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[21811] 彼女の守護者たち
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/23 08:38
 或る少女のエピローグ

 
 少女は嗚咽していた。
 寂しくて、悲しくて、孤独で、自分を取り囲む黒い者たちに、押しつぶされそうになっていた。
 少女は叫ぶ。
 
 誰か、助けて。
 私が何をしたの。
 謝るから。
 謝るから、だから私を捨てないで!

 少女の声は誰にも届かない。
 当たり前だ。
 少女の周りの者たちは、もう人間ではないのだから。
 だが、少女はそんなことには気づかない。いや、気づきようがなかった。
 叫び続ける少女の喉はやがて潰れ、血を吐くようになりながらも、少女は助けを求めるのを止めなかった。
 仄かに紅い暗闇の中で、生きようともがき続ける。

 それは、少女と或る者の邂逅の一瞬前の情景。
 それは、混乱に満ちた物語の序章。
 それは、一つの時代に終わりを告げる最初の鐘。

 そして、彼らの旅路の原点。

 



[21811] 1話 落ちこぼれ魔術師
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/11 09:22
 一話 魔術師の少女

 空は今日も青い。薄暗い部屋の中、ぼんやりと灯る蝋燭の炎と、数時間前から追いかけ続けている分厚い本の文字を交互に見た後、青いローブを着た少女はようやく顔を上げた。
 宮廷のお抱え魔術師に与えられる豪華な部屋だが、今は無数の本と埃に埋め尽くされている。
恐らく、彼女以外の人間がこの部屋に入ると、呼吸するのも躊躇するほどの汚部屋だ。
 本は至る所に積み上げられていて、壁などもう見えたものではないが、部屋に一つしかない大きな窓に、少女はゆっくりと歩み寄る。
 目を細め、揺れる白いレースのカーテンを振り払いながら、外に半身を乗り出した。

 そこから見える景色は中々の絶景で、なだらかな丘陵地帯に作られたブドウ畑や、放牧された家畜達。空に浮かぶ雲の影を、映す若い緑の草の海。
 丘の鏡と名高い、リヨーマの地を一望できる小高い丘にあるリヨーマ城で、一番高い塔にあてがわれたこの部屋だが、その持ち主はあまり景気のよい表情を、浮かべてはいなかった。
 その理由は、現在激しく部屋の扉を叩く人物にある。
「アレシア! アレシア・ベケット! いるのか」
 ドア越しにも聞こえるその濁声に、アレシアはふぅとため息を吐く。返事はしなかったが、それはいつものことなのだろう。
 濁声の持ち主は勢いよくドアを開け、埃が舞う部屋に躊躇なく侵入してくる。
 
 薄暗い部屋の中で、汚れた紺色のローブを着ているのが、背の低い年頃の少女というのに、普通の人間なら若干の違和感を覚えるだろう。
 しかし彼女の師である男にとっては、そんな感情はとっくに通り越していた。
「何用ですか? 先生」
「今日は領主様に謁見するようにと言っただろう。準備は出来ているんだろうな……それにこの部屋はなんだ。仮にもキミは女性だろう、もう少し身なりにも気を使いなさい」
 宮廷魔術師兼、アレシアの魔術の師でもある初老の男性は、窓際でポカンと口を開けている弟子を見下ろし、一気にまくしたてた。
「す、すいません。すっかり忘れていました。領主様に謁見する準備、全く出来てないです」
「あれほど念を押していたにも関わらず、お前というやつは……早く準備をしろ!」
「は、はい!」
 剥げ上がった頭に血管を浮かばせた、師の城内に響き渡るほどの怒鳴り声に、尻を叩かれアレシアは慌てて本の山の中から服を探し始める。
 宮廷魔術師クレイグと、その弟子アレシアのいつものやりとりは、リヨーマ城の穏やかな空気に乗せられて、ゆっくりと流れていった。

 数分後城の広間には、金の玉座に腰かけ苦笑する男と、その面前に膝を折って頭を垂れるクレイグの姿があった。
「なるほど、先ほどの怒鳴り声はソレが原因か。私はまた彼女が魔法を暴発させたのかと、焦ったのだが」
「そちらのほうがましでございます。この不敬の責任は私が……」
「気にするな。こちら側もまだフィリーネが来ていないのでな」
 気さくに笑う男の隣には、男が腰かけているものと全く同じ玉座があり、そこに座るべき人物はまだこの場にはいない。
 男の名はカルロス・リヨーマ侯爵。治める地の名を持つ、正真正銘のリヨーマの領主である。
 宝石を散りばめられた、高価なシルクの黒い服を羽織り、鉄の鎧に身を包んだ護衛を側に置き、クレイグが頭を垂れる姿は、確かに領主そのものなのだ。
 しかし、ごく平凡な顔つきで柔和な笑みを浮かべる顔は、威厳とは程遠いものがある。
 それでも彼が二十三歳でこの地を引き継いで以来、二十余年争いごとが起きていない現状は、彼に土地を治める才能があることを、無言で言わしめている。
「どうだ。アレシアは順調に成長しているか」
「それがどうにも……。知識は蓄えているようですが、陣や魔空の使い方が致命的に下手なのは相変わらずです。全く、アレシアの父君も厄介なものを押し付けてくれたものです」
 始終愚痴交じりのクレイグに、侯爵は苦笑を浮かべる。
 
 アレシアの父はリヨーマ出身の高名な魔術師であり、その娘であるアレシアも当然のごとくその道に進んだ。しかし、どうにも上手くいかず魔術の師範学校を辞め、父に恩義のあるクレイグの元へやってきたのだ。
「まあ、時間をかけてやればいい。あの方の娘なのだから、きっと大器なのだろう」
「そうだといいんですが」
 ため息交じりに二人が会話しているその時、クレイグの後方、侯爵の正面の扉が開かれ、その向こうからアレシアが飛び込むように、広間に駆けこんできた。

 赤い絨毯の上を半ば走りながらクレイグの横に、彼と同じように膝を折って頭を垂れ、アレシアは乱れる息を整えることなく、口を開く。
「宮廷魔術師クレイグ・マクレーリンが弟子アレシア・ベケットただいま到着しました……遅れて申し訳ありません!」
 跪くや否や、一呼吸も置かずにアレシアに、侯爵は暖かい笑みを浮かべてそれに応じた。
「顔を上げなさい、ベケット。君を叱りつけるのはマクレーリンの仕事なのでね。今日君を呼んだのは、そんな理由じゃない」
 アレシアは恐る恐る顔を上げ、滴り落ちる汗をようやく拭った。
「例の件はうまくいっているかな」
「あ、はい。鉱山で採れた翡翠に、発光作用を付与する件ですよね。発光は始めたのですがまだ弱く、夜を照らす程度には達していません。後数週間経てば、使えるようになると思います」
 
 遅すぎる。とクレイグが横でボヤき、アレシアは冷や汗をかくが、侯爵は頷いただけで作業が遅れているアレシアを責めない。
「確実にやってくれ。途中で効果が切れるなどとは考えたくないないからな。それともう一つ、君にやって欲しいことがあるんだ」
 侯爵の言葉に、アレシアが首を傾げた時玉座の奥の扉から、緑色の豪華な服に身を包んだ長身の女性が現れた。侯爵夫人のフィリーネ・リヨーマだ。
 彼女の姿に、アレシアはようやく緊張した顔を僅かに崩した。

「あらごめんなさいね。私が最後かしら。てっきりアレシアが、一番遅刻するのかと思っていましたけど」
 朗らかに笑いながら、伯爵夫人は玉座に座る。
 一つ一つの動作が流れるように美しく、城内に入る全ての陽を注いだかのように、美しく輝く結った髪や整った顔立ち。
 侯爵夫人はお世辞ではなく、気品と優雅さが溢れていて、アレシアにとってはある意味侯爵や、クレイグよりも頭の上がらない人物だ。
「クレイグ、ご機嫌いかがかしら。半月振りだけども」
「相変わらずでございます」
「なら大丈夫ね。アレシアを叱りつける声が聞こえているうちは、あなたの体調を気にしなくてもすむもの」
 笑いながら、夫人はアレシアを見た。
「でもあまり師を困らすものではないけどね」
 はい。とアレシアは恐縮して頭を下げた。
「フィリーネ。遅刻してきた者がそう言っても説得力がないのだが」
「あら、仕方ないじゃない。ノエルが中々寝付かなくって」
 二年前に侯爵と夫人の間に生まれた長女のノエルは、文字通り珠のような子であり、アレシアは一度も会ったことはないが、それでも二人が何よりも娘のことを愛していることは、噂でも二人の様子を見るだけでもわかる。
 それがとても微笑ましく、同時に少しだけアレシアの心の内にある傷を抉った。

「さて、今日二人を呼んだのは先ほども言った通り、それぞれにやってもらいたいことがあってな」
 軽く咳払いして間を開けた後、侯爵は口を開く。
「まずはマクレーリン。至急緊縛の縄を練ってもらいたい。鎖が食い破られそうになっていると、看守から報告があった」
「わかりました。明後日には用意させて頂きます」
 快いクレイグの返答に、うむ。と侯爵は頷き続いてアレシアに視線を移す。
「そしてアレシア。君には一度、ノエルに会ってもらいたい」
 てっきりいつものように、庭園の植物が調子が悪いから見てやってくれ。などという雑用じみた用事だと思っていたアレシアは、あまりにも予想の斜め上を行く侯爵の言葉に、息を飲んだ。
「そ、それは何故? 私なんかがノエル様に会うなんて……」
「君には将来的に、我が娘の幼少期の教育係も、兼任してもらおうと考えていてな。早いうちに一度、対面してもらいたいのだ」
 唖然として侯爵を見つめ、続いて隣にいるクレイグにすがるような視線を送った。
 クレイグは弟子の哀れな様子を、見て見ぬふりをし、じっと前を向いている。
「確かに君は実用的な魔術は未熟だが、その頭に詰め込んでいる知識は相当なものだと聞く」
「で、ですが私は師範学校で一つも進級出来なかったんですよ」
「だが齢十四歳で師範学校に入学出来たのは、君だけだそうじゃないか」
 
