ところが桜花の搭載したロケットエンジンは、一瞬で燃料を燃やしつくしてしまいます。
つまり、航続距離がないのです。
桜花の航続距離は、わずか37kmです。
30キロというのは、上空と海上とでは、最早目と鼻の先です。
すぐそこに見える距離、といっていい。
飛行機に乗って空港に着陸するとき、空港近くまで降りてきた飛行機から、付近にいる漁船などが見えますが、その距離がだいたい30キロです。
ですから桜花は、その距離まで一式陸攻に懸吊(けんちょう)して連れて行ってもらわなければなりません。
その距離まで近づいて、そこから切り離されて、まっすぐに敵艦に向かい、特攻するのです。
ところが、桜花は、2トンを超える重量があります。
非力な一式陸攻が桜花を懸吊すると、「飛ぶのがやっと」という状態になります。
もはや、速度も出ず、小回りすら利かない。
この状態で敵の戦闘機が襲ってきたら、桜花を吊るしている一式陸攻は、まさに餌食、ネタになります。
ですから、桜花を懸吊した一式陸攻は、戦闘機であるゼロ戦に警護を固めてもらわなくては、敵艦隊に近づくことすらできません。
そしてようやく敵艦隊の上空30キロの地点までたどり着いたとしても、親機から切り離された桜花は、一直線に敵艦に進むことしかできません。
一式陸攻に懸吊された桜花
![一式陸攻に懸吊された桜花](/contents/046/713/849.mime4)
この頃の米艦隊は、特攻対策として高射砲の砲弾に「近接信管」を搭載しています。
「近接信管」というのは、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発するというものです。
そして砲弾の中には、無数の鉄片が仕込まれていた。
近接信管を搭載した砲弾が、特攻する桜花の近くで炸裂した瞬間、パイロットは大怪我をし、あるいは即死し、機体は穴だらけになって吹き飛びます。
こうした近接信管を搭載した砲弾を、米艦隊は突入してくる桜花めがけて、一斉に何百発と撃ち込みます。
小回りを利かせ、敵砲弾をかいくぐらなければ、とても敵艦に近づけるようなものではない。
にもかかわらず、桜花は、速度だけは早くても、一直線にしか飛べない。
米軍の間では、桜花は、「BAKA BONG(おバカ爆弾)」とすらあだ名されます。
いまの時代を生きるボクたちは、航空戦の素人です。
その素人でも、以上の説明を聞けば、桜花の出撃がいかに無謀なものであったかわかります。
当時の時代を生きたパイロット達は、航空線のまさにプロフェショナルです。
しかも、航空兵に採用されるような人たちは、とびきり優秀なパイロットたちです。
プロであるがゆえに桜花作戦の危険性、無謀性は、ボクたち以上に百も承知です。
それでも彼らは飛び立ちます。
桜花の最初の出撃は、戦局押し迫った昭和20年3月21日のことです。
この5日後には、沖縄戦が開始されています。
まさに米艦隊が、沖縄めがけて続々と押しかけてきていたときです。
日本軍としては、なんとかして敵の沖縄上陸を阻止し、遅らせ、民間人の避難を促進しなければならない。
しかしこの時点で、帝国艦隊は最早消滅し、空母もなく、沖縄近郊の制海権、制空権は、完全に奪われた状況です。
飛ばせる飛行機もない。
飛行機を飛ばすためのガソリンも、残り僅かです。
この時期、日本の航空隊は、練習機に摘んだガソリンは、まともな石油ではありません。
ひとことでいえば、いまでいうサラダ油をガソリンの変わりに積んで飛び立った。
戦後のことですが、米軍が日本陸軍の四式戦闘機「疾風(はやて・ゼロ戦の後継機にあたる)」に、米国製のオクタン科の高いガソリンを入れて飛ばしたところ、当時世界最強といわれたP51ムスタングよりも高い性能を示しています。
