自分の作品を二体も犠牲にしてね、と水銀燈はかすかな羨望を交えて言葉を終えた。
 男は黙ってまた作業を始めた。背中が震えているのを除けば、それは会話を始める前と何等変わらない光景だった。

 暫くは、鑿と鑢の音しかその場にはなかった。やがて、男はぽつりと言った。
「君は自分を失敗作だと言い切っている」
 水銀燈は無言で男の背中から視線を逸らし、人形を見た。人形はぴくりとも動かない。水銀燈の夢の中なのだから動き出してもよさそうなものだが、動き出したとしてもそれは現実世界に引き出されて胴部の補修を待っている人形そのものではない。水銀燈の夢の中にある虚像だ。
「それは正しい認識だろうか?」
「……少なくとも私はアリスではなかった。その意味では間違いなく、私は不完全で失敗作よ」
「はぐらかすのは良くないな」
 男は先程と同じ台詞を口に出した。水銀燈は言い返さずに男を見遣った。
「数日前から思っていた。君は自分が他の姉妹より劣っている、だから遮二無二ローザミスティカを集めなければ、姉妹には勝てないと言いたいのではないかと」
 手を止めずに男はぽつぽつと喋った。
「そして様々に類推してみた。黒い翼と服を纏わせられたからなのか。最初に作られたからなのか。契約についての特異性か。それとも、そのボディに欠陥があると思っているのか」
 水銀燈はちらりと人形を横目で見た。相変わらず人形は動く気配すら見せない。
「部分的にはどれも当たっているだろう? そして、君の懸念事項は恐らく、すべからくある意味で正しい。君に不完全な部分、他の姉妹より劣っている部分は確実に存在する」
「……でしょうね」
 素直な声音で水銀燈は答えた。男は向こうを向いたまま軽く首を縦に振った。
「君は紛れもなく、不完全な失敗作だ。だが……」
 男は椅子を引き、できたばかりのパーツを取り上げて木屑を払った。水銀燈の冷静な部分が軽い驚きを感じる。アイホールも開けられていなかったが、それは、彼女の目にはドールの顔部分のように見えた。
「まさか、顔が木彫とはね」
「これは手慰みだよ。本物は粘土で作り、窯で硬く焼き上げる」
 言いながら、彼は人形に歩み寄り、そのうつろな顔面に仮面のように木彫の顔を押し当てた。そして、手早く人形の髪をツインテールに纏め、前髪を梳いた上で、懐から出した赤いボンネット調のヘッドドレスを器用に被せる。
「さあ。何に見えるね?」
 言われるまでもなかった。髪の色は違い、その長さも、末端のカールも無かったが、そこには即製の真紅がいた。
「君の、他の姉妹達との違いなど、私に言わせればこんなものだ。Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
 君と、君の五人の姉妹達は全て、言ってしまえば私の作った真紅以外のドール達のようなものだ。それぞれ欠けたところがあり、ユニークな部分もある。全てが失敗作であり、彼にとっての最高傑作だ。君の言うとおりだな。
 君のお父上とて全能ではないだろうから、付与された能力の種類によって、結果として優劣は付いてしまったかもしれないがね。まあ、そんなものは些細なことだ」
 男は手際良く人形の頭を元に戻した。再び人形は水銀燈に似た顔に戻り、何事も無かったようにそこに止まっている。


「凄い……凄いわ。神の子を見つけちゃった……」
 ジュンの部屋で、周囲の視線を全く気に留める風も無く、みつは完全に舞い上がっていた。視線は、何気なく壁際のハンガーに掛けられているドレスに釘付けになっている。
「天使。悪魔的天使……。今回のドルフェス出展作のテーマに合わせたとしか思えないわッ。蟲惑的でありなおかつ冷笑的、神にも刃向かう凛とした雰囲気を持ちながら少女の愛苦しさを生かす大胆なデザイン……! 神様神様、年始参りくらいしかやってないけど神様、貴方は私に自らの子を遣わしてくださったの? これも日頃の行い? 毎年お賽銭けちらずに払ってるから? 今年の運勢凶だったのは超クールだと思ってたけどもしかしてツンデレだった? それともこれは貧しい少年が死の間際に見たルーヴェンスの絵画ってこと? いいえまだ私死ねない、到底死ねないわせっかくこんな素晴らしい才能にめぐり合えたっていうのに! あああパトラッシュ私まだ全っ然眠くないから! だから連れて行かないでおじいさんのところには貴方一人じゃなくて一匹で行って明日の朝の牛乳配達は私が全部やっとくからあの牛乳缶クソ重いけど!」
 明らかに天国でなく何処か異次元に行ってしまいそうなみつの雰囲気に、部屋に入りかけた翠星石達はその場で固まってしまった。部屋の中ではジュンが必死に何か言っていたが、一言言うたびに相手のテンションがいちいち上下していくので辟易しているようだった。
「……なんかいろいろとネジがぶっ飛んでやがるです」
「ああなっちゃったらみっちゃんは誰にも止められないかしら……ネジっていえば、初めて巻かれたとき、最初に感じたのは火傷しそうなほっぺの熱だった……」
「カナ、あいと、あいとーなの」
「うう……かえって切なくなってしまったかしら……」
 ぐす、と鼻を鳴らす金糸雀の脇で、真紅は一人冷静な表情だった。
「貴女達」
 部屋の中の喧騒に視線を遣らずに真紅は言った。
「こちらはこちらで話があるの。行きましょう」
 三人は一瞬虚を衝かれたようにぽかんとしたが、顔を見合わせてから揃って頷いた。


「第二ドール金糸雀。彼女の性格は人懐こく明るく、しかし才気走ったものとされた。そして、容易にめげない克己心を根底に持つ。
 小柄で腕力には劣るものの、人工精霊の手助けを得てある程度空中を浮遊でき、音を使った技も持たされた。
 マスターへの依存度は小さいが、性格的にマスターを大切に思うようになることが多かっただろう。
 ローザミスティカへの執着はそれほど大きくないが、目的意識は高い」
 相変わらず背を向けたまま、男は歌うように言った。
「今日は厭に多弁なのね」
 水銀燈は苦笑した。
「やめるかね?」
「いいえ。その調子で全員分お願いするわ」
 男は軽く頷いた。
「そこまでの二人は、言わば個で全てを網羅しようとしたのだろう。どちらも完成度は高かったが、完璧とは言えなかった。そこで彼は考える。ある程度の完成度を持った二人に、お互いの不足を補わせれば良いのではないか。一人では無理でも、二人なら高みに到達できるのではないか。
 そうして作られたのが庭師の双子だった。
 一方は前向きで猪突猛進、臆病な面も見せるが好奇心が旺盛。他方は思い遣りに富み慎重だが容易に曲がらない信念を持ち、いざとなれば冷徹果断になれる。そして、二人とも感受性は強かった。
 技においても二人は表裏一体となった。そして他の姉妹には無い大きな力──他人の心をある程度操れるという能力を付加することで、更に『何か』を獲得させようとしたのかもしれない」
「何か、とは?」
「私は彼ではないから、その点は分からない。私が私の作った姉妹に持たせた能力は、極めてシンプルだから。
 即物的なパワー、音波を操るパワー、心を操るパワー。それらのいずれかをローザミスティカに込めただけだ。だから、私の娘達はローザミスティカを奪えばそのパワーも振るえるようになった訳だが。
 君の父上はそれを人工精霊に与えたり、逆に人工精霊を増幅器としてのみ行使させたりしている。結果は同じだが、そこに至る過程は異質過ぎて推測しかできない」
「ふむ」
 水銀燈はちらりと腕時計を確認するような仕草をした。
「続けて頂戴」
「そのようにかなり大胆な作りをしたのだが、しかし、これは失敗だった。双子は性格付けの強さと二人一組という行動形態、そして何よりあまりにも平仄の合うお互いを持ったゆえに、強く依存し合うようになってしまった。高みに到達する、どころの話ではなくなったわけだ。
 彼はここで初心に帰ることにした。つまり、次のドールは今までの姉妹達の経験を踏まえて、その時点での全てを込めて正攻法で作ったのだ」
 水銀燈は溜息をついた。
「それが真紅」
「そう。高潔で思慮深く、知識欲旺盛だが慎重で、固い信念を持つが他者を思い遣る心を持ち、技に依存することのないよう特異な能力を持たないが、その代わりに物の時間を巻き戻せる時計という重要な品物を持つ」
「でも、彼女も至高の存在には届かなかった」
「それら要素を全て併せ持った結果、彼女はとっつきにくく頭でっかちでか弱い存在となってしまった。後年、ローザミスティカを巡るゲームでは他に弱い立場の姉妹がいない限り繰り返し真っ先に狙われるような。性格付けも厳し過ぎたのだろうが、彼としては気付いていなかったのだろう、作っている間は」
「それでも、彼女は『選ばれた』わよ、マエストロのパートナーに」
「さあ、それも私には分からない方面の話だ。私の真紅は確かに桜田少年を『選んだ』が、これは選ぶ側が逆だからな。君の妹が本当に、君の言うように『選ばれた』のなら、それは私には理解できない世界の話ということだ」
 男はちらりと水銀燈を振り向き、水銀燈は肩を竦めた。
「事ここに至り、彼は自分にほぼ絶望してしまう。結局自分の思う至高の存在など、自らの手では作り出せないのではないかと。神ならぬ自分の想像力や創作力には限界があり、理想を具現化しようとしてもどこかしら届かないのではないかと。
 そして、次の娘には、敢えて彼が避け続けてきた要素だけを盛り込んだ」
「純真無垢、天衣無縫……」
「そして、未完成。雛苺はある意味で他の姉妹とは反対の手法で作られた。その人形としてのボディ以外は。
 だが、そうしてできあがったのはどこにでもいる素直で可愛い子供に過ぎなかった。至極当然だがね。成長することに全てを託したのだから、成長する前の段階で完成しているはずがない」

「結果として、君達は全て何等かの欠陥を抱えたが、それは能力的な不均一という意味でなく、どちらかと言えば性格的なあれこれだった」
 男の言葉に憐れむような響きが幾らか混じった。
 その憐れみが自分達に向けられたものでないことは、水銀燈にはよく分かっていた。
 彼は自分の娘達にやや不均等な能力を与えた。そしてそれは、自分達よりも物理的な力に優り、幾らか戦闘的な彼女達にとっては致命的な格差でもあった。
「よく分かる話だけど、まだ総括には早いのではなくて? 貴方は五人分しか考察を話してないわよ」
「ああ済まない、君の分が未だだったな。だが分かってほしい、私にとって金糸雀から雛苺までの五人は、自分の作品でもあるのだ」
 水銀燈は鼻を鳴らし、素直じゃないこと、と足を組みなおした。
「どこまでも水銀燈はがらくただと言い張りたいわけね」
「それはイエスでもあり、ノーでもあるが、君の話とは無関係だろう」
 男は作業台に道具を置き、水銀燈に向き直った。
「さっきも言ったとおり、君は他の姉妹とさして変わらない。強いて言えば、君と真紅だけにしかない特徴はあるが」
「そのときの実力を注ぎ切った、ということ?」
 男は頷いた。
「君は薔薇乙女として最初の作品だけに、彼は持てるものを全て注ぎ込んだ。仕上がりの美しさを犠牲にして人間に近い動きに拘った腰部と胸部の二重の胴関節こそ、胸部関節の適切化で金糸雀以降は使わなくなったが、君に初めて使い、その後の姉妹達に使いつづけた技法は数多い。むしろほぼ全ての技術は君で既に完成されていたのだ」
「言わばテストベッド。試作品ということね」
 水銀燈の皮肉な言葉に男は渋い顔をする。
「君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
 君のコンセプトは、天使だった。誇り高く自分を貫く意思の強さを持ち、高く羽ばたける翼を身につけている。自分の内面は誰にも見せず、誰かのために一途に生きて行く。無駄なことに脇目を振ることもなく、愚直なまでにまっすぐに」
「誰かに言わせれば『馬車馬みたい』だけどね。全く上手いことを言ったものだわ」
 水銀燈は今では自分の記憶の中にだけある言葉を思い返していた。言ったのは決して好きにはなれなかったが、嫌いにもならなかった人物だった。まだ数ヶ月と経っていないのに遥か昔のことのような気がする一方で、まるで今も薄汚れた作業着姿のまま肩を竦めながら、何か手を出すでもなくこの場をただ眺めているようにも思える。
「君には契約者との繋がりはさほど重要ではなかった。それは、君が個として完成していたからだ。
 他の姉妹達は契約者がいなければ力を振るえないが、その理由は簡単だ。奇形的に性格付けされた彼女達は、傍に人の想いがなければ暴走しかねない。何があっても人から遠ざからないように、彼は言わば保険として契約という行動の制限を設けた。考えてみたまえ──」
 男はほぼ完成しているドールを棚から下ろし、机に横たわらせた。
「君を作り始めたときの彼は、それこそ永年の想いを結晶化させていたはずだ。それこそローザミスティカを生成しようとした頃からの、彼本来の理想だ。その理想には──あくまでその時点までは、だが──揺るぎ無いものがあった。それが苦し紛れの迷走を始めるのは、君を作った後のことだ」
「それは取りも直さず、私が失敗作だったからということでしょう」
「否定する訳ではないが、私が言いたいのはそこではない」
 男は苦笑した。
「少なくとも君は、思いつきやその場のひらめきで作られた代物ではないということだ」
 言葉にもひどい苦味があるように、男の顔は次第に歪んでいった。自分の身に照らして、自分の作品のうちのいずれかに思いを馳せてしまったのだろうか。
 顔を強張らせながら、男は続ける。
「結果的に彼の力が、彼自身が求める水準に及ばなかったとはいえ、君は確固たるコンセプトに沿って作られた。だから君には音を操ったり心を強制的に動かすような奇妙で特殊な力はない。ただ、羽を自在に操ることができるだけだ──これは、ある程度原点に立ち返って作られた真紅も同じだな。彼女は強くあれとすら求められなかったから、能力はより限定されているが」
 水銀燈は眉根を寄せたが、何も言わずに続きを促すような素振りをした。男は苦い顔を隠そうともせず、これで終わりだ、と素っ気無く言った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃない。言っただろう、私から見れば君と他の姉妹の違いなどそんなものだと。