 三年前、確かにアレシアは帝都にある、魔術の教諭を養成するアンカリッジ師範大学に入学した。
 それは史上最年少という記録であったが、偉大な魔術師である父親の影響が大きかったことを、周囲もアレシア自身も自覚していた。
 しかも、学校での皆の視線や重圧に耐えきれず、半ば逃げ出すようにして、帝都から離れた東の地の属国『クロハイム』の最大の都市リヨーマの侯爵家に、転がり込んだのだ。
「それに娘に教えてもらいたいのは、勉学だけではない」
「と言いますと?」
「君は非常に人間味に満ちている。私は、陰湿で表裏の激しい貴族社会の色に、娘を染め上げたくないのだよ」
 ほめられているのか、そうでないのかよくわからないが、とりあえずアレシアは、ありがとうございます。と頭を下げる。
「どうだ。やってくれるか」
 どのみち居候の身で、しかも帝皇と国王に次ぐ身分の、侯爵からの依頼を断れるわけもなく、アレシアは二つ返事でそれを了承した。
「それはよかったわ。断られたらどうしようかと思っていたの。十分に信頼できる者じゃないと、教育係りなんて任せられないもの」
 喜ぶ侯爵夫人に、若干の重圧を感じながらもアレシアは、まだ研究でも成果を果たしていない自分を、ここまで評価してくれた二人に心から感謝した。
「それでは明日西塔に来てくれ。迎えをよこそう。二人とも今日は御苦労だった。それぞれ自分の役目を果たしてくれ」
 こうして、僅かな時間だったが侯爵、侯爵夫人との面会を終えアレシアとクレイグは、二人が立ち去ったのを見計らい、ようやく立ち上がって広間から出て石造りの廊下に出た。

「重役を任されたな」
 通称魔術師の塔と呼ばれる東塔へ向かいながら、二人は並んで歩いていた。
「どうして先生が教育係をなさらないのですか? 私なんかよりよっぽど良い先生なのに」
「私はもう歳だ。この城には私と、お前しか専属の宮廷魔術師がおらん。何かあった時、公爵様と子息殿を導く役目は、今の私では足りんかもしれん」
「そんなこと……」
「それに、お前の成長の糧になると考えている」
 普段は頑固で、絶対に弱みを見せず、高位の魔術師として、そしてアレシアの師として威厳に満ちているクレイグの顔が、わずかに曇っている。
だがアレシアはそれには気づけない。
「何にしろ、長く重要な役割だ。心してかかれ」
 はい。
 と緊張気味に、それでも力強く頷く弟子の姿を確認し、クレイグは空を見上げる。
 この地の空はまだ、蒼い。



[21811] 2話 それは遠い日々で
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/11 09:21
「アレシア迎えに来たぞ、さっさと出てこい!」
 翌日、リヨーマ城の東塔の一番上にある部屋の茶色の扉が、どんどんと叩かれた。
 しかし中からは返事がなく、鎧に身を包んだ男は面倒くさそうに顔を歪め、扉を開く。大きな窓から朝日が差し込み、部屋の中央にある巨大な机の上を照らしていた。
 ほんの僅かなスペースを残し、本や羊用紙に浸食された部屋に、男は少し身を引くがそんな知識の海の中で、埋もれるようにして眠っているアレシアを見つけると、声を張り上げる。
「アレシア! 起きろ!」
 訓練で鍛えられた声量は、深い眠りからアレシアを引っ張り上げるのに十分すぎるもので、呼ばれた本人は飛び起き、寝ぼけたように辺りを見渡す。
 そして男をようやく見つけ、へらりと笑った。

「フィル、おはよう。どうしたの?」
「どうしたのじゃない。今日はノエル様と面会だろ。案内するから、さっさと起きて顔洗えって」
 呆れながらも、濡れたタオルをアレシアに投げてよこす男の名は、フィリップ・オルスタイン。騎士で年齢はアレシアと同じ十七歳だ。
 アレシアが侯爵に雇われるずっと前から、騎士団に加わっていて本来あまり魔術師のアレシアと出会う機会がないのだが、リヨーマ城で十代は二人しかおらず、よく話をしているうちに自然と仲良くなっていた。
「わかった。準備は出来てるから、すぐ行くよ」
 よく言うぜ。と肩を竦め、いそいそと起き上がるアレシアを背に、埃舞う部屋から出たフィルは正面に見える城の中庭をそっと見下ろした。
 
 アレシアの部屋の窓からはリヨーマの全景が見渡せるが、外に出た正面からは城の西側が一望できる。
 四方を堅牢な石造りの城に、囲まれている中庭には幾人かの姿があり、それはメイド服を着た小うるさい使用人だったり、無口な庭師だったり様々だが、皆穏やかに自分の仕事を続けている。
 平穏な日々。少し退屈で、物足りないが、安全で笑みが絶えまない生活。
 それを守るのが、騎士としての使命だと誇りに思っている。
「出来たよ」
「了解……じゃあ行こうぜ」
 煙や煤を身にまとっていないアレシアに、違和感を感じながらも、フィルはアレシアの横に並び西塔目指して歩き出す。
 取りとめのない会話や、変わらない笑顔が、そこには溢れていた。

 幾ら城の騎士団に入っていようと、宮廷魔術師だろうと城の内部のどこでも自由に、移動できるわけではない。
 特に城の中でも若く、実績も肩書もない若い二人には城の居住区でさえ、入ることは許されていなかった。なので当然、侯爵家が寝泊まりする西塔など、当然のごとく近づいたことさえない。
 今回アレシアを侯爵家の私室までの道のりを、案内する役目を得たのはフィリップにとっては、偶然に他ならず、それ以上の感情を持ちあわしてはいない。
 しかし、隣を歩く彼の親友はそうはいかないようだ。
 短く切りそろえた茶色い髪の毛をがしがしと掻きながら、フィルは隣で黙りこんでいるアレシアを見下ろした。
 
 フィルの身長はまだ発展途上で、騎士団の中でもあまり高い方ではないのだが、アレシアは頭二つ分ほど小さく、肌も驚くほど白い。
 頼りない姿で、そわそわと落ち着かない様子で辺りを見回すアレシアの姿に、フィルは彼女の言いようのない不安を感じ取っていた。
「お前緊張してんだろ」
「べ、別にしてないよ。はは……」
 強がって一度は虚勢を張ったアレシアだったが、フィルの無言の対応に、やがて背中を丸めた。
「嘘。少しだけしてる」
「まあ、そうだろ。普通お披露目があるまで、侯爵様のご子息なんて見れないもんな。しかも教育係だっけ。城の中で一番ドジなアレシアがそんな任に就くなんて、冗談もいいとこだぜ」
 軽い口調で、グサグサとアレシアの不安を言い当て笑うフィルに、アレシアの猫背も酷くなるばかりだ。
「でもまあ、お前ならやれるさ。ノエル様に杖の先向けない限りな」
 バンッとアレシアの曲がった背中を叩き、フィルは親友に喝を入れる。
 アレシアは、気をつけとく。と頼りなく笑い、前を向く。
 少しだけ、不安が飛んだ気がした。
 西塔の入口はもうそこに見えていた。

 鉄で補強された大きな扉を、フィルはノックする。
 鈍い音が叩いた数だけ響き、背中に冷たい汗が一筋ながれ、アレシアは思わず身震いした。
 数秒後、重たそうな音と共に扉が開き中から鋼鉄の鎧と、兜に身を包んで腰に長い剣を携えた大柄な男が現れた。
「衛兵長殿! アレシア・ベケットを連れて参りました」
「わかった。あとはこちらが引き受ける。持ち場に戻れ」
 はい! と起立して返事し、振り返る瞬間にアレシアとフィルは目が合い、がんばれよ。とフィルが口を動かし、アレシアは堅い表情を浮かべたまま頷く。
「入りなさい」
 言われるがまま、アレシアは侯爵の私室に足を踏み込む。運命の邂逅は、もうすぐそこに近づいていた。

 部屋の中は人肌のように温かく、まるで誰かに優しく抱かれているような感触が、部屋にある全てのものを包みこんでいた。
 これはクレイグが調整した特別な守護の魔術で、温度、湿度は常に一定に調整され部屋の主を守っている。
 さらにこの場に敵意あるものが侵入した場合、この柔らかな空気は一変して侵入者に牙を剥く。という複数の魔術の、重ね掛けが行われている。
 暖炉で燃える藍色の炎と、壁に掛けられている緑を基調とした壁掛けに、金糸・銀糸・火蜥蜴(サラマンダー)の琴などを結って作り上げた魔法陣のタペストリーで、この空間は出来あがっている。
 正真正銘の宮廷魔術師のクレイグが、侯爵一家のためだけに特別に練り上げた魔法だ。
 入って正面に暖炉があり、その横にはカーテンのかかった大きなベッドがある。アレシアの部屋とは違い、窓が多くロウソクなど必要なくとも、本の文字を簡単に追いかけることもできそうだ。
「いらっしゃい、よく来てくれたわね。ほら、もっと近くに寄って」
 暖炉の側から、こちらに向かってくるフィリーネ・リヨーマ侯爵夫人に、頭を垂れた。
「そんなに緊張しないで」
「は、はい。しかし――」
 緊張しないわけにはいかないだろう。と言いたげなアレシアの表情を読んだのか、侯爵夫人は小さく微笑みそっとアレシアの手を取る。
 そしてそっと、アレシアを暖炉の前に座っている少女の元へ促す。
 一瞬だけ深紅の絨毯を踏むのをためらったが、アレシアは不思議そうにこちらを見上げている少女に向き合って、膝を折って頭を垂れた。
 これが、アレシア・ベケットとノエル・リヨーマの最初の出会いだった。

 母親譲りの鮮やかな金の髪と、父親似の大きな蒼い瞳。透き通るような白い肌と、色鮮やかな濃い青の服。
 リヨーマの紋章である、暁の草原が刻印された髪飾りが、窓から入ってくる陽に当たり、明るく輝いている。
 ちょこんと座っているその姿は、まるで人形と見紛うくらい、美しかった。
 顔を上げノエルの姿を見て、思わず息を飲んだアレシアだったが、我にかえると慌てて口を開く。
「お、お初にお目にかかります。私は宮廷付きの魔術師、アレシア・ベケットでございます。今日は……」
 一気にそこまで言いかけて、アレシアは言葉を切る。
 
 頬に何かとても柔らかいものが触れたのだ。
 
 それは、いつの間にか椅子から降りてきたノエルの手のひらで、アレシアの頬の感触を確かめるように、小さな両手で包みこんでいる。
 アレシアは固まってしまい、楽しそうに笑うノエルのされるがままにされてしまう。そんな二人の様子に、侯爵夫人はあらあらと嬉しそうに笑い、ノエルを抱き上げる。
 もっと触りたい。というように、胸の中で足をばたつかせる娘を元の椅子に座らせ、自分もその隣の椅子に座り改めてアレシアに向き直った。
「ノエルもあなたを気に入ってくれたようね。よかったわ」
「失礼がなかったでしょうか」
 焦るアレシアに夫人は大丈夫と笑って、ノエルの頭を撫でる。