特攻する際は、それなりのガソリンを入れたものの、いまで言ったら、ハイオク使用の車に、軽油を入れて飛ばすようなもので、そもそも充分な性能を発揮させることができないという状況にあった。
それでも、沖縄を救わなければならない。
圧倒的な兵力を持った敵に対し、わずかばかりの兵器で戦わざるを得なかった日本としては、最早、問題点山積みの兵器とはいえ、桜花出撃やむなし、と判断せざるを得なかった。
万にひとつでも、攻撃を成功させれば、あるいは攻撃が成功しなくても、敵は日本本土から飛んでくる特攻隊への防戦に注力せざるを得ない。
そのために相当数の兵力を割かざるを得ない。
そうなれば、米軍の沖縄上陸は遅れ、遅れた分、沖縄内では米艦隊からの艦砲射撃対策のための掩蔽壕や、民間人避難のための防空壕をほんのわずかでも強化できるし、戦場となりうるエリアから民間人を避難させることもできる。
沖縄戦では、多数の民間人が犠牲になっています。
このことがいまだに沖縄に暗い影を落としている。
本来、軍が戦闘をするに際して、民間人がいては、軍はその機能を存分に発揮することができません。
民間人の避難や保護に兵力を割かれるし、けが人が出れば、その救急対策にされに兵力を割かれる。
ただでさえ、少ない兵力、乏しい戦力で戦わなければならない日本軍にとって、戦場に民間人がいたら、正直困ることになるのです。
ですから、軍は、沖縄戦に先んじて、沖縄の民間人の本土への疎開を遂行しようとします。
しかし、これに反対し、沖縄県民を戦地という危険に晒したのは、ほかならぬ沖縄県知事だった。
このことは、拙稿の≪沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡(
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-809.html≫に詳しく書いているので、お時間のある方はご覧ください。
ともあれ、沖縄には、まだまだ多数の民間人が残っている。
彼らをひとりでも多く救うためには、本土に残るわずかばかりの兵力をもって、米軍に挑み、米軍の注意を本土側にそらしておく必要がある。
だから、ハナから無理とわかっている桜花も、出撃します。
昭和21年3月21日のことです。
この日出撃した部隊は、桜花を懸吊した一式陸攻18機、護衛のためのゼロ戦が30機です。
部隊は、敵艦隊のはるか手前で、進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されます。
そして上空で待ち構えたグラマンF6F戦闘機28機の待ち伏せにあい、迎撃されます。
一式陸攻を守ろうと、ゼロ戦部隊が対空戦を挑み、一式陸攻がまる裸状態になったところに、別なグラマン部隊が襲いかかる。
そうして、陸攻隊は全機が撃墜され、ゼロ戦隊も、30機中10機が撃墜されるという結果に終わった。
このとき、無理をして一式陸攻から飛び立った桜花もあったけれど、飛距離が足らず、海中に没しています。
この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわしながら、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っています。
下に動画を張りますが、翼をもぎ取られ落下する一式陸攻には、一機につき10名の歴戦の搭乗員が乗っています。
そして全員が還らぬ人となった。
