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[6349] 懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)※一部15禁
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2010/09/20 20:27
 前書き。
 
 初めまして。もしくはお久しぶりでございます。SHELLFISHと申します。
 この冬、茅田砂胡先生の書かれた、『デルフィニア戦記』他、一連の作品にはまってしまい、しかし探してもあまり二次創作の数が多くないことに絶望し、このような作品を書くことに相成りました。
 細かい設定等に齟齬があるかと思いますし、無茶な設定だらけだとも思います。そこはそれ、アホな作者がアホな物語を書いているなぁ、と、生暖かい目で見守って頂ければありがたいかと。
 箸にも棒にもかからないような愚作ですが、もしよろしければ、感想、応援、叱咤激励、その他なんでもください。お待ちしております。
 ということで、長すぎる前書きはここまで。では、どうぞ。

 追記。
 感想から、最近の話の時系列が分かりにくいという意見を多数いただきました。
 よって、少し話の前後をいじりました。具体的には、二十九話と三十話を入れ換え、三十話以降の話を、ウォルがケリー達に話している、という体裁にした次第です。
 これで少しは読みやすくなったと思うのですが、如何でしょう。ご意見を頂けるとありがたいです。

 追記。
 他の投稿サイトさまに掲載させて頂いた作品を合わせて、自前のホームページにアップしております。もしよろしければお越しください。『魚貝類の部屋』でググっていただいても見つかります。

http://book.geocities.jp/shellfish20080814/

 追記。
 露骨な性描写はしていないつもりですが、それとにおわせる表現や簡潔に性行為を表す描写、そして残虐な表現が使われています。
 その点に注意して読んで頂ければ幸いです。
 




[6349] 伝説の終わり
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/07 02:54
 宮殿の奥まったところに、部屋があった。
 広々とした、豪奢な造りの、如何にも貴人がその住み家として選ぶような、そういう部屋であった。
 そこから、一晩中、笑い声が漏れていた。
 若い声ではない。年老い、移りゆく時の流れを、身体と心に刻んだ人達の、声だった。
 一人や二人ではない。たくさんだ。たくさんの年老いた人が、立っていたり、少し疲れた様子で腰掛けたりしながら、とても楽しそうに談笑している。みんな、良い身形をした者達ばかりであったから、相当に身分の高い人間の集まりなのであろうと思われた。
 男がいた。そのいずれもが、老人とは到底思えぬほどに鍛え込まれた体躯を誇る、堂々たる武人であった。腰に差した剣はよく手入れがされていて、今すぐにでも戦場の一番前の方で名乗りを上げて敵に切り込むことすら出来そうなくらいだった。
 女がいた。そのいずれもが、柔和な皺をその頬に刻んでいた。その一事だけで、どれほどに彼女達が愛され、そして愛した人生を送ってきたかを窺い知ることが出来る。どれも、とても幸せそうで、満ち足りた笑顔だった。

 たくさんの、幸せそうな人達。

 その中心に、一人の老人がいた。豪奢な部屋の造りに勝るとも劣らない程に立派な寝台で、身体を起こしている。

 満ち足りた、顔だった。
 かつては黒絹を梳かしたように精気に満ちあふれていた黒髪も、いつからか白いものが混じりはじめ、今ではタウに積もる新雪の如き白髪になってしまっている。青銅の騎士像よりも遙かに逞しかった筋肉も、歳と共に衰え、抜け落ちた歯と同じくらいにそげ落ちてしまった。
 浅く焼けた皮膚は、床に伏せるうちに青白さを通り越して土気色になり、排泄すら己の思うままにならない。
 それは、紛れもなく、死期を間近に迎えた、老人だった。
 それでも、その老人は、笑っていた。
 頼るべき友人と、頼るべき戦友と、頼るべきその妻達に囲まれ、昔話に花を咲かせ、時折は咳き込み、時折はその眉を顰め、時折は涙を薄く浮かべて、そして最後には笑っていた。普段から笑いの少ない生活を送っていたわけではないのに、その一昼夜で、彼は一年分の笑い声を出したと思った。
 だから、彼は少しだけ疲れてしまった。

「従兄上、お疲れですか」

 傍らに立った、彼の従弟が話しかける。老人はそれに笑顔で応じ、しかし首を横に振った。

「こんなに楽しい夜に、どうして疲れていられる。俺は、まだまだ卿らと話したいこと、話し足りないことが山ほどにあるのだ」
「なるほど、それは疲れている暇などありませんな。しかし、別に、我らが集うのは今日が終いというわけではなし。今日はもう休まれてはいかがですか?」
「しかし、現に俺はまだまだ疲れてはいない。ほら、このとおりだ」

 老人は腕をまくり、力こぶを作る動作をした。
 そこには、痩せ細って骨と皮だけになったような、二の腕があった。
 誰も、その表情に痛ましさの欠片も見せなかった。見せず、ただ笑っていた。

「おいおい、天下に名だたる名君が、身内を困らせるもんじゃあないぞ」
「人聞きが悪いな。俺がいつ、誰を困らせたというのだ?」
「お前の目の前で、心配そうにお前を見つめているお前の奥さんだよ」

 言われて、老人は、ベッドの脇の椅子に腰掛けた、己の妻を見た。
 彼女は、少し困ったような顔で、でも、笑っていた。
 少女のように、純粋な微笑みだ。その輝きは、老人と彼女が出会ってから、時の暴虐も含めたところで、何者も穢すことが出来なかった。
 老人は、そんな妻が大好きだった。

「なぁ、ポーラ。俺はお前を困らせたかな」

 少女のような老夫人は、はにかむように笑った。

「はい。陛下には、もう、いつもいつも心配ばかりさせられました」

 その言葉で、老人を囲んだみんなが、一斉に笑った。

「だ、そうだ。なぁウォリー。今日のところは負けておけよ」

 老人は、生真面目な顔で頷いた。内心では、果たして自分がそれほどに迷惑をかけたことがあったのだろうと自問していたのだが、口に出してはこう言ったのだ。

「そうか。それは申し訳ないことをした。しかし…俺はもう陛下ではないのだがな」
「はい、承知しております。でも、あなたは陛下です。いつまでたっても、私だけの陛下」

 老夫人が、そのしわくちゃの掌で、老人の痩せこけた頬を撫でた。老人は、くすぐったそうに笑った。
 それが合図になったように、部屋にいた人間は、次々と別れの挨拶をして、部屋を出て行った。まるで邪魔者は退散しますと言わんばかりの様子だった。
 彼らは、最後まで笑っていた。その瞳の端に光るものがあっても、とりあえず笑みだけは浮かべていた。それが、自分の義務だと思っていたのかもしれない。
 取り残されたのは、二人だけだった。

「帰ってしまったな」

 ぽつん、と呟いた。

「ええ。もう、これで二人きりです」

 最初、その部屋には、もっとたくさんの人間がいた。
 彼らの子ども達とその夫や妻、そしてその子供である孫達。中にはひ孫を設けた、少し気の早い孫もいた。二人は恋愛方面には奥手な夫婦だったから、果たしてその孫は誰に似たのかと思って頭を捻ったものだ。
 やがて、一人減り、二人減り、人影がまばらになっていった。そもそも、何故に今日、ここに集まったかも知れない人間ばかりである。別に、国家の一大事があったわけではなし、特別な慶弔があったわけでもなし。
 何故か、不思議なものに糸引かれるようにして、彼らは集まってきたのだ。そのいずれもが、生ける伝説と化したその老人にとって、大切な人達ばかりだった。
 そんな彼らが、立ち去って。

 そして、最後に残ったのが、老人と同じ歳の頃の人達ばかりだった。

 彼の従弟がいた。老いてなお堂々たる体格を誇る偉丈夫である。彼がもと率いていた騎士団の現団長でさえも、その剣技にはいまだ遠く及ばないと、もっぱらの噂である。そんな彼が、今は自身の孫達の稽古をつけるのが何よりの楽しみだと笑った。
 彼の友がいた。タウの寒風に晒され続けた皮膚はひび割れたような深い皺に覆われ、かつて浮き名を流した面影はどこにもなかったが、しかしその飄々とした有様と鋭い視線は失われることはない。もう陣頭で指揮を執ることも少なくなくなり、たくさんの孫達には優しいお爺ちゃんとして慕われている。
 彼の臣下がいた。遠い昔、王が囚われの身として処刑されかかっていたときに、己の身を引き替えに彼を助けようとした臣下だ。音に聞こえた白百合が如き美貌も、今はその名残を残す程度になっている。それでも、その暖かな雰囲気はそのままだ。
 彼らの妻も、いた。そのいずれもが、老人と、宝石のような想い出を共有する、得難い人達ばかりだった。

 彼らも、今はいない。

 だから、そこには二人だけが、いた。

「楽しかった」

 老人は、夢を見るように目を閉じて、そう呟いた。
 それを見た彼の妻は、くすくすと笑った。

「はい、とても楽しい夜でした」
「もう、一生分、笑った気がするよ」
「ほとんどが王妃様のことでしたね」

 老人は苦笑した。

「正直に言うとな、ポーラ。俺は今日、とても驚かされた」
「何にですか?」
「もう、40年だ。あいつが帰ってから、それだけの年月が経つ。そうすれば、もう誰もあいつのことを覚えていないのではないかと、そう思っていた」
「あの方のことは、忘れようとしたって忘れられませんわ」
「俺もそう思う。しかし、40年だ。それに比べて、あいつがこの世に留まっていてくれたのは6年だけ。ならば、40年間一度も顔を見せなかった人間のことなど、人は容易く忘れてしまうものだと思っていたよ。少なくとも、俺以外はな」

 夫人は、言葉を返さなかった。返さずに、ただ、微笑んだ。

「しかしどうだろう。あの頃のみんなが顔を揃えれば、口から出るのはあいつのことばかり、いや、あいつのことだけだ。するとな、不思議なことに、あいつが目の前にいるような気がするんだ。もう、どうやって思い出そうとしても思い出せなかった、あいつの瞳の緑が、目の前で笑っている気がする」

 この城の大広間には、老人の若かりし頃の肖像画と一緒に、彼のただ一人の妻の肖像が、並んで飾られている。
 美しい、そして雄々しく猛々しい、女武者の肖像である。決して、王妃には見えない。決して見えない。
 なのに、どこの国の王妃の肖像よりも、遙かに気品に満ちあふれ、何よりも美しいのだ。
 その瞳は、緑柱石を砕いた破片で描かれている。
 そのたった一枚以外、王妃の肖像画の瞼は常に閉じられている。他の、どのような肖像画を探しても、目を開けたものは存在しない。一説によると、それは画家の敗北宣言だという。王妃の瞳の美しさをどうやっても己の筆で表すことが出来なかった、それ故の閉じた瞼だというのだ。
 誰しもが、王妃の顔を思い浮かべたときに、最初に頭に描かれるのがその瞳の緑だ。
 どこまでも澄んだ、深い緑。人の記憶に止めることすら許されないような、そういう碧。それは、老人の生まれ故郷である、スーシャの木々の緑を凝縮したような、深い深い碧だった。人の手でそれが描けなかったとしても、それは決して恥ではない。

「私は、忘れませんわ」
「うん、忘れないで欲しい。出来れば、絶対に忘れないでくれ。そして、少しでも長生きをして欲しい。王妃が、ただの伝説などではなくて、間違いなくこの世界で、みんなと一緒に笑い、怒り、悩み、戦い、酒を飲み、そして他の誰よりも笑ったのだと。彼女はただの戦女神などではなく、俺達と同じ人間だったのだと。だからこそ、他の何者よりも神々しかったのだと。そう、孫達に伝えてやってくれ」

 それは、つまるところ老人の人生を後世に伝えるところと何ら変わるところが無い。
 何故なら、伝説の中の王と王妃は、最も研ぎ澄まされた時間を、互いの翼を供として駆け抜けたのだから。
 老人は、自分が英雄だと知っていた。
 しかし、自分の力だけで英雄となったのではないことを、誰よりも知っていた。
 後悔、しなかったとは言わない。あのとき、何故、彼女の手を取って、全てを捨てて、共に行かなかったのだろう、と。そう思って枕を噛んだ夜も、幾度となくあった。
 それでも、その結果としての生を、彼は一度足りとて恥じなかった。彼は、王妃が命がけで守ってくれた己の魂―――戦士としての魂に恥じない一生を送ったつもりだった。
 だから、彼は満足していたのだ。

「流石に、少し疲れたよ」
「はい、陛下」

 寝台に身体を横たえる。ふわりと、身体が沈み込む。まるで故郷の、草で出来た海に寝そべった、幼き日のように。
 鼻孔を、嗅ぎ慣れた風の香りが擽った。幻臭だと分かっていた。きっと、懐かしい誰かが、自分を呼んでいるのだろう。
 
「最後まで迷惑をかけるな、ポーラ。俺がいなくなって寂しくなると思うが、出来るだけ長生きをして欲しい」
「はい。はい…。は…い、へいか……。」

 夫人は、少女のように、ぼろぼろと泣いていた。
 まるで、彼と彼女が出会った頃のように。
 その時、片方は王で、片方はただの少女だったのだ。そんな彼女がここまでやってこれたのは、ただ、いつの日か再び王妃とまみえたときに胸を張って再会を祝いたいと、その一心だった。
 でも、今は。今だけは、思うさまに泣いても、きっとあの方は許して下さる。
 だから、彼女は泣いていた。
 それを見て、老人は、少し困ったように眉を寄せた。
 
「泣かないでくれ。俺は、一足先にあいつの所に挨拶に行くだけなのだ。そして叱り飛ばしてやる。40年、たったの一度も顔を見せないなど一体どういう了見だ、とな」

 今際の際の老人は、悪戯を成功させた少年のように小憎たらしい表情で、笑ってやった。
 それを見た夫人も、歯を食いしばり、嗚咽を堪えながら、笑った。今は笑わねばならないと知っていた。

「…そうですわね。いずれ、誰しもが、あの方の国に行くのです」
「そうだ。あれは、天の国の住人だった。…しかし、天の国は、みんながみんな、ああなのだろうか?」

 何気なく口を突いて出た疑問は、意外なほどに深刻なもののような気がした。これから自分は、王妃の群の中で過ごさなければいけないのだろうか。それは、とても楽しいことのような気がするし、しかしとてつもなく恐ろしいことのような気もするし…。
 老婦人も、同じことを考えたのだろう。一瞬、驚いたように目を丸くしたが、その後で、掌で口を覆い隠しながら、笑った。
 笑って、笑って、笑って。目の端に浮いた涙を、人差し指で拭った。
 
「もしそうだとして…それは、とても幸せなことですわ」
「ああ…そうだな…。なんて、贅沢なんだろう」

 老人と最も長い時間をともに過ごしたその女性は、彼の冷たい手を握った。
 かつては、彼女を片手で軽々と持ち上げたその手も、今は枯れ木のような頼りない手触りでしかない。だというのに、その乾いた感触が、これからの人生をたった一人で過ごさなければならない彼女にとって、どれほど愛おしく、そして頼もしく思えただろう。
 もう、老人は、その手に感じるはずの、妻の温もりを感じることさえ出来なくなっていた。しかし、人の温もりは人の肌で感じるものではない。それは、人の魂が感じるものだから、老人の手はとても温かくなった。
 少しずつ狭まる視界の中で、小さくなっていく妻に向けて、彼は最後の笑みを浮かべた。

「最後に、お願いがあるのだ」

 少女のような老婦人は、可愛らしく小首を傾げた。
 目は赤かった。でも、口元は微笑んでいた。まるで、眠りに落ちる幼子を見守るように。

「名前を、俺の名前を呼んで欲しい」

 やがて、老人の視界から光が消えた。
 それが、瞼によって遮られたせいなのか、もう光を光と感じることすら出来ないのか、それは彼自身にも分からない。
 ただ、最後に聞こえた。

 おやすみなさい、わたしのウォル、と。

 その声を供にして、彼は、どこか知らない、暖かいところに誘われていった。
 まだ春の香りも色濃い、初夏の夜のことだった。



 
 その夜、最も偉大な英雄と詠われた、一人の英雄が現世を去った。

 英雄の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。

 デルフィニアの太陽と呼ばれ、獅子王と呼ばれ、闘神の娘の夫と呼ばれた、不世出の英雄であった。



[6349] 第一話:発端
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:41
「どうしたのですか、リィ」

 気遣わしげな声で、美しい銀髪の少年は、傍らに立った金髪の少年に問いかけた。
 ぼう、と、ここではないどこかに意識を飛ばしていた様子のリィは、苦笑しながらそれに応じる。

「いや、別に何でもないんだ。何でもないんだが…」

 リィは、その美しい翠玉色の瞳を、窓の外にさ迷わせる。初夏のドレステッド・ホールの薔薇園は、正しく今が盛りのようで、色取り取りの薔薇がその美を競い合っている。
 真上からの陽光に照らされる、立派な薔薇園。華麗という文字を体現したような赤薔薇、清楚の中に堂々とした威厳を主張する白薔薇、可憐なピンク色の薔薇、他にも、紫色や青色、黒や黄色。その風景を写生するのであれば、既製の水彩絵の具のセットなどでは到底色彩が追いつかないに違いない。本来であれば開花時期もまちまちなはずのそれらの品種をこうも一斉に咲き誇らせることが出来るのは、偏にこの庭を管理しているマーガレットの腕前というところだろう。
 薔薇園の生け垣の端っこの方で、茶色い、子馬の尻尾のように柔らかそうな髪の毛が跳ね回っている。多分、いつも元気いっぱいなデイジー・ローズだろう。シェラが初めてこの屋敷に来たときのように、薔薇の花びらを拾って匂い袋を拵えているのだ。またチェイニーにいじめられたりしないかが少し心配だが、たっぷりと用意された宿題の世話にかかりっきりの彼に、そんな余裕があるとも思えない。リィは、蜜を含むように柔らかく微笑んで、椅子に座ったまま自分を見ているシェラの方に向き直った。
 シェラは、読書感想文の課題図書でもある分厚い装丁の本を閉じて、脇のサイドテーブルの上に置いた。

「何でもないのに、貴方がそんな顔をしているなんて、それこそ何かあったとしか思えませんよ」

 リィは、再び苦笑した。もっともだと思った。
 その時、開け放たれた窓から、初夏の爽やかな風が部屋に吹き込み、彼の黄金の髪を撫でていった。それだけのことなのに、天井の高いこの部屋の中に、金色の香気が満ちたように、シェラなどには思えたのだ。
 そんなシェラの内心など知らぬふうで、リィは、気のせいなどではなく金砂と見紛うような見事な金髪を一掻きして、溜息を吐き出した。そんな何気ない動作の一つ一つが見とれるように美しい。

「本当に、何があったわけじゃあないんだ。少なくとも、今のところは」
「今のところは、ですか」
「ああ。ということは、今日に何かあるはずなんだよ」

 奇妙な物言いである。この人の奇妙なことについては知り尽くしているといってもいいシェラも、流石に面食らったようである。目を丸くして、一体何がどういうことかと、無言で先を促した。

「今日で、連休も終わりだな」
「はい。今日の夜には連邦大学に帰らなくてはなりません」
「休みの内に、俺達は色々なところに行った」
「そうですね。ヴィクトリア湖に釣りに行き、サーキット場でカートに乗って、博物館でレポート課題の仕上げをしました」
「そうだ。全く、アーサーのお守りには心底苦労させられた」

 本当に疲れた様子のリィを見ながら、シェラは曖昧な笑みを浮かべた。
 シェラはこの世界に来てからまだまだ日が浅いが、しかし優れた理解力と記憶力を誇る彼であるから、この世界の常識というもののほとんどは身に付けてしまっているといっても過言ではない。
 その中に、家族サービスという言葉がある。普段は仕事にかまけて家族との時間を持てない父親が、たまの休日などには家族と一緒にレジャーに繰り出し、その時間を愛する家族のために捧げるという習慣だ。
 この数日、リィは珍しく、アーサーと共に休日を過ごした。無論親子水入らずなどではなくシェラも同行していたのだが、そんなことは気にもならないくらいにアーサーははしゃいでいた。もう、天にも昇らんばかりの有様であった。
 もしも、いかにも豪奢なこの家に住む家族の事情をよく知らない人間がみれば、州知事という要職を務める多忙な父親が、普段は一緒に遊んでやれない寂しがり屋の息子にかまってやるために、ほとんど無理矢理に捻りだした貴重な休日を費やしたと思うだろう。しかし、いかにも豪奢なこの家に住む家族の事情をよく知っている人間であるシェラなどからみれば、それが全くの逆の立場であったことは明らかである。
 それらの事情を弁えて、シェラは、愉快そうに笑いながら言った。

「リィ。家族サービス、お疲れ様でした」
「ふん、慣れないことをすると肩がこるって本当だな」

 片手で肩を揉みほぐしながら、リィは言った。結構、真剣な声色だった。

「あれ、お嫌だったのですか?」
「好きこのんでやっているように見えたのか、お前には」
「そう言われると返す言葉もありませんが…。そもそも、好きこのまないことをわざわざする人ではないでしょう?」
「まぁそうなんだがなぁ…」

 シェラは意外の念を覚えた。少なくとも彼の知るリィという少年は、自分が望まないこと、無駄な時間を費やすことに対して我慢の効く人間ではない。断じてない。例え一生を遊んで暮らせるような大金を目の前に積んだところで、この人の時間を一分足りとて買い取ることは不可能なのだ。
 そんな彼が、久しぶりの連休に実家に帰ると言い出し、その上、嫌っているわけではないが少々苦手としているアーサー(少なくとも遺伝上はリィの父親である)のお守りをしていたのだから、これは何か心変わりをしたのかと訝しんでいたシェラなのだ。

「ルーファに言われたんだ」
「ルウに?」
「ああ。普段お世話になってるんだから、たまには恩返しもしなくちゃいけないよって」
「恩返し、ですか。なるほど、あの人らしい言い方ですね」

 この場にはいない黒の天使が、にこやかに笑いながら金の天使を言いくるめている様を思い浮かべて、シェラは微笑んだ。万事につけて扱いづらい、まるで野生の獣を体現したようなリィであるが、自らが相棒と呼ぶ青年には妙に素直である。
 
「俺は別に恩を受けた覚えなんてないんだがなぁ」
「うーん、確かにリィは、今更学校に行かなくても一人で生きていけますからね。でも私は、この世界のことについてまだまだ学ばなければいけないことがたくさんありますから…。見ず知らずの私を学校に通わせて頂いているヴァレンタイン卿には感謝していますよ」
「そうだな。確かに、その点ではいくら感謝してもしたりないくらいだ」

 普段から好んで家に寄りつきもしない不良息子が、突然連れてきた見ず知らずの他人、それもロストプラネット出身(とアーサーには説明した)という曰く付きの他人の後見を、ほとんど二つ返事でアーサーは引き受けてくれた。
 普通は断る。それが普通の人間の反応だし、それを何人も非難し得ないだろう。それだけ、後見人というものの責任は重たい。例えば、万が一、未成年であるシェラが何らかの犯罪で他者に損害を与えた場合、その補償をするのは後見人であるアーサーの責任ということになってしまう。それが後見人というものだ。
 なのに、リィの遺伝上の父親はそれを引き受けた。ひょっとしたら、これで息子と仲直りが出来るかもというすけべ心があったのかも知れないが、しもしそのほとんどが息子への信頼からだったのは誰が見ても明らかである。
 もしもアーサーがシェラの後見人になることを断っていれば、彼がこの世界に馴染むには、更に膨大な労力と時間が必要だったはずだった。この世界で戸籍登録やら親権者やらがいないのは、それほどに致命的なことなのだ。シェラが、もといた世界で培った技術で身を立てるならばいざ知らず、リィと一緒に『目指せ一般人』の努力目標を達成するためには、州知事という肩書きを持つアーサーの存在が必要不可欠だったのは間違いない。
 そして、恩や義理は意外なほどに重んじるリィである。そんな彼が、言葉通りの気持をアーサーに抱いているとは、シェラは思っていなかった。
 
「だからその恩返しに、一緒に遊んであげているのかと思っていたのですが、違うのですか?」

 アーサーなどが聞けば大いに心外だと憤るような事実を、シェラは容易く口にした。
 
「いや、ほとんどはその通りなんだ。それに、あんまり長い間実家に帰らないと、教授連中も訝しむ。あまり変な注目は浴びたくないから、良い機会だったのも確かだ」
「でも、それだけではなかった、と」
「ああ。それだけの理由で、わざわざ里帰りなんかしないさ」

 ホームシック気味の同級生などは、小さな連休などでも、機会を見つけては実家に帰りたがるものだが、しかしリィはホームシックなどとは最も縁遠い存在である。彼は既に独り立ちして久しいのだし、そもそも彼の実家はこのように古めかしい造りの家などではない。無限に見渡すことの出来そうな草の海と、抜けるような青空の下にこそ、彼の本当の住処はあるのだ。
 そのことを知っているシェラは、どこか遠い目でリィを見つめた。少なくとも、彼の知るリィは、こんな機械だらけの街の中が似合う少年ではない。もっと広い、無限のような草原を、飛び抜けるように駆ける姿こそが最も美しいのだ。

「では、一体どんな理由があったのですか」
「シェラも知っているだろう。例の手札だよ」
「ルウの、手札、ですか」

 シェラの面持ちが、一際真剣みを帯びた。
 手札とは、カードを使った占いの一種である。無造作にきったカードの束から不作為にカードを抜き、その絵柄で未来の吉兆を知るのである。
 無論、ただの占いだ。この、科学万能という新たな信仰の生まれた世界において、それは年頃の少女の恋心を満足させたり、あるいは藁にも縋りたい心配性な人間にとっての藁になる以外、如何なる価値も持っていないものである。この時代だけではない。シェラのいた、まだ夜の闇の濃かった世界ですらそれを真剣に信じていた人間などほとんどいなかった。
 シェラも、そしてリィも別に運命論者というわけではないから、当然そんなものは信じない。
 それが、ルウのものでなければ、である。

「…ルウは、一体何と…?」

 意図せずに低くなった声色で、シェラは尋ねた。
 幾度となくルウの手札に助けられたことのある彼にとって、その占いの結果は確定した未来図にも等しい。
 それはリィにとっても同じことなのだが、しかしそのリィの表情が優れないということは、好ましからざる結果だったということか。
 シェラの緊張が、否応なしに膨らんでいった。
 そんな彼を見て、リィは微笑んだ。

「おいおい、そんな顔するなよ」
「しかし…」
「凶兆が出たんなら、すぐにシェラにも教えているさ。俺が今まで黙ってたのは、正直俺にも、どういうふうに理解したらいいかイマイチ分からなかったからなんだ」
「…どういうことでしょう」

 リィは腕を組み、何やら難しい顔で語り始めた。
 それは、先週末の、連休を控えた夜のことだった。


『こんどの連休、暇?』
『うん?…まぁ、課題を仕上げる以外には用事と呼べる用事は無かったはずだけど…』
『じゃ、家に帰って』

 突然の電話に、リィは面を喰らった。
 アインクライン校の学寮は、基本的に身内以外の人間からの電話を、直接生徒に通すことはない。安全上、あるいは非行防止等の観点から、いったん守衛室が電話を取り、電話の向こうにいる人間の身元をはっきりとさせた上で生徒に取り次ぐのが常となっている。兄弟校とはいえ他校の生徒であるルウにしてみれば、無用の時間を浪費する手段であるといわざるを得ない。
 だから、ルウがリィに対して連絡を取るときは、よっぽどの急ぎでない限り、パソコンのメールを使うのが常である。本当に急ぐときは直接やってくるから、電話で連絡をしてきたこと自体が珍しい。
 そして、突然の一言だ。流石のリィも面食らった。

『おい、ルーファ。いきなり電話してきてそれか。わけを話してくれ』
『うん。エディは、そうする必要があるからだよ』

 普通の人間の友人同士ならば、からかわれているとしか思わないだろう。
 しかし、この二人は普通の人間ではなかったし、友人と称して満足できるほどに薄まった間柄でもなかった。だから、この短い、会話とも呼べないような会話で、お互いの言いたいことは理愛していた。

『どんな結果が出た?』
『分からない。こんなの初めてだ。何が何だか分からない。吉兆なのか凶兆なのか、それすら分からないなんて』

 電話の向こうの相棒の声は、想像以上に狼狽していた。

『…ルーファが自分の手札の結果が分からないなんて、俺も初めて聞いたよ』
『結果が読めないわけじゃあないんだ。でも、それがどんな結果をもたらすのか、それがさっぱり』
『なのに、帰らなくちゃいけないのか?』
『うん』
『なんで?』

 もっともな質問である。
 それに対して、ルウの返答は簡潔を極めた。

『うーん、勘、かな?』
『勘か』
『うん。勘』
『わかった。じゃあ、さっそく荷物を纏めないと』
『ありがと』

 受話器の向こうから、当然のような声があった。自分の言うことを信じて貰えないかも知れないとか、そういう不安はもとから無かった、そういう声だ。

『ちなみに、ルーファ。家って、アーサーの家でいいのか?』
『うん。アーサーの家だよ。ちょうどいいじゃないか。この機会に、思う存分甘えたら?学校行かせて貰ってる恩もあるんだし、たまには恩返しもしなくちゃ』
『甘えさせてやるの間違いだろう?』
『違いないね』

 くすくすと、快い声が耳朶を擽る。リィは、知らずに笑みを作っていた。

『シェラも連れて行っていいのかな?』
『うーん、多分大丈夫だと思うけど、何で?』
『まかり間違ってアーサーと二人きりになるなんて、あまりぞっとしないからな』
『あはは、それは同感』

 もしもそうなれば、アーサーの『お父さんと呼べ』攻撃が始まるのは目に見えている。それ自体はリィにとってもいつものことだから問題無いのだが、しかしそれが加熱しすぎれば問題である。
 主に、アーサーの肉体的な健康にとって。
 ヴァレンタイン副知事・謎の襲撃事件を繰り返すのは、アーサーのことを結構気に入っているルウなどにとっても心安らぐことではない。そのための安全弁としてシェラがいてくれるのであれば、それに越したことはないのだ。
 加えて、アーサーはこの世界におけるシェラの後見人である。少し大袈裟な言い方をするならば、養い親と言っても過言ではない存在だ。今はもちろん、成人してからだって良好な関係を築いていかなければならない。ならば、機会を見つけて二人が顔を合わせる場所を作るのは必要なことだ。
 そんなことを、記録上の年齢がたったの13歳の少年が考えていると知れば、人は驚くか呆れるか、それとも不気味に思うだろうか。

『じゃあ、もしよかったらルーファも来いよ。デイジーもチェインも、きっとお前に会いたがってる』
『それは嬉しいな。…でも、残念ながらレポートの提出期限が迫ってて。今回は遠慮しないといけないみたい』
『そうか。全く、俺にだけ厄介事を押し付けて優雅にデスクワークとは、たいそうなご身分だよなぁ』

 くすくすと笑いながら、リィは言った。それに応えるルウの声は、ぷりぷりと怒った調子だった。

『あっ!エディ、非道い!エディも、このレポートの量を見てみればいいんだ!そうすれば、僕の苦労のほんの少しだって分かってくれるに違いないのに!』
『ごめんごめん。じゃあ、何かお土産持って帰るから、期待しててくれ』
『じゃあ、断然マーガレットの手作りのお菓子がいいな!こないだご馳走してもらったストロベリーパイ、凄く美味しかったんだ!』
『…もうそろそろ、莓の季節は終わりじゃないか?もしあったとしても、熟しすぎた莓だけだ思うけど…』

 菓子作りには、あまり甘すぎる果実は向かない。特に、ジャムや焼き菓子にするなら尚更である。糖度が凝縮されて、甘くなりすぎるのだ。

『だからこそだよ!今の時期の莓はすっごく甘くて、お菓子にするともっと甘くなって美味しいの!エディも食べたらいいのに!』
『…遠慮しとくよ』
『えーっ?勿体ないなぁ…。エディも、一口食べたらきっと気に入ると思うんだけどなぁ』

 リィは、げんなりとした表情を隠そうともしなかった。ただでさえ甘い莓が、煮詰められ、シロップやら蜂蜜やらでギトギトに甘くなるなど、最早悪夢としか思えないリィである。
 彼にとってのルウは、かけがえのないという安い言葉では到底表すことの出来ない、唯一無二の、比翼連理が如き相棒であったが、しかし甘いものが苦手な自分に、執拗に菓子を勧める癖だけは、正直何とかして欲しい気もした。
 
『ま、ルーファの分はちゃんと頼んどくよ。ちなみに、もし莓じゃなくて違うやつになっても、文句は聞かないぞ』
『もちろん!マーガレットのお菓子に、文句なんて言うはずがないじゃあないか!』

 先ほどの怒った調子はどこへやら、子猫のように機嫌のいいルウだった。

『じゃあ、レポートの邪魔しても悪いから、そろそろ切るよ』
『うん。突然、ごめんね』
『何を言ってる。こちらこそ、わざわざありがとう』
『そんな、他人行儀だよ』
『親しき仲にも、だろ』

 受話器のこちらと向こうで、同時に笑い声が響いた。

『ちなみに、一つだけ』
『なに?』
『どんなヴィジョンが出たんだ?意味が分かるものだけでも教えて欲しい』
『うーんと…』

 ごそごそと、何かをまさぐる音が聞こえた。

『メモの準備はいい?』
『そんなこと、わざわざメモしなくても忘れないよ』
『でも、凄く複雑なんだけどなぁ…。えぇっとね、まず、【遠い昔に別れた人】』
『うん』
『で、【最近別れた誰か】』
『は?遠い昔なんじゃあないのか?』
『だから言ったでしょ?僕も、なにがなんだか分からないって。それに、凄く複雑だとも言ったよ』

 確かに、とリィは頷いた。

『悪かった。続けてくれ』
『うん…。後はね、【薔薇の館】【小さな女の子】【森と湖】【博物館】【王冠】【黒い自動車と黒い服の男】…これくらいだね』
『【薔薇の館】は、ドレステッドホールのことだろうな。あとは…さっぱりだ。ルーファは?』
『お手上げ』

 やはり簡潔な返答だった。

『一番最後は…なんとなく想像が付く。多分、僕達が一番関わりたくない種類の人間のことじゃあないかな』
『ああ、同感。王冠も、ひょっとしたらその暗示かな?』
 
 黒塗りの自動車に乗った、黒いスーツを着た男達。
 かつて、何度となく二人の前に現れ、そしてその度に迷惑をかけていった人間が所属している組織と、おそらく似たり寄ったりの組織の人間だろう。そして、王に近しい身分の人間の使い。要するに、政府の息のかかった種類の人間ということだ。

『あいつらも懲りないなぁ』
『まぁ、まだ彼らと決まったわけじゃあないけど…。散々脅してあげたのに、まだ足りなかったのかなぁ…』

 げんなりとした二人の声である。
 しかし、確かにこれだけで、政府が二人に接触をしてくると読むことは出来ない。それに、もしもそれだけのことであれば、もっと正確で読み取りやすい結果が出ていてもおかしくないのだ。
 リィは、気を取り直したように言った。

『あとは?』
『【博物館】は、前にも出たことがある。文字通り博物館を指すこともあったし、とんでもなく古い何かを差して博物館の札が暗示として出ることもあるんだ。これだけじゃあ、なんとも…。他のも、右に同じくだね』
『ふぅん…。ま、とりあえず分かったよ。連中が俺達に用があるってことは、それだけで碌なことじゃあないのは間違いないんだ。要するに、用心しろ、と。そういうことだな』
『エディの場合はやり過ぎに用心した方がいいのかもしれないけどね』

 努めて明るい声を出しながら、ルウはそう締めくくった。

『じゃあ、何かあったらすぐ連絡する』
『ちゃんと指輪は付けておいてね』
『ああ。剣もちゃんと持ち歩くさ』
『アーサーにはばれないようにね…って、そんなこと言うまでもないか。じゃ、とりあえず今日はこれで。おやすみ、エディ』
『おやすみ、ルーファ』



 
 ※後書き
 多分、呼び方とかに間違いはないと思うのですが…。なにぶん、うっかりだらけの作者です。もし不自然なところに気づかれた方がおられましたら、ご一報いただけると喜びます。



[6349] 第二話:再会
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:42
「そんなことが…」
「黙っていたのは悪かった。いらぬ心配をかけたくなかったっていうのもあるし、正直に言うならば大したことじゃあないと思ってたから」

 リィは素直に己の非を認めて、ぺこりと頭を下げた。
 かつて、政府絡みの厄介事で、リィの身にどのような災難が降りかかったのかを知っているシェラは、その表情をずいぶん強張らせていた。彼が、その、銀色の月の如き美貌を曇らせるのは、いつだって自分以外の大切な人のためだ。
 しかし、口に出してはこう言った。

「そうですね。このように大切なことを隠しておかれたなんて、大変ショックです。穴埋めに、今度、とても美味しいと評判のケーキ屋さんに付き合ってもらいますから、覚悟しておいて下さい」
「げっ、本気か?ちぇっ、わかったよ…それにしてもシェラ、言うようになったなぁ」

 シェラにとってみればほんの軽い冗談のつもりかも知れないが、しかしリィの眉はかなりの急角度で顰められていた。
 それでも、それ以上の謝罪は不要であるという意志は汲み取ったのだろう。リィは気を取り直したように続ける。

「一応、みんなの安全も含めたところで気を配っていたんだ。でも、この三日間、政府の人間はおろか、不審者の一人だって彼らに接触することはなかった」
「しかし、ルウの手札は、貴方がこの家に滞在している間に何かが起きることを指し示している」
「そうだ。だから、何かが起こるとすれば今日しかない。なら、少しは気を揉まない方がおかしいってもんだろ?」

 今日、といってももう陽も高い。あと数時間もしないうちにこの星を発たないと、予定日に連邦大学に到着するのは難しくなってしまう。一日二日里帰りが長引いたくらいで、進級に響くようなことはない。少なくとも、普段の学業態度は、成績も含めたところでそれ程悪くはない二人である。しかし、ルウの占いにリィの帰省中に事件が起きると出た以上、それは今日中に起きるのは決まり切っているのだ。
 それでも―――それでももし、今日何も起きなかったら?
 リィにとって一番恐ろしいのは、自分の目と手の届かないところで、彼にとっての大切な人が傷つくことである。

「リィ。もしお許し頂けるならですが、私がしばらくここに残って、皆さんを護衛した方がいいのではないでしょうか」

 無論、今日中に何も起きなかった場合のことである。
 リィは、シェラの申し出に、首を横に振って応えた。

「馬鹿を言うな。お前にだって、お前の生活がある。確か、裁縫科の連中に頼まれてたパッチワークの期限、今週末なんだろう?」
「…そちらはなんとかします。今は、この家の方々の安全の方が重要でしょう」
「考えすぎだ、シェラ。ルーファが何かあると言ったら、必ず何かあるんだ。だから、気を張っていなければいけないのは、今日、俺達がこの家を離れるまで。もしそれまでに何にも起きなければ、それはルーファの占い自体が見当違いだったのか、それとも手札を読み違えたのか、どちらかだ。いずれにせよ、俺達がこの家に留まらなきゃいけない理由はない」
「リィ…」
「案外さ、何も起きないんじゃないのか?俺達は、世にも珍しい大事件の目撃者になれるかも知れないぞ」

 リィは、無理矢理に作った笑みを、シェラに向けた。
 確かに、あのルウが占いを外したとなれば、間違いなく一大事である。少なくとも、惑星ボンジュイに住む人外連中は、茫然自失に陥るか、頭っから信じないか、それともこの世の終わりを確信するか。いずれにせよ、からかいや慰めや苦笑いなどの至極当たり前の反応は誰一人からも返ってこないだろう。
 そして、リィはといえば、相棒の占いが外れるなんて少しも考えていない。
 だからこそ、狩りに備える狼のように、四肢から髪の毛の先に至るまでを緊張させて、想定外の事態にも出遅れないように気を張っているのだ。
 ごくり、と、シェラは唾を飲み込んだ。壁に掛けられた、時代遅れの古時計の短針を眺める。彼らがこの家を発つ時刻まで、あと三時間を切っていた。

「あと、三時間…」
 
 シェラは、思わず呟いた。
 リィは、窓ガラスに映る己の緑玉が如き瞳を、じっと見つめていた。



「じゃあな、エドワード。向こうでも身体に気をつけるんだぞ」
「俺が身体を壊したことなんてあるのか?あるんなら、俺が聞きたいくらいだ。それと、エドワードは止めろ、アーサー」
「確かに、風邪やら病気やらで身体を壊したことはなかったな。しかし、怪我でひやひやさせられたことは一度や二度じゃあないはずだが?それと、ぼくをアーサーと呼ばないでくれ。だって、ぼくはお前のお父さんなんだからな」

 もう、お決まりといっていいやり取りである。シェラも慣れたもので、険を含み始めたリィの横顔を見て見ぬ振りをしながら、マーガレットやデイジー・ローズにお別れの挨拶をしていたりする。

「どうもお邪魔しました、マーガレット」
「ううん、何が邪魔なものですか。とっても楽しかったわ」

 銀色の髪をした天使と、天使のような幼さを残した夫人が、大声で口論を続ける―――といっても大声を張り上げているのは片方だけなのだが―――遺伝的には粉う事なき親子の傍らで、にこやかに別れの挨拶を交わしていた。
 シェラの手には、華やかな刺繍の施されたクロスで包まれた小包が抱えられている。その、小包と呼ぶにはやや大きすぎる包みの中には、先ほどシェラとマーガレットが協力して焼き上げた色取り取りのパイやケーキが詰め込まれている。無論、連邦大学にて首を長くして金銀天使の帰りを待ち侘びている、黒の天使へのお土産だ。
 シェラはもともと、料理や菓子作りを好む少年だった。理屈ではなく、自分の手が何かを生み出すということが楽しいのだ。ただでさえそうなのだから、自信の作品を食べてくれるのがルウのように親しい人間であれば嫌が応にも力が入る。まして、マーガレットは彼にとっての菓子作りの師匠と言っても過言ではない存在だから、彼女の前でいいところを見せようと、いつもよりも多少作りすぎたとしてもそれは仕方のないことなのである。
 そんな理由がいくつか重なって、シェラが小脇に抱える包みは、ちょっとした旅行カバンの中には到底入りきらないような大きさになってしまっていた。
 そんなシェラを少し心配そうに見ながら、マーガレットは言った。

「ねぇ、シェラ。こんなに持って帰って、ちゃんと食べられる?きっと、リィはちっとも頼りにならないと思うんだけど」
「ええ。この点に関して言うならば、リィはちっとも頼りにならないでしょうね」
「じゃあ、貴方とルウだけで食べるの?」
「まさか。いくらルウでも、これは多すぎますよ。私もそれほど食べる方ではありませんし…。そうですね、余った分は…寮の友人にでも配るとします」

 『余った分は…』の後で真っ先に思い浮かんだのが、愛想の欠片も無い端正で無口で冷たい、同じ世界出身の誰かさんの顔だったことは努めて意識から追い出し、シェラは少しぎこちない笑みを浮かべた。そんなシェラの内心の葛藤には気づかぬふうで、マーガレットは手を合わせて微笑んだ。

「それは良い考えね。じゃあ、伝えておいてくれる?いつもリィが迷惑をかけてごめんなさい、これからも彼にとっていい友達でいて頂戴ね、って」
「マーガレット、リィは誰かに迷惑をかけるようなことはしませんよ」

 あくまで、その誰かがリィに『迷惑』をかけることさえなければ、の話だが。シェラは心の中で苦笑した。

「でも、その言葉は伝えておきます。きっと、みんな喜んでくれるでしょう」
「そうね。そうだと素晴らしいわ」

 マーガレットはほんの少しだけ背を曲げて、シェラの滑らかな額の上にキスを落とした。シェラも、マーガレットの頬に軽く唇を触れさせた。

「それじゃあね。また、いつでも帰ってきてね」
「はい。また近いうちにお邪魔させて頂きます」
「違うわシェラ。お邪魔するんじゃないの。帰ってくるのよ」

 シェラの喉で、言葉が詰まった。

「マーガレット…」
「ここはもちろんリィの家よ。でもねシェラ、ここはもう貴方の家でもあるの。自分の家に『お邪魔する』なんて、変な言葉遣いだと思わない?」
 
 シェラは、少しだけぎこちなく微笑んだ。こういう無償の優しさには、些か慣れていない彼だった。

「…ええ、そうですね。また、近いうちに帰ってきます」
「待ってるわ。また一緒に、お菓子を作りましょうね。ふふ、貴方と一緒に作るとお菓子の出来がいいのよ。やっぱり、腕の良い先生がいると違うわね」
「何を仰るんですが。私など、まだまだあなたの足下にも及びませんよ」
「そうね、見慣れない調味料の使い方なら私の方が上手だけど…。それも、一回使い方を教えたら、全部自分のものにしちゃうんだもの。神様って不公平よねぇ」

 マーガレットは、くすくすと微笑んだ。その薔薇色の頬が、沈みゆく斜陽に照らされて、さらに赤く色づいていた。
 シェラはそれを眩しいものを見るように眺め、それから軽く一礼した。

「おい、シェラ。そろそろ行こう」
「はい、リィ。それでは皆さん、お体に気をつけて」

 いまだ口論の興奮が冷めていないのか、少し鼻息の荒いアーサーと、小さな掌をひらひらとさせて二人を見送るマーガレットと、暮れなずむ太陽に染められた二人の髪の毛を宝石のように眺めるデイジー・ローズの三人が、一対の天使を見送った。ドミューシアとチェイニーは早くも背中を向けて、屋敷の方に向かっている。何か、見たいテレビの番組でもあるのかも知れなかったし、こういう別れの場面が、例え一時的なものにすぎないと分かっていても苦手なのかも知れなかった。
 そんな、どこにでもある、ありふれた別れの挨拶を済ませたリィとシェラは、屋敷の入り口に止められたリムジンの方に歩いていく。白く艶やかに塗装されたリムジンの傍らには、ヴァレンタイン家の執事であるメドウズが、しっかりと背筋を伸ばしながら立っていた。初老の老人であるが、しっかりと着こなされた衣服には一分の隙もなく、白髪の交じった髪の毛はきっちりと撫でつけられ、その身ごなしはどこからみても天性の執事としか言い様のないものであった。
 そんな彼に、リィは手をあげることで挨拶をした。如何にも気軽で、そしてリィらしい挨拶に、メドウズは几帳面なお辞儀をして返礼した。

「メドウズも、もう少し気さくに接してくれると有り難いんだけど…」
「あの方は、どこか懐かしいですね。実は、私もああいうふうに振る舞えた方が気楽でいいのですが…」

 どこまでも使用人気質の抜けないシェラである。
 そんなシェラの申し出に、リィは無慈悲な返答をした。

「駄目。お前が俺にそんな態度を取ったらどうなると思う?物凄く浮くぞ、俺達」
「それはそうですが…。二人きりの時くらいはいいのでは?」
「二人きりの時は、あの頃からリィって呼んでただろ。…ま、それは置いといて、だ」

 シェラは、隣を歩く少年の纏う空気が変質したのを、敏感に感じ取った。
 それは、劇的と言っていいほどだった。まるで突然何の前触れもなく、そこに途方もなく美しい野生の獣が現れたような、寒気と高揚感を綯い交ぜにしたような感覚である。

「…結局、何もありませんでしたね」
「気を抜くな。間違いなく、何かある。それも、俺達がこの屋敷の敷地から出るまでに、だ」
「何故分かるのですか?」
「項の辺りがちりちりする。なるほど、こんなの初めてだよ」

 ふと横を向いたシェラの目に、ぴりぴりと逆立ったリィの項の毛が見えた。
 シェラは、ごくりと唾を飲み込んだ。口中が、からからに乾いていた。

「リィ…」

 シェラ自身、その後に何と続けるつもりだったのか分からない。
 しかし何を言うつもりであったとしても、彼はその目的を達することは出来なかっただろう。何故なら、彼の視線の先に立つ黄金の戦士が、戦場に立つ戦士さながらに殺気だった様子で、ぴんと立てた人差し指を唇に当てたからである。
 それを見て、シェラははっとした。

「…聞こえるか、シェラ」
「…はい。車、ですね。それもかなり排気量の大きい…」
「近づいてくる。間違いない。こいつだ」

 その言葉が終わらないうちに、ドレステッド・ホールの広々とした門の前に一台のリムジンが止まった。それは、ヴァレンタイン家のリムジンとは好対照の、漆黒に塗装された豪奢な車体のリムジンであった。
 音もなく運転席のドアが開き、車体と同色のスーツを纏った大柄な男が姿を現した。
 大柄な、男だった。ほとんど真四角の厳めしい顔、刃物のように細く鋭い目つき、短く刈り込まれた蜂蜜色の髪。スーツの袖から覗く拳は岩のようにごつごつとしていて、肩幅は広く、視線の配り方や身の置き方には一分の隙もない。
 顔の造り自体は意外に若々しく、まだ青年と呼んでも差し支えないような歳の頃に見えたが、しかしどこからどう見てもデスクワークで身を立ててきた種類の人間には見えなかった。
 その男の鋭い視線が、リィの視線と交わった。
 リィは、ほんの少しの興味と、それ以上の敵意を綯い交ぜにした無遠慮な視線で男を射貫いたが、しかし男に怯えた様子は見当たらない。
 シェラは、内心で嘆息した。彼の知人を除いたところで、この世界にもこれほど剛胆な人間がいるのかと思った。

「失礼ですが、当家に何か御用でございましょうか」

 いつの間にか門のところまで駆け寄っていたメドウズが、執事の役割として、見知らぬ客の応対をする。如何にも堅気に見えないその男を前にしても、少しも怯えたところを感じさせないのは流石というべきであった。
 男は、門のすぐ外で立ち止まり、武骨に頭を下げ、そして言った。

「このような時間に、事前に連絡を入れることもなく伺った非礼をまずお詫びさせて頂きたい。その上で尋ねたいのだが、こちらがヴァレンタイン卿のご自宅で間違いなかっただろうか」

 男の声は、その外観に似合った、地の底から響くようなバスである。肝の細い人間であれば、その声を聞いただけで居竦んでしまうだろう。
 しかし、メドウズは臆した様子もなく応えた。

「然様でございます。失礼ですが…」
「申し訳ない。重ねて非礼をお詫びするが、私は身分も姓名も明かすことが出来ないのだ」

「ふーん、人の家を訪ねておいて名前も明かせないなんて、非礼で済ませられるものじゃあないと思うぞ」

 男は、初めてぎょっとした表情で、声のほうを向いた。
 そこは、彼のほとんど目の前だった。巨漢と称していいだろう彼の視界の下限に、金色の髪をした、天使のような少年が立っていたのだ。
 男は慌てたように数歩後ずさり、腕を上げて構えた。握り拳で頭部を挟み込む、近代格闘技においてはスタンダードと言っていいスタイルの構えである。それも、付け焼き刃などではなく、しっかりと板に付いた構えであった。
 その様子を見て、天使のような微笑みを浮かべた少年は、獣が唸るような声で、ぼそりと呟いた。

「やるのか?」
「…やらない。それは、今の俺の任務ではない」

 ゆっくりと構えを解いた男の低い声は、やや擦れていた。
 男の額に、大粒の汗が浮かんでいた。彼の長い軍属経験において、任務中にここまでの接近を許したのは初めてだった。
 目の前にいるのは、見た目通りの少年ではない。男は、その認識をあらたにした。

「…君が、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインか?」
「…やはり目的は俺か。全く、お前らは一体何度痛い目にあったら気が済むんだ?何度も何度もあいつを止める俺の身にもなってみろ。それと、その名前で俺を呼ぶな。俺は、自分の名を名乗ることも出来ない無礼な奴に、俺の名を呼ぶ権利を与えた覚えはない」
「なるほど、聞きしに勝るじゃじゃ馬らしい。そして何より質が悪いのは、その大言壮語に似合うだけの実力を兼ね備えていることだろうか」

 男は、軽く頷いた。もう、どこにも狼狽した様子は無かった。
 シェラが、緊張した面持ちでリィの横に立った。その手には、一族独自の獲物である、鉛玉と銀線が握られている。その後ろで、メドウズが色を失った顔で立ち尽くしていた。剛胆な彼であっても、全く予想だにしなかった事の成り行きについて行けていないようだ。
 男は、最早メドウズには一瞥もくれず、シェラの方を一瞬だけ眺めてから、今度はさっきよりもはっきりとした声でこう言った。

「何か勘違いをしているようだから断っておくが、私の目的は君ではない。私は、グリンディエタ・ラーデンという人物に会いに来た」
「何っ!?」

 予想外の言葉にリィは軽く眉を動かしただけだったが、シェラは大きな声で叫んでしまった。これで、しらを切り通すという選択肢は失われたといっていい。シェラは、己の失態に唇を噛んだ。

「やはり、知っているのか。君に聞くのが一番手っ取り早いという話は、間違いではなかったらしいな」
「…その名前をどこで聞いた」

 リィが低い声で尋ねる。
 男は、リィの殺気をかわすように、軽く肩を竦めた。

「―――おいおい、そんなに怒らないでくれ。君が曰く付きの人物であることは聞いている。無論、詳細は知らないがね。こんな、飛びきり美しい以外はどこからどう見ても普通の少年が、超一級の機密事項なんだぞ。お前、一体何をやらかしたんだ。きっととんでもないことをしでかしたんだろう?こう見えて、俺は臆病で有名なんだ。そんな顔で睨みつけられたら、寿命の十年位は簡単に縮まっちまうよ」
「…はぁ?」

 リィは、思わず素っ頓狂は声を上げた。それほどに、男の態度の豹変具合はすさまじいものがあった。
 先ほどまで険しかった顔つきが、急ににこやかに笑い崩れている。そうすると、もとの厳めしい表情とのギャップもあって、奇妙なほどに人懐っこい容貌になる。まるで、酒に酔っぱらった陽気な熊が、自由自在に人語を語り始めたような塩梅である。
 
「名前を教えられないのは、それも任務のうちだからだ。尊敬する父ちゃんと母ちゃんからもらった名前だからな、別にやましいところがあるわけでもなし、ちゃんと名乗りたいのは山々なんだよ。勘弁してくれないか?」
「分かった。人にはそれぞれ立場というものがある。一応の配慮はしよう」
「助かる」

 男は気安く頭を下げた。

「しかし、俺のことを名前で呼ぶことまで許可したつもりはないからな」
「ああ、わかってるさ。俺だって、任務が終わったらさっさと帰りたいんだ。家の冷蔵庫の中に、突いたら凍っちまうくらいに冷えたビールが入ってる。手早く終わらせて、それを煽って、そしてベッドに直行するんだ。それが、俺の人生の喜びだ。それに比べて、全く、お前の目の前に立っていると、猛獣の檻の中に突っ込まれた時のことを思い出していけねえ」

 急に、伝法な口調になった男が、鼻の頭を掻きながら笑った。

「じゃあ、さっさと任務を終わらせて帰るといい」
「ああ、そうさせてもらいたいね。だからさ、グリンディエタ・ラーデンってえ奴に会わせてもらえると嬉しいんだがね」
「だから、俺の名前を呼ぶことは許可していないと、そう言ったはずだが?」

 男は、その小さな目を丸くした。
 シェラは、相変わらず警戒は緩めないままで、目の前の男に少しだけ同情した。

「…お前さん、確かエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインってえ名前じゃあなかったのかい?…いけねえ、またやっちまった。悪いなぁ、俺、頭が悪いんだよ」
「謝罪を受け入れよう。そして、あんたの疑問に答えると、俺はエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインであり、そしてグリンディエタ・ラーデンでもある。両方、正式な俺の名前だ」
「はぁ…。そりゃあまた…」

 男は、無遠慮な視線で、リィの爪先から頭の天辺までをじろりと眺めた。
 今更ながらに、男の身長は、おそらくキングの長身よりもなお頭一つほどに高い。おそらく、リィが今まで直接出会った人間の中で、一番大きいのではないだろうか。
 そんな男を、見上げるようにして、リィは言った。

「あんた、でっかいな。…何喰ったら、そんなに大きくなれるんだ?」
「さぁ?目の前にあるものは、あるだけ喰ってきた。甘いも酸いも、辛いも苦いもだ。おかげで、少々腐った食い物くらいじゃあ腹を下さない。全く、便利な身体だよ」
「それじゃあ、俺はあんたほどは大きくなれない」
「ほう。腐ったものは駄目かね?」
「いや、それくらいは問題無い。でも、甘いものだけは駄目なんだ」

 男は、まじまじとリィの顔を見つめた。

「ふーん、お前さん、女の子みたいに可愛らしい顔してるのになあ。どっちかっていうと魂の方が本物か」
「あんた、魂が見えるのか?」
「いや、これは語弊があった。魂なんて見えないが、しかし向かい合えば、雰囲気っつうか気合の色っつうか…。お前さんのは、獰猛な狼だな」
「それも俺の資料に載ってたのか?」
「いや、俺はそこまでしっかりと資料を読み込む方じゃあないからなぁ」

 男は、顎の辺りをぽりぽりと掻いていた。
 シェラは、ほとんど唖然としながら、その魁偉な容貌の男を、見上げていた。リィの、輝かしい美貌からも、そして猛々しい獣性からも目を背けず、しかししっかりと相対することの出来るこの男は一体何者かと、心底警戒した。
 間違いない。この男が、ルウの占いに出た『おかしなこと』なのだ。

「で、お前さん―――いや、こんな呼び方で済まないんだが…」
「なら、俺のことはリィと呼んでいい」
「あー…そりゃあ嬉しいんだがねぇ。やっぱり、こっちの名前を教えないでお前さんの名前だけ呼ぶのは失礼な気がするからさ、遠慮しとくよ」
「そうか。なら、あんたのいう任務ってやつを、さっさと終わらせたらどうだ?」
「そうだな。そうすりゃあお前さんも俺も、晴れて自由の身になれるってもんだな」

 男は苦笑して、そして言った。

「お前さんに会わせたい人間がいるんだよ」
「俺に会わせたい?」
「正確に言やあ、お前さんに会いたいって言ってる人間だな」

 リィは小首を傾げた。
 自分が目立たない人間ではないと言うつもりはないが、しかしここまで大仰な真似をされてまで誰かに面会を求められる覚えもない。
 
「不味いか?」
「うーん、実際に会ってみないとなんとも…。当然、そいつの名前も言っちゃあ駄目なんだろ、あんた」
「いや、別に問題はないが、当人に止められてる。絶対に、自分の名前をあんたに伝えないでくれって」
「はぁっ?」

 自分の名前を伝えないでくれ。それはつまり、自分の名前を伝えれば、何らかの不利益があるからに違いないだろう。例えば、その名前を聞いただけでリィが飛んで逃げだすとか、そういうことだ。それが事実かどうかは別にして、当人はそう思っているのだろう。
 リィ自身、人から恨みを買わずに生きてきたなどと、聖人君子のようなことを到底口に出すことは出来ない人生を送っている。侮辱や攻撃には、相応以上の報復は欠かさなかったからだ。そして、この世には因果応報という言葉の意味を弁えない輩が数多くいることだって弁えている。
 今までの会話を黙って聞いていたシェラは、こっそりとリィに耳打ちをした。

「…リィ。正直に申し上げて、きな臭い気がします。ここらで引き上げて、ヴァレンタイン卿に後の処理を任せた方がいいのでは?」

 いわゆる普通の異常者やら犯罪者やらを相手にするには、年長のアーサーと警察機構に任せた方が話は丸く収まる。彼らの対応が薬物療法による長期治療なら、リィやシェラのそれはメスや鉗子を用いた外科的療法による短期治療だ。非常事態には効果的だし、その効果は劇的だが、しかしその分反動がすさまじい。間違いなく、何らかの隠蔽工作が必要になるのである。
 リィは、そんなシェラの助言に、小さく頭を振った。

「確かにお前の言うとおりなんだろうけど、ここまで来ると俺にも興味が湧いた。そもそも、ルーファだって、占いの結果が凶兆だとは言わなかったんだ。あいつが読めない未来なんて、そうそう拝めるものじゃあない。ここはいっちょ、腹を据えて拝んでみようじゃないか」
「リィ…。わかりました、最後までご一緒させて頂きます」

 溜息混じりにシェラは言った。もう、こうなるとてこでも意見を曲げないのがリィという人間である。それは、彼が王妃という要職に就いていたときからの付き合いのシェラにはわかりきっていることだった。
 もしもの時はせめて自分がこの人の盾になるという気で、シェラはリィの傍らに控えた。

「じゃあ、とりあえずそいつに会ってみるよ。連れてきてくれ」

 男は、安心したように息を吐き出した。

「助かる。会わないって言われたらどうしようかと思ってたんだ」
「連れてきてるのか?」
「ああ、後部座席に乗ってる。呼んでいいか?」
「いいって言ってるだろ」

 少し不機嫌なリィの声に、男は苦笑で応えてから、門の脇に停めたリムジンの方まで歩いて行った。そして、後部座席のドアを開けて中を覗き込み、そして言った。

「おう、会ってくれるってよ」
「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 それは、少女の声だった。
 当然、リィの知らない声だった。
 
「シェラ。今の声、聞き覚えはあるか?」
「いえ、全く」

 しかし、どこにも敵意の籠もっていない声である。それどころか、おそらくは初対面の相手と顔を合わせる前だというのに、どこにも緊張した様子がない。
 伸びやかな、いっそ暢気といってもいい声だった。伸びやかな声で、ヴォルフと呼んだ大男と会話を続けている。

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」
「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」
「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 男は、その巨体を後部座席から引き抜き、そして忠実な執事のようにドアの横に控えた。
 開け放たれた、後部座席のドア。
 そこから、一人の少女が姿を現した。
 白い花柄のワンピースを身に纏った、小柄な少女であった。

「―――っ!!!」

 シェラは、隣で立つリィの雰囲気が、再び変わったことに気がついた。
 思わず、彼の顔を覗き込む。
 
「リィ…?」

 そこには、まるで零れださんばかりに大きく見開かれたエメラルド色の瞳と、唖然と半開きになった唇があった。惚けたような表情であったが、この人に限ってはそれすらが美しい。
 しかし、彼が、予想を遙かに超えた驚愕に打ちのめされているのは、端から見ても明らかだった。少なくともシェラは、これほどに驚いているリィを見たことがない。
 
「リィ、どうしたんですか!?」
「…おい、うそ、だろ…?」
「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 シェラは、相変わらず驚愕の表情を浮かべたまま硬直してるリィの肩に手を乗せた。
 リィは、震えていた。まるで瘧を煩ったように、ガタガタと、細かく。
 シェラは狼狽えた。何か、尋常ではない事態が起きつつあるのは明白だった。
 リィは、あの少女を見た瞬間に、我を失ってしまった。ならば、その少女にこそ原因があるはずである。シェラは、あらためて、リムジンから降り立った少女を睨みつけた。
 
 やはり、知らない顔である。穴が空くほどに見つめても、記憶の琴線に触れることはない。

 上背は、それほどではない。歳の頃は自分達と同じくらいに見えるから、同年代の少女達の中では標準か、やや低いくらいだろう。
 黒い艶やかな髪の毛が、卵形の形のよい顔を飾り付け、そのまま流れ落ちるように腰の辺りまで伸びている。肌は白く、その髪の毛と、そして髪の毛と同色の瞳の色を引き立たせる。淡い桃色に染まった唇は、威厳すら感じさせるような微笑みによって飾られている。

 美貌の、少女だ。

 流石のシェラも、一瞬言葉を失った。それほどに、少女は美しかった。
 しかし、それはただの美しさではないように、シェラなどには思えた。
 美しい。それは間違いない。だが、ただ美しいというだけならば、華やかに自らの身体を飾り立てた少女がいくらでも街中を闊歩しているが、しかしそういう上辺だけの美しさではなく、もっと深いところから立ち昇る、色濃い美がある。
 それは何なのだろう。
 それを考えて、シェラには思い当たるところがあった。

 リィだ。

 リィの持つ、猛々しいまでの美しさ。野生の動物。それも肉食獣のみが持つ、完成された機能美にも似た美しさ。それは、大輪の華の煌びやかさの中に、濡れたように輝く白刃を隠し持っているからこその美しさである。
 それを、この少女からも感じる。しかしそれは、リィと比べても遙かに直接的な、戦う者、戦場に生き場を求める者、戦士としての美である。
 そう思ってから、はたと気づいた。

 ―――この少女を、どこかで見たことがある―――

 一体、どこで。
 腕利きの行者であったシェラが、一度見た人の顔を忘れるということはあり得ない。故に、シェラと少女は間違いなく初対面に違いないのだ。
 しかし、シェラの五感は、その少女のことを知っていると、決してこれが初めてではないと告げている。
 シェラは、ほとんど恐怖にも近いような感情を込めて、少女の瞳を凝視した。
 その、髪の毛と同じ、漆黒。夜空の上に墨を流したような、黒真珠が如き黒。それは、確かにどこかで―――。

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィーどのの魔法かな?」
「なっ!?」

 黒髪の少女は、如何にも気安くそう言った。
 シェラの、少し纏まりかけた思考が、何百光年も向こうの銀河系の彼方にまで飛んで行ってしまった。
 無理もない。こちらはあの少女の名前も知らないのに、あっちは自分の名前を知っている。そして、ルウの名前まで。
 これは、一体―――!?

「リ、リィ…」

 シェラは、茫然自失の態で、縋るように傍らの少年の方を振り返った。
 そこには、先ほどよりは幾分か自分を取り戻した、しかしまだまだ青ざめた顔の、黄金の狼が、いた。

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 物々しい声である。
 それに、黒髪の少女は、肩を竦めながら応えた。
 
「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 40年?
 いや、それよりも、夫?
 この人、リィの夫を名乗ることが許された人間など、この世にはいないはずだ。

 いや、待て。

 いる。

 確かに、この人の夫を名乗ることの出来る人物が、たった一人だけ。
 
 それは、確かにこの世の人ではない。

 この世の人ではないが、しかし―――!

「答えろ!返答次第によっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」
「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」

 黒髪の少女は、その瞳に薄い涙を浮かべながら、しかし本当に嬉しそうに微笑んだ。
 シェラは、今度こそ自分の意識が遠くなるのを感じた。
 彼が最後に見た黒い瞳は、確かに、デルフィニア国王ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの、夜空の如き漆黒の瞳であったのだ。



[6349] 第三話:追憶
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/07 02:59
 男は、なんだか暖かいところを漂っていた。 
 温い、湯と水のちょうど中間温度の液体に浸かっている感覚だが、しかし少しも息苦しいところがない。時折吹いてくる優しい風が、少しばかり火照った身体をちょうどよく冷やしてくれて、心地良いことこの上ないくらいだ。
 ふわりふわりと、足下が覚束ない感覚がなぜだか楽しい。男はうっとりとした微笑みを口元に浮かべていた。雪のように真っ白だった髪がいつの間にか黒々としていることにすら気がつかない様子だ。
 光が、瞼を通って男の瞳に感じられた。優しい、橙色の光だ。冬の朝、分厚いカーテンを突き抜けて部屋の中を淡く照らすような、儚くて優しい光。もういつから感じているのか分からなかったが、しかしいつまでもその光に包まれていたいと思う。
 瞼の奥に、甘い痺れがある。覚醒と睡眠の間を行ったり来たりする、あの甘い感覚。もう五分、あと五分と言って妻を困らせた、宴会の翌日の目覚めのような…。
 時折、全身を穏和な鎖に繋がれているような気がした。一度冷たい鉄の鎖に繋がれたことがあったが、この鎖は、ある意味においてはそれよりもたちが悪い。何せ、反抗しようとする気力が涌かない、いや、むしろ積極的に繋がれていたいとすら思えてしまう。この生温くて良い匂いのする空間に比べて、目を開けた後に待っている世界の、なんと猛々しくなんと恐ろしいこと。
 ここには、何も無い。冷たいもの、痛いもの、歯痒いもの。人の心を突き刺して止まない、尖ったものが何一つ無いのだ。
 男は、幸せだった。もう、何一つ思い出せなくなるほどに幸せだった。少しずつ自分の身体が光に溶けていくのを知っていながら、しかしそれ以上に幸せだった。もしこのまま全てが溶け去って、この世界の一部として永遠に彷徨うことが出来るならば、それは何よりも幸福なことなのではないかと思った。
 男の部分は、もうほとんど残っていなかった。足は溶け、手は消え去り、胴体も半ばまで失われている。普通ならば苦悶でのたうち回らねばならないような惨状の身体で、しかし精悍で彫りの深い顔には平温と安堵の表情しか刻まれていない。母の胸に抱かれた、幼児のような表情で、ただ眠りについている。
 それでも、男は考えていた。
 
 ―――何か。何か、忘れていないか。

 男は、瞼の裏にだけ存在する指を、指折り数えて考えた。遠くに聞こえる潮騒のように穏やかな音が思考を痺れさせていくが、千々に散らばりそうになる思考を必死に寄せ集め、指折り数えた。

 ―――まず、俺は何がしたかったのか。

 ―――昔、昔、ずっと昔だ。もう、五十年近くも前のこと。俺は、何がしたかったのか。

 ―――何かがしたかった。

 ―――血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めた。

 ―――何だった。

 ―――何が、欲しかった。
 
『おれの父も、血のつながらない育ての親だった』

 ―――そうか。お前の父上も、そうだったのか。

 ―――そして、お前もそうだったのか。

 ―――お前も、血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めたのだな。

『他の誰も言わないならおれが言ってやる。黙って殺されたりするな。倒すべき敵を見定めて、一人も逃すな』

 ―――そうだ。そうだな。それが、お前だ。

 ―――その猛々しさが、恐ろしさが。

 ―――冷たさが、痛さが、歯痒さが。

 ―――その鋭さが、お前だ。


 ―――そして、為した。お前と同じように。それだけだ。


 ―――なら、もういいのではないだろうか。

 ―――するべきことは、全て為したのだろう?

『誰がお前を鎖に繋いだ!!』

 ―――ありがとう。

 ―――心の底からそう思った。

 ―――お前は、他の誰よりも、俺のために怒ってくれたんだ。それが何よりも嬉しかった。

『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』

 ―――そんなことを言われて喜ぶ人間なんか、地の果てまで探してみろ。

 ―――見つかるものか。

 ―――俺くらいのものだ。

 ―――俺はな、確かに嬉しかったのだ。

 ―――誰も寄せ付けないお前の誇り高さが。そのお前が、俺のすぐ隣で眠ってくれたことが。

 ―――誰が言えるか、そんな恥ずかしいこと。

『化け物と呼んでもいいぞ』

 ―――血に染まった口元。

 ―――崩れ落ちそうになる膝を叱咤しながら、それでも立ち続けた。

 ―――だって、王妃の前で怯えて後退る王なんて、格好悪いもの。

 ―――全部、お前が悪いのだ。全く、どうしてそのような王女を王妃にしようと思ったものか。

『やあ』

 ―――昇る朝日を背負った少年。

 ―――全てがお前なのに、何一つお前じゃあない。

 ―――でも、それはやっぱりお前だった。この世の全てが変わっても、お前だけは変わらない。そんなこと、誰が知らなくても俺だけは知っている。

『ありとあらゆる神々の祝福が、この偉大なる王の上にあるように』

 ―――最後まで非道い奴だ。

 ―――俺は、お前がいなくても王でなくてはいけない。王妃は王がいなければならないが、王妃がいなくても王は王でなければいけない。


 なんたる不公平!


 ―――それでも、うん。

 ―――そうだな。

 ―――だからこそ、お前は帰ったんだな。

 ―――任せろ。この世界は、俺達に任せろ。

 ―――安心して、帰るがいいさ。

『助太刀するぜ』

 ―――何を?

 ―――お前のような小僧に、一体何が出来る?

 ―――逃げろ。逃げないと、お前まで一緒に…。

 ―――一緒に…。

 ―――一緒に…?

 ―――一緒に、なんだろう。

『ぜひともお前に王冠をかぶせてみたくなった』

 ―――お前は。

 ―――俺と一緒にいてくれると言う、お前は。

 ―――何一つ与えることが出来ない俺に、何もかもを与えてくれる、お前は。

 ―――お前の、名前は。

『リィ。友達はみんなそう呼ぶんだよ』


 ―――リィ。


『お前がお前である限り、戦士の魂を忘れないでいる限り、お前が国王だ』


 ――リィ。


『そういう意味なら、お前がおれのバルドウだな』


 ―リィ。


『おれは、おれのバルドウを勝たせるまでは、後に引く気はない』
 
 そうだ。

『決まってる。お前がおれのバルドウだからだ』

 リィ。

 お前だ。
 リィ。お前じゃないか。

『この剣と戦士としての魂に賭けて』

 そうだ。
 
 俺は。

 俺は、俺の剣と、俺の戦士としての魂に賭けて。

 お前と、もう一度。

 もう一度。

 

 ごぼり、と、何も無い空間に泡が立った。
 首だけになった精悍な顔が、ゆっくりと瞼を開いた。
 そこには、夜空のように漆黒の、猛々しい戦士の瞳があった。

「あーあ残念、目覚めちゃったのね」

 首だけになった男の前に、幼い少女が浮かんでいた。橙色の優しい光を背景に、何も無い空間をぷかぷかと漂っている。
 男にとって、見たこともない少女だった。白い髪、色素の薄い肌、ごく薄い茶色の瞳。
 儚い、という言葉では表せないほどに色の淡い、少女だった。病弱な印象を通り越して、幽玄ですらある。
 そこにいるのに、そこにいないような。
 一目で、現世の人間ではないと、そう確信した。
 
「…君は?」
「私は、そうね、化け物かしら」
「そうか、化け物か」

 男は平然と頷いた。

「驚かないの?それとも、嘘だと思った?」
「いや、君が嘘を吐いているとは思わんし、それなりに驚いてもいる」
「そうは見えないわ」
「免疫があるからな。しかし、その化け物である君が、一体こんなところで何をしている?」
「私?私はね、あなたを食べようとしていたのよ」

 少女は、くすくすと笑いながら言った。
 男は、真剣な声で尋ねた。如何にも不思議そうに。

「どうして人などを食べようとする?」
「どうしてって?」
「人などうまいものではない。俺の妻が言っていた」
 
 少女は目を丸くした。丸くして、それからお腹を抱えて笑い始めた。

「ええ、ええ、その通り!人なんて美味しいものじゃあないわ!」
「では、何故君は人を喰うのだ?」
「人を食べるんじゃないの。私はあなたを食べるのよ。だってあなた、とっても美味しそうなんだもの」

 今度は男が笑った。

「君は、妻と同じことを言うのだな」
「同じこと?」
「妻もな、俺の血を舐めてうまいと言った。人などまずくて喰えたものじゃあないと言いながら、俺の血はうまいと言ってくれた」
「…そんな人を奥様にしていたの?」
「自慢の妻だ」
「…ひょっとして、さっき言ってた免疫って…」
「まったく、あいつと一緒にいて驚かされなかったことなど一度足りとて無い」

 男は大真面目に頷いた。
 少女は、男の瞳をまじまじと見つめて、それから盛大に溜息を吐き出した。

「…あなた、よくこんな状況で惚気ていられるわね」
「こんな状況?」
「もう、あなたは首以外の全てを私に食べられちゃってるの。もう少しで、頭も丸ごと頂いちゃうわ。なのに、怖くないの?」
「それは困る」

 正しく手も足も出ない様子の男は、まじめくさった口調で言った。

「俺は、死ぬわけにはいかん」
「おかしな人。あなたはもう死んでいるのよ」
「それでもだ。俺は、あいつともう一度会うまでは、どうしても死ぬわけにはいかんのだ」
「あいつ?」
「俺の妻だ」
「何で会いたいの?」
「夫が妻に会いに行くのに、理由などいるものか」

 男の言葉に、少女は大きく頷いた。
 全く、男の言葉は正しい。

「やっぱりあなた、いい男だわ」
「ありがとう」
「でも、それだけに手放すわけにはいかないわね」

 少女の声に、何か怖いものが混じった。
 男の存在しない背筋を、ぞくりと冷たいものが走り抜けた。

「ふふっ、ホントは優しく蕩かしてあげようと思ってたんだけど、あなたみたいに綺麗な人なら悲鳴だって美味しそう。もう、飛びきり残酷に噛み砕いてあげようかしら」

 少女は、頬を引き攣らせるように嗤った。
 めしめしと、少女の内側から低く鈍い音が響くのを、男の聴覚が捕らえた。
 男の目の前で、少女の顔が変形していった。
 鼻が前に突き出て、口が耳元まで大きく裂け、その端から剣山のように細かく生え揃った牙が覗いた。牙の先には粘ついた唾液が絡みつき、肉の腐ったような吐息が擦れて奇妙に高い音が鳴る。
 明らかに、人の笑みではなかった。
 猛獣のような、笑みだった。
 それを見て、男は大きく溜息を吐き出した。

「困った」
「…何が?」
「いや、これはいよいよ手詰まりらしい」
「当たり前よ。だって、あなたはもう、手も足も付いていないのだから」
「そんなことは関係ない」

 男は、そう言った。
 きっぱりとした口調だった。

「手が無かろうが足が無かろうが、関係ない。この俺には、まだ口がある。牙がある。ならば戦える」
「私に勝つつもり?」
「俺はバルドウだ。化け物だろうが悪魔だろうが、誰にだって負けるものか」

 はったりにもならないはったりを、男は口にした。
 女は、剥き出しにした牙をそのままに、きょとんと目を剥いた。

「…バルドウって何?」
「…君のような化け物が、バルドウを知らんのか?」
「とんと聞いたことないわ」
「おかしいな。有名な神の名前なのだが」
「ふーん。私って結構神話とかには強いつもりなんだけどなぁ。そういう家の生まれだったし」
「なら、なおのことおかしい。バルドウは、こんなに小さな男の子だって知っているほどに有名な神様だぞ」

 男は、自分の腰の辺りに手をやろうとして、その両方がすでに無いことに気がついた。
 なんともばつの悪い顔になった。 しかし、どこかでなぞったことがあるような、そんな会話であるように男などは思った。

「…まぁ、いいわ。なら、そのバルドウ様が何故困っているの?」
「いや、もしこのまま君と戦うとする。当然、俺は勝つだろう」
「…ええ、そうね。なんだかそうなるような気がしてきたわ」
「そうすると、君を倒した俺は、いよいよ自分が今どこにいるのかがわからなくなる。俺は妻に会いたいのだがな」

 ふーむ、と男は唸った。
 うーん、と少女も唸った。

「それは困るわね」
「ああ、とても困っているのだ」
「なら、助けてあげようか?」

 少女は、恐ろしげな顔をそのままに、言った。

「いいのか?」
「気紛れよ。いやなら止めとくけど」
「いや、助かる。大いに助かる」

 手があれば、少女の手を握らんばかりの有様である。
 苦笑した少女は、いつの間にか元の少女だった。白い、抜けるように色の薄い顔が、にこやかに笑っている。

「私の体、貸してあげる」
「体?」
「そう。そうすれば、首だけになったあなただって、奥さんを捜しに行けるでしょう?」
「それはそうかもしれんが…君はどうなる?」
「私はもう、疲れちゃったから。こんな中途半端なところに留まって、あなたみたいに美味しそうな魂をしゃぶったりしているの」

 それは、悪戯好きな少女の顔だった。
 
「では、用が済めば必ず返す」
「じゃあ言い直すわ。私の体をあげる。もともと、使い物にならないおんぼろだもの。文句を言われたって受け付けたくないくらいのね。それより、あなたって男の子でしょう?女の子の体でいいの?」
「そんな些末事、どうでもいい」

 普通の男ならば頭を抱えて悩むような大決断を、男はさらりと切り流した。

「些末事って…そんなの、あなたの奥さんがあなただって気づいてくれないかもよ?」
「それはない。それだけは絶対にない。あいつならば、俺がどのような存在になったとしても一目で気がつくだろう」
「なんで?なんでそう言い切れるの?」
「俺の妻だからな」

 少女は、両手を上げてばんざいのポーズをした。もう降参と、もしくはお腹一杯と、そういう意思表示らしかった。

「しかし…やはり困ったな。そんな大事なものをただでもらうわけにはいかん」
「持ち主があげるって言ってるのよ。欲しくないの?じゃあここから出さないわよ」
「いやいや、それはもっと困る!」

 男は慌てた声でそう言った。
 少女は、白い掌を口元に当てて、くすくすと微笑った。

「じゃあ、やっぱりあげるわ。いらないものだし、それに…」
「それに?」
「あの子には、幸せになってもらいたいのよ」
「あの子?」
「私の体のこと。あれは、きっと私とは別の生き物・・・・・・・・だったの」

 少女の身体が、だんだんと薄れていった、ように見えた。
 それは少女の存在が消えかけているのではなく、男がその空間から弾き出されつつあったからなのだが、しかし男にそんなことは分からない。
 男は、慌てた様子で言った。

「おい、逃げるな。俺は、まだ君に聞きたいことがある」
「なら、一つだけ、許してあげるわ。なんだって、でも一つだけ」

 男は、薄れつつある視界の中で、必死に考えた。
 考えて、たった一つの質問を、口にした。

「君の、名前は?」

 少女は、嬉しそうに頷いた。

「そう。それが、きっと正解ね。でも、何で私の名前なんて知りたいの?」
「恩人の名前を知らずに安穏と過ごす事なんて出来ない。それだけだ」
「損な性格ね。でも、私は好きだな」

 そして、言った。

「私の名前は、ウォルフィーナ」
「ウォルフィーナ?」
「ええ。狼女ウォルフィーナよ」

 男の消えつつある頭部が、感心したように目を開いた。

「いや、こういう偶然もあるものなのだな」
「偶然?」
「俺の名は、ウォルという」
「あら」
「そして、俺の妻は黄金の狼なのだ」

 今度は、自らを狼と名乗った少女が、感心したように目を開いた。
 そして、やはり優しく微笑った。

「じゃあ、やっぱりあなたにあげるわ。あの子、とてもいい子だけど使いにくいの。変身だって出来ないし・・・・・・・・・・
「かたじけない」
「いいって。でも一つだけ条件があるんだけど、聞いてくれる?」
「何でも言ってくれ」

 もう、白い陽炎のようにしか見えない少女は、おそらくは微笑を浮かべたまま、言った。
 消えつつある意識の中で、妙にもの悲しい声だけが聞こえた。
 男は、とうぶんの間は、その声を忘れることは出来ないだろうと思った。


「あの子を愛してあげてね。そして、あの子を愛した人を愛してあげてね。きっとあなたには残酷なお願いだけれども、誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね。そして、あの子を幸せにしてあげて。それが、私のお願い」


 ずいぶんたくさんの『一つだけ』もあるものだと苦笑し、そして男の意識は暗い闇の中に沈んだ。



[6349] 幕間:お伽噺
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/08 10:42


 最初に聞いたのは、両親の声だった。

「おい、よくやった、メグ!子供だ、俺達の子供だよチキショウ!」
「ええ、あなたにそっくり…きっと、頭のいい、優しい子になるわ…」
「何言ってるんだ!ほら、目元なんてお前にそっくりじゃないか!この子は美人になるぞ!チキショウ、誰にもわたさねえぞ!この子は俺と結婚するんだ!」
「ふふ、それじゃあ私は捨てられちゃうのかしら?」
「バカヤロウ!俺がお前を捨てれるわきゃねえだろ!俺は、お前と結婚したままこいつも嫁にしてやるんだ!」
「そんな、無理よ。だって、この星の法律では、一人の旦那さんは一人の奥さんしかもてないわ」
「なら、その法律を変えてやる!見てろ、俺はこの星の知事だろうが総理大臣だろうが、なんにだってなってやるんだ!」

 なんだか、よく分からないことを言っていた。
 それでも、何故だか、とても嬉しかったのを覚えている。



 最初に見たのは、両親の顔だった。
 多分、生まれてから二日目のことだ。瞼は重たくて持ち上がらなかったけど、瞼を透過する太陽の光が、二回くらい明るくなってから暗くなったから。

「すげえ!見てみろ、メグ、こいつの瞳!」
「ほんと…なんて綺麗な緑色…まるで、エメラルドみたい…」
「あははは、こいつはすげえ!俺のは茶色、お前のも茶色なのに、この子はこんなに綺麗な緑色だ!こいつ、すげえよ!きっと、神様に愛されてるんだ!」
「…あなた、私を疑わないの…?」
「馬鹿言うな!俺はな、お前を疑うくらいなら、目と耳と口を縫い付けて自分の部屋に閉じこもった方がいくらかましだって思ってるんだ!いいか、メグ!もしも同じことをもう一回でも言ったら、いくらお前でも許さないからな!」
「ええ、ええ、分かったわ、アート。もう、こんなつまらないこと、一度だって口にしない。だから、一度だけ言わせて。ありがとう、あなた」

 初めて見た母の顔は、ビックリするくらいに綺麗で、夕焼けみたいに赤かった。
 きっと風邪でも引いているのかなと思ったけど、何だったんだろう。


 
 最初に話したのは、生まれてから二週間後だった。
 今までだって、散々しゃべりたかったのに、喉が上手く動いてくれなかったのだ。 
 だから、初めて自分の意志を言葉に出来たときは、飛び上がるほどに嬉しかった。

「…お、かあ、さん…」
「…え?」
「お、かあさん…」
「…え、エディ…?」
「おかあさん、だいすき…」
「そんな、そんな、何であなた、しゃべれるの…?」

 母は、何故だかとても怖がっていた。後から知ったのだが、赤子は半年くらいはほとんど何も話せないという。それに、話し始めも「まんま」とか「わんわん」とか、そういう言葉らしい。
 私は、そんなことは知らなかった。それに、私は大抵のことは一度聞けば忘れないのだ。あとはそれを操るだけなのだから、他の皆がどうしてそんなに長い間何も話せないのかわからない。
 そもそも、そんなに長い間自分の意志が伝えられないなら、どうして人は生きていけるのだろうか。子供は、早く独り立ちしないと親に見捨ててられてしまうものだと思っていた。
 私は、父親と母親に認められたくて、必死だった。
 なのに、お母さん。どうして、そんなに怯えた顔をするの?

「おかあさん?」

 どうして、何も応えてくれないの?
 私は、心底不思議だった。


 
 初めて立ち上がって歩いたのは、生まれて一月後のことだった。
 どうしてこんなに不安定な姿勢で移動しなければいけないのか、わからなかった。
 人には四本の手足があるんだ。ならば、その全てを使ったほうが安定するし、第一相応しいじゃないか。ほら、二つしか輪っかのない乗り物よりも、四つの輪っかがある乗り物の方が安定するでしょ?
 だから私は、四本の足で歩く方が好きだな。
 でも、知ってるよ。人間は、どうしたって二本の足で歩く獣なんだ。
 だから、私は二本の足で歩いたの。もう、お母さんを怖がらせたくなかったから。

「おかしいわ、アート!この子、絶対に普通じゃない!」
「落ち着け、メグ!」
「この子、ハイハイだってしなかった…!ハイハイだってしないで、掴まり歩きだってしないで、どうしていきなり歩けるの!?」
「それはこの子が神様に愛されているからだ!こないだ、そう話し合ったじゃあないか!」
「そんなの、私達の子供じゃない!」
「メグ!」
「私が欲しかったのは、私だけの、私達だけの子供よ!神様なんて、そんな訳の分からないものが愛した子供じゃない!」
「メグ、止すんだ!エディだって聞いているんだぞ!」
「いいじゃない!あの化け物に、聞かせてあげればいいんだわ、一体自分が何者なのかって!神様に愛された!?結構じゃないの!それなら、きっと私達の愛情なんて無くったってすくすく成長するんだわ!」
「メグ!」

 ぱぁん、と、何かが何かを叩く音が聞こえた。
 お母さんが、凄い勢いで居間から飛び出して、そのまま自分の部屋に駆け込んでいった。
 途中で、私に目も向けてくれなかった。
 私は、いつまで廊下にいればいいのかな。もう、三日もここにいるのに。そろそろ、お母さんの匂いが恋しいのに。
 お腹も、へったなぁ。



 初めてお客さんが来たのは、生まれてから半年が経った日だった。
 綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着た、見るからに人好きのする笑顔の男性が、突然に私の家を訪れた。

「―――どうでしょうか、ヴァルタレン卿。貴方方の愛するご息女にとっても、決して悪い話ではないかと思いますが」
「…しかし、あの子は我々の子供だ。そのように無責任な…」
「ええ、お気持ちはお察しします。しかし、これは厳然たる事実なのです。貴方方が御存じではなくとも当然ですが、悲しいかなごく稀に、エドナ嬢のような子供が生まれてしまう。我々は、それを特異能力者と呼んでいます」
「特異能力者…」
「特異能力それ自体はなんら問題無い。寧ろ素晴らしいことと言ってもいい。通常の人間とは比べものにならない程に高いレベルの能力を生まれ持っているわけですからね。しかし、それが彼女の幸福に直結するかといえば、それはやはり別問題であるといわざるを得ません。もちろん、彼女が特異能力者として生まれたことについて、誰にも責任はありません。貴方にも奥方様にも、無論エドナ嬢ご本人にも、です。重要なのは、彼女という存在を普通の子供と同じような形で社会に溶け込ませたのでは、誰一人幸福にならないと、そういうことです」
「そんな…」
「私とて、このように非道なこと、進んで申し上げたいわけではございません。しかし、考えてみてもください。生まれて二週間で言葉を話し、一月で自在に歩き回る。そのような子供が、他の子供にどのような影響を与えるか」
「…」
「遠からず、彼女は他の子供に排斥されるか、それとも彼女の方から積極的に他の子供を排斥にかかるでしょう。もちろん、それは彼女の責任ではない。それが、人間社会というものの脆弱さなのです。いや、ある面ではそれは自衛機能なのかも知れない。異分子を排除することで群れの遺伝子プールを正常に保つための、ね」
「あの子は…あの子はそんな、化け物じゃあ、ありません…」
「親として、貴方が彼女を信じたい気持は痛いほどによく分かります。私自身、二児の子供です。彼らは、私自身の命にも等しい存在だ。もちろん、貴方にとってのエドナ嬢も同じでしょう。その子が、赤の他人からまるで化け物のような扱いを受けたのでは、憤られるのも当然というものです。もしも私が貴方と同じ立場に立たされれば、このように無礼な客、殴り飛ばして玄関から放り出しているでしょう。私は貴方の寛容に、心から敬服申し上げます。正直に申し上げれば、私は今日ほどに仕事場に出かけるのが嫌だった日もありません」
「…」
「しかし、ヴァルタレン卿。私は、貴方や貴方の娘さんが憎くて、このような事を申し上げているのではありません。そのことだけは、分かって下さい」
「…はい。それは、ええ、わかる…つもりです」
「結構。であれば、よく考えて見て下さい。今後、あの愛らしい、正しく天使のような子供にとって、どのような環境で育つのが最も幸福か。果たして、貴方方だけでこの子を幸福にすることができるのか」
「そんな…私達には…一体どうしたらいいか…」
「結論を急ぐ必要はありません。幸い、時間は我々の味方です。よく考えて、そして最良の結論を導き出して下さい。無論、貴方方夫婦と、何よりもこの子にとって最良の結論を、です。そのためならば、我々は協力を惜しみません。いつでもご相談ください」
「…これは…?」
「私のデスクへの直通回線の電話番号です。今日は、ここらへんで引き上げさせて頂きます。もしよろしければ、またご連絡ください」

 男は、小一時間話すと、何事も無かったかのように帰っていった。
 途中で、私と目があった。
 男は、にこやかな微笑みを私に向けた。まるで、トカゲか蛇が笑ったような、どうにも気持の薄ら寒くなるような微笑みだった。
 気持ち悪い!
 お母さん、お母さん、私を抱き締めて!
 お父さん、私を離さないで!
 私、ずっと良い子でいるから!



 初めて両親のもとから離れたのは、生まれてからちょうど一年が経った日だった。
 黒塗りの、ぴかぴかとした車が、家の前に止まった。
 私は、きっとこれに乗って、どこかのレストランに行くのだろうと思った。人間は、子供や恋人の誕生日を、そうやって祝うものだと知っていたからだ。
 その頃の私にはもう歯も生え揃っていたので、あまり固くないものであれば自分で咀嚼して食べることが出来た。だから、レストランのメニューに並んでいるだろう、プリンやケーキなんかに思いを馳せて、私の胸はどきどきと高鳴っていたのだった。
 なのに、様子が少し、おかしかった。
 こんな、ぴかぴかの車で行くのだから、きっと値段の高いレストランに行くのだと思った。なのに、お父さんもお母さんも、普段通りの格好のままだった。そういうところにはおめかししないと入れてもらえないと知っていた私は、この二人が早く着替えてくれるようにと願ったものだ。

「エドナ」
「どうしたの、おとうさん?」
「良い子で、いるんだぞ」

 ぎゅう、と抱き締められた。
 お父さんは、泣いていた。

「エドナ」
「どうしたの、おかあさん?」
「ごめんなさい…あなたのお母さんになれなかった、私を許して…」

 ぎゅう、と抱き締められた。
 お母さんは、泣いていた。

「時間です」

 黒い車から、綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着こなした、どこかで見たことのある男が降りてきた。
 その表情は沈痛そのものといった様子だったが、体のどこからか、強い安堵の香りが漏れ出していた。
 そう、長い間時間を掛けた大仕事がやっと終わったと一息吐く、そんな感じの、安堵に満ちた香り。

「ご息女は、我々が責任をもって育ててみせます」
「はい。しかし、ここでもう一度だけ誓って下さい。貴方自身にではなく、連邦政府の名にかけて」
「はい、ヴァルタレン卿。何にだって誓わせて頂く。我々連邦政府は、エドナ・ヴァルタレン嬢を、必ず幸せにしてみせます。私の誇りと、我々が頂く連邦憲章に謳われた、万人が幸福を享受する権利にかけて」

 男は、とても力強く、そう言った。
 お父さんは、確と頷いた。
 お母さんは、泣き崩れた。
 私は、きょとんとしていた、と思う。

「おとうさん、おかあさん、このひとはなにをいっているの?」
「エドナ、よく聞きなさい。もう、お父さんはお前のお父さんじゃなくなるんだ。そして、お母さんもお前のお母さんじゃなくなる」
「よくいみがわからないわ。おとうさんはわたしだけのおとうさんだし、おかあさんはわたしだけのおかあさんじゃない」
「…ああ、そうだエドナ、その通りだ。相変わらずお前は頭が良いな」

 ごしごしと、お父さんの大きな掌が、頭を撫で回してくれた。
 お父さんは、私が算数のドリルを解いたり、子供向けの漫画を読んだりする度に、こうやって私を褒めてくれる。少しだけ、寂しそうに。
 私は、心底それが嬉しかった。
 
「えへへー」
「お前は、俺達の天使だ。でも、俺達だけの天使じゃなかった。その金色の髪も、エメラルドみたいな瞳も、きっと俺達以外の誰かのために用意されたものだったんだ」
「おとうさん、それはちがうわ。エドナは、おとうさんとおかあさんだけのこどもだよ」
「…ああ、そうだな。そのとおり、だな…」

 また、ぎゅうと抱き締められた。
 少し強すぎるくらいの力が込められていたから、私はちょっぴり苦しかったけど、でも我慢した。
 だって、お父さん、泣いていたもの。だから、私が我慢してあげないといけないんだって分かっていたから。

「ヴァルタレン卿…」
「ええ、分かっています…。分かっています…」

 父は、名残惜しそうに私を離して、立ち上がった。
 私はその男に手を引かれて、そのまま車の後部座席に乗せられた。この男と手を繋ぐのはとても嫌だったけど、でもお父さんがそうしなさいって言うから、そうした。
 車が、鈍いエンジン音を立てて、発進した。
 私は、後ろの方を振り返った。そこには、お父さんに寄りかかって泣き崩れるお母さんと、私に向かって手を振るお父さんがいたから、私は手を振り返した。そしたら、お父さんは笑ってくれた。今までで一番寂しそうに、そして辛そうに。
 間もなく車は曲がり角を曲がり、二人の姿は見えなくなってしまった。
 それでも私は、ずっと後ろの方を向いていた。

「アルファに連絡。ブラボーは目標を確保した。繰り返す、ブラボーは目標を確保した。オーバー」

 そんな冷たい声が聞こえたけど、私はずっと後ろを見ていた。
 ずっと見ていた。

◇ 

 それからのことは、あまり書きたくない。
 だって、痛いか、苦しいか、寂しいか。
 その、どれかの文字で埋め尽くされてしまうからだ。

 でも、三つだけ。



 私に初めて友達が出来たのは、お父さんとお母さんと別れてから、五年が経った頃だった。
 もう、毎日の感覚がなかったのだけれども、多分それくらいだと思う。真っ白な部屋に入れられてから、意識があるときは、食事の度に床に傷を付けていた。その数が三千本を越えた頃だった。意識を失ったまま、あるいは手術台で一日を過ごし事も珍しいことではなかったから、その分を足してやれば多分それくらいだ。
 その頃の私は、凄く荒れていた、と思う。
 いや、寧ろそれまでの私が、私ではなかったのだ。それが薬物投与や、それとも頭の中を弄くられた結果なのかは分からない。しかし、私は自分がこんなところにいてはいけない、自分は人間の群れの中にいてはいけないと、強迫観念にかられるように、そう信じていた。
 全く皮肉なことではあるが、そういう意味ではあの男の言は正しかったのだろう。

 私は、ひとではなかった。

 私は、狼だったのだ。

 出せ。

 ここから、出せ。

 この地の底から、私を、解き放て!

 漆黒の森に、新緑の草原に、紺碧の大海原に!

 私は、この体は、そこにいるべきものだ!

 叫んだ。
 暴れた。
 噛み付いた。
 
 その度に、ばちばちと弾けるように痛い何かを押し付けられて、ベッドの上に縛り付けられて、三日間くらいは折檻された。それは、とても痛かったから、とても嫌だった。でも、それ以上にこんなところで一生を過ごすのは嫌だった。
 そんなことでは、大地を駆け抜けるためのこの脚が、風の匂いを嗅ぐためのこの鼻が、獲物の肉を切り裂くためのこの牙が、あまりに可哀想すぎるではないか!
 痛いのは、皮膚でもなければ痛覚神経でもない。私の脳だ。魂だけだ。
 私の魂だけだ。
 それ以外の部分、私を私たらしめる部分は、痛みを感じていない。
 痛みを感じることすら出来ずに、その無念を飲み込んでいるのだ。声にならない悲哀の叫びをあげながら!
 それ以外の部分を救うために、私の脳は我慢しなければいけなかった。我慢して、我慢して、我慢して。
 私は、狼で在り続けた。


『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、地面に穴を掘ってんのさ』
『コンクリートの床に、素手でか!?』
『ああ、なんてったって、あいつは■■だからな』

 かりかり、かりかり

『しかし、いくら■■だっつっても、そんなことしたら…』
『ああ、爪が剥げるわな。だからよく見てみな』
『…うわ、アレ全部、生爪かよ!?』
『ココがいかれてんだよ、なんてったって■■だ』

 かりかり、かりかり

『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、穴を掘ってその中に糞でもしたいんだろう。さ、飯にしようぜ』

 かりかり、かりかり


『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、いかれてんだ、それだけさ』
『でも、いくらいかれてるからって、あんなに必死に鉄格子を噛むものかね?』
『いかれてんだよ、なんてったって■■だ』

 がじがじ、がじがじ

『それにしたって、血が吹き出てるぞ』
『ああ、もうあいつの歯はほとんど残っちゃいない。あいつの足下を見てみな』
『…うわ、アレ全部、砕けた歯かよ!?』
『だろ?俺もここに初めて来たときはさ、驚かされたもんさ。その時は、素手で床に穴を掘ろうとしてたかなぁ』

 がじがじ、がじがじ

『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、鉄格子を食い物と勘違いしてんのさ。さ、俺達も飯にしようぜ』

 がじがじ、がじがじ


 抵抗しろ。抵抗しろ。
 最後まで、諦めるな。戦い続けろ、最後まで。
 それが義務だ。この体に宿った魂としての、狼の主たる私の義務だ。
 そして、この体を、太陽の下に。
 この体を、兄弟の、仲間達のところに。
 いつの日か、いつの日か。


『ねえ、貴女は、どうして■■って呼ばれてるの?』

 いつも通り、拘束具に包まれて床に放り投げられた私に、誰かが話しかけてきた。
 もう、ほとんどの歯が抜け落ちた口では、隙間風のような声しか出せなかったが、私は答えた。

『わたしが、おおかみだからだ』

 白い服に身を包んだ、可愛らしい看護婦は、興味深そうに私の目を覗き込んだ。

『あなた、狼になれるの?』
『いや、私は狼にはなれない』
『■■なのに?』
『それはただの渾名、もしくは私を示す記号だ。私の魂は、きっと君と同じ、人間だよ』

 その日の会話は、それだけだった。
 彼女は私の口に流動食のチューブを差し込み、そして檻の中から出ていった。
 その日の、血の味の混じったどろどろとした液体は、いつもよりも少しだけ美味しい気がした。

 それから、彼女との会話が、唯一の楽しみになっていた。

『へぇ、外の人達は、そんなことをして遊ぶのか』
『ええ、これくらいのボールを蹴ってね、それを相手のゴールに入れたら得点、そして得点の多い方が勝ちよ』
『どうして、手で運んじゃあ駄目なんだい?』
『それがルールだからよ』
『変なの』

『ねえ、■■。貴女の髪の毛って、とっても綺麗ね』
『そうなのかな。よく分からないよ』
『ううん、とっても綺麗。まるで、細く鋳梳かした黄金を身に纏ったように見えるわ』
『黄金って何?』
『ええと、言葉で説明するのは難しいわね。…これのことよ』
『ああ、君の耳飾りに使っている、この素材か。うん、とっても綺麗だ』
『貴女の髪も、これくらいに綺麗なのよ。太陽の下ならとっても映えるんでしょうけど…』

『…■■。起きてる?』
『どうしたんだい、シャム、そんな真剣な顔で』
『明日、貴女にまた、検査が施される』
『ああ、知っているよ。また内蔵をこね回されるのかな?私、あれは嫌いなんだけど』
『その時に、貴女の麻酔を抜く。水で薄めて、ほんの少し体が重たくなるくらいの量にしておくわ』
『それって、私に死ねって言ってるのかな?』
『そして、手足の拘束も緩めておく。私が何を言ってるか、分かるわね?』
『シャム…どうして君が、そんな…』
『私はね、太陽の下で輝く、貴女の瞳と髪を見たくなったの。それだけよ』


 
 私が初めて友達を失ったのは、その翌日だった。

『起きているか、■■』

 気に食わない、声がした。
 いつも私の体を弄くり回し、その度に、脚をもがれたバッタみたいに跳ね回る私の体を、下卑た視線で眺める、男だ。
 あの、髪を綺麗に撫でつけてぱりっとしたスーツを着た男と、どこか似ている気がした。
 その男が、何かに酷く怒っていた。いい気味だと思った。

『自分が何をしたのか分かっているか、■■』
『…私は、君が何を言っているのか、分からない』
『では、君の回りを見たまえ』

 私は、体を起こそうとした。でもやっぱり、体は何か重たいものに縛り付けられてたから、体を起こすことは出来なかった。
 なのに、私の嗅覚は、この部屋で何が起きたのかを正確に把握していた。

『何人死んだ?』
『…六人だ。さぞ満腹だろうな、化け物!』
『満腹?』
『そうだ、貴様は、その呪われた力で皆を引き千切り、その血を舐め啜ったのだ!覚えていないとはいわさんぞ!』
『悪い、覚えていない』

 正直に言ったら殴られた。
 理不尽だと思った。
 じくじくと痛む鼻頭から流れ落ちるどろりとした血が、唇の中に流れ込んできた。そのせいで、果たして元々口の中に血の味があったかどうか、分からなくなってしまった。
 それでも、事態は明白だ。
 どうやら、私は失敗したらしい。
 きっと、初めて見る他人の血に、狂ってしまったのだ。今までの、溜まりに溜まった、澱のような怒りが爆発してしまったのだ。
 そんなもののせいで脱走に失敗するとは、間抜けな話である。
 誰よりも、シャムに悪いことをした。きっと、手酷く叱られてしまっただろう。

『どうだ、少しは思い出したか!?』
『いや、ちっとも。しかし…』
『…しかし何だ、化け物』
『その割には、あんたは平気そうなんだな。私なら、まず真っ先にあんたを喰い殺しそうなものだが』

 もう一度、思い切り殴られた。
 今度は、鼻の奥で、鈍い音が鳴った。
 なるほど、こんなにひょろひょろでやせっぽちの老人でも、思い切り殴れば鼻の骨の一つも折るくらいは出来るらしい。
 ごぼごぼと、喉の奥に血が逆流した。

『貴様が、貴様が…!』
『…ごほっ。どうしたんだよ、お前らしくもない』
『娘が、娘が、貴様から私を、私を…!』

 怒りと悲しみに震える男の手には、どこかで見たような、きらきらとした耳飾りが握られていた。
 それは、私の髪と同じ色の、きらきらとした耳飾りだった。
 
『あー…なんていうか、その、さ』
『…』
『あんたとシャムってさ、ちっとも似てないよね』

 その日、私はかつてない程にばらばらにされた。
 麻酔は、シャムが作った、水で薄めたものだった。
 それでも私を殺さないあたり、この男の医者としての能力は相当に高いものだったようだ。


 
 私が初めて私を見たのは、最後の時だった。
 いつもと同じように目を覚ました私は、ぷかぷかと浮いていて、上の方から私を見下ろしていた。
 生まれて初めて、鎖から解き放たれたような、そんな気がした。
 そして、私はどきどきしていた。だって、私は初めて見ることが出来るのだ、自分の顔を!みんなが天使のようだと褒めてくれた私の顔は、一体どんなだろう。
 そして、自身の顔を見てみて。
 私は、がっかりした。シャムが褒めてくれた、私の髪と瞳を初めて見ることが出来ると心躍らせたのに、なんてことはない、彼女は嘘を吐いていたのだ。
 そこには、綺麗な緑色の瞳も、金色の髪の毛も、なかった。
 そこに寝転んでいたのは、薄い、ほとんど何の色にも染められていない、辛うじて茶色と呼べるかどうかと言う程度に色づいた濁った瞳と、糸くずみたいにぱさぱさの、真っ白の髪をした、お婆ちゃんだった。
 私は一体、それほど長い間、ここにいたのだろうか。てっきり、私は十年くらいしかいなかったんだと思ってたのに。私は頭を捻った。
 それにしても、酷い有様だった。
 頭を、所々血で滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされ、ところどころからよく分からない針みたいなものが飛び出して、それが部屋を埋め尽くした機械に繋がっている。
 顔は皺で覆われ、ぼんやりと、宙空に浮いた私を見つめるようにぼんやりと開いた瞳は、しかし何にも映さずに、ぱりぱりに乾いている。
 体には、頭に突き刺したのとは違う種類の針と、チューブみたいなものがいっぱい突き刺さっていた。生きることを諦めた体を生かすためには、これくらいの装置が必要になるのだろうか。
 その機械の一つに、ほとんど上下しない波線が描かれて、その横によく分からない数字が書かれていた。
 一体なんだろうと思ってみていたら、波線はやがて直線になり、その横の数字はゼロになってしまった。もう、それを見ていても面白くないから、私は地上に飛び出た。ただ、この体を一緒に連れて行ってあげることが出来ないのが、唯一心残りだった。



 それ以上のことは、既に彼女を止めてしまった彼女のことだ。ここに書き記す意味はない。
 ただ、久しぶりに彼女が見た両親は、十歳程度の可愛らしい子供を育てていた。その髪の毛は陽光に煌めく黄金ではなく、その瞳は両親と同じ濃茶色だった。
 三人は、とても幸せそうだったから、彼女もとても嬉しかった。
 

 それが、俺の見た、狼女ウォルフィーナと呼ばれた少女の、短い人生の、全てだ。



[6349] 第四話:覚醒
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/11 14:27
 ぽたりぽたりと、前髪から液体が滴っている。
 ここはどこだ。私は誰だ。私は、今の今まで何をしていた。
 誰か、誰か、教えてくれ。



 少女は、その瞬間にこの世界に生を受けた。それは単なる比喩ではなく、ちょうど赤子が母親の子宮から産道を通って外気に触れた瞬間のように、少女は正しく、たった今この瞬間に産声をあげたのだ。
 そこは、新たなる生命の誕生を祝う祭壇でも、清潔な病室のベッドでも、苫屋の粗末な藁床の上でもなかった。
 暗い、暗い、無限のように暗い空間。常人であれば決して見通すことの出来ない深い闇の中。彼女は、己を産んだはずの母親をもたずに、そして泣き声すらあげずに、ただ一人でこの世界に生まれた。
 ツンと薬品臭い羊水に塗れた少女は、一糸纏わぬその姿のまま、地に伏せるように低く蹲り、鋭い視線で辺りの様子を伺った。その瞳は、闇の奥の奥にある細やかな瓦礫の破片の一欠片までをも正確に認識している。そばだてた耳は針の落ちた音だって聞き取ることが出来た。
 しかし、何も感じない。
 ひくつかせた鼻には、自分以外のいかなる生き物の体臭も感じることが出来ない。カビ臭く澱んだ空気と、何かが腐ったような酸っぱい臭いが感じられるだけだ。
 それでも彼女は警戒を解こうとしなかった。必死に息を潜め、物音を立てずに周囲を見回し、そして五感の全てを使って敵の存在を探る。
 彼女にとって無限といえる緊張の時間は、しかしその実、五分にも満たない短い時間だった。
 そして少女は自分なりの結論を下した。
 ここには誰もいない。どうやら自分は一人のようだ。
 そう考えた彼女は、初めて安心した。ほんの少しだけ体を起こし、きょろきょろと辺りを見回し、それから体の各所に張り付いた薄ガラスの羊膜を取り外していく。あらかたを外し終えると、ガラス片がつけた傷から流れる細い血の滝を舐め取った。何度か、それこそ獣のように傷口を舐めていると、血はすぐに止まった。
 人心地がついた少女は、あらためて自分が置かれた状況について考えた。

 ここは、どこだろう。

 頭上に星は無かった。その代わりに、とっくの昔に寿命を終えた蛍光灯と、穿たれた穴から赤や青のケーブルが見える天井がある。逆に地面の方に目を向けてみれば、そこにあるのは柔らかな土の地面などではなく、冷たくひび割れたコンクリートの床だ。
 彼女は、明らかに人工的な空間にいた。そもそも、正方形で区切られた狭い空間など人の手の入らない場所には存在しないのだ。
 しかしそれにしては荒廃の様子が尋常ではない。埃はまるでそれ自体が絨毯かカーペットであると勘違いするほどに深く積もり、あちこちに主を無くして糸くずと成り果てた蜘蛛の巣の残骸が垂れ下がっている。部屋の隅に打ち捨てられた用途の知れない機械の山は、赤茶けた錆に覆われていて、二度と彼らの存在意義を思い出すことはあるまい。
 そこは、かつて人が住んでいた場所だ。なのに、もうそこには人の気配がない。
 見捨てられた廃屋。それが、彼女の生まれた場所だった。
 自分の知らない場所だ。
 では、自分の知っている場所とはどこか。
 少女は思い出そうとした。
 まず、彼女の脳裏には瑞々しい森の木々に囲まれた湖の姿が浮かんだ。春の、若葉の眩しい木々を映す湖面、夏の冷たい清水の感触、秋の赤く染まった木の葉で覆われた大地、冬はしんしんと降り積もろ雪が山肌を白く染め上げる…。
 次に、煌びやかな宮殿が思い浮かんだ。別に望んで手に入れた住み家ではなかったが、存外に居心地はよかった。なぜなら、いつもあいつがいてくれる。それに、友も、部下も、全てが得難い人達ばかりだった。
 そうだ、俺は―――

 ザ―――ザザッ

 ―――お母さん。なんでそんなに私を怖がるの?私はお母さんに愛されたくって、こんなにも頑張っているのに。私は、神様の子なんかじゃあありません。私は、貴方から生まれた、貴方だけの子供なのに―――

 なんだ、今のは。

 少女は床に手をつき、激しく嘔吐した。胃の中は、ずっと昔からそうであったように空っぽだったから、黄色い胃液だけが喉の奥から漏れ出した。
 喉の奥を、強烈な酸が焼いた。その熱痛と、そして床に付いた手を切り刻む窓ガラスの破片。その両者の痛みですら、今の少女の脳髄には届かない。 
 頭の中で次々と再生される記憶。彼女は、荒れ狂った大河のようなそれを押しとどめようとしたが、一度決壊した河の流れを人の手で押しとどめるのか不可能なのと同じく、その現象は彼女の存在そのものを弄び蹂躙した。

 ―――父上。私が貴方の息子ではないとはどういうことでしょうか。何故、私の前で跪くのですか。私は、貴方の息子です。貴方だけの息子です。父上。どうか、顔を上げて下さい。そして、私の名を呼んで下さい。どうか私を、陛下などと呼ばないで下さい―――
 ―――止めて。その注射は嫌なの。私が私じゃなくなるの。私は私でいたいの。だから、痛いのは嫌なの。誰の血も見たくない。もう、誰も殺し
たくなんて―――ない。私はお絵かきが―――好きなの。赤い絵の具はあまり好きではありません。それに、乾くと黒くなる。お母さん、お父さん。私を
助けて。誰だ。あれは、何だ―――。一瞬で斬り殺した。腕っききの兵士を。俺ですら手こずる、歴戦の勇士を。あの子供は、なんだ
。金色の髪―――。緑柱石の瞳。陽光で
、きらきらと輝く。
ああ、なん―――と美
しい痛いです。痛い
です。お腹の―――中が、
真っ赤に染まって、ぐるぐると紐のよ
うなもの―――が見えていて、どく
りどくりと、何かが流れていく。どうして、この人達は笑っ
ているのだろう。こん―――なにも
嬉しそうに。こんなにも苦しんでいる私を見ながら、こんなにも嬉しそうに、この男は俺を
いたぶるのか。そうだ、俺が国
王で、タウ―――には銀山だけ
じゃあなくて金
山もあるからそれを聞き出そうとしているのだ。いや、それだけではない
か。そうでなければ、どうしてこの男―――はこんなにも嬉しそうに私
の頭の中の灰―――色の部分
に針を突っ込んでそこ
をぐりぐりといじるのだろうかわたしがな―――にかいけないことをしたのでしょうか
『医学の発展のため――――――』やめてやめてそこはきらないでそこをきられたらわたしがいなくなる『人類の進歩
のため、仕方ない―――』めのまえが
あかくくろくそまってちかちか―――ちかちかちかちかちかちか『いまい
ちだな。もっと麻酔を―――減らしてみよう―――』ああ、ライオンがおれをたべようとおおきなくちをあけておそいか
かってくるせをむけてにげたらくわれるくわれるわけにはいかないおれにはおれをまってくれているひとが『どうしてこの程
度の数値しか出ない―――』おとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさん
―――『出来損ない―――』
たたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけて
―――『解剖する価値もない―――』
だれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかか
―――『愛玩動物―――』

 嗚呼。
 助けて、お兄ちゃん。

 その刹那、少女は、冷たく固いコンクリートの床の上で、白目を剥いて失神した。
 
 次に少女が目覚めたのは、彼女が失神してからちょうど二十四時間が経過したときだった。
 ほとんど無造作に起き上がったその様に、辺りを警戒するような様子は見当たらない。のんびりと頭を掻き毟り、大欠伸をし、猫のように伸びをする。
 一日前の、緊張しきった獣の有様が嘘のようだった。
 そして、もう一つ違うこと。
 それは、爛々と、闇の中に光る黒い瞳。
 自らが狩るべき者、自らが殺すべき存在を自覚した、獰猛な光りだった。
 


 連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官。それが、アレクセイ・ルドヴィックという男に与えられた社会的な肩書きである。
 物々しく、そして舌を噛みそうになるほどに長い役職名だが、しかしやっていること自体は単純そのものだ。
 お偉方の尻ぬぐい。少なくとも、彼は自分の仕事をそのようなものだと認識していた。
 だからといって、彼は自分の仕事を忌み嫌っていたわけではない。光があれば自ずと闇が出来るように、肥大化した連邦の施政の影には、必ずしも美しくない、衆目に晒すことが好ましくないような事実がたくさんある。掃いて捨てる程にある。ならば、誰かがその掃き掃除をしなければならないのだ。
 それは、連邦の威厳と存在意義を守るために有意義な仕事といってよかった。例えその仕事の大半が、政治家の下半身の醜聞をもみ消したり、官僚の子女の素行不良を金で解決したりする仕事であったとしても、だ。
 それに、野心もあった。確かにドブ側のゴミ浚いにも似た汚れ仕事であることは間違いないが、しかしそれは連邦の闇の部分を知るための仕事でもある。当然、いくらでも取り替えの利く木っ端役人などに任せてよい仕事ではないはずだったし、それを知る自分は、これからの人事において相当のアドバンテージを得たといっていいはずだった。また、自分が世話をしてやったお偉方との間に、強力なパイプが生まれるのも美味しい事実である。
 彼は、その低すぎる身長と後退した額の生え際を除けば、年の割にまずまず若々しく精力的といっていい人間だった。当然、そういった人間のほとんどがそうであるように、人並み以上の出世欲もある。
 既に40も半ばを迎えたその容貌はお世辞にも整っているとは言い難いが、どこかに染み出すような愛嬌がある。だからこそ、このように陰鬱な仕事が勤まるのかも知れないが。
 実のところアレクセイは有能な人間だったし、それ以上にある種の天才であった。人から頼まれた厄介事を、自分以外の他人に押し付ける才能である。そしてその成功を自分のものとし、その失敗を他人のせいにして自分には被害を及ぼさせない、世渡りの才能だ。だから、彼は上司にはすこぶる評判のいい人間だったし、同僚や部下からは蛇蝎のごとく嫌われていた。
 彼自身、そのような周囲の評価は自覚している。自覚して、そして鼻で笑った。なにせ、彼の人事評定を定めるのは同僚や部下ではなく上司なのだ。その他大勢がどれほど外野から喚き立てたところで、彼の出世街道の脇を転がる空き缶やゴミ屑以上の何ものでもない。そんなもの、一顧だにする価値もないものだ、と彼は考えている。
 つまり、彼は現在の自分の有り様に、すこぶる満足していたのだ。
 しかし、だからといって今、現在進行形でこなしている仕事が愉快になるかといえばそうでもない。やはり、仕事には陽気なものと陰気なものがあるのだから。

『これは君しか出来ない仕事だ』

 その言葉は、彼自身が自分の手に負えない厄介事を部下に押し付けるときの決まり文句であったため、自分が上司からそのように仕事を言い渡されたときはさすがに緊張の色を隠せなかった。
 ごくりと生唾を飲み込んだアレクセイに、殴打の武器になりそうな程に分厚い資料の山が手渡される。彼はその一番上の、極秘と赤い判の押された報告書の部分だけを手に取り、大急ぎで文章を読んだ。

『…証拠隠滅、ですか』

 それが、彼が今回の自身の仕事に与えた評価だった。
 上司は、それを肯定も否定もしなかった。

『詳しいことは言えんが、これはこの共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼすことなのだ。私は、今までの君の仕事ぶりを高く評価している。だからこそ、この仕事を君に任せるのだ。ルドヴィック君、君は私の期待に応えてくれるね?』

 アレクセイは、その脂ぎった顔面を紅潮させながら、重々しく頷いた。
 果たして、特異能力者と呼ばれる人間に対する非人道的な人体実験の証拠を隠滅することが、この広大な連邦宇宙の安全保障に対してどのような影響を及ぼすのかは分からないが、少なくとも彼が今まで手がけてきた、安全保障とは名ばかりの仕事に比べてその重要度が高いのは明らかだ。であれば、それを成功させたときの彼の評価に与える影響も当然大きい。無論、失敗したときのそれも同じく、だが。
 彼は、その資料を手早くカバンの中に詰め込み、その日は定時に帰宅した。家で落ち着いて資料を読み込むためである。
 その資料に記されていたのは、彼が今まで見聞きしていた連邦政府の恥部ではなく、正しく闇の部分であった。彼もこの職場についてから相当の噂話を耳にしているので、この組織が綺麗事だけでなりたっているのではないことくらい重々承知していたのだが、しかしその資料の詳細は彼の図太い心胆を寒からしめるに十分過ぎるものだったのだ。
 それは、正しくこの世の地獄だった。
 被験者が生きたままの解剖実験、その切り離したパーツが部位ごとにどれほどの時間を生きられるかの記録、特異能力者の能力値を測定するための脳外科手術、その能力の限界を引き延ばすため脳内鎮痛物質を除去した上での覚痛実験、麻薬の禁断症状が特異能力に及ぼす影響、その能力を次代に残すための交配実験、人と獣、果ては外骨格生物とのキメラの作成と軍事転用の可能性の模索…。
 その一つが明るみに出るだけで連邦政府の屋台骨を揺るがしかねない、非人道的極まる実験の数々だった。彼は、指の震えを押さえるためにキャビネットからアルコール度数の高い酒を取り出し、瓶に口を付けて直接煽った。空っぽの胃の腑が焼け付くようだったが、その熱痛にも似た感覚が今の彼には有難かった。
 それでも何とか一通り目を通し終えた彼は、広すぎる額から垂れ落ちる汗を拭おうともせず、しばらくの間茫然と時を過ごした。
 なるほど、これは確かに共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼす仕事と言っていいだろう。この事実が外に漏れれば、下手をすれば連邦に対する不信感を招き、マース合衆国その他の軍事的野心に油と強風を注ぎ込む結果にもなりかねないのだから。
 彼は、そう理解した。彼の上司もまた同じように理解していた。しかし、その上の上の上あたりの人間は、この件がもっと直接的な意味で共和宇宙の、というよりは人類の存続について重要な意味を持つものだと理解していたのだが。
 翌日からアレクセイは、この仕事を専門的に取り扱うようになった。昨日まで彼の処理していた事案は全て後任者に引き継がれ、彼の手元には一切の仕事は残らなかった。
 彼の周囲の人間は、机を空っぽにして別室に居を移した彼を見て、一体何事が起こったのかと訝しんだ。中には、彼が重大な失敗を犯して上司の怒りを買い、あらゆる仕事から干されたのだろうとほくそ笑む者もいたものだ。
 しかし、ほくそ笑んでいるのは、誰よりもアレクセイその人だった。一晩の衝撃から目覚めて、この仕事の重要性をあらためて認識したのだ。この仕事を完璧にこなすことが出来れば、今後の彼の役人人生は正しく輝かしいものになるだろう。自分には到底手が届かいものと諦めていた数々のポストが、今の彼にはただの通過点にしか思えなくなっていた。

『この件の処理を、君一人で全てこなすのは当然不可能だろう。何人か、君の手足として働く人間を選びたまえ。可能な限り便宜を図ろう』

 初日の仕事は、その人選からだった。
 有能な人間であることは最低条件に過ぎない。次に、口が堅いこと、彼に忠実であること、そして何より彼の手柄を横取りしないこと…。
 彼は上司から与えられた人事評価書類を手繰りながら、その人間の評価を真剣な面持ちで眺め続けた。そして、その中から数人を選び、彼のプロジェクトチームに加えるための段取りに奔走した。その結果、十人ほどの人間が彼のために与えられた別室に居を移すことになり、前日までは臨時の会議室として以外の存在意義を持たなかったその部屋は、アレクセイを主としてにわかに活気を増したのだ。
 人体実験の行われていた研究所の数は、その実験の数に比べれば驚くほどに少ない。それは、その実験が胸を張って人類のためだと公言できない類のものである何よりの証拠であったのだが、彼にとっては都合のいいことであった。それに、その研究所の集中していたとある星の大陸は、原因不明の地盤沈下によって三年前に消失している。彼はその異常事態も、神が彼のために仕事の一部を肩代わりしてくれたのだと思った。
 となれば、それ以外の施設は相当に数が限られることになり、現在進行形で研究を進めている施設はそれこそ数えるほどになる。しかもそのいずれもが政府のお墨付きを受けずに違法研究にうつつを抜かす、いわば暴走した研究施設であった。そのうちの一つには共和宇宙の最高学府の一つと呼ばれる教育機関の研究所も含まれていたが、この際の彼には関係がない。
 彼はまず、現在把握している過去に違法研究を行っていた施設に徹底した査察を行うことにした。以前そういった施設で働いた人間を取り込み、その知識をもとに施設の内外の取り調べ、帳簿を洗い出し、研究員の尋問等を行った結果、そのいくつかが現在も資料を隠し持ち、あるいは現在進行形で研究を進めていることが分かった。
 その結果は、アレクセイにとって満足すべきものだった。彼がその役職に就いたからには、最低でも一つか二つは実効的な成果を上げる必要があったのだ。『調査の結果怪しい研究所は見つかりませんでした』などという報告をあげるのは無能者の仕事である。仮に真実がそうであったとしても、そこはでっち上げだろうが脅迫だろうが、何らかの結果を形として残さなければ有能な人材と扱われることはない。彼はそれを痛いほどに理解していた。そういう意味でいえば、馬鹿な研究者達がそのとち狂った探求心を発揮して諦め悪く実験を続けていてくれたことは、彼の余計な仕事を一つ減らす結果になったと言えるだろう。
 それらの結果はすぐさま報告書に纏め上げられ、彼の直属の上司に報告される。上司はそれを満足げに受け取り、更に上へと報告する。それが何度か繰り返された結果、その研究所には、問答無用の援助打ち切りの通告と、今後の研究結果の学会への発表禁止が通達され、そこで働いていた研究員には事実上の死刑宣告がなされるのである。
 結果として閉鎖されたそれらの施設で非人道的な扱いを受けていた被験者は数多い。彼らに対してどのような救済を行うべきかは意見が別れた。一番多かった意見は、口をきける者には相当の金を掴ませて黙らせる、どうしても聞き分けのない人間はその記憶を操作して外に放り出す。もう口もきけなくなった人間は『人道的な処分』を行うというものであり、大方がそれに同意した。もっとも連邦の首脳達に意見を求めれば、青い顔で別の方法を提案したかも知れなかったが、しかしこの程度の案件についてそこまでの上申はされなかったのだ。
 そのようにして、幾つかの案件がアレクセイの手によって処理された。彼がこの件についての対応窓口となるのにそう時間はかからなかった。このまま事件が収束に向かえば、当然第一の功労者は彼ということになるだろう。
 まずまず満足すべき結果であった。
 ただ一つ汚点があるとすれば、現在違法研究を堂々と行っているほとんど唯一の研究機関であった連邦政府最高学府のお抱え研究機関を摘発したことで、その学長が彼の事務所に怒鳴り込んできたことくらいだろうか。その時は流石の彼も対応に苦慮し、上司にあるがままの事実を報告した。少しの間だけ渋い顔をした上司は、彼のデスクに設えられた電話を取り、彼の知らない内線をプッシュした。
 その結果は驚くべきものだった。
 事務所の一番奥の、VIP用の会議室で、怒り狂う学長をなだめすかしていたアレクセイとその上司の元を訪れたのは、彼自身ですら数えるほどしかその顔を見たことのない、連邦主席その人であったのだ。
 驚いたのはアレクセイだけではなかった。その上司も、そして学長も驚いて目を丸くした。しかしその直後、学長は顔を真っ赤にしてアレクセイの調査の違法を切々と説いた。そして、その研究の有効性もである。

『よろしいですかな、主席。この者の違法な調査の結果、我々の研究にはとてつもなく大きな遅延と取り返しの付かない障害が生まれました。それは、人類全体の損失と言っても過言ではないものなのです』

 よく言う、とアレクセイは思った。仮に彼らの研究が人類全体の総意に適うものなのならば、日の当たるところで堂々とすべきなのだ。それを、最高学府の名前などどこにも出さない地方研究施設の地下に、浴びるほどの税金を使った最高水準研究設備を密かに運び込み、そして脅迫や拉致を含む違法手段で揃えた実験材料を切り刻みながら、何の臆面もなくよく言ったとはこのことであろう。
 それに、その研究の結果、人類全体に奉仕するような素晴らしい研究結果が表れたとして、その研究結果は学長本人の立場を強固とするためにまず奉仕させられるのは目に見えている。自分自身の利益を奪われたと弾劾するならいざ知らず、まるで自分が人類全体の奉仕者であるかのように被害者面をするのはいっそ見事と言うべきであったかも知れない。
 ほとんど無限にも続くかと思われたアレクセイとその上司に対する非難の嵐を、マヌエル・シルベスタン三世は真剣な面持ちで聞き続けた。所々、相づちを打つように頷いたりもした。
 やがてしゃべり疲れたのだろうか、赤ら顔で息を切らした学長は、途切れ途切れの調子でアレクセイ及びその上司の罷免と、研究の即時再開を求めた。彼は、そのあまりに当然の権利は叶えられるものと信じて疑わなかった。でなくば、多忙を極める国家元首がこんなせまっくるしいオフィスに顔を見せる理由が無い。これは、不当な弾圧に対する義憤に燃える、学長たる自分に対する誠意の表れなのだと心から信じ切っていた。
 しかし、三世の返答は冷淡を極めた。

『申し訳ありませんが学長、あなたの要求に応じることは出来ません』
『…ほう、それは何故?国家主席として広い視野と見識を誇るあなたのお言葉とも思えませんな』

 さすがに怒鳴り散らしたりはせず、その内心を押し殺しながら学長は尋ねた。それでもこめかみの辺りに太い血管が浮き出ているのは隠しようもない。

『この者達の調査態度に見直すべき点があったのなら謝罪させて頂きましょう。そして強く言い聞かせておきます。しかし、彼らの行った調査と、その後の処理自体には何の違法性もない。それは、連邦憲章以下各種法律に照らしたところで明らかです』
『主席、私はあなたの狭量さに失望を隠せません。あなたは、我々のする研究がどれほど多くの人達を幸福へと導いてきたか、知らないわけではありますまい?』
『ええ、よく存じ上げております』

 主席は頷いた。確かに、その研究所が行った実験の成果として、数々の難病の治療方法や画期的な人体補助器具が生み出されているのは事実だったのだ。そして、その成果によって救われた人間が数多くいることもまた事実である。だからこそ、非合法の人体実験という危ない橋の通行許可証を彼らに認め続けたのであり、多額の予算を組みもしたのだ。
 彼も、若い頃は今よりも理想に燃えている時期があった。そんなとき、彼の父たる当時の国家主席から、そういった施設の存在を聞かされた。当然、若かりし日の彼は怒った。そのように、人を人と思わぬような、前時代的な在り方が許されていいのか、と。
 彼の父は、そんな彼を、遠い昔の自分を眺めるように優しく見つめながら、特に優しい声で諭したものだ。この世は全て綺麗事のみで丸く収まるわけではない。清濁併せのむとは安い言葉であるが、為政者として必要な資質の一つである、と。
 なおも噛み付く息子に、父親は諭した。

『昔、お前は一度大病で死にかけた。そんな時にお前を死の淵から救ったのは、彼らが違法な研究によって生み出した特効薬の一つだ』

 マヌエルは、それ以上の弾劾を口にすることが出来なくなった。
 そして彼は父の後を継いで為政者となり、その過程として清濁併せのむ技量と心構えを身に付けていったのだ。
 それらの結果として今、学長と相対する彼は、あくまで淡々とした口調で言った。

『確かにあなた方の行っていた研究は、人類全体に資するものでした』
『現在行っている研究です。そして、資するものなのです』

 憮然とした学長は、主席の発言を微妙に修正した。それから表情を微妙に変え、そのまま続ける。

『さすが主席です。あなたが今仰ったとおり、我々の研究は広大な宇宙に手を広げ、その全てを包み込もうとしてる人類の大きすぎる体を健康に保つため、なくてはならないものなのです。ならば、それが故なく中断せざるを得ない現状の時間の浪費がどれほどの損失が、分からぬわけではありますまい』
『中断ではありません。中止、しかも永久的な凍結です』

 今度は主席が、学長の発言を修正した。毅然とした、如何にも有能な為政者然とした様子で、だ。
 対する学長は、先ほどの主席ほどには落ち着いていなかった。
 いよいよ自分の主張が通らないらしいと自覚したのだろうか、本日最大の噴火をした。

『何故です!?何故いまさら、研究を中止しなければならないのですか!?まさか、極めて局所的で限られた人道主義にとらわれたわけではありますまいな!そうでしたら、私は心底あなたを軽蔑しますぞ!この広大な宇宙の頂点に立たれる為政者であるあなたが、大局を見誤り、たった一人や二人の被験者の人権のために人類全体の幸福の追求権をないがしろになされるのですか!?』

 口角泡を飛ばす有様で学長は叫んだ。ほとんど、幼児が泣き喚く様子と変わらない。
 アレクセイはこの遣り取りを冷ややかに見つめていた。この男は人類全体という言葉がどうしても好きなのだなと感心したほどだ。
 確かに、一人の人間の犠牲で百人の命が助けられるならば、その一人の命は見捨てられて然るべきだ。別に過度の人道主義者ではないアレクセイもその点には深く同意する。
 しかし、その一人には、取捨選択を司る神の一人子が選ばれることはない。選ばれるのは、いつだって声の小さい、何の権利の主張も許されない弱い人間達である。もしもこの学長の下で働いていた研究者達が、自分の子供達や両親を率先して実験材料にしていたというのであれば、彼はこの場で土下座をして己の不明を詫びてもいいと思った。
 そんな彼の内心を忖度したわけでもあるまいが、主席は淡々と答えた。

『学長、落ち着いて聞いて頂きたい。私は、別にあなたの仰るところの、安っぽい人道主義にとらわれたわけではありません』
『では、何故!?』
『先ほどあなたも仰ったでしょう。私は局所的な人道主義にとらわれることなく、人類全体の奉仕者として活動している。私があなた方の研究を排斥するのは、正しくこの一点からなのです』
『戯言を!いいですかな!?私の研究で、よしんば一人の人生が台無しになったとして、その先には百人、千人の幸福が待っている!そのためならば、私は敢えて汚名も被ろう!その覚悟を、あなたは無価値と断ぜられるか!?』

 ほら地がでた、とアレクセイは内心でほくそ笑んだ。研究が『私の』研究と様変わりをし、そして『汚名を被る』という自己犠牲的な言葉も、裏を返せば自分達が行ってる実験の高度な違法性の認識の現れである。そもそも、部下の違法の責任を上司が償うのは人間社会の古来から当然の仕儀なのだ。それをさも自分が勇者であるように言われたのではたまらない。
 主席も、諦めたような顔で首を横に振った。

『いいですか、ブラッド学長』

 それは、癇癪を起こした我が子に語りかける母親の声の優しさと、ほとんど変わるところがなかった。

『私の言葉ではあなたに納得して頂くのは難しいようだ。なので、あなたの言葉で説明申し上げましょう。確かに、一人の犠牲で百人が救われるならば素晴らしい。私は為政者として、迷いなく一人の犠牲を選択するでしょう』
『ならばっ!』
『しかし、その百人の幸福を追求するために十億七千五百万人にも及ぶ人命が危機にさらされる可能性があるならば、私は百人の幸福を切り捨てることを選びます。何の迷いもなくね』
『…何人ですって?』
『聞き取れませんでしたか?ならばもう一度申し上げましょう。十億七千五百万人です』

 学長は唖然とした顔で尋ね、主席は青ざめた顔色でそれに答えた。まさかそのような答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう、弁舌家でならす学長は咄嗟に返す言葉も思い浮かず、茫然とした表情を浮かべ続けた。

『…あなたは何を言っておられるのだ?』
『あなたの知らないことです。あなたが私の言っていることが理解できなくとも、あなたには何の責任もない。そして、あなたが知る必要のあることでもない』

 そう言い捨てて、主席は立ち上がった。
 それはことさらに彼の権威を高めようと演出した結果ではなく、純粋に、彼の脳裏に蘇った恐ろしい記憶を振り切るための儀式のようなものだった。

『私の伝えるべきことは全て伝えました。これ以上の話は、お互いにとって時間の無駄というものでしょう』
『ま、待って下さい主席!』
『もしあなた方がこれ以上の違法研究に手を染めたいのであれば、今の私が為すべきことも為せることもありません。どうぞご自由に。しかし、私がその事実を把握したときは、可能な限りの厳罰をもって処断させて頂く。その時にこそあなたは、この共和宇宙の最高指導者の権力がどの程度のものかを知ることになるでしょう』
『そ、そんな!あと一歩なんだ!あと一歩で、医学史に私の名が載るような偉大な研究の成果が…!』
『では伝えましたぞ、ブラッド学長』

 縋り付く学長を振り払い、主席は会議室を後にした。
 残されたのは茫然自失の態で床にへたり込む最高学府長と、唖然として二人の会話を見守っていたアレクセイとその上司である。
 やがて我を取り戻した二人は、未だ我を忘れたように口を開きっぱなしの学長の両脇を掴み、丁重にオフィスの外に放り出した。今のその男に、先ほどまで力強く二人を弾劾していたときの若々しさも威厳も、欠片として存在していなかった。
 嵐のような時間が過ぎ去った後で、アレクセイは上司に己の不始末を詫びた。別に彼の仕事自体に問題があったわけではないことは他ならぬ行政庁の長からお墨付きを頂いてしまったわけだが、しかしこういうときは一応の謝罪と、事態を収めてもらったことに対するお礼をするべきなのだ。
 それに答える上司の声は、未だ何か夢を見ている様子であった。
 自分のオフィスに帰ったアレクセイは、興味半分の視線で自分を見る部下達をぎらりと睨みつけ、そして黙らせた。内心で両腕をあげて大喜びをしながらもここまで演技ができるあたり、ひょっとしたら彼の天性は役者の方面でこそ輝いたのかも知れなかったが。

 上出来である。

 これだけの案件、責任者が誰かと考えなかったこともないが、しかしまさかこの宇宙の最高権力者であるとは思わなかった。当然自分の報告書は彼のもとまで上げられているのだろうし、その結果が彼にとって満足いくべきものだったことは先ほど証明されたようなものだ。
 これで、彼は今まで自分が望むべくも無いと思っていた地位にある人間と強力なパイプで結ばれていることを知った。これまで世話をしてきてやった、凡百の政治屋共とはわけが違う。父、子、孫と三代続く、燦然たる血統書付きの一族に、自分の名を知って貰えたのだ。しかも、ほとんど間違いなく有能な官吏として。このことに喜ばない方がおかしい。
 あとは、今は限りなく細く頼りないこのパイプを、ことあるごとに太く長くしていくだけである。そうすれば、いずれは連邦主席補佐といった要職に就くことも夢ではないように思われた。 
 彼は、自らの幸福を神に感謝したものだ。
 彼のもとに奇妙な報告書が舞い込んだのは、彼自身のこれからの輝かしい前途に対して自宅で盛大な前祝いを催した、正にその翌日のことだった。



[6349] 第五話:会議
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:43
 惑星レダは、連邦政府の統治権の及ぶ宙域の一番端の方にある。
 資源はそれほどに多い星ではなかったが、重力波エンジンが惑星間移動の主たる手段であった頃、多くのゲートがその周辺宙域に存在するという理由から、交通の要所として大変栄えた。ショウ駆動機関ドライブの登場によって《駅》ステーションの存在が忘れ去られようとしている現在においては、さすがに時代の中央からは外れた印象があるものの、それでも人口数億を抱える巨大な惑星である。
 レダの地方都市であるアカシャ州の外れの方に、一棟の病院がある。いや、今は人気の絶えて久しい廃病院だから、病院だった建物と呼ぶべきだろうか。

 元から、その病院の存在はどこかおかしかった。

 アカシャは、レダの中ではさして豊かな州ではない。むしろ貧しいと言ったほうが正確だろう。
 地形が山がちで宇宙船の離着陸に不便であり、その上緯度の高いところに位置しているから冬は長くそして厳しい。主たる産業は昔ながらの放牧と農業、あとは少ない鉱物資源の採掘くらいのものだ。そんな場所に好んで住み着こうという物好きは少なく、当然の結果として州の生命線たる税収は雀の涙ほどのものでしかないから、各種公共サービスにも支障をきたす。
 こうなると、人はどんどん街に流れ出す。特に若い人間はいなくなる。そうすれば、残されるのは老人たちだけだ。結果、絶対数として医師の数が足りなくなり、満足な治療を受けることが出来ずに死んでいく老人の数が多数にのぼった。だから、医師の数を増やして病院を誘致することは住人の切実な願いであり、また州政府の急務であったのだ。
 そんなある日、アカシャの中心部から少し外れたところに、大きな病院が建てられた。
 立派な病院だった。外見は清潔さと荘厳さをちょうどよくブレンドしたようで、周囲の牧歌的な建物と比べれば中世と現代が入り混じったような印象すらある。中に運び込まれた医療設備も最新鋭のものであった。その上、医師や看護師といった人的資源の質も申し分ない。
 アカシャの住人は、誰しもが喜んだ。特に、長年の医師不足に頭を抱えていた州知事などは、これぞ神の恵みと喝采を送ったものだ。
 しかし同時に、誰しもが奇異に思った。このように設備の揃った病院をこんなところに建てて、果たして採算が取れるのか、と。
 それは、至極尤も疑問であった。しかし、そのうち誰もが忘れた。別にこの病院がどこぞの金持ちの道楽で建てられたものであったとしても、痛むのは彼らの財布であって自分達の財布ではない。ならば、彼らの気の変わらないうちは精々その恩恵に与り、余計なことは口にしないのが正しい。
 そのようにして住民達の生活の中に溶け込んだその病院だったが、今から三年ほど前に何の前触れもなく突如として閉鎖した。入院患者は遠く離れた他州の病院に転院させられ、通院患者に至っては他院へのカルテの引継ぎもされぬままに、である。
 アカシャの住人達はさすがに憤り、州政府にこれは何事かと詰め寄った。何故なら、病院のように公益性の高い機関の許認可や設立・廃止等の諸権限は、悉くが州政府に属するものだからである。
 しかしこの事態は当の州政府にとっても寝耳に水だったのだ。対応に苦慮した州知事は、事の経緯を尋ねようと院長や事務長その他の責任者の所在を探したのだが、そのいずれもが完全に行方をくらましてしまっていた。
 それだけならばまだよかった。傾いた病院経営を放り投げての夜逃げなど、別に珍しいことではない。しかし、町に住居を有していた末端の医師や看護師、果ては売店の売り子や掃除夫に至るまでが同時に行方不明となっているのを知って、州知事は顔を青くした。これはさすがに尋常な事態ではないと悟ったらしい。
 しばらくの間この異常事態への対応に右往左往していた彼のもとに、連邦政府からの通達が届いたのは、突然の閉院から三日後のことである。
 その通達を携えたのは、どうにも人間味を欠いたように見える無機質な男であった。その男は、やはり無機質で感情のこもらない声で、その病院の完全閉鎖と立ち入り禁止の徹底を要求した。
 州知事はさすがに腹立たしく思った。この忙しいときに何の連絡もなくいきなり乗り込んできて、そして居丈高な調子で要求したのが問題となっている病院の閉鎖である。何故かと問うても、男はそれは答えることが出来ないとつっぱねっる。それは詰まるところ、これ以上この問題に首を突っ込まず、自分達の言うとおりに行動し、そして住人をなだめることだけはお前達がしっかりやっておけと、そういうことだった。
 当然、州政府側としては面白いはずがない。州の自治と連邦政府からの独立というお題目を盾にして通達への服従を渋る州知事だったが、しかし役人は無表情に、一枚の紙片をテーブルに置いた。
 州知事は、目を丸くした。
 それは、連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの、緊急事態通知書だった。
 共和宇宙を治める連邦政府は、あくまで各惑星の総意に基づいた連邦体制を維持している。それ故に各惑星に認められた自治権は幅広く、その範囲に属することである限り連邦政府といえど簡単に口出しはできない。
 だが、州政府が連邦政府を構成する一単位である以上、当然例外も認められる。連邦議会で上下両院の議員数の三分の二以上の賛成を得た決定や、有事の際にのみ認められる連邦主席の強制命令権等には、その自由意志を放棄した上での服従が求められるのだ。そして、今まさに州知事の前に広げられた書類は、その強制命令権の発動を知らせるものだった。

『まさか、こんなものが…』

 州知事は、額から流れる冷たい汗をそのままに、かすれた声で呟いた。今年で60歳を迎える彼は年齢の割に若々しいと言われることが多かったが、しかしいつの間にか年相応の容貌になってしまっていた。
 無理もない。何故なら、彼の記憶が正しければ、共和政府が正式に発足して以来、緊急事態通知は制度として存在しているものの使われたことは一度もない、正しく伝家の宝刀であったはずだ。それが、こんな辺境惑星の、しかも片田舎の州の病院一つのことで抜かれるなど、彼の想像の範疇ではなかった。
 一体、自分はどんな厄介事に関わっているのだろうか。そう考えて、州知事の顔は蒼白を通り越して土気色になった。
 そんな州知事の顔をつまらなそうに眺めていた役人は、やはりつまらなそうに言った。

『生憎ですがいずればれることなので、先に申し上げておきましょう。その通知書は偽物です』
『何だって!?』

 州知事の素っ頓狂な叫び声に、しかし役人は顔色を変えなかった。

『しかし、その署名と捺印は本物です。今すぐに政府の管理脳にアクセスして頂いても結構ですよ』
『…どういうことか、説明して頂けるのでしょうな』
『もちろんです。何せ、私はそのために遠路はるばるここまで来たのですから』

 役人は、小憎らしい程に落ち着いた声で答えた。
 いつの間にか彼の表情から無機質さが消え、燃えるような、それとも凍て付くような視線が自分に向けられていることを知って、州知事は乾いた唾を飲み込んだ。

『要するに、我々の覚悟の程だと思って頂きたい。これはあくまで偽物ですが、あなた方が我々の期待に応えてくれなければ我々にはいつでも伝家の宝刀を抜く用意がある、という覚悟のね』
『…国家主席ともあろう方が、軽率なことをなさるものですな』
『騒ぎにして頂いても結構ですよ。連邦国家主席が、これこれこのように違法な書類を提示して、卑劣にも我らの自由と権利を侵害しようとした、と』

 男の言葉は相変わらず無機質であったが、しかしその内容は明らかな脅迫であった。
 やれるものならやってみろ。このように辺境の、そして寂れた惑星のたかが一州政府の怒りなど自分達は歯牙にもかけていないのだと、強烈なまでのアピールだ。
 州知事の顔が、今度は屈辱に赤く染まった。自分への無礼であれば笑って見逃す度量をもっている人間でも、自分が誇りをもって奉公する組織を正面から侮られて愉快な気持でいられるはずがない。
 しかし、彼は内心の腹立ちを押し殺すように、言った。

『…あなた方の望みは何ですか』

 男は、心底しらけたように言った。

『最初から言っているでしょう。我々の要求は、件の病院の即時にして徹底的な、そして恒久的な閉鎖です』
『それは承知しています。しかし、何故そのような…』
『それを聞かれて、答えることが出来ると思いますか?』

 最早侮蔑の表情を隠さずに、寧ろ憐れむような調子で男は言った。

『しかし、この州を預かる責任者としてあなたが不安を抱かれるのも当然です。なので、これだけは申し上げておきましょう。例えば、あの病院でバイオハザードがあったとか、そういう事情は一切ありません。住民の方々に何らかの被害が及ぶことだけは、絶対にない。間違いなくない。あれは、そういうことを研究する施設ではなかった』

 その言葉に、知事は少なからず安心した。
 単なる噂話の域を出るものではなかったが、確かにそういう話もあったのだ。
 あの病院は、実は政府の息のかかった研究機関で、決して人の目に触れることの出来ないような研究をしている。だから、このように辺鄙な場所に立派な病院を建てることが出来たのだ、と。
 そんな噂のある病院が何の前触れもなく閉鎖されたものだから、不安と疑心に尾びれと背びれと牙と角が付いたような噂話が流れたのも当然だった。曰く、密かに軍事目的で開発していた殺人ウィルスが漏れ出し、最早手の施しようがない状態になってしまい早晩この星は人の住めない死の星になるのが目に見えていたので、研究員は家族を連れてこの星から逃げだした、というものだ。
 馬鹿馬鹿しいと思う。しかし、それを一笑に付すだけの胆力は州知事には備わっていなかった。事実、相変わらず院長をはじめとした病院関係者の行方はさっぱりであったし、この三日に体調の不良を訴える者の数は平時の倍以上に上り、数少ないアカシャの医師達はほとんど不眠不休で診察に当たっていたのだから。

『…そのお話が事実であると、証明はできますか?』
『バイオハザードなど無かったと?無茶を言う、悪魔の証明の困難さはあなたも御存じでしょう?』
『それが、この事態を引き起こした張本人のお言葉か!?』

 州知事はさすがに語勢を荒くした。事ここに至れば、あの不可解な病院の出資者が中央政府の息がかかった者だったのは疑いようがない。そして、その意図するところがアカシャの住民への社会的福祉ではなかったことも明らかだ。
 男は、無言で肩を竦めた。俺にそんなことを言われても困る、といった様子だったが、しかしこの場合は州知事の方が正しい。組織への糾弾は、その組織に属する人間の全員が責任を負うべきなのだ。責任を取らされるのが誰かは別にして、である。
 しかし、男は口に出してはこう言った。

『我々は、今回アカシャの方々に多大なる迷惑をかけたことに対して慚愧の念を抱いております。しかし同時に、今回の一件は、この共和宇宙の平和と安全のために必要不可欠な処置だったと、我々は信じています。ですから、この処置が間違いだったかと問われれば、一切の誤りはなかったと、そう答えさせて頂きましょう』
『では、この事態をどう収拾するというのだ!?』

 突然病院に切り捨てられたかたちの患者とその家族の不満と怒り、そして流言飛語によって昂ぶった住民の不安は、最早限界水域にある。
 そろそろ何らかの手立てを考えて実行に移さないと、下手をすれば暴動が発生しかねないような、事態はそういう切迫した状況にまで進展していた。

『そこはそれ、州知事たるあなたの腕の見せ所でしょうが』
『そんな、無責任な…!』
『例えば、こういうのはどうでしょう。あの病院は、いくらなんでもこの片田舎…いや失礼、このように閑静な場所には不必要に大きすぎた。採算性を確保するため、いくつかの小さな施設に分けて、このアカシャ全体をカバーするようなかたちで再配置する予定だ、と。患者の引継ぎに不手際があったのは単なる手違い、その補償はきちんとする、とね』

 男は得意げな調子で言った。
 州知事は一瞬言葉を飲み込み、それから地の底から響くような声で唸った。

『そのように稚拙な言い訳で、住民の不安が解消されるとでも?』
『意外と何とかなるものですよ。怒りや不満には、こちらの誠意を見せてやるのが一番。正当な補償を約束してあげれば、とんでもないへそ曲がり以外はあらかた納得するものです。そして、この州の最高責任者であるあなたがこの場所に未だ留まっていることを明らかにすれば、病原菌が漏れ出したなどという根も葉もない噂は即座に消え去るでしょう』
『…しかし、今日のところがどうにかなったとして、その補償や、新たな病院を建築するための資金はどこから捻出するのですか。あなたも、この州の財政事情がどの程度のものか、御存じなはずだ』
『ええ、その点ついてはご心配なく。我々中央政府が、責任をもって面倒を見させて頂きます』

 州知事は、目を丸くした。
 彼は、男の言う解決策と似たようなことを考えたこともあったのだ。しかし一番のネックになるのが、その実効性である。病院経営には存外に多額の費用がかかるものだし、しかもあれだけの規模の病院をこのように辺鄙な場所に誘致しようと思えば、多額の補助金を捻出しなければならない。そのための資金が、徹底的に不足しているのだ。
 不渡りを出すことが分かっていて、無茶な手形を切ることはできない。もしそれが出来るとするならば、倒産が決まって尻に火が付いている多重債務者が夜逃げの資金を稼ぐために己の信頼を切り売りする場合だけである。
 だから、州知事は、自分に任せられた権限と、それ以上に限られた資金をもとに、果たしてこの事態をどうやって解決したものかと頭を悩ませていたのだ。そんな彼にとって、男の言葉は正に福音といってよいものだった。

『…その言葉、間違いないでしょうな』
『ええ。こちらをご覧ください』

 男がそう言ってカバンから取り出したのは、やはり連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの誓約書であった。今後、今回の事態によって引き起こされたアカシャ州の騒動を治めるため、政府はその資金援助を惜しまないことがその書面にて確約されていた。

『当然、これは超法規的な処理ですので、この書類の実効性を確保するためには、この宣誓書にサインをして頂かねばならない』
『宣誓書?』
『ええ。今回の事態に中央政府が関わっている点について、一切口外しない旨の宣誓書です。そして、この件について無用な詮索を一切行わない、その宣誓も同時にしていただきましょう』

 男はてきぱきとした様子で、カバンの中から無垢の宣誓書を取りだして、三度テーブルの上に置いた。顔中に汗を垂らした州知事は、辛うじてその文面を目で追ったが、特に不審な点は見当たらない。一応裏をひっくり返して妙な記載がないかどうかを疑ったものだが、結果としては目の前に座った男の失笑を買っただけだった。
 そんな男の様子に気がつくことすら出来ない州知事は、先ほどの誓約書も同じように、穴が空くほどに読み返した。しかし、やはりというべきか不審な点は見つからない。これはどうやら、男の言うことは真実らしいという結論に至り、彼は長々とした溜息を吐き出した。
 
『如何ですか?何か、不都合な点でも?』
『…いえ、結構です。これだけの援助が頂けるのであれば、この事態を収め、そして今後の中央政府との間に良好な関係を築いていくことが出来るでしょう』
『では、我々の要求も呑んで頂けると、そういうことですね』
『…仕方ありませんな。住民の生活の安定のために』

 けっして脅しに屈するのではないぞと、微妙なところで虚勢を張っておきながら、州知事は誓約書を決して手放そうとしなかった。これは、間近に差し迫った次の選挙を勝ち抜くための、いわば通行許可証といってよかったからだ。
 男は、州知事に宣誓書を書かせて、名残を惜しむこともなく州知事のオフィスから立ち去ろうとした。
 
『一つだけ、よろしいでしょうか』
『…はい、何でしょうか、知事』

 男は、来たときと同じように、人間味を欠いたように無機質な顔で振り返った。
 やや人心地を取り戻したふうな州知事は、曲がりなりにも自分にとっての福音天使となったその男に、疲れたような愛想笑いを浮かべながら言った。
 
『無期限にして徹底的な閉鎖とあなた方は仰る。しかし、あれだけ大きな建物を恒久的に閉鎖するには相当の費用がかかります。無論、その費用はあなた方持ちなのだからその点について不満は無いのですが、しかし不思議には思います。何故取り壊さないのですか?』
『ええ、出来る限り早く撤去したいとは思っています。しかし、今はその時期ではないと、そういうことです』
『どういうことですか?』

 男は、州知事が初めて見るようなにこやかな笑顔を浮かべて、言った。

『あなたの知ったことではありませんな、州知事』

 程なくして州知事自らの緊急会見が開かれ、この事態を引き起こしたことに対する陳謝と、ことの真相が明らかにされた。
 明らかにされた真実は、呆れるほどに味気ないものだった。
 今回の閉鎖騒動は、あくまで病院の経営者側の手続ミスであり、患者への対応の不徹底はその煽りを受けただけのものであってそれ以上ではない。また、当該病院の代替施設は可及的速やかに建築中のため、住民の社会福祉政策に与える影響は極めて軽微であり、今回の騒動で被害をこうむった方々には政府の方から十分な謝罪と補償を行う。
 また、巷を騒がす不届きな噂については全くのでたらめであり、アカシャ州の住民は何ら不安を覚える必要は無い。その証拠に、この州の行政最高責任者たる自分が未だここに残っているではないか…。

 彼の言葉通りに代替施設の建築は急ピッチで進められ、三ヶ月後には州の主たる集落の全てに小さいながらもしっかりとした設備を整えた診療所が設置された。その頃には、怪しげな病原菌の噂など、この州に覚えているものはいなくなっていた。
 ただ、噂の大本になった廃病院は取り壊されることなく厳重に封鎖され、周囲の住民を不気味がらせたものであったが。



 自分専用に設けられたオフィスで、朝一番のコーヒーの香りを楽しみながら報告書に目を通していたアレクセイ・ルドヴィックは、これまでの部分について何の感慨も持たなかった。
 考えたことがあるとするならば、この程度の案件に偽造した緊急事態通知書を提示する辺り、当時の連邦政府は相当に追い詰められていたのだなと、その程度のものである。もし自分が州知事であったならばきちんと共和政府の出方を確かめ、遙かに大きな譲歩を引き出した自信があるが、それは今回の彼の仕事とは全く関係がない。
 また、閉鎖に至った経緯そのものも、これまで彼が目を通した別案件の報告書とそれほど変わるところが無い。要するに、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後に頻発した、特異能力者研究所―――それも違法な人体実験に手を染めていた研究所に対する一斉閉鎖の、ありふれた一幕とでも言うべきものだった。
 彼は余計な感想を頭から閉め出して、報告書の次のページをめくった。
 そこで初めて、彼の顔が微妙に歪んだ。

 閉鎖された病棟は、ここ三年間全く何の異常もなかった。表向き地上十階地下二階、その実は地下十階に及ぶ建物は、およそ人の立ち入ることの出来る高さの部分は窓から通風口に至るまでコンクリートで厳重に封印が施され、それ以外の部分についても鉄板を貼り付けて外部からの侵入を不可能にするなど、その封鎖方法は確かに徹底したものである。
 にもかかわらず、ごく最近、近隣住民の間で妙な噂が流れているという。

 曰く、夜中になると、病棟の地下深くから、狼の遠吠えのような不気味な声が聞こえるというのだ。

 当然、それを聞いたのは一人や二人ではない。近隣に住んでいた住民のほとんどが、その声を耳にしているという。彼らとてその病棟が完全に封鎖されたことは知っているから、例え野犬や狼の類、いや、野鼠の一匹であってもその中に入ることが出来ないことは承知している。ならば何故そのような鳴き声が建物の中から響くのか。
 ネオンの光に慣れ親しんだ者であれば、そんな話は一笑に付したであろう。しかし、牧歌的な生活を続けるアカシャの住民にとって、夜の世界に君臨する魔物は、意外なほどに近くに棲んでいるものなのだ。
 当然の成り行きとして、州政府に対して、事態の真相究明の嘆願が出された。一通や二通であれば一顧だにされない嘆願書も、廃病院付近の住民一同の連名というかたちでなされると政府としても無視はできない。そして、半信半疑の様子で政府の役人が調査をしたところ、確かに建物の中から妙な声が聞こえるのである。それこそ、狼の遠吠えとしか思えない、低く低く、どこまでも響くような声が。
 彼らは顔を青くして、上司のところに汗掻き走った。その様子を遠く見守っていた住人は、やはりここには何か忌まわしい者が棲み着いているに違いないと確信した。彼らの中には、この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ、と言う者もあった。
 人の口に戸は立てられない。近いうちに、この噂は狭いアカシャ州を覆い尽くすのは目に見えている。そうなれば、三年前の再来だ。しかも今回は根も葉もない噂ではない、少なくともその葉の先っぽくらいはある噂だからどうにも質が悪い。
 対応に苦慮した州政府は、連邦政府に泣きついた。今後当該病院施設に何らかの異常があったときは、連邦政府が責任をもった処置を施すというのが、例の誓約書にうたわれていたからだ。
 そして、現在の連邦政府における、違法研究所に対する実務的な処理権限を有するのはアレクセイ・ルドヴィックその人だったので、彼の元に報告が上がってくるのは至極当然の結果と言えた。

 報告書を読み終えた彼は、心底呆れたような鼻息を吐き出して、重たい紙の束を机に放り投げた。

 まったくもって、馬鹿馬鹿しい。

 それがこの件に関する彼の感想である。
 いくら厳重に封鎖した建物とはいえ、それはあくまで人の侵入を防ぐための処置である以上、どこかに解れた網の目があったとしても何の不思議もない。アカシャ州には野生の狼はいないはずだから、きっと野犬の類がそこから入り、病院の中で遠吠えをしているのだろう。おそらく、それ以上の何物でもないはずだ。
 しかしそれにしても、どうして閉鎖処置などをしたのだろうか。もし彼がその時点において現在の地位と権限を有していたのならば、そのように物騒な建物は即座に爆破解体をしてしまうところだ。ただ、この場合は周囲の住民の間に殺人ウイルスなどという突拍子もない噂が流れていたこともあって、その程度の処置が妥当かと思わなくもないが。
 アレクセイは知らなかったが、実のところその建物はある種のモニュメントとして残されたのだ。つまり、『我々の意向に従わない者はこのような目に合うのだ』という、古代の反逆者に残酷な刑罰が与えられ、その死体が長期間に渡って街中に晒されたのと同様の理屈である。無論それ以外にも様々な要因があったのだが、主な理由は非合法な研究機関に対する見せしめ以外の何物もなかった。その建物で今回のような騒動が起こったのは、全く皮肉という他ないが。
 とにかく、事態は彼の手の中にあり、彼が解決してくれるのを待ち侘びている。少なくとも、彼以外の人間に新たな処理権限が与えられたわけではないし、彼が腰を上げなければ永遠に解決しない問題でもあるのだろう。彼の首が、誰かのそれにすげ替えられるまでは。
 アレクセイは、デスクの受話器を手に取り、部下達に会議室へ集まるよう指示を下した。



『…以上が、今回の案件の概要だ。何か質問は?』

 アレクセイの言葉に、一瞬誰も反応しなかった。いや、反応できなかったといった方が正しい。
 その場にいたほとんど全員が、呆気にとられていた。それどころか、自分達の新しい上司はついに頭がいかれたのかと思った者もいたし、そんなくだらないことで自分達がわざわざ辺境の惑星まで赴かなければいけないのかという言外の不満もあった。それらが喉の奥で飽和して、言葉にならなかったのだ。
 しかし、こういう場合は誰かが皆の意見を代表しなければならない。テーブルの最前列に座っていた、アレクセイの部下の中では最年長の男が、ゆっくりと手をあげた。

『失礼、主任。質問をよろしいでしょうか』
『なんだね、クルツ君』

 クルツと呼ばれた壮年の男は椅子から立ち上がった。

『今回の我々の任務なのですが…その、先ほどの主任の説明を伺うと、要するに野犬の駆除が我らの仕事と、そういうことになるかと思うのですが、その理解でよろしいのですか?』
『端的に言い表せば、そういうことになるな』

 アレクセイは重々しく頷いた。その拍子に彼のはげ上がった額が朝日を跳ね返し、数人の部下が目をしばたかせたが、口には何も出さなかった。
 一方クルツは、僅かに顔を引き攣らせた。そして、重ねて質問した。

『では、我々は野犬一匹捕まえるために、遠路はるばる惑星レダまで向かわなくてはならないと?』
『そういうことになる』
『失礼と承知で伺いますが、主任。あなたは正気ですか?そんな仕事、別に我々が赴かなくとも―――』
『では、誰が片付けるのか、君の意見を聞こうか』

 少し険の篭もった上司の声に少しだけ怯んだクルツだったが、自分の背中にはここにいる全員の賛同が乗っかっているのだと勇気を鼓舞して、言った。

『レダがいくら辺境の土地とはいえ、野犬の駆除会社の一つや二つはあるでしょう。そこに任せればよろしいのでは?』
『クルツ君。私は君を相当以上に有能な人材と思っている。あまり失望させないでくれたまえ』

 アレクセイは無慈悲な口調で言った。

『いいか?例えば君の意見に従って野犬駆除業者をあの病院の中に入れるとする。野犬が運良く地上階にいてくれるなら別段、もしも何かの拍子で地下階にいればどうする?それも、表向きは存在しない、地下二階よりも下のフロアにいた場合に、だ。そしてそれを追った駆除業者が、地下で何が行われていたのかを知ってしまった場合は?』

 クルツは、ごくりと唾を飲み込んだ。

『ま、まさかそんな…。あれでも歴とした研究施設なのですから、地下階への扉はきちんと施錠されているはずでは…』
『君はそれを確かめたのか?それとも、この場にいる誰かが、あの病院に直接赴いて地下研究施設の状況を確かめたのかね?』

 アレクセイは、自分が上座に座る会議用長机を、ぐるりと見回した。その場にいた全員が、一様に俯いて一言も発しなかった。
 その様子に満足したのか、アレクセイは更に続けた。

『同じ理由で、アカシャ州の職員を派遣するのも不可能だ。そもそも例の誓約書には、忌々しいことながらこういった事態には連邦政府がその責任をもって対処することが誓われてしまったいる。それを盾にされたらどうにもならん』
『では、現地の連邦政府職員に委託しては如何でしょうか?そうすれば、万が一の事態が起きたときも、箝口令を敷くのは容易いのでは?』
『何故情報局出身である私が、私のプロジェクトチームに軍属出身である君たちを招いたのか、分からんとは言わせんぞリヒター君。機密情報の漏洩の危険性は、それを知る人間の数に従って乗数倍に増えていく、軍事上の常識ではなかったのか?それにいくら連邦政府職員とはいえ、君たち軍属の人間と比べて口の軽さは比べようもない。そのような人間に、この手の仕事を任すほど私も危険愛好家ではない』

 アレクセイがその長舌を収めたとき、最早彼の意見に異議を唱える人間はいなかった。
 クルツは、素直に謝罪した。

『申し訳ありませんでした、主任。私が浅はかだったようです』
『いや、クルツ君。当然の意見だったと思う。これからも、どんどん忌憚のない意見を述べてくれたまえ』

 アレクセイは鷹揚に頷き、如何にも人好きのする笑みを浮かべた。
 彼は、有事には一切の躊躇なく部下を切り捨てる人間であったが、しかし平時においても部下に対して不必要に非情であるというわけではない。何故なら、いざというときに部下を動かすのは上司に対する忠誠心である以上、一々部下の反感を買っていたのではいつ何時寝首を掻かれるか知れたものではないからだ。
 あくまで上辺だけの寛容な笑顔であったが、その場にいた誰もがアレクセイを素晴らしい人格者であると思った。

『では、野犬捕獲用の道具を揃えておきましょうか』
『ああ、そうしてくれると有難いねグラント君。ついでに暗視用赤外線ゴーグルと、生命探査装置もあると万全かな』
『分かりました、すぐに手配します』

 末席に座っていた、いまだ少年のような顔立ちの部下が駆けるように部屋を飛び出していこうとするのを、アレクセイは呼び止めた。

『おい、グラント君』
『はい、主任。なんでしょうか』

 緊張した面持ちで答える若者に、赤ら顔の主任は笑顔で言った。

『そんなに急ぐ必要はないぞ、グラント君。今回の仕事は、君たちが当初考えたようになんともくだらない仕事だが、見方を変えればちょっとしたピクニックのようなものだ。殺伐とした毎日を送らざるを得ない憐れな子羊に、神が与えたもうた有給休暇だと思って、精々羽を伸ばそうじゃないか。そう思って、のんびりと支度をしてくれればいい』
『…はい、わかりました、主任殿』

 グラントと呼ばれた若者は、先ほどよりもいくらか和らいだ表情と足取りで、部屋を出て行った。居残った面々も、主任の下手なジョークに対して愛想笑いを浮かべている。
 
『では諸君、そういうことだ。準備はグラント君に任せるとして、出発は明朝ということになる。人員は、私とクルツ君、マクドネル君にラドクリフ君、そしてグラント君とイェーガー君の六名でいいだろう。残りは、事務所にて平時の事務をこなすこと。そのつもりでスケジュールの調整の方を頼む』
『主任も同行されるのですか?』
『君たちばかり肉体労働をさせるわけにもいくまい。それに、ピクニックには引率がつきものだろう?』

 悪戯っぽくいわれると、部下達も苦笑するしかない。
 
『では、会議はこれで終わりたいと思う。他に何か意見のあるものは?』

 アレクセイはぐるりと会議室を見回した。そこには、彼に忠誠を誓う、部下達の生気に満ちた顔があった。
 彼は満足げに頷き、散会を告げようとした。
 正にその時である。

『一つ、よろしいでしょうか主任』

 低い、地響きのような声が会議室に響き渡った。
 全員の視線が、発言者の並外れた巨体に集中する。
 アレクセイは内心に眉を顰めながら、しかし外面は愛想のよい笑顔を浮かべながら言った。

『…何かね、イェーガー君』
『はっ。今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうか?』
『…すまん、もう一度言ってもらえるかね、イェーガー君』
『今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうかと申し上げました』

 軍人らしい、如何にもしゃちほこばった声であったが、聞く者の顔を唖然とさせたのはその声質のせいではない。
 アレクセイは、さすがに侮蔑の表情を隠すこともなく、発言者に対して言った。

『イェーガー君、今回の任務について聞いていなかったのかね?』
『いえ、きちんと把握しております』
『では、今回の我々の任務はなんだ?端的に述べてみたまえ』
『野犬とおぼしき生物の捕獲、もしくは駆除。そのように理解しております』

 椅子に深く腰掛けながら、それでも立ち上がったアレクセイとほとんど同じ視線の男は、やはり重たく響く声で応じた。
 アレクセイは、ゆっくりと首を振った。

『そこまで理解していて、何故重火器の所持を求めるのか、理解に苦しむのだが』
『万が一に備えてです。できれば、中型の機関銃もしくはロケットランチャーの所持許可が頂ければ幸いなのですが』
『っ、きみは戦争にでも行くつもりか!?そんなものは不要だ!第一、許可が降りるものか!』

 アレクセイは声を荒げてそう言った。
 現在のアレクセイの部下はその全てが軍属の人間で固められている。それは彼に与えられた任務が時には非合法の手段を選んででも解決が急がれる特別任務である以上、荒事に慣れた人間のほうが都合がいいからであり、そして情報部出身の人間には彼が心底嫌われているからでもある。
 情報畑の人間と軍人畑の人間は、他の省庁に比べて人的交流が多い。しかしその事実は二つの機関の蜜月を示すものではなく、それどころか、野生の蛇の主食が蛙ではなく同種の蛇であるように、二つの機関の仲は決してよろしくない。寧ろ、険悪だと言ってもいい。
 それゆえに、アレクセイがこれだけ部下の人心を把握するにはそれなりの苦労があったわけなのだが、この場合はその苦労が無かったとしても、その場にいる全員がアレクセイの意見を支持しただろう。
 同僚や後輩から非難と嘲弄の視線を浴びながら、その大男は肩を竦めて黙り込んだ。もうこれ以上の意見はないようだった。
 アレクセイはそれを確認して、些かしらけた雰囲気になった会議を散会させた。彼はその時、この任務が終わった暁には、いつも目障りなあの大男はどこか辺境の戦地にでも更迭してやろうと心に決めたのだった。
 


 音がする。
 遠く近く、音がする。
 私を誘う声だ。遠くの狩り場へ、近くの狩り場へ。
 おお、懐かしき我が故郷。深い森よ、開けた野原よ。
 私は帰ってきたぞ。
 仲間よ、兄弟よ!
 今こそ、私の血肉を君達に捧げよう。
 私の牙で噛み砕こう。
 私の爪で引き裂こう。
 彼らの喉を、汚らわしいその瞳を。
 君たちへのお土産だ。
 きっと、気に入ってくれるだろう。
 彼らの苦痛を、慟哭を、断末魔を。
 私は丸ごと飲み干して、その血でもって恥を雪ごう。
 遠吠えよ、万里に響き渡れ、私の孤独を連れて行け!
 遠吠えよ、親愛なる兄のもとへ!
 届け!





