冒頭のMAPは、支那国内の反日デモの所在地です。
日本国内の報道は、なぜか北京、上海、香港に限られているけれど、実際には支那各地で行われている。
さらに支那国内のインターネット掲示板では、この問題に関し、
「中国外交の勝利だ」
「原爆を落とせ、ミサイルを撃て」
などの書き込みが相次ぎました。
12日には、天津にある日本人学校にパチンコ玉のような鉄の弾が投げ込まれてています。
正門近くの窓ガラス2枚が割られ、13日には学校の壁に黄色のペンキで
「中国人民は侵犯を許さない」と書かれているのが見つかっている。
領海侵犯事件の詳細については、先日「
「マサダ砦の戦いと尖閣問題」の記事に詳報を掲載させていただきましたので、ここでは割愛しますが、他人の家の庭に勝手に上がり込んで、自分から突っ込んで怪我をし、助けてもらっておきながら、「原爆を落とせ、ミサイルを撃て」は、あまりに身勝手で非道な振舞です。
しかし、支那という国は、もともとそういう国民性の国です。
中国大手紙「環球時報」は、本件に関する日本への対抗措置を専門家らに聞くという特集記事を掲載しています。
そこに書かれた日本への対抗措置は、
(1)東シナ海ガス田の共同開発交渉を無期限延期もしくは中止
(2)中国が円を買い進めることによる円高促進
(3)レアアースやエネルギー資源の輸出制限
(4)日中環境保護協力協定の停止
(5)戦闘能力のある漁船の尖閣海域への定期派遣
(6)尖閣海域での軍事訓練
(7)日本製品ボイコット
などなどです。
これを「子供じみた勝手な言い分」と甘く見たらいけません。
要するに支那という国は、そういう「扇動」で、多くの民衆が群衆となり、熱気が暴発したときとんでもないことをはじめる国でもあるからです。
上の写真は、明治24(1894)年、清朝末期の頃の支那の処刑の模様です。
後ろ手に縛られ足枷をかけられた状態で斬首しています。
死体も見せしめに放置され晒されたといいます。
注視していただきたいのは、後ろに多数の支那人たちが、その様子を見物していることです。
次の写真は、昭和2(1927)年の上海事件当時の公開処刑の写真です。
この写真でも、後ろに多数の支那人たちが見物しています。
中国人の残虐性といったって、そんなのは昔の話だろう、という人がいます。
次は文化大革命当時の処刑の様子です。
やはり黒山の人だかりです。
文化大革命といえば、昭和45(1970)年のことです。
そんな昔の話と、思うかもしれません。
次の写真は、2009年の中国公捕公判大会のときの写真です。
後ろに多くの見物人の姿が見えます。
北京五輪が終わり、公判大会が復活しました。
両手を縛り、首から悪人を示す看板をぶら下げさせ、群衆の前に引き出してなぶりものにする。
青竜刀が銃に変わっただけで、いまも昔も支那人の本質はまるで変わっていません。
要するに、支那は何も変わっていない。
昭和12(1937)年7月29日、北京の西に位置する通州で数百人の日本人居留民が虐殺されたという事件が起こりました。
世に言う通州事件です。、
通州事件については、以前、ねずブロでも当時の模様を掲載させていただきました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.htmlこの事件を振り返ると、ひとつの姿が浮かび上がってきます。
もともとは、通州にいる日本人も朝鮮人も支那人も、互いに仲良く平和に暮らしていたのです。
ところがある日を境に、朝鮮人たちが「日本は悪い国だ」「日本人は侵略者だ」「日本人は残酷な振舞いをする」と口汚く罵るようになります。
中共の扇動を受けると、まっさきにそれに乗るのは、いまも昔も朝鮮人の特徴です。
はじめのうちは、そんな朝鮮人たちを、地元の中国人たちも相手にしていません。
ところが、嘘も100回つけばホントになる。
徐々に支那人と日本人居留民との間に冷え冷えとした雰囲気が生まれてきます。
そりゃあそうです。日本人は危険な人種だとあそこでもここでも言われれば、誰だって警戒しはじめる。
そんなところへ、日本軍が支那大陸のあちこちで「負けた」「排斥された」「中国人の大勝利」「中国兵強い」等の、デマがまき散らされる。
そして、通州にいた日本軍の主力が、紛争の鎮圧のために他に移動し、通州にわずかな手勢しか残っていない状況になったとき、つまり「軍事バランス」が崩れたとき、支那人たちで構成する通州保安隊が、突然寝返り、わずかばかりの日本兵を集団で襲います。
そしてその混乱に乗じて、支那人の若い学生たちが、日本人居留区に侵入し、武器を持たない民間人の日本人に対し、暴虐の限りを尽くした、というのが通州事件です。