「この子の誕生月は露枯れの月で、守護神はシンバ様よ」
 今世界の中心となっている帝国歴では、一年は十三の月に別れていて「露枯れの月」は即ち冬の始まりを示す月であり、またこの世に生を受けた瞬間に、神々の守護を受けるとされている。
 シンバとは、月と夜と魔術の根源の力である、魔空(まそら)を司る神だ。
 この二つはあまり公表されるものではなく、占星師や魔術師に観てもらう金を持たない貧民は、守護神を知ることなど出来ないし、逆に諸侯や国王などの身分の高い人物は、自身のそれを隠したがる。
 それ故に、唐突にノエルの守護神を告げた夫人の言動を、アレシアはすぐには飲み込めなかった。
 それは後ろに控えていた衛兵長も、同じだったのだろう。
「フィリーネ様!」
「この子に祝福をあげてもらってよろしいですか? 宮廷魔術師殿」
「しゅ、祝福ですか!?」
 衛兵長の咎めるような声を無視し、夫人の放った言葉に、今度はアレシアが声を大にする。
 
 祝福とは生まれて初めて、その人自身に掛ける魔法のことだ。
 普通は教会の司祭や、グレイクのような高位の魔術師が専門に行う儀式であり、肩書だけで実質見習い魔術師のアレシアが、行えるモノではない。
「えぇ。夫も、グレイクも了承済みです」
「先生まで……」
 唸りながら下を向くアレシアは、ぎゅっと拳を握りしめた。
 一体夫人も侯爵も師も、何を考えているのだろう。未熟過ぎるほどの自分に、ここまで要求する目的はなんなのだろうか。
「やってくれますか?」
 ごくりと唾を飲み込み、数回深呼吸しアレシアはようやく返事をする。
「はい。わかりました」
 自信も技術もない。覚悟さえも決まっていない。
 それでも、アレシアの返事はイエスの文字しかない。
 アレシアの居場所は、ここしかないのだから。

 おとなしく椅子に座り、こちらを見上げるノエルの前に立ち、アレシアは一呼吸置いてノエルと視線を合わせる。
 『祝福』自体はそう難しいことではない。
 アレシア自身の魔空(まそら)を、ノエルの体を包み込むように放出するだけだ。その際に、ノエルの為になるであろう効果を付与させる。ただそれだけのこと。
 きっと出来る。
 自分に言い聞かせながら、アレシアはノエルの手を握り、そっと目を瞑った。次に首から魔法陣の彫られたアミュレットを外し、空いた方の手で握り締める。
 準備はこれだけでいい。
 指先から伝わる鼓動に合わせ静かに、万物に影響を与える力である魔空を放つ。
「汝の生と、紡ぐ縁に我の守護と祝福を」
 
 強力な守護も、強大な魔法もきっとアレシアでは呪付することは出来ない。
 ならば精一杯のおめでとうと、ささやかなお祝いの言葉と共に、この小さく綺麗な命が幸せになれるように、願ってみよう。
 
 二人の鼓動が重なる瞬間、アレシアはそんな呪文を胸の中で呟いた。



[21811] 3話 星降る夜のち
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/12 13:19

アレシア・ベケットは真っ暗な部屋の中で、じっと一点を見つめていた。
 真剣なまなざしの先には、拳くらいの大きさの翡翠の塊がある。この翡翠は先日、侯爵から依頼されたもので、たいまつの代わりに夜を照らす灯りになる予定だ。
 この翡翠に発光の陣を彫り、大気中の魔空を吸収させることで、淡い緑の光が半永久的に照らされる。はずだった。
 しかし、実際に翡翠に陣を彫って三か月近く経つが、翡翠から放たれる光といえば星の光程度のもので、とても松明の代わりにはならない。
 納期を遅らせてもらうしかないか。とアレシアはため息を吐きながら、ロウソクに火を付けた。
 
 ゆらゆらと揺れる炎に映し出された部屋は、どうやら地下室のようで基本的に散らかっている。
 アレシアの部屋と大差はないが、こちらの部屋は書物というより、奇妙な実験器具などが、所狭しと詰め込まれている。
 ここはアレシアとクレイグの実験室で、城の外の侯爵家の農地の一角にある納屋の地下室だ。
 城外にあるのはいわずもがな、ここが危険な場所であることを示している。
 魔空の暴発はもちろん、陣に注ぐ魔空の量を調整し忘れたり、彫った陣がどこか欠けていたりすると、この空間ごと消し飛ぶ可能性だってある。
 朝からずっと作業をしていたせいで、体のあちこちが悲鳴を上げている。一度大きく伸びをした時、滅多に叩かれることない、薄汚れた扉が軽い音を立てて開いた。

「やっぱりまだいたな。早くしないと城門が閉まるぞ」
 開いた隙間から、顔を覗かせたのは親友のフィリップ・オルスタインで、今は衛兵隊の兜も鎧も付けてはおらず、小豆色のズボンと薄い茶色のマントを羽織っている。
 恐らく勤務外なのだろう。
「タイミングいいね。ちょうど今から帰ろうとしていたとこ」
「ったく、まさか一人で帰ろうと思ってたんじゃないだろうな。最近は物騒なんだから、護衛付けろって言ってるじゃねえか」
 ぶつぶつ文句を言いながら、部屋に入ってきたフィリップは突然立ち止り、顔を歪ませた。
「相変わらず変な匂いがする部屋だな」
「そう? もう馴れちゃったけど」
 
 ここはクレイグが製薬にも使っている部屋なので、多数の材料が棚の中や樽の中に眠っている。それに加えて、洗練された魔空の匂いはハーブの香りを強めたものに、よく似ている。
 恐らく、フィリップのように魔空に触れる機会の人には、中々強烈な匂いなのだろう。
「よし。じゃあ行こうか」 
 その他の書物を紐でくくり、翡翠の塊と一緒に麻の袋に詰め込んで、アレシアは立ち上がった。
 二人は並んで地下室を出る。
 いつもの一日が、終わろうとしていた。

 納屋は丘を一つ挟んで、城から三十分程度の場所にある。
 農耕用の牛車がやっと通れる程度の道幅しかないが、二人並んで歩くには十分すぎる広さの帰路を、満天の星空と、青い月に見下ろされながら二人はゆっくり歩く。
「お前、ノエル様の祝福うまくいったのか」
 松明を握りしめ歩くフィリップが、いつもと変わらない口調で話を切り出してきた。
 んー。と短く唸った後、アレシアはそっとフィリップを見上げる。
「うまくいった。のかな」
「なんだそれ」
「祝福ってのは、魔空をちょっと利用したお守りみたいなものだから。あまり実感ないんだよ、祝福した方もされた方もね」
「なるほどね。でもまあ、ノエル様もいつか気づいてくれるといいな。お前のお守りに」 
 フィリップは照れくさそうに返事をし、ぼりぼり髪を掻く。

「それよりもフィル。なんで私がノエル様を祝福したって知ってるの」
「ああ。そりゃあ聞いたんだよ。隊長に」
 強面の衛兵隊長の顔を思い浮かべ、アレシアは首を傾げる。
 あの人が必要ないことを、部下に喋るだろうか。
 何となく納得のいかないアレシアだったが、まあいいか。と割り切った。
 丘を登り始め、弱冠遅れ始めていたアレシアは黙ったまま、フィリップの背中を追うように歩を進める。
 この丘を登りきると、正面にはリヨーマ城。北にはリヨーマの町。遙か南にはクロハイムの首都であるオルロンの街の明かりを、眺めることが出来る。
「あ、あのさ。後でアレシアに言っておきたいことがあるんだ」
「今言えばいいじゃない」
「いや、頂上に着いたら言う」
 突然声を鈍らせるフィリップの背中を見つめ、アレシアは再び首を傾げた。
 いつもなら、さっさと用を済ませるフィリップらしくなく、違和感を覚えたがどうせすぐにわかることだ。
 丘の頂上までは、もうあと数十歩の距離まで近づいているのだから。

 数分後、頂上まで着いた二人は自然に足を止めお互いに向き合う。
 眉をひそめてフィリップを見上げるアレシアとは対照的に、そばかすまで真っ赤に染めて、フィリップはアレシアから視線を逸らしていた。
「で、言いたいことってなに?」
「そりゃあお前、その、なんだ……」
 うろたえているフィリップは、もごもごと俯いた。
 あらゆることに鈍いアレシアに、想いを伝えるには直球を思い切り投げ込むしかない。わかってはいたのだが、さすがに恥ずかしい。
 
 そう、フィリップはアレシアに惚れていたのだ。
 出会った三年前は、しっかり者のフィリップにとって失敗ばかりで、クレイグに叱られてばかりのアレシアは眼中になかったし、積極的に関わらないようにしていた。
 容姿は地味だし、城内ですれ違う時はいつも煤とシミの付いたローブを着ていて、他の美しい貴族たちが闊歩する城で、アレシアに惹かれるなんて、考えもしなかった。
 しかしいつの間にか、艶やかな長い黒髪や、まっすぐにこちらを見つめてくる茶色の瞳。それに叱られても、上手くいかなくても、決して愚痴を漏らさず問題と向き合う姿勢が、フィリップの胸に止まったのだ。
 だから、今日こうして覚悟を決めて向き合っているのだが、肝心のところでいつもの勇気が萎んでしまう。
「あのさ、俺……」
「フィル! あれ見て!」
 ようやく切りだしたフィリップの言葉を、アレシアの大きな声が遮る。
 フィリップはアレシアの指差した先、リヨーマ城の方を見てそして大きく目を見開いた。

 リヨーマ城が燃えている。
 
 空を明るく照らす程の光が、守るべき城を燃やしつくしていた。
 城だけではない。
 北に見えるリヨーマの街も、まだ数キロはあるであろうこの場所からでも、はっきりとわかるほどに炎が天に向かって、突き上がっている。
「侯爵様が危ない!」
 そう叫ぶと、フィリップは携えていた銀の剣を強く握りしめ、駆けだした。
「フィル!」
「アレシアはそこにいろ! どこか安全なところに隠れてるんだ!」
 後ろから叫ばれる名前に、フィリップは振り返ることなく叫ぶ。
 数分前の日常も、告げられるはずだった言葉も、想いも、全てが消し飛んだ。
 遠くで燃え盛る炎が、二人を引き裂いた。



[21811] 4話 炎上
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/13 22:32
 遠く去って行く松明の明かりを、アレシアはただ立って眺めていることしかできなかった。真っ先に飛び出したフィリップと違い、アレシアの足は震え、上手く立つことさえ出来ない。
 戦争。もしくはもっと惨いモノが、今まさにリヨーマの地を襲っている。
 侯爵は、夫人は、ノエル様は、クレイグ先生、城の皆は今どうなっているのどうなっているのか、想像もしたくなかった。
 駆けだしていったフィリップも、身を守るモノと言ったら、腰に下げていた銀の短剣くらいしかなかった。
 アレシアに至っては、本来宮廷魔術師は争いの為にいるものではないので、破壊属性の魔法すら満足に操ることは出来ない。

――どうすればいい。
 
 唇を噛み、アレシアはじっと燃える城をぶれる視線で見つめる。
 今、自分が戦場に行って、出来ることはあるのか。
 きっとない。
 丸腰で城に戻っても、ただ無駄死にするだけだろう。
 それでも、城に背を向けることは出来なかった。
 