この特攻について、後世の人たちからは、特攻を意思決定した宇垣纏中将に対し、もっぱら非難の声が多いようです。
命を犠牲にして特攻を行うことを前提に出撃した桜花の搭乗員だけでなく、運搬役の一式陸攻まで全機未帰還となっているのですから、責任者の責任を追及する声が上がるのは仕方がないことだと思います。
しかし、上に述べたように、他に沖縄戦を阻止する効果的な方法がない中で、なにがなんでも敵の沖縄上陸を阻止することを至上課題とした当時の状況にあって、他にどういう判断のしようがあったのか。
防備のために同時に出撃した戦闘機ゼロ戦隊にしても、攻撃隊指揮官の野中五郎少佐が、護衛機70機を要求したのに、30機しか付けれなかった、という人もいます。
しかし、実際には、このときゼロ戦は、なけなしの飛行機のなかで、55機が出撃しているのです。
この時点では、整備できている飛行機「ありったけ」の戦力です。
ところがその戦闘機も、途中でエンジン不調となり、25機が途中で引き返した。
結果、護衛が30機となったのです。
それにしても、この桜花は、その発射訓練からして無茶なロケットです。
訓練生は、上空を飛行中の一式陸攻の機体の中から、下に吊るされている桜花に飛び乗ります。
飛行中の機体に吊るされた桜花は、それこそ上下左右に激しく揺れ動いています。
その揺れ動く小さな桜花の小さな狭いコクピットに、パイロットは上から飛び乗るのです。
上空何千メートルという航空です。
そこに、パラシュートも付けずに、飛び降りる。
一歩間違えば、そのまま転落して死にます。
ようやく桜花に乗り込むと、一式陸攻は、桜花を機体から切り離します。
切り離された桜花は、その瞬間、数十メートル、猛烈なスピードで落下する。
落下しながら、桜花はエンジンに点火します。
それは恐怖の瞬間です。
この時点で意識を失ったら、それも即、死亡を意味します。
そしてまっすぐに目標に向かって飛ぶ。
訓練では、桜花は、地上に着陸します。
しかし、翼の小さな桜花は、低速で着陸しません。
猛スピードで、地面に激突するようにして着陸する。
この着陸訓練で、桜花の搭乗員は、何人も命を落としています。
その過激な訓練を経由して、生き残った最強の兵士だけが、死ぬことを目的とした特攻作戦に参加する。
彼らは、そこまでして、この国を守るために、沖縄を守るために出撃し、散って行かれたのです。
そのことの意味を、私たちはもういちどよく噛みしめてみる必要があるのではないかと思います。
繰り返します。
上空で、一式陸攻にぶら下がっている桜花に飛び移る。
それがどんなに危険なことか、考えなくたってわかろうと思います。
出撃しても、敵艦隊に30キロまで近づくことが、何を意味するか。
そこまで近づく前に、桜花は一式陸攻ごと撃墜されることが、彼らプロには痛いほどわかっていた。
その一式陸攻には、一機につき10名の搭乗員が乗っています。
撃墜されれば、桜花の特攻が不首尾に終わるだけでなく、乗組員全員が死ぬことになるのです。
このことについて、戦後、指揮官がバカだったとか、日本軍は人の命を粗末にしたとか、いろいろ書いている人がいます。
戦争が終わり、自分は安全なところにいて、現に不首尾に終わった作戦には、好きなことが言えます。
ののしりたいなら、ののしれば良い。
しかし、これだけは言いたいのです。
彼ら搭乗員たちは、指揮官も含めて、誰より命を大切にする人たちだった。
そして桜花の出撃が、どれだけ危険なことかを、プロである彼らは、後世に安全なところにいて、いろいろごちゃごちゃ批判している誰よりも、その危険をよく知っていた、ということです。
それでも彼らは出撃した。
無理とわかっていても出撃した。
何のために?