[6349] 第六話:探索
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:45
 彼らが惑星レダに到着したのは、会議が行われた日から数えて、三日後のことだった。
 目的地であるアカシャ州はレダの中でも相当の僻地にあるため、宇宙船の発着のための施設がない。飛行機やエアカーを乗り継ぎ、彼らが現地に入ったのはその二日後の深夜のことだった。

 満月の夜だ。煌々と夜空を照らし出す、毒々しいまでの満月の明かり、そしてそれを背景として堂々と姿を曝す廃病院の影。
 戦闘経験が豊富な軍人である彼らですら息を飲むような、なんとも不気味な光景であった。
 
『さぁ、名残惜しいがここがピクニックの目的地だ。さっさと終わらせて帰ろうじゃないか。あまり長居すると、居残り組に絞め殺されるぞ』

 努めて明るく言ったアレクセイだったが、彼の内心を表したのか、喉から出たのはどうにも陰鬱な声にしかならなかった。この、どんよりと重たい空気を吹き飛ばそうとしたのだが、これでは逆効果である。
 そのとき、遠くの方から、何かが聞こえた。まるで、地の底から響くような声だ。

『…なんだ…?』

 誰かが呟いた。それは、その場にいた全員の内心を表していた。
 声もなく、全員が耳を澄ませていた。
 そのうちに、誰とも無く、やはり全員が気がついた。
 この声は、決して遠くの方から聞こえるのではない。
 足下。いや、そのもっと下の方。
 明らかに、地面の下から聞こえるのだ。

『…遠吠え…?』

 その声は、報告書にあったとおり、狼か野犬の遠吠えにしか聞こえない、恐ろしげな響きを持っていた。
 アレクセイの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。正直に言うならば、こんな不気味な場所からはさっさと逃げだしたかった。こんなところにのこのことついてきてしまった我が身の浅はかさを呪った。
 しかし、この場における最高責任者は彼である。軍人は確かに有能で扱いやすいが、司令官の指示がなくては動くことが出来ない。それは判断能力が欠如しているのではなく、そう教え込まれているからだ。
 彼は冷静なふりをして、部下に指示を出した。

『正面から入ろう。各自、暗視ゴーグルを』

 言われた直後に、全員が物々しい暗視ゴーグルを装着した。
 太陽の下にいるのとほとんど変わらないような視界の中で、アレクセイは続けた。

『では、事前の打ち合わせ通りに。私とクルツ君は一階に残って想定外の事態に備える。マクドネル君とラドクリフ君は地上階の探索、そしてグラント君とイェーガー君は地下階の探索だ。各自、電子ロックのキーと暗証番号は持っているな』

 言われるまでもないことだったが、全員が頷いた。
 一番若いグラントが正面玄関を開けると、中から埃と黴の、饐えた臭気が漏れ出した。

『うわ、ひどいなこりゃ』
『ああ、こんなところにいたら臭いが染み付いてミイラになっちまう』
『さっさと終わらそうぜ、糞犬を捕まえてさ』

 一度開けた玄関を厳重に施錠した彼らは、軽口を叩きながら、今は誰もいない正面受付の横を通り、患者用の待合ホールに辿り着いた。この病院が正常に稼働していた頃は溢れんばかりの患者で埋め尽くされていたであろうその場所も、当然のことながら人っ子一人いない。隅の方で枯れた観葉植物が、悲しげに俯いている。
 そこでしばらくの間待っていると、非常電源が作動したのか、ロビーに弱々しい明かりが灯った。それと同時に、先行していたグラントとイェーガーが戻ってきた。

『非常電源を作動させてきました。これで、システムが正常に作動している限り電子ロックは解除できるはずです』

 アレクセイは緊張した面持ちで頷いた。

『では、私とクルツ君はここで待機する。各自、目標を捕捉するか、それとも何か異変を感じたら、すぐに連絡すること。特に、階下のチームは気を付けるように。先ほどの遠吠えは、どうも地下から聞こえたような気がするからな。では、任務開始だ』

 全員が再度気を引き締め、自らの任務の完遂のために散開した。
 アレクセイとクルツはその場に残ったが、これは司令官の臆病によってだけではない。確かにその意味も色濃くあったのだが、この廃院は地上と地下を合わせて二十階にも及ぶ建物であるから、その一番上と一番下では無線の精度に今ひとつ信頼性が乏しいのだ。その点、中継地点となる地上一階に人がいれば、全員の連絡を密にするという意味でも、いざというときの予備兵力という意味でも心強い。それが分かっているから、残る二チームも何の不満も無く自分の持ち場へと散っていった。


 ヴォルフガング・イェーガーを初めて見た人間は、まずその大きさに度肝を抜かれる。
 221㎝のずば抜けた長身と、160㎏の体重は見た目そのまま熊のようであった。しかも体脂肪の一欠片も見当たらない、鍛え抜かれた大岩のような体躯だ。それを見て唖然としない人間の方がどうかしている。
 そして、そのいかつい肩の上に乗っかっている小さな顔も、また尋常ではない。正方形のブロックのように頑丈な頭部と、それを飾る短く切り込まれた蜂蜜色の髪。小さく、刃物で切ったように細い目と、その奥にあるやはり小さな茶色い瞳。彼を仰ぎ見る人間は、きっと彼がなんの感情も持たずに生まれた、機械の申し子のような存在だと思うに違いない。
 しかし、ヴォルフガングに親しい数少ない人間は、彼が非常に感情の起伏に富んだ人間だということを知っている。恋愛映画を見ては涙を流し、悪辣な犯罪事件があれば義憤に怒り、甘いものを食べれば相好を崩し、恥ずかしいことがあればこれほどかというくらいに真っ赤になる。
 そんな彼が軍人という道を選んだのは、偏に、彼の立派すぎる肉体を養っていくためだ。幼い時分の彼の家はお世辞にも裕福とは呼べない、平均的な市民の生活水準よりも遙かに下の生活を送っていた。それは彼の父親の早世が原因だったのだが、彼の母親はヴォルフガングを立派な一人前の人間にするために、身を粉にして働いた。 それでも、彼の人三倍の食欲を完全に満たしてやることは叶わず、幼かったヴォルフガングは常に腹を空かせていたものだ。
 彼は、空腹という感覚が、人として生きる限り不可分の感覚であると勘違いしていたから、別に不満はなかった。しかし彼の腹の虫がなる度に、疲れた顔をする母親が一層申し訳無さそうな顔で彼を見るから、それだけが嫌だった。
 義務教育過程を終えた彼は、その足で共和宇宙軍の軍属学生試験に申し込み、苦学の末に合格した。そこを中の上に引っかかる程度の成績で卒業し正式に任官して以来、国家間の大きな戦争こそ経験したことはないものの、テロリストの鎮圧や海賊の摘発等の各種任務においてめざましい戦績を残し、若くして少尉の地位にある。これは、士官学校出身者を除けば異例の出世といっていい。
 そんな自分がどういうわけか情報局の人間の下につき、そして今は野犬の駆除作業をしている。人生とは分からないものだと、ヴォルフガングは苦笑した。

『どうかいたしましたか、少尉殿』
『いや、なんでもない。それよりグラント曹長、何か見つけたか』
『はっ、今のところは何も。野犬がいたという痕跡も発見できません』

 年若い同僚の言葉を聞き流しながら、彼は廃院の地下深くへ潜っていった。
 既に、地下一階と二階の途中までの探索は完了している。今のところ、ここ最近に何らかの生き物が活動をしていた痕跡を見いだすことはできない。
 注意深く探索を続ける彼らの前に、巨大な扉が立ちはだかった。それは、研究用のブロックと一般用のブロックを区切る、分厚くて頑丈な扉だった。
 それが、無造作に開け放たれていた。あり得べきことではなかった。

『…開いている?なんで…』

 グラントは茫然と呟いたが、ヴォルフガングは神経質そうに舌打ちをしただけだった。それも、別に目の前の怪異が恐ろしかったわけではない。
 これで探索範囲が大幅に広がったと、そのことを忌々しく思っているのだ。彼は任務には忠実ではあったが、しかしワーカホリックを発症したことはなかったので、こんな面倒な任務を早々に切り上げたいというのは当然の心理だろうから無理もない。
 だが、これでアレクセイの識見は正しかったことが、図らずも証明されたわけだ。もしも野犬の駆除業者に依頼でもしていたならば、厄介な事態になったかも知れなかった。
 ヴォルフガングは、ハンズフリーの無線で、上司への回線を開いた。

『こちらイェーガー隊。ルドヴィック隊聞こえるか、オーバー』
『こちらルドヴィック隊。聞こえている、オーバー』

 最新式の無線機は、分厚いコンクリートの床越しにでも正確な会話が可能なようだ。その点に浅からぬ心配をしていたヴォルフガングは少しだけ胸を撫で下ろした。

『今のところ目標の捕捉は出来ていない。しかし、地下二階の研究ブロックに続く扉が開かれている。事前の情報では地下ブロックは完全に封鎖されているとのことだったはずだが間違いはないか、オーバー』

 無線機の向こうで、何やら騒がしい音声が聞こえた。何事か話し合いをしているらしかった。
 しかし、これは全く想定していなかった事態かといえばそうでもない。事実、アレクセイはそこまで考えた上で彼自身を含むチームの派遣を決めていたのだから。

『…事前の情報では完全な封鎖がされているはずだった。しかし、これはあくまで想定された事態である。そのまま探索を続行せよ。また何か異変があれば知らせるように。オーバー』
『了解した。このまま探索を続行する。オーバー』

 ヴォルフガングが無線機を切ろうとした、その時だ。
 その彼の足下で、グラントの呻き声が聞こえた。

『少尉、よろしいでしょうか』
『どうした、軍曹』
『これを見て下さい』

 グラントの震える指先が指し示すところ。
 そこだけ、積もった埃が僅かに乱れていた。
 自分達は、まだそんなところを通った覚えはないし、この閉鎖された病院の中を風が吹き抜けることもあるまい。
 間違いない。
 誰か、もしくは何かが、つい最近にこの扉のある箇所を通ったのだ。

『ルドヴィック隊、聞こえるか、オーバー』
『どうした、まだ何かあるのかイェーガー隊、オーバー』
『侵入者の痕跡を、例の扉の傍で発見した。どうやらこっちが当たりらしい。これより探索を追跡に切り替え、奥へ向かう。上階へ向かった部隊に援護を頼むよう伝えて欲しい、オーバー』
『了解した。マクドネル隊に地下へ向かうよう伝える。イェーガー隊はそのまま追跡を続行するように、オーバー』

 それだけ伝え終えて、ヴォルフガングは今度こそ無線を切った。
 そして、何気なく開けっ放しになった扉の施錠部分を見た。
 今度は、流石のヴォルフガングも唖然とした。
 何故、この扉が開けっ放しになっているかを理解した。
 扉は、解錠されたのではない。
 もっと単純に、ぶち壊されていたのだ。
 本来であれば分厚い鉄芯で繋がれているはずの施錠部分は、何か強い力で無造作に引き千切ったように、完全に破壊されていた。しかも、その破壊部位だけ、赤錆が浮いていない。
 この扉は、つい最近に破壊されたものなのだ。それも、おそらく内側から。
 どうやら、これは尋常な事態では無いらしい。そう思って、彼は盛大な溜息を吐き出した。

『どうしましたか、少尉殿』
『これを見ろ、軍曹』
『…、これは…!』
『軍曹、お前、こんな真似ができるか?』
『出来るわけないじゃあないですか!』
『なら、これから先、絶対に俺の傍から離れるな。俺は中型の熊くらいなら素手で相手できる。せめてあちらさんがそれくらいのサイズであってくれればいいんだがなぁ』

 ヴォルフガングはぽりぽりと頭を掻きながらそんなことを言った。
 グラントは、出発前の会議で、この男だけが重火器の携帯を提案していたことを思い出し、そのことが何やら不吉な未来を暗示していたような気がして身震いをした。

『おい、行くぞ軍曹。それともここで待っているか?』
『い、いえ、ご一緒させて頂きます!』

 少し先を歩いていたヴォルフガングのところまで、グラントは駆けた。こんなところに一人残されるなんて、情け無い以上にただ恐ろしくて、冗談ではなかったのだ。
 地下二階の探索を終えた彼らは、そのまま階段を下り、地下三階へと辿り着いた。
 その階に立ち入った瞬間、ヴォルフガングの鼻を嗅ぎ慣れた臭いがくすぐった。

『臭いな…』
『はっ?』
『お前は感じないのか?』

 グラントは首を傾げた。

『あの、埃と黴以外の臭いは何も…』
『そうか、なら俺の鼻がいかれたのか』

 ヴォルフガングは相変わらず、頭のあたりをぽりぽりと掻いている。
 グラントは、恐る恐るといった調子で尋ねた。

『あの、少尉殿は一体どんな臭いを…?』
『血だ』
『血…ですか』
『ああ、それも相当に古く、そして吐き気を催すくらいに生臭い。どうやら、ここが曰く付きの研究所だったというもの本当らしい。無論、俺の鼻がいかれていなければの話だが』

 そう言ってヴォルフガングは無造作に歩き始め、グラントは慌ててその後を追った。
 彼らは決して離れたりせず、チームとなって一つ一つの部屋を探索していった。
 その幾つかで、最近そこに何かがいた痕跡が発見された。例えば埃の乱れ、動かされた椅子、排泄の跡などである。
 その生き物の糞は、人かそれよりもやや大きな生き物くらいのサイズで、その乾燥具合からここ最近のものであると思われた。専門的な設備に持ち込めばこれがどんな生き物の排泄物か分かるはずだが、こんな場所ではそれ以上のことはわからない。
 
『こんなところで、一体何を喰ってやがるんだ…?いくら俺だって、コンクリートを食って生きてはいけないがなぁ』

 ヴォルフガングは暢気にそんなことを言っていたが、グラントは最早蒼白な顔色である。彼の家は元々信心深い家系であり、人の目には見えない、恐ろしい生き物の存在を真剣に信じていた節がある。
 あの扉の破壊具合から、この場所に隠れているのが尋常の生き物ではないことは明らかだ。それに、地下二階よりも下の階から地上にまで届くような遠吠えとは、一体どのような生き物が発することが出来るのか。冷静に考えれば、あり得ることではない。
 そこまで考えて、グラントの脳裏には、ねじ曲がった角が生えて耳の端まで口の裂けた生き物が舌舐めずりをしながら自分を待ち構えているのではないかと、そういう妄想が生まれてしまったのだ。
 そんな彼を見ながら、これはあの切れ者の上司も人選を誤ったと言うべきだろうかと、ヴォルフガングは思った。

『軍曹。気分が悪いなら地上に戻れ。俺は一人で構わん』
『い、いえ、少尉殿。大丈夫です』
『そうは見えないから言っている。素直に従え』
『いえ、こんな程度で逃げ帰ったのでは、情報局の人間に軍属が軽んじらます。少尉殿になんと言われようと、私はここに残らせて頂きます』

 グラントは、その顔色こそ隠すこと出来ないほどに悪かったが、しかし意外に口調はしっかりしていた。ヴォルフガングもそれ以上は何も言わず、次の部屋の探索へと取りかかった。
 そこは、他の部屋と違って、厳重に施錠されていた。それも電子ロックではなく、原始的なキーロック形式らしい。そしてヴォルフガング達の手には、合い鍵やキーピックの類は存在しない。

『どうしましょうか、少尉殿』
『下がっていろ』

 ヴォルフガングはそう言って迷彩服を腕まくりし、丸太のように逞しい前腕を露わにした。
 まさか、とグラントが思う前に、ヴォルフガングは腕を大きく振りかぶった。

『むぅん!』

 気合一閃、ヴォルフガングの巨体が信じがたい程の速度で動き、160㎏の体重が存分に乗った拳の一撃が、重々しい鉄の扉に叩き込まれた。
 鳴り響いた音は、ぐしゃりという、鉄の扉の断末魔だった。そして、憐れな被害者が盛大に倒れる、大きな音が階中に響き渡った。
 あり得べき話では無かった。
 ヴォルフガングは、ただ己の拳のみで、厳重な鉄の門扉を破壊してのけたのだ。
 グラントは、唖然として、自らの上官たる男を眺めていた。
 どうやら、この男も間違いなく、一匹の化け物らしい。

『ふむ。しかし施錠をされているということは、この中に目標がいるはずもないか。早まったな』

 濛々と舞い上がった埃の中で、ヴォルフガングはやはり頭をぽりぽりと掻いていた。
 
『まぁ、折角開けてしまったのだ。中を覗いてから先に進むとしよう』

 グラントの言うところの化け物は、全く警戒心の無い足取りで部屋の中に入った。
 グラント自身も、それに続いて部屋に入ろうとした、その時。

『…おい、軍曹』
 
 中から、声がした。

『はい、何でしょうか少尉殿』
『悪いことは言わん。お前はこの部屋には入るな』

 普段のヴォルフガングの声からは想像できない、震えた声だった。
 そこまで言われると入りたくなるのが人情というものだ。グラントはほとんど無意識に、その部屋の中に入った。
 グラントは、そこで見た光景を、一生忘れることが出来ないだろう。
 そこは、人体を外側に開いた、一種の展示場だった。

『入るなと言っただろうが、全く』
『こ、これは…!』
『ああ、例の、特異能力者に対する人体実験、そのサンプルだろうさ』

 グラントは強い目眩を覚え、その場に突っ伏して盛大に嘔吐した。出発前の景気づけに食べた、軽いアルコールとステーキが、胃液と混じって食道を逆流し、彼の目の前のコンクリートの床を派手に汚した。
 
『ああ、もう、いわんこっちゃない。こりゃあ掃除が大変だぞ…って、その心配はいらんのか』

 ヴォルフガングは、普段の暢気な調子に戻っていった。
 一方のグラントは、自分が何故これほどに動揺しているか分からなかった。自分は軍属であり、実戦経験もある。軍隊における実戦経験とは、即ち人が容易く死ぬ場所で戦ったことがあるということである。事実、彼はテロリスト制圧の際に、最後まで抵抗した主犯格の男を射殺したことがあるし、その任務において友人の一人を失っている。
 それでも、ここまでの動揺はしなかった。いくらこの部屋に手足の一部や内臓が標本として所狭しと並べられているとしても、それは常識の範囲内のことだ。少し医術に携わったことのある人間であれば、嫌悪感さえ抱くことはあるまい。
 なのに、どうして自分はここまで…。

『己を恥じるなよ、グラント軍曹。お前のが、普通の人間の反応だ』
『…いえ、しかし自分は軍人です。それが、この程度で…』
『その認識は間違いだ。いわゆる普通の軍人だから、その程度の反応で済んでいる。本当の一般人であれば、この部屋に入った瞬間に卒倒している。それくらいに、この部屋の濃度は濃い』
『濃度、ですか…?』

 弱々しい声で、グラントは尋ねた。
 ヴォルフガングは、大きく頷いた。

『俺も正確に言葉には出来ないがな、何というか、そう、人の悪意というか無念というか、その手の感情が渦巻いていやがる。ここは、そういう場なんだ』
『あの、少尉、何を…?』
『信じる信じないはお前の自由だし、信じてもらわなくても一向に構わん。だが、俺は幼い頃からそういう類のものに意外と敏感でな。そのおかげで何度か命も救われた。だからこそ今回の任務はどうにも気乗りがしなかったんだが…。やはり、機関銃の一つでもかっぱらってきたほうがよかったかも知れんな』

 ヴォルフガングはそう言いながら、棚に陳列されたサンプルの一つを手に取った。自分で悪意がどうのこうの言っておきながら平然とこんなことが出来る当たり、この大男の肝は超硬度の宇宙戦艦の装甲よりも頑丈に出来ているらしい。

『この指の採取日は10月27日。その隣が28日、そして29日か。なるほど、生きたままばらしたか。それも、麻酔無しだなこれは。苦痛が特異能力に与える影響を調べると言えばたいそうなご託だが、これはほとんど研究者の加虐趣味だ。なるほど、そりゃあ無念も積もるってもんだ』

 グラントは、聞いているだけで気分が悪くなった。

『手段が目的になるとはよく言う言葉だが、ここの連中は正しくそうらしい。研究のためにサンプルを切り刻んでいるうちに、切り刻む行為そのものが目的になっちまったんだろう。これなら、いっそ医学の進歩のために犠牲になったほうが、まだ浮かばれるってもんだ。おっと、こっちの神経節も生体から強引に引き抜いたものか。これで生きてたんなら、いっそ見事というべきだろうな』
『も、もうやめてください!』

 グラントの悲鳴に、ヴォルフガングははっとした表情を浮かべた。
 そして、静かに己が手にしたサンプルケースを棚に戻した。その中には、誰かの眼球だったものが、悲しげに浮かんでいた。

『…すまん。俺としたことが、少し呑まれかけた』

 頭を下げたヴォルフガングは、グラントの体をひょいと担ぎ上げ、その部屋を後にした。
 最後に一度だけ振り返り、静かに頭を下げた。この部屋に残っていた誰かに、謝罪したのかもしれなかった。
 
『お前はここで待っていろ。どうせしばらくは動けん』
『…申し訳ありません』
『そんな顔をするな。だが、銃は抜いておけ。どうやらこの中に居るのは、ただの野犬などという可愛気のあるものではないらしいからな』
『ええ、それはもう…』

 グラントは力の無い笑みで笑い、ホルスターから光線銃を取り出した。
 その手は未だ細かく震えていたが、まさか大の大人を背負って探索活動をするわけにもいかないし、それはこの男が拒絶するだろう。これ以上、まだ年若い軍人の誇りを傷つけるのは不味いと考えたヴォルフガングは、上階へと続く階段まで一度戻り、その脇にグラントを座らせた。

『しばらくすればマクドネル隊が到着する。お前は彼らに事の経緯を正確に報告し、その時点でいくらかでも回復していれば合流しろ。分かったな』

 グラントは力無く頷いた。その表情には、色濃く自己嫌悪の苦さが漂っていたが、ヴォルフガングはそれ以上何も言わなかった。何を言っても慰めにしかならないし、下手な慰めはこの若者をより深く傷つけるだけだ。
 果たして何としたものか考えたヴォルフガングだったが、結局は何も口にせず、頭を一掻きしてから再び探索に戻った。
 それから単独での捜索を再開した彼だったが、しばらくはめぼしいものも発見できなかった。どこにも、生き物の気配そのものが無い。
 しかし、そのフロアの最後の部屋に近づく彼の鼻に、何かが腐ったような、酸っぱい臭いが漂ってきた。
 ヴォルフガングは、懐に入れていた携帯用生命探査装置バイオセンサーを起動させた。これは周囲十数メートル内に生命体がいないかを、二酸化炭素濃度や体温反応などによって探査するものだが、その精度に比例するように消費電力が大きく、常時使用できないのが大きな欠点であった。
 しばらくの間画面を見つめたが、目立った反応はない。少なくとも、補角対象はこの部屋の中にいない。
 それでも光線銃を引き抜き、その出力を制圧レベルから殺傷目的レベルに引き上げ、いつでも撃てる準備をしてから注意深く室内に入った。

『これは…』

 ヴォルフガングは思わず呻いた。
 さして広くない室内には、そのいたる所に非常用食料や飲料水が山と積まれ、その中央には何かの繊維をずたずたにした、寝床が設えられている。
 どうやらこれは『巣』のようだと、彼は思った。
 近寄ってみると、酸っぱいような臭いが強くなった。食べさしの非常用食料であるコンビーフが、腐りかけているらしい。
 ヴォルフガングはそれを手に取り、歯形を調べようとしたが、コンビーフは無造作に囓られ歯形は確認のしようもない。しかし、その缶は綺麗に開けられていることから、どうやらここに住んでいるのは人に近い生き物らしいと彼は思った。
 それはそれで尋常ではない事態なのだが、更に彼を困惑させたのが、当たりに散乱している食い残しの山である。
 
『これはどういうことだ…?』

 先ほどのコンビーフ缶のように金属で包装されている食品は、人の手で開けたように器用に開けられている。にもかかわらず、ビニル素材で包装された食品は明らかに包装ごと食い破り、そのあとで食べられない部分だけを綺麗に吐き出しているのだ。事実、何度か咀嚼されたと思われるビニル片があちこちに飛び散っている。

 人のようであり、そして獣のようである。

 そのどちらもがこの場にいたとすれば納得が出来るのだが、そんなことはあり得ることではないだろう。
 彼はそのまま、部屋の中央の『巣』の中を調べた。
 特にめぼしいものは見つからなかったが、しかし黒く長い、人間の女のように艶やかな毛が数本、見つかった。にもかかわらず、獣の体毛に近いものは一切見つからない。
 彼の脳裏に、報告書に書かれていた、他愛もないはずの噂話が過ぎった。

 曰く、『この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ』…。

 馬鹿馬鹿しいと思う。
 しかし、全く考慮することのない話だろうか。
 連邦憲章には、人体実験を禁じるのと同じ章において、過度の遺伝子操作を用いた生命研究を禁じている。特に、人と他の生命体との遺伝的交配は最も厳罰に処される類の研究である。
 頭のまともな研究者であれば、そのような研究に手を染めようとは思うまい。上手く行けば別段、ばれれば己の研究者としての一生は暗い闇の中に閉ざされてしまうことが明白だからだ。そして、その類の研究がばれずに完遂したなど、船乗りの間でまことしやかに囁かれる幽霊星が存在することくらいに、眉唾な話でしかない。
 しかし、この異常な空間に限って言えば、その類の研究が行われなかったという保証がどこにある?いや、ここ以外の研究所で、違法な遺伝子操作実験が実際に行われていたのではなかったか?
 しかも、今日はそんな生物にうってつけの、目眩のするような満月ではないか。
 ならばここにいるのは―――
 そこまで考えたヴォルフガングの耳に、とんでもない絶叫が聞こえた。

『ぐ、ぎやあぁぁぁ!』

 ヴォルフガングは短い舌打ちをすると、その巨軀からは信じられないような速度で元来た道をとって返した。
 彼が階段につくまで、おそらく20秒とかからなかったはずだ。
 しかし、息一つ乱さずその場に駆けつけた彼が見たのは、己の流した血の中で蹲る、年若い同僚の姿だけだった。

『おい、グラント、生きているか』
『しょ、しょうい…。やられました…』
『どこをやられた』

 そう問うてから、ヴォルフガングは再び短く舌打ちをした。
 問うまでもないことだった。
 グラントの右腕、その肘の少し先の部分から下が、無い。
 それも、刃物ですっぱりいったような傷口ではなかった。
 ぎざぎざと波打った、ちょうど人がその前歯でチーズを囓ったときにできるような傷口であった。
 明らかに、何かに食い千切られていた。

『腕以外に、どこかやられたか?』
『いえ、ここだけです…』
『応急処置を施す。少し痛むぞ』

 携帯用の緊急治療キットをポーチから取り出し、その中の止血用チューブで二の腕をきつく縛り付ける。それだけで劇的に出血量は減った。それを確認してから、傷口を清潔なガーゼで拭い、その上から止血剤を厚く塗り込む。更に止血用シートを幾重にも巻き、それでやっと出血は収まった。
 その作業の途中で、傷口に刻まれた歯形を確かめるのも忘れない。ヴォルフガングの確認したところでは、グラントの腕を食い千切った生き物の口は、小さく見積もっても大形の狼、もしかしたらライオンや虎と同サイズ程度の大きさであるはずだった。
 一息ついたヴォルフガングは、ただでさえ青かった顔を蒼白に染め吐く息も荒々しいグラントに尋ねた。

『しゃべれるか?』
『…ええ、なんとか…』

 脂汗を流しながら、グラントは言った。

『無理をしてでも話せ。その後で、ゆっくり休んでもらえばいい。いいか、グラント。お前を襲ったのは何物だ』
『わかり…ません。ろうかのむこうでなにかがひかったとおもったら、いきなり…。銃をかまえるひまも…』
『やられた瞬間はどうだった。振り回されたか。それとも、一息で食い千切られたか』
『ひといきです…。きがついたら、ひじからさきがなくなって…ちくしょう、あのやろう、ぜったいにゆるさねえ…!』

 これだけ流暢に話せるのであれば、しばらくは大丈夫だろう。
 しかし、任務は失敗だ。これだけ獰猛な猛獣を相手取るには、装備が些か心許ない。このまま闇雲に後を追ったのでは、グラントの二の舞となることは明らかだった。
 
『おい、グラント。このまま引き上げるぞ』
『だめだ、あいつはぜったいに、おれが…!』
『…おいおい、グラントよう。お前も子供じゃあねえんだ。無茶をいっちゃあいけねえやなぁ』

 いつの間にか、ヴォルフガングの口調が変わっていた。
 グラントは、仰ぐように、巨体の上官を見た。

『腕一本食い千切られてそれだけ言えれば上等だがなぁ、残念ながら装備が弱すぎるんだよう。ここはいったん引き上げてもう一度派手にカチコミといこうじゃあねえか』

 グラントは、信じられないものを見るように、目を見張った。
 ヴォルフガングは、笑っていた。もう、心底嬉しそうに笑っていたのだ。
 そして、その笑みは、どこにも一切の暗さのない、純粋な笑みだった。決して負傷した同僚を慰めるための笑顔などではない、何もかもが楽しくて仕方ないといったふうの、底抜けの笑みだった。
 グラントは、目の前で微笑む男を、心底恐ろしいと思った。
 この男は、同僚の腕を食い千切った獣が徘徊するこの廃病院の中で、間違いなく欲情していたのだから。

『しょ、少尉殿…』
『ちなみに、お前さんの憎い憎い仇のヤロウはどこに逃げていったんだい?』
『え、と…、その、階段を駆け上がって…』

 ヴォルフガングの顔色が変わった。

『バカヤロウ!何故それを先に言わねえ!』

 一喝したヴォルフガングは無線機で上階の部隊を呼び出した。
 しかし、何度呼び出しても繋がらない。電波が届かないのではない。いくら呼び出しても、返答が無いのだ。

『グラント、もう少しの辛抱だ、そこで寝っ転がってな』
『そ、そんな…!こんなところで!?』
『知ってるかい?軍人ってえ奴は、死ぬことも任務のうちらしい。幸い、標的は上階だ。これ以上この階に化け物がいないことを祈るんだな』

 ヴォルフガングはグラントの返答を待たず、一気に上階に駆けていった。
 アレクセイの慎重さからいって、彼らは一度上階に向かった部隊との合流を果たしてから階下へと向かうだろう。だとすれば、化け物の餌のうち、一番近くにいるのは一階の彼らだ。
 疾風のような勢いで階段を昇るヴォルフガングの目が、途中に投げ捨てられたゴミ屑で止まった。それは、彼とグラントが階段を下ったときには、存在してないものだった。
 ヴォルフガングは、その巨軀に比して小さな顔に、満面の笑みを浮かべて呟いた。

『おやまぁ。どうやら人間様は口に合わねえらしいや』

 それは、食い千切られたグラントの右腕だった。



 さっきのは、不味かった。
 きっと、次のも不味いだろう。
 その次も、その次の次も、次の次の次も。
 不味くて臭くて筋張っていて。
 どうに食えたものではないのだ。
 なのに、何故襲うのだろうか。
 
『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』

 さっきから同じことを言っている、この人は誰だろう。
 私を悲しげに見つめるこの人は誰だろう。
 とても綺麗な、綺麗な、綺麗な女の人だ。
 どこかで、見た気がする。
 誰かに似ている。
 私の、一度も見たことのない、でも、ずっと知っている、人に似ていた。
 誰ですか、貴女は誰ですか。
 何故、答えてくれないのですか。
 分かりました。それでは私のほうから貴女の元に伺いましょう。
 もう、私の脚も、爪も、牙も、こんなに自由なのですから、どうして貴女に会えないことがあるでしょう。
 それに、お土産も。
 美味しくないですけど、喜んでください。
 さっきのお土産は、もう動けないから、あとでゆっくり仕留めましょう。
 そして、残りも綺麗に平らげてから、貴女の元に向かいます。
 それまで待っていて下さいね。
 私の愛しい人。




[6349] 第七話:狩猟
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:46
 グラントが正体不明の生き物に襲われた直後のことだったが、一階のロビーでは、アレクセイとクルツが、上階から引き返してきたマクドネル隊と合流していた。
 アレクセイは、外面にこそ表さなかったものの、そのことを大いに喜んだ。これほど人気の無い空間に、隣にいるのが自分より年上の頼り気のない軍人だけというのは、どうにも不安だったのである。その点、普段はいけ好かないあのでかぶつが隣にいてくれればどれほどに心強かっただろうと、虫のいいことを考えていたりもした。
 それでも、人数が四人になれば野犬など恐れるに足らない。そもそも、きちんと銃で武装している限り、一対一であっても恐れるはずなどないのだ。彼は、当初の心の均衡を取り戻していた。
 アレクセイは、新たに合流した二人、マクドネルとラドクリフに対して言った。

『既に聞いていると思うが、地下二階にて、目標らしき生物の痕跡が発見された。イェーガー隊はそのまま探索を続行しているが、それ以降の報告はない。そこで、我々も彼らの後を追って階下に向かい、全員で目標生物の捜索に当たろうと思う。何か異論はあるだろうか』

 このメンバーの中で一番若手のラドクリフが挙手をした。

『誰かがこの場所で、退路を確保したほうがよろしいのではないでしょうか』

 それは幾つもの戦場を潜り抜けてきた歴戦の戦士らしい意見ではあったが、この場においては彼以外の三人の苦笑を買っただけだった。

『ラドクリフ君、君の意見は貴重だが、相手は野犬だぞ?果たして犬を相手に、退路の確保は必要かね?』
『あっ…し、失礼しました。どうも、いつもの癖が抜けていなかったようです』

 どっと四人分の笑い声がおこった。
 どうにも陰気になりがちな任務の最中であったから、こんなことですら精神の活力になる。普段のアレクセイであれば忌々しく思うような部下の妄言も、今に限っては有難いものだった。

『では、我々はこのまま階下へ向かう。そういうことでいいな?』

 今度は全員が頷いた。
 そのことに満足したアレクセイは、一応の格好をつけて、先頭を切って歩き出そうとした。
 正に、その時である。

『助けて!』

 短い悲鳴が、ただっ広いロビーに響き渡った。
 アレクセイはあまりの驚きに硬直してしまったのだが、残りの三人は流れるような動作で腰に設えたホルスターから銃を抜き取り、声のした方に向けて構えていた。そこらへんは、実際に戦場を経験した軍人と、デスクワークで身を立ててきた情報局の人間との歴然たる差であろう。
 
『誰だ!』

 マクドネルが激しい声で誰何した。
 それに応えたのは、先ほどの声と同じ、しかし信じられない程に弱々しい、少女の声だった。

『止めて、撃たないで!』

 声のした方にある柱の影から、少女が飛び出した。一瞬引き金を引きかけたマクドネルだったが、その少女が裸であり、武器など隠し持っていないことを確認して、その指から力を抜いた。
 しかし、こんなところに、何故少女がいるのか。全員が呆気にとられ、直後に頭を捻ってしまったが、口に出してはこう言った。

『君は誰だ!?何故、こんなところにいる!?』
『分からない!何も分からないの!怖いおじさんに車の中に乗せられて、目が覚めたらこんなところにいたの!お父さんは、お母さんはどこ!?わたしをおうちに帰して!』

 少女は半狂乱で泣き叫び、腰が抜けたようにその場所にへたり込んでしまった。
 その様子は、極限の恐怖を味わった無力な少女が、やっとのことで見つけた希望を前にして安心し、腰が抜けたように見える。
 その様を見て、四人は銃を下ろした。
 彼らの中では最年長であり、目の前の少女と同じ年頃の娘を持つクルツが、彼女の元へと駆け寄った。

『私は、共和宇宙軍第三軍第七航空大隊所属のゲルハルト・クルツ中尉だ。君の身に何があったか知らないが、もう大丈夫だ。我々は君の味方だ。安心しなさい』

 クルツの現在の肩書きは、あくまで連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官という身分なのだが、少女を安心させるためにも軍人たる身分を明らかにした。
 泣きじゃくっていた少女は、目の前にたった壮年の男性を、如何にも弱り切った視線で見上げた。

『私の味方…?』
『ああ、そうだ。君が誰なのかは知らないが、我々は決して君に危害を加えない。安心したまえ』
『本当に…?』

 その声はどこまでも疲れ切っていた。きっと余程に酷い目にあったのだろう、その漆黒の瞳にも力がない。普段ならばきっと黒絹のような流れる髪も、埃と脂に塗れ、鳥の巣のように酷い有様だった。
 クルツは、少女と同じ年頃の愛娘のことを思い浮かべ、そして、もしも娘がこのような目に遭わされたらと想像し、あまりのおぞましさに奥歯を噛み締めた。しかしその感情を一切顔には表さず、あくまでにこやかに笑いながら、自分の上着を裸体の少女に掛けてやった。

『ああ、本当だとも。今、何か欲しいものはあるかね?お腹が空いているなら、携帯用のブロック食料くらいはあるのだが…』

 少女は、首を横に振った。

『ううん、ついさっき食事をしてきたばかりだから。でも、とても寒いの。おじさん、手を握ってもいい?』
『ああ、もちろんだ』

 クルツは、少女の小さな手を、自分の大きな手で包み込んでやった。すると少女は、もう片方の手でもクルツの大きな手を握り、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
 クルツは、心底痛ましそうに、少女の肩を抱いてやっていた。
 その様子をアレクセイは冷ややかに見守った。彼の内心では、猛烈な勢いで損得計算が行われれた。
 このような事態は完全に想定外だ。今日中に案件を片づけられなかったのは残念だが、少なくとも野犬狩りにうつつを抜かしている場合ではないようだ。この少女をこんな場所に連れてきたのが誰かは知らないが、未成年者の誘拐事件となれば共和政府の警察機構が動くような重大事件である。これは早々に調査を引き上げ、事態の対処方法を上役と協議すべきであった。

『ラドクリフ君、階下の二人に連絡を。我らはこの少女を保護し、可及的速やかにこの場を離れねばならん』
『は。しかし、犯人の確保は…?』
『それは我らの任務ではない。我々は、この憐れな少女を安全な場所に連れて行き、然るべき機関に引き渡す。それ以上のことに首を突っ込むべきではないだろう』
『はっ、了解しました』

 ラドクリフは短く頷き、無線機のスイッチを入れようとした。

 その時だ。

 少女を慰めるクルツの様子が、どうにもおかしいことに彼は気がついた。

『…おいおい、そんなに強く握らなくても、私はどこにもいかないぞ』
『そう?わたし、とても不安なの。こうでもしていないと、またひとりぼっちになってしまいそうで』
『また、ひとりぼっちに?大丈夫だ、君はもう一人になることなんかないんだ。すぐに、お父さんとお母さんのところに連れて行ってあげるからね』

 クルツは平静を装っていたが、しかしその額にはぽつぽつと大粒の汗が浮かんでいた。
 脂汗であった。
 彼は、想像を絶するような痛みと、密かに戦っていたのだ。
 では、その痛みを与えているのは誰なのか?
 
『ほんとに?』
『あ、ああ、ほ、ほんとうだ…だから、この手を離して…』
『だって、お父さんもお母さんも、私を捨てたわ。それ以来、十年間も、私は暗い地の底で繋がれて、ずっと切り刻まれていたの。それなのに、もう一人になることはないなんて、貴方は保証できるのかしら?』
『じゅ、じゅうねん…?き、きみはいったい…ぐ、あぁぁぁ!』

 壮年のクルツの口から、情け無い悲鳴が漏れだした。
 クルツと少女以外の何者にも、一体何が起きているのか分からなかったに違いない。
 しかし、当のクルツにしてみれば、事態は余りに明白だ。
 少女は、自分の手を握りしめている。
 それだけ、だ。別に特別なことではない。
 ただ、一点。
 その力が、まるで万力で締め付けるような異常なものであるという一点を除けば、の話であるが。
 最早クルツの顔からは、一切の余裕が消えていた。クルツは、激痛に濡れた絶叫を溢しながら、恥も外聞もなく叫んだ。

『は、はなせ、はなしてくれぇ!』
『あら、駄目よこれくらいで軍人さんが悲鳴を上げては。私は、これよりももっと痛いことを、ずっとされてきたのよ。十年間、絶え間なく、ね』
『はなせはなせはなせはなせはなせはなせはなせえええええぇぇぇぇぇぇ!』

 獣の叫び声のようなクルツの声が響いた、その直後。
 ぽきり、と、枯れ木の折れるような音を、残りの三人は聞いたような気がした。
 それも、一度や二度ではない。

 ぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきり。

 火のついた爆竹が次々と破裂するように、その音は収まることがなかった。

『ぐぎゃああああああぁあぁぁぁぁぁぁ!?』

 調子の外れたオペラ歌手のようなぞっとする声が、ホールを満たした。
 やがて肺腑にため込んだ空気を全て吐き出したクルツが、白目を剥きながら気絶した。あまりの激痛に歪みきったその顔は、涙と鼻水と涎でデコレーションされ、とても正気の人間のそれとは思えないふうであった。
 しかし、それも無理はあるまい。
 倒れ伏したまま痙攣した彼の右手が、もはや手としての機能を失ってしまったことは明らかだった。指はそれぞれが明後日の方向にひん曲がり、本来であれば折れ曲がるはずのない箇所で直角に折れ曲がっている。所々から飛び出した鋭く尖った白いものは、開放骨折をした指の骨だろう。

『もう、これくらいで壊れちゃったの?人間って、脆いのね』

 少女は、自分の手についた自分以外の人間の血を、丁寧に舐め取り、そして顔を顰めた。

『…やっぱり不味いわ。さっきの人もそうだったけど、どうしたって人間って食べられたもんじゃあないわね』

 少女は、足下に転がったクルツを、思い切り蹴飛ばした。
 軍人としてはやや小柄な、それでも十分に平均的な成人男性以上の体格を誇るクルツの体は、サッカーでいうところのゴールキックをされたボールのように吹っ飛び、壁に当たって、そのまま落ちた。
 最早、ぴくりとも動かなかった。

『さて、残りの方々はどうかしら?わたしを一人にして置いていかないでくれるの?』

 指先についたクルツの血で紅を引いた少女の唇が、妖艶に歪む。
 アレクセイを含めた三人は、生まれて初めて、自分が狩られる側の生き物であると自覚した。
 


 簡単だったわ。
 呆れるくらいに、簡単だった。
 人間は、もっと強いと思っていたのに。
 この世界を支配しているは、人間なのに。
 どうしてこんなの弱いんだろう。どうしてこんなに弱いものに、私は痛めつけられ続けたんだろう。
 もう、飽きた。きっとこんなものじゃあ、あの人へのお土産にすらならないわ。

『た、助けて…』

 一番小さな人が、泣いている。
 遠い昔に教わった。自分よりも弱い人を虐めてはいけません。
 でも、虐めるという言葉には、その対象が自分より弱いという意味を含んでいるはず。
 自分より強いものに立ち向かうとき、虐めるという言葉は不合理だわ。
 だから、私は立ち向かったのに。
 これじゃあ、単なるいじめっこじゃあないか。
 私は、不機嫌になった。

『つ、妻が…幼い娘がいるんだ…頼む、助けて…』

 私は、その弱い生き物に、顔を近づけてみた。
 その弱い生き物は、まるで鬼か悪魔を見たように、怯えきっていた。
 すんすんと、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
 ああ、もう、なんだか酸っぱい臭いがする。これはきっと食べ物じゃあない。
 食べ物じゃあないなら、もういらない。
 私は、興味を失って、自分の巣に帰ろうとした。
 そしたら、太腿の辺りを、何か熱くて痛いものが通り抜けていった。
 それはもう、懐かしくて、愛おしくて、涙が出るような感触だった。
 振り返る。
 さっきの小さくて弱い生き物が、その手に武器を持って、やはり小さく震えていた。
 ああ。
 なんて、可愛らしい。



『そのへんにしといてやってくれねえかい?いけすかねえ野郎だが、それでもそいつは俺の上官なんだ。簡単に死なすわけにはいかねえんだよう』

 一階まで駆けてきたヴォルフガングの息は、さすがに少し荒い。
 そんな彼を見ながら、少女は言った。

『まぁ、大きなお兄さんね。まるで熊さんか、それとも象さんだわ』
『よく言われる』

 ヴォルフガングは苦笑した。それは、全くの事実だった。

『ところで、俺のお願いは聞いて貰えないのかい?』
『うーん、ちょっと難しいかな。だってこの人、折角見逃してあげたのに、後ろから私を撃ったのよ。すっごく痛かったんだから』

 片手でアレクセイの顔面を鷲掴みにし、高く吊り上げている少女。その左足に、明らかな銃創が認められた。彼女の言っていることは事実だろう。
 ヴォルフガングは、あちゃあというふうに、片手で顔を覆った。

『おいおい、ルドヴィックさんよ。あんた、まさかそんなドジこいたのかい?怒り狂った虎が、折角見逃してくれたっていうのに、わざわざ豆鉄砲撃って挑発してどうするんだよ。こんなのを一撃で仕留めようと思ったら、それこそロケットランチャーか何かを用意しないと無茶ってもんだ』
『ええ、その通りね。よく分かっているじゃない、大きなお兄さん』
『それが俺の呼び名かい?』
『ええ、ご不満かしら?』
『いやいやとんでもない。あんたみたいなべっぴんさんに呼ばれるなら、どんな名前だって大歓迎だよ』

 その時、少女の細腕で宙吊りにされたアレクセイが、呻くように言った。

『イェーガー、た、たすけ…ぐ、ああああぁぁぁ!』
『ねえ、小さなひと。私はこのお兄さんと話してるのよ。黙っていなさいな』

 少女は、僅かに力を込めたようだった。それだけで、アレクセイの顔面の各所から血が噴き出した。少女の指の先が、肉の中にめり込んだのだ。
 その刹那、アレクセイの目がくるりと裏返り、口から泡を吹き始めた。

『あら、この人って蟹だったの?』

 少女はまじめくさった調子でヴォルフガングに尋ねた。
 ヴォルフガングも、まじめくさった調子で答えた。

『さぁ、もしかしたらそうだったのかも知れねえな。全部、あんたが判断すりゃあいい』
『そうね、じゃあこれは蟹さんだわ…あら?』

 少女が蟹さんと呼んだ男の股間の部分が、重たく濡れていた。
 少女は、漂ってきたアンモニア臭に顔を歪め、汚いものを投げ捨てるようにアレクセイを放り投げた。彼の体は宙高く跳び、長いすの上に軟着陸した。運の強い男である。このぶんであれば、死んでいるということはあるまい。
 ヴォルフガングは、少女が突然に襲いかかってくる様子がないのを確認してから、注意深く辺りを見回した。
 少女の足下に、二人の人間が倒れている。二人の体格から判断して、おそらくラドクリフとマクドネルだ。両方ともぴくりとも動かないが、一応息はしているらしい。

『おい、嬢ちゃん。クルツはどうした?』
『クルツ?』
『ほら、少し小柄なおやじのことだよ』
『ああ、あの人。あの人なら、ほら、あそこ』

 少女は一度手を打ってから、自分の背後を指さした。
 そこには、ボロ切れのようになって動かないクルツがいた。おそらく、既に呼吸をしていないか、していたとしてもひどく浅いものになっているのだろう、胸の部分が全然動いている様子がない。
 この中では、明らかに一番重傷だった。

『さっき、思い切り蹴ったのよ。そしたら動かなくなっちゃった。ごめんなさいね、持って帰るのが大変でしょう?』
『なら嬢ちゃんは、俺をここから帰してくれるのかい?』

 ヴォルフガングの言葉に、少女はしまったという表情を浮かべた。

『ああ、そうだったわ!うっかりしてた!私、目が覚めてから最初に見つけた人間は、絶対に許さないって決めてたの。だから、あなたを帰すわけにはいかなかったのよ。ごめんなさい!』

 少女は、慌てた様子で頭を下げた。
 どうやら、真剣に謝っているようだった。
 ヴォルフガングは唖然とした。しかし同時に確信もしていた。この、見た目にはまるで天使のような外見を誇る可憐な少女こそが、グラントの腕を一撃で食い千切り、四人もの軍人かそれに類する大人を、容易く半殺しにしてのけたのだ、と。
 ヴォルフガングは上着を脱いだ。それはごわごわして着心地が悪いが、極端なまでの対刃処理を施した、特注の軍服だった。それを左前腕にぐるぐると巻き付ける。どれほど頼りになるかは未知数だが、溺れる者が掴む藁よりは頼りなると思いたかった。

『なぁ、嬢ちゃん。あんた、名前は?』
『大きなお兄さん、貴方になら教えてあげてもいいけど、そういうことって男の人から名乗るのがマナーじゃないかしら?』
『ああ、それもそうだ、なっと!』

 突然、火線が少女に向けて走った。
 ヴォルフガングは、銃を構える、標準を合わせる、引き金を引くの動作を同時にやってのけた。それも、桁外れのスピードと正確性で、だ。
 それでも、身を躱した少女の、黒髪のほんの一房を切り飛ばしただけに終わった。
 少女は、感嘆の表情で、自分に銃を向けた巨軀の男を眺めた。

『…貴方、凄いのね』

 その言葉に対して、ヴォルフガングは苦笑を浮かべた。
 これは最早、銃は通用しないと思ったほうがいいかもしれない。少なくともあのタイミングで躱されたのであれば、彼の操る銃では、この少女を傷つけることは不可能だろう。

『躱した奴が言うなよ。これでも、早撃ちで負けたことは無かったんだがなぁ。傷つくじゃねえかよう』

 拗ねたように頭を掻く男を見て、少女は本心から微笑った。

『俺の名前は、ヴォルフガング・イェーガー。親しい奴はみんな、ヴォルフって呼ぶ』
『そう。私の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。親しい人は、ウォルフィーナって呼ぶわ』
『親しい人?』
『ええ、研究所のみんな。私の体を、微笑みながら切り刻む人達』

 刹那、少女の身体が、ヴォルフガングの視界から掻き消えていた。
 次の瞬間、ヴォルフガングの体は斜め下から突き上げられたとんでもない衝撃に、完全に宙に浮いていた。
 腹の中心を抉る衝撃と痛みに目を丸くした彼は、しかし自分がウォルフィーナに殴られて宙を浮いているのだと理解した。
 正直に言うならば、信じられなかった。彼は恵まれた、もしくは恵まれすぎた体躯を有していたから、腕っ節の強さで人後に落ちたことはない。無論今の今まで誰にも負けなかったとは言わないが、しかしそれは極少数の例外であり、少なくとも正面から戦って力負けしたことなど、ただの一度とてなかったのだ。
 なのに、このか細い少女の一撃で、大人三人分にも及ぶ自分の体重が完全に宙に浮かされている。到底信じられることではなかった。
 これはいよいよ、自分が戦っているのは化け物だ。彼は認識を新たにした。
 ヴォルフガングはそのまま盛大に床に倒れたが、追撃の気配がないことを不思議に思った。さして急ぐでもなく体を起こした彼の目に、殴ったほうの手首をさすりながら、顔を顰める黒髪の少女が映った。

『…ねぇ、ヴォルフ。貴方、重たいわ。それに固いわ。貴方、本当に人間?』
『…一応はそのつもりだが、あんたが違うと思うなら違うのかもしれねえなぁ』

 少女は、いっそう眉を顰めた。

『あんたじゃないわ。ウォルフィーナよ』
『ああ、そういやそうだったっけか』

 ヴォルフガングは立ち上げり、ズボンの尻の辺りを数回払った。

『折角女の子が名前を教えてあげたのに、失礼な人ね』
『すまねえなぁ。俺、頭が悪いんだよぅ』
 
 そして、構えた。
 左足が前、右足が後ろ。
 足下に肩幅程度の正方形があることを意識し、その対角に足を置く。
 固く握った拳で頭を挟み、顎を引き、背を軽く丸める。
 太腿は内に絞り、金的を狙われにくいように。
 何より、視線だ。相手を、それだけで射殺す。実際に射殺せなくても、その意志が何より重要なのだ。

『うん、待たせたな。じゃあ、やろうか』

 男は、微笑った。

『そうね、待ったわ。じゃあ、始めましょう』

 少女は、微笑った。

 死闘が、始まった。



 楽しいんだろう。
 なんて、楽しいんだろう。
 楽しい。
 呆れるほどに楽しい。
 喜んでいるのは誰?
 私?いや、私の体。
 十年間、鎖に繋がれ続けた私の体が、喜んでいる。
 咆吼している、猛り狂っている。
 これは、こういうものだと、叫んでいる。
 自分はこういうものなのだと、証明している。
 足が動く。冷たい鉄の枷のない、自由な足が地面を蹴る。
 肺が苦しい。どんなに酸素を取り込んでも、瞬く間に消費してしまう。
 頭がちかちかする。あまりに鮮烈な感動で泣き出しそうだ。
 これが、戦いだ。これが、生きるということだ。ならば、これが私だ。
 ついぞ、太陽の下で大地を駆けることが出来なかった。ついに、兄弟達には出会えなかった。
 風の匂いはどんなだろう。草の匂いは?咲きたての花の香りは?
 同胞の毛繕いをするための舌は、ぜえぜえと喘ぎ、苦しそうに垂れ下がるだけ。
 彼らの体に寄り添う安らぎは、どんなものかと夢想して、誰にも教えて貰えなかった。
 でも、やっと教えてもらった。
 これが、生きるということだ。今、私の中を駆け巡る鮮烈な感動が、即ち生だ。
 戦うということは、憎むことというは、怒るということは、喜ぶということは、許すということは、悲しむということは、愛するということ。
 この男との戦いには、生きるという全てがある。
 まるで、宝石だ。
 きらきらと光る宝石を、丸ごと飲み込んでいるような。
 自分という存在が、目の前の男と交わって、そのまま宝石になったような。
 肉の塊を、思い切りぶん殴る。拳に伝わる、肉の潰れた感触が嬉しい。
 そのお返しと、風を切り裂いて拳が飛んでくる。躱そうとするが、失敗する。頭を強かに殴られた。悔しい。
 ならば、お返しの蹴りだ。爪先を、男の鳩尾に、めり込むように。
 ごう、と、熱い息が漏れだした。これは効いただろう。もう、倒れるだろう。
 それでも、男は倒れない。チアノーゼに顔を青ざめさせながら、それでも私を睨んでいる。
 拳で挟んだ頭の奥、その小さな瞳を殺気で燃やしながら、私を睨んでいる。
 ああ、その瞳。
 その瞳が、愛おしい。なんて美しい。宝石のようだわ。
 私は貴方を殺そうとしている。こんなに愛おしいのに、自分でも不思議だけど。
 殺したくない。でも、殺すつもりでやらないと愛おしくない。愛おしむためには、殺さなくちゃいけない。
 その矛盾を、なおさら愛おしく思う。

 これが命だ!

 私は、吠えた。鳴き声が、この世界に響き渡る。
 それと、もう一つ。
 男も、吠えていた。腹の底から響くような、低く低く、深い声で。
 ああ、わかった。分かってしまった。
 これも、獣だ。
 目の前のこれも、私と同じ。この世界に生まれるべきでなかった、獣の一匹だ。
 そうか。
 彼は、私を救いに来てくれたのか。
 この地の底に繋がれた、私を助けに来てくれたのだ。
 なんと、有難い。涙が出そうだ。
 ありがとう、と殴る。男の鼻血が飛び散る。
 ありがとう、と投げ飛ばす。男の頭蓋骨の軋む音が聞こえた。
 ありがとう、ありがとう、ありがとう。
 数え切れない感謝の合唱。
 気がつけば、いつの間にか、男は血みどろだった。
 全身を自分の血で染め、赤いシャワーを浴びたような。
 きっと、骨の一本や二本はいかれているだろう。それでも男は、私を睨んでくれていた。
 私は、泣いた。泣きながら喜んで、泣きながら悲しんだ。
 泣きながら殴った。
 終わってしまう。このままでは、終わってしまう。
 貴方との戦いが、私の生まれた意味が。
 止めないで、止めないで。
 私とずっと、ここにいましょう。
 貴方と戦っているとき、私は私でいられる。
 さぁ、貴方。私をここから連れ出して。




[6349] 第八話:決着
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:46
 男の巨躯が、軋み声を上げていた。
 もう、ぼろぼろだった。
 彼自身が把握しているだけでも、片手の指では数えられないほどの骨が折れている。鼻はひしゃげ、鼻孔に血が溜まり、上手に呼吸が出来ない。
 全身が、熱い。もはや、苦痛を苦痛として認識することができない。果たして自分は痛いのか、疲れているのか、病んでいるのか、分からなかった。
 激しい倦怠感は、彼の瞳から意志を奪い、この場で横になることを強く要求する。さぁ、もう十分だ。ここで倒れても、誰も俺を非難しない。もう、自分を許して上げてもいいじゃないか。
 ヴォルフガングは、それが悪魔の囁きだと知っていた。悪魔は、人に優しい。そして天使は、神は人に厳しいのだ。彼はそれを知っていたから、悪魔の囁き声から、必死で耳を塞ぎ続けた。
 敵の前で倒れた獣に、生きる術はない。それは、死ぬべき時だ。
 だから、まずは立つ。一も二もなく、まずは立つことだ。
 次に、息をする。これを忘れれば、動くことが出来なくなる。だから、必死に息を整える。
 最後に、睨みつけろ。手は動かなくても、足が動かなくても、睨みつけろ。目で殺せ。何を?敵の魂を。
 そうして、ヴォルフガングはそこに立っていた。ボロ雑巾のようになった己の体で立ちながら、呼吸をし、目の前の少女を睨みつけた。
 ウォルフィーナは、そんな彼を、泣き笑いのような表情で、ずっと見つめていた。

『ヴォルフ。貴方、凄いわ』

 それは、どこまでも純粋な、感嘆の呟きだった。
 何をもって純粋とするか、そんなことはどうでもいい。意識の埒外だ。とにかく、一切の不純物の混じらない、単純な感嘆の念。少女の呟きには、それしか含まれていなかった。
 
『ああ、知ってるさ』

 男は、そう答えた。
 男は、自分が普通の人間ではないことを知っていた。街中を歩けば、必ず奇異の視線で眺められる。視線を合わせようとすれば、必ず避けられる。道は、まるで預言者が開いた海の底のように、彼のために開けられた。
 彼の行くところに、誰もいなかった。それは偏に、彼自身の巨体のためだ。彼は、その恵まれすぎた体が故に、人ではなかった。人であることを拒絶され続けた。
 だから、人でないが故に迫害を受け続けた少女の気持ちが、痛いほどに分かった。
 
『でも、そろそろ、じゃないかしら』

 少女は呟いた。
 心底残念そうな、口惜しそうな響きだった。
 真っ赤に染まった自分の拳と、目の前の巨漢を交互に眺めて、未練たらたらの溜息を吐き出した。

『もうそろそろ、おしまいにしないと』
『ああ、同感だ』

 男は頷いた。
 確かに、そろそろいい時間だ。子供は家に帰り、お母さんの作ってくれたシチューを楽しみにしながら、泥だらけの体を洗い流す、そういう時間だ。
 俺は、帰らなければならない。ここに倒れ、今にもくたばりそうな仲間達をかついで、こいつらをこいつらの家に届けなければ。アレクセイやクルツには、年頃の、生意気盛りの子供がいたはずだ。ラドクリフとマクドネルには、新婚ほやほやの奥さんと、生まれたばかりの子供達がいた。まだ乳臭さの抜けないグラントの母親は、心配しながら我が子が無事に帰ることを神に祈っているのだろう。無事ってところはもう駄目だが、せめて生きて帰してやらないと申し訳が立たない。
 何に?
 この、巨体に、だ。
 このまま俺が一人で逃げ帰れば、俺はでくの坊扱いされる。それは全くの事実だから、別に俺は構わない。でも、俺の体が馬鹿にされるのだけは、どうしても許せない。そんなことになったら、俺が俺でいた意味がなくなる。そんなの、申し訳がないじゃあないか。
 だから、男は、最後まで戦わなければならなかった。

『貴方だけ、逃がしてあげてもいいわ』

 少女は、恥ずかしげに俯いた。

『ほんとは駄目なんだけど、貴方がどうしてもって言うなら、考えてあげる』
『おい、それじゃあ俺に逃げてくれって言ってるように聞こえるぜ』
『そうよ。いけない?』

 男は、唖然とした。
 少女の言葉に、ではない。少女の、薄く涙の張った瞳の美しさ、その黒の深さに、心を奪われた。

『ねぇ、ヴォルフ。私は貴方を殺したくないわ。でも、貴方は倒れてくれないでしょう?』

 男は、無言で頷いた。
 
『ほら、ね?なら、私、貴方を殺しちゃう。そしたら、もう喧嘩も出来ない。そんなの、つまらない』
『他の連中は?俺と一緒に見逃してくれるのか?』

 ヴォルフガングは、言葉の途中で眉を顰めた。息を吐き出したときに、折れた肋骨がずきりと痛んだのだ。
 そんな彼を痛ましそうに眺めながら、ウォルフィーナは首を横に振った。

『駄目。それは出来ないの』
『どうして』
『私は、私が目覚めたときに、最初に見つけた人間を殺す。そうしなければならない。それが理由よ』
『ああ、そうか』

 これほどに理屈の通らない理屈もなかったが、ヴォルフガングには不思議と納得出来た。目の前の少女が、これほどに苦悩に満ちた悲しげな瞳でそう言うのならば、それはそういう事なのだ。
 だから、彼も答えた。少女の好意を無碍にするのは心が痛んだが、彼にとって他の選択肢は存在しなかった。

『なら、俺が逃げるのも無しだ』
『どうして?』
『俺はな、ウォルフィーナ。こいつらを病院のベッドに叩き込んでやらねぇと、ビールが美味くねえんだよ。きっと、これから一生、不味いビールしか飲めなくなる。きんきんに冷えて、突けば凍り出すくらいに冷えた缶ビールを飲んでもちっとも美味くないなんて、そんなの人生における重大な損失だ。勿体ないにも程がある。分かるか?』
『ああ、うん、なんとなく分かるわ』

 少女も、楽しそうに頷いた。
 二人は、互いを好ましく思いながら、しかし互いを許すという選択肢を持っていなかった。それだけの話で、それ以上ではない。
 二人は見つめ合い、そして微笑みあった。
 それが、互いの降伏勧告を無期限に拒絶する、互いの意思表示だった。
 
『できるだけ、楽に殺してあげるわ』
『誰が殺されるか。顔を洗って出直してこい、しょんべん臭い小娘が』

 ヴォルフガングがそう言い終えたと同時に、ウォルフィーナの小さな身体が、彼の視界から消え失せた。
 もう、何度も繰り返したことだった。
 ヴォルフガングは、単純な力比べならいざ知らず、総合的な戦闘能力でこの少女に自分が勝っているとは考えていない。
 速度。体を動かす性能が、根本的なところで桁が違う。
 まるで、四つ足の獣だ。いや、ひょっとしたらそれ以上か。遠く眺めるならいざ知らず、目の前でこうも素早く動かれたのでは、人間の目が追いきれるはずがない。
 だから、ヴォルフガングは諦めていた。当然、勝利をではない。華麗に少女を取り押さえて、無傷の勝利を得ることを、である。
 
『あは、熊さんはいつから亀さんになったのかな!?』

 ウォルフィーナの台詞は、全くもって正鵠を射ていた。体を小さく屈め、急所だけをなんとか守って一切の攻撃をしなくなった生き物を、もはや猛獣と呼ぶことはできない。ならば今のヴォルフガングのそれは、巨大な亀とでも言うべき姿だった。
 しかし、少女も気がついている。彼の、腫れ上がった瞼の奥で未だ鈍く輝く瞳が、己の勝利を信じて微塵も疑っていないことを。
 ならば、実のところ、追い詰められているのは少女のほうだった。どんなに苛烈に攻撃しても、男の頑丈な体がその全てを吸収してしまう。この体を攻略するには、拳や蹴りでは役者不足なのだ。
 そして、男もそのことに気がついていた。気がついて、じりじりと待っていたのだ。己ではなく、己の肉体の頑健さのみを信じて、荒れ狂う暴風雨のような少女の攻撃を、じっとひたすら耐え忍んでいた。
 いいぞ。どれほどでも痛めつければいい。
 存分に殴って、存分に蹴っ飛ばして、存分に引っ掻け。
 その度に、体は痛むだろう。傷つくだろう。だが、決して壊れはしない。俺はそのことを知っている。この体は、どうしたって俺を裏切らない。裏切るとすれば、それは俺が先にこの体を信じることが出来なくなったときだ。
 だから、俺は戦っている。たった一度も攻撃をせずに、それでも必死に戦っている。どうだ、追い詰められているのはお前のほうじゃないか、ウォルフィーナ。その真っ黒な瞳が、焦りに染まっているぞ。
 ならば、いずれお前は奥の手を使わざるを得なくなる。お前の、お前だけの、とっておきの武器だ。しかし、お前がそれを手にしたときが、俺の勝つときだ。
 そうして、男は耐えた。とことん耐えた。
 やがて、焦れたのは、やはり少女の方だった。

『しいぃっ!』

 鋭く漏れ出した呼気と共に、少女の足が疾駆する。
 狙いは、男の右内股。少女の小さな足の甲が、そこを思いっきりはじき飛ばした。

『ちぃっ!』

 さすがに、男の巨躯が揺らいだ。がくりと膝が折れ、男の顔が剥き出しになる。
 しかし少女は、男の顔面を狙わなかった。素早く引き戻した足を、そのまま垂直に蹴り上げた。
 では、そこに何があるか。
 そこには、男の股間がある。今まで、敢えて一度も狙わなかった、急所中の急所である。
 少女は、ほとんど思いっきり、そこを蹴り上げた。
 少女の爪先に、柔らかい感触が伝わった。

『かはっ!』

 男は短く呻いて、そのまま悶絶した。
 両手で股間を押さえ、前のめりに倒れていく。
 普通なら、これで勝負ありだ。少女の怪力で思い切り股間を蹴られたのだから、睾丸の一つや二つ、潰れていてもおかしくはない。そして、そんな男が立っていられるはずがない。
 しかし、ウォルフィーナは徹底的だった。前のめりに崩れていく男の、剥き出しになった喉に焦点を合わせ、その獰猛な牙を剥いた。
 それが、この、狼女ウォルフィーナと蔑まれた少女の、最後にして最高の武器だった。
 そして、ヴォルフガングが待ちに待った、唯一の勝機であった。



 あれ。
 おかしい。
 何でだ。
 私は、噛み付いた。
 この、とても好感の持てる、大男の喉元に。
 なら、私の口の中には、暖かい液体が充ち満ちていないとおかしい。
 おかしいのに。
 どうして、何の味もしないんだろう。
 それに、どうして噛み裂けない?確かに筋張って固そうな首だったけど、一気に噛み切ることは不可能ではないはずなのに。
 おかしい。
 なんで。



 ウォルフィーナは、ヴォルフガングの喉元を一気に食い千切るつもりで噛み付いた。
 グラントの右腕を、たった一噛みで無造作に食い千切った獰猛な顎である。それは、巨木のように太く、豊かな筋肉に覆われたヴォルフガングの首であっても、有効な攻撃たり得るはずだった。だからこそ、彼女は最後まで、自分にとっての文字通りの牙を隠し続けていたのだ。
 なのに、少女の牙は、その喉笛を噛み裂くことが出来なかった。
 単純な理屈だ。少女が噛み付いたのは、男の首などではなかったのだから。

『…つ、かまえたぜぇぇ…!』

 少女が噛み付いたのは、男の左前腕部であった。
 悶絶し、前のめりに倒れそうになっていたのは、あくまでふり・・だった。そして、目にも止まらぬ速度で飛びかかる少女、その口と頸動脈部の間に、腕を差し入れたのだ。
 男は、いつか少女が、自分の喉元か、それとも延髄に牙を突き立てるものだと信じて疑わなかった。鋭い牙を持つ肉食獣が獲物を仕留めるときは、それが作法なのだ。
 その点、男は少女のことを信じ切っていた。信頼していた。
 だから、この一瞬を、全てをかけて待ち続けたのだ。
 一瞬の驚愕の後、しかし少女は、自分が今何に噛みついているのかを瞬時に把握した。
 馬鹿にするなと思った。こんなもの、一息で噛み千切ってやると、顎に力を込めた。

『無駄だ。いくらお前さんでも、それは噛み切れねぇよ』

 ヴォルフガングはそう言いながら、残った右腕で、少女の細い腰を抱きかかえた。そうすると、もう少女は逃げられない。
 後ろに引くことが叶わないならば、前に進むしかない。少女はそう思い、いっそうの力を顎に込めた。もう、満身の力で噛み付いた。しかし、特殊な防刃加工を施したジャケットをぐるぐる巻きにしたヴォルフの左前腕部は、どうしたって噛み裂けるものではなかったのだ。
 勝負は、ここに決した。
 
『いい子だ、そのまま離すなよ』

 ヴォルフガングはそう呟いて、その巨体からは想像もつかない速度で疾駆した。無論、少女を抱きかかえたまま、である。
 どこに向かって?
 病院の、太くて頑丈な柱、その角に向かって、である。

『………っ!』

 少女は、さすがに身の危険を感じて、顎を離そうとした。しかしそれも一瞬遅く、彼女の小さな身体は既に男の太い腕に抱きかかえられてしまっている。
 最早、この顎を放したところで逃れられない。そう理解した少女は、よりいっそうの力を顎に込めた。もう、自身が顎と牙だけの生き物になってしまったような様子で、一心に噛み付いた。
 ヴォルフガングは、己の左腕から、べきりと鈍い音が鳴り響いたのを聞いた。それも、二回聞いた。間違いなく、尺骨が二本とも砕けたのだ。
 それでも構わず、男は疾駆した。まるで獲物を仕留める熊のように、大きく、しかし想像以上に敏捷な動きで、走った。
 そして、そのまま叩き付けた。
 自分の160㎏の体重と少女の40㎏ほどの体重を、存分に加速させ、そして柱の角に少女の背中を叩き付けたのだ。

 病院全体が、何の比喩でもなく震えた。

 ぐしゃり、と、すごい音が鳴った。
 それは少女の背中で柱がひしゃげた音であり、少女の肩甲骨が砕けた音であり、少女の肋骨が粉微塵に粉砕された音であった。

『かはっ…!』

 少女は、先ほどのヴォルフガングのように、弱々しい声をあげて悶絶していた。
 今度こそ、勝負ありである。
 しかし、それでも男は攻撃の手を休めなかった。

『悪いなぁ、ウォルフィーナ。俺は臆病なんだ。お前みたいに物騒な女はさ、意識があるだけでもおっそろしいんだよ』

 ヴォルフガングは、少女が噛み付いたままの左前腕を、そのまま強く柱の方に押し付けた。少女の開かれたままの口に、男の腕が深く埋まる。これで、口で呼吸することは出来ない。
 彼は少女を強く押し付けることでその体を柱に固定し、自由になった右腕で、少女の鼻を塞いだ。これで、鼻での呼吸も封じられた。
 ウォルフィーナはヴォルフガングと戦う際、荒々しく呼吸を繰り返していた。あれがふり・・でなければ、これも呼吸によってエネルギーを生み出し、そして戦う類の生き物であるはずだ。ならば、呼吸を封じてしまえば容易に無力化することが可能なはずだ。

『だから、悪いことは言わねえからさ、大人しく眠ってくれよ。なっ?』

 ヴォルフガングは、今までで一番優しい口調で、少女に語りかけた。それは勝者の優越の籠もった声ではなく、父親が娘に語りかけるような、優しい調子だった。
 ウォルフィーナは、激しく暴れた。さすがに先ほどのダメージが回復していないのだろう、ヴォルフガングを散々痛めつけたときと比べれば見る影もないような弱々しい調子だったが、その鋭い爪でヴォルフガングの頬を何度も引っ掻き、その肉を浅く削っていった。
 それでも、結局は追い詰められた獣の、最後の悪あがきでしかなかった。一分と立たずにウォルフィーナの顔は真っ赤に染まり、口の端から泡を吹き、白目を剥いて気絶した。
 ヴォルフガングはそれでも力を緩めず、やがて少女の小さな身体が細かく痙攣し始めたところで、ようやく彼女の鼻から手を離した。
 
『あぁ―――…つっかれたぁ…』

 ヴォルフガングはそう呟いて、がっくりと腰を下ろした。その拍子にウォルフィーナも小さな体も、コンクリートの床の上にとさりと落っこちた。彼女を抱き留めようとしなかったのはヴォルフガングが非情だったからではなく、純粋にそれだけの力が残されていなかったからだ。
 彼は、残された最後の気力を振り絞ってウォルフィーナの元まで這いずり、彼女の腕を後ろ手に拘束した。この程度の枷がこの少女に対して如何ほどの効果があるのかは分からないが、やらないよりはましというものである。
 その時点で、彼の頭にはいくつかの疑問が浮かび上がっていた。
 この、今は安らかな顔で眠る黒髪の少女は、一体何者なのか。この研究所とどんな関係があって、ここが閉鎖されてからどのようにして生き延びてきたのか。
 地下二階に設えられたあの扉を、どのようにしてこじ開けたのか。彼女は確かに驚くほどの怪力だったが、しかし自分と比べればさして際立ったものではない。旧式の薄っぺらな鉄扉ではなく、あれほど頑丈な電子ロック式の扉をこじ開けるのは、いくら自分でも不可能だ。
 それらは確かに重要な疑問であったが、しかし同時に今の彼にはどうでもいいことであった。彼の頭のうちの三割を占めるのは、自宅の冷蔵庫の中に入った冷たい缶ビールのことであり、残りの七割はこのまま泥のように眠りたいという睡眠への欲求であった。
 しかし、彼には残された最後の仕事があった。懐から小さな携帯用情報端末を取り出し、押し慣れた番号を、震える指先でプッシュする。彼の大きな指にフィットするような機種はなかったから、出来るだけ大きなものを買ったつもりだったが、それでも何回か番号を押し間違えて、その度にこの悪魔のような機械を真っ二つに砕いてやりたくなったヴォルフガングである。
 やがて、彼は思い通りの番号を押し終え、その機械を耳に押し当てた。

『…おう、リヒター。元気か?…ああ、こっちは深夜だ。いや、そっちも深夜なのは重々承知なんだがな。ちょっとトラブった。例の廃病院まで、救急車を寄越してくれ。怪我人が七人、内少なくとも五人は重傷だ。一人は命に関わるかも知れん。…クルツだ、そうだ、クルツがやられた。…そんなことはどうでもいい!さっさと救急車を手配しろ!…そうだ、例の病院だ。言っとくが、間違えても政府の息のかかっていない人間を寄越すなよ。見られたら不味い人間もいるんでな…』


 
 廊下の向こうから、お伽噺にあるような巨人が歩いてくるのを見て、待合室の子供が泣き始めた。それをあやすべき母親も、その男の異様なまでの巨大さに言葉を呑んで、身動ぎ一つ出来ない。
 そんな光景は彼にとってはいつものことだったので、彼はいつも通り無表情に、そして足早に待合室の横を通り過ぎた。下手に笑顔なんかを見せれば逆効果になるのはわかりきっている。ならば、早々に自分が立ち去るのが、泣き叫ぶ子供の涙を止める何よりの薬になるということを、彼は知っていた。
 ヴォルフガング・イェーガー少尉は、病院の清潔な廊下を一人歩いていた。右手に、見舞い用の花束と、可愛らしい小包を抱えている。
 その小包の中には、この近所で美味しいと評判のケーキ屋さんのケーキが入っている。その店に入ったときは、まるで街中に突然熊が出現したような奇異な瞳で見られたものだが、彼が顔を真っ赤にしながら擦れた声でケーキを注文すると、可愛らしい女の子の店員さんは、ケーキの種類に詳しくないヴォルフガングに色々なことを教えながら、笑いを噛み殺したような表情で、一緒にケーキを選んでくれたのだ。
 ヴォルフガングは、果たして女の子を見舞うのに何を持って行くのが一番相応しいのか、大いに迷った。だが、彼はそういった方面にはとことん疎い男であったし、やはり小さな女の子は甘いものが好きに違いないという固定観念に負けて、このように無難な選択となった。
 彼の左手は、まだ上手に動かない。いくら組織再生法という便利な医療技術が確立されているとはいえ、結局最後に頼るべきは己の体の治癒能力である。その点、彼は自信のそれが十分な信頼に値するものだと信じていたから、左手の痺れもすぐにとれるものだと理解していた。
 一週間前の、悪夢のような一夜は、剛胆な彼の記憶にも色濃く陰を落としている。しかし、あの場に居合わせた六人のうち、一番早く回復したのはやはり彼だった。その傷が、内臓破裂を起こして一時は危篤状態に陥っていたクルツを除けば、一番に手酷いものだったにも関わらず、である。
 全身を覆う重度の打撲傷と擦過傷、右睾丸破裂、左膝靱帯断裂、右足首剥離骨折、左十番から十二番までの肋骨完全骨折、右六番及び十一番の完全骨折。骨にひびが入った程度の細かいものは数え上げればきりがない。
 その中でも一番ひどかったが、左上腕部の裂傷である。大形の肉食獣に噛まれたと思われるその傷は、骨を断ち割り肉を裂き、あと少しで完全に食い千切られる、ほとんど皮一枚で繋がっているような有様だったのだ。
 ヴォルフガングとしては、最早恐怖を通り越して感嘆するしかない。彼自身の命を何度も救ってくれたあの防刃ジャケットを食い破り、彼の逞しい筋肉の鎧をものともせず、骨までも噛み切ったのだ。驚くべき力であった。第一、どうやればあの少女の小さな口で、大形肉食獣のような噛み跡を残せるのか。何度考えても納得のいく答えを導き出すことが出来ない。

 この一週間、彼は病室のベッドで、ぼんやりと天井を見ながら過ごしていた。その間考えたことといえば、病院食とはどうしてこんなに不味いんだろう、とか、冷蔵庫に入れておいた缶ビールが凍り付いて破裂していないだろうか、とか、食べ物の事ばかりであった。その点、彼は自分が熊か象に似ていると言われても反論する材料を持たない。
 そんな、人生の夏休みを謳歌するようにのんびりとしていた彼のもとに、一本の電話が入った。彼の直属の上司であるアレクセイからの電話であった。

『…ウォルフィーナが、私との面会を求めている、と?』
『そうだ、さっさと会いに行ってやれ!』

 六人の中で一番傷の浅かった上司は、電話越しに不機嫌な声を隠そうともせず、そう言って受話器をフックに叩き付けたようだった。
 はて何の事やらと耳を疑ったヴォルフガングだが、上司の命令となればこれは立派な任務の内である。取るものもとりあえず、彼は少女が入院しているという大学病院へと向かい、そして今は少女の病室のあるフロアの廊下を歩いている。
 しかし、その内心では、未だに強く困惑している。
 果たして今の彼女と顔を合わせて、なんと言ったものか。自分は今まで女っ気なく過ごしてきた叩き上げの軍人であり、あちらさんは、その内側に詰まっているものを無視すれば、うら若き乙女だ。どう考えても、共通の話題があるとは思えない。
 あるとすれば、やはり一週間前の、あの戦いだろうか。しかし、その点について、勝者である自分が口にしていいものか。それは、彼女の誇りを傷つけるものになるのではないだろうか。
 加えて、ヴォルフガングの中には強い自責の念がある。無論、口にすればウォルフィーナを侮辱することになるので言わないが、彼は、いくら非常の事とはいえ、女性というものを傷つけたことを後悔しているのだ。女手一つで育てられた彼は常に女性というものを尊敬していたし、また守るべきものなのではないかとも思っていた。極端な男女平等主義者に言わせれば男の身勝手と非難されかねない意見だったが、しかし彼は、力の強い者が弱い者を守るのは当然のことだと思っていたので、やはり彼にとっての女性は庇護の対象だったのだ。無論、ウォルフィーナがか弱い女性であるとは思わない彼ではあったが。
 それとは反対に、彼女と会って、落ち着いて話をしたいと思う自分もいる。彼女は、なんだかんだいってとても美しい少女だった。別に異性として意識しているわけではないが、しかし彼女と話すのがとても楽しいことであるのは、間違いない気がしていた。
 そんなことを考えつつ歩いていたら、いつの間にか彼女の病室の前に辿り着いていた。
 未だ心の整理のつかないヴォルフガングではあったが、この期に及んでの逡巡は、臆病者との誹りを免れ得ないものだろう。
 意を決した彼は、その大きな手の甲で、病室のドアを三回ノックした。
 すると程なくして、中から声がした。

『どうぞ』

 それは、明らかにあの少女、ウォルフィーナの声だった。
 ヴォルフガングは、緊張で汗ばんだ掌をズボンで拭って、それから扉を開けた。

 その瞬間、爽やかな風が彼の前から吹き、僅かばかりの体温を奪って、後ろのほうに抜けていった。
 
 まるで初夏の森に拭く、木々と獣たちの息づかいをたっぷりと含んだような、馥郁たる風だった。
 
 その風に誰かの魂が乗っていたような、そんな気がした。

 望外の心地よさに気を取られていた彼は、やがて意識を目の前の少女に集中させた。
 ヴォルフガングは、無言で目を見張った。
 彼の目の前で、寝台に腰掛けている、白い寝間着を身に纏った少女。それは、一週間前に、彼と死闘を繰り広げた、あの少女だ。流れるような黒髪も、黒真珠みたいな瞳も、白磁の肌も、すべてがそのままだ。
 しかし、彼の目には、それがどうしても同じ人間には見えなかった。薄汚れた体は綺麗に手入れされ、幼いながらに匂い立つような色気を身に纏っている。それはそれで目を見張るような変化であるのだが、もっと根本的な部分で、目の前の少女はウォルフィーナではない。ヴォルフガングはそう直感した。
 だから、口に出してはこう言った。

『…あんた、誰だい?』
 
 少女は不思議そうに小首を傾げた。

『はて。俺と卿とは初対面ではなかったと思うが?』

 俺。
 この、どう見てもウォルフィーナにしか見えないのに、決してウォルフィーナではない少女は、自分のことを『俺』と呼んだ。
 ヴォルフガングの記憶にあるウォルフィーナは、自分のことを『私』と呼んでいた。
 これはいよいよ、同一人物ではあり得ない。

『…もう一度聞くぜ。あんた、一体誰だ?ウォルフィーナはどこに行った?』
『卿が戦ったのは、ウォルフィーナと呼ばれた少女の残滓だ。今は、この世界のどこにも彼女は存在しない』

 目の前の少女は、少しだけ寂しそうにそう言った。
 ヴォルフガングには一体何事か分からなかったが、しかし少女が真実を言っていることだけは分かった。
 
『…死んだのか?』
『ある意味では、そうとも言える』
『俺が殺した?』
『違う』

 少女は首を横に振り、確固として言った。

『卿と出会った時点で、彼女は既にこの世の住人ではなかった。先ほども言ったが、卿が出会ったウォルフィーナはあくまで残滓、この世の最後の未練のようなものだった。だからこそ複雑な思考も出来ず、ただいたずらに卿らを傷つけた。詭弁にしか聞こえないだろうが、あれは彼女の遺志でも俺の意志でもなかった。そう言う意味では、俺も彼女も、深く貴方に感謝している。俺達を止めてくれて、どうもありがとう。そして、故なくあなた方を傷つけたことを、深く謝罪させて欲しい』
『いや、俺達も彼女に銃を向けたからな、お互い様だと思うんだが…』
 
 ヴォルフガングは、彼女が自分達を殺さなければいけないと、少し悲しそうに言っていたのを思い出し、そういう意味だったのかと納得した。
 そして、目の前の、ウォルフィーナではない少女の言葉。自分を止めてくれてありがとうというその言葉だけは、まるであの少女が話したような、そんな気がした。
 大きなお兄さんと少女に呼ばれた青年は、己を殺そうとし、また己が殺そうとした少女の魂の平穏を願って、短い黙祷を捧げた。
 
『彼女の死を悼んでくれるのか?』

 目を開けたヴォルフガングは、その瞳を僅かに濡らしながら、鼻にかかったような声で答えた。

『ああ。あの子は、何て言うか…そう、とてもいい子だった』
『卿を殺そうとしたのに、か』
『俺を殺そうとしなければならない程に追い詰められた彼女が、今はただ悲しいと思う。それだけだ』

 その言葉に少女は深く頷き、そして頭を深々と下げ、礼の言葉を述べた。

『彼女に代わって、御礼を申し上げる。そして、貴殿の気高き魂に尊敬を』

 それは少女の口が紡ぎ出すべき言葉ではなかったが、しかしヴォルフガングには、そのややこしい言葉遣いが、何よりもその少女に相応しい気がした。
 彼は照れたような表情ではにかみ、そして問うた。

『じゃあ、あらためて聞くよ。あんた、名前は?』

 黒髪の少女は、烟るような笑みを浮かべて、こう言った。

『俺の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。少し前まで国王などという職業についていたのだが、今は昔だな。ところで、俺も彼女と同じように貴殿のことをヴォルフと呼びたいのだが、それを許してくれるだろうか?』

 ヴォルフガングは、自分の目の前で太陽が笑ったような、そんな気がした。



[6349] 第九話:会談
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:47
 その少女が目覚めたのは、彼女がその病院に運び込まれてから二日後のことだった。
 彼女の怪我は、尋常のものではなかった。
 脊椎の損傷、右肩甲骨の粉砕骨折、幾本かの肋骨が砕け、内臓にも大きなダメージを負っている。普通の人間であれば間違いなく死んでいる、奇跡的に助かったとしても二度と目を覚ますことはないだろう、そういう傷だった。
 それでも、少女は二日で目覚めた。組織再生療法の加護があったとはいえ、驚異的な快復力である。

『……う……』

 年端もいかぬ黒髪の少女は、電灯の明かりを眩しがるように、小さなその手を目の上に翳した。
 長い睫に飾られた瞼がふるふると震え、ゆっくりと持ち上がる。すると、その下に隠されていた大きな黒い瞳が露わになり、最初はぼんやりとしていた焦点が、徐々に合わさっていく。
 陽光でも蝋燭でもない明かりに照らされた、平坦な天井。
 それは、彼女が初めて見る、文字通りの異世界だった。

『目が覚めましたか』

 少女の耳に優しい声が響いた。
 まだ満足に体を動かすことが出来ないのだろう、少女は視線だけを声のする方に向けた。
 そこには、白い服を着た、年配の男性が立っていた。

『こ……こは……』
『あまりしゃべらない方がいいでしょう。あなたの体は、まだまだ休息を必要としています』

 白髪の混じった、少しだけ薄くなった頭髪。そして、今まで一度足りとて怒り皺を刻んだことがないような柔和な顔。彼の顔には、どれほど恐慌に陥った患者でも一目で安心させるような、不思議な安心感がある。そう言う意味では、彼は天性の医者だった。
 彼は、その柔和な瞳の中に、出来る限りの慈愛と誠実さを込めて、言った。

『あなたが件の研究所でどのような扱いを受けてきたのか、それは私も分かりません。しかし、ここにはあなたを傷つける人間はいません。ですから、ゆっくりと傷を癒して下さい』

 少女は、傷ついた自分の隣に見知らぬ誰かがいるという恐怖にも似た焦燥感と、この医師にならば今の自分を委ねても大丈夫だという安心感の両方を同時に味わっていた。
 それらの感覚の齟齬は、いわば獣としての肉体と人としての精神の乖離から生じるものだったのだが、肉体の支配の弱まっている今の彼女には精神――というよりは魂の支配のほうが勝ったのだろう、少女は瞼を下ろし深い眠りについた。
 この傷ついた肉体を癒すには、何よりも深く眠ることが寛容だと、戦士の魂が知っていたのだ。
 再び眠りに落ちた少女を見下ろしながら、初老の医師は深い溜息を吐き出した。
 痛ましいことだと思った。特異能力者と呼ばれる人間に対して非人道的な人体実験を行っている研究施設がある、彼も長い従軍経験を持つ軍医であるからそういった噂があるのは知っていた。知っていたが、それがまさか真実だとは思わなかった。
 目の前で、安らかな寝息をたてる少女。この、天使のように無垢な寝顔が、自分自身と同じ世界で禄を食む人間の手によって穢され、地獄のような苦しみを味合わされていたのだと思うと、自分が選んだ職業が果たして人の幸せに貢献しているのか、彼は分からなくなってしまった。
 それでも、彼には分かっていることがある。この少女、彼の歳からすれば孫娘のようなこの少女の安らかな眠りだけは、自分の力の及ぶ限り守ってみせるという、己の決意の堅さである。それを信じることが出来なくなったとき、彼は自身の職を辞することになるのだろう。
 医師は一度深い溜息を吐き、少女の夢の安らかなことを祈ってから病室を後にした。

 その少女が次に目を覚ましたのは、さらに二日後のことだった。
 本来であれば絶対に起き上がることなどできない体であったはずだが、彼女はいとも容易く体を起こし、付き添いの看護師を驚かせた。

『大丈夫なの?無理をしては駄目よ』

 少女は、弱々しいながらもはっきりとした声で答えた。

『お心遣いには感謝するが、あまり体を甘やかしすぎると、いざというときに使い物にならん。これを扱うには、少しぞんざいな位でちょうどいいはずだ』

 どうにもその外見にそぐわぬ言葉を使いながら、空色の検診衣に包まれた自分の体を見つめる少女。その視線が、何か珍しいものを見るように、丸くなる。

『どうしたの?』
『うん?いや、別に何でも無いのだが……。これが新しい体かと思うと、中々に感慨深いな』
『新しい体?』
『いや、こちらの話だ』

 少女は苦笑した。

『ところで、一つだけ尋ねたいのだが……』
『私に?ええ、何でも聞いて頂戴、私の知っていることならいいのだけど……』
『ここは、天の国だろうか?』

 看護師は、冗談かと思った。しかし目の前の少女の瞳は存外に真剣なものである。
 看護師として豊富な経験を誇るその女性は、気の毒そうな視線で、ベッドにちょこんと腰掛ける少女を見遣った。精密検査では分からなかったが、もしかしたら頭部にも何らかの障害が残ってしまったのだろうかと訝しんだのだ。



 共和政府の首脳陣は、突然大雨に襲われた蟻の巣の働き蟻のように、卒倒するほどの恐慌に襲われた。その中心にいなければならない連邦主席などは、己の知るありとあらゆる語彙能力を発揮して、神に向かって恨み言を吐き続けたほどだ。
 発端は、一人の少女である。例の、三年前の事件を発端とした研究所閉鎖に関する一連の騒ぎの中で発見されたその少女は、研究所跡に赴いた調査員六人のうち五人までも半死半生の重傷を負わせた上で、最後の一人をやはり手酷く痛めつけ、やっとのことで保護、というよりは捕獲された。
 見た目は、ようやく中等教育にさしかかった程度の、か細い少女である。しかし軍隊からの出向というかたちで配属された調査員をいとも容易く戦闘不能にさせたことから、研究対象となっていた特異能力者の生き残りの可能性が高いと推測された。それ故、彼女を『保護』するためには鉄格子と拘束衣が必要なのではないかという意見もあったが、少女の担当となった医師がそれを強く拒絶し、自分の責任のもとで通常の患者と同じ処置をすると言い張った。
 その少女が本格的に目覚めたのは保護されてから四日後の事だったが、怪我の回復は順調であり、調査員から聞き取った情報と異なり意外に理性的な人格であるように思われたため、その直後から少女に対していくつかの質問調査が行われた。

 結果、いくつもの事実が判明した。

 少女の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。
 今から十三年前に研究所に収容されたこと。
 以来日に当たることもなく人体実験の被験者となっていたこと。
 それらの証言を元に研究所跡に残された資料を分析した結果、驚くべき事が判明した。
 その研究所に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンという少女は確かに存在した。残された断片的な記録が事実であるならば、彼女は僅か一歳の時に研究所に収容され、十年間も人体実験のサンプルとして供され続けていた。特異能力者への人体実験は、その徹底した非人道性から極めて過酷なものとなることがほとんどで、それ故に彼らの耐用年数も平均すれば一年から二年程度しかならない事が多い。そのことを考えれば、彼女は驚異的ともいえるほど長持ちしたサンプルだったようだ。
 しかし、今から三年前、例の事件をきっかけとして当該研究所が閉鎖される直前に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンはその死亡が記録されている。そして彼女の体は解剖され、標本として薬品に漬けられ、永久保存されているはずだった。
 ならば、今、彼らの前で旺盛な食欲を発揮して病院食を平らげていく、この少女は一体何者なのか。
 まず、少女の毛髪から採取したDNAとエドナ・エリザベス・ヴァルタレンのDNAとの照合が行われた。
 照合は一切の事情を知らされていない第三者機関に依頼されたが、その結果はクロ。分析した二つの細胞の持ち主は同一人物であるという無慈悲なものであった。
 では、死亡診断のほうが誤りで、彼女は密かに生存していたというのだろうか。しかし、そうだとすれば彼女はどのようにして三年間もの時をあの地下で生きてきたのか。緊急用の食料は確かに存在したが、一人の人間が三年も生きていくことが出来るほどのものではなかったし、第一消費された緊急食料は少女の証言通り二週間分程度のものであった。
 密かに外部に脱出していたとするならば、何故今になって彼女は忌まわしき記憶しかないはずの研究所に戻ったのか。それに、研究所の外部からの封鎖は完璧であったし、地下二階における研究ブロックと一般ブロックを区切る頑丈な扉は、ごく最近に『内側から』とんでもない力で強引にこじ開けられていたのだ。これは少女の証言と完全に一致する。
 また、研究所の奥深くに陳列されていた被験者の体細胞サンプルの中に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンとラベルを貼られた瓶が数多く存在したのは事実である。事実であるのだが、その中身はいずれも空であった。無論、ここ最近に誰かが動かした形跡は無い。こっそりと持ち出して中身を回収したとしても、積もった埃までも元通りにするのは著しく困難だし、そんなことをする意味がない。最初から空だったという可能性も無いではないが、では誰がそんなことをする必要があるのか。その空の瓶以外は、全てが憐れな被害者の臓器や眼球などでいっぱいだったというのに。
 どのような仮説を組み立てても、どこかで必ず齟齬が生じる。関係者は四次元のパズルを組み立てているように錯覚すらした。
 そんなふうに、誰しもが首を傾げていたところに、更に驚くべき情報が伝わった。
 少女は、自分とエドナ・エリザベス・ヴァルタレンが別人だというのだ。自分は、彼女の体を借り受けているだけで、彼女とは別の人間だ、と。
 報告を受けた医師達は、痛ましそうな表情こそ見せたものの、だからといって驚愕に顔を歪めることはなかった。
 強い肉体的な苦痛を長時間に渡って受け続けた人間が、自分の中に別人格を作ることは決して珍しいことではない。
 解離性同一性障害、いわゆる二重人格と呼ばれる人格障害の一種である。
 人の精神は、その肉体に比べて遙かに複雑であり、癌をはじめとした一昔前の難病にはある程度の治療の目処がついている今日においても、特定の精神疾患には有効な治療法が見つかっていないことが多い。解離性同一性障害もその例に漏れず、未だメカニズムの解明されていない難病の一つである。
 当初はこの少女もそのケースだと思われたが、彼女を診察した精神科の女医は、首を捻った。
 この少女が、精神疾患を患っているようには、どうにも思えないのだ。
 まず、精神病に罹患した患者特有の、不安定な感情表現というものが感じられない。加えて、その少女の人格が、どうにも『普通』過ぎる。少なくとも、今までに彼女が診察してきた精神病患者の、どのような類型にも当てはまらない。
 解離性同一性障害によって生まれた交代人格は多くの場合、その人格ごとに何かの役割、抑圧された精神活動を表出するための傾向を持っている。例えば攻撃性を引き受けた暴力的な人格や、逆に痛みを引き受けるため生まれた人格などである。しかし女医と話す少女の人格には、そういった偏った指向性がないばかりか、十四歳の少女とは思えない程に成熟した、威厳に近いものまで漂っている。
 それに、俗には『二重人格』などと呼ばれるこの症例であるが、その実、人格が2つしか存在しないことは稀であるとされる。にもかかわらず、女医の見たところ目の前の少女には、今の人格と主人格以外、他の交代人格は無いように思われるのだ。
 それらの点を訝しんだ女医が尋ねたところ、少女は自身を異世界の王だと名乗った。
 通常であれば思春期の少女に特有の夢想癖の進行したものかと疑る女医だったが、それにしては彼女の語る異世界のディティールが鮮明すぎる。また、王としての人格を与えられた割には、尊大さや居丈高さといったものが感じられない。不自然なほどに『自然』なのだ。
 女医は、おそるおそるといった調子で尋ねた。
 
『では、あなたはデルフィニアという国の王だというのね』
『ああ。正確には王だった、という方が正しいのだろうが』

 黒髪の少女は、やはりその容姿にはちっとも相応しくな口調で答える。
 女医は更に尋ねた。

『じゃあ、その王様が、何故このようなところに?』
『ふむ。あちらの世界では、俺は一度死んだ。それは間違いのないことだと思うのだが、少々心残りがあってな。それで運良く天の国、いや、こちらの世界に来ることが出来たのではないかと思っている』
『心残り?』
『会いたい人がな、いるのだ』

 少女は、女医がはっとするような微笑みを浮かべて、言った。 
 彼女は、自分が気圧されているのを悟った。目の前にいるのは、少なくとも精神病を発症した十四歳の少女ではない、そんな気がした。

『……じゃあ、その人の名前を教えて貰える?』

 少女は一瞬思案する顔をした後で、言った。

『……グリンディエタ・ラーデン。もしくは、ルーファセルミィ・ラーデン、それともルーファス・ラヴィー。ひょっとしたらこの世界は彼らの世界ではないかと思うのだが……』
『その人達は、あなたにとっての何なの?』

 少女は、何のためらいもなく言った。

『グリンディエタ・ラーデンは、俺の同盟者であり配偶者だ。ルーファセルミィ・ラーデンとルーファス・ラヴィーは同一人物だが、彼は妻の相棒であり俺の友人だ』

 その日の診察は、少女が疲れた様子を見せたのでそこで終わった。
 精神科医のカルテを見た初老の医師は、少女が口にした名前を病院に直結している政府の電子脳へ照会した。無論、ただの戯れである。有効な返答を期待してのことではない。
 しかし、医師の予想、もしくは希望を裏切るように、機械は応えた。

『該当有り。しかし第一級政府機密につき、照会には最高評議会の認可が必要である。』

 唖然とした医師は、上司に直通の内線番号をプッシュした。



 事の経緯についての報告を受けた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世が発狂しそうになったとしても無理もあるまい。
 彼の記憶に未だ新しいセントラル星系破壊未遂事件。冗談のような話だが、星系一つを破壊する――しかも人口十億を数える有人惑星を含む――という前代未聞の凶行を引き起こしかけたのは、見た目には優しい風貌のたったひとりの青年であり、それを未然に食い止めたのは年端もいかない少年である。
 黒髪に青い瞳を持つその青年の名を、ルーファセルミィ・ラーデン。『神の一族』とも呼ばれるラー一族の若者であり、彼らの中でも異端視され、そして最も恐れられる存在である。
 怒り狂った彼の暴走をすんでのところで食い止めた、流れるような金髪に緑色の瞳を持つ少年の名前が、グリンディエタ・ラーデン。詳しい経緯は分からないが、ルーファセルミィ・ラーデンの相棒であり、この宇宙で唯一、彼と同等の――少なくとも彼を止めうるだけの力を持った人間の少年だ。
 その前代未聞の事件が一応の収束を見たあとで、一様に十歳は老けたように見える政府首脳は、彼らのことを『歩く超新星爆発』、『呼吸するブラックホール』と密かに名付けて、共和政府の下位機関について、今後一切その二人及び二人の周囲の人間に関わることを禁じた。
 それは異例とも呼べるほどに強権的な禁止であった。万が一彼らを研究材料にしようと試みる機関があれば、それが公的なものであると私的なものであるとを問わず、連邦政府はその軍事力の全てを注ぎ込んででも無謀すぎる野望を阻止するだろう。そうでなければ、今度こそ惑星セントラルは全ての生命を巻き込んで宇宙の塵となるのだから。

 とにかく、あれらは人類の手に余る危険物なのだ。

 しかし、希望がないわけではない。
 彼らは究極の危険物であるには違いないが、触らぬ神に祟り無しとあるとおり、こちらから要らぬちょっかいをかけない限り暴走することはないらしい。
 そう割り切ることで一応の精神的均衡を取り戻していたマヌエル・シルベスタン三世であったが、彼も有能な政治家である。彼の裁量の範囲で打つべき手は打っておかないと安心できない。だからこそ三年前に封鎖した研究機関も含めて、違法な人体実験に手を染める研究機関の一斉捜索及び閉鎖に踏み切ったというのに、何故そんな自分がこんな目に遭わなければならないのか。
 惑星レダのアカシャ州に設置された、政府公認の特異能力者研究機関。研究と言えば聞こえはいいが、要するに人体実験場である。故に、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後、最優先で閉鎖された研究機関の一つでもある。
 にもかかわらず、今になってその封鎖された研究所から発見された少女、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。
 なんとその少女が、例の二人の知り合いだというのである。
 しかもその言葉を信じるならば、彼女はグリンディエタ・ラーデンの妻であるという。
 悪夢だ。マヌエル・シルベスタン三世は思った。
 過ぎてしまったこととはいえ、自分達はあの『歩く超新星爆発』の愛する人間を、人の尊厳を奪った上で実験動物として鎖に繋ぎ、その体を十年間切り刻み続け、記録を信じるならばその結果として殺してしまったというのだ。
 報告によればその辺りの事実関係に納得のいく説明ができないらしいが、おそらくは『あの一族』の不可思議な能力の恩恵で生き返ったのだろう。
 しかし、生き返ったからといって、そのことによって過去の事実が消え去れるわけでは勿論ない。
 当然、研究所に十年間収容され続けた少女とあの少年がどうやって結婚するのかという疑問がないわけではなかったが、『あの一族』を前にして常識という概念がどれほどに儚く脆いものかを痛いほどに思い知らされた彼にとって、その程度の事実は心の拠とはならない。
 その上、今回調査が行われた際、彼女は調査官の一人によって生死の境を彷徨うほどの重傷を負わされ、四日間も意識不明のまま入院を余儀なくされたという。

 もう、笑うしかない。

 共和宇宙の最高権力者は、青ざめた顔に乾いた笑みを貼り付けながら、呟いた。

『さて、これだけのことをしておいて、惑星一個で勘弁して貰えるのだろうか』

 彼は自分の執務室に響いたのは、ほとんど絶望に近い響きであった。
 もう、全ての重責を放り出して自宅に帰り、暖かいベッドの中で夢に逃げ込みたい彼だったが、政府の最高責任者たる自分が逃げだしてしまっては事態の悪化を招くだけである。それに、今眠ったとしても悪夢しか見ることが出来ない気がした。
 彼は、政府首脳の緊急招集を補佐官に告げた。

 政府首脳が招集連絡を受けたのは深夜のことだったので、集った面々の顔は一様に不満と眠気に満ちていたが、怠惰とも傲慢とも呼べるその表情は主席の報告を聞いて一気に吹き飛んだ。彼らの脳裏に、黒い天使によって刻みつけられた、あの忌まわしい記憶が蘇ったのだ。

『あ、あのくつうを……じゅ……じゅうねんかん、ですか……?』
『十年だ。我々は、あの少年の配偶者を、十年間切り刻み続けた』

 あの二人に『我らの与り知らぬことだ』という言い訳が通用しないことは前回の一件ではっきりしている。無論、自分達が政府首脳となる前のことだから、と言ったとしても、火に油を注ぐ結果にしかならないことも間違いあるまい。

『今回君たちに集まってもらったのは、我らの、というよりは人類全体に対する未曾有の危機を引き起こしかねないこの事態に対して、有効な解決策を導き出すためだ。忌憚の無い意見を述べて欲しい』

 述べて欲しいと言われても困るというのが全員の正直な意見であったし、それは主席自身が誰よりも分かっていた。
 有効な解決策などあるはずがないのだ。
 有形無形の脅迫で黙らせるのは不可能だ。彼らの力は全人類がその軍事力を結集したとしても到底及びもつかないものだということは間違いない。力でもって彼らを押さえるのは不可能である。
 では、残る手段は限られている。
 全てを明らかにした上で許しを乞うか、それとも全てを闇に葬ってしらを切り通すか、だ。

『もし彼らに事の経緯が伝わった後になって頭を下げたとしても逆効果でしょう。今となっては、一刻も早く彼らに真摯な謝罪の意志を伝えるのが最も得策なのでは?』
『しかし、前回の彼らの強固な態度を覚えているでしょう。彼らには、恫喝や威嚇はもちろんのこと、利をもって籠絡したり懐柔することも通じない。つまり、交渉のあらゆる常識が通用しない。そんな相手の怒りをどのようにして宥めるというのだ?』
『かといって、全てを隠すなど不可能でしょう。もしもあの二人が例の不思議な力を使えば、今すぐにでも彼女を取り戻すことが可能なのですぞ?』
『言いにくいことだが、彼女一人の命と全人類の命を天秤にかけることは出来ん。今まで彼らが件の少女に気づかなかったところから考えると、彼女と例の少年とは、いわゆる通常の夫婦とは違うかたちの婚姻をしているのでしょう。少なくとも、二人が常に一緒にあるという、我々にとっての婚姻ではないはずだ。ならば、もう一度彼女がこの世の人でなくなっても、おそらく気がつかないのでは?』
『危険すぎます。もしもそのことが彼らの耳に入れば、それこそ人類が滅びるほどの損害を覚悟しなければならない。それに、今まであれほどの虐待を受け続け、折角この世に帰ってきた少女を再び亡き者とするなど、許されることではないと思いませんか?』
『そもそも、謝罪の意志を伝えるというが、その役は誰が引き受けるというのだ?言うまでもないことだが、謝罪の意志を伝える人間は真っ先に彼らの怒りに晒されることになるぞ。私は御免だ』

 喧喧諤諤たる議論が行われたが、意見は全くまとまる様子を見せない。そもそも、恐慌状態に陥った精神でまともな結論を導き出せというのが無茶なのだ。
 それでも深夜から行われた、おそらく昨今において最も真摯な議論は、途中何度も休憩を挟みながら夜明けまで行われたが、結局議論は建設的な方向にまとまることはなかった。おおかたの予想通り、最終的な決断は、最高責任者たる連邦主席に委ねられるかたちとなった。
 だいたいこのような結果になるのではないかと予想していた彼だったが、これで一応の体裁はつけた格好になる。あとは、自分が決断を下すだけだ。しかし、その『だけ』のことに、彼の胃はキリキリと痛み、声にならない悲鳴をあげ続けていたのだが。
 その日のうちに彼は、例の少女に面会を求めた。無論、彼女を亡き者にするためではない。そんなことをするために彼が直接足を運ぶ必要など、どこにもないのだから。



 主席が立ち入ったのは、精神に優しい薄緑色に統一された、落ち着いた病室だった。簡素なベッドと、その脇に置かれたサイドボード以外に目立った家具は存在しない。
 普通の病室だ。ただ、精神病の患者に多い発作的な自殺を防止するために、鋭い刃物や長い紐の類が徹底的に排除されている点が、他の病室と違うと言えば違っていたかも知れない。
 それでも、やはりそこは普通の病室だった。少なくとも、この部屋の主がこの共和宇宙の命運を握っているなど、主席たる彼以外の者には思いもよらないだろう。
 その少女は、ベッドの上で体を起こし、何やら真剣に本を読んでいた。窓ガラスを透過した初夏の陽光が、少女の黒絹のような髪の上を滑り落ちる。怪我の影響だろうか、元々白かった肌には更に血の気が薄く、触れれば割れる薄っぺらい陶磁器のような印象ですらある。
 主席は、よくできた一枚の絵画のような情景に息を飲み、しかし乾いたその喉を酷使して、出来る限り穏やかな声で話しかけた。

『早かったですかな』

 一心不乱に字を読み進めていた少女は、ゆっくりと顔を上げた。
 壁に掛けられた時計を見る。長針と短針は、今がちょうど約束の時間であることを少女に教えた。

『いえ、時間通りでしょう。それよりも、このような格好で失礼します。本来であればもっとまともな服を着るべきなのでしょうが、なにぶん病人扱いが度を過ぎるようでして』

 少女は、診察衣にくるまれた自分の体を見て、憮然としながら言った。
 確かに、この少女はもっと見栄えのする格好をして、その上に薄化粧の一つでもすれば極上の美少女に化けるだろう。
 その姿を見ることの出来なかった主席は、内心で少しだけ残念がりながら、少女の下手な冗談に僅かだが頬を綻ばした。

『初めまして、ミス・ヴァルタレン。私はマヌエル・シルベスタン三世、共和連邦の主席を務めております』

 この宇宙の最高権力者たる彼が、見ず知らずの少女に話しかけるには少々堅苦しく、そして緊張した様子であった。だが、ベッドから体を起こしたこの少女が『あの少年』の妻であるならば、普通の人間のはずがない。まして、彼女は特異能力者であり、しかも五人もの軍人を病院送りにしているのだ。見た目通りの少女であるはずがないのである。多少の緊張はやむを得ざるものだろう。
 黒髪の少女は本をサイドボードに仕舞い、賓客に相対した。その漆黒の瞳には、見知らぬ大人が突然自分を訪ねてきたことに対する恐れや驚きなど、微塵も感じられない。主席の身分は事前に伝わっているはずだから、彼女は、自分が今話しているのがこの国の、というよりもこの宇宙の最高権力者であることは承知しているはずである。それにも関わらずこの落ち着き様、やはり普通の少年少女ではありえないだろう。

『初めまして、シルベスタン卿……とお呼びして失礼でないのかな?』
『結構です、ミス』
『かたじけない。まだ、この国の風俗が今ひとつ掴み切れていないのだ。失礼があればご指導頂けると有難い』

 少女は僅かに姿勢を正し、言った。

『確認したいのだが、シルベスタン卿。あなたは、一体誰に会いに来たのだろうか?ウォルフィーナに会いに来たのか、それとも彼女の交代人格とやらである俺に会いに来たのか?』

 少女は笑いを噛み殺すようにしながらそう言った。
 主席は、息を飲んだ。目の前の少女に、はっきりと圧倒されていた。
 彼は、かつて金色の少年と相対した際、その気魄に正面から敗北した。彼の長い人生の中で、初めてと言っていいほどに決定的な敗北だった。自分という人間の器が目の前の人間のそれに及ばないということを、他でもない自分自身が認識してしまったのだ。
 あの時の少年の、燃えるような緑色の瞳に感じた途方もない威圧感。今自分の前にいる、やはり年端もゆかぬ少女の漆黒の瞳にも、それと同じものを感じる。ただ、種類は違う。少年の瞳から放たれたものを帝王の気魄とでも呼ぶならば、この少女のは賢王のそれだ。彼ほどに激しくも熱くもないが、しかしその分静かに澄み渡っていて、しかし底が見通せない。
 この瞳は、きっと鏡なのだと思った。こちらが下手な策を講じて少女を罠に嵌めようとすれば、おそらくはこちらが下手な道化を演じる羽目になる。しかしこちらが真摯な態度で臨む分には、彼女も真剣にこちらの言い分に耳を傾けてくれるだろう。
 主席は、自分の判断の正しかったことを悟った。

『……その前に、まずあなたのお名前を教えて頂きたいのですが……』

 少女は一度頷いて、その可憐な唇を開いた。

『非礼をお詫びする。俺の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない世界の王を務めていたものだ……と俺自身は思っているのだがな』
『王を務める?それは少しばかり妙な表現ではないですか?私が歴史で学んだ王というものは、君臨するものではあっても務めるものではなかったような気がしますが……』

 主席の言葉に、少女は苦笑いを浮かべた。何か、思うところでもあったのかも知れない。

『シルベスタン卿の仰るところは一々ごもっともだが、俺は自分から望んで王座についたわけではない。あれは、黄金で出来た牢獄のようなものだ。食うには困らんし誰しもが傅いてくれるが、しかし野山を駆け巡るための足には知らぬうちに特大の錠が嵌められている。王座に価値を見いださないわけではないが、しかし俺には相応しいものではなかった気がするな』

 朗らかに笑う少女を見ながら、これをただの人格障害で片付けることの出来る医師連中の脳天気さを、主席は心底羨ましく思った。いや、事情の知らない人間であれば、そうとしか思えないのだろうか。
 これは、ただの交代人格などではあり得ない。間違いなく、『あの一族』が関わった怪異の一つだ。
 とすれば、この少女の言葉、異世界の王であったという言葉に嘘はあるまい。
 主席の汗ばんだ手が、知らずにネクタイの結びを締め直していた。

『……ではあなたのことは、陛下とお呼びした方がよろしいのでしょうか?』
『いや、あちらの世界でも俺は楽隠居の身だ。既に王と呼ばれる身分ではなかった。それに、聞いたところではあなたこそこちらの世界の王なのだろう?あまり畏まらないでいただけると有難い』
『王とはまた違うものなのですが……あなたの理解ではそれが一番近いと思います』
『そうか、そこら辺もご教授頂けると有難いのだが……。とにかく、まずは椅子にでも掛けて欲しい。俺は生憎、まだ立ち上がることが出来ん。卿にだけ立たせていると、どうも俺の方が落ち着かん』

 主席は、少し慌てたような調子で折りたたみ椅子を脇から引っ張り出し、そこに腰掛けた。そうすることで、ようやく二人の視線はほとんど同じくらいの高さになった。
 
『では、これからあなたのことをデルフィン卿と呼ばせて頂きたいと思います。それでよろしいでしょうか?』

 名前の呼び方に拘るのは、以前、例の少年から手厳しい洗礼を受けているからだ。
 
『ああ、それで構わない。俺としてはもっと砕けて頂いてもかまわないのだが……』

 主席は苦笑した。目の前の座っているのは見目麗しい少女であるはずなのに、まるで自分と同年代かそれより幾分年上の、しかも男性と話している気分になってしまうのだ。
 そして彼は、いつの間にかこの少女に心引かれている自分に気づいた。無論、異性としてではない。彼には幼女嗜好の性癖は無かったし、今だって性的な意味で魅惑されているわけでは決してない。しかし、この少女と話していると心安らぐ自分がいる。この少女に何もかもを委ねてもいいのではないかと思う自分がいる。彼女という人間に惹かれている自分がいるのだ。
 これが王というものなのだろうか。それとも、この少女が特別なのか。
 共和宇宙にはいまだ王制を存続させる惑星がいくつか存在するが、そのいずれもが形骸化し、かたちだけの専制君主となった王制である。だから、本当の意味での王とは初めて顔を合わせる彼であった。
 しかし、彼は世間話を楽しむためにここまで来たのではない。誘惑とも呼べるその感情に逆らうように、彼は固い声を出した。

『今日、このようなかたちであなたの平穏を騒がせてしまったのは、他でもありません。私、いえ、私を含む連邦政府の総意として、あなたにお願いしなければならない事があるのです』
『お願いと言われても……。見ての通り、この世界の俺には何の力もありはしないが?』
『いえ、あなたにしか出来ない事なのです。グリンディエタ・ラーデンの妻である、あなたにしか』

 その名を聞いて、少女の眉目が突然に強張った。柔和を意味していた漆黒の瞳が、全てを打ち砕く黒曜石の鋭さを帯びる。それどころか、少女の背後に真っ赤に燃え盛る火焔があがったようですらあった。
 その火勢に炙られた主席の全身から、冷たい汗が噴き出した。
 戦場において兵を率いたことのない主席には分からなかっただろう。それは、戦う者、戦士のみが帯びることを許された、何物をも寄せ付けぬ、迸るような覇気であった。
 数瞬、眉を寄せて目を閉じた少女は、ゆっくりと言った。

『……その名を、知っているのか』
『……はい、存じ上げております』

 実は、主席の言葉には重大な勘違いが一つ含まれていたのだが、少女は敢えて訂正しようとは思わなかった。彼の妻がこちらの世界では男性であること、また今の自分が少女となっていること等を勘案した結果、その誤解を解くのに不要な労力を要すると判断したからだ。
 そこまでを考えて出来た微妙な間だったが、立場が下にあるものにとって、それだけでも酷く精神を削り取る。完全に気圧された主席は、喘ぐようにそれだけを答えた。
 対する少女は、薄く目を開き、一際鋭い視線で主席を睨みつけた。主席の心の内を抉るような、鋭い視線だった。
 やがて再び目を閉じると、少女は深い息を吐き出した。溜息とも違う、満足の吐息とも違う、いかにも曖昧な吐息であったから、それがどのような感情によってもたらされたものか、主席には分からなかった。
 瞼を閉ざしたままの少女が、呟くように言った。

『では、シルベスタン卿の御用向きは、あれに関することか』
『……はい。まずは、こちらをご覧ください』

 主席は、少女に一束の書類を手渡した。

『こちらの文字は読めますかな?』
『ああ、この体がそういったことは覚えてくれているようだ。しかし、当然わからぬことも多いと思うが……』
『質問して頂ければ、ご説明させて頂きましょう』

 少女は無言でその書類の束を繰った。時折意味の分からない単語がでてくると、その一々を主席に質問し、彼もその質問に良く答えた。彼らはまるで入院中の令嬢と、その学習を補助するために派遣された家庭教師のようでもあったが、そうだとすれば少女はとても飲み込みの早い生徒だった。
 彼女がその書類を読み終えるのに、それほどの時間はかからなかった。
 
『……信じがたい話だが、確かにあの方ならば何ができてもおかしくは無いと思う。神か悪魔か、あれはそういう雰囲気の御仁であった』
 
 少女が読んだのは、数ヶ月前に惑星セントラルを騒がせた恒星の異常活動、その真相を記した機密文書であった。当然そこには、黒い天使が恒星を爆発させることで一つの星系を破壊しようとしたこと、彼を止めるために金色の天使が奔走したこと、そして彼らをその事件に巻き込むきっかけとなった、三年前の事件についての詳細が記されている。
 少女は無言でその書類を主席に返却した。さすがにこの世界においても、こんな突拍子もない事実は表沙汰になるべきものなのではないことを悟ったのだろう。

『シルベスタン卿。あなたがここに来られた理由も、朧気ながら理解できた』
『恐れ入ります』
『俺の存在が彼らに知れることで、再びこのような事態が起きることを憂いておられるのだな』

 主席は静かに首肯した。

『我々は、この未曾有の危機を如何にして乗り切るか、議論を重ねました。結果、一切合切の事実を審らかにし、許しを乞うべきであるという結論に至ったのです』
『賢明な判断だ』

 少女はそう言った。
 そして、背中まで伸びた黒髪を一度掻き上げ、続けた。

『であれば、どうして俺などの病室を訪問されるのか。今は一刻も早く、彼らのもとに赴き、事実と謝意を伝えるべきでは?』
『それはもっともなのですが……』

 主席は如何にも人好きのする笑みを浮かべて、言った。

『あなたも御存じのことかと思うのですが……、彼らはその、何と言いますか、少々頑固なところがありましてな。私などが行っても門前払いをされるのがオチでしょう。それどころか、彼らの怒りに油を注ぐ羽目にもなりかねません』

 ごほん、と咳払いをする。そして、彼は精一杯の誠意を込めて、自分が少女のもとを訪れた本来の目的を語った。

『なので、あなたから彼らに、我々の謝意を伝えて頂きたいのです。彼らは我々をちっとも信用してくださらないが、あの少年の妻であるあなたの言葉なら耳を貸してくれるでしょう。我々が彼らとの約束を誠実に守ろうとしていることは、あなたも御存じのはずです』
『なるほど、卿が謝罪に赴けば、彼らの怒りを買うか』
『はい、そういうこともあろうかと……』
『では、卿らがしたことが、あの二人の怒りを買うことであると、そういう自覚もあるわけだ』
『……はっ?』

 主席は、己の言葉を最後まで言い切る前に、煮えたぎるような感情の込められた言葉をぶつけられた。
 つい先ほどまで吐き出そうとしていた言葉の束を丸ごと飲み下し、更に灼熱の言葉をぶ飲み下す羽目になった彼は、目を丸くしながら呟いた。

『あ、あの、デルフィン卿?一体、何のことでしょうか……?』
『今さら惚けるつもりか?貴様らが彼女に、この体の本来の持ち主に何をしたか、知らんとは言わさんぞ』

 先ほどまで穏やかだった少女の口調が、一変していた。
 主席は、安っぽいビニール椅子から転げ落ちそうになったのを何とか堪えた。
 呼吸が、平時のそれと異なる。喘ぐようにしか酸素を取り込むことが出来ない。
 目の前の少女が、恐ろしい。今すぐにここから逃げだしたい。
 これは、かたち通りの少女ではない。絶対に違う。
 これは、獅子だ。あの少年と同じ生き物だ。先ほどは深い知性と無限の暖かみを感じさせた黒い瞳が、あの燃え盛るエメラルドの瞳と同じく、漆黒の炎に猛っている。
 彼は、質の良いシャツの背中が冷たい汗で重たくなっているのを自覚したが、ここで引くわけにはいかない。彼の双肩には、惑星セントラルの、いや、全人類の生命が乗りかかっているといっても過言ではなかったのだから。

『あの、それはわたくし共の与り知らぬところで為された凶行でして……』
『その言い訳が、俺の同盟者に通用したのか?』

 主席は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 正直に言えば、彼は油断していた。ベッドから体を起こした病弱そうなこの少女は、きっと彼らよりも与し易い人間だと思い込んでしまっていた。
 とんでもない、これは虎だ。それとも獅子だ。
 彼は無防備に密林を歩き、猛獣の尻尾を踏みつけてしまっていたのだ。

『そ、そのてんについては……はい、ふかく、ふかくはんせいしております……』

 青ざめた表情のままそういった主席だったが、しかし黒髪の少女は彼の存在自体を軽んじるような、嘲りの笑みを浮かべて言った。

『にも関わらず、何の臆面もなく俺の前に顔を出せるとはな。貴様らの面の皮は相当に分厚いらしいが、その分脳味噌が少ないか。なるほど、あのように恥ずべき行為に及ぶこともできような』
『陛下、陛下の仰ることは至極ごもっともかと……。しかし、この時代に生きる全ての人間があのように卑劣なものばかりではありません。そして、今の我らには過去の過ちを悔い、詫びることしか出来ないのです……』

 今すぐ床に体を投げ出して、王者の許しを乞おうとする遺伝子の命令を押さえつけ、彼は震える声でそう言った。
 以前、あの少年と会談した際もそうだったが、彼に出来ることと言えば再発の防止を約することと過去の過ちを詫びること、これ以外に為せることは無い。そしてあのときは彼と少年の間を取り持ってくれた第三者が存在したが、今回、この病室にいるのは彼自身と、彼の目の前で静かな怒りを滾らせる、少女のかたちをした王者だけなのだ。
 その王者が、言った。

『覚悟は、あるのか?』

 主席は、ほとんど失神しそうになりながら、答えた。

『わ、わたしは、いつでもこの職を辞する覚悟なら……』

 それはかつて金色の狼たる少年に言ったのと同じ言葉であったが、しかし返ってきたのもその少年と同じ、もしかするとより冷淡な侮蔑の笑みだった。

『その程度のものを覚悟とは言わん。俺が言っているのは、己の命を捨てる覚悟だ。それとも、己に親しい誰かの命を奪う覚悟だ』
『い、いのち……』
『そうだ。王の失政とはそのようなものだろうが』

 少女は、その瞳にはっきりとした激情を宿しながら続ける。

『俺の治めた国ではな、国の行いの責任は全て王の責任だった。王は己の過ちを、己の命をかけて償った。言い換えれば、王とは決して過ってはならぬものだった。如何なる過ちも、全てが己の思い通りであると振る舞わねばならなかった。ならば、その王が誤ればどうするか。国が戦に敗れれば王は死なねばならない。それどころか、死ぬために生き延びなければならない。政を間違えれば、その責を誰かに取らせねばならない。何故なら、王は絶対だからだ。そして、その責とは即ち死だ。貴様に、その覚悟はあるのか?』

 無茶苦茶な理屈だ。少なくとも、少女の前に座った、青ざめた顔をした人はそう思った。

『そ、そのように前時代的な……』
『忘れたか。俺は、貴様の言う前時代からやってきたのだ。その俺を納得させたければ、俺の理屈で筋を通せ。それが、この時代の王たる貴様の、最低限の責任だろうが』

 この会談の最中に五歳は歳を取ったように見える主席は、重たく濡れたハンカチで額の辺りを拭い、泣きそうな表情を浮かべた。というよりは、彼は泣き出す寸前であった。なのに彼が無様に涙を流さずにすんだのは、目の前の少女に対する意地などではなく、既に涙を流すほどの心の余裕すら無くなっていたからだ。
 だから、彼の口を割ってでたのは、末期の息にも近い呟き声だった。

『わ、わたしに、死んで詫びろと、そう仰るのですか……?』
『それとも、この体が受け続けた苦痛を、一度味わってみるか?』

 少女は、不吉な笑みを浮かべた。
 それを見た主席は、これ以上ないというくらいに顔を青ざめさせて、首を横に振った。首が千切れ飛ぶのではないかというくらいに猛烈な勢いで振った。彼は以前、黒い天使に、三年前に金色の少年が味わった苦痛のほんの一端を味合わされただけで、発狂寸前までに追い込まれたのだ。己の死を希ったのは、あのときが初めてだった。
 それを、十年間。最早、悪夢と、いや、地獄と呼ぶことすら生温い。もしも自分が、死か、それともあの苦痛を味わい続けるかのどちらかを選ばねばならなくなったら、間違いなく前者を選ぶつもりだった。
 主席は、安いビニール椅子の上で項垂れた。もう、紡ぐ言葉も残っていなかった。
 そんな彼を前にして、抜き身の怒りを携えた少女は、なおも続けた。

『いいか、俺は怒っているのだ』
『は、はい……。それは、もう……』
『この体、ウォルフィーナに非道な行いを続けたこともそうだが、俺の妻に、あの誇り高き戦士に同じような侮辱を与えた貴様らを、到底許す気にはなれん。今すぐ、貴様の首を断ち切ってやりたいとすら思う』

 この少女にはそれが出来るだろう。その、折れそうな程に細い手に何も握られていなかったとして、それは可能なことなのだ。
 それにしても、奇妙な会話ではあった。そして、主席の期待した会話ではなかった。
 非人道的な研究から救い出された憐れな少女と、この宇宙を統べる国家元首の対話。未だ心の傷が癒えず療養を続ける少女のもとに共和宇宙でもっとも忙しい男が足を運び、過去の過ちを悔いて頭を下げる。その姿に感動した少女は、噎び泣きながら過去の過ちを許す……。
 連邦主席は、そんな蜂蜜菓子のように甘い構図を、僅かだが夢見ないわけではなかった。それに、もしも少女が見た目通りの少女であるならば、そんな美談もあり得たのかも知れなかった。
 しかし現実の彼ら二人の間に無慈悲な捕食者とその怒りに許しを乞う被食者の関係が出来ていたのは、ものの道理を弁えぬ幼児の目から見ても明らかだっただろう。
 己の前で、身を縮ませながら震える初老の男性を睨みつけて、少女は溜息を吐き出した。

『……研究所の連中は、どうなった?』

 主席は、もう、少女と視線を合わせることすら出来ないというふうに、病室の床へと視線を落としながら答えた。

『……あなたの配偶者に侮辱を与えた連中は、彼の友人たるあの方が処罰を与えました。そして、あなたの体の持ち主に侮辱を与えた連中は、医師としての国家資格を剥奪の上、辺境の惑星へと強制移住させ、二度とこのような研究に携わることが出来ないよう厳重に監視をしております』
 
 彼の友人、つまり黒い天使が罰を与えたというならば、それはその人間の低劣な罪に相応しい罰だったのだろう。つまり、その件については解決したということに違いない。少なくとも、部外者である自分がこれ以上首を突っ込むべきではないはずだ。
 ウォルフィーナの尊厳に泥を塗りたくり続けた連中の処遇については到底納得が出来ないが、少女の内に宿る王の魂は、この少女自身が誰よりも報復を望んでいなかったことを知っている。だから、今自分が怒りに任せた行動を取れば、それは誰よりも彼女を悲しませることになることも知っていた。
 それ故、少女は、全てを飲み込んで重たい溜息を吐き出す以外、何も出来なかったのだ。

『……彼らの寛容に感謝しろ。そして何よりこの少女の優しさに、だ』
『で、では……』

 主席は喜び勇んで顔を上げ、しかし怒りに震える黒い瞳を直視して再び顔を下げた。
 目の前の少女は、何一つ許していないと悟った。

『一度だ。一度だけ、猶予をくれてやる。しかし覚えておけよ。俺は生前、二度俺を裏切った人間を許したためしは無い。貴様らが再び彼らとこの少女を裏切れば、俺はそのことを貴様の体で実証してくれる』
『は、はっ……』
『俺には彼らのような力は無いが、しかし王には王にしか出来ない戦い方というものがある。貴様が、今貴様の治めるこの国が俺の率いる兵との戦の火中に滅ぶ様を見たくないというのであれば、俺の言ったことをゆめ忘れるな』
 