 誰かの為に戻ろうとか、そんな気高い心からではない。
 ただ単純に、あの城意外にアレシアを、受け入れてくれる場所がないからだ。
 
 もし、侯爵や夫人が生存していて、アレシアが逃げたことを知ったら、もう二度と城には入れない。
 下手をすると、リヨーマの地から追放されてしまう可能性だってある。
 そんな不安から、アレシアは逃れることは出来ず、フィリップの忠告を無視し一歩城に向かって歩き出す。
 やがて足取りは速くなり、気がつくと全力で城に向かって駆け出していた。
 自分の醜い感情から生まれる愚かな行動に、アレシアは気づいていながらも、前へ進む足を止める術を知らない。
 ただひたすら走り続けるアレシアに、悪夢のような光景が広がるのは、もう後数刻も経たないうちだった。

 城の周辺はもう血の海と化していた。
 喉に刺さった矢を抜こうともがく兵や、腑を引きずってもなお剣を握りうろつく兵。目を覆うことも忘れてしまうくらい、衝撃的な光景が現れようやくアレシアは足を止めた。
 城の内部からも火の手が上がり、喧騒や絶叫、そして断末魔が中から聞こえてくる。
 アレシアはようやく、ここまで来た目的がないことに気が付き、さっと顔色を変える。
 どうしてここに来たのか。戻って来て、やることはあるのか。

「お、おい。お前、宮廷魔術師だな」
 愕然とするアレシアに、途切れ途切れの声が、下から聞こえてきた。見ると、銀色の鎧に身を固めた兵士が、ずるずると這って近づいてきている。
「大丈夫ですか!?」
「触るな。はは、もう俺は駄目だ」
 自嘲するように、気力なく笑う兵士の下半身は潰れ、幾重ものひだのようなものを引きずっている。
「城壁から落とされちまった。監視塔も、落ちた。近衛兵はもう、全滅だ」
 そんな。と呟くアレシアの手を掴み、兵士はぐっと表情を引き締めた。
「だがまだ主と夫人、それからノエル様は生きておられる……宮廷魔術師殿に先導されて、地下牢から逃亡されておられるはずだ」
 
 血の塊を吐き出し、兵士はアレシアのローブの裾をすがりつくように掴み、言葉を続ける。
「我らの代わりに、頼む、あの方々を、守って……あの方々は、失ってはいけない……」
 もう言葉を吐き出すことも、出来なくなった兵士の手の力は抜け、仰向けに倒れた。まだ生きている。
 だが、もう息をすることも出来ないようで、瞳はただ虚空を見つめるだけだ。
 まぶたにそっと手を当て、兵士の目を閉じさせる。立ち上がり、一つ深呼吸する。
 そして再び走りだした。
 目的と、一縷の希望を見出した。
 後はもう、ただそれにすがることしか、アレシアに道は残っていない。

 城外の戦闘はもう終結しているのだろう。
 現れるのは死体、もしくはそれに準ずるものばかりだ。半壊した大きな城門が視界に入り、アレシアは足を止める。
 ローブの中に手を突っ込み、一冊の本を取りだした。
 
 魔術師の紋である六芒星を象った『紡ぎの陣』が、紅い表紙に金の刺繍で彩られているそれは、魔術師なら誰でも持っていて、決して手放さない陣の辞書のようなものだ。
 殴れば人を殺せそうなほど分厚いそれを、物凄い早さでめくり、あるページのところで目的の陣を発見した。
 文字で描かれた円の中に、羽をたたんだコウモリを描いた陣。
 『消失』の魔法の陣だ。
 アレシアは急いで血に濡れていない地面を探し、そのページに描かれている陣を模写する。
 描き終わると、じっと不器用に描かれた陣と辞書の中にあるそれを見比べ、そしてその陣に片手を当てた。
 目を閉じ、すっと息を吸い込み、陣に体内の魔空を注ぐ。陣は緑色に発光しアレシアの体を包み込み、やがて吸い込まれるように消えていった。
「せ、成功……かな」
 ポツリと呟き、アレシアは目の前で手のひらを閉じたり開いたりしてみる。
 
 消失系の魔法は、自己または他者の『存在感』を薄らせる効果がある。あくまで薄くするだけなので、目立った行動をするとすぐにバレてしまうが、少なくとも気休め程度の効果は期待できるだろう。
 唾を飲み込み、アレシアは門の向こうで燃え盛る炎を精一杯睨みつけ、慎重に歩き始める。そして城の壁に張り付くようにして、城内に足を踏み入れた。



[21811] 5話 旅路の終わり
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/14 18:37

 城内は死臭に満ち満ちていた。
 中庭には切り捨てられた死体があちこちに転がっていて、そしてその大半はリヨーマの兵だ。
 いつも帽子を深く被っている寡黙で頑固な庭師達が、整えている木々は燃え、庭の中心にある噴水は血色に染まっている。
 あちこちから窓を溶かし、崩れた壁から噴き出す炎の影に、ちらほらと動く影があり、アレシア・ベケットの背に、冷たいモノが一筋滑り落ちた。
 ここにきて、確信した。
 勝敗はもう付いている。
 
 リヨーマ城は陥ちた。

 堅牢かつ美しかった城は跡形もなく消え去り、ただの廃墟としてここに在るだけ。
 アレシアは絶望のあまり、その場に座り込みたくなるが、何とか踏みとどまって歩を進める。敵兵の姿が見えないが、城内から断末魔に似た人の叫び声が途切れ途切れに聞こえるのが、ひどく恐ろしかった。
 這いずるようにして中庭を通過し、城の西側に出る。
 地下牢に行くには、城の内部から繋がってはいるルートが一番近いが、燃え盛る炎の中を突っ切る勇気など、アレシアは持ち合わせてはいない。
 西側の監視塔からの入口を目指し、アレシアは慎重に歩を進める。
 中庭から抜けだし、監視塔へ続く通路の石畳を歩いているとき、ふいに通路の角から声が聞こえた。
「ったく。全然歯ごたえのない奴らばっかじゃねえか。さすが、平和ボケしてるクロハイム兵だぜ」
「相変わらずの減らず口だな。かの地を守って死ぬ彼らを侮辱するものではない。それに歯ごたえではなく、手ごたえだ」
 
 まだ少年のような高い声と、対照的に落ち着いた声の二つが付きあたりの右側から聞こえ、しかもそれは確実に近づいてきている。
 アレシアは息を飲み、隠れる場所を探す。
 しかしほぼ一本道で、手を伸ばせば両側に壁が手を掠める程のこの場所に、姿を隠す場所など皆無に等しい。
 いくら魔術で隠遁しようとも、真正面からはち会えば確実にバレる。
「さすがアーロン将軍。賢い発言なこった」
「貴様、俺をバカにしてるな」
「まさか、尊敬しているんだよ」
 戦場に似つかわしくない気の抜けた会話が、すぐそこに近づく。
 もうすぐ、声の主が角から現れるだろう。
 
――殺される。

 アレシアの足は硬直し、何も聞こえなくなる。
 視界の中に、声の主たちが現れた。
 漆黒の鎧に身を包んだ、2メートルはありそうな巨体の男と、緑色の瞳をしたエルフの少年。二人はすぐにアレシアに気づき、巨体の男は背負った巨大なクレイモアを、少年は腰に差している鞘から緑色に光る刀身を抜く。
 アレシアはほぼ無抵抗に、その場に立ちすくんだままだ。
 逃げることも、抗うことも、助けを求めることさえしよとせず、ただただ諦め絶望に目を瞑る。
 死を覚悟した。
 その時だった。

 鳶色(とびいろ)の風が、アレシアの頬を掠め屈強な二人の体を、弾き飛ばした。
 不意を突かれた男と、少年は壁に激しく身を打ち付け、短く呻く。
「先生!」
 後ろを振り向き、杖を構えている人物を見つけてアレシアは叫んだ。
 そこには三又に別れたアレシアの背丈ほどある杖を構えて、二人を睨むアレシアの師の姿があった。
「何故戻ってきた。アレシア」
「侯爵様が生きておられると、それにフィルが城に戻って……」
 アレシアの叫び声に、クレイグはなるほど。と呟く。
「いってーな。なんだこの魔法」
 唾を吐き、頭を掻きながら少年が立ちあがった。アレシアは怯えたように、クレイグのそばまで駆け寄り、二人の男に対峙する。
 巨体の男も無言のまま立ち上がり、クレイグとアレシアを見下ろす。
「なに。風を凝縮してぶつけただけだ。まあ、それだけでも普通は骨が砕けるはずなのだがな」
「なるほど。痛いわけだ」 
 砕けるはず。なのだが、二人の男は痛いというだけで、よろめきもせずに立っている。
 杖の先を敵に向けたまま言うクレイグの頬に、一筋の汗が流れた。

「お前、名前教えろよ」
「人に名を聞くには、まず自分からと親から習わなかったか。坊主」
「生憎親の顔は見たことないんでね」
 両者にらみ合ったまま、緑色の髪の少年はどこか小馬鹿にした感じで、短く会話をする。クレイグの皮肉も相手にされず、クレイグは仕方なく口を開く。
「貴様らが燃やした地に仕える魔術師だ」
「ってことは、お前がクレイグ・マクレーリンか! ははっ聞いたかアーロン将軍! 手間が省けたぞ」
 少年は嬉々として笑い、隣で黙っている巨体の男を見上げる。
 アーロン将軍と呼ばれる男は、表情を崩さないままクレイモアの切っ先を、まっすぐにクレイグに向けた。
「クレイグ・マクレーリン殿、貴方には死んでもらわねばならん」
 クレイグはチラリと横を向き、側で震える弟子の姿を目視し、再び巨体の男に向き直る。
「私の命に、そこまで価値があるとは思えんがな」
「古き盟約の糧を、忘れたわけではないだろう」
 アーロン将軍が唸るように言った言葉に、クレイグは目を開いた。
 そして、気づく。
 運命が再び動き出したことを。

 かつてはその運命の真ん中に、クレイグはいた。
 だが、もう自分は導かれていないことに、聡いクレイグは気づいて、そっと目を瞑る。
「この子には関係のないことだ。この娘は見逃してやってくれないか」
「それは出来ねぇ話だな。そいつお前の弟子だろ。なら、殺害対象だ……例え俺らが見逃しても、他の奴がそいつを殺すよ」
 少年は残念そうに、両手を肩の上にかざして首を振るとにやりと笑い、そのまま続けた。
「ほら、やっちゃいな。アーロン将軍」
 少年が言い終わるや否や、漆黒の甲冑の男は突きだした剣をそのままに、クレイグに向かって突っ込んでくる。
 
