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【コラム 私は見た!】

相撲美あふれんばかりの無表情

2010年9月24日

 大相撲はスポーツとしては限りなく美しくつくられている。その美的表現は細かな動作にも及んでいて、これをここまでつくり上げた人々の厳しい美的探求心には、ただただ感嘆するばかりである。

 それは勝者を称揚する仕組みに、ものの見事に表されているが、それだけではない。礼の形をとった土俵上の、勝者、敗者の別れ方などを見ていると、格式美の象徴的な要素が、巧みに生かされていることを感ずる。

 最近はしばしば、この礼の根幹を深く理解しない力士が登場してきて、味気ない思いにさせられる。あたかも、ただ簡単にお辞儀をして帰って来るだけだと考えているのではないか。そんな疑わしい思いをさせられることも少なくない。

 こんなことをきつく書きすぎると、それこそ老いの独り言になってしまうが、ごく簡単に肝心なことを書いておこう。敗れた力士まで、なぜもう一度土俵に上がってこなければならないのか。土俵下から、丁寧な一礼を送れば良いではないか。

 勝負ごとの儀礼としては、確かにその通りなのだが、相撲の場合、土俵から落ちた力士、投げられた力士は、ほんの十歩内外だが、一度は敗者として通過した道を戻って来なければならない。

 大事なのは、この間(ま)なのだ。そのわずかな時間は、勝者と敗者が取ったばかりの相撲を振り返ってみることに費やされる。敗北感をかみしめる者もいるだろうし、次回の対戦に向けて、もう闘志に火をつける力士もいるだろう。

 だから、その日の土俵上の勝負の決着はついているが、さまざまな内容の闘志の火は、まだ二人の力士の胸に燃え続けている。私が大事な間だと書いた時間はこうして拡大化され、沈静化されていく。そして、先人がつくり上げてくれた美の表現は、ますますその内容を深めて行く。

 白鵬が魁皇から上げたひとつの白星には、多くの人々が祈りをこめた内容をあふれんばかりに感じとらせてくれる。だが、魁皇は無表情で、一方の白鵬は致命的とも思える黒星を与えた力士としては、やはり切ないほどの無表情を通していた。

 これぞ、まさに相撲美の世界なのである。 (作家)

 

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