 少女は、その漆黒の瞳に殺気とも呼べる剣呑な光りを込めて、言った。今後この国が自分達を裏切ることがあれば、少女自身が何処かで己の軍勢を編成し、それをもってこの国を攻め滅ぼしてくれるぞ、と。
 主席は、それが不可能事だと思った。不可能事であるべきだった。しかし、その少女の言葉のどこにも、それが不可能であると信じている様子はなく、また、主席自身の魂の一番奥底では、少女の言葉がどうしても確定した未来のようにしか思えなかったのだ。
 第一、共和政府はこの広大な宇宙に盤石の支配体制を敷いているように思われがちではあるが、マースやエストリアのように、その支配体制に不満を抱く国は少なくない。
 そして、この少女であればそれらの勢力を一つに纏め、この宇宙に戦乱の時代をもたらすことも決して不可能ではない。いや、彼女はいとも容易くそれをやってのけるのではないだろうか。
 やはり、これも一匹の化け物だ。あの、黄金の戦士とも黒い天使とも違う、この宇宙に一匹しか存在しない、化け物の一匹なのだ。
 主席は、この少女を亡き者するという選択肢を選ばなかった自分を、内心で褒め称えた。もしも禁断の選択肢を選び取っていれば、あの二人の登場を待つまでもなく自分達は少女の大顎に噛み砕かれていただろう。だからといって、今彼の前に横たわる困難が、少しでも軽くなるわけではないのだが。
 主席は呻き声を出そうとしたが、最早それすらも叶わぬほどに彼の口中は乾ききっていた。
 そんな彼を見ながら、少女は柔らかな微笑みを浮かべた。しかしそれは口元だけの笑みで、眼は全く笑っていない。彼女の美貌を歪めるそのアンバランスさが、少女の相貌を恐ろしい程に不吉なものへと染め上げている。

『俺の言いたいことは、全て伝えた。それに対してどう答えるかは、あなた方次第だ、シルベスタン卿』
『は、ははっ』
『いや、これからも卿らとは良好な関係を築いていきたいものだな』

 少女は、やはり凶悪な笑みを浮かべながら、自分の目の前に座った憐れな獲物の手を取り、熱心に握りしめた。
 それは、連邦主席がその長い政治家生活において見た中で、もっとも人の悪い笑みであったし、彼は今までそれほどに熱の籠もった握手というものも経験したことがなかった。手に伝わるのは少女の柔い肉の感触なのに、まるで獅子の口中に手を突っ込んでいるように、彼は錯覚した。
 冗談では無い、と彼は思った。これでは脅迫だ。相手の喉元に刃を突き付けておいて、良好な関係もくそもあったものか。
 しかし、こちらに選択権が無いことも、彼は心得ていた。少なくとも、向こうが良好な関係を築きたいというのであれば、こちらにそれを拒否するだけの理由もなければ権利もない。加害者である自分達は、被害者である彼女らの気が収まるまで、ひたすらに侘び続けるしかないのだから。無論これが人間社会であれば示談なり時効なりの区切りが存在するが、彼らの掟にそんな気の利いたものを期待するのが愚かというものだろう。
 一年前まで精気に溢れた気鋭の政治家と呼ばれていた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世は、フルマラソンを終えた老人のような有様で椅子から立ち上がると、這々の体で少女に辞去の許しを乞うた。結局少女の口から、例の化け物二人へ今回の一件を取り持ってくれるという確約は得られなかったが、これ以上この場に留まるのは彼の精神の崩壊を意味する。
 少女は再度これからもよろしくと念を押し、既に保水力の限界を迎えた彼のハンカチでは到底拭き取れないほどの汗を主席の額に浮かべさせて、その濡れそぼったスーツの背中を見送った。



[6349] 第十話:再会
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:50
『ふーん、そんなことがあったのかい』

 ヴォルフガング・イェーガー少尉は、寝台に腰掛けた少女――ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの隣に腰掛けて、並んで座っていた。
 何故彼がベッドの上に――それも少女の隣に腰掛けているかといえば、それは偏に彼の体が大きすぎて、折りたたみ式のビニール椅子には到底座ることが出来ないからだ。
 彼は、自分は立ったままでいいと言い張ったのだが、それでは自分も立つと少女は聞かない。では俺は床に座ると答えると、ならば自分も床に座ると少女も言い張る。
 結局、お互いの妥協点として、ヴォルフはウォルの横に腰掛けるというもっとも無難な選択肢を選んだのだ。しかし、彼の座ったベッドのスプリングは憐れなほどに撓み、彼が身動ぎをする度に情け無い声で悲鳴を上げる。もしも彼がこのベッドの上で跳び跳ねでもすれば、このベッドはすぐにでも天に召されることになるだろう。
 結果として、人生においてこれほど美しい少女の隣に座ったことのないヴォルフは、どうにも恥ずかしいような気まずいような、微妙な感覚を味わっていた。別に性愛の対象として少女を見ているわけではないが、生まれたての目も開かない子猫や子犬が隣にいるようで、どうにも落ち着かない。自分が下手に身動ぎすれば、何かの拍子で下敷きにして押し潰してしまうような気がするのである。
 そんな内心をごまかすように、ヴォルフは、自分が持ってきたお見舞いの品であるケーキを素手で掴んで、ぽいっと大きな口の中に放り込んだ。本来であれば優雅な皿とフォークでもって食べるのが相応しい高級なケーキも、彼が食べるならばその方法が一番相応しい気がするから不思議である。
 その様子を興味深く見守っていたウォルは、彼に倣ってお見舞いのケーキを素手で掴み、その小さな口の中に放り込もうとした。しかし少女の口は大男の口より当然小さかったので、上手に収まることはなく、彼女の口の周りは真っ白い生クリームでべたべたになってしまった。
 ウォルは、盛大に眉を顰めた。以前の体であればこんなことにはならなかったのに、とでも思ったのかもしれない。
 一方のヴォルフは、そんな彼女の存在など忘れてしまったように、口の中に広がる至福の甘さに酔いしれていた。彼は酒を好むが、しかし同じくらいに甘いものも大好きだった。外見がこんなふうなので、街中のカフェで生クリームたっぷりのパフェは注文できないから、こういう機会には心ゆくまで甘味を堪能するのが彼の主義だった。
 ヴォルフは、隣に腰掛けた少女が一つ目のケーキを食べ終わらないうちに、早速二つ目のケーキの征服に取りかかった。先ほど食べたのは濃厚なモンブランだったので、次に選んだのはさっぱりとした莓ババロアである。

『……なぁ。ヴォルフ殿。これは、俺への手土産ではなかったのか?』
『それはそうなんだが、俺の分も混じってるみたいでな。まぁ、分かりやすく言えば、早いもん勝ちってところだ。しかしウォルよ、たった一つでいいのかい?』

 すでに莓ババロアを口に放り込み三個目を物色しているヴォルフが、ようやく莓のショートケーキを食べ終えたのに次のケーキを食べようとしない少女に問うた。

『……うむ。この方面では卿と競い合っても、不毛な結果しか生まん気がするのでな』

 呆れたような顔で、ウォルは言った。
 以前の体よりも甘味が美味しいと感じるようになって微量の戸惑いを感じていた彼女であるが、隣りに座ったこの大男が貪るようにケーキの山を食らい尽くしていく様子を見て、一つ目のショートケーキを平らげた時点でその食欲を収めた。
 ヴォルフがあまりに美味しそうにケーキを頬張るのでその取り分を減らすことに罪悪感を覚えたのかも知れないし、彼が猛烈な勢いで食べる様子を見ただけで胸焼けを起こしてしまったのかも知れない。
 とにかくウォルは、口の周りに付いた生クリームを舐め取り、そしてヴォルフの煎れた紅茶で喉を潤した。

『ほう……』

 ウォルは、思わず唸った。薫り高い茶葉を使っているとは思っていたが、しかしその琥珀色の液体を口の中に含むと、得も言われぬ芳醇な香気が鼻の奥に抜けていく。それに、砂糖を少しだって入れていないはずなのに、渋みよりも甘味を強く感じるのだ。もちろん、砂糖たっぷりのショートケーキを食べた後であるにも関わらず、だ。
 これは、茶葉がいいだけではなく、紅茶を煎れた人間の技も素晴らしいものだったからだろう。この手のことには名人芸だった妻の従者のことを思い出し、ウォルは知らずに微笑っていた。

『卿は、紅茶を煎れるのも上手いのだな』

 ヴォルフは、箱に収められた最後のケーキを、何の遠慮もなく掴み取って、ぽいと口の中に放り込んでから答えた。

『まぁ、食い物を美味くこしらえてやるのは人間の義務だよ。というよりは、貧乏人の義務だ。金持ちはいい素材をそのまま食ってりゃいいが、俺達はそうはいかないんだ。とても食い物には見えない食い物を、どれだけ騙して煽てて食い物に誤魔化してやるか、そこが腕の見せ所だ。小さい時分はそんなことばかり考えてたから、料理は上手になったなあ』

 ヴォルフは、指に付いた生クリームを丹念に舐め取った。栄養と名の付くものは少しでも逃がしてたまるかというその様子は、ご馳走である蜂蜜をたっぷりと手になすりつけた熊が幸せそうにそれを舐め取っている格好に似ていたかも知れない。
 小箱の中身をすっかりと胃の中に治め終えた大男は、自分の煎れた紅茶で口の中の甘さを洗い流すと、満面の笑みでこう言った。

『いやぁ、美味かった。甘いものを食べているときが、至上の幸福だ。人生における最も輝かしい瞬間だ』
『先ほどヴォルフ殿は、きんきんに冷えたビールが喉を通る瞬間にこそこの世に生まれた喜びを何よりも噛み締められると、そう言っていなかったか?』

 少女は苦笑しながら言った。
 ヴォルフは、蜂蜜色の短い頭髪の生え揃った頭をかりかりと掻きながら、一度考え込んで、そして言った。

『そんなこと言ったかね。すまん、覚えていない』

 要するに美味い食べ物ならなんでもいいらしいと、ウォルは理解した。
 二人はしばらく、隣り合わせで紅茶を啜っていた。ヴォルフもまだ年若い青年であるので、少々年の差はあるにせよ年頃の男女が二人っきりでベッドの上にいるのだからもう少し色気というものがあってもいいものだが、彼らの間に流れる空気は、とうの昔に隠居した老人同士が日向ぼっこをしながら昔話に花を咲かせているような、そういう雰囲気であった。
 ほう、と、満足の吐息が二人の口から漏れだした。

『しかし、ウォルよ』
『うん?』
『いや、まぁ、なんというかな……』
 
 大男は口籠もった。
 少女は何事かと男の横顔を見上げたが、そこには何かを迷っている、岩のような男の顔があった。
 果たして今自分の考えていることを口にしてよいものか、迷っているらしかった。
 それは、あまり彼に相応しい様子ではなかったから、少女は続きを促した。

『しかし、の続きは何かな?』
『うーん、どうにもお前さんらしくなかったんじゃあないかなぁ、と思ってな』
『俺らしくはない、とは?』
『うん。あんまり、爺さんをいじめてやるなよ』

 ウォルは、隣に座った巨体を、その漆黒の瞳でまじまじと見つめた。
 ヴァルフは、何やら居心地が悪そうに体を揺すった。そんな彼の下で、憐れなスプリングが悲しげに軋んだ。

『あれはあれで、必死こいてやってるんだろうさ。だからさ、なんとも言いにくいんだが、ある程度は大目に見てやってもいんじゃないかな、と思う』
『あれとは、卿の上役のことか?』
『上役の上役の上役の上役の……いくつ重なるのか知らないけど、それを上役と呼んでいいなら、上役のことなんだろうなぁ』

 ウォルは、その表情から笑みを消し去り、ベッドの上にあぐらを組んで、正面からヴォルフの巨体と相対した。
 ヴォルフも少し慌ててそれに倣った。
 そうすると、大人と子供以上の体格差、ほとんど異生物くらいの体格差が二人の間にはあるのだが、その中に詰まったものの大きさでは、少女の方も一歩たりとて負けていない。
 それでも見た目は、やはり熊と少女だ。
 ヴォルフは、少女の黒い瞳をまじまじと覗き込んだ。自分の巨躯を見上げながら、しかし少しも怯んだところのない生き物を、彼は本当に久しぶりに見たのだ。
 
『大目に見てやってもいいことと、そうではないことがある』

 はっきりとした口調だった。
 ヴォルフは、頷いた。

『もっともだ』
『俺の妻と、そしてこの少女が受けた屈辱は、決して大目に見てやっていいことではない。そして、あの男はこの国の王だ。ならば、この国において生じた全てのことに、責任を持つ必要があると、俺は思う』
『あんたはそうだったのかい?』

 ウォルは首を横に振った。

『わからん。俺はそうあるべきだと思い、そのように行動してきたつもりだ。少なくとも、己の行いによって不当に権利を害された人間がいるならば、その行為の報いはいつだって負うつもりでいた』
『いつ死んでもいいと?』
『そうではない。俺を恨む人間が戦いを挑んできたら、いつだって正面から受けて立つ覚悟があると、そういうことだ。例えば戦だ。どちらかが勝ち、どちらかが負けるな。当然、人も死ぬ。これでもかと死ぬ。であれば、そこには必ず恨みが残るはずだ』

 ヴォルフは真剣な面持ちで頷いた。それは、決して気の籠もらない相づちなどではありえない。
 彼は軍人として数々の作戦にて武勲を打ち立てている。つまり、それだけの人間を公然と殺してきたということだ。彼自身から見れば粉う事なき逆恨みだろうと、彼が殺した者の遺族にとっては正当な怒りである。積もり積もったその重さが、いずれは自分の背中に銃弾を撃ち込むのだろうことを、彼は覚悟していた。
 だから、目の前の少女が――その内に宿った戦士が何を言っているか、実感として理解できた。

『俺には、その恨みと戦うだけの覚悟があった、と思っている。それが、如何に強大な相手であってもだ』
『あの老人には、それが足りない、か』
『足りないというよりも、覚悟そのものがない。あれは、一度たりとて自分の命を交渉のテーブルに乗せたことのない、そういう男だ。それが気に食わん。もしもあれが真摯に俺――というよりはウォルフィーナに謝罪するのであれば、わざわざ俺の妻のことを持ち出す必要はないだろう。逆に彼らの怒りが恐ろしいならば、彼らに直接そのことを伝えて詫びればいい。俺に謝罪することが、彼らの許しを得ることと同義であると、そう勘違いしているのだ。俺が許そうと許すまいと、彼らは怒るときはおおいに怒る。俺の知る彼らならば、間違いなくそうする。ならば、怒り狂ったあの二人を宥めるのは俺の役目と責任か。冗談ではないぞ』

 少女の憤りは留まるところを知らない。

『そして、そのような大事を俺のような、見た目はただの小娘に任せようという気概も気に入らん。仲立ちを頼むというならばまだしも、俺に任せれば万事が上手く行くと勘違いしているような有様だった。あれがこの世界の最高権利者とはな。些か俺のいた世界とは毛色が異なるようだ』

 ウォルはサイドテーブルに手を伸ばし、カップに残った紅茶を一息で飲み干した。カップをソーサーに戻すとき、がちゃりと神経に障る音を奏でた。
 ヴォルフは、少女の言葉を聞いて、曖昧に頷いた。

『まぁ、お前さんの言いたいことは何となく分かるよ。でも、それがこの時代の権利者の在り方といっていい。別に、あの爺さんだけに始まったことじゃあないからな、あれ一人を責めるのも酷ってもんだ』
『分かっている。しかし、何度も言うようだが、全ての責任はあの男が、いや、あの男が座っている椅子こそが背負うべきなのだ。なのにあの体たらくでは、到底全ての責任を背負えるとは思えん。いずれ、一つや二つの荷物は容易く放り投げてしまうぞ』

 そう言いきって、ウォルは細い肩を竦めた。
 そこで、少しだけ疲れたような微笑みを浮かべた。少女の人懐っこさと王者の威厳を等量に含んだ、憂いのある微笑だった。

『――と、それを理解した上で大目に見てやれと、ヴォルフ殿はそう言っているのだろう?』

 巨躯の男は、無言だった。それは即ち、少女の言を肯定しているのと同じことだった。
 しばらく少女は無言だった。二人とも何も話さず、時計の秒針が進む音だけが、狭い病室を満たした。

『誰かが、言わねばならなかった』

 ぽつり、と少女は言った。
 男は、やはり無言だった。

『ウォルフィーナの無念は、誰かが声を限りにして叫ばなければならない。彼女のために怒ってやらなくてはならない。それが欺瞞だとしても、誰かが怒らなければ、彼女の魂が報われない』
『その通りだ』
『あの老人が、俺の同盟者に痛い目に遭わされたのは知っている。もう、彼らの顔を二度と見たくもないのだろう。だからこそ、俺のような無力な存在にもあれほど熱心に、あるいは必死に頭を下げていた。それも分かる』
『ウォル、あんたが無力だっていうところを除けば、おおむね同意できる』
『だが、これは俺の足下に引かれた、最後の一線だ。これより後ろに下がれば、俺は俺としての一番大事なものを捨て去ることになる。だから、俺はあの老人を許さなかった』

 ウォルは、記憶というよりは記録に近いものとして、ウォルフィーナの経験した人体実験を覚えている。それが如何に屈辱的で、彼女の誇りを踏み躙るものであったかを、絶対に忘れてやるつもりはない。それは、誰かが覚えていなければならないことなのだ。
 だからこそ、ウォルは真剣に怒った。もう、心身共に疲れ果て、藁にも縋る思いで自分のもとを訪れた老人を一喝し、恫喝し、そしてたっぷりと恩を売って脅しを掛けた上で追い払ったのだ。もしこの世の全ての事情を知る神のような存在がいるとするならば、あるいはウォルの行いをこそ咎めるかも知れなかった。
 ならば、全てを知らない、卑小な人間たる少女に何が出来たか。彼女は、ただ仏のように国家主席とその背後にいる全ての罪深き者を許し、意気揚々と病室から引き上げる彼を笑顔で見送ればよかったのか。
 それこそ冗談ではない、と思う。もしも当のウォルフィーナがそれを望んでいたとしても、ウォルにそのような結末を選ぶつもりはなかった。それは、誰が許したとして戦士の魂が許さなかったのだ。
 全ての想いを押し潰すように、少女は呟いた。

『誰が許せるか』

 ヴォルフは、困ったような顔で鼻の頭を掻いていた。
 こういうときは、どうするのだろうか。怒り狂い、その激情を燃やし続ける少女が目の前に座っている時は、どのように接すればいいのだろうか。こちらが無手で、完全武装した敵に四方を囲まれたときにどう対処すべきかを教えてくれた鬼教官も、このような場合にどうすべきかは教えてくれなかった。
 少し気の利いた男なら、少女の華奢な肩でも抱き締めてやるのだろうか。いや、いくら色事に鈍い彼であっても、もし目の前に座った少女が悲しみの涙に暮れ、その細い肩を振るわせていたのならばそうしただろう。
 しかし彼の前に座っているのは、少女のかたちをした獅子である。怒り狂った百獣の王に同情心から手を差し伸べようものなら、手どころか肩の付け根までを一気に食い千切られるのは火を見るよりも明らかだ。
 ヴォルフは、観念したような様子で手を肩の辺りにやり、こきこきと首を鳴らした。先ほどケーキを馬鹿食いしていたときに見せた、幸福を体現したような表情とは雲泥の、千振の束を噛み砕いたような渋い顔をしている。そして、言った。

『まぁ、ウォルよ。これに関しては、あんたの言い分が正しい。誰もそれを非難し得ない、と思う。だから、謝らせてくれ。栓のないことを言った』
『いや、ヴォルフ殿の言うことももっともなのだ。しかし、これだけは譲れないというところがあったと、それだけの話だ』

 ヴォルフは深く頷いた。

『人それぞれ、立場があるというだけの話だろう。あの老人にはあの老人なりに守るべきものがあり、あんたにはあんたなりに守るべきものがある。そして、勝敗ははっきりと着いた。だからもう、これ以上は勘弁してやれよ、ウォル』
『そうだな。俺も、老人を不要にいたぶるのは心が痛む』

 実年齢でいえば国家主席その人よりも更に一回り人生経験豊富な少女は、そう言って笑った。その顔を見て、熊のような男もやはり笑った。

『よく言う。お前さんが世紀の大嘘つきじゃあなけりゃあ、お前さんの方が老人じゃないか!』
『それもそうだ!いつの間にかこんな体になってたからな、すっかり忘れていた!』

 狭いベッドの上で二人が大笑いしたので、ベッドは大変に軋んで、所々で不吉な破砕音が鳴り響いた。このベッドは、ひょっとしたら今日が命日だったのかもしれない。
 目の端に浮かんだ涙を太い指で拭い取ったヴォルフは、彼よりは一足先に笑いを収めていた少女の顔を、あらためて眺めた。
 美人だと思う。今だってそうだが、これから五年、十年後にはどれほどの美女になっているか、想像もつかない。なのに、これの中に入っているのが、齢70を越えた老人、しかも異世界の王様の魂だというのだから因果な話だ。
 なんとも勿体ない事だと思ったが、その上この少女には恋人がいるらしい。この少女が未だ若々しい戦士であった頃にあちらの世界で知り合ったと言っていたから、きっとこの少女と同じくらいに美しい女性なのだろう。
 彼はその人に一度会ってみたいと思った。その人と目の前の少女の二人が並んでいるところを見れば、さぞ眼福だろうと思ったのだ。
 しかし、口に出してはこう言った。

『ところでウォルよ。あんた、何故俺を呼んだんだ?』
『おお、そういえば』

 スプリングが弾け飛んで斜めに傾いたベッドの上で、少女はぽんと手を打った。こういうときは妙に無防備な表情を見せるから、ひょっとしたら自分はとんでもないどっきりに担がれているのではないかという気もするヴォルフだった。
 だが、もしそうならば、それはそれで楽しい。この、目の前に座る少女が彼女自身の言う身の上でないならば、果たしてどのような人生を送ればこれほど愉快な人格が出来上がるのか、一度聞いてみたい程だ。
 そんなヴォルフの内心には気づかずに、少女は言った。

『先ほども話したがな、俺はこの世界に、ある人と再び会うために来たのだ』
『それもさっき言ってた、王妃さんのことだな』

 ウォルはその通りと頷いた。

『名を、グリンディエタ・ラーデンという』
『へぇ。そりゃあ、なんともたいそうな名前じゃないか』

 別にその名に聞き覚えがあるわけではなかったが、ヴォルフはとても楽しそうに言った。
 明らかに、彼は少女との会話を楽しんでいる自分がいた。
 アルコールなど一滴たりとも体に入れていないのに、軽い酩酊状態にも似た気分の軽さを味わっていた。今ならば目の前の少女に愛の告白の一つだって出来てしまいそうである。
 そこまで考えてから、ヴォルフは自分の思考の軽やかさに呆れた。全く、いつもこれくらいに軽やかな思考をしていれば、今までに一人くらいの恋人を得る時期があったのかもしれないのだが。

『会いたいのか?』

 何の気はなしに、ヴォルフは尋ねた。
 そしてウォルは、今までで一番真剣な声で、答えた。

『会いたい。何とかならないか?』

 黒髪の少女は、やはり今までで一番真摯な瞳で、ヴォルフの瞳を覗き込んだ。
 これじゃあ反則だ、とヴォルフは内心で白旗を上げた。
 女性と名のつく生き物に、これほど真っ直ぐな瞳に心を覗かれて、動揺しない男のあろうことか。然り、彼もその例に漏れず、たっぷりと動揺した。そして、少しだけ裏返った声で答えた。

『俺は実は、軍の中では鼻つまみ者でな。自慢ではないが、機密情報などには近づけん』
『うん、なんとなく分かるぞ』

 ウォルは飛びっ切りに微妙な顔をして言った。それは、笑っているような呆れているような怒っているような悲しんでいるような、どうにも命名の出来ない表情だった。

『だからな、俺一人じゃあそいつを探すことは出来ない。もっと上、そうだな、俺の上の上の上の上の……いくつ言ったらいいか分からないが、とにかくてっぺんにいる人間に話を聞けよ。それが一番てっとり早いだろう』

 ウォルは、つい先日、そういった立場の人間に知己を得た。
 無論あちらにはあちらの言い分があるだろうが、利用できるものは精々利用させてもらうつもりだった。

『そうか、ならその者にやっていただこう』
『伝手が出来次第、また連絡してくれ。送り迎えくらいならしてやってもいい』

 ヴォルフは、その巨体をゆっくりとベッドから下ろした。その拍子に壊れたスプリングが盛大に弾け飛び、少女の小さな身体がぽんと宙に浮いた。
 普通であれば可愛らしい悲鳴の一言でもあるのだろうが、到底普通とは呼べないその少女はいとも容易く空中でバランスを取り、ひらりと体を一回転させてベッドの上に着地した。それを見ていたヴォルフの唇が、ひゅうと甲高い音で口笛を鳴らした。

『まるで猫だ』
『ああ、俺が一番驚いている』

 目を丸くした少女は、どうやら本当に驚いているらしかった。
 ヴォルフは苦笑して、病室を後にした。どうせ明日か明後日にでも再会することになるのだから別れの挨拶は不要だろう。それに、あれだけの動きが出来る病人に『お大事に』もなにもあったものではない。
 だから、中途半端な高さに片手を上げることで、一時の辞去の挨拶とした。扉枠をしゃがみ込むように通り抜けた彼の背に、少女の柔らかい視線が感じられた。

 翌日、ヴォルフは再びウォルの病室を訪れた。昨日の砕けた格好ではなく、きちんと折り目のついた黒のスーツを身に纏い、端から見ても物々しい雰囲気を身に纏っている格好だった。
 そして、今度は手土産にケーキを持っていない。その代わりと言っては何だが、ようやく軽い物なら握れることとなった彼の左手には、小さな小包がぶら下げられている。
 先日と同じように、ウォルの病室のドアを三度ノックすると、無造作にドアを開けた。
 
「お前の恋人、ありゃあ何もんだ?」

 それがヴォルフの第一声だった。



 昨日、ヴォルフが病室を後にしてから、ウォルは主席官邸に直接電話を入れて事の次第を主席に伝えた。主席は、最初のうちこそ消え入るように細い、絶望の色濃い声で対応していたのだが、ウォルがもったいぶった調子で悪いようにはしない旨を伝えると、喜色満面で彼の要求に応じること旨答えた。
 ウォルが要求したのは、グリンディエタ・ラーデンの、現住所を含めて彼に関する出来るだけ仔細な情報の提供と、彼のもとまで自分を運んでくれる、運転手付の移動手段の確保である。
 その運転手に誰が選ばれたか、少女が誰を選ばせたのか、言うまでもないことだった。
 また、この人事には、別の思惑もあった。今回、問題の少女が入院するきっかけとなった負傷を負わせたのがヴォルフガング・イェーガー少尉その人だったため、彼と顔を合わせたグリンディエタ・ラーデンの直接的な怒りが彼に向かい、それで少しは発散してくれるのではないかという甘い期待である。そのことを進言したのは、彼の上司であるアレクセイ・ルドヴィックであった。
 結果として、ヴォルフガング・イェーガー少尉の肩書きは、連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官というものから、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官という職名に変わっていた。
 朝早くいつも通りに出勤したヴォルフは不機嫌な上司に呼ばれ、ほとんど略式とも呼べる異動通知を拝命した。その後で、彼にはいくつかの注意事項が伝えられた。極論すれば、それらの注意事項は、ただ一つの結論に辿り着くものだったので、そういった細かいことを覚えるのが些か苦手な彼でも、容易に覚えることが出来た。

 曰く、『グリンディエタ・ラーデンとルーファセルミィ・ラーデンを絶対に怒らせるな』。

 ウォルの身柄をグリンディエタ・ラーデンのもとへと送り届けるのが、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官ヴォルフガング・イェーガー少尉のほとんど唯一の任務であったから、彼がグリンディエタ・ラーデンと接触するのはどうしようもないことである。
 一見すればほとんど子供のおつかいにも似たような、どうでもいい任務であるが、しかし彼の上役たちには大きな不安があった。
 ヴォルフは、職務態度こそ真面目であり優秀な結果を残している軍人だったが、上官に対する不遜極まる態度については少なからぬ問題を抱えている軍人だったのだ。今回、彼と『歩く超新星爆発』が顔を合わせ、その無礼な言動がその逆鱗に触れないか、彼の履歴を見た首脳連中は真剣に頭を悩ませたのである。
 しかし、当の少女が彼を指名した以上、彼以外にこの任務を務める資格が無いのは明らかである。無理に他の人間を割り当てようとして少女が臍を曲げてしまっては、本末転倒も甚だしい。

『いいか、イェーガー少尉。これからの君のキャリアの無事を考えるならば、今は何も考えるな。しゃべるな。ただ、彼女をグリンディエタ・ラーデンに送り届けるだけの機械になったと思え』
『了解しました、閣下』

 気のない返事でそう返すと、彼は漆黒のスーツに身を包み、顔が映り込むほどに磨き抜かれた黒いリムジンのハンドルを握って、一路ウォルの待つ病院まで急いだのだった。
 その途中、ヴォルフはグリンディエタ・ラーデンに関する情報のいくつかを飛ばし読みにした。彼に与えられた資料からは機密と呼べる情報のほとんどがマスキング処理されていたが、政府関係者がその人物との接触を図ることを厳に禁じていること、そして今はその人物は惑星ベルトランの片田舎、コーデリア・プレイス州の州知事であるエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインのもとに身を寄せていることはわかった。あといくつかの情報が記載されていたが、彼は自身の任務には関係ないことだと思い、それ以上を読まなかった。
 結論からすれば、その人物は超弩級の危険物なのだ。それも、この共和宇宙全体の平穏に関わるような。そして、その人物が身を寄せているエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインもまた、グリンディエタ・ラーデンと同じくらいに危険な人物であるらしかった。
 それほどの危険人物が同じ住所に共に住んでいるとは、どうにも信じがたいことだった。アクの強い人間は、普通はあまり横の繋がりを良しとしないものなのだが……。
 ヴォルフの疑問も当然のことである。何故なら、その二人は全くの同一人物なのだから。政府の上層部は、ヴォルフに余計な情報を与えることを厭い、その多くを小出しにした結果、最も重要な身元の部分について誤った情報を伝えてしまっていたのだ。
 そんなことは露とも知らない彼は、一路病院へと向かい、その得体の知れない人物に対する疑問を、目の前の少女にぶつけたのである。だから、彼は言ったのだ。『お前の恋人、ありゃあ何もんだ?』、と。
 そんな当然の疑問に、ウォルは困ったように眉根を寄せた。

「俺に聞かれても困る。俺は、あいつのことについて何一つわからん。六年間共に過ごして情け無い話だと笑われれば、正しくその通りなのだが」
「いや、人間なんてわからんもんだ。どれだけ長い時間一緒にいようが、理解なんて出来やしない。精々理解できた気になるくらいで、それだけでも一苦労だろうよ」
「では、ヴォルフ殿はアレの何を知りたいと?」
「そうだな……」

 自分から問いかけたのに、ヴォルフは考え込んでしまった。
 しばらくの間考え込んで、そして言った。

「お前さん、何でそんな危険人物と会いたいんだい?」

 黒髪の少女は、はにかむような笑みを浮かべて、こう答えた。
 それは、彼が魂として不思議な空間を彷徨っていたとき、不思議な少女に向けて答えたのと同じ台詞であった。

「夫が家出した妻に会いに行くのに、理由は必要か?」


 
 そして少女は、ここにいた。

 いくつもの港を乗り継ぎ、星の大海を渡り、その惑星の大地の上にいる。
 広々とした車内は、リムジンに特有のものだ。
 スモークの効いたサイドガラスから、豪奢な屋敷の玄関を見守る。
 そこには、この世界で最初に出来た友人の大きな体と、その影からひっそりと見える黄金の髪の毛があった。
 夕焼けを従え、君臨するような黄金。あの、緑柱石色の瞳以外、如何なる色にも相応しく無い。
 見間違いようもない。一体どうすれば見間違えることが出来るだろう。
 もう、四十年も前に見たきりなのに、まるで昨日見たような、そんな気がする。
 こうしてみると、今の自分が着ている服が、少し子供染みた悪戯に思えて、どうにも気恥ずかしかった。
 ヴォルフは、診察衣しか持たない少女を慮って、彼女に合う服を買ってきてくれたのだ。それも、少年が着るようなシャツとズボンの組み合わせと、少女が好むような花柄のワンピースを、だ。
 どちらを着ていくか、少しだけ迷った。馴染み深いのは圧倒的に前者だったが、後者を選んでみようかとも思う。
 果たして、あいつは少女になった自分を、自分だと分かってくれるのだろうか。
 それとも、全く自分だと分からないならばそれはそれで面白い。あちらの世界のお前のように、女の体になってしまったのだと種明かしをすれば、一体どれほど驚いてくれるだろう。
 それでも、まぁ、一目で気づいてくれたほうが嬉しい。
 そんなことを考えながら、少女は花柄のワンピースを選んだ。それは、ただの悪戯だった。
 初めて着る女性の装束は、どうにも股の辺りがすうすうして落ち着かなかったが、なるほど女性とはこういう気持でいるのかと少しだけ納得もしたものだ。かつて自分の妻が女性の装束を死ぬほど嫌がったのも、なんとなく分かる気がした。
 もう二度と袖を通すことはないだろうその服を着たまま、少女は車の中で待った。いっそ、今までの四十年間の方が短かったのではないかと、そう思いながら待った。
 コンコン、と窓ガラスが叩かれた。
 無言で、ドアを開ける。
 気のいい大柄な男が、悪戯を成功させた悪童みたいな顔をして、こちらを覗き込んできた。片目だけが、その厳つい表情には似合わないウインクをしている。

「おう、会ってくれるってよ」

 素っ気ない調子は打ち合わせ通りである。名前だって、絶対に呼ばないように頼んである。その点、この大男は少女に忠実であった。悪戯は、一人でやるより二人でやったほうが、成功したときの感動が大きい。
 その男の頭の中から、『グリンディエタ・ラーデンを絶対に怒らせるな』という将軍からの指令は、綺麗さっぱり消え失せていた。
 
「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 向こうの方で、誰かが聞き耳を立てている雰囲気がある。
 どうにも油断のない様子だ。この分だと、ひょっとしたらもう一人、知己の人物と出会えるのかも知れない。
 少女の胸が、果たして何年振りか分からない感動に、ときめいた。

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」

 恋人などではない。

「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」

 あれは、俺の妻なのだ。

「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 男の巨体が、視界から消え失せる。
 大きく開いたドア、そこから体を外に出してやる。
 車の外を流れる、鮮烈な初夏の空気。ここは、あの病院のあった星と同じ季節を謳歌しているらしい。
 少女は、柔らかな風に遊ばれる黒髪を、その淑やかな手つきで軽く押さえた。
 そのまま、門の向こう側に立った少年を眺める。
 それは、別れの朝に見た、あの青年ではなかった。
 少女が――少女に宿る戦士の魂が、もはやこれまでと全てを諦めかけていた時に、問答無用に彼の手を掴んで助け上げた、あのときの様子と全く変わらない。
 その少年が、もう、これ以上ないというくらいに驚いていた。少し青ざめているようにすら見えるその顔は、あちらの世界の六年間で、一度たりとて見たことのない、そういう顔だった。
 その顔を見ることが出来ただけで、こんな遠くまで足を伸ばした甲斐があるというものだ。少し遠すぎる気もしないでもないが、しかしこんなところまで家出をするあたりが彼女、いや、彼らしい気もする。
 
「リィ、どうしたんですか!?」
「…おい、うそ、だろ…?」
「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 二人の少年の会話が、遠く記憶の底に埋もれかけた美しい水晶の糸を掻き鳴らす。
 二人は、ちっとも変わってはいなかった。二人は、この世界でも二人のままだった。
 それが、少女にはとても嬉しかった。
 だから、少女は無造作に言った。無造作に言った、つもりだった。
 なのに、その声は、少しだけ震えていた。

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィー殿の魔法かな?」
「なっ!?」

 銀髪の少年の瞳が、彼の主と同じく、驚愕に丸くなる。
 なるほど奇術で人を驚かすことを生き甲斐とする、旅芸人の気持ちとはこのようなものか。少女は、自らの心に羽根が生えていることを自覚した。
 悪戯は失敗した。彼は、一目で自分が自分だと見破ってくれた。
 でも、悪戯は成功だ。一体誰が、こいつをこんなに情け無い顔にしてやれるだろう。

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 青ざめた頬に、淡く色づいた薔薇のような血の気が差してくる。
 握り込まれた拳が微妙に震えているのは、驚きのせいだろうか、怒りのせいだろうか、喜びのせいだろうか。
 一番最後であって欲しい。それは、少女の偽らざる本心だった。
 
「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 それでも、口に出してはこう言った。
 自分達には、それくらいが相応しい。感動の熱い抱擁は、自分達以外の誰かに任せてしまおう。
 だから、お願いだ。
 あの頃みたいに、俺の名前を、呼んで欲しい。

「答えろ!返答次第によっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」

 ああ。

 報われた。

 四十年間の待ちぼうけは、無駄じゃあなかったんだ。

「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」
 
 我ながら、涙を流さないのが不思議だった。
 でも、涙を流すのは、やはり自分達には相応しくない。あのとき、俺達は笑顔で別れたんだから、再び出会うときも笑顔であるべきだ。
 だから、少女は自分が泣き笑いの顔をしていることを、辛うじて誇りに思ったのだ。
 そして、少女が次の台詞を口にしようとした、その時。

「エディ!」

 もう一人の、少女にとって懐かしい人の声が、宵闇に染まりつつある屋敷の門に、こだました。



[6349] 第十一話:シェラの事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/28 16:54
 軽い貧血によって倒れたシェラが目を覚ましたのは、太陽が西の空の向こうへと完全に姿を隠した後のことだった。
 頭の奥に残る重たい痺れに顔を顰めると、額の上に、何か冷たいものが乗っていることに気がついた。その冷たさと心地よさが、自身の経験上、氷水に浸したおしぼりを固く絞ったものであろうことは想像がついた。
 つまり、情け無いことではあるが、自分は卒倒し、誰かに看護されているのだろう。シェラは、ほとんど軋み声を上げながらのそのそと動き出した脳細胞で考えた。直後、自分が如何に危険な状態であったかに思いが至ったが、しかし彼がもといた世界と違い、こちらの世界では、身近なところにある危険は驚くほどに少ない。
 とりあえず、大騒ぎをするのは控えた。それに、今自分が飛び上がって身構えでもしたら、自分を看護している何者かが一般人であった場合に、少々厄介なことにもなりかねない。別に四肢を拘束されているわけでもなし、今は貧血で倒れた普通の子供のふりをするのが一番だと考えたのだ。
 そこまで思考した後で、彼はうっすらと瞳を開いた。ぼんやりとした様子のすみれ色の瞳はほとんどが芝居であったが、それを見抜ける人間は、彼が己の主と心に誓った少年を除けばほとんどいないだろう。
 寝起き特有の霞がかった視界には、どこかで見たことがあるような天井が映し出されていた。果たしてここがどこかは分からないが、危地に陥った時特有の、切っ先を突き付けられたような緊張感がない。やはり、ここは特別危険な場所ではないようだ。
 では残された問題はといえば、果たして自分はどのような理由で倒れたのか、という点だ。よほど酷い目にあったのか、それとも度肝を抜かれたのかは知らないが、意識を失う前後のことを全く覚えていない。ただ、何故かそれほど嫌な感じがしないのだが……。
 その時、シェラの額から冷たい感触が一旦取り除かれ、盛大な水音が響いた後で、鮮烈な冷たさを取り戻したおしぼりが再び乗せられた。もう薄目を開いていた彼は、口元に人好きのする微笑みを浮かべながら、自分を看病してくれている人影に対して言った。

「すみません、ご迷惑をおかけします……」
「なんのなんの、怪我人と病人は大人しく看護されるのが仕事だ。いらんことに気を回さず、ゆっくりと休め」

 返ってきたのは、太陽のように朗らかな、少女の声だった。
 その不思議な言葉遣いに、一瞬『おや?』と思ったシェラだったが、しかし内心で苦笑しただけでその表情には奇異の念の一切を表さなかった。少女の声には、そのような言葉遣いが寧ろ相応しいような気もしたのだ。
 男のような口調はどうしても野暮ったいものであったが、それが少しも不快でない。逆に、その底抜けの明るさに加えて、色違いの花を一つ添えているようですらある。 
 自分自身は、意識せずとも丁寧な――あるいは丁寧過ぎる態度を好むシェラであったが、きっとこの声の主は好感が持てる人物に違いないと思った。例えば『女王』の渾名を持つ、リィの友人の一人のように。
 シェラは、作り笑いではない微笑みを頬に刻んで、枕に乗った頭を声の方に向けた。
 そこには、彼が想像したとおり、満面に陽光のような笑みを浮かべた、少女がいた。シェラの枕元に、膝を綺麗に折りたたんで座っている。

 繰り返すと、それ自体はシェラの予想通りだったのだ。 

 にも関わらず、シェラは大変に驚いた。
 黒い真っ直ぐな髪と新雪のように白い肌で整えられた外見は、シェラでさえ舌を巻くほどに美しい。だが、それだけで驚くシェラではない。彼の回りには、内面と外面とを問わず、宝石のように輝かしいものを持った人間が数多くいるのだから。
 シェラが驚いたのは、少女を飾る、言葉には顕しがたい不均衡である。
 顔は、どこからどう見ても少女のそれである。時には少女としての身分で任務を遂行したことのあるシェラだったからこそ、自分以外の人間の性別には敏感である。どれほど丁寧に取り繕おうと、彼がそれを間違えることはほとんどない。
 しかし、その少女の華奢とも思える外見に反して、快活を体現したような表情から読み取れる気配は、どう考えても女性のものではない。
 男性のものなのだ。
 気配だけでなく、時折見せる仕草や細かい動作がそれを裏付けてもいる。
 おかしい。これはどうにもおかしい。
 これではまるで、あちらの世界でのリィではないか。
 彼がそう思ったとき、その少女が再び口を開いた。

「しかしシェラよ、お前の気苦労症なところは、体が縮んでも変わらないのだな」
「なぁ!?」

 今度こそシェラの心臓を猛烈な動悸が襲った。
 その勢いによって押し出された血液の量に比例するように機敏な動作で、彼はベッドから飛び起きた。そして、懐に隠してあった短刀に手を掛け、もう片方の手には袖の辺りに隠してあった鉛玉を既に握り込んでいる。

 ――この少女は、自分が若返ったことを知っている。

 あちらの世界では19歳であったシェラの外見は、こちらの世界におけるリィの記録上の年齢に合わせて、13,4歳程度にまで若返らせてもらっている。それは無論、彼と同じ歩調で人生を歩むためである。19歳の体のままリィの人生の露払いを引き受けるのも吝かではないと思いもしたが、しかしこの世界では体術や殺人の技術以上に、知識や教養こそが優れた武器になることを教えられ、その魅力的はアイデアは諦めざるを得なかったのだ。
 ともかく、彼の内側に収まったものと外面上の年齢との間には、少なからぬ齟齬がある。そのことを知っているのは、リィと、自身の体を若返らせてくれた張本人たるルウ、そしてシェラと同郷のヴァンツァーとレティシア、彼と同じくルウと浅からぬ因縁を持つケリーとジャスミンくらいのものなはずだ。
 ならば、常人には到底真似の出来ない動作でもって飛び起きた自分を、全くの動揺を見せずに微笑みながら眺め遣るこの少女は、一体何者なのか。
 シェラはほとんど抜き身の殺気を少女にぶつけてみたが、しかしというべきかそれともやはりというべきか、少女の漆黒の瞳には一切の変化が見られない。きちんと正座したまま、少しだけ意外そうな顔でシェラを見上げている。
 少女がシェラの殺気を関知しているのであれば、これは尋常なことではない。そしてシェラは、その少女が、自身の殺気に気付かぬほどに鈍い存在であるとは到底思えなかった。
 ならば、殺気に反応しない理由は、一つしかない。
 この少女は、自分よりも遙か高みにいるのだ。例えこの瞬間に自分が飛びかかっても、余裕をもって退けることが出来るだけの。
 シェラは、背筋に冷たい汗が伝うのを自覚しながら、喉から押し出すような声で、問うた。

「……何故、この殺気に反応しない?」

 まさか本気でそんなことを問うほどに、シェラは愚かではない。これは、会話をもって少女の本質の一端であっても計ることが出来れば、という藁にも縋るような策である。これで嗜虐的に頬を歪めるようであれば、少女は自分の敵だ。慈愛の笑みを浮かべるのであれば、少なくとも敵ではないのだろう。
 そして少女はといえば――。

「どうして俺が、お前の殺気を恐れなければならない?お前は、リィの大切な友人だというのに」

 心底不思議そうに首を傾げた。
 何故自分がシェラに襲われなければならないのか、全くわからないと、そういう有様だ。
 シェラは、毒気が抜かれたように殺気を引っ込め、唖然としてしまった。どうやらその少女は、本当にそう信じているように見えたからだ。つまり、少女がシェラの殺気に反応しなかったのは、力量の差などではなかったらしい。
 一体、この少女は何者なのか。
 頭を抱えそうになった彼の耳に、がちゃりとドアノブが回される音が聞こえた。シェラはその時点になって初めて、自分が伏せっていたこの部屋がドレステッドハウスにおけるリィの私室であることに気がついた。逆に言えば、その程度のことに今の今まで気がつかなかったあたり、彼の体調はまだ万全ではなかったことは間違いないのだろう。
 
「おい、ウォル。シェラをあんまりいじめてやるなよ」
「誰が誰をいじめているというのだ。俺は武器すら持たぬか弱い少女で、シェラは身体中に武器を仕込んだ凄腕の暗殺者だろうが。どこからどう見てもいじめられているのは俺ではないのか?」
「どこからどう見てもいじめられてるのがシェラだから、おれは言ったんだ。第一、シェラは暗殺者じゃあないぞ。もと暗殺者だ。それに、お前が『か弱い少女』だと?冗談も休み休み言え」

 なみなみとした氷水の入れられた金だらいをいとも容易く抱えたリィは、後ろ手にドアを閉めながら忌々しそうにそう言った。
 少女はその小さな口を開き、何事かを言い返したようであったが、しかしシェラの耳には一言だって届きはしなかった。いや、今のシェラには、時間の経過ですらが遠すぎる別世界の出来事だった。

 ――今、リィは何と言った?

 自分の聞き間違いか?それとも、同姓同名の別人物だろうか。
 何か、とんでもない人の名前が聞こえたような……。

「あの、リィ……」
「ん?」

 シェラは、未だ実りの薄い口喧嘩を続けている様子の二人組、その片割れに向かって声を掛けた。
 そして、おずおずと尋ねた。血の気の失せた蒼白の顔で、だ。

「その、ですね。何と言いますか、この人は一体……?」
「この人って?」
 
 リィは、先ほどの見知らぬ少女と同じように、心底不思議そうに首を傾げた。どうやら、シェラの質問の意図するところが掴めていないようだ。

「シェラ。お前、何を言ってる?」
「いえ、だからですね、この人が一体誰なのかと……」

 リィは、唖然とした様子で言った。

「おい、シェラ、お前、もうこいつのこと忘れちまったのか?」

 その声には、どこか非難めいた響きが混じっている。
 シェラは少しばかり身を縮めかけたが、しかしここで引いてしまっては何が何やらわからない。
 再び口を開こうとした彼だったが、援軍は思わぬところから訪れた。
 今、シェラから不審と奇異の極まった視線を寄越されている、当の少女がこう言ったのだ。

「そうは言うがな、リィ。皆が皆、お前のようではないのだぞ。人がその姿形を変えても難なく見分けることが出来るのは、お前くらいのものだ」
「じゃあ、シェラはお前がウォルだってことが分かってないのか?」

 リィは、平然と決定的な台詞を口にした。

「当たり前だ。逆の立場なら、俺だってわかるものか」
「シェラが女になってもか?うーん、それって見た目も全然変わらない気がするけどなぁ」
「そういう問題か?」

 相も変わらず軽口をたたき合い続ける二人だったが、シェラはその様子を楽しむような心の余裕は無かった。それよりも、先ほどのリィの言葉を、できるだけ衝撃の少ないかたちで頭に染み込ませるのに必死である。

 ――リィは、何と言った?
 ――確かに言った。ウォル、と。

 それが、シェラの知るウォルと、同じ名前を持つだけの少女なら問題は無い。
 しかし、そうと考えて見てみれば、少女の、陽光を跳ね返すように強い輝きを持つ瞳も、その屈託のない仕草も、溌剌とした言葉遣いも、あの『化け物の巣の最大級の親玉』そのものではないか。
 だからといって、シェラには目の前の事態が信じられなかった。何せ、リィ自身が言っていたのだ。あちらの世界、即ちシェラにとっても故郷にあたる世界と、今リィとシェラが共に暮らすこちらの世界とを繋ぐのは、事実上不可能だ、と。第一、目の前でゆっくりと立ち上がったのは、紛れもない少女である。
 全ての葛藤を坩堝の中でかき混ぜて、シェラは、ほとんどおっかなびっくり真っ暗な廊下を歩くような調子で、尋ねたのだ。

「あ、あの、すみません……」
「ん?なんだ、シェラ?」

 答えたのは黒髪の少女である。

「先ほどのリィの言葉を信じて言うのですが……、あなたは、その、あちらの世界――デルフィニアの国王陛下……でいらっしゃる?」
「違う」

 少女は断言した。
 シェラは、何故だか一息をついた。
 とても安心したのだ。別に、彼はウォルのことを嫌っていたわけでなければ後ろ暗いことがあったわけでもない。ただ、一応の精神的均衡を図ることができて、そのことに安堵したのだ。
 なのに、その少女は無情にも続けた。

「俺は既に王座を禅譲しているからな、国王陛下とは呼べんよ。それでも言うなら、先王というのが正しいか?」

 今度こそシェラの脳裏に、悶絶確実のとどめの一撃が叩き込まれた。
 シェラの精神は再び暗い闇の中に落っこちかけたが、ぎりぎりのところで踏みとどまって、再度尋ねた。

「で、でで、では、貴方のお名前は……」
 
 少女は、少しももったいぶった様子もなく、はっきりと言った。

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。ご大層で厳めしい名前だが、天と父と、そして何よりリィによって授けられた名前だ。無碍にするわけにもいかん」

 王としての名前を『リィよってに授けられた』。それはつまり、リィの活躍によって王座を奪還したことを言っているのだ。
 その事実は、あちらの世界では、それこそ生まれたての赤子ですら知っている、もはや手垢にまみれた程に知れ渡った伝説である。しかしこちらの世界でそれを知る者がいるはずがない。
 唯一、その少女がウォルではない可能性としては、リィが自らの知人に頼んで、共謀のうえでシェラをはめている、というものがあるだろう。
 だが、それはあり得ない。絶対にあり得ない。あのリィが、よりにもよって自らの同盟者と呼んだ男を出汁にして、シェラをお道化にするはずがないのだ。そのように己の誇りを貶める真似をリィがするなど、天地がひっくり返ってもありはしない。
 ならば、導き出される答えは一つしかない。 
 つまり、リィの言葉も、この少女の言葉も、正しい。掛け値のない真実である。
 ということは。

「……陛下……ですか……?」
「うむ。久しいな、シェラ。壮健そうで何よりだ」

 少女は嬉しそうに言った。
 間違いない。この人は、デルフィニアの太陽と呼ばれた、あの方なのだ。そして、軍神と呼ばれ、獅子王と呼ばれた、あの方なのだ。
 何より、リィの夫である、あの方。
 ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。
 忘れようとて忘れられぬ、あまりに鮮烈な人の名前に、シェラの引き攣った頬が、笑みのかたちを作った。彼と共に過ごした、あまりにも鮮烈な三年間を思い出したのだ。

 そして、それが即座に再硬直した。

 この人が陛下なのはいい。諦めた。それは事実だ、認めよう。
 では、その国王陛下、それとも先王陛下に対して、自分はつい今し方まで、一体何をさせていた?何をした?
 この少女の、痛痛しいほどに真っ赤に染まった掌。あれは、何度も何度も冷たい氷水に浸した布を絞り、真摯に病人の看護を務めた者のみが持つ、掌だ。
 つまり、この少女は、異世界の国王は、病人の看護をしていたのだ。
 この場における病人とは、即ち固有名詞である。
 シェラ・ファロット。自分の事だ。
 要するに。
 自分は、恐れ多くも国王陛下に、それ以上にリィの旦那様に、看病をさせていたというのだ。そしてそのことに礼を言わなかったばかりか、不躾な殺気をぶつけまでした。
 これは、本来であれば極刑ものの不敬である。
 シェラの、僅かに赤みを差していた頬から、音が鳴るほど見事な様子で血の気が引いていった。

「も、申し訳ありませんでした陛下!」

 シェラは即座にベッドから飛び降り、カーペットの上に額を擦りつける勢いで頭を下げた。そして、言葉も無く震えていた。
 彼にとって、王も、そして死すらも別段恐ろしいものではなかったが、この人の怒りはとても恐ろしい気がしたのだ。
 しかし、一人立ったままの少女は、顔の前で手をひらひらとさせながらのんびりと言った。

「おいおい、シェラ。俺はもう、国王などというたいそうなものではないぞ。そう畏まらんでくれ」
 
 シェラは相変わらず震える頭を下げたまま、微動だにしない。
 少女は構わず続けた。

「それに、リィに言わせると、シェラが倒れたのは俺のせいだから俺が看病するのが当然なのだそうだ。まぁ、確かに連絡も入れずに突然訪ねたのは悪かった。なにせ、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインという人物とリィが同一人物だとは思わなかったのだ。許してくれ」
「その割には、おれを驚かすためとか言ってしっかり女の子の格好していやがるじゃないか。ウォル、お前、実はその気があるんじゃないのか?」

 しかめっ面をしながらソファに腰掛けたリィがそう言った。
 痛いところを突っ込まれたかたちのウォルであるが、ここで黙ってしまったり怒ったりするようではリィの夫などは務まらない。
 平然とした様子で言い返した。

「万が一ばったりお前と顔を合わせても大丈夫なように、備えていたのだ。備えあれば憂い無し、戦争と政の常識ではないか」
「戦争とくだらない悪戯を一緒にするなよ」
「お前を驚かそうというのだから、下手な戦争よりもよっぽど困難事だ。それにこの服、悪くはないと思わんか?」

 少女は両手を大きく広げ、花柄のワンピースに包まれたほっそりとした体を見せびらかすようにして言った。
 確かに、初夏とはいえ少しずつ蒸し暑さの増してきたこの季節には、なんとも涼やかに似合った衣装であった。少女の真っ白な肌をゆるやかに包む、透明感のある白い素材。その上に描かれた真っ赤な薔薇の刺繍が、雪中に咲く血の花のように鮮やかである。少女の黒髪、そして黒真珠のような瞳との対比も素晴らしい。
 赤と白という組み合わせは、リィにとっていい想い出を呼び起こすものでは到底なかったのだが、しかしその美しさは認めないわけにはいかない。なにより、どこまでも朗らかで人の目を惹き付けずにはおかない天性をもったこの少女には、薔薇の華やかさが相応しい気がした。
 だからこそリィは、真剣な面持ちで頷いた。

「うん、凄く似合ってる」
「そうだろう。実は想像以上に似合っていて自分でも驚いたのだ。初めて鏡の前に立ったときは、まるであちらの世界の舞踏会で煌びやかなドレスを身に纏ったお前を見たときのように、口を開けて唖然としたぞ。馬子にも衣装とはこのことだな」

 その言葉を聞いたリィは、心底嫌そうな顔をした。そして、シェラは、この人が『あの』ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンではなくて、一体どこのお化けなのだと思った。こんな人間が、世界こそ違えど、この現世にぽんぽんいてたまるものか。
 とりあえず、一人頭を下げて平伏しているのが流石に馬鹿馬鹿しくなったシェラは、ゆっくりと顔を上げて、少女の顔を仰ぎ見た。
 そこにいたのは、やはりデルフィニア国王、その人だった。顔の造りは、骨格からして違うようにしか思えないほど女らしいものになっているが、意志の強さを顕した黒い瞳の輝きだけは変わりようがない。

「あの、陛下……」
「ん?なんだ、シェラ」

 シェラは、今度こそにっこりと笑って言った。今度は、どこにも普段の彼以外の気配のない、シェラ・ファロットという人間そのものの言葉であった。

「お久しぶりです。そして、まさかこうして、再びお目にかかることが出来る日が来るとは思いませんでした。それ故の非礼、どうかお許しください」
「ああ、許す。だからもう立ってくれ。そうされていると、どうにも話しにくくていかん」

 言外にそれ以上の謝罪の不要を示したウォルは、そう言ってシェラを立たせた。そうすると、さして大柄ではないシェラの視線は、少女になってしまったウォルの目線の少し上に位置することになる。
 ここまで近接しながら貴人を見下ろすのは、明らかな不敬に当たるだろう。それを弁えないシェラではなかったが、しかし今は少しでも間近で、この人の黒い瞳を、その懐かしい光りを見たいと思った。
 じっと視線を合わせた二人であったが、やがてその片方が、ぴりりと舌に残るような、苦みのある声で呟いた。

「……シェラ、お前、大きくなったな」

 シェラは、冷静に指摘した。

「失礼ですが陛下、私が大きくなったのではなくて、陛下の方がお縮みあそばされたのでは……」
「むぅ……」

 それは、否定のしようがない完璧な事実であった。
 ウォルは、大いに傷ついたような様子で、リィの方を振り返った。

「リィ。あちらの世界で、しきりに俺の体が羨ましいと言っていたお前の気持ちが、少しだけ分かったぞ」
「だろ?」
「この体に不満があるわけではないが、しかし前の体を恋しく思うこの恋慕の念も度し難いな」

 ウォルは、腰に手を当てたまま盛大に溜息を吐き出した。
 シェラはその様を見て、苦笑した。あちらの世界のウォルの、戦士という概念を具現化したような逞しい体であれば絵になったかもしれないその格好も、今は精々必死に背伸びをした微笑ましい少女の様子でしかない。もっとも当のシェラとて、他の少年少女に比べて多少大人びているとはいえ、やはりまだまだ中等教育も修まらぬ子供にしか見えないのだが。
 そんなふうに笑みを浮かべたシェラとは対照的に、リィはずっと不機嫌な様子だった。
 そして、その表情を崩さないまま、ウォルに問いかけた。

「おい、ウォル。シェラも起きたんだ。そろそろ話してもらうぞ。何でお前がここにいる?さっきも言ったけど、事と次第によっちゃあただじゃおかないからな」
「事と次第とは例えば、俺がお前恋しさにとち狂って、あちらの世界の全てを放り出してこの世界に来た場合、などかな?」

 冗談めかしたようなウォルの言葉に、リィは何も応えなかった。つまり、彼が一番懸念しているのは、そういう事態であったということだ。
 当然、リィ彼はウォルという人間を信頼している。だからこそ、彼にとっても大切な人達が数多くいるあの世界を任せることが出来たのだ。安心して、自分の世界に帰ることが出来た。
 そのウォルが、もしも自分を追ってこの世界にやってきたとしたら。
 あり得ないとは思う。でも、もしも、万が一の可能性でそういうことだったら、自分は、あの世界でウォルを必要としている人達にどうやって詫びたらいいのか。
 リィの秀麗な顔を曇らせているのは、あり得ないこととは知りつつも、そういった懸念が彼の胸の内を掠めるからだった。もう二度と会えなくなってしまった人の幻影がどれほどに生者を苦しめるのかを痛いほどに理解しているリィだからこそ、その懸念を一笑に付すわけにはいかなかった、
 ウォルは、リィの懸念を全て知っていた。何故なら、彼自身、何度も思ったのだ。あいつに会いたい、そのためなら全てを捨ててもいいのではないか、と。無論全てを捨てればリィと会えるわけではないのだが、しかし、そのように夢想することが一度もなかったとは言えない。
 だが、彼はそんな思いが頭を過ぎる度に、己の弱気を嘲るように苦笑して、その甘えた考えを振り払った。何故なら、そのようなことをしたとしても、デルフィニアの戦女神は喜ばない。喜ばないどころか、烈火の如く怒り狂うだろう。それこそ、バルドウの娘に相応しい有様で。

『おれに会うために全てを捨ててきただと?よし、いい度胸だ。王座どころか戦士の魂までも捨ててきて、よくもおめおめとおれに顔を晒すことが出来た。今からたっぷりと思い出させてやるから覚悟しろ!』

 そのくらいのことは言われて、顔のかたちが変わるくらいに殴られて、その上で自分の世界に文字通り叩き返されるのが関の山である。いや、それならまだいい。もしも心底失望されて口の一言も聞いてくれなかったら、いくら何でも夫として情け無いにも程があるというものだ。
 ウォルは、永遠に失われた選択肢、リィと共に彼の世界に旅だった自分に思いを馳せることはあっても、それを羨むことはなかった。自分に与えられた責務を、喜びと誇りをもって全うしたのだ。
 だからこそ、彼は、ありのままの全てを語った。男の時よりも薄くなった胸板、でも少しだけ柔らかく膨らんだ胸を、誇り高く反らして。

「俺はな、リィ。口幅ったいながらも、あちらの世界で俺が為すべきことは全て為したつもりだ。そして、天に召されたのだ」

 リィは、一瞬息を飲んだ。
 それは、シェラも同じだった。

「ウォル、お前、天に召されたってまさか……」
「ああ、死んだ。少なくとも、あちらの世界の俺は死んだのだ。だが勘違いするなよ。別に戦に倒れたわけではないし、不慮の事故にあったわけでもない。ただの寿命だ。もう俺にするべきことはないと、神がそう仰ったのだろう」
「寿命だと!?」

 リィとシェラの口から、ほとんど同じような驚きの叫びが飛び出した。
 
「ウォル、お前、あっちの世界でどれだけの年月を過ごしたんだ!?」
「お前と別れて、だいたい40年といったところか」
「40年!」

 二人の口が、叫び声をあげたかたちのまま固まってしまう。
 まだ20年に満たない人生しか送ったことのない子供にとって、40年という歳月は想像を絶する、正しく地平線の彼方にしか存在しない月日の経過である。それは、常人とは異なった価値観を有するこの二人であっても同じだったのかもしれない。いわゆる普通の人間から見れば常識の埒外に存在するような彼らであったが、しかし怪我をすれば痛むし、その時が来れば天に召されるという運命からは逃れようもないのだから。
 リィもシェラも、あまりの驚きで、それ以上のことを何も口にすることは出来なかった。
 しかし、考えてみれば当然のことだったのかもしれない。何せ、リィがあちらの世界で6年の月日を暮らしていたとき、こちらの世界のルウは僅か10日を過ごしていただけだった。その縮尺をそのまま適用するのであれば、リィがこの世界に戻ってから経過した年月は優に人一人分の寿命を越えるようなものであったのだから。
 二人は、果たして自分達が何に打ちのめされているのか分からないまま、しかし確かに何者かに打ちのめされていた。自分達の知る世界の一つが、今、間違いなく消えてしまった、その事実を悼んでいたのかも知れなかった。
 そんな二人を等分に眺めて、ウォルは一言だけを、静かな声で呟いた。

「リィ、シェラ。これだけは言っておく。お前たちが作った世界はな、とても優しい世界だったぞ」

 その言葉に、金と銀の天使は、同じように息を飲んだ。

 人が世界を作る。聞きようによっては傲慢極まる言葉であるが、しかし世界という言葉を歴史という言葉に置き換えるならば、ウォルの言葉は決して大仰な表現ではない。
 戦女神と呼ばれた姫将軍は、ウォルの治世の後、デルフィニアという国の名前が過去の書物にのみ記され、ほとんどの人間の記憶から消え失せた時代になったとしても、彼女の名前だけは語り継がれるであろう程の英雄だったし、その王妃の従者であった銀色の少女の活躍は、多くの人に知られるところでなかったとしても、闇に生きる一族の歴史に終止符を打ったという意味において軽視されていいものではない。
 無論、歴史の大河は、一個人の力量をもって自在にされるほどに脆弱な水流ではあり得ない。しかし歴史が人の手によって紡がれ作られるものである以上、それを作り出すのはやはり数え切れない個人の苦悩や決断であることは間違いないし、リィとシェラのそれは他の誰と比べても最も重要なものであったのだ。
 彼らも、そのことは分かっている。だからこそ、自分達が強い影響を与えた世界が、自分達の知らないところで大きな変節を迎えていることに強い動揺を受けたのだ。だが、この二人はやはり常人ではありえない。ウォルの一言を聞いて、彼らは少しだけ強張ってはいたものの、淡い笑みを浮かべていた。

「優しい世界、か。問題は、誰にとって優しい世界だったのか、だな」
「決まっている。世界はいつだって、勝者にしか優しくない。それは世界の真理だ。俺にも変えることはできなかった。しかし、せめてこの目とこの手の届く範囲においては、敗者にとっても出来るだけ優しい世界であるように、俺は尽力したつもりだ」
「お前が言うなら、その通りなんだろう」

 リィは目を閉じ、それ以上のことを聞こうとしなかった。ウォルがそう言うならば、それは間違いなくそういうことなのだ。同じく、シェラも何も問わなかった。彼の知るデルフィニア国王の目は万里を見渡し、その手は空を掴むほどに長かった。その目と手の届く範囲の者達が幸福だったのであれば、それ以上は望み過ぎというものだろう。
 ただ、リィは、実に意地悪そうに目を細めて、冗談めかした口調で言った。

「ウォル。そもそもお前、誰にも負けなかったんだろうな?」

 それに答える少女の瞳は真剣な光りを湛えている。
 そして、言った。

「俺は闘神の娘の夫だ。ならば、誰にだって負けてやるものか。そんなことでは、いずれ天の国に召されたときに叩き返されてしまう。もう一度生まれ変わって、勝つまで帰ってくるな、とな」

 それはまるで、近所のガキ大将に喧嘩で負けた子供を焚きつける父親のような台詞であったが、しかし戦女神と謳われた王妃がその夫の尻を蹴飛ばすには、これほど相応しい台詞もないようだった。
 内心はともかく、もしかしたらそんなことを言ってしまうかも知れないなという自覚のある当の王妃は、肩を竦めて憮然としていた。
 シェラは、その様子を見ながら、くすくすと忍び笑いを漏らす。彼の肌には、自分がいる部屋の空気が、まるで煌びやかなあの王宮のそれに変化したように感じていた。

「まぁ、とにかく俺は死んだ。あの世界での役目を終えてな。最後の瞬間は、まだ覚えているよ。暗くなって、静かになって、全ての感覚が遠ざかる中で、声が聞こえたんだ」
「声?」
「俺は、お前の声だと思ったよ、リィ」

 はにかむように、少女は微笑んだ。
 まるで、可憐な薔薇が一輪花開いたような、輝くような微笑だった。

「懐かしい声だった。それがな、俺を呼ぶんだ。こっちだぞ、早く来い、待っているから、とな」
「おれはお前を呼んだ覚えはない」

 勝手に黄泉路の案内人にさせられたリィは、緑柱石色の瞳を不本意そうに顰めさせて、言った。その拍子に大きく肩を竦めたので、彼の黄金色の髪が大きく波打つ。
 ウォルは、広い部屋の中に、陽光をたっぷり受けた綿布に似た、柔らかな香気が振りまかれるのを感じた。

「おれが死にかけたお前を見つけたとして、誰がその案内を引き受けるもんか。おれだったら、それこそお前の尻を蹴っ飛ばして、嫌だって言っても生き返らしてやるのに」
「おい、俺の幻想を壊すなよ。これでも、お前にはそれなりの理想をもっていたんだぞ。何せ、40年も会わなければ、思い出の人というのは相当に美化されるものらしいからな」
「ふーん、じゃあ幻滅したか?」
「ある部分においてはな。そして、残りのほとんどは納得した。やはり、お前がリィだ。どうやらあの優しい誰かさんは、お前の偽物だったようだな」

 噛み付き合うような獰猛な笑みが、これ以上ない親愛の証である。その点だけは、どれほど長い年月の暴虐も、変えることの出来ない不変のことらしかった。

「とにかく、俺は呼ばれた気がした。そして、どこか暖かいところを漂っていて、そこで長い間微睡んでいた、気がする」

 気がする、というのは、ウォル本人も詳しいことはわからないからである。

「そして……気がついたら、この世界にいた。それだけだ」
「嘘はいけないよ、王様」

 部屋の隅の方から、ウォルの声でもリィの声でもない、もう一人の天使の声がした。
 その気配に今の今まで気がつかなかったシェラは、文字通りに飛び上がる寸前まで驚いて、声のした方を見遣った。
 そこには、彼のよく知る顔があった。
 しかし、それは彼の初めて見る、顔であった。
 驚愕したシェラは、彼の姿を見て、二の句を継げなくなってしまっていた。

「ルウ……いたのですか」
「うん。こんばんは、シェラ」

 黒髪に青い瞳を持つ優しげな青年は、力無く笑った。
 ソファに腰掛けることもなく、部屋の隅で片膝を抱えながら蹲った人影は、リィの相棒である、黒い天使その人だった。勿論、シェラにとっても大切な友人であり、幾度となく主と自分の危地を救ってくれた恩人でもある。
 なのに、シェラにはその人が、自分の知るルーファセルミィ・ラーデンには到底思えなかった。
 それは、まるで墨の濃淡だけで描かれた、古代の絵画のようであった。
 いつもは無垢な輝きに満ちた蒼玉色の瞳には色濃い憂いが満ちており、曇天に荒れる鈍色の海面のようだ。ただでさえ透き通るような白皙の肌は、血そのものが巡っていないように思えるほどどこまでも青白い。微笑みがあらわすのも彼の感情ではなく、消えゆく生命の儚さのようですらある。
 今のルウからは、『生』というものが、決定的に欠落していた。
 だから、それは生者ではなかった。

 亡者。

 地獄の底辺を、永遠に訪れぬ救いを求めてただひたすらに彷徨う死人。彼の様子は正にそれだった。
 その上、彼を飾る蠱惑的な美から、腐りかけの果物や食虫植物が放つ甘ったるい香りが漂う気すらした。その香りは、決していつものルウには相応しく無い。いつもの彼は、例えば上手に焼き上げた小麦菓子のような、胸を梳く甘い香りが漂っているはずだったのに。
 シェラは、あまりに痛々しいその様子に、思わず目を逸らした。そして、隣に座ったリィに、こっそり耳打ちをして尋ねた。
 
「あの、リィ、ルウはどうしたのですか?」
「おれが知るわけないだろ。知ってたらなんとかしてる」
「……そういえばそうでしたね。……でも……あんなルウは、初めて見ました……」
「当たり前だ。あんなのが、いつものルーファであってたまるか」

 リィは、全く声を落とさずに、家中に響き渡るような声で言った。
 それを聞いたルウは、ひっそりと微笑みながら言った。

「あんなの、は酷いよエディ。これだって、僕の一部だ」
「じゃあ、それはさっさと引っ込めて欲しい。おれは、そんなルーファは見ていたくない」
「うん、さっきから僕も頑張ってるんだけどね」

 ルウは、両足を抱えるように座り直し、そして顔を両膝に押し付けるような姿勢のまま動かなくなってしまった。それはいじけた小学生が自分の殻に籠もったときの様子に似ていた。
 そんな様子の彼に、この場にいるただ一人の少女が声を掛けた。

「ラヴィー殿。先ほどの言葉は聞き逃せんな。俺が嘘つきとは、どういうことだ?」

 ルウは、顔を上げずに、籠もったような声で答えた。

「言葉通り。だって王様、大事なこと、話してないじゃないか」
「大事なこと、とは?」

 重ねて問うその言葉に、ルウは、ゆっくりと顔を上げた。
 それを見たシェラは、自らが思い違いをしていた事に気がついた。
 これは、亡者ではない。
 これは、罪人だ。
 自らの手と足に、決して千切れない鉄錠をぶら下げた、罪人。彼を罰するのは、他でもない自分自身。彼の責め苦を喜ぶのも自分自身。だから、彼は決して許されない。
 ルウから漂ってくる妖気は、一度だけ彼が血に狂った、あのときのそれに近い。しかし、そこまで刺々しくはないものの、その分もっとべったりとして、擦っても擦っても落ちない泥炭の塊をなすりつけられたような不快感がある。
 正しく呪いと形容するのが相応しい穢れた気を放ちながら、どんよりとした調子で、青年は言った。

「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」



[6349] 第十二話:ルウの事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/01 01:21
「うーん、やっぱり一緒に行っておけばよかったかなぁ」

 学寮の自室で、窓ガラスの向こうの夜空を見上げたルウは、残念そうに呟いた。
 現在彼の所属するサフノスク校は大学生相当の学生のための学校であるため、例えばリィやシェラの通うアイクライン校その他と違い、その周辺には歓楽街と呼ばれる遊興施設が存在する。そこは、万華鏡のようなネオンで彩られた、白粉と口紅の香りも色濃い夜の町である。結果として、地上が明るくなった分だけ夜の闇は色の薄いものとなるが、その程度のことでルウの際立った視力から満天の星空を奪い取ることは出来ない。
 透明な壁の向こうの、少し肌寒い、張り詰めたような冬の空気。その澄んだ空間の向こうに、宝石箱をひっくり返したような銀河の群れがある。
 きらきらと輝く夜空。その中に、一際輝く緑色の星があった。それは、彼のもっとも大切な人の、瞳の色に似ていた。
 何百光年と離れた星に、思いを馳せる。
 リィは今頃、アーサーの家を出発した頃だろうか。
 自分の占いが当たっているならば、きっと何らかの異変に遭遇しているはずだ。そして、今までの経験上、その可能性は非常に高い。
 危険は無い、と思う。多少の危険があったとしても、リィにとっては危険と呼ぶに値するものではないだろう。もしも彼にとっても危険と呼ぶべき事が起きるのだとして、彼の傍には銀色の月がいる。万が一の時は、自分を呼んでくれるだろうから、心配する必要などどこにもないはずだ。
 そもそも、今回の占いに関していえば、彼の手札からは凶兆をあらわす嫌な感触がちっとも存在しなかった。
 それでもルウは、今回ばかりは自分の手札に今ひとつ自信が持てていなかった。
 いつも通り、カードからその暗示する情報を読み取ることは出来るのだが、しかしその情報に込められた意味が全くわからない。もやもやとした霧の中に手を突っ込んだような、吹雪の前に視界が真っ白になったような、なんとももどかしい感覚だけが、掌からするりと抜け落ちていくのだ。
 第一、具体的な目的を持たずに彼が占いをすること事態が異常である。本来であれば、例えば失せ物や行方不明者を捜すために使われるカードを『相棒の身の回りに起きる異変について』という曖昧極まりないものに使おうと思ったのは、彼の一番奥深くにある、人間であれば『勘』と呼ばれる便利な機能が疼いたからに他ならない。
 発端がそのようにへんてこな事情ならば、結果もやはり今までに得たことのない奇異なものだった。
 こんなことは、未だかつて一度もなかった。まるで、この世界にいながらこの世界以外のことを占っているような、不可思議な感覚。自分の知覚の範囲外の異変が、初めてその触角に触れたのかもしれない、そんな予感がルウの胸を過ぎった。
 もう一度、彼は自身の占いの結果を思い出してみた。

 【遠い昔に別れた人】。
 【最近別れた誰か】。
 【薔薇の館】。
 【小さな女の子】。
 【森と湖】。
 【博物館】。
 【王冠】。
 【黒い自動車と黒い服の男】。

 いくつもの暗示は、例えば敵や裏切りなどの不吉な結論とは縁遠い。むしろ、ルウにとっては心安らぐものが多いような気がする。最後の暗示だけが心掛かりといえば心掛かりではあるが、今の政府に彼らを敵するだけの気概が残されているとは思えないから、少なくとも直接的に政府の人間が関わっているのは考えにくい。無論、件の連邦情報局長官のように偏執的な妄念を抱いて彼らをつき回す人間がいることも理解しているから、完全に警戒を解いていいわけではありえないが。
 ルウの心中に、不安はない。しかし、一刻も早くリィに会いたい。そう思う。心が浮き足立ち、体が走り出しかける。この、焦燥感にも似た衝動はきっと、いいことの現れだ。すごいご馳走がすぐ近くで用意されているのに何故こんなところにいなければいないのか、そう心と体が不満の叫びをあげているのかも知れない。
 多分、この占いが示す結果のせいだ。自分は言葉には出来ない深層心理の深いところで、これからどんなことが起きるのかを知っているのだろう。
 ルウはうっとりと頬を緩めて目を閉じた。そうするとこの年若い青年の微笑は、まるで我が子を思う母親のそれのように見える。どこまでも柔らかく、どこまでも深い、慈母の微笑みだ。ただ一心に自分の愛する者の幸福のみを願う笑みだ。その瞬間の彼の脳裏に誰の顔があったのか、それは言うまでもないことである。
 ルウの想い人は、苛烈をその身に体現した、抜き身の刃のような人だ。だからこそ、彼にはその鞘となるべき人が必要だと、ルウは常々そう思って来た。シェラもよくしてくれているが、しかしそれは従者としての献身である。ならば、彼以外にも、誰かルウの相棒の、例えば友人として心を砕いてくれる人がいてもいいのではないだろうか。
 ルウの思いを知れば、リィはきっと肩を竦めながら、『おれにはお前がいればそれでいい』とでも言うのは間違えないだろうし、それは他ならぬルウ自身にしても同じことなのだが、自分の愛する者を愛してくれる存在は多ければ多いほどいい。それは、きっと心安らぐ未来だ。
 今回の占いのヴィジョンは、あらためて整理してみれば、誰か、ただ一人の人物を指し示しているような気がする。それが誰かはまだ分からないが、もしそうであるならばリィにとって好ましい人間のことのように思えてならない。その人がリィの友達になってくれれば、そして彼に優しくしてくれれば、ルウにとってもこれほど嬉しいことはない。

「早く会ってみたいな……」

 鼻歌と呼ぶにはあまりに見事すぎる旋律を口ずさみながら、ルウは微睡んでいた。頬杖をついた首をゆらゆらと左右に揺らし、あたかもほろ酔い加減の芸術家のような有様である。先ほど引っかけたごく少量のアルコールと、暖かい部屋の空気が、眠り神の誘惑をより抗いがたいものにしていたのだ。
 そんな彼が腰掛ける机の上には、彼専用のノートパソコンと、レポート作成用の資料となる分厚い本が堆く積まれている。
 ルウが今回リィの実家に同行しなかったのは、これら堆く積まれた資料のエキスを凝縮してもなお足りない、異常な量を誇るレポート課題のせいだ。これがなければ、彼は間違いなくリィの家にお邪魔していたはずなのだ。
 彼以外の者ならば、誰か友人のレポートを写させてもらう、それともどこかで拾ったレポートに少し手を加えてさも自分で考えたように提出したりするかも知れなかった。しかし彼が大学に所属しているのは、そこを卒業してこれからの人生のキャリアの一部とするわけではなく、まして親に決められた人生のレールの上を走るためでもない。
 彼は、自分で設計した宇宙船で、遠く未開の宇宙を旅することを夢見て、そのために基礎知識を学んでいるのだ。ならば、見せかけの単位を取得することに意味などあるはずもない。そして同様に、彼の中に卒業必要単位数という概念もまた存在しない。当然の如く、時間の許す限り、そう、普通の学生であれば思わず目を回してしまうほどに過密なスケジュールで授業を選択している。
 一例を挙げただけでも宇宙工学基礎、宇宙物理学基礎、船体物質学、感応頭脳学基礎など、まだ一回生であるが故に基礎編が多いとはいえ、それでも単位に厳しいと評判の教授の講義ばかりであるから気の休まる暇もない。その教授も、いわば普通の学生、つまり講義の合間にたっぷりと余暇時間を有する学生用のカリキュラムとして相当たくさんの課題を用意するものだから、ルウの日常はそれらを消化するだけで手一杯という有様なのだ。
 だが、彼はその日常を、非常に有意義なものとして楽しんでいる。何故なら、それらは彼にとってあまりに新しい知識の宝庫だったからだ。
 ラー一族という、人から見れば神としか思えない能力と寿命を誇る種族に属するルウであるから、彼はほとんど手を動かしたり呼吸をするのと変わらないように、人の言う奇跡を体現することが出来る。死者の蘇生や瞬間異動など、高度に発達した文明を有する現在の人類でさえ喉から手が出るほどに希う奇跡を、である。
 そんな彼に、未開の宇宙を旅するのに宇宙船など、そもそも必要無い。彼は光よりも早く宇宙空間を飛ぶことが出来るし、どんな離れた見知らぬ地にでも瞬時に移動することができる。
 それでも、彼は自分の作った宇宙船で旅をしたいと思っていた。
 彼の知人には、幾人かの宇宙船乗りがいる。彼らは一様に、宇宙の彼方の未だ誰も見たことのない世界に思いを馳せ、無限とも呼べる虚無の空間に挑み続けている。しかも、一抹の悲壮感すら抱かず、ひたすら陽気な精神病患者のように。
 羨ましいと思う。有限の生を宿命づけられているが故に流星よりも輝かしい生を送る、人間たちが。別に自分を卑下するわけではないし、上から見下ろした感想を抱くわけでもない――少なくとも自分ではそうと思っている。それでも、彼らの無垢な笑顔が、ひたすらに羨ましい。だから、自分も彼らと同じように、旅をしてみたい。それはルウにとって、極めて自然な選択肢とその選択結果だったのだ。
 そう言う意味では、ルウは、人間が大好きだった。ファンと言ってもいい。一族の中の鼻つまみ者である彼と、一族の中でも相当に重要な役職に就くデモンの仲がいいのも、二人の間に人間社会に対する似通った価値観が存在するからだろう。もっとも、ルウは彼らと深く関わることを選び、デモンはその社会そのものを観察することに価値を見いだしたのだが。
 だからといって、ルウが全ての人間を偏り無く愛しているかと言えばそうではない。汚泥から湧き上がる泡沫のような人間が多くいて、それが一部と言うには数多すぎることも理解している。それでも、汚泥の中の一番深いところに、宝石よりも光り輝く眩しい存在がいるのも理解している。彼の知人は、何故かそんな人が多い。それはきっと、自分が幸福の女神に愛されている結果なのだろうと、神にもっとも近しい彼は、神様に感謝したりする。そんな彼らと、自分が設計した宇宙船で未知の世界に挑むことが出来れば、どれほど楽しいだろうか。考えただけでも彼の頬は優しい笑みを描いてしまう。
 だから、彼は結構楽しい毎日を送っていた。そして今のところは、自身の最も愛する相棒のことを思いながら、全てのレポートを完成させた満足感に浸りながら、浅い眠りを堪能していたりするわけだ。
 ふと時計を見れば、時間は相当に遅い。
 もうそろそろ寝ないと、翌日の講義に差し障りのでる時間になってしまった。本来であれば、熱いシャワーの一つも浴びて、冷凍庫の一番奥に隠してあったとっておきのバニラアイスクリームを平らげて、そのままベッドに急行するのが一番だ。
 でも、彼の重たくなってしまった思考能力は、その一切を否定し、そのまま机に突っ伏して眠ることを優先してしまったようだ。季節も冬のまっただ中、普通なら風邪の一つも引いてしまうのだろうが、比較的最近に建築されたその学寮は密閉性の高いもので、内側の暖気を逃さずに外側の寒気を遮断している。これならば、余程のことが無い限り体調を崩すことはないだろう。
 机に突っ伏した華奢な背中が、呼吸のリズムに合わせて規則正しく動いている。安らかな寝息が、部屋に響く。それ自体が最高の子守歌のようだ。
 そんなルウの長い髪を、馥郁たる風がくすぐった。まるで春の草原を駆ける風のような、夏の森を潤す冷たい湧き水のような、体よりも心を潤す風だった。
 あれっ、とルウは思った。思わず、ここが彼の生まれ故郷である、あの惑星の上だったのかと勘違いしたほどだった。
 しかし、彼は誰に呼ばれた覚えもないし、自分で里帰りをしたつもりもない。ならば、彼がいるのは連邦大学の一大陸に設えられた、サフノスク校学生寮の一室であるはずだ。
 一体どこから吹いてきた風なんだろうと思った。こんなに美味しい風が吹いてくるところは、きっととても美しいところに違いないと思いもした。
 ルウはその風を肺いっぱいに吸い込んで、満足の溜息を吐き出した。こんなに優しくて良い匂いのする風を味わったのは、彼のさして長くもない人生の中では数える程だったからだ。
 瞼を開き、首をぐるりと巡らす。すると、払暁の空をそのまま固めたような、青色の瞳が露わになる。彼はそれをにこやかに綻ばし、閉じられた窓ガラスに向けて、言った。

「こんばんは、僕に何か用事かな?」

 果たしていつからそこにいたのだろうか、ルウの私室にはめ込まれた窓ガラス、そのすぐ向こうに何かがいた。
 ルウはそれを見て、ただでさえ微笑んでいた頬をよりいっそうに微笑ませた。声に出して、少しだけ笑い声をあげたくらいだ。
 白くてこんもりとした、産毛の生え揃ったひよこみたいな真ん丸の物体。どこをどう曲解しても害意のあるようには思えないそれが、黒い空間にふよふよと浮いているのだ。風に飛ばされた、特大のタンポポの綿毛とでもいえば相応しいかも知れない。
 一見して普通のものではないと、ルウにはわかった。当然、ルウはそんな物体に心当たりは無かったし、この星の生態系にこんな生き物はいなかったはずだ。生命のないただの物質であるという解答は、彼の類い希なほどに鋭い直感が否定している。

「白いひよこさん。そんなところにいたら寒いでしょ。こっちにおいで」

 机から体を起こしたルウが手招きすると、その白くてモコモコとしたその物体は、困惑するようにふわりふわりと宙を舞った。
 ルウはますます楽しくなってしまった。彼の目の前にいるのが、いわゆる幽霊とか魂とか、そういうものの友達であることは理解している。そしてそういうものは、生きた人間以上にルウのような存在に敏感である。
 ルウは少し前に、興味本位で、人を呪い殺す悪霊が出るという古屋敷に赴いたことがある。太陽も高い時間であった。それは別に幽霊が怖かったからではなく、純粋に彼の空き時間がそこしか取れなかったからだ。
 おどろおどろしい雰囲気の屋敷内は、正しくこれぞ幽霊屋敷と言わんばかりの、雰囲気満点の有様だった。期待に胸を膨らますルウはそこをずんずんと歩き、遠い昔に殺人事件があったという部屋で、その館の主に出くわした。
 それは、顔の半分を鉈で切り落とされ、血塗れになった妙齢の女性の幽霊であった。それも、飛びきりに恨みがましい顔で登場した上、その背後に寒気のする負の念をまとわりつかせている。
 常人であればそれを見ただけで体の自由を奪われ、そのまま悪霊の贄と成り果てるしかないであろう。
 なのに、彼は平然と語りかけたのだ。

『やぁ、こんにちは悪霊さん。こんな時間にごめんなさい。でも、少しだけあなたとおしゃべりがしたくって』

 ルウは別に、その悪霊に対して害意があったわけではない。ただ、自分が死んだ後も現世に魂を残し、そしてその恨みとは直接は関係ない人間をも殺し続けるほどの怨念とはどのようなものなのか、純粋に興味を覚えただけだった。
 しかし彼を見た悪霊は、真っ昼間にもかかわらず悲鳴を上げながら裸足で逃げだしてしまった。燦々と輝く太陽の下、泣き叫びながら自分の住み家を捨てて逃げだす悪霊というのもまた珍しい構図ではあるが、これでは一体どちらが悪霊なのかわかりはしない。一人残されたかたちのルウは、果たして自分が何か悪いことをしたのだろうかと落ち込んだりしたくらいだった。
 そんなことがあったから、自分を恐れずにいてくれる白いひよこみたいなそれが、たまらなく愛おしくなってしまった。だからこそ、それが何故部屋に入ってこないのか、心底不思議だった。
 彼はしばらくの間考え込み、そしてはたと手を打った。

「もしかして、入ってこられないの?」

 窓ガラスの向こうの白いひよこは、頷くように浮き沈みをした。
 少し慌てたルウは、大急ぎで窓ガラスを開け放った。
 十階建ての五階に位置するルウの部屋に、乾いたアスファルトの埃っぽい匂いと、冬の冷たい風が入ってくる。それに乗って、白いひよこは、ふわふわと部屋の中に入ってきた。相変わらず、どこにも害意の欠片も無い、無邪気な有様である。
 ルウは、水の中を泳ぐように部屋を漂うそれを、愉快そうに眺めた。ひょっとしたら自分はもう眠っていて、脈絡のない夢の世界にいるのではないか、そう思ったほどだ。
 やがて、その白いひよこは、ルウのほうにすり寄ってきた。これには、流石のルウも驚いた。悪霊の一件に限らず、人以外の存在である彼は、人以外の存在にこそ余程に恐れられることが多かったからだ。少なくとも、今までに懐かれたためしは一度もない。それに、その白いものがあまりに不安定で、指先で突けば小麦粉の山みたいに呆気なく崩れてしまいそうだったから、というのもある。
 ルウは悪戯っけを起こして、掌を上にして、おそるおそる手を伸ばしてみた。
 すると、その白いひよこは、少しだけ躊躇うようにふわふわと宙を漂ったあとで、彼の掌の上に舞い降りたのだ。
 掌に感じる、もこもことした柔らかな感触。ルウはあまりの喜びに、声を出すのを我慢するのに苦労したほどだった。

「君は誰かな?どこから来たの?」

 もう片方の手の指先で突っつきたくなるのを堪えながら、ルウはそう語りかけた。
 白いひよこは首を傾げるようにころりと転がった。
 ルウは、感激のあまり体を震わしていた。彼は、ほとんどの人間がそうであるように、可愛らしくて柔らかいものが大好きだったのだし、自分の掌の上にいるそれが、自分のことが大好きだと分かったのも嬉しかった。
 しばらく彼は、白いひよことにらめっこをしていた。当然その白いひよこには目も口もありはしないのだが、ルウの主観としては正しくにらめっこであった。
 にらめっこと呼ぶには少し優しすぎる表情のまま、ルウは少しだけ考えていた。
 何故だろう。この白いひよこを見ていると、何故だか心安らぐ自分がいる。まるで、自分と親しい誰かを見ているような。
 やがて、ルウの鼓膜を、小さい小さい、途切れるような声が震わした。
 彼は、何の疑問も抱かずに、その白い塊に耳を寄せた。まさかこれがしゃべれるとは思わなかったから、何を言ってくれるのか、どきどきとしながら耳を寄せた。

「――て」
「うん?もう一度、言ってくれる?」

 弱々しいといってもなお足りないその声は、ルウの優れた聴覚でも聞き取れるものではなかった。
 だから彼は、今度はよりいっそう、耳に神経を集中させて、絶対に聞き逃すまいとした。
 そんな彼の耳に、先ほどよりは幾分かはっきりとした声が、聞こえた。
 それは優しくて暖かな、少女の声だった。

「……はじめ、まして――」
「うん、はじめまして」

 ルウは、掌の上の白いひよこに向けて、そう語りかけた。この光景を普通の人間が見れば、神秘的な雰囲気を纏った美しい青年が、何も乗っていない自分の掌に向けて挨拶をしているのだから、さぞ奇異な光景に映っただろう。

「僕はルウ。君の名前を聞いていいかな?」

 白いひよこは、くすくすと微笑った。
 そして言った。

「わたしは、ウォルフィーナ」
「ウォルフィーナ?可愛らしい名前だね」

 ルウも、くすくすと微笑った。
 きっとこの子が生きていたときは、とても可愛い女の子だったんだろうと思った。
 そのまま話しかける。

「何で、僕のところに来たの?」
「いちど、あっておきたかったの。おしゃべりもしてみたかったわ。でも、もうまんぞく」

 白いひよこが、ふわりと浮きあがる。
 ルウは、それを止めようとはしなかった。少しだけ残念な顔をしていたが、彼女の用が済んだのであれば引き留める理由も無い。それに、開けっ放しの窓から冷たい風がびゅうびゅう吹き込んでくるから、そろそろ閉めないといけないのも事実だった。

「もう、帰るの?」
「ええ、とつぜんおじゃましておいて、しつれいなはなしだけどね」
「またおいで。僕は、また君とおしゃべりがしたいな」
「ざんねんだけど、きっともうあえないわ」

 白いひよこが、口づけをするように、青年の唇に触れた。
 ルウは、驚いた。その口づけの感触が、彼のもっとも大切な人のそれに似ていたから。

「さようなら、ルウ。お兄ちゃんをよろしくね」

 はっとしたルウが顔を上げたとき、そこには閉められたままの窓ガラスがあった。
 頭の奥に、鈍い痺れのようなものが残っている。それに、瞼が妙に重たくて、視界がところどころぼやけている。
 机に突っ伏していた頭を、大儀そうに持ち上げる。枕にしていた腕が痺れて、ちりちりと痛む。

 ――夢を見ていたのだろうか。

 訝しんだ彼は、自らの唇に手をやった。
 震える指先の触れたそこは、少女との口づけの残滓を残すように、仄かに暖かかったのだ。

「……エディ!」

 次の瞬間、その部屋には誰もいなかった。無論、寮の外出記録には何の異常も認められなかったし、玄関に設置された防犯カメラにも不審な影は残らない。
 如何なる残滓も残さずに、ルウの姿は、惑星ティラ・ボーンの上のあらゆる場所から姿を消していた。



「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」

 部屋の片隅に座り込み、自らの殻に閉じこもったようなルウが、重く鈍い声でそう言った。
 彼は、とても整った容姿をもった青年だ。海と空の輝きを凝縮したような青い瞳。生成の綿のように柔らかみのある白い肌、黒絹のように艶やかな黒髪、美の女神が嫉妬に狂うような顔の造詣。
 それらのうちの一つを手に入れるために世の女性は血道を上げているというのに、彼はその全てを生まれ持ち、しかもそれを誇ることすらしない。
 誇ってくれればいい。自慢してくれればいい。それならば、まだ理解の範疇だ。しかしそれらを無価値の如く扱われたのでは、自分達の立つ瀬がない。だから、世の女性たちからすれば、ルウは自分達に対する背信者であったのかもしれない。
 そんな恵まれた容姿を持つルウだからこそ、それらが闇に染まったときの禍々しさは、筆舌に尽くしがたいと言ってまだ婉曲ばった表現であると言わざるを得ないだろう。肌の白さは死蝋化した死体のそれであったし、髪の黒さは腐敗し凝固した血液のそれ、青い瞳と整った容姿は死の天使にのみ許された退廃の美であった。
 シェラは、息を飲んだ。ルウの、呪いとも呼ぶべき負の気に気圧されたというのもあるが、何よりこんな有様になってもなお美しい、ルウという存在そのものに圧倒されていた。
 リィは、特大の苦虫を噛み潰しながら、テーブルに置かれたグラス、その中になみなみと注がれた琥珀色の液体を飲み下した。芳醇なはずのウイスキーが、今の彼の喉には少々苦み走りすぎていたようだ。
 そして、ルウと同じ色の髪を持ち、しかし異なる色の瞳を持つ少女、ウォルは、真剣な面持ちで、ルウの質問に答えてこう言った。
 
「ラヴィー殿。卿は、どこまで知っておられる?」

 ルウは、この世の終わりが訪れたような顔で、言った。

「全てが分かっていたら、こんなところには来ない。僕が為すべきことを為す、それだけだ」

 ルウの斜め向かいでソファに腰掛けていたシェラは、思わず仰け反りそうになり体を押さえ込むのに苦労した。
 その言葉に隠されていたのは、きらりと光る白刃、のようにかわいげのあるものではない。
 言葉と言葉の隙間から、すさまじい視線でこちらを睨みつける悪魔がいたのを、シェラは知覚した。その悪魔は、きっと人間を殺すことに一切のためらいを覚えない。寧ろ、嬉々としてその命を刈り取っていくだろう。
 この人は、そんな存在ではない。絶対にあり得ない。
 あのとき、リィに対する侮辱を雪ぐために暴走したあのときだって、彼は喜びを供として凶行に及ぼうとしたのではない。そこにあったのは、彼自身ですら制御できないほどの、人間というものに対する失望と悲しみであったはずで、それ以上のものではありえなかった。
 ラー一族はこの人のことを、闇の神の現し身として恐れる。『悪しきものたち』はこの人のことを『救い主』と呼び、この世界の破滅の鍵として求める。
 しかし、この人はそんな存在ではない絶対にあり得ない。もしもそうならば、何故この人の瞳は蒼いのか。何故、無限の空と、そして母なる海と同じ色なのか。それは、この人が生命の体現だからだ。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、そして何よりも笑う。この人は、この世の全ての生命を愛している。だからこそ、この人の瞳は、どんな青玉よりも鮮やかで、そして深い色を誇っている。
 シェラは、何事かを口にしようとした。
 しかし彼よりも先に、黒い天使の相棒たる金色の天使が口を開いていた。

「出来もしないことをさも出来るように言うなよ、ルーファ。それって情け無いことだぞ」

 冷たく切り離すような口振りだ。しかし、彼が本当に他者を切り捨てるときは、一言も口にせずに背中を向けるだろう。そも、己の半身を切って捨てて、生きていくことが出来る人間はこの世にいない。
 ルウは、立ち上がって自分を見下ろすリィに対して、睨め上げるような表情で言った。

「できない……?」
「そうだ。お前に出来るはずがない」
「私に、出来ないと?」
「その言葉遣いは似合わないと、そう言ったはずだぞ」

 黒と金の間に、ちりちりと鉄を焦がすような緊張感が満ちていく。雰囲気だけではない。鼻孔を刺激する空気の焦げた香りや、ぱちぱちと火花の散る音ですらが感じられるようだった。
 シェラは、喘ぐように呼吸をした。その白い肌の上を、冷たい汗が流れ落ちていく。
 自分に、この二人を止める事は出来ない。無論、我が身を犠牲にして二人を止める事が出来るならば、自分の命を惜しむわけではない。だが、そんな少なすぎる対価でこの二人が止まらないことは明らかだった。暗殺者として己の命と任務の達成を天秤の上に乗せ続けた彼には、己の命と違う方向に天秤の針が傾いていることを認めざるを得ないのだ。
 彼は、己の隣に座る、黒髪の少女の横顔を見た。縋るように見た。もはや、この二人の炎上を止める事が出来るのは、この少女だけだと思った。
 シェラの内心を読んだわけではあるまい。しかしウォルは、片頬を持ち上げるように笑いながら、ゆっくりと口を開き、言った。
 とても少女が発したとは思えない、獅子の唸るような声だった。

「おい。二人で勝手に話を進めるな。この会話は、俺の持ち物だ」

 微かな笑いを含んだその声が、かえってその恐ろしさを際立たせる。
 シェラは、またしても心臓に悪いほどの緊張感を味わうことになった。
 これでは、逆効果だ。炎を消し去るために爆弾を投げ込むようなものだ。ひょっとしたら爆風で炎は吹き飛ぶかも知れないが、しかし後に残されるのは火災以上の瓦礫の山である。
 この少女の内側に宿った魂が、かつて『軍神の現し身』と呼ばれた英雄のそれであったことにあらためて気付かされたシェラであった。
 
「お前たちが喧嘩をしたいなら俺は止めん。それほどに命知らずでもない。この家の外で精々派手にやってくれ。しかし、この体に関することで俺を抜きにして話を進めようというのは、俺とこの少女に対して、些か礼を欠くのではないか?」
「それもそうだ。すまない、ウォル」
「ごめんなさい、王様」

 意外なことに二人は素直に頭を下げた。
 シェラは少しだけ安堵した。しかしその直後、自分の甘さを思いしらされるはめになった。
 二人の、エメラルドとサファイアの具現たる瞳が、恐ろしい程に凪いでいる。それこそ、一切の感情を押し殺したように。それは、台風の中心部がしばしば無風状態であるように、この二人の激情がちっとも収まっていないことを意味していた。
 この一対の獣は、煮えたぎる胸中をそのままに晩餐会のにこやかなホストを演じることも出来るし、心の中で涙を流しながら無慈悲に刃を振り下ろすことも出来る。つまり、己が為すべきことを知っているのだ。
 彼らは容赦しない。彼らは自分が為すべきことだと判断したならば、いとも容易く再び刃を抜くのだろう。それが自らの相棒であったとしても。いや、それであるが故に。
 視線を外そうとしない二人を尻目に、シェラは再び気絶しそうなほどの心労を強いられていた。無音の圧迫感が、心臓を締め付けるようですらあった。
 しかし、その静寂も長くは続かなかった。
 ウォルが、ぼそりと呟いた。

「ラヴィー殿の質問に答える前に、リィよ。いくつか俺はお前に謝らねばならんことがある」

 その瞬間、少女の纏った雰囲気が、劇的に変じた。
 怒れる獅子から、許しを乞う憐れな人間へ。
 リィは一切表情を変えず、そして何事もしゃべらなかった。
 無言で続きを促した。

「まず、俺は無断でお前の名前を使った。この世界で目を覚まして、ここがどこか分からなかった時だ。とにかく、俺はお前に会わねばならんと思った。だから、今思えばあまりの軽率さに自分でも嫌になるが、お前の名前とラヴィー殿の名前を口にしてしまった。それがお前たちに、どのような危険を及ぼすかも考えずに、だ」

 少女は、心底辛そうに項垂れながら、言った。

「会えば、真っ先に詫びようと思っていた。全く、自分で自分が嫌になる。この世界においてもお前は異端者として扱われているということを、すっかり忘れていた。……いや、それは誤魔化しだな。正直に言えば、俺は恐ろしかった。この、一度も見たことのない人間の群れが。まるで自分と同じ生き物には見えなかったよ。だから、お前の名前に縋ってしまった。許してくれ」

 現に、事態はこの国の最高権力者の面会を招くほどのものになっていたのだ。
 たまたま全てのことが上手に運んだからいいものの、もしも彼が自分を捕らえて、この厄介な二人への交渉材料として使おうと考えたら?
 この二人がそう易々と屈服するとは思えない。しかし、今のウォルの体は、あちらの世界にいた頃よりも遙かに脆弱な、少女の身体になってしまっている。そんな自分が囚われの身になってしまえば、彼らから少なからぬ譲歩を引き出し、何らかの不利益を及ぼすことになったとしても何の不思議もない。実際、あちらの世界では何度かそういうことがあった。
 あのとき、リィは、正しく必死の思いでウォルを助けてくれた。自らにどんな危険が降りかかろうとお構いなしに、だ。きっと、この世界で同じようなことが起きたとして、リィは全く同じ行動を取るだろう。黒髪の少女は、そう思っていた。リィとルウの二人が知らぬ顔を決め込んで自分を見捨てることが出来るような完成された人格であるならば、こんな気遣いは無用だというのに。

「なるほど、それでお前はこの馬鹿みたいに広い世界で、おれを見つけることが出来たわけか」
「その通りだ。一歩間違えば、お前の身に累を及ぼしていたかもしれん。夫が家出した妻に会いに来るのに、その妻に頼り、しかもその身を危険に晒させるとはな。笑い話にもならん」

 後半は自嘲の響きに声を震わせつつ、黒髪の少女は深く頭を下げた。
 シェラは、内心で抗議の声を上げた。
 仮に、仮にである。自分がウォルと同じように、あるいはリィと同じように、右も左も分からぬ異世界に落っこちたら、どうするか。しかも、その世界には自分の信頼する知人がいるかも知れないとして、だ。
 茫然と座り込み一歩も動けなくなるか、精神を守るために呵々大笑するか、ハリネズミのように全方位を警戒して蹲るか。
 どれも違う気がする。
 きっと、自分の最も頼りにするその知人の名を叫んで、放浪するのではないだろうか。とにかく、その人に会おうとするのではないだろうか。少なくとも、その人がこの世界にいるのかどうかを確かめるまで、本当の意味での最初の一歩が踏み出せない、そんな気がする。
 だから、シェラはウォルの行動に批判する点を見いだせなかった。
 しかしリィは、口に出してはこう言った。

「……ウォルにしては、確かに軽率だ。そういうときは目立つ行動は避けて、出来るだけ時間をかけて情報を引き出していくべきだった。それに、もしこの世界がおれやルウのいる世界なら、お前が落っこちてきてどうして気がつかないと思った?今すぐに気がつけなかったとしても、絶対に異変には気がついたはずなんだ。そこまでおれは信用が無いか?それに、そういうことなら謝るのはおれだけじゃあないはずだな」

 言葉の端々に、苦み走った怒りがある。
 シェラは隣に座ったリィを窘めようとした。彼の言葉が、あまりに無慈悲なものに思えたからだ。
 だが、当のウォルは一切の不満を覚えた様子はなく、寧ろリィの言が当然というふうに頭を垂れている。今のウォルの風貌から、母親が大切にしていた化粧道具を悪戯でめちゃめちゃにしてしまい、叱責を恐れている少女のようであった。

「返す言葉も無い。教えて欲しい、リィ。俺は、お前とラヴィー殿を危険に晒したことに対して、どのようにして詫びたらいい?」

 その言葉に、リィの翠緑玉の瞳に、強い光りが宿った。

「勘違いするな、ウォル。おれは、おれやルーファが危険に晒されたなんて、ちっとも思っちゃいない。おれは、お前が自分の身を危うくした、そのことに怒っているし、そのことに謝罪を求めたい」

 部屋の片隅に座った、蒼玉の瞳の主からも、手厳しい声が飛んできた。

「そうだね、王様。別に、僕やエディなら、どんな連中が襲いかかってきても物の数じゃない。それは、あっちの世界であなたに語ったとおりだ。でも、僕達の大切な誰かが僕達の知らないところで傷つくのはどうしても防げない。防ごうとしたって限度がある。だから、自分の身は自分で守って欲しいんだ」
「折角おれの夫がこの世界に来てくれたのに、再会したら冷たい死体になってました、だと?そんなの冗談じゃない。後悔したって後悔しきれないぞ。お前は、またおれに大切な人の消えていく、あの嫌な感触を味あわせたいのか」
「王様。僕からもお願いするよ。あなたは、もっとあなたの体を大切にしてね」

 先ほどまであれほど険悪だった二人から、ここまで見事に息のあった調子でお説教されてしまうと、咄嗟に返す言葉も見つからない。
 ウォルは一度口を開き何事かを言いかけたが、そのまま口を閉じて黙り込んだ。
 ことここに至って、シェラも気がついた。この二人は、真剣にウォルを責めているのではない。
 ウォルは、この世界に来てまだ日が浅い。いわば、生まれたての赤子にも等しい無力さだ。それは、優れた武技や腕力よりも、知識や常識のほうが強いこの世界であるから尚更である。彼が、もとの戦士の体から少女の体に変わってしまったというのもあるかも知れない。
 この二人は、心の底から、この少女のことを案じている。
 自分達は大丈夫だから今は自分の身を守るために全神経を使って欲しいという思いと、その程度で謝罪は不要であるという言外の意志。その二つが混ざって、このような表現になったのである。
 彼らからの叱責を浴びた当の少女も、そのことに気がついたのだろう。自嘲の嗤いをただの苦笑に入れ替えると、あらために無言で頭を下げた。それが、この件に関して言えばきっと最後の謝罪になるのだろうから、二人も何も言わなかった。
 顔を上げたウォルは、その二人、リィとルウを等分に視界に収め、再び口を開いた。

「もう一つ、あるのだ」

 まだあるのか、とリィは言わなかった。
 先ほどと同じように、無言で続きを促した。

「俺はお前の名前を口に出したその翌日に、この国の王と顔を合わせた。無論、俺から会いに行ったのではない。あちらから、ほとんど懇願にも近い様子で俺の方に面会を求めてきた。その時点で、俺はお前たちがこの世界でどういう存在か、思いしらされることになったがな」
「それは、マヌエル・シルベスタン三世という、壮年の男か」
「ああ、そうだリィ。ただ、壮年というには少し老けている気がしたが」

 それは、この金と黒の天使たちが、彼の相貌から若々しさを奪い取った結果である。
 セントラル星系爆破未遂事件の前と後で、マヌエル・シルベスタン三世の顔に刻まれた皺の数とその頭髪を飾る白いものの数は、倍近く増えてしまったともっぱらの噂であった。
 星一つが壊滅の憂き目を見かけた自然災害・・・・に直面したのだから無理もないと事情を知る人は言う。しかしその実、未だ政治家としては若造の部類に入れられていた彼の顔に、よく言えば威厳、悪く言えば老いをもたらしたのが、たった二人の青年と少年であることを世間は知らない。

「彼は、俺がお前の配偶者であることを知って、その上で尋ねてきた。その彼が言うのだな。まずはこの資料を見て欲しい、と」

 当然、それはリィのプライバシーのうち、もっとも繊細な部分の一つだとウォルは思っていたから、全てを承知しているだろうルウはともかくとして、シェラの前で話をしていいものかと逡巡した。だが、当のリィが視線で続きを促したから、そのまま話した。
 ぽつりぽつりと、石ころを吐き出すように、ウォルは語った。
 己が見た資料の全てを。
 そこに何が書かれ、彼が何を見て何を思ったのかを。
 それを聞いたシェラは、あらためてはらわたが煮えくりかえるとはどのようなことを差すのか、実感として理解した。ウォルが語ったのは三年前の出来事、彼の敬愛するリィが、口にするのもおぞましい実験の被験者として供された、許されざるべき愚行の顛末だった。
 一通りのことを語り終えたウォルは、目の前のテーブルから、ウイスキーで満たされたリィのグラスを引っ掴むと、琥珀色の液体を無造作に喉に流し込んだ。 
 アルコールに濡れた息を吐き出しながら、言った。

「リィ。俺は虜囚の辱めを受け、この世の地獄と思えるような拷問を受けたこともある。しかし、それですらがお前たちが受けた苦しみに比べれば児戯に等しかった。この世に、これほどおぞましいことがあっていいのかと、そう思った。こんなことが許されるのならば、この世界に神も正義もあったものではないと、心底そう思った」
「終わったことだ」

 リィは、何の感情も含めずにそう言った。
 事実、彼の中でそれは終わった事件であった。無論、忘れたとか思い出したくもないとか、そういう意味ではない。
 彼にとってその事件は、確かに恥辱であった。体を辱められた意味で、という以上に、敵の手管に翻弄されてしまった、という意味でだ。無論、大事な用事を抱えていた相棒の手を煩わせたという負い目もある。
 復讐の対象である、研究者やリィの家族をだしにして卑劣な脅迫を行った実行者は、軒並みリィの相棒たる黒い天使の怒りに晒されることとなった。きっと彼らは今でも己の死を希い、地獄の底辺を這いずり回っているのだろう。その点について、リィは何の感慨も抱かない。当然の報復だ。もしもリィとルウの立場が逆転すれば、彼も同じ復讐の刃で敵対者を切り刻むだろう。
 そして、正しくウォルが目にした資料に記されているとおり、その一件を発端として怒り狂ったルウが惑星セントラルを含む星系一つを吹き飛ばそうとするのを止めるため、容易ならざる事態が起きたのは事実である。しかしその後のダイアナの報告によれば、少なくとも今回の事件のようなかたちでリィの生体細胞が保存されていることは考えられない、とのことだった。
 人も機械を含む全ての関係者が、この事件をもはや必要としていない。何より、こんなくだらない一件で、相棒の瞳が曇るのは絶対に嫌だ。リィはそう思っている。
 それに、覚悟もある。もう二度と、あんな醜態を晒してたまるかという覚悟だ。敵は自分に対してどのような攻撃方法が可能で、それを防ぐためにはどのような戦術が有効か、それを学ぶために、彼はシェラと共に学校に通い、勉学に日々を捧げている。『故曰、知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆』とは既に使い古されてカビ臭くなってしまった格言ではあるが、人間が考えたにしては珍しく、完全な真理であるとリィは思っている。
 事態の再発を防止するための策を練り、関係者への恫喝と当事者への報復を済ませ、採取された標本の全てを処分する。その時点で、リィにとってこの事件は、過去のものとなっているのだ。
 しかしウォルは、先ほどにもまして沈痛な面持ちで言った。

「いくら終わったこととはいえ、俺はお前の過去を、お前の許しもなく見てしまった。おそらく、お前にとって痛みを伴う過去だ。ならば、お前から許しを得るまで、俺は到底俺自身を許してやれそうもない。だから、すまない、リィ」

 リィは、大きく溜息を吐き出した。

「変なところできっちり筋を通そうとするのは、お前の美点でもあるが欠点でもあるな、ウォル。でも、そこまでお前が求めるならおれの答えは一つだけだ。なぁ、ウォル。おれとお前は夫婦だろう。普通の夫婦なら、互いの過去くらいはある程度知っていても不思議じゃないはずだ。だから、おれはお前がおれの過去を知ったくらい、なんとも思わない。だからな、ウォル、おれはお前を許すことが出来ないんだ。だって、そもそもお前は許しを乞う必要があるようなことを、何一つしていないんだからな」

 貴方達を普通の夫婦と言っては、この世に星の数ほどいる普通の夫婦に申し訳が立ちませんと、シェラは心の中で呟いた。しかし、彼の隣で輝かしい微笑みを浮かべる少女を見れば、何も言えなくなってしまった。

「すまない、リィ。お前の――我が妻の寛容に感謝する」

 再びリィは苦笑した。
 この分だと、この男は――今は少女だが――自分と別れたときからちっとも変わっちゃいない。この分だと、バルロやイヴンも相当に苦労しただろうなと、この場にいない異世界の友人たちを、少しだけ気の毒に思った。

「いいってば。それに、この世には神も正義も無いさ。あるのは、勝者と敗者だけだ。それはむこうの世界だって変わらないだろう?」
「いや、神はいた。極めつけに口が悪く、ちっとも女とも思えない戦女神だったが、しかし神には違いあるまい。常に隣にいた俺が言うのだ。間違いないぞ」
「隣にいる奴だからこそ間違えることもあると思うんだがなぁ」

 戦女神と呼ばれた少年は、明後日の方向を見ながら鼻の頭を掻いていた。
 それを見て、シェラとルウは、少しだけ微笑った。
 そんな二人を少しだけ険の篭もった視線で黙らせて、それからリィは言った。

「ちなみに、他にもあるのか?」
「いや、これだけだ」
「なら、次はおれの番だな」

 金髪の少年は、姿勢を正し、そして目の前の少女に質問した。

「おれからも聞きたい。お前はさっき、『お前たちが受けた苦しみに比べれば』、と言ったな。『たち』とは、一体どういうことだ。お前の知り合いの中で、おれ以外の誰が、あんなキチガイじみた実験の犠牲者になった?」

 シェラはその身を固くして、ウォルの言葉を待った。
 ルウは、先ほどの緩みかけた頬を再び無表情に戻して、ウォルの言葉を待った。
 リィは、やはり無言でウォルの言葉を待った。
 三対の瞳が頬に突き刺さるのを感じながら、少女はゆっくりと口を開いた。

「……順序として、まずラヴィー殿の質問から答えよう。確か、この子の魂が、今、どこにいるのか、だったな」

 ルウは、死人のような表情のまま、頷いた。

「この少女の魂は、卿らの世界でもない、俺の世界でもない、どこかわからない場所にいる。そこで、可哀想な魂を飴玉にしながら生きていると、本人はそう言っていた」
「そんなところ…」
「後半の部分はおそらく嘘だと思う。何故なら、あの子は優しかった。それだけは間違いない」

 ルウの手が、無力感に戦慄いた。彼の長い手も、自分の知らない場所には届かないのだ。それがこの世界の外であるならば尚更である。
 それを見た黒髪の少女は、ゆっくりと首を横に振った。

「ラヴィー殿。あなたが気に病むことではない」
「でも、でも……そんなの、ひどすぎる……」

 ルウは、己の苦しみのように呻いた。
 短いその遣り取りを見て、シェラは得心がいった。
 先ほどのルウの、禍々しい有様。あれは、怒りではなかったのだ。この人の感情を推し量ることは極めて難しい。難しいが、しかし敢えて名付けるならば、それは後悔という名になるのではないだろうか。
 では、この人は、一体何に後悔しているのか。
 そして、もう一つ、シェラには分からないことがあった。

「……あの、ルウ」
「……」

 部屋の隅で蹲った格好のルウは、シェラの言葉に、顔を上げることで応えた。
 その粘ついた視線にたじろぎながら、しかしシェラは己の疑問を口にした。

「あの……こういう問い方が正しいのかどうかはわかりません。わかりませんが、先ほどのお二人の会話を聞いていると、今、我々の前にいる陛下が、陛下ではないように聞こえるのですが」
「……違うよ。この人は、確かにあの世界の王様だ」

 少女も頷き、そして言った。

「俺は俺だ。それは見れば分かって貰えると思うのだが」
「はい、それは承知しております。しかし……陛下のお身体は、陛下ご自身のものではないのですか?」

 シェラの疑問に、ウォルは当然のことのように首肯した。

「当たり前だ。シェラ、お前も知っているとおり、俺は男だぞ」
「はい、それは勿論。でも、例えばリィと同じように、何者かの意志、あるいは偶然でその性別が変わってしまったのではないかと思っていたのですが……」
「では逆に問うがな、シェラ。お前の目から見て、俺は以前の俺と同じ人間か?」

 シェラはあらためてウォルの顔をまじまじと見つめ、数瞬の思考の後に首を横に振った。
 今シェラの目の前にいるのは、年若く美しい少女である。それは、あちらの世界のリィがそうであったのと同じように、だ。
 しかし、リィの場合とウォルの場合では、決定的な違いがある。
 リィの場合は、その身体が男性であったときと女性であったときで、本質的な違いがない。同一人物だから当然だと言ってしまえばその通りなのだが、細かい骨格や肌の質などは全く同じ質感であった。
 それに比べると、今のウォルとあちらの世界のウォルが、どうしても同じ人間には思えないのだ。勿論彼を象徴する夜空のような漆黒の瞳、それと同じ色の艶やかな黒髪は同じものである。しかしそれ以外の部分、例えば小振りで整った鼻や、ひとひらの花びらが如き唇、華奢な体つきなど、どうにも違和感がある。
 もとが美丈夫であったウォルであるから、その性が入れ替われば相当に目を引く顔立ちになるのは間違いないだろうが、それにしても差違が大きすぎる。とても同一人物とは、この時代に即して言うならば、同じ遺伝子から形作られた体とは思えないのだ。
 それ故に、シェラは初対面の時、この少女がリィの夫であるとは気づけなかった。その後の醜態の原因もそこらへんにあるのだが、シェラにとっては思い出したくもないことである。
 それらを全て踏まえて、シェラは言った。

「正直に申し上げます、陛下。私の目には、以前のお姿と今のお姿が、とても同じ人間には見えません」
「それが正解だ、シェラ」

 少女の姿をしたウォルは、重々しく頷いた。

「この体は俺のものではない。俺はあちらの世界から、魂だけでやってきた。そして、こちらの世界とあちらの世界の狭間のような場所でな、一人の少女と出会ったのだ」

 ウォルは、その世界で出会った少女、自らをウォルフィーナと呼んだ少女との邂逅の全てを語った。
 そして、少女の身体に宿った後で追体験した、少女の短い人生の全ても。
 痛いと、つらいと、寂しいと。
 語り終えるのに、そう時間はかからなかった。語るべきことが、余りに少なすぎたからだ。少女にとっての人生とは、そういうものであった。
 全てを聞き終えた三人は、一様に押し黙った。
 シェラは、怒りに身を震わせていた。このような非道が行われていいのかと、自問しているのかも知れなかった。
 リィは、どこかぼんやりと、宙空を見つめていた。誰よりも少女の苦しみを理解できているはずの彼だったが、その瞳にシェラほどの熱はない。
 そしてルウは――。

「俺はな、リィ。情け無いことだが、怒りよりも先に恐怖があった。俺が体験したのが視覚と聴覚だけで、痛覚を伴わなかったことを、神に感謝してしまった。少女の悲鳴を聞き、吐血の赤さを見ながら、それが我が身に降りかかったことでないことを安堵してしまった」
「ウォル。そんなことで自分を蔑むな。それは、人間として当然の反応だ。他人の痛みを敢えて体験したがるなんて、変態かそれとも頭のいかれた宗教家くらいのものだぞ。おれだって、二度とあんな目に遭うなんて御免なんだからな」
「分かっている。分かっているが、それでも情け無い。あまりに情け無い。そうは思わんか、リィ。十年間だ。十年間、あの少女は泣き叫び続けた。誰に聞き入れられるはずもない慈悲を、許しを乞い続けた。罪なき許しを乞い続け、その身を凌辱され続けた。そんな彼女を見て、全身の皮膚を剥がされ赤い芋虫のようになった彼女の姿を見て、男の俺が感じたのが、怒りよりも先に安堵だったのだぞ。そんなの、許せるか」
「ゆるせ――ないよ。そんなの、ぜったいに、ゆるせない。ゆるしちゃいけない」

 黒い天使が、立ち上がった。
 その口元に、切れるような微笑みを浮かべつつ。
 その視線に、那由他の不吉を孕ませつつ。
 シェラにはその姿が、巨大な鴉の羽撃く様に見えた。
 
「なら、一緒に行こう、王様。この子の魂に、尊厳と安らぎを取り戻すためには、誰かがやらなくちゃいけないんだ」
「おい、ルーファ。どこに行くつもりだ」

 リィも立ち上がった。
 その翠緑石の瞳に、先ほどとは比べものにならない程の烈気を孕ませながら。

「決まっているじゃないか、エディ。正当な復讐だ。この子の尊厳を踏み躙った連中に、報いを与えるんだ」
「馬鹿をいうな。あのときとは違う。この子はお前の相棒じゃない。お前に、そこまでする権利は無い。それにルーファ、お前、何でそんなに怒っている?おれにはお前の怒りがちっとも分からないんだ。説明してくれ」
「なら、ただの意趣返し、八つ当たりと理解してもらっても構わない」
「そんなくだらない理由で、お前に人を殺させわけにはいかない」

 ルウは、静かに目を閉じた。
 そして、心を落ち着けるように大きく息を吸い、吐き出し、それから瞼を持ち上げて、言った。

「エディ。この子はね、君の妹なんだよ」



[6349] 第十三話:狼女の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/08 01:07
 シェラがその言葉を理解するのに、たっぷり十秒は要した。
 その間、彼の回りの人間は、多分何にも話していなかったはずだ。とても音声を聞いてそれを脳内電気信号に変換する余裕などはなかったが、しかし彼らの唇が動いていなかったことは何となく覚えている。
 唖然とした表情を浮かべたままのシェラが、自らの疑問を口に出来たのは、それから更に十秒は経過した後だった。

「……その、ルウ。今、あなたは何と言いましたか?」

 シェラにしては微妙な言葉遣いである。
 立ち尽くした黒い天使は、当然それを咎めることもなく、ゆっくりと口を開いた。

「言葉通りだよ、シェラ。今、王様が間借りしてるこの体のもとの持ち主、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン――ウォルフィーナは、エディの妹なんだ」

 あらためてその言葉を聞いたシェラは、乾ききった喉を潤すために唾を飲み込もうとしたが、しかしからからに乾いた口中に、一滴の水分も残されていなかった。
 唖然から愕然とした表情に様変わりしたシェラの顔を横目に、リィは落ち着いた調子で言った。

「生憎だがな、ルウ。おれは妹なんていうものを持った覚えはないぞ。無論、デイジー・ローズ以外、血縁的にもおれの妹に当たる人間はいないはずだ」
「そうだね、エディ。そのとおりだ。でも、この子は君の妹なんだ。少なくとも、この子はそう思っている」
「片方が思い込めば、血縁関係ってのは勝手に出来上がるものなのか。随分簡単なものなんだな」

 リィは皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。
 冗談めかした言い方であったが、その底にひやりと冷たい金属質なものがある。この少年にとってそれが如何なる感情を顕すものなのか、その場にいた全員が痛いほどに理解していた。
 しかしルウは、なおも続けた。その瞳に、呪いめいた鈍色の光を湛えたままで。

「聞いて、エディ。確かに、厳密な意味で言えば君とこの子との間に血の繋がりはない。でもね、そもそも血縁ってなにかな?それは人という種族の中で、どういう意味を持つの?」
「おれにとっての肉親は、アマロックだけだ。人にとっての血縁は、法律的に言えば互いを扶助し合う義務を持ち、いずれかが死んだときにその財産を相続する権利を有することになる。付け加えれば、この国の法律で言えば、三親等以内の親族及び直系血族と、並びに養親と養子間の婚姻は多角的な理由から禁止されているな。医学的に言えば、近親相姦によって生まれた子供には畸形や障害など、遺伝的な障害を持つ可能性が高いことから忌避の対象になる。細かいところを除けばそんなところか?」

 すらすらと述べたリィであるが、シェラとウォルには半分以上何の事か分からない。
 彼らは、特にウォルは、この世界に来てから日が浅い。まだまだ日常生活以上の単語、特に専門分野の単語にはついていくことが難しい。そして今は、その単語の意味を一々聞いていられない雰囲気である。
 そんな二人とは違い、おそらくリィの言葉の全てを理解しているであろうルウは、無表情のまま続けた。

「エディ、君の意見は正しい。じゃあ、こういう場合はどうだろう。例えば、陶磁器だ。これには時代の移ろいによって、あるいは技術革新によって、多種多様な品物がある。土器、陶器、炻器、磁器の大別のうちに、青磁に白磁、マヨリカやマイセンなど、細かく分けていけばきりがない」
「話の趣旨が見えないぞ、ルーファ。手短に頼む」
「これからだよエディ。で、だ。それだけ多くの種類がある陶磁器の中に、何故か二つしかない壺があるんだ。それはとても素晴らしい品で、同じ時代に作られたものなのは間違いない。でも、それが一体どうやって作ったものなのかは今となっては分からないし、再現することも出来ない。そもそもどういう体系の技術から生まれた品なのかすらも分からない、全く謎の品だ。それが、たった二つだけある。こういう場合、人はこの二つの壺のことを、なんて呼ぶだろうね?」

 ルウはそこで一旦話を区切り、自らの相棒の反応を確かめた。
 金色の髪を持つ少年は、その表情に一切の変化を見せることなく、ルウの前で佇んでいた。

「この例が分かりにくければ、こういうのはどうだろう。ここにさる名工の打った剣がある。しかしその名工の打った剣はほとんどが失われて、世界に残っているのはたった二本だけだ。でも、片方は長剣で、片方は短剣、一見すれば同じ種類の剣には到底思えない。それでも、その剣はやっぱり同じ人が打った剣なんだ。この場合、人はその二本の剣をなんて呼ぶ?」
「わかったよ、ルーファ。多分、夫婦とか兄弟とか、そういうふうに呼ぶんだろうな。勿論、その二つが正式に結婚したわけでもなければ、全く同じ材料から作られたわけでもない。似ている、あるいは同じ人間の手によって作られた、それだけの理由で、だ」

 リィは、降参というふうに手をあげた。
 その様子を見て、ルウは少しだけ微笑った。

「無茶苦茶な理屈なのは百も承知だよ。でもね、エディ。この子と君も、同じなんだ。この子は、間違いなく君と同じ生き物だったんだ。この世に、たった二人だけの、ね。だから、そこに血の繋がりがなくても、君たちは兄妹だったんだ」

 その言葉に、部屋に居た人間の全てが絶句した。
 ただ、ルウだけが、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。

「エディ。僕は、君に気づくことができた。でも、この子には気づけなかった。それは、僕が君を捜し求めていたというのが一番大きな理由だけど、この子が君ほどに外れた力を持っていなかったからだ、というのもある。そうでなければ、僕じゃなくても、誰かが気付いていたはずなんだ」

 ルウの唇の端から、つうと赤い線が垂れ落ちた。
 ぎしり、と歯を噛み締める音が響く。誰か、この場にいるうちの誰かが、自らを呪い殺すほどの怒りと闘っていた。

「この子に出来たのは、精々重いものを持ち上げたり、馬と同じくらい速く走ったり、人より物覚えが早かったり、それくらいだったはずだ。もしかしたら鉄をねじ曲げるくらいは出来たかも知れないけど、そんなことは機械を使えば誰だって出来ることだ。それでも、普通の人間には十分過ぎるほどに脅威だったんだろう。だから彼女は、両親に捨てられた」

 ルウの視界には、まるで自分が見たことのようにこの少女が味わったであろう人生の一端が映り込んでいた。
 最初は、自分の子供の成長を本心から喜ぶ父親と母親。彼らにとって、他人の子よりも早く目を開けた愛らしい赤ん坊は自分達の誇りであり、正しく天使のように映っただろう。その子が自分達の間に生まれた幸運を噛み締めさえしたかも知れない。
 しかし、その子供が生まれて二週間で言葉を話し、母親に愛していると囁く。
 一月で歩き回り、やがて馬と同じような速度で走り回る。
 自分達の庇護が無くても獲物を捕まえ、知らぬ間に生え揃った乳歯でいとも容易く噛み砕く。
 難解とは呼べないにせよ、本を読み、算数の問題を解いていく。
 そこまで来て、自分の子供は天才だと喜べる脳天気な親がどれだけいるだろう。おそらく大半は、自らの血を分けた子供を恐れ、そしてこれから自分達はこの子供を育てていけるだろうかと悩むはずだ。それが当然の反応である。
 そして、そういう意味で、ウォルフィーナの父母は、一般的な人間だった。極めて常識的で、理知的で、模範的な人間だった。だから、自分達の手に余る事態は、自分達以外の専門家に相談することにしたのだ。
 それが、自分達の愛するわが子の幸福に繋がると、強く信じて。
 彼らは、ウォルフィーナを愛していなかったわけではない。むしろ、彼ら以外の夫婦が我が子に注ぎ込む以上の愛情を持っていた。だからこそ、彼らは自らの子供を手放したのだ。自分達のもとにいるよりも、この子には相応しい場所と相応しい教育があると、疑うことすら知らずに。

「なら、こいつは、ルーファに会うことの出来なかった、おれなのか」

 リィは、少なくとも外面には一切の動揺を見せずにそう言った。
 事ここに至っても、彼の神経のほとんどは、怒りに狂い始めている己の相棒を止めるために注がれている。そのせいで、それ以外の雑事を精神的にシャットアウトしているのだ。
 問題は、それが意図して行ったことなのか、それとも無意識に行ったことなのか、だろうか。
 そんな金色の戦士を前にして、ルウは首を横に振った。

「エディ、そんなことは考えちゃいけない。僕が君に気がつかなかったとしても、アーサーもマーガレットも、君を恐れながらも愛しただろう。君は、ことあるごとに傷つきながらも、それでも真っ直ぐに育っていたはずなんだ。間違っても、彼らは君を手放したりしなかった。それだけは絶対だ。あの二人は、そういうことが出来る人間じゃあない。ただ、この子は、そういう幸福に恵まれなかった。この子の両親は、きっと標準的な人間だった。だから、誰かがこの子は人間じゃあないことに気がついてあげないといけなかったんだ。それなのに…」
 
 誰も気付いてやることが出来なかった。
 いや、それは正確ではない。
 少女が人間ではないことに、確かに気がついた者はいた。問題は、それが少女にとって、幸福をもたらす存在ではなかったという点だ。
 結局少女は研究所の薄暗い一室でその一生を終え、たったの一度もエドナという本名で呼ばれることはなかった。それどころか、苦痛と屈辱と、もう一つ以外の、如何なるものも与えられることも無く、その手は最後まで誰に握りしめられることもなかった。
 無惨な、語弊を恐れずに言うならば、無惨な生であった。
 そして、少女に与えられた、もう一つのもの。
 それは、狼女ウォルフィーナという、呪わしい名前であった。

「きっと、王様の魂が宿る前、この子の髪の毛は輝くような金色で、瞳は宝石みたいな碧色だったはずだ」

 ルウは、一握りの疑いもなくそう言った。
 その生き物は、そういう外見であるべきで、そしてそれは完全な事実であった。
 しかし、無情な声がそれを否定した。

「ラヴィー殿。生憎だが、俺が見た少女の髪は新雪のような白だったぞ」

 ルウの蒼い瞳が、驚愕に開かれる。

「…そんな…うそだ…」
「嘘ではない。そして瞳も、辛うじて色素を残したような弱々しい茶色だったぞ」

 ルウは狼狽というより、ほとんど恐怖に近い表情を浮かべて後退った。
 そして、絶望の吐息と共に天を仰いだ。

「あぁ…」

 天井を向いたそのなめらかな頬を、一粒の水滴が伝った。

「酷すぎる。一体何をどうやったら、あの輝きが抜け落ちてしまうんだろう。想像も付かない。そんなの、絶対に許せない。断じて、許しておいちゃいけない」
「あなたの言うとおりだ、ラヴィー殿。しかし復讐は、誰よりもこの子が望んでいない」
 
 ルウは、濡れた瞳にほとんど殺気に近い敵意を込めて、発言者を射貫いた。
 ウォルは、後退りしそうになる体を、丹田に力を込めることで強引にその場に繋いだ。
 こめかみを伝う冷や汗をそのままに、内心で思った。全く、これならば飢えた獅子の前に素手で放り出されたあのときの方が、幾分生きた心地がした、と。
 実際、ウォルがこれほどの圧迫感を感じたのは、彼女の行為によって怒り狂った王妃を目の前にした、あの時以来であった。
 
「ねぇ、王様。一つ聞いてもいい?」

 魔王の要求を、一体誰が退けることが出来るだろう。

「ああ、存分に」
「あなたは、一体どんな権利があって、この子が復讐なんて望んでいないと、言い切ることができるのかな?」
 
 表情こそにこやかな黒い天使は、その蒼い瞳の奥に、同じように青く輝く炎を滾らせながら、そう問うた。
 その怒りが自分に向けられたものではないと知っていても、しかしウォルはたじろいだ。たじろがざるを得なかった。それほどに純粋な害意だった。
 しかし、だからといってここで自分が引いていいはずがなかった。ここだけは、自分が受け持たなければならない、守護しなければならない要衝である。ここが落ちれば、あとは無惨な敗北が待ち受けているだろうことを、現世における軍神と呼ばれた少女は理解していた。

「おい、ルーファ。お前、自分でどれだけ理不尽なことを言っているか、分かっているのか?」
「僕は、当然のことを言っているだけだ」
「なら、さっきも言ったが、そもそもお前がその子の復讐を肩代わりする権利はどこに求めるつもりだ?もしその子がおれの妹だったとして、それがお前の正当な復讐の根拠になるのか?」
「エディ、僕もさっき言ったはずだよ。これは意趣返し、もしくは単なる八つ当たりだって。それに、君は自分の妹がこんな目に遭わされて、怒りを感じないの?悔しくないの?」

 立ったままの二人の瞳の間に、不可視の火花が飛び散る。
 リィの腕が、そしてルウの腕が、少しずつ持ち上がり始めた。これは、この二匹の獣が、戦いを始める準備のようなものだ。
 いけない。この二人を争わせるわけにはいかない。そう思ったシェラは、思わず飛び出していた。そのまま何をするつもりだったのかは分からないが、とにかく黙って見ていていいはずがなかった。
 しかし、シェラの細い肩を、それよりもさらに細い手の平が押しとどめた。
 シェラが振り返ったそこには、万軍を前にして少しも怯まぬ、王がいた。人の形をした獅子のみがもつ、黒い瞳があった。

「ラヴィー殿」

 交差する二人の視線、その交差点にしなやかな肢体を躍り込ませた、一人の少女。
 自分の前にいるのは、完全武装の重装騎兵一万騎よりも遙かに恐ろしい相手だと言うことは重々承知している。
 それでも少女は、二本の足で確と相対した。

「どいて、王様。ここは君の出る幕じゃあないよ。引っ込んでて」
「そうだぞ、ウォル。今のルーファを相手にするのは、いくらお前でも分が悪い。そんななよついた腕じゃあ尚更だ。怪我をしたくなければ下がっていろ」
「誰を相手に口を利いている、リィ。俺は、バルドウの娘の夫だ。お前はそんなことも忘れてしまうほど、たった一年に満ちぬ時間で耄碌したのか」
「ウォル……」

 少女の小さな背中は、まるでそこに根を生やした大樹のように動かなかった。
 リィはそこに、ただ一人、自分を守るために敵に胸を晒し、己に背を預けた男の影を、確かに見た。
 一つの国と、そこに住む全ての人達の重さを担いで、少しも揺らぐことのなかった背中。まさか、それを再び見ることが出来るとは思わなかった。
 リィは、万感の想いを込めてその肩を一度叩き、それから深々とソファに腰掛けた。
 この喧嘩は預けたぞと、そういう意思表示であった。

「すまん」
「謝るな。骨は拾ってやるさ」
「縁起でもないな。忘れたか、俺は一度お前に勝っているのだぞ」
「そうだな、一週間ものも食わずに、丸一日以上眠りこけて目が覚めたばかりのおれに、ボロ雑巾みたいにされてたな。でも一言断っとくが、素手なら確実におれよりルーファの方が強い。前にも言ったが、あいつは片手で人の首を握りつぶす。忘れるなよ」
「それはぞっとせんな」

 ぞっとした様子もなく、少女は朗らかにそう返した。
 しかし、その程度のことで目の前の脅威が消え失せるはずもなく。
 そこには、不吉な紅色のくちびるを、くいと持ち上げて嗤う、黒い天使がいた。

「お話は終わり?」
「ああ、終わりだ。そして、この不毛な争いもな」

 少女は、無造作に一歩を踏み出した。
 一切の構えを取らず、仲の良い友人を迎えるような、何気ない足取りだ。
 とても、今から決死の戦いをしようという様子には思えず、そしてそんな気配もない。
 ただ、無造作に歩いていた。
 それを見て、ルウは唸った。唸り声を上げて、威嚇した。
 本物の獅子であっても飛んで逃げだすであろうその声に、しかし少女のかたちをした獅子は怯む様子すらない。
 相変わらず、気さくに歩いてくる。
 ルウは、後退った。何故自分が後退らなければいけないのか、それすら分からぬままに後退った。
 やがて、彼は理解した。何故、自分の足が勝手に動いているのか。
 恐怖、していたのだ。
 無論、目の前の、華奢な少女に。花柄の、白いワンピースを着飾った、弱々しい命に。
 自分が、例え中身が何であろうと、このような少女に、いや、そもそも人間にここまで気圧されるなど、考えられることではなかった。
 それでも、彼の足は勝手に、少女の歩みとほぼ同じ速度で後退っていた。
 呼吸が浅く速くなり、汗が自分の意志ではなく流れ落ちる。
 彼は狼狽していた。無論彼とて生き物であるから、生命の危機には緊張も恐怖もする。しかし、このように弱々しい存在に恐怖を覚えるなど、あり得べき事ではなかった。
 やがて、ルウの背中を何かが叩いた。
 部屋の壁であった。

「――こないで」
「何を怯えている、ラヴィー殿。あなたならば、痛みを感じさせる暇もなく俺を屠り去ることが出来るだろうに」

 明らかな恐怖の視線で少女を見ながら、蒼い瞳の青年は怯えていた。
 これが先ほどの悪鬼羅刹が如き気配を放っていた黒の天使とは、同じ人物には思えなかった。反対に、少女はまるで水を得た魚だ。その背中から、狼煙のような気魄が昇り立っている。
 これでは、一体どちらが人間で、どちらがバケモノか分からない。
 リィは、内心で自分の配偶者に対して畏敬の念を捧げていた。
 そして、ルウは、部屋の四隅に、完全に追い詰められた。

「こないで……」
「そういうわけにもいかん。俺と卿は、ただ今喧嘩の真っ最中なのだ」

 少女は微笑みながら、更にもう一歩踏み出した。
 ルウは、その少女が怖かった。何故怖いのか分からない。
 その、どこまでも深い漆黒の瞳も怖かったし、ちっとも感情を読み取れない微笑みも怖かったし、自分を恐れずに前のみを歩くその足も怖かった。
 結局、少女の存在そのものが怖かった。
 だから、彼は当然の行動を取った。

「こないでっ!」

 闇夜に怯えた幼児のように、腕を振り回す。
 それは怒りにまかせた、というよりも恐怖に身を委ねた、発作的な行動だった。
 しかし、その速度と威力は、当然のことながら幼児のそれではない。
 躱し損ねたウォルは、ルウの細腕にはじき飛ばされ、部屋の端から端まで、文字通りに吹き飛ばされた。少女の軽々しい体が宙を舞い、そのまま反対側の壁に叩き付けられた。
 凄い音が、ドレステッド・ホールの百を超える全ての部屋に響き渡った。
 階下で、誰かが慌てて部屋を飛び出し、そのまま階段を駆け上ってくる音が聞こえた。
 部屋のドアが、けたたましく打ち鳴らされ、外から予想通りの声が聞こえた。

『おい、エドワード!今の音は何だ!?』

 聞き馴染みのある生物学上の父親の声に、相変わらず悠々とソファに腰掛けたリィは、悠然とした声で答えた。

「すまない、転んだ」

 あまりに冷ややかな声に、かえって激昂したようすのアーサーがなおも叫ぶ。

『馬鹿を言うな、今のが転んだ音だと!?この部屋には象かシロクマでもいるというのか!?』
「ああ、そういうことで構わない。だから、入ってくるな。もしも入ってきたら、おれは永遠にお前を許さないぞ」

 扉の向こうから、ぐっと言葉を詰まらせた気配が伝わってきた。
 数瞬空隙があって、絞り出すような声が聞こえた。

『……エドワード。僕はお前を信頼していいんだな?』
「おれをエドワードと呼ぶな。それとアーサー、お前は自分の息子を信じることが出来ないのか?」
『僕の息子だっていう自覚があるなら、もっと息子らしくしろ!』

 大爆発したが、それもいつものことである。
 こんなこと、リィにすれば軽いスキンシップよりもさらに軽い挨拶のようなものなのだが、その度にアーサーは期待通りの反応を返してくれるから、つい意地悪く繰り返してしまう。
 しかしこの場合はそれが功を奏したのだろう、いつもと全く変わらない様子のリィに、アーサーは安堵の吐息を漏らしてしまった。

『……あとで、事情は話してもらうぞ、エドワード』
「ああ、必ずだ。約束するよ、アーサー」
『約束だ。それと、僕のことはお父さんと呼べ』

 捨て台詞と呼ぶにはあまりに微笑ましい台詞を残し、アーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインは階下に姿を消した。

「すまんな、リィ。恩に着る」

 ようやく体を起こしたウォルが、口の端に滲んだ血を拭い取りながら言った。

「ふん。さっさと片を付けろ、ウォル。それとも、交代するか?」
「無用の心配だ。自慢ではないがな、この体はこの程度ではない一撃を喰らってもきちんと生きていたのだ。流石にぴんぴんしているとは言えなかったがな」
「へぇ?」

 リィは軽い驚きの声を上げた。

「なんだ、お前、早速車に轢かれたのか?それとも、まさか本当に象やシロクマと喧嘩でもやらかしたのか?」
「まぁ、そんなところだ」
 
 リィのその予想は、ある意味で的を射ていた。身長221㎝体重160㎏の巨漢は、正しく象かシロクマかという程に大きく見えるのだから。
 そこまで考えてウォルの頬は苦笑のかたちに歪んだが、それ以上何も言わなかった。何も言わず、先ほどと同じようにゆっくりと歩を進め、先ほどと同じ場所――部屋の隅でがたがたと震えるルウのところまで歩いて行く。
 足取りは、流石に重たい。重たいだけでなく、左足をひょこひょこと跳ねさせるように歩いている。おそらく、先ほどのルウの一撃を食らい壁に叩き付けられた時、捻ったか、それとも骨折でもしただろう。
 それでもウォルは、微笑っていた。微笑いながら、そんな痛みなどなんでもないというふうに、歩いていた。
 やがて、先ほどと同じ場所に、少女は立っていた。さっきと違うことがあるとすれば、それは彼女の前のいる青年が、母親の折檻に怯える幼子のように蹲ってしまっているということくらいだろうか。

「ラヴィー殿……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ラヴィー殿!」

 強い口調に、青年はびくりと体を震わした。
 少女は、膝を屈めて、蹲った青年と視線を同じ高さにする。
 涙を滲ませた青い瞳と、朗らかに微笑った黒い瞳が、口づけするような至近にある。二人は、自身の瞳が、互いの瞳に映り込んでいるのを見た。
 そのまま少女は、青年のほっそりとした手を取った。

「断っておくがな、ラヴィー殿。誰よりも復讐を欲しているのは、俺だ。それだけは卿にだって譲ることは出来ん」

 ルウは、怯えた視線で、異世界の王を見上げた。

「しかし、先ほども言ったとおり、誰よりもこの少女こそが復讐を望んでいない。だから、俺は怒りに身を委ねることも出来ん。ならば、怒りに身を焦がすことすら許されぬ俺の無念、卿なら分かってくれよう」

 ウォルは、今にも誰かの血を求めて走り出しそうな拳を、ぎゅっと握り込んだ。
 被害者が望むならば、暴力は正当な報復たり得る。そのために、彼女は如何なる非道も厭わないだろう。
 しかし、誰よりも傷ついたはずの少女が全てを許しているのならば、報復は彼女の名誉と誇りを再び傷つけるだけに終わるだろう。それは、誰しもが望むところではなかった。
 ウォルの肺腑から、深い深い吐息が吐き出された。その中には、怒りと無念の成分が、色濃く含まれていた。

「そんなこと言われても……」
「そうだ。人の心など、誰にもわかりはしない。俺だって、ひょっとしたら勘違いをしているかも知れない。この少女は、今だって贄の血に飢えているかも知れない」

 だから、と少女は言い、青年の手の平を、己の柔い左胸に押し当てた。

「あなたが判断して欲しい」

 青年は、呆気にとられた表情で、目の前の少女の黒い瞳を見つめていた。

「あなたが、この子の体に聞いてくれ。果たして、本当に復讐を求めていないのか。このまま、世界が彼女のことを忘れてしまっていいのか。それとも、彼女の苦痛を知ることもなく安穏と過ごした全ての人間に、彼女の存在が忘れがたいものとなるほどに凄惨な報復を望んでいるのか。俺としては、後者であって欲しい気もするがな」

 ならば、ウォルフィーナの復讐をするための大義名分が揃うというものだ。
 ウォルは、そう言って魅力的な笑みを浮かべた。
 信じられないものを見たような顔のルウは、おずおずと手の平に意識を集中させ、そこから伝わる少女の鼓動に、少女の体温に、少女の身体に残った少女の魂の残滓に問いかけた。
 君は、一体何を望んでいるの、と。
 しばらくの間、ルウはそのまま、少女の胸に手を当てていた。ウォルは、身動ぎもせずにその様子を見守っていた。それは、リィも、そしてシェラも。
 どれほど時間が流れたのだろうか。
 やがて、閉じられたままのルウの瞳から、透明な雫が流れ落ちた。
 そして、ぽつりと呟いた。
  
「僕は…大馬鹿だ」
「……この子は、何を求めていた?」

 ウォルが問いかける。
 ルウは、首を横に振った。

「……何も」
「何も、答えてくれない、か?」

 ルウは、再び首を横に振った。

「この子は、何も求めていない。復讐も、誰かが自分のために傷つくのも、誰かが自分のために怒ることさえも」
「……そうか」

 それは、だいたい予想した通りの答えだったから、ウォルはちっとも驚かなかった。
 しかし、だいぶ無念であった。彼女が誰よりもウォルフィーナの復讐を望んでいるという言葉、少なくともそこには一切の偽りはなかったから。
 そんな少女の両頬に、暖かい何かが添えられた。
 
「ごめんね」

 ルウの大きな瞳から、大粒の涙が流れた。
 ぼろぼろと流れた。
 少女の前でひざまずき、その薔薇色の頬を両手で挟み、正面からその漆黒の瞳を覗き込んで。
 ルウは、泣いていた。

「つらかったね」
「そうだな。いつも、この子は助けを求めていた。だが…」
「……だが?」
「それ以上に、友達が、仲間が欲しかったのだ。この少女には、その程度の、そんな当たり前のものすら与えられなかったのだ」

 ぎしり、と歯が軋む音が聞こえた。
 そしてその声は、恐ろしく低い、地の底から這い出るような声だった。
 それを紡いだウォルの黒い瞳が、明確すぎるほどに明確な怒りに、紅く燃え盛っていた。
 ルウは、まるで自身の罪に怯えるような有様で、深く深く頭を垂れた。

「ごめんね。ほんとうに、ごめん。きづいてあげられなくてごめんなさい」
「ラヴィー殿のせいではない」
「うん、知ってる。でも、ごめん。ゆるしてなんて…いえないよ」

 ルウは、少女の身体を抱きしめた。
 ウォルは、ルウが抱き締めているのが、自分以外の誰かだということを理解していた。

「そうか。ならば――俺が、謝っておこう。いずれ、一度くらいは会うこともあるだろうから」
「……うん。ありがとう、王様。それと、一つ聞いても、いい?」

 ルウは少女の体を離し、そして再び正面からその顔を覗き込むようにして、言った。

「この子の魂は、なんでそんな辺鄙なところにいるんだろう?」

 その言葉には、この世界に戻ってきてくれさえすれば自分がその少女を救ってみせるのにというルウなりの自信と、それと同じ分量の無念があった。
 ウォルは、首を横に振った。ウォルがウォルフィーナと顔を合わせたのはただの一度だけだったし、彼には他人の考えることを読み取る能力も、そんな趣味もなかった。
 結局、こう言うしかなかった。

「わからん。何故彼女があんな場所にいて、あんなことをしているのか。それはちっとも分からん。しかし彼女は、今の自分の有り様に納得していたはずだ。だから、それに対して我らがどうこう論評するのは、彼女に対する侮辱だと、俺は思う」
「……賢い王様。それは、きっと非の打ち所のない、正しい意見だよ。でもね、誰しもがあなた程には強くないことを知っていてね」
「ああ、すまない」

 少女は、素直に頭を下げた。もう、そうするしか仕方がないとか、そういう投げ遣りな気持が少しだけ含まれていた。

「なぁ、ラヴィー殿。折り入ってあなたにお願いがある」
「お願い?」

 ウォルは立ち上がり、埃で汚れてしまったワンピースの裾を叩いてから、目の前で座り込んだ青年に気安く手を差し伸べた。
 ルウは、その小さな手の平を掴み、そして自分も立ち上がった。