 重装で全身を固めているとは思えないほどの速さに、アレシアは悲鳴を上げる隙さえも、作れない。
 対照的にクレイグは目を細めると、慌てることなく杖を地面に突き立て、両手を地面にかざした。突き立てた杖を中心に、陣が薄緑色の浮かび上がり炎の壁が地面から湧きあがる。
 狭い通路を紫色の炎が埋め尽くし、両者を完全に分断した。
「アレシア、時間がない。黙って聞きなさい」
 傍らでうずくまり震える弟子に、クレイグは極めて冷静に指示を告げる。
「お前をこれから転移の陣で、ある場所へ送り届ける。そこで、会うであろう人物とリヨーマから脱出しろ」
「む、無理です……先生も一緒じゃないと。それに、侯爵様や侯爵夫人も助けないと」
「いいからやるんだ!」
 うずくまったまま、首を振るアレシアをクレイグはいつものように叱り飛ばす。
 俯くアレシアの手を握り、無理やり立たせる。
 ふらつきながらも立ちあがったアレシアの左手に、転移の陣を描いた紙を握らせ、己の魔空を込めた。

 小さい手だ。
 クレイグは、地面に浮かび上がった陣と同じ、薄緑色に光るアレシアの手を握りしめる。
 臆病で、気弱で、優しすぎで、そのくせ滅多に涙を見せない頑固者の弟子の手。彼女の七十も離れている手とは違い、柔らかく温かい手。
 こんなに小さく、細い腕に今クレイグはとてつもない重荷を、自分勝手に課そうとしている。
「早すぎたな……」
 何もかもが、早すぎた。何も教えてやれなかった。まだ褒めることさえ、満足に出来ていなかったのに。
 アレシアの全身が光に包まれる。
「先生!」
 魔法の炎を切り裂き、漆黒の騎士の刃が迫ってくるのをクレイグは風の音で知った。
「先生逃げて!」
 弟子が叫ぶが、クレイグはその場を動かない。
 代わりに、一気に己の魔空を注ぐ。

 アレシアが消えるその一瞬前、クレイグは強く願う。

 どうか、どうかこの出来そこないで、マヌケで、心配ばかりかける馬鹿弟子の旅路が、幸せで終わりますようにと。
 

 願いながら、色んな感情がごちゃまぜでこちらに向かって叫ぶ弟子に、年老いた師は最初で最後での笑みを向ける。
 
 その一瞬後、クレイグ・マクレーリンの首は宙を舞い、鮮血が飛び散った。

 黒い刀身は炎の輝き反射し鈍く光る。
 城は崩壊を始め、魔術師の塔は彼らの背後で崩れ去った。
 それら全てを背景に、師の首は宙を舞う。
 アレシアを受け入れてくれた世界の終焉の姿は、アレシアの網膜にしっかりと焼きついた。

 そしてアレシアは消えた。
 終焉の世界に、悲痛と怨叫を込めた絶叫を残して。

  



[21811] 6話 夜牢
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/15 18:01

「あああああああああああああああああああああ!」
 
 目を覚ましたアレシア・ベケットは、耳に残る絶叫が自分のものと気づくまでに、相当の時間を要した。
 辺りはひどく暗く、じめじめしていて、石畳は欠けていてアレシアの柔らかい頬に突き刺さる。
 だが痛みを感じることままならない程、アレシアは呆然として、床にうつぶせに倒れ伏していた。
 人が死んだ。
 三年間師と仰いできた人物が、自分を助けるために首を刎ねられたのだ。

「ッ~~!!」
 
 声にならない嗚咽をし、アレシアは頭を抱え、クレイグが死ぬ瞬間の残像を消し去ろうとしたが、しっかりと焼きついたそれは、消そうと足掻けば足掻くほど、アレシアの眼球の奥深くに根付いて行く。
 クレイグは、アレシアを守るために死んだのだ。ただ震えることしか出来ない、出来そこないの弟子を守るために、首を刎ねられたのだ。

「違う。私はそんなこと、頼んでない!」
 
 頭をかきむしり、四つん這いになりながらアレシアは暗い地面に吐き捨てる。
 クレイグは高位の魔術師で、その実力も今まで一番近くで見てきた。だから、アレシアを転移しなければ、もっと抵抗出来たのもアレシアは承知していた。
 だからこそ、認めたくないのだ。
 認めてしまえば、きっと正気を保てなくなる。そんな気がしていたから。

「うるせぇ女だ」
 突然前方から、舌打ちと共に低い声が響き、アレシアは身を引いて暗闇を凝視する。
 明かり一つないこの暗闇を、共有するものが他にもいる。息は荒くなり、手は震え陣を発動し焦げ付いた紙切れを、ぎゅっと握った。

「だ、誰……」
「あぁ? 俺の城にやってきたのはお前だろうが。なぁんで俺から名乗らなくちゃいけなんだよ」
 
 こんなカビ臭い場所を『城』と称する男の姿を、未だにアレシアは確認出来ないでいた。
 幾分暗闇にも瞳が慣れてきたはずなのに、前方にいる男の姿は未だに濃い霧のようなものに包まれていて、目を凝らしてもその奥を見ることは出来ないのだ。
 暫く暗闇とにらめっこをしていたが、麻の袋に翡翠の塊を入れていたことに気が付き、それを取り出してかざしてみる。
 相変わらず頼りになりそうもない光量だが、それでもなんとなくだが男の影程度なら、捉える事は可能だった。

「なんだそりゃ、しょっぺえ明かりだな。壁に陣が彫られた松明があるから火をつけろ。お前は魔術師だろ」
 男に言われるがまま、壁に設置された消えた松明と、その柄に彫られた発火の陣を確認すると、アレシアは魔空を注いだ。
 少し量が多すぎたのが、松明に勢いよく火が灯り目が眩む程の明かりが、空間を照らした。
 その明かりに照らしだされた男と、この部屋の意味を知りアレシアは声にならない悲鳴を上げ、数歩後ずさる。
 アレシアの様子を見て、男は楽しそうに笑い、その笑い声がこの狭い部屋。いや、地下牢にこだました。

 男の両腕、両足は杭を打ちつけられ止めどなく血が流れている。さらにその上から魔法で練られた縄で、手と足を縛られている。
 髪の毛は伸び放題で、顔を見ることはできないが、それでも不気味に笑う大きな口から、見え隠れする鋭い犬歯に、気づかないわけがなかった。
 赤黒くなった血液で、描かれた陣の真ん中にいる男の姿は、紛れもなくのこの世界で最も恐れられる狂人の種に、とてもよく似ている。

「……吸血鬼(ブラッドマン)」

「正解だ。ガキ」
 
 怯えるアレシアに吸血鬼は、にやりと笑った。

 「さて、そろそろ用件を言ってもらおうか。俺を殺しに来たのか、それともこのクソ固い縄を解きにきたのか。俺はどっちでも構わないがな。今日はお客が多いんださっさとしろ」
「私の他にも誰かここにきたの!?」
 返事の代わりに、吸血鬼は顎でアレシアの背後を差す。
 慌てて振り返ると、そこには壁に寄りかかったまま微動だにしない少女の姿があった。

「ノエル様!」
 
 アレシアはノエルに駆け寄り、肩を揺するがまるで蝋人形のように蒼白で、力なく揺すれる体からは生気というものが感じられない。

「言っとくが俺じゃないぞ。ここに飛ばされた時から、そうなってたんだ。よっぽど上でショックなことがあったんだろうな」
 吸血鬼は笑いを含んだ声で、遠慮なくアレシアに尖った言葉を浴びせる。
「何か知ってるの」
「俺はここから上の様子を『聞いた』だけだ。お前の方がよっぽど状況を理解出来てるだろ」
 
 すがるようなアレシアの視線を無視し、吸血鬼はアレシアを鼻で笑う。
「ついでに言うと、もうお前の敵とやらはすぐそこに来ているぞ」
 その言葉を問い返す間もなく、奥の方で激しい喧騒と、鎧がぶつかりあう音が聞こえ始め、アレシアは顔を蒼白に染めた。
「さて、選択の時だぞ。人間」
 吸血鬼の声が、低く、遠く、アレシアの耳の奥で響いた。

 どたどたと音を立て階段を下りる音が響き、数人の兵士たちが地下牢に雪崩れ込んできた。
 彼らが身にまとっている鎧は、銀色と緑のラインを基調としたリヨーマの鎧ではなく、黒に赤い双頭の龍の紋章が描かれていた。
 それを見て、アレシアはもうここには味方はいないと悟る。
「隊長! 女二人と囚人がいます!」
 牢の格子に背をもたれ座り込んでいるアレシアと、アレシアに抱きしめられているノエル。そして相変わらず、不敵な笑みを浮かべている吸血鬼を発見するや否や、兵士は後ろに向かって叫んだ。
「おいおい。このままじゃお前殺されちまうぜ」
 背後で嬉しそうに呟く吸血鬼に、アレシアはきつく唇を噛みしめた。
「こいつらに蹂躙されて、恥辱に塗れて、腑(はらわた)抉りだされて死ぬんだ。ん~想像するだけで恐ろしいな」
「あなたも、死ぬんでしょ」
「俺? 俺は死なねえよ。従順な僕がいるからな、そいつらは今もそこにいる。俺の命令一つで、あいつらを全員殺してくれるだろう。だがお前が死ぬまで命令は出さねえ」
 心底楽しそうに吸血鬼は高笑いし、アレシアを追い詰めていく。

「でもな、お前を助けてやったっていいんだぜ。俺をここから出してくれるならな」
 吸血鬼は急に声色を変え、囁くようにアレシアに語りかける。
「簡単だ。お前魔術師だろ、ここの陣に手を載せてちょっと反発させればいいだけだ」
 吸血鬼を解放するということは、死を振りまくものと同じことだ。
 なぜ城の中に吸血鬼が捕えられているのかわからないが、吸血鬼を縛っている縄は、恐らく先日クレイグが侯爵に、依頼されていたものだろう。
 どう考えったって、この吸血鬼を解放するのは道を違えている。
 だが、吸血鬼の言葉を信じ、解放するほかにアレシアとノエルが助かる道がないのも確かだった。

「リヨーマの候女だな。ようやく見つけた」
 奥から現れた男が、ノエルを見据えて言う。
「候女は連れて行け。他の二人は殺せ」
 赤い瞳に、真っ黒な髪の男が着ている鎧は、先ほどクレイグを殺したアーロンという男と同じものだ。
 よりいっそうノエルを抱きしめ、アレシアは男を見る。驚くほど冷たい瞳をしている。
 睨みつける気力も、勇気もないのだが、アレシアの言いたいことに感づいたのだろう。剣を抜いて、力づくでノエルを奪い取ろうとする兵を押しのけ、男はアレシアを見下ろした。
「手を離せ、女。そうすれば、楽に殺してやる」
「こ、侯爵様と……夫人はどこに」
 掠れる声で、アレシアは男に尋ねる。
「侯爵? 夫人? おいみんなそんな奴ら知ってるか?」
 わざとらしくとぼけた声を上げると、周りの兵士らはくすくすと笑い始めた。
 一体何がおかしいのだろうか。
 アレシアは状況が理解できず、落ち着きなく辺りを見回す。