 ──そして、そこの人形は君『達』と根本的に違うのだと」

 男は斜め下に視線を落とし、溜息を一つついてまた机に向き直った。作業を再開しようとしたが暫くして道具を乱暴に置き、抽斗から何かを取り出して抛りつけるように机の上に転がすと頭を抱えた。それは不規則にゆっくりと転がって行くと、机の端から床に落ちた。木と木のぶつかる音がして、それは水銀燈の足許まで転がってきた。

「ああ、ああ、そうだとも。素型を作っているうちから分かっていたさ、その人形が何か異常な力を持ってしまったことくらいは!
 だから私は完成させることを躊躇した。出来上がったが最後、あれは私の手を離れて勝手に動き出すだろう。そして至高の少女どころか悪魔に、神に刃向かうものにすらなりかねない。
 しかし、簡単に打ち棄てることもできなかった。そうするには、あれが作り上げる前から独り手に自我を得たという事実はあまりに魅力的だったのだ。至高の少女となるのに必要なリソースの一つ足り得るのではないか、と思えてしまうほどに」

 水銀燈は立ち上がり、転がり落ちたものを拾い上げた。微妙なラインで構成され、上下に半球状の丸みを付けたそれは、人形の胴のパーツだった。
「ドレスに標された逆十字はそのせいなのね」
 自分の胴とはあまり似ていないそのパーツをためつすがめつしながら、水銀燈は尋ねるというよりは確認する口調で言った。
「仮に完成させていたとしても、悪役扱いは免れなかったということかしら。どう転んでも不幸の種にしかなり得ないじゃないの、その人形は。いっそ後顧の憂いを断つためにも壊してしまえば良かったのに」
「そこであっさりと自分の命題を解く鍵になりそうなものを壊せるような果断で執着心のない人間が、膨大な時間を注いでローザミスティカなどという如何わしい物を作り、自分の作品に埋め込もうなどと考えるはずがないだろう。いや、少なくとも私には壊せなかった。そして」
「ずるずると、それが勝手に動き出した後も見て見ぬ振りを続け、七体目までを完成させてアリスゲームが始まった後もまだ未完成のままとしていた。その認識が変わるのは、貴方の最愛の娘が人形に情けを掛けたから?」
「それもある。だが、あれが言った言葉が引き金だった。『ローゼンメイデン第一ドール』と、あれは名乗ったのだ。
 個々の仕上がりだけでアリスを目指していた頃ならば、戯言を言っているだけだと思っただろう。だが、私はローザミスティカの最後のひとかけらに剣のイメージを宿してあれに渡した。
 力ずくでローザミスティカを奪い合う試練を課したからには、あれにも相応の使い道が出来たのだ。ローザミスティカも力を与えてくれる者もなしに平然と動き回れるのだから、あれにローザミスティカを渡してローゼンメイデンだと言ってやれば、絶好の敵役になれるのだ。事実、そうなった」
 水銀燈はパーツを机に置き、人形を見遣った。
「それだけではないでしょう。今更貴方に認めろとまでは言わないけど、人形に対する愛着も当然あったはず。けれども自分の内心を認めたくない貴方は、パーツを作り付けないままローザミスティカだけを与えた。中途半端な形とは言ってもその人形にも至高の少女になれるチャンスを与えたのは、何か言い訳をしない限り自分の心に嘘を吐けなかったということよ」
 男は黙り込んだ。水銀燈は暫くそのまま待っていたが、やがて元の椅子に戻って腰掛け、足を組んだ。
「貴方が最終的に自分の気持ちに素直になるには、貴方の娘達が弟子の人形一体に全滅させられること、その弟子の人形が見せた純粋な想い、そして無力なはずの一人の契約者が貴方に問い掛ける言葉が必要だった。
 自分が作ったものが自分を慕うくらいの生半可な働きかけ──」
「──そうだ。彼女達からどれだけ愛されようと、私の中で何かが変わることなど有り得ない。娘達が碌に話を交わしたこともない私を慕うのは当然だろう。そういう風に性格付けされているかもしれないのだから。私自身が無意識のうちにそうしていない保証など、何処にもない」
 男は早口で、水銀燈の言葉に被せるように言う。水銀燈は目を閉じ、希代の錬金術師にして人形師がとことん自分を信じられない性格とは皮肉なものね、と呟いてから続けた。

「でも、貴方は気付いた。貴方がドールに与えた全ての能力よりも、力の源としたローザミスティカよりも強く働くものがあり、それは存在を知らなかった新奇なものでも全く見落としていたファクターでもなく、ただ単に重要視しなかっただけのありふれたモノだと。

 それは、ヒトの手によって作られ、魂を持ったモノが自ら持つ『想い』。

 貴方の想いを一身に受けて作られたその人形は、貴方が異様な未知の力だと勘違いするほど強い想いを持った。ローザミスティカを持たずとも勝手に動き出すほどに。
 娘達が貴方を慕ったのも、貴方が製作時に与えた特性ではなくて、自らの想いの発露に過ぎなかった。
 そして、本来ローザミスティカを体内に取り込めば壊れてしまうような、弟子の作った脆弱なはずの人形が、ほんの一時にしろそれを行使までして貴方の最高傑作を打ち破ったのも、弟子と人形のお互いの想いの結果だった。
 それを知ったからこそ、貴方は自分の宣言したルールを破らないぎりぎりの形で貴方の娘達を修復し、ローザミスティカを与えなおした。さり気なくその人形も含めて、ね」


「ま、まさかこんなにボッタクリ価格なんて……」
「由々しき問題かしら……」
 真紅が示した金額を見て、金糸雀と翠星石はこわばってしまった。
「じゅうにまんえんって?」
 雛苺は実感が湧かない様子で、指を唇に当てて小首を傾げる。
「少ない月のみっちゃんの家賃引いた手取りに匹敵するかしら……」
 金糸雀は引き攣った顔を隠そうともしない。みつの場合、その手取りが多かろうと少なかろうと惜しげもなくドール関係に注ぎ込んでしまうことの方がより一層の問題なのだが。
「うー、ますますわかんないのよ」
「お前の好物不死家の苺大福十二個入りを百箱買える値段ですよ。お子ちゃまには過ぎた買い物ですぅ」
 翠星石は言い捨て、早速数え切れないほどの苺大福に囲まれた想像を始めたらしい雛苺をさし置いて真紅に視線を戻した。
「ボッタなのは分かったですが、どうするつもりです? ドールにゃ百円だって稼げねーですよ」
「そうね……でも、なんとかしなければ。言い出したのは私なのだから」
 真紅は珍しく落ち込んだ表情で考え込んでしまった。ふむ、と翠星石は腕を組み、真紅が持ってきた紙を見遣る。
「確かにこれは、なんとかしないとですねぇ。額がでかいってことは、水銀燈やアホ人間にも大変だってことですし」
 ウェブページをそのまま印刷した紙には「フルオーダーワンオフ/ドライカーボンパーツ 60000~ /1点」というところに赤いマーカーで大きく丸が付けられていた。先日家に来た巴に真紅がこっそり頼んでプリントアウトしてもらった、カーボンパーツ専門店の価格表だった。
 胴部のパーツが容易に一体整形できないことは水銀燈から聞いていた。どう繋ぐかは別問題として、二つ以上のパーツ分割が必要らしい。塑像みたいには行かないのよ、と水銀燈が肩を竦めていたことを思い出す。
「私達にはアルバイトはできないし、何か作って売るしかないかしら」
「あ、ヒナいいこと思いついたのよ。翠星石が手作りクッキー作って売るのよ。薔薇乙女特製クッキーなのよ」
 おお、と他の三人がその素晴らしい提案に乗りかけたとき、後方から無慈悲な声が響いた。
「クッキー何枚必要だと思ってんだよ……無理だって」
 ぎくりとして振り向くと、そこにはジュンとみつが並んで立っていた。
「い、いつから聞いてたのかしら」
「『少ない月の……』からかなー?」
 みつが少し強張った顔で言う。
「ごめんねカナ、みっちゃんの手取りが少ないばっかりに……」
「み、みみみみっちゃんごめんなさいかしら! 泣かないでー!」
 思わず駆け寄った金糸雀をみつはひょいと抱き上げる。
「捕獲成功! ああんもうカナったら可愛いんだからぁ。そんなに想ってもらえるなんてみっちゃん幸せ……!」
 言い終わらないうちに、おろしがねで大根おろしを作るような勢いで頬ずりを始める。
「み、みっちゃんほっぺが、ほっぺが摩擦熱でぅぇぇぇぇ!」
 ちょっとした地獄絵図だ、とその場の他の四人は思った。

「十二万円ねぇ……」
 客間に戻り、漸く冷静になって話を聞いたみつは、形の良い顎に指を当てて暫く考えていた。それは金策の方法というよりも、具体的な金額の予測をしている風にも見えた。
「まだ、それと決まったわけではないのだけれど……難題なのだわ」
 真紅は居心地が良くないような風情で斜め下を向いた。みつはその姿とジュンを交互に眺め、ふふ、と笑った。
「多分大丈夫よ。アテがあるの」
 全員の視線がみつに集まる。みつはにっこりと、艶然と言ってもいいような笑みを浮かべた。
「ええ、みっちゃんにどーんと任せちゃって。これでも社会人ウン年目なのよ。だから、ジュンジュン」
「え、その呼称で固定なのかよ」
 抗議は当然のように聞き流し、みつはジュンにびしっと指を突きつける。
「さっきの話、よろしくね♪」
「……なんでそうなるんだよっ」
 口を尖らせながらも、ジュンは嫌だとは言わなかった。


「根本的に間違っていたのだ。至高の少女など限られた特質の中で優劣を競わせて決めるものではない。むしろ長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない」
 男は頭を抱えていた手を伸ばし、水銀燈が置いた胴のパーツを手に取ると机に肘を突いて両手でくるくるとそれを回した。
「そこに気が付くまでに何百年と掛かるとは、私は何処まで頑迷だったことか。より良い何かを生み出すために練成と変化が必要だということは、ローザミスティカを生成する過程でよく分かっていたというのに」
「そうねぇ。でも」
 水銀燈はふっと微笑んだ。
「間違った道を行き止まるまで我武者羅に突き進んだのも、自分の感情に気付かない振りをして遠回りをしてしまったのも、とても……人間らしい。到底賢明とは言えないけど、少なくとも懸命ではあった。
 私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないわよ。愛すべき性格とはお世辞にも言えないけどね。
 何を考えているか分からないほど超然としていて、全てを予測してシナリオを組み上げているより余程『生きている』もの」
 男は手を止め、水銀燈を眺めて苦笑した。
「それは……君の父上のことかね」
 さあ、どうかしら、と水銀燈が言うと、男は苦笑を微笑みに変えた。
「君が抱いているのは幻想かもしれないぞ。少なくとも私と彼には──異なる世界の同一人物だ、というのは置いておいても──手法や技術が異質であるとはいえ、それほどの差があるとは思えない。例えば、あれがそうだ」
 水銀燈は男が指した方を見遣り、訝しげに瞬いた。
「その人形と私は似ても似つかない。そう言ったのは貴方じゃなかったかしら」
「そうだとも」
 男は頷いた。
「確かに君とは外見と名前、そして第一ドールという点くらいしか共通点はない。だが、あれに相当するものはいるだろう。生まれたときから異質で、まるで悪役と定められて生まれてきたようなドールが」
 水銀燈は体を何かが走り抜けたような気がした。
「……末妹が、そうだと言うの」
「ああ。彼女こそは私にとってのあれに相当する特異なドールだ」
「仮にあれをドールと呼ぶのなら、という感じだけどね」
 なにしろ物理的な本体さえない。魂だけの存在。どのように製作されたのか、そもそもどうやったらそのようなモノを製作できるのかさえ明らかでない謎のドール、それが雪華綺晶……

──どうやって製作されたか不明……?