沖縄を救うためにです。
祖国の大地を敵に踏ませたくない。
ただそれだけのために、彼らは危険とわかっている作戦を実施したのです。
このときの作戦で攻撃隊指揮官となった野中五郎少佐は、「激戦の中で、部下を死なせない」ことを誇りとした指揮官です。
いや実は、彼はひとりだけ部下を失ったことがある。
夜間攻撃で、敵の船に魚雷を撃ち込むために海面すれすれに飛行したところ、いきなり横から割りこんできた敵の別の船にあやうく衝突しそうになった。
彼は、急上昇してこれを避けようとしたのだけれど、そのとき一式陸攻の尾翼が海面を叩き、後部銃座にいた部下がその衝撃で吹っ飛んでしまった。
数多くの航空線を戦いぬいた野中少佐の、それが唯一の部下の損失です。
彼はそのことにずっと悩み、二度と部下を、絶対に死なせないと誓う。
彼は最後の突撃で、自らの命を失う日まで、その一時以外、いっさい部下を失うことはなかった人です。
その彼が、最後の出撃のとき「湊川ですな」という言葉を残しています。
「湊川の戦い」というのは、建武3(1336)年の足利尊氏と楠木正成の戦いです。
いったん九州に疎開した足利尊氏が、3万5千の大軍を率いてやってくる。
迎え討つ楠木正成は、わずか7百の手勢です。
勝てる見込みはありません。
楠木正成は、このとき「正成存命無益なり、最前に命を落すべし」と語り、5月25日、湊川で両軍は激突した。
多勢に無勢。六時間におよぶ戦いで、正成軍はわずか73人になってしまいます。
最期をさとった正成は、生き残った部下とともに民家に入り、七生報国を誓って全員自刃した。
湊川の戦いの詳しいお話は↓コチラ
≪日心会チラシ「楠木正成と七生報国」≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-806.html野中少佐は、このときの出撃が、どういうものであるかを充分に悟っていたということです。
野中五郎大佐
![野中五郎大佐](/contents/046/713/851.mime4)
野中五郎少佐は、明治43年、東京・四谷で生まれています。
子供の頃から明るく、周囲を笑いの渦に巻き込む天賦の才があったそうです。
また学生時代は、クラシック音楽が好きで、レコード屋に入り浸ってレコードを買い求める音楽青年でもあった。
彼は、大東亜戦争の開戦と同時に、当時大尉だった野中は、一式陸攻の分隊長として、フィリピン、ケンダリー、アンボン、ラバウル、ソロモンと転戦します。
そして、巡洋艦、輸送船合わせて四隻を撃沈。
ラバウル時代には、
草鹿任一第十一航空艦隊司令長官から武勲抜群として軍刀を授与されてもいます。
昭和18年11月のギルバート戦では、彼が発案した「車がかり竜巻戦法」で、米軍を悩ませています。
これは、薄暮、単縦陣で海面すれすれに飛行し、敵艦船を遠巻きにして、その周りを回り、最後尾の機に先頭の隊長機が迫って輪のようになる。
そして照明弾を落とすと、敵が光にさらされて姿を現す。
そこを全機で魚雷攻撃する、というもので、多数の米艦船がこの攻撃で犠牲になっています。
彼の趣味は茶道で、南方では出撃前にも翼の影で野点に心を鎮めていたといいます。
また、新任の部下には、
「若え身空で遠路はるばるご苦労さんざんすねぇ。
しっかりやんな。
お茶でも入れ ようか」
と声をかけ、面くらわせたりもしています。
言葉づかいはべらんめい調だけれど、飄々とした味があり、とにかく部下思いの優しさから多くの部下たちに慕われ、彼の部隊は、いつしか「野中一家」と呼ばれるようになったそうです。
茶をたてる野中少佐
![茶をたてる野中少佐](/contents/046/713/852.mime4)
その「野中一家」に、桜花部隊が配属されます。
「死ぬ」とわかっている部隊です。
下士官たちはくたびれ、若い兵士たちの気持も沈んでいる。
野中隊長は、そんな彼らを見渡し、朝礼台で挨拶します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
どいつもこいつも不適な面魂をしている。
誠に頼もしいかぎりである。
この飛行隊は日本一の飛行隊である事は間違いねぇ。
何となれば隊長が日本一の飛行隊長だからであ〜る。
かく言う俺は何を隠そう、海内無双の弓取り、海軍少佐中野五郎であーる。
かえりみれば一空開隊当初より、大小合戦合わせて二百五十余たび。
いまだかって敵に後ろを見せたことはねぇ!」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