 アレシアとノエルを取り巻く笑い声は次第に大きくなり、そしてその空気を十分に満喫した後、男はにやりと笑い兵士の一人に指で手招する。
 やってきた兵士は例のごとく汚い笑みを浮かべたまま、血濡れた麻の袋をアレシアの前にどっかりと置き、その中から二つの塊を取りだす。
「残念ながら、侯爵と侯爵夫人は存じ上げませんが……探し物はもしかしてこれかな?」
「あああああああああああッ!」
 黙りこくっていたノエルの絶叫にも似た泣き声が、地下牢に響き渡った。
 それに最高潮に達した敵兵の笑い声も合わさり、鼓膜が破れるほどの様々な声が、何度も何度もこだまする。
 だが、そんな騒音の中アレシアだけは、じっと一点を見つめて動けないでいた。

 乱雑に掴まれる血に染まった金の髪。優雅で美しかったあの雰囲気は跡形もなく消え去り、切り取られた首からは、まだ鮮血が滴り落ちている。
 虚ろな瞳をこちらに向け、だらりと伸びた舌を晒しているその顔は、紛れもなくアレシアの最後の心の支えだった人物たちだ。
「侯爵様……フィリーネ様……」
 力なく伸ばした腕は、二つの頭に届く前に振り落とされ、アレシアは兵士達に取り押さえられ地面に叩きつけられた。
「いやぁ、親の鏡だったな。娘の転移魔法を発動する時間稼ぎの為に、身代りになってよ。おかげで魔術師と候女は逃しちまったが、まあ結果は寿命がたった数十分伸びただけだったな」
 隊長はにやりと笑い、アレシアの頭を踏みつけ抜いた剣を首筋に添えた。
「そんなにあいつらが好きなら、同じようにやってろうか? 首切る前にまず体を切り刻んでやらねえとなぁ」
 ぞくりと嫌な気配が背中を這う。
 始めて感じる感覚。だがこの感覚の名前を、アレシアは知っている。そう、この生温かい外層とその奥にある冷たい視線。これはきっと『死』だ。

「……だ」
「あ?」
「嫌だ! 死にたくない、死にたくない死にたくない!!」
 突然暴れ出したアレシアに完全にふいを突かれた男は、地面に倒れこみ油断していた兵士たちも隙を作る。
 アレシアは急いで立ち上がると、牢に向かって突っ込んで倒れこみながら、格子の隙間から牢の中に手を入れ、吸血鬼の捕えられている陣に手を添えた。
「お願い、助けて!」
「……良い選択だ。クソガキ」
 牢が爆発し、粉塵が舞い散る。その衝撃で松明は消えて、空間を深淵の闇が支配した。

「さぁ、久しぶりの殺戮だ」

 かつての人類の敵は、暗闇の中で凶悪な笑みを浮かべた。




[21811] 7話 渇きと飢えと始まりの陣
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/19 19:47
 たった数秒。
 牢を開いてからたったの数秒で、アレシアは自分のした行動に後悔をしていた。
 さっきまでの地下牢に響きわたった断末魔も、もう聞こえない。
 今は冷たい床に液体が滴り落ちる音と、何かが喉を潤す音だけが、地下牢に静かに音の波紋を残していく。
 アレシアはノエルを抱きしめたまま、絹のように柔らかな彼女に顔をうずめ、強く目を瞑っていた。
 しかし、いつまでもそのままでいられるほど、現実は甘くない。
 
 周りが急に明るくなったかと思うと、アレシアは首を掴まれ宙に浮かんだ。
 苦しさから目を開くと、そこには松明を手にして、こちらを見る吸血鬼の姿があった。

「よぉ、ありがとなお嬢さん。おかげで五十年ぶりの食事にありつけたぜ」
 口元に付着した血液を、異様に長い舌で舐めとり吸血鬼は、獣のような黄色い瞳をアレシアに向ける。彼の背中越しに見える地下牢の全景は、まさに地獄だ。
 計十人はあろうかという死屍が転がっており、その全ての首が鋭利な刃物で半分切り落とされていて、そこから溢れ出る血で、彼らの周りは文字通りの海が出来ている。
「クソまずい男の血だが、まあないよりましだ」
 
 吸血鬼(ブラッドマン)とは、吸血病という病の症状が進行し、人間ではなくなった者達のことだ。
 強力な生命力を得る代わりに、人の血を飲まねば自我を保てなくなり、最終的には自らの血に支配され、正気を失う。
 発症して初期に、発見できればマンドレイクを煎じた秘薬により、治すことは可能だが、自覚症状が出るのが遅いため、治療例は驚くほど少ない。
 そもそも一族から吸血鬼が出ると、その家系は社会から遠ざけられることが多いので、多くの者は進行中に殺される。
 そんな環境でも生き残った彼らは、病に浸食され塗り替えられた本能のみで、闇夜を徘徊する化け物になる。
 謎が多く、教科書でも多くは語られていない『化け物』が今、アレシアの目の前で醜い姿を晒していた。
 
「ところでお嬢さん。お前の血はこいつらと比べちゃまだうまそうだ」
 舌を垂らしたまま、吸血鬼はさらに腕に力を入れアレシアの首を絞める。

「君を喰ってもいいかな?」

 いきなり丁寧口調になった吸血鬼を、アレシアは精一杯睨みつけた。
「約束が、違う……」
「どこが違う? 奴らの手からお前とガキを救った。約束は果たしただろう? そのあとはお前らを殺そうが、生かそうが俺の勝手だろう」
 これが奴の本性なのだろう。心底楽しそうに笑う吸血鬼に、アレシアの心は憎しみに満ちる。
「外道め……」
「ははっ。研究の為に村一つ滅ぼすお前ら魔術師には言われたくないね! さて、どうやって死にたい? こいつらみたいにばっさり切られて死ぬか。このまま首をへし折ってもいいし、窒息するのを待ってもいい。なんだったら生きたまま、俺に血を吸われるか? 生き血はクセがあるがやはり鮮度が段違いだからな」
 上機嫌な吸血鬼は、絶望的な選択肢をアレシアに突きつける。
 アレシアは返答出来る間もなく、ただぼやけていく景色を眺めていた。
「おいおい泣くなよ。俺が悪いことしてるみてぇじゃないか」

 悔しい。
 クレイグを殺した将軍にも、兵士たちにも、吸血鬼にも見下されて、馬鹿にされて、大切な人々を蹂躙され侮辱されても、アレシアにはなにすることが出来ない。
 歯を強く食いしばるが、それでも嗚咽は止まることなく、涙は頬を伝い地面に落ちる。
 死に怯えていたアレシアに、初めての感情が生まれた。
 当然その変化に吸血鬼が気づくことはない。

 止めどなく零れる涙は、アレシアの心境の変化に呼応するかのように、薄く地下牢に広がっていく。
 音もなく広がったそれは複雑な曲線を描きながら、最後には一つにつながり円を描く。そして次はその内側に、浸食し始めた。
 吸血鬼はようやく身の回りの変化に気づき、声を上げるがもう遅かった。
「なんだこれ!? 女ァてめぇ何やってやがる」
 吸血鬼はさらに力を込めてアレシアを殺そうとするが、意思と反して全身の力が抜け、アレシアを手放してしまい、そして地面に膝をつく。
 アレシアは乱れた息を整えながら、ノエルの側に寄って吸血鬼と対峙する。
 吸血鬼はその時始めて、自分とアレシア、そしてノエルを包み込む陣の全容を見た。

「これは、なんだ……」
 
 羅列した無数の文字で出来た円の中に、描かれたのは三本の矢に射抜かれた盾の紋章。こんな陣の存在を吸血鬼は知らない。
 だが、吸血鬼の血はざわめき警告する。

――これは危険だ。

 急いで陣から出ようとするが、吸血鬼はあの強力な力を失い、立つことさえままならない。それでもなんとかふらつきながら、二本の足で歩こうと足掻く。
「ふざけんな! 俺を誰だと思ってやがる! 『男爵』のヴァノンだぞ、こんな醜態を……!」
 吸血鬼ヴァノンの声は、最後まで聞こえることはなかった。陣から湧き出るように現れた無数の光に包まれ、消えてしまったのだ。
 消えたのは吸血鬼だけではなく、同時にアレシアとノエルも地下牢から姿を消した。

 誰もいなくなった地下牢に、描かれた陣はただ光り続ける。






                                                                  ◆一章・完



[21811] 8話 二人の契約
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/18 18:58
――起きて、時間がない。

 誰かが耳元で囁く。

――ずっとこのままでいて欲しいけど、貴方には幸せになってほしいけど。

 どうして泣いているのだろう。
 優しく、柔らかい声が悲痛に塗れていくのは、聞いているこっちまで悲しくなってくる。

――こうするしかないから、だから……!

 
 ◆二章
 
 女性の声が僅かに強みを増したその時、アレシア・ベケットは目を覚まし、それとほぼ同時に勢いよく立ちあがった。
 どうやら横になってしばらく経っていたようで、体中が鈍く痛む。高い丈の草の中に倒れていたようで、立ちあがったアレシアの腰丈位まで濃い緑の草が伸びていた。
 透き通るような青空が頭上に広がり、四方をなだらかな丘に囲まれた小さな盆地で、あまりにも呑気な時の流れに、アレシアはつい先ほどまでの惨事を忘れ、数秒の間ポカンと口を開いたままだった。
 しかしすぐに記憶の最前列を陣取るそれに気付き、慌てて辺りを見回す。
「そうだ……ノエル様は」
 一体何が起こったのか、正しくは覚えてはいないが、光に包まれる瞬間に抱きしめていたはずの温もりは、まだ胸の中に残っている。
 手身近な草を払いのけてノエルの名を呼ぶが、風に揺れこすれ合う音を立てる草々しか、返事を寄こす者はいない。

 アレシアは焦って、必死になってノエルを捜索する。何もかもを失ったアレシアにとって、今はもう二歳の少女しか頼る術を持たないのだ。
 頬に冷や汗を垂らしながら、必死に捜索する手に柔らかいものが触れ、アレシアは驚いて一度手を引く。
 そのあと、恐る恐る草をかき分けて地面に、伏しているそれを確認した。
「ノエル様!」
 安堵し、緊張し放しだった肩を落とす。
 だがその隣で同じように俯いている人物を発見し、アレシアは短い悲鳴を上げた。

 ぼろぼろの囚人服を着て、アレシアよりも長い髪を地面に広げ、倒れている長身の男の姿はアレシアの記憶を、呼び醒ますのに十分な衝撃を与えた。
 アレシアは一歩後ろに下がり、唾を飲み込む。
 ノエルを抱き抱えようと、そっと手を伸ばす。気づかれないように、目を覚まされることのないように。
 慎重に、伸ばした腕がノエルの腰に周り、そのままそっと彼女を抱き寄せた。まだ目を覚まさないノエルを抱きかかえたまま、アレシアはじっと男を見下ろした。

 ざあぁぁと風が三人の間を駆け抜ける。
 揺れる髪の毛を無視し、アレシアはじっと男の横顔を見つめた。
 真っ白い肌に、紅い唇。筋の通った高い鼻と、アレシアと同じ黒い髪の毛。ひどく整った顔立ちで、黙っているとあの狂気に満ちた表情を浮かべるなど、想像も出来ないほどだ。
 アレシアは首を横に振り、男と距離を取ろうと身を引くが、半分くらい振り向きかけたところで、ピタリと止まる。
 恐る恐る吸血鬼の顔を覗きこむ。
 草原に、アレシアの小さな驚きの声が上がった。


 深い海に溺れていく。
 抵抗することも出来ず、ただ身を任せるがままに深遠の淵へ。
 懐かしい夢だ。
 だが、あの時の夢とはどこか違う。
 この温もりはなんだ。
 この夢よりも懐かしいこの感触は、一体……?