男はよってたかって撲殺され、女は子供にいたるまでまる裸にされ強姦され、性器をえぐり取られて殺された。
このとき、通州には多数の支那人居留民がいたのだけれど、暴行をする支那人学生たちに対し、見物している支那人たちは、誰も、彼らの暴行を止めようとしない。
まるで何かのショーを見るかのように集まり、ただ見物していただけです。
通州事件の経緯が、いまの日本に、なにかそのままあてはまるような気がします。
朝鮮人たちがメディアを牛耳り、支那の手先となって日本人に誇りを失わせ、日本人=悪というイメージを植え付ける。
言ってることは、どれもウソばかりです。
しかし彼らはそのウソを、本気で真剣に言い張る。
そして反日ムードが高まりを見せています。
通州事件のとき、こうした不穏な空気を敏感に感じ取った人たちが、当時の通州の駐屯部隊に何度も、危険な兆候を訴えています。
ところが、当時の日本軍は、そういうツマラナイ訴えを相手にしなかった。
自分たちが、正々堂々と、和を以て治世をしていれば、そういう不穏な空気は、そのうち消え去るだろうと、タカをくくっていたのです。
人には誰しも正しい心がある。暴力は誰しも嫌う。
ウソはいずれバレる。
そんなツマラナイ、嘘やデマに右往左往するのではなく、自分たちがまず身を律して正しく生きることが大切だ、と判断したのです。
ところが、日本人がデマを相手にしないのをいいことに、支那人たちは、より一層、デマに尾ひれ羽ひれをつけ、日本を貶めるウワサを撒き散らします。
あることないこと、とにかく想像で言いふらす。
自分たちの言葉に酔い、発言はより一層過激になる。
そういう状況下で、日本軍が移動し、軍の警護が手薄になったところに、通州事件は起きています。
要するに、軍事バランスがくずれ、誰がどうみても日本に勝利できる、という状況になったとき、戦闘が起こった。
もしいま、沖縄米軍基地がグアムあたりに撤退を決め込み、あるいは沖縄にいながら、支那と日本の紛争に対しては、米軍は傍観する、と発表したらどうなるか。
あるいは、支那の宣伝工作によって、日本=悪の国というデマが米国内に浸透し、日本を守る意味ないという世論が米国内に沸き起こり、結果として日本が軍事的に孤立したらどうなるか。
日本は、自民党内閣の時代ですら、たとえばソ連のミグ戦闘機が領海侵犯してきたとき、丸腰で、対空ミサイルはおろか、機銃の弾すら持たないで、自衛隊機がスクランブル発進しています。
相手の国にも人権があるのだから、撃たれてからでなければ、撃ち返してはいけない、というわけです。
冗談じゃあないです。現代の航空戦では、撃たれた瞬間に、コチラは吹っ飛びます。
飛行機が吹っ飛んだあとでは、反撃すらできません。
日本の自衛隊が、その装備と隊員たちがいかに優秀であったとしても、これを指揮する内閣が腰ぬけ内閣であれば、自衛隊は張り子の虎でしかありません。
尖閣領海内に、漁船に偽装した中国の高速艇が数十隻の大軍で押し寄せても、海上保安庁の船一艘でしか応対しない日本。
海保の船に突撃まで加えられても、反撃どころか、逮捕した船員たちまで、ご丁寧に送り返す日本。
多くの日本人にとって、それは戦争を回避し、人道上やむをえざる措置と考えられたとしても、それは日本人が勝手にそう思うだけのことです。
相手は、日本は抵抗しない。
ならば事実上、占領しちまえ!という国柄なのです。
二つの動画を紹介します。
比較的最近のものです。
女性の読者の方は見ない方がいい。
http://www.youmaker.com/video/sv?id=7f35bab2c4da430a88b7f0757fd4e1b7001http://www.youmaker.com/video/sv?id=fedd985ffb2b438bb4fd0ffcb5a5c11d001上は、許しを乞う隣人に対し、支那人が路上で暴行を加えている映像です。
下は、支那人たちが家出をした少女に対して集団で乱暴を働いている映像です。
コンクリートのブロックで、何度も撃ちすえたり、頭を割られて血を流している女性に対しスカートをめくったり、必死で頭を守ろうとする被害者に対して、その手をコンクリートのブロックで打ちすえて手の骨を砕いたり。
相手が抵抗できなくなったら、日本人の喧嘩なら、そこでおしまいです。
相手が「まいった」といえば、そこで攻撃は中止する。
それが日本人です。
世界の常識です。
しかし上の動画にも明らかな通り、支那人は違います。
相手がもはや抵抗できなくなるやいなや、もっと酷い目に遭わせる。
自分が怪我をしないで、好き放題やれるとなれば、鬼のようによけいにかさにかかって、相手をいたぶり、殺害する。