「その少女の魂は、今さら復讐なんて望んでいなかった……と、思う。ただ、願っていたよ。だから、それを叶えるために力を貸して欲しい」
「……その子は、何を望んでいたの?」

 涙に濡れた瞳で、青年は問い返した。
 ウォルは、確固たる声で、言った。

「この体に、人並みの幸せを」

 その場にいた誰しもが一様に息を飲み、細く細く吐き出した。まるで、冷たい鉛の塊を吐き出したような、重たくてどんよりとした、息だった。
 誰も、何も話さなかった。話せなかった。
 やがて、許しを乞うようにおそるおそるとした声が、青年の唇の隙間から漏れだした。

「……なんて、重たい言葉だ」
「俺も、そう思う」
「絶対に、どんな手段を使っても、叶えてあげなくちゃいけない」
「俺も、そう思う」

 もう、自分はいない。自分はこの世界の住人たる資格を失った。
 それでも、この体だけは。この体だけは、幸せになって欲しい。
 一体、どのような境地がその言葉を可能にするのか。何が、人の感情をそこまで空虚に、そして優しくできるのか。
 ルウは、何も話さなかった。人以外の生き物である彼は、無限とも呼べる生を歩む自分にはきっとそれを口にする資格が無いと思ったのだ。
 言葉にはせず、ただ、その優美な容姿に如何にも相応しい無垢な微笑みを浮かべ、涙を拭いながら別のことを言った。
 
「それは大変だ。本当に大変だ。おうさま、責任重大だよ?」
「ああ。いつもいつも重たすぎる責任を背負ってきたが、今度のは極めつけだ。俺一人ではどうにもならん。卿らにも協力を請いたい」

 ルウはしゃべらなかった。それは、リィも、シェラも同じく。
 三人の天使が、何もしゃべらずに、ただ微笑みを浮かべていた。その光景には、例え幾億の契約書を連ねても到底届かない、暖かな安心があった。
 おれに任せろ、僕に任せて、私に任せてください、と。
 三対の色の異なる瞳が、それぞれの信念をその光に込めながら、確と頷いた。
 天に輝くものを凝り固めたようなそれを真正面から受け止めて、四色目の黒い瞳が、確と頷いた。口元に鷹揚な微笑を湛えながら。
 三人は、黒髪の少女の内に宿った魂を見つめながら、誰にも顧みられず救いようのない死を賜った不遇の少女の体に、ささやかな幸福が訪れることを確信した。



[6349] 第十四話:夫婦の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/01 00:47
 一見して戦いとも思えない戦いは、静かに幕を下ろした。
 勝者はいない。この戦いには、敗者しかいなかった。赤く泣きはらした目をした黒髪の青年も、体を傷だらけにした黒髪の少女も、彼らを見守るしかなかった金と銀の天使も、みんなが敗北者だった。
 何故なら、もはや誰も救われないからだ。もう、救われるべき者は、彼らの長い手の、更に外側に零れ落ちてしまった。
 それでも、彼らの顔は、絶望には染まっていない。
 為すべきことがある。そのために何を為すべきか、それは分からない。しかし為すべきことがあるなら、彼らはそれを成し遂げることが出来るのだ。彼ら自身が、誰よりもそのことを確信していた。
 彼らの表情が、一様に明るかったことを、不謹慎だと罵る人間がいるかも知れない。しかし、悲壮感を漂わせて崖へと突っ走る人間より、酒瓶を片手に陽気な毎日を送る人間の方が遙かに目標に近づくことが出来る。それが、彼らの信念に近いものだった。
 ただ、少女の配偶者たる少年は、根っこはともかく枝葉の部分が素直ではないから、口に出してはこう言って彼女をからかうのだ。その聖緑色の瞳をにこやかに歪めながら。

「なぁ、ウォル。まったく、厄介事を進んで拾い歩くのも大概にしとけよ。今度のお前の体は、前みたいに頑丈じゃあないんだからな」
「そうか?」

 少女は、新品の服の調子を見るように、自分の体をまじまじと見つめた。
 所々破けて血の滲んだワンピースはどうにも無惨な様子だったが、それがかえってこの少女には相応しいような気もした。

「これでも結構気に入っているのだがな」
「気に入っているのか?」
「俺が言うのもなんだがな、相当の美少女だぞ、この子は。世の女性には申し訳ない気がするが、やはり自分がなるならば醜女よりは美女の方がいいに決まっている。例えば、以前のお前のような、な」
「…おれだって、自分が女になったと知ったときはもう少し驚いたものだけどなぁ」
「自慢ではないがそれなりに驚いている。お前という前例を知っているぶん、免疫があるだけだ」

 言葉とは裏腹に、憎らしいほどに平然とした様子のウォルは、あの少女に言ったのとほとんど同じ台詞を何の臆面もなく繰り返した。この場にいる誰しもがあの時はいなかったはずだから、別に物臭扱いはされないはずだった。
 まったく、自分と別れた時とちっとも変わっていない、あるいはより重度に進行してしまった夫たる少女の病状を、妻たる少年はほとんど絶望にも似た視線で眺めた。それは、憐憫と尊敬をほとんど等分に含んだ視線だった。

「…変わらないよ、お前は」
「そうか?これでも40年、それなりの進歩はしたと思ってるが」
「いや、全然変わっていない。特に苦労性なところなんかは、むしろ悪化してるくらいだ。いい加減にしておけよ、ウォル。普通の王様はな、王座にふんぞり返りながら何でもかんでも人任せにするものなんだぞ」
「自分でも呆れるくらいに勤勉になったものだと感心している。そもそもの俺は、もっと面倒くさがり屋で怠け者だったはずなのだがなあ」

 ウォルは、憮然とした顔で呟いた。

「おれの知ってるお前は、いつだって働きすぎるくらいの働き者だったぞ」
「それはきっと俺の偽物だ。まったく、そいつのせいで俺がこんなに苦労しなければならん。偽物の分際で本物の俺に迷惑をかけるとは、偽物の風上にも置けん。なぁ、そう思わんかシェラ」

 突然話を振られた王妃の元従者たる少年は、苦笑しながら元国王に言った。

「お言葉ですが、偽物はいつだって本物に迷惑をかけるものでしょう。それに、もしもその王様が偽物なら、デルフィニア国民全員が騙されていることになりますね。無論、私やリィも含めたところで」

 黒髪の少女は厳かに頷いた。

「全くもってけしからん」
「でも、それはそれは幸福な嘘でしたよ。きっと、真実を知らされても誰も怒らないでしょうね。それほどに、その偽物の国王様は愛されていましたから」
「愛されていたか」
「それはもう」
「ならば、もう少しだけ偽物のつもりで頑張らねばならないか」

 中年の悲哀を含んだような溜息が、可憐な少女の唇から漏れ出した。

「まったく、これも偏に王などという因果な商売に身を窶した報いだ。やはり、こんなことになるのなら早々に従弟殿に押し付けておくのだったな」

 しかめっ面をしたウォルを見ながら、リィは腹を抱えて笑っていた。
 懐かしい、喉元を擽りあうような会話だ。シェラは、ここが王宮の外れの、深い森に守られたあの離宮であるような気がした。彼手製の焼き菓子と料理と、そして紅茶の香り、あとはさんざめくようなみんなの笑い声が入り混じった、この上なく優しい空気。
 それは、幸せの結晶を鋳融かしたような、あるいは夢のような光景だった。
 その思いは、この場にいる全ての人間が共有していた。それほどに、そこは幸福を体現した場所だった。

「懐かしいな」

 いつの間にか笑いを収めていたリィが、ソファの上に行儀悪く寝そべりながら、夢を見るようにそう言った。

「みんな、元気にしてるか?」
「それを語り始めたら、一晩や二晩では到底足りんぞ」
「それに、酒もいるな」
「ああ、酒もいる」

 無論、この世界では、ルウを除く全員がまだ酒を嗜むことを許された年齢に達していない。
 ここベルトランでは長年の慣習から子供が軽い果実酒を嗜むくらいは見逃されているが、リィが好むようなきつめの蒸留酒は間違いなく違法である。
 しかし、誰にも迷惑をかけないかたちでちょっとした違法行為をすることくらい、神様は見逃してくれるはずだった。特に、こんなに優しい心根を持つ少年少女には。
 
「いい場所があるんだ」
「ほう」
「少しだけ、スーシャに似ているかも知れない」
「ほんとうか!?」

 大切な話をするには、それに相応しい場所と相応しい酒が必要なはずだった。ウォルとリィはそう確信していたから、そこがウォルの故郷に似た場所であるというならば、それ以上の舞台はないはずだった。
 黒髪の少女は、たいへん喜んだ。
 目にするもの耳にするもの、それらの全てが新鮮な喜びに満ちた世界であるが、しかし懐かしいものが何一つないということに些かガッカリしていたウォルである。
 整備された湖も人の手の入った森も美しいが、何か、彼女の魂を奮わすには決定的に重要な要素の一つが欠けているような気がしてならないのだ。
 少女は、うっとりしたように目を閉じた。きっとその瞼の内側には、小川のせせらぎや小鳥のさえずりも含んだところで、故郷の深い森が映し出されているに違いなかった。

「懐かしい…。スーシャ、ああ、なんと清冽な響きだろう」
「ああ。一度だけ、一緒に行ったな。本当に、綺麗なところだった」

 リィも、心から同意した。
 そして、思い出したのだ。別れの前日、そこへ夫たる男性を誘って、自分が何を言ったのか。
 少年は、心底嫌そうに眉を顰めた。その表情から何を考えているのかを悟った少女は、微笑いながら問いかけた。

「後悔しているのか、俺を誘ったことを」
「いや、お前を誘ったことは後悔しちゃあいないさ。後悔するくらいなら誘わない。おれは真剣に、お前になら抱かれてもいいと思ったんだ。それがどういう理由かは別にしてな」

 シェラとルウの耳が、同時にぴくりと動いた。
 無理もない。
 リィがウォルを誘ったことがあるなど完膚無きまでに初耳だったし、そもそも他人の恋愛話というのは人の心を鷲掴みにして離そうとしないものなのだ。
 しかも、男に誘われれば、凍るように冷たい表情と超弩級のげんこつをもって返答をくれてやるはずのリィが、例え相手が夫とはいえ自分から男性を誘うなど、どういう経緯でそんな事態に至ったのか到底想像が付かない。
 驚天動地以上の天変地異と言っても過言ではない。一体どんな表情と台詞でもって、一度足りとて閨を共にしたことのない夫にモーションをかけたというのか。
 ルウが、期待に目を輝かせながら尋ねた。

「あの、エディ、もしかして王様と…?」
「勘違いするなよ、ルーファ。未遂だ、未遂。あんなの、思い出したくもない」
「なぁんだ、やっぱりかぁ…」

 青年はがっくりと項垂れた。
 シェラは、何故だか胸を撫で下ろした。それがどういう感情の表れなのかは彼自身よく分からなかった。
 
「おれは乗り気だったんだぞ、珍しく。なのに、こいつが土壇場で怖じ気付きやがってさぁ」
「怖じ気付きもするだろうが。全く、あのときは悪夢としか思えなかったのだぞ」
「言うに事欠いて悪夢だと?お前、自分の奥さんを何だと思ってるんだ」
「見た目通りだ。とても女には思えなかった」

 少女と少年は、かつて自分達の性別が逆転していたときの思い出話をしながら、昔のように軽口をたたき合った。互いを睨みつける鋭い視線と、その直ぐ下でにこやかに微笑った口元だって、全くあのときのままだった。

「それに後悔していないと言うがな、リィ。ではその苦り切った顔は何だ?お世辞にもアレを良い想い出として昇華させてくれたとは思えんが」
「当たり前だ。あんなにみっともない台詞でお前を誘うなんて、一生の不覚だ」
「『これで最後なんだから、いっぺんくらいは夫婦らしいことをしておこう』、『やっぱり、おれが押し倒さなきゃ、だめか…』だったか?俺は悪くない誘い文句だったと思うが…」

 悪いも何も、女から男を誘うのにこれほど色気のない誘い文句もあるものか。
 同じことを考えて、シェラは頭を抱えるように唸り、ルウは深く深く納得しながら頷いた。
 もう、なんというか、その光景が目に浮かぶようですらある。
 毅然と腰に手を当てながら、重たい溜息を吐き出した真剣な面持ちの王妃が、あまりに突拍子もない事態に腰を抜かしかけ、かつてないほどに狼狽える王を睨みつける。ひょっとしたら、俺にはやり方が分からないからお前が頑張ってみせろ、くらいの台詞も口にしたかもしれない。
 ルウは、心底ウォルを羨んだ。そしてシェラは、心底ウォルに同情した。
 きっと台詞だけでなく、その表情にも色香の欠片も見当たらなかったのだろう。
 まったく、この人に『女性らしさ』を、キッチンの端に転がった野菜屑の一片程度にでも期待するのは、宝くじの大当たりをライフプランに組み込むくらいに愚かなことだと知っていたはずなのに。
 二人はほとんど同じことを考えながら、しかしその反応は正反対に異なる。そして、内心で同時に呟いた。

 あぁ、それは如何にもリィ(エディ)らしい、と。

 そんな、二者二様の二人を脇目に、リィは目の前に座った少女に対して、珍しく大声を上げた。
 
「ウォル、お前な、夫婦の秘密を人前で話すやつがあるか!?」
「あそこまで自分で話しておいて、今更だろうが。それに、この二人の前で我らを偽ったところで始まるまい。第一だな、なんともお前らしい台詞だったではないか。ああいうタイミングで言われたのでなければ、きっと俺も誘惑に負けていたぞ」
「…そうか?」
「ああ、間違いない」
「ふん、どうだか」

 疑わしげな視線を寄越しながら、しかしまんざらでもない様子のリィである。
 そんな彼を見つめるウォルの視線にも、冗談の影だって存在しない。
 シェラは、降参しましたというふうに首を振った。もう、そうする以外どうしようもなかった。
 結局、似合いの夫婦の、誰しもに溜息を吐かせるしかない、なんとも奇妙な惚気話というところであった。
 そんな、明らかに明後日の方向に脱線しかけた話を、リィは気を取り直した調子で軌道修正させた。

「ま、その星に行くにしたって、今すぐにってわけにはいかないんだ。おれ達にはおれ達の生活がある」
「うむ、当然だな」
「一度おれ達は、この星を離れなくちゃいけない。この星から遠く離れたところで、おれ達は暮らしているんだ」
「ああ、それはヴォルフ殿に聞いた。随分忙しい学舎らしいな」
「そのとおりだ。まったく、今から帰ったって三日後の授業、午前中は欠席だ。頭が痛いよ」

 シェラは、こんな時くらいはずる休みや無断外泊も許されるのではないかと思った。
 しかし、リィという少年は、その冷淡とも受け取られかねない言動に比べて、その行動は誠実そのものである。シェラに付き合って始めた学生生活に、ことのほか積極的に取り組み、己の責務を全うしようとしている一事をとってもそれが分かる。
 無論、誰よりもリィ自身がウォルの話を聞きたがっているのは明らかなのだ。
 ウォルの世界にはシェラにとっても懐かしい人達がたくさんいるが、しかしその絆はリィが彼らと結んだものに比べれば幾分細いものであることを、シェラは知っていた。
 だから、間違えても彼が『今からあの星に行きましょう』などとは言うわけにはいかなかった。
 そうすれば、絶対にこの人は怒るに決まっている。そんなことを言っている暇があるならばお前は例のパッチワークをさっさと完成させろ、と。
 それは、ルウも同じだったのだろう。どうにも渋いような歯痒いような、微妙な雰囲気でそわそわとしている。
 それにもかかわらず、やがてルウはおずおずと口を開いた。
 何というか、普段の状態ではシェラほどに忍耐心のない彼のこと、心に住まう天使と悪魔の決闘は、審判との癒着が決まり手で悪魔のほうに軍配が上がったのだろう。

「ねぇえ、エディ。あのさぁ…」
「駄目」

 綺麗に突っぱねた。

「で、でもさ!たった一日、二日くらいなら…」
「却下」

 もう、問答無用だった。
 ルウは、大爆発した。

「えーっ!ぼく、聞きたい!狸寝入りの虎さんとか、戦うお花さんとか、蜂蜜色のお兄さんとか、みんな何やってるのか、聞きたい!」
「俺とシェラは用事があるんだ。それに比べれば、大学生のお前は時間に融通が利くだろう。なら、ここに残って聞けばいいじゃないか」
「駄目だよ!王様がそのことを一番最初に話すのは、エディ、絶対に君じゃなくちゃいけないんだ。僕は、そのご相伴にあずからせてもらう権利が、あるかないかってところ。だから、君がいなくちゃ意味がない」
「なら、大人しく来週まで待つんだな。きちんと休暇申請のほうは出しておくからさ」
「ううー、エディのおに!あくま!ひとでなしー!」

 ルウは、その形の良い頭の中に詰まったありとあらゆる語彙能力をフル活用して、自らの相棒を罵り続けた。
 曰く、でべそ。
 曰く、けちんぼ。
 曰く、あんぽんたん。
 その他おたんこなす、ひょうろくだま、どてかぼちゃetcetc…。
 子供の口喧嘩でももう少し心を抉るような悪口があってもいいものだとシェラなどは思ったが、ここらへんがこの綺麗な天使の限界点なのかも知れなかった。
 それにしても、つい先ほどの悪魔が如き剣呑な気配はどこへやら、盛大に泣き喚きながら四肢をばたつかせる有様は、どこからどう見ても癇癪を起こした子供である。
 すらりとした長身と際立った美貌を除けば、デパートの玩具売り場で泣きながら床を転げ回る子供と変わるところが無い。
 無様であるには違いないが、ここまで徹底するといっそ見事な…とはいえないにしても、しかしある種の爽快感すらあるようだ。こちらに来てからルウとはそれなりの付き合いをしてきたシェラですら驚くような、ルウの醜態であった。
 大の男がそこまで泣き喚くところを見たことがないウォルは、長い睫に飾られた目をまん丸にしながら、自らの妻に小声で尋ねた。

「…おい、リィ。この御仁は、こういう人だったのか?」
「ああ、いつものことだ。あと三十分も泣き喚けば疲れて寝るさ」

 それこそ、完全に子供である。

「…俺は、もう少しこう、超然とした人だと思っていたのだがなぁ」
「こいつはこういうやつだよ、昔から。良くも悪くもな。悟りきって知った風な口ばかり叩き続けるルーファなんて、考えたくもない」

 流石に悪口のストックも尽きたのか、クッションを顔に当てながらスンスンと悲しげに鼻をならす黒髪の天使。それを見ていた彼の相棒たる金色の天使は、流石に良心とか同情心とかそういうものが咎めたのだろう、大きく溜息を吐き出すと、優しげな声で言った。

「なぁ、シェラ。お前とマーガレットが真心込めて焼き上げた菓子って、どこにあるんだっけ?」
「えっ?え、ええ、それは台所のテーブルの上に…」

 蹲ったままのルウの肩が、ぴくりと動いた。眠っているネコが、音を耳だけで追っているような、微笑ましい様子だった。
 シェラ手製のお菓子に対して、明らかに隠しきれない興味を浮かべた、黒の天使。そんな彼を唖然としながら見ていたシェラに、リィは片目を瞑ってウインクをした。
 シェラは、苦笑した。

「ストロベリーパイもあるか?」
「はい。リィたっての希望でしたから、真っ先に作り上げました」
「それって、甘い?」
「あなたなら、一口で虫歯になるくらいには」

 蹲ったままのルウの耳が、ぴこぴこと動いた。
 そして、ぐう、と、誰かのお腹が鳴った。
 現金なものである。

「おれにはよく分からないんだが、甘い菓子だって焼きたての方が旨いよな?」
「ええ、そうですね。昼過ぎに焼き上げて布にくるんでおきましたから、今ならまだほの暖かいかも知れませんね」
「そんな美味しい菓子が、誰にも食べられずに冷めていくなんて、勿体ない話だよなぁ」
「ええ、ええ、リィ。まったくもって、あなたの仰る通りです。私としても、悲しい限りですよ」

 笑いの発作を必死で堪えながら、努めて真面目な調子でシェラは言った。
 折角の力作なのだから、一番食べ頃のときに食べてもらいたい。それは偽らざる本心であったが、しかしこの程度のことに吊られるのではいくらなんでも可愛らしすぎるのではないかと、そういう思いもあった。
 そんな思いに応えるように、黒い天使は、ゆっくりと顔を起こして、言った。

「…ずるいよ、エディ。そんな美味しそうなもので僕を誘惑するなんて、卑怯だ」
「悪いのはお前だ」

 リィはにべもなくそう言った。
 そして、クッションから解放されて涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった恨めしげな相棒の顔を、ハンカチで優しく拭ってやり、続けた。

「来週だ。来週には、必ず聞くんだ。それこそ、この冬眠明けの熊が嫌がったって、首根っこ引っ掴んで連れて行く。だから、来週までの辛抱なんだ」

 どこまでも優しく、どこまでも忍耐強い、声だった。
 まるで、自分自身に言い聞かせているようですらあった。

「冬眠明けの熊は酷いな」

 熊呼ばわりされた、もう、ちっとも熊なんかには見えない可憐な少女が、腰に手をあて憤然としながら言った。

「ほら、ご覧の通り、今は絶世の美少女なのだ。これを機に、もっと俺に相応しい典雅な渾名を考えてくれたっていいではないか」

 自分の夫たる少女を冬眠明けの熊呼ばわりした妻は、胡散臭そうに言った。

「じゃあ、冬眠明けの小熊だ。それとも性悪の大家にとんでもなく厄介な物件を掴まされた、頭の悪い間借り人だ。どちらにしたって上等なもんじゃあない」
「そこまで言うか、普通!?」
「ふん、お前のお人好しの過ぎるところには、いつだってはらはらさせられてたんだ。これくらい言ったってバチの一つも当たりはしないだろうさ」
「俺のことをお人好しと言うがな、リィ、そう言うお前はどうなのだ。確かに俺も相当なものだと自覚しているが、それでもお前には一歩及ばんと思うぞ」
「そんなことはない」
「いーや、そうに違いない。だからこそ、俺はこんなところまでやってきたのだ。恩を売るだけ売っておいて、一つも買っていかないとは何事だ。大国同士なら貿易問題に発展しているところだぞ」
「大国同士って、どんな例えだよそれ。贔屓目に聞いてもただのいちゃもんだぞ。それに、恩の一つも買っていかなかったっていうけどな、おれは十分に世話になったつもりだ。飯と暖かい寝床を用意してもらったじゃないか。別にそんなもんが欲しくてあんなことしたわけじゃあないけど、それで十分だ」
「何を言うか。そんなものでお前の恩に報いることが適うと思うほど、俺だって耄碌してはいない。俺はな、リィ。お前さえよければ、そして回りの皆が納得するなら、お前に王座を譲り渡してもいいと思っていたのだぞ」
「…それって、ただ厄介事を押し付けようとしただけじゃあないのか?」
「その通りだ!悪いか!?」
「悪いかってお前…悪くないと思ってるのか…って、思ってるんだろうなぁ…」

 無茶苦茶な理屈で王座の禅譲を企てていたらしい元国王は、元王妃の前で堂々と胸を張ってみせた。それに応えるのは、心底呆れたようなリィの呟きである。
 そんな、明らかに高貴な身の上とは思えない二人の遣り取りを聞いて、シェラとルウは、今までの我慢の甲斐も無く盛大に吹き出してしまった。
 そして、一度決壊した堰は誰にも修復されることなく、笑い声を流し続ける。もう、誰にも止められない。
 最初は厳めしい顔で二人を睨みつけていたリィとウォルも、やがて大きな声で笑い始めた。もう、笑うしかなかった。それだけ幸せだったのだから。
 階下で気を揉むヴァレンタイン一家が一体何事かと訝しむくらいに、それはそれは大きな笑い声だった。



[6349] 第十五話:その他の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/08 01:08
「では、俺はしばらくここに泊まらせてもらえるのか?」
「ああ。お前がおれの友達だって言えば、嫌だって言ったってアーサーはお前を泊めようとすると思うぞ」
「それはなんとも…」

 苦笑するしかない、といった様子のウォルである。
 しかし、有難いことだ。彼の世界、この時代に比べれば幾分人情やら親切やらが幅を効かせていたあちらの世界ですら、知らぬ人間を家に泊めるのは想像以上の危険を伴ったものだ。
 やはりこの息子にしてその親ありか、と、心の片隅で、リィが聞けば眉を顰めるに違いないことをウォルは思った。思っただけで、賢明にも口にはしなかった。

「アーサーとマーガレットは、俺にとって遺伝上の父方と母方にあたる人物だ。どちらも『普通の』人間だからな、その前提で話を合わせてくれ」
「うむ、心得た」
「…あの、リィ。ちょっとよろしいでしょうか…?」

 おずおずと、シェラが手をあげた。

「どうした、シェラ?」
「その、陛下の御身元は、二人にどう説明しましょうか?私と同じ理由は、二度使えないかと思うのですが…」

 シェラが、申し訳無さそうにそう言った。
 リィが、明らかにしまったという顔をした。
 確かに、ウォルがロストプラネット出身だという方便は、この際諦めなければなるまい。如何に一風変わっている息子とはいえ、こんな短期間にそんな貴重な人間を二度も三度も連れてきたとなれば、どれほど息子に寛容なアーサーといえども怪しまない方がおかしい。
 いや、冷静に考えるならば、今の時点で相当に訝しんでいるはずなのだ。なのに一言もそれを口にしないのは、彼がどれほどにリィを溺愛しているのか、そして同じくらいに信頼しているのか、その証左と言っていいだろう。

「そういえばそうだ。どうしよう」

 リィは、目の前に座る自分の夫の後見をまたしてもアーサーに頼むつもりだったから、流石に頭を抱えてしまった。
 彼は用意周到で頭のよい少年だったが、二度と顔を合わせることもないはずの人間と顔を合わせ、その突拍子もない話を聞き続けていたために、現実に差し迫る問題に対して処理能力が追いついていなかったのだ。
 しかし、考えてみれば確かに難題であった。この、どこからどうみても一般人には見えない、美貌の少女、そして元国王、しかも自分の夫を、どうやって彼らに紹介したものか。
 うーんと、獣のような唸り声をあげる妻に対して、ウォルはのんびりとした声で質問した。

「なぁ、リィ。その、後見というものが無いと、何か不都合があるのか?」
「不都合があるなんてもんじゃない。下手したらお前はどこぞの施設に入れられて、一生飼い殺しってこともありうる」
「それはぞっとせんな」

 あまりぞっとした様子もなく、かつての王様は腕を組んで唸った。
 悠然とした様子ですらあった。
 しかし、この件に関して言うならば、いくら大国の重要事案を右に左に捌いてきた彼女の明晰な頭脳と決断力をもってしても、芳しい解答は導き出すことが出来ないだろう。
 まず、世界が違う。常識が違う。
 それに、知識が少なすぎる。
 ウォルはこの少女の身体に憑依して、この少女の記憶を自分のものとして扱えることには気付いている。
 しかし、ウォルが頼りにしている彼女の記憶には、所謂一般常識といったものが、同年代の少年少女に比べて極端に欠落している。生まれてからほとんどの期間を冷たい牢獄に繋がれて過ごしたのだから無理もない。
 例えば、学習能力を調べるためのテストはあっても、テレビや噂話などの娯楽情報に触れたことは全く無かった。
 大雑把な言語や文字の読み書きくらいは出来ても、それ以上の事物に関しては生まれたばかりの赤子に等しいところもある。
 そしてその少ない知識の中には、後見やら未成年やらの取り扱い、つまり法律的な知識は完全に含まれていなかった。
 研究員たちは、彼女にそんなことを教えようとはしなかった。一生、基本的な人権を無視した、実験という名の虐待を受け続けていくことが決まっている少女に、そんなものを教えても無駄ということだったのかも知れない。

「いいんじゃないの、あまり無理に考えなくても」

 部屋に重たい沈黙が流れかけたとき、ルウが惚けた調子でそう言った。

「いや、ルウ。無理に考えなくても、と言いましても、やはりヴァレンタイン卿の後見は必要だと思います。それは誰よりも私が理解しているつもりですから…」
「シェラ、別に王様をそのままにしておこうなんて誰も言ってないよ。別に難しい嘘を考えなくてもいいんじゃないかってこと」
「ルーファ、どういうことだ?」
「例えば、彼女は政府の非人道的な人体実験の被験者で、あの研究所を壊したときにエディが助け出した、可哀想な被害者の一人。一度親元に帰されたが、この度両親が事故で亡くなり天涯孤独の身となってしまったので、以前助けてもらったエディを頼ってここまで来た。こんな感じでどう?ほとんどが事実だし、優しいアーサーならきっと一も二もなく信じてくれると思うけど」

 ルウは、この上なく機嫌のいい微笑みを浮かべながら、そんなことを言った。
 何も知らない人が見れば、正しく天使の微笑みにしか見えない、そういう微笑だった。
 リィは、悪寒を堪えるようにこめかみの辺りを押さえながら、こう返した。

「…どの顔で『難しい嘘なんて考えなくていい』とか言い切れるんだお前は…」

 リィの意見に、シェラも首肯した。

「…私は、久しぶりにルウのことが怖いと思いました」
「おれもだ。こんなことを言うと偽善と罵られるが、しかしアーサーが気の毒になってきたよ」
「きっと、こんな感じでいつも言いくるめられているんでしょうね…」

 金と銀の天使は、黒の天使の良いように操縦される堅物のアーサーが、憐れなロボットか何かのように思えてならなかったのだ。
 
「あ、シェラ、その言い方はないよ。だってぼく、アーサーのこともマーガレットのことも大好きなんだよ」
「ええ、知っています。知っていますが…。いっそあなたがヴァレンタイン卿のことを嫌っていたほうが、彼にとっては救われたような…いえ、これは失言でした」

 これは確かに失言だったので、シェラは即座に謝罪した。
 そして、取り繕うように言った。

「し、しかし、そういう設定ならば、卿は陛下のことをお見捨てになることはないでしょう」
「うーん、確かになぁ」
「…それだ」

 突然、低い声(それでも、元々の声に比べれば信じがたいほどに高音域の声なのだが)で唸った元国王に、三対の視線が集中した。
 その先には、どうにも不機嫌というか不可解というか、微妙な表情で考え込んでいる黒髪の少女がいた。
 彼女が彼だったころから長い付き合いのあるリィなどは、それが不本意とはいえないまでも何か承伏しがたいことを覚えているが故の唸り声であることに気がつき、先ほどの会話の中に何かこの少女の機嫌を損ねる要素があったのだろうかと考えながら尋ねた。

「ウォル、そんなにルウの案が気に入ったのか?それとも、何か気に入らないことでも…?」
「うむ?いや、俺はヴァレンタイン卿のお人柄について全く把握していないからな、そちらについては卿らに任せる」
「…じゃあ『それだ』って、一体何だったの?」
「俺の呼び方だ」
「…はぁ?」

 三人は、お互いの顔を見合わせて、首を横に捻った。
 一体、何の事だ?

「あの、陛下…?」
「ほれ見ろ。なぁ、リィ。今の俺を相手に、この呼び方はないとは思わんか?」
「ああ、そういうこと」

 リィは、ぽんと手を打った。
 シェラには、何故だか嫌な予感がした。

「俺は確かに、あちらの世界ではデルフィニア国王という肩書きを持っていた。全く、何の因果か分からんのだが…」
「ウォル。それはもういいって。この場にいるみんながお前の気持はよく分かってる」
「うむ。ならば、俺はもう、こんな重たい荷物は脱ぎ捨てて、一刻も早く身軽になりたいのだ」

 ウォルが国王とならなければならなかった経緯を知り尽くしているリィは深く頷いた。間接的とはいえそれを聞かされている残りの二人も、軽く頷いた。

「であれば、その呼び方はいくら何でも酷い。例えるならば、素潜りをしている人間がようやく呼吸をしようと顔を上げた瞬間に、足を掴んで水中に引きずり込もうとしているようなものだ」
「あの、陛下…。申し訳ありませんが、もう少し分かりやすいように仰って頂けませんか?」
「ほら、また言った。いいか、要するにだな、シェラ。お前が礼儀正しい少年だというのは重々承知しておるが、その『陛下』という呼び方は止められんのかと、そういうことだ」

 シェラは、そのすみれ色の瞳をまん丸にして、唖然としてしまった。
 この人は、一体何を言っているんだろう―――?

「いえ、しかし…。やはり、陛下は陛下でしょう?」
「いや、そもそも俺は既に陛下などとたいそうな呼び名を受ける資格はないのだ。こちらの世界ではいざ知らず、あちらの世界でも既に楽隠居し、王位は息子に譲ってある」
「で、では何とお呼び申し上げたら…?」

 ウォルは、飛びっ切り人の悪い微笑みを浮かべた。
 それは、幼き日にスーシャの山猿と言われた彼女に、そしてフェルナン伯爵の一粒種である腕白小僧であった彼女に相応しい、野趣溢れる笑みであった。

「リィ。本来ならばお前は王妃殿下と呼ばれるべき身分のはずだが、シェラには何と呼ばせていた?」
「俺は、ずっとリィと呼ばせていた。王妃殿下?冗談じゃない。今さらこいつにそんな呼ばれ方したら、全身の鳥肌が粟立ち始まるぞ」

 想像してしまったのだろうか、嫌な顔でウォルを睨みつけるリィである。
 ウォルは、我が意を得たりというふうに頷いた。
 頷き、そして言った。

「ウォリー」
「…はっ?」
「シェラ。お前はこれから俺のことを、ウォリーと呼べ」
「はぁっ!?」

 これまたシェラには珍しく、素っ頓狂な叫び声を上げた。
 この人を―――仮にもデルフィニアの英雄と呼ばれ、恐れ多いことにリィの旦那でもあるこの人を、何と呼べと?

「陛下!そのようにご無体な…!」
「何がご無体なものか。いいか、シェラ。名前というものは個人を識別する記号にすぎんが、しかし呼ばれる方が嫌がるような名前で呼んではいかん」
「同感だ」
「王様の言うとおりだね」

 リィとルウが大きく頷いた。
 この二人は、この二人の間でしか許されない名前でお互いを呼び合い、それ以外の人間がその名で己を指し示すことを極端に嫌う。だからこそ、ウォルの提案には感じ入るところがあったのだろう。

「いえ、それはそうかも知れませんが、しかし…」
「そもそも、人がその呼び名を聞いたらどう思う?王のいない世界で、お前のような美少年に自らを陛下と呼ばせる女の子など、ただの道化かそれとも狂人だぞ」
「人前では呼びません!それはリィの時から徹底していますから大丈夫です!」
「では、人前では何と呼ぶのだ?」

 あらためてそう言われると、確かにこの人を何と呼んだものか。
 シェラはほとんど泣きそうになった。

 陛下?駄目だ。この人自身、それがどういう影響を周囲に与えるのか、しっかりと理解している。
 では、ウォル?そんな、恐れ多いにも程がある。しかも、この呼び方をしていたのは、あちらの世界でもほとんどリィだけだった。ならば、私などが軽々しく口にしてよいものだろうか。
 デルフィン卿?いや、卿は貴族階級の人間に対する敬称である。その貴族を統べる身分にあったこの人をそう呼ぶのは、逆に礼を失するのではないか?
 しかし、しかしウォリーとは…。そんな、まるで無二の友人のような呼び方をこの人にして、バルドウから天罰が下らないものだろうか…?

 シェラは、思いっきり難しい顔をして黙り込んでしまった。時折その顔色が赤くなったり青くなったりするものだから、内心でどのような葛藤があるのか、推して知るべしである。
 ウォルとルウは興味深そうにシェラの顔が虹色に染まる有様を眺めていたのだが、リィは流石に気の毒になったのか、かつての従者に助け船を出してやった。

「シェラ。あのさ、そんなに難しく考えることないんじゃないか?別にお前が呼び方を変えたくらいで、こいつが王様になったり平民になったりするわけじゃないんだ」
「…ええ、それはもちろん分かっています、リィ。しかし、これは何というか、その…」
「ああ、分かるよ。この例えは受け売りなんだけどさ、フットボールの試合で突然手を使って良いって言われてその試合を見たときの違和感っていうか…あるべきものがあるべきかたちにない気持ち悪さっていうか…」
「そう、それなんです!」

 シェラはがばりと体を起こした。

「この方が王でなくなったのは承知していますし、ご自身が陛下と呼ばれたくないのもわかるのです。しかし、私の中の常識がそれに合致してくれない、どうしても現実に追いつかないのです」
「ふむ、難儀なものだな。しかし…王とはそんなに大したものだったのか…?」
「そう思ってないのは、多分王様だけなんだろうねぇ」

 首を捻るウォルを、ルウが優しく窘めた。

「君はそれだけ偉大な王だったんだよ」
「そうか?いや、それなりに上手く演じ切った方だとは思うが、ここまでとはなぁ…」

 ウォルは、据わりが悪いように首の辺りをぽりぽりと掻いた。
 ルウは、からからと笑いながら、明らかに照れている美少女を眺めた。眼福だと、そう思っているに違いなかった。

「おい、ウォル。シェラをいじめるのもこれくらいにしておいてやったらどうなんだ?」
「いじめるとは人聞きが悪いぞリィ。俺はただ…」

 ウォルは、シェラの方に目をやった。
 シェラは、そのすみれ色の綺麗な瞳に、薄い涙を纏わせて、じっと俯いてしまっていた。弱々しく震える肩の線の細さといいぎゅっと握られた拳の小ささといい、どこからどう見ても極上の美少女である。
 男ならば如何様な手段を用いても保護したくなるような、そういうたまらない有様だ。これでは、いじめていると評されても致し方ないところだろう。
 そんな、まるきりいじめられた少女そのままのシェラに、溜息混じりの声をかけたのはこの場において唯一本物の少女である元国王だ。
 
「なぁ、シェラよ。俺はな、別にお前にそのような顔をさせたくて、この話をしているわけではないのだ」

 ウォルは、優しい声でシェラに語りかけた。
 そうすると、口調の堅さを除けば、慈愛に満ちた少女以外どのように見ることもできない、完全無欠の美少女ウォルがそこにいる。
 そしてその少女は言った。
 
「その呼び名はな、シェラ、俺の幼き日の渾名だ。あちらの世界では、その呼び方で俺を呼んでくれる幼なじみが、少なくとも一人はいた。それにスーシャには、『あの山猿ウォリーが立派になったもんだ』と密かに喜んでくれた人達もいたはずだ。しかし、この世界には、誰一人としてこの名を呼んでくれる人間はおろか、知っている人間すらいない」

 それどころか、そもそも純粋な意味で言えば『こちらの世界』の人間でウォルのことを知っている人間など一人もいない。
 リィもルウも、『こちらの世界』の住人が『あちらの世界』に関わる過程としてウォルと知り合ったに過ぎないからである。
 シェラには、それが望むべくして作られた絆かどうかはおいておいて、同じ呪われた一族の名を姓として有する二人がいる。彼らは粉う事なき『あちらの世界』の住人であるから、シェラは、リィやルウを勘定にいれなくても孤独とは言えまい。
 しかし、ウォルにとっての彼らは、例え同郷であったとしても完全な他人だ。
 つまり、ウォルにとって、想い出を共有する同郷の友人は、シェラしかいないということになる。

「俺にとっては想い出の有り過ぎる名前だ。このまま、誰の記憶にも残らないままで朽ちさせていくのは余りに惜しい。だからな、シェラよ。俺は、同郷であるお前に、俺の幼き日を預けたいのだ。それは、過ぎたる望みなのだろうか」
「…申し訳ありません。そのお言葉はどこまでも有難いものだと思います。思いますが、しかし…」
「…ふぅ。わかった、シェラ。これは今度会うときまでの宿題にしておこう」

 ここらが引き頃かと、ウォルは諦めた。
 シェラの顔が、ぱぁと明るくなった。まるで、雲間から降り立った陽光の柱が、銀色の髪をした天使の上に舞い降りたようですらあった。
 そんなシェラの様子を微笑ましげに眺めつつ、自分の名前一つのことで他人の顔色をここまで変えさせるとはどうやら国王とは相当に大したものだったらしいと、少女は内心で肩を竦めた。

「ありがとうございます、陛下!」
「しかしシェラ、あくまで宿題は宿題だ。いいか、次会ったときに俺を陛下と呼んだなら…」
「呼んだなら…?」

 シェラの喉が、ごくりと鳴った。

「今後お前のことを、ファロット伯と呼ぶことにする」
「なっ!?」
「何も間違えてはいまい?」

 満面に笑みを浮かべたウォルと、唖然として口を閉じることも忘れたシェラを等分に眺めて、リィとルウは同時に、これは勝負ありだなと思った。
 少なくともこの一件に関して言えば、ウォルとシェラでは役者が違う。
 そも、この、見た目だけは黒髪の少女であるウォルは、実のところ70年の歳月を国王として生き抜いた、パラストのオーロン王以上の古狸、いや古熊である。
 見た目通りの年齢ではない点ではシェラも同様であるが、しかしそれにしても積み重ねた年月には相当の違いがあるのだ。

「陛下!そのようなお戯れ、おやめ下さい!」
「そうだ、戯れだ。だから、俺に戯れさせることのないよう、お前も頑張るのだぞシェラ」
「そんな…」

 シェラはがっくりと肩を落とした。これからの一週間、この少女をどのように呼ぶべきかを悩み続けることになると思うと、胃の辺りがきゅうと痛くなることを自覚するシェラだった。

「ま、シェラはいつも人に気を使いすぎると思ってたところだ。少し荒療治かも知れないが良い機会だし、そこらへんの従者気質を徹底的に直してしまおう」
「でも、そこがシェラのいいところなんだけどねえ」

 リィとルウは顔を見合わせ、曖昧な笑みで苦笑していた。

「ま、しかしウォルよ。今日のところはここまでだな」

 如何にもホストらしい様子で場を仕切り直したリィは、そう言って緩まった空気を引き締め直した。
 つい先ほどまで項垂れていたシェラは、内心はともかくとしてきちんと姿勢を正してその表情をあらためた。

「とにかく、ウォルが、おれの夫がこの世界に来てくれたんだ。おれは、この世界を代表するとかそういう堅苦しいことを抜きにして、こいつを歓迎したい。何か、異議はあるか」
「異議なーし」
「ありません」
「よし。じゃあ、こいつは今からおれ達の仲間だ」
「俺は、もうずっと前からお前の仲間のつもりなのだがな」

 異世界にて闘神の名を欲しいままにした不世出の英雄たる少女は、三対の瞳が自分に集中していることを自覚しながら、ゆっくりと立ち上がり、そして言った。

「あらためて自己紹介させて頂く。俺の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。ここにいる、グリンディエタ・ラーデンの夫だ。元いた世界では国王などと呼ばれて調子づいていたこともあるが、この世界では卿らの後輩となるだろう。色々と分からぬ点、いたらぬ点も多いと思うが、どうか見捨てないで欲しい。そして、もし許されるならば、この体共々、卿らと永久の友誼のあらんことをここに誓いたい」
「何に誓う?」

 リィは行儀悪くテーブルに片肘をつき、不敵な笑みを浮かべながら、問うた。
 もう、それは確定した返答を期待しての、問いかけとは呼べないような問いかけだった。
 それを理解しているから、ウォルも、己の心をそのまま吐き出した。
 もう、使い古され、しかし未だ宝石のように煌めいている、珠玉の言葉だった。
 少女は、彼女の妻と同じように、にやりと不敵な笑みを浮かべながら言った。

「剣と、戦士としての魂に誓って」

 もう、夜も更けた。
 きっと、階下で気を揉んでいるヴァレンタイン夫妻にも、その子供達にも、この黒髪の少女が何者なのかを説明しなければならないだろう。
 それに、刻一刻と食べ頃を過ぎていくお菓子の山は、誰かが自分達を征服してくれることを今や遅しと待ち侘びているはずなのだ。
 だから、リィとウォルは、家族の待つ居間へ。
 ルウとシェラは、お菓子の山の待つ台所へ。
 それぞれの責務を果たすために、今日最後の仕事を済ませるために、出陣する必要があった。
 その時――。

「あ、そういえば」

 四人がそろって部屋を出ようとしたとき、ルウが思い出したように口を開いた。

「どうかしましたか、ルウ?」
「うん、この家に来たときからずっと不思議だったんだけど…」

 緑と紫と黒の瞳が集まる中で、青い瞳の青年は、にっこり笑いながら、こう言った。

「ねえ、この象さんみたいな人、誰?」

 そういえば、とリィとシェラが、誰からも忘れ去られながら部屋の隅に所在なく突っ立った、聳える山脈のような体躯を誇る男を仰ぎ見た。
 この場におけるその男の唯一の友人であるウォルが、明らかに『しまった、すっかり忘れていた』という顔をした。
 四色四対の瞳が初めて自分に集中するのを感じながら、黒いスーツに身を包んだ大男、ウォルの特殊警護官であるヴォルフガング・イェーガー少尉は、軽く肩を竦めた。
 もう、それ以外に彼の感情を表現する方法は無かった。
 自分の周りにいる見知らぬ少年二人と青年一人、見知った少女一人は、その優美な姿通りの無害な連中ではない。彼自分もきっとその一人だから分かるのだが、ここは揃いも揃って人外連中の巣だ。
 それに加えて、この時点までを自分の巨体を視界に収めずにいられるとはどういうことだろうか。普通、嫌でも目につくものだと思うのだが。
 こいつらは、とんでもない馬鹿か、とんでもない怪物か。出来れば前者であって欲しい、主に自分自身の人生の平穏のために。
 しかし、こういう時の淡い期待が確定した未来とは逆方向のベクトルを向くものだと知り尽くしているヴォルフは、これ以上ないと言うくらいに憮然としながら天井を仰ぎ見た。
 現在の彼の任務対象たる、黒髪の不思議な少女と知り合って以来なんとなく諦めてはいたが、ここまで露骨な真似をするとは神様は相当に自分の事が嫌いらしいと思った。
 ともかく、内心で自身の平穏無事な人生に心のこもらない弔辞を読み上げたヴォルフは、果たしてこの化け物連中を相手にどのように自己紹介したものかと頭を悩ましたのだ。



[6349] 第十六話:息子の夫
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:56
 惑星ベルトランの中緯度に位置する大陸、その東海岸沿いにコーデリア・プレイス州は存在している。広大な面積のほとんどが温帯気候に属する、過ごしやすい土地柄だ。
 その星の気候の特性上、雨は比較的多いものの、例えばハリケーンやタイフーンといった自然災害が発生することは極めて稀である。地殻活動も落ち着いていることから地震に見舞われることも滅多にない。たまに竜巻の発生が報じられることがあったりするが、現代の優れた天候観測技術と建築技術の進歩によって、近年では被害者がでることはまず無いといっていい。
 しかし、その日、極めて局地的な嵐が発生した。
 場所は、コーデリア・プレイス州でも古い歴史を誇る高級住宅街、その更に最も古い屋敷が集まる界隈にある、築数百年を数える広大な屋敷のど真ん中である。ちなみに、その屋敷は周囲の人間から『薔薇屋敷』、『ドレステッドホール』、『州知事さんのお宅』などと呼ばれていたりする。
 嵐の原因は、その家の、『ちょっと一風変わった』長男であった。
 周囲の住民は、そこに住む一家は父と母、女の子が二人に男の子が一人の五人家族だと思っているが、本当はもう一人、今年で14歳になる長男がいるのだ。
 知らなかったとしても無理もない。その長男が家にいるのは本当に稀なことだったし、地域のイベント――例えばお祭りやパーティーなど――にもその子供が顔を見せたことはないからだ。
 第一、仮に顔を見せていたとしても、その子がヴァレンタイン夫妻の子供であると見抜くことが出来る人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
 黄金を鋳梳かしたような金髪に、最高級のエメラルドも斯くやというほど美しく透き通った瞳、白絹のように滑らかできめの細かい肌と薄薔薇色の頬を持つ、『天使のような』少年。彼が、茶色い髪の毛と同じく茶色い瞳をもった両親から生まれたなど、想像の埒外にある。
 しかし、それでもその少年は、ヴァレンタイン夫妻の、遺伝上の子供であるのは間違いないのだ。
 男女を問わずひたすらに溜息を吐かせるしかないほどに整った容姿のその少年であるが、しかし一風変わっているのは外見だけではない。むしろ、その内に宿った魂の苛烈さに比べれば、その外見の煌びやかなことなどはほんのおまけにすぎないことを、彼に近しい一部の人間は知っている。
 そんな彼――エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタイン、それともグリンディエタ・ラーデンが、珍しく、家に友人を連れてきたというのだ。
 これには家族は一様に目を丸くし、そしてそれぞれの個性に応じた喜び方をした。
 最も直接的に喜んだのは、彼の父親(少なくとも世間一般ではそう呼ぶ)のアーサーであった。
 彼は自分の息子が、良かれ悪しかれ普通の子供ではないこと、そしてただ可愛らしいだけの天使のような子供ではないことを知っていた。よしんば彼が天使だったとして、決して中世絵画に描かれる、美と安らぎをもたらす天使ではない。寧ろ、戦乱と血煙の中にこそ最も映える、戦いの天使だ。
 そんな彼だから、同年代の友人というものが他の兄弟に比べて極端に少なかった。今年で14歳になるが、学校というものに行き始めたのが去年の中頃からだったというのもそれに拍車をかけている。
 だからといって、全く友人がいないわけでもない。彼に相応しく、やはり『ちょっと一風変わった』友人がいるのだ。
 去年、リィが半月ほど姿を見せなくなり、まぁこれもいつものことかと思いながらのんびりと仕事に励んでいたアーサーのもとに、妻から突然電話がかかってきた。

『リィがきれいなお友達を連れてきたのよ』

 彼は一も二もなく仕事を放り出し、午後の予定の全てをキャンセルしてエアカーに乗り込み、法定速度を遙かに超えるスピードで家路についた。
 いつもと同じ家族団欒の風景。そこに加わった、太陽の輝きを固めたように見事な金髪。
 その隣に、月の光を固めたような銀色の頭があるのをアーサーは見つけた。全く少女としか思えない整った顔立ちのその子は、自分は少年だという。
 それが、後に彼の未成年被後見人に収まる、シェラ・ファロットである。
 彼はとても利発な少年で、ロストプラネット出身であるというのに文明に馴染むのも早く、料理や手芸などにも類い希な才能の片鱗を見せた。また非常に礼儀正しく、細やかな気配りも出来、熟練の執事のように落ち着いたところがある。
 そんな少年が自分の息子の友人になってくれたことを、アーサーは心底喜んだ。
 そして、またしても息子が友人を連れてきたという。当然、普通の子供であるはずがないとは確信しているが、自分の息子が友人と呼ぶ存在ならば、世間に溢れる素行不良の少年少女であるはずがない。その点、アーサーはリィを信頼していた。
 その友人がこの家を訪れたのはまだ太陽も残滓を残すような時間ではあったが、今はとうに陽も落ち、もう少しで日付が変わろうという時間である。
 当然、夫妻の子供たちは各々の部屋で眠りについている。チェイニーなどは少々ぐずったが、しかし明日は学校もあるので、渋々と自分の部屋に引き上げていった。
 残されたヴァレンタイン夫妻が今や遅しと待ち構えているのは、ドレステッドホールのもっとも広い居間である。そこは数百年の歴史を誇るその建物に相応しく、荘厳な雰囲気すら漂わせる家具が惜しげもなく配置されている。
 足首が渦もるのではないかと思うほどに毛の長い絨毯は、当然の如く高価な天然素材だったし、驚くべき事に熟練の職人たちが長い年月をかけて手織りしたものだ。
 黒檀のキャビネットに所狭しと並べられた酒瓶は、その一つ一つが平均的な大卒初任給を軽く吹き飛ばす高級酒ばかりだったし、その趣味も専門家を唸らせるほどに凝っている。
 そんなふうだから、コーデリア・プレイス州の州知事を務めるアーサーの高給でも館の維持費を賄うには結構な苦労があったりするのだが、しかしそんなことは子供たちの想像の埒外である。
 ともかく、そんな、一般家庭の水準からすれば溜息しか出ないような高級家具の群れ、その中でも一際古い歴史を誇る柱時計が、重々しく新しい一日の到来を告げたときだった。
 居間で待ち構えていたアーサー夫妻の前に、五人の男女が姿を現したのだ。
 その中にいる、見慣れない二人が、揃って夫妻に挨拶をした。

「初めまして、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」

 黒髪の少女はそう言って軽く頭を下げ、スカートの裾を持ち上げた。

「初めまして、事情があって姓名及び職業は明かせません」

 天を仰ぐような大男はそう言って、武骨に腰を折り曲げた。

「えーと、自己紹介の方が先になっちゃったけど、こっちがおれの伴侶のウォル。で、こっちがその警護官のヴォルフだ」

 リィは、無造作にそう言った。
 リィに紹介された二人は、ぺこりと頭を下げた。
 彼らの後ろで控えるルウは相変わらず満面の笑みを浮かべ、その隣に立つシェラは片頬を引き攣らせて、辛うじて微笑みと呼べる微妙な表情を浮かべている。
 そして、柔らかなソファに腰掛けたヴァレンタイン夫妻は、あんぐりと口を開き、唖然とした表情を浮かべた。
 果たして、彼らは目の前の事態を正確に理解し得たのだろうか。
 まず、黒髪の少女である。
 歳の頃はリィやシェラと同じくらいの、中等教育に差し掛かった頃合いの顔立ちだ。まだまだ幼さを残しつつも、しかしその中に一握りの成熟さをちらつかせた、綻び始めた花のような年齢である。
 その年代の少女に相応しく、まだまだ未完成の華奢な肉付きの体の上に、どこかリィに似た繊細な造りの顔を乗っけている。
 端的に言えば、美しい少女だった。
 同色の瞳と髪の毛、その漆黒の深さは彼らの背後に設えられた窓ガラスの奥にある、夜の闇よりもなお濃い。だからといってその少女の纏った雰囲気のどこにも暗いものは無い。それは、その漆黒が光を飲み込んでいるからではなく、しっかりと光を跳ね返しているからだ。
 然り、きらきらと輝く大きな瞳と艶やかな髪の毛は、少女の人形の如く整った相貌に生気を吹き込み、それが生きた人間であることを教えてくれる。その見事さは、しっかりと分別を備えた大人であるアーサーに感嘆の溜息をつかせるほどだった。
 しかし、少女を見たアーサーは、内心で首を捻った。
 彼の知るこの年齢の少女は、もっと、良く言えば溌剌さ、悪く言えば落ち着きの無さが目立つものだ。少女がどういう生まれの人間かは別にして、普通ならばこんな時間に他人の家――しかもこれだけ豪奢な――にいれば緊張の一つもするだろうし、そわそわと落ち着きのないところを見せたりもするものだ。
 彼の娘であるドミューシアなどを例に出すまでもなく、それが世間一般の常識というものだろう。
 それに比べて、黒髪の少女の、小憎たらしくなってしまうほどに落ち着き払った様子はどうだろう。口元に優雅な微笑みを浮かべ、視線をあちこちに彷徨わせることもなく正面からこちらの瞳を覗き込んでくる。
 これでは、まるでどこかの国の姫君のようではないか。
 だとすれば、少女の隣に立つ、もう少しでドレステッドホールの高い天井に届くのではないかという長身を誇る男の存在にも理解が出来るというものだ。一国の王妃であれば、お付きの警護官の一人や二人、いないほうがおかしい。
 だが、やはりアーサーはどうにも納得出来なかった。
 厳めしいという単語を体現したような、その男。彼が身に付けているのは、如何にも要人警護官が好みそうな黒一色のスーツである。
 それ自体に不審はところはないのだが、しかしどうにも取って付けたような感があるのが否めない。加えて、本物の警護官が身に付けるスーツにしてはあまりに質が悪すぎる。
 更に言えば、どうにもその肉体とスーツのバランスが取れていない。例えば、普段は荒事に従事しているやくざものが、いきなりその組長の娘の警護を任されて慣れないスーツに体を押し込んだような、ちぐはぐな印象である。
 白いワンピースで着飾った少女と安物の黒いスーツを身に纏った巨漢は、見た目からしてそんなだったから、さしものヴァレンタイン夫妻も言葉も無く茫然と二人を見上げていた。
 そして、その混乱は、リィの一言によって取り返しのつかないほどに加速した。
 自分で姓名は明かせないといいつつあまりにもあっさりとその姓名を明らかにされてしまった大男。ヴォルフというのは、おそらくその愛称だろう。
 彼の説明はいい。彼が要人警護官であるというのはある意味予想通りだ。きっと、叩き上げの軍人か何かが上官の命令で仕方なく警護任務に就いているのだろう。ならば、その物々しい雰囲気と似合わないスーツ姿とのギャップにも説明がつく。
 しかし、もう一人、黒髪の少女の説明については……。

「り……りぃ?」
「どうしたアーサー」

 リィは、土俵際ぎりぎりいっぱいのところで現実にしがみついているアーサーを、無慈悲とも呼べるような視線で眺め遣った。

「おい、どうしたアーサー。顔が青いぞ」

 普段なら『僕のことはお父さんと呼べ!』と顔を真っ赤にして叫ぶアーサーは、客人の手前だからという至極もっともな理由以外の理由でもって、怒声を飲み込んだ。
 いや、飲み込んだというよりは、怒声を出す気力さえ持って行かれていた。

「ぼ……僕の聞き間違いだろうか。お前は今、このお嬢さんのことをなんて呼んだ?」

 狼狽しきったアーサーの視線を受けて、リィは軽く肩を竦めながら言った。

「もう一度言うぞ。これはおれの伴侶、要するに配偶者のウォルだ」
「初めまして御父様。リィの伴侶の、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンでございます」

 リィに比べれば上手に事態を飲み込めているはずの元国王は、如何にも高貴な生まれの少女らしい口調であらためて自己紹介をした。
 その頬には、作り物ではない微笑が浮かんでいる。それは、スーシャの山猿と呼ばれた悪童が、父親に悪戯を仕掛けたときの笑みだった。
 目の前で朗らかに微笑む完全無欠のお嬢様が自分の息子のであるという、正しく青天の霹靂とでもいうべき事実を聞かされたアーサーは、いっそ気の毒なほどに表情から色を消した。普段は血色の良い頬が青ざめて、蝋か雪かという有様である。
 明らかに茫然自失の態で黙り込んでしまった彼の隣で、その妻であるマーガレットは一足早く我を取り戻し、恐る恐ると尋ねた。

「ねぇ、リィ。じゃあ、この可愛らしいお嬢さんと結婚したの?」
「うん。途中で邪魔が入っちゃったけど、一応式は挙げたよ」

 この世界でのことではないが。

「まぁ、まぁまぁまぁ……」

 口に手を当てて驚きながら、しかしマーガレットはとても嬉しそうだった。
 彼女は、リィが自分のお腹を痛めて産んだ我が子であると知りながら、しかし自分がこの少年の母親ではないと理解していた。それに、彼が普通のお嫁さんを迎えられる程に、普通の少年ではないことも。
 しかし、いや、だからこそマーガレットは、リィが心から愛し、そしてリィのことを心から愛してくれる義理の娘の存在を心から喜んだ。本当はそれほど心温まる事情で結ばれた婚姻ではなかったのだが、しかしそれを知らないことについて彼女には一切の責めはない。
 ともかく、マーガレットは少女の存在を受け入れた。それも、己にとっての義理の娘として。

「ねぇ、あなたのことは何てお呼びしたらいいかしら?」
「如何様にでもお呼び下さい、御母様」
「じゃあ、リィと同じように、ウォルって呼んでいい?」

 少女は嬉しそうに頷いた。少なくとも、それは少女にとっての本心だった。
 一応の意思疎通の出来た二人の女性に比べて、アーサーの精神的再建は遅れに遅れた。
 彼は、自身の息子であると信じて疑わないリィが、どれほどに特異な存在かを理解していたので、彼に結婚相手が見つかるとは到底思えなかったのだ。
 無論、人の視線を惹き付けて放そうとしないほどに整った容姿のリィであるから、黙っていれば彼に想いを抱く異性の百人や二百人くらいは簡単に見つかるだろう。
 しかし、その恋人候補がどれほど熱烈に言い寄ったところで、リィはけんもほろろに断るに違いない。まして結婚など、一生を同じ女性と共に添い遂げるなど、想像の水平線遙か彼方の出来事である。
 何か事情があるに違いないと思ったアーサーは、あらためて少女を眺めた。
 そして、気付いたのだ。その少女の衣服が所々破れ、その白い素肌の至る所に青あざが出来ていることに。
 悪戯好きの腕白坊主――例えばチェイニーのような――ならば生傷をこしらえて家に帰ってくるのも珍しいことではなかったが、しかしこれほど清楚な雰囲気を身に纏っている少女が身体中に傷をこしらえているのは尋常なことではない。
 そこで、一体どのようなシナプスが回路を繋いだのかは不明だが、普段からアーサーの脳内で忙しない働きを見せる電気信号が、とんでもない誤作動を起こした。
 単純に彼を責めるのは酷だろう。彼はいわゆる常識人であって、その中においては寧ろ広い度量と寛大な心を併せ持っているのだから。
 この場合、悪かったのは、少女――というよりはその周囲の状況であった。
 あまりにか細いその少女と、彼女を取り囲む四人の男。しかも、その一人は凶悪犯も裸足で逃げだすような、厳めしい顔つきの大男である。彼は少女のボディガードだと言うが、番犬が狼に変じた例など枚挙に暇がない。
 そして少女の身体は、数え切れないような擦り傷やら青あざやらで飾られている。
 何より悪かったのが、足下から腰の辺りまで一息で破られたような、ワンピースのスカート部分である。その隙間から、艶めかしいほどに白い、少女の太腿がちらりと見えていた。
 それを見て、アーサーは愕然とし、悄然とし、最後に意を決したように立ち上がった。

「お嬢さん……」

 見た目はお嬢様以外の何者でもないウォルの返事を待たず、アーサーは跪き、絨毯の上に額を擦りつけた。
 土下座である。
 これには、流石のウォルも目を丸くした。
 もしかしたら不審人物として誰何されることはあるかも知れない、万が一なら警察に突き出されることもあるかも知れないとは思っていたが、このような事態は想定していなかった。

「あ、あの、ヴァレンタイン卿?」
「申し訳ありませんでした!」

 特大の猫を脱ぎ捨てていつも通りの口調で話しかけたウォル、しかしその言葉ですら今のアーサーには遠すぎた。

「息子があなたにしでかした非道、許してくれとは口が裂けても言えません!言えませんが、しかし息子はまだ未成年なのです!まだまだ精神的には未熟で、抗いがたい獣欲に身を委ねてしまっただけなのです!」

 法律上、そして遺伝上の父親であるアーサーの突然の奇行に、流石のリィも唖然としてしまった。
 果たして何事が起きたのかと隣で立つシェラに目配せをしたが、しかしこちらも訳が分からないという有様で首を横に振る。
 こうなると、流石のリィもお手上げである。素直にアーサーに尋ねた。

「おい、アーサー。お前、何をしてるんだ?ついに頭がおかしくなったか?頭がおかしくなるくらいに忙しいなら、知事なんて辞めたらどうだ?」

 暢気なリィの言葉に、アーサーはきっと顔を上げ、激しい形相で我が子を睨みつけた。

「エドワード!お前、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

 リィは訳も分からず、シェラに問いかけた。

「何をしたんだ、おれは?」
「さぁ?」

 こうなるとシェラも何が何だか分からない。
 平然と肩を竦めた二人に煽られたように、アーサーの怒気は燃えに燃え盛った。そして、そのままの口調で詰問した。

「さっき、僕と約束しただろう!」
「何を?」
「自分を信頼することをだ!」

 そういえば、そんなことも言っただろうか。

「それがこの有様か!僕は、お前は変わった子だが、絶対に約束は破らないと信じていたのに……!謝れ!このお嬢さんに、心の底から謝れ!」

 アーサーは立ち上がり、リィの襟首を締め上げた。
 大人の中でも立派な体格を誇るアーサーと、まだまだ子供と青年の中間くらいの体つきのリィである。どうみても折檻している父親と折檻されている息子にしか見えない。
 しかし、その息子が見た目通りに可愛らしい存在ではないことを知り尽くしているシェラやウォルは、肝を冷やした。リィは、身に覚えのない侮辱や乱暴を、笑って許せるような平和主義者ではないことを骨の髄にまで思い知らされていたからだ。
 然り、リィの緑色の瞳に、灼熱にも似た剣呑な光が宿る。
 そしてそれが爆発しようとした直前のことである。

「うん、危ないからそこまでにしときな」

 立派な体格を誇るアーサーの背後に、もはや縮尺が狂ったとしか思えない程に巨大な大男が足音もなく回り込み、大蛇の胴体のように太いその腕をアーサーの首に巻き付けた。
 息を詰まらせたようなアーサーの声が短く響き、直後にその体は力無く絨毯の上に崩れ落ちた。
 時間にして一秒か二秒ほどの出来事であった。

「何するんだ、ヴォルフ」
「あーっと、ごめんなぁ」

 腕を振り上げかけたリィの不機嫌な声に、大男、ヴォルフは素直に頭を下げた。
 そして、その大きな手で、足下のアーサーをひょいと担ぎ上げた。ほとんど重さを感じていないような、空気人形を担ぎ上げるように何気ない動作だった。

「でもさ、あんた、この男を殴ろうとしただろう?」
「ぎゃあぎゃあうるさいから、静かにさせるだけだ」
「それでも、殴ると体が痛むからなぁ。首を絞めて落とす方が、何倍も安全だろう?」

 これに関しては完全にヴォルフの言うとおりである。チョークスリーパーとか裸締めとかいう技は、その残酷な見た目や効果とは裏腹に、引き際さえ心得ておけば人を取り押さえるのには極めて有効である。
 当然、素人が行えば酷く危険であるが、格闘技の熟練者が頸動脈を上手に締め上げて血流を阻害すれば、人はいとも容易く気を失う。俗に言う『おちる』というやつだ。
 それに比べて、殴って人の意識を奪うのは想像以上に難しく、そして危険を伴う。腹部を狙えば内臓破裂のおそれが、頭部を殴れば脳に相当のダメージが残る。
 むろんその程度のことを知らないリィではない。そして、ヴォルフとて、リィがその程度のことを弁えていないとは思っていない。
 だから、これは純粋にヴォルフのお節介である。そして、不当な暴力に晒された、リィの報復の機会を奪う行為でもある。
 リィは諦めたように苦笑し、そして言った。

「出過ぎるなよ」
「うん。悪いなぁ。でもさ、俺、親父がいないからなぁ」

 肩に担ぎ上げたアーサーをそのままに、空いた方の手で頭をこりこりと掻きながら、ヴォルフは言った。
 
「やっぱり、親父とおふくろは大切にしないといけないと思うんだよぅ」
「もっともだ。でも、それとこれとは話が別だ。不当な暴力を許しておくつもりはない」
「うん。それはその通りだなぁ」

 ヴォルフはもう一度リィに頭を下げて、それからソファに腰掛けたままのマーガレットのほうに向き直った。

「あの、すんませんでした。警察とか、呼んで貰ってもいいです」

 今にも泣きそうな顔をした巨漢に頭を下げられて、今ひとつ事態に追いつけていなかったマーガレットは、ちょっとだけ曖昧な笑顔を浮かべて、言った。

「ええと、ヴォルフさん、でしたっけ?」
「うん……はい」
「ありがとう、夫を助けてくれて。もう、リィだったらきっと、骨の一本も叩き折っていたでしょうから」

 それは少々控えめに過ぎる表現なのではないだろうかと、いざという時は止めに入ろうと身構えていたルウは思った。その思いは、シェラとウォルも共有していたものだった。
 
「それにしてもこの人、どうしてあんなことをしたのかしら?」

 マーガレットは、その少女のような顔立ちに相応しく、可愛らしく小首を傾げた。彼女の知る夫は、少し融通の利かないところはあったが、だからといってこのように有無を言わさぬ調子で息子を怒鳴りつけることはなかったというのに。
 どうやら警察に突き出されることはないらしいと安堵したヴォルフは、ほっとしたような様子で言った。

「この男はさ、勘違いをしていたんだよ」
「勘違い?」
「ああ。ウォル。お前さんがリィに乱暴されたと思ったんだろう」
「はぁっ?」

 素っ頓狂な声が、夫婦の口から同時に飛び出た。

「おれが、こいつを乱暴したぁ?」

 指で自分の顔を差しているあたり、リィも平静ではない。
 しかし、一応は第三者として状況を眺めることの出来るシェラは、なるほどと思った。
 先ほどの、この屋敷を揺るがすような大きな音。実際は半狂乱のルウがウォルを弾き飛ばした音なのだが、あのとき部屋にいなかった人間にはそんなことはわからない。分かるのは、リィの自室から大きな物音が響いたという、その一事のみである。
 そして、その後に顔を見せた少女の身体には至る所に生傷が拵えられており、その衣服も乱れに乱れている。しかも、ワンピースのスカート部分には力任せに引き千切られたように無惨な縦裂きが出来ているのだ。
 なお悪いことに、あのとき部屋にいたのは、少女を除けば男ばかりであった。
 これらを、やや強引ながらも一本の紐で括ってみる。
 何かの経緯があって息子の自室に招かれた深窓の令嬢が、やはり何かのきっかけで燃え上がった男連中の獣欲に晒され、精一杯の抵抗をし、逃げようとする、しかし無情にも彼女を捕らえ、手酷く投げ飛ばすリィ。そして盛大な音が屋敷に響く。その後も抵抗を試みる少女だったが、身体中に青あざを作るほどの暴力の前に心も萎え、いずれ男達の慰み者に……。
 どう頑張って想像の翼をはばたかせても想像できない光景であったが、配役をリィや自分から、どこぞの国の王子様あたりにでも置き換えてやればあり得ない光景ではないだけに、シェラの表情もやや苦かった。もう少し、配慮というものがあってもよかったかも知れない。
 そして、突然のリィの言葉に混乱したアーサーが誤解したとしても無理はないなと、シェラは内心でアーサーにお悔やみの言葉を述べた。
 遅ればせながらにリィやウォルもそのことに気がつき、呆れというよりは感嘆の溜息を吐き出した。

「なるほどなぁ……。そういうふうにも理解できるわけか?」
「しかしリィよ。俺はお前と結婚しているのだぞ」

 ウォルの言葉遣いに事情を知らないマーガレットは目を丸くしていたが、しかし素知らぬふうでウォルは続けた。

「妻が夫を押し倒したところで犯罪にはならんと思うのだが、この国では違うのか?」

 事実には即しているのだが、実に微妙な言い回しである。微妙すぎて、マーガレットはそれがただの言い間違いだろうと思った。

「それは違うぞ、ウォル。例え婚姻していたとしても、強姦罪は立派に成立する。事実、あのろくでもない王子とおれは、あの国の法律では結婚させられてたんだ。もしもあのままおれが手籠めにされてたとして、お前は法律的に何の問題もないと笑って済ませたか?」
「ふむ。そう言われればその通りだな。栓のないことを言った」
「あの、ウォル?」

 マーガレットが、再びおずおずと尋ねた。
 ウォルは、自分を見上げる茶色い瞳を、真っ正面から見つめ返した。

「あなたも、その……そうなの?」

 そうとは、要するにリィと同じ世界に住む生き物なのかと、そういうことだ。
 ある程度は彼女の意図するところを読み取ったウォルは、少女にはやや似つかわしくないような太い笑みを浮かべた。

「いや、失礼した、ヴァレンタイン夫人。もう少し深窓の令嬢というのを演じてみても面白かったのだがな、しかしこんな事態を起こすとは思いもしなかったのだ。やはり慣れないことをするものではない。こういうことは、専門家に任せるべきだ。なぁシェラ」
「いきなり話を振らないで下さい、陛下」
「これは失礼した、ファロット伯」

 絶句したシェラを片目に、ウォルは実に楽しそうに微笑んでいた。
 どうやらこれは見た目通りの少女ではあり得ないと、マーガレットも悟った。
 そして、この少女のことを、先ほどまでよりもいっそう大好きになってしまったのだ。

「ねぇウォル。あなたは本当に、リィの奥さんなの?」
「それは違うよ、マーガレット。こいつがおれの奥さんなんじゃあなくて、おれがこいつの奥さんなんだ」
「でも、この人は女の子で、あなたは男の子でしょう?」
「前に一度話しただろう?おれは六年間、別の世界にいたんだ。その時のおれは女の子の体で、こいつは男の体だった。だから何の不都合もなかったんだよ」

 端から聞けば誰しもが頭を抱えざるを得ない無茶苦茶な理屈だが、その方面には人並み以上の理解の深いマーガレットであるから、きちんと納得した。
 何より、自分のお腹を痛めて産んだリィがそう言っているのだ。自分が信じないで誰が信じてやれるだろう――などという悲愴な覚悟も無くその言葉を信じたマーガレットは、無邪気な調子で言った。

「じゃあリィ、あなたはこのお嬢さんのお子を授かったの?」

 間違えても息子に言う言葉ではない。

「冗談。おれは一度だって男に体を許したことはないぞ」
「でも、この人のお嫁さんだったんでしょう?」
「あれは、そういう結婚じゃなかったんだよ。だから、おれ達もそういう夫婦じゃなかった。言うなれば、同盟者の誓いってところが一番近いのかな?ま、そんな大したもんじゃないさ」

 リィは微妙にはぐらかした。これ以上マーガレットの質問に正直な返答をしていたのでは、いずれ自分が王妃としてその国の国王と結婚したのだということを言わなければならない。そこまでならともかく、その先、戦女神として多数の人間を殺したことまでは出来れば教えたくはなかった。
 その気配を察したのだろうか、マーガレットもそれ以上は問わなかった。
 その代わりに、こう言った。

「そう。残念な気もするけど、でも私もまだまだお婆ちゃんにはなりたくないし、よかったのかも知れないわね」
「とんでもない。何も知らない人が見れば、マーガレットはドミのお姉さんにしか見えないのに」
「ふふ、ありがと、リィ」

 とんでもない母親と息子の会話に、シェラなどは、やはりこの人がリィの母親なのだと首肯した。この人以外、どんな人間にだって、仮初めとはいえリィの母親を務めることは不可能に違いない。
 同じ思いを抱いた黒髪の少女は、あらためてマーガレットの前で深く腰を折った。
 それは、国王として70年の歳月を生きた、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンに相応しい、重厚な挨拶であった。
 
「お初にお目にかかります。私の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない別の世界であなたの息子を妻に娶り、そして言葉では到底表しきれないような恩義を受けてきました。ヴァレンタイン夫人、彼を産んで頂いてありがとうございます。あなたの息子は、私を含めた多くの人間にとって、正しく太陽だったのです」
「デルフィニアの太陽って呼ばれてたのはお前じゃなかったのか?」
「その太陽とて、お前がいなければ無限の闇の中で朽ちていた。リィ、お前も違いなく、デルフィニアの太陽だったのだ」
「それは大変だ。太陽が二つもあったら暑くて叶わない」

 どちらかというと寒さよりも暑さのほうが苦手なリィは、苦笑しながらそう言った。
 そして思った。あちらの世界の裏側に生きる魔法使いたちは、一つの世界に二つの太陽が存在することは危険なことだと言っていた。ならば、こちらの世界に自分とウォルがいるのも、やはり危険なことなのだろうか。
 一度、デモンあたりに聞いてみようと胸に止めながら、しかし危険であったとしても自分にはたった一つの選択肢しかないことを、彼は知っていた。
 世界と戦友。果たしてどちらが大切かなど、リィにとってはあらためて思いを巡らす程度のことでもなかったのだ。

「ところで、この男、どうしたらいいかな」

 またしても忘れ去られようとしていた大男は、自分の肩に担ぎ上げたアーサーを指さして、言った。
 意識を失った夫のことを忘れかけていたマーガレットは、少し慌てた調子で立ち上がった。

「あの、ヴォルフさん。申し訳ありませんけど、その人を寝室まで運んで下さる?」
「はい、おやすい御用です」

 正しくおやすい御用といった有様で歩き出したヴォルフに、ウォルは言った。

「ヴォルフ殿、俺も一緒に連れて行ってくれんか?」
「ああ、ウォル、お前、足を怪我してたんだっけか」
「うむ、折れてはいないと思うのだが……」

 少女の左足首は、痛々しいまでに腫れ上がっていた。
 そのことに今の今まで気がつかなかったマーガレットは急いで台所に走り、冷蔵庫から氷嚢を取り出し、包帯と一緒に持ってきてウォルの足首に巻き付けた。

「すみません、ヴァレンタイン夫人」
「ううん、ちっとも気にしないで。だって、リィの旦那さんなら、私の息子も同じだもの。でも、今は娘かしら。だから、そんな堅苦しい呼び方はしないでね」
「では……義母上とお呼びしても?」
「まだ堅苦しいわ。お義母さんって呼んでくださらない?」

 ウォルは苦笑した。彼の歳になって――見た目はまだ13歳程度の少女なのだが――初めて出会う女性を『お義母さん』と呼ぶのは、少なからぬ抵抗があった。
 そのことを察したのだろうか、マーガレットもそれ以上何も言わなかった。
 そんな二人を眺めながら、これで少しは自分に対する風向きも緩やかになるだろうかと、シェラは淡い期待を抱いた。何せ、次に出会ったときは偉大なる大英雄のことを『ウォリー』と呼ばなくてはならない彼である。自分の苦悩を、少しだけでも分かって欲しかった。
 ともかく手当の終わったウォルは、部屋の中に入ってきたときと同じように、ヴォルフに首根っこを摘み上げられながら部屋を後にした。
 かつて軍神と呼ばれた威厳の欠片もないその姿に、シェラは呆れたような声を出した。

「リィ。この世界では、妙齢の女性をあのように扱うのが作法なのですか?」

 リィも首を捻った。

「多分違うと思うけど、当の本人が嬉しそうなんだからいいんじゃないのか?」

 元の姿は堂々たる体躯を有する武人であったウォルであるから、今の体勢のように、自分の体が軽々と持ち上げられるという事実が新鮮で楽しいらしいのだ。
 普通の男なら元の体を恋しがって『このような屈辱に甘んじる覚えはない!』とでも気炎を上げるのが当然なのかも知れないが、そういう当たり前の意地というものが自分の夫には無縁であることを熟知しているから、今さらリィは驚かなかった。
 ただ、呆れてはいた。

「あれじゃあ母猫と子猫だ」
「あんなに物騒な猫の親子がいるなら、見てみたい気もしますが……」

 茫然とした二人の会話を尻目に、そわそわとしたルウがいた。

「……あのさ、シェラ。マーガレットと一緒に作ってくれたお菓子って……」

 この黒い天使は、先ほどまでの会話を聞きながら、しかしお腹の虫をあやすのに全勢力を傾けていたらしい。
 シェラは、慌てた様子で答えた。

「あ、それなら台所に。今から食べますか?」
「食べる食べる!」
「……太るぞ、ルウ」

 リィの忠告は、目を輝かせたルウには届かない。そもそも、彼が人間のように、夜遅くにお菓子を食べたくらいで太ったりするはずがないのだ。
 喜び勇んで台所に向かうルウを追うように、シェラも台所に向かった。

「では、お茶でも淹れましょう。リィ、あなたはどうしますか?」
「もらうよ。砂糖は……」
「ええ、一粒だって入れませんよ」

 長い付き合いの二人であるから、言うまでもないことではあった。

「僕のは砂糖とクリームたっぷりね!」

 ルウが台所の方からひょこりと顔を出した。

「ブランデーを垂らしてくれると嬉しい。あと、焼き菓子は俺とヴォルフ殿の分も残しておいてくれるとなお嬉しい」
「えーと、俺も食べていいのかな?」

 廊下の方からにゅうと顔を出したのは、ヴォルフに摘み上げられたウォルと、その保護者然としたヴォルフであった。
 薬缶に大量の水を注ぎ込んでいるシェラは、果たして小包いっぱいの焼き菓子で足りるのだろうかと訝しがり、今ある材料で手早く作れるレシピに思いを馳せたのだった。



[6349] 第十七話:優しい夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:57
「う……ぅ……」

 優しい橙色の灯りの中で、アーサーは目覚めた。
 ゆっくりと体を起こそうとすると、支えにした手が柔らかく沈み込む。その時点で、自分が横になっているのが、いつもと同じ寝台の上であると気がついた。
 
 ――いつの間に僕は寝台に入ったのだろうか……。

 普段の行動だから一々覚えていないと言ってしまえばそれまでだが、どうして自分がここにいるのか、その記憶がすっぽりと抜け落ちている。
 それでも何とか体を起こし、ぼんやりとした思考に活を入れるべく頬を叩く。それは、夢の世界からの誘惑を断ち切るための儀式であった。

「お目覚めになりましたか」

 そんなアーサーの頭に、典雅さと朗らかさが絶妙のバランスで混在した、耳に心地よい声が飛び込んできた。
 どうにも聞き慣れないような、しかしごく最近聞いたような不思議な感覚に頭を捻りながら、それでも声の主の方に体を向ける。
 そこには、黒髪の少女がいた。
 その声に相応しい優雅な微笑みを浮かべ、ベッド脇の椅子に腰掛けている。
 アーサーはあらためて目を見張った。
 美しい少女である。それも、ただ美しいだけではない。
 容姿が整っているというのであれば、彼の娘であるドミューシアも相当なものだ。無論、それよりも美しい少女だって、この広い共和宇宙を探せば無数に見つかるだろう。
 しかし、この少女の美しさは何かが違う、とアーサーは思った。
 言葉には出来ない。彼の頭に詰まった豊かな語彙力でも、それは到底不可能だった。
 それでも敢えて少女の美しさを称えるならば、彼女を象徴する、瞳と髪の黒さだっただろうか。
 どこまでも黒く、暗さや穢れなど微塵も感じさせず、こちらの瞳孔を焼くような光を放つ瞳。アーサーは、遠い昔に妻に送った、南方の海で採れた黒真珠で作った耳飾りを思い出した。
 そして、夜空を鋳梳かして梳き上げたよう髪の毛。世の女性に、嫉妬を越えた感嘆の溜息を吐かせるしかないそれは量に豊かで質も良く、腰にかかるほどに長く、ほんの少しの癖だってありはしない。語弊を恐れずに言うならば、しなやかな黒い針のように鋭く美しい髪だった。
 例えば、この広大な宇宙で最高の腕を誇る人形師が、金に糸目を付けずに集めた最高級の素材で、その魂と命を込めて一体だけの人形を作り上げるならば、このような少女が出来上がるのかも知れない。
 アーサーはぼんやりと、そんなことを思った。

「え……と、君は……?」
「あらためて自己紹介をさせて頂きます。私の名前はウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」

 少女は輝くような笑みを浮かべ、言った。
 アーサーは既に酸いも甘いも知り尽くした政治家であったが、しかしこの少女が浮かべる、真っ正面からの微笑みには面食らった。別に疚しい心があったわけではないが、何故か自分の汚い部分を糾弾されたような、そんな気がしたのだ。
 それでもアーサーは名うての政治家である。内心の動揺は一切表に出さず、かたちだけは完璧に礼を返した。

「ご丁寧な挨拶をどうも。私はアーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタイン、このコーデリア・プレイス州の州知事を務めております」

 片方が自宅のベッドで何とか体を起こした壮年の男、片方がその椅子に腰掛けた少女という二人の間で交わされたにしては何とも異質な挨拶であったが、少女はともかくアーサーはそのことに気がつかなかった。
 彼にとって重要なのは、何故自分の寝室に、見知らぬ――しかもこれほどに美しい――少女がいるのか、その一点であったのだ。
 アーサーは、大人の男として当然な程度には酒を嗜んだ。それも、我を失うほどに酒が好きというわけではないが、酒豪と呼んでも過言ではないほどに酒には強い。だから、意識を失うほどに酒を飲んだことは今の今までなかったはずだ。
 今だって、二日酔いに特有のどんよりとした頭痛は無い。むしろ、連日徹夜でこなした重要事案の審議が終わり、その後で二十四時間の睡眠を貪った時のように、心地よい爽快感がある。
 にもかかわらず、何故自分が自宅のベッドで横になっていたのか、それがさっぱりなのだ。そして、何故見知らぬ少女が隣にいるのかも分からない。
 そこまでいって、アーサーの脳裏に、最悪の想像が浮かんだ。
 もし、もしもである。自分が訳の分からぬ薬物などで意識を奪われ、この少女に手を出していたのだとしたら……?
 自分は二重に許されぬことをしたことになる。
 一つは、年端もいかない少女を手籠めにしたこと。もう一つは、愛する妻を裏切ったこと。
 万が一、いや、それ以下の確率であったとしてそんなことをしでかしていたら、彼の剛胆な精神は木っ端微塵に砕け散るだろう。
 激しい動悸に襲われる心臓を何とか宥めながら、彼はやっとの思いで口を開いた。
 そして、擦れた声で問うた。

「あの、ミス・デルフィン。つかぬ事を伺いますが、あなたは何故私の家に……?」
 
 もう、罠が張り巡らされた真っ暗闇の森を手探り歩くように、この上ないほどに恐る恐ると言った調子だった。
 アーサーにしてみれば、これなら四肢を縛られたあげく、牢屋のようなところで目覚めた方が幾分マシだったと思っただろう。
 ごくり、と、生唾を飲み込んだ音が盛大に響く中、彼は審判を待つ罪人のように、少女の声を待った。
 そして少女は、先ほどと同じような朗らかな調子で言った。

「ヴァレンタイン卿。私は、あなたのご子息に懇意にさせて頂いております。その縁で、このようなかたちで貴宅にお邪魔させて頂くことになりました」
「ご子息というと……エドワードですか?」
「私はリィとお呼びしております」

 その時点で、朧気ながらに大まかな事情を思い出した。
 確かに、あの変わり者の息子が友人を連れてくると言っていた。
 しかしそれが、これほどに美しい少女だったとは……。
 アーサーは純粋な意味で、目の前の少女に興味を抱いた。
 
「ミス・デルフィン。不躾な質問をお許しください。その、あなたとエドワードは、どのような関係で……?」

 少女は、寸分も表情を崩さずに、事実を告げた。

「彼は、私の伴侶です」

 にっこりと微笑むその様子に、こちらを騙してやろうという悪意や、冗談を言っているような無邪気なところは一切無い。そんなもの、巧言と虚飾と面従腹背の海を泳ぐ政治家であるアーサーに通用するはずもないのだ。
 だからこそ、アーサーの後頭部にとどめの一撃を叩き込むに十分過ぎるほどに十分な、殺傷力を備えた巨大ハンマーの一撃だった。
 
「あ、あの、伴侶、とは……?」
「言葉通りですわ。私とリィは、誓約の神の前で永遠の愛を誓い合ったのです」

 これも完全な事実だ。
 アーサーは、もはや泣き出しそうな顔になった。
 そして、ついにと言うべきかようやくと言うべきか、自分が気絶するに至った経緯を思い出した。
 今は、おそらくドミューシアの服だろうか、幾分活動的な服装に身を包んでいるこの少女が、さっきはどのように無惨な様相だったのか。この美しい少女をそんなふうにしたのが誰なのかを思い出したのだ。

「ミス!どうか、どうか息子を許してやって下さい!」

 先ほどと同じように、今度はベッドの上で土下座をした。

「必ず責任は取らせます!自分がどのように卑劣なことをしたのか、思い知らせます!無論、私の力の及ぶ範囲で、あなたには如何なる償いもさせて頂きます!ですから、ですからどうか警察にだけは連絡しないで頂きたいのです!」

 無論、リィは警察に連絡されなければいけないようなことはしていないし、ウォルだってされていない。
 だが、ウォルは少し疑問に思った。
 目の前で、体を縮ませながら必死で謝罪するこの男性は、見たところ公明正大を絵に描いた人間のような気がする。反面、堅苦しくて融通が利かないところも目立つようだが、しかし息子が非道を働いたのならば寧ろ進んで官憲に突き出すような気がするのだ。
 それが、何故こうまでしてリィを庇うのか。当然、我が子のこととなれば他の道理を引っ込めても庇おうとするのが親の心理かも知れないが、どうにも腑に落ちなかった。
 だから、ウォルは少しだけ悪戯っけを出して、聞いてみた。

「ヴァレンタイン卿。私はこの星の常識には未だ疎いのですよく分からないのです。ただ、責任を取らせると言っておいて警察に知らせるのは嫌だというあなたの言い分には違和感があります。それは些か虫がよい話なのではないですか?」
「あなたの言うとおりです、ミス。罪には相応の罰があるべきで、それは断じて国家以外の何者が行っても良いものでもありません。ですから、私は即座に息子を警察に突き出すべきなのです」

 しかし、とアーサーは続けた。

「その……非常に申し上げにくいことなのですが……私はエドワードに関する限りにおいて、政府に一切の信用を置くことが出来ません。私自身が政治に関わる職を選んでおいて笑止な限りでしょうが、しかしこれだけは曲げることが出来ないのです。だから、私は如何なる事情があろうと、息子の身柄を政府に預けることは到底容認出来ない。それをするくらいなら、私はあなたの非難を覚悟の上で、この事件を闇に葬るためにありとあらゆる手段を選ぶでしょう」
「それは脅迫ですか?」
「はい、脅迫です。それ以外の如何なる言葉を使っても、甘言蜜語の域をでない。それだけ、私がしようとしていることは卑劣極まることなのですから」

 苦渋に満ちた表情で、アーサーは言った。

「金銭で解決できるならば、私はこの家屋敷を売り払ってでもあなたに賠償させて頂く。犯罪者の父親が知事の職に就いているのが気に食わないならば、即刻議会に辞表を提出させて頂きます。無論、この事件が明るみに出れば次の選挙の落選は免れないものではあるのでしょうが――。それでも気が収まらないのであれば、私を如何様にでも痛めつけて頂いて結構です。ですから、どうか息子を警察に突き出すのだけは……勘弁願えないでしょうか?」

 ベッドの上で土下座をするという滑稽な姿勢のまま、アーサーは拝むように少女の黒い瞳を覗き込んだ。
 ウォルは、そろそろここらが引き際かと思い、アーサーの肩に手をやった。

「ヴァレンタイン卿。まず、最も根本のところで誤解があるようですわ。私は、リィを含めたあの四人から、如何なる暴力も受けておりません」

 この言葉に、アーサーは安堵したと言うよりも、むしろ唖然とした。

「……そのような気休め、不要です。あなたの身体中に刻まれた傷とあの格好を見れば……」
「では問いましょう。ヴァレンタイン卿、あなたの愛するご子息は、一時の劣情に身を任せて、女性の貞操を踏み躙るような男性ですか?あの誇り高き金色の狼は、その程度の俗物ですか?」

 顔を上げたアーサーは、怒りにも似たようなものを瞳に宿らせながら、目の前の少女を睨みつけた。

「違う。断じて、そんなことはない。あれは、そのように卑劣なことができる人間では、絶対にない」
「では、何故あなたは私に頭を下げているのですか?それでは、あなたが彼を信じていないという証左になってしまいますよ」

 少女はくすくすと上品に笑い、その口元を白い手で隠していた。
 どうやらこれは本当に、何も無かったらしい。
 しかし、念には念を入れてと言うか、アーサーはもう一度だけ質問した。

「あの、エドワードは、あなたに暴行を働いたのでしょうか?」
「いえ。誓って否定させて頂きます。私の同盟者は、そのように卑劣な手段をもって女性を己のものとするような不届き者ではありません」

 ウォルは、自信満々に断言した。
 アーサーはそのことに安堵すると同時に、自分が如何にみっともない格好をしているかを思い出し、再び跳び跳ねるようにして姿勢を正した。

「こ、これはみっともないところを……」
「いえ、私の方こそ、ヴァレンタイン卿の誤解を解くのが遅れたことを謝罪させて頂きます。ただ、あなたがどれほどにリィのことを想っておられるかが気になって……。どうか、無礼をお許しください」
「そんな、そもそもこれは私の誤解と勇み足が全ての原因で……」

 二人は同時に頭を下げ、そしてほとんど同時に吹き出した。
 歳の頃で30近くも離れた男女が、仮にも寝室で語らうには、どうにも似つかわしくない会話であると、二人ともが考えたのだ。
 しばらく二人で笑い合い、お互いの目尻に透明な涙が溜まり始めた頃合いになって、アーサーが弾む息を整えながら言った。

「では、ミス・デルフィン……」
「ウォルと呼んで下さいな」

 アーサーは奇異の念を抱いた。
 なぜなら、それは男性の呼び名だったからだ。

「はて、君の名前ならば、エドナかエディ、それともフィーナとでもお呼びするのが相応しいような気がするのだが?」
「如何様にでもお呼び下さい。でも、二つ目は駄目です。私かそれとも卿か、いずれか、それとも両方が、リィに酷い目に遭わされてしまいます」

 少女は、緩やかに微笑みながら、しかし毅然とした調子でそう言った。
 アーサーもそれには同意した。リィのことをエドワードと呼ぶことに執着するアーサーだったが、彼をその名前で呼ぼうとは間違えても思わない。そんなことをしたら、冗談抜きで命が危ういことを、彼は知っていた。

「妻は君のことを何と呼ぶのかな?」
「奥様は、やはりウォル、と」
「では僕もそれに合わせよう。いくつも名前があると、呼ばれる方も呼ぶ方も混乱するだろうからね」

 それは特定の二人組を指した皮肉だった。
 少女は苦笑した。確かに彼らの呼び名の多彩なことには、些か面食らっている彼女であったのだから。

「では、ウォル。僕は君にいくつか尋ねなければいけないことがあるのだが、いいだろうか?」
「ええ、ご存分に。何せ私はリィの伴侶なのですから。私はあなたの義理の娘で、あなたは私の義理の父親に当たるのです」
「ふむ、そうには違いないのだろうが……。どうにも違和感があるな」

 アーサーは微妙な表情を浮かべて、軽く首を捻った。
 それを見たウォルは、不思議そうに問うた。

「違和感、とは?」
「うん。君と話していると、どうにも君くらいの年頃の女の子と話している気がしない。例えば――ひょっとしたら失礼な話かも知れないけど、もっとお年を召した……これは間違いなく失礼なんだろうけど……老齢の男性と話しているような……」
「どうして?」

 目の前の少女は気分を害したふうでもなく、微笑みながら小首を傾げている。
 あらためて問われると、アーサーも不思議になった。どうしてこの少女を、彼が議会や会議室で丁々発止の議論を繰り広げている、古狸連中と同じに思ったのだろう。
 顔、は似ても似つかない。これほど美しい顔をした老人など、それこそ恐怖の対象である。
 声、も違う。溌剌として、朗らかさと上品さと気高さをこれでもかと詰め込んだ、極上の声だ。例えば一流と名高い少年少女合唱団に入っても、いますぐ通用するような透き通った美しい声だ。
 では、果たして何か。
 問われてアーサーは唸ってしまったが、しかし難しい顔をしながら、何とか答えた。

「こんな言い方しか出来ない自分が不甲斐ないが……雰囲気、だろうか」
「雰囲気、ですか」
「ああ。何というか君は……リィやシェラ、それにルウなんかもそうだが、それ以上に歳不相応に落ち着きすぎている。それに、女性特有の柔らかさがどこかから抜け落ちているような……いや、これは失礼を……」
「ふむ、やはりそうか。ここらへんが俺の限界というわけだな」

 あきらめの表情で天を仰いだ少女は、腰に手を当てながら嘆息した。
 にこやかだったアーサーの顔が、にこやかなままにぴしりと固まった。

「うーむ、この調子だと、やはりどこかでボロが出るな。ここはシェラにでもこつを教えて貰わねばならんか……」
「あの……ウォル……?」
「ヴァレンタイン卿。具体的にどんな雰囲気が駄目なのだ?もう少し詳しく言っていただけんものかな?」

 身を乗り出すように問うてくる少女。その口調は、先ほどまでの丁寧な口調とは明らかに一線を画すものだ。
 しかも恐ろしいことに、どうやらこちらの方がこの見目麗しい少女の『地』だということに、アーサーは気がついてしまった。
 そもそも、あのリィが連れてきて、しかも自らの伴侶と呼ぶ少女なのだ。どう考えても普通の少女だと思う方が間違えているのだが、そのことにアーサーはまだ気がつかない。
 とにかく、目の前の少女の変貌についていくのに必死だった。

「ウォル……いや、ミス・デルフィン?」

 親密度が一歩後退した。
 ウォルは、少しだけガッカリした調子で、しかし続けた。

「いや、ヴァレンタイン卿。私が見た目通りの少女ではないのはあなたの言うとおりなのだがな、しかしこれでもリィの伴侶だというのは嘘ではないのだ。だから、やはりあなたは私の義父上であるのは間違いない。出来れば、ウォルと呼んで頂けるとありがたいのだがな」

 そう言われても、もはや目の前の少女が到底少女には見えないアーサーである。
 では何者なのか。
 アーサーは、決して言うまいと心に誓った一言が頭の中に浮かび、もう少しで口を突いて出そうになったのを感じたが、辛うじてそれを飲み込んだ。
 そんな彼に、目の前の少女は笑いながら、言った。

「俺を、化け物と呼ぶか?」

 それは何気ない一言であったが、しかしそれ以上に容赦ない一言であった。
 何故なら、正しくアーサーの胸中に渦巻く疑念と警戒心を表すのに、これほど相応しい言葉もなかったからだ。
 だが、これで肝が据わったのか、アーサーはしっかりとした姿勢に居住まいを正し、黒髪の少女に相対した。

「ウォル」
「うむ?」
「エドワードは、僕の息子だ」
「本人はアマロックという御仁の息子だと言っていたように記憶しているが?」
「それでも、だ。マキ・ニウラ……アマロック氏が彼の父親だったとして、それでも僕だってエドワードの父親だ。少なくとも、そう名乗る権利がある」

 果たしてそれはどうなのだろうとウォルは小首を傾げた。それはアーサーの言葉を疑っているわけではなく、父親を名乗る権利とはどのようなものかと純粋に疑問に思ったからだ。
 それでも言葉に出してはこう言った。

「俺も実はリィと同じでな。本当の父親と育ての父親が違う。この人こそ我が父と思っていた人が、ある日突然に自分は父では御座いません、貴方様の本当の父親は別におられますと言うのだ。あの日は天と地がひっくり返ったかと思った」
「それは……では、君は果たしてどちらを自分の父親だと思ったんだい?」
「難しい質問だ。俺の実感としてどちらを父上と呼びたいかと言えば、それは育ての父親に違いない。何せ、その時点で生みの親の方は故人だったのだ。しかし、仮に生きていたとしても、やはり育ての父をこそ実の父と思っただろうな」
「……そ、そうか……」
 
 アーサーはがっくりと肩を落とした。
 彼の絶望的な片思いはごく稀に報われたと思う瞬間があるのだが、それは本当に限られた瞬間であり、実際のところは、決して振り返ることがないと分かりきっている美女に貢ぎ物を送り続ける、憐れな求婚者の悪あがきでしかないのではないと思ったりする。
 父親と息子を結ぶ血の絆は、決して年月の経過などでは切れないものだと彼は思っていた。そして今もそう思っている。だが、自分達以外の第三者の意見を聞いた上でどうやら息子の方が正しいと判断すると、自分の努力が水泡に帰したような無力感を味合わざるを得ないのだ。
 目に見えて肩を落としたアーサーを気の毒に思ったのか、ウォルは言った。

「ヴァレンタイン卿。俺はこの世界でのリィのことはあまり知らないのだがな。しかしあれは、自分の気に入らない人間のところに身を寄せるような者では決してない。仮にそれが血を分けた父母、兄弟、もしかしたら息子や娘だったとしても、一度見限れば二度と顔を合わせようとはしないだろう」
「僕は、何度か見限られたよ」
「ほう、それは?」

 アーサーは、ベッド脇のサイドテーブルからカットグラスの酒瓶を取り出し、その脇に置かれた空のグラスを一セット、一緒に取り出した。

「飲むかい?」
「いいのか?この国では、俺のような子供が酒を嗜むのは法に触れるのでは?」
「その口調でいまさら何を言っている。君が見た目通りの存在ではないことなど、百も承知だよ」
「では遠慮無く頂こう」

 嬉しそうな少女の声に、アーサーは苦笑を浮かべた。
 そして、ベッドに腰掛けたまま酒瓶を傾け、グラスに琥珀色の液体を満たし、目の前の少女に手渡した。
 少女はアーサーお気に入りのウイスキーの香りを楽しみ、それから一息に飲み干した。
 まるで石の塊を放り込んだように、グラスの中の液体はごっそりと姿を消していた。
 少女は、ウォルは、喉と胃の腑を焼くアルコールの刺激と、それと同時に鼻に抜けていく芳醇な香りに驚き、目を見開きながら言った。

「――うまい」
「ああ、エドワードもそう言っていたな。どうやら僕は、酒の趣味だけはいいらしい」
「いや、俺の国でも美酒には事欠かなかったが……これほどうまい酒は、そうそうお目にかかることはなかったぞ」
「そりゃあいい。じゃあもう一杯行くかい?」

 ウォルは喜色満面の有様で、空のグラスを差しだした。
 アーサーはやはり苦笑を浮かべながら、琥珀色の液体をグラスに満たした。
 トクトクと、少し粘性を持った液体が、狭いグラスの中で跳ね回る。その音の、何と甘美なこと。
 二人は、声もなくその声に聞き惚れていた。
 その声が止んだ頃合い、リィの遺伝上の父親は、寂しそうにぽつりと呟いた。

「ウォル。君は、彼の父親が……アマロック氏が、どのようにして命を落としたか、知っているかい?」
「ああ。確か、密猟者の手にかかったとか……」

 アーサーは静かに頷いた。

「僕はね、彼の育ての親が人間の密猟者の手で殺されたとき……今思えば赤面の思いだが……それを心のどこかで喜んでしまったんだ」
「……」
「そして、言ってしまった。アマロック氏には気の毒だったが、これでお前もうちの子に戻れるなって」

 アーサーは、手の中のグラスを弄びながら、続けた。

「あのときのリィの瞳は、今でも思い出せる……というか、夢に見るよ」
「どんな瞳だ?」
「そうだな……アスファルトにへばり付いた汚物を見るような……いや、それは違うな……なんて言うか……」
「無価値なものを見るような?」

 アーサーは、自嘲の笑みを浮かべながら、首を横に振った。

「それも違う。多分、見てくれなかったんだ」
「見てくれない?」
「汚いものを見るのでも、無価値な石ころを見下すのでもない。あれは、僕を見ながら、しかし僕を見ていなかった。僕という存在を、心の底から排除した視線だった。この世に、あれほど明確に他者を切り捨てる視線があるのかと、僕は彼を恐れた」
「……」
「思えば、あのときが初めてかな。僕が、自分の息子を化け物だと思ったのは」

 ウォルは、何も言わなかった。何も言わず、手にしたウイスキーを、ちびりと舐めるように啜った。
 それとは対象に、アーサーは手にしたグラスを一気に傾けた。次の瞬間、グラスには何も入っていなかった。
 ふぅ、と、酒精に塗れた息を吐き出す。

「どうして、あの子が僕と妻の間に生まれたのか、真剣に神に問いかけたくなった」
「我が身の不幸を呪ったか?」

 ウォルはアーサーの手から酒瓶を取り、酌をしてやった。
 アーサは嬉しそうに受けた。

「君のような可愛い娘さんにお酌をしてもらえるとはね」
「断っておくが、俺に手を出さんでくれよ。一応俺は男なのだし、妻もいる」
「……男?妻?」

 目を丸くしたアーサーは、目の前の少女をまじまじと見つめた。
 これが、男?
 確かに、この広い世界には、傾城の美女も斯くやと言う程に美しい男がいるのも知っている。シェラなどはそのいい例だろう。
 しかし、これはどう見ても……。

「それは、何かの比喩かい?」
「いや、厳然たる事実だ。少なくとも、今のところはな」
「じゃあ、君は男の子?」
「この体は女性の体だな、間違いなく」

 アーサーは頭を捻りながらウイスキーを一口含んだ。
 それをゴクリと飲み下し、そして問うた。

「じゃあ、君の妻というのは?」
「わからんか?」
「ひょっとして……まさか……万が一に……エドワードのこと、なのか?」
「正解」

 不敵な笑みを浮かべたウォルは、アーサーの明敏さを讃えるようにグラスを掲げ、そのまま一息に飲み干した。
 それを眺めていたアーサーは、少女の見事な飲みっぷりに内心で舌を巻きながら、その空のグラスに三度酒を注いだ。
 本当なら、そろそろ窘めるべきなのかも知れない。酒量もそうだが、そのペースが尋常ではない。いくら酒を飲み慣れている様子であるとはいえ、このまま飲んでいては酔い潰れてしまう。
 だが、黒髪の少女の肌には、些かも朱が刺していない。全くいつも通りの、極上の白磁のように抜けるような白さだ。
 果たしてこれは何者かと、あらためてアーサーは思った。

「では……男の君と男のエドワードが、永遠の愛を誓ったのか?」

 同性愛者には世間並みの理解をしているつもりのアーサーだったが、それでも思わず声を荒げそうになってしまった。
 そんな彼を横目に見つつ、ウォルはその容姿には相応しく無い、低い声で笑った。

「それは違うな。男の俺と女のリィが、一応の形式として、永遠の愛を誓う羽目になったのだ」
「女の……エドワード……?」

 ここまで来るともう駄目だ。何が何やら分からない。
 アーサーの脳内回路は、ほとんど焼けきれる寸前に悲鳴を上げている。
 しかし何より質が悪いのは、目の前の少女が、たったの一言とて嘘を吐いていないということが理解できてしまう、自分の見る目の確かさだろうか。
 もう少しで目を回しそうなコーデリア・プレイス州の州知事を気の毒そうに眺めながら、ウォルは言った。

「詳しいことを気にする必要はない。要するに、俺は元は男で、今は少女の身体に間借りしている。リィは男だが、一時的に少女だった。そして、俺が男でリィが女の時に、俺達は式を挙げた。それだけだ」
「それだけ……と言われても……」
「そしてこれが一番重要だが……俺達は、確かに愛し合っていた。無論、いわゆる世間一般の男女の間に成立する、情愛を含んだ愛情ではない。だが、俺は間違いなくリィのことを何者にも代え難い唯一無二の存在だと確信していたし、自惚れで無ければリィもそう思っていてくれたはずだ」
 
 少女の口調はあくまで淡々としているが、しかしこれは紛れもない惚気話である。
 普通、人の惚気話など聞いていて楽しいものではない。諸手を挙げて降参し、ごちそうさまでしたと逃げ去るのが常道である。
 しかし、ここまで明け透けに、そして自信満々に話されてしまうと、薄荷飴を口中に含んだときのような甘ったるい爽快感があることを、アーサーは認めざるを得なかった。
 そして、彼は、彼が出来る唯一のことをした。
 苦笑いを噛み殺しながら、首を横に振ったのだ。

「では、エドワードは、女性として君のお嫁さんになったわけか」
「その通りだ」
「なら、エドワードの花嫁姿はどうだった?綺麗だったか?」

 花嫁たる少年の父の問いかけに、花婿たる少女は真剣な面持ちで答えた。
 
「美しかった。この世のあらゆる美姫が一山幾らとしか思えぬほどに、美の女神が裸足で逃げだすほどに、美しかった。この世の者とも思えぬほどに、美しかった」

 偽りのない賞賛の言葉に、アーサーも真剣な面持ちで頷いた。

「当たり前だ。なんたって、僕の自慢の息子なんだからな」
「そうか、自慢の息子か」
「そうさ、自慢の息子だ。だから、間違えても君には手を出さないから安心してくれ。そんなことになったら、二重の意味でエドワードを裏切ることになる」

 一つは、リィの伴侶を汚す、不貞の行為として。
 もう一つは、彼の父親として、その家庭を破壊する行為として。
 それは、絶対にアーサーにとって許される行為ではなかった。彼はもう二度と、自らの息子に見限られてやるつもりは無かった。

「だから、僕は君のことを化け物とは呼ばない。絶対に呼ばない。何故なら、エドワードは僕の息子だ」
「リィが卿の息子だということが、何故俺が化け物でないことに繋がるのだ?」
「決まっているじゃないか。エドワードは、僕の息子だ。だから、絶対に化け物なんかじゃあない。なら、エドワードが選んだ君だって、化け物なんかのはずがあるか。君はエドワードの伴侶だ。ならば、僕の娘だ。だから、絶対に化け物なんかじゃない」

 アーサーは、自分に言い聞かせるように言った。

「僕は、二度と手を離さないぞ。絶対に離すもんか」
「……この少女の父親も、卿のようなお人であればな……」
「ん?何か言ったかい、ウォル」
「いや、何でも」

 少女は、アーサーの手に握られたグラスに、再び酒を注いだ。
 まだ飲み始めていくらかも経っていないというのに、ウイスキーの瓶は空になってしまった。
 ウォルは少しだけ名残惜しげに、空の瓶を左右に振ってみた。ちゃぽちゃぽと、飛沫の散る音だけが空しく響いた。

「まだ呑み足りんな」
「ああ。折角、義理とはいえ息子と――それとも娘と一緒に酒が飲めるんだ。長年の夢が叶ったのに、この程度で終わらすのは勿体ない」
「リィは、卿と一緒に酒は飲まんのか?」

 リィは、相当に酒を好むはずだ。
 その分、甘味が全く駄目という、変わった娘ではあったが。

「あれは、一人でグラスを傾けるのが性に合っているらしい。だから僕は、いつだって一人寂しくちびちびと手酌で飲んでいたのさ」
「そんな酒は旨くないな」
「ああ、実に旨くない。だから、これからも付き合ってくれるかい?」

 アーサーは、魅力的な笑みを浮かべて、そう問うた。
 ウォルは、外交用ではない純粋な笑顔で、こう答えた。

「卿のことを義父上ちちうえと呼んでいいなら、お付き合いさせて頂きましょう」
「おお、それは望むところ――」
「駄目だな、そいつはおれの父親じゃないんだ。だから、お前が義父上なんて呼んだら、おれもそいつを父さんなんて呼ばなきゃならなくなるじゃないか」

 いつの間にか開いていた寝室のドア。そこに、人造の光を跳ね返す、金色の毛並みの狼が立ち尽くしていた。
 
「リィ」
「エドワード」
「その名前でおれを呼ぶなっていってるだろう、全く……。それに何だ、お前らだけで楽しそうに酒を飲みやがって。おれも混ぜろ」

 一体どこから調達してきたのやら、リィの手にはチーズやらクラッカーやらの盛り付けられた大皿が乗せられ、小脇にはきつめの蒸留酒の瓶が二本も挟まれている。
 この状態で、一体どうやって扉を開け放ったのかと訝しんでしまうくらい、器用な有様であった。
 リィはその体勢のまま部屋の中にずかずかと入り込み、ベッドの小脇、ちょうどアーサーとウォルとリィで正三角形になるような場所に、どかりと腰を下ろした。
 恐ろしくむっつりとした、今にも酒瓶を直接煽りそうな、剣呑な雰囲気であった。
 義理の父と義理の娘は、果たして何事があったのか知らんと顔を見合わせたが、しかし全く心当たりがない。
 ウォルは、猛獣を宥めるように、おそるおそると聞いてみた。

「おい、リィ。どうしたというのだ。何か気に食わないことでもあったのか?」
「大ありだとも。この匂いを嗅いでみろ」

 そう言われたウォルとアーサーは、少しだけ間の抜けた顔で鼻をひくつかせてみた。
 するとどこからか、小麦と砂糖の焦げる、甘ったるい香りが漂ってくるのだ。

「全く、あんな場所にいられるか!こんな匂いをずっと嗅いでたら、それだけで胸焼けを起こしちまう!」

 毒づいたリィは、手酌でブランデーをグラスに注ぎ込み、そのまま一気に煽った。
 それだけでは収まらなかったのか、もう一杯、もう一杯と、止まるところを知らない。
 これには流石の二人も慌てた。ウォルもアーサーも、リィが底なしのウワバミであることは理解しているが、しかしものには限度というものが在るはずだ。

「みんなでおれをのけ者にしやがって……」
「一体どうしたのだ、リィ」
「どうもこうもあるか!今の台所と居間はな、甘いものが嫌いな人間には寄りつけない魔窟なんだ!」

 本来はルウのお土産にと用意していた小山のような焼き菓子は、二匹の腹ぺこ魔神が貪るように食い尽くしてしまった。無論、それは黒い天使と蜂蜜色の大男である。
 その食べっぷりに気をよくしたシェラとマーガレットは、二人して追加のクッキーやらパイやらを作っている。
 その甘ったるい匂いに抗議したリィに対しては、

「アーサーと一緒にお酒でも飲んできたら?」とは、甘いものにご満悦のルウ。

「甘いものも食わないと大きくなれないぞ」とは、どうしてこんなに美味いものをたべられないのか真剣に首を傾げているヴォルフ。

「すみません、でもこれは唯一の趣味なので……」とは、申し訳無さそうなシェラ。

「ほら、そこにおつまみを用意しておきましたからね」とは、あくまで笑顔のまま容赦ないマーガレット。
 
 要するにここにお前の居場所はないぞ、と、煙草を嫌がられるお父さんみたいに、みんなから追い出されてしまったリィなのだ。
  
「飲むぞ、ウォル、アーサー!今晩は、とことん飲み明かすぞ!」

 理由のない迫害に憤慨し、一人気炎を上げるリィだったが、しかし残りの二人とて全く望むところである。
 アーサーは喜色満面の有様でベッドの上から飛び降り、ウォルもいそいそと椅子から降りて、直接床に腰掛け、そして互いのグラスに酒を注ぎあった。
 もう、二人とも満面の笑みである。

「そういえば、向こうでの飲み比べは勝負つかずだったな。どちらが本物の酒豪か、今こそ白黒を付けようではないか!」
「おお、望むところだ我が夫!」
「おい、ウォル!息子と酒を挟んで語らい夜を明かすのは父親の特権だ!エドワード、僕と飲もう!」
「うるさいぞ、アーサー!とにかく飲むんだ!飲まないでやってられるかこん畜生!」

 もう、あっという間に酒瓶は空になった。

「全然足りないぞ!」
「まぁ待てエドワード。これがなんだか知っているか?」
「おい、それはまさか、890年もののナイトオブオナー!?」
「流石我が息子!この酒の名を知っているとはな!」
「なんだなんだ、美味い酒なのか?」
「美味いなんてもんじゃない!一部の専門家の間では神の雫とも呼ばれる、奇跡の酒だ!」
「おお!流石は義父上ちちうえ!さぁ飲もう!是非飲もう!」
「当たり前だ!いずれ息子と飲み明かすときのために、ボーナスをそのまま注ぎ込んで買った酒なんだぞ!しかも、エドワードがこんなにも可愛らしいお嫁さんを連れてきた、こんなめでたい日に栓を抜かずにいつ抜くというんだ!」
「よし、気に入ったぞアーサー!今日だけはその名前でおれを呼んでも許してやる!」
「良く言ったエドワード!まあ飲め!さぁ飲め!」
「…………!」
「――――!」
「……」
「―」
 
 明朝、アーサーの寝室には、程よくアルコールに漬けられた、人体標本が三体転がっていた。
 コーデリア・プレイス州の州知事の執務室は、結局その日は主人を迎えることはなかったし、リィは二日酔いの頭を押さえながら、シェラにおぶられるようにしてティラ・ボーンへの帰路についた。ウォルはマーガレットに看護されながら、どうやら元の体に比べれば相当に酒への耐性を失ってしまっている我が身の情けなさを恨んだ。
 
「……もう、ぜったいに、さけはのまんぞ……」

 二日酔いに苦しむ酔っぱらいの大半が呟く不可能事を呟きながら、トイレへと向かう黒髪の少女が、いたとかいなかったとか。



[6349] 幕間:そらのなか
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:55
 それは、ありふれた旅客用宇宙船の、ありふれたデッキの一室だった。
 清潔で無機質で、機械こそが人を支配する空間。それを誤魔化すために、慰み程度に置かれた観葉植物が、誰からも忘れながら部屋の隅に佇んでいる。
 少女は、一人ぽつねんとビニル製の安っぽい長椅子に腰掛け、壁に掛けられた大型モニターをぼんやりと眺めていた。
 どこからか、低く唸るような音が聞こえる。
 それは少女にとって耳慣れない音だったが、他の者が聞けば単なる機械のモーター音だとすぐに気がつき、それ以上気に止める事すらなかっただろう。
 しかし、その、腹の底に響くような音を、少女はどこか懐かしく、馴染み深いもののように感じていた。
 それは、戦乱の音だった。
 戦場に響く、鈍く重たい行軍の音。
 遠く巻き起こる砂塵と、近くにわき起こる鬨の声。
 人の群れ、軍馬の群れ、空を飛ぶ鴉の群れ。
 遠からず、緑の大地は朱に染まる。
 身体が震える。いつだってそうだった。戦いの前は、胃液を吐き戻しそうになるくらいに怯えていた。
 恥だと思った。何故、戦士として、そして王としての身分を持つ自分が、戦如きに怯えているのか。

『怖いか、ウォル』

 隣にいるのが誰かなんて、確かめる必要すらない。
 そこには、黄金色の髪があるだろう。白磁の上に薔薇の粉を撒いたような頬があるだろう。引き絞られた弓が如きしなやかな筋肉があるだろう。
 そして、緑柱石色の瞳があるに違いないのだ。

『俺は――』
『おれは怖い』

 彼だけの戦女神は、微塵も恐怖を含まない、毅然たる声でそう言った。
 男は、こちらの返答を待たないのは卑怯だと、そう思った。

『お前でも、怖いと思うことがあるのか』
『当たり前だ。戦いは怖い。いつだって怖い。すっ飛んで逃げだしたくなる』

 その秀でた額には、少女の瞳と同じ色をした銀冠の髪飾り。
 臆病を微塵も感じさせない、身軽な戦装束。
 腰には、男自身の命を救ったこともある、銘の無い名剣。
 名も無き丘より、唯一男と並び立ち、この世の終わりのような光景を眺める。

『では、何故お前は逃げない。俺は王だ。ここで戦を指揮し、その結果を見届ける義務がある。しかしお前は王妃だ。ならば、俺の勝利を宮殿で待っていてくれればいい。お前がここにいなければならない理由など、どこにもないというのに』
『そこまでだ、ウォル。そこまでは許してやる。でも、それ以上言ったら、お前だって許さないぞ』

 その声にだって、ほんの少しも怒ったところは無かった。
 むしろ、楽しげに揺れていたくらいだ。
 男は、苦笑した。男だって、まさか本気で言ったわけではない。ただ、自分の隣に立つ、獣と呼ぶにはあまりに美しい金色の獣と、少しだけ戯れたくなっただけのこと。
 そして気がついた。自分の中に沈殿していた恐怖や不安、畏怖の念が、魔法のように消え失せていることに。

『死ぬのは怖くない。殺すのだって怖くない。いつ死んだっていい。だから、いつだって殺してやれる。そして、おれは毛の先ほども死ぬつもりなんかない』
『しかし、それは闘う理由にはならないな』
『その通りだ、ウォル。人を殺していいっていうことと人を殺すということには、無限にも近い距離がある』
『ならば、何故お前は闘う?俺の隣で剣を振るってくれる?』

 男は、その時になって初めて、己の隣に並び立つ、年端もいかぬ少女を眺めた。
 いや、それは既に少女ではない。出会ったときは少女であったとして、今のそれは既に女であった。
 男と共に永遠の愛を誓った、しかしそれ以上の絆で結ばれた、永遠の同盟者であった。
 その女が、見るもの全てを虜にするような、輝かしい微笑みを浮かべて、言った。

『決まっている。おれは、お前が負ける姿なんか見たくないからだ。だって――』

 お前は、おれだけのバルドウなんだからな――。

 遠い、気が滅入るほどに遠い、昔のことだ。
 
 ウォルは、星々の大海の中に身を埋めていた。
 彼女の漆黒の瞳に映っているのは、本物の星の光ではない。外洋宇宙船の高精度スクリーンに映った、いわば機械の目を通した偽物の星の光だ。
 それでも、ウォルにはその光が、何か特別なものに感じられて仕方がなかった。今まで、いくら手を伸ばして掴もうとしても掴めなかった宝物が、目の前に転がっているような気すらした。
 赤。青。白。紫。ほとんど黒に近いような、ぼんやりとした光。
 人の想像しうる、あらゆる光がそこにはあった。
 美しいもの。おぞましいもの。恐ろしいもの。
 そこには全てがあり、何も無い。
 その中で、一際美しく光る星があった。
 緑色に光り輝く、宝石のような星だった。
 名前は、知らない。
 ただ、その緑色の、誰かの瞳のような輝きが、大気のない虚無の空間の中で、瞬いているような気がした。
 ウォルは、言葉も、時間も、息をすることすら忘れて、その星を見つめていた。

「お嬢さん。こんなにも辺鄙な宇宙が、そんなにも珍しいのかな」

 ふと気付けば、すぐ隣に人の気配があった。
 ウォルは、さして驚いたふうでもなく、落ち着いた様子で声の主の方を見遣った。
 そこには、彼女の知らない顔があった。
 漆黒の視線を正面から受け止めたその男は、苦笑しながら続けた。

「いや失敬。君があまり熱心にモニターを睨みつけているものだから、つい、ね」
「失礼。どこかでお会いしたのだろうか」

 この世界に限って言えばそれはまず無い。ウォルにとって面識があるのは、彼女の同盟者たる金色の獣とその関係者を除けば、両手の指で足りるほどの人間としか顔を合わせていないからだ。
 然り、声の主である初老の男は、首を横に振った。

「私の記憶が正しければ、君と話すのは今日が初めてだろうな。しかし最近はどうにも物忘れが激しくてね。自分の記憶に今ひとつ責任が持てない。だから、私が忘れているだけならここで謝罪させて頂こう」

 男の声は、その言葉とは裏腹にほんの少しの老いも感じさせない、矍鑠たるものだった。
 それがおかしくて、ウォルは言った。
 
「いや、それには及ぶまい。俺も、あなたと顔を合わせるのは初めてのはずだ」

 男は、ウォルの言葉遣いに少しだけ眉を顰めた。しかしそれは嫌悪感を表すものではなく、己の常識と現実との齟齬に首を捻るような、無邪気なものであった。
 そして、その思いをそのまま、口に出して言った。

「私はあまりテレビや雑誌というものに目を通さないのだが、最近の女の子の間では、そういう話し方が流行しているのかな?」
「そういうことは無いと思う。少なくとも、俺の知る女の子は、俺の知る通りのしゃべり方をしていた気がするからな。やはりおかしいか?」

 ドレステッドホールの女の子たち、ドミューシアとデイジーローズのことを思い浮かべながら、ウォルは答えた。彼女達の口調はウォルにとっても馴染み深い、年頃の女の子に相応しく可愛らしいものだったから、自分の言葉遣いが如何に『浮く』ものなのか嫌と言うほどに思い知らされた。
 しかしだからといって、自分が女性を取り繕うことには限界があることをウォルは理解していた。むしろそれが当然である。シェラのように、女性としての振る舞いや作法を叩き込まれて成長した男性など、この世にどれほどいるのだろうか。
 今現在のウォルの身体は、紛れもない女性の身体ではある。しかしそこから滲み出る気配は、どう糊塗したところで男性のものにしかなり得ない――少なくとも今のところは――ことを受け入れざるを得なかったのだ。
 ならば、慣れない女性として振る舞うよりも、むしろ男性として振る舞った方が良かろうというのがウォルなりの結論である。そうすれば最初から『少し変な女の子』として周囲は理解する。その結果受け入れられることもあるだろうし、逆に最初から拒絶してくれるかも知れない。それに比べて、後々になって『とても変な女の子』であるとばれたときのほうが致命傷になりかねないと、彼女はそう判断したのだ。
 その、『少し変な女の子』を前にして、初老の男性は微笑んだ。それはそれは優しい、孫を見るような視線だった。

「おかしいおかしくないで言えば、おかしい。私は狭い世界に生きる人間でね。君のように可愛らしい女の子がそんなしゃべり方をすると、どうしても違和感があるな」
「正直だな、卿は」
「しかし、何とも君には相応しい。とても魅力的だよ」

 ウォルも、その笑みに引き込まれるようにして微笑った。それほどに、男の笑みは、底の深い、なんとも心地よいものだったのだ。

「そんなことを言われたのは、生まれて初めてだな」

 嘘ではない。
 男として生きたときはそれなりの浮き名も流したウォルであるが、しかし女性としての自分を褒めて貰ったのは今回が初めてである。
 裏表の無い褒め言葉は、基本的には嬉しいものだ。当然、男の身体の時に『魅力的な女性だ』などと言われれば怖気に背筋が凍り付くだろうが、ウォルは今の自分がどこからどう見ても女性であることを理解しているから、男の言葉を素直に受け取った。
 しかし当の男は、ウォルの言葉に心底驚いたようだった。

「嘘だろう?君のような女の子なら、たくさんのボーイフレンドから、もっと華やかな賞賛の言葉を受け取っていても不思議じゃないと思うんだが」
「生憎、そんなものは今までとんといなかったのでな」
「それは回りの男の子たちが阿呆だ。これほど見事な花を見過ごすとは、男の風上にも置けないな」

 どうにも軽妙な口調である。ウォルは、そちらの方面について多大なる武勲を誇った、己の従弟のことを少しだけ思い出した。
 そして、ウォルはあらためてその男を眺めて、感嘆の溜息を吐いた。
 堂々たる体格を誇る威丈夫であった。
 縦にも横にも、相当の質感がある。どっしりと、根の生えた大樹のような体つきだ。それでいて、少しも鈍重な印象がない。ぴしっと仕立てられた質の良い衣服の下には、鍛え込まれて錆び付きようのない筋肉が隠されていることがよく分かる。
 その顔に刻まれた皺の深さから相当の年齢になっているのは明らかなのに、背筋はちっとも曲がっていないし、足取りだって確かだ。柔和な微笑みを浮かべる瞳だって少しも濁っていない。
 きっと若かりし日は華やかな女性遍歴を誇った男なのだろうと、ウォルはそう考えて苦笑した。

「ちなみに参考までに伺いたいのだが、卿が今の俺と同じくらいの歳の頃ならば、俺に声をかけていたかな?」
「宇宙船ですれ違ったとしても、すっとんで会いに行ったろうね」
「それは何とも情熱的だな」
「美しい女性に声をかけるのは男の権利だよ。隣に親も恋人もいないなら、義務だと言ってもいい」
 
 男の口調は意外と真剣な調子だった。
 それがおかしくて、ウォルは笑った。声を出して笑った。
 仮に男がウォルに対して異性としての興味を抱いていたならば、これは一つの勝利と呼んで差し支えないものであるはずだった。女性の心を射止めたければまず笑わせろとは、どの偉人の言葉だったか。

「隣、座ってもいいかな?」
「ああ、どうぞ」

 そもそもここは公的な交通機関としての外洋宇宙船の中なのだから、誰に断りを入れる必要も無い。そのことは男もウォルも心得ていたが、男はあくまで礼儀として、ウォルに対して断りをいれた。
 立場が逆だったとして、ウォルもそうするだろう。妙齢の女性の隣を勝ち得るためには、王に謁見する程の誠意と勇気をもって望むべきだったし、正当な努力には正当な報償をもって報いるべきだった。
 男が腰掛けると、ウォルの座ったビニルの長椅子が僅かに撓んだ。
 男は、その長身に似合って、相当な体重も有していたらしい。

「さて、最初の話だ。君にとって宇宙は、そんなに珍しいものなのかな?」

 男は、ウォルの顔を見ることなく、そう言った。
 彼の視線の先にあるのは、先ほどまでウォルが食い入るように見ていたスクリーンがある。
 ウォルも男に倣って、偽りの星の海に再び視線を戻した。そこに、先ほど見つけた、翠緑石色の星は無い。
 ウォルは、少しだけ残念だった。

「そうだな……なんと答えたものか」

 この世界の人類にとって、宇宙とは、星と星を繋ぐ交易路のようなものらしい。時折未知の発見があるとしても、それは自分達の生活とはかけ離れたところに存在するものだ。
 ならば、そんなものに対してこうも興味を抱くのは普通のことではないのだろうか。
 ウォルは、自分がどのように答えるべきなのかを知っていた。しかし、隣に腰掛けたこの男には、自分の正直な心を伝えてみたかった。

「珍しい、などという言葉では到底足りない。感動している、と言ってもまだ足りない。ただただ溜息しかでない。卿の言い様を真似るならば、遠くから眺めるしか出来なかった深窓の美姫をこの手にしたような、そういう印象だ」
「その言葉は、君のような女の子が使うのは些か相応しく無い気がするが……」

 男は笑いを噛み殺しながらそう言った。
 そうすると、元々色の濃い褐色の肌の顔に白い歯が浮かび上がり、なんとも魅力的な顔になる。知性と愛想と勇気、その裏にぎらりと光る牙を隠し持った、女性ならばころりといってしまいそうな表情だ。
 当然、少女のうちに宿った魂は女性のそれでは無かったからころりといくことは無かった。しかし、この見知らぬ男に興味を抱いたのは確かだった。

「君くらいの歳ならば、もう数え切れない程に宇宙を旅したことのある子供だって珍しいものじゃない。少なくとも、知識や映像として、この光景は馴染み深いものであるはずだ。それでも君は、この宇宙に感動してくれるのか?」
「ああ、感動しているとも。卿はどうなのだ?卿にとってのこの光景は、何の感慨も呼び起こさぬありふれたものなのか?」

 ウォルは問い返した。
 それは何気ない言葉であったが、答える男の声は存外に真剣なものだった。

「私は、生まれて初めて見る光景に感動を覚えないほど、鈍い情緒をもって生まれてきたわけではないのでね。今だって、心の底から感動に打ち震えている」

 それは意外な言葉だった。
 ウォルは不思議に思った。この男からは、帆船に命を預け、潮風に肌を灼いた男達、あちらの世界にいた彼の友人の一人に近しい匂いを感じたのだが、それは勘違いだったのかと訝しんだ。
 そんなウォルの内心に気がついたのだろうか、男はウォルの黒い瞳を覗き込むようにしながら言った。

「自慢ではないが、私は地に足を付けていた時間よりも宇宙を泳いでいた時間の方が遙かに長い。そして、それは死ぬまで変わらないだろう」
「やはり卿は船乗りか」
「そうだね……そういう呼び方も、出来るのかも知れないな。しかし今は、到底船乗りなどとは名乗れない。時代に取り残された、ただの老いぼれだよ」

 男は恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。そうすると、既に70を越えているであろうこの男に、妙な愛嬌が宿る。
 だが、それがこの男にとっての仮の表情でしかないことはウォル自身気がついている。何かのきっかけと共に、この愛くるしい顔立ちが、怒り狂った獅子の顔に変わるのは明らかだ。
 男から立ち昇る、噎せ返るように濃い香り。それは、ウォルにとっても馴染み深い、戦場を味わったことのある男の香りだった。だが、例えばヴォルフのように、軍人特有の堅苦しい感じがしない。
 このあやふやで、それでいて心地よい感触は何だろうと、ウォルは考え込んで、内心ではたと手を打った。
 
「そうだ、タウだ!」

 男は、突然に嬉しそうな声を上げたウォルを、不思議そうに眺めた。

「タウ、とは?」
「ああ、俺にとって馴染み深い土地なのだが……卿は、そこに住む人達によく似ていると思ってな」

 ウォルは嬉しそうに言った後で、その男がタウという地名など到底知っているはずもないことに思いが至り、少しだけ頬を赤らめた。
 男はそんなウォルを見て、笑ったりしなかった。ただ嬉しそうに目を細めた。

「そこにいるのは、君にとって大切な人達かな?」

 ウォルは、何の照れもなく答えた。

「ああ。かけがえのない友人達だ」
「ならばありがたい。私も君にとって、そのような存在でありたいものだ」

 男も、心底嬉しそうに頷いた。
 その言葉には直接答えず、ウォルは重ねて問うた。

「しかし、尚のことおかしいな。卿が宇宙船を操る船乗りならば、このような光景はとうに見慣れたものなのではないのか?」
「似たようなものを見たことがあるかないか、で言えば確かに見飽きたと言ってもいい。だが、この光景を、正しくこの光景を見るのは今日が初めてだ。ならば見飽きるはずもないだろう?」
「ならば、卿は今まで見た宇宙を、全て覚えているのか?」
「今の船乗りはいざ知らず、我々が船を操っていたときはそうでも無ければ生き残れなかった。そして私は生き残っている。ならば、そういうことも出来るのかも知れないな」

 男の言葉はあくまで飄々としたものであったが、少しも不快ではなかった。
 そういえばウォルの世界でも、一流どころの船乗りにとって、潮風の香りや波の色で自分がどの海を進んでいるのかを見分けるなど、常識といってよかった。少なくともそうでなければ一流と呼ばれることはなかったし、一流と呼ばれる前に海の藻屑に成り果てていた。
 リィから、この世界の人間は機械無しでは一日だって生きていけないものなのだと聞いていた。しかしここに、そうではない――少なくともそれだけではない人間がいる。
 ウォルは嬉しくなってしまった。

「卿の名前を聞きたいな」

 ウォルは素直にそう問うた。
 男は意外そうな顔をした。女性から名を尋ねられることなど、老齢に差し掛かった頃でさえ珍しくはなかった彼だが、年端もゆかない少女に尋ねられるのはやはり希有なことだった。
 しかし、気を取り直して口を開こうとした、その時。

『お客様のお呼び出しをします。ペリティア星系エレノス宇宙港よりお越しのレオナール様、お伝えしたいことが御座います。お近くの内線電話より、三番お客様受付センターのほうへ連絡を頂きますようお願い申し上げます』

 その船内放送に男が反応したのは明らかだった。
 そして、そんな自分を見られたことに羞恥を覚えたのか、男はその長髪を掻き上げて、苦笑いを浮かべた。

「……と、いうことだ、お嬢さん。どうやら連れから呼び出しが入ったようでね。名残惜しいが失礼させて頂こう」
「待って欲しい。まだ、俺の方が名乗り終えていない」

 長椅子から立ち上がった男、レオナールを引き留めるように、ウォルも立ち上がった。
 そして言った。

「俺の名前はウォル。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン。もうしばらくすれば、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインになるだろう。長ったらしい名前だが、どれも大切な名前だ。どれか一つでも覚えておいて頂けるとありがたい」

 レオナールはウォルの言葉を聞いて、少しだけ辛そうに眉を顰め、そして少しだけ暗い表情で笑った。
 
「そうか。では、ウォル、と呼んでもいいのかな?」
「ああ。親しい人達はそう呼んでくれる」
「じゃあ、俺のことはラナートと呼んで貰えると嬉しい」

 レオナールと、そしてラナートと名乗った初老の男は、その銀色の長髪を靡かせるようにして立ち去った。
 ウォルは、今度こそ引き留めなかった。
 この船は各所で乗客を拾い、しかしその目的地はほとんど一つだけだ。
 連邦大学星、ティラ・ボーン。
 だからといって、再び会えるとは限らない。何せ、ウォルの生きた世界ですら旅先での出会いは一期一会、再会を約した別れであっても二度出会わないことなど珍しいことではなかった。
 ならば、星の数も眩む程に人の多いこの世界、名前だけを交換しあった旅人が再びまみえる可能性など如何ばかりだろうか。
 ウォルはほんの少しの寂寥と共に、ラナートのぴんと伸びた背中を見送った。



[6349] 第十八話:転入初夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/17 22:58
 連邦大学は、押しも押されぬ共和宇宙最高学府である。
 無論、教育機関と研究機関とは並立し得る、そして並立すべき存在であるから、連邦大学に所属する学生から教鞭を執る教授や准教授、そして彼らの下支えをする職員を数えれば、膨大な人数となる。
 その上、下部組織である小中高の義務教育機関、そして各種専門学校の数だって両手両足の指の数では到底数え切れない程である。それらを合わせると、一つの星を教育機関が埋め尽くすという異常な状況だって、寧ろ当然であると人は納得するだろう。
 しかし、広大な敷地と立派な設備を誇るからといって、無制限に学生の受け入れをしているわけではない。門戸こそ広いが、その中に留まることは一方ならぬ努力を要する。『来るものは拒まず、去るものは追わず』、それを体現するのがこの星の指導方針なのだ。
 当然、学期の途中であったとしても、その授業速度について行けずにこの星を去る学生は多い。逆に、己の力を試してみようとしてこの星を訪れる学生はもっと多い。
 結果として、例えば進級の時のクラス編成時や学期の始めなど、節目以外に新しい学友の顔が増えることだって珍しいことではない。
 しかし、今日はやはり特別であった。

「みんな、注目して欲しい」

 寮長の、ハンス・スタンセンの朗々たる声が、人も疎らな食道に響く。
 集められたのは、中等科の一年生ばかり。既に食事も終え、あとは各自の部屋で、もしくは自由室で思い思いの時間を過ごそうとしていた学生ばかりだ。
 だが、その顔に、夜も更けたこの時間に突然呼び出された不満などありはしない。むしろ、新しく自分達の仲間になるのが一体どんな人間なのか、隠しきれない興味に瞳を輝かしている。
 
「我々の新しい仲間を紹介する」
「……さて、どんな自己紹介になるのやら」

 隣に座った銀髪の少年だけに聞こえるような声で、リィは呟いた。
 どうにも意地の悪い声だったから、シェラは苦笑した。そして、直接は答えずに、こんなことを言った。

「それにしても、我々の時に比べると随分人が少ないですね」
「おれ達のときは事情が事情だったからな。これくらいが普通なのさ」

 リィとシェラが紹介を受けたときなどは、この寮に住む全ての人間が一堂に会し、その中での紹介となったのだ。
 それは、二人が特別扱いを受けた結果ではない。ただ、二人の整いすぎた容姿によって無用な混乱が起きないよう、寮長たるハンスが機転を利かせただけの話で、リィもシェラのその心遣いに感謝していた。
 それに比べれば、今から紹介を受けるであろう編入生の容姿も、整っているとはいえ、それは性別に則したところの整い方であるから無用な混乱が起きる可能性は無い。もっとも、無用ではない混乱――年頃の少年達が、あこがれの異性に当然抱くような――は起きるかも知れないが、それはハンスとて如何ともし難いものであるのだ。

「なんだ、ヴィッキー。お前、転校生が誰か、知ってるのか?」

 やはりひそひそ声で、リィの隣に座ったジェームズ・マクスウェルが尋ねた。
 リィが肩を竦めながらそれに応じようとしたその時、手短な説明と前口上を終えたハンスが、扉を開いて外に控えていた編入生の入室を促した。

「では、入ってくれ」
「ありがとうございます」

 聞こえたのは、少女の声だった。
 転入生の性別を知らなかった寮生達のうち、リィとシェラを除いた半分はにわかに色めき立ち、残りの半分は少しだけ残念がっているようだった。
 程なくして、堂々とした足取りで、一人の少女が食堂に入ってきた。
 それを見た寮生は、一斉に感嘆の吐息を吐き出した。
 まず、39対の瞳が最初に見たのは、その流れるような黒髪だった。
 当然、食堂に集められた生徒の中には同じ色の髪の毛を持つ者も多かったが、しかしそのいずれもが、自分と同じ色の髪であるとは思えなかった。
 黒い髪の毛は、基本的には見る者に重たい印象を与える。それを好む者ならばともかく、年頃の、特に少女などはその重たい印象を嫌がり、髪の毛を染める者も少なくない。この寮に住む者の多くが通うアイクライン校は比較的自由な校風であるので、染髪も、余程に奇抜なものを除けば特に禁止されていない。だから、一見すれば金髪に見える少年少女も、実は黒髪だったということも少なくないのだ。
 しかし、その少女の黒髪の見事さはどうだろう。
 黒に黒を幾重にも重ねたような、深い黒。なのに、どこにも暗いイメージがない。例えるなら若々しい黒豹の毛並みのように、艶やかに煌めきながら電灯の光を受け流している。
 そして、その髪と同色の、意志の強そうな瞳。
 抜けるように白い肌、ほっそりと均整の取れた体つき。
 深窓の令嬢と呼ぶには、身に纏った男もののシャツとスラックスが些か相応しくないようであるが、全体として見ればこの上なく似合っている。
 男装の麗人という、年頃の少女を称するには風変わりな言葉が、その少女の容姿を表すのにぴったりであった。

「お初にお目にかかります。私の名前はフィナ・ヴァレンタイン。右も左も分からぬ田舎者ゆえ皆様にはご迷惑ばかりおかけすることになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 その瞬間、38対の視線が、少女以外の人間に集中した。
 それは、その人間の隣に座った、銀髪の少年とて例外ではない。いつもは何があっても落ち着き払った様子を崩さないシェラまでもが、呆気にとられた様子でリィを見つめていた。
 やがて、その中で最も勇気ある少年が、おそるおそると片手を上げながら、探るような声で質問をした。

「えーっと、ひょっとして君はヴィッキーの……?」

 リィが何か声を上げる前に、少女はにこやかに微笑みながら、少女らしくない口調で言った。

「ああ、私はそこにいるヴィッキー・ヴァレンタインの妹だ」

 食堂の中に、些か夜には相応しく無い、騒然たる叫び声がこだました。
 

 ウォルがリィと離れて惑星ベルトランに一人残ったのは、もちろん事情があってのことである。
 現在、ウォルが身を寄せるこの世界――端的に言ってしまえば共和宇宙に、彼女の存在を根拠づける公的な記録は一切存在しない。ウォルが間借りする少女、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンには、一応の記録こそかつては存在したものの、現在では三年前の事件の再来を恐れる政府機関によって徹底的なまでに抹殺されている。
 シェラがリィに言ったように、この世界で生きていく上で、個人の公的な記録というものは欠かすことの出来ない重要な存在だ。無論それを持たない私生児や辺境民がいないわけではないが、少なくとも中央において、そんな人間が日の当たる人生を送ることが出来るはずもない。
 シェラの時は、ロストプラネット出身という、一歩間違えば正気を疑われるような方便をもってその公的記録を獲得したが、ウォルのケースにはその離れ業を使うことは出来なかった。
 二匹目の泥鰌を恐れたのではない。それよりももっと切実な、大きな問題があったのだ。
 それは、ウォルとシェラの過ごしてきた生涯の違いである。
 シェラは幼き日より、流れた先の土地の風俗に合わせてその生活習慣を変え、コミュニティの中に溶け込むための訓練を受けてきた。それに対してウォルは、基本的には一つの場所で、どっしりと根を下ろした生活を送ってきている。
 では、果たしてそのウォルに、シェラほど器用に己の生い立ちについて周囲の目を欺くことが出来るだろうか。それも、右も左も分からぬ異世界で、だ。
 リィはその点について楽観的であったが、しかし当のウォルとシェラは懐疑的であった。

「何せ、俺は楊枝一本削ったこともない、不器用を地で行くような男だ。到底シェラの真似が出来るとは思えん」
「おれはお前くらい器用な奴の方が珍しいと思うけどなぁ」

 この上なく疑わしげな視線を寄越しながら、リィは呟いた。

「お言葉ですがリィ。へ……ウ、ウォリ……は、確かに器用な方だと私も思います。思いますが、これはどちらかというと『慣れ』のほうが物を言う領分ですので……」
「ふむ、流石にシェラはよく分かってくれる」

 ファロット伯と呼ばれなかった少年は、安堵の溜息を吐き出した。
 それを横目に見ながら、興味の薄そうな様子でリィは呟いた。

「ふーん。ま、シェラがそう言うなら間違いないんだろう」

 星間通信を用いたこんな会話があって、結局当初の予定通り、ウォルの身元は非道な人体研究施設から救い出された憐れな少女という設定でヴァレンタイン夫妻に紹介された。当然マーガレットはそれが方便だと知っているが、どうやら全くの嘘でもないようなその説明に衝撃を受け、少女の不遇に涙を流した。
 施設での記憶は、ウォルの宿った少女の脳髄に、嫌と言うほどに刻み込まれている。この点、例え施設の関係者がこの少女を捕まえて尋問したとしても、少女の中に宿っているのが別人格だとは露ほども思わないだろう。無論、ウォル自身を含めたところで数人の人間が、その持ちうる全ての暴力をもってそんな事態を許しはしないのだろうが。
 結果、ヴァレンタイン夫妻は二つ返事でウォルの身元の引き受けを快諾した。
 しかしここで再び問題になったのが、やはりウォルの元々の公的記録である。
 エドナ・エリザベス・ヴァルタレンに関する公的記録は、徹底的なまでに抹消されている。ひょっとしたら、両親の記憶だって操作され、彼女のことを覚えている人間はこの世にいないのかも知れない。
 そんな人間の、いわば元から存在しない人間の後見人になるなど、どだい不可能である。可能であったとしても、彼女の存在を一から公的に認証するためには、シェラのとき以上に面倒な手続が必要になるだろう。
 もとよりそんな些末事に無駄な時間をかけるつもりのなかったウォルは、電話一本でその問題を解決した。
 
『失礼、そちらは連邦主席官邸で間違いなかったかな?』
「はい、その通りです。失礼ですが……?」
 
 この共和宇宙でもっとも多忙を極める役人の詰め所であるそこには、当然多くの電話がかかってくる。しかしその多くは幾重にも張られた厳重なチェックを受けて、担当係官から引き継がれるのが通常である。
 その中で、直通電話のかたちを取られるのは、余程に緊急の連絡か、それとも極々私的な相手なのか。
 それにしても、受話器の向こうにいるのは、どうやら年若い女の子のようなのだ。
 主席付の秘書官は首を捻った。そして、重ねて問うた。

「主席にどういったご用事でしょうか?」
『狼女が、朗報を一つ、そして頼み事を一つ持ってきたと、そう伝えて欲しい』

 その効果は驚くべきものだった。
 共和宇宙全体の、経済とエネルギー問題を解決すべく集まった各国財務大臣との折衝に臨んでいた共和宇宙連邦主席、マヌエル・シルベスタン三世は秘書官からの緊急呼び出しに舌打ちを堪えつつ、人好きのする笑みを浮かべながら会議室を後にした。

「何だ、今がこの会議において最も重要な局面であると、君とて知らぬわけでもあるまいに」
『はっ、お怒りはごもっともですが……その、狼女を名乗る少女から、例の直通回線を通じて連絡が入っておりまして……』

 予想だにしなかった名前を聞いて、主席は、赤絨毯の上でへなへなと崩れ落ちた。
 その時誰も廊下を歩いていなかった辺り、この男は幸運を司る星の下に生まれていたのかもしれない。ただ、その星は幸運以上に、気苦労と胃痛と偏頭痛を司っていたに違いないのだが。
 それでも何とか携帯端末を取り落とすことだけは避けた主席は、震える声で問い返した。

「そ、それで先方は、なんと、一体何と言っていた!?正確に復唱したまえ!」
『は、はい。ええと、狼女が、朗報を一つ、そして頼み事を一つ持ってきたと、そう伝えて欲しい、と』
「……わかった。すぐにそちらに向かう。電話はそのまま繋いでおくように。それと、くれぐれも粗相のないように気を付けたまえ。冗談では無く、君の対応によってこの共和宇宙の命運が決まるといっても過言ではないのだからな!」

 一体何の事かわからずに悲鳴に近い呻き声を発した秘書官を無視して携帯端末を切った主席は、ほとんど全力疾走で主席官邸に向かって走った。主席官邸と連邦議事堂は隣り合った建物であるため、下手な乗り物を使って移動するよりも歩いて行った方が早いのだ。
 それでも、いつもは綺麗に撫でつけられている髪を乱れさせ、額に珠のような汗を浮かべながら疾駆する連邦主席というのはやはり尋常ではない。すれ違った人達は、果たしてどのような異常事態が起きたのかと訝しんだ。
 一方、気の毒なのは主席が到着するまでの間、少女の相手を命じられた秘書官である。
 粗相の無いようにと言われた以上、保留にして待たせるというのも躊躇われたし、かといって一体何を話したものかわからない。そもそも、受話器の向こうにいるのが一体誰なのか、想像すら出来ないのだ。

『主席はまだ戻られないのか』

 如何なる感情も排したような冷たい声(少なくともこの秘書官にはそう聞こえた)が、受話器から響いてくる。秘書官は、ほとんど祈るような気持で、この正体不明の相手が怒りにまかせて受話器をフックに戻さないよう、願った。

「そ、その、ただ今急ぎでこちらに向かっておりますので、もう少々お待ち頂けますか?」
『もしお忙しいようなら掛け直させて頂くが?』
「い、いえ、それには及びません!どうか、どうかこのままお待ち下さい!」

 偉大なる連邦主席が息せき切って戻ってきたときに、電話は既に切られていましたでは秘書官失格である。直後に盛大な雷を落とされるのは覚悟しなければならないし、最悪の場合は、生まれたばかりの乳飲み子と愛する妻を抱えて路頭に迷う羽目になるかもしれない。
 秘書官は、今までに一度だって発揮したことのないくらいに真摯な想いを込めて、声だけしか知らない見ず知らずの相手に、電話をつなげておいてくれるように頼み込んだ。

『いや、しかしそちらもお忙しいだろう。俺もそうだったから分かるが、国を一つ治める人間というのは身体が二つあっても足りぬほどに多忙を極めるものだ。そんな人の邪魔をするのは気が引ける。やはり、掛け直させて頂こう』
「いえ、いえ、お願いです、後生ですからどうかこのまま電話を繋いで下さい……!」

 秘書官にとっては無限とも思える時間、その実、五分を少し越えるかどうか程度の時間の後に、全力疾走を終えて息を切らした連邦主席が官邸に戻ってきた。
 文字通りに神経をすり減らしていた秘書官は、尊敬すべき上司の到着を、今までのどの瞬間よりも嬉しく、そして頼もしく思った。

「しゅ、主席!」
「せ、せん、先方は!?まだ、電話を、繋いでいるんだろうな!?」
「はい、はい、」

 秘書官が恭しく……というには少々間抜けな様子で差しだした受話器を、主席はもぎ取るように奪った。
 そして、途端に慎重な手つきになり、耳に押し当てて、呟くように言った。