『男爵』ヴァノンは、霞む視界の中に誰かの背中を捉えた。鬱陶しい温もりはきっと、この人物の背中の温度なのだろう。
 ヴァノンは一度瞳を閉じその後、思い切り自分を背負うその背中を蹴り飛ばす。
 その背中の持ち主は、うわあ。と間抜けな声を上げると、緑の海に顔面から突っ込んで倒れていき、ヴァノンの視界から消えてしまった。
「お前は誰だ。ここはどこなんだ。言わないと、殺すぞ」
「いてて……。私はアレシア・ベケット。顔は、覚えてますよね」
 頭を抱えながら起き上がった少女の顔を確認して、ヴァノンは思わず顔をしかめた。
 小柄な体と、汚れた藍色のローブ。そして背中まで伸ばした髪の毛と、印象に残らなそうな地味な顔。
 この少女はさっきまでヴァノンが、殺しかけていた人物と変わりない。

「まさか。お前、俺の体を背負って歩いてたのか」
「はい。といっても、減量の陣を使ってはいますけど」
 藁で編まれた籠の模様の陣が描かれている紙を、背中からはぎ取りヴァノンは一回りは小さいアレシアに怒鳴る。
「そういうこと聞いてんじゃねえ! お前の魔術でブッ飛ばされた俺を、お前が背負ってんのかってことを聞きたいんだよ」
 今にも掴みかかりそうになる勢いで、ヴァノンはアレシアに迫るが、当のアレシアはただ首を傾げるばかりだ。
「私、てっきりあなたに転移魔法掛けられたのかと思ってました」
「てめえしらばっくれるのもいい加減に……!」
 胸倉を掴もうとしたその時、ヴァノンはようやく自分の身に起こった異変に気がついた。
 ヴァノンは慌てて空を見上げる。
 若干傾きかけの太陽の陽が燦々と大地に降り注ぎ、例外なく地上に在るモノ全てを照らしている。それはヴァノンだって例外ではない。

 無言のまま、ヴァノンは自分の頬や腕を触る。
 おかしい。
 ブラッドマンは、太陽の陽に触れられると身を焼かれ、あちこちに太陽痕と呼ばれている水疱が現れ、いずれは皮膚が爛れて、骨まで焼きつくされるはずだ。
 なのに今、ヴァノンは影一つない草原に立っている。
 
 異変がないのが、異変なのだ。
 
 放心状態のまま、ヴァノンはじっとこちらを見ているアレシアに視線を合わせた。
「お前のせいだな。お前の、あの奇妙な陣のせいだ」
「い、いや知りませんよ。でもなんだかあなたの様子がおかしかったから私……」
「黙れ! 早く元に戻せ! ブラッドマンの姿に」
「私のせいじゃないですよ! それに、ここで戻したらあなた死んじゃうじゃないですかぁ」
 アレシアに詰め寄り肩を揺すって脅すヴァノンに、アレシアは情けない声でもっともなことを言うが、頭に血の昇ったヴァノンに届く訳もなく、ヴァノンの怒りは止まるわけもなく、さらに暴走していく。
「お前を喰ってやる。喰って、盗られた力を手に入れてやる!」
 今にも首筋に噛みつきそうなヴァノンに、アレシアは涙目になりながら必死に抵抗し、叫んだ。

「でも私死んじゃったら、もう元に戻れないかもしれませんよ!」
 
 暴れていたヴァノンの動きが止まった。
「だ、だから契約しましょうよ。私はこれからの余生全部貴方の力を戻すために使いますから、その代わりそれまで手を出さないで下さい」
「んなもん契約でもなんでもないじゃねえか」
「わかりました。一年、一年でなんとかならなかった場合は私を食べちゃってもいいですから!」
 アレシアの声に、ヴァノンは悩んで悩んでようやく彼女を解放する。
「一年だ。それ以上は待たん」
 確かにここでアレシアを喰って、力が元に戻らなければ万事休す。陣は持ち主が死ぬと、普通は消失してしまうものだから、二度と力が元に戻らない可能性も高い。
 ならば僅かながらに猶予をやって、その間に陣について調べさせるのも良いだろう。
 一年後、アレシアの喉元に牙を喰いこませる想像をし、舌舐めずりするヴァノンに悪寒を感じて、自分の身を抱きしめた。
 その後、抱きしめていた腕を放し、目の前に持ってきてじっと眺める。
 小さく頷いた後、アレシアは右腕をヴァノンに差し出した。

 突き出された手に、ヴァノンは眉をしかめる。
「なんだ。これは」
「一年間よろしくお願いします」
「これも魔術か?」
「いいえ、ただの挨拶です」
 白く細い腕を一瞥し、ヴァノンは鼻で笑ってさっさと前へ進む。予想通りの反応にアレシアは苦笑いしながら、ノエルを抱きかかえヴァノンの背中を追いかける。 
 こうして、元吸血鬼と元宮廷魔術師、そして元候女の奇妙な面子の旅路が始まった。

 絶望的な夜が明けた、よく晴れた日のことだった。



[21811] 9話 帝国と六つの属国
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/19 19:52
「今いる場所もわからないだと!?」

 ヴァノンの声は一瞬で風にさらわれ、遠くに行ってしまったが彼の怒りは、声と一緒に飛んでいくことはなく、首をすくめるアレシアに猛然と降りかかっていた。
「お前の魔法だろ。わからないわけないだろうが」
「だから、私魔法なんて使ってませんって」
 何故か胸を張って言い返すアレシアに、ヴァノンは歯ぎしりをして拳を握りしめた。
「じゃあなんだ。お前、今どの国にいるのかすらわからないってことか?」
 はい。と即行で返事するアレシアを忌々しげに一瞥し、ヴァノンは踵を返して歩を進める。

 この大陸を構成している国々は大きく三つに分けられる。
 北方を中心に、大陸の半分以上を国土としている唯一の超大国、『北帝ヴァレンシア』通称帝国と、帝国に降伏・征服された帝国周辺の六つの属国。そして、南方の小国群『諸王百国』。
 六つの属国は、北・南・東・西と帝国の直轄地を取り囲むようにして存在している。
 うんざりするほど広い平原から考えると、恐らくここはまだ東側の属国のクロハイム・シェオメイハル・ケイハンのいずれかの国々だろう。
 北は帝国の開発が進んでいて、このような手つかずの丘陵地帯などないだろうし、南はエルフ族の出立地である深い森が広がり、西は乾燥した土地と潮風が強い。
 温暖で草原が続くのは、東側の土地の大きな特徴だ。

 しかしそれだけでは何の参考にもならない。
 とりあえず近くの街の場所さえわからない現状だと、いつまで経っても前へは進めないだろう。街へ出て、落ち着かないことには自分の奪われた力を、取り戻す術を調べる余裕も出来ない。
 悶々としながら、とりあえず前へ進むヴァノンは、いつの間にか後ろから聞こえていた足音が、なくなっていることに気づいて、振り返った。
 ずいぶんと向こうに、膝に手を当て俯いているアレシアの姿を見つけ、ヴァノンは大きくため息を吐く。
「おいガキ。何へばってんだ、まだ一時間も歩いてないぞ」
「別にへばってなんかないです」
 肩で大きく息をしている姿はどの視点からだって、ばてばてなわけだ。
 本人の精一杯の強がりなど意に介さず、ヴァノンは黙ってアレシアを睨むが、あることに気づいて再び口を開いた。
「まさかお前、マーセナルか」
「そうですけど」
 顔を上げて答えたアレシアにヴァノンは大げさに空を見上げた。

 エルフ族・妖精族・亜人等様々な種族の者が存在するが、マーセナルは人間族の中で、最も旅に不向きの人種だ。
 南方のエルフの森で生まれ、ほの暗い屋内と松明の火を愛し、太陽の陽を避ける彼らが、足のマメがつぶれてもなお、歩き続けなければならない旅を簡単にこなせるわけがない。
 確かに、魔術師であることや貧弱な体つきから、なんとなくそうではないかと思っていたのだが、それでも旅を続けるのには、困難過ぎる相方だと改めて認識すると、どっと疲れが体に溜まるようで思わずアレシアから目を逸らした。
 ヴァノンの心情に感づいたのだろう。アレシアは俯いて、すいません。と呟いた。
 
 アレシアを無視し、ヴァノンは歩き始める。
 アレシアもそれについて行こうとするが、ヴァノンの一歩はアレシアの二歩程もあり、どう頑張っても距離が生まれてしまう。
 そもそも、アレシアと共に旅をする必要があるのだろうか。とヴァノンは考え始めていた。
 魔術の知識はアレシアの方があるのだろうが、ヴァノンだって伊達に五百年生きてはいない。それなりの知識だってあるし、勉強し始めたら要領の悪そうなアレシアくらい、あっという間に追いぬけるのではないか。
 死なれては困るのならば、手足を食いちぎって逃げられぬようにすれば、いっそ簡単に済むのではなか。
 ヴァノンはもう一度振り返り、こちらを必死に追いかけてくるアレシアを見る。

「あんな子ども、捨て置けばいいだろうが」
 忌々しげにヴァンスは呟く。
 自分のことさえ何一つ満足でないのに、それでもアレシアはノエルを抱き続けていた。
 候女だろうと、土地を失えば力を持たないただの幼児だ。
 そんなちっぽけな存在に頼る姿も、それ故に救おうとする姿も、強大な力を持ち自分の身は自分の力で守ってきたヴァノンには、いちいち腹の立つ光景だった。
 舌打ち一つし、ヴァノンは歩き出す。
 二人と一人の間には、大きな距離が生まれていた。