「共通点はだいたい理解できたようだね」
 水銀燈の内心を見透かしたように、男は続ける。
「彼の手で作られたものでなく、彼のイデアが『生んだ』モノだとしたらどうだ。ここまでの文脈に沿って、想い、と言い換えてもいい。まるで、あれの自我と同じじゃないか」
 それに、雪華綺晶が取っ掛かりを作り、水銀燈の媒介の記憶の世界の中で信じられないほど急速に自我を持つまでに成長した『水銀燈』とも同じだ、と水銀燈は微かな良心の痛みと共に考える。
「そして、私があれをアリスゲームの悪役駒として活用したような泥縄式でこそなかったが、彼もまたアリスゲームにおける雪華綺晶を独特な立場として設定した」
 男はやや偽悪的な笑みを浮かべた。
 水銀燈は黙って男の顔を見詰めた。男の笑いがまた自虐的な、あるいは自嘲的なものに変わるのではと思ったのだが、どういうわけかその気配はまるでなかった。



[19752] 最後の20行はおやつに含まない。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/17 22:19
最後の部分は原作の台詞一部改変ですので、その分を除くと110行くか行かないかくらいです。

いやー解説文疲れた。会話文で解説するのに地味に挑戦してみたんだけど、なかなか面倒な割に見返りが少ない感じですな。

9/17 なかなか進まないのでこっちを加筆修正して御茶濁し。

********************************

 水銀燈は左の手首を軽く押さえた。
「雪華綺晶が独特な立場というのは理解できるわよ、多少は末妹のありようを知っているから。誰かから押し付けられた知識だけじゃなしに、実際に危うい目に遭わされたこともある、という意味でね。もっとも出会ったのはそれきりだけど。
 でも、雪華綺晶の特殊な立ち位置というのは存在の異質さに起因しているんじゃなくて? 何かしら後付けの特殊な立場が有り得るのかしら」
 男はくくく、と笑った。ちらりと見ただけで不快になるような厭な笑いだった。
「君には分からんのだろうな、と予想していたが、そのとおりだったな」
 そう言ってから笑いを引っ込め、感情を見せない表情で淡々と続ける。
「偶然生まれてしまったモノと呻吟と試行錯誤の末に生まれたモノという違いはさておき、私と彼のそれらに対しての処置には共通する点がある。それは、手に入れたモノを最大限自分の目的のために活用したことだ。
 生まれてしまった雪華綺晶を見た彼が、私のように『とんでもないモノが宿ってしまった』と思ったのか『遂に実体のないドールの製作に成功した』と喜んだかは知らん。だが少なくともそれが自分の思い描くアリスでないことは即座に理解したはずだ。
 恐らく、彼はそこからいくらの時間も経たぬ内にアリスゲームを始めることを決意した。あれが純粋に私を慕っていたように、君の末妹もまた純粋に彼を慕っていたのだろう。だから、彼女の特性も織り込んでアリスゲームの『汚れ役』をやらせるには丁度良かった」
「分からないわね。悪役だったら私にやらせておけば良いようなものでしょう。なにも現実世界に出て来れない、不利な立場の雪華綺晶に悪役をさせる必要はないでしょうに」
「もし悪役が必要なら君を選んだだろう──極端な性格付けをされていないために最も個として安定していて、特殊な力こそ持たないが戦いとなれば手強い、それに尽きせぬ不安と不信を何処かに抱えている。確かに都合がいい──だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ」
 男は無感動な視線を人形に向けた。

「ゲームを長期間に亙り遂行する上で、どうしても必要だが厄介な廃棄物と化してしまうものがある。それが契約者だ。
 契約を終生のものとした場合、各々の契約者が寿命を終えるまで待っていたら、いつまでもゲームは進まない。また、死に際の契約者を抱えた薔薇乙女はそれだけでゲームの遂行上多大なハンデを背負うことになる。よって、契約は薔薇乙女の側から随意に破棄できるものとしなければならない。
 ところがそうなると、今度は使い終わった契約者が問題になる。薔薇乙女の側から一方的に契約を破棄されれば、精神的な依存が強ければ強かったほど残された契約者は不安定になる。
 最悪の場合は何等かの経路を通じて薔薇乙女の存在を妄りに広めてしまうかもしれない。方法は書籍の執筆、その手のコミュニティへの参加、放送媒体への露出など、幾らでも考えられる。そうなれば、いずれ薔薇乙女自身やらローザミスティカを目当てに暗躍する者も出てくるだろう。
 中には特異な能力を持つ者もいるとはいえ、物理的には薔薇乙女達は大きなお人形に過ぎない。それなりのコミュニティが血眼になって捜索し、手段を選ばずに獲ようと思えば、いずれかの時代の何処かで必ず捕獲されてしまう。そうなればもうアリスゲームどころの話ではない。
 ただ、薔薇乙女に強く依存している契約者だけでも、その場面の全ての契約が終わり、薔薇乙女が眠りに就いた後に隠密裏に始末してしまえば、そういった情報の漏洩は最小限に抑えられるのではないか。つまり──」

 何かを抗議しかけた水銀燈を男は手で制した。
「──雪華綺晶に求められた役割は悪役などではない。むしろ君達姉妹の尻拭いと言った方が良かろう。彼女に期待されたのは、ゲーム環境の維持だ。つまり、君達の名を過度に広めず、同時に、特に君以外の姉妹達が契約を解いた後まで以前の契約者達のことを心残りとして必要以上に引き摺らないように」
 水銀燈は悪寒を感じたように身震いした。
「素養のある者の意識を自分の領域に引き込んで死ぬまで離さない、雪華綺晶にとっては自分の存在を維持するために欠くことの出来ない捕食行為。ゲームのためにそれを利用した、いえ、むしろそういうふうに雪華綺晶を作ったと言いたいわけ?」
 いくらなんでもそれは、と言いかけて、水銀燈は思いとどまった。

──雪華綺晶だけではないかもしれない。

 以前、訝しく思ったことが何度かある。
 他の姉妹がやたらと強調する契約者との繋がり、それは自分にとっては殆ど理解できないほど強いものらしい。ならば、果たして契約の終わった後、時代を超える眠りから目覚めるときまでに、それまでのしがらみをすっかり捨て去ることなどできるのか、と。
 自分だったら、到底忘れることなどできそうもない。
 契約者との繋がりが薄いらしい自分でさえ、最初に契約した人物のことを未だに覚えている。流石に今でこそ懐かしさと寂しさに心を食い荒らされるようなことはなくなったものの、最初の頃は苦労したものだ。
 その経験があったからこそ、それからは契約を交わしても馴れ馴れしくすることはなくなった。煩わしいと思えば契約を結ばずに媒介として利用するだけに留めてしまうこともあったし、それはそれで気楽にやれた。
 今回の相手もそのはずだった。最初に契約を拒まれれば鞄置き場としての役目と螺子を巻く役目だけ押し付ける予定だった──実際にはこれまでにないほど振り回されている訳だが。
 自分ですらこのとおりなのだ。自分よりも感受性が強く契約者との繋がりも深いらしい他の姉妹ともなれば、下手をすれば以前の契約者のことをトラウマとして持ち続けるはずではないのか、と。
 しかし、どの時代で出会ったどの姉妹からも、その折々の契約者に対しての愛情やら共感は感じられるものの、それ以前の契約者に対する未練は全く感知できなかった。それは、今の時代においても全く同じだ。記憶そのものが消えている訳でないのは分かるが、少なくとも精神的な依存は綺麗さっぱり無くしてしまっている。
 それでいて以前からの記憶はそのまま保持しているのだから、不可解だった。
 その不可解さは媒介から得た知識でも深まるばかりだった。雛苺は前の契約者との別れのことを半ばトラウマのように覚えているらしいが、他の姉妹は以前の契約者のことを思い出すような素振りも殆ど見せない。
 彼女達は今までの経験を、それを得たときの情景とは全く切り離して蓄積しているのだろうか、と首を傾げたくなるようなこともあった。それにしては、例えば真紅は猫を苦手にしている理由を以前の契約者と結び付けているらしい。謎だった。
 結局、そのときは分からずじまいだった。どうにもすっきりしないまま、その問題を放り出さざるを得なかった。
 後になって媒介から得た知識も、その問題を解決するための役には立たなかった。そこは漫画でも語られていない部分なのだ。

──しかし、「後から振り返ることのないように作られている」としたら。

 ゲームの遂行のため後付けで設定されたか、それとも作られたときから刷り込まれているのかは分からない。しかしどちらにしても、彼女達の造物主は、彼女達に器と魂と性格、才能、技までを与えたのだ。そこに更なる細工を組み込むことができないはずはない。
 例えば鞄の中で次の時代を待つ間に、前の契約者への依存やら愛情を「懐かしい記憶」に変え、依存の対象を次の契約者へとすんなりと移動できるように作っておく、あるいは刷り込んでおくというような細工は造作も無いだろう。つまり──

「ああ、君の考えていることが概ね分かるというのは良いのか悪いのか、微妙なものだな」
 男は口の端を皮肉に歪めた。
「自分の娘達全員に問い掛けられ、詰られている気分になる。
 ま、それはこちらの事情だが、私の言いたいことは君の考えていることと恐らく殆ど同じだ。つまるところ、君達姉妹は全員、ゲーム遂行のために何等かの──ローザミスティカに対する渇望のようなもの以外にも、ゲーム進行に関する──心理的な後付けの制約を掛けられている。つまりは、ゲームを遂行してアリスに成るためにある程度最適化された、言わばゲームのための駒なのだ」
 水銀燈は何かを言いかけたが思い直して途中でやめ、続けて、と先を促した。
「君の末の妹は実体を持たない。強固な自己イメージで真っ白なドレスを身に着けたアンティークドールという姿を保持しているが、実際はボディを持ったことのない、ただの幻影のようなものだ。彼女に関しては何かしら他とは違った方向性でゲームに参加させる必要があった。
 ただ、それが彼女にとって有利だからといって、例えばnのフィールドの中では姉妹の誰にでも化けて襲撃するというようなありきたりな行動をさせてはいけない。糧となる人間を手当たり次第に確保させてもいけない。そういった見境のない行動は短期的には有効でも、いずれ彼女の意識を拡散させ、消滅させるか、ただの捕食衝動の塊に変化させてしまうだろう。自分の傑作、薔薇乙女である限りは誇り高くなくてはならない。
 彼女に他の姉妹の契約者だった者を選択して糧として確保させることで、これらはそれなりに上手く解決できるわけだ」
 なるほどね、と水銀燈は首を振り、頬杖をついた。
「彼女は厭でもゲームのことを覚えていなければならないし、一旦ゲームが動き出せば関わらざるを得ない。他の姉妹のマスターだった人間を騙し、糧とするために長期間もっともらしい夢を見せ続けることは、直接繋がっていないながらも現実世界の動向を注視する必要と、マスター達の精神に触れる機会を生む、ということね。良く出来ているわ」