講談調でたたみかけるように話す野中体調に、いつしか兵たちは ニヤリと笑い、表情に力強さが戻った。
この様子を見ていた人の談によると、野中五郎少佐の訓示は、なにやら勇者の魂が乗り移っていくような不思議な魔力があったといいます。
昭和19(1944)年10月、「桜花」による特攻部隊、第721航空隊(通称:神雷部隊)が編成されたとき、野中少佐は、「桜花」を搭載して出撃地点まで運ぶ陸攻隊の指揮官に任じられます。
野中はその豊富な戦歴から「桜花」の運用の難しさを即座に見破ります。
そして、
「この槍使い難し」
「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」
と予言した。
さらには、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせようと、再三にわたり上官に進言を繰り返します。
そしてもし、桜花を抱いて出撃することになったなら、本来なら一式陸攻は「桜花」を切り離したら帰還すれば良いのだけれど、
「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」と公言していたといいます。
昭和20年1月、神雷部隊は鹿児島県鹿屋基地に進出します。
野中はこのとき、大事にしていた茶道具を、すべて家に送り返しています。
もはや、生きて還るとは考えていなかったのです。
桜花の出撃のためには、大多数の戦闘機による一式陸攻の護衛が必要です。
鹿屋基地には、3月18日の時点で、国内全基地から集められたゼロ戦や紫電改など戦闘機百数十機が待機します。
しかし、そこに米軍の大空襲が行われます。
3月20日、同僚の林大尉に、野中は語ります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
戦闘機も、もうろくすっぽねえってーのに、司令の野郎(桜花攻撃を)引き受けてきやがって。
あのおっちょこちょいめ、どうしようもねえよ。
今回おれは腕っこきをよりすぐって行くよ。
それで成功すればしめたものだが、まず成功しないよ。
命にかけても(司令は)駄目だとがんばるべきだったが、引き受けてしまったからには仕方がない。
(作戦は)必ず失敗するだろう。
その結果を見て林君、特攻なんてこんなもん、ぶっつぶしてくれよ。頼んだぜ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3月21日の朝、偵察機が都井岬の南東320浬付近で空母二隻を中心とする機動部隊を発見します。
桜花を搭載した一式陸攻が出撃態勢に入る。
岡村司令も、この作戦が万に一つも望みのない作戦だと知っています。
司令は、危険な任務には指揮官が先頭に立つという日本海軍の伝統に従い、自分が陸攻に乗って直接指揮すると、主張します。
このとき野中は「司令が出るのはおかしい、海軍の規制どおり飛行隊長の自分が指揮をとる」と主張し、二人は大声で激しい言葉で応酬しています。
そして野中は言った。
「司令、そんなに私が信用できませんか」
そのひとことで、野中は押し切り、部隊の指揮を執ります。
同日午前、第一桜花攻撃命令が発せられる。
一式陸攻18機が 鹿屋基地に並びます。
搭載する桜花は、編隊の都合で15機。
護衛戦闘機は72機の予定が、空襲で破壊されて、55機に減っています。
野中は岡村司令以下、整列した幹部と別盃を交わしたあと、改めて岡村と惜別の挙手の礼をし、指揮官機のほうに向かいます。
このときの様子を、当事七二一空の整備分隊長であった高科伸一氏が、次のように伝えています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
野中隊長は、二、三歩進まれたところで、ひょいと振りかえられました。
私と目が合い、そのとき私には、隊長の眼がかすかに笑ったように感じられました。
野中隊長は、おう、貴様も見送ってくれているのか、あとを頼むぞという感じで、左手に軍刀をぶら下げ、淡々とした足取りでした。
そして野中隊長は、軽く首肯して再び歩き出された。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
野中は、高科らが格納庫で機体を整備中に二回訪れて「ご苦労さん」と、ねぎらってもいるそうです。
多忙ななか、機体整備という、陰の作業に気配りを示す野中に、整備員たちは感激したという。
そのときの野中の笑顔が思い出され、高科はこみあげてくるものを抑えることができなかった。