 ヴァノンが足を止め、数十分後にアレシアが追いついたのは、地平線に消える夕陽が見える丘の上だった。
「ここで休むぞ」
 一言言うと、ヴァノンはごろんとその場に横になり、黙ってしまった。
 そのまま寝入るつもりでいたのだが、突然泣きだしたノエルとその対応の仕方もわからずに、おろおろするアレシアにイライラし、起き上がりさまに二人を睨む。
「そいつを黙らせろ。敵に聞かれたらどうするんだ」
「黙らせるって、その方法がわからないんです」
「首絞めるなり舌ひっこ抜くなり、色々あるだろうが!」
 本気で怒鳴るヴァノンと、言い返すアレシアのせいでノエルの泣き声はさらに大きくなり、一行に険悪な雰囲気が充満する。
「……俺はどこか遠くで寝る。お前は朝までここを動くなよ」
 自分勝手に歩き出したヴァノンに、アレシアは悪態の一つも吐きたくなるが、ぐっと堪える。
 彼と奇妙な旅が始まったばかりだが、ノエルはヴァノンには関係のないことで、これからもそういう関係にしておきたかった。
 だから今は一人で頑張るしかない。
 アレシアはそう自分に言い聞かせ、ただ泣き叫ぶノエルと意思疎通しようと、試行錯誤を続ける。それでもしばらくは、ノエルの泣き声は闇夜に響き続けていた。
 
 その夜。ヴァノンは音を立てずに起き上がり、真っ暗な周囲を見渡した。
 
 音が聞こえる。
 
 微かだが、力強く地面を踏みつける音が断続的に、ヴァノンの鼓膜を揺らしている。
「……何だ?」
 息を殺し、音に集中する。
 吸血鬼としての能力を奪われ、発達した聴力も失ったがそれでも精神を研ぎ澄ます方法を、忘れたわけではない。
 だが、さすがに五十年のブランクは彼を幾段にも鈍らせていた。
 遠くの音よりも、静かに近寄ってくる鋼鉄の刃に気付けなかったのだ。
 
 彼の背後で揺れる草の間から、数本の腕が現れヴァノンの背中に刃を突き付ける。
 ここにきてようやくヴァノンは己の過ちに気付き、目を大きく見開いた。
「動くなよ。よそ者」
 低く、威厳のある声が背中越しに聞こえてくる。誰かが松明を灯したのだろう。背中の向こうで火が付き、ヴァノンと五人の男の影を作った。
「こちらを向け」
 舌打ちしながらも、ヴァノンは胡坐をかいて座り、両手を地面について振り返る。
「我らの土地に足を踏み入れた理由を教えてもらおうか」
 大地のように屈強な腕と、黒い髪の毛。皆頭に濃い黄色の頭巾を被っていて、鋭くつり上がった目は、さらに細められてヴァノンを見据えている。

 この先の最悪の事態を予想し、ヴァノンは一人落胆しがっくりと肩を落とした。



[21811] 10話 青翼の民
Name: HAJI◆93a93db8 ID:eda239d3
Date: 2010/09/23 08:10
 騒々しい音が、遠くから近づいてくる。
 肩を落としていたヴァンスは、徐々に近づいてくる間の抜けた声に、思わず耳を塞ぎたくなった。

「私たち、怪しい者じゃないですってば!」
 背後から現れたアレシアは、同じような連中に剣を突き付けられてこちらにやってくる。本人は精一杯説得を試みているのだろうが、全く持って無駄なことだ。
 ヴァンスの横に座らされるアレシアに、ヴァンスは半分怒りながら声をかけた。
「やめろ。うるさいんだよ」
「うるさいって……このままじゃ私たちどうなるか」
「誰がお前らで話をして良いと言った!」 
 アレシアもヴァンスに食ってかかるが、リーダー格であろう顔中髭だらけの男が、怒鳴るとさすがに二人とも黙る。
 総勢十人と言ったところだろうか。
 それぞれが立派な馬を側に侍らせていて、彼ら全員ゆったりとした袖口と、コートのような一枚の布を羽織り、腰のあたりを帯で締め暗い色のズボンを履いている。
 黄色の頭巾と、革の胸当て。それから背負っている矢筒と弓は皆同じなのだが、リーダー格の男だけは朱色のモノを身につけている。
「ケイハンの遊牧民族……?」
「当たりだクソガキ。お前とんでもないとこに飛ばしてくれたみたいだな」
 彼らの格好を見て独り言のように呟いたアレシアに、ヴァンスが毒付く。
 大地の声を聞き、風と共に生きる。そんな彼らが今、二人に刃を向けていた。

 ケイハンはクロハイムよりも西側、シェオメイハルより北側に位置し、帝国の領土と接している内陸国で、二百以上の部族がそれぞれ自分の領土の中を巡って暮らしている。
 ケイハンの民は穏やかで、民族間の争い事は弓で決めるといった取り決めがあるほど、争いを避ける民族だが、それはあくまでもケイハンの民同士の仲である。
 彼らはよそ者には厳しい。帝国民(ディグニアン)ならば、尚更だ。
「もう一度聞こう。我らの地に忍び込んだ理由はなんだ。言わぬのなら切るぞ」
 彼らの言う『我らの地』とは、恐らくケイハンの国ではなく、その中でも彼らの民族の『縄張り』内のことだろう。
 うまい言い訳も思い浮かばず、アレシアは助けを求めてヴァノンを見るが、当の本人は素知らぬ顔でアレシアの相手もしてくれない。
 自体を収拾出来ず暴れている心臓を何とか抑え込み、アレシアはまっすぐに髭面の男を見上げた。
 そして暴露する。

「私はクロハイムがリヨーマ候に仕えていたアレシア・ベケットでございます。リヨーマ城が襲撃された際、そこの候女であるノエル・リヨーマ様と共に落ちのびてきた次第です」
 
 アレシアがリヨーマの名を口に出すと、男達はあからさまに表情を変え、互いを見合わせそしてアレシアの傍らでこっくりこっくりと、船を漕いでいるノエルに視線を移した。
「まさか。ありえん」
「こ、これをご覧ください」
 アレシアがノエルの髪飾りに彫られているリヨーマの暁と、丘の紋章を男に見せると男は息を飲んだ。侯爵家の紋章を身につけていいのは、その家の血族のみだ。
 物言わぬ証拠を手に取り、じっと見つめた後無言でアレシアに返す。
 相変わらず険しい顔つきだが、その表情は明らかに変化している。
「確かに侯爵家のものだろう。だがリヨーマの地が陥ちたのは、三日前だぞ。彼の地から、僅か三日でしかも徒歩でこの地までくるなど……」
「三日!? そんなに経っているなんて、リヨーマは現状を教えてください!」
 せいぜい一日やそこらだと思っていたアレシアは焦り、男にすがるように問いかける。
 アレシアの変化に、男は驚き一歩身を引く。
「クゥイ。こいつらどうします?」
「……連れて行こう。御婆(おんば)に合わせた方がよさそうだ」
 耳打ちしてきた者にそう返し、男はアレシアに向き直った。
「我らの家に着いてきてもらおう。そこで貴様らの処遇を決める。隣のお前もだ、いいな」
 ヴァンスは、はいはい。と一人呟く。
 男がヴァンスを見る目は、相変わらず厳しいままだった。 

 ◆

「……という次第でございます」
 それから一時間と少し、馬に揺られてたどり着いた彼らの『家』は移動式の住居『ゲル』が、数十個も建てられた大きな集落で、その中でも一際大きくまた色とりどりに彩色されたゲルの中で、ヴァンスとアレシアは縄で縛られたまま、座らされていた。
 正面にはあの髭面の男が『御婆』と呼んだ人物が、干し草で練った座敷の上に正座して座り、左右には集落の有力者らしき男達が、険しい目つきでずらりと並んでいる。
 御婆の前で膝を立てて座り、経緯を話し終えた後、髭面の男は立ち上がりアレシアとヴァンスの後ろに、退路を塞ぐかのように腰を下ろした。
「リヨーマ候に仕えていたのは、あなたですかな」
「はい。私です」
 頭のてっぺんで白髪を結っている老婆は、口はほとんど開かず、目も閉じているのか開いているのかさえ、アレシアの位置からではわからない。
 それでも老婆の声はよく通り、自分をしっかりと見つめる視線を、アレシアは感じていた。
「では隣の方は、どなたなのかな」
「それは……」
 言葉を切り、アレシアは迷う。
 ヴァノンが囚人と明かすのは、あまり賢い選択ではないだろう。無駄に警戒されて、得るものはないだろうしヴァノンのことを深く尋ねられても、アレシアには全くわからないのだから。
 ヴァノン自身も、自らのことを喋るつもりもなさそうだし、そもそも今の事態を乗り切ろうとしているようすない。
 身分を偽るのが、得策だろう。

 しかし喉まで出かかった嘘は、口から放たれる瞬間に姿を変えていた。
「この人は、城の地下牢に捕えられていた囚人です」
 ざわざわと周りが騒がしくなる。中には剣の柄に手をかける者までいた。
「馬鹿な! 何故候女が囚人と旅をしておるというのだ! 御婆、こやつら斥候かも」
 誰かの声に、周囲の視線はさらに二人に厳しくなる。
 この動揺に態度を変えないのは三人のみ。
 退屈そうにぼんやりとしているヴァノンと、相変わらず起きているのかわからない御婆、そして後ろに控えている髭面の男だ。
 アレシアは黙ってはいたが、目を瞑って拳を握りしめていた。
 
 あの老婆の前で嘘は吐かない方がいい。きっと見破られる。
 
 直感以外の何ものでもない自分の咄嗟の行動に、自身など持てるはずもなく、ただ騒ぎが過ぎるのを我慢していた。
「わかった」
 発せられた静かな声に、騒がしかった声は一瞬で静まり返る。
「あなた方を我が家に招き入れましよう」
「御婆、それは何故」
「彼女の目は澄んでいる。怯えながらも、嘘を吐かぬ者の目だ。それだけで十分」
 老婆は皺だらけの顔を、さらに皺を増やしながらほほ笑み、男達の質問に答えた。

「突然の出立でさぞかし心労を重ねておられるでしょう。今日はごゆるりとお休みください」
「あ、ありがとうございます」
 状況を理解すると、すぐさまアレシアは頭を下げた。
 まさか信じてもらえるとは。
 嬉しさよりも、驚きの方が大きく、いつの間にか髭面の男が縄をほどいてくれていることすら、気づかないほどだった。

「俺の名はクゥイ。御婆の孫だ。御婆が客と認めたならば、仲良くさせてもらう。ようこそ青翼の民の家へ」
 差し伸ばされた、毛むくじゃらでゴツイ手を、アレシアは多少遠慮しながらもしっかりと握った。

 


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