「流石に理詰めでゲームシステムを構築するだけのことはある。確かに良く出来てはいた」
 男は皮肉な顔のまま頷いた。
「だが、大きな見落としも同時にしていた。それは、雪華綺晶の心情というものについて殆ど考えなかったことだ」
 そこのところが私と彼の最大の共通点だろうな、と男は肩を震わせて笑った。
「長丁場のゲームの遂行にあたり、半永久的な無機のボディを持つ六体は孤独とは無縁だ。人との出会い、別れはあるが、他の五人のうち一人は必ずどこかにいる。人工精霊も話し相手にはなる。更にその場その場では契約者が彼女達を愛している」
「雪華綺晶には誰もいない、という訳でもないでしょう。元マスター達が必ず自分の世界に──」
 言いかけて水銀燈は息を呑んだ。いや、違う。彼女が確保している契約者達は、すべからく自分の都合のいい夢の中だ。そこに雪華綺晶は当然存在していない。あたかもどこか無人の場所で、配達されてきた物言わぬ人形に囲まれて生活しているようなものだ。
 しかも、悪いことに雪華綺晶は常時それらの世話──目覚めることを忘れているほど楽しい、あるいは美しい夢を見せ続け、夢が悪い方に転がり出したらそれを修正したり──をしなければならないはずだ。
 長く世話をすればするほど彼女の養分にはなるかもしれない。だが、その分手間は多くなる。投げ出せば自分が飢える可能性が出てくる。なにしろ、次いつ新しい糧が得られるかは、完全にあなた任せなのだから。
 そして、彼等は絶対に雪華綺晶そのものを愛してはくれない。それはおろか、存在そのものも感知し得ないし、させてはいけないのだ。
「──更に、彼女には時代をまたぐための眠りすら許されない。ひたすら糧を啜り、時を待つしかない。もっとも彼の考えでは、それがゲームへの執着と自己認識の強化を生起するものと思えたのかもしれないが」
 男は力なく首を振った。
「彼の思惑通りには行かなかったのだろう。『僅か』ここ百数十年の間に、雪華綺晶は疲弊してしまった。そしてアリスに対して独自の解釈を持つに至った」
「要は狂ったわけね」
 水銀燈は彼女らしい割り切った言葉で切り捨てた。
「そこの人形と同じように、自分の欠損部分とゲームの目的を重ね合わせてしまった、ということでしょう。もっとも、アリスになることで欠けた部分を埋める、そのためにゲームを遂行しているのは皆一緒かもしれないけど」
 そういうことだ、と男は溜息をついた。
「まあ、私も彼も、他と異質なモノの本質に対して深く掘り下げて考えるよりは、その特質をどれだけ自分の目的に活用できるかを優先した。そこは多分変わらない、ということだ。そして、恐らく──」
 言い切る前に、男は振り向いた。そして、そこに居た者を見て微笑んだ。
「──来たわね」
 水銀燈は立ち上がり、人工精霊を呼んだ。メイメイは待ってましたとばかりがらくたの山の中から飛び出た。掬い上げるような軌道で勢い良くカーブを描くと水銀燈の頭くらいの高さで急ブレーキをかけ、彼女の隣に控える。
「随分長いこと様子見していたものね、雪華綺晶」
 言いながら水銀燈は左の手首に絡んだ細い白茨を掴み、引き千切った。ぶつりと音を立てて切れた茨から、早くも透明な樹液が垂れる。彼女にはそれが何故か血のように見えた。
 雪華綺晶は無言で工房の隅に立ち尽くしている。どこか虚ろな表情は、以前遭ったときの雰囲気とはまるで異なっていた。
 あまりの違いに水銀燈がやや面食らったように次の行動を起こすのを躊躇っていると、雪華綺晶は視線だけを彼女に向け、体のどこも動かさぬまま、茨の太い束を二本、男に向かわせた。
 男は抵抗する素振りもなければ何か言うでもなく、案山子のように立ったままで左右から包むように押し寄せた茨に巻かれた。
「どうするつもり?」
「糧にいたしますわ」
 雪華綺晶は虚ろな表情のまま、口だけを動かして答えた。水銀燈は眉をしかめた。
「錯乱しているの? 悪いけど、その男は間違っても糧にできるようなモノじゃないわよ」
「糧にできなければ潰してさしあげます。いいえ、いいえ、錯乱などしてはおりませんわ黒薔薇さま。ただ──」
 茨の伸びていない、一つだけの開いた眼から、つうっと一筋の涙が流れた。
「当たらずとも遠からずな推論を語られ、改めて悲しくて寂しい気持ちになったのだろう? 雪華綺晶」
 男が低い声で語り掛けたが、雪華綺晶は視線も向けなかった。返事の代わりに白茨が膨れ上がり、男の体は頭の先からつま先まで白茨の渦に飲み込まれてしまった。
 男を取り込んだ茨はまるで巨大な繭か卵のようにも見えた。だが次の瞬間、それは無残な形に萎んでしまった。
 茨が空しく元のように引き込まれると、その中に捕えていたはずの男の姿は何処にもなかった。繭に包まれた瞬間に忽然と消え失せてしまったようだった。
 嘆くように茨が退却していく間も、雪華綺晶の隻眼は水銀燈を固定されたように見つめていた。
 愛らしい口からぽつりと短い言葉がこぼれた。

「──もう、意地悪しないで」

 水銀燈は何も答えず、何か身振りをすることもなかった。
 二人は暫くそのまま無言で見詰め合っていたが、やがて雪華綺晶は二、三歩あとずさり、それからふっと消えた。自分の領域に移動したようだった。
「神出鬼没、か」
 水銀燈は呟いて、人形を見た。人形は最後まで微動だにしていなかった。ただ、どういうわけかその無機質な眼も今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「少し急がなければいけなくなってきたようね」
 誰にでもなくそう言うと、水銀燈は人形の目蓋をゆっくりと閉じさせ、今度ははっきりと人形に向かって言った。
「そんな顔しないで頂戴、広い意味ではみんな同じなのよ。私達は人形劇のマリオネットなのだから」
 ただ、それで終わりたくなくてこれ見よがしに足掻いてみせているか、そうでないかの違いだけだ。
 その違いが大きいか小さいかは水銀燈には分からない。しかしたとえ微細な差であっても、あるいはなにも変わらないとしても、自分は足掻くのを止めないだろうと彼女は思った。それなりの知識を得てしまったからには、それ以前のような真っ直ぐで純朴なアリスゲームのための歯車では居られないのだ。


 膝の上に真紅を抱いて、ジュンは刺繍の針を動かしている。
「……白薔薇ね」
「ああ……生地が水色だから」
 あれから暫く打ち合わせという名目の雑談をして、みつは帰っていった。
「あの話、引き受けるの?」
「……ああ」
 あの話、というのはみつが持ち込んできた、ドール服を作ってほしいという依頼だった。ドルフェスというドール関係の即売会に合わせてデザインしているドール服がなかなか思うように行かないらしい。ジュンの作った人形用のドレスを見たみつはえらい熱の上がりようだった。絶対悪いことにはならないからチャレンジしてみて、と迫られるとジュンとしても首を横に振るわけにもいかなかった。
「みっちゃんの作ったドレス、大したことないなんて言っちゃったけどさ」
 ジュンは下絵もなしに、手早く美しい薔薇の花弁を仕上げていく。真紅は半ばうっとりとそれに見入っていた。
「仕事の合間にコツコツやってるんじゃ、一ヶ月に一着くらいだろうな……値段も原価ぎりぎりだって言うし、好きじゃなきゃやってられないかも……」
 真紅は刺繍針が動いている辺りの布を押さえてぴんと張らせた。
「あ、指危ないぞ」
「……ふふ」
 真紅の笑いに、ジュンはくすぐったいような感覚を覚える。
「どうしたんだよ」
「成長したわね、ジュン」
「……は?」
 一瞬だけ、手が止まる。だが、ジュンはすぐに口を尖らせた。
「呪い人形に言われたくないな、そんなこと」
「──そうね」
 真紅は漸く手をどけた。
「私達人形に成長はない。本来、何かに突き動かされているだけ」
「なに言って……」
「あなたはどう思うかしらジュン、ぜんまいが錆びて朽ちるまで、アリスゲームに生きること。
 人が眠るように、呼吸するように、あるいは心臓の鼓動のように、それが私達の──薔薇乙女に本来求められた、自然であり必然なのだとしたら──」
 遠くを見るような瞳で、真紅は独語するように言った。
「どうって……」
 ジュンは手を止め、暫く次の言葉を探していたが、やがて刺繍を再開した。
「どうしたんだよ。なんかみっちゃんに感化されたりしたんじゃないだろうな」
「──ふふ」
 そうかもしれないわね、と真紅はまた柔らかく微笑んだ。
「……おいおい」
 正面から真紅を見ていたら、その表情に僅かに寂しさと羨望のようなものが混じっていることに気付けたかもしれない。だが、ジュンの視線からは真紅のヘッドドレスと自分の手元しか見えていなかった。
 ジュンの溜息がヘッドドレスをかすかに揺らす。真紅は目を閉じ、ジュンに体を預けるようにした。
「ねえ、ジュン」
「ん……」
「貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも」
 そっとトレーナーの裾をつまんでみる。
「いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……」
 きゅ、と少しだけつまんだ手に力を込める。
「私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて」
「……ん」
 ジュンは不明瞭に返事をして、やや間を置いてから、なに大袈裟なこと言ってんだか、とわざとらしい溜息をついてみせた。
「飛び立つとか何言ってんだよ。僕には無理だ。なにしろ自他共に認めるヒキコモリだし。だけど……」
 また刺繍の手を止める。だいぶ続きを言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お前達こそ……ゲームが終わって……アリスになっても、僕のことを忘れるなよ。そ、そりゃ、ヒッキーで取り柄も何もないかもしれないけど、お前達のこと三人も纏めて面倒看てやってるんだからな」
「忘れないわ。貴方は魔法の指を持った神業級の職人。そんな人間のことを忘れるはずがないもの」
 真紅は即答した。
「それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──」
 それから口の中で不明瞭に何か続きを呟いた。
「え?」
「──なんでもないわ。ドレスのアイデア出しの邪魔をしてしまったわね。静かにするから続けて」
「……うん」
 真紅はトレーナーの裾を掴んだまま、眼を開けて刺繍が出来ていくのを見守った。
 静かな部屋の中に、ジュンの息遣いと針の進む音だけが僅かに聞こえていた。



[19752] 約110行、うーむ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/17 22:47
うーん、実はこういうパート結構面倒。
延々と数人の会話で回したり、二人三人のパートで繋いでく方が楽ですな。

***************************************************

「柏葉ぁ、おはよっ」
 少年が大きく手を振る。竹刀袋を肩に掛けた巴が大きな袋を持ちにくそうにしながらそちらを向くと、少年は慌てたように駆け寄って来た。
「ごめんな、朝練行く途中だってのに寄り道させて、おまけにでかい荷物持たせちゃって」
 片手で拝むような手真似をしながら、少年はにっと笑って袋を受け取り、ありがとな、と頭を下げてから少し心配そうな顔になった。
「ホントに役に立ったのかな? こんなんで。大きさ全然違うし」
「さあ……」
 巴は首を傾げたが、右手を口のところに持っていき、ほんのりと笑顔になった。
「でも桜田君はありがとうって言ってたわ。参考になったって」
「そっか、ならいいや」
 少年はうんうんと頷き、ちらりと袋の中を覗いた。
 袋の中身は何体かのキャラクターフィギュアだった。数年前深夜に放映していたアニメのヒロイン達の立体化ということだが、素人目にはあまりデザインに統一性があるようには思えない。
 強いて言えばどれもこれも露出度が高く、特に胸の下辺りから腰骨の上までは生身が露出している、いわゆるヘソ出しなところが共通点といえば共通点だった。
 言うまでもなく先日、巴がジュンの家に持ち込んだものだ。

 そのときも少年は巴に、でかいし重くて悪いんだけど、と片手で拝むような仕草をして、これを桜田のところに持ってって欲しいんだと袋を差し出したのだ。
 訝しく思っている巴に、少年は胴体のない人形の一件とジュンが胴体を作ることになった経緯をごく簡単に説明し、参考になるかと思ってアニメ好きの友人から借りてきたんだ、と袋を開けて中身を見せた。

──持ってくのは俺より柏葉の方がいいかと思ってさ。

 いつものように理由を言わずに少年は頭を下げてみせた。巴も特に理由を聞かずにこくりと頷いて引き受けた。
 巴がそういう人柄であったり、二人の間に以心伝心とかいう高等な事情があったわけではない。そこで理由を尋ねても、少年に納得の行く説明を求めることが無理だと分かっていたからだ。
 雛苺の言うところではごく最近、少年は昔の記憶を失ってしまい、そのために性格が変わってしまったらしいが、巴にはそうしたところが以前と特に変わったようには思えなかった。クラスメートになってからずっと、外から見る限りにおいては、少年はいつも理屈より感性を信じて動くタイプに見えていたのだ。
 もちろん変わったと思うところがないでもない。どこか世の中を皮肉に眺めていたような眼差しは好奇心が丸出しの素直なものに変わったし、謎のような苦笑は快活な笑いになった。だが、そうした変化でさえごく親しい何人か、そして彼をよほどじっと見つめていた者以外は気付いていないだろう。

「ところでさ、桜田のやつ今日のこと何か言ってなかった?」
 相変わらずのあっけらかんとした声に、巴は短い回想から引き戻された。
「今日?」
 何も言っていなかったけど、と巴が返事をすると、少年は斜め四十五度に首を傾け、眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、目の前の巴が怪訝な顔をしているのに気付いてごめんごめんと笑顔になった。
「そっかぁ。いやさ、今日はお出かけみたいなこと聞いてたから」
「お出かけ?」
 意外な言葉に思わず鸚鵡返しに尋ねると、うん、と少年は頷いてみせた。
「金糸雀のマスターが運転して、水銀燈がナビやって、みんなで例の人形の胴体作ってもらいに行くんだってさ」
「そうなんだ……」
 巴は思わず微笑んだ。車の中で大はしゃぎする翠星石と雛苺の姿が見えるようだった。
「柏葉は行かないのか……なんとなく関係者全員なのかなーとか思ってたんだけど。あ、でも朝練あるから当たり前か」
 あら、と巴は瞬いた。
「栃沢君も一緒に行くの?」
「俺? なんでさ」
 少年は驚いたように巴をまじまじと見、ひらひらと手を動かした。
「全然お声もかからなかったって。『ただの媒介』だもん、俺」
 ならばどうして自分が呼ばれると思ったのかと巴が尋ねると、少年は腕を組んで小首を傾げた。
「柏葉は雛苺の元マスターで、今でも雛苺が一番懐いてるじゃん。それに桜田も……」
 それは何かとても重大な勘違いをしている、と巴は赤くなって抗議したが、少年は大きな疑問符を頭の上に浮かべたような表情で首を捻るばかりで、話は上手い具合に噛み合わなかった。