「……もしもし」
『おお、主席殿か。久しいな』

 豪放磊落を絵に描いたような、野放図な声でありながら、しかしどこまでも耳に心地よい少女の声である。
 主席は、このような声を持つ者が誰なのか、よく知っている。
 例えば、例の騒動の時に、惑星ボンジュイと主席官邸を取り持つことになった、長身のあの男。それとも、その時に同席した、金色の戦士。
 これは、生まれながらにして人を従える、それとも人を惹き付ける、ある種の定めを持った人間の声なのだ。
 羨ましいと思う。彼らは、自分のように、派閥ごとの根回しや、言うことを聞かない政治家に鼻薬を嗅がせるなど、そういう汚い仕事をすることなく、気軽な有様で頂点に立つことが出来るのだろう。
 気に食わない。というよりも、認めたくない。それは、今までの自分の生き方を、真っ正面から否定することになるからだ。
 しかし何より気に食わないのが、この種の人間は、自分が喉から手を伸ばすほどに求めるもの――名誉や権力、金銭や異性――などは、歯牙にもかけないことだ。そもそも価値のあるものとして認識していない。
 それが何よりも腹立たしい。まるで自分自身を無価値なものと断じられたような、疎外感に近いものがある。
 主席は、そういったいくつもの感情を飲み込み、荒々しい呼吸を収め、そして口に出してはこう言った。

「お久しぶりです、デルフィン卿。私は貴方からの連絡を、一日千秋の想いでお待ちしておりましたよ」

 やや恨みがましくなってしまった声に、電話の向こうの少女は苦笑したようだった。

『申し訳ない。本当はもう少し早く連絡が出来たのだが、何せ頭痛が酷くてな。ベッドから起き上がる気にもなれなかったのだ。許して欲しい』
「どこかお悪いのですか?」
『ん?いや、まぁ悪いと言えば悪いのだが……そこらへんはあまり触れないで頂けるとありがたい』
「そ、それは失礼しました」

 流石に二日酔いで伏せっていたとは言えないウォルであるから、言葉尻は微妙に濁した。
 主席は、それを女性特有の体調不良であると誤解して、それ以上の追求を避けた。
 結局、二人の間にはどうにも歯痒いような、微妙な空気が流れた。

「ま、まぁそれはともかくとしまして……。秘書からは、私に頼み事があるとのことだと伺っているのですが?」
『おお、そうだった。その前にまず一つ、卿を安心させておこうと思う』

 それこそが主席のもっとも聞きたかった言葉である。
 主席は、汗ばんだ手で受話器を握りしめながら、さながら少女が目の前にいるかのように身を乗り出して次の言葉を待った。

『まず、彼らの怒りはどうにか抑えることが出来た。卿が心配するような事態には及ぶまいよ』

 彼らという代名詞が一体誰のことを指しているのか、主席にとっては明白すぎるほどに明白であった。
 脳裏に浮かぶ、緑柱石色の苛烈な瞳と、明確な軽蔑を含んだ青玉の瞳。
 どちらも、主席にとっては悪夢の体現でしかない。
 その彼らが、怒りを収めた。収めてくれた。
 主席は、電話の向こうの少女に対して、神の御使いを遇するにも等しいような真摯さで謝辞を述べた。

「あ、ありがとうございます、ありがとうございます!あなたのおかげで、共和連邦に住む全ての住人の命は救われました!」
『大袈裟だな、卿は』

 それが決して大袈裟ではないことを、お互いが知っていた。

『しかし忘れるなよ。俺が責任を持つのはこの一回だけだ。もし卿らの喉が意外に短く、すぐにでも熱さを忘れるようならば、今度は俺が貴様らに鉄槌を下す役割を引き受けることになるだろう』
「は、はい。それは承知しております」

 背筋を伸ばしたマヌエル・シルベスタン三世は答えた。

「今後、あなたのような……いえ、あなたの魂の宿るその少女のような被害者が現れぬよう、全力を尽くします」
『それは、一体誰が?』

 主席の声は、はっきりとしていた。

「私と、私の後ろに連なる全ての連邦主席が、です」
『そう願いたいものだ。俺も、進んで戦乱を巻き起こしたいとは思わんのだからな』

 その時は、二人が同時に笑ったようだった。
 主席は安堵の溜息を吐き出しそうになったのを我慢し、その代わりに首元を緩めた。

「それで、私に頼みたいことがあるというのは?」
『うむ、この少女のことで少しばかり頼み事がある。聞いてくれるか?』
「私の力の及ぶ限りであれば、喜んで」

 ウォルは、今の状態ではどうやら自分がヴァレンタイン家の被保護者になる資格もないことを語り、その状態を改善するためにはどうすべきか、知恵を貸して欲しい旨を伝えた。
 主席はしばし黙考した後、口を開いた。

「了解しました。要するに、この世界にあなたが暮らしていたという、公的な証明を作ればいいと、そう言うことですね」
『頼まれてくれるか?』
「共和宇宙に暮らす全国民の命に比べれば安いものでしょう。今日中に用意させます。ちなみに、どういったお名前と経歴がよろしいのですか?」
『名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン。経歴は、極々普通のもので構わない』

 その後、二三簡単な言葉を交わした後で、ウォルの方から電話を切った。
 主席の言葉に偽りはなく、それから一時間としないうちにウォルのもとに連絡が入り、彼女の公的な経歴と、電子身分証明が送られてきた。
 なるほど、どこの国でも王の権力は大したものだと、ウォルは皮肉げに笑ったものだ。


「……それはいいさ。折角作った人脈だ、利用できるときに利用するのは当然だな」

 怒りを押し殺したような低い声が、狭い室内に響いた。
 それがどれほど危険なものなのかを知り尽くしているシェラなどは、背中に嫌な汗を流していたのだが、当の少女は平然としたものだった。
 フローリングの床に簡単なクッションを車座に並べ、三人で顔をつきあわせている。

「ならばリィよ。お前は何でそんなに怒っているんだ?」
「これが怒らずにいられるか!言うに事欠いておれの妹だと!?一体何を考えているんだ、ウォル!」

 だん、とリィは渾身の力を込めて、固い床を殴りつけた。
 めしり、と、凄い音が鳴って、憐れな木材は少年の拳のかたちに陥没した。この分では、きっと階下の部屋に住むジェームズ・マクスウェルなどは、果たして何が起きたのかと呆気にとられていることだろう。
 シェラなどはその音に、というよりは迸る怒気に首を竦めたが、当のウォルは平然としたものだった。

「別にいいではないか。事実、この子はお前の妹なんだから」
「おれはこいつを妹だなんて認めた覚えはない!」

 へそ曲がりな嫁父が花婿を詰るような口調で、リィは言った。
 その後で、流石にこの言い方は不味いと思ったのだろう、ややあらためた口調で言い直した。

「いや、百歩譲ってウォルフィーナがおれの妹だったとして……ウォル、お前がおれの妹を名乗る理由にはならないだろう!」
「いや、どうやら立派にお前の妹なんだな、これが」

 ウォルはプリントアウトした、己の戸籍記録をリィに手渡した。
 それを荒々しい手つきで奪い取ったリィは、即座に文面に目を通し、そして愕然とした。
 そこには、確かにウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンはヴァレンタイン家の養子となり、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの義理の妹になった旨が記載されていたのだ。
 リィは、この少年には珍しい、愕然とした表情で固まってしまっていた。
 黒髪の少女は――つい先日、この少年の妹になってしまったらしい少女は、心配そうな声で言った。

「……リィよ。俺がお前の妹になったとして、何か困ることでもあったのか?」
「……あのなウォル。食堂からお前が引っ込んだ後、おれがどんな目に合ったと思ってる?」

 思い出してシェラも憮然とする他ない。
 ウォルの短い自己紹介の後で、寮生の半分、要するに男子生徒のほぼ全員が、突然現れた美の女神(少なくとも彼らにはそう見えたらしい)との出会いのきっかけを求めて、その兄たるリィの元に殺到したのだ。

『おいヴィッキー!お前も人が悪いな!あんなに可愛い妹がいたのかよ!』
『今度、みんなで遊びに行こうぜ!俺、ジンジャー主演の最新作のチケット持ってるんだ!』
『フィナちゃんって何が好きなの?どこかのクラブに入るのかな!?』

 当然、フィナ・ヴァレンタインというのはウォルのことだ。リィがいくつも名前を持ち、それを相手によって使い分けているというのが、ウォルにとっては新鮮で面白かったらしい。
 ウォルがもとは男――しかもデルフィニアの太陽と謳われた大英雄――であったことなど露ほども知らない同級生達は、将を射んとせばまず馬を射よの格言通り、彼女の兄であるというリィの攻略に取りかかったというわけらしかった。
 普段は人と深く交わらず一定の距離を保つことを心がけているリィであったが、この一気呵成の猛攻撃には辟易とさせられた。
 しかし、男子生徒の狂熱ぶりも無理はあるまい。
 何せ、彼らは13歳、青春の入り口に差し掛かり、異性のことが気になって仕方ない年頃である。
 そんな中に現れた、リィやシェラと並んでもおさおさ見劣りしないほどに美しい転入生であるから、騒がない方がどうかしている。寧ろ、リィやシェラなどのように同年代の女の子に全く興味を抱かないという男の子の方がおかしいのだから、男子生徒達を責めるのは酷というものだろう。
 加えて、ウォルの纏った雰囲気は、リィの苛烈で火傷しそうな気配や、シェラの孤高で凍て付きそうな気配と違って、万人を受け止めて優しく包み込むような人懐っこいものであるから、何よりも受けがいい。
 当然の結果として、自己紹介から僅か数分というところで、同級生の男の子ほとんどの心を射止めてしまったというわけだ。
 その後すぐにハンスに連れられて寮設備を見学して回ったウォルが知らなかったとしても無理はないのだが、リィに対する質問攻めはその後三十分以上にも及び、これなら戦場で剣を振るう方がよっぽどマシだとボンジュイの黄金の戦士を嘆かせたのだった。

「今日の時点でこれだぞ!?本格的に授業が始まったら、おれは一体どんな目に合うっていうんだ!?」
「うむ、えーと、なんというか、その……すまん」
「……いいさ、多分お前のせいじゃあないんだから」

 どこまでも疲れたような顔で二人は肩を落とした。
 その後で、気を取り直したようにウォルは言った。

「しかしだな。勘違いするなよ、リィ。別に俺が、お前の妹になることを望んだわけではないぞ。俺は別にお前の妹に収まらずとも、ずっと前からお前の夫なんだからな」
「……じゃあ、一体誰が望んだっていうんだ。おれはてっきり、シェラと同じように、アーサーの被後見人に収まるだけだと思ってたのに……」
「俺ではない、そしてもちろんお前ではない。ならばある程度絞られるのではないか?」

 刺し殺すようなリィの殺気を、柳に風といったふうに受け流しながら、あくまで涼しい顔のウォルはそう言った。そんな少女を見ながら、この人以外の誰がリィの夫を名乗れるだろうかと、シェラは畏敬の念をあらたにしたのだった。
 そんな二人を尻目に、少しの間考え込んだリィは、弾かれたように顔を上げて、言った。

「……まさか……アーサーか!?」
「こんなものを預かっているが、見るか?」

 ウォルが懐から出したのは、映像記録用のマイクロチップであった。
 リィはそれを文字通り引ったくり、専用のコンピュータ端末に差し込む。
 すると程なくして、リィの遺伝上の父親であるコーデリア・プレイス州知事の、輝くような白い歯がモニタに映し出された。

『やぁ、エドワード!これを見てると言うことはウォルは無事にお前の元に届いたんだね。いや、よかったよかった!』

 流石に記録映像に向けて『エドワードと呼ぶな!』と叫んだりはしないリィであるが、しかしその内心が如何ばかりかは、緑色の瞳が赤く燃え盛っていることから明らかである。
 ウォルも、これがただの記録、いわば手紙の親戚にすぎないことを知っているから狼狽えたりはしないが、しかし何とも便利な世の中になったものだと感嘆の溜息を吐き出した。
 そしてシェラは、仮にも一国の王を捕まえて荷物のように呼ぶリィの父親に対して、やはりこの人は一角の人物なのではないだろうかと首を捻った。
 そんな三人の心など素知らぬふうに、画面の中のアーサーは続ける。

『ウォルから話は聞かせて貰ったよ。駄目じゃないかエドワード、折角のお婿さん、もといお嫁さんを放っておいて、自分だけ寮に帰ったら。いいかい、エドワード。ウォルを逃したら、きっとお前には一生お嫁さんのなり手なんて見つからないぞ。だから自分の目の届かないところに置いちゃあいけないな』
「余計なお世話だっ!」

 疑いようのない余計なお世話に、流石のリィも声を荒げた。
 これはリィでなくても怒るに違いないとシェラも思った。

『既にウォルから聞かされていると思うが、彼女はお前の紛れもない妹だ。少なくとも、戸籍上はね。その理由を聞きたいか?』 
 
 リィは言葉も無く唸った。まるで、目の前にアーサーがいるかのようだった。

『本当はシェラの時と同じように、僕が後見人を務めるだけでもよかったんだが、しかしそれだけだと、恋愛に奥手なお前のこと、ウォルをほったらかしにしそうじゃないか。駄目だぞエドワード。恋愛には誠実さとまめさが何よりも大切なんだ。そこらへんがお前にはとんと抜け落ちているから、父さんは心配で心配で……』

 よよよ、と泣き真似を作ったアーサーである。
 リィは無言で立ち上がった。
 その背後に揺らめく殺気から彼が何をしようとしているのかを察知したシェラが、慌ててその身体を抱き押さえた。

「止めるなシェラ!映像とはいえ、せめて一発ぶん殴らないと気が済まない!」
「駄目です、リィ!せめて、せめて最後まで見ましょう!」
「……いやぁ、リィ。お前の父親は中々の大人物だな。俺ならばこんな大それたこと、あまりに恐ろしくて、とてもではないが思い付かんぞ」

 大騒ぎの室内であったが、入室禁止の表示をしているためか、誰一人として扉を開けて覗こうとはしなかった。この表示がされているときに理由も無く部屋に立ち入れば、寮規則に従って罰せられるからだ。
 リィの部屋の周囲の生徒は真面目らしく、この大騒ぎの最中もドアを開けることはなかった。ある意味、リィは助けられたと言ってもいい。寮の管理係に通報されかねない、それほどの大声で騒ぎ喚いていたのだから。
 しかし規則云々を言うならば、男性用宿舎にあるリィの部屋にウォルが居ること自体あってはならないことなのだが、この連中に常識というものを求めるのがそもそも無謀なのだ。
 そして監視カメラや防犯装置は普通に階段や廊下を使う人間を相手にするから有効なのであって、トカゲのように建物の外壁を這い上がってきた少女を捕まえる便利な罠など、いくら科学の進んだこの世界であっても存在しない。
 
『その点、ウォルがお前の妹になれば、世話焼きなお前のこと、おはようからおやすみまでウォルの面倒を見ることになるだろう?いいじゃないか、恋愛というのはそういう日々の触れ合いから生まれるものだ。思い出すなぁ、僕とマーガレットの出会いを……』
「放せシェラ!せめてこのアホな映像を止めさせろ!」
「放すなよシェラ!これほど面白いリィはそうそう見られるものではないぞ!」
「そ、そんな……!」
 
 シェラの心は常にリィの味方である。それは、偉大なる国王が相手であっても変わるところはない。
 しかし、当のシェラもこの映像の続きが見たかったので、内心でリィに詫びながら、やはりその羽交い締めを解くことは無かった。
 そんな騒ぎの中、感動的な夫婦の出会いを語り終えていたらしいアーサーの後ろで、ぴょこりと黒い髪の毛が顔を覗かせた。
 ルウであった。

『心配しないで、エディ。君の籍が置かれているコーデリア・プレイス州の法律では、養子と実子間の婚姻は禁止されていないんだ。難しいことは考えないで、親公認の男女交際だと思って羽根を伸ばしたらいいんじゃないかな?それに、君と王様が兄妹なら、同じベッドで寝てたって誰も咎めようがないじゃないか』

 的外れな慰めの言葉を、黒い天使は満足そうに言った。
 それを受けて、アーサーも満面の笑みを浮かべた。

『おお、ルウ、なかなかいいことを言うな。その通りだ、エドワード。早く孫の顔を見せてくれ。この年でお爺ちゃんになるとは思っても見なかったが、しかしお前の子供にお爺ちゃんと呼ばれるなら悪くない』
『うわぁ、楽しみ!どんな可愛い赤ちゃんが生まれるんだろうね!』
『今度は持って行くなよ、ルウ!』
『うん!でも、名前は僕に付けさせて!』
『駄目だ!絶対に僕が名付けるんだ!そして、今度こそお爺ちゃんと呼ばせて見せるからな!』

 ふと気がつけば、二人の手の中には、琥珀色の液体で満たされた小振りで形のいいロックグラスが握られていた。
 一体どういう経緯でアーサーが、『人さらい』と毛嫌いするルウと酒を注ぎあっているのかは知らないが、どうやらこの二人は相当な量のアルコールを身体に入れているらしい。元々酒が顔に出ない二人だから分からないが、しかしこの不自然に陽気な有様からして間違いあるまい。
 リィとウォルの二人と共にあれだけの酒を飲み、それに相応しい報いとしての二日酔いに苦しみながら、またしても大量の酒瓶を空にするあたり、酒豪のリィの父親に相応しい飲みっぷりであった。
 その後もモニタに映し出された二人はぎゃあぎゃあと喚き散らし、程よく気分が落ち着いたところで別れの挨拶を告げ、映像はそこで途切れた。
 無音の部屋に残されたのは、何とも気まずい沈黙と、そして怒りに身を震わすリィのみである。

「……ウォル、一つ聞きたい」
「う、うむ。何だ?」

 流石に気圧されて口籠もった己の夫に、戦女神をその身に宿した王妃は問うた。

「お前がこのマイクロチップを受け取ったのはいつだ?」
「……俺があの星を発った日だったから……三日前か?」

 机まで歩いて行ったリィは無言で受話器を取り、実家に繋がる外線用の番号をプッシュした。
 程なくして、彼の遺伝上の母親の、柔らかな声が部屋に響いた。

『はい、ヴァレンタインです』
「アーサーはどこだ」

 有無を言わさぬ剣呑な響きの声であったが、自分のお腹を痛めて産んだ子供の声であったから、マーガレットは迷うことは無かった。

『まぁ、リィ。どうしたの?』
「アーサーはどこだ」

 繰り返された同じ問いに、マーガレットは溜息を吐いた。きっと、また例の親子喧嘩だと思ったのだし、それは完全な事実であった。

『アーサーなら昨日、近くの星系の視察に行くとかで、慌てて飛び出していったけど?』
「視察?そんなの聞いていないぞ」
『ええ、そうなの。私も聞いてびっくりしちゃって……』

 逃げたな。
 三人は、同時に思った。

「……仕方ない、掛け直すよ。じゃあ、ドミとチェイン、デイジーによろしく伝えておいてくれ」
『ええ、分かったわ。リィも、私の新しい娘に、よろしく伝えておいてね』

 リィは何とも形容し難い複雑な表情を浮かべて、受話器をフックに戻した。
 そして、間髪を入れずに新しい番号をプッシュした。

『はい、こちらはフサノスク校舎学寮管理係ですが』
「ルーファス・ラヴィーに急ぎで繋いで頂きたいのですが」
『少々お待ち頂けますか……あ、申し訳ありません、ルーファス・ラヴィーは船体整備実習のため、長期研修中でして……。今はおそらく星間移動中ですから、通常電話では繋がらないと思うのですが……』
「わかりました。ありがとう」

 こちらもか。
 三人は同時に思った。
 リィの小さな手に握られたままの受話器から、ぴしりと、小さなひびの入る音が聞こえた。
 ウォルは声を潜めて、隣に腰掛けた銀髪の少年に問いかけた。

「……なぁ、シェラよ。一つ尋ねて良いか?」
「ええ、フィナ。どうぞご存分に」

 シェラは平然と言った。
 それを聞いた黒髪の少女は、見事なまでに眉を顰めて、言った。

「おい、シェラ。それはよそ行き用の名前だ。身内には違う名前で呼んで欲しいのだがな」
「では陛下とお呼びしても?」

 にっこりと、あまりにもにっこりとしていて背筋が冷たくなるような、百点満点の微笑みだった。
 ウォルは、自分の宿題が、目の前の少年をどれほど追い詰めていたのか、あらためて思い知らされた。

「……わかった。ウォルで我慢しよう。だからその微笑みは止めてくれ。夢で魘されそうだ」
「ではウォル、質問とはなんですか?」

 一切のためらいなく、シェラは言った。
 一週間前に再会を果たしたときは、ウォルと呼ぶことにすら戸惑いを覚えていた少年とはとても思えない。
 どうやら今日までの間に相当の葛藤を経験し、悩みに悩んだあげく、どこかで吹っ切れてしまったらしい。もう、いっそ晴れ晴れとした表情であった。

「いや、リィのお父上のことなのだがな。前にリィに聞かされた、頑固で融通が利かない一徹者という説明にはどうにもそぐわないお人のように思えるのだが……俺の気のせいか?」
「いえ、私がこちらの世界に来たときは確かにそんな感じだったのですが……あの人もリィに引っ張り回されて、マフィアの人質になったりもう少しで殺されそうになったり、色々と経験していますから……」

 要するに、朱と交わってしまったのだ。
 誰よりもその朱が人を染めやすいことを承知しているウォルは、気の毒そうな表情で頷いた。

「ヴァレンタイン卿も苦労しておられるのだなぁ」
「それにしても、今回の悪戯はよく分かりませんね。逃げるくらいなら最初からしなければいいのに」
「いや、シェラ、全くもってその通りではあるのだがな、人は理屈のみで行動する生き物ではないらしいのだ。差し詰め、酒の勢いとその場のノリでリィを驚かすことを決めて手続をしてはみたものの、後から考えればどれほど命知らずなことをしてしまったのかに思いが至り、今更ながらに恐ろしくなって、とりあえずの心の平穏を求めて遠くに旅だった、そんなところではないかな?」

 シェラは思いっきり胡散臭そうな視線でウォルの横顔を射貫いた。

「……見てきたような仰りようですね」
「うむ、俺もそういう経験が無いわけでもない」
「……一体誰に何をされたんですか?」
「しらふで言えるか、そんなみっともないこと」

 埒もないことを呟き合った後で、二人は怒れる戦女神のほうを見遣った。
 そして、二人の秀麗な顔が、ほぼ同時に引き攣った。
 リィは、微笑っていた。
 それはもう、この二人だって今まで見たことがないというくらい、優しく、深く、慈しみ溢れる有様で。
 しかし勘違いしてはいけない。
 笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である。
 つまり、なんというか。
 あれは、とんでもなく、怒っているのだ。

「ふふふ、覚えておけよ、二人とも。この愉快な悪戯の報いは、きっちり払って貰うからな」

 ちっとも笑っていない目で、獰猛に牙を剥いた金色の狼。
 ウォルとシェラは、自分の身体が震えているのは、きっと隣に座った自分以外の誰かが震えているからだと、お互いに思っていた。
 そして、リィの報復の顎に晒される二人の人間(?)のことを思って、心の中で手を合わせたのだ。
 むーざんむざん。



[6349] 第十九話:緑の星にて
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/05 15:00
 宇宙船ピグマリオンⅡから一歩外に出ると、そこには原始の森が広がっていた。
 ウォルは、その威容に、そして美しさに、息も忘れて見入っていた。
 視界を埋め尽くすような緑、緑、緑。鳥が歌い、虫が戯れ、風が踊る、少女のふるさとだった。
 湖面は青く輝き、まるで巨大な一枚の鏡のようですらある。その上に立って一曲踊れば、きっとこの上なく心地よいのではないだろうか。
 一体、いつ以来だろう。長く苦しかった闘病生活、どれほどに故郷の懐かしき光景が恋しかったことか。国王としての身体は置いておいて、心だけはいつだって深い森の中に旅立っていたのだから。
 やっと思い出した息を、思いっきり深く吸い込んでやる。
 草の匂いが胸を梳くようだ。思わず涙が零れ落ちた。
 そこは、ウォルのふるさとだった。人はいない、見知らぬ土地、異郷の地。一度だって見たことのない大地のかたち。
 それでもそこは、ウォルを構成する魂の、重要なふるさとであった。

「嬉しいか、ウォル」

 いつの間にか、タラップの向こうに人影が見える。
 茫然とこの光景に見入っていた自分の横を、するりと抜けていったのだろうか。それに気がつかないなど間の抜けた話であるが、しかし恥であるとは思わなかった。
 ウォルは微笑んだ。流れ落ちる涙をそのままに、夜明け色の頭髪と、森の精を固めた瞳を持つ、己の同盟者に向けて。

「ああ。とても……とても嬉しいな」

 リィも笑った。
 彼の前に立つ、風に遊ばれるその黒髪を抑えつつ、同色の目を細める少女。
 その姿形が誰であったとして、彼女は間違えなく、二つの世界で唯一の、彼の配偶者だった。

「ありがとう、リィ。お前はいつだって、俺の欲しいものをくれる」

 リィはその言葉を聞いて目を丸くした後、後ろを向いて、その黄金色の頭を掻き毟った。
 照れているらしかった。
 そんな二人の後ろから、呆れたような、それとも面白がっているような声が響いた。

「二人とも、じゃれ合ってないで荷物運びを手伝ってくださいね」

 がちゃがちゃと、凄い音のするリュックサックを担いだシェラの言葉である。
 荷物のことをすっかりと忘れていた二人は、慌てて船内にとって返した。
 彼らが立っている星、惑星ヴェロニカは、二十日以上もの間、狩猟の『狩』の字も知らない中学生10人を、僅か二人の狩人の(それが凄腕であったことは否定し得ないが)手前で養いうるほど獲物の豊かな星である。
 それゆえ、彼らの荷物の中に、いわゆる普通の食べ物は入っていない。肉も魚も野菜も、全て現地で調達するつもりであったからだ。
 しかし、そのためのささやかな道具、例えば切れ味のいいナイフや鉈、釣り針などはあらかじめ用意しておいたほうが作業がはかどる。それに、各種調味料は、料理の味には拘るシェラ(作り手としては、自分が納得出来ない料理を食卓に上げるなど屈辱の極みである)には必須の品であった。
 そして何より大きな体積を占めたのが、色取り取りの酒瓶に入った甘露の群れである。こればっかりはこの星のどこかから調達するというわけにはいかないし、この三人――途中で四人に増えるのは目に見えている――は世間一般でいう酒豪以上の酒豪であったから、その彼らが一晩飲み明かせばリュックサック一つや二つ程度の酒では到底たりない。
 二人は船内の荷物置き場から、身体が隠れてしまうのではないかという程に大きなリュックをひょいと取り上げ、軽々と背中に担ぎ上げた。
 それを見ていたダン・マクスウェル以下、ピグマリオンⅡの乗組員は、あらためて感心したように目を見合わせた。

「……今更だが、その小さな身体のどこに、それだけの馬力があるんだ?」
「それに、その酒、全部お前らが飲むのかよ?」

 胡散臭そうにそう言ったのは、ピグマリオンⅡには古株である、タキとトランクである。
 その台詞も無理はあるまい。
 何せ、リィやウォルの小さな身体からすれば小山のように大きなリュックサックの中には、これでもかというほどに種々の酒が詰め込まれ、手慰みばかりのサバイバル器具が肩身薄そうに押し込まれているのだ。当然その重量たるや、並の大人であっても背負いきれるようなものではない。
 第一、彼らは三日後にはこの星から離れるのだ。そのための迎えだってピグマリオンⅡが務める運びとなっているのだから間違いない。にもかかわらず、三人が三人とも背負った膨大な量の酒――それも、その殆どが火のつくような蒸留酒ばかりである――を空にするというのか。

「これでも足りるかどうか分からないくらいだ」

 リィは、肩に掛かった金色の髪を揺らしながら、大きく肩を竦めた。その拍子に、彼の背中の大荷物から、ガチャリと盛大な音が響いた。

 そして、自分の脇に立った黒髪の少女を親指で指しながら言った。

「何せこいつときたら普段は日向ぼっこしてる熊のくせに、酒にはうわばみときてる。まったく、詐欺みたいな生き物だ」
「お前こそその身体で何を言うか。俺がうわばみなら、お前は酒好きの龍だろうが。今度こそ負けんぞ、リィ」
「ほう。自分から連敗記録に黒星を並べたいのか。不敗の闘神も随分丸くなったものだな」

 二人は、不敵な笑みと剣呑な眼光を同時に浮かべるという器用な芸当を見せながら、傲然と胸を反らしていた。
 タキとトランクの二人は、心底惜しいと思った。今は反らしてもほとんど膨らみのない少女の胸だが、あと十年、いや、あと五年もすればきっととんでもない目の保養になっただろうに、と思ったのだ。
 この二人を前にしてそんな暢気なことを考えられるあたり、腕利きの船乗りでも尻尾を巻いて逃げだす辺境宇宙を遊び場にしてきたピグマリオンⅡの乗組員はひと味違う。つい先ほどまで、船内のアクションロッドの競技場で、年端もいかないこの二人にめためたに伸されていたというのに。
 船長であるダンは、彼らが『そういう』人種だということを、それこそ嫌というほどに理解させられているから、もはや一言も無かった。ただ、目の前で可愛らしく胸を張る黒髪の少女を眺めて、類は友を呼ぶという格言の意味を思い浮かべ、自分がその友にならないことを神に願ったのだ。
 そして、それら人外人種を集めるフェロモンでも発しているとしか思えない金髪の少年は、輝くような笑みで言った。

「ダン、無理を言ってすまなかった。本当にありがとう」

 なにせ、誰かの助けを借りなければ、公共航路の設定されていない惑星ヴェロニカに辿り着くのは、少年達には不可能だったのだ。
 たまたま連邦大学を訪れていたダンを見つけ、駄目もとで頼み込んでみたのだが、意外なことにダンはそれを快諾した。
 それでもダンは、母親によく似た灰青色の瞳に驚きを浮かべて、言った。

「……君からそんな殊勝な言葉が聞こえるとは、帰りの航路は本気で宇宙嵐の心配をしなければならないらしい」
「おい、おれはいつだって礼儀正しいぞ。時と相手を選ぶだけだ」

 言外に今までの自分を非難されたダンは、やはりこれが『あの』少年なのだと、逆に胸を撫で下ろした。
 そんなダンを横目に、リィは続けた。

「しかしダンよ、お前のほうこそ一体どういう風の吹き回しだ?おれの顔を見れば飛んで逃げるはずのお前が、こんな面倒な頼み事を聞いてくれるなんて」

 不思議そうな顔をしたリィの、あまりに率直な疑問に、ダンは諦めたような顔で答えた。

「馬鹿なことを言うな。君が、ジェームズを助けてくれた君が、まさにジェームズを助けてくれたこの星に行きたいと言ったんだ。どの親がその頼みを断れる?」

 それはダンの心からの気持であったが、それ以外の事情も存在する。
 万が一にダンがリィの頼みを断り、億が一にそのことがダンの母親に伝われば、今度こそ力尽くでズボンを引きずり下ろされて、思い切り尻を叩かれるに違いない。
 それを思って、ダンは顔を顰めた。いい年をして母親に尻を叩かれるのが情け無いというのは勿論のこと、怒りに目を金色に染めた『あの』母親に本気で尻を叩かれれば、心以上に身体に傷を負うことになることは明らかだった。これでも忙しい船乗りなのだから、尻が痛くて操縦席に座れないというのは致命傷だ。
 そんなダンの心持ちを知って知らずか、リィは意外そうに言った。

「へえ。恩知らずなあんたの言葉とも思えない」
「馬鹿なことを言うな。私は、受けた恩は絶対に忘れない。ただ、時と相手を選ぶだけだ」
 
 その相手というのが誰のことを言っているのか、リィには、そしてダン自身にも明らかだった。
 一年前であれば、その言葉を友に対する侮辱と受け取って即座に行動に移したであろうリィは、やや苦み走った笑みを浮かべただけであった。
 それは、リィとその友人との関係が薄らいだからでも、リィの列気に翳りが生じたからでもない。ただ、その友人に――ルウに、いいように操られているダンのことを、ほんの少しだけ憐れに思っただけである。
 そういう意味では、ほんとに微妙に、そして本来の意味とはかなり外れたところで、二人の関係は少しだけ改善していた。
 ダンはリィのことを、相変わらず危険な人外生物だと認識していたし、息子の通う学校に蔓延る爆発物だという認識もあらためていなかったが、やはりリィはジェームズの命を助けてくれた大恩人であった。
 リィはダンのことを忘恩の徒と認識していることに違いはないものの、それなりの筋は通す希有な大人であることは認めざるを得なかったし、ダンがルウを毛嫌いするに至った経緯については同情の余地が十分以上にあることも認めていた。
 お互いを嫌っているが、しかし心の底から憎むことはできない。そして、一目置くべき人物だと認めながらも隣にはいて欲しくない。
 もっと簡単に言えば、ダンはリィのことが苦手であったし、リィはダンのことが苦手であった。
 なんとも珍しい関係な二人であった。そのことをリィは理解していたが、ダンはただ感じていただけだ。そこが、根本的な二人の違いといってよかった。

「ま、お前がルーファのことを悪くいうのはもう止めないさ。でも、おれの前でいうのは止めてくれ。おれは、それなりにお前のことが好きになれそうなんだ」
「それは御免こうむる」

 にこやかに言ったリィに対して、ダンはきっぱりと言った。しかし、だからといってリィの前でルウを不当に貶めようとは決してしない。口ではなんだかんだいって、やはり恩を受けた自覚はあるらしいのだ。
 こういう可愛らしいところがリィの心の琴線に触れることを、ダンは知らなかった。それが幸か不幸かは、彼の人生の終わりにならないと分からないことであった。
 その時リィが浮かべた笑顔は、他者に気を許した獣が浮かべる貴重なものだったというのに、顔を逸らしたダンが見ることはなかった。彼が正面に視線を戻したときには、いつも通りの不敵な表情をしたリィがいるのみだったからだ。

「しかしダンよ、お前なんで連邦大学にいたんだ?何か用があったのか?」

 その言葉を聞いて、ダンは意表を突かれたような顔をした。

「ヴィッキー、君は知らないのか?」
「だから聞いているんだ。ジェームズに何かあったのか?」
「まぁ、そういう言い方が出来ないわけではないがね。今度開かれるティラ・ボーンの統一スポーツ祭があるだろう?たまたま仕事に空きが出来たんでね。仲間を連れて、ちょっとした保養に来ていたんだよ」

 リィは首を傾げた。
 統一体育祭のことは聞いていたが、それに我が子が出場するからといって、仕事を抜け出して星々の間を飛び抜けて、遠く離れたティラ・ボーンにまでわざわざ来るダンは相当な親馬鹿なのかと思った。
 ダンはそんなリィの内心を察したのだろう、教壇に立つ講師のように言った。

「ヴィッキー。君はテレビを見るかい?」
「ニュースくらいならたまに」
「じゃあ、たまたま時間帯が悪かったんだろう。今、中央の公共電波でも、TBOのことを放送していない日はないくらいだからね」
「TBO?」

 リィの首は、更に急角度に曲がった。まったくの初耳だった。
 
「ティラ・ボーン・オリンピックですね?」
「うむ。やはり君は頭がいいな、シェラ」
「お褒めの言葉ありがとうございます、ダン教授」

 いつの間にかリィの背後に、銀髪の天使が立っていた。
 その、美貌と呼んでいいほどに整った顔立ちはいつも通りであるが、しかし背負った巨大な背嚢がアンバランスで、何とも滑稽であったかもしれない。

「シェラ。てぃらぼーんおりんぴっくとは何だ?」

 リィの内心を、ウォルが可愛らしく代弁した。
 シェラは丁寧な口調で言った。

「どうやらこの世界では、惑星単位で開催される大きなスポーツ大会を、オリンピックと称するようなのです。更に大きな、国家対抗で行われるようなものになると共和宇宙オリンピックと呼ぶようですが」
「うむ、その通りだ、シェラ。まぁ、この程度のことは小学生でも知っている、極々一般常識なんだがね」
「シェラ……お前、そんなこと、いつ知ったんだ?」

 いつの間にか、この世界の常識においてシェラに追い抜かされていたリィは、驚愕の表情も露わに、シェラに尋ねた。
 シェラは恐縮しながら、言った。

「いえ、こないだ例のパッチワークを提出に言ったときに、手芸部の女の子に色々と聞かされまして……」
「それってこないだあった、寮対抗のスポーツ大会とは違うのか?」
「根本的にはそれほど違いは無いようなのですが……。出場単位が寮ではなく学区単位であり、そして規模が比べものにならないくらいに大きい、といえばおわかり頂けますでしょう?」
「そりゃあ大変だ。あのときだって、とんでもないくらいの観客やらマスコミやらが押し寄せてきたもんなぁ」

 ティラ・ボーンは、連邦大学星と呼んだ方が通りがいいくらいに、一つの用途に特化した星である。広い共和宇宙を探しても、これほどに特異な星は二つと無い。
 その星で開かれるスポーツ大会なのだから、これはどこぞの田舎の星系で開かれるスポーツ大会とはわけが違う。
 ついでに言えば、連邦大学には各方面に有望な学生が数多く集っており、それはスポーツ方面だって例外ではない。大学を卒業後、プロスポーツ方面に進むことが決まっている学生も数多くいるのだ。
 ならば、いわば将来のスター選手の卵、もしくは既に大きな名声を獲得している選手が数多く出場するスポーツ大会が、アマチュアとはいえ注目を浴びないはずがない。当然そうすればスポンサーだってつくし、テレビや星間インターネット等のマスコミも鼻息を荒くする。
 結果、ティラ・ボーン・オリンピック、TBOは共和宇宙全体の大きなエンターテイメントとして、確固とした地位を築いているのだ。

「それにジェームズが出場するのか?あいつが得意なのは……アクションロッドか」

 なんだかんだいってルウに手ほどきを受けたのだから、ジェームズのアクションロッドの腕前は大人顔負けである。
 ある意味では、ジェームズの兄弟子といえないこともないリィは、不審そうな顔をダンの方に向けた。

「確かにジェームズは筋がよかった。でも、そんな大会に出場できるほどとも思えなかったけどな」

 ダンは、蕩けそうに嬉しげな顔で言った。

「その点は君に感謝しなければならないな。あの事件の後、いつかヴィッキーを助けるんだと、操船や機械操作、そしてアクションロッドに至るまで、ジェームズの熱の入れ用は鬼気迫るものがあったらしい。こないだ会ったときは、なるほど一皮剥けていると思ったよ」
「子供っていうのはそういうもんだな。ちょっとした切欠で、驚くくらいに成長する」

 どこからどう見ても子供にしか見えないリィが言ったのだから本来であれば笑うところだが、ダンの口の端は少しだって持ち上がらなかった。
 話を聞いていたシェラやウォルは、ジェームズの背伸びの仕方が微笑ましかった。特にリィを助けるのだといって頑張るところなど、不可能とは言えないにしても著しく難しいことは、誰よりも彼らがよく知っている。
 ダンとて、自らの両親ですら舌を巻く金色の少年を目標にして頑張るジェームズが不憫でないわけはない。いつか、越えられない壁にぶつかって、思い悩む日が来ることが目に見えているからだ。
 だが、ダンは、その壁と向かい合ったときに、ジェームズという人間の真価が問われるのではないかと思っていた。その壁にぶつかって捻くれるならばそこまでの人間だ。その壁を避けて違う道を探すのも一つの生き方だ。
 そして、それでも挫けずにその壁を乗り越えようと奮戦するならば、ダンは惜しみなく手を差し伸べるつもりだったし、それはジェームズにとっても決して恥ではないはずだった。

「当然、あの子はまだ中学生だからね。テレビに映るような華やかな試合ではないはずだ。それでも下馬評では、中等部では敵無しらしい。我が子が活躍すると決まっているのに、親としては見物にいかない手はないだろう?ちなみに、他にも操船技術を競うスペースボートの部にも出場が決まっている」
「それは卑怯な話だ。だってジェームズは、曲がりなりにも本物の宇宙船を操ったことがあるんだろう?戦争で人を殺したことのある戦士と木剣で稽古したことしかない兵士が闘うようなものだ。不意打ちじゃないか」
「残念ながら、出場資格には『実際に操船したことの無い者に限る』という条項はなくてね。利用できるものは精一杯利用する、それが正々堂々というものだろう?」
「そうか。なら、お前の言葉はもっともだな」

 ダンの言葉に、リィは真面目な顔で頷いた。
 確かに、闘う以上は全力を注ぎ込むべきだ。それは、身体も、そして精神も。ならば、ルールに反しない限り、そして己の覚悟に背かない限りで出来ることは全てするべきである。それが全身全霊を尽くすということである、敵への礼を尽くすということである。
 
「ところでヴィッキー、君は出場しないのか?」
「おれは今日までそんな大会があることすら知らなかったんだぞ。それなのにどうして出場できる?」
「それはよかった。君が出場したら、いくらジェームズでも優勝は諦めなければいけないからな」

 そう言ってダンは会話を締めくくった。
 リィとシェラ、そしてウォルは重たいリュックを背負い、船のタラップを渡った。
 
「迎えに来るのは二日後でいいんだな?」
「ああ。ジェームズの試合に間に合うか?」
「そのスケジュールなら、君らを乗せてティラ・ボーンに戻った翌日がジェームズの試合だ。是非応援に来てくれ」
「もちろんだ」

 ダンは微笑いながら小さく手を振り、リィも苦笑しながらそれに応じた。
 小さな音を立ててタラップは収納され、搭乗口は音もなく閉じられた。
 三人が程よく遠ざかった頃合いに、船のエンジンがけたたましく鳴り響き、その巨体が宙を舞い、少しもしないうちに空に浮かぶ小さな点となり、消えた。
 ピグマリオンⅡを見送った後で、リィは呟いた。

「そんなイベントがあったから、いやに簡単に休暇が取れたんだな」
「きっと職員や教授の皆さんも、お祭り騒ぎに加わりたいんでしょう」
「確かに、他人がお祭り騒ぎをしているときの書類仕事ほど腹立たしいものもないからな」

 妙に実感の込められた声で、ウォルは言った。
 リィとシェラは、顔を見合わせて笑った。

「さ、行こうか。例の小屋までは少し距離があるぞ」
「どれくらいだ?」
「そうだな……あっちの世界ふうに言うなら、10カーティヴってところか?」
「なんだ、そんなものか。日が暮れるまでにつけばいいのだから、昼飯の腹ごなしに丁度いいくらいだな」

 ウォルは肩すかしを喰らったように言った。
 これがいわゆる普通の中学生の女の子――例えば例の遭難騒ぎの時にリィとシェラが引率したような――であれば、そのキチガイじみた距離に目を回してへたり込んでいたであろうが、スーシャの野山を駆け回っていたウォルにしてみれば、そんなもの隣の家まで遊びに行くのに等しい距離である。
 そんなことを知っているから、リィとシェラは、やはり顔を見合わせて笑った。
 彼らの事情を知らないウォルは、少しだけ不満顔である。
 その柔らかな頬を膨らませてぷんぷんと怒っていた。

「なんだ二人とも、感じが悪いぞ。言いたいことがあったら面と向かって言え」
「うん。やっぱり、こういうところに遊びに来るならウォルみたいな女の子と一緒がいいな」
「そうですね。テレビゲームがない、お化粧がしたい、お菓子が欲しいと言って泣き喚く女の子のお守りをするのは、もうこりごりです」

 不思議そうに首を傾げたウォルの愛らしい様に、金銀天使は揃って笑い声を上げた。

◇ 

 三人が小屋に着いたのは、太陽も程よく傾いて、そろそろ夕焼けが西の空を染め始めるかどうかという頃合いであった。
 自分の体重ほどの大荷物を担いだ三人は流石に疲れ顔であったが、荷物を床に下ろして一息吐くとたちまち若々しい精気に満ちた顔に戻るあたり、どう考えても普通の少年少女ではありえない。

「あー、重たかった」

 苦笑いを浮かべながらリィが言った。
 訝しげな少女の声が、その言葉を遮った。
 
「俺を担いで馬と並んで走れるお前が言っても、ほんの少しも説得力が無いな」
「馬と並んで走れるからって疲れないっていうわけじゃあないんだぞ。こんな荷物を担いでこれだけの距離を歩けば、それなりに疲れるさ」
「そうか。俺はまだまだ動けるが、ならばリィは横になっていろ。たちまち獲物を捕まえてきてやるからな」
「言ったな、ウォル。勝負するか?」
「では、負けた方が今晩の酌女をするというのはどうだ?」

 腕まくりをした二人が、挑戦的な笑顔を浮かべた顔を突き合わせていた。
 リィは言うに及ばず天性の狩人だし、スーシャの山々に鍛えられたウォルとて狩りはお手の物である。
 シェラは、賢王と諸国に名高かったデルフィニア国王は果たしてこんな性格だっただろうかと、自分の記憶を辿り直し、どうにも絶望的な溜息を吐き出した。
 絶対に、こんな人ではなかった。確かにお化け屋敷の大親分ではあったが、人前では威厳を崩さなかった人なのに。
 きっと、王座を離れたこの姿がこの人の『地』なのだろうと悟り、もう一度重たい溜息を吐き出したのだ。
 それはともかく、この二人が自ら狩りに出るというのだ。ならば己の役目が獲物を捕まえることではないことを悟っていたから、今にも飛び出していきそうな二人に、こう言った。

「では二人とも、完全に日が暮れるまでには帰ってきて下さいね。私は小屋の掃除と、料理の下準備をしておきますので」
「なら、風呂のほうも頼んでおいていいかな。今でも結構汗臭いから、さっぱりしたいんだけど」

 そう言ったリィに対して、シェラは笑って頷いた。

「前に我々が割った薪がまだ残っていますから、大丈夫でしょう。それに蒸し風呂なら水もそれほど要りませんしね」

 この小屋の目の前にある湖の畔に、蒸し風呂小屋が設えられているのをリィは思い出した。蒸し風呂は、焼けた石と気密性の高い建物、そして少量の水があればいいのだから、普通に風呂を沸かすよりは確かに手間が省けるはずだった。

 ウォルも思い切り頷いた。

「では、俺からも頼む。あのリュックサック、確かに便利は便利だが肩が擦れていかんな。ほら、こんなに赤くなっている」

 ウォルは、ざっくりと着込んだTシャツの肩口をずらし、赤くなった皮膚を見せるようにした。
 すると、痛々しいまでに赤くなった少女の肩口から、水色の紐のようなものが見えた。
 リィはともかく、シェラが顔を赤くして、たまりかねたように言った。

「ウォル!女性はそういうものを人前で見せるものではありません!」

 思わず怒られたかたちのウォルは、きょとんと目を丸くしながら言った。

「そういうものとはなんだ?」
「ブラジャーの肩紐です!」
「なんだウォル、お前そんなもの付けてるのか?」
「別におかしな話ではないだろう?この世界の女性では、当然の嗜みであると聞いたが」
「いや、でもおれが女の子になっちまったときは、間違えたってそんなもの付けてやろうとは思わなかったぞ」

 またしても、話が変な方向に逸れ始めた。
 どうしてこの二人は、一人一人だと至って堅物で結構まともな人格なのに、二人になるとこうも扱いづらい生き物に変わるのか、シェラは不思議でならなかった。
 頭を抱えるシェラを尻目に、ウォルは唇を尖らせながら言った。

「俺は要らんと言ったのだが、それは不味いとヴォルフ殿がだな」
「ヴォルフが?」
「うむ。とりあえず今のあんたは女の子の身体にいるんだから、女の子の身体を労るのは男の義務だと。そう言われては返す言葉がないではないか」

 確かに、膨らみ初めの女性の胸だから、色々とデリケートだ。ヴォルフの忠告ももっともである。
 それに、こんな薄着で下着を着けていなければ、色々なものが浮き出てしまって、少年連中には目に毒である。しかも当の本人に自覚が無く、その上これほどの美少女なのだから、年頃の男の子がなにか気の迷いを起こしてしまってもそれを責めることはできなくなってしまうだろう。
 
「嫌じゃないのか?」

 女の子の身体の時は、そういうものにとことん嫌悪感を示したリィであるから、不思議そうに言った。

 ウォルは気安く答えた。

「まぁ、別に嫌ではないな。普通の女性なら普通に付けているものなのだろう?なら、今の俺も女なのだから普通に付ければいい。そういうものではないのか?」
「うーん、そういうものなのかなぁ。でも、動きにくかったり苦しかったりしないか?」

 リィはやはり承伏しがたい顔である。
 
「こんなもの、慣れてしまえばどうということはないぞ。ほら」

 ウォルはがばりと服を捲し上げた。
 シェラは、ぴしりと固まってしまった。
 処女雪もかくやというほどに白い肌、くびれた腰、へその窪み、そして淡い水色の可愛らしいブラジャーが、嫌でも目に飛び込んでくる。
 ウォルの、よく引き締まった健康的な肉体、特にようやく育ち始めた胸元などは、シェラにとっても目に毒であった。
 なのに、リィは、そんなものどこ吹く風で言った。

「いや、やっぱり苦しそうだって」
「意外と柔らかい素材で出来ていてな、一度付けてしまえばそれほど気にはならん。それに最近は、何も付けていないと胸と服が擦れて痛いのだ。その点、これを付けていればそういうこともない。中々に便利な道具だ。さわってみるか?」
「あ、ほんとだ。柔らかい」

 リィはウォルの胸元をぺたぺたとさわって、その手触りに驚いていた。

「もっとごわごわしてるかと思った」
「あまり強く触れてくれるな。本当に痛いんだ」
「うん、おれもそうだったから分かる。膨らみ初めは、さわっただけで痛いんだ。それにしても良くできてるなぁ、これ」

 カップの部分をさわったり紐の部分を引っぱってみたり、初めて与えられた玩具に目を輝かした男の子みたいに、リィはブラジャーを弄んでいた。
 リィの手つきがもう少し嫌らしければ、その光景は女の子に悪戯をする男の子以外の何ものでもないのだが、リィの心のどこにも疚しいところはないし、ウォル自身も興味津々といった感じでリィに身を任せているから、そういう現場にはどうしても見えない。
 それでも、もう少し回りに気を配るというか、周囲の目を気にするというか、もっといえば自分の存在を考慮に入れてくれてもいいのではないかと、シェラは溜息混じりに思った。

「……あの、二人とも。以前ティレドン騎士団長も仰っていましたが、そういうことは暗くなってから、ベッドの中でやって下さい」

 申し訳無さそうに目を閉じ、赤らめた頬をそのままにしてシェラは言った。
 
「……どうして?」

 怪訝な顔をしたリィである。
 シェラは、幼稚園児に性教育を施す母親のような気持で答えた。

「どうしてもです。そういうものなのです」

 普段は我を押し出さないシェラがこうまで強く言うと、リィやウォルとしても返す言葉がない。
 リィは残念そうに手を引っ込め、ウォルはぶつぶつ言いながらシャツを元に戻した。

「別にそれほど気にすることではないと思うが。なぁ、リィ」
「うん。それにシェラ、お前はそう言うけどさ。男とこんなことをベッドの中でやっていたら、それこそ変態だぞ……って、そうでもないのか」

 リィは隣に立つ、自分よりやや視線の低くなってしまった夫を眺めて言った。
 以前、リィの身体は、何かの間違いで女の子のものになってしまっていたが、しかし実のところ、リィの本質は男性であった。それに比べて、今、ウォルが宿っている身体は、紛れもない女性のそれである。
 ならば、目の前の少女とベッドに入っても、それほど問題が無いことにリィは気がついたのだ。
 だから、口に出してはこう言った。

「シェラはああ言ってるけど、今からベッドに行くか?」

 他人が聞けば唖然とするしかない台詞に、ウォルは平然と応じた。

「別に構わんが、今は腹の虫を宥める方が先決だな。夫婦の絆を深めるのは後にしよう」

 リィは真剣な面持ちで頷いた。

「もっともだな、ウォル。交尾はいつでも出来るけど、狩りは日が高いうちでないと厳しい。夜は彼らの時間だからな」
「よし、ならば善は急げだ。さっさと準備をしよう」

 シェラはもはや一言も無く、いそいそと狩りの準備を始めた夫婦を尻目に、自分の役割を果たすために地下室へと向かった。
 そこに置いてある箒で、積もった埃と一緒にこのやりきれない気持も、掃きだしてしまいたかった。



[6349] 第二十話:夕焼け小焼けでまた明日
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/05 15:00
 上手の手から水が漏れるというし、河童の川流れともいうし、猿も木から落ちるという。
 玄人だろうが達人だろうが名人だろうが、失敗するときは失敗するし、どうしたって上手く行かないときはある。
 要するに、リィも、そしてウォルも、今回の狩りではそれほど芳しい成果は得られなかったと言うことだ。
 シェラやウォルには馴染み深い、山岳民の少年のような皮の貫頭衣に着替えたリィは、泥と枯れ葉でどろどろになりながら、やっと野ウサギを一匹捕まえただけだった。
 それに対して、これはシェラの目にも新しい、やはり山岳民の少年のような皮の貫頭衣――ようするにリィとお揃いだ――に身を包み、その豊かな黒髪をくしゃくしゃに纏め上げたウォルも、身体中に擦り傷を拵えたにも関わらず、捕まえたのは大きめの雉が一匹だった。
 ごくごく一般人が狩りを楽しむつもりでこういう場所を訪れたのであれば、まずまず満足すべき成果だったのかもしれない。
 何せ、おけらではないのだ。
 それだけで自尊心は満たされるし、あとは都会から持ってきた各種食材に、慰め程度の獲物の肉を加えてご馳走を作ればいいのだから。
 しかし、彼らは、各種調味料等を除けば、本当に少しの食料も持ってきていない。全て現地調達するつもりだったし、またその自信もあったからだ。
 にも関わらず、これっぽっちの食料というのは些か寂しい結果に終わったといわざるを得ないだろう。特に、人の三倍は食べるリィと、二倍は食べるウォルがいるのだから、尚更である。この小さな獲物の食べられるところを余すことなく有効活用したとして、二人の大きな胃袋を満たしてやるのは、どうにも不可能らしかった。
 それでも、シェラは笑顔で二人を出迎えた。喜び勇んで出かけていった二人が、如何にも不本意な、そして申し訳なさそうな顔で帰ってきたのがおかしかったというのもある。

「狩りは水物ですから、上手く行かない日もありますよ。お気になさらずに」

 本心からの慰めの言葉である。何せ、人のする戦と違い、獣との駆け引きである狩りには相手がいないと成立しない。どれほど優秀な狩人であっても、獲物がいなければ狩ることは出来ないのだ。
 それに、この二人が本気で狩りをして、それでも獲物が捕れなかったというならば、だれがそれを非難することができるだろう。人は、己に為し得ないことをもって他者を非難する資格は有しないのだ。
 リィやウォルとてその程度のことは承知している。承知していて、なお業腹であった。

「ちぇっ。あと少しだったんだ。あと少しで、こんなに大きい鹿が仕留められたのになぁ」

 リィは自分の腕で大きな円を描き、その獲物の大きさを表した。確かに、それくらい大きな鹿が獲れれば、食欲旺盛なリィの胃袋だって十分に満たされるはずだ。

「あとちょっとっていうところで逃げられちゃったんだ。惜しいことをしたなぁ」

 心底悔しそうにリィが言えば、ウォルもそれに倣った。

「それを言うならリィよ、俺もこんなに大きな猪を、あと少しで捕まえられるところだったんだ。なのに、あと一歩というところで巣穴に逃げ込まれた。狩りでこれほど悔しい思いをしたのは久しぶりだ」

 隣に座ったリィに倣って、黒髪を紐で頭に縛り付けた少女は、大いに嘆いた。
 王族であったウォルにとっては狩りも嗜みのうちだが、しかしこれほど純粋に野山を駆け巡り、そして獣を追いかけ回したのは少年時代以来のことだったから、不本意な結果に相反して少女の口元は緩んでいる。
 何とも嬉しそうな顔だった。

「その割には楽しそうじゃないか、ウォル」

 行儀悪く床に直接腰掛け、胡座を組んで頬杖をついたリィが、にやにやとしながら言った。
 対するウォルは、こちらも行儀悪く床に直接寝そべり、仰向けに天井を見上げていたりする。
 シェラはこの夫婦――世が世なら、そして世界が世界なら、最も高名で、そして高貴な身分を有する夫婦であった――を眺めて、溜息を吐き出した。何せ、彼らをよく知っているシェラの目から見てもあの・・王妃が二人いるようにしか思えなかったのだ。
 シェラの知る幾人か、特にリィの普段の格好に眉を顰める頭の固い人達などがこの光景を目の当たりにすれば、冗談抜きで卒倒しているだろう。何せ、彼自身が目眩を覚えているほどなのだから。
 そんな銀色天使の内心など放って置いて、以前のリィと同じように、山岳民の少年にしか見えないウォルは嬉しそうに言った。

「うむ、楽しいに決まっている。スーシャで過ごした山猿時代はいざ知らず、立派な戦士よ見栄えのする男ぶりよとちやほやされるようになってからは、やはり自由に森を駆け巡ることは出来なかった。外面がそうさせないというのもあったが、何より大きくなりすぎた身体というのは山駆けには向かないらしくてな。この体は、以前に比べれば力において劣るものの、すばしっこさは比較にならん。今日は思う存分走り回ることが出来た」

 未だ覚めやらぬ興奮に頬を赤らめながら、満足の吐息を吐き出したウォルである。
 リィはその様子を満足げに見遣り、そして言った。

「それは同感だな。おれも、この身体くらいが、山遊びをするには一番好きだ。手足が長くなって身体が大きくなると、馬力が出るかわりに余分な重さを感じる。戦いにはその方がいいんだろうけど、枝を飛び移るときには邪魔以外の何者でもない」

 キッチンで今日の夕食の下拵えをしながら、シェラはリィの言葉に懐疑的であった。
 それもそのはず、王妃時代のリィは、そのほっそりと長い手足を猿か野鼠のように上手に使い、難攻不落を謳われた名城三つのうち、二つまでも単独で潜入し、そして驚くべき戦果を残してのけたのだ。それで『余分な重さを感じていた』など、行者として苦しい修行を積んだ自分を小馬鹿にしているとしか思えない。
 しかし、シェラは、リィの言っていることに一分の嘘も見栄もないことを知っていた。この人は、そういう人なのだ。
 山雉の皮を剥ぎ終えたシェラの口から、重たい溜息が漏れだした。自分とリィを比べることの愚かさに、あらためて思いが至ったからである。
 そんな彼の後ろで、王と王妃のものとは思えない、敢えて言うなら安酒場で交わされるような会話が続いている。

「次は一緒に行こうか、ウォル。今日は不本意な結果に終わっちまったからな、明日は直接対決といこうぜ。そうすれば、嫌でもおれの方が優れた狩人だってわかるだろう?」
「望むところだ。スーシャの山猿の本性を見て、吠え面をかくなよ、リィ」
「ふん、狼の変種であるおれに、人間のお前が狩りで敵うとでも思っているのか?」
「言っていろ。本物の猿が舌を巻いて逃げだすとまで言われた俺の身の軽さ、狼如きに負けて堪るものか」
「じゃあ、負けた方が、勝った方の言うことを何でも一つ聞くというのはどうだ?」
「おう、いいともよ。さて、デルフィニアの戦女神は、どれほど見事に裸踊りを舞ってくれるのかな?」
「よし、良く言ったウォル。じゃあおれは、バルドウの現し身のタコ踊りを希望するぞ」

 こうなってくると子供の喧嘩である。違うのは、二人とも、自分がどれほど大人げないことを言っているかを理解していて、相手の言葉を心底楽しんでいることくらいのものだろう。
 ようするに、じゃれ合っているのだ、二人とも。
 シェラは思わず持ち上がってくる口の端を、意識して我慢しながら、悪戯好きの悪ガキを育てるお母さんの心持ちで言った。

「二人とも、そろそろいい具合に石が焼けているはずです。さっさと汗を流してきて下さい。そのどろどろの身体を綺麗にしてからでないと、夕食はおあずけですからね」
「「は――い」」

 間の抜けた声で二人は応じた。
 そして、ぽいぽいと服を脱ぎ捨て、いそいそと湖の畔の風呂小屋へと向かったのだ。
 シェラは、真っ裸になった二人の後ろ姿を眺めながら、年頃の男女は別々に風呂に入るべきだという至極もっともな一般論を、すんでのところで引っ込めた。何せ、彼自身が年頃の女性と一緒の風呂に浸かること自体何の抵抗も覚えていないのだし、あの二人に世間並みの常識を期待するのは間違いだと知っていたからだ。
 それに、まかり間違ってあの二人がそういう関係になったりしたら――健康的な男女が裸の付き合いをした結果結ばれる、甚だ当然の結果としての関係である――それはそれで面白いと思ったというのもある。そのあたり、二人から一歩引いているように見えるシェラも、相当に毒されていると言えないこともない。
 だけど、あの二人に限って言えば、まかり間違えてもそういうことにはならないことを知っているから、シェラは苦笑いを一つ溢して、野ウサギの皮を剥ぎにかかったのだ。



 赤く焼けた石に水をかけてやると、狭い蒸し風呂の中を、たちまちに蒸気が埋め尽くした。視界を染め上げる白さに身体が包まれると、汗が噴き出す予兆とも言える、心地よい熱さを感じることができる。
 リィも、そしてウォルも裸であった。蒸し風呂に服を着て入る変わり者はいないから当然であるが、年頃の男女が一糸纏わずに狭い室内にいる、口喧しい教職者などが見れば顔を真っ赤にして喚きそうな情景である。
 しかし、当人達は、全くどこ吹く風であった。あちらの世界では、男のウォルと少女のリィであったが、二人とも裸で構わず一緒に水浴びをするなど日常茶飯事であったし、別に嫌らしいことではなかった。
 リィにとっても、そしてリィに長年触れ合ってきたウォルにとっても、それがごく自然なことなのだ。
 だから、少女のウォルと少年のリィが、やはり生まれたままの姿で隣り合って座りながら蒸し風呂を楽しむというのも、まったく自然な流れであり、二人とも露ほどの疑問も持たなかった。

「ああ、いい気持ちだ……」

 夢を見るようにウォルは呟いた。 
 リィを倣って紐で纏め上げていた髪も下ろしている。その黒髪が蒸気で濡れて、カラスの黒羽のようにつやつやと輝いている。
 隣に腰掛けたリィは、その髪のことが気になったのだろう、まじまじと見つめた後で、手にとっていじってみたりする。彼の相棒の髪の毛もそうだが、何故こうも真っ黒なのにこうもきらきらと輝くのか、不思議そうな有様であった。
 掌にのせてよく眺めて、指で撫でてみて、鼻に近づけて匂いを嗅いでみたりする。
 その様子は、見知らぬものに警戒と興味を等分に覚えた、子猫のそれに近い。
 ウォルは、不思議そうに自分の妻たる少年を見つめ、微笑いながら言った。

「そんなに俺の髪の毛が珍しいか?」
「うん、めずらしい。人間なのにこんなに綺麗な毛並みなんだもの。まるでアマロックの毛皮だ」

 リィにとって唯一の親である名前を聞いて、ウォルは悪い気がしなかった。
 
「それを言うなら、お前の髪の毛だって嘘みたいに美しい。初めて見たときは、細く鋳梳かした黄金を身に纏っているのだと思ったほどだ」
「そんな重たいものを頭に付けていたら首が凝って仕方ない。ただでさえ、長ったらしい髪の毛は重たいのに」
「それだ。俺も一度聞いてみたかったのだがな、お前は長い髪の毛は邪魔だ女みたいでうざったいと嘆きながら、それでも切ろうとはしなかった。何故だ?」

 早くも滲み始めた額の汗を拭い、ウォルが問うた。
 リィは、肩を竦めた。

「おれはさっさと切りたかったんだ。でも、髪を切ろうとするとルーファが悲しそうな顔をするんだよ。『そんなに綺麗なのに勿体ないなぁ』ってさ。まるで自分のものみたいに言うものだから、おれも簡単に切れないだろう?」
「そうか、やはりお前を縛れるのは、あの方のみなのだな」

 ウォルは、呟くようにそう言った。

「あのな、ウォル。何度も言っているが……」
「お前とラヴィー殿はそういう関係ではない、か?」

 悲しげな少女の声である。流石のリィも黙らざるを得ない。
 ウォルはその様子を寂しそうに見遣ってから、傍らに置かれた白樺の葉で、瑞々しい自らの肢体を叩いた。
 少女の身体から、珠の汗が舞い散った。

「それでも、妻と間男殿との間に自分が入る余地がないと思うと、夫としてはいくばくかの寂寥を覚えざるを得ないな。ああ、残念だ残念だ」
「よしわかったウォル。お前、おれをからかっているな」
「ばれたか?」

 他の者がすればこの王妃をからかうなど、命知らずもいいところな愚行であるのだが、これも夫の特権と言うべきだろうか、リィは少女の頭を小突いただけで勘弁してやった。
 ウォルも、楽しげに小突かれていた。
 リィは、ウォルが使った後の白樺の葉で、やはり引き締まった若狼のような自分の身体を叩いた。
 珠の汗が舞い散り、どこかに消えていった。

「では、俺も髪を切らない方がいいか?」

 ウォルは、リィの目を覗き込むようにして言った。
 自分を真っ正面から見つめる漆黒の瞳に、リィは、あくまで素っ気なく答えた。

「それはウォルの勝手だろう?その髪はお前のものだし、髪を切る手だってお前のものだ。それともお前は、俺が切るなと言えば切らないし、俺が切れと言えば切るのか?」
「そうか、ならばばっさりと切ってしまうとしよう。何せこの髪は不必要に人の目を集めるばかりか、知らぬ間にあっちこっちに絡みついていたりして難儀することがある。髪は短いに越したことはない」
「おい、なら、あっちの世界のお前は、何で髪を伸ばしていたんだ?男なのに」
「男だからさ。国王というものは、それなりに風采にも気を配らんといかん商売でな。幸い俺の髪は女性が羨むほどに美しかったようだから、背中に届くまで流してそれなりに飾ってやれば、はったりが効く。それだけの話だ」

 つまらなそうにウォルは言った。

「だから、今となっては髪の毛を長く伸ばしている理由はない。こんなもの、ばっさりとやってしまっても何の問題もないわけだ」

 ウォルは、傍らからナイフを取り出した。本来はサウナの中に金属を持ち込むのは御法度である。室温で熱せられた金属で火傷するおそれがあるからだ。
 だからリィも、常日頃身に付けているネックレスと、それに編まれた指輪を外している。当然剣だって持ち込んでいない。
 いつの間にそんなものを持ち込んでいたのかと訝しんだリィが、そのことを口に出すまでもなく、ウォルは自らの髪の毛を一房掴み、刃を当てた。

「あっ!」

 リィの口から、悲鳴のような叫びが漏れだした。
 ウォルは、にやりと笑って、リィの方を向いた。

「どうかしたかな、我が妻よ?」

 事ここに至って、目の前の少女がまたも自分をからかっていたことに気がついたリィであるが、もう遅い。狩りで言うならば、罠が深く足に食い込み、猟師の足音を聞いた獣のような心境である。
 リィは、あきらめの境地でもって嘆息し、そして言った。

「……ウォル。お前にはその黒髪が似合ってる。凄く似合ってる。だから、あまり切って欲しくない」

 ウォルは満面の笑みを浮かべた。
 口に出しては何も言わなかったが、輝くような表情が、その言葉が聞きたかったのだと語っている。
 
「では仕方がない。肩が凝るが、我慢しよう。リィよ、お前の希望のせいで固く凝った肩は、お前が揉みほぐしてくれるのだろうな?」
「……こいつ、性格が悪くなったんじゃないか?」

 嫌そうに眉を顰めたリィを見て、ウォルは破顔した。身体を折り、腹を抱えて笑った。
 狭い蒸し風呂の中を、少女の笑い声が反響した。
 その美しい笑い声は、リィなどの耳にとっても不快なものではなかった。カフェテラスなどで聞く同年代の少女の歓声などは、どうしても慣れないほど耳にうるさいのに。
 果たしてこれが幸福の領域の為せる業なのか、それともあきらめの境地の成せる業なのか、リィには判断がつかなかった。

「いやぁ、笑った笑った。これほどに笑ったのはいつ以来だろうな」

 いまだわき起こる笑いの発作に肩を振るわせながら、少女は身体を起こした。
 リィは、己の夫たる少女を胡散臭そうに見つめ、それからその身体をしげしげと見つめた。
 その視線に気がついたウォルは、きゃあっ、と可愛らしい悲鳴を上げて、胸を隠した……ということは全くない。寧ろ誇らしげに胸を反らして、そして言った。

「どうだ」

 何がどうだ、というわけではない。
 しかし今のウォルの心情を表すに、それほど相応しい言葉も無かった。見るなら見てみろ、おそれいったか、羨ましいだろう。色々な感情をこめて『どうだ』なのだ。
 間違えても、年頃の娘が自らの裸を異性に見られて、口にする言葉では無い。
 対するリィの反応も、また普通ではない。
 彼くらいの年頃の少年であれば、これほど明け透けな少女の裸体を見れば、自らの裸を恥ずかしがってすごすごと逃げ去るか、気まずそうにしながらもその身体から目を離せないか、それとも自分に気があるものと勘違いして鼻息を荒くするか。
 リィは、そのいずれでもなかった。
 その緑柱石色の瞳を猫のように見開いて少女の裸体を観察し、鼻を鳴らしながら首元に顔を近づけ、そこに浮いた汗をぺろりと舐め取った。
 そして、さも不思議そうに首を傾げた。
 そんなリィの様を見たウォルは、興味ありげにこう問うた。

「うまいか?」

 これも普通の反応ではない。しかしウォルは以前、この金色の獣が自分の血を舐め取る様を見ているから慣れているというのもあった。
 リィは口の中をもごもごさせた後で、言った。

「女の子の味だ」
「それはそうだ。何と言っても、今の俺は正真正銘の、花も恥じらう乙女なのだからな」
「でも、驚いた。匂いも味も、全部女の子だ」

 いっそ、初めて少女の姿で再会したときよりも、リィは驚いていたのかもしれない。
 彼にとって人間とは、その姿だけでは無く、匂いと味と声と手触りと、五感の全てを認識するものなのだ。
 それは、人が人を見分けるときの手法とはかけ離れている。人は、その外見と声くらいでしか、他者を認識し得ない。
 ウォルは、今更ながらにこの生き物が、人ではないことを悟った。
 ならば、残る一つの感覚をもって、自分が本当に少女になってしまったことを知らせてやるべきだろう。

「触ってみるか?」
「いいの?」

 その言葉に、リィは、遠慮がちに目を輝かした。
 それは、性欲に滾った雄の視線ではない。
 群れの仲間、それも遠い昔にはぐれてしまった仲間に出会えて、毛繕いをすることを許された、獣の安堵と喜びから来る輝きであった。
 ウォルは、鷹揚に頷いた。

「もちろんだ。何せ、俺とお前は夫婦なのだ。これくらい、普通の夫婦ならば、毎日のように床でやっていることだろう?」

 一応、自分達が普通の夫婦ではない自覚はあるらしい。
 
「じゃあ、遠慮無く」

 リィはその両手で、ウォルの顔をがっちりと掴んで、自分の顔を近づけていった。
 予想していたこととはいえ、目のすぐ前に少年になったリィの顔があるというのは中々見応えのある眺めだったが、ウォルは特に抵抗はしなかった。

「おい、ウォル」
「なんだ」
「目を閉じてくれないとやりにくい」

 ウォルはびっくりした。
 あまりに驚いて、あんぐりと口を開いてしまったくらいだ。

「……リィよ。お前がそんな殊勝なことを言うとは、俺がいない間に恋人の一人でも出来たか?」

 内心ではちっとも信じていないことを、ウォルは口にした。
 そして、リィは平然と答えた。

「ううん、これはお前の世界に行く前の話。キスする前は、目を閉じるのが作法なんだって。別に今からキスするわけじゃあないけど、似たようなもんだから。女の子が目を閉じるまで、やっちゃあ駄目なんだって」
「それが、この世界の作法か?」
「男と女のマナーらしいぞ」

 二人は、お互いの顔を至近に認めながら、お互いが首を捻っていた。
 どうにも奇妙な構図であった。身体だけを見れば愛し合う寸前の男女なのに、その表情たるやなぞなぞ・・・・に頭を悩ます幼子のそれだ。どこにも、これから組んず解れずの行為に及ぶような雰囲気はない。
 それもそのはずである。シェラが予想した通り、この二人の間にそもそもそういう意図は、微塵もないのだから。

「なら、別に俺に気を使う必要はないぞ。それは一般論であって、俺達には当てはめる必要が無い。それだけの話だ」
「うん、おれもそう思う。やっぱり、こういうことはお互いの目を見ながらするべきだな」

 真剣な面持ちで頷いたリィは、ウォルの鼻頭をぺろりと舐めた。
 予想していた感触ではあったが、それでもウォルは片目を閉じ、反射的に身体を反らせようとした。

「あ、こら。逃げるな」
「逃げるなと言っても、くすぐったいのだ」
「我慢しろ。男の子だろ」

 にべもなくそう言われては、ウォルに反論しようがない。今の自身の身体が、紛れもない少女のそれであったとしても、である。
 しかし、反射反応というのは度し難いもので、リィの生暖かい舌が皮膚に触れるたびに、ウォルのか細い身体はくすぐったそうにくねるのだ。
 リィはほとほと困ったようだった。

「おい、じっとしてくれって。前はちゃんと我慢してくれただろう」
「いや、そうは言うがな、リィ。この体は以前と違って中々に敏感らしくて……今だって笑い声を堪えるので精一杯なのだ」

 口元をひくつかせたウォルに、リィは憮然として言った。

「失礼なやつだ。折角こっちが真剣に毛繕いしてやろうっていうのに」
「すまんすまん、しかしこればっかりは……うはは、やめろリィ」

 ついに堪えきれなくなったのだろう、ウォルは身を震わせて笑い声を上げた。
 しかしそれも、色気の欠片もない笑い声だ。今のウォルの外見で、口元に手でも添えながら『きゃあ』とか『うふふ』とか言ってくれればまだ絵になるものを、豪快に大口を開けながら『うははは』とか『わははは』とか『いひひひ』とかいう笑い声を放つものだから、普通の男だって萎えてしまうだろう。
 リィも、嘆かわしそうに言った。

「おれには男を押し倒す趣味はないんだがなぁ」
「俺だって、ぐはは、押し倒される、ふは、趣味など無い……いひひ、やめてくれリィ!」

 ウォルは精一杯しかめつらしく言ったつもりだったが、所々に堪えきれない笑いが入るものだから威厳の欠片も見当たらない。しかも、最後の方は完全に泣きが入っていた。
 無理もあるまい。リィは会話の合間も絶え間なく舌と手を動かし、ウォルの身体を、本人にとっては至って真面目に、他人が見ればどう見てもそういう意味で、味わっていたのだから。
 それでもしばらくリィは、ウォルを解放することなく、その身体を弄び続けた。
 彼が、ついに飽きたのかそれとも気が済んだのか、少女の身体を解放したとき、無惨にもぴくぴくと痙攣するウォルの残骸が、蒸し風呂の床に転がっていた。

「ど、どうだ、りぃ、なっとく、したか……?」

 息も絶え絶えである。
 それに応じるリィは、少女の汗で濡れた口元をぐいと拭い、憎たらしいほどに平然と言った。

「うん。やっぱりお前はウォルだし、でも女の子だな。納得した。世の中には変なこともあるもんだ」
「そ、それは、ありがたい」

 もしも疑ってかかられて『もう少し』などと言われては、冗談抜きで笑い死にしかねない。
 折角長年の想い人と再会できたのに、死因がその想い人に笑い殺された、というのでは浮かぶ瀬も立つ瀬もないというものではないか。それに、この身体を貸し与えてくれた少女にも申し訳が立つはずもない。
 立たない続きで足腰も立たなくなった少女は、少年の手にひょいと抱え上げられた。
 リィはその手にした人型の荷物を、肩に担いだ。

「り、りぃ?」
「そろそろいい時間だ。蒸し風呂は、あまり長いこと入ってると危ないからな」

 リィはその体勢のまま蒸し風呂の扉を開けた。
 途端に流れ込んでくる冷たい風が、火照った皮膚に心地よい。
 まるで、盗賊が略奪品の村娘を抱えるような体勢でリィに抱え上げられたウォルは気がつかなかったのだが、リィのエメラルド色の瞳の中には、罪人を処刑する執行人の輝きが籠もっていた。
 どうやら、先ほどからかわれたことを根に持っているらしかった。
 やはり、この金色の獣をからかうのは、夫であっても命がけのようである。
 無言で、湖の方に歩いていく。

「り、リィ。すまなかった、この通りだ」

 それでも何か危険なものを察したのか、自らの妻の肩に、荷物のように担ぎ上げられたバルドウの化身は、己の妻たるハーミアの化身に、両手を合わせて許しを乞うた。しかし悋気が強いと評判の女神は、己の夫を許すつもりなど微塵もなかったらしい。
 顔の横でばたばたと暴れる二本の足を押さえつけて、無慈悲とも言える口調で言った。

「いやぁ、身体が火照って仕方ないな、ウォル。そういえばお前、泳ぎが得意だって散々自慢してたよな?」
「む?うむ、スーシャの河童といえば、何を隠そう俺のことだ」
「よし、なら昼間の狩りで決着がつかなかったのは、泳ぎでけりをつけるとしようか」
「いや、それは構わないのだがな、リィ、今はその、足腰が立たないというか……」
「そうか、頑張れウォル。ファイトだウォル。気合を見せろウォル。手だけで泳いで見せろウォル」

 少女は何事か抗議をしようと口を開いたが、一言をしゃべる間もなく宙高く放り投げられた。
 そして、背中をばしゃりと何かが叩き、冷たい水の中に落っことされたのだと気がつく。
 先ほどまでの火照りが飛んで逃げるような、刺すような冷たさである。
 しかしその刺激が幸いしたのだろう、先ほどまでへなへなと情け無く笑って言うことを聞いてくれなかった足腰が、しゃんと動くようになった。
 こうなれば、文字通り水を得た魚だ。何も怖いものはない。
 真夜中の湖であるが、星も月も出ている。きちんと水面を意識して、ウォルは浮上した。
 ざばりと、重たい水を掻き分けて、水面から顔を出す。思いっきり頭を振ると、記憶にあるよりも多量の飛沫が宙を舞った。
 大きく二、三度呼吸をして、人心地がついてから見上げると、桟橋でしゃがみこんで、自分を見下ろす金色の獣がいるのだ。
 にんまりと愉快そうにこちらを見る獣は、例えようもないほど美しくて、抗議の声など感嘆の吐息と一緒に飲み込んでしまった。

「気持ちいいか、ウォル」
「……ああ、とても気持ちいいな。だから……お前も来い!」

 ウォルはそっと桟橋に近づき、リィの手を掴んで、思いっきり引きずり込んでやった。
 リィもそれに気付いていたろうに、少しの抵抗もしなかった。だって、蒸し風呂の後に湖に飛び込んで身体を冷やすのは古来からの作法からであったし、何より確かに気持ちいいからだ。
 数秒の間があって、ウォルのすぐ横に、月の光を跳ね返すような金色の頭が浮きあがり、やがて夜空に君臨する大星のような緑色の瞳が、穏やかに細められて、現れた。
 リィは、先ほどウォルがしたように大きく頭を振り、髪の毛にまとわりつく湖水を弾き飛ばした。そのようすは、狼というよりは猫化の獣のようで、やはり美しかった。

「酷い奴だ。自分の奥さんを、力尽くで湖の中に引きずり込むなんて。ドメスティックバイオレンスで訴えてやる」
「どめ……何のことだ?」
「夫婦の間で行われる暴力行為のことだ。当然、処罰の対象になるし、酷いことをすると刑務所に入れられる」

 ウォルは感心したように目を大きく見開いた。

「この時代では、夫婦間のもめ事も官憲が解決してくれるのか」
「酷いものになればな。いくら夫婦のもめ事だったとしても、それが暴力行為にエスカレートするなら身内の恥で片付けちゃあいけない。珍しく正当な制度だ」
「ならば安心だ。俺もきちんと、国家権力に保護してもらえるらしい」

 ぷかぷかと湖面に浮いたウォルは、真剣な面持ちで言った。
 対するリィは、やはり湖面にぷかぷかと浮いたまま、声を低めた。

「おい、ウォル、どういう意味だ」
「言葉通りだ。いや、天上におわすバルドウ神も、神の国にその制度が設けられることを今や遅しと待ち望んでいるのではないかな?」

 そう言い捨てたウォルは、リィを残して一人泳ぎ始めた。
 なるほど、河童と呼ぶには些か可憐すぎるとはいえ、中々に達者な泳ぎ手であった。

「おい、待て、ウォル」

 リィもそれに倣う。こちらも、陸を駆ける時ほどではないものの、やはり常人とは比べものにならないほどに速い。
 そして、まったく余裕をもった息づかいで、言った。

「おれがいつ、お前に暴力を振るった!?訂正しろ!」
「その薄くなってしまった胸に聞いてみろ!国王の執務室の調度品が、典雅さよりも丈夫さを優先せざるをえない仕儀になったのは、一体誰が暴れ回ったおかげかをな!」
「あれはお前が悪いんだろう!くそ、待てったら!」



 さすがに帰りが遅いので心配になったシェラがロッジのドアを開けると、どこからか二人分の笑い声が聞こえてきた。
 どこからそれが聞こえるのか、探すのに時間はかからなかった。何せ、月明かりに映える湖面に、月よりも明るく輝く金色の髪と、夜よりも黒い漆黒の髪が浮かんでいるのだから。
 要するに、またじゃれあっていたのだ。
 シェラは、重たい溜息を吐き出した。これでは、本当に自分はお母さんになってしまうのではないだろうか。
 長い行者生活、赤子のお守り役を演じたこともあったが、しかしあれほど大きく、そして扱いづらい子供のお守りをするなど、まっぴら御免のシェラである。

「ふたりとも!そろそろ帰ってきてください!ウサギのシチューと雉の塩竃焼き、私が一人で食べてしまいますよ!」

 遠くから、抗議の声と、こちらに向かって泳いでくる水音が二人分、響いてきた。
 堪えようとしても堪えきれない優しい微笑みを浮かべたシェラは、水に濡れた身体を拭うためのタオルを二人分を用意して、きっと冷え切ってしまったであろう国王夫妻の身体を温めるため、季節外れの暖炉に火を入れたのだ。



[6349] 第二十一話:仲直りと少女の悲鳴
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:38
 シェラの用意してくれた食事はとても美味しかった。
 各種香草とウサギの骨で出汁を取ったシチューは、蕩けるような兎肉と根菜が絶妙の取り合わせだったし、塩竃で蒸し上げた雉肉は噛めば滲み出る肉汁とほろりほろりと解ける肉の線維が官能的だった。
 そして、シェラが料理の合間に釣り上げてくれた鱒をパイ包みにして焼いたもの、リィやウォルが拾ってきた木の実を炒ったものなど、およそ食材を一から調達したとは到底思えないような豪勢なメニューが食卓を飾り、ウォルとリィの目と鼻と舌を大いに満足させたのだ。
 当然のこととして、その立役者であるシェフには、惜しみない賞賛の言葉が贈られた。
 
「うん、美味い。この世界で何が一番美味いかって、シェラの料理に勝るものはないよな」
「そんな、大袈裟ですよ」

 口いっぱいに雉肉を放り込んだリィの、当人としては至極真剣な言葉に、シェラは微笑って応じた。
 ウォルも、少女とは思えない程に豪快な様子で兎のシチューを胃に流し込みながら、リィの言葉に頷いた。

「謙遜するな、シェラ。西離宮でご馳走になった頃より、更に腕を上げているぞ、間違いなく。お前は、これで身を立てていくつもりはないのか?」

 舌鼓を打ちながらの、思い付く限り最高の賛辞である。
 救国の英雄とまで言われた男に――今は少女であるが――ここまで言われて、いつも冷静なシェラとて嬉しくないはずがない。菫色の瞳を細め、口元をほころばしている。
 しかし、口に出してはこう言った。

「とてもありがたいお言葉ですが、ウォル、今のところ、私はそういう方面で生きていくつもりはありません」
「ほう、それは勿体ないな。何故だ?」
「これはあくまで趣味ですので。職にしてしまうと、気に食わない人達の食事まで作らないといけなくなるでしょう?」

 それが嫌なんですよ、とシェラは微笑った。
 料理に限らず、自分の腕は、自分の仕えるべき、あるいは敬愛すべき人達のために使いたい。それが、シェラなりのこだわりらしかった。
 何とも頭でっかちで、そしてこの聡明な少年にしては不器用なことであるが、自分以外の人間の意志でもって闇雲に他者の命を奪い続けた半生、その反動であるのかもしれない。
 と考えてしまうと何とも重たい話になってしまうのだが、ウォルは暢気な調子で続けた。
 
「気に食わない奴の分だけ断ればいいのではないか?」
「ウォル、それでは職とは言えません。職とは、金銭を得るために我を押し殺して契約と職務に従うということでしょう?自分でお客さんを選ぶなら、お金を頂いていたとしても趣味の域を出ませんよ」

 ぴしりと言った。
 なるほどそんなものかとウォルは思った。
 彼は若くして人を使う者の頂点にあり、最後まで在り続けたので、そういう一般的な職業観はとんと育たなかったのである。
 何せ彼女は、誰しもが羨み、そして畏れる至高の玉座にありながら、どうにかしてこの座り心地の悪い椅子と頭に乗っかった重たい王冠を捨てる方法がないものか、一度ならず真剣に頭を悩ませていたのだ。
 彼女に心酔していた少なからぬ人達が聞けば、間違いなく自分の耳がおかしくなったかと疑うに違いない、ある意味では大陸で最も、そして極めつけに不遜な王であった。
 
「ではシェラよ、お前は将来、どうやって身を立てていくつもりだ?いつまでもヴァレンタイン卿の脛を囓っているわけにはいあんあろう?」
「お行儀が悪いですよ、陛下」

 途中から口調がおかしくなったのは、兎の脛の骨に齧り付いたからである。
 シェラに冷たくお小言を頂いても、ウォルの口はもごもごと骨と格闘し続けた。この世界でもあちらの世界でも、骨にこびり付いた肉が一番旨いというのは子供でも知っている常識であった。
 ウォルはしばらくの間、可愛らしくなってしまったその口の中で骨をしゃぶり、骨入れの中に、肉片の一つだって付いていない綺麗な骨を吐き出した。テーブルマナーにうるさい貴婦人が見れば眉を顰めそうな作法であるのだが、何故か下品な印象がない。
 無論、上品で洗練されているとはお世辞にも言えないのだが。
 これも王族の特権かなと、シェラは苦笑した。そして、先ほどのウォルの質問について、真剣に考えてみた。

「そうですね……今のところ、こちらの世界で何をして生きていくのか、まだ決まっていません」
「あまり無理をいうなよウォル。シェラだって、こっちの世界に来てからまだ一年も経ってないんだ。自分が何に向いてるか、何をしたいのか、探してる最中なんだよ」
「探してる最中と言うが……そろそろ独り立ちの時期だろう?何か、漠然としたものでも決めておかねばまずいのではないのか?」

 心配そうに眉を寄せたウォルに、リィとシェラは顔を見合わせて笑った。
 何か自分が変なことを言ったらしいとウォルは思ったが、しかしその内容が検討もつかない。
 結局、この世界の先輩方に、教えを乞うしかなかったりするわけだ。

「……あのな、二人とも。もう慣れたことだが、この世界に来たばかりの俺を捕まえて一々物笑いの種にするというのは、些か趣味が悪いと思うぞ」
「すみません、ウォル」
「ごめんごめん。でも、お前の言ったことがおかしいんじゃないんだよ。お前が、おれやシェラと同じことを思ったのがおかしくって……」

 ウォルは、可愛らしく小首を傾げた。
 シェラは、ほんの少しだけ先輩風を吹かしながら、このことを話せばウォルも驚くに違いないと思いつつ、言った。

「私も初めは驚いたのですが……。どうやらこの世界の子女は、我々の世界のそれに比べて独り立ちが驚くほどに遅いのです」
「遅いと。具体的に言うと?」
「物凄く早く自活する奴で、だいたい16歳。少し早いと18歳。たいていのやつは22歳前後まで、親の金で飯を食っている」
「22歳!?」

 予想通りの驚きの表情に、リィとシェラはあらためて笑いを堪えるのに苦労した。確かに、この世界について疎いのはウォルの責任ではなかったし、ならばそのことについて笑うのは失礼だからである。
 無理をして無表情を装った二人だが、しかし口元が微妙に震えるのは如何ともし難い。それを見て取ったウォルは憮然としながら言った。

「……そういうふうに気を使われる方が、なんだか腹立たしいな」

 厳めしく腕を組んだ少女がおかしくて、金銀天使は笑った。
 大声で笑った。
 ウォルはしばらくの間自由にさせていたが、二人の笑いが収まる頃合いにあらためて問うた。

「つまり、この世界で真に一人前と呼ばれるのは、二十歳も過ぎてからのことということか」
「いや、それでもようやく子供じゃあないっていうだけだ。一人前とは、とても見てもらえないな。本当に一人前と言えるのは、そうだな、結婚して子供も出来て、自分の家も持った時くらいかな?」
「それはまた、随分とのんびりしたものだな」

 ウォルの表情は、驚いているというよりも感心していると形容した方が相応しいものだった。
 事実、少女は感心していた。一人の人間にそれだけの時間と費用をかけて教育を施し得る社会。そして、社会に出てもまだ一人前と呼ばれないということは、その後も何らかのかたちで教育制度に近いものがあるのだろう。
 それに比べれば、ウォルの世界では、戦士であれば15歳で叙任し、その後は生と死が隣り合わせになった凄惨な戦場が己の生きる場所となる。農家や商家の子供であればもっと早い時期に働きに出る。職人などは更に早いかも知れない。
 この差は、どこから生じるのか。
 ウォルは、この世界が、それだけ豊かなのだと考えた。ヴァレンタイン家のように裕福な家でなくとも、子供を労働力として使役する必要が無いのだ。そうでなければ、貴重な労働力ともなる子供を長期間養い、高い費用をかけて教育できるはずがない。
 無論、ウォルの考えは正しい。余程辺境の惑星か、それともスラムのように劣悪な環境を除けば、この世界は教育や福祉が高い水準で行き届いており、飢えた人民が道ばたで犬のように死ぬことなど滅多にない。
 ウォルは、羨ましいと思った。波乱に満ちた彼の前半生に比べてやや輝きに劣る堅実な後半生であったが、だからこそ武勇や知略では如何ともし難い、分厚い壁にぶつかることが多かった。その壁のいくつかをウォルは乗り越えてきたが、しかしいくつかは乗り越えることが出来なかった。それは彼の責任というよりは、時代の業とでもいうべきものだったのかも知れない。
 ともかく、ウォルは、自分の力の及ばないところで、誰からも顧みられることもなく朽ちていく命を、歯がみしながら見送ってきたのだ。そんな彼女がこの世界を見て、羨望を覚えない方がどうかしているというものだろう。
 だから、その時の少女を飾った表情は、苦笑と呼ぶにはほろ苦すぎるものだったのかも知れない。

「こちらの世界を知る度に思う。この世界にありふれたものの、ほんの少し、たった一つでもいいからあちらの世界にあれば、どれほどよかっただろう。そうすれば、どれだけたくさんの人の笑顔が守られただろう、と」
「……陛下。お気持ちはよく分かります。それはきっと、他の誰よりも私が分かると、そう思います」

 気遣わしげな声は、シェラのものである。
 菫色の瞳に真剣な光を湛え、ウォルを正面から見つめた。

「シェラ。お前もそう思うことがあるのか」
「はい。それでも、いえ、だからこそ、それは考えてはいけないことなのではないかと、そうも思います。特に陛下、あなただけは」

 ウォルは、表情を引き締めてシェラの声に耳を傾けた。

「確かに、この世界は素晴らしい。少なくとも、人の命が草のように刈り取られることもなく、お腹を空かせた浮浪児の群れが路地裏で蹲っていることもない。それだけで、あちらの世界よりも素晴らしいと、私は思うのです。それに比べて、あちらの世界の人の命は、あまりにも安かった」

 それは完全な事実であったから、ウォルもリィも何も言わなかった。

「けれども、それを少しでも良い方向に改めるために、多くの人が努力を惜しまなかったことを、私は知っています。陛下やリィは、その人達の旗頭でした。いわば、希望でした。ならば、貴方達だけは嘆いてはいけない、羨んではいけない。そうでなくては浮かばれません」

 誰が浮かばれないのか。
 この世界に生を受ければ死ぬ必要の無かった命。それとも、その命が失われる様を黙って眺めるしかできなかった人達。
 きっとシェラ自身にも分からなかったはずだ。
 リィもしたりと頷いた。

「その通りだな、シェラ。確かにこの世界の連中が、あちらの世界の人達を『助けてやる』ために大挙して押しかける段取りになったりしたら、おれは全力で阻止すると思う。例えおれの行為が、あちらの人達にはありがた迷惑だったとしても、だ」
「……俺は、どうだろうか。もしかしたら、それを歓迎するかもしれんな。こちらの世界と交わることで彼らの誇りが失われることになっても、それで飢えて死ぬ人が一人でも減るならば」

 リィは、痛ましい表情で王の横顔を眺めた。
 きっとこの男は、王座に君臨する間、絶え間なく苦悩の日々を送っていたのではないだろうか。
 王座とは、詰まるところ疫病神の住処でしかないのかもしれない。享楽に耽る王が座れば、不幸は国民へと降りかかる。真に民を思う王が座れば、王自身の背中に疫病神は取り憑くだろう。
 どちらにせよ、碌なものではない。

「誰もが誰も、戦士の魂を持つわけではない。寧ろそれは極少数だ。そして、誇りで腹は膨れん。誇りで病は癒えん。腹を膨らすのは飯だ。病を癒すのは薬だ。それが、あちらの世界には無くて、こちらの世界にはある。ならば……いや、難しい。何とも難しい命題だ。これはやはり、正にその時にならねばわからんか」

 ウォルは頭を一振りして、底なし沼のような思考を振り払った。
 現実問題としてこちらの世界とあちらの世界を繋ぐ手段が無い以上、この問題については如何なる思考も無価値である。ウォル自身、そしてリィもシェラも、そんなことは百も承知だ。その上で、これは避け得ぬ煩悶であった。二つの世界に暮らした彼らが一つの世界に留まる以上、避け得ぬ煩悶であったのだ。
 しかし、これ以上議論しても仕方ないことであるのもまた事実であるから、シェラが声色を変えて言った。

「話を戻しますが、リィ。私のことは置いておいて、あなたは何か将来やりたいことはあるのですか?」
「おれ?うーん……」

 既に一杯目のシチューを平らげ、二杯目の征服に取りかかっていたリィは、天井を見上げて唸ってしまった。
 これはシェラにとって、中々に興味深い疑問であった。
 『目指せ一般人』という、果たして本気か冗談か疑ってしまうような目標を掲げて学生生活を送るリィであるが、だからといってこの人が一般人というカテゴリに含まれてしまうことに途方もない違和感を覚えるシェラである。それはトカゲと恐竜が仲間であると言われた子供が感じる違和感を、更に強くしたものと言ってもいい。
 だから、この人が将来、誰かの下についてサラリーマンや公務員として生活するなど、もはや想像の埒外、笑い話にすらなりはしない。
 かといって、例えばキングやジャスミンのように、大企業の経営者として星を跨いで活躍をする姿も、どうしても思い浮かばない。能力の問題ではなく指向の問題として、である。
 政治や経済、運動や学問。あらゆる方向に類い希な才能を持ちながら、しかしその方向性の定まらないリィである。果たして何を志して勉学に励んでいるのか、シェラならずとも興味の尽きないところであろう。
 正しくウォルもその一人であった。シェラの質問に頭を悩ますリィを、興味深そうに見遣っている。
 焼け付くような二人の視線の先で、黄金の少年は絞り出すような声で言った。

「……おれが学校で学んでいるのは、おれの生きる世界のことを良く知って、どこにどんな危険があってどんな罠が張られている可能性があるのか、それを効率よく排除するにはどういう手段が有効なのかを知るためだからなあ」

 これは、自身の失態に対する苦い教訓である。
 二度とあのような醜態は晒さない。
 だからこそ、学び、知識を得て、次の危難に備える。リィにとっては至極当然の選択肢であった。
 それ故、今後の人生についての進路を決める上での意味を、学園生活に求めているわけではないリィである。
 しばらくの間唸った後、きっぱりと諦めた。

「駄目だ。いきなりやりたいこととか言われても、何も思い付かない」
「リィなら何でも出来るのでしょうけど……」

 シェラも苦笑いである。何でも出来るが故に何をしたいか分からないとは、何とも贅沢な悩みではないか。
 シェラと同じように曖昧な笑みを浮かべたウォルは、そんなリィを見ながら、気楽な調子で言った。

「お前なら、物作りなどが向いているのではないか?」
「物作り……っていうと?」
「そうだな……例えば、家具職人とか、鍛冶屋、細工師とか……」
「うーん……」

 やはり考え込んでしまう。
 以前、体験学習で辺境の惑星にホームステイした際に本職顔負けの木製の椅子を作ったリィであるから、手先の器用さは折り紙付きである。ならば、その道でも大成することは疑いないが、しかしどうにも違う気がする。
 それでも、例えばサラリーマンや公務員となって堅実な家庭を築いているリィなどから比べれば、幾分現実的と言えるのかも知れないが。

「では、ルウの設計した宇宙船に乗って宇宙を旅するというのは?」

 気安くシェラが言った。

「楽しそうだけど、それはルウの夢だな。おれが便乗するべきものじゃないと思う」

 こういうところの線引きはきっちりしている二人である。
 相棒とはいえ、四六時中べったりするような関係を、二人は望んでいない。彼らは、お互いがこの宇宙に存在し、その魂に背くことなく生きていさえすればそれで十分なのだ。

「おれも、今はこれといって思い当たらないかな。でも、いつまでもアーサーに世話になるわけにもいかない。それこそ『お父さん』って呼ばないといけなくなる」
「それは大問題だな」

 リィの性格をよくわかっているウォルは、先ほど笑われたお返しとばかりに、如何にも真心の籠もらない気の毒そうな顔で言った。
 少女の妻は、それを不機嫌そうに見遣ってから息を一つ吐き出した。

「そう言うお前はどうなんだ、ウォル。お前、あっちでは散々王様なんて止めたい逃げだしたいってぼやいてたけど、何かやりたいことがあるのか?」
「俺か。うーむ……」

 確かに、今のウォルを縛り付けるものは何も無い。王座も王冠も、国王の称号も。
 全てから解き放たれるということは、全てを失い全てを奪われるということ。
 そんな少女にこの問いかけは少し残酷だったかも知れない。無論、ただの少女であれば、の話であるが。
 そして、どう考えても『普通』というカテゴリに含めていいはずのない黒髪の少女は、手を顎にやり、考え込んでしまった。
 シェラは、この世界の後輩に当たる同郷人の様子を見て、助け船を出してやることにした。
 
「やはり、そう簡単に将来の希望など見つかるはずがないですよね……」
「実は、やってみたいことがあるのだ」

 リィとシェラは、同時に匙を落とした。ぱしゃりとシチューの汁が跳ねたが、二人ともそれに気づきすらしない。
 二人して唖然と口を開き、決意めいたものを含んだ視線を前に向ける少女を見つめている。
 その表情のまま、リィは尋ねた。

「ウォル、お前、なりたいものがあるのか?」
「うむ。そのことでお前達に相談しなければいかんと思っていたところだ」

 少女はこくりと頷き、少しの間だけ躊躇ってから口を開いた。

「その、だな。なんと言ったものか……」
「えらく勿体付けるな。はっきり言えよ」
「あいどる、というものになるのは、どうしたらいいのだろうか?」

 しばらく、静寂が部屋を満たした。
 二人は、果たしてその言葉が本当に少女の口から出たものなのか、記憶の反芻を繰り返し、その度に理性で肯定し感情で否定した。
 とにかく、混乱した。
 今、こいつは(この方は)何を言ったのだ?
 確かに聞こえた。
 あいどる、と。
 あいどる。アイドル。
 この単語に、どのような意味が与えられていただろうか。
 リィが、そしてシェラが思い浮かべたのは、テレビの中で煌びやかな衣装を纏い、安っぽい愛やら恋やらをテーマにした歌を歌い、ファンに媚びた笑顔を振りまき、若さと美しい容姿を売り物にして日々の糧を得る、踊り子のことだった。
 どこをどう考えても、目の前で雉肉に齧り付く少女――デルフィニア国王であり幾多の死地を潜り抜けた戦士である――に相応しい職業であるとは思えなかった。
 たまりかねたシェラが、おそるおそると口を開いた。

「……あの、陛下。陛下が仰っている、アイドル、とは、一体どのような職業でしょうか……?」
「なんだ、そんなことも知らんのかシェラ。よいか、アイドルというものはだな、テレビの中で煌びやかな衣装を纏い、安っぽい愛やら恋やらをテーマにした歌を歌い、ファンに媚びた笑顔を振りまき、若さと美しい容姿を売り物にして日々の糧を得る、踊り子のことだ」

 得意げに講釈したウォルである。
 ……どうやら、その認識の正誤は別にして、自分と共通の認識は抱いているらしいとシェラは思った。
 それ故に、よりいっそうに混乱した。
 ウォルが、アイドルになる?
 目の前の少女が、ひらひらきらきらごてごてした装束を纏い、マイク片手にテレビカメラに向かってウインクする?少しきわどい水着を着て、カメラの前でポーズを決める?ドラマや映画で、どこの馬の骨とも知れない男優と愛を語らいキスやベッドシーンを演じる?

 ……それは何という名の悪夢だろうか?

「……やめてください陛下。どう考えても、あなたに相応しい職業ではありません」
「そうか?意外と向いているんじゃないかな」
 
 これはリィの言葉であった。
 シェラは弾かれたようにリィの方へ向き直った。自分の耳を疑ったというのもあるが、リィの正気を疑ったというのもある。
 しかし当のリィは、あくまでいつも通り、平然とした有様であった。そのまま続ける。

「顔は文句なしで可愛らしいし、人を惹き付けるものだって十分にあるだろう。あとは運さえよければ成功するさ」
「お前にそう言って貰えると安心だな」
「こっちの世界に帰ってきてから、そっちの方面にもちょっとした知り合いが出来てさ。お前さえよければ、今度紹介するよ」
「すまんな」

 この場合のちょっとした知り合いとは、半世紀に渡って銀幕の表と裏を牛耳る、『芸能界の奇跡』、もしくは『銀幕の妖怪』のことである。ひょっとしたら、最近、その『妖怪』を起用した映画を撮ったことで名を上げた、新進気鋭の映画監督もセットでくっついて来るかも知れないが。
 シェラは、こめかみ辺りに激痛が走るのを自覚した。
 どうやら自分は、この二人と同等に張り合うにはまだまだ器のサイズが控えめすぎるらしいと思った。
 それでも一応、思ったことは言うことにした。これだけ強いストレスに晒されているのだから、どこかで発散しないと破裂してしまう。別に自分の容姿にこだわりのあるシェラでは無かったが、後頭部にはげが出来ては少女に扮するのが難しくなるから、苦労性とは早いところ縁を切りたかった。

「……リィ。『目指せ一般人』の標語は、早くも短い生涯を終えられたのですか?」

 というよりも、この黄金の獣が一般社会の中で暮らしていくなど不可能であるとシェラは確信しているし、そうあるべきではない、そんなのあまりに勿体ない、とも思っている。
 しかしこの際、武器に出来るものは何でも武器として闘うべきである。
 闘うとは、一体何と?
 彼を悩ます偏頭痛と、である。
 そんなシェラの葛藤というか決意というか、に対して、リィは平然と答えた。

「おれやお前、あの二人みたいに危なっかしい連中にはまだまだ有効継続中だ。でも、こいつはそんなに危なくないし、なにより本人がやりたいって言ってるんだ。無理矢理止めさせるわけにもいかないだろう?」

 正論である。
 しかし、自分達を、あの二人――死神とまで呼ばれた一族の精鋭――と同列に置いて欲しくはなかったシェラである。

「だいたい、この頑固者の熊が、いったん言いだしたことを改めるもんか。そんな殊勝な奴なら、あっちの世界でのおれの苦労がどれだけ減ったことか……」
「全く同じ台詞を、熨斗を付けて叩き返させてもらいたいところだな」

 目の前の料理をすっかり平らげたウォルは、ワイングラスを傾けながら言った。
 思わず満足の溜息が漏れる。

「美味かったぞ、シェラ。少々腹が物足りないところだが、まぁ仕方あるまい。悪いのは俺とリィだからな」
「いえ、お粗末様でしたウォル。しかし……何故、いきなりアイドルになりたいなど……?」
「うむ、実はだな……」

 少女が口を開いた、まさにその時である。
 ロッジの外、扉のすぐ傍から、どさりと重量感のある音が聞こえてきた。
 三人は、先ほどまでの緩んだ空気を振り払い、即座に行動を開始していた。
 シェラが、卓上に灯されたランプの火を吹き消す。
 ウォルは音もなく扉に歩み寄り、外の様子を伺った。
 リィは床に耳を貼り付け、不審な物音がないかを探る。
 しばらく耳を澄ましたが、何の音も聞こえない。何かが走り去るような、小さな音が聞こえただけだ。
 リィは、視線だけでウォルに合図を送った。部屋の中に灯りと呼べるものは無く、普通の人間であれば自分の腕だって視認できないほどに深い闇だったが、ウォルは無言で頷くことで了解の意を返した。
 ゆっくりと扉を開ける。その時点で、シェラの片手には鉛玉が握りこまれ、もう片方には銀線の細い光が煌めいている。
 開け放たれた扉から、冷たい外気が入ってくる。
 ウォルは、鼻をひくつかせた。
 人の気配も、鉄の気配もない。しかし、濃厚な血の臭いを感じる。
 いっそう神経を張り詰めさせ、ゆっくりと顔を出し、辺りを探る。
 すると――。

「あ」

 間の抜けた少女の声が、リィとシェラの耳に届いた。
 二人とも、得物を取り落としそうになり、ほとんど同じような非難を込めた視線を、ウォルの背中に向けた。
 しかし、当のウォルに、反省の色はない。そのままのんびりとした足取りで外に出て、

「おおい、二人とも、こっちに来てみろ」

 顔を見合わせたリィとシェラは、首を傾げてから、ウォルの言葉に従った。
 最低限の警戒は解かずにロッジの外に出ると、そこには……。

「あ」
「凄い」

 二人が同時に口に出した。
 そこには、小山のように大きな、何かが横たわっていた。
 ぴくりとも動かない。当然だ。命を失った生き物は、肉の塊に成り果てるのだから。
 リィは、それに見覚えがあった。
 昼間、散々追いかけ回して、惜しくも逃がしてしまった、あの鹿だ。
 夜目の利くものでないと分からないが、額のところに小さな傷がある。
 矢傷だ。おそらくこれが致命傷であり、そしてたったの一撃だったのだろう。
 一体、どのようにすれば野生の鹿、それもリィが手こずるほどに老練な牡鹿の正面から矢を射て、その頭に命中させることが出来るのだろうか。
 恐るべき手並みである。

「一体誰が……」

 シェラの呟きである。
 それに、積まれているのは鹿だけではなかった。
 野苺や山桃、胡桃などの木の実や果物。鱒や岩魚に近い種の川魚。料理には欠かせない各種香草。茸や根菜なども揃っている。
 これだけで盛大なパーティーが開けて、さらにお釣りが来るであろう、食材の山であった。
 小さな食材だけでイマイチ腕の振るいようのなかったシェラであるから、食材の山に駆け寄りそうになったが、しかしふと気付いてリィの方を振り返った。
 リィは、小さく頷いた。

「大丈夫、全部食べられるものばかりだ。毒が仕込まれているとか、そういう勿体ないことはないみたいだぞ。それどころかこの鹿なんて、きちんと血抜きもされてる」

 確かに、喉のところが大きく切り裂かれている。
 額の矢傷が致命傷だったとすれば、これはこの鹿が息絶えてから、血抜きをするために作られた傷ということになるのだろう。
 シェラはますます首を傾げた。
 
「今、この星には我々しかいないはずですよね。一体誰が……?」
「だいたい想像はつくけどな」 
 
 リィは足下に転がっていたドングリを手に取り、二三度ぽんぽんと掌で浮かせてから、正面の草むらにえいやと放り投げた。

「あいた!」

 こん、と、固いものにぶつかる軽い音が聞こえて、それから間の抜けた悲鳴が聞こえた。
 緊張に身体を硬くしかけたシェラとウォルであったが、その声が聞き覚えのあるものであったから、すぐに解いた。
 それによく考えてみれば、本来は無人であるはずのこの惑星に宇宙船以外の手段でもって現れるという非常識、一体この人以外の誰に可能であろうか。

「さっさと出てこいよ、ルーファ」

 むっつりとしたリィの声、それに応えるように、がさごそと騒がしい音が草むらから鳴り響き、夜空に負けないほどに黒い髪の毛と、青空にだって負けないくらいに青い瞳が、恥ずかしげに顔を出した。

「あ、あはは、久しぶりだね、王様、シェラ」
「うむ、久しいな、ラヴィー殿」
「ルウ……」

 きらきらと目を輝かしたウォルと、眉間を抑えて黙り込んでしまったシェラである。
 
「……人為的に不可能なことはラー一族でもタブー。私はそう理解していたのですが?あなたが生身のままでこの惑星にいることは、人為的に可能なことなのでしょうか?」
「で、でも、ここにいるのはみんな、きちんと秘密を守ってくれる人達ばかりだし……!」
「それを言ってしまえばどんなときだって他人に秘密を守らせるくらいわけはないあなたでしょうに」

 人間の記憶の操作くらいは増差もないルウであるが、あまり好きではなかったりする。
 シェラもそのことは知っているから、これはただの皮肉、もしくは嫌味であった。
 勿論、ルウがこの場にいるのが嫌なわけではない。しかし、着いてくるつもりなら前もって言って欲しかったのだ。

「だって、僕が一緒に行くって言ったら、ダンも船を出してくれなかったかもしれないし……」
「かも知れないし?」
「……エディが凄く怒ってると思ったから……」

 ルウは俯いて黙り込んでしまった。
 そんな彼に、リィは手厳しい視線を向けた。

「ふうん。なら、おれが怒るようなことをしたっていう自覚はあるわけか」

 びくり、とルウの細い肩が揺れる。
 そして、雨に打たれた子犬のような顔で、リィを見上げた。

「だ、だって、王様がエディと結婚すれば、とても素敵だと思ったんだよ!」
「結婚ならもう済ませた。今更、こいつがおれの妹になる必要なんてないだろう」
「でも、今のままだと、いつまでたっても赤ちゃんが出来ないし……。妹になって、もっと親密になって、一緒のベッドに寝ることになれば、そういうこともあるのかなぁ、なんて……」
「そうか。つまりお前は、おれとこいつを交配させて、次世代の個体を観察したかったっていうわけか?」
「交配だなんて、そんな!」

 冷たいリィの言葉に非難の視線を寄越したルウだが、今はどちらが優越的な位置に立っているのか、子供にだって明らかだった。
 ルウは再び視線を落とした。

「でも、お前がしようとしたことはそういうことだろう。絶滅寸前の珍獣の雌雄を同じ檻に閉じ込めて、無理矢理に番わせて卵を産ませようとする馬鹿な研究者と何が違うっていうんだ?そもそも、そんな無理矢理なことをして産ませた命に何の価値がある?滅びようとするものはそのまま滅ぼしてやればいいのさ。人の手を借りないと生きていけない生き物なんて憐れなだけだ」

 それは遠回しに自分のことを言っているのだろうかとシェラは思った。
 この世でただ一人、ただ一匹の、黄金の獣。
 シェラは、自分でも何を言うべきか定まらぬままに、口を開こうとした。
 正にその時、ルウが、押し殺したような声で言った。

「……ウォルフィーナは、違うかも知れないじゃないか」
「何だと?」
「だって、ウォルフィーナは女の子だもの。きっと、好きな人の赤ちゃんが欲しいと思うはずだよ。だから、赤ちゃんを産ませてあげないといけない、そう思って……」

 ぐすぐすと、鼻を啜る音が聞こえた。
 いつになく語調の鋭かったリィであるが、流石にこれ以上はまずいと思ったのか、大きく溜息を吐き出して次の言葉を飲み込んだ。
 そして言った。

「なぁ、ルーファ。そういうことは、お互いの意志に任せるべきだとは思わないか?おれがいつの日か愛する人を見つければ、勝手に発情して勝手に子作りをするさ。こいつだってそうだ。こいつだって、無理矢理に尻を叩かれて子供を作らされたって、嬉しいはずがないだろう?」

 リィの指さす先には、彼の夫たる少女がいた。
 少女も、はっきりと頷いた。

「そういうことだなラヴィー殿。今回の件は、あなたが悪いと思う。少なくとも、リィにはきちんと相談すべきだった」
「……反省してます……」
「なら、まず言うべき事があるのではないか?」

 ウォルの言葉にルウは頭を上げ、怯えたような視線をリィに向けて、言った。

「ごめんね、エディ」
「うん、もういいんだ、ルーファ」

 リィはにこりと笑って、そう言った。彼が欲しいものはその一言だけで、それ以外の何ものでもなかった。
 だから、本当にそれだけで終わりだった。
 ルウは嬉しそうに目元を拭った。最初からこの人は許してくれると知っていたけど、きちんと許された喜びは他の何物にも代え難かった。

「ありがとう、エディー!」

 草むらから飛び出して、リィに抱きついた。

「うわ、お前泥だらけじゃないか!」
「だって、エディに許して貰おうと思って、たくさん獲物を狩ってたから。木の実だってこんなに集めたんだよ!」
「わかった、わかったから!」

 ルウは腰を屈め、リィの頭を抱きかかえて、思いっきり頬ずりをした。
 ルウの頬についた泥がリィのほっぺたに黒い煤のように広がったが、当のリィはあまり嫌そうではなかった。ルウの頭に絡まった、蜘蛛の巣やら木の葉やらを丁寧に取ってやっている。

「ああもう、こんなに汚して。折角綺麗な髪なのに勿体ないだろ」
「うん、ごめんねエディ」
「あとでちゃんと風呂に入るんだぞ。それと歯も磨けよ」
「うん!」

 まるで幼子と母親である。
 その様子を苦笑混じりに見つめていたシェラは、咳払いを一つしてから、威厳のある調子で言った。

「ちなみにリィ、あなたもですよ」
「は?おれはもう、一度風呂に入ったぞ?」
「今のご自身の身体を見てから、そういうことは言ってくださいね」

 リィは、今の自分を見た。そしてなるほどと思った。
 泥だらけのルウに抱きつかれたリィの身体は、負けず劣らずにどろどろになっていた。このまま床に入れば、シーツやらマットやら毛布やら、色々なものを汚してしまうだろう。

「わかったよ、シェラ。蒸し風呂、まだ入れるよな?」
「ええ。後で私が入るために、石を焼いておきましたから」
「悪いな、シェラ」
「いえ、大した手間ではありませんから。それに、あなたが風呂に入っている間に鹿の下拵えと新しい料理を作っておきましょう。どうせ、先ほどの料理では足りていないのでしょう?」
「流石シェラ、おれのことをよく分かってくれてるよ」

 満面の笑みを浮かべたリィと、烟るように淡い微笑みを浮かべたシェラの主従である。
 それを、微笑ましいものを見るような様子で遠目に見ていたウォルであるが、その肩ががっしと掴まれたことに気がついた。
 背後に、いつの間に近寄ったのやら、黒い天使が立っていた。

「ら、ラヴィー殿?」
「うん、王様も一緒に入ろう?」
「は?」
「僕とエディと一緒にお風呂に入ろう?ねっ?」

 有無を言わさぬ口調であった。
 別にそれは構わないが……そう言おうとしたウォルの脳裏に、先ほどの悪夢が蘇った。
 身体中をまさぐられ、舐め回され、弄ばれ続けた、笑い地獄……。
 金の天使だけで、あれだけ惨い目に合わされたのだ。それが、二人になれば……。

「い、いや、遠慮しておこう。俺はもう、さきほど十分に汗を流して、身体も清めたのでな」
「ええーっ?そんな、一緒に入った方が絶対に楽しいよ?」
「だから、もう、既に済ませたのだと……」
「そういえばウォル、ルーファとアーサーの記録映像に慌てるおれを見て、散々笑い転げてくれたよなぁ……?」

 ルウに掴まれたのと逆の肩を、今度は金色天使ががっしと掴んだ。

「り、りぃっ!」

 情け無い、悲鳴にも似た声が、覇王の化身たる少女の口から漏れだした。
 少女は、自分が狩られる獲物で、この二人は肉食獣なのだと悟った。そして、その牙が、既に喉元に突き付けられていることも。
 それでも、必死の抵抗を試みた。それが、生きとし生けるものの義務であるかのように。

「シェラ、シェラ、助けてくれシェラ―――!」
「すみません、私も出来ないことはあるのです、陛下」
「おのれ国王を見捨てるか、恩知らず、不届き者、不忠者―――!」
「私はもともと、デルフィニア国民ではなかったもので……」

 下手に関わっては自分のもとに火の粉が降りかかる。
 シェラは、両脇を抱えられたままサウナ小屋に連行される黒髪の少女を、掌をひらひらさせながら見送った。
 その後、小屋の裏手で鹿の解体をするシェラの耳に、悲鳴だか嬌声だか笑い声だかわからない、何とも形容し難い少女の声が届いたのだが、彼はそれを完全に無視し続けた。
 さわらぬ神に祟り無しである。
 一時間後、全身を弛緩させて痙攣を続ける、少女のかたちをした軟体動物が出来上がったとか。

「おのれ、しぇら、おぼえておけよ……」

 ひくひくと頬を引き攣らせて、少女は呟いた。

「なっ。こいつ面白いだろ?」
「うん。また遊ぼうね、王様!」

 



[6349] 第二十二話:昔語り
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:55
 四人は車座に座り、中央にあかりを灯したランプを置いた。
 ゆらゆらと、そして赤々と燃える、小さな炎。この世界の日常では目にすることの少ない、原始の光である。
 ウォルは、懐かしいものを見るようにその炎を見つめた。彼女にとっての灯りとは、太陽と月と星、そして炎の事だった。それ以外の光など、怪しげな魔道のもの以外存在することすら知らなかった。
 彼女の真正面には、弱々しい光の中でも力強く輝く、黄金色の頭髪をした少年が座っている。彼も少女と同じく、行儀悪く床に直接腰掛けているが、咎める者はいない。
 
「まず、なにから話そうか……」

 少女は面白そうに、しかしほんの少しだけ困った様子で、その可憐な口元を綻ばせていた。それは勿体付けてそうしているのではなくて、話したいこと、話すべきこと、話さなくてはならないことが多すぎて、本当に弱っているからだった。
 そんなウォルの様子を見守りながら、彼女の左に腰掛けた銀髪の少年が、空になった少女のグラスの中に酒を注いだ。
 相当に強い、葡萄から作った蒸留酒だった。

「すまんな、シェラ」

 少年は、無言で微笑した。これが自分の役割だからと、そう言いたげな顔だった。
 ウォルはシェラに注いでもらった酒で唇を湿らし、そして考えて、それから頭を振った。

「駄目だ。どうにも、何から話して良いのかが分からん。そこでどうだろう、お前達の聞きたいことから順に答えていくというのは」
「じゃあ、最初はエディだね」

 少女の右に腰掛けた、漆黒の髪の青年が言った。
 その手には、琥珀色の液体でなみなみと満たされた、小振りなグラスが握られている。もう、何杯目かもわからないほどに飲んでいるはずだが、その白皙の肌には一向に朱が刺す様子が見られない。
 今だって、酔いの気配も見せないはっきりとした口調で、リィに話を振った。
 そしてリィは、しばらくの間考えて、言った。

「あのときの子供は、無事に産まれたのか?」

 あのときの子供。
 それは、リィがこの世界に帰る間際に、ウォルの愛妾であったポーラが身籠もった赤子のことである。
 リィは、大事な遠征の途中であったのに国王の首根っこを引っ掴んで里帰りさせるほどに、その子とポーラのことを気にかけていた。彼らのことをまず真っ先に知りたがったのは、寧ろ当然だろう。
 真剣な、それでいてどこか心細そうなリィ、そして残る二つの視線を受けて、ウォルは確と頷いた。

「無事に生まれた。勿論、ポーラも無事だ」

 ほう、と、三つの溜息が漏れた。

「男の子か?女の子か?」
「男の子だ。フェルナンと名付けた」

 それは、ウォルにとっての二人の父親のうち、彼を育ててくれたほうの父親である。
 そして、デルフィニア国王の正当性を巡る一連の政変の中で非業の死を遂げた、偉大なる貴族の名でもあった。
 事の経緯は、三人だって知っている。それどころか、リィは、長期間に渡る幽閉と度重なる拷問によって死の淵にあったフェルナン伯爵を、難攻不落の城塞から助け出した張本人であるのだ。
 それ故に、その名前を聞いたときの感慨もひとしおであった。

「そっか、フェルナンって名前を付けたんだな」
「おかしいか?」
「いや、相応しいと思う。きっとフェルナン伯爵は、自分の名前が次の国王の名前になることよりも、お前の息子の名前になることをこそ喜んでくれただろう」

 ウォルは恥ずかしそうに微笑った。
 それは、誰よりもウォル自身が確信していることだったが、自分以外の誰かがそう言ってくれたことが嬉しかった。
 シェラとルウも、それに倣った。

「おめでとうございます、陛下、いえ、ウォル!」
「おめでとう、王様!きっと可愛い赤ちゃんだったんでしょ?」
「ああ、とても、そうだな、とても可愛い赤ん坊だった。最初は猿みたいな顔で、本当に自分の息子だとは信じられなかったが……」
「……まさか、ポーラの前でそんな寝ぼけたことを言ったんじゃあないだろうな?」

 不穏当な響きをもったリィの言葉に、少女のこめかみは冷たい汗に濡れた。
 黒真珠のように美しい瞳は宙を泳ぎ、小振りで愛らしい口は『えーと』とか『その』とか、あたふたとした言葉を吐き出すのみ。
 リィは、いっそう声を低めて、言った。

「おい、ウォル。お前、まさか……」
「つい、だ!なんとなく、父親になった実感も湧かなかったから、つい口に出してしまったのだ!そんな意味で言ったのではない!」
「当たり前だこの馬鹿!うすらとんかち!女の敵!もしそんな意味で言ったんなら、今からお前の首根っこに縄をかけて、何としてでも向こうの世界に連れて帰って、ポーラに土下座させてやるところだ!」

 そんな意味、とは、この世に蔓延る責任感と優しさの欠如した父親、もしくは妻の不貞を疑わなければならない可哀想な男達が口にする、最悪の台詞であった。
 ウォルは、無論そのような意味で言ったのではない。ただ、初めて目にした生まれたての赤ん坊があまりに人間離れした容姿だったから、本当につい口から飛び出てしまっただけなのだ。
 慌てて弁明するウォルを、ポーラも笑って許してくれた。彼女は、自分が夫に選んだ男のことを心底信頼していたし、自分にだってちっとも後ろ暗いところはなかったからだ。
 許してくれなかったのは、男連中からその話を聞いた、彼らの妻達である。
 
『陛下のことを見損ないましたわ』とは、タウの自由民に嫁いだ溌剌とした少女の弁。
『私の教育が不味かったのでしょうか……?』とは、かつてウォルと結婚を誓い合った貴婦人の弁。
『例え真意では無いとして、そのように柔弱な言を口にされるとは、天の国の王妃もお嘆きでしょう』とは、ポーラよりも先に双子を出産した男装の麗人の弁。
『ジルがそんなこと言いやがったら、口を縫い付けてアレを切り落としてやるのにねぇ』とは、歳の離れた夫へと嫁いだ女山賊の弁。
 
 これらの発言に、夫である勇者達は異を唱えようとしなかった。
 ウォルの気持だって分からないではないのだ。何せ、自らのお腹を痛めて子を育んだ女達と違って、男は種を撒いただけ、それからのことは完全に蚊帳の外なのだから。
 しかし、ここでウォルを庇っては、一体どのような雷が自分達に落ちるのか、分かったものではない。そして、嵐は大人しく非難して、通り過ぎるのを待つに限るのだ。
 結局、男達の中で、ウォルを庇おうという勇気ある者はいなかった。

『今回のことはお前が悪い。全面的に悪い。一度死んだと思って心を入れ替えろ、な?』とは、国王の幼友達であり、信頼すべき独騎長の弁。
『あの、陛下……お気を落とされずに』とは、国王の絶体絶命の危地を、命を賭して救おうとしたラモナ騎士団長の弁。
『出産の後は、猫だって気が立つものです。あなたはその髭を切り落として、傷口にからしを塗ったも同然。しばらくは雌猫たちの矢面に立つことを覚悟なされることですな』とは、こういうことに関しては一度だって小火を出したことのない、国王の従弟の弁。
『いや、名高きデルフィニア国王とはいえ、団結した女達には刃が立ちませんか。そこらへんはコーラルの宮中であろうがタウのあばら屋であろうが、変わらんもんですなぁ』とは、タウの荒くれ者を統べる族長の弁。

 彼らは遠巻きにそう言って、弱り切った国王の情け無い顔を肴に酒を飲んでいたりする。
 とにかく、本当の四面楚歌とはどういうものかを味わって、今後一切女を敵に回すことは慎もうと、ウォルは心に誓ったのだ。

「だから、もう許してくれ!罪があったことは認めるが、十分に罰は受けたのだ!」

 まさか事件の40年後に、こうも真摯な謝罪をしなければならないとは夢にも思わなかったウォルである。
 その、国王と呼ぶにはあまりに憐れな様子にリィも溜飲を下げたようで、体内の圧力を逃がすように鼻息を一つ吐き出すと、上げかけた腰を下ろした。
 
「まったく、お前ってやつは……。ほんと、おれがいなかったらどうなってたんだか」

 リィは心底呆れた様子でそう呟くと、傍らに置いたグラスを引っ掴み、その中身を空にした。
 シェラは無言で酌をした。自分の右側に腰掛けた少女が、これ以上無いくらいにその身を縮めてしまっているのが、どうにも可笑しかった。
 
「……で、ウォル。お前、その子とポーラを大事にしてあげたんだろうな?」
「当然だ!リィ、いくらお前でも、そこまで疑うのは酷いぞ!」
「冗談だ。怒るなよ、我が夫」

 くすくすと笑い、リィは炒った木の実を一つ掴み、口に放り投げた。
 こりこりと固い音を立てて噛み砕くと、ほんの少しの渋みと同時に濃厚な甘味を感じることが出来る。一つまみの塩が、その甘味をよりいっそう引き立てているようだ。
 リィは、もう一つ摘み、口の中に放り込んで、それから酒を飲んだ。
 美味い酒だった。それはきっと、酒の質以上に、他の何かが素晴らしいからだろう。

「では、他の皆様はどうされたのですか?お元気ですか?」

 これはシェラの言葉である。
 本当にそのことを聞きたかったというのもあるが、それ以上にこのまま国王夫妻を放っておくと、どんどん話が逸れていく気がしたからだ。
 事実、ウォルは気を取り直したような口調で言った。
 
「ああ、みんな元気だとも。イヴンとシャーミアン殿の間には男子が産まれた。ナシアスとラティーナ……いや、ジャンペール夫人の間にもだ。なんとも賑やかな年だったな。特にジル殿とアビー殿は子宝に恵まれてな、男子を出産された後に、なんと双子の赤ん坊を三度も授かったのだ。流石のジル殿も、三度目には目を回しかけていた。ロザモンド殿……ベルミンスター公爵などは天罰だと微笑っていたがな」

 懐かしい、あまりに懐かしくて聞くだけで暖かい気持にしてくれる名前の群れに、三人は顔をほころばした。
 彼らがこの世界に帰って、一年近い月日が流れている。それは、あちらの世界でウォルが体験した月日の流れに比べれば、ほんの一瞬と言っても過言では無いものである。
 たった一年。たったそれだけの間顔を見なかった人達の名前が、どうしてこうも胸を暖かくしてくれるのだろうか。人間嫌いであったかつてのリィであれば、こんなことはなかったに違いない。
 リィは、自身の変化に戸惑いながらも、しかしその変化をちっとも疎んではいなかった。
 そして、自身に宿った優しい感情を愛でながら、言った。

「そういうお前はどうだったんだ、ウォル。ポーラとの間に授かったのは、フェルナンが一人だけか?」

 ウォルは、照れたように頬に手をやり、おそらくは無意識にそこを撫で回した。
 少なくともリィがいた頃には、そんな癖は無かったから、無意識でやっているとするならリィが去った後についた癖だろう。こんなところにだって時の流れの違いは、しっかりと刻まれていたりする。

「その翌年に、女の子を一人。次の年にも、女の子を一人授かったよ」
「へぇ。それはめでたいな!でも、ポーラは大丈夫だったか?あんなに小さいから、大変だったんじゃないのか?」
「ああ。あれは自分が言うように、何より丈夫が取り柄な女性だった。子を産んで、気力も体力も使い果たしたはずなのに、翌日にはけろりとした顔で口いっぱいにパンを頬張っていたりするのだからな。まったく、リィ、お前の人を見る目は外れたためしがないな。ポーラはどこまでも、俺の妻に相応しい女だった」

 リィは、口いっぱいにパンを頬張ったポーラが、その顔を愛すべき夫に見られてあたふたと慌てふためく様を想像して、思わず声を出して笑ってしまった。
 きっと顔を真っ赤にして、でも一度口に含んだ食べ物はきちんと良く噛んでから飲み込んだだろう。あの子は、絶対に食べ物を粗末にする性分ではなかった。
 ポーラの人となりを知るシェラとルウも、思わず吹き出してしまった。

「ちなみに、二人の女の子は、何て名付けたんだ?」

 やっとのことで笑いを収めたリィが言った。
 その質問を予想していたのだろう、ウォルは、少女には些か似つかわしくない不敵な表情でにやりと微笑った。

「上の子は、グリンダ=シャムス」
「……はぁ?」
「下の子は、シェラ=カマル」
「はぁぁ!?」

 先の『……はぁ?』がリィの声で、後の『はぁぁ!?』がシェラの声である。
 それも当然だろう。まさか自分の名前が、遠い異世界――彼らにとっては縁深い世界ではあるが――の王女の名前になっているなど、誰が想像しうるだろうか。
 それが偶然であればどうということはない。しかしこの国王に限って、そういうことはまずあり得ないだろう。
 全部分かっていて、その名を付けたはずである。

「何を驚く?偉人や英雄から名前を頂くなど、どこの国でもありふれた事だろう?」

 ウォルは、外見は何食わぬ顔を装いながら、しかし内心では楽しげに、狼狽える二人を見遣った。
 そして、期せずして名前を『頂かれて』しまった二人は、異口同音に、こんなことを言った。

「おい、ウォル!下はともかく、上の名前はどういうことだ!?」
「陛下!上のお子様はともかく、下のお子様の名前はどういうことですか!?」

 金銀天使は、色違いの瞳に剣呑な色を湛えて、右と左から少女に詰め寄った。

「シェラはともかく、おれの名前なんて付けて、その子が男みたいな性格になったらどうするつもりだったんだ!嫁の貰い手がいなくなるぞ!」
「リィはともかく、暗殺者如きの名前を王女に与えるなど、正気ですか陛下!?不吉にも程があります!即刻考え直して下さい!」
「そう言われても、既に二人とも、二児の母親なんだがなぁ……」

 ウォルはぽりぽりと頭を掻いた。
 リィとシェラははっとした。
 確かに、ウォルがその子達を授かったのは、あちらの世界では遠い昔のことである。今更文句をつけたところで何が変わることでもないのだ。
 二人は、如何にも不平そうな顔で黙り込んでしまった。その顔たるや、おあずけを言いつけられた空腹の子犬さながらである。

「……ウォル。お前は卑怯だ」
「はい。私もそう思います。私などの名前をつけられては、王女様があまりに憐れです」

 ここまで言われると、ウォルとしても反論しなければ愛娘の名誉に関わる。
 
「おいおい、そうは言うがな。シャムスもカマルも、遠国にまで聞こえるほどの美姫だったのだぞ?年頃になったときには、縁談の引く手が数多過ぎて、俺もポーラも辟易としたほどだ」
「……それは大変だっただろうなぁ」

 それはリィも実際に体験したことだったから、その声にも決して同情や憐憫でないものが含まれていた。
 確かに、年頃の王子や王女は政の道具として珍重される。固い同盟関係を作るに、血縁ほど手軽で信用できるものもないからだ。
 ましてその道具が、万里に響く程に美しく、そしてタンガとバラストの二大国を抑えてなお飛翔せんとするデルフィニアの王女であるならば、他の国が放っておくはずがない。
 きっと、リィの時に、更に輪をかけたような大騒ぎだったに違いないのだ。

「じゃあ、二人とも他の国に嫁いだのか?」
「うむ。シャムスはタンガのビーパス王に、カマルはサンセベリアの、オルテス王とリリア殿の息子、現在のサンセベリア王たる方の元に嫁いでいったよ」
 
 ウォルは、そう嬉しそうに言った。
 リィも嬉しそうに頷きながらも、しかしその表情のどこかに寂しげなところがあった。
 ウォルは、すかさず言った。

「政略の道具として扱われた彼女達が憐れか?」

 リィは肩を竦めた。
 彼とて、何の間違いか、一時は王女として、そして王妃としての地位にいたのだから、それらがどういうもので、どういうさだめにあるのかを知らないわけではない。
 王女としての生を受け、蝶よ花よと愛でられる。王と王妃は彼女達に惜しみない愛を注ぎ、周りの人間も傅く。
 しかしその代償は、将来、見たことも、下手をすれば聞いたことすらない国の、得体の知れない王子との結婚を強制されること。いや、結婚と言えばまだ聞こえが良すぎる。
 つまるところ、王族同士の結婚は契約の一種である。そして王女は、契約書のインクか筆か、そこらと同じだ。それが無ければ契約が結べないが、別にそのインクでなくとも契約は結べる。
 好きな相手と結ばれることが出来ない。それは当然である。しかし、その個性すらを、人間性すらを認めて貰えないとなれば、それは憐れといって差し支えないものなのではないだろうか。
 リィはそう思い、結局何も言わなかった。
 自分の同盟者ならば、何も言わずとも分かってくれると思ったからだ。
 然り、ウォルは全てを察していた。そして言った。

「お前の想いはもっともだがな。俺の娘の場合、それは見当外れな同情だぞ」
「はっ?」
「あれは、二つとも、政略結婚に名を借りた恋愛結婚だ。全く、あのときはどれほどに頭を悩ましたものか……」
「へ、陛下。しかし、カマル王女のほうはともかく、シャムス王女はタンガに嫁いだのですよね?」

 シェラが遠慮がちに尋ねた。

「ビーパス王子……いえ、ビーパス王は、我々があちらの世界にいたときで二十歳に手が届こうかというお年だったはず。では、シャムス王女が嫁がれたときは……」
「確か、ビーパス殿が35歳、シャムスが14歳だったかな?」

 14歳と言えば、王族が輿に入るに早すぎる年齢とはいえない。両手の指の数に届かぬ年齢で配偶者を迎える王族は、決して珍しいものではないのだ。
 しかしそれは、政略結婚の場合のみである。
 恋愛結婚においては……この年の差をどう考えるべきだろうか。
 流石に口籠もったシェラであったが、リィはもっと勇猛果敢であり、何より直接的であった。

「ビーパスはロリコンだったのか?」

 シェラとウォルが、口に含んだ酒を同時に吹き出した。そして盛大に噎せ返った。
 二人が同時にげほげほと咳き込むものだから、狭い山小屋の中はとたんに騒々しくなってしまった。窓の外で、鳥が飛び立つ音まで聞こえる始末である。
 嵐のような時間が過ぎ、やっとのことで人心地をついたウォルが、恨みがましい視線で自分の妻を睨みつけた。

「おい、リィ。お前、言っていいことと悪いことの区別もつかんのか?仮にも相手は一国の王だぞ?お前が元の身分で、そして公式な場の発言であれば、これが原因で戦争に発展してもおかしくない無礼だ」
「お前こそ無礼な奴だな。おれだって時と場所くらいは弁えた上で口を開くさ。元の身分の時だってそうだっただろう?」

 そう言われるとウォルとしても返す言葉がない。
 確かに、あちらの世界でのリィは、とんでもない『役者』であった。
 馬に跨れば一騎当千の女武者、農民の姿に身を窶せば凄腕の細作、行者装束を纏えばどのように堅牢な城にでも潜り込み、輝くようなドレスだって誰より優雅に着こなしてみせる。
 ウォルは重たい溜息を吐き出した。

「お前がそんなだから、俺はあんな苦労を背負い込む羽目になったのだ」
「……一体何だよ、藪から棒に」
「まぁ聞け。お前がいきなり天の国に……まぁこの世界に帰ったおかげで、国中に大混乱が起きた。それはそうだろう、デルフィニアの守護神が天に帰ってしまっただからな。これでデルフィニアは終わったと嘆く者も、冗談では済まされない数いたほどだ」
「なんて勝手な奴だ。おれがいるときは、やれ野蛮だ、やれ王族には相応しく無い、やれ女らしくしろって口うるさく言っておいて、いざいなくなったらそれかよ。それに第一、おれは最初から言ってたじゃないか。時が来れば自分の世界に帰るって」
「リィ、お前その台詞を、お前がいなくなった直後のポーラを見ても言えたか?」

 ウォルの言葉に、リィは口をつぐんでしまった。

「あれはな、お前が国に帰ったと聞いて、本当に心を痛めていたのだ。最初に俺が伝えたときは頭から信じようとしなかったし、どうやらそれが事実らしいと理解したときには卒倒して気絶しかけた。その後も泣いて泣いて、泣き伏せって。妊娠中だというのに食事も喉を通らぬ有様だったのだ」

 リィは、この少年には珍しく、母親に叱られた幼児のように俯いてしまった。

「でも、急な話だったんだし……」
「あのとき、俺の耳を引っぱって芙蓉宮に連れ帰った時に、まだこの世界に帰るつもりがなかったとは言わさんぞ。事実、お前はバキラの狼たちには別れを告げていたそうではないか」
「……」
「確かに、お前は時が来たればこの世界から離れると言っていた。それでも、別れ方と言うものが在るだろう。男連中はともかくとして、せめて妊娠中のポーラには気苦労をかけないような別れ方というのもあったのではないか?」
「……ごめん。あの娘を泣かせるのが、怖かったんだ」

 確かに、どれほど上手に言い含めたところで、ポーラはリィを引き留めただろう。何せ、彼女の中のリィは、ほとんど神聖化されていたに等しいほど絶対的なものだったのだから。
 それでも帰ると言えば、間違いなくポーラは泣いたはずだ。泣き喚いたはずだ。
 だが、それを承知の上でも、きちんとお別れを言うべきだったのだ。少なくとも、普段のリィであればそうしていたはずだ。何より、それがお世話になった人達への最低限の礼儀であるはずなのだから。
 それをしなかったのは、きっとリィの中にも、あの世界に対する一抹の未練があったからだろう。
 
「……まぁ、それはいいのだ。何度も言うが、ポーラは強い女性だ。ひとしきり落ち込んだ後は、きれいに吹っ切れたよ。こんなに情け無い姿を、いつかこの世界に戻ってきて下さる王妃様にお見せするわけにはいかない、とな。だから、それはいいのだ。しかし問題はだな……」
「……まだあるのか?」

 リィはうんざりした様子だった。
 確かに、今からでも自分が何とか出来る問題であるのならば、この少年にとってはものの数ではない。どのような困難事であろうと、その腕力と知力に任せて解決してみせるだろう。
 しかし、それが遠く離れた世界の、しかも既に終わってしまったこととなると話は別だ。ラー一族に迎え入れられるほどに常識離れした力を持つ少年であるが、それでも出来ることと出来ないことというものがある。

「ただでさえお前を慕っていたポーラだ。その上お前があのような消え方をしたものだから、真剣にあの方は軍神の現し身だったのだと思い込んでしまった」

 無理もない。
 何せリィは、万を超える軍団の戦闘のまっただ中で、いかづちは落とすは竜巻は起こすわ巨大化するわの大暴れの後で、夫婦の契りを結んだ国王を祝福して、大空に消えていったのだ。事情を知らない人間が見れば、どう考えても神様にしか為せない業である。
 正直、少しやりすぎたかと思わなくもないリィは、気まずそうに首の辺りを撫でさすった。

「で、大事なのはここからだ。お前を敬愛し、心酔しているポーラが、一時はお前もそうだった王女を教育するに、一体どのような方針をとったか、一々説明しなければならないか?」
「……一応説明してくれるか?」
「デルフィニア王女は、武勇をもって尊ぶべし。決して男に守られる弱い存在である無かれ」

 あり得ない。
 決して、王女を育てるための標語などではない。これは、騎士団か、それとも貴族がその子弟を鍛え上げるときに掲げるべき標語だ。
 ウォルは、盛大な溜息を再び吐き出した。今度は、リィとシェラもそれに倣った。

「……うん、なんていうか、ごめんな、ウォル」
「……フェルナンもな、決して弱い男の子ではなかったのだ。年の近いユーリ―などと手合わせをしても、決して引けを取らなかった。それなのに、あの二人にかかっては……」

 もう、気の毒すぎてそれ以上は聞けないリィとシェラである。
 ただでさえ女連中には痛い目を見せられたウォルであるから、ポーラには頭が上がらない。それに加えて、数少ない男の味方である息子が、女である娘達にこてんぱんにのされるのを目の当たりにした日には……。
 何の因果か、今は少女の姿をしたウォルの目に、光るものが浮かんでいたのだって気のせいではあるまい
 
「……そんな娘だからな、他国に嫁がせるのはどうかとも思った。しかし、自国の貴族に嫁がせたのでは、アエラ姫の例がある。将来の禍根を残さんとも限らん。どうしようかと思い悩んでいたときに、タンガ国王の歓迎式典が執り行われた。当然、年頃の娘達も臨席したのだが……」

 リィは、おそるおそると尋ねた。

「……どちらからだ?」
「……シャムスからだ」

 ウォルは、そのときの事を思い出して、青ざめていた。

「普段は、人前では楚々とした様を崩さないシャムスが、突然に席から立ち上がったと思ったら、ビーパス王を指さして言うのだな。『これより明朝、互いの名誉を賭けて正々堂々と一騎打ちをしろ』と」

 ……そこまでいくと自分のせいではなく、その少女の生来の性格ではないかと、流石のリィも思った。
 それでも、一応は尋ねた。

「……なんで?」
「自分の夫は、自分より強いものでなくてはならないから、だそうだ」
「……なぜに?」
「俺とお前がそうだったから……とはポーラの弁だな。どうやら、お前と俺とでした、あの大喧嘩が城中の語り草になっていたらしい」

 あのとき、バルロとブルクスは厳重な箝口令を敷いた。しかし、この手の話題は、どうやって取り繕うとしてもどこかから漏れ出てしまうものだ。特に男と女が絡んだ話になるともういけない。
 取り締まる方も、一体どこから漏れ出たのか分からないし、第一、どれほど高貴な身分の方々のお話とはいえ、所詮は夫婦喧嘩である。結局大事には至らなかったのだし、その程度のことで部下や同僚の首が飛ぶとあっては、血相を変えて取り締まるのも憚られる。
 故に、ウォルやリィは知らなかったが、結構早い段階であの『夫婦喧嘩』は、細かい事情を抜きにしたところで衆目の知るところとなっていたのだ。

 それも、ウォルの武勇伝として。

 これもまた、無理はない。
 これが仮に、花も摘んだことのないように細腕の王女を相手に暴力を振るったというのであれば、諸国に名高いデルフィニア国王の名にも傷が付こうというものだが、何せ相手が『あの』グリンダ王妃である。
 ロアの黒主を乗りこなし、美技を誇るラモナ騎士団長に剣技で勝り、剛力無双の副団長を力のみで正面から打ち破り、槍においてはヘンドリック侯爵をねじ伏せ、武勇豪傑で知られるティレドン騎士団長を寄せ付けもしない。
 これが本当に一人の人間の評判かと疑うような、いっそ妄想癖をもった気狂いが語る武勇伝としたほうがしっくりくるような恐るべき武勲であるが、事実これはただ一人の少女の武の誉れを謳ったものである。
 その少女こそ、デルフィニア国王妃、グリンディエタ=ラーデン。
 ならば、その王妃を、素手とはいえ正面から闘って叩き伏せたのだ。
 しかも、偉大なるデルフィニア国王、ウォル=グリーク=ロウ=デルフィンが。
 闘神の娘を調伏できるのは、どう考えても闘神のみである。
 ならば、この国の王様は、闘神の現し身ということになるではないか。
 国民は、この話を好んで語った。この国は、神々に愛されているのだと。
 
「……とにかく、何をどこでどう間違えたのかは知らんが、シャムスは、デルフィニア王女が嫁ぐのは、王女よりも強い男でなければならんと、そう思い込んでいたらしい」
「……酷い話だ」
「うむ。しばらくの間は悪夢で魘されたぞ。あの阿呆な事件が切欠で、再びタンガとの間に戦火が巻き起こる、最悪の悪夢だった」

 自分の娘の行いが原因で人死にが出れば、親としては首を括るしかない心境である。
 実際、ウォルはその時、生きた心地がしなかった。

「……で、ビーパスは、あのそばかす王子はどうしたんだ?」

 リィは、たった一度だけ顔を合わせた、幼さと聡明さを等分に含んだ灰色の瞳を思い出していた。
 あの気性のまま健やかに成長したのであれば、さぞ良い国王に、そしてウォルの友人になってくれただろう。
 
「真剣な面持ちで頷いた。その申し出、受けて立とう、と。そして言ったのだ。『私が負ければタンガはそなたのものだ。その代わりに、私が勝てばそなたは私の嫁となれ』とな。その時のシャムスの真っ赤に染まった顔、お前にも見せてやりたかったくらいだ」

 自分が負ければ、タンガの王妃に。
 そして勝ったならば、タンガの女王に。その場合、夫になるのは無論、目の前の国王だ。
 要するに、可憐な王女の一世一代の告白劇は、勝負の前に想いが成就していたのだ。
 騒ぎが収まった後、珍しく真剣な顔で叱責する父親の前に立っても、シャムスの表情が弛緩したままだったとして、仕方のないことだろう。
 
「で、結果は?」
「あれは、タンガに嫁に行ったのだ。決して婿を迎えに行ったのではない」

 要するに、ビーパスの勝ちだったらしい。それが、シャムスの手心(下心とも言う)によるものなのか、それとも真実ビーパスの武勇によるものだったのかは、闘った当人同士にしか分かるまい。
 ただ、タンガに嫁いだ後のシャムスは、それまでのおてんばを嘘のように潜めさせて、常に夫を前に立てるお手本のような王妃として振る舞い、タンガ国民に愛された。その変化が、特大の猫を被り続けたことによるものなのか、それとも愛する男の胸に抱かれたことによる心境の変化なのかは、それこそ当人にしかわからないことである。
 そして、一つだけ間違いないのないこと。
 それは、彼女は自分の見たこともない異国の地で、確かな幸福を勝ち得たということだけだ。

「……じゃあ、下の子も、シェラもそんな感じか?」
「そっちの名前で呼ばないで下さい……」

 シェラが、居心地悪そうに言った。

「カマルは……もっと酷い」

 ウォルが、体育座りをして顔を埋めてしまった。
 もう、これ以上のことを聞くのは躊躇われたが、ウォルは壊れたラジオみたいな調子でしゃべり続けるのだ。

「……一目惚れは構わん。一向に構わん。ならば、俺かポーラに言えばいいのだ。俺だってそれなりの地位にいるのだから、男女の仲を取りなすことくらいは出来る。なのに、なのにカマルは……」
「……一体どうしたんだ?」
「……夜這いをかけに行った」

 ……もはや、言葉も無いリィとシェラである。

「……隣の屋敷に忍び込むのならば、何とか我慢もしよう。だがな、デルフィニアの広大な大地を馬で一人駆けし、バラストの関所を突っ切り、サンセベリアに忍びこみ、あまつさえ城壁を乗り越えて王子の部屋に忍び込んだのだぞ!これが王女の所行か!?」

 王女の所行ではない。
 しかし、王妃の所行ではある。
 そして、当の王妃たる少年は、居心地悪そうに視線を泳がせた。

「あー、と、もしかしてそれも……?」
「……俺は知らなかったのだ。ただ、ポーラが……ポーラが……」

 デルフィニア王女たるもの、城壁如きに行く手を阻まれてはなりません。
 そんなことでは、愛する人が敵の手に落ちた時に救うことも出来ませんよ。
 
 ……知らぬは男ばかりなり、である。

「……で、どうしたんだ?」
「……後一歩というところで、ダルトン殿に取り押さえられたらしい。その時、サンセベリア王子は下着を剥がされ、真っ裸だったそうな」

 おそろしい話である。
 これも、一歩間違えば、いや、間違えなければ国際問題となっているはずだ。

「……そんな話、誰から聞いたんだよ」
「……当人が悔しそうに言っていた。あと一歩だった、とな」
「……で、どうしたんですか?」
「……内密に、そして丁重に送り返されてきた娘を北の塔にぶち込んだ国王は、後にも先にも俺だけだと思う」

 北の塔は、ウォルの治世になってからは決して呪わしい場所では無くなっているが、しかし住み心地快適な場所とはとても言い難い。
 何よりウォルにとっては、自らの父の命数を奪い取った、忌まわしい場所である。
 そこに娘を軟禁したのだから、その時のウォルの怒りがどれほどか、推して知るべしだろう。