野中は出撃隊員の正面に立ち、大音声で訓示します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ただいまか ら敵機動部隊攻撃に向かう。
まっすぐに猛撃を加えよ。
空戦になったら片っ端からたたき落とせ。
戦わんかな、最後の血の一滴 まで。
太平洋を血の海たらしめよ!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
次いで桜花隊の三橋分隊長が部下に訓示。
「いまさら言うこともない。 みんな一緒に行こう」
21日、午前11時35分、部隊は鹿屋を発進します。
空母群から60海里の上空で、部隊は、グラマンF6F戦闘機群の襲撃に遭います。
重い荷物を抱え、スピードの遅い一式陸攻は残らず撃墜された。
敵戦闘機からやっと 逃れて帰投した直掩機が、味方は十数分で全滅したと桜花特攻の最期を報告しています。
未帰還者は野中隊長をはじめ総勢160名。
34歳の野中は、妻と二人の幼児を残したままの死でした。
以下は、野中五郎少佐(没後二階級特進して大佐)が、亡くなる前に愛児に宛てて書いた手紙です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ぼー まいにち おとなちく ちてるか
おばあちゃまや おじちゃまが
いらっちゃるから うれちいだろう
おたんじょうび みんなに かわいがられて
よかったね おめでとう おめでとう
おとうちゃまは まいにち あぶーにのって
はたらいている
ぼーが おとなちくして みんなに
かわいがられているときいて うれちい
もうちょろちょろ あるかなければいけない
はやくあるきなちゃい
おかうちゃまの いうことをよくきいて
うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに
ならなくてはいけない
ちゅき きらいのないように なんでも
おいちいおいちいってたべなちゃい
でわ さようなら
おとうちゃまより
ぼーへ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「日本軍は沖縄を見殺しにした」などと言っている人に言いたいのです。
あなたは、失敗する、死ぬとわかっていても、それでもなお、沖縄を救うために出撃した野中五郎大佐以下160名の前で、その言葉を言えますか、と。
↓クリックを↓
桜花を搭載した一式陸上攻撃機 カラー映像
被弾して墜落するのが野中隊長機
【♪大東亞聖戰の歌】
http://www.youtube.com/watch?v=9YQYxQMypn0&feature=related
■昨日は雨の中、世田谷観音にて特攻隊慰霊祭に参加いたしました。
実のところ、米軍は非常に『櫻花特攻隊』を恐れておりました。
『ステーションNo.4では、駆逐艦マナート・L・エイベル(艦長A・E・パーカー中佐)が最初の「バカ・ボム」[櫻花:連合軍のコードネーム]により、
戦闘行動中に最初に撃沈されるというありがたくない栄誉をになうことになった。…
小型なことと、とてつもないスピードのため、「バカ」はわが軍の艦船に対する最悪の脅威となった。
それは、ロンドンを襲ったドイツの誘導ミサイルにほぼ匹敵する脅威となった。
この初期の「バカ」攻撃は、タイミングよく行われた。
4月12日1445、エイベルに体当たりした零戦は、後部機関室に突き抜けた。
積んでいた爆弾が炸裂し、龍骨と推進軸を折り、同艦は動力を失って海上で行動不能に陥った。
約1分後、500ノットで「バカ」がやってきた。
「バカ」は、前部煙突下の左舷に突入し、第一ボイラー室に貫通し爆発した。
艦の中央部セクションは破断し、艦首部と艦尾部は分離した。
そしてエイベルは急速に沈没し、5分後には残骸と生存者のほか海上には何も残らなかった。…
4月13日は明るい晴天で明けたが、そのほかのすべての局面では、‘ブラックフライデー'となった。
暁の最初の光が沖縄本島を染めたとき、破滅的なニュースが艦の拡声器から流れた。
「総員、アテンション!アテンション!ルーズベルト大統領が死去された。
繰り返す。われわれの最高司令官ルーズベルト大統領が死去された」…』
【『モリソンの太平洋戦史』より】
水難事故のニュースを聞かない夏はありませんが、それとあわせて必ず報道される二次災害。
あんな流れなかを助けに行くなんて無茶だ、とかロクに泳げないのに馬鹿な事をとか言う人は必ずいるものです。
でも助けられた本人は?
助けることが出来なかったとしても、その遺族は?