 郊外の幹線道路で、みつはレンタカーを快適に走らせている。日曜日の午前中の道路は適当に空いていて、適当に混んでいた。
「すごいの、とっても速いのよ」
 雛苺は目を丸く見開いて後部座席の背もたれにしがみつき、後ろに流れ去って行く景色を、言わばかぶりつきで見詰めている。あまり外に出かけたことのない彼女には見るもの全てが新鮮で、驚きに満ちているようだった。
「いろんなお店がいっぱいあるのね……」
「後ろ向きで景色見てると三半規管がイカレちまうですよ。おとなしく前向いてやがれです」
 鞄に乗って街の中程度なら何度か行き来している翠星石は、何処で仕入れて来た知識か、最初だけはそんな風に少しばかり姉らしい注意をしてみせたが、雛苺が何あれと興味を示すとその都度隣に並んで指差す方を眺めては適当な答えを返している。
「RED BARONってなに?」
「それはですね……」
 ボソボソと翠星石が雛苺の耳元で何事かを囁くと、雛苺は愕然として首をぶんぶん振った。
「うう……赤男爵さん可哀想なのよ。そんなにじこぎせいしちゃ駄目なのよ」
「レッドバロンは中古バイク屋かしら……」
 流石に何度も似たような問答を繰り返しているせいか、ややうんざりした顔でおざなりな訂正をする金糸雀も、後ろを向いているうちの一人だった。
 彼女がうんざりしている理由は翠星石の出任せだけではなかった。
「ちゅうこばいく、というのは何なの」
「中古……他人が一度は所有したバイクってこと。バイクはわかるかしら?」
「教えて頂戴」
 意外にも通過していく事物に興味深々なのは真紅も同じだった。しかもその知識も雛苺と似たり寄ったりに過ぎない。
 魔法や錬金術、心理学や哲学関係の書籍は読み漁っているくせにニュース関係にはあまり興味が向かないらしい──そのくせワイドショーはよく見ている──彼女の知識はひどく偏っていた。唯一の常識人として相手をしている金糸雀としては、それこそ一般常識の基礎と言えそうなことも全て噛んで含めるようにして説明しなければならない。
 悪いことに、真紅は飛び飛びに知識は持っていて、しかもそれは正しかったり微妙に間違ったり、あるいは古かったりとごちゃ混ぜだった。そこを丁寧に説明すると「知っているのだわ」と不機嫌になったりいじけたりもする。金糸雀は延々と忍耐力を試されているような気分だった。
「──そのうちコンビニを役所とか言い出しかねないな、あいつ」
 助手席のジュンは振り返る気力もないとばかりに溜息をついた。真紅が頓珍漢なことを言い出すのか、翠星石が適当にそう言うのかは特定しなかった。両方有り得ると思ったのかもしれない。
「あの子が活動的になったら苦労しそうね」
 ジュンとみつの間で背もたれに寄り掛かりながら水銀燈はにやりとしてみせた。
「興味が人形劇と小難しい学問からどこか変な方にシフトしないように、一生傍についてて世話を焼いてやらないといけないかもね。ご愁傷様」
「勘弁してくれよ」
 一生呪い人形の世話を続けるなんてどんな笑えない未来だ、と言いながらも、ジュンの顔は満更でもなさそうだった。
「それよりさ、お前」
 ジュンは改めて水銀燈をしげしげと眺めた。
「──いいのか?」
「確かに少し眠いけど、吸血鬼じゃないんだから昼間に弱いって事はないわね。それとも金糸雀の契約者と二人きりが良かった?」
「ジュンジュンと二人きりねえ……それも悪くなかったかな」
 瞬間、みつの横顔が大人の女性らしい艶っぽさを見せる。ジュンはまじまじとそれを見詰めてしまい、かあっと顔を赤くした。
 しかしすぐにそれは過ぎ去り、みつはいつものフェティシストの顔に戻った。
「でもローゼンメイデン五人揃い踏みも実現させたかったのよねぇ。もう幸せで舞い上がっちゃうくらい……」
 みつはマニアが趣味の対象を見るときの目でバックミラーに視線を向ける。そこには色とりどり、四つのドールの後姿が仲良く並んでいた。
「なっ……そうじゃなくって。その、水銀燈は服装とか、そんなんでいいのかって」
 ジュンは赤い顔のまま、慌てたようにぶんぶんと手を振った。
 今日の水銀燈はいつもの凝ったドレス姿ではない。長袖のシャツにジーンズにスニーカー、頭には野球帽を被って度のない眼鏡まで掛けている。
 靴と眼鏡以外はのりが用意したジュンのお下がりだった。紛うことなく五歳児くらいの男の子用の服装なのだが、意外にもよく似合っている。やや脚が長いことと髪の毛が銀色に輝いていることを除けば、どこにでもいる子供だ。いや、白人の子供だと言ってしまえばそれも特に気にならないだろう。
「あまり気に入ったデザインじゃないし翼も広げられないけど、悪くはないわよ。機能的だし」
 一揃い媒介に揃えさせてもいいわね、と水銀燈は薄く笑った。
「ただ、学校や職場に制服があるように、製作者が作ったドレスは私達が私達であることを示すものでもある。無駄にプライドの高い薔薇乙女にとっては、普段からそれ以外の服を着て過ごすのはなかなか勇気が必要なのよ」
 それでもいいなら、と水銀燈は左右の二人を見比べるようにした。
「貴方達が思いの丈を込めてドレスを作ってもいいかもね。綺麗な服を贈ってもらって悪い気はしないはずだから」
 みつはそうよねそうよね、とうんうんと頷いてみせたが、ジュンは若干複雑な表情になってしまった。

──考えてみたら、あいつらに作るより先にあの水銀燈もどきの服作っちゃったことになるな……。

 しかも服を作る間と人形のボディに時間を取られている間、三人の相手もろくにしていなかった。この間みつが来た日の夜中、いつも九時には寝ているはずの真紅が彼の膝の上に乗って刺繍を見せてとせがんできたのも、寂しかったからかもしれない。
 これからはもっと一緒にいる時間を増やした方がいいのだろうか。確かに、例えば蒼星石は起きてから寝るまで結菱老人の傍にいるか家の庭の手入れをしているらしい。真面目な性格もあるのだろうが、そうしていることが幸せらしいと半ば呆れ顔で翠星石が言っていたのを思い出す。
 一方、水銀燈と契約者の関係はほとんど正反対だ。一日のうち二人が顔を合わせている時間は、水銀燈が少年の夢の世界に潜り込んでいる時間を合わせても多分数時間にも満たないはずだ。それでいて水銀燈が少年を蔑ろにしている訳でもないことは、それこそ毎日夢の世界に入ったり、そこにいた人形を危険だからと引きずり出して見せたことでもよく分かる。
 一方少年の方も、水銀燈にとってのアウェーであるはずの桜田宅に自分一人で乗り込んできた。少年自身は気付いているかどうか分からないが、あのときから水銀燈とその媒介の二人に対しての他のドール達の対応は大きく変わった。ばらばらに行動しているけれども、二人の繋がりが弱いようには思えない。
 ケースバイケースということなのかもしれないが、事実上三人の契約者の自分は誰を基準にして対応すればいいのだろうか、などと考え込んでいると、何時の間にか水銀燈の視線がこちらを向いていることに気づいた。
「必要以上に深く考えてもいい考えには辿り着けないこともあるわよ」
 水銀燈はジュンの気持ちを見透かしたように、若干意地の悪い笑みを浮かべた。
「貴方は慕われてる。そして慕ってるドール達も全くの子供って訳じゃないの。裏づけのないモノじゃないんだから、自分に自信を持つべきね」
 その言葉はジュンが黙り込んだ原因に対して誤解を含んだもののようにも思えたが、ジュンは素直にありがとうと答えた。
「それにしても、お前が僕のこと励ましてくれるなんて、ちょっと前には考えられなかったな」
「御生憎様」
 水銀燈は照れた風もなく肩を竦める。
「励ましが必要なら貴方の可愛いお姫様にやってもらいなさい。私が言ったのは掛け値なしに客観的な、貴方が気付こうとしていない現状。それ以上でも以下でもないわ」
 ジュンはふっと息をついた。
「はい、はい……」
「生返事ね、ま、どうでもいいことだけど」
 遣り取りだけは真紅との会話に似ている。しかしやはり水銀燈は水銀燈の言葉と雰囲気を持っていた。
 それが具体的にどういうものかは、まだ漠然としていて上手く説明できない。だが、真紅が持って回った表現で人を励ますのが得意でなく、ついぶっきらぼうな言い方になるか真摯に直截な表現で語ってしまうように、水銀燈も表に出てくる言葉ほどは冷徹な内心を抱えている訳ではないことは、何処となく分かったような気がした。



[19752] 例によって(?) 二日分。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2010/09/21 23:34
本文が内容的に一区切りっぽくなってくれました。

ちょっと次なる実験を考えたいと思います。
かといって新規に話を書くのは面倒くさいので、これの続きということになるかと思いますが。

いい実験を考え付くまでは、この実験続行です。(ぉ
しかし、なんというか、あんまり変わりませんな。オリ主一人称物のときと。
結局のところあまり書き易いわけでもなかったってことですかねー。

**********************************************************

「じゃ、午後二時にこの先の駐車場で」
「分かったわ。みんなの世話はみっちゃんに任せといて♪」
 運転席で片目を瞑ってみせるみつに、車を降りたジュンと水銀燈は顔を見合わせた。その語尾の跳ね上がり方が一番気懸かりだと言いたいのは二人とも同じだったが、お願いしますと形だけは素直に揃って頭を下げた。
「頑張ってねジュン。水銀燈もバレないように気をつけるかしら」
「……余計なお世話よ、お馬鹿さん」
「むう、人がせっかく心配してあげてるのに。水銀燈ったらもう少しは感謝の心を持つべきかしら」
 口を尖らせる金糸雀の隣で、雛苺がぶんぶんと手を振る。
「こうしょう頑張ってなのよ。あいとあいとあいとー!」
「ヒッキーにゃいろんな意味で荷が重いでしょうが、精々頑張りやがれです」
 翠星石はジュンが重そうに持っている大きな鞄に視線を向けた。そこには胴のない人形と、それを完全なものにするための胴部の原型が収められている。
「その子を宜しくお願いするです、ジュン」
「──うん」
 ジュンは鞄を少し持ち上げてみせる。
 鞄の提供者は翠星石だった。段ボールで持って行けばいいとあっさり言う水銀燈にそれではあんまりだと抗議して、自分の鞄を貸し出すことにしたのだ。
 話の転びようによっては、もしかしたら翠星石は一週間以上鞄で寝られないかもしれない。だが、そうなったら大変だと思いはするものの彼女は鞄を貸し出すことを躊躇しなかった。彼女も彼女なりの遣り方で『水銀燈』のことを気に掛けているのだった。
「ジュン」
 真紅は後部座席の窓にしがみつき、目から上だけを出してジュンを見た。暫く、といってもほんの数秒だが、二人の視線が交錯し、真紅の顔が微かに笑みをたたえる。
「行ってらっしゃい、ジュン」
「……うん」
 真紅が何か続きを言いかけたとき、信号が青に変わった。みつは水銀燈に手を振り、車を発進させる。薔薇乙女達の身体はぐらりと揺れ、慣性で後部座席の背もたれに押し付けられたり座席の上に倒れこんだりした。
「感動のお別れシーンが台無しね」
 ぷっ、と水銀燈が吹き出す。
「みっちゃん、急発進しすぎじゃないのか?」
「それもあるし、自動車の動きに慣れてないのよ。金糸雀以外は初めてでしょうね」
 ふと水銀燈は目を閉じた。