「……でも、その子はサンセベリアに嫁いだんだろう?」
「……カマルを北の塔に叩き込んで三日後に、サンセベリアの使節団がやってきた。俺はてっきり、この不始末の責任を取らされるのだと、戦々恐々とした。あの老練なブルクスだって匙を投げたのだ。陛下、この際どのような無理難題を突き付けられようと、サンセベリアの言うとおりになさいませ、とな」

 リィがいた頃だって、すでに熟練と呼ぶに相応しい外交手腕を誇っていたブルクスである。その後、タンガやバラストとの戦後処理の折衝や、サンセベリアやキルタンサスとの友好関係の構築、スケニアに対する牽制など、ブルクスの腕前は神技と言って良いものだった。
 そのブルクスが、完全に匙を投げたのだ。この、どう考えても冗談ごとにしか思えない事態が、その実どれほど深刻なものであったか、その一事だけで窺い知れようというものだ。

「彼らは言うのだ。陛下は、かかるような事態を引き起こした責任を如何にしてとられるおつもりなのか、とな。もう、あのときの俺は生きた心地がしなかったよ。正直、五年は寿命が縮んだと思う」

 あちらの世界での天寿を全うしたウォルが言うと、どうにも冗談に聞こえない。
 
「彼らの先頭に立ったダルトン殿がな、如何にも意地の悪い顔で言うのだ。事ここに至れば、貴国の責任の取りようは一つしかないでしょう、とな」
「……なるほど。要するに……」
「我が国の宝であるテオドシウス殿下の貞操を汚した償いとして、貴国の王女を王妃に迎えたい。それがサンセベリアの要求だった。……全く、馬鹿らしい。最初からカマルの策略通りにことが運んでしまったのだ」

 つまり、こういうことだ。
 自分の容姿と才覚に自信のあったカマルは、一度先方に自分を印象づけることさえできるならば、相手の心を射止めることができると確信していた。
 そして、出会い方は強烈であればあるほどにいい。
 結果、彼女が選んだのは、数ある方法の中でも極めつけに強烈であり、そして不穏当なものだった。一体どこの誰が、他国の王妃が自分の居城へ、夜這いをかけに来ると思うだろう。
 もし思っている者がいるとすれば、歪んだ妄想癖を持つ危険人物である。即刻廃嫡した方がいい。
 サンセベリアのテオドシウス王子は、そのような危険人物ではなかったから、大いに驚いた。
 驚きすぎて声も出ないほどだった。
 もし不埒な侵入者が男であれば、例え敵わずとも王家の誇りを見せるため、一太刀は浴びせただろう。その前に、大声で増援を呼ぶことだってできたはずだ。
 しかし、名前の通りの月光に照らされたデルフィニア国第二王女は、そんな当たり前の対応を忘れさせるほどに美しく、ただ美しかったという。
 年頃の男と女が、一つの寝台の上で語らう。
 そこで、一体どのような会話が交わされ、そして王女が王子を押し倒したのか、それはわからない。
 ただ、それまで女っ気の無かったテオドシウス王子は、父と母に対して宣言したのだ。
 デルフィニア国第二王女、シェラ=カマル=ウル=デルフィンを妻に娶りたい、と。
 そして使わされた使節団である。その先頭に立っていたのが国王の腹心であるダルトンであったのだから、サンセベリアもこの機を逃すまいと必死だったのかも知れない。
 ここまで事態がお膳立てされては、もはやウォルに選択肢はない。言葉の通り、まな板の上の鯉である。それどころか、あのように過激な娘を大事にしてくれるのであれば、渡りに船というものだろう。
 ウォルは、ブルクスの勧め通り、一も二もなく頷いた。ウォルは結局最後まで知らなかったのだが、実はブルクスにも手回しが済んでいたりする。
 カマルからすれば、正しく『計画通り』である。

「……とても、お前とポーラの間に生まれた女の子とは思えない」
 
 リィは、驚きや呆れを通り越して、寧ろ感心したように言った。無謀や無思慮、無遠慮や無鉄砲もそこまでいけば立派である。

「陛下、ではその後、カマル様はサンセベリアに嫁がれたのですか?」
「その後ではない。正にその日だ」

 シェラもリィも、言葉を失った。
 無言で、どういうことかを尋ねた。

「……ポーラは、全てを知っていたらしい。知っていてカマルの夜這いを見送り、そして北の塔から会見の場にこっそりと連れ出したのだ」
「……おれはポーラのことを誤解していたんだろうか……?」
「しかも悪いことに、使節団の末席に座っていたのが今回の事件の被害者、サンセベリア第一王子、テオドシウス殿だったようでな……俺が二人の婚姻を認めた途端、飛び出してきたカマルと抱き合って、誓いの接吻を済ませてしまった。全く、抗議の声を入れる間もなかったよ」

 少女は、漂白された綿布のような顔色で、薄ら笑いを浮かべていた。
 この、太陽のように朗らかで明るい少女にはどうにも似つかわしくない微笑みだったので、リィとシェラも気圧されたように仰け反った。
 この人は、国王として、一体どのような気苦労を背負い込んできたのか、同じく苦労性のシェラなどは、同情の念が隠せない。
 慰めるような口調で言った。

「で、でも、お二人ともお幸せになれたんですよね」
「うむ!それがな、二人が産んだ孫も可愛いのだ!目に入れても痛くないとはこのことだな!子供は憎らしくても孫は可愛らしいというが、あれは本当だぞ!」

 ウォルは別人のように顔を輝かせた。
 ぱぁぁっと、雲間に光が差したような、いっそあっぱれな様子であった。
 リィは『子供は憎らしくても』の部分に突っ込むのは止めようと誓った。
 そして言った。

「そっか……。じゃあ、色々あったらしいけど、みんな幸せだったんだな」
「その通りだ。本当に、色々あった。神々の名を呪った時もある。それでも、みんな幸せだったと思う。これがお伽噺なら、きっとめでたしめでたしで締めくくられる物語だ」

 ウォルは、誇り高く言った。
 それは、無二の同盟者から世界を託され、守りきった英雄の、誇り高い言の葉だった。
 リィもしっかりと頷いた。自分の同盟者を誇るように、しっかりと。
 シェラも、嬉しそうに頷いた。自分を育んでくれたあちらの世界が幸福に満ちていた――少なくとも自分の知る人達は――ならば、それは祝福に値する出来事であるはずだった。
 その場にいた全員が、無言でグラスを手に取り、赤々と光るランプの上で鳴り合わせた。

 ……と思った。

 しかし、重なったのは三つのグラスだけで、その場の人数と比べると、どうやら一つ足りなかった。
 シェラは、気遣わしそうな表情で、もう一つのグラスの主に問いかけた。

「あの、どうしたのですか、ルウ」
「……僕の、僕の名前だけ、ない……」

 黒の天使は、その渾名に相応しい漆黒のオーラを身に纏い、盛大にいじけていた。
 どうやら、リィとシェラの名前が子供につけられたのに、自分の名前がつけられなかったことが悔しいらしい。
 漆黒の髪の毛がウネウネとうねり、辺りに不吉な気をまき散らす。
 これには、流石の三人も、ちょっとひいた。

「あ、あのだな、ラヴィー殿。確かに悪かったが、しかし貴殿の名を用意してはいたのだぞ?ルーファス=ステラ=ウル=デルフィン。いい名前だと思わんか?」
「あれ、ルーファの名前だけ、性質と違うんだな。おれは太陽でシェラは月なのに」
「うむ。これほど明るく、そして優しいかたの名を冠しておいて、次に続くのが『闇』ではどうにもしっくり来なくてな。二人と合わせるために、星と付ける事にしていたのだが……。何せ、二人の娘がとんでもないおてんばで、乳母泣かせで……。俺もポーラも、その世話にかかりきりになってしまい、とても次の子を設けている暇など無かったのだ。許してくれ、ラヴィー殿」
「……わかったよ、許して上げる、王様。だから、一つだけ、僕のお願いも聞いてくれるかな?」

 ウォルは小首を傾げた。
 しかし、不思議そうな顔をしたまま、頷いた。

「僕のこと、みんなみたいにルウって呼んで欲しいな。ラヴィー殿っていうのも王様らしくて好きなんだけど、ルウの方が可愛いから好きなんだ」
「なるほど、それは重大なお願いだな」

 名前には拘る二人である。
 決して『その程度のお願い』というわけにはいかない。
 だから、ウォルは真剣な面持ちで、言った。

「では、これより卿のことを、ルウと呼ぶことにする。それでいいか?」
「うん!やっぱり王様っていい男だね!」
「あ、こら、抱きつくな!俺は男に抱かれて喜ぶ趣味は……あ、そこは触るな!」
「うーん、王様の胸、ちょっと固いけどふかふかー!」

 とんだセクハラ青年であったが、しかし当人に疚しいところがないから、ウォルとしても怒るに怒れない。
 結局、ルウに為されるがままであった。
 そして、ころりと寝転がされ、ルウに膝枕してもらう格好になり、諦めたように呟いた。

「……本当、俺はルウのことがよくわからない」
「そんなの、僕だってそうだ。僕は、ラーデンガー=ルーファ=ルーファセルミィのことを、ちっとも理解できてないよ?本人だってそうなんだから、いくら王様にだってわかるはずがないでしょう?」
「それもそうだが……大切な友人のことだからな。少しでも多く知りたいと思うのは、いけないことか?」
「ううん、ちっとも」

 ルウは大きく首を振った。
 その度に艶やかな黒髪が流れるように宙を舞い、蝋燭の炎を反射してきらきらと輝く。
 ウォルは、星々の輝きが如きそれを、うっとりと見つめた。

「……卿の名に星を従わせようとしたのは、どうやら間違いではなかったらしい」
「うん?何か言った?」
「いいや、何も」

 ウォルは苦笑し、寝転がった体勢のまま行儀悪くグラスを傾けた。
 無理な体勢で口を開いたから、少しだけ酒が零れて、ルウの太腿を汚した。
 ルウはそのことに気がついたが、少しも怒らなかった。この夜に起きたことなら、きっとどんなことだって許してしまうのだろう。

「少し、話し疲れた。今度はお前達の話を聞きたいな。俺がいないこの世界で、一体どんなことがあったのだ?」

 自分以外の三人、金銀黒と三色揃った天使たちが、平穏無事な生活を送ってきたとはちっとも信じていないウォルである。
 リィは、自らの夫の言葉に一度頷き、楽しそうに口を開いた。

「驚くなよ、ウォル。実はな、こっちの世界でも友達が出来たんだ!」
「友達?狼か、それとも馬か?」
「違う。でも、極めつけにぶっそうだ。ケリーとジャスミンっていうんだけど……」

 少年と少女、そして青年の、楽しそうな声は途切れることはない。
 この静かな夜に、いつ終わるともなくこだまし続けた。
 それでも、物事には終わりがある。始まりがあれば、その終わりがあるのは必然である。
 やがて、夜に、静寂がおりた。
 遠くでフクロウが鳴き、どこかで狼が遠吠えを放つ、冷たい夜。
 そこに抜け出した、小さな影は少女のものだ。
 ウォルは、みんなが寝静まったのを確認してから、こっそりと部屋を抜け出した。
 今は、一面の草むらを寝台にして、満天の星空を見上げている。
 少女は、自分の見知った星座を探そうとして、諦めた。
 そこには、あちらの世界の四季で見られた、あらゆる星座がなかった。無論、こじつけて作ろうと思えば似たようなものはいくつも作ることができるが、しかし全く同じものは一つとしてない。
 当たり前だ。何故なら、この星は自分が住んだ、自分を育んでくれた星ではない。
 そして見上げる夜空だって、何一つ自分を覚えているものではないのだ。

 自分は、寄る辺を求めて彷徨う旅人である。

 何とも幼稚な感慨であったが、不思議と今のウォルの胸に染み入るものが在った。
 暖かいものが、頬を目尻を伝い、こめかみを流れ、湿った地面の上に流れていった。
 その感覚は、少女の知っている、懐かしい感覚だった。

「なんだ、泣いているのか、ウォル」

 少女は、顔を上げることすらなかった。
 ただ、目の前の夜空を見上げていた。
 それは、隣に誰かが寝そべっても、同じことだ。
 何故なら、其所にいるのが誰か、圧倒的なまでにわかりきっているのだから。

「そうだな、俺は泣いているのだ、リィ」
「まるで女の子みたいだ」
「まるでではなく、今の俺は女の子なんだぞ。知らなかったのか?」
「いや、知っていた。少し意地悪だったな。謝るよ」

 ウォルは笑った。
 リィも微笑った。
 彼らの回りの夜が、少しだけ騒がしくなった。
 もう少しだけ、夜の闇は続くようだった。



[6349] 第二十三話:帰宅
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/12 19:24
 月の下で、二人は語らった。
 緑の絨毯の上で、二人は語らった。
 しん、と静まりかえった、張り詰めたような夜だった。
 誰もいない。この世界には二人だけだ。
 それだけでいい。今は、他の何者であっても世界の邪魔者でしかない。
 ここには、二つの太陽だけでいい。

「聞いたよ。チェインに口説かれたんだって?」
「ああ。あれは中々に情熱的な少年だな。学校から帰ってくる度に俺の部屋に来て、今からどこどこへ遊びに行こう、ご飯を食べにいこう、友達を紹介してあげると、騒がしいことこの上なかった」
「で、お前、どうしたんだよ」
「丁重にお断りしたさ。今はこの家に来たばかりだから覚えないといけないことがたくさんある、非常に残念だが遊びに行ったり食事に行ったり新しい友達を作ったりしている暇は無い、とな」
「ま、そんなところだろうさ。一応、あいつの心に一生消えない傷をつけないでやってくれたことを感謝するよ」
「なんだ、人を稀代の悪女みたいに」

 少女は、如何にも不服そうに口を尖らせた。
 そんな幼い仕草が、今のウォルにはとても似合っている。彼女の中に含まれた、女性としての清冽さと少女としての愛らしさが、黄金律とも呼べる配分で交わっているからだ。
 同年代の少年であれば、一目で恋に落ちるだろう。もう一回り上の男性であればたまらない保護欲をかき立てられたに違いない。
 なのに、リィは微笑っただけだった。口の端を少しだけ持ち上げて、この少年のことを良く知る人間でなければ微笑んでいるとすらわからない程度に。
 ただ、より深くこの少年について交わったことのある一部の友人は、今のリィがどれほどに安らかで、そして満ち足りているかを知るだろう。
 この無垢な笑顔は、そういう笑顔だった。

「しかし、女の子を口説く男の子とはあのようなものなのだろうか。従弟殿などは、チェイニー君くらいの年の頃には、もう少し女の扱いに手慣れていたように思ったが」
「チェインはあれでも中々のプレイボーイで通ってるんだ。それでも団長と比べるのは可哀想ってもんだぞ」
「ふむ、それもそうか。だが、小手先の技術に頼り過ぎな感がある点は否めんな。折角意中の女性が同じ屋根の下で眠っているのだ。夜這いくらいかける度胸があってこそ男の甲斐性かと思っていたが」
「お前、それチェインには間違っても言ってやるなよ。下手したらあいつ、不能になるぞ。それに、あれだけ女に関して奥手だったお前が言っても、説得力の欠片も無い」
「俺は奥手だったのではない。ただ、想い人が同じ屋根の下に眠っていなかっただけだ。それが証拠に、同じ屋根の下にポーラが来てくれてからは、それなりに励んだつもりだ」

 このように明け透けな台詞がこの少女の口から飛び出たことを知れば、彼女に対して少なからぬ幻想を抱いているチェイニーはどう思うだろうか。
 リィは、この少女に恋をした弟を、本当に不憫に思った。

「それでも、そんな関係になるまでは時間がかかったじゃないか。違うとは言わせないぞ」
「あれは、ポーラがあまりに初々しくて、女性というよりは妹や娘のように思えたからだ。彼女の中に女性を感じてからは、俺は直ぐさま行動に移した」
「ふん、言葉ではなんとでも言える」

 ウォルとポーラが中々契らなかったのは、その実もっと深いところに事情が在る。
 無論、リィとてそのことは理解している。理解しているが、それ以上は追究しなかった。それは必要の無いことだった。少なくとも、こんなに暖かくて気持の良い夜には。
 ウォルは、勢いよく身体を起こした。
 無造作な皮の貫頭衣に付いた草の葉が、ひらひらと闇夜を舞った。
 青々としたそれを覆った水の一滴が、月の光を照らし返してきらきらと光る。
 寝転がったままのリィは、ぼんやりとその光を見つめた。
 ウォルは、それに気付かなかった。
 ただ無言で、目の前に広がる湖と、薄っぺらな月の影を見つめていた。
 そして、ぼそりと呟いた。

「お前は、ラヴィー殿のように怒らんのか」

 それが何の事を、そして誰のことを指しているのか。
 リィはいちいち聞かなかった。ルウがその穏やかな心を怒りに染めるのは、たった一人の例外を除けば、いつだって自分よりも弱い誰かのために決まっている。
 本当は黄金色の髪の毛をもち、輝くような緑の瞳をしていたはずの少女。風を知らず、陽光を知らず、仲間を知ることなく朽ちていった誇り高き獣。
 彼女の身体に宿った王の魂は、彼女のために心から怒ってくれる青年の存在に、どれほど心救われただろうか。
 しかし、その青年の相棒たる少年は、少なくとも外面だけは冷淡に答えた。

「たった一度も顔を合わせたことのない他人の事を、どうやって怒れっていうんだ。生憎、おれはルーファみたいに優しくないんだよ」
「それが、お前の妹のことだったとしてもか」
「さぁ?実感が涌かないっていうのが正直なところかな」

 少年は肩を竦めた、ようだった。
 少女は呆れたように微笑った。不器用なことだ、とでも思ったのかもしれない。

「正確には妹じゃないけど、もしもドミュやデイジーに似たようなことをする馬鹿がいれば、俺は心底許さない。絶対に、行為に相応しい報いをくれてやる」

 淡々とした口調であるが、それ故にリィは己の言葉に忠実たり得るだろう。
 この世界に数える程しかない彼の宝物。それに唾を吐きかける愚か者がいれば、彼は心底容赦しない。

「でもさ、ウォル。今、お前の魂がいるその子はさ、やっぱりおれの他人なんだよ。血の繋がりもない他人だし、群れの一員でもない他人だ。冷たく聞こえるかも知れないけどな」
「ああ、それはやはりお前らしいな」

 ウォルも頷いた。
 そして、少しだけ躊躇うように黙り込んで、言った。

「なぁ、リィよ。あくまで推測にすぎんのだがな…」
「何だよ?」
「俺にはな、ラヴィー殿の本当の怒りは少し違うところにあるのではないかと、そんな気がするのだ」

 少年は、のそりと身体を起こした。
 彼は、隣に座った少女をちらりと眺めた。
 淡い月の明かりに照らされた少女の横顔は、透けるように白く、その様子はまるで生きた人間では無いかのようだった。
 生気がない、というのではない。
 ただ、あまりに白くあまりに透き通っていて、魂が抜け落ちているように見えたのだ。
 リィは、思いっきりに息を吸い込んだ。
 一杯に膨らんだ肺腑の中に、少女の香りがあった。
 ようやくリィは、少しだけ安心した。

「…詳しく話せよ」
「あの御仁の心に、疚しいところがないのは俺とて重々承知している。しかしな、リィ。俺は自分を基準にして考えることしか出来ないつまらない人間だから、俺には彼の人が不思議に思えてならん」

 月光に照らされた、妖精のような少女は続ける。
 どこまでも澄んだ声が、湖の畔に響いた。

「俺の知る人間とは、極めて狭量なものだ。無論、俺自身も含めたところでな。例えば戦争だ。何故人は人を殺すことが出来るのか、それを真剣に悩んだことがある」
「そんなことを真剣に悩む王様は、お前くらいだろうさ。他の王様は、如何に効率よく殺すかを考えるもんだ」
「茶化すな。しかし、まぁそれも真理か」

 ぴしりと言ったウォルだが、その表情は和やかだ。
 ずっと、蜜を含んだように微笑んでいる。
 リィも、その表情を見て微笑んだ。
 微笑みながら、言った。

「で、結論は出たのか」
「うむ。俺なりの結論だ。正しいかどうかは知らんし、誰にも話したことはない」
「じゃあ、話してくれ」
「無知、ではないかと思うのだ」
「無知か」
「無論、教育を受けたことのない無学な者が人を好んで殺める、という意味ではないぞ。そういう意味では、逆に頭でっかちで妙な選民意識に凝り固まった連中の方が、より残酷に、そしてより巧妙に人を殺すものだ」
「ああ、それは俺もよく分かってる」

 人という種族の外側から人を観察し続けた少年は、深く同意した。
 彼の中の人間像というものは、彼に近しいごく少数の人達を除けば、未だ嫌悪と侮蔑の対象でしかない。
 逆にいえば、そんな彼の周囲に、どうしてこれほど美しい人間ばかりが集まっているのか。
 リィは、自分がどれほど幸運に恵まれているのかを理解していた。
 そしてその中でも一番深く、魂の深奥で誓いを交わした少女が、言った。

「人は人を殺す。それはもう、呆気ないほどに容易く。しかし、あらゆる人間に対してその牙を向けるかといえば、それはどうにも違うようなのだ」
「どういうことだ」
「例えば、俺はどうやったってお前を殺したくない。それこそ、俺自身を殺すことがあってもお前は絶対に殺さない。それは、シェラやラヴィー殿についても同じことだ。俺は彼らを、決して殺したくない。しかしな、リィ。先ほどお前が話してくれた、ケリーという御仁やジャスミンという御仁がいるな」
「ああ」
「俺は、その方々ならば、殺しても構わんと思うかも知れない。少なくとも、その方々の命を犠牲にすることで俺自身の命が救われるのならば、俺は躊躇しないだろう」

 ウォルの言葉に、リィは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「ジャスミンは女だぞ、それも女の中の女だ」
「……どういう意味だ?」
「とっても可愛らしくて、可憐で清楚で何より綺麗だ。ウォルも、きっと一目惚れするさ」

 ジャスミンと関わったことのある男ならば、リィとたった一人を除けば、首を傾げるか首を全力で横に振るに違いなかった。特に、彼女の『細腕』に叩き伏せられたことのある『少数』の男連中などはそうするに違いない。
 きっと当人だって、『そのジャスミンという女性は、果たして私のことか?』と訝しんだだろう。

「そうなのか?うーん、それは不味いなぁ」
「ほらな、それがお前だよ。この分じゃあ相手がケリーだったとしても怪しいもんだ」
「それは間違いなく俺の命を優先するぞ。…いや、すまん、少し話が逸れたな」

 少女は一つ咳払いをした。

「人は人を殺す。それは間違いない。しかし、余程に外れた一部の狂人を除けば、人は己の知る友人や家族を殺したいとは思わないものなのだ。換言すれば、それ以外の人間に関していえば、驚くほどあっさりとその命を奪う」
「ああ。それについては俺も不思議に思う。何故人間は、自分と同じ種族の個体をああもあっさりと殺せるんだろうって」
「だから、それが無知だと思う。それとも、未知と言い換えてもいいだろうか」

 ウォルは、少し寂しそうに言った。
 そして空を仰いだ。
 そこには、彼女の知らない星座ばかりが顔を並べていた。

「人は頭が良い。そして、きっと頭が良過ぎる。だから、自分と他者との境界線を、おそらくはほんの些細なことに引きたがる。それが、既知か無知か、そこではないかと思う」
「人は頭が良いってところ以外は同感だな」
「頭が悪いか」
「少なくとも、狼に比べれば断然悪い。彼らは本当に頭が良いぞ」
「そうか。生憎俺は狼の知り合いがおらんからなぁ」
「今度紹介するよ。とっても綺麗な、真っ白な狼なんだ。でも気を付けろ、その人は一度、俺の父親の妻だったんだからな。惚れちゃあ駄目だぞ」
「ああ、それは気を付けなければいけないな。……いや、すまん。また話が逸れた。…というかリィ、お前、わざとやっていないか?」
「悪かった、もうしないよ」
「まぁ、別に構わんのだが……。どこまで話したか……そう、既知と無知の線引きだ」

 落ちてきそうな夜空だ。
 これだけ見事な星空は、あちらの世界でだってそうそうお目にかかれるものではなかった。
 闇夜の薄い世界だからこそ、その奥にある闇がいっそう美しく感じられる。
 人もまた同じようなものだろうかと、彼女は思った。

「群れの規模が少ないうちは、それで問題なかった。例えば、お前のいう狼の群れであっても、匂いや声などで群れの一員か否かを判別するのだろう?」
「ああ。でも、彼らは群れの一員じゃない狼を、楽しみのために殺したりはしないぞ。ごく稀に、万に一つの可能性でそんな気狂いがいたとして、そんなのは即座に群れから放逐される」
「しかし、人に限ってみれば、群れが大きくなりすぎたのだ。そして、回りには知らない個体が溢れかえる。そうなってくると、自分が今どこにいるのか分からなくなって不安になる。果たして自分は自分の群れの中にいるのかどうか、疑うようになる。だから、そこにもう一つの群れの基準を作ることにした」
「それが、既知と無知、か」
「そうだ。群れの中でも自分が知っている個体だけが自分の群れの一員で、それ以外は自分とは関係のない個体、そういう線引きだな」
「なるほど、彼らは一つの群れの中にいるように見えて、実は全く違う群れなのか」
「というよりも、全く違う生き物だと認識しているという方が正確だと思う」

 その一言だけで、少女がどのような人生を、少年と別れた後で歩んできたのかが知れてしまう。
 どれほど、人というものに打ちのめされたのか。人というものに絶望したのか。
 リィという輝きを知るが故に、その醜さは耐え難いものだったのだろう。

「先ほども言ったがな、人は頭が良い。リィ、お前はそれを愚かしさだと笑うだろうが、しかし人は他者との違いを、それはもう明確に認識してしまうのだ。それ自体が自分にとって我慢のならないものであると思うまでにな。そうなると、もう駄目だ。『あれは、俺にとって我慢のできない人間だ』、『あれは本当に俺と同じ人間なのか?』、『いや、あれは人の皮を被った別の生き物に違いない』、『ならば、俺が殺したとしても問題無い。なにせ、あれは人ではないのだから』、このようになる。それが外面にでるかどうかを別にして、な」
「狂ってる」
「ああ、俺もそう思う。しかし悲しいかな、俺も人間だ。だから、こういった考えをする人間のことも、全く理解できないわけではない」
「お前は違う」
「果たしてそうだろうか。例えば、俺は自分の父たるフェルナン伯爵を殺されたとき、灼熱の鉄塊を飲み込んだほどに怒り狂った。お前も覚えているだろう」

 リィは静かに頷いた。
 考えてみれば、彼らが共に過ごした6年という長い歳月において、ウォルという人間が、本当に怒り狂ったのは後にも先にもあの時だけだ。
 リィはそんな彼に、父親を殺されたときの己を重ねた。かつて愛しい女性を殺され、そして今度は同じく父親を殺された自分。幼い弟を守るために、それを黙って見ていることしか出来なかった自分。
 殺意は、他の誰よりも自分に対して向けられた。
 この男だって、きっとそうだと思った。
 だからこそ、彼はウォルを、一言だって諫めなかった。慰めることすらしなかった。
 ただ、己を殺させないために、彼――彼女にとって正当な権利を行使するよう、促してやっただけ。
 ただ、もしも――もしも彼女の怒りが改革派全ての人間に向けられたとして――彼は、彼の相棒のように、それを制止し得たのだろうか。

「しかし、俺と父上が全くの他人だったとして、俺はあそこまで怒るだろうか。高名な貴族の一人が、卑劣にも改革派の手にかかり殺されたとして、だ。俺は、確かに怒る。その非道をおおいに非難するだろう。しかし、怒り狂うことは絶対になかった」
「おい、それは話が違う。肉親への愛情と群れへの親愛は分けて考えるべきものだ。それを一緒くたにすると、この世全ての人間が無限の博愛主義者でなければならないっていう気持ちの悪い結論しかでないぞ」
「ああ、分かっている。しかしな、リィよ。俺は国王として、40年王座に在り続けた。その間大きな戦争は無かったが、しかし国境近くで小競り合いは絶えなかったし、疫病や飢饉、そして自然災害で多くの命が失われ続けた」

 無感動な声であった。
 国があれば人がいる。人がいれば人が死ぬ。当たり前の理屈である。
 そんな当たり前の理屈に、ウォルは抗い続けた。それが神の定めた理であるならば、その神をさえ押し退けるように。
 しかし、現実はそんな彼女を嘲笑い、押し潰し続けたのだ。

「その度にな、注進が俺に届く。当然、その中には死者の数も含まれている。それを聞く俺は、都度々々思うのだ。『今回はたった百人しか死ななかったか。ならば大きな問題にはならないな』『千人も死んだのか、兵員の補充が大変だな』『一万人も死んだのか、来期の麦の収穫はどうなるんだ』とな」
「国王として当然だ」
「しかし、俺の知る人が死ねばそうはいかない。ドラ将軍が亡くなられたときなど、俺は自分の立っている地面が無くなったのではないかと勘違いしたほどだ」

 その名は、リィにとっても懐かしい、懐かしい以上の感情をかき立てる名前であった。
 考えてみれば当然である。新しい命が誕生する以上、古い命は退場していく。
 彼の知る何人かは、あの世界に再び赴くことがあったとして、二度と会えないのだ。
 リィが、ほんの少しだけウォルのことをねたましく思ったとして、何人も彼を非難しえまい。

「無論、あの方は国の重鎮だった。それ故の影響の大きさを考えなかったわけではない。しかしあの感情は、もっと別の、もっと深いところから生じるものだ。この感情の違いはどこから来るのか。結局、それは既知と無知の差だ。突き詰めて考えるなら、俺も先ほど俺が言った、群れの中に異生物を見いだす類の人間と変わらんことになる。違うか?」

 リィは即答した。

「違うね。今お前は『突き詰めれば』って言ったけど、一番大事なのはそこなんだ。程度の差では本質に影響を与えない?ふんっ、馬鹿なことを言うな。そんなことを言ったら、ビールもワインもウイスキーもブランデーもみんな同じ飲み物だってことになっちまうじゃないか。そんなのちっとも面白くない」

 酒好きのリィには相応しい答えだった。
 ウォルは悪戯げに微笑んだ。

「ではリィ。お前は、この二つの死の差違をどこに求める?」
「それはお前の言うとおり、既知と無知なんだろうさ。しかし、それとこれとは話が別だ。お前が、全くの他人を自分とは違う生き物だと認識して無慈悲に殺せる人間かどうか、その膨らんだ胸に聞いてみろ。もしお前がそんなに徹底できる人間なら、おれがお前を助ける必要だってなかったんだ」
「ああ、そう言われるとその通りかもしれんなぁ」

 どこまでものんびりとした調子のウォルの声である。

「しかしな、リィよ。俺が言いたいのは、人とは多かれ少なかれ、そういう生き物だということだ。『他者の不幸は蜜の味』などというふざけた格言もあるが、それは一面では人の本質を端的に表しているのではないかと、俺は思う。だからこそ、俺は他国との交流を密に取ることに心を砕いたつもりだ。無知こそが容易い殺戮を、ひいては戦争を引き起こすならば、無知を取り払うことが出来れば相当の数の戦乱を防ぐことが出来る。俺は俺が死んだ後の世界に何をしてやることも出来ないが、しかし彼らに何かを残してやることが出来るならば、それは恒久なものではなくとも、いや、たとい一時的なものであったとしても、戦いの少ない平和な世に勝るものはないと思う。だから、せめてその『種』に過ぎないものであったとして、俺は必死にそれを撒いたつもりだ」
「ああ、ウォル。お前はさ、常勝の覇王であったことよりも、その一事をもってして歴史に名を残す資格があると思うぞ」

 予想だにしなかったあまりに率直な賛辞に、少女は居心地が悪そうに身動ぎをした。
 しかし、真剣な表情のまま続ける。

「で、だ。少し遠回りをしすぎた感があるが、俺の考える人間というものはそういうものなのだ。少なくとも、己の知る人間以外のことについて、真に心を痛めることが出来る生き物ではない」
「だからこそ、ルーファがウォルフィーナにあそこまで執着する理由が分からない、と」
「その通りだ。無論、あの御仁の心の優しきことを疑うわけではない。まして、あの方を偽善者だと非難する気など毛頭ない」
「もし口が裂けてもそんなこと言ったら、ウォル、俺はお前と絶交しなけりゃならないところだ」
 
 リィは笑いながら言ったが、ウォルはその言葉が完全に本気のものであることを知っていた。
 この少年は、己の相棒の名誉を穢されることを、何よりも嫌う。
 その禁を犯せば、きっと、戦士の魂の誓いを交わした同盟者であっても、許しはしないだろう。
 相棒を、不当な暴力や侮辱から守ること。それは、リィという生き物の生態と言っていいものだったからだ。
 ウォルはそのことを理解している。そして、彼女はリィもルウも大好きだったから何の問題も無い――はずだ。
 ただ……一握り、ほんの少しだけ。
 妬いていた、のかもしれない。

「では、何故ラヴィー殿はウォルフィーナにあそこまで執着するのだろうか」
「俺の妹だから、じゃあ足りないんだな」
「その通りだ。それでは足りない。何故なら、あの方はウォルフィーナのことを直接知らなかったからだ。それでは、ああまで怒る理由が無い。少なくとも、俺に基準を置くならば、だ」

 リィは少しだけ考え込んで、言った。

「彼女を救うことが出来たのが自分だけだった、とあいつが思い込んでいるとかは?」
「まだ弱いと思う。あの方は確かに長い手をお持ちだが、しかしそれが宇宙の隅々にまで及ぶと自惚れる御仁でもあるまい。ならば、どこかで線引きが必要だ。俺は、そこらへんについて、あの人は相当に割り切りをしていると思う。そうでなくば、溜まり溜まった自責の念がいずれはかの人を押し潰すことになる」
「じゃあ、なんでルーファはウォルフィーナのことを、あそこまで気にしている?」

 ウォルは、初めてリィを正面から見つめた。
 そして言った。

「お前だ、リィ」
「どういうことだ」
「彼女の人生を追体験した俺だから分かる。リィよ。ウォルフィーナはな、この世界でただ一人、お前と同じ生き物だったのだ」

 それは、ルウも言っていたことである。
 彼女は、リィの妹であると。そして、もう一人のリィであると。彼自身は否定したが、彼女は事実、そういう存在であったのだ。

「だからこそ、あそこまで悔いておられる。きっと、自分が彼女の存在を見逃したせいで、お前をこの宇宙でただ一匹の生き物にしてしまったと、そう考えておられるのではないだろうか」

 リィは唖然とした顔でウォルの横顔を眺め、その後で短く舌打ちをした。
 手で弄んでいた小石を、湖面に投げ込む。重たい水音の後で、水面はまるで彼の内心を表すように激しく揺らいだ。

「あの馬鹿…おれがいつ、そんなことを考えたんだ。おれは、あいつさえいれば他に何もいらない、そう思ってるのに…」
「俺には、詳しいことは分からん。しかしあの方には自分と同じ種族の友はいるのだろう?」
「控えめに見ても特大の腫れ物扱いだけどな」
「それでも、同じ生き物だ。自分と同じ存在が隣にいるのは、それだけで驚くほどに心強いものだ。それがお前には一人もいない」

 無慈悲とも言える台詞だ。
 しかし、この世にただ一人と言われた少年は、むしろ誇らしげに笑ったのだ。
 少し寂しげに、それ以上に満足げに。

「それがひょっとしたら自分のせいかもしれない。もう少し自分が目を凝らしていれば、お前は一人にならなかったかもしれない。これは理屈ではなくただの勘だが、あの方はそう考えている。その失われた可能性が彼の人を苦しめているのではないかと、俺は思うのだ」
「明日の朝、聞いてみるよ。そして教えてやるんだ。そんな心配が、どれだけ余計なお世話なのかをな」
「そうか、お前達はそれが許される関係なのだな」
「羨ましいか?」

 ウォルは頷いた。

「ああ、心の底から羨ましい。人は、そこまで容易く己と他者との壁を崩せる生き物ではないからな」
「ありがとう、感謝するよウォル。よく教えてくれた」
「どういたしまして、だな。このように美しい光景を見せてもらった、そのささやかなお礼ということにしておこう」
「そりゃあ、おれの方が勝ちすぎだな。なら、少しだけ恩を買い戻すことが出来たかな?」
「ほんのちょっぴりだけな。まだまだ恩は残っているぞ。これからもどんどん買っていってもらうつもりだから覚悟しておけ」
「ああ、そりゃあぞっとしない」

 二人は声をあげて笑った。
 そして息が落ち着いた頃合、少女が再び口を開いた。

「もう一つ、話がある」
「まだあるのか」
「まぁ聞け。これは、酒に酔った勢いの話だと思って聞き流して貰えると有難いのだがな……」
「なんだよ、えらく勿体つけるな」

 笑いを含んだ少年の声に、少女は生真面目な表情で問うた。

「リィよ、お前はこれからどうするのだ?」

 リィも、流石に笑みを消した。
 これが、そういう表情で答えていい質問では無いと理解したからだ。

「それはどちらかというとおれの質問のような気がするんだが……。とにかく、趣旨が曖昧すぎるな。まぁ解答をごく短期間のことに絞って答えるなら、今からコップ一杯の水を飲んで、それから寝ようと思う。でも、そういうことじゃあないんだろう?」
「そうだな、質問を変えよう。リィ、お前はこれからもたった一人で生きていくのか?」
「おれは一人だったことなんて今まで一度もない。ルーファが、アマロックが、そしてシェラやケリー、ジャスミンがいる。向こうの世界ではお前やイヴン達がいた。みんな、おれの大切な人達だ」
「そうだ、彼らはお前の相棒であり、そして友人だ。しかし、それ以上ではないな」
「どういうことだ。あまり出過ぎたことを言うと、お前でも許さないぞウォル」
「だからこそ酒に酔った振りをしている。ここは誤魔化されろ」
「……酔った振りって、お前なぁ」
「まぁ聞け。確かにお前の回りには、得難い人達ばかりが集まっている。そう、まるであちらでの世界の俺のようにな」

 そう言ったウォルの脳裏に浮かんだ名前。
 ポーラ、バルロ、イヴン、ナシアス、シャーミアン、ロザモンド、ジル……。
 全て大切な人達だ。
 しかし、もう二度と会えない。もしあちらの世界に帰ることが出来るとしても、彼女は二度と彼らと会うつもりはなかった。
 何故なら、ウォル=グリーク=ロウ=デルフィンは、デルフィニアの太陽と呼ばれた英雄王は、あのとき確かに息絶えたのだ。
 今の自分は、掛け値無しに只のウォルである。フェルナン伯爵の一粒種であった山猿ウォリーですらない、只のウォルである。
 理屈ではなく感情によって、あちらの世界に自分の居場所がないことを、彼女は理解している。
 だからこそ、こちらの世界でようやく再会することの叶った、灼熱色の思い出を共有する友を、どれほど貴重なものに思っただろう。
 万感の想いを込めて、ウォルは口を開いた。

「俺が結婚を申し込んだとき、お前は言ったな。『お前にはお前だけを愛してくれる人間の奥さんが必要だ』と。だからこそ、俺も問おう。お前にこそそれは必要ではないのか。お前には、お前だけを愛してくれる、お前と同じ種族の妻が必要なのではないか?」
「その問題については論ずる余地がない。必要のあるなしじゃあないんだ。おれにはそんなもの、存在しないんだよ」
「何故だ」
「決まっている。おれは、この世でただ一人の生き物だからだ」

 ウォルは、静かに首を振った。

「それは違う」
「どこが」
「ここにいる」
「ここ?」
「今は俺が、お前と同じ種族だ」

 その言葉を聞いても、リィの顔にはどんな感情も浮かばなかった。
 ただ、無言で話の続きを促した。

「確かに、俺の魂は人の魂だ。しかし、それ以上に俺の魂は戦士の魂だ。自惚れが許されるなら、リィ、お前と同じな。そして、この体はお前と同じ生き物の体だ。どうだ、リィ。これではお前の同族として、そしてお前の配偶者として不満か」

 リィは呆れたように答えた。

「お前は元からおれの夫だ」
「その通りだ。しかし、それは同盟者としての方便だった。違うとは言わさんぞ」
「今度のは違うのか」
「そうだ。俺は今度こそ、本当の意味でお前と夫婦になりたい」
「…同情か」
「同情などでこんな恥ずかしいことが言えるものか」
「なら、まさか本当に愛の告白か」

 リィは、この上なく疑わしげな視線で己の夫を睨んだ。
 しかし、彼の夫が着込んだ面の皮の厚さは、さしものリィの鋭い視線をもってしても貫き通せるものではなかったらしい。悠然と湖の方を見つめる少女の視線には、如何なる感情も浮かんでいない、ようにリィは思った。
 しばらく、思い悩むような時間があって、少女は、さっきリィがしたのと同じように、小さな手に掴んだ小石を水面に投げ込んだ。
 軽い水音が辺りに響き、ゆらゆらと揺らめく水面が、そこに映り込んだ月を歪に歪める。
 どこか、当たり前で、それ以上に幻想的な光景だった。
 それを見つめる二人は無言である。

「いや、それも少し違う。なぁ、リィ。頼むから怒らずに聞いて欲しい」

 ウォルがリィに対してこのようなことを断るのは、異例といっていい。それも、リィと視線を合わることもせず、まるで怯えるように前を見つめながら、である。
 リィは、僅かに居住まいを正した。
 隣に座った少女が何を言っても、たった一度は許そうと思った。
 やがて水面の揺らめきが収まった頃、ウォルは恐る恐ると口を開き、そして言った。

「俺は、おそらく男女の情愛という意味においてお前を愛していない。それは、この体がお前と同じ種族の、そして女になった今も変わらん。そして、これから先に変わると断言もできん。その上で、俺には俺の考えがあるのだ。つまり、ある意味ではお前を俺の目的のために利用したいがために、こんなことを言っている。純粋にお前を求めているかと問われれば、首を横に振らざるを得ん」

 とても今し方に、『愛の告白らしきもの』を口にした少女の台詞ではない。
 しかしその堅苦しさを、リィは懐かしいものに感じた。
 全く、彼の知るウォルという生き物は、どうでもいいようなことほど、不器用なまでに頑固な男だったのだから。
 色々と考えて、結局リィは溜息を吐いた。

「…要するに、また同じということか」
「そういうことだ。以前は方便として、俺達は仮初めの夫婦となった。今度は、真の夫婦となったほうがお互いに…いや取り繕うのは止めよう、ただ俺のために都合がいいから、俺と番わないかと誘っているのだ」
「はっ、それはなんともお前らしいよ」
「軽蔑するか」
「いや、ちっとも。これが色仕掛けの結果とかならそうかも知れないけど、ここまであけすけにされてどうして軽蔑が出来る。余りに清々しくて気持ちいいくらいだ。しかし、そこには重大な問題があるぞ」
「なんだ」
「今度は、お前がおれに抱かれなくちゃいけないということだ。お前、それが我慢できるのか?」

 それは、想像以上に重要で難解な問題であるようにリィには思えた。何せ、彼自身、一度は女の体になった経験があるのだ。
 事情を知らない訳知り顔の人間は、魂と精神は肉体に依存するとでもいうかも知れない。しかし、王女として三年、王妃として三年を生きたリィは、その間一回だって男に抱かれたいと思ったことはない。抱かれてやってもいいと思ったのだって、夫との別れの間際の一回だけである。隣にいたのがウォルという、人間の中では間違いなく最高の雄だったにも関わらず、だ。
 であれば、今度は女になったウォルが、リィに体を許していいと容易く考えるだろうか。あちらの世界では男として70歳まで生き、剰えポーラとの間に子を成し育てたウォルが。
 然り、今はどこからどう見ても女の子、それも極上に美少女にしか見えないウォルは、思いっきりしかめっ面をしながら言った。

「ああ、俺も問題はそこだと思っている。そこさえ何とかなれば万事解決なのだがなぁ」
「…なんだ、お前、そんなところの覚悟もなくおれにプロポーズをしたのか?」

 ウォルは、その言葉を初めて聞いたように唖然とした顔をして、小首を傾げながら問うた。

「…これはプロポーズになるのか?」
「どこからどう聞いてもそうだろうが。お前はおれの妻になりたいって言ってるんだろ?これは誰が聞いてもプロポーズの一種だぞ」
「ふむ。言われてみればその通りだな」
「試してみるか、今から?」

 リィは真剣な面持ちで言った。
 ずいっとウォルの方の身体を寄せた。
 ウォルは、すすっと逃げた。
 そして、心底嫌そうな顔をして答えた。

「ふざけるな。俺には男に体を許す趣味はないぞ、少なくとも今はな」
「なら、本末転倒もいいところだ。いいか、ウォル。お前がおれに抱かれてくれなくちゃ、おれとお前は本当の意味での夫婦になれないぞ。おれには、嫌がる女を鼻息荒く押し倒す趣味はないんだからな」
「そうか、残念だ。お前が俺を押し倒してくれれば、それはそれで踏ん切りがつくと思うのだがなぁ」
「踏ん切りって、お前なぁ…」

 ウォルの残念そうな声に、呆れきったような声でリィが応える。
 それにしても、これほどの美少女からこのような台詞を言われてなお自制心を働かせることの出来る男が、リィを除いて、この広い宇宙にどれだけ存在しているのだろう。もし仮に彼以外にも存在したとしても、その男の友人連中がそのことを知れば『据え膳喰わぬは男の恥』というお決まりの文句でその男を非難するに違いなかった。
 もっともリィに限って話をすれば、彼は己の中の獣心を押さえ込んだのではなく、隣に座る少女の瑞々しい肢体に、本当に興味がなかっただけなのだが。

「ともかく、今の俺にはお前の下に組み敷かれる覚悟は無い。しかし、いずれはそうなるべきだと思っている。俺にとっても、そしてお前にとっても」
「なんでだ」

 ウォルは、その黒い瞳でリィの視線をしっかりと受け止めて、そして言った。

「子供だ」

 リィは少しだけ驚いた顔をした後で、真剣な顔をしながら呟いた。

「お前、まさか子供が欲しいのか」
「ああ、子供が欲しいのだ。俺の血を受け継いでくれる子供がな。幸い、この体はそれが可能らしい。以前のお前と違ってな」
「生理が来たのか?」

 リィは何の照れもなく言った。

「……お前、そういうことをはっきりとだな……」
「駄目なのか?」
「駄目というか、なんというか……」

 リィは不思議そうに首を傾げながら、目の前で頬を淡く染めた少女を見つめていた。
 今は男の姿のリィであるが、ウォルの中のリィはやはりまだ女性の印象が強い。性別が変わった今も、その容姿にほとんど変わっている点が無いこともそれに拍車を掛けている。
 だから、リィが明け透けにその単語を口にしたことで、今は女性であるはずのウォルのほうが酷く慌ててしまった。男だったときの彼が、そういった手の話題には滅法及び腰だったというのもある。

「今はだな、その、月のものは来ていない」
「じゃあ、何で分かるんだ?」
「入院中に、まぁその、なんだ、この体にそういう兆候があるのかと問われたのだが、俺には全くその覚えもない。そして、あちらの世界のお前にも、確かそのようなことは全く無かったのを思いだして、きちんと調べてもらったのだ」
「で、子供が産める体だと分かった、と。なるほど、考えてみれば当たり前だ。あのときのおれは、あくまで一時的に体調がおかしかっただけなんだ。それに比べて、お前の体はちゃんとした女の子の体なんだもんな」
「性別が変わるのを風邪と一緒のように言うな。それに、当たり前のように言うがなリィ、自分の体が完全な女性に変わったと聞いたときは、さすがの俺も目の前に黒いカーテンが降りたかと思ったぞ」
「それでお前、どうしたんだ?」
「まぁ、嘆いていても始まらんからな、物事は出来るだけ前向きに考えるのが俺の長所だ。だから、この体が子を成せるというなら、精々利用させてもらうつもりだ」
「…ウォル、おれはお前を心の底から尊敬する」
「褒めるな、照れるだろうが」

 リィは、目の前の不思議な生き物をまじまじと見つめた。
 彼の見間違いでなければ、その生き物は本気で照れているように見えた。
 今だって、自分と同じ生き物だとは信じられない。でも、どう考えても普通の人間には見えない。
 これはどうやら、自分はこの宇宙でただ一匹の生き物だという身の上話は、これからは使えなくなったらしいと悟った。

「まぁ、お前の言いたいことはわかったよ。でも、結論がイマイチ分からない。結局お前は何が言いたいんだ?」
「うむ。俺はお前と夫婦になりたい、いや、なるべきだと思っている。しかし、残念ながら今の俺にはそれだけの覚悟がない」

 ウォルは、一つ息を吐き出して、真剣な調子で言った。

「だからな、リィ。俺の覚悟が出来るまで、他の誰とも結婚しないで欲しいのだ。もしどうしても結婚したいということになれば、その時は俺に相談してから決めて欲しい。駄目か?」
「駄目かも何も…。なぁ、ウォル。おれはさ、お前と別れるときに言ったよな。もしもおれに愛する人が出来たとして、その人には『おれには夫がいる』とはっきり言うって」
「それはそうだ。しかしそれは、あくまでお前の相手方にだろう?これからは、俺の方にもきちんと話を通して欲しいのだ」

 リィは腹の底から胡散臭そうに眉を顰め、そして問うた。

「…要するに、おれと婚約したいと、そういうことか?」
「おお、それそれ、正しくそういうことだ!」

 ウォルはしたりと膝を打ち、喉に刺さった魚の骨が取れたように晴れ晴れしい顔で、大きな声を上げた。
 リィは、特大の溜息を吐いた。言葉にはしなかったが、どうやらおれは夫選びを間違えたらしいと、ほんの少しだけ思った。

「……今でも一応、おれとお前は夫婦のはずなんだけどなぁ……」
「しかし、今の俺はお前の夫だ。そして俺は、今度はお前の妻となるべく婚約を申し込みたい。いけないか?」
「……そんなことを申し込まれた妻は、この宇宙が始まって以来、おれが最初だろうさ。いや、こんな馬鹿げたこと、これから先だってあってたまるもんか」
「ああ、俺もそう思う。そうでないと、法律の整備が煩雑で仕方ない。これはたった一度だけの特例であるべきだ」
「そういう問題か……?」
「迷惑か?」
「いや、お前らしいなと感心していたんだ」

 ウォルは、噛み付くような笑みを浮かべた。

「馬鹿にしているか?」

 それに答えるリィの顔だって、今にも噛み付きそうなくらいに微笑っていた。
 本当に、嬉しそうだった。

「半分は。いや、三分の二、それとも四分の三くらいかな?」
「それはずいぶんな話だ」
「自業自得だ」

 必死のにらめっこが続いたのは、ほんの一瞬の話。
 すぐに二人してお腹を抱えながら笑い転げた。
 一面の草原を転げ回ると、青々とした若草を濡らす夜露が二人の身体をひんやりと静めていく。
 二人は同時に身体を起こして、荒く乱れた息を整えた。
 そして、少女は問うた。

「ところで、色よい返事は頂けるのかな、我が妻よ」
「でもなぁ…」
「まさかリィよ、世界を越えてまでお前に会いに来たこの俺のささやかな願いを無碍にするとか、そういうことは言わんよな?」
「お前さ、やっぱりおれと別れた時と比べると、少し性格が悪くなったと思うぞ」
「まぁ、否定はせん。人間40年生きていれば色々ある」

 今は少女の身体に宿る戦士の魂は、憮然と肩を竦めた。
 確かに色々とあったようだった。リィはそのことを敢えて聞こうとは思わなかった。それは彼が聞くべき事ではなく、ウォルが必要だと判断すれば必ず話してくれる、そういう類のものだったからだ。

「で、返事の方がまだだったと思うが?」

 これで三度目の問いだ。
 隣で腰掛ける少女の声に、少年は苦笑を浮かべた。
 まるで、下手な恋愛小説だ。女が積極的に男に迫り、情け無い男がようやく重たい腰を上げる。
 まったく、いつのまに自分達は、例え外面だけでもそんな砂糖菓子のような関係になったのかと、リィは、この世界かそれともあちらの世界かの神様にほんのちょっぴりの恨み言を呟いた。

「ん?何と言ったのだ?」
「いや、こっちの話だ」

 リィは、肩だけではなく全身を竦めるようにして、言った。
 もう、何もかも諦めたような、そんな表情で。それでもどこか、この奇想天外な事態を楽しむように晴れ晴れとした表情で。

「わかったよ我が夫。毒を食らわば皿までだ。おれはお前を妻に娶るべく、この操を捧げることをここに誓おう」

 その言葉に、少女は今までで一番に真剣な表情を浮かべた。
 剣呑と、そう呼ぶ一歩手前の表情だったが、口元が微妙にひくついている。
 少女は、笑いを堪えていた。
 そして、最後の問いかけをした。

「剣と、戦士としての魂にかけて?」

 リィは呆れたように叫んだ。

「酔った勢いの話なんかにそんな大切なものをかけられるか!」
「違いない!」

 それが限界だった。
 二人の戦士は、満天の星空のもとで、再び笑い転げた。
 彼らの笑い声は、無限の夜空に吸い込まれて、二人以外の何者の耳にも届かなかった。

 ひとしきり笑い転げ、荒々しく乱れた息を整えつつ、二人は並んで寝転びながら、星空を見上げていた。
 背中で潰れた青草の、なんとも懐かしい香りが二人の鼻を擽る。初夏の空気は夜露に濡れ、少し冷たい程であったが、しかしちっとも寒さを感じない。体以外のものが、圧倒的なまでの暖かさに満たされているからだ。

「遠いな」

 呟いたのはどちらだったか。
 呟いた方も、聞いた方も、よく分からなかった。
 それは、どちらもが同じことを考えていたからだ。

「これほどに遠いとは、思わなかった」
「ごめんな。忘れていたわけじゃあないんだ」
「ああ。俺も、すまなかった。何度か、お前の心根を疑った。もう俺達の、いや、俺の事など忘れてしまったのではないかと、疑った」
「おれがこっちに帰ってきてからまだ一年もたっちゃあいないんだ。どんな薄情者だって忘れるもんか」
「俺は、40年待ったよ」

 しみじみとしたその声に、リィは、喉の奥の言葉を飲み込んだ。
 ウォルが何気なく呟いたその言葉には、二人の間に横たわっていた時間の濁流に相応しいだけの、無限に近い重みがあった。
 真実はどうあれ、かたちとしてはウォル以外の何かを選んでこの世界に戻ってきたリィには、何も言えなかった。その思いは、リィ以外の何かを選んで自分の世界に残ることを選んだウォルにしても同じものだったのだろう。
 無論、ウォルはリィのことを非難していない。そんなこと、考えたことすらない。それが分かるからこそ、リィは何も言うことができなかった。
 
「でも、こんなに遠いんじゃあ仕方ない。だからリィ、お前を許そう」
「ああ、ありがとう、ウォル」

 ウォルは、リィの声のする方に体を向けた。
 リィは、ウォルの声のする方に体を向けた。
 すると、二人は向かい合って、自分の腕を枕にしながら寝転んでいた。
 鼻先が触れ合うような距離に、お互いの顔がある。
 どちらも、あの世界で背中を守りあった、お互いの顔ではない。
 しかし、それはどうしようもないほどに、二人が夢見た顔であった。もう一度会いたいと、せめて夢の中で会わせて欲しいと、何度も祈り、その度に新たな失望と寂寥を味わい、それでも求めた、友の顔だった。

「可愛らしくなっちまってまぁ。イヴンやバルロが見たら腰を抜かすぞ、きっと」

 リィの小さな手が、ウォルの滑らかな頬を撫でた。国王であった男の頬の感触は、滑らかであったが固く、青銅の彫像めいた印象があったものだ。それが今は、しっとりと肌に吸い付く柔らかな少女の頬になっている。
 その少女は、くすぐったそうに身を捩った。

「馬鹿を言うな。イヴンや従弟殿なら、今の俺を見れば一目で口説き落としにかかるに違いない。腰を抜かしている暇などあるものか」
「ああ、それは同感」

 今度は、ウォルの手がリィの髪を撫でた。リィの髪は、彼が王妃であったと時に比べれば、幾分癖の弱い巻き毛になっているが、夜空のもとでもきらきらと輝くその黄金色だけは見間違いようもない。そして、そのなめらかな触り心地もだ。
 少年は、少女の掌の暖かな感触を愛でるように、うっとりと目を閉じた。
 しばらくそのまま、お互いの小さくなってしまった体を、小さくなってしまった己の掌で愛撫し続けた。
 誰かが今の二人を見たならば、極上の毛並みを持つ生まれたての子猫が、じゃれ合いつつも互いを毛繕いしている、そんな様を思い起こしたかも知れない。
 やがて、リィは目を開けた。その緑柱石色の瞳に、己の漆黒の瞳が映り込んだのを、ウォルはきちんと確かめた。

「なぁ、リィ。俺はまだ聞いていないぞ」
「うん?」

 一瞬不思議な顔をしたリィだったが、目の前の少女が何を言いたいのか、何を言って欲しいのかを察したのだろう、すぐに穏やかな微笑を口元に浮かべた。
 そして、万感の思いを込めて言った。

「おかえり、ウォル」
 
 おかえり、と。
 無論、ウォルにとってのこの土地は、全くの異郷の地である。それどころか、世界そのものが違うのだ。
 しかし、リィは言った。おかえり、と。
 その言葉の意味を、ウォルは理解していた。
 それは、住み家のことでもなければ、故郷のことでもない。
 それは、魂の在処の問題だ。
 だから、おかえり、なのだ。
 お前の魂は、おれの隣こそが一番相応しいと、そういう言葉なのだ。
 それを理解してたから、ウォルもまた、万感の思いを込めて言った。

「ああ、ただいま、リィ」

 二人はそれからしばらく無言で見つめあい、どちらからか目を閉じた。
 顔を寄せていったのは、今の性別の役割として、リィからだった。
 唇と唇が触れ合う。愛情ではなく、友情と、それ以上の絆を確かめ合うための、浅くて優しい口づけだった。しかし、二人の間に横たわった時の空白を埋めるような、長くて長い口づけだった。
 かつて二人の間には、星々ですら丸ごと飲み込むような時の濁流が横たわっていた。
 今、彼らは同じ時間の中を息づいている。
 そして彼らは、温もりを求めるように、あるいは決して離さないように互いの体を抱き締めて、同時に眠りに落ちた。自分の腕の中で自分の背中を預けることの出来る戦友が眠っているという、何物にも代え難い充足感を供にして。



[6349] 転章
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/05/03 23:16
 少女は、空を見上げた。
 自分の真上、ちょうど天頂の位置に、白く光る太陽が鎮座坐している。
 あとは、抜けるような青空だけだ。薄雲一つだってありはしない。
 朝の、肌を刺すような寒気は消え失せて、いつの間にか汗ばむような陽気になっている。事実、もう何時間も野山を駆け巡った少女の額には、珠のような汗が浮かんでいるのだ。
 少女は、それをぐいと拭った。泥だらけの手で拭ったから、額は真っ黒になった。
 彼女の近くに誰かがいれば、笑いながらそれを指摘してくれただろうが、しかし彼女は一人である。一人で野山を駆け巡っているから、そんなことはどうでもいいことだった。
 しばらくそのまま野遊びをした。
 腹が空けば、たわわに実った木の実を囓った。不思議と、毒のある木の実に当たることは無かった。どれほど美味しそうでふっくらと膨らんだ木の実でも、どうしても食べる気がしないものがあった。まるで一面に黒カビが生え揃って、蛆虫が湧いたチーズくらいに食べる気がしない。
 少女は、それを食べてはいけないことを知っていた。
 喉が渇けば、小川の水で喉を潤した。探すのに手間はかからない。馥郁と甘い水の香りが、手招きをしながら自分を呼ぶのだ。お誘いに乗ってふらふらと歩くと、まるで飲んでくれと言わんばかりに透き通って冷たい水が、我が物顔でさらさらと流れている……。
 少女は、掌を椀代わりにして水を掬うことはしなかった。そんなことは意地汚くてみっともないことに思えたからだ。
 代わりに、きらきらと陽光を跳ね返す水面に顔を寄せて、舌で直接水を舐めた。
 ぴちゃぴちゃと軽やかな音が鳴る度に、焼け付くような喉の熱さが癒えていく。
 美味だった。
 たらふくに冷たい水を飲み、もうお腹一杯になった頃合いである。ようやく彼女は、水面に自分の顔が映っていることに気がついた。すると、額が真っ黒に汚れていて、どうにも格好の悪い有様であった。
 本来であれば手で洗ってやるのがいいのだろうが、それすら面倒であった彼女は、えいやと川に飛び込んだ。
 川は浅いように見えて意外なほどに深いことも多く、そういう時は往々にして命に関わるような事故も起きやすい。少女とてそれくらいのことは知らないわけではないのだが、小川の中で飛ぶように泳ぐ小魚たちが、その涼やかな有様が、あまりに羨ましかったのだ。
 元々、服は身につけていない。そんなもの、あちらこちらから張り出した木の枝やら何やらに引っかかって鬱陶しいだけである。早々に脱ぎ捨てている。
 生まれたままの姿の少女は、自分の腰ほどの深さの小川の中を、たいそう嬉しそうに泳いだ。
 山嶺にはまだ白いものが残り、朝には息も白くなる季節の川水であるから、それなりに冷たい。長く入っていれば、痺れるような冷たさが痛さに変わるような、そういう冷たさである。
 しかし少女は嬉しそうだった。その黒髪を水浸しにして、しなやかな四肢を踊らせるように動かし、川の流れの中ではしゃいでいた。
 妖精が遊んでいるようだった。
 十分に満足したのだろう、少女は身体を起こし、川底に足を付けて立ち上がった。頭を、そして全身を激しく振るわして、余分な水分を弾き飛ばす。
 大理石のように滑らかで張りのある肌と、黒絹の上に漆を重ねたような髪の毛から、盛大に飛沫が舞い散った。それだけで、彼女を覆う水のほとんどは消え失せた。磨き抜かれた鏡面のような肢体は、水の精霊の求愛を、素っ気なく袖にして見せた。
 ばしゃばしゃと水を掻き分け歩き、岸に片足をかける。
 その時、足下に目を落とすと、一匹の獣が自分を睨みつけていることに気がついた。
 睨みつけている。それは正確では無いかも知れない。何というか、呆気にとられたような、それとも興味津々のような、間の抜けた顔立ちだ。
 それより何より、何故この狼は、水の中から自分を見つめているのだろうか。それが一番不思議で、そして可笑しかった。
 思わず首を傾げてしまう。ねぇ、あなたは何故そんなところから私を見つめるの?
 すると彼女も首を傾げた。どうしてそんな簡単なこともわからないのかしら?
 少女はぷっくりと頬を膨らました。だって、初めて顔を合わせた見知らぬ人に、いきなり失礼な口を訊かれたのだ。ちょっとおつむにこない方がどうかしているもの。
 すると、狼も頬を膨らました。あちらも、どうしてか怒っているようだった。きっと何もかもが自分の思うとおりにいかないと癇癪を起こすような、お嬢様狼なのだ。
 もう知らない。少女は思った。あんな聞き分けのない我が侭お嬢様は、どこかで彼女の帰りを心配しているお父さん狼とお母さん狼に、お尻を叩かれてしまえばいいんだ。
 ざばりと陸に上がる。
 二、三歩歩き、振り返る。
 すると、川の中のどこにも、あのおしゃまな雌狼の、黒い瞳はなかった。きっとお腹が空いたから、家に帰ったんだろうと思った。
 少女は首を傾げて、それから先ほどよりもなお速く、風のように俊敏に駆けだした。
 大地を蹴り、藪を抜け、木々の間を駆けていく。
 景色が凄い勢いで流れていく。
 走る、走る、走る。
 何故走るのか、と問いかけるものはいない。今の彼女は、ただ走るだけが生態の生き物だ。それだけで、少女は完成している。
 舌を出して、喘ぐように酸素を取り入れる。肺腑を満たす冷たい空気が官能的だ。
 喉が渇いた。さっきあれほどお腹一杯に味わった水など、異次元の彼方に消え失せてしまった。
 筋肉が甘い疲れに痺れる。もうへとへとだ。へたり込んで、天を仰ぎながら一息吐きたい。そう思う少女と、まだまだ走りたい、私の欲望はまだまだこんなものじゃあないと叫び猛る彼女がいる。
 等分にいる。
 だから少女は、木に登った。駆け上った。手を、足を使い、地を駆けるのとほとんど変わらない速度で、見たこともない程に太い幹回りの大樹に、駆け上った。
 世界が、見たかった。
 自分を含む世界が、どれほどに広いのか。どこまで駆ければ世界は終わるのか。
 自身の体重を支えられる限界ぎりぎりまで幹が細くなった頃合いに、少女は世界を見下ろした。
 鬱蒼とした緑が、どこまでも広がっている。
 波打つような木々の群れは、そのまま緑柱石色の波頭だ。ここは、大地に根付いた大海原だ。
 少女は、無性に泣きたくなった。
 どうして自分はこんなところにいるのか。
 たった一人で!
 仲間が欲しい。少女の胸中を、強烈な焦燥感が襲う。それは間もなく胸を掻き毟りたくなるような郷愁の念に変わり、最後に凍えるような孤独と恐怖に変わった。
 探さなくては!
 自分と同じ毛皮を持つものを。自分と同じ爪を持つものを。自分と同じ牙を持つものを。
 俺は、それを知っている。俺の、一番大切な人だ。人のかたちをした、この世で一番誇り高い獣だ。
 金色の毛並み。聖緑の瞳。
 魂魄を洗い流すような、清冽で不敵な笑み。
 おれだけの、たいよう。

 ――何という、名前だったのだろうか。

 忘れてしまった。
 遠い昔のことだ。

 少女は吠えた。
 喉を開け放ち、肺腑にため込んだ精一杯の空気を、一息に吐き出した。
 悲しげな遠吠えは万里に響き、彼女の恋慕をあの獣に届けてくれるだろうか。
 少女は泣いていた。止めどなく涙を流し、嗚咽の代わりに吠えた。
 そして耳を澄ます。きっと誰かが、自分を探して吠え返してくれるはずだ。
 静寂の向こうに、自分の声だけが木霊する。自分の声を仲間の声と聞き違えることが出来れば、少女はどれほどに幸福だっただろうか。
 少女はもう一度吠えた。涙声の混じった、憐れを誘う声で。
 どうして、どうして誰も応えてくれない?どうして私を置いて、違う世界に旅立ってしまった?
 彼女は、どうしようもないほどに一人だった。
 だから、手を離した。
 虚空に身体を遊ばせる。内蔵を踊らせるような浮遊感。
 死んでもいいと思った。でも、死にたいとは思わなかった。
 天を掴むように生え揃った枝に、手を伸ばす。当然、彼女の体重を支えるには至らない。
 ばきりと折れ飛ぶ。
 その衝撃で、掌が酷く痛んだ。ひょっとしたら皮が裂けて、血が滲んでいるかも知れない。
 だからどうした。痛みは、苦しみは、生があってこそ。命あっての物種。
 次の枝に手を伸ばす。ばきりと折れる。
 次の枝にも手を伸ばす。ばきりと折れる。
 ひらりと地面に落ちた。足が少し痺れたけど、別に痛くは無かった。掌も、赤くなっているだけで血は流れていなかった。
 ぺろりと舐める。
 そして再び駆けだした。
 どこかにいるはずなのだ。自分が探し、自分を探してくれる、誰かが。
 鼻先を合わせて、挨拶をしよう。きっとあいつは笑いながら応じてくれるはずだ。
 舌で毛繕いをしてあげよう。こないだは下手くそだと言われたから、今度こそ見返してやるんだ。
 原っぱの上で、取っ組み合いをしよう。上になったり下になったりしながら、ごろごろと転げ回るんだ。まるで、子供の頃に返ったみたいに。
 そしてお腹が空けば、きっとお母さんが、大きな獲物を捕まえて帰ってきてくれる……。

 いつ頃の思い出なのだろう。
 いつになったら思い出すのだろう。
 私は獣だ!
 この爪は獲物を捕まえるために。この牙は獲物を引き裂くために。
 この足は大地を蹴るために!この鼻は風を嗅ぐために。
 そして遠吠えを!

 鎖。

 私をつなぎ止める。
 暗い籠の中。どこにも行けない。私を押し殺す、四面体。
 さぁ、今日も始めよう。今日はどこから切り裂かれたい?君の筋肉は、桃色で、とても綺麗だねぇ。
 拍動する心臓が、鮮血を跳ね散らす。その生暖かい液体が頬を伝い、唇の中に滑り落ちる。
 鉄臭い。
 懐かしい、味。
 それだけが、私に残された、野性。
 組み敷かれる。荒い鼻息。精々、私の上で腰を振ればいい。
 どれほど希おうと、あなたの精では私は穢せない。
 私を穢せるのは、この世でただ一匹。
 金色の獣だけ。
 だから私は穢れてなんていない。汚されたなんて嘘だ。
 今日も、四面体の隅で、蹲って眠る。
 糸で繋ぎ止められたばらばらの四肢が、薬臭くて鼻が曲がりそう。
 目が覚めれば、私は無限の草原に。
 ああ、悪い夢だった。お母さん、聞いてください。私は、二つ足で歩く、気持ちの悪い化け物に捕まる夢を見ました。それは怖かったでしょう、さぁ、お母さんの毛皮の中でもう一度眠りなさい。きっと、そんな夢のことは忘れてしまうから。

 それも、夢だってわかってる。

 
 高いところへ。
 一番高いところへ。
 おぞましい穴蔵よりも、世界一のっぽの大木よりも、聳え立つあの銀嶺よりも。
 私の声を、万里の向こうへと響かせるために。
 あったかいところへ。
 一番あったかい場所へ。
 あなたの隣に。
 私の魂の、あるべき場所に。

 走って、走って、走って。

 やがて、出会った。
 もう一度、出会った。

『よお、久しぶり』

 それは、私に向かって、気安く手をあげた。
 木々の隙間、猫の額のように小さな草むら。
 腰まで埋まるような、草の海。風が鳴き、草が腰を折る。
 髪が、ゆらゆらと舞う。
 涙を、手の甲で拭った。この人の前で、涙は流したくなかった。
 この人を、悲しませたくなかった。

『……だれ?』

 少年は、両手を天に掲げて、大いに嘆いたようだった。
 その大仰な様子が、何故だか微笑ましかった。

『オレだって大概冷たい人間だけどさ、自分の恋人のことは忘れないぜ、普通』
『ああ、そうなの、すっかり忘れていたわ』

 そうか。
 この子は、私の恋人なのか。
 うん、そう言われればそんな気がする。もう、ずっと前から、ずうっと前から、そうだったの。
 そんなふうに納得した私を、少年は薄く笑いながら見つめていた。

『とにかく腹ごしらえにしよう。肉を喰えば、頭の悪いお前の脳味噌にだって、幾分血が回るだろう』
『うん、そうね。もうお腹ぺこぺこ』

 少年の傍らに、彼の身体ほども大きな猪が転がっていた。
 どこかで見たことのある、猪のような気がした。
 昨日、夢でも見たのかも知れない。

『生?焼く?煮る?揚げる……は無理だけど、蒸すくらいならなんとか』

 意外と器用なようだ。
 私は地面に腰を下ろして、どかりと胡座を組んだ。
 
『ああ、もう、そんな格好でそんな格好……。色々丸見えだぜ』

 あちゃあと片手で顔を覆った少年は、その実、指の隙間から私のほうをしっかりと見ていた。
 どうでもいい、そんなこと。
 今はお腹一杯にお肉を食べたいんだ。どろどろとして薬っぽい流動食にはもう飽き飽き。
 だから、速く、早く食べさせろ。そうしないと、お前の肉に食らいつくぞ。

『おお、怖え怖え』
 
 目の前の皿に、良く焼けた肉が並んでいた。
 爪で切り分けてみると、中はまだピンク色で、ほのかに血が滲んでいる。
 ちょうどいい塩梅だった。私の喉がごくりと鳴り、腹がぐうと鳴った。
 大きく口を開けて、肉に齧り付く。
 がちん、と鳴った。
 溢れ出すはずの肉汁が少しだって無いし、熱々のはずの肉の食感が舌に感じられない。
 何も無い。
 齧り付く前に、取り上げられたのだ。
 少年が、悪戯気な笑みで微笑っていた。

『……それ、食べたいんだけど』
『オレが捕まえた獲物だぜ。上げ膳据え膳ってのは、ちっとばかし態度がでかいんじゃねえかい?』

 けけっと、その容姿には相応しく無い、小悪党みたいな顔で笑った。
 ちらりと除いた白い歯が、その銀色の頭髪と同じくらいに、きらきらと輝いていた。
 それは、私が大好きな、輝きだった。
 私は溜息を吐き出した。惚れた弱みである。その喉笛を噛み裂くのは、新婚初夜の楽しみに取っておこう。

『……食べさせてください』

 ちょっと突っ慳貪に言ってやった。
 悔しさ半分、甘え半分である。
 すると少年は、どこから取り出したのか、彼の髪と同じ色のフォークで肉片を突き刺し、私の口の前でゆらゆらと揺らすのだ。

『……何の真似?』
『お前が言ったんだろ、食べさせてくれって』

 ふむ、そう受け止めることも出来ようか。
 受信者の悪意が挟まっているとはいえ、私の責任でもある。
 諦めて口を開く。やっぱり悔しいから、目は瞑ったまま。
 
『おらよ』

 むぎゅう、と奥まで詰め込まれた。
 そのままフォークごと噛み砕いてやろうと思ったが、せっかくの肉を金属塗れにするのも勿体ないから、止めた。
 フォークが抜かれた後で、もぐもぐと咀嚼する。
 新鮮な血の味が、何よりのご馳走だ。お腹の奥が、暖かくなる。
 知らず、頬が綻ぶ。

『ああ、いいなぁ、今のお前の顔。押し倒したくなるなぁ』

 にやにやと笑われた。
 とっても腹立たしいが、まだまだ食べ足りない。今は褒め言葉だったということにしておくとする。
 抗議の声は肉と一緒に飲み込んで、もう一度口を開く。こんなの、いつ以来だろう。
 また、喉の奥まで肉を詰め込まれた。
 嘔吐きそうになるが、そんな勿体ないことは出来ない。数回噛んだだけで、ほとんど強引に飲み込んでやる。
 そしてまた、生まれたてのひな鳥のように口を開ける。
 少年は、その度に小馬鹿にしたような軽口を叩いて、淡々と肉を運んでくれた。
 まるで、親鳥みたいに。
 ようやく人心地がついた頃には、猪はほとんど骨だけになっていた。

『……すっげえ食欲。お前、その細い身体のどこに入るのよ……ってそこかい』

 少年はがっくりと項垂れた。
 彼の指さす私のお腹は、妊婦さんみたいにぽっこりと膨らんでいた。
 うむ、満腹。

『ご馳走さまでした』
『はい、お粗末様でしたって言いたいところだがよ』

 ひょいっと身体を持ち上げられた。お腹のところを抑えないように、優しい体勢で。
 抗議の声を上げるまでもなかった。

『ちょいと失礼』

 草むらの中に放り込まれた。
 何だ、こんなところでするのかと思った。

『交尾?』
『あれ、期待してた?』

 きしし、と少年は笑った。
 
『うん、少しだけ』

 心にも思っていないことを言ってみる。
 然り、少年は呆気にとられたように目を丸くして、居心地悪そうに頬を掻いた。
 少しだけ、可愛らしかった。

『それもいいけど、また今度でな』

 しぃ、と指の前に人差し指を立てる。
 悪戯気な表情はそのままだから、それほど危ないことがあるというわけでもないのだろうか。
 私もつられて、思わず笑いそうになったけど、何とか我慢した。
 頭を撫でられた。いい子いい子、という意味らしい。
 思わず目を細めてしまった。
 直後、風に乗って、何人ぶんかの足音が近づいてくるのがわかった。がちゃがちゃと騒がしい音が付いてくるのは、鎧で武装した兵士だからだろう。
 やがて木の幹の影から、何人もの兵士が姿を現した。俺にとっては見慣れた姿だ。

『おい、これを見ろ!』

 食べ残しの猪の骨に、兵士が群がる。
 そんなにお腹が減っていたのかと思ったが、勿論そういうわけでもないらしい。散らかしっぱなしの食器やら食べかすやらを触って、剣呑な面持ちで囁いた。

『どこに行った!?』
『まだ暖かい!それほど遠くには行っていないはずだ!』
『探せ!』

 頷き合った兵士達は、散り散りに別れて森の奥へと走っていった。
 どうやら、誰かを捜していたらしい。それが私でないのなら、きっともう一人のほうだろう。それに、私を捕まえに来るのは、きっと綺麗に頭を撫でつけて、ぱりっとしたスーツを着こなしたトカゲみたいな男の人に違いないのだから。
 これは、ひょっとしたらとんでもない事態なのだろうか。
 でも、大丈夫。私の爪と牙は、あんな貧弱な鎧なら噛み砕いてみせる。
 そして、私の恋人を助けるのだ。何故なら、あの娘だって、きっと同じことをするに違いないのだから。
 一人一人狩っていけば、危険は無い。

『おい、落ち着けよアンタ。そんな怖い顔してどこいくつもりだい?』
『……怖い顔?』
『そんなに牙を剥いて、今にも噛み付きそうだったぜ』

 何を、当たり前のことを。
 敵は、殺さないと。喉笛を噛み切って、頸椎を噛み砕いて、もう二度と立ち向かえないようにしてあげないと。
 今度は、私が殺されてしまう。
 殺されてしまう。
 もう、あいつに会えない、なんて。
 絶対に。

 いやだ。

『ああ、もう、泣くなよ、鬱陶しい』
『ひぃ……ん。ぇぐっ、ひぃ……ん』

 抱き締められた。
 頭を、ぎゅうっと。
 良い匂いがする。私が大好きな匂いだ。
 そして、あたたかい。
 とても安心した。

『だって……だって、もう、にどと、あえない、いやだ、とっても、かなしい……』
『ああ、それはそうだな、悲しいよなぁ』

 頭を撫でられている。
 懐かしい感触だった。その懐かしさがまた哀しくて、どんどん涙が溢れてきた。
 遠い、遠い昔だ。
 この人は、私を慰めてくれたんだ。
 戦争が、とても大きな戦争があったんだ。
 もう、明日には二人とも生きていないのに。そんなこと、私のお腹の中に居る、この子だってわかっていた。

『死んじゃうよう、いかないでよう』
『ああ、そうだね、カマル。でも、君は生きておくれ。そして僕達の子供に、この世界を見せて上げてほしい』
『嫌だ!絶対に行かせない!』

 大きな手に、思いっきり噛み付いた。
 少しだけ鉄臭くて、甘い液体が、口の中に溢れ出す。
 私は、夢中でそれを啜った。愛する人が愛おしくて、愛おしくて。
 夢中で啜った。

『ああ、その激しさが君だ。ほんの少しだって君に相応しく無い。そして、なんて君らしい』

 男は、緑柱石色の瞳で、微笑んだ。
 手が、離れていく。このまま、私が噛み締めたままでも、この人は手を引き抜くだろう。どれほど肉が裂け、骨が砕けても、この人はそういう人だ。
 私は、聞き分けのいい子狼みたいに、口を離した。
 人間みたいな歯形が、可愛らしく、手の甲に刻まれていた。

『君が狼だったのは幸いだ。やつらだって、君が狼になって逃げおおせるなんて、想像も付かないだろう。だから、逃げなさい。君は逃げなくてはいけない』

 嫌だ嫌だと頭を振る。
 どうしようもなく、その言葉が正しいのはわかっている。それでも、ここで彼を置いていけば、二度と会えないのもわかっている。
 目尻に涙を溜めてむずがる私に、夫は、優しく言い含めるようにして囁いた。

『君は、生まれ方を間違えたね。本当は、君のような女の子こそが太陽に相応しい。男は、殺し奪い取るだけだ。女は、命を育むことが出来る。どちらが太陽に相応しいなんて、考えるまでもないことなのにねぇ』

 男は微笑った。
 私は――どうしたのだろう。



[6349] 第二十四話:赤ずきんは森へと消えた
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/05/16 10:07
 朝霧に烟る日の光を浴びて、二人は同時に目を覚ました。
 薄ぼんやりと開いた二人の瞳に、まず最初に映り込んだもの。それは、曙光をそのまま梳ったような金髪であり、あるいは夜空にさんざめく星々を散らしたような黒髪であった。
 そして、リィとウォルは互いの瞳を見つめて、またもや同時に柔らかい笑みを浮かべた。

「おはよう、ウォル」

 あちらの世界では、何度となく交わされた挨拶だ。
 たった二人だけの旅路、冬の残滓も色濃い初春の朝ぼらけに。
 軍靴と蹄の行進する音の響く、血生臭い戦場で。
 頭に酒精の疼きの残る、西離宮の宴の翌日に。
 彼らは、何度となく挨拶を交わし、互いの瞳を覗き込んだ。
 ウォルは、そのいくつかを思い起こし、そしていくつかを思い出した。
 喧嘩をして、そして目覚めたこともある。その時の、何とも気まずく居たたまれない想い。悪いのはあいつのはずなのに、何故か自分こそが大罪人であると勘違いをしてしまう。
 どのようにして謝ろうか。それとも、自分が謝る必要などないのではないか。あいつから謝るべきなのだから、俺は黙っていよう。いやいや、俺の方が大人で男なのだから、こちらから折れてやるべきだろうか。
 そう悶々と繰り返し、寝起きの鈍い頭を抱えながら起き上がる。
 そういう時は決まって、廊下の曲がり角の隅っこのほうや寝室に設えられたテラスの手摺りの上――それも三階や四階にある――などで、ひょこりとこちらを覗き込む、なんとも愛らしい小猿を見つけるのだ。
 その小猿は、普段の、金色の狼のように雄々しく勇ましい様子はかなぐり捨てて、おどおどとこちらを見上げるような頼りない視線を寄越しながら、可憐な唇を開いて言ったものだ。

『おはよう、ウォル』、と。

 その台詞、もしかしたら万の騎馬兵を相手取るよりも、遙かに重大な勇気を込めて放たれたであろう、短い台詞。それを聞いただけで、くだらない蟠りなどは朝日の昇る地平線よりも遙か彼方に消え失せてしまう。
 同時に、一抹の寂しさと悔しさを味わう。この台詞は、俺の方から先に言うべきものだったのではないか。これでは、まるで俺の方が子供のようではないか。
 しかし、こんな、不意打ちのような拍子で出くわして、こちらが呆気にとられている間に先に口を開くのは、とんでもなく卑怯な真似ではないだろうか。それも、一度や二度ではない。ことある事に、毎回だ!
 そんな、ぐるぐるとした思考の全てが、それこそ子供じみている気がして、結局ウォルは苦笑しながら挨拶に応じるのだ。
 それこそ、今の彼女のように、はにかんだ笑みを浮かべながら。

「ああ、おはよう、リィ。今日もいい一日になりそうだ」

 二人がロッジに戻ると、腹の虫を刺激する良い香りが漂ってきた。
 コトコトと何かを煮る音が聞こえる。トントンと軽快に響くのは、シェラの操る包丁の音だろう。

「おはようございます、リィ、ウォル。もう少しで出来上がりますから、待っていて下さいね」

 キッチンから、銀色の頭がひょこりと覗いた。
 まるで本物の女性のような、いや、本物の女性であっても裸足で逃げだしたくなる程に整った顔立ちの少年、シェラ・ファロットは、朝帰りをした二人を見ても顔色一つ変えなかった。

 シェラの朝は早い。
 あちらの世界ではそれこそ朝夕と無い仕事に携わっていたわけだし、遅寝を楽しむほどに余裕のある身分だったわけでもない。それに、彼の中でも最も厄介で重大事だった仕事――デルフィニア王女の暗殺――にかかずらうようになってからは、曲がりなりにも王女の侍女として恥ずかしくない立ち振る舞いをしなければいけなかったわけで、当然朝は誰よりも早くなる。そんな生活を3年近くも続けていれば、それは習慣というよりは生態として身についてしまうものなのだ。
 今朝も、当然のことながら誰よりも早く起きたシェラである。
 陽は未だ昇らず、窓の外もまだ暗かった。当然のことながら別に早起きしなければならない理由も無かったのだが、二度寝を決め込む気にもならず、何となく起き出した。
 寝室から出て居間に向かうと、強烈な酒精の香りが立ちこめていた。
 立ち並んだ空の酒瓶の山を見て、流石のシェラもうんざりとした。何せ、大の付くような蟒蛇が三人(第三者の視点から見れば四人だ)、日を跨いでもなお杯を酌み交わし、語りに語ったのだ。その腹の中に消えた酒の量たるや、並の酒場で消費される一日の酒量を遙かに上回っていたであろう。
 酒場であれば、その片付けは給仕に任せればいい。しかしここは酒場でないから、給仕以外の誰かが片付けを引き受けなければいけないわけだ。
 シェラは、誰に言われることもなく、それが自分の役割だと思っていた。彼が自らの主人と定めた少年は当然除くとして、他の二人にだってこんな仕事をさせるつもりはなかった。何せ、一人は主人の魂の相棒であり、そしてもう一人はかつてのデルフィニア国王なのだから。
 もっともそれは後付の理由であり、掃除洗濯炊事に片付けと、いわゆる家事雑事にカテゴリされる仕事は、シェラ自身嫌いではなかったりする。散らかっていた部屋がすっきり整頓されるのは気持ちがいいし、汚いものがピカピカになれば笑みも零れようというものではないか。
 それでも、物事には限界というものがある。何せ、冗談抜きで立錐の余地もないほどに酒瓶やら皿やらが転がっているのだ。まずは自分が立つ場所を確保することから始めないと、掃除だってままならない。
 溜息を一つ吐き出したシェラは、とりあえず近場にある酒瓶を拾い出した。これらのゴミは、当然の事ながらこの星に置いていくわけにはいかない。宇宙船の発着場まで、もう一度持って帰らなければならないのだ。行きしなに比べればその中身が空になっている分軽いことは軽いのだが、しかし面倒なことではある。
 そうして、ほとんど音もなく宴の始末を開始したシェラであるが、居間のほぼ中央に、巨大な芋虫が転がっていることに気がついた。あたりを空の酒瓶に囲まれ、何とも器用に自分が寝転がるスペースだけを確保したその芋虫は、しかし当然のことながらただの芋虫ではない。
 もぞもぞと身体を震わせると、その先端から、人間の頭がぴょこりと顔を見せた。
 鈍重に瞼を持ち上げた、ルウであった。

「んー……しぇらぁ……?」

 これが、『神の一族』とも呼ばれるラー一族の――そしてその中でも飛びきりの異端として恐れられている――青年だろうか。シェラの目には、どう考えてもそのような危険物には見えないのに。
 然り、シェラは、ようやく日が差してきた部屋の中でまだまだ眠たげな青い瞳の青年に、小さな声で挨拶をした。

「はい、おはようございます、ルウ」
「んー……おはよぉ……」

 頭のエンジンがアルコールで錆び付いているらしいルウは、何とも気のない返事を返した。
 このロッジの建っている地域の季節は、偶然のことながらティラボーンのそれと同じく晩春のそれであり、早朝は相当に冷え込む。一歩建物の外に出れば、まだまだ息も白くなろうかという頃合いだ。
 ルウは、その身を包んだ厚手の毛布を、これこそ我が命綱とばかりにしっかり掴み、棘を逆立てたハリネズミのように厳重に纏っていた。
 どうやら昨晩、シェラが白旗を上げて寝室に籠もった後も、相当に飲んでいたらしい。そしてそのまま酔い潰れ、ウォルかリィのいずれかが、とりあえず毛布を掛けてあげたのだろう。

「ルウ。眠たいのでしたらまだ寝ていて構いませんよ。まだまだ朝は遠いですし」

 シェラは柔らかくそう言った。

「ありがとぉ……ごめんね、しぇらぁ……」

 普段であれば、部屋の片付けをシェラ一人に任せるのを良しとせず飛び起きるであろうルウも、物凄い力で瞼を引きずり落とそうとする睡魔の誘惑に敵わず、呻き声のような返事を漏らして眠りの世界に舞い戻っていった。
 そんなルウの様子を見て、そういえばとシェラは辺りを見回した。
 寝室に、人の気配は無かった。
 ならば、残りの二人も居間で寝ているものだとてっきり思い込んでいたが、しかしリィの姿もウォルの姿も見当たらないのだ。
 はて、とシェラは首を捻った。あの二人はどこに消え失せたのだろうか。
 別に心配しているわけではない。あの二人をどうこうするなど、飛びっ切りに腕利きの行者を百人集めたってできるわけがないのだ。ましてここは、自分達以外に人のいない無人の惑星である。
 シェラは、酒瓶と酒瓶の間を、抜き足差し足で歩いて出口へと向かった。途中、ルウの隣を歩いたが、安らかな寝息が聞こえるだけで起き上がる気配は無い。
 扉を開ける。
 外はまだ薄暗く、東の空が僅かに白み始めた程度だ。
 予想していたこととはいえ、朝露に濡れた空気はまだまだ冷たかった。しかし、その冷たい空気を肺一杯に吸い込むと、得も言われぬ爽快感がある。安っぽい比喩であるが、まるで自分が生まれ変わったような、そう錯覚するような心地よい感覚だ。
 寝間着姿にサンダルという、普段の彼からは想像も付かないほどに砕けた格好をしたシェラは、ロッジに設えられたテラスから、外を見回した。
 地平線の遙か向こうに聳える山々は険しく、まるで天に向けられた刃のようだ。その刃先はいまだ白く、冬の残滓を振り払えていない。
 そのすそ野に広がる黒々とした絨毯のようなものは、もう少し日が差せば鮮やかな緑色に変じるのだろう。梢の間を渡る風は、馥郁たる香気が満ちているに違いない。
 どこかで、一番鶏が啼いた。無論、家畜化された鶏などいるはずもないから、何か、見たことも聞いたこともない種類の鳥なのだろう。しかしシェラなどには、その鳥がきっと鮮やかな尾羽を持っている気がしてならなかった。
 ぼんやりと、明けゆく空を見つめる。じわじわと、泣きたくなるほど少しずつ白みゆく東の空。星を隠していた薄雲が照らし出され、花嫁を覆い隠すヴェールのように儚げに見える。
 我ながら安い感慨を抱いたものだとシェラは苦笑し、本来の仕事に取りかかることにした。
 丸太で拵えられた階段を下ると、目の前に広大な湖が広がっている。その岸に至るまでの短い道程は若々しい草花で満たされた草原に覆われていて、どこかから小さな虫の鳴き声が聞こえる。
 そこに、並んで横たわった、二人分の影があった。
 
「おはようございます、リィ、ウォル」

 シェラは幾分安堵に満ちた挨拶をして、少し早足で歩いた。
 当然、二人とも既に起きているものだと思った。何故なら、自分がここにいるのだ。
 リィは野生の獣そのまま、自分のテリトリーに他人が入って、暢気に眠りこけていられるほどに気の長い生き物ではなかったし、ウォルも、国王である以上に戦士であったから、眠りながらも他者の気配に敏感であった。
 そんな二人が、わざわざこちらから挨拶までしたのに、目を覚まさないはずがない。シェラはそう思っていたから、挨拶をした後でしまったと思ったものだ。無論、挨拶が聞こえるような距離に立ち入って目を覚まさない二人ではないのだが。
 しかし、その割には妙であった。お返しの挨拶もないし、そもそも二つの影が動く様子がない。

「あれっ?」

 シェラの口から、疑問符を伴った呟きが漏れだした。
 もしかしたら何かがあったのだろかと、朝二人の姿が見当たらなかったときよりも、シェラの心臓は不安に震えた。
 早足で、しかし足音は全くたてることなく近づく。すると、夜目の利くシェラであるから、僅かな明かりの中でも二人の姿を良く見ることが出来た。

「おやおや……」

 こんどの呟きには、幾分か呆れの成分が含まれていた。
 何せ、あちらの世界では、至高の王と王妃でありながらついぞ一度も閨を共にしなかった二人が、しっかりと服を着込んでいるとはいえ、抱き合いながら眠っていたのだ。
 シェラは含み笑いを漏らしつつ、やはり足音も密やかに二人の元へと歩み寄った。
 まるで、昼寝を楽しむ野生の兎の元に忍び寄っていくような、何とも愉快な緊張感を楽しみながら、しかしシェラの表情は引き締まっている。何せ、これから一生かかったって見られない光景を、今ならば拝むことが叶うかも知れないのだ。必死になって、寧ろ当然だろう。
 抜き足差し足忍び足、普段だってほとんど足音というものとは無縁のシェラが柔い地面の上を慎重に歩むものだから、虫だって目を覚まさないほどに密やかな音しか立たない。
 やがて二人の傍まで辿り着いたシェラは、そーっと二人の寝顔を覗き込む。
 ようやく青空と呼べるほどに青みが差してきた東の空、そこから漏れ出す淡い陽光に照らし出された二人の天使の寝顔。お互いがお互いを守り合うように、しっかりと背に回された二組の腕。唇が触れ合いそうなほどに近づいた柔らかな頬が二つ。
 どちらの寝顔も、生まれたての赤子のように無垢である。少し開いた唇の隙間から、すうすうと穏やかな寝息が漏れ、それと合わせて胸が僅かに上下する。
 リィとは長い付き合いのシェラであるが、これほどに安らいだ寝顔のリィは初めて見る。どれほど気配を殺して近づこうと、寝室の扉を開ける前には身体を起こしているリィであるから、そもそもリィの寝顔を拝むこと自体が珍しいのだ。それこそ、前代未聞の夫婦喧嘩に発展した例の睡眠薬事件と、あとは数えるくらいしかシェラはリィの寝顔を見た記憶が無い。
 そして、そのいずれもが、まるでつくりもののような、生気の抜け落ちた顔であった。普段のリィが生命力に煌めいている分、その落差も相まってそう感じたのだろう。
 シェラはその理由を、瞳が閉じられているからだと思っていた。リィの、彼自身が持つ生命そのものを凝縮したような、緑色に輝く瞳。どれほど秀麗で整った顔をしていようとも、その一つの要素、しかし絶対的な要素が抜け落ちているならばリィの顔はリィたり得ないのだ、と。
 だが、今のリィの、そしてウォルの寝顔はどうだろう。二人の瞳は、当然のことながらその瞼に覆い隠されて見ることは出来ない。しかし、今のリィの寝顔は紛れもなくリィの顔であったし、ウォルのそれも彼女自身のものであった。
 その理由はわからない。その理由を言語化する術を、シェラは持っていたかった。
 ただ、理屈とは最も遠いところで、感情で、シェラはそれが当然だと思った。
 この二人は、つがいの猛禽なのだ。自分以外のために心の底から怒り、鋭すぎる爪と嘴を互いの柔らかな羽毛で覆い隠し、寒さに凍える夜には身を寄せ合って眠る……。
 余人が見れば、『無垢なる天使たち』とか、『恋人』とでも名付けそうな情景であったが、シェラには、二人の寝顔につけるタイトルなど一つしか思い浮かばなかった。
 
「『信頼』とは……少し安すぎるでしょうか」

 呟き声は、果たしてヒュプノスの御手に委ねられた二人に届いたのだろうか。
 シェラは、ごちそうさまでした、とでもいうふうに軽く手を合わせ、来たときと同じような足取りで小屋に帰っていったのだ。



「うん、美味い。前食べた鹿よりも、全然こっちのほうがいいな」
「こないだは満足な調味料もありませんでしたから。それに、ルウが仕留めてくれた鹿のほうが脂もよくのっていますし」

 テーブルの上には、これは果たしてディナーかパーティーかというほどの料理の山が並んでいる。とても深酒をした翌朝の朝食とは思えない。そういう朝は、お粥とかシチューとか、疲れた内臓にも負担の少ない料理が喜ばれるのだ。
 しかし、それはあくまで一般人の胃袋に限った話である。シェラは、自分が主人と仰ぐ少年の鉄の胃袋には何度も驚かされた過去があるから、当然のことながらそれに見合った料理を拵えたのだ。
 鹿肉のロースト、鱒と岩魚のスモーク、レバーペーストと茸のテリーヌ、各種ナッツを混ぜ込んで焼き上げたパン、内臓と香草の煮込み、木イチゴと山桃を搾ったジュース……。一体、どうやればこれだけの短時間、しかもたった一人で作ることができるのか、流石のリィやルウであっても頭を傾けざるを得なかった。
 それでも、そのように些細な疑問は、若々しい身体が今日一日分の燃料として希求する栄養の群れの前ではあまりに脆弱だったらしい。シェラ以外の三人は、手を合わせるのももどかしく、色取り取りに盛られた豪華な料理の征服に乗り出した。
 まるで手品師がスカーフを被せたかのように、次々と空になっていくシェラの力作達。その光景をにこやかに眺めながら、しかしシェラは、内心で奇異の念を覚えた。

「おや、ウォル。あなたもよく食べるのですね」

 口いっぱいに料理を頬張り、まるでリスのようになっていた少女は、シェラの方を見て何かを言いたそうにしていたが、とりあえず口の中のものを飲み下すことに専念したらしい。忙しなく顎を上下に動かして、歯応えのある鹿肉をようやく喉の奥に押しやった。
 そしてナプキンで口元を拭き、それから唸るように言った。

「それだ、シェラ。俺も不思議に思う。あれだけ飲み食いした翌朝ならば、いくら俺だってこんな重たい食べ物、見るのも嫌だったはずなのだがな。どうしてこうも腹が減っているのだろう。不思議だ」

 その理由は、おそらくウォルの身体がリィと同じ、狼の変種とも呼べる生き物のそれに変じたことによるものだっただろう。
 ウォルは今更ながらに、これは何と便利な身体かと思った。何せ、いくらでも食べることができるのだ。食べるというのは、放蕩癖とは縁のないウォルにとって、ほとんど唯一といっていいような楽しみであったから、美味しい料理を目一杯詰め込むことのできるこの体は確かに便利がよかった。
 そして、何故だか料理が旨い。きっと、味覚を含んだ五感が、元々よりも鋭いからだろう。以前よりも深いところで料理の質が楽しめているような、そんな気がする。
 
「今更どの口でほざくかよ、我が夫。その口にどれだけの食い物を放り込んだのか、忘れたとは言わさないぞ」

 鹿肉のロースト、その最後の一切れを横取りされたリィは、ほんの少しだけ恨めしげな視線で隣に座ったウォルを睨みつけた。
 しかし、当のウォルは、お返しとばかりに非難を込めた視線で、リィを睨みつけたのだ。
 これにはリィの方がたじろいだ。

「……なんだよ、ウォル。何か文句でもあるのか?」
「ある。大いにある。リィ、俺はお前が、そんなに薄情者だとは思わなかったぞ」
「何だよ、お前が大食らいなのは本当のことだろう?」
「そんな些末事ではない!」

 シェラは、千切ったパンを口に運びかけて、その手を止めた。その隣で、ルウも同じように目を白黒させていた。
 果たして何事かと事態を見守る二人の前で、ウォルは続ける。

「昨日、約束したばかりではないか。昨日の今日でこれでは先が思いやられるぞ」
「何のことだよ、おれはお前が何を言いたいのか、全然わからない。きちんと説明してくれ」
「リィ、お前な、人のことをうすらとんかちだとか女の敵だとか唐変木だとか痴呆症の熊だとか散々なことを言っておいて、それはないのではないか!?」
「……そこまで言ったかな?」

 リィは首を捻ったが、昨日はしこたま飲んだから今一つ記憶が頼りない。
 そこまで深酒をしなかったシェラは、前の二つはともかく、確か後の二つは言っていなかったような気がしたが、この際黙っておいた。

「とにかく、だ。お前は昨日、俺の前で誓っただろう。早くも約束を違えるつもりか?」
「……一体なんて?」
「俺をお前の妻に迎える、とだ!ならば、妻のことを夫と呼ぶのは如何なものだろう!?」

 シェラが、手に持ったパンの切れ端を、ぽとりと落とした。
 ルウは、口に含んだ木イチゴと山桃のジュースを気管にやり、盛大に噎せ返った。
 
「げほっ、げほげほげほげっほ!」

 吹き出したジュースは、あわや新妻(?)の顔を直撃するところだったが、当の新妻たるウォルはテーブルクロスの端を持ち上げることで盾として、被害を最小限に防いだ。
 その鮮やかな手並みだって、今のシェラやルウには遠すぎる。彼らの頭は、遙かに深刻で由々しき事態を処理するために手一杯だったのだから。それに、ルウは肉体的にも一大事、正しく瀕死といった有様であったが。
 当然、ラー一族である彼がこの程度のことで死ぬはずもない。しかし、目には涙が浮かんでいたし、額には脂汗が浮かんでいるし、盛大な咳は留まるところを知らないし、涎やらジュースやらで顔中がべたべただ。
 いつもの、密やかで神秘的な青年というイメージなどどこにもなく、ルウはひたすらに悶絶し続けた。
 その横で、ようやく我に返ったシェラが、口を開いた。

「……あの、もう、何というか今更なのですが……、ええ、色んな意味で今更なのですが……一体どういうことでしょうか?」

 本当に、今更である。
 一体、この夫婦は、何度自分を仰天させれば気が済むのだろう。
 こちらの世界に来て、自分が生まれ育った世界とは桁違いに進んだ文明を見聞きし、確かに驚きもした。一度など、洗脳されたあげく全くの別人を演じさせられたことだってある。しかし、これほどに、心底余裕無く驚かされたのは、リィとウォルが再会する前は無かった気がする。
 分かっていたことだ。全く無害な薬品が、混ざり合うことで致死性のガスを放つことがあるように、この二人の個性は混ぜ合わせることでその劇薬度合いが飛躍的に増加するのだと。
 朱に交わって赤くなる、とは良く言う諺であるが、この二人の場合、朱が染め合って真っ赤になっているに違いない。
 二人だけでじゃれ合っている分には構わないが、自分のように人畜無害な人間にはできるだけ心臓に優しい毎日を与えてくれるよう、誰よりも真っ赤に染まっている自覚のないシェラは、神様に祈りを捧げた。
 そんないじましい銀髪の少年の目の前で、またしても痴話喧嘩が――夫婦漫才とも呼ぶ――が繰り広げられていた。

「ウォル!お前、前も言ったけどな、こういう夫婦の間だけの秘密を人前でぽんぽん話すんじゃない!こんなことが学校で知れてみろ、おれ達はそのまま珍獣扱いだぞ!」
「しかしだな、これはお互いの剣にかけた、崇高な誓いだろう?ならば衆目の知るところになったとして、別に恥じるところがあるとは思えんが」
「それとこれとは別問題だ!だいたい、おれはあんな馬鹿げた約束、剣に誓った覚えなんてないぞ!ああ、そうだとも、それこそ剣にかけて誓ってやるさ!」
「おや、それはおかしいな。俺は確かに、剣と戦士としての魂にかけて俺を妻に娶ると、そう誓ってもらった気がするのだが……うーん、歳を取ると耄碌していかんな」
「この性悪女!都合のいいときだけぼけたふりをするんじゃない!」
「冗談だ、そう怒るな、我が夫」

 全身の毛を逆立てんばかりのリィであるが、隣に座ったウォルはどこ吹く風である。これも、培ってきた人生経験の差であろうか。
 しかし、時が変われば立場も変わり、被告人席に座って弾劾を受けるのはウォルになったりするわけで、結局は似た者同士と、そういう結論に落ち着くのだろう。
 ぎゃあぎゃあとうるさい二人を前にして、シェラに背中をさすられて何とか人心地を取り戻したルウが、涙を指で拭い取りながら口を開いた。

「ごほっ、けほっ。……あ、あのさ、エディ、ウォル。一体どういうことかな?シェラじゃなくても聞きたいと思うんだけど」
「……もう、本当にくだらないというか阿呆くさいというか……。どうやらおれとこいつは、こちらの世界でも夫婦にならざるを得ないらしくてさ」
「折角、リィと同じ生き物の身体になったのだからな。誰かと番わねばならないなら、選ぶのはこいつ以外あり得ん。それを伝えただけだ」
「で、でも、既にお二人ともオーリゴ神の前で誓いを交わされているのでは……?それに、妻とは……?」

 シェラは、この世界のものではない神の名を口にした。
 果たしてあれを結婚式と呼んでいいのかどうかは別として、形式上は確かに夫婦であった二人である。何を今更といえば何を今更なわけだが、しかしそれはウォルが夫として、そしてリィが妻としてのことだ。
 ならば、ウォルが妻となるということは……。ようやく頭が回転してきたシェラは、その事実の恐ろしさに身震いしかけた。
 そんな少年の前で、一応はその主であるらしいリィは、胡散臭そうに横に座った少女を指さした。それも、視線すら寄越さずに、親指でだ。

「こいつの物好きもここに極まれり、だ。どうやらこいつは、女としておれと夫婦に――要するにおれの妻になりたいらしいんだ」
「うむ、その通りだ。前は男として、誰にも恥じることのない一生を全うしたからな。今度は心機一転、女としての一生を送る覚悟を決めたわけだ」

 どうだまいったかとばかりに胸を反らしたウォルである。
 シェラは、果たして幾度目か知れないが、やはりげんなりとして肩を落とした。だが、その隣に座った青年は、夜空の星々もかくやという程に目を輝かせている。

「じゃ、じゃあさ、王様はエディのお嫁さんになってくれるの!?」
「そのとおりだ。そしてこいつもそれを快く受けてくれたぞ」
「あくまで仕方が無く、しぶしぶと、だぞ、ルーファ」
「うわぁい!」

 ルウは突然に立ち上がり、テーブル越しにウォルの華奢な身体をひょいと持ち上げ、思いっきりに抱き締めた。
 
「やった!うれしい!うれしいね!おめでたいね!」
「こらこら、ルウどの。前は王妃の間男だったあなたが、今度は俺の間男になるつもりか?」
「そうでも構わない!だって、こんなに嬉しいんだもの!」

 ルウは、ウォルの顔に思い切り頬ずりをした後で、唇の雨を降らせた。
 額に、瞼の上に、頬に、鼻先に、そして唇に。ところ構わず口づけた。それは、となりで見ていたシェラが、幾分はらはらしてしまうほどに熱烈なものだった。
 この喜びようには、流石にウォルも些か辟易とした。

「こら、ルウどの。俺には、男に口づけられて喜ぶ趣味はないぞ。それに、俺の事はウォルと呼んでくれる約束ではなかったのか?」
「あ、ごめんごめん、ついうっかり。熱くなりすぎました」

 ウォルの小さな身体が、やはりひょいと持ち上げられて、もとの席にすとんと落とされる。
 ウォルは、手元に置いてあったナプキンで、ごしごしと顔を拭った。キスされたことは置いておいて、しかし先ほどの残滓としてルウの顔に残っていた涙やらジュースやらは綺麗に拭き取らないとべたべたして仕方がない。
 ほっと一息ついた少女に対して、自分も綺麗に顔を拭ったルウは尋ねた。

「で、で、式はいつ挙げるの?赤ちゃんはいつ生まれるのかな?賑やかなほうがいいから子供はたくさん産んでね?家はどこに買うの?僕も近くに住んでいい?」
「気が早いぞルーファ。おれ達は未成年だから、まだまだ結婚なんて先の話だ。昨日済ませたのは、あくまでただの婚約だよ」

 この二人の間で交わされる言葉の中に、たったの一つだって『ただの』で括られるものが無いことを知り抜いているシェラは、なんとも懐疑的な視線でリィをじろりと見たのだが、当のリィは素知らぬふうであった。
 そしてルウは、リィの言葉に若干不満げであった。若干唇を尖らせながら言った。

「なんだ、そんなつまらないこと。何なら、あの人に電話して頼んでみたら?未成年でも、中学生同士でも結婚できるように、法律を改正して下さいって」

 あの人とは、おそらくはこの宇宙で一番忙しい政治家である、あの人である。
 ウォルは、自分との短い会談の中で、枯死するのではないかというほどに冷や汗を流していたマヌエル・シルベスタン三世の、老け込んだ顔を思い出していた。

「いや、ルウどの。かの人にそんな無理難題を持ち込んでは、法律が改正される前に過労と心労で倒れかねんぞ」
「いいじゃないか、別に。あの絵の時だって、とことん頼りにならなかったんだし。今度くらいは役に立ってもらおうよ」

 自分の愛する人達以外のことでは、やや冷淡にもなるルウである。しかしこれが彼の本心ではないことを三人とも理解しているから、なんとも微妙な笑みを浮かべるに止めた。

「その気持は嬉しいのだがな、ルウどの。俺はあまり急がれても困るのだ。気持の整理とか腹をくくって覚悟を決めるとか、そういうことには思ったより時間がかかるらしくてな」
「どういうこと?」

 ルウは可愛らしく小首を傾げた。
 リィは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、再び自分の夫――そしてどうやら将来の妻のほうを指さして、言った。

「こいつ、おれにプロポーズをしておいて、でも抱かれる勇気は無いんだとさ」

 悪戯気な言葉に、むっとした調子でウォルが応じる。

「おい、その言い方は酷いな。俺がまだお前に抱かれたくないと言ったのは、臆病からではなく気持の踏ん切りの問題だ。リィ、お前の言い方では、まるで俺が初夜に怯える花嫁のようではないか」

 とても、その少女の愛らしい唇から飛び出したとは思えない言葉であった。
 リィは、アペリティフとして出されたシェリー酒の残りを自分のグラスに注ぎ、まるで水のように乾かした。事実、この大蟒蛇には、この程度では全く水と変わるところがないのだが。

「似たようなものだ。だって、夫婦の契りは結びたいのに同じベッドに入るのは怖いなんて、そのまんま初々しい乙女の気持ちじゃないか。世間ではそれを、勇気がないとか臆病だとか言うんだぜ」
「全く違う。それはただ、男に身を委ねるのが恐ろしいからだろうが。俺はな、男に抱かれるのが、想像するだけで気色悪いのだ。それが例えリィ、お前であってもな。第一、あちらの世界のお前だって、どうしたって男に抱かれるのを嫌がったではないか。似たようなものだろう」
「いーや、一番根本的なところで違うね。おれは、おれから男に抱かれたいと思ったことなんて一度もないんだ。それがお前は、おれに抱かれたいのに抱かれるのが怖いときている。これはどう考えたって臆病者の仕儀だぜ」
「この、言わせておけば……!」

 少女の声に険が篭もったので、ルウもシェラも慌てたように腰を上げかけた。
 そんな二人の目の前で、いっそ勇壮な様子で立ち上がったウォルは、寝間着代わりに来ていた薄手のスウェットを脱ぎ捨てた。
 
「決闘だ、リィ!今から、俺が臆病者かそうでないか、思い知らせてやる!寝室で待っていろ、今から身を清めてくるから!」

 下着姿で言い放ったウォルは、今度はその下着を脱ぎ捨てようとした。
 これは、シェラが飛びついて止めさせた。

「陛下!誰がどう聞き違えても、それは決闘ではありません!」
「放せシェラ!ここまで侮辱されて、男として黙っていられるか!」
「今のあなたも、誰がどう見間違えても男には見えませんから、御自重下さい!」

 必死に暴れるウォルを、こちらも必死に後ろから羽交い締めにするシェラである。
 聞き苦しいわめき声と、勇ましい少女の表情にさえ眼を瞑るならば、それは卑劣な男がか弱い少女を襲っている現場に見えないこともないはずなのだが、やはりどこからどうみてもそうは見えない。精々、やんちゃな妹に手を焼くお兄ちゃんといった有様だ。
 リィはそんな二人を意図的に視界から外して、溜息を一つ漏らしながらルウの方に向き直った。

「あのさ、ルーファ。お祝いをしてくれるのは素直に嬉しいけど、あまり先走らないで欲しいとも思うんだ。昨日も言ったけど、こういうことはできるだけそっとしておいて欲しい。駄目かな?」
 
 寧ろ許しを乞うような視線で、リィは言った。
 ルウは、少しだけ驚いた表情になり、それから優しく首を横に振った。

「ううん、僕の方こそごめん、昨日だってあんなに怒られたのにね。でも、やっぱり嬉しくって。だって、僕の一番大切な人が、その人のことを一番愛してくれる人を見つけたんだもの。これが嬉しくないはずがないでしょう?」
「ま、それもそうだな」
「だから、早く赤ちゃんの顔、見せてね。それとも、可愛い赤ちゃんを優しく抱き上げるエディの顔、なのかな?」

 なんともこの人らしい言い分に、リィも苦笑するしかない。
 
「どけー、シェラー!俺は、俺は男としてリィに一矢報いねば、死んでも死にきれぬ!」
「それが、これから夫と寝所を共にするご婦人の台詞ですか!落ち着いて、今の自分を見つめ直してからそういうことはして下さい!」 
「はーなーせー!」
「でも、肝心の花嫁がこれじゃあなぁ……」
「うーん……」

 リィとルウは、ほとんど同時に溜息を吐いた。確かに、どれほど美しく魅力があるといっても、今のウォルのように色気の『い』の字もないような女性を果たして抱くことができるのか、リィにとっても前途は多難なようだった。
 難しい顔をして悩んでいたリィは、何かを閃いたような晴れやかな顔でシェラに言った。

「そうだ、シェラ。お前、女らしさってやつをウォルに叩き込んでやってくれないか?そうすれば万事上手くいくと思うんだけど」
「あ、それは名案だね!流石エディ!」
「あの、私のことを少しでも憐れと思うなら、どうかそれだけは勘弁して下さい……」

 俯せの姿勢で床に転がったまま暴れ狂う少女を、まるで荒馬に跨る若武者が如く馬乗りの姿勢でやっと制した少年は、疲労と諦念を込めた恨めしげな声を発した。



 日が高くなってから、四人は山小屋の目の前に広がる、広大な湖で泳ぎを楽しんだ。
 自分達以外の人目を気にする必要が無いから、四人とも裸である。シェラなどは、せめてウォルには水着を着て欲しいと懇願したのだが、先ほどの恨みも含めたところで、すげなく断られてしまったのだ。
 結局、あちらの世界で水浴びを楽しんだときの様子そのままに楽しげに泳ぐウォルとリィ、二人の様子を優しく見守るルウ、そして赤く染めた頬を明後日の方向へと向けるシェラという構図が出来上がり、今に至るわけだ。
 
「あー、疲れたぁ……」
「そうか?まだまだ俺は泳げるが?」
「わかったよ、ウォル。確かにお前はスーシャの河童だ。いつだってエラ呼吸を始めてくれ」

 リィが、珍しく疲労に満ちた声を出した。
 彼だって、別段泳ぎが苦手なわけではない。本職の競泳選手が相手ならいざ知らず、例えば身の程知らずなサッカー選手が相手ならば、50メートルコースのプールで周回遅れにぶっちぎる程度には早く泳ぐことができる。
 しかし、ものには限度というものがあるだろう。
 遙か広大な湖、その端から端まで泳いで競争をしようと誘われた時は、流石のリィも、己の夫の正気を疑ったものだ。何せ、リィのずば抜けた視力をもってしても、対岸は霞むほど遙か向こうにあるのだから。
 リィも必死に泳いだ。しかし、スーシャの湖で、半日どころか一日中泳いでいたというウォルの泳ぎと底なしの体力には、流石に付き合いきれなかったらしい。ギブアップこそしなかったものの、ウォルよりずいぶん遅れて元の場所に戻る羽目になってしまった。

「おい、ウォル。次は山駆けで勝負だ。今度こそ負けないからな」

 種目を問わず勝負事には結構こだわるリィであったから、いくら相手が自分の夫であったとしても、勝ち逃げされるのは業腹であった。
 ウォルは満面の笑みを浮かべて、言った。

「おうよ、望むところだ……と、言いたいのだがな。勝負は午後に預けさせて貰ってもいいか?」
「午後に?別に構わないが……どうかしたのか?」
「いやなに、少し確かめたいことがあってな」

 それは、この少女には珍しく、どうにもはっきりとしない口調だった。
 まるで何かを隠しているような、奥歯の間にものが詰まったような、もどかしい感じだ。
 リィも、少しだけ怪訝に思ったが、しかし別に問い質すほどのことでもないと思い、口に出しては何も言わなかった。
 そんなリィを尻目に、ウォルはざばりと岸に上がり、タオルで水気を拭ってからいそいそと服を着た。
 
「……どこか行くのか?」
「心配しなくても昼食までには戻る」
「お前のことだから別に心配なんてしないけど……一応、身を守るものくらいは持って行けよ?」
「ああ、わかっているさ」

 ウォルは、リィを安心させるように、手に持ったものを高々と掲げた。それは薪割りなどで使う小型の鉈だったが、この少女が使えば、そこらの騎士はもちろんのこと、狼や熊であっても十分に太刀打ちできるだろう。
 
「じゃあ、行ってくるよ、リィ」

 片手を上げて走り去る少女を、リィは湖に浮かんだまま見送った。
 しかし、リィの瞳からは、普段の彼の瞳が持つ鮮烈なまでの輝きが失われ、靄のようなものがかかっているように見えた。
 そんな彼の背後で、盛大な水音が巻き起こった。
 そこに誰がいるかなど分かりきっていたから、リィは振り返らなかった。

「心配なら、一緒に行ってきたら?将来の奥さんなんだから、大事にしてあげなくちゃ」
「おれはあいつの母親じゃないんだ。いつもべったり付き合ってやる必要なんてないさ」
「なら、どうしてそんな顔をしてるの?」

 リィは答えられなかった。ただ、胸の奥にわき起こる嫌な感じ――虫の知らせとでも呼ぶかも知れない、締め付けられるような悪寒と戦っていた。

 そして、それは的中した。

 昼食の時間が過ぎ、日が傾く時間になっても、ついにウォルは山小屋に戻らなかったのだ。



[6349] 第二十五話:紅の魔女と赤い小石
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME ID:4d255c68
Date: 2009/07/27 00:53
 月のない夜空であった。そして、星のない夜空であった。
 雲が、覆い隠しているわけではない。ただ、地上に輝くネオンの群れが、天上の灯りを押し返しているだけの話である。
 その男は窓際に立ち、眼下に広がる灰色の海を見下ろしていた。
 無機質に整った立方体の木々、その足下にはアスファルトで覆われた、雨水を通さない大地が広がっている。その上を我が物顔に闊歩するのは、四つ足ならぬ四輪の獣たちだ。彼らの鋭い眼光が――ヘッドライトの灯りが整然と並び、無数の多足類が行進しているように、何ともおぞましく見える。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 くつろいだ部屋着姿の男は、自らの安い感慨に呆れたように溜息を吐き出した。
 全く、いつから自分はこんな人間になったのだろうか。
 自分は、それほど上等な人間じゃあない。
 ならば、こんな高いところが人を見下ろせば、人が見えなくなって当然だ。
 だからこそ、権力者は高見に居を構えたがるのだと思った。高いところにいれば、低きの雑踏は届かない。悲鳴も、阿鼻叫喚も、嗚咽を垂れ流して懇願する声も。
 そうでなくては生きていけないのだろう。泣き叫ぶ隣人を見捨てられるほどに人は強くはなく、しかしそれを切り捨てられなければ権力者としては生きていけない。
 詰まるところ、人は視力が弱すぎる。たったこれだけの距離で、全てを覆い隠してしまえる程に。
 だからこそ、男はもっと高いところが好きだった。
 地表よりも高く、高層ビルの屋上よりも高く、対流圏よりも成層圏よりも中間圏よりも熱圏よりも、この星よりもなお高く。
 あそこはゆりかごだ。あらゆる懊悩が、煩悩が、あの場所では一握りの意味も持たない。
 宇宙船の、薄っぺらな外殻の外に広がる、無限の死の世界。あそこでは、どう足掻いたところで人は生きることが許されない。人が生きられるのは、宇宙に散点する、それ自体の大きさに比べれば泣けるほどに小さな小石の表面だけ。そして、その小石の上ですら人はおっかなびっくり生きるしかない。
 ならば、どこにいようと同じことだ。そして、どうせどこかで生きなければならないなら、できるだけ煩わしいものは少ない方がいい。そうに決まっている。
 だから、男は宇宙が好きだった。愛している、と表現しても過分ではない。
 しかし、人が生きるということは、煩わしいを溜め込む作業と同義だ。人は生きる度に、煩わしいを背負い込んで、段々と身動きが取れなくなっていく。
 男は、できるだけ何も背負わずに生きてきた。生きてきたつもりだった。
 そして、死んだ。
 衆目の知るところである彼の華々しい生涯――そして衆目の知らないところの彼の苛烈な生涯――には些か相応しく無い、凡庸とした死に様であった。
 彼は、それで満足していた。人が死ぬということは所詮そういうことだ。それ以上ではない。
 なのに……なのに、何の因果か彼は再び生を得て。
 ほとんどの煩わしいから解放されたはずの彼の肩には、極めつけに重たい煩わしいが残っていた。それも、二つも。
 もういい加減にしてくれ、と思う自分がいる。反面、その重量を心地よく、何物にも代え難いと思ってしまう自分がいる。
 果たしてどちらが本当かとはあまりに惚けた質問だろう。そこまでは耄碌しちゃあいないさと、男はたった一人で毒づく。
 にやりと、他人が見れば背筋が冷たくなるような笑みを浮かべた男に、呆れたような声が飛んできた。

「どうした、海賊。思い出し笑いか。気持ち悪いぞ」

 にべもない、とは正しくその言葉のことを指すのだろう。
 それは、一度死んでも剥がれてくれなかった煩わしいのうち――彼が愛した二人の女のうち、生身の身体を持つ方の女の声だった。
 男は視線を部屋の中に戻す。
 清潔で手入れの行き届いた室内。スイートではないものの、十分に広々としたデラックス・ダブルだ。予約も無しの飛び入りで借りたのだから、中々の部屋が取れたと満足していた。
 男は王侯貴族ではなかったから、別に自分が泊まる部屋のランクに拘りがあったわけではない。たった一人で眠るなら、木賃宿の安ベッドであろうが地下道の固いコンクリートの上であろうが、彼は満足に眠ることができる。それは、つい今し方、男のことを海賊呼ばわりした女も同じことだろう。
 だが、女と一緒に、連れ合いと一緒に眠る夜なのだから、できるだけ豪勢なベッドが良い。それこそ天蓋付の、王族が眠るようなふかふかベッドが最高だ。
 要するに、見栄である。
 女の前では見栄を張りたい。張らなければならない。だからこそ男には生きる価値が生まれるし、生きる意味も生まれるというものだろう。女の前で見栄の一つも張れなくなったとき、それは男を失業したときに他ならない。
 そして、彼が見栄を張るべき女は、男用のガウンで包んだその大柄な身体を、柔らかなソファに埋めて男の方を眺めていた。シャワーを浴びた直後なのだろうか、豊かな赤毛が僅かに湿り気を帯び、普段よりも幾分柔らかそうに見える。
 男は、自らの妻の艶姿を、それとも雄姿を眺めながら、諦めたように呟いた。

「男が七十年も生きてりゃあ、愉快な思い出の一つもあるさ。思わず笑っちまうようなへまだってある。それを思い出せば、笑いの一つも零れるもんだ」
「別に、思い出し笑いがいけないとは言っていないぞ。ただ、窓の外を眺めながらにやにやしていると、覗き魔と間違われるだろう。私は、そんな情け無い疑いを夫にかけられて、平然としている自信が無いんだ」

 男は――ケリーは、肩を竦めた。
 確かに、彼の人生で覗き魔と『疑われた』ことはない。強姦魔として疑われたことは、もちろんのこと疑い以上のものではなかったとしても、あったりするのだが。

「いいじゃねえか、覗きの一つや二つ。相手に気取られて泣かせるようなへぼ・・は問題外だが、こっそりと拝む分には許容の範囲内だ。特に、厳重な警戒態勢にある女風呂を決死の覚悟で覗く勇者なんて、俺は騎士十字勲章もんだと思うがね」

 女は――ジャスミンは、じとりと厳しい視線を、自分の夫に向けた。

「その意見の是非は置いておいて、まるで自分を褒め称えるような口振りだな。まさか海賊、お前はその勇者とやらになったことがあるのか?」
「さて、どうだろうな。もうだいぶ忘れちまったが、遠い昔にあったかも知れねえな」

 遠い、遠い昔のこと。男と女が出会うよりも、遙か昔。
 男が少年で、まだ女の身体の温もりも知らず、遠距離狙撃ライフルの冷たい銃把を抱きかかえて眠っていた遠い昔。淡い恋心を抱いた少女の湯浴み姿を覗き見るために、最前線の塹壕から頭を出すよりも、少年は勇気を振り絞ったかも知れない。
 果たして、勇者は功を成し遂げたのだろうか。少女の裸体の美しさを網膜に焼き付けたのか、それとも勘の鋭い少女に感付かれ、いつものように盛大にからかわれたのか。その少女の胸元では、彼が送った玩具の指輪が安っぽい輝きを湛えていたに違いない。
 ケリーは、胸の奥に仕舞い込んでいた思い出を宝物のように愛撫してから、こっそりと元に戻して厳重に封をした。ひょっとしたら死ぬまで開けることは無いかも知れない。
 思い出なんてそんなものだ。
 ただ、ケリーは、片頬だけを歪めて微笑んでいた。苦笑というには邪気がなく、冷笑と呼ぶには暖かすぎて、微笑と名付けるにはほろ苦い。一言で言えば、この上なく謎めいた、そういう男が好きな女が見れば、一撃でコロリといってしまうような笑みだ。
 ジャスミンなどには、ケリーの端正な顔の上に浮いたそれが、彼の幼年期における数少ない幸福の、最も大事なところを愛でている表情に思えてならなかった。
 
「しかし女王よ。俺も結構長生きしてるほうだとは思うがな、女に気持ち悪いと言われたのは初めてだぜ」

 ケリーは、今度こそ微笑みながら言った。
 そしてジャスミンも平然と答えた。

「当たり前だ。私以外にお前のことを気持ち悪いと言う女がいたら草の根を分けてでも見つけ出して会いに行くぞ」

 その言葉に、ケリーはぽかんと目を丸くしてから、訝しげな声で言った。

「見つけて、その後はどうするんだ?まさか折檻するとか名誉毀損で訴えるとか、そんな物騒なことは言わねえよな?」

 おそるおそる、といった調子の声だった。
 いわゆる一般論としてであるが、夫が侮辱されたから妻がこめかみに青筋を立てながらその意趣返しをする、広い宇宙であるからそういう夫婦は現実に存在する。クーア・カンパニーの中でも、例えばセクハラで解雇された夫の無実を証明するため(少なくとも本人はそう確信していたそうだ)、会社の営業部に一日千単位の悪戯電話をかけて、業務妨害で告発された妻というのも存在した。
 愛は人を狂わすというが、それは比喩ではなく事実であることをケリーは知っていた。しかし、この世の女性の全てが愛に狂ったとして、少なくとも一人はその抗体ないし免疫を持っていると確信していたから、彼は内心で神の名を呟いたりした。
 そんな夫の前で、妻は平然と答えた。

「当たり前だ。私は暴力が嫌いだし、もめ事だって大嫌いなんだ。そんなことをして、一体何になる。それよりも、そんな貴重な女性がいるならば、同じ女として、是非一度話をしてみたい。こんなにいい男のどこがどう気持ち悪いのか、酒でも酌み交わしながら一晩は語り合いたいと思うぞ」

 これが、例えば同じベッドの中で汗を流した後に、唇を耳に寄せながら睦言の一つとして語られたなら、愛いやつよと頭の一つでも撫でてやりたくなるかも知れない。だが、まったくのしらふで、しかも大の男でも尻込みするほどの鋭い眼光を向けられながら言われたのでは、千年の恋も冷めようというものだろう。
 無論、それも普通の男であれば、だが。
 そして、どこからどう見ても普通の男ではない――体格も、容貌も、そしてその経歴も――ケリーは、

「……ま、褒め言葉と受け取っておくさ。しかし女王よ、俺の聞き違いかい?さっき、あんた暴力が嫌いとかどうとか……」

 会話の本旨からは少しずれるが、どうにも聞き逃せない一言であった。
 ジャスミンは、やはり平然と答えた。

「大嫌いだぞ、暴力は、そも暴力とは、合法性や正当性を欠いて振るわれる物理的な強制力のことだろう。例えば王様が、無聊を慰めるためだけに奴隷を嬲るような。そんなもの、想像しただけで怖気が走る」

 確かに、ジャスミンは不当な暴力を極端に嫌う。彼女がその卓越した腕力を振るうのは、基本的には最終手段である。彼女は、少なくとも彼女の主観として、精一杯に粘り強く交渉して、相手を宥め賺して、それでも埒が明かないときに、その埒をこじ開けてやる手段の一つとして腕力にものを言わせるだけなのだ。
 ただ問題は、埒を開けるために腕力を振るう回数が常人よりもちょっぴり多くて、その被害の範囲と状況が、やはり常人のそれよりもほんのちょっぴり悲惨なものになることが多いと、それだけの話だ。
 と、赤毛の雌虎は思っている。
 ケリーは、苦笑を浮かべながらその意見を是とした。どう考えても、この女の言っていることは正しい。

「なるほど、そういう意味ではあんたと暴力は正反対にある。磁石の同極同士だって、もう少しは仲良しだろうさ」

 ジャスミンは、当然のことを言うなとばかりに胸を反らし、機嫌を損ねたように鼻息を吐き出した。
 そして、サイドテーブルに置いた空のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、一息で飲み干した。
すると、彼女の、少しだけ不機嫌だった顔が柔らかに綻んだ。

「良い酒だ」
「俺も一杯貰えるかい?」

 ジャスミンはサイドボードからもう一つグラスを取り出した。
 飲み方は、尋ねなかった。水割り用の水も氷も用意していなかったし、ケリーもジャスミンも、良い酒をわざわざ水で薄めて飲むほど勿体ないことはないと常々思っているからである。
 とくとくと、いつまでも聞いていたくなるような耳に優しい音が、広い室内を満たす。
 彼らの規格からすれば手のひらサイズよりも更に一回り小さなグラスに、ウイスキーが満ちていく。
 ほとんど擦り切り一杯、表面張力が最初の一滴を溢すまいと必死に頑張っているような頃合いで、ジャスミンは酒を注ぐのを止めた。
 
「ありがとよ」

 そのグラスを横からひょいと手に取ったケリーは、一滴も溢すことなく口元まで運び、やはり一息で飲み干した。
 既に半分ほども空いているウイスキーの瓶に張られたラベルは、酒のことに詳しい人間ならば軽く目を見張るほどに有名で、そして高級な品種のものだった。
 二人はそれを、水か何かと勘違いしているように、呆気なく飲んでいく。この光景を余人が見ればなんと勿体ないと嘆いたかも知れないが、これが彼らなりの酒の嗜み方であったのだから誰に文句を言われる筋合いもない。
 しばらく二人は他愛無い会話を楽しみ、そして酒を楽しんだ。
 やがて、酒の魔力と一日の疲れが、心地よい眠気を誘い始めた頃合いであろうか。
 ケリーは、テーブルの上に置かれた一欠片の小石に目をやった。

「何か、分かったか?」

 主語も目的語も省かれた問いであったが、それが何を指しているかは明白である。
 ジャスミンは、ケリーの視線の突き刺さった小石を手に取り弄びながら、もう片方の腕を隣に腰掛けた夫の肩に回した。
 ジャスミンは身長191㎝とそれに相応しい体重を誇る、大柄な男でも見上げるほどに大きな女性だ。その彼女をして、夫であるケリーは更に一回りでかい。
 まったく、彼女が肩に手を回して自分より高いところに肩のある男性が、そしてこれほどにいい男が、宇宙に二人といるはずがないことを彼女は知っていた。自身で語っていたことだが、ジャスミンは自分の男を見る目が、宇宙で一番優れていることを知っていたのだ。

「そうだな……。私も一つ聞きたいと思っていたところだが、海賊よ。お前は、1トンの岩石に200グラムのトリジウムが含まれている鉱山というのを聞いたことがあるか?」
「……なんだって?」

 ケリーは、耳を疑った。
 ジャスミンなりのジョークかとも思ったが、この女はそれ程にジョークが下手なわけでもない。吐くにしても、もう少しマシな冗談を吐くはずだ。
 次に、彼は、自分の隣に座った女性が酔っているのかとも思ったが、その横顔は僅かに朱が刺した程度だ。だいたい、この程度の酒で頭の回転が鈍るほどにかわいげのある女じゃあない。
 最後に、彼は溜息を吐き出した。どうやら女がいたってまともで、そして真剣なのだと悟ったからだ。
 そして、頭を横に振りながら、言った。

「いや、寡聞にして聞いたことがねえな」

 ケリーの言葉を聞いてから、ジャスミンは再び問うた。

「では、お前の持っている鉱山はどうだ?」

 既に過去の話として忘れ去られつつあることだが、宇宙に数多いる海賊達の頂点に立つと言われた男――海賊王は、彼しか知らない秘密のトリジウム鉱山を隠し持っていた、という伝説がある。それは、宇宙を生活の場とする男達の間では、今だってまことしやかに囁かれている伝説である。
 その噂が完全な事実であることを、この夫婦は知っている。ジャスミンは間接的に、そしてケリーはもっとも直接的に、だ。
 ジャスミンとケリーとの間でその鉱山のことが話に昇ったのは、彼らが出会って最初の頃の数回だけで、それ以降は二人ともがその話をしたことはない。別に、腫れ物に触れるように気を使っていたのではない。その必要が全く無かったからだ。
 ケリーは、その鉱山の場所を無理矢理秘密にしていたわけではない。とりたてて喚き散らして格好良い話でもなかったし、そうする理由も無かったから誰にも話さなかっただけのことである。何故なら鉱山があるのは、その場所を知ったとしても誰も辿り着くことのできない場所なのだから。四十年前は、そこに至る『門』の特殊性から。そしてショウドライブの隆盛を極める今となっては、もっと単純にその距離から。
 付け加えて言うと、軍や警察などの公的機関にひた隠しにしていたのは、ただ単に嫌がらせの一環である。
 ジャスミンは、そういうものは一番最初に見つけた者の持ち物だと思っていたから、例えば『そんな貴重なものを独り占めするなど全人類の損失だ!』とかいうふうに青筋を立てて叫ぶこともなかったし、妻としての権利を居丈高に主張して、その半分を寄越せということも無かった。ただ、必要があるならウチで買い取るぞと、その程度のことは言ったかも知れないが。
 そしてこれが一番重要なことであるが――この二人は、ついこないだまで、そんな重要なことをすっかり忘れていたのだ。片や一度死んで生き返った『ゾンビ組』の一人、片や四十年の長きに渡り眠り続けた眠り姫である。そんな『些末事』に意識が向かなかったとしてむしろ当然なのかも知れない。
 だが、ついこないだに、海賊王の財宝を巡ってささやかな事件が一つあり、嫌が応にも二人はそのことを思い出したのだ。
 まったく、これだから煩わしいは少ないに限ると、内心で毒づいたケリーは、自分の鉱山のことを思い出しながら答えた。

「さてな。あれは例外中の例外だから他と比べるても意味がないと思うぜ。なにせあの星におけるトリジウムは、他の星でいうところの石ころと同じくらいの希少価値しかないんだからな」

 確かに、地表全てがトリジウムで出来ているという岩石惑星を基準にしては、他のトリジウム鉱山を有する惑星も立つ瀬がないというものだろう。
 そういった極々少数の例外を除いて言えば、トリジウムは『魔法の金属』とまで呼ばれる希少金属であり、特にエネルギー関連において、その価値は計り知れない。この場合のエネルギー関連というのは、主に宇宙開発部門におけるエネルギー関連のことであり、その貴重な資源のほとんどが宇宙船や宇宙ステーション等の動力源に使われる。
 そして、この広い宇宙でも事業として採算が取れるほどに優良なトリジウム鉱山は数える程しかない上に、その含有量においては『1トンの岩石中に20グラムが含まれていれば最優良鉱山』と言われるほどに希少なものなのだ。
 ジャスミンが人工的な眠りについている間に、当然のことながらいくつかのトリジウム鉱山が発見されたものの、それとほぼ同数の鉱山が資源の枯渇による廃鉱に追い込まれていることから、全体的な採掘量は四十年前とほぼ横ばいである。そのような状況であるから、海賊王の財宝に目の色を変える愚か者というのは、意外なほどに数多い。そして、その埋蔵量と含有量のことを正確に知れば、その数は激増するだろう。
 そんな夢のような惑星には及ばずとも、ジャスミンの口にした数字は平均値の10倍である。しかも、密輸組織が関わっているところを見るに、ケリーのような特殊技術を持つ者のみがたどり着ける所にある星というわけでもないらしい。
 これがどれほど重大なことなのか、自らが望むことではなかったとはいえ、一時は経済界の最重鎮たる地位にいたケリーは十分に理解していた。

「女王。まさかその石がそうだっていうのか?」

 ケリーは、ジャスミンが手にした赤い小石を、睨みつけるようにして言った。
 ジャスミンは、重々しく頷いた。

「この世のどこに、そんな、夢のようなトリジウム鉱山が転がってもらっていても構わない。ただ、我々には迷惑のかからないよう、できるだけひっそりと、こっそりと転がっていて欲しかったものだ」
「全く同感だ」

 当然のことながら、研究者が発狂しかねないほどの高純度にトリジウムを含んだその小石を、ジャスミンは道ばたで拾ったわけではない。
 半年ほども前、彼らの孫であるジェームスと、その学友であるリィやシェラなどが巻き込まれたある事件、その証拠物件として回収されたトリジウム原石を、気付かれない程度に拝借したものである。
 その『ある事件』は、既に解決されて久しい。結論から言えば、ジェームスやリィ達からすれば、全くのとばっちりを受けたと言っていい傍迷惑な事件であった。ただ、たった一人の犠牲者も出すことなく解決できたことは関係者達にとって唯一僥倖と呼べるものだっただろう。与論として、一人の生徒が連邦大学を去ることになり、辺境惑星の政治家が一人辞任に追い込まれたものの、それらはやはり関係者にしてみれば些末事でしかなかった。
 ただ、一連の事件の首謀者ですら予想しなかったところで、この事件は思わぬ展開を見せた。連邦大学の学生達が遭難した未登録惑星に、トリジウム密輸組織の中継基地が存在したのだ。
 事件に巻き込まれたかたちのリィとジェームスは、彼らの意図とは完全に沿わぬかたちでそのアジトにおいて組織の末端構成員と抗戦するこことなり、ジェームスを庇ったリィは思わぬ手傷を負って、あわや二度と走ることのできない身体になるところだった。
 その後、基地からの通信によって彼らの居場所を知り、即座に駆けつけたルウ、ケリー、ジャスミンとダイアナの活躍によりその基地は壊滅、リィとジェームスも助け出された。
 表向きは、マクスウェル運送のダン・マクスウェルがその英雄的行為によって解決したとされている、事件の真相はそれであった。
 だが、少なくともケリーとジャスミンの間においては、事件はまだ解決していない。
 なぜなら、そのトリジウム密輸組織そのものの本格的な摘発が、未だ成されていないからである。
 連邦大学の学生の救出とともに摘発された密輸トリジウムの量は、まさしく驚くべきものだった。さして大きくない倉庫に積まれた未精製トリジウム原石だけで、名だたる大会社を一つ買収してお釣りが来るほどのものだったのだ。政府関係者の間では、生徒達全員が無事に救出されたというニュースよりも、そちらのほうを重要視する声が大きかったとして寧ろ当然だろう。
 徹底した調査が行われたのは言うまでもない。ケリーやジャスミンのような変わり者を除いて、トリジウム鉱山は人類の宝である、というのが一般的な共通認識と呼べるものなのだから、軍や警察は文字通り血眼になって関係組織と、密輸トリジウムの採掘鉱山の摘発に乗り出した。
 関係者の尋問も、ブレインシェイカーの使用も含めたところで、徹底的に行われた。逮捕された末端構成員への尋問は特に苛烈を極め、拷問の一歩手前であったとさえ言われている。
 それでも、組織の大本はいまだその尻尾さえ捕まえられていないというのが現状だし、鉱山に至っては影も形も見当たらない。それは、組織における秘密主義が徹底したものであったことの証であり、組織としての熟練度が相当に高いものであることの証だ。
 そして、手詰まり状態にある政府関係筋の間で、まことしやかに囁かれ始めた噂というものが在るという。

「で、お偉方は一体何て言ってるんだ?」

 いい加減にしてくれというふうな口調で、ケリーは言った。
 それに答えるジャスミンの顔こそ見物であった。
 完全に真剣な顔で、しかし彼女に近いしい者が見ればそれと分かる程度に笑いながら、言った。

「真犯人はお前なんだとさ、海賊」
「おれぇ!?」

 がばりとソファから身体を起こしたケリーが、詳しく説明を求めるというふうな顔でジャスミンを凝視した。
 ジャスミンは、豊かな赤毛を掻き上げて、やはりうんざりしたような、そして微量の笑いの成分を含んだ声で説明した。

「あれだけ大規模なトリジウム密輸事件だ。そんじょそこらの木っ端海賊やら小銭に目の色を変える不正役人やらがお膳立てできる仕事じゃないだろう。背後に、相当な大物がいると見るのが当然だ。そして、その大物は、どうやら驚くほどに純度の高いトリジウム鉱山を秘匿している。これでは誰かさんが犯人だと、大声上げて宣伝しているようなものだ。そうは思わんか、海賊王」
「……ひでえ冗談だ」

 額に手を当てながら項垂れたケリーである。
 彼は品行方正に――他人が見ればどう言うか別にして――生きてきたつもりだ。お天道様に顔向けできないような、人に後ろ指さされるような生き方は、一度足りとてしたことがない、と思っている。
 なのに、この仕打ちはどういうことだ。
 自分達の、たった一人の孫であるジェームスと、言葉では語り尽くせぬ程に大きな恩義のある小さな戦士の二人を亡き者にしようとした不貞な輩の首魁が、自分だと疑われているという。しかも、それが相当以上に蓋然性のある話だから性質が悪い。
 もし仮にこんな話が、リィはともかくジェームスあたりの耳にでも入れば、海賊王のイメージは地に落ちるというものだろう。別に、他人が付けた自分の渾名に思い入れのあるケリーではなかったが、仮にも自分の呼び名の一つが孫から忌み嫌われたのではやりきれない。それも、自分以外の責任で、だ。
 そうでなくても、昨今の『海賊』という言葉に含まれるイメージは荒廃を極めている。昔の海賊は、宇宙の男、義賊、何にも縛られない自由といった正のイメージと、犯罪者、ならず者、アウトローといった負のイメージが渾然一体となった、なんとも言葉では表しがたい存在だった。
 男ならば、それをロマンとでも言い表したかも知れないし、女は一笑に付しただろう。
 ケリーは、そんな『海賊』達を心から愛し、自分がその一員であることに、それなりの誇りを持っていた。例え自分が彼らの生業に手を出したことがなかったとして、やはり彼らは同業者であった。
 それが今や、この体たらくである。
 『海賊』とは呼べない海賊達は、船員や乗客を皆殺しにしてその財産を奪う卑劣漢であったし、あるいは人身売買や法外な身代金で身を立てるこすっからいビジネスマンであったし、もしくは禁制の麻薬のけちな運び屋でしかなかった。
 そしてどうやら、ついに自分の名前もそれらの唾棄すべき連中の横に並ぶ羽目になったのかと、ケリーは見たこともない神を呪い殺したくなった。
 そんなケリーに――自分の夫に対して、ジャスミンは優しい慰めの言葉をかけたりしなかった。

「それだけならいい。お前の昔の名前の一つが地に落ちるだけだ」

 ジャスミンは、冷たくそう言い捨てた。
 それを聞いてケリーは、怒髪天の怒りに身を任せ……たりはしなかった。
 唖然とした表情を一瞬だけ浮かべてから、なるほどと頷いたものだ。

「そうだ……そうだな、女王。それだけの話だ。今更に惜しいものでもない。今の俺は海賊王でもケリー・クーアでもない、ただのケリーなんだからな」

 なるほど、この女はやはり自分に似合いだと、ケリーは再認識していた。
 確かに、名前の一つが地に落ちて泥に塗れようと、それがどうだというのか。ケリー・エヴァンスだろうが、ウィノアの亡霊だろうが、義眼の海賊だろうが、海賊王ケリーだろうが、クーア財閥三代目総帥ケリー・クーアだろうが、全てはただの呼び名、呼称に過ぎない。どれにも愛着はあるが、それらはケリーが影響を及ぼすものであり、脱ぎ捨てたとしてもケリー自身に何の影響を及ぼすものではないのだ。
 僅かな気落ちと、直後の精神的再建を果たしたケリーは、真剣な面持ちで呟いた。

「確かに、俺の名前が悪名高くなるのは問題無い。元々聖人君子サマのお名前だったわけでもないしな。ただ、それが原因で、今の時期に海賊王ケリーに注目が集まるのはよろしくないな」
「ああ。まったくもってよろしくない。むしろ最悪だ」

 四十年前、彼らが結婚した直後でさえ、ケリー・フライトという男とケリー・キングという海賊に共通項を見いだす警察関係者は数少なくなかった。彼が逮捕されなかったのは、その配偶者の卓越した情報操作技能と、彼女の社会的な身分によるところが大きい。
 そして、四十年である。
 ケリー・フライトからケリー・クーアになり、世紀の逆シンデレラストーリーを為した男はこの世を去ったが、ここに来て海賊王の名前が再び世に出てきた。
 このことと、ケリーの復活を結びつける者が、果たして皆無だと言えるだろうか。彼の蘇生を知る数少ない人間には、有形無形を問わない圧力をもって悉くの口を塞いでいるが、しかし人の口は存外に軽いものであることを彼は知っている。このような状態で、万が一にも彼の存在が世間に知られてしまえば、功名心や利得心に目の眩んだ三下共が、それこそ目の色を変えて自分達をつけ回すだろう。そうなってしまえばこの気楽な放浪者生活とも別れを告げなければならなくなるし、宇宙を気ままに飛び回ることだってできなくなる。
 そのような事態は、ケリーにとっても、その妻であるジャスミンにとっても、そしてケリーの相棒である彼女にとってもありがたくない話であるはずだった。
 更に言えば、もう一つ、彼らの懸念していることがある。
 それは、今回の事件で相当の痛手を被ったであろう、密輸組織の報復である。
 この事件は、表向きは、ダン・マクスウェルの活躍によって解決したことになっている。
 文明の無い未開の惑星に置き去りにされた無力な子供達を助け出し、トリジウムの密輸に手を染める凶悪な組織のアジトを単身で制圧するという、正しく英雄的行為だ。マスコミが騒がないはずがない。流石に直接的に名前を書くことはなかったが、見る者が見ればそれと分かるような書き方で、ダンの勇気と行動力を褒め称えた。
 当然の如く、ダンの名は一躍ヒーローの代名詞となった。
 それを見て、ケリーもジャスミンも、マスコミの浅慮と視野の狭さに舌打ちを隠せなかった。ダンが潰した――実はリィとルウがほとんどだが――のはあくまで組織の末端、その一部に過ぎない。彼らに指示を下していた蛇の頭はまだ健在だというのに、その功労者の実名を流すのがどれほど危険なことなのか、彼らは分からないとでもいうつもりだろうか。
 ジャスミンは、自身の持つ裏側の力の全てを使って、マスコミに圧力を掛け、加熱した報道合戦を収めさせたが、一度流れた情報を無かったことにするのは人一人を生き返らせるよりも難しい。
 結局彼らに出来ることは、ダンに注意を促すことくらいしかなかったのである。するとダンは、

『犯罪者に恨まれるなど、今更でしょう。今までだって、散々恨まれていますからね、慣れっこです。それに、世間の注目は、出来るだけ僕に集まってくれたほうがありがたい。会社の売上げにも直結しますしね』

 そう笑って応じたが、それは両親を安心させるための方便だろう。
 加えて言うならば、ダンに注目が集まってもらえるとありがたいというのはダンの本意でもあった。無論それは、会社の売上げなどという即物的な観点以外のところで、だ。
 この事件の解決についての実質的な立役者であり、ダンの息子であるジェームスの命の恩人でもあるリィは、その卓越した外見と能力に相応しく無く、誰からも注目されずひっそりと暮らすことを望んでいる。
 もしも彼がこの大事件を解決に導いた英雄であると知れば、マスコミは、ダンを讃えた以上の熱意と弁舌でもって、リィのことを褒めそやすだろう。僅か十三歳の少年、それも映画俳優やモデルが霞んで見える程の美少年が、友人を守りながら悪漢共を単身で制圧した。これほどにマスコミが好むネタなど、政治家の醜聞以外は見当たらない。そこまでいけば、果たしてジャスミンの力でもってしてもマスコミを押さえ込むのは難しくなるに違いない。当然、リィは好奇の目に晒され、『知る権利』のもとにプライバシーを奪われ、動物園の檻に入れられたような生活を強いられることになる。
 それは、リィを含めたところで、誰しもが望むところではなかった。だから、ダンがその役を引き受けたのだ。
 ダンは大人であり、経済界においてもそれなりに名の知られた人物である。ならば、『知る権利』をお題目のように振りかざすマスコミ連中にも立ち向かうことが十分に出来るし、周囲の人間に累を及ぼさずに諍いを収める術も十分に身に付けている。
 それに対して、リィは子供だ。その中に詰まったものを見抜ける数少ない人間は別にして、彼を見る者は、まずその外見で判断する。その時に、リィが如何なる弁舌を駆使しようと、所詮は子供の戯言で片付けられてしまうケースが、今までだって数え切れないほどにあった。それはリィの責任では勿論ないし、リィ以外の者の責任でもないはずだった。
 だからこそリィは、ダンの行動を、自分を庇うためのものであると判断したし、それなりに感謝もした。リィの中でのダンの評価を押し上げる原因にもなった。当然、自分の力の及ぶ範囲ではダンやジェームスの安全を害させないと決意もしている。
 しかし、やはり現在のダンは、決して心安らぐ立場にいるとは言い難い。彼の操るピグマリオンⅡは辺境最速を誇る快速艇であったし対海賊用の武装も積んでいるが、それでもやはり民間船の域を出ないものだ。海賊に襲われたときに万全かと言われればそこまでのものではないと言わざるを得ないだろう。
 それがジャスミンには歯痒いらしい。クインビーのように20センチ砲を積んではどうかと提案もしてみたが、それでは要らぬ疑いを掛けられて商売にならないと、母親のふり・・を見て我がふり・・に思いを馳せたダンは苦笑混じりに答えた。
 ともかく、そういう事情が積み重なって、この規格外れの夫婦は、自由気ままに宇宙を飛び回ることが難しくなっていたりするわけだ。
 ケリーは嘆かわしそうに天井を仰ぎ、遣り切れないふうにぼやいた。