自分の、あるいは身内のために命を落とした人を馬鹿呼ばわり出来るだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=zpATGf-1tA0&sns
「沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも 県には既に通信力なく 三二軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付 本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども 現状を看過するに忍びず 之に代って緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘に専念し 県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき 然れども本職の知れる範囲に於いては 県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ 残る老幼婦女子のみが相継ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ 僅かに身を以て軍の作戦に差支えなき小防空壕に避難 尚 砲爆撃下○○○(文字不明)風雨に曝されつつ 乏しき生活に甘んじありたり 而も若き婦人は率先軍に身を捧げ 看護婦烹炊婦はもとより 砲弾運び 挺身斬込隊すら申し出るものあり
所詮敵来たりなば老人子供は殺されべく 婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて 親子生別れ 娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し 衛生兵既に出発し身寄りなき重症者を助けて○○(文字不明) 真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず
更に軍に於いて作戦の大転換あるや 自給自足 夜の中に遥に遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無の者 黙々として雨中を移動するあり
之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来 終始一貫 勤労奉仕 物資節約を強要せられつつ(一部の兎角の悪評なきにしもあらざるも)只管(ひたすら)日本人としての御奉公の誇りを胸に抱きつつ 遂に○○○○(文字不明)与え○(文字不明)ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形○○○○○○(文字不明)
一木一草焦土と化せん 糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂う
沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
(ひらがなは原文カタカナ)
この後に太田中将は自決しました。
下記の文章は当時沖縄県立第二高女四年 大嶺美枝さん(17歳)のものです(沖縄高嶺村にて戦死)
お母様
いよいよ私達女性も、学徒看護隊として出動出来ますことを、心から喜んでおります。お母様も喜んで下さい。お母様は女の子を手放して、御心配なさることでせうけど、決して御心配はなさいますな。
散る時には立派な桜花となって散っていきます。その時は、家の子は「偉かった」とほめて下さいね。
お母様、空襲時はよく御用心下さいね。そして善ちゃんと弘ちゃんを良く守って下さいませ。決して私の御心配はなさいませんようにして下さい。
ネルはお母様のものか、善ちゃんのものを作って着せて下さい。波の上宮のお守りを入れて置きますから、善ちゃんの出動の際には、お母様の髪の毛と共に、弘ちゃんにお守り袋を作って貰って、善ちゃんにやって下さい。
なるべく自分でやる心算でしたけど、到底忙しくてできませんから、弘ちゃんに作ってもらひます。
お母様、今まで口ごたえばかりして来てすみませんでした。これからは、きっと立派な一人前の看護婦になって、お國の為にはたらきます。
お母様、御身体を無理なさらぬように、又善ちゃん弘ちゃんを怒らずに、朗らかに暮らして下さい。大島兵曹、信一兄さんによろしくおっしゃって下さいませ。
最後に一家の御健康をお祈りいたします。
沖縄の皆さんは何故自分たちの祖先を冒涜するのでしょうか。
この記事も『いのち』が吹き込んである。保守は、不惜身命の心で特攻せねばならない。日本が丸ごと無くなろうとしている。
もう一度、大和魂を!!
もう一度、神風を!!
野中五郎大佐以下160名はもとより
多くの人命が助かりました。
仰りたいのでしょうか。確かに真珠湾への攻撃をして大東亜戦争(アメリカでは太平洋戦争と呼称しますよね)を起したのは事実でしょう。
しかし其の前にアメリカが何年も前から援蒋ルートを通じて本来は中立を保たねばならないのに中国へ兵器、物資の支援を行っていた事。
ABCD包囲網を作り日本が経済的に立ち行かなくなるように仕向けたのは宣戦布告の無い戦争を仕掛けられたとは思いませんか。?当時の中国(中華民国政府)も事あるごとに挑発を行ってきた事実はどう説明なさるのですか。?今の中国も全く同じじゃありませんか。?
まさか反ネトウヨさんは日本が中華人民共和国日本省になれば良いとおもってらっしゃるのでしょうか。?