 彼女が最後に自動車に乗ったのは、爆弾の雨は降らなくなったものの、まだ時折何処からともなく無人の飛行機や大型のロケット弾が降ってくる街の郊外だった。
 確かアメリカから大量に供与された四輪トラック、戦闘神経症で後送された当時の媒介が運転するそれのサスペンションは、今から思えばあまりにも旧式で、軍用としてはどうか分からないが、人間も運ぶ車としては最低限の機能しか持っていなかった。
 鞄の中に入っていても眠りに就けないほどに手ひどく揺さぶられながら、彼女は媒介の実家に運ばれ、そしてそれきり媒介と会うこともなく長い眠りに入った。
 仮に今生きていたとしても、彼は九十歳近いはずだ。今更会いたいとは思わない。だが、消息が全く気にならないと言えば嘘だった。
 結菱老人の一件の後、少年の目を盗むようにして試しに人名で検索を掛けてみたこともあったが、しかし、それらしい結果には行き当たらなかった。これといった特技や資産のない男だったから当然といえば当然だが、一抹の寂寥感が残ったことも事実だった。

「──行きましょうか」
 まだなんとなく不決断にレンタカーの走り去った方を眺めているジュンを、水銀燈は軽くつついて現実に引き戻した。
「……うん」
 ジュンはひとつ頷くと、水銀燈の後ろについて歩道を歩き出した。
 五歳児くらいの子供の背丈なのに、水銀燈の足はさほど遅くなかった。大股で迷いなく──まるで毎日通って知っている道のように──そのくせ軽やかに歩いていく。まるで羽を広げているようだ、とジュンは思った。実際には彼女の羽は今まで見たことのないほど小さく、近づいて見てもシャツの上からではほとんど存在が分からないほどに畳まれているのだが。
 対して、ジュンの足取りは軽くない。鞄は確かに大きく嵩張っているが、中身が軽いから見た目ほど重いわけではない。足を遅くしているのは別の要因だった。
 服は作ったことはあるが、人形のパーツは初めてなのだ。しかも他の部分を作ったのは自分ではないから、出来上がってしまえば自分の作った胴体部分が他の部分の作風と合わない可能性が大きい。それを、確実に一人以上の赤の他人の目に晒すことになる。
 あれは違う、と思いつつも、どうしても自分の描いたラフスケッチの顛末を思い出してしまう。黒板一杯の中傷の文字、その場の全員の蔑むような冷たい視線、嘔吐してしまった自分を見ても手を出そうとしないクラスメート達。
 額に汗が浮かぶ。しかし、歩みを止めるわけには行かなかった。こんなところで座り込んだらみんなは落胆するだろうし、前を歩いている子供の姿をした黒衣の人形には鼻で笑われてしまうだろう。それは癪だった。
 百メートルほどの距離を歩くと水銀燈は唐突に立ち止まった。振り返って大分遅れているジュンを見ても何か特別なことを言うでもなしに「ここよ」と素っ気無く到着を告げた。
 ジュンはガラス張りのショールームの中に並べられているスポーツバイクや大柄なスクーターを眺め、視線を上げて看板を確認し、それまでよりは幾分ましな歩調で水銀燈の前まで歩み寄った。
 水銀燈は帽子の下でにやりと笑い、両腕を大きく広げてジュンを見上げた。
「機械と油と熱と騒音の世界へようこそ、奇麗な世界のお坊ちゃん」
 ジュンは何度か瞬いた。水銀燈の姿が、何故か長身の男のように見えた気がしたからだ。


「良かったんですか真紅」
 後部座席に並んで座りながら、翠星石は真紅をちらりと見遣った。
「何の事かしら。ジュンのことなら心配要らないわ。水銀燈だって、まさかジュンを焼いて食べたりはしないでしょう」
 澄まして答える真紅に、翠星石は水銀燈のように肩を竦めてみせた。
「ジュンのことはいいんです。ホントは一緒に行きたかったんじゃないですか? ジュンと」
 真紅は翠星石の顔を見、それから視線を前に向けた。金糸雀と雛苺は助手席に移動してみつとはしゃいでいる。肝心の運転が気もそぞろなのは決して誉められることではないのだが、それは経験の乏しい彼女達にはあまりよく分からない種類の事柄だった。
「そうね、水銀燈の代わりになれるのだったら一緒に行ったでしょう」
 でもそれは貴女も同じではなくて? と真紅は翠星石の手に手を重ねる。
「水銀燈のように変装してしまえば、いいえ、貴女ならそのドレスのままでも可愛い女の子で通るわ」
「真紅だってそうじゃねーですか。現に、おじじの家からはみんなで歩いて帰ってきましたよね? あれでも騒がれることがなかったんですから。それにチビチビやチビカナだって平気で外に出てます。いくら小うるさい時代になったからって、その気にさえなりゃ、薔薇乙女には外を闊歩することなんて御茶の子さいさいなんです」
 それなのにどうして、と翠星石は真紅を見詰める。真紅は伏目がちになり、貴女も分かっているのでしょう、と呟くように答えた。
「ジュンは、一度は閉めてしまった扉を開く鍵を手に入れたの。それは偶然与えられたものかもしれないけれど、自分自身で使うべきものよ」
 それを私達が邪魔すべきではないわ、と真紅はちらりと翠星石を見、また前に視線を戻した。
「今日の水銀燈には役割がある。それはジュンの側の私達にはできない役目。代われるものなら代わりたいけれど……」
 翠星石の手に重ねた真紅の手に、僅かばかり力が篭る。
「人は成長するわ。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。ジュンが重い扉を開こうとしているなら、私達はこちら側からそれを見守ることよ」
 それにね、と真紅は固い表情をやや崩した。
「一緒に行ったら、私はきっと嫉妬してしまうわ、水銀燈に」
 ちらりと翠星石の顔を見上げる。どうしてですか、と口には出さなかったが、翠星石の表情がそう尋ねていた。真紅はまた俯き、少しばかり照れたような、それでいて寂しいような顔で続けた。
「彼女にはその場での役割があるもの。でも、私にはなんの役割もない。ただの見物人に過ぎないの。それがきっと妬ましくなってしまう……」
 そうですか、と翠星石はこくりと頷いた。真紅がこんなにはっきりと弱気な部分を見せるのが少しだけ意外だった。

──真紅でも、他人に嫉妬したりすることはあるんですね。

 正直なところ、翠星石がジュンに同行しなかった理由の半分ほどは似たような理由だった。自分が居てもジュンにして上げられることがない、というシチュエーション自体が怖かった。
 今回の件は事務的なことについては水銀燈がいれば全て事足りてしまう。また、もしジュンが精神的にダメージを受けるようなことがあっても、今の水銀燈なら尻を叩いてでもその場は切り抜けさせてしまうだろう。未知の場所に同行してお邪魔者になるだけという図式は、真紅ほどプライドが高くない翠星石であってもやはり楽しいものではない。
 そして、真紅がもう一つ理由を持っているように、翠星石にもそれ以外の理由がある。それは、ついて行くなら真紅も一緒でなければ、という翠星石自身の拘りのようなものだった。
 何故そういう拘りを持ってしまったかについては、翠星石本人にも明確な答えは出せない。ただ漠然と、真紅が片腕を失っていた間自分が感じていたちょっとした疎外感とか、小さな嫉妬とか寂しさのようなものを、自分が味あわせたくはないという気分があるだけだ。
 だから、その部分については翠星石は心の中に仕舞って置くことにした。
「──翠星石も同じですよ」
 彼女は微笑み、真紅の手を取って指を絡み合わせ、助手席で元気一杯にしている二人を見遣った。
「さっきの難しい話は、今は置いておくです。でも、真紅がちょっとだけデレてくれて嬉しかったですよ」
 それは身勝手な思い込みかもしれない。しかしこの場はそういう納得の仕方をしておけばいい、と翠星石は思い、空いている方の手で真紅の肩を抱き寄せた。
「──翠星石?」
 驚いてこちらを見上げる真紅に、翠星石は少し意地の悪い──雛苺や金糸雀に見せるような──にやりとした笑みを見せた。
「いいから、たまにはジュン以外にも甘えるです。お姉ちゃんが抱き締めてやるですよ、このツンデレ妹」
 ひっひっひ、という笑いに真紅が身体を強張らせるのをぐいと抱き寄せ、翠星石は真紅の顔を自分の胸元に押し付けた。真紅がくぐもった声で何か言ったが、翠星石は気付かない振りをして目を閉じた。

 二人は全く気付かなかったが、運転席のみつはバックミラーでそれを確認し、金糸雀に左手の人差し指を立ててみせ、次に親指で後部座席を示した。金糸雀は流れるような動作で敬礼を返すと、懐から取り出したカメラを後部座席に向けて立て続けにシャッターを切った。
「……完璧な連係プレーなの」
 雛苺は目を丸くしてひそひそと囁き、金糸雀は無言で親指を立ててみせた。


「変わった形のパーツですねえ……縮んだ芋虫? おっきな抵抗器? みたいな」
 ショップの受付担当だという女性は、なんとも言いがたい形状をしている原型を見て、ごくありきたりだが的確な形容をした。水銀燈は思わず吹き出し、ジュンは居心地が悪そうな表情になって原型をまた鞄に仕舞った。
「今、担当を呼んで来ますね」
 女性はあくまで笑顔で、事務所の奥に消えた。
「あは、あはははは」
 水銀燈は腹を抱えて笑い出した。
「確かに抵抗よねぇ。細くなってるところにストライプ入れたらそのものだわ」
「なんのことか分かんないぞ」
 ジュンは口を尖らせる。水銀燈はなおも暫く笑ってから、ジュンに向かって人差し指を立てて説明を始めた。
「電子基盤なんかで使われてる抵抗器のことよ。大きさは全然違うけど、形がね──」
「お待たせしました。カーボンパーツ担当です」
 後ろ斜め上から声が降ってくる。振り返ると、ツナギ姿で書類ファイルを脇に抱えた長身の男が立っていて、こちらを見てお辞儀をした。ジュンは慌てたように頭を下げ返し、男はもう一度軽く頭を下げて、どうぞと二人を事務所の隅のテーブルに案内した。

「バイクやクルマのパーツじゃないって事務員から聞いたんですけれども、まず現物を見せて頂いていいですか」
 ジュンははいと頷き、少し苦労しながら鞄をテーブルの上に置くと、そこから白い紙粘土製の原型を取り出した。
「……こりゃまた、凄いですね。フィギュアのヘソんとこみたいな」
 男は原型を手に取り、ざっくばらんな口調になった。形式ばった言い回しは苦手なのだろう。それでもお客相手という意識があるのか、丁寧語だけは使っている。
「フィギュア、というか……」
 ジュンは口ごもってしまう。改めてこうして他人の目に触れさせると、どうにも恥ずかしさが先に立ってしまう。姉や親しい人に作った服を見せたときとは違う感覚だった。
「ご名答。球体関節人形の胴体部よ」
 水銀燈がぼそりと補足した。男は、おや、というような表情をして水銀燈をちらりと見たが、なるほどねぇ、と頷いてまた原型をくるくると回した。
「他の部分はどうなってるんです? これから作成とか……」
「もう、できてます」
 ジュンは少し詰ったような言い方で、なんとか答えた。水銀燈は少し眉根を寄せてそちらを見る。
「それも全部FRPで作るんですか?」
 男は当然の疑問を口にする。まさか、と言わなかったところは商売人と言うべきかもしれない。
「いえ、もう……」
「そのパーツ以外は、完成してるの。ゲルコートも」
 しどろもどろになりかけたジュンの言葉を水銀燈が引き取る。
 真紅が見たら失望の溜息を漏らしたかもしれない。あまり行儀のいいやり方ではないし、ジュンの心を思えばさっさと口を挟むべきところではなかろう。
 ただ、水銀燈には水銀燈の事情があった。野球帽と眼鏡のせいもあって外見にはそう見えないかもしれないが、彼女もまた少なからず緊張しているのだった。
 もっとも、そういう事情がなかったとしても彼女の場合、焦れて口を挟む可能性が無いわけではない。最近変わりつつあるとはいえ、お世辞にも気が長い方ではないのだ。
 そんな二人の事情には気付かないように、ほう、と男は一オクターブ高い声を上げた。
「もしかして全部カーボン……とか?」
「はい」
「そりゃ凄い、いや、これって完成したら全長、全高って言うのかな? 多分一メーターくらいありますよね。それを全部……」
 見てみたいな、と男は子供のような素直な声を出した。ジュンは開いたままの鞄をくるりと回し、男から中身が見えるようにした。
「こりゃ……」
 男は目を見開いて絶句した。人形の出来に目を奪われてしまっているようだった。
「失礼、いや、なんというか」
 暫くして男はやっと口を開いた。視線はまだ人形に注がれている。
「最近はハンドレイアップ……ええと、ウェットカーボンって言った方が通りが良いかな、ホームセンターで売ってる手作りFRPセットのガラス繊維をカーボン繊維に代えたやつ、って言いますかね。そういうのをカーボンって言ってる場合もあるもんで。いやしかし凄いな、これは。物凄く奇麗だ」
 取って付けたように人形の美しさにも言い及んだものの、男の視線は専ら胸部と腰部の内部──塗装されていないために素材が剥き出しになっている部分に注がれているようだった。案外、奇麗だというのもそこの曲面の貼りこみやら仕上げ具合を指したのかもしれない。
 暫くどうしても買って欲しいが買ってもらえない玩具を見る子供のように熱い視線を注いでいたが、やがて嘆息と共に目を上げ、はっとして赤くなり、ありがとうございますと二人に向き直る。
「失礼しました。人形としての形も素晴らしいと思うんですが、仕上がりが美しいですね。つい魅入ってしまいました」
 二人は頷いた。何処の仕上がりかは、言われなくても分かる気がした。