「ったく、そろそろダイアナが騒ぎ出すぞ。いつまでこんな温い宇宙で私はぷかぷか浮いていなけりゃならないのよ、ってな」

 ケリーは、自らの無二の相棒が頬を膨らました様を想像して、口の端を持ち上げた。
 ケリーの心を射止めた女性のうちの、生身の身体を持たない方は、生身の身体を持つ方に負けず劣らずに危険物だ。自分がその相棒に相応しく無いと判断したら、いつだって自分を置いて未知の宇宙に飛び出してしまうだろう。そうなっては、きっとどこかの誰かに特大の迷惑をかけるのは目に見えているので、自分だけは危険物ではないと確信している――もしくは二人に比べればまだマシであると信じている――ケリーは、重たい溜息を吐き出した。
 まったく、こういうときに貧乏くじを引くのはいつだって善良な一般市民なんだぜ、と。

「そうだな。人間だって宇宙船だって武器だって、なんだってそうだ。きちんと整備して、働かすべき時にはきちんと働かしてやらないと、不機嫌になって暴発することがある。ガス抜きは必要だ」

 などと、自分以外の二人の暴発に思いを馳せて、ジャスミンは心を痛めた。
 宇宙生活者であった祖父マックス・クーアの性質を引き継いだジャスミンには、自分の夫と、その相棒であるダイアナの組み合わせが、正しく奇跡の賜だと思っている。他の何物よりも速く、そして巧みに宇宙を飛ぶという命題を持った自立型感応頭脳と、安定度80以下の『門』でも鼻歌交じりに突っ込むような凄腕のゲートジャンパー。この二人がこの無限に広がる宇宙で出会ったなど、神の御業以外の何だというのか。
 だからこそ、この二人を宇宙以外の場所に引き留めるものの存在が、ジャスミンには心底許しがたかったし、暴発した二人のことを考えると頭が痛い。ましてケリーは、自分の名前に汚泥をなすりつけられたも同然なのだ。
 ひょっとしたら、自分を囮にして組織の壊滅を図る、それくらいのことは平然としかねない。いや、それで片が付くならば、この男は喜んでそうするだろう。そうなっては、きっとどこかの誰かに特大の迷惑をかけるのは目に見えているので、自分だけは危険物ではないと確信している――もしくは二人に比べればまだマシであると信じている――ジャスミンは、重たい溜息を吐き出した。
 まったく、こういうときに貧乏くじを引くのはいつだって善良な一般市民なんだぞ、と。
 同じような溜息を吐き出した似た者夫婦、その遙か頭上で、彼らの会話の一部始終を聞き取っていた月の女神が、電子の海に浮かびながら、生身の二人と同じような溜息を吐き出したか否か。
 とにかく、その夜の彼らは同じベッドの上で眠った。幾分冷え込む夜だったので、互いの素肌の温もりが何よりもありがたかった。



 翌朝、二人は同時に目を覚ました。
 二人が現在の仮住まいをしているホテルは、連邦大学、惑星ティラ・ボーンの中緯度地域にある。彼らが連邦大学に留まっているのは、一つには彼らの孫であるジェームスの晴れ舞台を観戦するため。一つは、その安全を守るためだ。TBOが開催され他所からの観客が増えるこの時期こそ、不貞の目的をもった人間が侵入するにはもっとも都合が良い。更に言えば、彼らにとってかけがえのない友人のうちの幾人かが、この星で学生生活を営んでいるから、彼らに会いに行くのに便利がいいというのもある。
 とにかく、彼らはここで、結構気ままな生活を送っていた。
 無論、惰眠を貪っていたわけではない。ジャスミンはクーア・コーポレーションの監査という大仕事をほとんど一人でこなしていたし、ケリーはそのサポートに骨身を惜しまなかった。当然のことながらクーア・コーポレーションの本社のある惑星アドミラルに足を伸ばすことも多いが、連邦大学の近くにあるゲートを使えばそれも二日ほどで往復できることから大した負担にはならなかった。
 そうして、常人であれば一週間と待たずに身体を壊すような激務の合間に、事件の調査報告の分析を続けていたジャスミンは、彼女を呼び出す電子音を聞いて飛び起きたのだ。当然のことながら、彼女の隣で心地よい睡眠を堪能していたケリーも目を覚ました。
 おはようの挨拶を交わすこともなくベッドから飛び出したジャスミンは、ホテルに備え付けのパソコンではなく、自前の携帯型情報端末を机に広げ、猛烈な勢いで操作を始めた。

「どうした、女王」

 ジャスミンの様子が普段のそれではないことを悟って、ケリーは訝しげに尋ねた。
 しかし、忙しなく情報端末を操作するジャスミンには、そんな声ですら届いていないようだった。こうなると自分が邪魔者でしかないことを知っているケリーは、黙って彼女の、鍛え抜かれた背筋と形の良い尻を眺めて、満足の吐息を吐き出した。
 
「眼福だねえ……」

 そんな暢気な呟きに、ジャスミンの、獅子の咆吼にも似た声が重なる。

「ビンゴだ、海賊!」

 振り返ったジャスミンの顔には、歓喜と、それ以上のものが刻まれていた。
 それは、ケリーなどには馴染みの深い、戦いを前に勝利を確信した紅の魔女が浮かべる、好戦的な微笑みであった。

「獲物が網にかかった!さっさと準備をしろ、海賊!いくさだ!」

 一糸纏わぬ姿で戦気を上げるジャスミンを、ケリーは眩しいものを見るように眺めながら、

「いくさ場はどこだ、女王」

 穏やかとも言える口調で問い返した。
 ジャスミンは、やはりにやり・・・と笑い、金色の瞳を輝かせながら答えた。
 
「惑星ヴェロニカだ」




 蛇足ではございますが、手前のホームページにて『チェイニー君の憂鬱』なる短編の連載を始めました。もしよろしければそちらもご覧ください。



[6349] 第二十六話:少年と茨姫、出会うの縁
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/09/22 22:25
 長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号は、正しく絶体絶命の危地にあった。
 だからといって、例えば飢えたライオンよりも獰猛な宇宙海賊に襲われているわけではないし、20センチ砲の通用しない正体不明の巨大不定形宇宙怪物と戦っているわけでも、巨大隕石との衝突を間近に控えて安っぽいパニック映画のような大混乱に見舞われているわけでもない。
 もっと地味で、しかし最も根源的な危機だ。
 航海自体は順調そのものである。長距離航海ではつきものと言ってもいい感応頭脳の不具合や、動力関係の故障もない。心配された宇宙嵐も発生せず、凪いだ宇宙空間はベルトコンベア付の廊下のように、船を目的地まで運び届けるだろう。
 しかし、そんな、船乗りならば誰もが恋い焦がれる幸運の女神に愛された航海を続けながら、その船は絶体絶命の、そして空前絶後の危機に直面していたのだ。

「……ない……やっぱりない……」

 キッチンの棚の全てを引っ張り出した少年は、絶望に満ちた声で呟いた。

「ひょっとしたら、この奥に……」

 流しの下の棚に体ごと突っこんで、パイプの裏を手探りで探す。しかし期待した、例えば缶詰なりレトルトパウチなりの手触りがあるはずもなく、指先は虚空を掻き毟るのみ。
 わかっていたことだ。
 何故なら、そこは既に、一度ならず探したところだ。そこだけではない。もう、この船の中で人が立ち入ることのできるスペースは、あらゆるところを探したのだ。
 冷蔵庫の中、娯楽室のキャビネットの引き出し、緊急脱出艇に備え付けられた非常用リュックサックの底に至るまで……。
 そして、無い。
 どこにも、無い。
 チョコレートの一欠片、肉の一片、米の一粒すらも。
 もう、徹底的に無いのだ、食料が。
 すっからかんの棚から這い出た少年の顔には、色濃い諦めと絶望が等量に含まれていた。

「ふ……ふふ……そりゃそうだ。もう探したもんな、四回も五回も……そりゃあないよな……」

 虚ろな視線で半笑いしながら、ぶつぶつと独り言を呟く少年というのは、端からみれば相当に怖い。しかしこの船には彼を含めて三人の乗組員しかいない上に、残りの二人は空腹を宥めるため、そして余分なカロリーの消費を抑えるためにひたすら横になっているはずだから、夢遊病患者のような有様で一人笑う少年は誰に見咎められることもなく、ふらふらとした足取りで操縦室へと向かった。
 長い廊下――空腹ならば尚更長く感じる――を、高山病に罹った登山者のように頼りない歩調で踏破した少年は、扉の横のタッチパネルに指を翳して指紋照合を済ませると、普段の数倍は重たく感じる扉を開いて中に入った。
 だだっ広い室内。本当なら数十名のクルーを収容してなお余りあるほどに広い部屋には、少年と、もう一人分の気配しかない。そしてその一人は、死んだように床に寝転がったままぴくりとも動かない。
 少年は寝転がった人影を無視して操縦席へと向かった。仮に声をかけたとして、もしその人影が心地よい睡眠を貪っていた場合、そして万が一にも腹一杯にご馳走を食べる夢を見ていた場合、それを邪魔した不届き者にどのような仕置きが下されるかわかったものではないからだ。
 這うようにして操縦席まで辿り着いた少年は、目の前の高解像度モニタに広がる宇宙を眺めたが、そこに映っているのは、遙か数百光年は彼方に点在する恒星系を除けば、何もない、光すらないような真空だけである。

「座標は……N49-KS1173か……」

 それは、居住可能不可能の別を問わず、そもそも惑星自体を持たない恒星の名前である。
 中央銀河からは遙か辺境に位置するこの恒星系は、遠い昔、ようやく人類が数百光年単位の移動を可能にした頃――ゲートの存在が確認され、それを利用した重力波エンジンの開発が為された頃――には新たな居住用惑星の存在が期待されたが、惑星そのものが存在しないことが分かるに至って、人の記憶と記録からは忘れられた存在であった。
 無論、広大な宇宙を股にかけて活躍する宇宙生活者達にしても、そんなものは全く無益な存在である。例えば連続跳躍の途中、エンジンを休ませるためにやむなくこの宙域に錨を降ろすことはあっても、この宙域を目指して跳躍をする者は皆無だ。
 では、そんな宙域を、何故《スタープラチナ》号が飛んでいるのか。
 暇を持てあました金持ちの道楽ではない。いくら時間と金を浪費することに生き甲斐を見い出す類の物好きであっても、このように何も無い宙域をのろのろと飛ぶことに快感を覚えるものはいない。第一、この少年の身なりからして、どう考えても『金持ち』という表現は相応しくなかった。
 彼らは、正しく生きる手段の一つとして、この宙域を進んでいるのだ。

 有益資源探索者トレジャーハンター

 未発見居住用惑星や貴重資源含有惑星を求めて、宇宙を放浪する者達の総称である。
 この種の職業で言えば、遠い昔はゲートハンターと呼ばれる、未発見ゲートを発掘しその使用料で生計を立てる者が主流であったが、ショウ駆動機関ドライブの開発にいたりその数は激減、今は趣味以外でそんなことをしている人間は存在しない。
 その代わり、飛躍的に広がった人類の行動範囲の空白を埋めるように、人類にとって有益な資源を探し、それを企業や国に売却することで日々の糧を得る人間が増えた。
 彼らもその一員である。
 しかし、今回の航海は、お世辞にも首尾の良いものとは言えなかった。
 未だ、目標は見つからず。
 そもそも、その目標自体がこの宙域に存在するかどうか自体、分からないのだ。
 彼らは有益資源探索者トレジャーハンターであり、年若くともそれなりの経験と場数を踏んでいる。しかし、例えば貴重な鉱物資源を多量に含んだ星や、四級以上の居住可能惑星を見つける可能性など、万に一つとは言わなくても相当に低いものであることは間違いない。
 それは彼とて理解しているのだが、食糧も尽き、もう少しで水も無くなる船に乗り、行く当てなく宇宙空間を漂うというのは心安らぐ状況では全く無い。
 かといって、今から引き返したところでどうなるものでもない。そもそも食料や水を買う金自体が無いのだし、その反対に借金だけは彼らの首を回らせなくするに十分なだけ存在する。今回の航海が失敗に終われば、当然の如く彼らの愛船である《スタープラチナ》号は手放さざるを得ないが、それだけでは借金が完済できるかどうか甚だ怪しい。
 強制労働で済めば御の字、下手をすればマフィアに身請けされ、辺境宙域の名も知れぬ星に、変態どもの愛玩奴隷として売り飛ばされることだってあるかも知れないのだ。
 加えて言うなら、仮に今から直近の有人惑星を目指して飛んだとしても、辿り着く遙か手前で食糧や水が尽きるのは明らかだった。もうだいぶ前に、今引き返せばなんとかなるかも知れないというギリギリのところで、この船の乗組員全員が、前に進むことを決めてしまっていたからだ。
 要するに、背後のルートは断ち切られている。
 道は、前にしか存在しない。
 少年は重たい溜息を吐き出した。このまま順調にいけば、どうやら長い間苦楽を共にしたこの船が自分達の墓標になるようだと思い、流石に絶望的な気持ちになったのだ。
 そんな彼の背後で、何かがもぞりと動く気配があった。

「う、んん……。……おーい、インユェ。生きてるかぁ……?」

 密閉された無機質な空間に、ぶっきらぼうな声が力無く響いた。
 もぞりと動いたのは、先ほどまで大の字で床に寝転がっていた人影である。どうやら本当についさっきまで眠っていたのだろう、声の端々に夢の世界の残滓が色濃い。
 そして、その人影からインユェと呼ばれた少年は、操縦席に座ったまま体を捻り、億劫そうな声で答えた。

「……おーう、まだ生きてるぞー……」
「……ちっ」

 少年の生存報告に対する返答は、短い舌打ちであった。
 発した者の不愉快を人に伝え、そして聞いた者を間違いなく不愉快にさせるその音は、インユェの耳にも確かに届いた。
 ただでさえ空腹で気が立っていたことも手伝って、元々気が長いとは言えない性質のインユェは露骨に眉を顰めながら舌打ちをした人間を睨みつけ、如何にも不機嫌な声で言った。

「……おいこら、メイフゥ。今の『ちっ』ってのは、一体どういう意味だ?」
「決まっとるだろが。性懲りもなくまだ生きてやがったのか、さっさとくたばりやがれこのクソチビが、って意味だよ」

 それは、何ともちぐはぐな台詞と声の組み合わせであった。
 別に、台詞自体は特別珍しいものではない。場末の酒場や、荒くれ者の集まる路地裏にでも行けば、酒臭い吐息と共に吐き出される台詞である。些か教養に欠けるようであるが、眉を顰める人はあっても首を傾げる人はいないだろう。
 しかし、今の声を、そして台詞を聞けば、大方の人間は首を傾げるか、それとも自分の耳を疑うか。
 何せ、どこの無頼漢がくだを巻いているのかというこの台詞が、明らかに年若い少女の声として打ち出されていたのだから、どう考えても異常である。
 声の主、メイフゥと呼ばれた少女は、清潔に磨かれた床に直接寝そべって、放心したような様子で天井を見上げていた。

「考えてもみろ。てめえみたいなアホチビが死んだって、この世界の皆々様は何一つ困らねえ。それに引き替え、てめえがくたばればあたしが喜ぶ。そりゃあもう喜ぶ。ほら、こりゃあどっちがお得か考えるまでもないだろ。第一、バカチビが生きてたっていい事なんて一つもねえぞ。だから、さっさと死ね。今すぐ死ね。なんならあたしが手伝ってやる」
「俺が死んだとして、お前が何で喜ぶんだよ!」

 酷い言われようだ。しかも、それを言ったのが自分の双子の姉……であるはずの少女なのだから、インユェは憤然として怒鳴った。
 メイフゥは、蠅を追い払うような仕草で手をひらひらとさせ、
 
「ああ、もう、怒鳴るな。空きっ腹に響くだろが」
「なら、怒鳴らせるような冗談を言うなっ!」

 至極もっともな話である。
 が、メイフゥはのそりと体を起こし、見るものの背筋に寒風を感じさせるような、酷薄な笑みを浮かべながら言った。

「おいおい、あたしは生まれてこの方、冗談や嘘を言った憶えはないぜ」
「な、なんだよ?」

 恐るべき姉の、どう考えても不吉そのものを体現した表情に気圧されたインユェだが、一応の虚勢は張りながら答えた。
 
「はっ、俺が死んで食い扶持が増えるとか思ってるんだったら残念だったな。もうこの船には、缶詰の一個だって残ってないんだからな」
「ああ、そりゃあ残念だ。でも、生きた肉なら一つ、少々サイズに難在りだが転がってるじゃねえか」

 《スタープラチナ》号は、まさか遙か昔の貿易船でもないのだから、生きた牛や豚などを積んでいるはずもない。それは金が無いとかでは食料が尽きたとかとは別問題であり、そんなものはそもそも存在しないのだ。
 インユェは、この姉でも空腹と恐怖で錯乱することがあるのだろうかと、寧ろ感心しているようだった。しかし、よく考えてみれば、如何に気性が荒いとはいえメイフゥは女なのだ。進めば餓死して地獄、引けば娼館に売られて地獄というこの状況で気丈に振る舞えというほうが難しいのかもしれない。
 ああ、これは自分がしっかりしなければ、と、固い決意を抱きつつ姉の顔を見たインユェは、彼女の灰褐色の瞳が、形容し難い光を放っていることに気がついた。それは、例えるならば藪に潜んだ餓狼が、暢気に草をはむ子鹿をじっと見つめるような……。

「……あの、姉さん。つかぬ事を伺いますが、何故俺をそんな目で見てるのですか……?」
「ああ、うん、別に何でも無いぞ、気にするな。本当に……本当に何でも無いから……」

 メイフゥは、いつの間にか身を乗り出しながらインユェにじりじりと近づいてきている。その間も、表情を消した、ある種人間的な感情の全てを押し殺したような空っぽの視線で実の弟をじっと見つめている。
 何でも無い視線ではない。絶対にない。長年、この姉の理不尽な暴力に晒され続けてきた少年は、本能的な恐怖を感じた。
 それでも、まさか。いくら人非人の姉とはいえ、そんなことは。

「あ、あはは、あはははは」

 インユェは、腹の底に最後の力を込めて、力無く笑った。そうでもしないと何かとんでもないことになるような気がしたのだ。そして背中に脂汗を流しながら、裏返った声で言った。

「で、でもさ、牛でも豚でもいいから、死ぬ前に腹一杯食べたいよな。こう、焚き火の上に吊して、丸焼きにしてさ――」
「よしわかった、そういう死に様でいいんだな?この船の中で焚き火ってのも中々骨が折れるが、可愛い弟の遺言だ、なんとか都合をつけようじゃねえか」

 今までのさして長いとも言えない人生の中で『可愛い弟』などとは一度足りとて呼ばれたことのないインユェは、後に続く物騒な単語よりも、その一言にこそ自分の運命を悟った。

「……あの、姉さん?」
「それと、悪いなインユェ。お前はその肉を食えないんだ、絶対に。でも、あたしがお前の分も、文字通りお前の分もきちんと食ってやるから、安心しろ」
「……何故?」
「決まってるだろうが。お前、どうやって自分の肉を喰うつもりだ?タコか?」

 そりゃあ、はらぺこのタコは自分の足を囓って飢えを凌ぐというが、それとこれとは問題が違う。違いすぎる。
 事ここにいたって、インユェは、流石に自分がどういう立場に置かれているのかを理解した。
 どうやら自分は、目の前の獰猛な女に、狙われているらしい。食物連鎖的な意味で。
 
「おい、メイフゥ!冗談もほどほどに……!」
「畜生、こんなの拷問だ。何せお腹と背中がくっつく程に腹が減るってのがどういう状態か、正しく味わっている最中だってえのに、目の前に活きが良くて美味そうな肉がいるんだ。……ああ駄目だ、もう我慢できねぇ」

 まるで月明かりに照らし出された猫科の獣のように目を爛々と輝かせながら、メイフゥはそんなことを言った。
 インユェは、思わず椅子からずり落ちそうになった。彼は、双子であるにも関わらず姉であるメイフゥよりも二回りほど体が小さかったのだし、彼女の豊かな金色の髪の毛が、まるで獅子の鬣かそれともオオワシの冠羽のように見えたというのもある。
 正しく蛇に睨まれた蛙といった有様で、おそるおそる、最後の希望に縋るように尋ねる。

「……冗談だよな?」
「冗談だ。ああ、冗談だとも。冗談であることを神様に祈るといい。祈ったままそこを動くな」

 じゅるりと涎を啜りながら、メイフゥはそんなことを言う。しかもいつの間にか体を起こしていたメイフゥの姿勢たるや獲物に飛びかかる寸前の虎そのもの、その上、にやりと歪んだ口元から白く輝く犬歯が覗いているのだ。

 ――喰われる。

 反射的に椅子から飛び退いたインユェの背後を、巨大な何かが、猛烈な勢いですっ飛んでいった。
 そして直後に響く盛大な破砕音。

 ――危なかった。

 床に這いつくばったインユェ、は内心で名前も知らない神様に感謝の祈りを捧げた。これでもし一瞬でも飛び退くのが遅ければ、憐れ少年は実の姉――しかも双子――の非常食に成り果てていたのであろうか。
 真っ青になって振り返った少年の視界に、跡形もないほどぐしゃぐしゃに壊れた金属製の椅子と、その端っこを咥えて持ち上げながらこちらを睨みつける姉という、果たしてこれが現実のことかどうか疑ってしまう悪夢のような情景が映り込んだ。
 そしてメイフゥは、口に咥えた椅子の残骸をさも不味そうに吐き出し、不思議そうに言った。

「……何で避ける?」
「誰でもよけるわっ!」

 インユェは、声を限りに叫んだ。
 
「メイフゥ!お前、本気で俺を殺すつもりか!」
「別に、まだ殺すつもりはねえよ。とりあえず足か腕の一本でもつまみ食いしようかなと思っただけじゃねえか。大袈裟に喚くな、男の子だろうが」
「男の子だろうがなんだろうが、どこのどいつが黙って腕やら足やらを囓られてやるもんかよっ!?あと、『まだ』ってなんだ、『まだ』って!?」
「ああ、別に黙って囓られてくれることはねえぞ。寧ろ、泣き叫べ。その方が盛り上がるってなもんだ」

 嗜虐的な笑みを浮かべた少女は、ゆらりと立ち上がった。それだけで、インユェなどにはこの部屋が一回り小さくなったように感じた。それほどに、メイフゥは、横にも縦にも大きかった。
 若干14歳にして180センチを越える長身としなやかに長い手足、健康的に浅黒く灼けた肌、そしてその下に隠された良く撓る鋼線を束ねたような筋肉。針金と見紛うほどに強い直毛はヘアバンドで後ろに流され、あたかも金糸で織られたマントのように彼女の背中を飾り付けている。
 それは、到底年若い少女の風貌ではない。正しく、全宇宙をまたにかけて暴れ回る、女海賊の風貌である。
 化け物だ、と、インユェは思った。先ほどからチビチビと侮られている彼ではあるが、同年代の少年達と比べてもそれほど小柄な方ではない。しかしこの姉と並ぶとどうしても見劣りしてしまう。彼の、色素の薄く抜けるように白い皮膚とくすんだような銀髪が、どうにも不健康な印象を与えるというのも大きいのだが、何よりメイフゥの存在感が尋常ではないからだ。
 実際、この二人を並べてみて、双子の姉弟だと一目で見抜ける人間がどれほどいるだろうか。
 整った顔立ちにはどこか通じるものがあるのだが、その他の材料があまりに正反対すぎる。威風堂々とした女丈夫たるメイフゥと、線が細く一見するとなよついた印象すらあるインユェ。これではまるで、屈強な女将軍に捕まった漂泊の王子様である。
 インユェはそんな自分が嫌で、幼い頃から彼なりの努力を惜しまなかった。毎食後には必ず牛乳を飲み、身長を伸ばすための努力をした。執事に我が侭をいって棒術を教えてもらったり、自分よりも体の大きなガキ大将に喧嘩を挑んだりして、姉より強い人間に、もっと言えば姉を守れるだけ強い男になろうとした。
 そしてその努力は成功したと言っていい。母のお腹の中でさえ姉に栄養を奪われたのか、赤子の時から小さく、そして虚弱だったインユェは、少なくとも同年代の少年達と比べてそれほど見劣りのしない体格にはなったのだし、腕っ節では誰にも負けない自信をつけた。
 だが、その努力が報われたとは言い難い。何せ、メイフゥはインユェが成長する以上のペースでぐんぐん成長し、それに比例するかのように健康的で逞しく――ぶっちゃけて言えば腕っ節が強くなっていた。
 結果として、物心がついたときから、インユェがメイフゥに喧嘩で勝ったことは、一度もないのである。
 しかも、彼ら姉弟が、有益資源探索者トレジャーハンターという、お世辞にも堅気とはいえない職業に就いてから、姉は水を得た魚のように元気になった。もう、野性的と言っていいほどに元気になった。最近では、インユェは自分の姉のことを、辛うじて人類というカテゴリの端っこに引っかかった化け物だと考えている。
 そんな姉が、涎を垂らしながら自分に迫ってくるのだ。これが恐ろしくないはずがない。

「ま、まて、はやまるなメイフゥ!」

 決して獲物を逃がさないよう、大きく腕を広げながら迫ってくる姉に向けて、インユェは精一杯の説得を試みた。

「よく考えてみよう!俺みたいなやっせぽちのチビガキ、どう考えても食える部分は少ないぞ!」
「大丈夫、人体のうちに占める骨の割合なんて、精々10パーセントやそこらだ。いくらチビなお前だって、40キロくらいは食える部分があるってことになる。小腹を満たすには適量だ」
「いくら腹が減っているからって人を喰うのはどうだろうっ!?」
「大丈夫、遭難の末、飢餓に苛まれて人肉食に至った人間は特段珍しい存在じゃねえ。もし誰かにばれたら『あの子は今も私と一緒に生きています!』とでも泣きながら宣ってやる。だから安心して喰われろ」
「ひ、人の肉は美味くないぞ!肉を喰う動物の肉は不味いんだ!だから、人の肉だって……!」
「大丈夫、非常時だ。鼻を摘んで喰ってやるさ」
「ちょ、やめ……ぎぃやぁぁぁぁ――!」

 
 繰り返すようだが、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号には三人の乗務員がいる。
 操縦室――船の中でも最も重要な部屋の一つである――で、文字通り食うか食われるかの取っ組み合いを繰り広げる二人を、冷ややかに見つめる男がいた。
 これは、若者とは言いがたい。どちらかと言えば老境に差し掛かった、と表現するほうがしっくりくる。しかし、その顔に刻まれた幾多の皺とは裏腹に、背筋はほんの少しも曲がっていなかったし、衣服に身を包んでいても分かる程に鍛え込まれた体のどこにも贅肉がついているようには見えない。
 そして、細めた瞼の奥から、見る者によっては柔和とも鋭利とも感じられる不可思議な視線で、姉弟のやり取りを見守っていた。
 最初に気がついたのは、メイフゥだった。

「おう、ヤームル。ちょっと待ってろ、すぐに終わるから」

 必死で暴れるインユェを押さえ込みながら、軽く手をあげて挨拶をする。
 いつの間に部屋に入っていたのか、ヤームルと呼ばれた初老の男性は、同じく軽く手をあげてそれに応じた。そして暢気な調子で言った。

「また姉弟喧嘩ですかな?いや、元気な様子で結構結構」
「ちょっとまてヤームル!これのどこが姉弟喧嘩に……いててててっ、噛み付くなこの馬鹿!」

 いつの間にか俯せに組み伏せられたインユェ、その上にのし掛かっていたメイフゥは、弟のズボンを器用に剥ぎ取り、剥き出しになった太腿の裏側にガブリと噛み付いた。
 幼い少女が年上の兄弟と喧嘩した時に噛み付いたとか引っ掻いたとかとは、次元が違う。この場合の噛み付くとは、正しく本当の意味で『噛む』、つまり食料を食い千切って咀嚼するという意味で使われる『噛む』なのだから。
 当然インユェは思いっきり暴れたが、上にいるメイフゥの体はピクリとも動かない。余程上手に人体の『つぼ』を押さえているのだろう、憐れな弟がどのように足掻いたところで、姉の巨体はうんともすんとも言わないのだ。
 もはやこれまで。自分は実の姉に、しかも双子の姉に喰い殺されるのだと、自分の運命を呪ったインユェの耳に、救いの神様の声が聞こえた。

「これこれ、メイフゥお嬢様。いけませんよ、立派な淑女がはしたない」

 ヤームルが、やんわりとメイフゥを窘めた。
 成熟した男性の、豊かで落ち着く声だった。
 流石のメイフゥもこの老人には逆らいがたいのか、『あと一歩のところで』という無念の表情を隠さないまま、ヤームルを見上げる。
 インユェは、なんとか助かったようだと一息ついた。下半身にパンツ一丁だけという格好は恥ずかしいし、メイフゥが噛み付いた箇所はずきずきと痛むが、肉を食い千切られた程の痛みはない。どうやら、神様がまだ生きていて良いと仰っているようだ。
 それでも、彼の白い皮膚に刻まれた歯形は、真っ赤で、十分に痛々しいと言えるものだったが。
 そして、どこからどう見てもレディという形容が相応しいとは思えない少女、メイフゥは、ぶすっとした調子で、

「……わかったよ。しょうがないなヤームル、半分こだぞ」
「勝手に人の体を山分けするなぁ!」

 インユェは必死に喚いたが、メイフゥがそれを耳に入れた様子はない。馬耳東風、というよりは、シマウマの悲鳴をライオンが聞き流しているのに近いかも知れない。
 このような情景は見慣れたものなのだろうか、好々爺然としたヤームルは落ち着いた調子で、

「それは有難いお言葉ですが、お嬢様、問題の所在が違うのではありませんかな?」
「……?」

 メイフゥは可愛らしく首を傾げた。目をぱちくりとさせたその表情は年相応で可愛らしいものだった。

「あたしは何か悪いことをしたのか?」
「悪い!大いに悪い!だから、さっさとどけぇ!」
「うるせぇ、少し黙ってろ」

 ぐえ、と、蛙の潰れたような音が響いて、インユェは大人しくなってしまった。
 メイフゥが、彼の背後から、首筋を上腕部でもって締め付け、頸動脈を締め上げたのだ。チョークスリーパー、もしくは裸締めと言われる危険な技である。しかも、完全に『おとして』しまったのでは意味がないので、意識が途切れるぎりぎりのところで締める力を緩めている。
 インユェにしてみれば、たまったものではない。たまったものではないが、だからといって暴れ回ることは出来ないし、声を上げることも出来ない。
 手も足も出ないとはどういう状態か、正しく生きた標本見本にされているのだ。言うまでもなく、犯人は実の姉であり、ヤームルの言うところの『お嬢様』だ。
 そんな『お嬢様』を見下ろしながら、ヤームルは大きな溜息を吐き出した。

「お嬢様。御館様のお言葉をお忘れですか?」
「えっ……?……あ、うん……」

 その、たった一言でもって、メイフゥの血色の良い顔はみるみる青ざめ、力無く項垂れてしまった。
 まるで飼い主に叱られて耳を垂らした子犬さながらの様子だ。
 
『暴力を持って奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 それが、彼らの父の言葉だった。
 もう、顔も覚えていない父親だ。最後にあったのは、彼らの歳が片手の指で数えられる程のものだった時のはずだから、無理もない。
 だが、最後に、別れ際の言葉だけは鮮明に覚えている。そして、その台詞を口にした、父の寂しそうな顔も。
  知力と胆力でもって掠め取れ。
 どう考えても子供を育てるに健全な標語とは思えないその一言が、彼ら姉弟の生きる道しるべになっているのだ。
 すっかり意気消沈したメイフゥは、緩慢な動作で立ち上がり、同時に弟をその牙と爪から解放した。

「……ごめん、ヤームル」
「はい。些か頭に血が上っていた……それとも、血が足りていなかったようですな。ま、あまりお気になさらずに。しかし、誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ」
「……うん」
「おい、その場合の果実って俺のことか?俺が喰い殺されかけたのはどうでもいいのか?」

 憐れな被害者の抗弁は、当然の如く無視された。そこは、別に悪いことではないらしい。
 先ほどの、野生動物顔負けの俊敏さはどこへやら、弱々しい少女のような足取りで、メイフゥは操縦室から出て行った。
 その項垂れた後ろ姿を見送ったインユェは、やれやれどうやら自分は助かったらしいと、安堵の吐息を吐き出した。

「助かったよ、ヤームル」
「いえいえ、お二人の後見人として、当然のことをしたまでです。しかし……」

 後見人は、いまだ床にへたり込んだままのインユェを見下ろして、

「少し、鍛え方が甘かったのでしょうかな。メイフゥ様も些か正規の規格からは外れたご婦人ではあらせられますが、しかしご婦人はご婦人。それに一方的に叩きのめされ、剰え衣服まで剥ぎ取られるとは……。インユェ様、今の貴方を見れば、御館様はさぞお嘆きになるでしょう」
 
 嘆息しながら、そんなことを言った。
 これに対しては、インユェとしても言いたいことが山ほどある。
 まず、比較の対象がおかしい。あれは、どう考えても人類ではない。一割くらいは辛うじて人類の端っこにぶら下がっていたとしても、残りの九割は化け物の領域に足を突っこんでいる。要するに、四捨五入をすれば間違いなく化け物に分類される生物だ。
 そんな姉と比べられては、弟としては立つ瀬がないのだが、もうそこらへんは何を今更というか、インユェも割り切ってしまっていたりする。
 第一、自分は被害者である。あのとち狂った姉が、まさか生きた人間――しかも血を分けた弟である――を自分の食料にするなどという暴挙にでなければ、このみっともない諍いは未然に防がれていたのだ。
 インユェは、中途半端な笑みを浮かべながら、言った。

「無茶言うなよヤームル。あんな化け物と比べられたら、いくら俺だって……」
「お坊ちゃま」

 静かな、しかし逃げ道を断つように鋭い声だった。
 思わず見上げたインユェは、そこに、想像したよりも遙かに厳しい視線を寄越す、育ての親を見つけた。

「お坊ちゃまは、いつまでお坊ちゃまなのでしょうか?」
「……ヤームル?」
「私は、いつになったら、お坊ちゃまのことをご主人様と、あるいは御館様と呼ぶことができるのでしょうか?」

 その、深い思慮と憂いに満ちた視線に、インユェが立ち向かえたのは、本当に一瞬のことだった。
 思わず視線を逸らした14歳の少年は、遣り切れない恥ずかしさと、ほとんど八つ当たりに誓い怒りを感じて、吐き捨てるように呟いた。

「……あれは化け物だ。だいたい、そんなに強い奴のことが好きなら、お前は俺のことなんか見捨てて、メイフゥだけの従者になればいいじゃないか!」
「……お坊ちゃま。その台詞、間違えてもお嬢様の前では口にはなさいますな」
「どうしてだよ?俺の身が危ないってか?そんなのいつもの――」
「お嬢様が、傷つかれます」

 思わず耳を疑ったインユェだ。
 果たして、この忠実な侍従は、何と言ったのだろう。
 傷つく?あの、姉貴が?
 あり得ない。どう考えても、天地がひっくり返ってもあり得ない。
 あまりに突拍子もない台詞に怒りを吹き飛ばされてしまったインユェは、ほとんど発作的な笑いの衝動に襲われた。
 大いに笑った。

「おいおい、あんたがそんなに冗談好きだとは知らなかったぜヤームル。アレが傷つく?あの『鋼鉄の処女』が?俺が化け物扱いしたくらいで?ありえねぇって!宇宙がひっくり返ってもありえねぇ!」

 ヤームルは、インユェを窘めようとはしなかった。
 ただ、ぽつりと一言だけ、

「お坊ちゃま。あなたがお嬢様を化け物と呼んだのは、一体何度?」
「……えっ?」

 インユェは笑いを収めて、考えた。
 メイフゥを、あの姉を、化け物と呼んだ回数。
 もう、数え切れないくらいに呼んだ気がするが……しかし最近は怖くて呼んでいない。
 
「……憶えてねえよ」
「では、最後にそう呼んだのは?」
「……おい、ヤームル。お前、何が言いたいんだ?」

 初老の男は、それには答えなかった。何も言わず、かつては黒々としていたであろう、新雪のように真っ白な髪を手で撫でつけると、

「精進なさいませ。肉体的には勿論、精神的にも、そして人間的にもです」

 そう言って、部屋を出て行こうとした。
 インユェは、流石に顔に血が上るのを感じた。お前はまだ子供だ、と馬鹿にされたように感じたのだ。
 すっくと立ち上がり、食い付くような調子で叫んだ。

「おい、ヤームル!お前!」
「一つ、よいことを教えて差し上げましょう、お坊ちゃま」
「ああっ!?」
「あなたは先ほどから、ご自身の姉君を、余程化け物と思い込みたいようですが……」
「思い込みたいんじゃねえ!アレはどう考えても化け物だろうが!どこの女が、体当たり一つで操縦席をめちゃめちゃに出来るんだよ!」

 インユェは『操縦席だったもの』を指さしながら言った。
 もっともな台詞である。あれが普通の一般女性に出来る仕業ならば、この世界における男と女の役割の過半が入れ替わるだろう。
 くすりと笑ったヤームルは、一層柔和な表情で振り返り、

「では、姉君以外の女性ならば、坊ちゃまは遅れを取らない?」
「当たり前だ!女なんかに負けてたまるか!」
「それは威勢のよろしいことで。しかしお坊ちゃま。この宇宙は広く、人の歴史はなお広い。私はね、若かりし頃、今のお嬢様よりも遙かに猛々しいご婦人を拝見したことがあります」
「……はぁ?」
 
 インユェは、あらためて己の耳を疑い、次に目の前の男の正気を疑った。
 姉より、あの姉より、あの化け物よりも猛々しい女?そんなものが、この宇宙にいる?
 それは、少年の想像力の翼では到底たどり着けない、遙か彼岸の現実だった。
 要するに、少年は信じなかった。そんなものがいるはず無いと、一笑に付した。

「そんなものがいるなら、是非見てみたいね。もしもこの船が無事どっかの惑星に着いたら、是が非でも俺の前に連れてこいよ」
「私としても是非もう一度お会いしたいのですが……風の噂に、既に身罷られたと聞きました。今生でまみえることは、ないでしょうな」

 ほらやっぱり嘘じゃないか、と嘲ろうとしたインユェは、老人の、遠く美しい過去を懐かしむ目を見て、言葉を飲み込んだ。
 年若い彼も、言っていいことと悪いこと、その最低限の分別くらいはつくのだ。
 その代わりに、ばつが悪そうに銀色の頭を掻き毟って、

「……姉貴みたいな女が何人もいるんなら、それだけで男の居場所はごっそりと奪われちまうんだろうな、この世から」
「ええ、全く。しかし、ああいった女性がいるからこそ、世の男性も奮起出来るというものでしょう」
「ああ、嫌だ嫌だ。絶対に会いたくねえ。間違えても会いたくねえ。前言撤回だ、ヤームル。そんな女、間違えても俺の目の前に連れてくるなよ。俺は姉貴だけで十分だ」

 少年は苦笑して、老人もそれに倣った。
 ヤームルは一礼すると、そのまま扉の向こうに消えた。
 それを見届けたインユェは、しばらくの間立ち尽くしていた。

 ――あの姉よりも猛々しい女が、本当にこの世にいるのだろうか。

 そう考えて、あらためて恐ろしくなったのだ。
 軽く身震いした少年は、めちゃめちゃになった操縦席の代わりに折りたたみ椅子を置くと、最後の希望を込めて、高解像度モニターの向こうに映る宇宙空間をじっと睨みつけた。



 三日経った。
 当然、星は見つからない。
 食料だって尽きたままだし、昨日、人が生きるために最も大事なもの――水が枯渇した。
 船内から、人の気配が絶えて久しい。インユェはここ二日間、ずっと操縦室に籠もっているが、その間誰もこの部屋には入ってこなかった。
 ひょっとしたら、この船で生きているのは自分だけかも知れない。
 少年はそう思ってから、苦笑した。老境にあるヤームルなどはともかく、あの姉が自分よりも先に死ぬとは到底思えなかったからだ。
 だからといって、三日前のように元気であるとは、とても思えない。人は水を失うと急激に衰弱するからだ。
 インユェも、その例に漏れなかった。喉を掻き毟りたくなるような渇きは絶え間なく彼を苛んだし、じっと宇宙空間を眺めていると何度となく幻覚に襲われた。
 姉が、本物の化け物になって自分を喰い殺す。
 反対に、自分が姉の死体に食らいついている。
 何も無いはずの宇宙空間を、真っ白い衣を纏った人達が、静かに行進していく。
 いつの間にか、自分が深い森の中にいる夢も見た。暗い暗い森の中で、たった一人で火を囲み、ひたすらに誰かを待ち続ける。
 待ち人は、来たのだろうか。それとも、あの自分も、今の自分と同じように、孤独に死んでいったのだろうか。
 答えなど、分かりきっているというのに。
 
『……だれ?』

 そんな幻聴が、聞こえた。自分は、一体何と答えたのだろうか。
 ただ、その少女は、どこかで見たことがあるような気がした。

 はっと顔を上げる。
 眠っていたのだろうか。
 時計を見る。さっきから、五分も経っていない。それでも、確実に意識は失っていた。
 こうやって、徐々に、徐々に死んでいくのかと思うと、叫び声を上げたくなるほどに怖くなった。少しずつ狂って、最後には自分が自分とも分からないまま、道ばたの野良犬のように呆気なく死ぬのか。
 それは嫌だった。死ぬときは、せめて死ぬときくらいは、自分の好き勝手に死にたい。
 だからといって、今更救難信号を打つ気にはならない。こんな辺境を飛ぶ船があるとは思えないし、助かるはずもないのにそんなことをするのは、見苦しいようで嫌だった。
 インユェは、姉の部屋に繋がる回線を開いた。どうせ死ぬなら、そういう死に様のほうが、男らしいと思ったのだ。
 しばらく待ったが、スピーカーからは何の返事も無かった。
 常のメイフゥならあり得ないことだ。いつもの彼女であれば、不機嫌そうな声で『何の用だアホチビ』と罵るか、それとも無言で回線をぶった切るか。
 そのいずれでもないということは、既に死んでいるのか、それとも受話器を取ることも出来ないほどに衰弱しているのか。
 インユェは、ぼうっとモニターを眺めながら、そんなことを考えた。そして、もう一度呼び出して反応が無ければ、自分から姉の部屋に赴こうと思った。
 喰い殺されるために。
 それもいいさ。女性を助けるために、その糧になって死ぬというのも、中々に男らしい死に方じゃないか。
 モニターに反射した自分の顔は、かつての面影がどこにも見えないほどに窶れ、衰弱している。竜胆のようだと誉めそやされた瞳はどぶ色に濁っているし、腕だって、まるで棒きれか何かのようだ。これでは食べ甲斐はないだろうと思うが、そこらへんは我慢してもらおう。
 そんな自分の鏡像を眺めながら、もう一度呼び出しブザーを押した。
 がちゃり、と、回線の繋がった音が聞こえる。
 ああ、姉は生きていた。つまり、自分は死ぬんだ。そのことが、何故だか妙に嬉しくて、そんな自分がおかしくて、ぼんやりとモニターを眺める。
 これが、最後に眺める宇宙だと思うと、それが映像化された電子情報だと知っていても、なお感慨深いものがある。
 ほとんど焦点を合わせることすらせずに、ぼうっと画面を見つめていた。

 その時。

 正しくその時、インユェの痩せた背中に、電流が走った。
 見間違いか。それとも、幻覚だろうか。
 目を擦った。頬を叩いた。それも、一度ではない。何度も何度も。
 だが、それはそこにあった。頬を赤く張らしたインユェを嘲笑うかのように、そこにあった。
 計器類は、一切の反応を示さない。感応頭脳だって相変わらず無慈悲に沈黙したままだ。
 しかし、やはりそれは、そこにあったのだ。

『……い。おい、インユェ……おいってば』

 姉の声が聞こえる。しかし、それがどこか遠い。
 それでも、事実は伝えないといけない。

『おい、インユェ!聞こえてるのか!それとも、まさか本当にくたばったのか!あたしはそんなの、絶対に許さねえぞ!お前があたしより先にくたばるなんて、そんなの――』
「……ほしだ……」
『……あん?おい、インユェ、お前今、何て言った?』

 その時になって、ようやく目の前の現実に、思考回路が追いついた。
 少年は、声を限りに叫んだ。それが、彼の為し得る、最も盛大な歓喜の表現方法であったのだから。

「星だ!惑星だ!青い、大気と水のある惑星だ!助かった!姉さん、俺達、助かったよ!」

 

 タラップから駆け下りたインユェは、まず、目の前に広がる広大な湖へと向かった。
 手には、携帯型の浄水器と、同じく携帯型の成分解析用機械を抱えている。
 今にも水の中に飛び込み、思うさまに喉を潤したいという欲望と戦いながら成分解析用機械の端末を浸すと、水質は極めて良好、飲料水としての使用に十分耐えうるという結果が出た。
 それはつまり、この星が第二級以上の居住可能惑星であることを示している。
 インユェは、喉の渇きも忘れて、強くこぶしを握りしめた。第二級以上の惑星ならば、間違いなく億単位の金で取引される。
 これで、下手すれば難民と間違われかねないような、貧乏宇宙放浪生活ともおさらばだ。
 疲れを忘れたような足取りで船まで戻ってきたインユェを、憔悴したようすのメイフゥと、やや窶れた感はあるもののそれでも毅然としたヤームルが出迎えた。

「で、如何でしたかな?」

 別段声をうわずらせるでもなく、淡々とした調子で尋ねたヤームルであったが、それに答える少年は、誇らしさと喜びと、いくつもの輝かしい感情で頬を赤らめながら、

「驚くなよ!あそこの湖、全部が飲用可能な水だ!つまりこの星は第二級以上の居住用惑星だ!これで俺達は大金持ちの仲間入りだぞ!」

 少年は、大いに胸を張った。何せ、この宙域を探索することを決定したのは、他ならぬインユェである。そして、この星を発見したのも彼なのだから、論功行賞でいえば、第一等は間違いなく自分のものだと確信していた。
 そして、それは完全な事実であり、この星を発見した功績はインユェのものだった。
 別に、誰もそれを横取りしようとは考えない。インユェの不思議な勘の良さは、姉であるメイフゥも認めるところだったし、だからこそ惑星が存在しないという、有益資源探索者であれば見向きもしないであろう宙域への探索を了解したのだから。
 にもかかわらず、インユェを見つめる二人の視線はほろ苦い。まるで、おもちゃの宝物に目を輝かす幼児を見守るような、そんな視線だ。
 流石に様子がおかしいと思ったインユェは、恐る恐る尋ねた。

「おい、どうしたんだよ二人とも。これが嬉しくないのか?」

 浄水器で濾過した水を飲み、人心地ついたメイフゥは、やや申し訳無さそうに、そして気の毒そうに言った。

「……あのな、アホチビよ。今回は別にお前が悪いわけじゃない。それに、あたしだってお前に助けられた。それは認めてやる。ありがとな」

 インユェは、言葉も出ない程に驚いた。
 姉が、あの姉が、自分に礼を言った。ありがとうと言ってくれた。
 それが、信じられなかった。そして、それ以上に嬉しかった。もしかしたらこの星を見つけた瞬間よりも、彼は嬉しかった。
 なのに、当の姉は、ほんの少しだけ輝きを取り戻した豪奢な金髪を掻き毟りながら、

「だけど、考えてもみろよ。ここが第二級以上の居住使用可能惑星だとして、だ。なら、なんでこの星は船の計器に反応しなかったんだろうな?」
「……それは、そういう星なんじゃあないのかよ。ほら、肉眼では見えるけど、計器には反応しないし上陸も出来ない、幽霊星の噂だってあるじゃないか」
「確かに、この広い宇宙だからな。そんな不思議な星があったっておかしくはない。おかしくはないんだが、そういう意味で言えば、この星はその中でも飛びきりにおかしな星だ」

 インユェには、姉の言っている意味が分からない。
 無言で話の続きを求める。
 
「お前が着陸準備に走り回ってる間にな、この星の周りを調べてみた。そしたらよ、何があったと思う?」
「……何があったんだよ」
「一世代以上前の、高性能電波吸収パネル。当時なら、一枚であたしらが一生食っていけるくらいの馬鹿みたいに値の張る代物が、うじゃうじゃとばらまかれてた」
「だからどうしたんだよ!」
「要するに、ここを発見したのは、あたしらが最初じゃないってことだよ」

 
 少年は、打ちひしがれて、森を歩いていた。
 姉は珍しいことに――本当に珍しいことに、彼を一通り慰めてから先に森に入っていった。当面の食糧を確保するためだ。元々、狩猟や戦闘には際立った才覚を見せる彼女のことだから、さして時を待たず、しっかりと獲物を獲って帰ってくるだろう。
 育ての父は『あまり気を落とされることのないように』と優しく肩を叩いた後で、湖に釣り糸を垂らしている。どうやら魚の豊富な湖だったようで、あっという間に山のような魚を釣り上げていた。
 そして彼は、何をする気にもなれず、薪を拾いに行くと言って森の中に入ったのだ。
 先ほど、あれほどに軽かった足が、嘘のように重たい。考えてみれば、水分だけはきっちりと補給したとはいえ、正しくそれだけのことで、腹の中はすっからかんなのだ。足取りが重たくて、寧ろ当然なのかも知れない。
 姉のことが、ふと頭を過ぎった。あれも一応人間なのだし、かなり衰弱していたのも事実だ。あんな状態で狩りに出るなど、いくら彼女でも無茶だったのではないだろうか。その役は、自分が変わるべきだったのではないか。
 そう考えて、それすらもどうでもいいと思った。とにかく、今は何も考えたくはない。
 足下に転がる枯れ枝を、ぼつぼつと拾う。
 別に、集める必要のない薪だ。水や食糧は尽きていたが、クーアシステムによる駆動系は生きているのだから、水さえあれば、キッチンで料理は出来るし部屋で暖を取ることも出来る。
 要するに、自分は無駄なことをしている。何一つ役に立たないことをしている。
 だからといって、今は他のことを何もしたくなかった。それが甘えだとは分かっていたが、今はあの二人に甘えたかったのだ。
 だって、仕方ないじゃないか。
 あれだけ苦労して、冗談ではなく死にかけながら、ようやく見つけた未登録居住用惑星が、自分のものにならないなんて、絶対に間違えている。
 彼はそう主張したのだが、姉と育ての親の反応は冷ややかだった。

『一体どこの馬鹿が、あんなもの電波吸収パネルをばらまいたのかは分からねえ。だがよ、頭がいかれてるかどうかは置いといて、相当な金持ちだってのは間違いねぇ。下手すりゃあ国一つを買い取れるような金を出して、こんな未開発の星を隠したんだからな。頭のぶっ飛んだキチガイの類だ。余程重要な機密がこの星に隠されているなら話は別だが、それにしちゃあ警備が全くされてないのがおかしい。だからよ、本当に信じられねえが、きっとこの星を最初に見つけた馬鹿は、完全に趣味でこの星を隠したとしか思えねえんだよ』

 姉はそう断言した。
 趣味で星を丸ごと隠す、そんな、そんな馬鹿な話があるか。

『信じる信じねえはお前の自由さ。だがな、どちらにせよこの星が人為的に隠されてたってのは間違いねえし、これを隠した奴は相当な実力者だ。そいつを出し抜いた上でこの星を売ってボロ儲け、ってのは難しいだろうなぁ。だからよ、今回のは命が助かっただけでも良しとしてスッパリ諦めろ。なっ?』

 そういって、少し強く肩を叩かれたのだ。
 信じられなかった。
 もしも宝くじが当たって、大喜びで家族に当選を教えて、その後になってから番号間違いを見つけた人間でも、今の自分よりはまだマシな心境に違いない。
 肩すかしにも程がある。
 
「はぁ……」

 口を開けば、漏れ出すのは溜息だけだ。
 情け無い。この星を見つけただけで、よく調べもせずに有頂天になってしまった自分が情け無いし、今の腐った自分も情け無い。何より情け無いのは、そんな現状を十分に理解しながら、どうしても頭を切り換えることの出来ないしみったれた今の自分だ。
 何となくくさくさ・・・・して、足下の小石を思いっきり蹴飛ばした。
 ゴルフボールより一回り小さいくらいのその石は、小気味が良いほど良く飛んで、木の幹に何度かぶつかった後で、茂みの向こうに姿を消した。
 インユェは、その様子が、何故だか楽しかった。だからもう一度その小石を思いっきり蹴ってみようと、茂みの向こうを覗き込んで小石を探していたら、妙なものを見つけた。

「なんだ、こりゃ……?」

 それは、骨だった。
 小さな骨ではない。大きな、おそらくは獣の骨だ。あたりをよく探してみると、猪らしい生き物の頭蓋骨と、焚き火をした跡があった。
 きっと誰かがここで焚き火を熾し、猪の肉を焼いて食べたのだろう。
 言うまでもなく、火を使って獲物を調理するのは、未知の生命体がこの星に生息している可能性を除けば、人間だけだ。
 そして、この星にいるのは、自分達以外には、あの妙な衝立でこの星を隠した、この星の最初の発見者だけだろう。
 誰か、この星をあんなもの電波吸収パネルで覆い隠すことが出来る――しかもただの趣味で――くらいに金を持った誰かが、友人か、家族かそれとも恋人かと、ここで食事を楽しんだのだろうか。自分達が無限の闇の中で、一片の肉も、水すらもなく、迫り来る死に怯えていたときに、その誰かは、ここで思うさまに腹を満たし、酒を飲み、歌を歌ったのだろうか。
 そう考えると、インユェの心に、黒くもやもやしたものが広がった。それは多分、怒りとか嫉妬とか悲しさとか、そういう負の感情を混ぜ合わせて煮詰めたものに違いなかった。
 つまり、この少年は思ったのだ。このやり場のない怒りは、自分をこのような事態に追い込んだ真犯人を痛めつけることで発散させよう、と。
 胸の中をぐらぐらとした黒い炎で燃やしながら、しゃがみ込んで灰を触ってみる。すると、思ったよりも暖かかった。
 きっと、この薪を起こした野郎は、まだ遠くまで行っていない。
 インユェの端正な頬が、にやりと不吉に歪んだ。そうすると、この少年の顔は、やはり双子の姉とそっくりの、狩りを楽しむ猛獣の顔つきになる。
 静かに辺りを見回し、耳を欹てる。
 聞こえるのは、遠くで鳴く獣の声、そして鳥の声。近くで聞こえる、草の葉の擦れる音、虫の鳴き声。
 しばらく、そのまま動かずに、まるで森と一体化したようにじっと意識を集中する。
 すると、がさりと不自然な音が正面の藪の中から聞こえた。

「そこかっ!」

 インユェには、それが人間のたてた物音だという確信があった。野生の生き物ならば、このように不用心な個体は直ぐさま他の獣の餌に成り果てるしかないからだ。
 きっと、まさか自分達以外の人間がこの星にいるとは思わずに、驚いて隠れたのだろう。もしかしたらお世辞にも小綺麗とは言えない自分の身形を見て危険を感じ、咄嗟に身を隠したのかも知れない。

 ――ならば、期待には応えてやらないといけないな。

 どうやって痛めつけてやろうか。どうやって命乞いをさせてやろうか。どうせこちらは失うものは何も無いのだ。折角だから、どうにも胸くその悪いこのもやもやが晴れるまで、散々付き合ってもらおうじゃないか。
 そんなことを考えて、藪の中に分け入っていく。途中、茨のような棘が頬を傷つけたが、ほとんど気にならなかった。
 すぐそこに迫った暴力への期待に身を委ねたインユェは、興奮に頬を赤らめて、鼻息も荒く藪を進んで行く。

 そして、太陽の光が、ほとんど姿を隠すほどに深い藪の中で、彼は見つけた。

 それは、少女だった。
 黒い、長い髪。陶器のように滑らかで白い肌。山岳民族が好むような粗末な衣服。
 どこをどう見ても、金持ちの娘には見えない。少なくとも、あんな大がかりな仕掛けをしてこの星を隠すような、大馬鹿の金持ちの娘には。
 そんな少女が、まるで茨に守られるようにして、安らかな寝息を立てて眠っていた。



[6349] 第二十七話:The Other Day, I Met a Bear
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/09/23 12:13
 足跡は、意外と早く見つかった。
 淡々と続くその足跡は、山道を登り、川を渡り、木に登り、まるで無邪気な少女の様子を物語るように続いていた。
 いつしか森は開け、地面は土から岩場に代わり、道は険しさを増し。
 最後に、崖があった。
 轟々と、水が岩とぶつかる音が、地の底から響いてくる。
 昼間であっても底を見通すことも出来ないような、深い、深い崖の縁。
 そこで、足跡は途切れていた。
 引き返した跡はおろか、そこを降った跡すらない。
 無論、身を隠せるような草むらも。
 そして、そこに少女の姿がないならば。
 残された選択肢は、一つだけ。
 少女は、そこから身を投げたのだ。
 理由など、分からない。
 もう、誰にも分からない。
 ただ、少女は既にこの世にはいないのだ、と、全てが少年に教えていた。
 涙は、無かった。
 嗚咽も無かった。
 拳を握りしめる、乾いた音だけが、あった。

「……行こう、エディ」
「……ああ」

 谷底から吹き上げる哀しげな風は、少女の魂を天へと運んだのだろうか。



 「あいつは、昼までには帰るって言ったんだ。そして今、あいつはここにいない。それなのにどうして平然としていられるもんか」

 そう言ってリィは小屋を飛びだした。
 昼食の用意を終えていたシェラは、リィを諫めるべきかどうか迷った。
 野山を歩いていれば時間の感覚を忘れることなど珍しいことでもないし、少し遠くに足を伸ばしすぎただけかも知れない。
 もう少しだけ待てば、きっと何事もなかったかのように、あの黒髪の少女はひょっこり顔を出すだろう。

『おや、シェラ、もう昼食の準備も終わらしてくれていたのか。これは悪いことをした。さぁ、これ以上料理が冷めないうちに頂こう。おいおい、リィ、きちんと謝っているじゃないか。頼むから機嫌を直してくれ……』

 そんな脳天気な台詞が、今にも扉の向こうから聞こえてくる気がする。

 ままあることではないか。
 普段慣れ親しまない大自然に興奮した子供が、時間も忘れて野遊びに興じる。
 彼の帰りを待つ両親はたいそう気を揉み、いよいよこれは捜索隊に救援を求めなければいけないという段になって、満足げな顔をした子供がひょこりと帰ってくる。
 両親は精一杯のしかめっ面で子供を叱り、内心で彼の無事を神に感謝するのだ。
 珍しいことではない。よくあることだ。

 しかしそれは、いわゆる一般的な少年少女の場合に限定される話である。
 シェラの知る、ウォル・グリークという男――今は何の因果か少女である――の性分は、その限定枠からは大きく外れる。
 あの『お化け屋敷の大親分』は、これぞ大事と普通の人間なら思うようなことに関しては意外なほど大らかなのに、逆にどうでもいいと思うような些末事ほど気を使っていた。
 山を一人歩きするというのは、危険な行為である。一度方角を見失えばたちまち遭難の危険がでてくるし、出張った木の根や大きな石に躓いて足を捻挫すればその場から動くことだって出来なくなる。
 その程度のこと、リィもウォルも承知の上だ。それでもウォルは自分一人で出かけた。そして、自分が約束した時間に遅れることで、仲間がどれほど心配するかが分からない彼女ではない。
 何かがあった、と考えるのが自然である。
 ならば、どう考えても正しいのはリィだ。
 シェラもリィを追おうとした。
 
「待って。街の中ならいざ知らず、こういう場所なら人捜しはエディの領分だよ」
「ルウ、しかし……」

 肩に置かれた手は温かく、自身を見つめる蒼玉の瞳はなお優しかった。

「それにね、シェラ。誰かがここで待っていないと、行き違いになったときに面倒なことになるでしょ。万が一、王様が怪我をして半死半生の態でここに辿り着いたなら、それを治療できる誰かも必要だ」
「不吉なことを言わないでください!」

 シェラにしてみれば、ルウが言うと冗談には聞こえないのだ。
 ルウはくすりと笑って、

「ごめんね。でも、そういう可能性だってないわけじゃない。なら、やっぱり誰かがここで待っていないと」
「……はい」

 シェラは、不承不承と頷いた。

「それに、二次遭難のこともある。シェラのことを馬鹿にするわけじゃないけど、エディや僕なら、あの程度の山の中なら絶対に迷わない。それだけは絶対だ。どんなに暗くなったって、真っ昼間に一本道を歩いているのと変わらないからね」

 山に親しんだ登山家などか聞けば『何を自惚れているんだ馬鹿者!』『山を舐めるな!』とでも雷を落としそうな台詞であったが、シェラは、この青年の言っていることが完全な事実であることを知っていた。リィは人の身でありながら、野生の狼と同等かそれ以上の身体能力と方向感覚を有しているし、ルウはそもそも人間では無い。
 誰にどの役を割り振るのが適当か、神ならぬ人間であっても明らかであろう。

「……では、陛下……ウォルが帰ってきたら、狼煙を上げます。原始的ですが、通信機器の働かないこの星ではそれが一番分かりやすいでしょう」
「うん。お願いするね、シェラ」

 見る人を安心させる人好きの良い笑顔を浮かべてから、ルウは先行したリィを追いかけて、小屋を飛び出した。
 一人残されたシェラは、最悪の事態に備えて動き出した。
 まずは熱い湯を沸かし、備え付けの医薬品の場所を確かめる。
 その後で、きっとお腹を空かして帰ってくるだろう黒髪の少女のために、冷めても美味しい料理の一つでも拵えておこうか。

「それにしても……一人残されるというのがこれほど侘びしいことだとは……」

 これが長い間、腕利きの行者として諸国を放浪した自分なのだろうかとシェラは訝しんだ。あの頃は、何時晴れるとも知れない暗闇の中で、心音と吐息を押し殺して一晩を明かすなど、どうとも思わなかったくせに。
 これは、堕落なのか。それとも変化なのか。
 シェラは、自分の問いに対して、気の利いた解答を用意できなかった。

 そして、日は沈み、月が昇り、月が沈み、日が昇り、再び沈んだ。

 こつり、と、靴底と木の床のぶつかる音がした。
 烟るような月光の中、うとうととしていたシェラは、文字通り跳び跳ねるようにして椅子から体を起こした。
 いつの間に眠っていたのだろうか。
 行者として、過酷な任務についていた頃の自分からは考えられない失態だ。
 舌打ちを何とか堪えたシェラは、急いで扉へと駆け寄った。
 その向こうに誰がいるかなど、考えるまでも無い。
 きっと、彼らが帰ってきたのだ。

『すまんすまん、シェラ、遅くなった。遠出をしていたら道に迷ってしまった。いやはや、やはりリィの真似などするものではないな』
『なにがいやはやだ。お前、本当に反省してるのか?シェラだって寝ずにおれ達を待っていてくれたんだぞ。ほら、さっさと謝れ』
『うむ。心配をかけたな、シェラ。今後軽率な行動は慎むから許してくれ』
『ほんと、心配したんだからね、王様。もし今度同じようなことをしたら、すぐにでもエディのお嫁さんになってもらうから覚悟しとくように』
『……すぐに、とはどういう意味だろうか、ラヴィー殿?』
『うんとね、今日から数えて十月十日後には、エディと王様の可愛らしい赤ちゃんが生まれてくるっていうことだよ』
『……それは全力で勘弁願いたいものだな』

 そんな、苦笑と安堵に満ちた会話が、すぐ目の前に待っている。
 だから、嘘だ。
 靴の音が、たった一人分しか聞こえないなんて。
 自分は夢を見ているのだ。
 暗い、暗い、絶望に満ちた夢を。

 ぎいぃ、と、錆びた音をたてて、扉が開いた。

「ただいま、シェラ」

 闇の中に、闇の青年が立ち尽くしていた。
 
「ルウ……」
「ごめんね」

 血の気の通わない顔に精一杯の微笑みを浮かべたルウは、そう言った。
 シェラは、ルウが何を言おうとしているのか、分かっていた。
 分かっていて、それでもなお問うた。
 信じられなかったのではない。
 信じたくなかったのだ。

「ルウ。二人は……」
「手遅れだった」

 何が、と尋ねることが出来れば、どれほどに幸福だっただろう。
 シェラは、頭から全ての血液が降っていく音を聞いた。
 
「そんな……」
「王様は、崖から落ちた。多分、自分の意志で」
「……」
「あの高さじゃあ、十中八九、助からない。それに、下は流れの速い川だった。遺体も見つからないと思う」

 その言葉を聞いてシェラが真っ先に感じたのは、疑念ではなく怒りだった。
 自分よりも大切な何かを侮辱された時にだけ感じる、はらわたを焼くような怒りだった。
 
「あの方が、御自ら崖に身を投げたと、そう仰るのですか!?」

 一組の掌が、木の机を強かに叩いた。
 頑丈な机が大きく撓むほど、強烈な一撃だった。
 大きな音が、静まりかえった山小屋に響いた。
 シェラは、喘ぐような呼吸を繰り返している。目尻には薄く涙すら浮かべている。
 ルウは、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。

「……崖の縁に、足跡が一つ。引き返した形跡は勿論、そのまま崖を這い降りた形跡も無かった。僕やエディみたいに空を飛べるならともかく、それが出来ないはずの王様はどうやってその場から姿を消したんだろう。飛び降りた、以外の方法があるなら教えて欲しい」
「だからといってッ!」

 ルウは目を伏せたまま、シェラの怒りに身を晒していた。
 きっとこれは、大切な人の死を自分以外に伝える役目を負った者の義務なのだ、と知っていたからだ。
 聡明なシェラが、そのことに気付かぬはずがない。ならば、シェラは全てを承知で故のない怒りをルウにぶつけているのか。それとも、ここまで激した己の感情を制する術を、未だ知らないのか。
 後者だろうかと、ルウは思った。あちらの世界では暗殺者として数多の罪無き人を殺めた経験のあるシェラも、実のところ二十歳程度の若者だ。烈火の如く荒ぶる感情を前に為す術が無かったとして、誰がそれを責めることが出来るだろう。
 シェラは、不安定な語勢で続ける。
 
「あの方が自分から世を儚まれた?敵の手に落ち、虜囚の辱めを受け、獣が如く鎖に繋がれ、それでも全てを諦めなかったあの方が?あげく、度重なる拷問と飢餓に衰弱した体で、しかも素手で飢えた猛獣の前に引き出されたときも、俯くことなく前のみを見据えていたあの方が、自ら死を選んだ?一体何故に!?」
「なら、夜道に足を踏み外したのかも知れない。突然、強い風が吹いたのかもしれない。誰かに突き落とされたことだってあるかも知れない。でもね、シェラ」

 ルウは、決定的な一言を口にした。

「王様は……ウォルは、もうこの世にはいないんだ」



 手札の正確さは、この際残酷だった。
 凶暴だったと呼んでもいい。
 束ねられたカードを何度も切り、分厚い束の中から無作為に数枚のカードを抜き取る。
 絵柄は、全てが一緒だった。
 数学的な確率論に置き換えるのも、馬鹿馬鹿しい程の確率だ。
 その全てが、単一の事象を表していた。
 この絵柄だけは、どうやったって読み間違いようがなかった。
 あの日、アマロックを占った手札は、この絵柄だった。だから、どれほど急いだって間に合わないことを、青年は知っていた。
 あの日、キングを占った時も、同じ絵柄だった。そして青年は、彼の人の魂を己の体の内で慰めた。
 ずっと、そうだったのだ。
 大きな鎌を担いだ、死に神の模様。
 それは、幼児とて見間違いようのない、死の具現だった。

「……エディ。もう止めよう。これ以上、何度占ったって……」
「もう一度。もう一度だけ頼む、ルーファ」

 虚ろな瞳でそう呟いたリィの手には、別れの際にウォルが携えていた、武骨な鉈が握られている。
 崖の下、岩を削るような激流の中で、二人が苦労して見つけたものだった。
 幸運にも、僅かながらに流れが穏やかな場所に転がった大きな岩と小さな岩の間に挟まっていたのだ。
 刃は曲がり、柄の部分は完全に拉げている。
 底を見渡すことすら出来ないような断崖絶壁から落ちて、岩石質の川底に叩き付けられたのだから無理もないだろう。
 それは、鉈を人の体に置き換えても同様の、いや、それ以上に酸鼻を極めた状態になるのは明らかだった。
 肉は潰れ、骨は砕け、血が飛び散る。
 およそ、人の形を残さぬ死。しかし、宇宙船の爆発に巻き込まれたとか、跡形も残さないのとは違う。人が最も目を背けたくなる、死。
 実際に残されていたのは、僅かな血痕だけだった。
 激流が全てを洗い流したのは、寧ろ少女にとっての救いだったのかもしれない。
 しかし、残された人にとってはどうだろう。
 目の前から、愛する人が消えた。
 死体も残さずに、消えた。
 ならば、どうしてその死を信じることが出来るだろうか。
 それが人の弱さで、だからこそ人の最も美しいところだと、ルウは知っていた。
 もう一度、手札を丹念に切った。
 こっそりと一枚の札を抜こうかと思ったが、それでも出てくる結果は同じだろう。絵札の柄が代わり、少し表現が遠回しになるだけだ。
 そのまま、切った。
 そして、数枚の札を抜いて、並べた。
 先頭に来たのは、大鎌を携えた、死に神だった。

「エディ……」
「……もう一度。もう一度だけ……」

 鉈を握りしめるリィの手から、赤い液体が滴っていた。
 ルウはそれを、まるでリィの痛んだ心が流す、涙のように感じた。
 詰まるところ、自分が流す涙と同義語だ。何故なら目の前の少年は、自分の心の半分を持っている。
 唇の端を噛んだルウは、もう一度、手札を切った。
 そして、カードを並べて、先ほどと同じ落胆を味わった。

 今度は、もう一度、と、懇願する声は響かなかった。

 ルウは、無力だった。神にも例えられる彼が、自分が如何に無力な存在かを噛み締めていた。
 あの時、自分の数少ない友人にして、魂の相棒たるリィの父親が、無惨に殺された時。
 ルウに出来たのは、怒りと無念に震える幼子の魂がこれ以上汚れることのないよう、抱き締めてやることだけだった。
 余命幾ばくもない母親が、生まれたばかりのジェームスを自分に託した時。
 ルウに出来たのは、哀しい定めを背負った魂が迷うことの無いよう、微笑って見送ることだけだった。
 きっと、今回もそうなのだろう。
 絞り出した声は、酒で灼けたようにしゃがれていた。

「……エディ。もう止めよう。シェラだって待ってる。いつまでもここにいるわけには、いかないよ」

 それに応えるリィの声は、しかし、はっきりと穏やかなものだった。

「ああ、ルーファの言うとおりだな」
「……じゃあ」
「だから、ルーファだけ、先に戻ってくれ」

 すくっと立ち上がったリィは、手を庇にしながら、太陽を見上げた。
 
「ルーファなら、今から帰れば、日が暮れる頃にはあの山小屋にたどり着ける。そうすれば、ダンの迎えにもぎりぎり間に合うだろう」
「エディ?」
「おれは、あの馬鹿を連れて帰るってシェラに約束した。だから、きっちりと連れて帰る。例えそれが、どんな姿だったとしても」
「無茶だよエディ!こんな急流に流されたんだよ?見つかりっこない!それに、それに、もしも見つかったって……」

 ――それは、もう、王様じゃない。

 ――それは、人の形をした、それとも人の形を辞めてしまった、肉の塊だ。

 ――それは、誰よりも、君が一番理解しているんじゃないのか。

 ――アマロックを目の前で失った、君が。

 ルウは、舌の上に乗った言葉を、辛うじて飲み込んだ。
 リィは微笑った。
 相棒が何を言おうとしているのかが、痛いほどに分かったからだ。
 そんなリィを見上げながら、ルウは、

「……手札は万能じゃない。手札が間違わなくても、僕がそれを読み間違うことはあり得るんだ。それでも、僕には、王様が生きているとは思えない」

 リィは無言で頷いた。

「なら、どうして……」
「自分でも馬鹿なことを言ってるって分かってる。だから、ルーファは先に戻ってくれ。シェラも連れて帰って欲しい」
「……エディが帰らないのに、あの子がこの星を離れるはずがないでしょ」
「無理矢理にでも連れて帰ってくれ。あいつ、作品の提出期限だって近いのに、無理して付き合ってくれたんだ。これ以上迷惑をかけるわけには、いかない」
「……なら、エディも一緒に帰るべきだ。ウォルがこんなことになって、その上エディも帰ってこないとなれば、アーサーやマーガレットがどれだけ心配するか。二人だけじゃない。ダンも、キングもジャスミンも、君を知ってる全ての人が心配する。エディ、君は王様の世界に行って、変わった。君はアマロックを失った直後のように、この世界に一人ぼっちじゃあないんだ」
「ああ、知ってる」

 座り込んだままのルウが仰ぎ見たリィの顔は、哀しいほどに穏やかな笑顔だった。

「だからこそ、だよ、ルーファ。おれ自身、全く実感は無いんだけど。もしも、おれを変えたのがあいつならさ、そのあいつを、冷たい水の中でひとりぼっちにさせておくわけには、いかないじゃあないか」



 宇宙船《ピグマリオンⅡ》の中は、そのまま服喪の空気に満たされていた。
 船員は皆、ウォルのことを知っていた。
 最初こそ顔立ちの整った少女だな、程度の認識であったが、アクションロッドで叩きのめされ、飲み比べで負けて、賭け事でこてんぱんにされて、その顔は忘れようもないほどに、記憶に焼き付けられた。
 なのに、不思議と憎らしく思えない。
 どうしたって浮かんでくるのは、してやられた自分に対する苦笑いと、少女の微笑みにつられた、軽やかな笑顔だけ。
 まるで、遠い昔に取っ組み合いの喧嘩をした――あるいは共に悪戯を企んだ――悪ガキという名前の親友を思い出したときのように、少女を思い出している。
 思い出せば、必ず笑っていた。
 痛い目にしかあわされたことはないなずなのに、屈託のない、輝くような微笑みに、いつしか心を奪われていたのだ。
 その少女が、あの太陽のような少女が、既にこの世にはいないという。
 誰もが、それを信じなかった。きっと、たちの悪い冗談だろうと。
 しかし、ルウのことを知っている船員は、彼がそういう冗談を、どれほど酒に悪酔いした時だって絶対口にしないと知っていた。
 だから、ウォルという、まるで少年のような名前の少女は、天に召されたのだ。
 別に、悲しむべきことではない。
 宇宙に生きる男達にとっての『死』とは、町内会の当番のようなもの。いずれは自分のところに回ってくるし、どれほど気が進まなくても引き受けざるを得ない。
 あの少女には、それが少し早すぎただけのことだ。
 気の良い船員は、少女の魂の安らかなることを願って、静かに杯を傾けた。
 不謹慎だと眉を顰める者もいるかも知れないが、彼らにとってはこれが死者を悼む最上の礼儀なのだ。誰にも文句を言われる筋合いはない。
 だが、より死者に近しい者達は、杯を傾けて故人を偲べるほど、恵まれた立場にはいなかった。例えばそれは少女の友人であり、あるいは彼女の一時的な保護者を引き受けた大人などである。
 
「一刻も早く、ご両親に知らせるべきだろう」

 心持ち青ざめた顔で、ダンは言った。
 船長室にいるのは、《ピグマリオンⅡ》の船長たる彼と、ルウ、そしてシェラだけである。
 この話を聞いて最初こそ激しい動揺と遣り所のない怒りに我を忘れたシェラであったが、今はその反動か、魂が抜けたように穏やかだ。常でさえ白磁のように色の薄い肌は、白さを通り越して薄青くさえあるように見える。
 ルウは、いつも通りの様子だ。それとも、いつも通りを装えていると、そう言う方が適切だろうか。
 そんな二人を前にして、年長者たるダンは淡々とした口調で言った。彼も、仕事柄、こういった事態は初めてではない。

「私はヴァレンタイン夫妻には何度かお目にかかったことがあるが、あの方々は養子であっても、いや、だからこそ、自分の子供と変わりない愛情を注げる人達だ。ウォルが死んで、悲しまないはずがない。我々は彼女の死について少なからぬ責任を負わなければならない以上、知らせるのは、早ければ早いほど良いはずだ」

 至極もっともな意見だった。
 アーサーとマーガレットの為人を知るルウは、深く頷いた。

「僕もそう思う。でも、少しだけ待って」
「どうしてだ」

 ダンの短い詰問に、ルウは応えようと口を開いた。
 
「それは――」
「私が、無理を言いました」

 ぼそり、とシェラが呟いた。

「シェラ、君は――」
「ダン船長。私は、アーサー卿とマーガレット夫人には、言葉で言い表せないほどお世話になりました。君さえ良ければ自分達の子供にならないか、とさえ言ってくれたのです。そして私は、ウォルにも深い恩義があります。私の魂を救ってくれたのはリィですが、それもあの方あってこそなのですから」

 だからこそ、ウォルの死は、自分が直接伝えたい、とシェラは言った。

 本来ならば、その役目は自分以外の誰かが――輝くような金髪と、緑柱石色の瞳を持つ少年が――引き受けただろう。しかし、リィはシェラを大学惑星に帰して、自分はヴェロニカに残った。
 余人が聞けば、逃避だと、責任逃れだと罵るかも知れないが、シェラは、これがリィなりの筋の通し方だと理解していた。
 リィは、本当にウォルの死体が見つかるまで、それともはっきりとした遺品が見つかるまで、あの星を離れないだろう。それが砂漠の中に落とした指輪を見つけることよりもなお困難だったとして、あの少年はそれを諦めない。例えそれが、何年、何十年という歳月を費やしてなお不可能な絶事であろうとも、だ。
 どことなく、リィには相応しくないような気もした。
 これは、仮初めとはいえ夫婦の契りを結んだ夫への、最後の義理立てなのだろうか。もしくは自分の過ちで死なせてしまった戦友に対する後悔。それとも、彼は本当は、ウォルが死んだことを信じていないのかもしれない。
 全てが間違えている気がした。同時に、全てが正鵠を射ているような気もする。
 シェラは、際限のない懊悩を振り切るように、拳を強く握りしめた。

「……とにかく、私は一度大学惑星に戻り、ベルトランに赴き、卿と夫人にウォルの不幸を伝えなければなりません」
「その後は、どうするのかね?」
「そんなことは決まっています、ダン船長。私の居場所は、あの人の隣にしかありませんから」

 シェラは薄く笑って、船長室を後にした。
 ダンは、シェラの真っ直ぐに伸びた背中を眺めて、痛ましく思った。こんな時でも背を曲げることすら許さない少年の強さが、かえって憐れを誘ったのだ。

「それにしても……」

 自分と同い年の少年少女を指して『あの人』『あの方』とは不思議な言い様であるが、彼らに、いわゆる常識というものがどれほど歯が立たないかを知っているダンは、口をつぐんだ。
 辛うじて苦笑と呼べる表情を浮かべたダンは、

「ルウ、お前はどうするんだ」

 おそらくは、誰よりも罪悪感に押し潰されそうな、黒髪の青年に声をかけた。

「あの星に滞在している間は、お前が引率者だったんだ。無論私も含めてだが、事故そのものに関わっていなかったとしても、何らかの責任は負わざるを得ないぞ」
「うん、そうだろうね」

 困ったような笑みを浮かべて、ルウは言った。

「多分、学校は辞めなくちゃならないし、金銭的な賠償責任だって負わなきゃならないだろうね。当然だよ。でも、そんなことよりも、アーサーやマーガレットに事情を説明する時のことを考えると、何十倍も憂鬱だ。人攫いと罵られるのは構わないけど、あの二人に『人殺し』と、『娘を返せ』と言われたら……きっと、すごく痛いんだろうなぁ」

 ダンも、同じことを考えていた。
 突然、無理矢理に大切な人を奪われた遺族が、その事故の責任者に向ける糾弾の視線は、凶器そのものだ。
 怒り狂ってくれるならまだ救われる。一番辛いのは、あらゆる感情を失ったように見える、ガラス玉のような瞳だろう。
 その、ガラス玉のように透明な瞳を向けながら、辛うじて耳に届くくらいの小さな声で、彼らはぼそりと呟くのだ。
 何故、あの人は死んだのか、と。
 何故、あの人は死ななければならなかったのか、と。
 あの視線を向けられて平然としていられるのは、人間の皮を被った悪魔か鬼かに違いないとダンは確信している。
 そして、ほとんど間違いなく、遠からぬ未来の自分は、その視線に晒されるのだ。無論、一切の遮蔽物も無しに。
 ダンは、思わず大きな溜息を吐いていた。考えるだけで憂鬱な、神経に鑢を掛けるような未来図だ。
 これなら安定度80のゲートに船を突っこむ時のほうがいくらか気が楽だと、若干現実逃避的な思考をダンが始めた時、

「ごめんね、ダン。僕達に付き合ったせいで、とんでもないことに巻き込んじゃった。どんなふうにお詫びをしても許されることじゃないけど……本当に、ごめんなさい」

 黒髪の青年は、深々と、これ以上ないというほどに深く、頭を下げていた。
 それを見たダンは、少しだけ鼻白んだ様子で、

「……お前が厄介事を持ってくるのは今に始まったことじゃない。それに、今回に限って言えば、お前が悪いわけじゃない。気にするな」

 ダンは、項垂れた様子のルウの肩を一つ叩いて、船長室を後にした。
 一人残されたルウは、常闇に染まった強化アクリルガラスの外を眺めて、この世界のどこかを漂っているであろう、リィの婚約者の魂を想って目を閉じた。



 大学惑星、ティラ・ボーンは、お祭り騒ぎだった。
 TBO、ティラ・ボーン・オリンピックと呼ばれる一大スポーツイベントが催され、そのおこぼれを与ろうとばかりに、星中のあちこちで大小様々なイベントが開催されている。
 普段は学生やその家族、あるいはこの星で働く教育機関等の職員以外、めったに見ることのない人間達――例えばマスコミ関係者や観光客など――も数多く、あらゆる場所で人の数が倍増している。
 これを見て、血気盛んな若者達が喜ばないはずがない。浮き足立つ街の空気に誘われるようにして、気の合う同性の仲間を、あるいは気になる異性の友達を連れ出し、学舎の外に繰り出すのだ。
 そして、普段は厳格な学校側も、こんな時ばかりは多少のはめを外すくらいは大目に見る。地中から吹き出すマグマのような活力とエネルギーを閉じ込めることが、如何に困難で如何に危険なことか、老獪な彼らは知り尽くしていた。
 無論、はめを外しすぎた者達には、放校処分も含めたところで、厳しい罰が待っている。学生達もそれを弁えているから、傷害事件や薬物事件など、深刻な非行行為はここ十年発生したことはなかった。
 しかし、そういうふうに浮かれ騒ぐことができるのは、あくまで外から祭りを見学出来る、ある種の幸せ者だけである。
 祭りを企画する者や運営する者、あるいは監督する者達は、喧噪の中に飛び込んでパレードに興じる余裕などは無い。各所で発生する小火を、小火騒ぎのうちに消し止めるために躍起である。
 ティラ・ボーンという星が『連邦大学』という異名を持つとおり、この星で最も多くの割合を占める人間は、学生達である。従って、TBOの運営自体も学生の主導によるところが大きい。予算の決定や警備など、極めて重要な一部を除けばその運営は学生に任されていると言っても過言ではない。そんなところに、他の惑星のオリンピックとは違う点を見い出すことが出来る。
 運営に携わる各種委員会に所属する学生達は、お祭り騒ぎを羨む暇もなく東奔西走しているわけだが、それ以外にも、この祭りを楽しむどころではない心持ちの者もいる。
 他でもない、TBOの出場選手だ。
 それも当然だろう。何せ、これは普通のスポーツ大会とはわけが違う。種目と階級によっては、下手なプロスポーツ中継などよりも、遙かに注目度の高い試合もあるのだ。
 例えば、サッカーやベースボール、アクションロッドやモータースポーツなどは特に人気が高く、そのトップレベルの選手の中には、いまだ学生でありながらスポンサーとプロ契約を結んでいる選手も少なくない。
 逆に、そんな一握りのエリート選手と同じ舞台に立ちながら、しかし彼らより低い評価に甘んじているような選手にとって、TBOは自分の力を世に示す絶好の機会といえるから、鼻息を荒くする選手が増えるのも当然である。

 連邦大学中等部、ウェルナール校に所属するジェームス・マクスウェルなども、そんな選手の一人であった。彼は数ある競技の中でも最も層の厚い競技の一つであるアクションロッドの中等部門で、見事ウェルナール校、アイクライン校等を含んだ学区の代表の座を勝ち得たのである。
 もっとも、彼は将来的にアクションロッドの世界で食べていくつもりは毛頭無い。彼は、尊敬する父親と一緒に、船乗りとして宇宙を駆けてみたいと思っているのだから。
 ではそんな彼が何故アクションロッドの練習に血道を上げたかといえば、その理由は一つではない。

 将来船乗りとして宇宙に出たときに護身術として役立つから、という理由。

 一刻も早く強い男になって、母親をあの男(実は扮装したジャスミンであったわけだが)から取り戻したい、という理由。

 しかし一番大きかった理由は、少し前にジェームスを襲ったとある事件だろう。
 その事件の中で、ジェームスはトリジウム密輸組織のアジトに潜入し、武装した兵士と戦わざるを得なくなった。
 当然、ただの中学生であるジェームスに為す術などあるはずもない。飛び交う銃弾の中で震え居竦むしか出来なかった彼が生き残ることが出来たのは、ヴィッキー・ヴァレンタインという、彼の友人の活躍があったからである。
 そして、そのヴィッキー・ヴァレンタインは、騒動の中でいくつもの怪我を負った。ジェームスが見れば、どうして命があるのか不思議に思える程の重傷もあった。
 ジェームスは、そのほとんどが、自分を庇って負った傷だということを承知している。そして、自分がヴィッキー・ヴァレンタインという少年に対して、到底返し得ない程の借りを作ってしまったことも。
 その時、彼は、偉大なる父に向かって、誓約したのだ。
 いつか、自分はヴィッキーの力になる、と。
 命を賭けて、受けた恩を返す、と。
 
 ――いつの日か、あの少年が困っているときに、手を差し伸べられる自分でありたい。

 だからこそ、ジェームスは真剣に練習に取り組み、晴れて学区代表という栄誉を勝ち取ったのだ。
 だが、それは栄誉であると同時に、学校の代表として無様な姿は見せられないという、強烈なプレッシャーにもなる。
 プレッシャーに押し潰されて試合を始める前に己に負けるか、それともバネとして奮起し試合に備えるか。勝負は試合の前に始まっている。
 ジェームスは、翌日に試合を控えたその日、試合会場のある大陸から飛行機とバスを乗り継ぎ、自分の住処であるフォンダム寮に帰ってきた。
 何がしたかったわけではない。ただ、ヴィッキー・ヴァレンタインに、リィに会いたくなったのだ。
 彼ならば、今の自分を見て、何と言うだろうか。
 たかが試合に緊張する自分を見て、鼻で笑うかも知れない。それとも激励の言葉をくれるだろうか。実のところ自分の試合などにはあまり興味を持っていないかも知れない。それも十分にあり得る。
 どれでもよかった。どれでも、リィに会わずに明日の試合に挑むより、素晴らしい結果が得られる気がした。
 だからこそ、わざわざ試合の前日に遠く寮まで足を運んだというのに、リィは不在であった。
 二、三日前から休暇を取り、どこかの惑星でキャンプをしているらしい。
 
「それで、いつ戻ってくるんですか?」
「事前の休暇申請の予定なら昨日か今日辺り帰ってくるはずなんだけど……まだ寮には帰ってないみたいねぇ」

 学生課の女性職員は、メガネをずらしながら寮の退出記録を見て、そして言った。

「一緒に行ってるフィナ・ヴァレンタインも、シェラ・ファロットも帰ってきてないみたいだし……休暇の延長をするなら早く手続してもらわないと困るんだけどねぇ……」
「そうですか……ありがとうございました」

 ジェームスは、がっくりと肩を落とした。
 苛立ち紛れに、飲みかけのパックジュースを一息で飲み干す。
 そして、なおもぶつぶつと続ける職員に礼を言って、事務室を立ち去ろうとすると――

 開いた扉の向こうに、黒い壁が出来ていた。

 ――あれ。こんなところに壁があったら、出入りが出来ないじゃないか。

 そう思ったジェームスだったが、直後に気がついた。

 ――あれ。俺は確か、この扉から入ってきたはずなのに。

 事実関係の不整合に一瞬茫然とした直後である。
 その壁が、どこかのんびりとした声で、人の言葉をしゃべった。

「――あのう、すみません、学生課ってここでいいんでしょうか」

 ジェームスは、ぎょっとして、思わず後退った。
 そして、その物体の全体像を視界に収め、やっとのことで理解した。
 壁だと思ったのは、黒いスーツだった。正確に言うなら、黒いスーツを纏った、とてつもなく巨大な人間だった。
 ジェームスが思わず天を見上げると、そこには扉を窮屈そうに潜った、厳めしい大男がいた。
 大きい。尋常ではなく大きい。
 ジェームスの父親、ダン・マクスウェルは、常人と比べれば相当に立派な体格を有している。それに、父の知人には、天を突くほどに大きな人もいる。
 その彼らと比べても、目の前にいる男は、遙かに大きかった。それは縦にも、そして横にもだ。
 のっぽ、という印象はない。背が高い、という印象もない。無論、肥満という印象もない。
 ただ、巨大なのだ。ラグビーやアメリカンフットボールの前衛選手をそのまま拡大印刷したかのように、大きく、幅広く、そして分厚い。
 加えて、その巨大な体の上に乗っかっている顔も、尋常では無かった。
 感情を感じさせない、まるで鑿で切り込みを入れたように細い目と、その奥の小さな瞳。彫りは深い造りなのに、目も鼻も口も、顔のパーツ全てが小さい。
 四角くエラの張った輪郭はコンクリートブロックのようで、その周囲を短く刈り込まれた蜂蜜色の髪が覆っている。頬はそげ落ち、無駄な肉の少なさは病的ですらあった。
 異相であった。凶相と言ってもいい。
 果たしてこれは人間かと、ジェームスは思った。熊か象の化け物だと言われた方が、しっくりくる。
 その思いは事務所にいた全ての人間が共有したものだったのだろう、先ほどまで忙しく手を動かし声を飛ばしていた職員の全てが、時間が止まったかのように動かない。存在を忘れられた電話が、空しく呼び出し音を鳴り響かせている。
 事態の原因が自分にあることを承知しているのだろう、男はのんびりと辺りを見回し、申し訳無さそうに腰を屈めて、そして言った。

「あの、ほんとにすみません。……ここ、学生課じゃなかったでしょうか?」
 
 何とも心細そうなその声をきっかけに、止まっていた時間は動き出した。
 先ほどジェームスの対応に出た女性職員が、ずれたメガネを掛け直し、応対のために窓口に出る。

「あ、あの、どういったご用件でしょうか!?」

 声が若干裏返っていたのは隠しようもなかったが、しかし彼女の応対は賞賛すべきものだった。悲鳴を上げなかっただけでも大したものだ。
 しかし、彼女の手はテーブルの下に設えられた非常警報ボタンに、しっかりと添えられていた。いつこの大男が逆上して暴れ出しても、即座に警備員に知らせられるようにするためだ。無論、駆けつけた警備員がこの大男を取り押さえることが出来るかどうかは、全くの別問題である。
 全職員の視線が集中する中、事務室の出来るだけ端っこのほうを歩いた大男は、窓口に立つ女性職員を前にして、やはり申し訳無さそうに腰を屈め、片方の手で頭を掻き、もう片方の手を懐に入れた。
 部屋全体に、緊張が走った。
 女性職員は、汗ばんだ指先で、非常警報ボタンを半ば押しかけた。
 
「えっと、私はこういう者なんですが……」

 懐から取り出されたのは、男の掌からすればあまりに小さな、一枚のカードだった。
 男の公的な身分を証明する、身分証であった。
 だが、そのカードの効果は十全に発揮されたとは言い難い。
 何せ、内容を確かめる前に、緊張の極みに達した女性職員が泡を吹いて卒倒してしまったのだから。

「ああっ!?大丈夫ですか!?」

 くらりと崩れる女性の体を咄嗟に支えた大男は、大いに慌てた声でそう言った。
 彼にしてみれば、それは女性を助けるための行為で、それ以外の何物でもない。
 だから、彼にとって不運だったのは、彼の紳士的な行為が第三者の視点から見れば、突如現れた凶悪な暴漢が憐れな女性に襲いかかり、気絶させたようにしか見えなかったことだ。

「貴様、何をするっ!離れろ!」

 義憤と正義感に駆られた男性職員が、大男に飛びかかった。
 おそらく何らかの護身術の心得があったのだろう、体格のいい男性職員(無論、大男と比べれば大人と子供程度にしか見えない)は大男に向かって体当たりをかまし、パンチやキックを次々と放つ。
 しかし大男は、そもそも自分がそんな攻撃に晒されていることに気がついていないようで、慌てた様子で気を失った女性職員を抱え上げ、手近にあるソファに運ぼうとする。
 当然、この紳士的な行為も、第三者から見れば、憐れな女性職員が凶悪な暴漢に誘拐されそうになっているふうにしか見えない。
 ついに、誰かが非常警報ボタンを鳴らした。大きな警報音が鳴り響く。
 時を置かずに警備員が駆けつけ、何があったのか、近くにいる職員に詰問する。

「あ、あの大男が突然ケイシーを襲って!は、早く捕まえてください!」

 金切り声と怒号が錯綜する。
 正しく修羅場であった。
 ジェームスは、半ば惚けたような様子で、その光景を眺めていた。
 一体何が起こっているのか、分からなかった。

「君!君は離れていなさい!」
「すぐに部屋から出て!」

 ジェームスは、警備員に押し退けられるようにして、部屋の隅の方に追いやられた。

「さぁ、観念しろ!」
「大人しくしろ、化け物め!」

 警備員が、金属製の警棒を振り回す。
 それが男の腕やら腰やらにぶつかって、寒気のするような音が辺りに響く。

「あの、違うんです!俺、何もしてないです!それよりも、早くこの人を医務室に……!」

 悲鳴のような声が聞こえるが、誰も耳を貸さない。
 大男は、倒れた女性職員をかばうように、その上に覆い被さっていた。
 警備員はその上から、警棒や靴底で、容赦なく大男を痛めつけていた。
 事態を遠巻きに眺めていたジェームスは、流石に何が起きているか、気がついた。
 大男は何も悪いことはしていない。ただ、あまりにも全てのタイミングが悪すぎただけなのだ、と。
 助けなければ、と、ジェームスは思った。

「やめろよ!その人、何も悪いことしてないだろ!」

 人垣に向かって、精一杯の大声で叫んだ。
 しかし、怒号が飛び交いけたたましく警報の鳴る中で、少年の声は誰の耳にも届かなかった。
 ジェームスは、叫んだ。
 何度も叫んだ。
 業を煮やして人垣の中に突っこんだりもしたが、容赦なく弾き出されるだけだった。
 その間も、大男に対する暴行は続いていた。亀の姿勢に丸まった大男の後頭部や背中に向かって、警棒や靴の踵が容赦なく振り下ろされている。

 ――このままじゃあ、あの人は殺されてしまう。

 ジェームスは、ほとんど泣き出しそうになった。

 ――誰か、誰か、いないのか。

 縋るように、辺りを見回す。きっと、金色の、柔らかにウェーブのかかった髪の毛で飾られた頭を、探していた。

 ――誰か、誰か。

 ――父さん、ルウ、ヴィッキー、誰でも良い。誰か――

「一体、これはどうしたんですか、ジェームス!?」

 柔らかな、聞く者の耳に心地良い、声。
 ジェームスは、それが誰の声が、知っていた。
 振り返ると、そこには、色素の薄い銀色の髪をした少年がいた。

「シェラ!」

 目を丸くした美貌の少年は、手近にいた知り合い――ジェームスに、事態の説明を求めた。

「この騒ぎは一体……?」
「助けて!あの人、何も悪いことをしてないのに、このままじゃあ殺されちゃう!」

 何とも要領を得ない説明だったが、恐慌を来していたジェームスにそれ以上を求めるのは酷というものだろう。
 シェラは咄嗟に、己のなすべきことを悟った。とにかく、この混乱を収拾することが第一のようだ。

「失礼」

 シェラは、ジェームスの手から、空になったジュースパックを奪い取り、刺さったままのストローから、思い切り息を吹き込んだ。
 ぱんぱんに膨らんだそれを地面に落として、

「ジェームス、耳を塞いでください」

 ほとんど時間的な余裕はなかったが、ジェームスは素直に従った。
 しろ、と言われれば素直に従う。それが非常時であれば尚更だ。
 一連の事件で、ジェームスは確かに成長していた。
 そんな彼をきちんと確認したかどうか。シェラは、地面に落ちた紙パックを一息で踏みつぶした。
 刹那、耳を劈くような破裂音が、事務室に響いた。

「何だッ!?銃撃か!?」
「爆発物か!?」

 そんな声に、事務室中の人間が頭を床に伏せた。
 そして、警備員が一斉に、銃を構えながら振り向くと、

「――どうも、こんにちは。一体何があったんですか?皆さんでこんなに大騒ぎして」

 にこやかな、天使か女神と見紛うほどに美しい子供が、両手をばんざいさせた体勢で立っていた。
 呆気にとられたのは警備員だけではない。その場にいた全員が一様にシェラのほうを見つめ、大きく口を開けていた。



「おお、痛てて……」

 顔中に小さな青あざを作った大男――ヴォルフガング・イェーガー少尉が軽く呻いた。
 場所は医務室である。しかし、気絶した女性職員が運ばれたのとは別の、少し離れた別校舎の医務室だ。
 それは、ヴォルフが女性職員に危害を加えることを恐れての措置ではない。ただ、ようやく目を覚ました女性職員が再び気を失うことを防ぐための、やむを得ざる措置である。

「災難でしたね」
「ああ、全くだ。これだから、今まで一度も行ったことの無い場所に、一人で行くのは嫌なんだ」

 苦笑いを浮かべたシェラから冷たいおしぼりを受け取ったヴォルフは、所々に血が滲んだ大きな顔を、一息で拭い取った。

 あれから、事務室は更に大騒ぎだった。
 ヴォルフの無実を主張するジェームズと、女性職員が被害を受けたと主張する事務員達。
 事態を重く見た学校側は事務室に備え付けられた防犯ビデオを確認したが、どう見ても正しいのはジェームスの主張であった。大男――ヴォルフは女性職員が倒れるまで、指一本たりとて彼女に触れることはなかったのだ。
 加えて、ヴォルフの公的な身分が共和宇宙軍に所属する軍属であることが分かり、混乱に拍車をかけた。民間人を傷つけることを恐れて無抵抗に徹した軍人を、事実関係を碌に確認することなく、警備員と職員とでよってたかって私刑したのだ。
 日々刺激的な事件のスクープに飢えるマスコミなどが嗅ぎ付ければ、狂喜乱舞しそうな事件である。そうすれば、世間の非難は当然学校側の対応に集中するだろう。
 これは、事態が表沙汰になれば学長クラスの責任にまで発展しうる、大問題であった。
 現場責任者たる事務局長は、顔を青くして大汗を掻きながら、平身低頭の態でヴォルフに謝罪した。そして、お互いに公的な身分を持つ者同士なのだから、どうか内々にことを収めて欲しい旨を、あの手この手で諭したのだ。
 ヴォルフにとっても、これ以上身辺が騒がしくなるのは望まざるところだったので、適当なところで矛先は収めた。ただ、今後のことも考えて防犯ビデオのコピーは確保し、さらに思いっきり貸しを作るかたちではあったが。
 そのささやかなる対価として、今後の学内での自由行動を約束されたヴォルフは、満足げな吐息を吐き出してもう一度顔を拭った。彼は面倒な手続は大嫌いだったので、今後の任務において自由に校内に出入り出来るのは有難かったのだ。
 ごしごしと顔を拭うと、ほとんどの汚れは綺麗に落ちていた。
 こうしてみると、あれだけの暴行を加えられた割に、驚くほどに怪我が少ない。
 シェラは、やはり苦笑いしながら言った。

「やはり、あなたはお丈夫なんですね」

 これにはヴォルフも苦笑いである。

「生憎、それだけが取り柄でここまで生き残ってこれたようなもんだ。あの程度の攻撃で根を上げてたら、俺は今までに十回は死んでるよ」

 楽しげに会話する二人を、ジェームスは呆気にとられながら眺めていた。
 シェラやリィが、所謂普通の中学生とは何か違う、何かを隠していることは、ジェームスも薄々気がついている。
 しかし、シェラは、この大男と一体どこで知り合ったのだろうか。
 様々な想像を巡らせてみるが、しっくり来るものは一つとしてなかった。
 例えばこの大男が軍の秘密工作員で、リィ達がその警護対象とかならば……などとも考えたが、それはいくらなんでもスパイ映画の見過ぎというものだと、内心で自分の妄想をせせら笑った。
 実のところその妄想は、完璧な事実とはではいえなくとも、ニアミス程度はしていたのだ。だが、シェラもヴォルフもジェームスに事実を伝えるつもりはなかったから、妄想はあくまで妄想として片付けられ、ついにジェームスが事実を知ることはなかった。

「それより……えーっと、君の名前は何て言ったっけか」

 話題が突然自分に向けられて、ジェームスはどきりとした。
 ヴォルフは寝台に腰掛け、ジェームスは立ったままの姿勢だったのだが、それでもヴォルフの視線のほうがやや高い。
 気後れしたジェームスだったが、しかし胸を張って言った。

「ジェームス。ジェームス・マクスウェルです」
「ジェームス、ならジェムか。ありがとうな、ジェム」

 ジェームスは、この大男がにこりと笑うのを初めて見て、驚いた。
 普段は凶悪犯顔負けに人相の悪い男だが、一度笑うと何とも言えない愛嬌がある。例えば熊やらライオンやらの猛獣が笑うことがあれば、こんな表情をするのではないかという、無邪気な様子だ。
 思わずつられて笑いそうになったジェームスだが、あえてしかめ面を作って、言った。

「あの、ジェムっていう呼び方、止めてくれませんか」
「んっ、どうしてだ?」
「子供っぽくて嫌なんです、そう呼ばれるの」

 その言葉を聞いたヴォルフは、傍目から見れば気の毒そうなくらいに傷ついた顔をして、

「そうか。いや、悪いなぁジェームス。俺、そういうところに気が回らなくて、いつも怒られるんだよぅ。許してくれなぁ」

 そして、深々と頭を下げた。
 慌ててしまったのはジェームスである。
 彼はあくまで普通の中学生なのだから、こんなふうに真正面から大人に頭を下げられることなど今までになかったのだし、名前に対する拘りだって別にそれほど重要なものではない。言ってしまえば、ただの意地である。
 だから思わずジェームスは謝罪の言葉を口にしそうになったが、そこは思春期の少年特有の頑固さ、あるいは羞恥心があって、思わずそっぽを向いて膨れた振りをしてしまった。

「いいよ、別に。でも、これからは気を付けてよね」
「ああ、すまんな、ジェームス。それと、改めてありがとう。お前が俺を助けようとしてくれなきゃ、俺、ひょっとしたらあそこで死んでたかも知れん。本当にありがとう」

 そう言ってヴォルフは、ジェームスの両手を握った。
 ジェームスはどぎまぎしながら、

「そんな、お礼を言われるようなことはしてないって。騒ぎを収めたのだってシェラだし……」

 その言葉に、シェラは優しく微笑みながら、首を横に振った。

「そんなことはありませんよ、ジェームス。あなたが私に為すべきことを伝えてくれたからこそ、私も事態を収拾するために一役買うことが出来たのです。一番頑張ったのはあなたです」

 ジェームスは、惑星ヴェロニカでの事件でリィが入院した折に、シェラから厳しく叱責された。そのことから、彼にはほんの少しだけ苦手意識を持っていたのだが、だからこそ正面から彼に褒められると、背中のあたりがむずむずしてしまった。

「あ、あの、俺、これから用事があるから……」

 顔が赤くなっていることを自覚したジェームスは、逃げるようにして医務室から飛び出した。
 思い出したかのように、シェラが叫んだ。
 
「あ、そうだ、ジェームス!」

 部屋から出たばかりのジェームスは、廊下から顔だけを出す格好で、

「何だよ、シェラ」
「ヴィッキーからの伝言です」
「……あいつ、何て言ってた?」

 ジェームスは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 そんな彼に、シェラは不敵な笑みを向けながら、こう言った。

「絶対に負けるなよ、と」

 その言葉を聞いたジェームスは、恥ずかしさ以外の感情で顔を真っ赤にして、

「――もちろんさっ!」

 思いっきり廊下を駆けていく音が、少しずつ小さくなって、やがて消えた。
 ヴォルフが、ぼつりと呟いた。

「いい子だな」
「ええ、本当に」

 そう呟くシェラの横顔は、ジェームスと同学年の少年のものとは到底思えない。
 ヴォルフは、彼らの事情を一から十まで聞いたわけではない。聞いたわけではないが、しかしこの恐るべき美貌を誇る少年が、見た目通りの存在ではないことを知っていた。
 
「それにしても無茶をしたな、シェラ」

 そんな事情の全てを飲み込んで、面白そうにヴォルフは言った。
 シェラは小首を傾げて、

「何がですか、ヴォルフ?」
「いや、あのとき、紙パックを踏みつぶしたことさ。あんなことしたら、警告無しで発砲されても文句は言えねえぞ」

 それを聞いたシェラも、面白そうに答えた。

「ご忠告痛み入りますが、あの方々の銃に狙撃されるほど、私の腕を錆び付かせた覚えもありませんので」
「警備員程度の銃なら、警戒するにも値しないと?」

 シェラは、軽く肩を竦めることでそれに答えた。
 そして言った。

「それを言うならヴォルフ。あなただって、もう少しやりようがあったのでは?あの人数であれば、好きなように制圧できたでしょうに」

 痛いところを突かれたヴォルフは、明後日の方向を見遣りながら、顎の無精髭をさすって、

「……お袋がよう、あんたは体が大きい、だから絶対に人に手をあげたらいけないってしつこく言うからさぁ」

 予想外の返答に、シェラはその大きな瞳を一層大きくして、それからくすくすと笑い始めた。
 ヴォルフは生来冗談が下手なたちであったので、こういう時にはほとんど事実を正直に答えることにしている。今回のそれも全くの事実であるから、笑われても仕方ないと思っていた。

「ふふ、し、失礼しました、ヴォルフ」
「いや、別にいいんだがな……なぁ、ところでシェラよ」

 むっつりとした様子で、ヴォルフは続ける。

「どうしましたか?」
「一つ聞きたいんだが……ウォル……あっと、ここではフィナ・ヴァレンタインで通してるんだっけか。ま、いいや。とにかく、あいつは今どこにいる?」

 シェラは、ぴたりと笑いを収めた。
 
 ――そうだ、この人は、陛下の、ウォルの特殊警護官の任務に就いているのだった。

 ならば事実を伝える義務がある、とシェラは思った。考えてみれば、ウォルがこの世界に来て、最初に深く関わった人間がヴォルフなのだ。少なくとも、彼には事実を知る権利があるはずだ。
 シェラは、居住まいを正し、自分を頭上から眺める視線に相対した。
 ヴォルフは、シェラの顔が青ざめたのを不審に思いながらも、彼が一体何を言っても狼狽することのないよう、心構えをした。

「……ヴォルフ」
「どうしたんだ、シェラ、改まった様子で」

 固い、そして擦れた声で、シェラは言った。

「陛下は……ウォルは、お亡くなりになりました」

 決定的な一言だ。
 シェラは、自分で言っておいて、果たしてこれは現実なのかと疑った。
 あの方が、デルフィニアの太陽が、死んだ。しかも、こんなにも呆気なく、誰に顧みられることもなく。
 あってはならないことだった。そんな死に方、あの人に、少しも相応しく無い。
 固く握られた拳は、血の気を失って真っ白になっていた。
 そんなシェラを見て、しかしヴォルフは、眉間に深い皺を寄せた顔で尋ねた。

「……すまん、シェラ。上手く理解できなかったんだが、もう少し分かりやすく説明してくれるか?」
「何度でも言います。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは……それともウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインは、死にました。崖から落ちて、その下にあった急流に飲み込まれて。まだ、御遺体も回収できていません」

 その言葉を聞いたヴォルフは、一層難しい顔をした。
 この、普段は脳天気な大男には些か相応しく無い、不審と疑念を体現したような表情で。
 しばらく唸り声を上げて首を傾げ、そして言った。

「……シェラよぅ。それは何かの冗談かい?」
「……はっ?」

 今度は、シェラのほうが、はっきりと不審の表情を露わにした。

「……私は、こんな悪質な冗談を真顔で言えるほど、器用な人間ではありません」

 聞く人が聞けば『どの顔でそんなことを言えるのか!』と叫びそうな台詞ではあるが、少なくともシェラの本心であった。
  
「信じたくない気持は分かります。私だって、あの方が身罷られたなど、信じたくない。いや、到底信じることが出来ない。しかし――」
「いやさ、信じるも何も、あいつ現に・・ ――」

 ヴォルフは、何かを言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
 その瞬間、ぴたりと、医務室の中の時間が止まった。
 シェラは、ゆっくりとウォルの方を見た。
 ヴォルフは、既に表情を消していた。しかし、ヴォルフの小さな目が僅かに泳いだのを、シェラは見逃さなかった。

 ――今、この男はなんと言った?

『いやさ、信じるも何も、あいつ現に・・ ――』

 ――現に。

 ――その後に、何が続く。

 ――現に。

 ――現に。

 ――現に、ウォルは。

 ――生きているじゃあないか・・・・・・・・・・・・ ――

「ヴォルフ、あなたは何を知って――!」

 刹那、言いかけたシェラを置いて、ヴォルフの巨体が医務室のドアに向かって駆けだしていた。
 シェラは、ヴォルフが全力で走るのを初めて見たのだが、それは彼の巨体には相応しく無い、シェラが瞠目するほどに敏捷な動きだった。
 
 ――出遅れた!

 まともに走れば、ヴォルフがシェラに勝てる道理はない。
 しかし、一瞬の心的動揺を覚えたシェラの四肢は、持ち主の意志に反して鈍重にしか動かない。
 シェラは、はっきりと舌打ちをした。こちらの世界の平穏な生活はここまで自分を錆び付かせたのかと、恥じ入る想いだった。
 それでも、ヴォルフを逃がすわけにはいかない。もしかしたら、あの男は、ウォルに関する情報を持っているのかも知れないからだ。

「くそっ、待て!」

 我ながら間抜けなことを言っていると思いつつ、ようやくシェラは走り始めた。
 
 ――きっとヴォルフは、車を使ってアイクライン校まで来ているはずだ。
 
 ――馬であるならまだしも、自動車で逃げられては追いつけるはずがない。

 ――ならば、廊下を出て、校舎の玄関に辿り着くまでが勝負か。

 急激に思考を回転させながら、廊下を飛び出る。
 すると――
 
「……えっ!?」
 
 シェラは思わず驚きの声を上げていた。
 何故なら、廊下を出てすぐ、一歩か二歩程度を進んだところで、ヴォルフの巨大な背中が静止していたからだ。
 一体何があったのか、と、訝しんだのは一瞬である。
 事態は、すぐに判明した。

「逃げたら、殺すよ」

 穏やかな、優しささえ感じさせる声が、究極の害意を伝えていた。

「反抗したら、殺す。逃げる素振りを見せても、殺す。僕はあなたが好きだけど、それでも殺す。僕にそれが簡単に出来ることくらい、あなたなら分かってくれるよね」

 ヴォルフは、ぴくりとも動かない。
 いや、動けない。
 何故なら、ヴォルフの前に立っているのは、人の形をした悪魔そのものだったからだ。

「さぁ、部屋に戻るんだ。あなたには、聞きたいことが山ほどある」

 ヴォルフは、大人しくその言葉に従った。
 そして、その大きな背中に隠れていた人物を、シェラの視界が捕らえた。

「ルウ!」
「うん、久しぶりだね、シェラ」

 それは、昨日ティラ・ボーンに到着した直後に別れた、フサノスク大学工学部所属の大学生、ルーファス・ラヴィーその人だった。



「ほんと、シェラがここにいてくれて良かった。僕、拷問とか、あまり得意じゃないんだ。力が強すぎるから、すぐに殺しちゃうんだよね。その点、ファロット一族のシェラは、そういうの得意でしょ?」

 そう言って、ルウは微笑った。

「ええ、そういうことは私に任せてください。生かしたまま四肢を切り落とす、頼むから殺してくれと泣き叫ばせる、意志のない人形にしてから洗いざらい吐かせる、何でも得意ですよ」

 そう言って、シェラも微笑った。

「ああ、もう、わかった!何でもしゃべるから、真顔でおっそろしいことを言うんじゃねえ!」

 ヴォルフは両手を挙げて、『まいった』の姿勢のまま、叫んだ。
 それでもヴォルフは丹念に縛りあげられ、まるで罠にかかった猪のような有様で、目を血走らせた二人の前に座らされた。
 生きた心地がしないな、とヴォルフは思った。

「……で?一体何が聞きたいんだ?」
「じゃあ、ヴォルフ、あなたはさっき、何て言いかけたの?」

 尋問役はルウのようだ。
 当然、何か怪しい動きをしたり、嘘を吐いていると判断すれば、シェラに指令が下る。その場合、この世に生まれたことを後悔するような痛みが被尋問者を襲うのだろう。
 そのことが分かっているから、被尋問者であるヴォルフは全ての質問に正直に答えるつもりだった。意地や命はもっと価値のある場面で賭けるべきであり、こんな人外生物を前にして後生大事にするものではないと、彼は確信していた。

「だいたい予想はついてるんだろ?現にあいつは生きている、そう言おうとしたんだよ」

 ふてくされた様子でヴォルフは言った。
 正直に話さなければいけないのが悔しいというよりも、縄でぐるぐる巻きにされた今の自分の格好が情けないので、それが気に入らないらしい。
 しかし、ルウやシェラにとって、そんなことは全くどうでもいいことだったから、尋問はそのまま続いた。

「じゃあ、次の質問だ。あなたは何故、そのことを知ってるのかな?」
「……わかったよ、教える。だから、この縄を解いてくれ。……ったく、そんな顔するんじゃねえ。今更逃げたりしねえよぅ」

 唇を尖らせながら、伝法な口調でヴォルフが言った。
 どうもこの男は、興奮するとこういう口調になるらしい。
 シェラはルウの方に目配せしたが、ルウが頷いたので、ヴォルフを縛る縄を解いてやった。
 ヴォルフは、両腕が自由になると、スーツの内ポケットから、小型の通信機のようなものを取り出し、二人の前に置いた。

「……これ、何?」
「要人警護用小型チップの受信端末だ」

 ヴォルフは再び機械を手に取り、スイッチを入れた。

「ほら、見てみな」

 ルウとシェラが、顔を寄せ合うようにして画面を覗き込む。
 画面は、いくつかの数字と、安定したリズムで刻まれる、はっきりとした波形を映し出していた。

「これは……バイタルサイン?」
「そのとおり。つまり、この端末で受信できるチップを仕込んだ要人は、今のところすこぶる健康、間違えても幽霊やゾンビの類じゃあねえってこった」

 ヴォルフは、不機嫌な様子で頭を掻き毟った。
 どうにもバツが悪そうであった。

「これは完全に言い訳なんだがな。俺だって、好きこのんでこんなモンをウォルに仕込んだわけじゃねえ。だがよ、給料ってのは、紙で出来た、この世で一番頑丈な首輪でな。俺がキンキンに冷えたビールで晩酌するために、ウォルにはちっと悪いことをしたとは思ってるんだが……」
「ヴォルフ!」

 ルウが、叫んだ。
 
「……なんだい?」
「答えて。このバイタルサインは、誰のものなの?」

 ヴォルフは、きょとんとした表情で、言った。

「だから、言ったじゃねえか。これはウォルに仕込んだって」
「……いつ?」
「あいつがまだ入院してたとき、一度ケーキの差し入れを持ってったことがあってな。その中に仕込んどいた。一度消化器官の中に入れれば、中に仕込んだチップが自動的に……小腸だったかな、大腸だったかな……まぁ、とにかくそこらへんに張り付いて、あとは半永久的に稼働する。まだ実践配備のされてない、軍の中でも機密中の機密だよ」
「……じゃあ、ウォルが今どこにいるのか、分かるの?」
「簡単だ。そうじゃねえと、要人警護用の意味がねえだろうが。だから、俺もお前らに聞きに来たんだよ。何でウォルがあんなところにいるのか、ってな」

 ヴォルフは、先ほどと同じように機械を操作してから、二人の前に機械を差しだした。

「これが、ウォルの現在地だな」

 それは、記号と数字の羅列だった。
 シェラは勿論、ルウも何のことかわからない。おそらく、軍用の暗号か何かだろう。
 頭を捻っている二人を見て、そういえばこの二人は軍関係者ではないことを思い出したヴォルフは、

「この数字が指し示すのは、現在、惑星ヴェロニカの中緯度地域にウォルがいると、要するにそういうこった」

 シェラは、思わず立ち上がった。

「ルウ!陛下が生きているのなら、すぐにリィに連絡を!」
「ちょっと待って、シェラ」

 逸った様子のシェラを制止してから、ルウは慎重に問うた。

「ヴォルフ、ウォルはどこにいるって言ったの?」
「だから、惑星ヴェロニカだって」
「……あ」

 シェラは、思わず声を上げてしまった。
 確かに、ヴォルフは言った。惑星ヴェロニカにウォルはいる、と。
 だからこそ、シェラは思ったのだ。今すぐにでも、いまだ惑星ヴェロニカに留まっているリィに連絡を取って、ウォルの居場所を教えよう、と。
 しかし――

「ヴォルフ。一応聞くけど、惑星ヴェロニカって、どんな星?」

 つい先日まで自分達がいた星、あれは、確かにヴェロニカという星だった。
 だが、あの星がヴェロニカという名前を授かった後に、ヴェロニカという名前を頂いた政府が、あったはずだ。
 普通に考えれば、そんなことはあり得ない。しかし、あの星は、普通に考えたらあり得ない手段をもって秘匿されていた。
 だから、あり得ないことが起きてしまった。
 この宇宙で唯一、同じ名前を持つ星が、二つ。
 そのうちの一つが、惑星ヴェロニカ。
 もう一つが、旧称ペレストロス共和国。
 現在の名前を――

「ほら、なんつったか、あの、どう贔屓目に見ても上手そうに見えない変な草しか食っちゃ駄目っつう、この世で一番俺に不向きな教義を掲げてる、ヴェロニカ教徒の星だよ」



[6349] 第二十八話:A Mad Tea-Party
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2010/05/05 02:14
 惑星ヴェロニカ。
 旧称をペレストロス共和国という。
 観光と農業、そして遺伝子操作を含めた品種改良技術の特許で成り立つ、辺境の国家だ。
 歴史は意外に新しい。連邦に加盟したのはほんの数十年前である。もとを辿れば少数の宇宙流浪民が発見し定住した星だといわれているが、定かではない。
 人口、約一億人。第一種居住用惑星にしては、驚くほどに人口が少ない。
 原因ははっきりしている。惑星の総面積に比して、居住可能な敷地面積が圧倒的に少ないのだ。
 別に、人の住めない荒れ地や、水の一滴も存在しない砂漠が広がっているというわけではない。寧ろ、その反対だ。惑星ヴェロニカは他の星から見れば垂涎の的となるほどに緑も多く、水も豊富な星なのだから。
 では、何故人の居住に供する土地の面積が少なくなるのかといえば、それは偏にこの星に住む人間の宗教的な戒律が原因である。

 ヴェロニカ教。

 獣肉、魚肉等、母乳を除いたあらゆる動物性タンパク質の摂取を厳禁とし、同じく、人の手の加えられていない野生植物の摂取もまた禁じている。
 人が、自然のサイクルに関わるのを極端に忌避することで世界の調和を保とうと考える、ある種の自然崇拝的な哲学を起源とする宗教である。化学調味料や人工着色料等の摂取も禁じているが、それは副次的なものだろう。
 当然、大規模な自然破壊を生み出すような開発事業もその禁忌に触れうる。それゆえ、この惑星には手つかずの自然が多く残されている。人が居住を許された土地は、出来るだけその他の生き物に影響を与えない平野や荒れ地等であり、森林を伐採しての開墾等には政府の許可と一緒にヴェロニカ教の上層部の認可が必要となる。
 宇宙的な規模で見ても、特異な教義を持つ宗教だった。
 しかし、自然崇拝的な宗教団体やコミュニティならば、他にも存在する。その中でヴェロニカ教が特異なのは、科学技術の利用についてのタブーがほとんど存在しないことだ。
 自然崇拝的な思想には、同時に自然回帰的な運動が付加されることが多い。自然こそが至高なのだから、自分達もそこへ立ち返ろうとするのだ。コンピュータとコンクリートに囲まれた生活を捨て、昔ながらの牧歌的な生活を営む。極端な例では、農耕自体が今の人間の穢れを作ったと考えて、毛皮を纏い石槍を構えて、まるで原始人のような生活を送るグループもあるほどだ。
 それに比べると、ヴェロニカ教ではそういう思想は存在しない。辺境星系とはいえ連邦加盟国の一つに数えられる以上、一定水準以上の科学技術は保有しているし、それどころか農作物を中心とした品種改良技術には他の追随を許さない高い技術が存在する。
 例えば成長期の子供に必要な栄養を補うため、タンパク質や脂質、糖質やビタミン、各種の栄養に富んだ植物を品種改良によって作りだし、それを栽培することを認めている。
 だが、極端な自然愛好家から言わせれば、これこそ自然に対する冒涜の極みである。人の手で自然界に存在しない品種を作り出せば、それが一度外の世界に漏れ出した時に、その星の生態系に計り知れない影響を及ぼすからだ。
 そう考えると、果たして自然崇拝がこの宗教の発端なのか、怪しくなってくる。まるで、ただ、野生の動植物の摂取を恐れているような、そんな印象すらある。
 一体何を是とし何を否とするのか、それこそ神のみぞ知るところだと断じてしまえばそれまでではあるが、何とも奇妙な宗教ではあった。
 


 惑星ヴェロニカは、美しい星だった。
 惑星軌道上から眺めても美しかったが、地表に降り立つとそれが勘違いでなかったと気付かされる。
 空の青さは鮮烈で、どこまでも深い。
 空気もうまかった。
 ジャスミンは、その大きな体を思い切り伸ばして、それから深く深呼吸をした。宇宙空間と星の上、その二つを比べてどちらが住みよいかと問われれば何の躊躇いもなく前者を選び取る彼女であったが、宇宙船を降りて大地に降り立った時の開放感は何物にも代え難い。
 人目を気にしないで軽いストレッチを行うと、体の各所から鈍い音が響いた。
 どうやら運動不足は深刻なようだ。早いところ体を動かして、全身に浮いた錆を落としてやる必要があるだろう。

「さて、まずはどこから回ろうか、海賊?」

 ジャスミンは、同じく送迎艇から降りたばかりの自分の夫――ケリーに向けて言った。
 つい今し方この二人が乗っていたのは、ケリーの愛船(この場合の愛は、文字通り愛しているという意味だ)《パラス・アテナ》と違い、狭っ苦しいくてちびっこいうえに動きは鈍重という、ケリーなどからすればストレス生産機としか思えない旧型送迎艇である。
 心持ちげっそりとした表情で船から下りたケリーは、ジャスミンと同じ行動をした。まずは大きく背伸びをして、それから深呼吸、最後に軽めのストレッチである。
 一連の動作を終えたケリーは、やや生き返ったような調子で呟いた。

「ああ、疲れた。ったく、十年分くらいの若さは吸い取られた気分だ。ダイアン以外の船に殊更贅沢を言うつもりはねぇがよ、それにしたって限度ってもんがあるんじゃねえか?」
「仕方ないだろう。なにせ、ここいらではこの送迎艇の型で現役バリバリなんだ。そんな星で私の《クインビー》やら《パラス・アテナ》やらが飛び回れば、不審人物がここにいますと声高で喧伝しているようなものだろう」

 ジャスミンの意見に、ケリーは軽く肩を竦めた。もっともな意見だったからだ。
 現在、ケリーの愛船であり無二の相棒である 《パラス・アテナ》とその感応頭脳たるダイアナは、惑星ヴェロニカの公転軌道から少し外れたところにある小惑星帯に姿を隠している。当然、ジャスミンの愛機たる《クインビー》はその格納庫に収められ、今や遅しとその毒針を磨いていることだろう。
 二人はそこで、牽引してきた小型の貨物船に乗り換え、身分や船籍を偽ったまま惑星ヴェロニカに入国した。
 当然のことながら入念な入国審査が行われたわけだが、いつもながらにダイアナの色香は大したもので、彼女の毒牙にかかったヴェロニカ宇宙港の感応頭脳は、この物騒な夫婦に対して『善良なる一般市民』のお墨付きを与えてしまったのだ。
 意外なほどに近代的な空港の中で、今度は人の目による、簡単な入国審査が行われた。しかし、コンピュータを介したデータ照会は既に完了しているので、ここで行われるのはいくつかの質問検査だけだ。
 お世辞にも厳重とは言えないゲートの前に、初老の男性が所在なく佇んでいた。濃紺の制服は皺が目立ち、どうにも冴えない様子だったが、帽章の形からいってその男性が入国審査官なのは間違いないだろう。
 ケリーとジャスミンが目の前に立って、ようやく二人の存在に気がついた男性は、自分よりも遙か高いところにある二人の顔に些か驚いたようである。

「なんとまぁ大きなお客さんじゃ。ようこそ、惑星ヴェロニカへ。えーと、すまんが身分証明書を見せてくれんかね」

 朴訥な話しぶりである。皺の深い柔和な笑顔から、この人の人柄が滲み出ているような気さえする。
 二人が無言で身分証明書を差しだす。無論、宇宙空間において行われた臨検の際に提示した、偽りの身分と合致した情報の記載された偽造のものである。
 老人は、メガネをずらしてから、二人の身分証明書を覗き込み、それから二人の顔を見上げるという動作を数回繰り返した。老眼がけっこうきついのかも知れない。
 
「ええと、ケリーさんに、ジャスミンさん?お仕事は旅行会社の営業をしているということで間違いないかな?」
「はい。今度、こちらの星の観光名所を回るツアーのほうを企画しておりまして、今日はその下見に。ついでに、日頃おざなりにしている家族サービスのほうも済ませてしまおうかと」
「ほう、お勤めはどちらに?」
「クーア・トラベルです」

 老人の顔が、一瞬、僅かに歪んだ。
 クーア・トラベルは言うまでもなく、クーア・カンパニーの旅行事業を司る部門のことであり、全宇宙を統べるクーア財閥の一部門に相応しく、全宇宙の観光企業の中でも五指に入る規模を誇っている。
 当然、観光事業を基幹産業としている惑星ヴェロニカ政府にとっても、大事なお得意様だ。審査官にも、そういった上得意様には相応の礼儀をもって接するよう、上からの通達がなされているはずだ。
 にもかかわらず、その老人の表情は、どこか苦々しいものであった。ケリーとジャスミンを疎んでいるとか、怪しんでいるとかではない。もっと別のところで、何か気に病むことがあるようなそういう表情だ。
 しかし、それも一瞬のこと。すぐに表情を改めた老人は、やはり柔和な笑みを浮かべて言った。

「それはそれは。どうぞゆっくりしていっとくれ。あまり大きなお声では言えんが、今の時期ならカラで作る酒が良い具合に出来上がっとるはずだ。特に今年は良い出来らしいからな、是非飲んで行きなさい」
「ほう、それは楽しみだ。実は、女房ともども酒には目がないたちでしてね。もしよければ、美味い酒を出す店も教えてくれるとありがたい」
「じゃあ、場所を教えておこう。有名な繁華街の外れだ。少し入り組んだところにあるからね、簡単な地図を書いておくよ」

 カラというものが何かは分からないが、おそらくこの星特有の植物か何かだとあたりをつける。
 美味い酒は大好きだ。ケリーも、ジャスミンも。二人がこの星に来たのは酒が目的ではないが、目的以外のところで楽しむこと自体が悪いはずもない。
 先ほどの表情は当然気にはなったが、ケリーは作り笑いではない笑みを浮かべ、地図に店の場所を書き込んでくれた老人に礼を言った。
 時間にして五分程度だっただろうか、世間話のような入国審査を済ませた二人がゲートを潜ろうとすると、後ろから、気遣わしげな声がかけられた。

「……あんたらのような、わたしの立場からすりゃ精一杯にこの星を売り込まなきゃならない人達にこんなことを言わなきゃならんのは心苦しい限りだが……気を付けなされよ。特に、夜間はあまり出歩かんほうがいい」
「ご老人。それはどういう意味でしょうか」

 ジャスミンが、初めて口を開いた。
 入国審査官の老人は、深く溜息を吐き出してから、

「旦那さんなら知っとるじゃろう。この国が、一体どういう状況なのか」

 当然、ケリーもジャスミンも、ヴェロニカ政府の基本的な情報くらいは調べてある。
 最近の目立った情勢としては、昨日に行われたこの国の大統領選挙で、最右翼と言われた政治家、マークス・レザロが突然立候補を取りやめ、その代わりに名も知れない――中央政府は勿論、この星でも、という意味だ――新人候補が奇跡的に大統領の座を手にしたということくらいだろうか。
 どうやら相当にセンセーショナルな話題だったようだが、しかしそれはこの国の中だけでの話。惑星アドミラルをはじめとする中央では、そんなことはほとんど話題にすら上らなかった。
 この二人は、マークス・レザロの突然の失脚の原因となった事件に深く関わっているだけに、その手の話題の情報は一応知っていたのだが、しかし惑星ヴェロニカの現状までを知り尽くしているわけではない。
 そして、そういった情報はその国に住む人間に直接聞くのが一番いい。
 ケリーは、深刻な顔つきを作って、探りをいれてみた。

「やはり、相当にひどいのか?」

 老人は、沈痛な面持ちで頷いた。

「ひどい。あれは、人の皮を被ったケダモノ共の集まりだ。とても、同じヴェロニカ教徒とは思えん。どうせ一過性のものだとは思う。いや、そう信じたい。だから、正直を言うならば、今の時期はあまり観光客は来て欲しくないと、個人的には思うんじゃよ。今の時期にこの星に来て、これがヴェロニカという国なのかと誤解されれば、今後この星に観光客という人達はこの星を一切訪れなくなる。それを考えれば、今はあんたを心から歓迎できんのじゃ。申しわけない話じゃがな」
「へぇ、そうかい。そりゃあ申し訳ないことだな。とんだ時期に来ちまった」
「じゃから、あんたは自分の見たまま、ありのままのこの星のことを上に伝えて欲しい。それが、この国にとっても、あんたの会社にとっても一番ええはずじゃ」
 
 この老人が二人をだまそうとしているのでなければ、何か、良くないことがこの星で起きているらしい。
 どうやら、本来の目的以外のところで、この旅が平穏無事に終わる可能性は著しく低くなったようだ。
 この場に神と呼ばれる存在が居合わせたならば、どうして自分達の周りでだけそういったトラブルが起きる可能性が急上昇するのかを本気で問い詰めたくなったケリーだが、その頬の両端は軽く持ち上がっていた。
 二人は空港から出ると、タクシーの乗り場へと向かった。惑星セントラルなどであれば無人タクシーが主流であるが、この星ではまだ人の運転によるものがほとんどらしい。
 黒く艶やかに磨かれた車の外で、壮年の運転手が煙草を吹かしている。無精髭も濃い、風采の上がらない男だった。
 
「すまないが、総本山までお願いできるかな」

 総本山とは、ヴェロニカ教の寺院の元締めである。
 無論、正式な名称があるはずだが、惑星ヴェロニカでそう呼ばれる場所は一つしかないため、今ではその呼び名が定着してしまっているらしい。
 ケリーもそれに倣った。
 運転手は、ケリーを鈍色の視線でじろりと眺め、紫煙を吹き出してから言った。
 
「……あんたら、うちの人?」

 『うち』とは、この星の、という意味であろう。

「いや、しがない観光客さ」
「なら、別の車を当たりな。生憎だが、この車は予約済みだ」
「だが、表示板は空車になってるぜ?」

 ケリーがそう指摘すると、男は無言で板をひっくり返し、『予約車』の表示にした。
 
「これで満足か?」

 ケリーは一つ頷いて、

「ああ、満足だ。ただし気をつけたほうがいい。俺達が立ち去った後もずっとその表示にしてたら、お前さん、今日は客を逃すだろうからな」
「ご忠告感謝しとくよ」

 二人が立ち去った直後、運転手は表示板を再び『空車』にした。
 いくつかのタクシーと交渉してみたが、だいたいは同じような反応だった。
 二人がこの星の住人ではないことが判明すると、たちまち態度を変えて乗車を拒否する。二人より後に来たこの星の住人には、あからさまな営業スマイルで後部座席のドアを開けてやるというのにだ。
 ジャスミンは、怒ったというよりは心配したような声で呟いた。

「一体どうなっているんだ。この星は観光客の落とす現金で何とか保っているような経済だったはずだが、これではエストリアやマースの軍人の方がまだ幾分愛想があるというものだ。これでは、あの老人の言葉ではないが、観光客という人種はこの星に寄りつかなくなってしまうと思うのだが、大丈夫なのかな」

 エルトリアもマースも、どちらも連邦の中の大国であり、プライドの高さと秘密主義の徹底で知られている。
 ジャスミンは仕事の関係からそれらの国には何度となく足を運んでいるが、その度に、笑顔というものが対人コミュニケーションの上で如何に大切なものかを痛感させられるのだ。
 それと比べてもなお、惑星ヴェロニカの歓待振りは心温まるものではなかった。
 
「さあねえ。まぁ、そこんところは俺達が心配してやることじゃねえな。さてと、さしあたり足の確保に失敗したわけだが、どうするね女王?」

 思い切りに肩を竦めたケリーが言った。
 ケリー達が降り立った宇宙港から総本山までは、車で半日ほどの距離にある。いくら健脚なケリーとジャスミンでも、流石に歩いて行くのは躊躇われる距離である。
 ケリーと同じくらいに逞しい肩を持つジャスミンは、面倒臭そうに溜息を吐き出して、

「誰も乗せてくれないなら仕方がない。買おう」
「ま、それしかねえわな。くそ、こんなことならヴェロニカ国民の身分証を偽造するべきだったな」
「いや、身分証があってもすぐにばれると思うぞ」
「何でだ?」
「わたしもお前も、明らかに肉食の顔だ」
「なるほど、違いない」

 二人は、空港の近くにあるカーディーラーへと足を運んだ。
 店長は、空港のタクシー運転手がそうであったように、二人が観光客であることを知ると、渋面を作り眉を顰めた。
 しかし、タクシーの乗車賃と新車一台の価格ではゼロの数が三つほども異なる。ジャスミンがテーブルに置いた現金の束を見ると、しかめっ面だった店長はたちまちに揉み手を作り、契約書を整えて鍵を渡した。
 店を出ると、通り向かいの店に、人だかりが出来ていた。

「なんだ、ありゃあ?」

 のんびりと言ったケリーであるが、どうやら穏やかならざる事態らしい。殺気の籠もった怒号が飛び交っている。物が壊れる音、悲鳴、おそらくは人が殴られる音も。
 そして、何か鼻につく臭いがした。つんと脳を痺れさすような、化学薬品特有の臭気。
 標準以上にお祭り好き、騒ぎ好きの二人であるから、何とはなしに人だかりの方に近づいてみる。
 普通ならば人混みが邪魔をして前が見えないはずなのだが、長身の夫婦である。
 背伸びをしただけで、そこで何が起きているのかをはっきり見ることが出来た。
 飲食店の前で、何人か、珍妙は格好をした連中が、その店のコックとおぼしき男性を取り囲んで、殴る蹴るのリンチを加えていた。

「……なんだ、あれは?」

 ジャスミンは、先ほどのケリーと同じように呟いた。
 思わずそう漏らしてしまう程に、コックに暴行を加えている連中の格好は珍妙極まりないものだったのだ。
 陽光をきらきらと跳ね返す、銀色のプレートメイル。顔全体を覆うグレートヘルムは、まるで呼吸孔を開けたバケツを被ったような間の抜けた有様だ。
 時代錯誤に、腰に差したサーベル。
 背中に羽織ったマントには、でかでかとヴェロニカ教のシンボルたる衣装が刺繍されている。
 要するに、中世ヨーロッパの、十字軍で活躍した時代の騎士の姿だ。
 そして連中の肩にけばけばしい色彩のタスキがかかっており、そこにはこの星の言葉でこう書かれていた。
 
『憂国ヴェロニカ聖騎士団』

「ぶふっ!」

 ケリーは思わず吹き出してしまい、口元を手で覆って悶絶した。
 思い切り腹を抱えて笑い転げたいのを、必死の自制心をもって我慢している。
 彼の隣にいるジャスミンも、だいたい同じような有様だった。口元がひくひくと動き、顔を真っ赤にして笑いの発作を堪えている。
 そして、抑揚のおかしな声で言った。

「お、おい、海賊。だ、駄目じゃないか、人の姿形を笑ったりしたら。あ、あの連中だって、やむにやまれずあんな格好をしているかも知れないんだぞ」

 もっともな話である。この広い宇宙には様々な主義主張をもった人間が住んでおり、そこには様々な理由が存在するのだ。それらの個性を尊重し、受け入れること。連邦大学の初等部でも教えられる、この世界の最も基本的なマナーの一つだ。
 しかし、何とか厳めしい顔を作ろうとしているジャスミン当人が、ところどころで軽く吹き出しているから、説得力の欠片もない。
 それに、笑いの発作とには相乗効果というものがあり、隣の人間が笑っていればくだらないことでもより可笑しく感じるものだ。
 結果として、ケリーの堤防が、先に決壊した。
 精一杯に殺した笑い声をあげながら、ジャスミンに詰問した。

「ふは、ふはははは、おい、女王、なんだその理由って!?罰ゲームか!?あのとんでもない格好は罰ゲームなのか!?もしそうだとしたらすげぇセンスだ!世紀のコメディアンだ!今すぐうちのエンターテイメント部門にスカウトしよう!間違いなく十年間はお茶の間の笑いをかっ攫えるぞ!」
「い、言い過ぎだ、海賊、あの連中が可哀想だと思わないのか、あいつらだって、きっと好きでやっているわけでは……」
「ちゃんと見てみろよ、女王!ゆうこくっ!べろにかっ!せいきしだんっだぞ!ナイト様のお通りだぞっ!大変だ女王!俺達平民はひれ伏さなきゃいけないじゃないか!」
「やめろ、かいぞく、もうやめて……」
「あははは!ありえねえ!絶対にありえねえ!」

 明らかに規格外の体格を持つ男女がけらけらと笑いこけているのだから、周囲の人間は一体何事かと怪訝そうな視線で二人を見た。
 しかし、今の二人にとっては、そんなものは遠い世界の出来事に過ぎない。普段の、冷静沈着な宇宙海賊と大企業クーア・カンパニーの女経営者という顔を脱ぎ捨てて、笑いに笑った。

「おい、そこ、何を笑っている!」

 バケツを被ったような格好をした、自称『憂国ヴェロニカ聖騎士団』の一人が、なおも笑い続けるケリーとジャスミンに気がつき、鋭い声を発した。威圧のためだろう、腰のサーベルを抜き、切っ先を向けた。
 だが、今の二人にはその示威行為すらがコントの一幕にしか見えなかった。
 結果として、火がついたように笑った。
 体を二つに折りたたむようにして、腹を抱えて笑った。
 いつの間にか、二人の周囲からは人だかりが消え失せていた。巻き添えを食らうことを恐れたのだろう。
 それでも二人は笑い続けた。
 鎧姿の男が、怒りを込めた足取りで、ずんずんと二人に近寄る。
 なおもお腹を抱えて笑い続けるケリーの、襟首を掴み、ねじり上げた。
 そうして、驚いたのは鎧姿の男の方であった。
 大きい。なんと大きい男か。
 鎧を纏った大の男が、まるで子供としか思えない程に、その男は大きかったのだ。
 ケリーはやっとのことで笑いを収め、鎧姿の男を見下ろした。
 その端正な頬には、爆笑の代わりに不敵な笑みが張り付いている。
 そして、事も無げに言った。

「いやぁ、悪いな。全くもって悪気は無かったんだが、あまりにもあんたらのセンスが、その、時代の十年くらい先を行ってたもんで、気を悪くさせた。謝るよ」
「っ貴様ぁ、歯を食いしばれ!」

 鎧姿の男が、片手でケリーの襟首を制したまま、もう片方の手を大きく振りかぶった。
 ケリーは事も無げに、自分の顔面目掛けて走る拳を眺めて、軽く額を突き出してやった。
 ごつり、と、低い音が響く。
 周囲の人間は、ケリーの高い鼻が見る影もなく陥没し、盛大に鼻血を吹き出して転げ回るのだと確信した。
 
「げ、えええぇっ!?」

 素っ頓狂な叫び声があがった。
 無論、ケリーの口からではなかった。
 鎧姿の男が、ケリーの足下で蹲り、ケリーを殴ったほうの手を抱えて呻いている。
 その拳の甲から、白い物が突き出ていた。
 骨だ。
 ケリーは、やはり口元に不敵な笑みを張り付かせたまま、蹲った男を見下ろしている。

「おお、痛え。いきなり何すんだよ、ったく」

 額を撫でさすりながら、そんなことを言った。
 隣で、こちらもようやく笑いを収めたジャスミンは、何が起こったのかをはっきり見ていた。
 ケリーは、拳が当たる直前に、腰を折って額を前に突き出したのだ。
 そうすることで、拳はケリーの鼻頭ではなく、額とぶつかった。
 そして、拳の骨――この場合は拳を支える手の甲の骨が、衝突に負けて折れ砕けたのだ。
 元来、拳の骨は弱い。指の骨自体が人体の中でも細い部類に入るのだから当然だろう。だからこそボクサーはグローブで拳を守るのだし、ある種の格闘技では石や砂を殴って拳を鍛える。
 ケリーは、殴られる直前、自分に向かってくる拳を見て、そこが籠手等で補強されていないことを確かめた。そして、敢えて自分の額を殴らせたのだ。
 こうすると、周囲の人間は、鎧姿の男が自分で殴りかかっておいて、自分から拳を痛めたようにしか見えない。
 被害者は、やはりケリーだ。
 コックへの暴行を続けていた残りの男達が、事態の異変に気がついた。

「おい、どうした」
「大丈夫か」
「一体何があった?」

 蹲る仲間に次々と声を掛ける。
 しかし、手の甲を開放骨折した男は、応えることが出来ない。無事な方の手で傷口を押さえ、呻き声を上げるばかりだ。そのバケツ兜を取り去れば、脂汗をだらだらと流した青い顔が見えることだろう。
 
「貴様、我らが同胞に何をしたっ!?」

 おそらくは連中のリーダー格なのだろうか、額に角をつけたバケツ兜を被った男が、ケリーに詰め寄った。
 ケリーはその角を見て、もしもこれがアンテナならば一体どんな電波を受信するのだろうと考えて再び吹き出しそうになったが、何とか堪えた。
 そして言った。

「おいおい、俺は何もしてねえよ。あんたらのお仲間がいきなり殴りかかってきて、勝手に怪我しただけだぜ。なぁ?」

 ケリーは、全く無関係の通行人に、気安げに同意を求めた。
 何が起きたのかを把握していない通行人は、自分が見たままに、首を縦に振ることで答えた。つまり、ケリーは何もしていないと、そういう意思表示であった。
 リーダー格の男はそれを見ると、忌々しげに舌打ちをした。そして、背後に控える二人の男に言った。

「おい。エンリコを連れて行くぞ」
「わかった」

 いまだ地に伏せる男の両脇を抱えて、二人の男が、エンリコと呼ばれた、先ほどケリーに殴りかかった男を持ち上げた。
 そして、そのまま通りの外れに止めたワゴン車に運び込む。
 運転席には、鎧姿ではない、普通の若者が座っていた。ひょっとしたら、鎧姿の男達も、兜を取れば同じくらいの歳の頃なのかも知れない。
 全く、この連中、若い身空で一体何をやっているんだか。その溢れんばかりの情熱を、もっと生産的なことに向ければいいのに――

「おい」

 そんなことを考えていたケリーに、リーダー格の男が鋭い声を飛ばした。
 ケリーは、見る者の神経を逆撫でするような薄ら笑いを浮かべて、それに応じた。

「何だよ、不当な暴力に怯え竦むいたいけな一般市民に、まだ何か用があるのかい?」
「良く動く舌だな。引き抜いて犬に食わせてやろうか」
「そりゃあ困る。こいつは地獄の閻魔様の予約済みなんだ。こいつを持って地獄にいかないと、代わりに何を引き抜かれるか分かったもんじゃねえからな」

 ケリーは自分の舌を指さしながら、器用に言った。
 リーダー格の男は、ぎしりと歯を鳴らした。
 
「貴様、ヴェロニカ教徒か。違うのだろうな、貴様の吐息からは肉食特有の生臭さが感じられる」
「おや、一応口臭には気を付けてるつもりなんだがな、臭ったかい?」

 ケリーは戯けるようにして言った。
 二人の立ち位置は、到底息の届くような距離ではないのだ。
 
「ふん。肉食うケダモノどもならば、我らが崇高な使命を理解できなくとも、仕方はないか。哀れなことではあるがな」
「そこのコックをいじめてたのも、その崇高な使命とやらか?」

 ようやく暴行から解放されたコックは、道ばたに蹲ったまま、おそらくは彼の妻らしい人物に介抱されている。顔中に青あざを作り、鼻の下には乾いたどす黒い血がこびり付くという、痛ましい様子だ。
 リーダー格の男は、ふんと鼻を一つ鳴らし、

「そこの男は、許し難い、極めて背教的な行為により日々のたつきを得ていた。これは、同じヴェロニカ教徒として到底看過できることではない。故に、心を鬼とし、血の涙を流しながら教誨を加えていたのだ」
「へぇ、血の涙か。俺もたいがい長生きをしてはいるがよ、話に聞いただけで実物は見たことがないんだ。是非、そのバケツみたいなかぶり物を取って、本物の血の涙ってやつを拝ませてくれないかい?」

 ケリーの揶揄に、再びリーダー格の男は殺気じみた気勢を上げたが、その時、半死半生の様子だったコックの男が、弱々しい声で言った。

「わ、わたしが一体どんな戒律に背いたと言うんだ。いきなり店に押しかけて、店の中をめちゃめちゃに壊して……。この店は、わたしと妻の長年の夢だったのに、こんな、こんな……」

 後半は涙に濡れた声だった。
 隣で、その妻も啜り泣いている。
 リーダー格の男は、そんな二人を鼻で笑い、

「盗っ人猛々しいとは正しくこのことだな。あれほど明らかに戒律に背いておきながら、まだ白を切ろうとするか」
「な、何を言うか!わたしはヴェロニカ教徒としての誇りに賭けて、一度だって戒律を破ったことはない!」
「ほう、ではあれはどういうことだ?」

 リーダー格の男は、店の前に転がった、割れ砕けた黒板に指を向けた。
 そこに、手書きの柔らかな文字で、今日のメニューが書かれている。
 ほとんどは既に読み取ることが出来なくなっているが、一番大きな破片に書かれた文字だけははっきりと読むことが出来た。
 『合鴨のローストと……』と書かれている。その先は砂埃に塗れ、チョークが滲んでなんと書いているか分からない。しかし、リーダー格の男にはそれだけで十分だったようだ。
 鬼の首をとったように胸を反らし、言った。

「貴様、肉料理を出していたな。それが戒律違反でなくて一体何だというのだ」
「ちょっと待ってくれ!別に、ヴェロニカ教徒相手に出したわけじゃない!きちんと、観光客用のビザを持っている人間を選んで、一言断りを入れてから出していたんだ!それが悪いなんて、どんな教義に書いている!?」

 リーダー格の男は、コックを蔑むように見下ろし、

「偉大なるヴェロニカ教典には、ただ『肉食を禁ずる』と記されているのみだ。そこに、ヴェロニカ教徒とそれ以外とを分ける記述は一切存在しない。つまり、神はこの世から全ての肉食が無くなることを望んでおられるのだ。ならば、例えヴェロニカ教徒以外に限って肉を提供していたとしても、貴様の罪が減ぜられる余地がないのは明らかである」
「馬鹿な!今までだって、観光客用に肉類を提供するのは、許されてたじゃないか!それが今になって、こんな……!そうだ、あんたら、前にうちの店に来た連中か!?お布施だとかなんとか言っていたが法外な金を強請ろうとして、それを断っただけでこんな仕打ちを……!」
「はてさて、背教者風情が何を言っているのかさっぱり分からんな。そして貴様の疑問に答えるならば、今までが間違えていて、今からが正しいというだけのこと。故に、貴様は背教者だ。我らの教誨を受けておきながら、そんな簡単なことも分からんとは。もはや貴様は救いがたい。事ここに至れば、もはや我らに為し得ることはただ一つである」

 リーダー格の男は、懐からマッチを取り出し、火をつけた。
 それを、店先に流れている、透明な液体に向かって投げつけた。
 ケリーは、さっきから揮発性薬品の臭いが鼻についていたことを思い出した。