戦争は片っ方だけが悪いと言う考えは私は色々調べるうちに戦勝国側の歴史捏造だという結論を持つようになりました。憲法九条を日本が守ったとて日本を攻撃しようと画策し準備してる国には通用しません。
相手をかえって喜ばせるだけです。貴方は平和で宜しいですこと。
「反ネトウヨさん」のコメントですが???意味がわかりません。負けてしまいましたが、勇敢に戦ったご先祖様達のお陰で日本があるのです。何もしないでただ見てるだけだったら、地図上に「JAPAN」があったでしょうか? おそらく全員殺されてるか、よくて奴隷だったでしょう。
「感謝」を忘れたら日本人ではありません。
「ネトウヨ」=「ネット右翼」という言葉は民潭が日本人を陥れるために言い出した言葉なので、その言葉を見るとぞっとします。
日本はもう極右軍事政権でいいです。
戦前のような民主主義も要りません。
那覇地裁が船長を釈放!?
理由、日中関係に配慮して??
意味が解りません、
民主党政府の恫喝でも有ったのでしょうか?
とにかく、司法は政治に屈しました。
那覇地裁の管轄区域内は中国人の犯罪は罪にならないようです。
日中関係に配慮しますので。
沖縄にお出かけの皆さま
中国人観光客には極力近づかないように、
触らぬ神に祟り無しでございます。
「尖閣には石油がありこれを産出すれば消費税上げずに
子供手当も満額支給・年金も2倍」と宣伝すれば
愚民はすぐ乗ってくると思うのですが?
「そのために軍備を整え核開発」
ミンスに票いれる程度の知識しかもたない愚民であれば
利で釣るしかないと思うのですが?
それにしても野中五郎大佐の写真が凄いですね。
生き方が顔を作ると言われていますが、野中五郎大佐の顔は、静けさの中に、只ならぬ威厳と尋常ならざる熱意を秘めている迫力があります。
尊敬します。
【中国人船長釈放】民主有志の松原、金子各氏らが抗議声明 「法秩序を蹂躙。釈放の撤回を」
さきほどmy日本で情報を拾いました。
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-142.html
水間さんが活躍されているようです。
[昭和20年☆米軍資料と照合するもの]
●1月3〜13日の間、潜水艦ソードフィッシュ:機雷により喪失。慶良間列島近海。
●3月26日、駆逐艦ハリガン:機雷又は、甲標的丙型64號の魚雷により大破喪失。162名戦死。慶良間列島近海。
●3月27日、艦隊用掃海艇スカイラーク:機雷又は、第27魚雷艇隊の攻撃により沈没。残波岬北方。
●4月4日、LCI-42砲艇:第22震洋隊の体当たりにより沈没。中城湾。
●5月18日、駆逐艦ロングショー、油船[約200t]、曳船:沖根部隊の砲撃により大破処分。小禄西方沖2km。
☆これらの戦果は、大和や櫻花の特攻隊と比較して決して見劣りするものではなく、
むしろ敵の包囲下に連日の砲爆撃を受けながら、
よくぞこれだけの戦果を挙げたものだと感心するものです。
http://special.reuters.co.jp/contents/japanchina.html?rpc=122
「桜花」の模型や、神雷部隊のジオラマを拝見してきました。
淡々と戦場に赴いた皆さんを想う時、今を安穏と生きている自分が恥ずかしい気がします。
ちょっとの不満など口に出すまい、と思いました。
ご英霊に恥じない生き方をしたいと思いました。
尖閣諸島は歴史的にわが国固有の領土だ。
領海侵犯という主権侵害行為に対して、独立国家
としての対応を放棄した今回の決定を、我々は
断固糾弾する。
たちあがれ日本
代表 平沼赳夫
http://www.youtube.com/watch?v=lPzoEVvweR0
(動画)
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http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
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今拝見してみまして、涙を禁じえませんでした。
どんな思いで散ってゆかれたのでしょう。
その思いを無駄にしてはなりません。