 そこから後暫くは、事務的なつまらない話だった。仕上がりまで一週間以上は必要なこと、雌型が必要になること、肉抜きが上手く出来ない形状なので分割後結合することになること、分割ラインについては一任すること──但し、極力目立たないように分割するし、結合面の強度については責任を持てると彼は言った。
「もちろんばらばらの分割パーツでなく、一つに結合済みの完成品としてお渡しします。それと──」
 男は開いたままの鞄にまた目を遣り、原型の上下を指差した。
「球体関節なんですね、この上下の半球が」
「はい」
 組み合わせてもらっていいですか、とは彼は言わなかった。ただ、ちらちらと鞄の中を見ながら考え込むような素振りをしているのは、頭の中でそれを実行してみているのだろう。
 ジュンは手を伸ばし、水銀燈を促して二人がかりで人形を鞄から取り出し、テーブルの上に寝かせた。原型を胴のところに組み入れると、そこだけ色違いではあるものの人形はどうやら人間の形になった。
「こんな風になるんですけど……」
 背中部分に手を回し、上下の胴部の関節を軽く動かす。首がかくんと後ろに仰け反るのを見て、男は自分も立ち上がって人形の頭を支えた。
「かなり自由に動くんですねえ」
 人形の髪を自然に整えながら、ほうほう、と男は何度か頷いた。
「この原型の状態で、パーツの擦り合わせは出来てるってことですね。分かりました。それを確認したかったもんで」
 ここまで擦り合わせができていれば、後は完成品でどうしても微妙に発生するヒケ、歪みを取ってやる程度でいい、と男は感心したように言った。
「上下のパーツを預かって宜しければ、こちらで擦り合わせをした状態で塗装までやっておきますが」
 どうしますか、と尋ねる男に、ジュンは咄嗟に返事が出来なかった。男はパーツ工場の関係者らしく上下パーツという言い方をしたが、それは要するに人形を預けるということと同義だった。
 確かにパーツ原型の製作者は自分ということになるのだが、その依頼者は水銀燈なのだ。人形を丸ごと預けてしまってよいものなのか。
 だがジュンが視線を向けると、水銀燈はあっさりと頷いた。ジュンは男に頭を下げた。
「お願いします」
 分かりました、お預かりしますと男も頭を下げた。

 さきほどの女性が三人分のコーヒーを持ってきた。テーブルの上の人形を見てまあと口に手を当てる。
「凄いですねぇ。お客さんが作ったんですか?」
「……違います」
 男と女性がジュンに視線を向け、ジュンはちらりと水銀燈を見遣る。水銀燈はポーションタイプのミルクを律儀に垂れ残しのないようにコーヒーに溶かし込み、その表面が微妙な模様を描くのを観察してからジュンを見、そして視線を男に移した。
「原型もパーツ本体も、どこかのパーツ屋に居た人が作ったの」
 水銀燈は子供の声色や喋り方を真似ることもなく、普段どおりの発音で言った。
「でも、今年の冬亡くなったわ。胴部だけ作り残して。中途半端ったらないでしょう」
「そう……それは惜しいなあ。良い仕上がりなのに」
 男はコーヒーを啜り、遺作ってことかぁ、と天井を見上げた。高い天井には大きな換気扇がゆっくりと回っている。
「しかし、そういうこととなれば気合入れて作らないとね」
 正直、まさかカーボン製とは思わなかったんですよ、とジュンを見て苦笑する。
「でもこれなら納得だな。どっかのメーカーで鉄腕アトムのフルカーボン人形作って展示してたけど、あれは非可動フィギュアだった。わざわざ可動人形で、しかも外見に判らないように作るなんて自分の技術の限界に挑戦してみましたって感じで、その、言い方は悪いけど──」
「──バカっぽくて良いでしょう?」
 水銀燈がふっと笑うと、男は何度も頷き、楽しそうに笑った。
「そうそう! 技術と設備持ってる人にしかできない、まさに道楽。これは是非とも完成させないと」
 発注を受けた愛想も幾分かは含まれているかもしれないが、本気でそう思っているらしいことは伝わってくる。

──それにしてもよく喋って笑う人だな。

 男にはドールの話をしているときのみつと同じ雰囲気が何処かにあった。話し好きというのもあるだろうが、専門バカと言うのだろうか、趣味と仕事を一緒にしてしまった人特有の何かだった。
 ジュンはややうんざりしながら男を眺め、コーヒーを啜った。この手の人の相手はあまり得意ではない。
 あまり飲みなれないせいか、それとも豆のせいなのか、コーヒーは少しばかり苦っぽいような味がした。どうにか顔に出さずに水銀燈を見遣る。あまり居心地が良くないんだけど、という気分を視線に込めてみたつもりだった。
 彼女はコーヒーを啜りながら男の顔を見詰めていたが、ジュンの視線に気付くとこちらを横目でちらりと眺めた。その眼にどこか照れのようなものが見えるのは何故だろうとジュンは訝しく思った。


「お疲れ様!」
 待ち合わせ場所の駐車場には、既にみつのレンタカーが待っていた。
「どうだった? 首尾よく無償でご提供いただけそう?」
「それはいくらなんでも無理だろ……」
 ジュンが憮然とした表情で言うと、みつはわざと大きく舌打ちの真似をして見せ、まあいいわ、と何度か首を縦に振った。
「アテはあるもの。取り敢えずは第一関門はクリアしたってところね?」
 ジュンを見て片目を瞑ってみせ、彼が頷くのを確かめると、さあ乗って、とドアを開ける。
「水銀燈──」
 ジュンは斜め後ろを振り返った。来た時と同じ順序なら先に乗るはずの水銀燈は、一歩下がったところで軽くかぶりを振った。
「帰りは寂しがりの誰かを抱いて上げたらどうかしら。もう道案内は要らないでしょう?」
 やや意地の悪い、しかし厭味のない笑顔で水銀燈は後部座席の窓にかじりついてこちらを見ている姉妹達を眺めた。姉妹達は顔を見合わせ、次いでジュンに視線を集める。
 なんてこと言うんだよ、とジュンは水銀燈を睨み、水銀燈は素知らぬ風で肩を竦める。ジュンは一つ溜息をついた。
「──抱いてやるのは一人だけだぞ。もう一人は僕とみっちゃんの間な」
 歓声こそ上がらなかったが、彼女達の表情はぱっと明るくなる。水銀燈は皮肉な笑顔になり、大変ね保父さん、とジュンを肘でつついた。

 短いが白熱したジャンケンの結果、ジュンの膝上のポジションは翠星石の、隣は雛苺の勝ち取るところとなった。雛苺は歓声を上げて座席に座り、翠星石は何か無闇に怒ったような赤い顔で、そのくせしどろもどろな言い訳をしながらジュンに抱かれた。
「そういえば、初めてかもしれないわ」
 後部座席で金糸雀と水銀燈に挟まれるように座った真紅は、幾分眠そうな眼をして呟いた。
「貴女と並んで座るのは1078950時間37分ぶりだけど、初めてではないわよ」
 水銀燈はドアの内張りに寄り掛かり、窓外の景色を眺めたまま否定する。真紅はふっと息をついた。
「それは覚えているわ。あれで喧嘩別れをしてから、食事のときもお茶のときも貴女は私の隣に座ろうとしなかった……」
 でもそのことではないのよ、と真紅はぼうっと微笑む。
「翠星石がジュンの膝の上に座るのは……多分初めて……」
 ふあ、と可愛らしく欠伸をすると、それを待っていたように金糸雀が真紅の肩にこてんと頭を載せる。彼女はもう眠っていた。
「じどうしゃというのは、どうしてこんなに眠くなるの」
 真紅はいつものようにすげなく振り払うこともなく、かと言って慈しむような顔になるわけでもなく、とろんとした眼で誰にともなく呟くとゆっくりと目を閉じた。じきにその頭が金糸雀に寄り掛かる。二人は絵のように可愛らしく寝息を立て始めた。
 水銀燈はちらりと二人の妹を見遣り、素っ気無く呟いた。
「……それは貴女達もそれなりに緊張していたからよ。お疲れ様、真紅」
 そのまま、また窓外に視線を向ける。流れていく景色をぼんやり眺めながら、彼女はさきほどのことを思い出していた。


 ショップからの去り際、建物の外で男は水銀燈を呼び止めた。ジュンは振り向いたが、水銀燈が目顔で頷くと先にその場を歩み去った。二人とも、何処となく男の用件が分かっていたのかもしれない。
「済まないね、君に聞いた方が良いような気がしたもんだから」
 男は照れたように笑った。
「言い難くなかったらでいいんだが、あの人形を作った人の事を教えてくれないかな。ああ、原型じゃなくて……パーツの実物の方を」
 水銀燈は帽子の下で薄く微笑んだが、突き放したような言葉を口にした。
「訊いてどうするの? さっきも言ったけど、もうその人はこの世界の何処にも居ないのよ」
 正確にはそうではないとも言える。だが、少なくとも今現在は、あの人形を作り育てた男は、僅か数人の記憶の中にしか存在していない。前世の記憶こそが彼の本体だとするなら、彼は自分で自分を殺し、自分が宿っていた少年を捨て、その上彼女に文字通り全てを押し付けて去って行ってしまった。
 いっそのこと出来の悪い小説のように自分の中で一つの人格として生きていてくれれば文句の一つも言ってやれるのに、と水銀燈は口惜しく思う。実際に彼女が得たのは、一人の人間が平均寿命よりだいぶ短い時間を生きただけの記憶と知識でしかない。
 有益な情報を含んではいるが、そこに生命は宿っていなかった。膨大ではあるがただの知識だった。
 そんな事情を知るはずもない目の前の男は、何処にも居ないからさ、と両手を広げてみせた。
「生きてれば会うこともあるかもしれない。名前を聞くことがあるかもしれない。なにせ同業者だからね。だがもう会えないってことになれば、ここで聞いとかないとその人のことは謎のままなんだ、俺の中で」
 たった一つのパーツのことで大袈裟かも知れないが、最後の一ピースを組み上げる仕事を任されたからには多少は知っておきたいんだ、と男は真面目な顔で言った。
 水銀燈は少しだけ躊躇い、残念だけど、と男を見上げた。
「名前や住所、会社の名前はちょっと教えられないわ。もっともそんなことは些細なことよね?」
 少し意地の悪い顔になって口の端を持ち上げる。男は腕を組んで苦笑した。
「まあ、そうかな……うん」
「そういうことにしておいて」
 水銀燈は今度ははっきりと微笑んだ。
「そうね……臆病で、死ぬ間際まで好きな人に告白できないような人だったわ」
 そう来るか、と男は首を少し傾げる。その反応を無視して水銀燈は続けた。
「漫画好きでアニメ好きで、ある作品に物凄く入れ込んでたわ。オタクって言うのかもね」
 思わず笑いがこみ上げてくる。
「その思いの丈を籠めたのがあの人形よ。ドールフェチでもあったってことかしら」
「なるほどねぇ」
 男は少し食い足りないような顔で返事を返した。
「──それから」
 言うつもりは無かったのだが、水銀燈はつい口走ってしまった。
「水銀燈を愛していた……」
「え」
 男は何か途轍もない言葉を聞いたかのように固まった。
「えっと……まあフェティシストってのはいろいろあるらしいが……その、水銀灯ってあの水銀灯かい、道路とかにある──」
「──そう、その水銀灯よ」
 視線を下に向け、男の言葉に被せるように水銀燈は言った。
「水銀灯が一番のお気に入りだったわ。愛の告白までしたことがあるのよ」
 可笑しいでしょう、とにやりと笑って男を見上げる。男はなんとも言えない顔になって水銀燈の顔を見詰めた。

「えーとそれは……『愛している、水銀灯、君をこの世の他の誰よりも』……とか?」

 水銀燈の笑顔は仮面のように凍りついた。
 数秒間、どちらもそのまま動きを止めていた。
 男が何かおかしなことを言ってしまったかと焦り始めた頃、水銀燈は表情の消えた顔で呟くように言った。
「もう一度、言ってみて」
 男は問い返さなかった。ごく生真面目な顔になって、少し顎を引いて同じ台詞を言った。
「もう一度……」
 子供がものをせがむような口調で水銀燈が言うと、男は何かを了解したようにそっとかがみこみ、視線の高さを彼女に合わせた。