それが支那人です。
支那には、日本のような「情け」という文化はありません。
「水に落ちた犬を討つ」というのが彼らの文化です。
日本は、敵でも死んでしまえば仏様です。
しかし支那では、死んだ後も敵の墓まで暴き、死体を損壊する。
支那人の全部が全部、悪人だとは言いません。
暴力を否定するまともな中国人も数多くいるのはたしかですし、敵兵に対して慰霊を捧げる美風を持つ人もたしかにいます。
ただし、はっきりいえることは、一部の過激な支那人が暴発したとき、支那人たちはそれを黙って見物しても、「やめろ」と止める者は、支那人にはひとりもいない、ということです。
日本とは違うのです。
なかには、そうでない人もいるだろう。
心根のやさしい人もいるのではないか。
たしかにそうです。
戦前もそうでした。
たしかに心根がやさしく、教養豊かな人もいたのです。
王兆銘などもその一人です。
強きをくじき、弱きを助けるという日本的気質を持った正義の人でした。
彼は支那を普通の常識をもった国にしようと努力します。
しかし、その王兆銘とその一派がその後どうなったか。
全員、支那人によって皆殺しにされました。
墓まで暴かれ、骨までバラバラに粉砕されて野に撒かれました。
昭和41(1966)年、文化大革命が起こりました。
文化革命って、一見、いい言葉です。
このときの主役は、紅衛兵と呼ばれる中学生でした。
彼ら中学生たちは、教師たちを監禁し、毎日十時間以上、意味のない重労働を課し、わずかな時間すら休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。
夜になると、教師たちを縛り付け、夜通し尋問とリンチを行った。
ある女子中学校の女校長は、三夜連続で拷問を受け、ぐったりとなったところを、生きたままトイレに投げ込まれ、死亡しました。
その遺体は、全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。
彼ら紅衛兵は、昭和42(1967)年には、湖南省道県を襲撃しています。
そこでは、4139人の市民を銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段で殺害しました。
幼い子供は、ボールのように放り投げて遊びながら「投げ殺し」にしています。
同じ年、中共政府は、ウイグル地区でウイグル族34万人を逮捕監禁し、少なくとも5万人を虐殺しています。
このときの殺害方法は、いまに伝わっています。
歯を一本一本抜き取る。
鼻や耳を、ねじ切る。
体中をナイフで切り裂き、傷口に塩を揉みこむ。
焼きゴテをあてる。
女性であれば輪姦した挙句に、生殖器に火掻き棒を差し込んで、腸を引きずり出すなどの方法が用いられた。
とてもじゃなけれど、人間のすることではないです。
鬼畜以下です。
そういう連中が、いま、中東に次ぐこれからの資源の宝庫といわれている尖閣領域を横取りに来ているのです。
沖縄まで、自国の領土にしようと画策している。
「抵抗するから殺される」のではないのです。
「抵抗しない」もしくは「抵抗できない」とわかると、残虐に殺されるのです。
日本のメディアは、こういうことをほとんどまともに報道をしません。
相手が支那となると、むしろ支那が正しく、日本がまるで悪であるかのようです。
しかし、危険というものは、それが起こってからでは遅いのです。
兆候のうちに対処しないと、とんでもないことになる。
国民の生命と財産を守るのが国家の使命なら、国は、絶対に「先立つ注意と警戒」をしなければならない。
「そうなったならなったでいいじゃん。
こんな日本なんか捨てて、俺はさっさと外国にいくよ。
たとえばアメリカやオーストラリアなんて、いいんじゃないの?」
そんなことを言う人がいました。
申し訳ないが、それはもっと危険なことです。
まがりなりにも、日本という国があるから、日本人は外地でも安全に暮らしていけるのです。
もし、日本自体がなくなる事態、つまり日本人が国家のない離散生活者(これをディアスポラといいます)になれば、日本人は、世界中どこの国にいても、その国にいる支那人、朝鮮人たちによって暴行や辱めを受け、財産を奪われ、殺されます。
上に述べた紅衛兵や、通州事件のようにです。
それが現実なのです。
外地の方が、もっと危ないのです。
なぜなら、そこに日本の軍隊はいないからです。
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法輪功信者虐殺と日本にいる支那工作員の実態