「君の事を愛している、水銀燈。どの世界の誰よりも」

 水銀燈は何度か瞬いた。そして、物も言わずに彼の首に両腕を回してしがみついた。
 二人がそうしていた時間は大して長くなかった。最初に男が台詞を口にしたときと同じ、精々数秒間だっただろう。男が子供をあやすつもりで彼女の背中に手をやろうとしたときには、水銀燈はもう離れていた。
「ありがとう」
 素直な声音で彼女は頭を下げた。
 男は何かを言いかけて口を閉じ、こちらこそありがとう、と微笑んだ。
 男はそれ以上何も訊かず、水銀燈の方も何も言うこともなく、そのまま踵を返してジュンの待つ街路に向かった。


 車は郊外から彼女達の住む街に戻っていた。水銀燈は空を見上げ、一つ息をついた。
 助手席では翠星石がなにやらジュンと雛苺を罵っている。二人が軽く聞き流しているのを横目で見たみつがくすくすと笑っていた。
 飽きないわねぇ、と水銀燈は呟き、欠伸をして目の端に溜まった涙を指で拭いた。自分にも眠気が忍び寄っている。元々このくらいの時間は寝ているのが彼女の生活リズムだから、当たり前といえば当たり前だった。

──今日くらいは媒介の夢に行かずに寝ておこう。

 もっともその前に桜田宅に寄って着替えなくてはいけなかった。それが面倒だと感じるのも、多分眠気のせいだ。
 特に何か事態が出来しない限り、家に戻ったら明日の夜まで寝てしまおうと水銀燈は思った。媒介は心配するかもしれないが、勝手に心配させておけばいい。とにかく、今は眠りたかった。



[19752] 約100行。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2010/09/25 00:09
まあ後始末的な。
いつにも増して特に見るべきところのない内容です。

****************************************************

 工房の中では、赤い人形が最後の仕上げの工程に差し掛っていた。
 水銀燈はいつものように足を組み、肘を突いた手に顎を乗せるようにしてそれを見守っていた。
「虚しい作業だ」
 手を動かしながら男は呟いた。
「この上もなく虚しく、そして背徳的な作業だ」
「貴方が言うとちっともおかしくないような気がするから不思議ね。でも、その子に聞かせていい台詞じゃないでしょう」
 水銀燈が言うのは、男が今は髪を梳いている金髪の人形そのもののことだった。
「自覚しているかどうか知らないけど、もうその子に確り意識はあるわよ。多分ローザミスティカを入れるまでは口を開いたり手足を動かすことはできないのでしょうけど」
「知っていたさ」
 だから尚更虚しいのだ、と男は言った。
「私達の世界は閉じているのだ。他の世界と交わる、交わらないではなくて、時間が閉じている。だから私はどこの時間にも存在するし、どの時間にも存在していない。全ては虚しい作業に過ぎない」
 言いながらも男は手を止めようとはしない。水銀燈はその見事な手捌きを半ばうっとりと眺めながら、ぽつりと補足した。
「貴方達の物語は終わってしまったものね。貴方が弟子の人形に壊された娘達を修復したところで」
 男は頷き、カールを掛けていた部分を整える。
「私についてはそれで良かった。娘達がアリスになれる道筋の見込みがついたのだから。だが、そこから先はない。彼女達が踏み出し掛けで止まってしまった時間に、次の一歩を踏み出す機会は永遠に訪れないのだ」
「誰だって最期の瞬間はあるわ。それが分かり易い形で一斉に来ただけのことよ」
 水銀燈は目を閉じた。
「終わりのない人生をこれからも生きていくはずだった貴方には却って理解できないかもしれない。でも人の生き死になんてそんなものじゃなくて? 誰の時間だって、何処かで終わって閉じるのよ。それも大概は望まない時点で、しばしば唐突にね」
 人形だって似たようなものよ、と水銀燈は息をつく。
「人形は死なない、魂が何処か遠くに行くだけ、とは言うけど。要は壊れて捨てられればそこで御仕舞い。形が無くなってしまえば呼び戻してくれる人はいなくなり、二度と生き返ることはできなくなる。ありようが違うとはいえ確実に終わりはあるのよ」
「一種の極論だな、それは。全くもって慰めにならん」
 男は静かに櫛を置き、以前作業台の上の人形に被せてみせた赤いボンネット調のヘッドドレスを取り上げる。しかし、思い直したようにそれを置くと、凝った意匠のブローチを取り上げてそれを見詰めた。
「だが、実に君らしい意見だ。どういう訳か安心できる」
「お褒め頂いて恐縮ですわ、人形師様」
 水銀燈は目を開いて皮肉に口の端を歪めたが、男はちらりと彼女に視線を遣っただけで作業を続ける。暫くは衣擦れの音と時折仕事道具が立てる僅かな音のみがその場を支配していた。

──真紅のときもこうだったわね。

 工房の様子は全く違う。しかし、目の前で最後の化粧と衣装を整えられていくのがよく似た姿の人形であるだけに、思い出はこの場の光景と混ざり合っていくようだった。
「しかし違いはあるだろう」
 男がぽつりと言う。水銀燈は眉を顰めた。
「貴方がこちらの考えを読めることを今更どうこう言う気はないけど、わざわざ回想を邪魔しなくてもいいでしょう」
「懐かしき日々、か。それほど素晴らしかったのかね? むしろ忘れたい部類の記憶ではないのかね」
 男の声の揶揄するような響きに、水銀燈は苦笑する。短い付き合いだが、彼が偽悪的になるのは本心を隠したいときだと分かっていた。
「手元が疎かになるわよ。大事な最後の仕上げでしょうに」
「なに、大した作業ではないさ。ほぼ終わっているようなものだ」
 男は軽く答え、机の上からその人形を丁寧に抱き上げると背凭れのついた椅子に注意深く腰掛けさせ、息をついて一歩脇に退いた。
「見事な出来ね」
 水銀燈はお世辞でなくそう言った。
「可愛らしい顔。切れ長の瞳というのは現代的だけど、丸顔なのがアンバランスでいいわね」
 男は黙って微笑み、人形にヘッドドレスを被せると顎の下で結んだ。
「完成だ、私の娘。何者よりも気高く、力強く、慈しみ深い、私の五番目の娘」
 男が囁くように語り掛けると、人形は蒼い目を薄らと開けて彼を見詰める。彼は微笑んだまま人形を抱き上げ、椅子の脇に置いてあった鞄を取り上げた。
「呆れた。作り上げたと思ったらもう行くの?」
「行かないで欲しいのかね?」
 男は含み笑いのような表情で水銀燈を振り返った。
「残念ながらご希望には添いかねる。先方は既に待ちかねているのだ」
「あっさりしたものだこと」
 水銀燈は肩を竦め、にやりとした。
「引き留めてまで貴方と喋っていたいとは思わないけど、先方とやらにその人形を預ける場面には興味があるわ。許されるならご同道したいところだけど、どうかしら?」
 男は無言で、彼女と同じように肩を竦めてみせた。二人ともそれが無理な注文だというのはよく分かっていた。
「行って来るよ、生意気な黒人形さん」
「行ってらっしゃい、きちがい人形師さん」
 男は軽く一礼して、扉を開けて出ていった。垣間見た扉の向こうの青い空と緑の木々が皮肉だと思えてしまったのは、水銀燈が作業台の上の人形に感情移入してしまっているからかもしれない。

 水銀燈は椅子の上で背中を丸め、膝を抱いた。何か変化があるものと思っていたが、男が出ていってからも工房の風景に変わりはなかった。
 自分の夢の中だというのに奇妙な寂寥感を感じているのも、放置されたままの人形のせいかもしれない。
 その人形は何故か動き出さず、どこか諦観を感じさせる瞳で彼の去った後を見詰めている。いや、それもまた水銀燈の感傷がそう見せているのかもしれない。人形の表情など、見る角度だけで様々に様子を変えるのだから。
 気分を変えるためというわけではないが、そのままの姿勢でぐるりを見渡してみる。飾り気とゴミのない工房の中で仕事机と作業台とがらくたの山だけが目立っていた。
 一通り見回した後、水銀燈の視線は仕事机の上に向けられた。奇麗に揃えて置かれた仕事道具の間に、白い紙のようなものがあることに気付いたのだ。
 椅子から机の上に飛び乗って手に取ると、紙は短い手紙か書置きのようなものだった。宛名は書かれていないが、それが自分に宛てたものであることは文面を見れば確実だった。
「右の三段目……ねぇ」
 手紙を持ったまま机から降り、やや苦労しながら抽斗を引き開ける。有り難いことね、と呟いたのは、抽斗の中身が水銀燈の視点からでもよく見える高さだったからだ。
 抽斗の中を覗き込み、水銀燈は息を呑んだ。
 男の様子から仕事道具が詰まっているとばかり思っていた抽斗の中身はほとんど空だった。ただ、実に無造作に指輪のケースが二つ収まっているだけだった。
「──まさかね」
 そう言いながら、恐らくこれだろうという予感はあった。一つのケースを取り、胸元で開けてみる。
 予想は当たっていたが、溜息が出るのを抑えられなかった。
 中に入っていたのは淡紅色に光り輝く結晶と薔薇の意匠の指輪だった。
 元通り閉じて、もう一つも同じように開けてみる。結晶の形が若干異なることを除けば、全く同じものが収められていた。
「……どうしろって言うのよ、こんなモノを」
 そう言ってみるものの、それも思い当たる用途はある。水銀燈はケースを閉じて手に持った紙を裏返し、そこに書かれていた予想通りの文章を眺めてやれやれと肩を竦めた。
「つまるところ、貴方は出来損ないの第一ドールを他のどの娘よりも愛していたってことじゃない。全く、素直じゃないったら」


「えっ、立て替えるってどういうことですか」
 事務員は目を瞬いた。男は歯切れ悪く、やや照れたような表情で答える。
「ああ、まあ、タダっていうか、こっち持ち……俺持ちでね。これは俺の腕試しみたいなもんだから」
「それにしても、経費くらいは取ったっていいんじゃないですか? これ工賃だけでも相当な額ですよ」
 少し怒ったような顔で事務員の女性は男を見た。男は肩を竦める。
「会社に迷惑はかけない。俺の給料から天引きでも、直に払ってもいいが、兎に角これは俺の持ちにしたいんだ」
 ごめん、と男は長身を曲げて片手で拝むような姿勢になった。
「あの人形、作ったのはあの野球帽の女の子の親父さんじゃないかと思うんだ。あれは多分、形見みたいなものじゃないかな」
 妄想ですか、と事務員は首を振る。
「前から思ってましたけど、子供にはとことん弱いんですね。それともロリータ野郎って言った方がいいですか?」
 膨れっ面になる事務員を、まあまあと男は手で制した。
「それに、実際凄いものだった。俺の作った部分が依頼者から金取れるほどいい出来になったかどうか自信がないんだ」
 言いながら、男はパーツ製作の依頼書を眺める。
 依頼者欄には桜田ジュンという、あの中学生ほどの男の子の名前が書かれていた。ただ、もう一つその隣に別の名前も連署されている。

──水銀燈、ね。

 最初気付いたときには、子供にしては……いや、子供だからわざわざ難しい字を選んだのか、と吹き出しそうになったものの、自分の名前をそんな風に書いてまで「愛している」と言わせたかったのか、と思うと可笑しいというよりも切なさの方が先に立つように思えた。
 男の想像では、人形を作ったのはあの子供の父親だった。人形は彼女に何処となく似ていたし、立たせてみると背丈も殆ど同じだった。
 どうして胴体を最後回しにしたのかは分からないが、兎も角最後のパーツだけを残して、大好きな父親は死んでしまった。そこで彼女は知り合いの少年に頼んで残りのパーツの原型を作って貰った。咄嗟に自分を水銀燈という名前に偽り、男に愛していると言わせたのも死んだ父親への愛情がさせたことだろう──そんなストーリーが男の中には完成していた。
 何もかも知っている視点では、それは酷く大きく間違ったストーリーかもしれない、と男は思う。実際そのとおりなのだが、そのことは男の知るところではない。
 しかし、男が費用を自分で持つと言い出したのはそういったストーリーに酔っ払っただけではなかった。彼の視点からは凄腕としか言えない職人の遺作なのだ。あまり褒められた形ではないかもしれないが、その男に対する手向けというか敬意を表したかった、というのが本当のところだった。
「まあなんだ、CBRはもう一月我慢するよ」
「大馬鹿ですね。専門バカっていうか、無駄に職人気質っていうか」
「褒め言葉と取っていいのかな、それ」
 男が腕を組むと、事務員はべーっと舌を出した。
「生憎と貶してます」
 男は苦笑した。
「そりゃ、どうも。そっちじゃないかとは思ってたけどさ」
 言いながら、男は依頼書を書類入れに仕舞いなおし、まだ何か言いたそうにしている事務員に片手をひらひらと振って事務所から出ていった。


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