「伏せろ!」

 ケリーとジャスミンの声が重なる。
 二人の声に一瞬遅れて、すさまじい爆発音が辺りを満たした。
 ぱらぱらと、店の一部が破片となって辺りに散らばる。
 ケリーは、伏せた姿勢のまま、店の方を振り返った。
 先ほどまでは窓ガラスが設えられていたであろう箇所から、盛大に火の手が立ち昇っていた。
 もはや手遅れなのは、正しく火を見るより明らかであった。

「ああ、わたしの店が……わたしの店が……」
「あなた、あなたぁ……」

 夫妻が、放心したように炎を見つめている。
 その横で、リーダー格の男は高らかに笑った。

「ふはははっ!いいか、この場に居合わせたヴェロニカ教徒諸君!今の光景を周囲の信者に伝えろ!そして、ヴェロニカ教の戒律に背いた者の末路が如何なるものかを世に知らしめるのだ!偉大なるヴェロニカの神に栄光あれ!憂国ヴェロニカ聖騎士団に栄光あれ!」

 狂ったように笑う男の隣で、悲鳴に近い叫び声が上がった。

「うわぁ!うちの店が、うちの店まで燃えちまう!早く消防車を、誰か……!」
「駄目だ!この邪悪な建物が完全に浄化されるまで、火を消し止めることを禁ずる!」
「そ、そんなこと言ったって、うちの店が……」
「貴様は、自分の店の隣で、この邪悪な建物でおぞましい肉食が供され続けていることを知りながら、長年見過ごしてきたのであろうが。ならばこの男と同罪だ。なに、心配には及ばん。貴様の行いが罪でないとしたならば、聖なる火は貴様の建物を通りすぎるであろう。それが偉大なるヴェロニカの神の御業だ。逆に、貴様の店も浄化されるのならばそれだけの罪が貴様にあるというだけの話よ」
 
 無茶苦茶な理屈だ。
 火が選ぶのは可燃物か非可燃物かどうかだけであり、罪のあるものだけを選んで燃やすような便利な火など、どこにも存在しない。
 まるきり、言っていることとやっていることが、中世の魔女裁判そのものである。
 リーダー格の男は高笑いをしながら、堂々とした調子で歩き去った。
 ケリーは体を起こし、事の成り行きを見守っていた群衆の一人に声をかけた。

「おい、あんた。早いとこ、消防と警察に電話を入れてくれないかい?」

 ケリーは、自分にしては極めて穏便で常識的なことを言っている自覚があった。
 しかし、その返答は、なんとも冷ややかな視線だけだった。
 ケリーの声を受けた中年の男は、不思議そうに、

「どうしてそんなものを呼ばなけりゃいけないんだい?」

 そう言って、立ち去っていった。
 流石のケリーも、呆気に取られて呼び止めることが出来なかった。
 次々と、群衆が立ち去り始める。轟々と燃え盛る炎に、興味を無くしたと言わんばかりに。

「くそ、てめえらのせいで、俺の店まで!どうしてくれるんだ、この、このっ!」
「やめてください、お願いです、許して……」
「畜生、この星から出て行け、背教者め!さっさと出て行け!」

 ぼろぼろになったコックを、隣の店の主人が足蹴にしている。その足を、コックの妻が必死で止めようとしている。
 ケリーもジャスミンも、言葉を失ったようにして立ち尽くした。
 そして、気がついた。
 二人の頭上に設置されたオーロラビジョンで、一人の男の得意げな演説が放映されていることを。

『――よいですか、国民の皆さん。もはや、状況は末期にあると言ってもいい。なにせ、今回の大統領選挙で私と争うはずだった男、マークス・レザロですらが肉食の大罪を犯していたのです。大統領候補者ですらが、恥ずかし気もなく肉を喰らう時代。こんなことが許されていいはずがありません。さぁ、今こそ皆さんの心を一つにして、正しいヴェロニカ教の教えを取り戻そうではありませんか……』

 画面に映って熱弁を振るっているのは、ヴェロニカ共和国新大統領、アーロン・レイノルズの、魚のように熱のない笑顔だった。



 時間が遅かったので、総本山に向かうのは明日にした。
 夜になって、二人は歓楽街へ足を向けた。
 彼らには、自分達に火の粉を飛ばす無法者達――トリジウム密輸組織に因果応報というものを思い知らせてやるという目的があるのだが、だからといって四六時中獲物を探して眼を血ばらせているわけではない。
 肉食獣だって、狩りをする以外の時間はのんびり昼寝をして過ごすのと一緒だ。
 昼間のことが気にならないわけではなかったが、少なくとも自分達よそ者にどうこう出来る問題ではないと判断し、ぼろぼろになった夫妻を病院まで送り届けるに止めた。あの連中を訴えるかどうかは、自分達が決めることではないと思った。
 去り際に、自分達に対して丁寧に礼を述べる夫妻の、頼りない姿だけが記憶に焼き付いた。
 どうにも苦い気分である。
 そして、こういうときは飲むに限るのだ。
 ケリーとジャスミンは、けばけばしいネオンで人を呼ぶ夜の街を、楽しげに歩いた。彼らは自分が何を為すべきかを心得ていたが、同じくらいに人生の楽しみ方というものも弁えていた。
 二人が探しているのは、『秋芳酒家』という酒場だ。噂によると、その店でしか味わえないという、ヴェロニカ特製の酒があるらしい。
 そんな話を聞いて、大ウワバミの彼らが黙っていられるはずもない。
 今夜は、夕食も兼ねてその店を探すことにした。
 
「それにしても、驚いたな」

 ぼそり、とジャスミンが呟いた。
 それに答える人間は、ジャスミンのかなり早めの歩調と同じペースで、彼女の隣を歩いていた。

「何がだい?」

 義眼の海賊は、口の端を片方だけ持ち上げながら、愉快そうに言った。
 ジャスミンは、ケリーのほうを見ることもなく、
 
「ヴェロニカ教とはもっと禁欲的なものかと思っていたが、そうでもないんだな」
「俺も詳しいところが知らねえが、一言にヴェロニカ教と言っても、みんながみんな単一の宗派に所属しているってわけでもないらしい。根っこのところにある教えは一緒でも、それ以外のところでは違ってくるんだろう」

 なるほど、そういうものかとジャスミンは感心した。
 確かに、ヴェロニカ教などという少数宗教を引き合いに出さなくても、宗教というものは単純に見えてその実、複雑怪奇なまでに枝分かれをしている。この世界でもっとも信仰されている宗教だって、その宗派によっては教父の妻帯が許されていたりいなかったり、離婚が悪徳とされていたりいなかったり、様々な差違がある。
 ヴェロニカ教でも、肉食の禁止や人の手の入らない自然作物の採取禁止といった教えは共通していても、酒色の制限の度合いにははっきりとした違いがあるのだろう。
 そして、ここら一帯は、比較的寛容な神様が支配しているらしい。それとも、自分達には駄目であっても、観光客に対して酒色を提供することは教義上問題無いのかも知れない。
 そのおかげで自分達も美味い酒にありつけるのだとしたら、それはそれで結構なことだとジャスミンは思った。本質的に無宗教である彼女であるから、自分以外の人間がどんな肌の色の神を信じていても興味はない。世界の破滅を望んでいるとしても、実際に行動に移さないのならば問題無いと思っている。
 歓楽街は、驚くほどに賑わっていた。
 広い歩行者用道路の両端に所狭しと並んだ飲食店や土産物屋。一つ通りを横に逸れれば、そこには男の欲望を満たすための怪しげな店が乱立しているに違いない。
 事実、扇情的な女性のイラストを描いた看板を掲げて、道行く男性に声を掛けている連中が、そこかしこに見受けられる。あるところでは気の弱そうな男性が半ば強引に路地へと連れて行かれ、あるところではやや場慣れした客と客引きの間で値段交渉がされていたりする。
 お世辞にも健全な場所とは言い難いが、ジャスミンの見たところでは、極めて正常に機能している歓楽街であった。麻薬や銃の取引が公然と行われているスラムなどと比べれば、お上品といって良い位だ。
 ケリーもほとんど同じことを考えているのだろう、先ほどから通りの各所で繰り広げられている光景を、楽しげに見遣っている。
 そんな仕草が、どうにもこの辺りに慣れない一見の観光客のように見えるらしく、二人は先ほどから、何度も客引きに声を掛けられていた。

『ちょっとそこ行く男前の兄さん方!これから予定がないなら、ウチの店に寄ってかないかい?まだ宵の口だから、サービスしとくよ!女の子も横に付けて飲み放題、こみこみ2時間で3,000ポッキリだ!』
『今から食事かい?なら、食事の前にスッキリしていくのもいいもんだぜ?ほら、見てみろよこの品揃え!ウチは他の店と違って、写真をいじったりしてないからね!』
『絶対に満足させてみせるからっ!ちょっと、ちょっとだけでも覗いていって!』

 安物のタキシードを着込んだ、どうにも堅気とは思えない連中が、外向き用の愛想笑いを浮かべながらすり寄ってくるのだ。
 彼らは、ケリーとジャスミンを見て、精力を持てあました観光客が二人、女を買いに来たとでも思っているのだろう。
 客引きにとってはお得意様である。
 だからこそ、しつこいまでに声をかけて、ネギを背負ってきたカモを逃がすまいとするのだ。
 だが、ジャスミンは女性である。
 潔癖症の女性でなくても、自分が男だと勘違いされて、しかもいかがわしい店の客引きにしつこく声をかけられれば眉を顰めるものだろう。
 しかし、と言うべきか、それとも勿論、と言うべきか。ジャスミンという女性は、あらゆる意味で所謂『普通の女性』という枠から外れていた。
 自分を男であると勘違いする客引きがいると、190センチを越える長身で彼らを見下ろし、

『ほう、私を満足させることが出来るのか?』
『……は?』
『私を満足させることが出来るのか、と言ったんだが、聞こえなかったか?』

 標準から比べれば幾分低いが、それでもジャスミンの声は女性の声である。見た目については、分厚く着込んだジャケットとその肩幅から男性と見間違えることがあっても、その声を男性の声と聞き違える者はほとんどいない。
 然り、客引きの男達も、その時点で初めてジャスミンが女性であると悟るのだ。

『おっと、これは申し訳ない。あんた、女だったのかい。俺はてっきり……』
『おいおい、つれないことを言うなよ。いいか、私の好みはな、身長が私よりも高くて宇宙船の操縦が私と同じくらいに上手い、とびっきりの男前、何より大事なのは体が頑丈な男だ。少なくとも、私が本気で殴っても気を失わない程度には頑丈でないと困る。さぁ、お前の店にはそんな男娼が揃っているのかな?だったら是非一度お相手願いたいものだが』

 やや腰を屈め、すごみの効いた視線と微笑みで見下ろしてくるジャスミンは、かなり怖い。この時点で、ほとんどの客引きはすごすごと退散するのだ。
 中には肝の据わった客引きもいて、

『わ、悪いね、ウチは女の子だけしか揃えてないんだよ。そうだ、それなら向こうの兄さんだけでもどうだい?まさかあんたまで女ってわけじゃあないんだろう?』

 若干うわずった声で、ケリーに声を掛けてきたりする。
 しかしケリーは、そんな彼らを哀れみの籠もった視線で見遣りながら、

『そいつは嬉しいお誘いだが、今日のところは遠慮しておくぜ』
『ど、どうしてっ!?』
『決まってるじゃねえか。俺だってたまにははめを外して遊びたいがよ、まさか女房の前でそういう店に入るわけにもいくまい?』
『……女房……?そんな女が、一体どこに……?』
『決まってるじゃねえか。ほら、お前さんの目の前にいる、アポロンの彫像みたいなその女だよ』

 ヴィーナスの彫像と言わないあたりが如何にもケリーらしい。
 そして、『女房』という一言。これが正しくとどめの一撃であった。
 がたん、と男が持った客引き用の看板が、地面に転がる音がする。
 そんな音など聞こえないふうで、怪獣妻は、怪獣夫に言うのだ。

『お前が女を買おうが男を買おうが、私は別に構わないぞ、海賊。ダイアナの時も言っていたじゃあないか、たまには私以外の女を抱いて、私の良さを再認識するのもいいことだ』
『……そういうふうに理解が有り過ぎると、逆にやる気が削がれるんだよ。こういうのは、あんたに黙ってこっそりとするから楽しいんじゃねえか』
『ふむ、そんなものか。これは悪いことをした。ならば今後は気を付けて、出来るだけ見て見ぬ振りをするとしよう』
『この場所でかい?』

 肝の据わった客引きの男は、茫然とした顔で二人の背中を見送った。
 そして、ケリーとジャスミンはと言えば、既に客引きのことなど眼中にない。すたすたと、人混みの向こうに歩いて行くのだが、客引きの男も流石にこれ以上深追いする気力を持たなかった。
 その男は長年の経験と誇りから、一度声を掛けた獲物を逃すことを恥と思っている。
 しかし、この場合は相手が悪かった。第一、この二人を一目見て夫婦だと気がつく人間がどれほどいるのだろうか。
 普通、年の近い二人の男女が談笑しながら歩いていれば、恋人とか夫婦とかいう関係がまず思い浮かぶはずだ。その点、ケリーとジャスミンは、少なくとも見た目の歳は同じ歳の頃だし、二人とも極めて整った顔立ちをしているから容姿の面でも釣り合いが取れている。
 なのにこの二人が連れ立って歩いていると、恋人とか夫婦とかいう心温まる関係がどうしてもそぐわない。敢えて言うならば、共通の獲物を前にして手を組んだ雄獅子と雌虎というのがしっくりくるだろうか。
 ならば、そんな二人に声を掛けた客引きの男こそお気の毒というべきであった。

 とにかく、そんなふうにして二人は、結構楽しんでいた。
 普段は、宇宙一の大企業であるクーアカンパニーの監査という大仕事を、ほとんど独力でこなしているケリーとジャスミンである。二人で連れ立ってこういう場所を暢気に歩けるというのも、久しぶりのことだ。
 まるで新婚旅行を楽しむ普通の夫婦の様に、二人は楽しげに露店を覗き、安物のアクセサリを手にとって値切り交渉をしたり、良い匂いのする得体の知れない食べ物を立ち食いしたりした。
 通りに溢れた人の波にはいささか辟易とさせられるが、それも情緒と思えばそれほど苦にはならない。
 人混みを割るようにして歩いていると、ジャスミンの腰に、とんと何かがぶつかってきた。
 こんな時間に外にいるのが相応しくないような、少女だった。少女の手にはアイスが握られており、ぶつかった調子にそれがジャスミンのズボンに零れ、小さな染みを作ってしまっている。
 少女は、少し青ざめて、端から見れば滑稽なほどの勢いで頭を下げた。

「ご、ごめんなさい、わたし、ちょっとぼおっとしてて、前を見てませんでした!クリーニング代は払いますから……」
「いや、こんな状況だ、ぶつかるのはお互い様というものだろう。このズボンもどうせ洗いざらしだから、そんなに謝ってもらう必要はない。ただ、こんな時間まで君のような子供が街中を出歩くのはあまり感心できることじゃない。適当なところで切り上げて家に帰りなさい」
「は、はい、どうもすみません……」

 しゅんとした様子の少女は、遠巻きから心配そうに眺めていた彼女の友達の輪の中に入り、ジャスミンにもう一度頭を下げると、人混みの中に消えていった。

「馬鹿だなアネット。しっかり周りを見ないからこういうことになるんだぜ」
「わかってるわよザックス!私だって落ち込んでるんだから、そういうこと言わなくてもいいでしょう!?」
「ああ、もう、二人とも、大事にならなかったんだから別にいいじゃないか。そろそろ帰ろうぜ、お父さんが心配してるよ……」

 そんな声が、少しずつ喧噪に紛れて、消えていった。
 ジャスミンは汚れたズボンをハンカチで拭い、再び歩き始めようとしたが、

「……どうした、海賊。何かあったか?」
「……いや、別になんでもない」

 ケリーはしばらくの間、雑踏に消えた子供たちを見つめるように、人の流れの中に立ち尽くしていた。
 それから、気を取り直したように二人は遊んだ。
 子供じみた射的ゲームや、怪しい占い師。意外なほどに散財してしまったが、懐はまだまだ温かい。そもそも、この二人の懐を寒くさせるような散財が、こんな場所で出来るはずもない。
 目当ての店は中々見つからないが、こういうのは見つけるまでが楽しいものだ。
 やがて、二人は通りの端まで出てしまった。

「おかしいな、この通りのはずなんだが。見落としたか?」

 ジャスミンは、観光客用に設えられた、簡素な地図に目を落としながら呟いた。空港で、入国審査官の老人に印をつけてもらったものだ。
 彼女はもと共和軍の情報将校であり、どれほど簡単なものであっても、地図を手にして迷うはずがない。
 これはいよいよ自分もやきが回ったかと些か自嘲的な気持になっていると、

「……おい、ここってパーヴェル通りの三番街のはずだよな?」
「いや、違う。ここは二番街の外れだぞ」
「だがよ、あの電柱の地番表示はパーヴェル通り三番街ってなってるぜ」

 ジャスミンは、ケリーの指さす先を見た。
 街の喧噪を見下ろすようにひっそりと佇む電柱、そこに貼り付けられた小さな銅板には、ケリーの言うとおり『パーヴェル通り三番街』の文字があった。
 一応、確認のためもう一度だけ地図を見たが、そこには『二番街』の文字があり、自分達のいる場所についても間違いはない。
 要するに、地図の表示が、一区画分ずれていたのだ。
 ジャスミンは、呆れるのを通り越して、吹き出してしまった。もしこれが軍謹製の地図であり、彼女が軍属であれば、この地図を作った担当者を文字通りに締め上げて官舎の窓から放り出しているところだ。
 まだまだ込み上げてくる笑いの発作を押さえつけながら、ジャスミンは言った。
 
「さて、一度来た道を引き返すのも馬鹿らしいな」

 ケリーも笑いながら頷いた。

「しかし女王、引き返してきたあんたの顔を見た客引き連中がどんな顔をするか、それはそれで興味深いぜ。何人が折角引き留めた客を逃すか、賭けてみるか?」
「それは純然たる営業妨害というものだ。客引き連中だって、彼らが連れ込んだ客をくわえ込む女達だって、生活がかかっているんだからな。招かれざる客は、ひっそりとこちらの通りから戻るとしよう」

 地図自体が間違えているというのであれば、店の所在地そのものについても正しい情報なのか甚だ怪しいものだ。しかし、絵図面に書かれた店の場所自体が間違えているというのも中々考えにくい。無論、あの老人が耄碌していれば話は別だが。
 ケリーとジャスミンは現在地と周囲の街の状況を頭に叩き込み、もっとも華やかな通りから一本奥に入った、何ともうらびれた感じのする通りを歩いた。
 表通りとは違う、生活感のある通りだ。先ほど歩いた道からはそれほど離れていないはずなのに、匂いすらが違う気がする。
 少し歩くと、店はすぐに見つかった。
 『秋芳酒家』と書かれた看板は、表通りに乱立する店とは違い、白地に黒文字という地味なもので、電灯の下になければ見落としてしまいそうなものであった。
 看板の前に来ると、地下へと降りる階段があった。店は地下に構えられているらしい。

「こうしてみると思い出すな」
「何をだ、海賊」
「つれねえなあ、女王。俺とあんたが初めて出会った、あの店をだよ」

 なるほど、とジャスミンは思った。確かに、惑星ジゴバの歓楽街にあったあの店も、まるで客商売など関係ないと言わんばかりの店構えで、ひっそりと営業していたものだ。
 そこで、彼らは出会った。しかし、恋はしなかった。なのに、いつしか子供が生まれ、一緒に暮らすようになった。
 安らかな生活だったかと問われれば、二人ともが真剣な表情で首を横に振るだろう。だが、退屈な生活だったかと問われれば、二人は間違いなく首を横に振るはずだ。
 そして、一人は長い眠りにつき、一人は死んだ。その二人が、肩を並べて歩いている。
 因果なこともあるものだと、二人は同時に思った。

「しかし海賊よ。お前にも可愛らしいところがあるのだな」

 ジャスミンは、含むように微笑った。
 別に、商売っ気のない酒場も、地下にある酒場も、珍しいものではない。だから、そこに二人が出会ったあの店を重ねるなど、なんともロマンチックなことではないかと思ったのだ。
 ケリーは肩を竦めて、

「だろう?あの店の酒は美味かった。なら、きっとこの店の酒も美味いに決まってるぜ」

 にやりと笑いながら、少し外れたことを言った。
 何も分かっていないのか、全てを理解して敢えて誤魔化して見せたのか。ジャスミンもそれ以上は何も言わなかった。
 二人は無言で、塗装の剥げたぼろぼろの階段を下った。すると、意外なほどに長い廊下があった。その所々に、まるで玩具のように安っぽい扉が設えられており、その上にはよく分からない地元の文字で店の名前が掲げられていた。
 この廊下自体、お世辞にも小綺麗とは言い難い。唯一の灯りである電灯も切れかけているのか、ちかちかと点滅して、何とも侘びしい気配を醸し出している。
 彼ら以外の男女であれば、この時点で引き返しているだろう。この先にある店がどれほどの美酒を提供していたとしても、身ぐるみを剥がされるような危険を冒してまで店に入る勇気はないのが普通だ。
 当然のことながら、彼らは引き返さなかった。寧ろ、こういう店に来るのは本当に久しぶりのことだったので、心踊ったくらいだ。
 目当ての店の看板を見つけると、ゆっくりと開いた。
 薄暗い店内は、思ったよりも広かった。入ってすぐ右手にレジがあり、その奥には十人ほどが腰掛けられるカウンターがある。
 中央には、何かショーをするのだろうか、かなり広めのライブステージのようなものが設えられている。
 左手にはテーブル席が並んでいて、既に気の早い何組かの客がしっとりとグラスを傾けている。地元の人間なのだろうか、服装はそれほど煌びやかではないが、かといって法に背を向ける荒くれ者といった様子でもない。
 店の中を、注文が飛び交う。それに応じるように、扇情的なバニーガールの格好をした女達が、右に左に走り回る。客の横について、楽しげに語らっている女もいる。
 少しばかりの女の匂いと酒、そして落ち着いた空気を求めた男達が集う、場末の酒場。この店はそういう雰囲気だった。
 二人は、カウンターを選んだ。
 並外れて恵まれた体格を有する二人であるから少し窮屈かと思われたが、元々そういう客が多く来るのか、席の配置はゆったりしたもので、二人は難なく腰を下ろすことが出来た。
 
「注文は?」

 老齢のマスターが、ぶっきらぼうに聞いた。
 彼の後ろには、無数の酒瓶が所狭しと並んでいる。そのいくつかは二人も知っていたが、多くは知らなかった。おそらくはこの星の地酒なのだろう。
 ケリーはうっすらと笑いながら、

「この星の酒が飲みたい。あんたが一番美味いと思うやつでいい」

 別に奇をてらって言ったわけではないし、格好をつけたわけでもない。ケリーは、この星のどの酒が一番美味いのか知らなかったから、専門家に任せようと思っただけだ。
 マスターは表情を髪の毛一本ほども動かすことはなかったが、やがてジャスミンに目を向けて、無言で注文を促した。

「私も、この男と同じものを頼む」

 見慣れない、特異な風貌の客の注文をどう思ったのだろうか、マスターは一度店の奥に姿を消した。
 ややあって戻ってきた彼の手には、小振りなグラスが二つ、握られていた。
 それを、ケリーとジャスミンの前に、一つずつ置く。

「飲んでみな」

 ジャスミンは、無造作にグラスを手にした。
 グラスの中の液体は、濃い琥珀色だ。年代物のウイスキーやブランデーよりなお濃く、透明度がほとんどない。
 グラスを顔に近づけると、独特の臭気が鼻を刺した。アルコール自体の香りの中に、どこか異質の、動物的な臭いがある。
 だが、ジャスミンは躊躇わなかった。グラスを一気に傾けて、液体を一息で口の中に放り込んだ。
 流石のジャスミンも、一瞬目を丸くしかけた。
 口の中を、強烈なアルコールが灼く。想像した以上に、度数が高い。おそらく、火を近づければ簡単に燃え上がるだろう。
 独特の臭気も、鼻にこびり付くように濃厚だった。まるで野外演習の時に囓った生の蛇肉のような、一般人なら間違いなく吐き気を催す臭いだ。
 どう考えても、まともな酒ではない。強い蒸留酒に、何かを漬け込んでいるのだ。少なくとも、この店で一番美味い酒を、と注文した客に出すべきものではないのだろう。
 しかし――。

「美味いな」

 液体を飲み下したジャスミンは、思わず呟いていた。
 アルコールは強烈で、臭いはきつい。どう考えても飲みやすい酒とは言い難いのだが、しかし、それらを掻き消してあまりあるような鮮烈なうまみがある。一度それに気がつけば、独特の臭気も気にならない、むしろ心地良いとさえ思えてしまう。
 隣に座ったケリーも同じ感想を抱いたのだろう、空になったグラスをしみじみと眺めながら満足の吐息を吐き出している。
 そんな二人を、老境に差し掛かったマスターは、驚いたような顔で眺めていた。

「……一見さんでこの酒を美味いと言ったのは、あんたらが初めてだな」

 どうやら、全てを承知の上でこの酒を出したらしい。
 そんなことを言われたジャスミンは、別に怒るふうでもなく、

「そうか。意外と酒の味のわかる人間は少ないんだな。しかしマスター、この酒は?」

 にっこりと、悪戯小僧のような按配で白い歯を見せたマスターは、店の裏側から、大きなガラス瓶を抱えて戻ってきた。
 薄明かりに照らされたその瓶の中に何が入っているのか、遠目でははっきり分からない。
 年齢の割に引き締まった体格を有しているマスターは、そのガラス瓶をひょいとカウンターの上に乗せた。ラベルも何も張られていないから、おそらくは自家製の酒だと思われた。
 どしん、と、大きな音が鳴った。
 二人の前に置かれたその瓶の中は濃い琥珀色の液体で満たされている。先ほどの酒と同じものなのだろう、透明度はほとんどない程に色が濃いが、その奥にうっすらと、人間の指ほどの大きさの、細長い物体が浮かんでいるのが分かる。
 まじまじと眺めるまでもなかった。
 それは、無数の芋虫だった。それも、芋虫なのに細長い脚が無数に生え揃っており、触角までも生え揃って居る。
 ホラー映画などで腐敗した死体に集っている小虫を、さらに醜くしたような、おぞましい姿だった。
 
「どうだい、気に入ってくれたかい?」

 如何にも好々爺然としたその声は、女性の悲鳴と男の青い顔を期待してのものだったが、ジャスミンとケリーは、マスターの想像したのとは正反対の方向に反応した。
 具体的に言うと、ジャスミンは喜びの声を上げ、ケリーは興奮に顔を赤くしたのだ。

「これはオティラ星のチュチュ・ワームか!?なんと贅沢な!」
「どうりで、どっかで囓ったことのある匂いだと思ったんだ!」

 カウンターの一角が、にわかに色めき立った。

「海賊、お前もこれを食ったことがあるのか?」
「ああ、訳あってあそこの荒野を食うや食わずやで彷徨ったことがあるが、砕いた倒木の中にこいつがうじゃうじゃといたときの、あの感動は忘れようもねえ。平たい石を灼いて、その上で転がすよう炙るんだ。かりかりになった脚と、チーズみたいに濃厚な胴体。今思い出したって涎が出そうになるくらいに美味かった」
「なるほど、幼虫でも美味いんだな。しかし、こいつは成虫になると信じられない程に固い外骨格を有する甲虫になるんだが、そいつも美味いぞ。ナイフに全体重を預けて真っ二つに押し切ってから、中の身をスプーンで掬って食べる。火を通すよりは生のほうをお勧めする。だが、注意しなければならないことがある。あれを一度味わえば、しばらく間は刺身の類が食えなくなるんだ。どんな魚の肉だって、こいつの身と比べるとあまりに味が薄く、そして生臭く感じるからな」

 このようにして、二人はこのグロテスクな虫が如何に美味いかを、熱く語り始めた。
 そんな二人を前にした呆れ顔のマスターは、肩を一つ竦めると、カウンターの下から武骨な酒瓶を取り出した。ありふれた形をした、ラベルすら貼られていない、酒瓶である。
 
「それは?」

 隠しきれない興味を持って、ケリーが問う。隣に座ったジャスミンの顔も、舌舐めずりをする虎のような有様だ。

「こいつは、この星に自生する麦の一種から作った酒だ。一杯やるかい?」
「ひょっとして、カラとかいう植物かい?」
「ああ、そのとおりだ」

 不敵な笑みを浮かべたマスター。当然、ケリーとジャスミンに否やは無い。

「もらおう」

 今度はジャスミンである。
 微笑を浮かべたマスターは小振りなグラスを二つ取り出して、酒を注いだ。
 薄明かりに照らされたその液体は、辛うじてそれと分かる程の琥珀色。ほとんどは透明と言っていいほどにしか色付いていない。
 しかし、美しい。トパーズの原石を淡く輝かせたような、心ときめく色合いである。

「こいつは美味そうだ」

 ケリーは、ほとんど一息にその酒を飲み干した。
 ジャスミンも、無言でそれに倣う。
 そして、二人は声を失った。それほどに、この酒はうまかった。
 口の中に入れた途端に広がる芳醇な香りは果物のそれに近いが、舌には穀類から作った酒特有の控えめな甘味が広がる。この酒も先ほどの虫酒に負けず劣らず酒精が濃いようだが、しかしそれを感じさせない軽やかさ。その液体が、喉を通るときには灼けるような熱に代わり、胃の腑に収まった後はぽかぽかと全身を温めてくれる。
 間違いなく、極上の酒だった。
 二人は、声もなく空のグラスをしみじみと眺めていた。
 
「どうだい、もう一杯?」

 悪戯を成功させた悪童のような表情で、マスターは言った。
 きっと、先ほどに出された虫酒は、この酒を出すための試験のようなものなんだろう。あの酒を飲んで美味いと言った人間にだけ、この貴重な酒を出してくれる。虫酒を飲み干せない人間には、どうしたってこの酒は出さない。この老獪なマスターに相応しい悪ふざけであった。
 ケリーとジャスミンは、苦笑した。この場合、してやられたのは自分達だからだ。
 だからといって、不快感はない。寧ろ、こういう類の悪巧みならばいつだって大歓迎だ。

「いただこう」
「俺もだ」

 同時に差しだされた空のグラスに、再び目一杯の酒が注がれる。
 二人は肴に手を出すこともなく、再びグラスを空にした。

「……あんたら、強いね」

 店主が、軽く目を見張りながら言った。
 確かに、先ほどの虫酒も、そして今二人が飲み干した酒も、かなりきつい蒸留酒である。酒に弱い人間であればその匂いだけで赤ら顔になるだろうし、それなりに酒を嗜む人間であっても一杯で根を上げるだろう。
 ところがこの二人は、まるで水かジュースを飲むかのように、グラスを空にしていく。長年この酒場でマスターをやっているこの男でも、これほど酒に強い人間は――しかも二人も同時に――初めてお目にかかるものだった。

「別に、それほどじゃあないさ。ただ、美味い酒は飲めるときに飲んでおくに限る。後から悔やんだって、美味い酒は誰かの腹の中だ。この短い人生、女だって美味い酒だって一期一会が基本だぜ」
「そのとおりだな、海賊。しかし――」

 ジャスミンが、訝しげな視線を目の前のマスターに向けた。

「無粋を承知で尋ねるが、この酒はこの星に自生する麦から作ると言っていたな。確か、ヴェロニカ教では自生する植物の採取は教義に反するものだと聞いていたが、私の勘違いなのだろうか?」

 ジャスミンが、三度注がれた美酒で唇を湿らせながら言った。
 マスターは、少し辛そうな表情で、首を横に振った。

「いや、あんたの言うとおりさ。この酒は、神の教えに反する、存在することそのものが瀆神的な酒だ。俺の知る中でも飛びっ切りに頭の固い頑固親父が、それこそ呆れるほどに面倒な手間暇掛けてこさえてやがるんだが、全くもってけしからん事さ。だから、こうやって飲み干してやることで、神の教えの何たるかってやつをこの酒に教え込んでやるんだ。こいつは必要悪ってやつだな」

 マスターは、三つめのグラスに酒を注いで、自分で空にした。
 その様を見て、ケリーとジャスミンは同時に笑い声をあげた。

「なるほど、その必要悪とやらのおかげで俺達がこの酒にありつけたんなら、そいつはありがたいことだ」
「ならば、そのようにけしからん酒は、早いところ飲み干してやらないとこの星の風紀が乱れてしまうな」

 やはり空になったグラスに、今度は勝手に酒が注がれた。
 気難しいはずのマスターは、明らかにこの星の生まれでない二人組を心底気に入ってしまっていた。
 
「ちょっと待ってな」

 人好きのする笑みを浮かべたマスターは、店の奥に姿を消した。
 うきうきとした歩調で戻ってきた彼の手には、武骨な酒瓶が三つ、初孫をあやすように繊細な手つきで、抱えられていた。
 
「こいつが、この店で最後の酒さ。もしあんたらさえ良ければ、持って帰るかい?」
「……いいのかい?そう簡単に仕入れられるものじゃないんだろう?」
「いいさ。こいつだって、どうせなら自分の味が分かる奴に飲まれたいだろうし、第一この店だってそう長いこと開けとくつもりはないからよ。このまま倉庫で埃を被らせてやるよりも、なんぼかマシってもんだろう」
「……この店を閉めるのか?」

 ジャスミンは、ぐるりと店内を見回した。
 席は、ほとんど埋まっていた。まだ宵の口というのにこれほど盛況しているのならば、別に売上不振で閉店するというわけではないようだ。ということは、それ以外に店を閉めなければならない理由があるということだろう。
 
「マスター。ひょっとして、どこかお悪いのか?」
「いいや、体のほうはぴんぴんしてるさ。悪いのは、そうだな、最近物忘れが酷いこの脳味噌と、後は胸くそくらいのもんだ」

 苦虫を噛み潰すような顔で、マスターは言った。

「胸くそが悪いとは穏やかじゃねえな」
「ふん。この星の置かれた状況を鑑みれば、胸くその一つだって悪くなろうってなもんさ。あんたら、何の用でこの星に来たんだい?」
「表向きは、金と暇を持てあました観光客ってところだな」

 ならば裏があるのかと、マスターは問わなかった。
 黙ってグラスを傾けてから、吐き出すような調子で、
 
「なら、表通りをのし歩いてる、あの恥さらし共に因縁をつけられなかったか?」
「それは、憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、時代錯誤な連中のことか?」

 ジャスミンの問いに、マスターは無言の沈黙で答えた。
 空になったグラスに、手酌で酒を注ぐ。
 酒場のマスターの割には、それほど酒が強くないのだろうか。それとも、自ら酒に理性を明け渡そうとしているのか。マスターの顔は、やや赤みがかっていた。

「俺はよう、別にヴェロニカ教の教義自体が間違えてるとは言わねえよ。人間は自然の循環に手を出さず、自分達で一から作ったものだけで生活する。それが正しい有り様だと思うから、今だってこの不自由な星の上でひっそりと生活してるのさ。あんたら、外の人間から見ればおかしな風習だって、この星に生きる人間にとっては当然の在り方なんだ。あんたらはそれを笑うかい?」

 ジャスミンとケリーは、真剣な面持ちで首を横に振った。
 人が自由意志を持って生きる者であるというのは立派なお題目だが、同時に人は他者との繋がりを、言い換えれば束縛を受けずには生きられない生き物だ。しかし、その束縛を鬱陶しいと感じるか、それとも安心すると思うかは個人の性質によるのであり、どちらの立場に足を置こうと非難される謂われはない。
 この星の宗教は、確かに異質だ。だが、異質という意味で言うならば、自分達ほど異質な人間もこの宇宙に二人といないだろう。片や不治の病に冒されて長い年月を医療用カプセルの中で過ごした眠り姫、片や一度ならず死線を潜り抜け、最後には本当に死んで、そして天使に叩き起こされたゾンビ――これは一人ではないが――である。
 少なくとも、自分達にヴェロニカ教を批判する資格はないと、二人ともが思っていた。

「だがよう、どんなにおかしな教義であっても、俺達が従うのは、それが神の教えだからだ。断じて、権力を笠に着たくだらねえ馬鹿どものおもちゃに成り下がるためじゃあねえよ。そりゃあ、酒のためにほんの少しの麦を掠め取るくらいはしたかも知れねえがよ、それが殺される程の罪か?あいつは、そんなに悪いことをしたっていうのかよ?第一、俺はともかくあいつはヴェロニカ教徒なんかじゃなかったんだ!」

 どうにも、話の脈絡が不明であったが、この男の涙を見ればほとんどの事情が飲み込める。
 つまり、この酒は、二度と飲めないということだ。だから、この店も閉めると、そういうことなのだろう。

「遠からず、酒そのものだって飲むことが罪になるぜ。酒は悪魔が人を堕落させるために拵えた猛毒だってな。そうなりゃ俺達はどうやって生きていけばいい?次は上の通りの売春宿が消えて無くなるさ。淫婦は人の精神を腐らせる夜魔だってな。そうすりゃ、男に股を開くことでしか食っていけない女達はどうやって生きていくんだよ。次は煙草、その次は何だろうな?くそっ、そんなことがヴェロニカ教典のどこに書いてるっていうんだよ。やりたい放題じゃねえか。どちらにせよ、あいつらの気に食わねえことが、どんどん罪になるんだ。あいつらが教典さまに成り仰せるのさ。俺はな、そうなる前にさっさと死ぬことだけが望みなんだ。なに、天国に行けばこの酒が浴びる程飲めるんだから、別に悪い話じゃねえ」

 ぐすりと鼻を一つ鳴らして、マスターは目尻を拭った。
 そして、気恥ずかしげな笑みを浮かべて、

「へへ、すまねえ、しめっぽくしちまった。折角の夜なのに、わりいことしたな」
「いや、別にいいさ。何もかも飲み込んで訳知り顔の奴より、不平たらたらで大泣きする奴の方が好きだぜ、俺は」
「こんなに旨い酒を飲ませてくれたささやかな礼だ。愚痴程度ならばいくらでも付き合うぞ」

 怪獣夫婦は、人好きのする笑みと共にそんなことを言った。
 二人の言葉に涙腺を刺激されたのだろうか、マスターは盛大に鼻をかみ、目元をごしごしと擦り、

「ああ、今日はいい夜だ!実は、悪いことばかりじゃねえんだ!とっくにくたばったとばかり思っていた昔の連れと、こないだばったり出会ってな。まったく、神様もなかなか粋なことをするもんさ。今日は俺の奢りだ!とっくり楽しんでいってくれ!おい、かあさん、かあさん!」
「なんだよ、うるさいねぇ」

 辟易とした声と共に現れたのは、けばけばしい化粧を施した年配の女将だった。
 いかにも夜の街に生きる女性といった風情だ。いや、貫禄だ、といったほうがいいかもしれない。
 年齢的に見ると、まさか本当にマスターの母親というわけではあるまい。おそらくは夫が妻を呼ぶに、『母さん』と呼んでいるのではないだろうか。
 
「ああ、あんた、またお客さんに愚痴を零してたね。こないだも大喧嘩したばかりじゃないか。見ず知らずの人間にぺらぺらそんなこと話して、あの連中の耳に入ってみな、一体どんな目に合わされるか……」
「バカヤロウ!こいつらはそんな安い男に見えるか!いいか、よく聞け、こいつらはなぁ――」
「はいはい、わかったわかった、分かりました。で、何の用?」

 小気味いいほどにぽんぽんと交わされる会話は、長い時間を共に生きた夫婦ならではのものだろう。
 男と、一括りに言われてしまったジャスミンも苦笑した。

「こいつらに、この店で一番可愛い女をつけてやれ!酒だって、こんな爺に注がれるよりは、女に注いでもらった方が旨いに決まってるんだ!」
「ちょってあんた。そっちの兄さんはともかく、こっちは女の人だよ。男と女が二人でしっぽり飲んでるときに、そんな無粋な真似をするもんじゃないってば」
 
 第一、こんな二人につけられた女の方こそ気の毒である。
 一体、どんなことを話せばいいというのか。それとも、それこそが水商売の女の腕の見せ所か。
 ともかく、マスターを諫める女将を前にして、ケリーは言った。

「俺は別にかまわねえぜ。確かに、可愛らしい女に酌をしてもらえるなら、酒も一段と旨くなるってもんだ。いやなに、こいつも中々に可愛らしいんだがよ、こいつに酌をしてもらうと何故だか終いにはいつも飲み比べになっちまう。それはそれで楽しいんだが、今日はもう少し静かに飲みたいんでね」

 可愛らしいと評されたのは、当然のことながらジャスミンのことである。
 そして、目の前でケリーが――紛れもない自分の夫が商売女の酌が欲しいと言っているのを聞いたジャスミンはといえば、こちらも大きく頷いて、

「わたしも可愛らしい女を愛でるのは大好きだ。わたし自身このなりだからな、たまにはそういう女と一緒に酒も酌み交わしてみたい」

 とんでもない誤解を招きそうな言葉だが、無論ジャスミンにそういう趣味はない。彼女が言う『愛でる』とは、美しい花を眺めたり小鳥と戯れたりする、そういう『愛でる』なのだから。
 二人の言葉を聞いて唖然とした女将だったが、マスターの方はうんうんと頷いた。それでこそ俺のメガネに適った男達だ、と言わんばかりであった。
 そして、言った。

「つい最近、ヘルプでうちの店に入った子なんだがな、何とも気立てが良くて可愛らしいから、たちまちにこの店のナンバーワンさ。今じゃあ、その子目当てにこの店に来るすけべ親父も少なくないんだ。まったく、店を閉める話がなけりゃあ、絶対に口説き落としてこの店の華にしてみせるのに、勿体ない話だぜ」

 一息にそう言ってから、マスターは息を一つ吸い込み、その女の名前を口にした。

「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」

 はぁい、と、店の奥から、女の声が聞こえた。
 そして、とたとたと小さな足音が近づいてくる。
 店の薄暗がりの奥から、一人の女が顔を出した。
 その女を見て、流石のケリーもジャスミンも声を失った。
 美しい女だった。
 腰まで届く漆黒の髪、それと同色の煌びやかな瞳。
 抜けるように白い肌を、真っ赤なレオタードが飾り付けている。しかも、かなり股間の切れ込みの鋭い、扇情的なものだ。
 腰から下は、黒い網タイツを履いている。ほっそりとした太腿との対比が艶めかしい。
 しかし、そんなことより何よりもケリーとジャスミンを驚かせたのは、その女の若さ――いや、その少女の幼さだった。
 唇に紅を引き、アイラインを濃くはしているものの、到底誤魔化しきれてはいない。
 おそらく、まだ中等部の、それも低学年に分類されるのではないだろうかという幼さ。これでは、二人の孫であるジェームスと同じくらいの年齢ではないのか。
 ケリーとジャスミンはこの星の風俗には明るくないし、法律にも不案内だ。しかし、ヴェロニカ共和国が連邦加盟国である以上、一定年齢以下の児童の就職は禁じられているはずだし、それが夜の街ともなれば尚更である。
 そして、どう見ても目の前の少女は、その年齢に達しているとは思えない。
 その少女が、呆気に取られた怪獣夫妻の前で、ちょこんと頭を下げた。その拍子に、頭につけた兎の耳が、可愛らしくひょこりと揺れた。

「ご指名ありがとうございます、フィナ・ヴァレンタインです。本日はよろしくお願いします!」

 何とも元気の良い、しかし少々やけくそ気味の、覇王の現し身たる少女の挨拶であった。



[6349] 第二十九話:Humpty Dumpty had a great fall
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:26
「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」
「はーい、今行きますー!」

 フィナ・ヴァレンタイン――ウォルは、手に持ったビールジョッキを急いで配膳し、マスターの待つカウンター席まで駆けていった。
 ふと足下を見る。
 最初は何度も足を挫きそうになったハイヒールも、既に足に馴染んでいる。当然、白い兎耳も、黒いチョーカーも、赤いバニースーツも、目の荒い網タイツも。
 皮肉なことに、メイフゥの言ったとおりであった。一度着てみれば、何と言うこともない……というよりも、決して飛び越えてはいけないラインを強制的に、しかも一息で飛び越えさせられてしまった。
 結果として、今のウォルに、バニースーツを着ることに対する心的な抵抗は少ない。
 幼さを消すための化粧――アイメイクに白粉、口紅など――も、手慣れてしまった。
 既に彼女は、男として二度と引き返すことの出来ない、遙か彼岸まで行き着いてしまったのだ。

『一人殺すのも二人殺すのも一緒だ!』

 そう叫ぶ殺人犯の気持ちが、ほんのちょっぴりだけ理解できてしまう自分が悲しいと、ウォルは目尻に浮いた涙をそっと拭った。

 ウォルがこの店で働き始めて、既に一週間が経つ。
 仕事はおおむね順調であった。接客のコツも分かってきたし、適当なところで客をあしらう技術もわかってきた。客の受けも上々で、目立ったトラブルも無い。
 それに、この酒場の客層は、年端もいかない今のウォルに欲情するほど特殊な趣向を持つ人間はいなかった。精々、我が子にするようにウォルの頭を撫でてやったり、面白半分で脇腹をつんつんとつつき、可愛らしい悲鳴を上げながら飛び上がるウォルを見て面白がる程度だ。
 要するに、ウォルの身体を性的な意味で味わってやろうという人種――いわゆる小児性愛者はほとんどいなかったわけだ。もう少し噂が広がれば事態も変わるだろうが、今のところは彼女のことを小動物のように可愛がる客が大半を占めている。当然、無理に酒を勧めたりもしない。
 たまに、踊り子に手を出す――尻を撫でたり胸を揉んだりしようとする――不届き者がいたりするが、そういった悪質な客はウォルが剣呑な殺気を込めて睨みつけてやるとすごすごと退散した。
 だからウォルは、よっぽどのことが無い限り客のされるがままであり、頭を撫でられたり膝に乗せられたりした体勢のまま、仕事の愚痴や女房に対する不満等を聞き、適当に相づちを打った。
 しかし、それだけのことで、この小さく可愛らしいバニーさんの人気はうなぎ登りであった。何せ、元が人生経験豊かな元・国王である。実に聞き上手であったし、ふとした拍子に溢すアドバイスも適切だ。
 客の方も、あどけない少女の言葉であるだけに最初は笑いながら聞くが、しだいに真剣な、救いを求めるような様子でウォルの助言に耳を傾ける。時には涙をこぼし、懺悔のようなことをする者も少なくない。
 そして最後にはウォルを情熱的に抱き締め、財布の中身のほとんどをチップとして渡し、晴れ晴れとした笑顔で帰っていくのだ。
 元が面倒見のいいウォルであるから、そのようにして人を導くのは嫌いではない。それに気の良い客がほとんどだったので、一緒に酒を飲んで馬鹿話をするのも中々に楽しい。
 しかし――しかし、ふとした拍子に、自分を醒めた視線で見つめてしまうのだ。
 例えば今だって鏡を見ると、愛らしい少女が、愛らしい格好で、しかし親の敵を見るようなすごい視線でこちらを睨みつけている。これが誰かと問われれば、間違いなく自分以外の何者でもあり得ない。
 もし、万が一にも今の自分を、妻が――未来の夫に見られたら……あちらの世界に残してきた、ポーラや我が子や孫達に見られたら……。

 ――リィ。俺は、俺は汚れてしまったよ……はは、あははは……。

 底冷えのする笑みを何とか引っ込めたウォルは、一応のサービスルマイルを浮かべて、新たな客に相対した。

「ご指名ありがとうございます、フィナ・ヴァレンタインです。本日はよろしくお願いします!」
 
 勢いよく下げた頭を上げると、そこには唖然とした表情で自分を見つめる、二組の視線があった。
 薄暗い酒場のカウンターの外れに、その巨体を押し込めるようにして座っている。
 ウォルも、流石に表情にこそ出さなかったものの、かなり驚いた。
 何せ、その二人は大きかった。
 両方とも、かつての自分と同じ程度か、それ以上に大きい。しかも一人は女性なのだ。
 ウォルがこの世界で初めて知り合った大男、ヴォルフガング・イェーガーなどを比較の対象にさえしなければ、目の前の二人はこの世界でも最大級の体格を有していると言って良いだろう。
 その二人にじろじろと眺められたのだから、流石のウォルも内心でたじろいだが、気を取り直して言った。

「とりあえずー、飲み物は何にしますかー?ビール?ウィスキー?お酒が苦手なら軽いカクテルもお持ちしますけどー?」

 語尾を間延びさせた間抜けな言い方も、慣れた。
 心の中で血涙を流しながら、しかしウォルの笑顔には一切の綻びも見られない。
 正しくバニーさんの鑑であった。

「……飲み物は、今のところ間に合ってるんだが……その、お嬢ちゃんは、この店で働いてるのかい?」

 大きな二人組のうちの男のほうが、目をぱちくりさせながら言った。
 少しとぼけたような表情であったが、ウォルは、この男が整った容姿をしていることに気がついた。無論彼女にはそういう趣味はないのだが(この場合、なんとも複雑な意味になる)、内心で感嘆の溜息を吐かせる程に、その男は美男子であったのだ。
 その男の疑問に答えるように、マスターが言った。

「その子は、俺が宇宙にいたときの親分のお嬢さんなんだが、ちょっと事情があってうちで働いてもらってるんだ」
「しかし、この子は明らかに未成年だぞ。普通のウェイトレスとして雇うならともかく、この手の店で働かせるのはまずいだろう。それともこの星の法律では、この年の子供を酒場で働かせても構わないのか?」

 今度は、女のほうが若干険の篭もった声で言った。
 赤毛の、何とも迫力のある風貌の女性だった。女性を評するに『迫力のある』とは如何なものかとも思うが、それ以上に相応しい表現もない。それは、外見も、体格も、そして内に籠もった魂も、である。
 そのわりに、発言の方は至極まともであった。ウォルのような幼い少女――少なくとも見た目は――を夜の街で働かせるなど、いわゆる良心的な大人の行いではない。しかも、男のやる気を沸き立たせるような、扇情的な格好をさせてである。
 痛いところを突かれたはずのマスターは、しかし苦笑して、

「あんたの言うことはもっともさ、ミズ。ただ、一つ聞きたいんだがね、どうして夜の街で子供を働かせちゃいけないんだい?」
「決まっている。夜の街は色々と誘惑が多くて教育上よろしくない。それに、何かあったときに、子供では自分の身を守れないだろう」

 これも至極もっともな意見だった。
 マスターはしきりに頷き、

「まったくもってあんたの言い分は正しい。だが、あんたの言い分が正しいとすりゃあ、もしも既に色んな誘惑にも負けないくらいに価値判断のしっかりした、自分の身は自分で守れる子供がいたならば、こういうところで働いても問題無いわけだ」

 贔屓目に聞いても詭弁にしか聞こえない意見であったが、赤毛の女性は厳しい表情で頷いた。
 彼女の脳裏に浮かんだのは、自分の孫と同級生の、金色と銀色の髪をした美しい少年達だった。彼らが全てを承知の上で色街に生き場を求めると決断した場合、自分はそれを制止する言葉を持たない。
 だが、目の前の少女は――。

「だ、そうだぜウォル。後は好きにやんな」

 マスターは手をひらひらさせて、違う客の注文を取りに行った。
 置き去りにされたかたちの三人であったが、そのうちの体格のいい夫婦の間に、にゅうと腕が差し込まれた。
 その手は、テーブルに置かれたグラスを引っ掴み、中に入っていた美酒を持ち主の口へと運んだ。
 まるで手品師がハンカチーフをかけたように、グラスの中身は空になった。中に入っていたのは相当にきつい蒸留酒だったというのに。
 呆気に取られている二人を尻目に、手の持ち主であるウォルは、口元を腕でぐいと拭い、

「――旨い。これこそ酒だ。舌に辛く鼻に甘く、喉に滑らかで胃を燃やす。やはり、酒はこうでなくてはな」

 先ほどまでの接客中、中途半端に気を利かせた客の奢りで甘ったるいカクテルばかり飲まされていたウォルの、魂からの一言であった。マスターの許可も出たのだから、男に媚びる女のような、甘えた口調もする必要はない。
 ようやく口直しができて気をよくしたウォルは、舌舐めずりをする有様でボトルを掴み、手酌でおかわりを注いだ。そして、そのままの勢いで飲み干した。
 茫然とその様子を見守っていた二人組の女性のほうが、
 
「なぁ、海賊。最近の子供というものは、こういうものなのだろうか。私が子供の時は、もう少し遠慮した飲み方をしていたと思うのだが」

 子供の時は虚弱な体質だったその女性は、単純に自分とは比較できないとは思いつつも、しかし目の前でかっぱかっぱとグラスを空にする少女には軽く目を見張らざるを得ない。
 然り、男の方も頷きつつ、

「いや、俺がガキの時分だってもう少し大人しい酒を飲んでたもんだが……お嬢ちゃん、あんたそんなに飲んで大丈夫なのか?」

 可愛らしく両手でグラスを口に運んでいたウォルは素っ気ない素振りで、

「心配ご無用。この身体になってから少々弱くはなったが、この程度で根を上げるほど軟弱でもない。それより、あなた方のグラスの方が空のようだ。ささ、ぐいっといってくれ」

 ウォルは慣れた手つきでボトルから酒を注ぎ、二人のグラスを満たした。
 この時点で、どうやら目の前にいる少女が姿通りの存在ではないことを悟ったのだろう、二人は落ち着きを取り戻した様子で、ウォルが酌をしたグラスを手に取った。
 男はそれで唇を湿らし、首を傾げながら問うた。

「……前の身体は、もっと酒に強かったのかい?」
「人にうわばみと呆れられる程度には。まぁクコ酒の五本を空けても酔わないのは俺くらいのものだったな」

 えへん、とぺったんこな胸を反らしたウォルであるが、聞く者にはクコ酒というものが何だか分からない。話の流れからして相当に強い酒なのだろうというところまでは想像もつくが、まさかそれが異世界の酒であるなどと誰が知るだろう。
 加えて言えば、ウォルがクコ酒を五本も空けるという無茶をしでかした時、彼女――その時はまだ彼だった――は強かに酔っぱらい、剣一つで憎い仇の首を取りに行くと言い放ったのだ。それでよく何の臆面もなく酔っていなかったなどと言えるものである。この場に、彼女の同盟者か、それとも幼なじみあたりがいれば、猛烈な勢いで突っこんでいたはずだ。
 そんなことは神ならぬ人の身では分かるはずもない。だから、女は首を捻りながら、別のことを言った。

「なぁ、海賊。最近の子供というものは、ころころ自分の身体を変えることが出来るものなのか?」
「どういう意味だ?」
「知り合いの少年が、私の胸を見て重たそうだと言ったことがあってな。聞いてみると、以前は自分にも付いていたと……代わりに今は股の間がもぞもぞすると、そう言っていたのだが」
「ああ、黄金狼のことかい?確かに、あの競技会の時のあいつは、むしゃぶりつきたくなるようなべっぴんさんだったがよ」

 妻の前で、妻以外のことを表現するには如何と思われるような喩えであったが、妻のほうもあっけらかんと、

「私もそう思う。全く、男にしておくのが勿体ない程の美女だった。私が男だったら間違えても放ってはおかないだろうな」
「俺だって、あいつが女だったら間違いなく放っておかないぜ。そんなの相手さんに失礼ってなもんだ」
「違いない」

 二人は深く頷きあった。まったく、この二人は本当に永遠の愛を誓い合った夫婦なのだろうかと、誰しもが首を傾げる有様で。
 少なくとも普通の夫婦であれば、そもそも夫のほうが妻の前で、妻以外の女性を口説きたいなどとは言わないし、妻の方もそれを聞いて涼しい顔などはしていない。『私のことをもう愛していないのね!』などと喚き立てるのが普通だし、夫婦とはそうあるべきものだ。
 なのに、当の妻はといえば夫の言い分に憤るどころか、深く深く同意しているのだから、やはりこの二人はどこかおかしい。
 先ほどの勢いとはうってかわってチビチビとグラスを傾けながら、ウォルは目の前の大型夫婦のやり取りを見守っていた。

「あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?」

 身体の着替えとは妙な表現ではあるが、最初の営業スマイルと口調などどこかにうっちゃってきた様子でウォルが問うた。
 その、どう考えても少女には相応しく無い口調に些かの違和感を憶えつつ、男は頷いた。

「流石に大勢じゃあねぇけどな」

 男は内心で指折り数えた。
 自分を蘇らしてくれた黒い天使とその一族。
 彼らに『着替えさせられた』人間であれば、自分と妻を含めて6人といったところか。
 男は悪戯っぽい表情で声を潜めさせ、ウォルの耳元で言った。

「かくいう俺だって、着替えさせられた人間なんだぜ」
「ほう!では卿も、もとは女性だったわけか!いや、であれば是非女性であったあなたとお会いしたかったものだ」
「いや、俺は新しくて若い身体を用意してもらっただけだ。男と女を入れ換えるなんていう、贅沢な思いはさせてもらってねぇんだよ」

 唇を尖らせて、如何にも残念そうに夫は言った。
 その妻は苦笑しながら、

「なんだ、海賊。お前は性転換願望があったのか?」
「別にそういうわけじゃあねえがよ。折角一度死んで生き返ったなら、それくらいのハプニングがあったって面白いだろう?まぁ、俺が女になったらダイアンが嘆き悲しむかもしれねえがな」
「彼女はむしろ大喜びでお前を飾り付けると思うぞ。そうなった時は覚悟しておくことだな。少なくとも一ヶ月の間は、お前は彼女のお人形さんだ」
「女王、そういうあんたはどうなんだい?一回くらいは男になりたいとかは思わねえのか?」
「私か?私が男になったら、そうだな、とりあえずジンジャーの相手をするのが大変だ。彼女のことだから、出会ったその日のうちに婚姻届でも用意しかねない。重婚は流石にまずいし、お前との離婚届を出すつもりも今のところはないからな。遠慮しておくとしよう」
「違いない!」

 夫は手を叩いて喜んだ。
 第三者からすれば何とも幼稚な、『たられば』遊びの会話であったが、その二人にすれば十分以上に現実味のある話だ。例えば黒い天使が酔っぱらって茶目っ気の一つでも起こせば、明日にでも我が身に降りかかりうる話なのだ。
 一人だけ会話に置いていかれたかたちのウォルは、やはりチビリとグラスを傾けて、感慨深げに呟いた。

「やはり天の国、なんとも奇妙奇天烈な世界だ……」

 その呟きを聞いたわけではないのだろうが、女はその青みがかった灰色の瞳を少女の方に向け、

「ええと、フィナ嬢だったか?それともウォル嬢と呼べばいいのかな?」
「フィナ嬢でお願いする!」

 ウォル嬢という呼ばれ方を生まれて初めてされて、耐え難い寒気を感じたウォルは、間髪の間を入れることもなく断言した。
 
「ではフィナ嬢。君も我々と同じく、着替えさせられたのかな?」

 何とも微妙な質問ではあったが、その瞳は真剣そのものだった。
 先ほどまでの会話とこの少女の口振りを勘案すれば、この少女自身も何者かの手によって着替えさせられた可能性が高いと、そう思ったのだ。
 女の知り合いの中で、面白半分に他者の姿を変えて楽しむ者はいない。それは、神と例えられるラー一族の中でも規律に抵触する行いであったし、ラー一族以外の者にそんなことが出来るはずもないからだ。
 しかし目の前の少女は、自分から望んで少女の姿に変えてもらったというわけではなさそうだ。そもそも、一体誰の手によって姿を変えられたというのか。
 事と次第によっては自分達の身の安全にも関わる話であるから、女の瞳も真剣だ。若干金色の輝きを帯び始めているのも気のせいではあるまい。言葉を換えれば、物騒の辛うじて一歩手前といった眼光だ。
 だというのに、ウォルはのんびりとした調子で言った。

「俺は着替えさせられたことはないな。ただ、この身体を借りているだけだ。そしてこの身体の持ち主は別にいる」
「……よくわからないんだが、説明してくれるかな?」
「信じてもらえるかどうかは知らんが、俺はこの世界ではない別の世界の生まれでな。そこで大恩ある人と出会い、別れ、そいつを追いかけてこの世界までやってきた。しかし、魂一つでやってきてしまったため、体がない。だから、少しだけ無理を言ってこの子の体を貸してもらうことにしたのだ」

 二人は流石に耳を疑ったが、しかし頭ごなしに少女の話を笑い飛ばしたりはしなかった。何せ、死後の世界とかいうあやふやな場所は置いておいて、魂というもの自体の存在には人並み以上に理解のあるからである。
 グラスの中の蒸留酒を胃に運びながら、少女の話に聞き入った。

「じゃあ、お嬢ちゃんが着替えさせられたんじゃあなければ、一体誰が着替えさせられたんだい?」

 確かに、先ほど目の前の少女は『あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?』と言った。
 『にも』という言い方からして、彼女か、もしくは彼女に近しい誰かが姿変えをしたのだと思ったのだが、彼女自身ではないという。
 ならば必然、彼女に近しい他の誰かが、着替えを行ったということになるはずだ。

「まぁ、あいつの場合は何かの手違いで性別が変わってしまっていたらしいのだが……。あとで男に戻った姿を見たときは、正しく心臓が止まるかと思った。顔の造りそのものには大差がないのに、どうしてここまで雰囲気が変わるのか不思議だった」
「へぇ。じゃあ、お嬢ちゃんの知り合いにも、男なのに女の格好をさせられてた奴がいたわけか」
「ああ。俺の妻だ」
「妻?じゃあ、もしかして、こっちの世界まで追っかけてきたってのも……」
「ああ、それも妻だ。普通に家出する分には構わんのだが……実際、一月や二月の間の家出はしょっちゅうだったのだが……まさか世界を超えて、四十年の間も家出されるとは思わなかった」
「するとお嬢ちゃん。ひょっとして、あんた、元は男かい?」
「うむ。誰がどう言おうと、俺は男だった。今も男のつもりなのだが……これではなぁ……」

 ウォルは悲しげに、自分の胸辺りを撫でた。そこは、同年代の少女と比べてもやや迫力に欠ける起伏しか有していなかったが、それでもはっきりと膨らみ始めていた。
 前の、分厚い筋肉に覆われた胸板ではなく、女性の柔らかな乳房がそこにはある。
 これで『俺は男だ!』とは、なかなか言いにくい。
 そして、二人のほうも、薄々とそのことには気がついてはいたのだが、あらためて目の前の少女が元男だと言われると現実感が薄い。
 まじまじとウォルの顔を見つめながら、こんなことを言った。

「はー、このかわいこちゃんが元男ねぇ。孫チビあたりが見たら、一発でいかれちまいそうだぜ」
「それは仕方ないだろう。女の私から見ても、この子は相当に可愛らしいぞ。思わず抱き締めたくなるくらいだ」
「やめとけよ女王。あんたが思い切り抱き締めたら、骨の一本や二本は折れちまうぜ、多分」
「うん。だから困っているんだ。馬力はあるんだが、調節のほうがあまり上手でないからな。こういうときは普通の女くらいの力しか無いほうがいいと思う。残念だ」
「別に俺は構わんぞ。この体は見た目より丈夫でな、少々乱暴に扱ったくらいではびくともせん」

 ウォルは誇らしげに言った。
 すると女が、何とも心細そうな声で、

「……本当にいいのか?」
「貴方が構わないなら。俺も、美しい女性を抱き締めるのは嬉しい」

 今回は抱き締められるわけだが。

「……嘘をついていないな?」
「おう、どんと来てくれ。しかし、奥方が目の前で他の男を抱き締めるというのは、夫君にとってはまずいのではないか?」
「そのなりでいまさらだろうが。そもそも、その女が他のどこで男を銜え込もうと俺は別にかまわねえぜ。そいつだって、俺がどこで他の女を引っかけても文句は言わねえさ」

 それは夫婦としてどうだろうと、ウォルは思った。
 しかし、赤毛の女性は真剣な表情で頷いた。
 
「海賊、お前の言うとおりだな。別に私は、お前が他の誰と遊んでもかまわない。ただ、その時は出来るだけ上手に遊んでくれることを願うばかりだ」

 この場合の上手とは、『種を撒いても咲かせるな』という意味ではなく、相手を傷つけるなという意味だ。

「だろ?俺もあんたも、遊び相手はいくらでも見繕えるが――」
「完全に替えの効く相手となると、この広い宇宙でも探すのは酷く手間がかかる。こいつはこの宇宙で最高の船乗りで、私はこの宇宙で最高の戦闘機乗りだからな。だから問題無いのさ。フィナ嬢、納得したか?」

 ウォルは、呆気に取られつつも頷いた。
 そして思い出した。彼女の従弟夫婦も、お互いの恋愛については不干渉に近い立場を取りつつ、しかし夫婦としてはこの上ないと言っていいほどに仲睦まじかったことを。
 要するに、人それぞれなのだ。少なくとも自分が口を出す話ではない。
 ウォルは晴れ晴れとした顔で頷いた。
 その、無邪気で愛らしい笑顔を見てしまった女は、ウォルの肩に大きな掌を置き、

「……話は戻るが、本当にわたしが君を抱き締めてもかまわないんだな?」
「いいと言うに。大丈夫、他ならぬ俺が保証する」
「では遠慮無く」
「むぎゅぅ」

 女はウォルの身体をひょいと持ち上げ、その顔を自身の胸に埋めるようにして抱き締めた。
 確かに情熱的な抱擁ではあったが、骨が軋むということはなかった。無論折れるたりもしない。寧ろウォルは、その女性の身体の柔らかいことに驚いたくらいだった。先ほどの話から、筋肉質で固い感触を覚悟していたから驚きもひとしおだった。ただ、その豊満な乳房に顔を押し付けられて、危うく窒息しそうにはなったが。

「おい、女王。そのままじゃあ、その嬢ちゃん、気を失うぞ」

 端から見ていたその夫が、苦笑混じりに指摘する。
 女は、はっとして、その力を緩めた。
 すると、ぷはぁ、と間の抜けた声を発して、胸の谷間から自分を見上げる、黒い瞳を見つけるのだ。
 女は、たまらないふうに、声を震わせた。

「海賊、どうしよう。わたし、これ欲しい。持って帰りたい」
「そりゃあ無茶ってもんだ。間違いなく未成年者誘拐だぜ」
「やはりそうか……犬や猫ならいくらでも出すんだが、仕方がない。残念だ。至極残念だ。こんな子が生まれるなら、息子だけじゃなくて娘も生んでおくんだった」
「今からでも頑張るかい?俺は別に構わねえぜ」
「それは嬉しい提案だが、止めておこう。今から年の離れた妹が生まれたら、兄の方が間違いなく目を回すぞ」
「そいつはいい!ちびすけの次の誕生日のプレゼントは、あいつの妹に決定だ!」

 頭の上でよく分からない会話が交わされる間、男ならば誰もが羨むかたちで窒息寸前だったウォルは目を白黒させていた。
 そして気がついたときには、カウンターの椅子以外の柔らかい何かの上に座らされていることに気がついた。
 女の、程よく弾力のある太腿の上だった。ウォルは、女にすっぽりと抱かれるかたちで、男のほうと向かい合っていた。

「で、どうだったね、女房に抱かれた感想は?」

 男がにやにやしながら聞くと、ウォルは生真面目なふうで答えた。

「柔らかかった。それに、良い匂いがした」

 男は、堪えられないというふうに爆笑した。

「そうかそうか、そいつはよかった!俺も、自慢の女房を褒めてもらって嬉しいぜ!」

 男は膝を叩いて笑った。
 そして、気を取り直したふうにして、言った。
 
「しかし、話を戻すがよ。あんたが昔は男だったとして、自分の妻が元は男だってことを知りながら、それでも永遠の愛を誓ったのか?」
「加えれば、元は男の俺を前にして、今は男のそいつも俺を妻にすると誓ってくれた。何ともありがたいことだ」

 ウォルは厳めしく腕組みをしながら、しみじみとした調子で言ったものだが、聞く方は平静ではありえない。
 同性愛とか性同一性障害とか、そういう分かりやすい話の遙か斜め上を行った、正しく奇妙奇天烈な話である。
 それを聞かされた二人は、少女の頭上で視線を交わしながら、何とも言えない表情を浮かべていた。

「……海賊。お前はことあるごとに私達の結婚を型破りだ、破天荒だと言うが……」
「上には上がいるもんだねぇ……」

 男が、元は男だった女を妻に娶り、世界を超えて今度は自分が女としてその妻の妻になる。たとえ文章にして一から読んでもわけのわからない説明を、この二人はよく理解した。
 そして女は、にこりと笑いながら、自分の膝の上にちょこんと座った可愛らしい生き物に、言った。

「では、君は、君の大切な人と再会できたわけだな」

 ウォルもまた肩越しに振り返り、満面の笑みを浮かべていた。
 女には、それが太陽が笑った顔に見えたのだ。

「ああ。誰に感謝をすればいいのやらわからんが、しかし感謝の言葉もないほどに感謝している。さしあたり、この体の持ち主の少女には一生頭が上がらんだろうなぁ」

 そこで、三人共が声を上げて笑った。
 人目を引く大柄な男女と、バニー姿の少女という三人組が談笑しているのは何とも奇妙な有様だったが、不思議と絵になった。
 三人とも、自分達が決して口外すべきではない重要な話をしていると自覚している。しかし同時に、目の前にいるのがそれを話しても問題無い人物であることも確信していた。
 何とも愉快な夜だった。
 やがて笑いを収めた男が、声を弾ませながら、

「しかし、どんだけぶっ飛んだ話でも、探してみりゃあよく似た話が転がってるもんだな。黄金狼の話を聞いたときも世の中には不思議な話があるもんだと散々驚かされたが……」
「ほう、似たような話と。それは一体どんな?」

 男は不敵に笑い、

「ま、こいつは俺の恩人から聞いたんだがよ。どうやらそいつも、男から女の身体に着替えさせられたうえで異世界とやらに迷い込んだことがあるらしい」
「ほう!それは本当か!」

 ウォルは目を輝かせた。

「それは是非聞きたいな!差し支えなければ話してくれるか!?」
「今更おあずけなんて、殺生な真似はしねえよ。聞いたところでは、そいつ、ある日突然目が覚めたら、ここじゃあない全く別の世界にいたんだとさ」

 うんうんと、ウォルは頷く。
 男も、目の前に可愛らしい少女がいて、その子が自分の話を熱心に聞いてくれるのであれば悪い気はしない。
 身振り手振りを加えて話した。気分は古代ローマかギリシアかの講釈師のそれだ。

「そしたら、目の前でいきなり戦いが始まった。方やたった一人の戦士が剣を携え、方や十人を超えるような兵士の群れがその戦士を取り囲んでいる」
「なんと卑怯な!」
「だろう?そいつもまさしく、あんたと同じことを思ったのさ。だから、たった一人の方の味方をして戦い、二人で十人の刺客を切り伏せた」
「おおっ!」

 酒の神の助けもあり、ほろ酔い加減のウォルは拳を固く握り、思わず歓声を上げた。
 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
 きっと、よくある既視感ならぬ既聴感だと思い、目で話の先を促す。

「それでも二人で十人を叩き伏せるのは楽な作業じゃないから、二人はようやく落ち着いた頃合いになって、お互いの情報を交換するんだ。だが、そこで驚くべきことが判明するんだな」
「それは一体?」
「なんと放浪の戦士にしか見えなかったその男が、王座から追われた王様だったらしいんだ。しかもそいつ、その時点でようやく自分が女になってることに気がついたらしい。なんとものんびりしたことだが、しかしそれ以上にあいつらしいぜ、まったく」
「……王座から追われた、王様?」

 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
 自分にそう言い聞かせたウォルは、おそるおそるといった調子で話の続きを促した。

「それで、その先は……?」
「まぁ俺も聞きかじった程度だからよく知らないが、紆余曲折あってその男は王座に返り咲き、憎い憎い敵の首も取ったんだと。あとは、放浪の旅に出ようとしたそいつを無理矢理王女に据えて、めでたしめでたしってやつさ」
「……」

 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと……と片付けることは、流石にのんびり屋のウォルにも出来なかった。
 ふらりとあらわれた得体の知れない少女を王女に迎えるのは、例えこの世に世界がいくつ転がっていようと自分くらいのものだという自覚が、彼女にもあったようだ。
 裏返ろうとする声をなんとか宥めつつ、ようやくの有様で呟いた。

「……その先は……国を取り返した国王は、一体どうなったのだ?」
「そっから先のことは聞いてねえな。そもそもこいつも酒の席での話だから、どこまで本当かは分からねえしな。だが、あいつが言った以上は間違いなく事実なんだろうぜ。なぁ、女王」
「ああ。彼は、そこで何物にも代え難い無二の同盟者を得たと、嬉しそうに、それ以上に寂しそうに言っていた。あの子は、そういうことについて口が裂けても嘘は言わないだろう。いや、嘘をつくことが出来ないといった方が正しいな」
「ああ、だからよ、きっと王座を取り返した後の王様も、賑やかにやりつつも最後まで幸せだったに違いねえさ。なんたってあいつは黄金狼の中の黄金狼だからな」
「意味が分からないぞ、海賊」

 黄金狼。
 考えてみれば、自分の伴侶を指し示すに、これほど相応しい呼称は他にあるだろうか。
 そう言えば、あの星で飲み明かしたあの夜、リィは言っていなかったか。この世界でも、大切な友達ができた、と。

 曰く、この宇宙で最も腕のいい宇宙船乗りである。
 曰く、この世界の常識から最も遠いところにある夫婦であるが、何故かその息子と孫は常識人である。
 曰く、一度は自分と戦い、危うく殺されるところだった。
 曰く、大柄な赤毛の妻と、漆黒の頭髪の美丈夫の二人組である――。

 確かに、先ほど彼らは言っていた。自分達は船乗りであり、戦闘機乗りであると。
 戦闘機という単語はともかく、船乗りと言った場合、ウォルにとって馴染み深いのは文字通りの海の男達の操る帆船のことである。
 しかしこの時代、この世界における船乗りとは……。

「試みに尋ねるのだが……その、あなた方の職業はひょっとして、宇宙船乗り?」

 男の方が嬉しそうに、

「さっきもそう言わなかったかい?その通り、俺もこいつも、他の何よりも船を愛する宇宙生活者さ」
「……そのお年で、お孫さんもおられて、連邦大学に通っている?」
「……なぜ君はそんなことまで知っている?」

 頭上から聞こえる声と、自分を抱き締める腕に剣呑なものが籠もったが、いっぱいいっぱいのウォルはそんなことも気がつかない。
 そして『自分はその孫の同級生です。ついでに同じ寮に住んでいます』とは流石に言えず、ウォルは最後の質問をした。

「ひょっとしてひょっとすると……卿らの名は……」
「俺はケリー。こっちがジャスミンだ」

『驚くなよ、ウォル。実はな、こっちの世界でも友達が出来たんだ!』
『友達?狼か、それとも馬か?』
『違う。でも、極めつけにぶっそうだ。ケリーとジャスミンっていうんだけど……』


 そう言っていたリィの言葉を思いだしたウォルは、目の前の怪獣夫婦の顔をまじまじと見つめ、なるほどリィの人を見る目は間違えたことは無いと、その確信を新たにした。



[6349] 第三十話:ヴァルプルギスの夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:29
「まぁ、話は分かったぜ。だがよウォル、黄金狼の知り合いのお前が、どうしてこんなところでバニーガールなんてやってんだ?」
「話せば長いのだが、聞いてくれるだろうか?」
「おお、いいぜ。幸い、今日は飲むつもりで来たからよ。酒の肴になる話なら大歓迎だ」
「……実は」



「ただ今・連邦標準時4月30日午後0時00分・契約の日時に・なりました。ただ今をもちまして・本船の所有権は・債権者であるEUFBへと移転されます。本船のクルーは・速やかに最寄りの宇宙港へと・本船を寄港させ・EUFB債権回収担当者の指示に・従ってください」

 無機質な人口音声が船内に響き渡った。
 船長室でそれを聞いたインユェは重たく溜息を吐き出した。もし手元に酒でもあれば、浴びるほどに飲んでやりたい気分だった。
 
「ったく、分かりきってることを一々言うんじゃねえ!」

 代わりに、手近にあった雑誌を、スピーカーに思い切りぶつけてやる。
 無論、そんなことで事態が好転するはずもない。
 今日が、借金の返済期限だったのだ。
 彼ら自身が作った借金ではない。亡父の古い友人だという得体の知れない男の借金を、ほとんど詐欺同然の契約で肩代わりしてしまったものである。それも、完全にインユェの独断で。
 そして今日、この船――インユェにとっては亡き父の遺品でもある長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の所有権は、EUFB――エストリア・ユニヴァーサル・フィナンシャル・バンクへと移転してしまったのだ。
 船を借金の抵当に入れるというのは、珍しいことではない。人が宇宙に飛び出す前、船が海の上を浮かぶことしか出来なかった時代も、船に対する抵当権というものは存在した。
 しかし、人が宇宙に進出し、船が宇宙空間を航行するようになってから、話はそう簡単ではなくなってしまった。宇宙という空間が一つの星の海に比べてあまりに広大であるため、抵当権の行使としての船の差し押さえが著しく難しくなってしまったのだ。具体的にいうと、借金の踏み倒しが増えた。
 それを防ぐために考えられたのが、宇宙航海には欠かせない、感応頭脳に対するロックである。
 借金の抵当に入れたとき、船の感応頭脳に専用プログラムがインストールされ、所定の日時までに借金の返済が確認できない場合、感応頭脳は最寄りの港までの航海以外、あらゆる命令を受け付けなくなる。無論、緊急事態を除いてだが。
 これは非常に有効な措置であった。一度完成された感応頭脳に対して後から手を加えるのは、アレンジャーと呼ばれる非合法な人間の手を借りなければ困難であり、その依頼料は莫大な金額になる。少なくとも、借金の利子にすら喘ぐ船乗りに捻出できる金ではない。
 また、感応頭脳が航海の必需品である以上、それを押さえられるということは逃亡その他の踏み倒し行為をそのまま防ぐということであり、船乗りの首根っこを押さえる行為でもあった。彼らは、船乗りには相応しくない絶望に満ちた足取りで近くの港まに寄港し、借金取りの足音を震えながら待つのだ。
 そして、先人のほとんどがそうであったように、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の現在の所有者であるインユェにうてる手立ては、全く無くなってしまっていた。
 死ぬ思いで赴いた前回の資源探査は、まるで幽霊星のように奇妙な星こそ発見できたものの、具体的な成果は全く無し。一文にすらならなかった。強いて言うならば、彼の姉であるメイフゥが捕まえた十匹ばかりの鹿がその成果と言えなくもない。
 雪だるま式に膨らんだ借金は、今日一日の利子の返済ですらままならないほどに大きくなっている。
 宝くじは当たらず、神は自分を見放した。
 インユェは、鉛のような溜息を吐き出した。

「……ちくしょう」

 毒づくための呟きですらがどこか力無い。
 この船は、この船だけは誰にも渡したくなかった。これは、彼らの父が残してくれた、ただ一つの遺品だというのに。
 どうしても、誰にも渡したくない。
 なのに、打つ手がない。

 ――いや、それは違うか。

 インユェは打算を働かせた。
 方法は、無いわけではないのだ。無論借金の全てを清算するのは不可能だが、次の期日を設けるための追い銭くらいならば、作ることも出来る。
 しかし、しかしその方法は――

「お坊ちゃま」

 背後から、声がかけられた。
 インユェは行儀悪く椅子を回し、声の主を見上げた。
 この船には、自分と、自分の姉以外、もう一人の人間しか乗っていない。
 新雪が如き白髪を綺麗に撫でつけた、初老の男。しかし、鍛え抜かれた体躯には老いの影はちっとも見当たらない。
 インユェら姉弟の後見人であり、この船の乗組員でもある、ヤームルという男だった。

「ヤームルか」
「さて、ついに年貢の納め時といったところですかな?」

 ヤームルは、寧ろ楽しげに言った。

「いやに楽しそうじゃねえか。そんなに、俺が苦しんでいるのが楽しいか?」

 インユェは、呪いを込めた視線でじろりと睨みつけた。今日の事態を生み出したのが自分の軽率な行動だと自覚しているための後ろ暗さもあり、どうしても険を含んだ言い方になってしまう。
 口にした瞬間に、インユェは猛烈に後悔した。怒りを向ける矛先を間違えた、その自覚があった。
 しかしヤームルは露ほども気にせず、やはり楽しげに、

「いえいえ、滅相もない。しかし、まぁ、手の足も出ないという状況が何とも昔を思い出させますな。いいではありませんか。得てして、こういう手詰まりの状況を如何に脱するかを考えることこそ一番面白いもの。山登りは、山頂に居続けることに意味は無く、登る途中と降る途中にこそ華があります故」

 髪と同じく、純白に染まった見事な口ひげをしごきながら、本当に楽しげに言うのだ。
 インユェは呆れて言葉もなかったが、なるほどそういう考え方もあるのかと思い、少しだけ肩の辺りが軽くなるのを自覚した。
 そうだ、一度手放したものはもう一度手に入れればいい。何度負けたって、最後の瞬間に勝っていればいい。
 最初から最後まで勝ち続ける必要はないし、それは不可能でもあるし、第一面白くない。
 ならば、船を手放すのは仕方がない。それで一度借金を清算してしまうべきだ。少なくとも、法外な年利の利息を支払うだけに右往左往するなんて馬鹿げている。
 しかし何事にも元手というものは必要だし、勝負には実弾が必要だ。船を売っぱらった後に手元に何も残りませんでしたでは再起の機会も巡ってこないだろう。
 インユェは決断した。

「よし、決めた。あの女の子は売り払おう」
「……はっ?」

 ヤームルが怪訝そうな顔をする。

「……あの娘、とは?そして売り払うとは一体……?」
「ほら、俺があの得体の知れないふざけた星で拾ってきた、あの娘だよ。まだ目を覚ましていないからはっきりわからないが、中々顔立ちも整ってるみたいだし、少女趣味の変態金持ちにでも売りつけりゃあそれなりの金になるぜ、きっと」
「……お坊ちゃま。難しい顔で何をお考えかと思えば、そんな馬鹿げたことを考えておいででしたか……」

 沈痛な面持ちで、ヤームルは溜息を吐き出した。

「もう二度と、そのような非道を考えなさいますな。かの少女、坊ちゃまが知恵と剣をもってもぎ取った戦利品ならばともかく、ただ森の中で拾っただけでございましょう。いわばあの少女は、親に捨てられた子犬や子猫も同然の、無力で哀れな存在。それを人非人に売り渡して資金を得るなど、世に蔓延る下賎な人攫いや人買い連中と何が違います。御館様が知れば、間違いなく嘆き悲しむでしょう」

 折角のアイデアを真っ向から否定されたインユェは、怒るというよりも寧ろ驚いた。

「いや、そうは言うがよヤームル。この船はすぐに銀行に差し押さえられちまうし、さしあたり俺達の手元に勝負金は無い。そんな状況で小難しいことは言ってられねえぜ。そりゃあ、俺だって心は痛むが、ここはあの娘に女郎小屋に入ってもらって……」
「お坊ちゃま、船やら家やらは一度売り渡しても、もう一度買い戻せばよろしい。しかし、一度売り渡した品性や魂は、誰からも買い戻す事が出来ません。そのことをお忘れ無く」
「じゃあ一体どうするっていうんだ、ヤームル。さっきから俺のアイデアにけちをつけてばっかりだけど、当然、それなりの考えがあってのことなんだよな?」

 じろりと睨みつける。
 ヤームルは、のんびりとした調子で、

「とりあえず、邪魔な感応頭脳は取り外してしまいましょう。そうすればこの船を銀行屋どもにむざむざくれてやる必要もございません」

 さらりととんでもないことを言った。
 インユェは、椅子からずり落ちそうになるのを何とか堪えた。
 そして思ったのだ。目の前の、生きた沈着冷静とでも言うべきこの男でも、血迷うことがあるのだろうかと。

「……ヤームル、お前、本気か?」
「はい、無論でございますが、何か問題でも?」
「……それで、どうやって船を動かすんだ?」

 銀行が宇宙船を担保を取るときに、まず感応頭脳を押さえるのにははっきりとした理由がある。
 この時代、長距離の航海において感応頭脳を搭載していない船はまず存在しない。あまりに危険で出来ないのだ。
 ショウ駆動機関の運用やゲートを利用した跳躍は無論のこと、目的地までの航路の算定、はては船内環境の整備など、感応頭脳のおかげで成り立っている領域というのは想像以上に広い。感応頭脳を取り外すということは、それらを全て手作業でするということだ。
 インユェには、ヤームルのやろうとしていることは完全に狂気の沙汰だと思えた。
 
「なになに、私が初めて船に乗ったときは、まだ感応頭脳など利かん坊の赤子も同然、かえって無いほうが航海は順調に行く程度のものでした。それを思えば、今更感応頭脳の一つや二つが無くなったところで別段困ることも御座いますまい」

 この言葉には、流石のインユェも言葉を無くした。
 
 ――感応頭脳なしで宇宙を飛ぶ……?

 ヤームルは事も無げに言うが、感応頭脳付きの船による航海に慣れ親しんだインユェなどに言わせれば、それは致死性の罠の張り巡らされた狭い廊下を灯り無しで歩くような、もしくは高層ビルに渡された細い鉄骨の上を目隠しして歩くような愚行であり、遠回しな自殺としか思えなかった。
 やはり、どう考えても目の前の男はとち狂ってしまったのだ。
 なんだかんだ言ってヤームルを頼りにしていたインユェは、暗澹たる気持になった。
 これはいよいよ手詰まりかと。

「まぁ、口で言っても信じていただけないでしょう。今後のことについても一応のあてがありますので、坊ちゃまは黙ってその椅子に座っていてくださればよろしい」
「いや、まて、ヤームル、考え直せ。そうだ、一人売り払って足りないなら、もう一人、辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女がいるじゃねえか。この際あいつもセットで売っぱらえば、そんな自殺行為をしなくても……」
 

 ふぅん、インユェ、てめえ、あたしのことをそんなふうに見てやがったのかぁ……

 
 ぼそりと、そんな声が聞こえた。
 地獄の底から響くような、重々しく、そして嬉しそうな呟きだった。
 インユェは、背後から聞こえるその声と、自分の顔から血の気が引いていく音を、ほとんど同時に聞いていた。
 ぎちぎちと、油の切れた機械人形のような音を発しながら首を巡らせる。
 粘い、精神性の汗がだくだくと流れ落ちていく。例え摂氏百度のサウナに一時間入れられたとしてもこれほどの汗は掻かないだろうという、いっそ見事な量の汗だ。

 そしてインユェはそこに見た。

 聳え立つ山巓のような長身。

 全てを嬲り殺す悪魔のように歪んだ目元と、全てを許す聖母のように微笑んだ口元。しかし到底隠しようもないほどに鋭い犬歯が、彼女の獣性を主張している。

 硬質な金の髪は、彼女の発する気勢によって、風に吹かれたようにゆらゆらと揺らめく。

 片方の掌でもう片方の拳を握り、ぼきぼきと盛大な音を鳴らす。それをすると指が太くなるよ、とは既に手遅れの忠告だ。

 彼女の名をメイフゥ。歴とした、インユェの双子の姉である。

 インユェは、そんな姉を見上げながら、白魚のように真っ青な顔で、金魚のようにぱくぱくと口を動かした。
 なんとか言い訳を紡ごうとしているのに、もはや何の言い訳も思い付かない、そんな様子だった。
 擦れた声で、ようやく言った。

「あ……あね、き……」
「その通りだ、チビガキ、お前の愛しい愛しいお姉さまだ」

 メイフゥはその大きな掌で、インユェの銀髪を撫で回した。
 手つきが、そろそろと優しいのがかえって恐ろしい。
 そして、物凄い猫なで声で言った。

「さてクソチビ、そんな愛しいお姉さまから、可愛い可愛い弟に質問だ。お前、さっきあたしのことを、お前の愛しいお姉さまのことを、一体何て言ったかな?」
「いえ、あの、姉さんの美貌は宇宙を超えて遙か天の国まで届きそこに住まう天使を嫉妬させ、その優しさは遠く地の底に住まう地獄の鬼ですらが感動の涙を流すと言いますか……」
「そうか、うんうん、よく分かってるじゃねえか、アホチビ。あたしも良くできた弟を持って幸せだよ。ところで――」

 頭を撫で回す掌の力が、だんだんと強くなる。
 獲物を攫う大鷲のようにインユェの頭蓋をがっしと握り、抵抗しようとする首の筋肉を無視してぐりぐりとこね回す。
 インユェは、自分の首から響くばきばきという音が、どうか頸骨の砕けた音ではありませんようにと願った。

「さっき、ちらっと聞こえた、『辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女』ってのは、当然にあたしのことじゃあないんだよなぁ……?」
「も、もちろんじゃないか、いやだなぁ、姉さんってば、あ、あははは……」

 インユェの哀しげな声が、本人の意図しないビブラートを伴って狭い船長室を満たす。
 もはや彼の首は、ボールハンドリングされるバスケットボールのようにぐるんぐるんとこね回され、果たして人間の首関節はここまで柔軟だったかとヤームルを悩ませるに十分な可動性を見せていた。
 
「当然、あたしみたいなか弱い乙女を女衒に売り渡してせこい種銭を稼ごうなんて、不埒なことも考えちゃあいねえよなぁ?」
「は、はい、もちろんです、おねえさま……」
「当然、森の中で拾った見ず知らずの女の子を変態趣味の金持ちに売り渡すなんてことを、恥ずかしげもなく言うつもりもねえよなぁ?」
「まったく、かんがえたこともございません……」

 メイフゥが手を止めたのは、インユェの回答に満足したからでも慈悲の心が働いたからでもない。
 ただ、真っ青を通り越して土気色になってきた弟の顔色を見て、これ以上彼の三半規管をいじめたら船長室に盛大な吐瀉物がまき散らされるはめになることが明らかだったからだ。
 幼い頃、何事かもわからずに、操縦席に座る父の背中を眺めた遠い日の思い出を、ゲロ塗れにするつもりはないメイフゥである。
 完全に目を回しているインユェをひょいと担ぎ上げ、言った。

「よしよしバカチビ、お前の気持ちは十分に伝わったぜ。そんな賢い弟に、優しいお姉さまのプレゼントだ。これから同じベッドの中で、お互いくんずほぐれずにしっぽりと語り合おうじゃねえか」

 当然、男女の営みという意味ではない。
 姉の開発した新関節技の実験台的な意味だ。
 インユェは、間違いなく半日の間は、自分の関節がどこまで曲がり、どこからは取り返しのつかないことになるのか、そのギリギリのラインを強制的に再確認させられるのである。人間の関節はどこまで逆方向に曲がるのか、その限界に挑戦すると言っても良い。
 完全に拷問である。
 被害者は、哀しげな、聞く者の憐れを誘う声で命乞いをした。

「た、助けてくれぇ!もうしません!もう絶対にお姉ちゃんの悪口は言いませんから殺さないでぇ!」
「何を人聞きの悪い。今からやるのは姉弟の仲を深め合う、ただのスキンシップだぜ。なぁ、ヤームル?」
「はい、その通りでございますなお嬢様。ただ、後見人たる私が申し上げるのも情け無い話ですが、お坊ちゃまには少々軟弱なところがおありのご様子。そこらへんも、その、なんですか、一切の手加減なく思い切りたたき直して頂けると、私の手間が省けます」
「おーう、まかしとけヤームル。もう二度と甘ったれたことなんて吐けないよう、徹底的に躾けてやる」
「助けてー!誰かー!殺されるー!」

 ドップラー効果を残しながら、双子の姉弟は廊下の向こうへと消えていった。
 それを見届けたヤームルは、小さな溜息を一つ吐き出し、コンソールへと身体を向けた。
 そして、誰に言うでもなく呟いた。

「はてさて、あの偏屈男はまだ性懲りもなく生きているのかな?」

 彼の脳裏に浮かんだのは、かつて星々の大海を自分と共に駆け抜けた、鮮紅色の思い出を共有する友のことだった。自分よりも一足先に船を下りたその男は、故郷で小さな酒場を開いていると風の噂に聞いたのだ。
 そして、その故郷――惑星ヴェロニカこそが、今から自分達の向かう目的地である。

「あの星の連中が恩を忘れていなければ――いや、恩を忘れるということを忘れてくれていれば、入国審査くらいはパスできるはずだが、果たしてそう上手くいくものかね?」

 自分の思考に軽くけちをつけつつ、ヤームルは猛烈な勢いでコンソールを操作した。
 完全な手動で宇宙を飛ぶのは彼にとっても久しぶりだったが、宇宙を股にかける大海賊団の水先案内人であった頃の腕は、まだまだ錆び付いていないらしかった。
 

 
 がしがしと頭を掻きながら、ウォルは目覚めた。
 重たい目覚めだった。二日酔いの朝のように、頭の奥に鈍い疼痛がある。
 思考の回転速度がいまいち上がらないのを、ウォルは自覚した。
 それでも何とか柔らかな寝台から体を起こし、ぐるりとあたりを見回す。
 すると、そこは白一色に統一された清潔な部屋だった。
 一人きりで寝ていた。
 まず、全てが夢だったのかと思った。黄金色の狼と再会したのも、少女の身体に転生したのも、救われない哀れな魂と出会ったのも。
 いや、そもそも自分が一国の王であったこと自体、妄想じみた夢だったのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、何となく自分の掌を眺めた。
 小さな、白い掌。一度だって剣を握ったことのないような――握る機会すら奪われてしまったような――真白い掌。
 
「……ああ、夢ではなかったのか……」

 それは安堵の呟きだった。
 ウォルは、改めて自分のいる部屋を確認した。
 やはり、白一色に統一された清潔な部屋であったが、その壁は、あちらの世界で一般的な、石積みのそれではない。つるりと、どこにも継ぎ目のない整ったものだった。
 見慣れない、正確に言うならば、知らない部屋だった。記憶のどこをひっくり返してもこんな部屋は知らないし、当然足を踏み入れた覚えもない。
 ならば、どうして自分はこんなところでぐうすか眠りこけていたのか。普通に考えれば自分の足でこの寝台へ入ったはずだし、違うならばそれ自体が異常である。
 これはいったいどういうことかと、ウォルは首を傾げた。
 頭の奥の疼痛は、まるで連夜の徹夜仕事の後、思うさまに惰眠を貪った朝のような按配だ。どうやら、相当に長い間眠っていたらしい。
 霞んだ目を擦りながら、ぼんやりと考える。
 
 ――はて、俺はこんなところで何をしているのだろうか?

 ようやくそのことに考えが至った。
 自分がどうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、分からない。
 いったいここはどこだろうか。見慣れない部屋。無機質で、そもそも人の住んでいる気配がない。家具も、ドアの横に置かれた古めかしい柱時計以外、何も見当たらない。
 ドアノブが付いただけの飾り気のない扉が鉄格子で出来ていれば、牢屋か何かと勘違いしてしまうような部屋だ。
 ふと自分の体が目について、何となく眺めてみる。
 袖のない、簡素な服を纏っていた。見覚えのない形状なのでその用途はいまいちわからないが、その飾り気の無さと生成の綿の色合いから、ひょっとしたら下着の類なのかも知れない。少なくとも、自分からこんな服を着た覚えは全く無い。
 確か、あの緑の星で、リィ達と別れて、山に入って……それから……。

 ――『よお、久しぶり』

 ずきり、と、目の奥が痛んだ。

「目ぇ、覚めたか?」

 いつの間にか開け放たれた扉から、女の声がした。
 大柄な女だった。
 飛び抜けて大きい、というわけではないが、いわゆる平均的な女性の体格からすれば桁外れに大きい。寝台に体を起こした姿勢のウォルなどからすれば、正しく見上げる程に大きい。
 その女が身に纏っていたのは、体のラインの浮きにくい、ゆったりとした装束だった。形状そのものは就寝時に羽織るローブなどに近いようだが、色遣いが遙かに鮮やかであり、素材もぱりっとしたものが使われている。腰帯には色取り取りの花が描かれ、なんとも愛らしい。
 ウォルが不思議そうに見ていると、その女性が、

「この服かい?」
「ああ。なんとも珍しい服だが、綺麗だ」
「紬っていうんだ。格好いいだろう」

 まんざらでもないふうで、そんなことを言った。
 確かに、女性らしい艶やかさのある服だった。
 しかし、その服の袖からの覗く女の二の腕は、引き締まっていて、そして太かった。辛うじて女性らしさを損なわないぎりぎりのラインを見極めたようなその腕は、鋼の鉄条を束ねたようであり、艶めかしいニシキヘビの胴体のようでもある。
 また、ゆったりとしたその服の下から伺える体型も、出るところは出て引っ込むところは引っ込むという、世の女性の理想のような形だ。腰帯の下の胴回りなど、抱けば折れてしまうそうな程でしかないのではないか。
 顔立ちは、既に完成された女性の美を誇っている。浅黒く灼けた肌、やや大ぶりだが形の整った鼻、色っぽく肉付きの良い唇、そしてきりりと鋭い目つき。硬質な金色の髪とも相まって、歴戦の女戦士といった風貌だ。
 だが、女性の灰褐色の瞳には、まだどこか幼さが残っている。ひょっとしたら意外に年若いのかもしれない。少女の溌剌さと女性の色香を混ぜたような、どこか妖しい雰囲気がある。
 そんな、どうにも人目を集める容姿の女性にまじまじと眺められては、流石のウォルもなかなか二の句を告げず、絞り出すような声で言った。

「え、と……すまない、どうやら混乱しているらしい。少し待ってくれ」
「あたしの名前はメイフゥだ」

 その女性は、何の気負いもなく言った。
 何ともぶっきらぼうな自己紹介だったが、その無造作さがこの女性には相応しい。竹を縦に割ったような気持ちよさがある。
 目を白黒させていたウォルだが、その頬は次第に笑みの形を作っていった。

「では、メイフゥどのと。俺はこの世界にはまだ慣れんのだが、珍しい名前だな」

 普段のウォルであれば、初対面の人間――しかも女性である――の名前を珍しいと評する無礼を口にすることはなかっただろうが、しかし今は寝起きで頭が働いていない。ウォル自身は知るべくもないのだが、彼女はこの船に運び込まれてから、丸三日も眠りこけていたのだから。
 メイフゥも、その点には深く突っこまなかった。目の前の少女に不似合いな『俺』という一人称も、『この世界にはまだ慣れん』という奇妙な言い回しにも、である。
 その代わりに、片頬だけを釣り上げたシニカルな笑みを浮かべながら、言った。

「確かに、奇妙な名前だ。字だって奇妙なんだぜ。ほら、あたしの名前はこうやって書く」

 メイフゥは手近にあったメモ用紙に、懐から取り出した筆で自分の名前を書いた。
 ウォルも初めて見る文字だ。こちらの世界でもあちらの世界でも、こういった文字は見たことがない。

「……これは、何と読むのだ」
「こっちの『美』っていう字が『メイ』、こっちの『虎』っていう字が『フゥ』。要するに美しい虎って書くのさ、あたしの名前はね。このうち片方は正解で片方は間違いだ。まったく、こんなか弱い少女の名前に虎っていう字を入れるあたり、あたしの名付け親のセンスはどっかおかしかったに違いねぇ」
「いや、なんとも貴女に相応しい名前だと思うが……」

 確かに、くすんだ金色の長髪と褐色の肌は、まるで虎の縞模様のようだったし、飢えた肉食獣のような獰猛な雰囲気もそれに近い。
 ウォルは、両方の文字が正解だと思ったのだ。
 それを聞いたメイフゥは、くすくすと、含むように笑った。
 
「一応褒め言葉だと受け取っておくぜ。ちなみに、あんたの名前は?」
「俺の名前はウォル。ウォル……あっ」

 ウォルは、自身の苦い失敗を思い出した。
 ここで自分の本名――ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインという長ったらしい名前だ――を名乗れば、もしかしたら自分の義父であるヴァレンタイン卿や、その息子であるリィに累が及ぶのではないかと思ったのだ。
 目の前にいる女性は、例えば人攫いのような卑劣な人種ではないように思える。加えて、ウォルは長年の経験から、自分の人を見る目にはそれなりの自信があった。
 しかし、何事にも用心するに如かずだ。
 自己紹介の途中で黙り込んでしまったウォルに対して、メイフゥは、機嫌のいい猫のような表情で、

「食うかい?」
 
 いつの間にか片手に乗せていた大皿を、ウォルのほうに差しだした。
 皿の上には、鮮やかな紅色の肉片と、色取り取りの香草が所狭しと並んでいた。
 どうやらある種の料理らしいのだが、これが料理だとすれば飛びきりに野趣溢れる料理だ。見る人によって豪快とも乱暴とも受け取ることができる様相である。
 ウォルが言葉を失っている前で、メイフゥは気安く皿に盛られた肉片をつまむと、口の中に放り込んだ。
 ウォルは、ゴクリと喉を鳴らした。一体いつから眠っていたのかは知らないが、喉の奥の消化器官は、今自分の中に何一つ消化するべきものが入っていないことを、グウと、間の抜けた音をもって告げた。

「……それは?」
「鹿の生肝だ」

 指先を舐めながら、メイフゥが言った。
 ウォルは、再びごくりと喉を鳴らした。
 新鮮な鹿の生肝は、正しく猟師達だけに許された特権とでも言うべき料理だった。
 時を置けば赤黒く変色し、血生臭くなって食えたものではなくなるが、仕留めたばかりの鹿から取り出した生肝は、命そのものを体現したように美しく、他のどんな料理よりも旨い。事実、国王であった時のウォルも、狩りの度にこの料理を楽しみにしていたくらいなのだから。
 ウォルは、今にも口の端から涎を流さんばかりの様子で、心底感謝しながら言った。
 
「有難い。どうにも腹が減っていたところだ」

 差しだされた大皿から出来るだけ大振りな肉片を選んで、メイフゥがしたのと同じように指先で摘み、口の中に放り込んだ。
 内蔵特有の血生臭さは、ほとんど無かった。上手に血抜きをしているのと、やはり肉そのものが新鮮なのだろう。あれほど綺麗な肉の色だったのだから、新鮮なだけでなく、余程にいいものを食べて育った鹿の肝に違いない。
 二、三度咀嚼すると、舌に絡みつくほど濃厚な肉のうまみが口中を満たした。普通、生肝といえば蕩けるような舌触りが特徴だが、この肝は驚くほどに歯応えがあり、しかし何度か噛んでいると雪のように儚くとけてしまう。
 
「――旨い」

 頬を綻ばしたウォルを見て、メイフゥは呆れたように、

「冗談のつもりだったんだが、本当に食うかね。気に入ったぜ、お前。どうだい、もう一切れ」
「いただこう」
「こいつも一緒に食ってみな。もっと旨くなる」

 メイフゥが差しだしたのは、深い緑色をした、植物の茎のようなものだった。鉛筆の芯ほどの太さで、離れていても尚爽やかな香りが鼻を刺激する。
 満面の笑みを浮かべたウォルは、それを受け取って、肉と一緒に口の中に放り込んだ。
 離れていても匂いが届くほどに香りの強い香草なのだ、口の中に入れれば、ほんの僅かに残っていた血生臭さなどたちまちどこかに消えてしまう。噛むと、弾力のある肉の歯触りと、ぱきぱきと小気味よく折れる香草の歯触りが楽しい。
 これはいい、そう思ったウォルが、調子に乗って二、三度咀嚼すると――。

「……っ!」

 鼻の奥を、つんとした痛みが襲う。
 火酒の灼けるような刺激とも唐辛子の暴力的な辛さとも違う、不思議な感覚だった。鼻の粘膜が引き攣れるような、形容し難い刺激である。
 ウォルは、思わず涙ぐんだ。
 それはメイフゥにとっても期待通りの反応だったのだろう、ウォルを眺める彼女の目にはしてやったりという悪戯げな光がある。
 やっとの思いで口の中を空にしたウォルは、涙目になって、呟くように言った

「……これは強烈だな」
「臭み消しの薬味だ。結構いけるだろ?」
「うむ、旨い。出来ればもう一つ、いただいていいだろうか?」

 今度こそ目の前の少女は根を上げるに違いないと思っていたメイフゥは、再び驚いたような顔になって、今度は呆れながら首を横に振った。
 
「気に入ってもらえたのは嬉しいんだが……ま、そろそろやめときな。何せ、あんたは丸三日も眠りこけてたんだ。空っぽの腹ん中にこんな重たいもんを詰め込んだら、吐き戻すのがオチだぜ」
「むぅ……残念だが仕方ないか」

 メイフゥの言葉に正しさを認めたウォルは、残念そうに皿に並んだ肉を眺めた。 
 まるでおあずけを言いつけられた子犬が如き、しょぼくれた顔つき。その様子を楽しげに見遣ったメイフゥは、

「まだ腹が減ってるなら、粥でも作って届けさせようか?」
「本当か?それはありがたい」

 少量の食物を入れたことでようやく動き出したウォルの胃は、ますます食べ物を欲してグウウゥと盛大な鳴き声をあげた。
 メイフゥは、目の前の少女をまじまじと眺めた。
 普通の少女であれば、腹の虫の声を聞かれれば頬の一つも赤らめそうなものだが、目の前の少女にはその様子が少しも見られない。それどころか、ぱたぱたと振られる犬の尻尾が幻視される程の喜びようで、自分の腹の虫が鳴いたことなど気がついているかも怪しい。
 苦笑いを浮かべたメイフゥは手近にあった内線を取り、

「おい、クソチビ。大至急、ミルク粥かなんかを作って、第一医務室まで持ってこい。……そうだよ、例の女の子が目を覚ましたんだ。眠り姫は大変お腹を空かせていらっしゃるらしいからな、超特急だぞ……うるせぇ!あの程度でぐずぐず言ってんじゃねえ!今度は本当にへし折るぞっ!」

 びくりとウォルの肩が跳ねるほどの勢いで、メイフゥは受話器をフックに叩き付けた。
 ウォルは、やはりこの女性の名前に『虎』の一文字が与えられていのは、決して間違いではないと確信した。
 そんなウォルの内心には気付かぬふうに、全く先ほどと変わらない笑顔のメイフゥが、言った。

「ところで、あんたの自己紹介がまだだったと思うが、一体あたしはあんたのことを何て呼んだらいいんだ?」

 そういえば、とウォルは赤面する思いだったが、やはり軽々しく本当の名前を告げるのも憚られる。もしも大切な人に迷惑が及んだとき、この世界の自分はあまりにも無力なのだから。
 数瞬の逡巡があって、ようやく口を開いたウォルは、

「ウォル。もしくは、フィナ・ヴァレンタイン。どちらも、この世界のきちんとした本名ではないのだが、どちらも間違いなく俺の名前だ。本当の名前を明らかに出来ないのは失礼な限りだが、なんとかご勘弁願えないだろうか?」

 メイフゥはしっかりと頷き、

「じゃあウォル、本当の名前とやらは気が向いたときに話してくれればいいさ。それより聞きたいんだが、お前、あんな星で一体何をやってたんだ?」
「実は――」

 そこでウォルははたと思い出した。
 一体どうして自分がこんなところにいるのか、どうやってあの星から運び出されたのか、それはわからない。
 しかし、自分は一人であの星にいたのではない。
 リィ、シェラ、ラヴィー殿……。
 きっと彼らは、気が狂わんばかりに自分のことを心配してくれているのではないだろうか……。

「すまん、メイフゥどの!悪いが電話を貸して……」
「おい、姉貴!持ってきたぞ!だいたいなぁ、あの女の子は俺が拾ったんだから、俺のものなんだ!何で俺が俺のもののために、ミルク粥を拵えてやらなきゃならねえんだよ!」

 開いた扉の向こうに、エプロン姿の少年が立っていた。
 見知らぬ、ウォルの初めて見る少年だ。
 なのに、ウォルの身体は、その少年のことを知っていた。
 心臓が、どくりと一度、嬉しそうに跳ねた。
 その時、空白に満ちた時間の中で、部屋の片隅に置かれた柱時計の時報が、重々しく響いた。
 長針と短針は、午前0時を指し示している。
 日付は変わり、5月1日。
 その日はまさしくヴァルプルギスの夜。
 生者と死者の交わる、たそかれときの祭りの日であった。

 

 ※まったくもって蛇足ですが、メイフゥさんのイメージは『鋼の錬金術師』のオリヴィエ・ミラ・アームストロング 少将。あの素晴しきお姿を褐色の肌にしたとお思い下さい。



[6349] 第三十一話:Hänsel und Gretel
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 20:03
「だから、そいつは俺のモンなんだってば!財布でも何でもそうじゃねえか、道ばたに落っこちてるモンはな、最初に拾った奴がそれを貰う権利があるんだ!」
「すまん、ヤームル殿。醤油を取ってくれんか?」
「はい、どうぞ」
「すまんな」
「なら、俺のモンを俺がどう扱おうが俺の勝手だろうが!売っぱらおうがドレイにしようが、誰にも文句の言われる筋合いじゃねえぞ!」
「お、ウォル。お前、目玉焼きには醤油派か。あたしは断然ソースだぜ」
「ソースも中々乙な味だが、少しスパイスが邪魔をするな。俺は、この、醤油とかいうものシンプルな味が一番好きだ」
「はっはっは、お嬢様方はまだまだ甘い。目玉焼きにはマヨネーズ。これこそ、至高にして究極、この世における唯一の真理と言っても過言ではありますまい」
「げっ、ヤームル、マジか!?しかも、そんなに大量に……!」
「だからな、ウォル!お前はこれから、俺のことをご主人様って呼べよ!そんで、俺の命令には絶対服従だ!……おい、聞いてんのか!」
「確かこの、『まよねーず』というものの材料も卵だと聞いているのだが……それでは味がダブってしまうのではないのか?」
「ダブるのではありません。卵とマヨネーズの相乗効果によって、より高みへと舞い上がるのです」
「お前ら、俺の話を聞けー!」
「そうか、ヤームル殿がそう仰るのなら、俺も一度……。ん、インユェ、その目玉焼きはいらんのか?なら俺が……」
「あー!俺の目玉焼きー!ウォル、てめえ、ドレイの分際でご主人様のメシに手を出すたぁ、いい度胸じゃねえか、覚悟は出来てんだろうな――」
「なんだクソチビ、腹が減ってねぇならそう言えよ。あたしがきちんと処理してやるからさ」
「おい、姉貴、それは俺の納豆――!」
「まったく、朝食は一日の動力源。それを疎かになさるとは、御館様も草葉の陰でお嘆きのことでしょう……」
「ヤームル!ふざけたこと言う前に、その塩鮭を返せ!ウォル、てめ、ほうれん草のおひたしは俺の好物、姉貴、その海苔は、待て、お前ら、ちょ、せめて味噌汁だけは残しておいてくれぇ!」

 少年の悲しげな慟哭が、狭い船室の中に響き渡り、最後に宇宙の虚無に溶けていった。



「ああ、うまかったなぁ。やっぱり、朝は納豆と味噌汁と白い飯だなぁ」

 起き抜けの腹の虫を満足させたメイフゥが、のんびりとした様子で言った。
 彼らの朝食に使われた食材は、当然、元からこの船に積んでいたものではない。何せ、この船の船員達は、冗談ではなく餓死の一歩手前だったのだから、およそ人が口に出来るものは悉く姿を消している。
 卵や米、各種調味料に、納豆の原料となる豆。それらは、途中に立ち寄った星で鹿肉と物々交換を行い手に入れたものである。この時代、物の流通には当然の如く貨幣が用いられるが、星の性格によってはまだまだ物々交換が通じる場所も、結構あるのだ。
 昨日の夜に、長い眠りから目が覚めたばかりのウォルも、旺盛な食欲を発揮して、自分のために用意された朝食を全て平らげた。そして、一度シャワーを浴びて汗を落とし、きちんと着替えた。
 ウォルは着替えの持ち合わせなどなかったので、服はメイフゥのお下がりの紬である。
 派手好きのメイフゥの例に漏れずその紬もけっこう華いだもので、淡い桜色の生地に鮮やかな紅色の花がいくつも刺繍されていた。
 古い箪笥の中から目当ての品を引っ張り出したメイフゥは、自分の腰の辺りに手を当てて、

『あたしが、こんながきんちょの時分に着てたやつだ』

 機嫌の良い顔で、ウォルに自分のお下がりを押し付け、見慣れぬ装束に戸惑うウォルに着させてやった。
 確かに、すらりとした長身のメイフゥには小さくなりすぎた紬だ。だが、今のウォルが着ると少し大きい。メイフゥには、『こりゃあ七五三だな!』と笑われてしまった。ウォルには一体何のことだか分からない。
 しかし、ウォルは初めて袖を通すこの不思議なかたちの服を結構気に入っていた。見た目に色鮮やかで意外に軽く、何より着心地が良い。
 それに、ウォルの腰まで届く癖のない黒髪と、凛とした漆黒の瞳が、華やかな色合いの紬の上で良く映えるのだ。
 メイフゥは悪意無く笑ったが、男性陣はただただ感嘆の溜息を吐き出すばかりであった。
 ぼうっとウォルを見つめるインユェをよそに、一足先に我に帰ったヤームルが、自慢の孫を褒めるかのように言った。

『よくお似合いですぞ、ウォル。この爺の目には、どこぞの姫君のように映ります。いや、あと五十年ほども若ければ、必ず声の一つもかけたでしょうに、口惜しいことです』
『うーむ、そういう褒められかたは何とも複雑だなぁ』

 ウォルは苦笑するばかりである。居候の身分、服に贅沢を言えるわけでもなし、別に嫌々着ているわけではないのだが、やはりまだ女としての自分を褒められても素直に喜ぶことができない。

『いえ、何をご謙遜なされるか、まったき事実を述べたまでのこと。お坊ちゃま、これお坊ちゃま。これほど美しい女性を目の前にして、何か一言、言うべき事があるのではありませんかな?』
『え、うん、ああ、そうだな……。ま、まあ、悪くはないと思うぜ、そういうのも』

 顔を真っ赤にしたインユェは、おそらく気の利いた台詞でも吐こうとしたのだろうが、途中でどもってしまって大したことは何も言えなかった。
 先ほどまで、自分のおかずを横取りしていたウォルに、どんな仕置きをしてやろうかと、色々と暗い妄想をしていたのに、それらが全て飛んでしまっていた。
 その様子を見たヤームルは、額に手を当てて、

『……お坊ちゃま。そのような台詞で女性の心を射止めることが出来るとお思いか。ああ、御館様であれば千の薔薇にも勝る麗句でもって女性の美を褒め称え、たちまちにその心を我が物としていたでしょうに……』
『う、うるせえ!いいだろうが、どうせこいつは俺のドレイなんだからな!俺のために綺麗でいるのだって、ドレイの義務だ!』

 もう、ヤームルは言葉も無かった。メイフゥとともに、盛大な溜息を吐き出すばかりである。
 しかし当のウォルは、まだまだ顔の赤いインユェに向けて微笑み、小犬と戯れるような気分で言った。

『そうかそうか、インユェ。俺のことを綺麗と言ってくれるのか』

 楽しげな様子で、ウォルは淡く微笑んだ。
 年頃の少年から見れば、正しく天使のような微笑みである。
 期せずして本音を漏らしてしまったインユェは、これでもかというくらいに赤くなった。もう、これ以上人の顔が赤くなるのだろうかと思わせるくらいに、真っ赤になった。
 元々色素が薄く、髪の毛ですらくすんだような銀髪の彼である。一度赤くなると目立つことこの上ない。
 二の句を告げずに固まってしまったインユェを前に、ウォルは、

『どうだろう、本当に似合っているかな?』

 手を大きく広げ、くるりと軽やかに身体を回す。すると、紬の袖がふわりと流れ、少女の癖のない黒髪がはらりと踊り、まるで異国の舞姫のように可憐で華やかだ。
 言葉を失って、目の前で微笑む少女を見つめる少年。その鼻孔を、えもいわれぬ良い香りが擽った。
 遠い昔、懐かしいと美しいが同じ意味に思える程に遠い昔、誰かの胸に抱かれながら、嗅いだ香りだった。
 インユェは赤らめた顔をそのままに、俯き加減で視線を外したまま、ぼそりと呟いた。

『……うまく言えないけど、すごく似合ってる……と思う』
『ありがとう、インユェ。千の薔薇にも勝る麗句もいいが、お前のようにわかりやすく反応してくれた方が俺も嬉しいぞ』

 聞きようによってはからかっているような言葉であるが、インユェはそう受け取らなかった。
 まるで茹で蛸のように顔を赤らめたまま、部屋を飛び出してしまったのだ。
 その後ろ姿を見送りながら、ウォルは晴れ晴れとした顔で笑った。
 
『うーむ、初々しい。俺もあれくらいの時分は、女性というものが自分とは違う世界に住む、化け物か何かのように思えたものだが、なるほど、立場を違えると男というのは何とも可愛らしい生き物なのだなぁ』
『……なぁ、ヤームル。あたしは、生まれて初めてあの馬鹿に同情するぜ。こいつは、どう考えてもあいつにどうこうできる器量じゃねえよ』
『はい、その点については深く同意します、お嬢様』

 そんなことがあって、今その部屋には、ウォルとメイフゥ、そしてヤームルの三人が居る。
 それほど広くない部屋だ。落ち着いた色の壁には、白と黒の濃淡のみで描かれた山水画が掛けられ、華やかさよりも落ち着きを醸し出している。柱や扉の枠などに良い香りのする木材が多く使われ、ここにいるだけで不思議と心安らぐ。
 宇宙船の中とはとても思えない、特異な作りをした部屋だった。
 おそらくは所有者の趣味だろうが、特異だったのは部屋の作りだけではない。そこに置かれている家具もまた、ウォルの初めて目にするものばかりである。
 部屋の中央には脚の短い机――彼らの故郷ではちゃぶ台と呼ぶらしい――が置かれている。その上に布団が掛けられ、中には電熱器の優しい熱が籠もっている。
 コタツというものだそうだ。
 メイフゥのお下がりの紬を纏ったウォルは、干し草で織られた絨毯――これは畳といったか――に直接座り、コタツの中に足を突っこんでいた。少し肌寒いくらいの室温と相まって、爪先からほんわりと暖めてくれるコタツの熱が何よりもありがたい。
 狭いコタツの中に三人分の足が押し込まれているから、少し身動ぎすれば誰かの足にぶつかる。離れようとすれば、反対側の足にぶつかる。やがて、足と足が触れ合っているのが自然に感じられるようになり、何となくそのままの状態になる。すると、今度は電機の熱ではない、人の体温を暖かく感じることが出来る。その熱の、なんと心地良く、なんと安心できること。
 ああ、これはいいなぁと、ウォルは夢見心地で思った。

「如何でしたかな、ウォル。我らが故郷の朝食は?」

 ウォルの向かいで、同じようにコタツにこもったヤームルが、やはりのんびりとした調子で言った。
 普段はぴんと張った背筋も、猫のように丸くなっている。好々爺然とした表情は、膝に乗せた孫を愛でる、人好きのする老人のようですらある。
 ウォルは、遠い昔、自分が戦士として独り立ちをする前に、育ての親が自分を見る瞳が、この老人と同じふうだったことを思い出した。

「大変美味だった。あのナットウというものには驚かされたが、口にしてみれば中々味わい深い。それに、目玉焼きにまよねーずの組み合わせも乙な味だったな」
「それはそれは、ようございましたな」

 最初、腐って糸を引いている豆を食えと言われたときは、これはやはり遠回しな嫌がらせかと訝しんだのだが、メイフゥやヤームルが普通に口にしているのを見て、ウォルは恐る恐るといった有様でその異様な物体に箸をつけた。
 タレと、刻んだ野菜(ネギ)と、香辛料を練り上げたような黄色いペースト(辛子)を器の中に放り込み、腐った豆と一緒に混ぜる。すると、粘ついた糸が空気を含んでブクブクと泡立ち、形容し難い様相になる。色や臭いと相まって、まるで沼地の泥炭をかき混ぜているような気分になる。
 その時点で、ウォルはほとんど泣きそうになった。
 しかし、居候の身分で、出された食事に手もつけないなど失礼の極み。
 覚悟を決めたウォルは、毒杯を呷る心地で、その異様な物体を口に運び――

『……うまい』

 クセのある臭いも、ネギや辛子の鮮烈な香りに紛れてそれほど気にならない。
 味はと言えば、タレの中に含まれた芳醇なうまみと納豆の持つ甘さが相まって、複雑玄妙な、しかし文字通りに糸を引くうまさだ。

 ――こんなうまいものを独り占めするのは申し訳ない。帰ったら、是非、リィやシェラにも食べさせてやろう。

 ウォルは内心でそんなことを呟き、少女には些か似つかわしくない邪悪な微笑みを浮かべた。
 他の料理も、ウォルの初めて口にするものがほとんどであった。唯一口に馴染んだ料理といえば卵をそのまま焼いたシンプルなものがそうだったが、『目玉焼き』というネーミングセンスには首を捻らざるを得ないウォルであった。
 そして、食事を終えたウォルは、自分の『拾い主』一行と一緒にコタツで温もり、食後のお茶を楽しんでいたりするのだ。

「ところでウォルよう。お前、なんであんな星にいたんだ?」

 薫り高い緑茶を啜ったメイフゥが、満足の吐息とともに、そんなことを言った。
 彼女の金に輝く硬質な髪は綺麗に結い上げられ、ちらりと項が覗いている。僅かにはだけた紬の胸元と相まって、何とも色っぽい有様だ。
 果たしてこれが本当に自分と同年代の少女なのだろうかと、ウォルは訝しんだ。決して羨んだわけではない。
 ウォルは少し考えてから、正直に答えた。

「大切な友人と、少しばかり昔話をするために、遊びに行っていた」
「遊びに行ってたって、ウォルよう。お前、あの星がどんな星か、知ってんのか?」

 メイフゥは疑わしげな声を隠そうともしなかった。
 この広い共和宇宙に、今ではどれだけ残っているのかすら定かではない、第一級の居住用未登録惑星。それも、巨大な惑星の全方位に高価な電波吸収パネルを張り巡らせているなど、正気の沙汰ではない。
 どう考えても、頭のねじの緩んだ金持ちの道楽である。
 そんな星に、ただ遊びに行く?では、この少女はあの星の持ち主の関係者なのだろうか。
 だが、ウォルはこの世界に来てまだまだ日が浅い。何が正常で何が異常なのかなど、分かるはずもない。
 ウォルにしてみれば、夜空に浮かぶ数多の星々を駆け巡って野遊びに行くなど、それ自体が常識の範疇から大きく逸脱している。ならば、その星がどういったものなのかなど、考えが及ぶはずもない。
 だから、ウォルはメイフゥの質問の意図するところが分からずに、不思議そうに目を丸くして、首を横に振ってみせた。
 メイフゥは事の真偽を量るようにウォルの瞳をじっと覗き込んだが、やがて肩の力を抜き、力の無い鼻息を一つ吐き出した。

「どうやら嘘は吐いてないらしいな。くそっ、お前が頭のいかれた金持ちの愛娘とかなら、娘を助けた見返りにちっとばかしの礼金をいただくのも吝かじゃあなかったんだが」
「いや、なんというか、すまん」
「いいさ、別に悪いのはお前じゃねえからな。しかし、それならどういう伝手であの星のことを知ったんだ?一般人が容易く見つけられるような星じゃあなかったぜ、ありゃあ」
「まことに相済まん。そこらへんの事情は、俺はとんと分からんのだ」

 書類上の事実としては、あの星はウォルの伴侶でありそして婚約者でもあるリィの持ち物である。リィ自身は受け取った覚えはないので、あの星はジャスミンのものだと思っている。
 要するに、あの星の所有権――果たして惑星にそんなものが成立するのかどうかは置いておいて――が誰に属する物なのか、それ自体が非常に曖昧なのだ。だから、リィもウォルにはきちんとした説明をしていない。する必要もないことだと思っていたのかも知れない。
 
「しかし、それならウォル、お前は、その大切な友人とやらと一緒にあの星まで来てたわけだよな、当然」
「うむ。それがどうかしたか?」
「なら、これから先、そいつらとの付き合いかたは考えた方がいいぜ。あんな冬山にお前さんを一人残して自分達はさっさと帰るなんて、どう考えたって友達思いの奴のすることじゃねえだろ」
「冬山?」

 ウォルは思わず聞き返した。
 はて、本当にそうだっただろうか。
 確か、自分達が滞在したあの小屋のある地域は、初夏の気候だったはずだ。もしも季節が冬ならば、いくらリィと抱き合いながら眠ったとはいえ、風邪の一つもひいているに違いない。
 それに、蒸し風呂から出た後や翌日の湖遊びの時に、裸で泳いでいる。あのときの水温は、どう考えても冬場のそれではなかった。
 
「ちょっと待ってくれ、メイフゥどの。冬山?それに、さっさと帰ったとは一体?」
「言葉の通りさ。ウォル、あんたがグースカ寝てたのは、霜柱も降りて吐く息だって凍り付くような冬山だった。雪こそ積もっちゃあいなかったが、あと少しインユェが見つけるのが遅れれば、お前さん、危なかったんだぜ」
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿なもんかよ。だからお前さん、三日以上も意識を失ってたんだろうが。まったく、インユェからお前を渡されたときは、あまりに冷え切ってて凍った死体かと思ったぐらいなんだからな」
「……」

 ここで、ヤームルがメイフゥの言葉の後押しをした。

「ウォル、お嬢様の仰ることは事実です。確かにあの時の貴方は、普通であれば命を失うか、それとも手足の指が根刮ぎ腐り落ちる程に寒さにやられていた。今、こうして普通に会話を出来ていること自体、わたくしなどには信じ難いことです」

 ウォルは言葉を失っていた。
 あの場所、リィやシェラ、そしてルウと語り明かしたあの小屋のあった場所は、これから正しく夏の盛りを迎えようという季節だったはずだ。鮮烈な新緑も、湿り気と暑さを帯びた風も、それを教えていた。
 なのに、目の前の二人は、意識を失って倒れていた自分を、冬山の中で発見したという。
 自分を、担ごうとしているのだろうか。
 しかし、二人とも嘘を吐いているような雰囲気ではないし、こんなくだらない嘘を吐いて、年端もいかない少女が慌てふためくのを楽しむような趣味があるようにも見えない。
 第一、見ず知らずの他人である自分にそんなくだらない嘘を吐いて、一体どんな益があるというのだろうか。
 もう一度、あの日の記憶をたぐり寄せてみる。
 朝、リィと共に目覚め、シェラの手料理に舌鼓を打った。
 昼、三人と一緒に湖に行き、思うさまに遊んだ。
 そして、それから――。
 何があった。
 何か、先ほどから心の片隅に、どうしても引っかかって取れない何か……。
 掴み取ろうとする度に、するりと指先から逃げていく、霞のような何か。

『いやなに、少し確かめたいことがあってな』

 自分はそう言って、山の中に入っていった。
 それは覚えている。
 しかし、何を確かめたかったのか。
 何か、とても大切なものだった気がするのだが……。

「……い、おい、ウォル!」

 気がつけば、肩に手を置かれ、激しく揺さぶられていた。
 はっとして、顔を上げる。
 目の前には、獰猛な怒りを目の奥に讃えた、虎のような少女がいた。

「……メイフゥ、どの?」
「……ウォル。正直に言え。お前、その友達とやらに何をされた?どうして、あんな山の中で一人きりだったんだ?」
「……何、とは?」
「お前が、思い出しただけで顔を真っ青にして……涙を流さないといけないような何かをされたのかと、そう聞いているんだ」

 果たして、この少女は、一体何を言っているんだろうか。
 きょとんとした様子のウォルに、ヤームルがそっとハンカチを差し出し、腰を上げて襖の奥に姿を消した。これから先の話は、男である自分がいると話しにくくなると、そう思ったのだ。
 機械的にハンカチを受け取ったウォルは、何となく、顔を拭ってみた。
 すると、空色のハンカチは群青色に化け、少女の涙を吸ってじとりと重たくなった。

「……お前を見つけて、あたし達は周りに人がいないか、探し回ったよ。ひょっとしたら登録が済んでいないだけで、有人惑星だっていう可能性が無いわけじゃあないからな。でも、辺りに人がいた痕跡は全くなかった。建物はおろか、キャンプの跡すらもない。綺麗なもんだったぜ」
「建物が、なかった……?」

 メイフゥは頷いた。
 彼らはウォルを保護した後で、周囲100㎞ほどの範囲を入念に探索した。山の中で年端もいかない少女が意識を失って倒れていたのだから、すぐ近くに保護者なり仲間なりがいると考えたのだ。
 険しい山地であり、季節は冬である。まさか歩いて探すわけにもいかない。上空から、センサーと目視を併用した探索になった。だが、辺りに建物はなかったし、テントや宇宙船も見つからなかった。
 鬱蒼とした森であるから目標を見逃した可能性もないわけではないが、はっきりとした人工建造物があればセンサーが見逃すはずはないし、メイフゥもヤームルも、自分の視力と注意力には自信があった。普通、雪山に持ち込まれるテント等はあえて目立つ色のものが選ばれるため、濃緑一色の中であれば5キロ先でも容易に見つけることが出来ただろう。
 音声と電波による呼びかけも行った。13、4歳くらいの、黒髪の少女を保護している。思い当たる者はすぐ迎えに来い、と。
 丸一日を周囲の探索に費やし、誰かから連絡があるのではないかともう一日待った。
 しかし、当然の如く、彼らの宇宙船に対してコンタクトはなかった。
 もしも少女の関係者がこの星に残っているならば、例えば少女が宇宙漂流者の築いた未開の文明に属している等の僅少の可能性を除けば、彼女の安否を確かめる通信の一つでも入れるものである。
 それすらなかった。
 万が一に、この少女が宇宙漂流者の子孫であり、未開の文明の中に生きているとしても、周囲にそれらしい集落は全く見当たらない。
 つまり、彼女はこの星に一人、置き去りにされたのだろう。
 珍しいことではあるが、あり得ないことでない。事実、昨年だったか、数名の学生が誘拐され、未開の惑星に置き去りにされたという事件があったばかりではないか。
 何より、この少女は美しい。ひょっとすると、彼女によからぬ想いを抱く不届き者が、そのねじ曲がった欲望を遂げるために誘拐し、ことが済んだ後で事件の発覚を恐れ、この星に置き去りにしたのではないだろうか。
 そうすれば少女は行方不明として処理され、事件は闇に葬り去られただろう。訳の分からない密室を作って殺人を犯し、最後には素性の知れない探偵に暴かれてお縄になる三文ミステリー小説の犯人よりは、遙かに賢い隠蔽方法だ。
 少なくとも、今、自分達が少女をこの星に置き去りにすれば、遠からず彼女は死ぬだろう。凍えて死ぬか、飢えて死ぬか、冬眠に備える熊や狼の贄と成り果てるか。
 メイフゥ達はそう判断し、黒髪の少女――ウォルを保護したのである。

「正直に言え、ウォル。確かにあたしらは他人同士だが、袖振り合うもなんとやらって奴さ。お前が出来ないなら、あたしがその友達とやらを、親兄弟だってそいつとわからないくらいにボコボコにしてやる」

 静かだが凄みの利いた言葉で、メイフゥは言った。
 ウォルは内心で、流石にそれは難しいのではないかと思ったが、口ではこう言った。

「……お気持ちはありがたいのだが、メイフゥどの、それは勘違いだ。俺をあの星まで連れて行ってくれたのは、俺の友であり、伴侶であり、そして婚約者でもある、誇り高き狼なのだから」
「……友であり伴侶であり、婚約者で、狼ぃ?」

 それはどんな関係だ、とメイフゥは声を上げかけて、辛うじて飲み込んだ。

「――だがよ、ウォル。そいつが一体どんな野郎か、あたしは知らないが、しかしお前をたった一人であんな場所に置き去りにするなんて、とても誇り高いやつがすることとは思えないな」
「そこだ。そこが、メイフゥどのの話と俺の記憶で、どうにも噛み合わない」

 ウォルは姿勢を正し、言った。

「まず、俺達がいた山小屋は、ようやく暑さも本格的になろうかという、初夏の気候だった。裸で湖に飛び込んでも凍えることはなかったし、朝方は息も白くなるものの、外で一夜を明かして風邪をひくようなこともなかった」
「……あたしが嘘を吐いてると、そう言うつもりか?あたしらがお前を攫ってきて、これはその言い訳だと?」
「いや、そうではない。メイフゥどののお人柄からいって、こんなくだらん嘘を吐くとは思えんし、嘘を吐いて何か益があるとも思えん。第一、あなたは人を攫うなら太陽に顔を向けたまま堂々と攫い、自分こそが犯人だと胸を張る御仁だろう。なんとも奇妙な言い方ではあるが……」

 確かに奇妙な言い方ではあったが、メイフゥは大きく頷いた。
 メイフゥは、別に人攫いが悪いこととは思っていない。幼子を攫い、それを痛めつける様子を映像として親に送りつけ、恐怖と絶望を与えることで多額の金銭を巻き上げるような外道は問題外だが、例えば財布が重すぎて腰が曲がるような金持ちを自分の船に招待して、その代金と、あとは身の安全に対する受講料として少々の金をせしめる程度のことならば、十分にビジネスの一つである。
 だからこそ、目の前に座るか弱い少女(見た目だけならば間違えてはいない)を、非道にも婚約者の手から攫った犯人だなどと当の本人から疑われては、立つ瀬がなさ過ぎるというものだ。
 
「嬉しいぜ。あたしのことをよくわかってるじゃねえか、ウォル」
「だからこそ納得がいかんのだ。俺は、俺の言っていることが真実だと知っている。しかし、メイフゥどのが嘘を吐いて俺を担ごうとしているのではないことも、はっきりと分かる。それに、食い違うことはまだあるのだ。先ほど、俺が倒れていた場所の周囲に、建物はなかったと、そう言っていたな」

 メイフゥは無言で頷く。
 その灰褐色の瞳はやはり真剣で、人を騙している人間特有の後ろ暗さというものがまるでない。
 もしこれで彼女が詐欺師や人攫いの類であれば、到底自分の太刀打ちできる相手ではないなと、ウォルは思った。

「それは、やはりおかしい。俺達は、湖の畔にある山小屋に泊まっていた。あの日、俺は確かにかなりの時間山道を歩いた気はするが、しかしそれでも10カーティヴ――10キロに満たない距離だったはずだぞ」
「馬鹿なことを言うな。お前が倒れてたところから10キロ以内にある湖なんて、あたし達の船を停泊させてた湖くらいのもんだ。あの周囲には、山小屋なんて絶対に無かった。それとも、その山小屋はわざと見つけにくく、隠密用に拵えているものだったのか?」

 何の為に、と問いたくなるところではあるが、何せ星そのものを隠してしまおうという道楽者がいるのだから、いわんや小屋の一つにおいてをや、である。
 しかし、ウォルは首を横に振った。あの山小屋は、別段目立つふうに作られているわけではなかったが、逆に人目を気にするように作られているふうでもなかった。少なくとも自分ならば、山の頂から見下ろせば容易に見つけることが出来ただろう。
 
「なら、間違いなくそんなものは無かった。あたしの目と鼻と、この自慢の牙にかけて誓ってやるさ」
 
 メイフゥは口の端を指で引っかけ、人の倍ほどもある立派な犬歯を露わにしながら、言った。確かに、これほど立派な牙にかけて誓われるならば、嫌でも信じなければならないだろう。
 微笑みを浮かべかけたウォルだったが、その表情がぴたりと凍り付いた。
 今の自分の置かれた状況が、どこかで聞いた話に酷似していることに気がついたのだ。
 ずっとずっと昔に聞いた話。
 一人の少年の話だ。
 暖かな草原でうとうととしていたら、突然辺りで剣戟の音が聞こえる。たった一人で多勢に立ち向かい、剣を振るっていた青年。そいつを助けて話を聞いてみれば、ここは見たことも聞いたこともない世界。やることもないし、迎えが来るまで、目の前の愉快な男の手助けをしてみようか――。
 遠い昔、金色の毛並みをした、この世でもっとも美しい狼から聞かされた話だ。
 心臓が、どくりと一度、拍子を外して跳ね上がった。

「メイフゥどの!」

 突然声を荒げて腰を上げたウォルに、メイフゥもたじろいだ。
 たじろいだがしかし、ちゃぶ台に身を乗り出したウォルの黒い瞳に、しっかりと相対する。

「な、なんだよいきなり。何か思い出したのか?」
「……この世界の、この世界の王の名前は何と言ったか!?」
「王って、連邦主席のことかい?」
「ああ、そうだ、その方の名前だ!」
「あたしらの航海中にとんでもないスキャンダルでも巻き起こってなければ、マヌエル=シルベスタン三世がまだ務めてるはずだが……それがどうかしたかい?」
「そ、そうか……」

 ウォルは若干放心した様子で、ぺたりと座り込んだ。
 その小さな口から、安堵の溜息が漏れ出す。今自分がいるのが、己の同盟者の住む天の国であるとわかり、安心したのだ。
 何せ、40年振りに、長く家を留守にしていた妻と再会できたのだ。その上、今度はあいつを夫として迎えるべく婚約まで済ませたのだから、今更無責任に違う世界に迷い込むなど許されることではない。
 そして、人心地ついた頭で考える。
 この世界があいつの世界ならば、あいつが俺の存在に気がつかないはずがない。それに、彼の相棒であるルウの手札。リィが敵の奸計にかかり、薬をかがされて囚われの身になった時、易々とその監禁場所を特定した、予知にも似た占い。あれがあれば、今の自分の居場所も彼らには明らかなのではないか。
 三日以上も自分が眠りこけていたと聞かされて、彼らがどれほどに心配しているだろうと思い気が気でなかったウォルだが、このとき初めてルウの占いに思いが至り、少しだけ安心した。もちろんこちらからも連絡はしなければならないが、ひとまずは、と言ったところである。
 だが事実としては、ルウの占いはこの時点でウォルの死亡を伝え、リィやシェラといったウォルに親しい人間を絶望の底へとたたき落としていたのだが、それは彼女には何の責めもないことである。
 
「おい、ウォル、本当に大丈夫か?お前、さっきから少し変だぞ」

 今度はメイフゥがちゃぶ台に身を乗り出し、心配そうにウォルを覗き込んでいた。
 素面の自分を見られたウォルは、羞恥に頬を染め、しかしはっきりと微笑みながら言った。

「メイフゥどの、俺を助けてくれたこと、あらためて御礼を申し上げる。どうにも腑に落ちんこともあるが、この世は不思議なことばかりとも言うし、おおかた神隠しにでもあったのだろうさ。大丈夫、俺の友は、メイフゥの心配なさる非道を出来るような人間ではないし、俺が置き去りにされたのではない。ただ、俺が迷子になっただけのようだ」

 なんとも曖昧な言葉であった。
 メイフゥも疑わしげにウォルを見つめるが、少女の晴れ晴れとした表情のどこにも嘘を吐いている気配はない。
 眉間に皺を寄せて、溜息を一つ吐き出した。

「ま、お前さんがそう言うならそうなんだろう。しかし、家に連絡を入れるのは少し待って欲しい。この船は今、ちょっぴり厄介な宙域を飛んでいてね、恒星間通信が効かないんだ。あと一日もすれば、惑星ヴェロニカに着くだろうから、それからでもいいだろう?」
「出来んというものを無理に、と言うほど俺も道理の弁えない人間ではないつもりだ。それより、見ず知らずの俺がこの船に留まるのを、許して下さるのだろうか?」
「何を今更。あたしたち宇宙生活者はな、『困ったときはお互い様』、こいつが絶対のルールなんだよ。そうじゃないと、あんなに冷たい世界で凍えずには生きられない。だからウォルよ、いつかあたしらが困ったとき、そのときに今度の借りを返してくれ。利息はトイチにまけとくからさ」
 
 照れたようにはにかみながら、ちゃぶ台に頬杖をついたメイフゥは、そんなことを言った。
 そして、ウォルは頷いた。まさかこのときの言葉が、後になって自分の頭に兎耳をつけさせるはめになるとは露知らず、このときのウォルは確かに幸せだった。

「あと、こいつは返しとくぜ」

 メイフゥは紬の袖から何かを取り出し、ちゃぶ台の上にことりと置いた。

「……これは?」
「意識を失ってたお前さんが、大事そうに握りしめてたもんだよ。いらないなら捨てておけ」

 小振りなナイフほどの大きさのそれは、太く鋭い、獣の牙だった。
 それも、肉食獣の、いわゆる肉を噛み裂く用途に用いられる牙ではない。大きく婉曲し、その先端は三つに枝分かれをしているという、独特のものだ。
 しかし、ウォルにははっきりと見覚えのある形状だった。

「これは、あの猪の……?」

 ウォルがあの星で取り逃した、老獪な大猪。その口元から、この牙は生えていたのではないだろうか。
 それが、何故ここに……?


『生?焼く?煮る?揚げる……は無理だけど、蒸すくらいならなんとか』


 少年の、嬉しげな言葉が、聞こえた。
 それだけではない。この牙の持ち主である大猪、その肉を噛み切るときの筋張った感触や、滴る血の味までをも思い起こしていた。
 そして、猪のものではない、鉄臭くて甘い液体の味も。
 それはきっと、永遠を誓った愛情と、永遠に引き裂かれた別離の、とろけるような甘さだった。
 ウォルは、またしても目の奥がずきりと痛むのを感じて、顔に手を当てた。
 少女の肌の感触のするそこは、新しく流れ出した涙で、薄く湿り気を帯びていた。
 
「……ウォル、お前、もう少し休んだ方がいいぜ。別に今お前さんに働いてもらうつもりもないから、ヴェロニカに着くまで横になってろ」
「ああ、情け無いが、お言葉に甘えさせていただくとしよう。ところで、インユェはどこにいるのだろうか。俺を見つけてくれたのは彼だし、一度きちんと御礼をしておきたいのだが」
「ああ、あの馬鹿?あいつに礼が言いたいなら、ヴェロニカに着いた後でも十分だろう。今はゆっくり休め」

 その言葉に頷いたウォルは、自分にあてがわれた船室に引き上げた。
 やはり、まだまだ身体は休息を必要としていたのだろう。ベッドに入って間もなく、気絶するようにウォルは眠りに落ちた。
 夢は、見なかった。
 夢の世界に答えを求めたわけではないが、何とも残酷なことだと、ウォルは思った。



 結論からいえば、《スタープラチナ》号は無事に惑星ヴェロニカへと到着した。
 途中、規模の大きな宇宙嵐や、突如発生した小惑星帯に飲み込まれるなどのトラブルもあったが、天の采配か、それともヤームルの操船の腕前か、航海自体に支障をきたすような大事故に見舞われることはなかった。大揺れする船に不慣れなウォルが二、三度目を回し、船には慣れているはずのインユェが五、六回トイレに駆け込んだ程度のものである。
 スクリーンに映る惑星ヴェロニカが、はっきりと目視出来る大きさになってから、船内には緊張感が満ちた。
 何せ、この船は、実質的には他人の物になってしまっているのだ。常識的に考えてもそんな怪しい船がまともな国に入国できるはずはないし、下手をすれば不法入国の未遂として手が後ろに回ってもおかしくない。
 彼らは正規の入国航路ではなく、そのちょうど裏側、入国審査用宇宙ステーションのない箇所からの入国、そして着陸を試みた。だがそこは惑星ヴェロニカを取り巻く監視衛星のレーダー圏内であり、そのようなところから理由無く入国を試みる船があれば、ヴェロニカ軍の哨戒用軍艦が即座に駆けつけ拿捕、もしくは撃墜する手筈となっている。
 
「あとは神に祈るばかりですな」

 のんびりと言ったヤームルであったが、流石に表情は硬い。
 インユェが神経質に爪を噛んでいるのはいつものことであったが、普段は肝の太いメイフゥも、無駄口を叩くことさえなくスクリーンを注視している。ウォルも船内に満ちる緊張感から、久しぶりに戦場の空気を思い出したほどである。
 だが、彼らの心配は杞憂に終わった。
 《スタープラチナ》号は、軍艦はおろか商業船用の臨検船に見つかることもなく、無事に惑星ヴェロニカの地表に着陸した。
 モニター越しに迫る惑星ヴェロニカの地表を眺めながら、インユェは信じられないといった面持ちで呟いた。

「どうなってやがんだ、この星の警備は。これでも連邦加盟国かよ?」

 惑星ヴェロニカは、歴とした連邦加盟国だ。だからこそ、ティラ・ボーンの学生の短期留学や自然学校の開催地にも選ばれているのだし、逆に連邦大学へと学生を留学させることも出来る。
 それ故に、インユェが呆れた様子で呟いたのも無理もないことであった。
 連邦加盟国はこの宇宙に数多い。だが、逆に言うと、全ての国が連邦に加盟しているというわけではない。
 そして、連邦への加盟を望みながら未だ実現していない国の数も、驚く程に多いのだ。
 連邦に加盟するための条件は数多い。
 例えば、基本的人権に一定水準の配慮をする政府が権力を保持していること。非人道的な人体実験その他の連邦憲章に触れる違法行為に政府が荷担していないこと、テロリスト等の犯罪組織の温床になる違法な兵器の製造及び密輸入やマネーロンダリング等に荷担していないこと、数え上げればきりがない。
 『ウィノアの大虐殺』によって滅びた東西ウィノア統一政府も、経済規模から言えば共和宇宙でも屈指の実力を誇る国だったにもかかわらず、その非人道的な軍事実験から長く連邦加盟は見送られてきたという経緯がある。
 そして、それら厳しい連邦加盟条件の一つに、『海賊その他の違法行為を働く可能性を有する宇宙船舶の入国を固く禁じていること』というものがある。
 海賊行為はそれ自体が重犯罪であるのだからわざわざ特記するまでもないことのようにも思える条項だが、こういった条項を特別に設けなければならないほどに、残虐な宇宙海賊によってもたらされる被害は甚大なのだ。
 脅すのではなく、殺してから奪い取る。身代金のためではなく、人身売買の商品として女を拐かす。貴重な宇宙航路そのものを破壊し、自分達の支配する宙域を通らざるを得ないようにしてから、莫大な通行料をせしめる。一昔前の海賊には存在したはずの仁義も、一線を越えてしまった感のある現代の海賊には通用しない。
 だからこそ連邦は海賊の殲滅を一つの行動目標として掲げているし、加盟国にはその目標に対して一定の努力を要求する。それが、徹底した船舶検査及び密入国の取り締まりである。
 であれば、いくら辺境惑星とはいえ、連邦加盟国の惑星ヴェロニカであるから、それなりに厳重な警備を敷いているはずであり、またそれは事実であった。にもかかわらず不審船《スタープラチナ》号をいとも容易く入国させてしまったのだ。これではインユェでなくとも驚くはずであった。
 
「絶対におかしい。どうしてこの船だけ素通りなんだよ。何か、とんでもない罠でも張っているんじゃないか?」

 船長席に座りながら深刻な表情で考え込むインユェを、その姉は鼻で笑った。

「あほが、んなわけあるかよ。この船が、例えば伝説の海賊王の船とかなら別段、所詮はただの不審船なんだぜ。哨戒船の三隻もありゃあ簡単に撃墜ができるんだ、わざわざそんなご大層な罠に追い込む必要がどこにあるってんだ。ちったあそのミニマムな脳味噌を働かせやがれ、ケツの穴まで小せえクソチビが」
「っじゃあ、どうしてその『不審船』を、ヴェロニカの国境警備隊はこうもあっさり見逃すんだよ、ええっ!?」
「んなこと知るか、ばぁーか。どうだっていいじゃねえか。怖い怖い軍人さん達にお目こぼしいただいたんだからよ、無力な小市民のあたしはありがたく素通りさせてもらうだけさね」

 小馬鹿にするようなメイフゥの声である。
 インユェは言葉に詰まってしまった。まったくもってメイフゥの意見は正しいものだったからだ。
 偶然にせよ必然にせよ、ヴェロニカへの密入国はうまくいったのだ。ならばそのことが何故成功したかよりも、これからのことにこそ頭を悩ますべきである。
 とりあえずのところ現状では船はまだ手元にあるが、かといって借金そのものが消えて無くなったわけではない。どのようにしてそれを返済し、資源探索者として再起を図るか。考えなければならないことは山ほどある。
 その程度のことインユェも分かっているが、しかし姉の意見にそのまま頷くのは業腹であった。
 むかむかとした気持をぶつけるように、叫ぶ。

「おい、ウォル!茶だ!茶を持ってこい!」

 すると船長室の奥の方から、のんびりした声で答えが返ってくる。
 少女の声である。
 ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインの――ウォルの声であった。

「おーう、しばし待たれよ。今ちょうど湯が良い加減なのだ。もう少しすれば上手く茶葉が開いてくれる温度になるからな」

 この世界に来てから、シェラやマーガレットを見習ってお茶や料理、裁縫などにも興味を見せ始めたウォルである。
 果たしてそれが将来リィと結婚するための、花嫁修業の一環なのかどうかは本人に聞かねば分からないことだが、お茶を煎れるウォルは至って楽しそうだ。例えそれが、彼自身の世界に住む多くの人間が目を覆いたくなるような姿だったとしても。
 とにかく、鼻歌を歌いながらキッチンに立つ美少女というのは、見る者の目を楽しませるに十分過ぎる光景だった。華奢な後ろ姿に流れるような黒髪、それを飾り付ける真っ白のエプロン。少年の理想を具現化したような立ち姿である。
 一瞬ウォルに見とれていたインユェは、しかしすぐに我に返り、若干裏返った声で怒鳴った。
 
「う、ウォル、てめえ、俺が茶を飲みたいって言ったらさっさと持ってくるんだよ!もたもたしてんじゃねえ!」
「そうは言うがな、インユェよ。やはり上手に煎れてやらねば折角の茶葉が泣くぞ。お前も不味い茶よりは旨い茶のほうがよかろう?」
「だーかーら、俺が飲みたいと思った瞬間に一番旨い茶が煎れられるように準備しとけっての!このノロマ!」
「うーん、そう言われてもなぁ」

 ウォルが頭をこりこりと掻いた時、インユェの頭が盛大に鳴った。
 正しく鈍器を叩き付けるようなその音は、彼の双子の姉が振り下ろした掌によるものである。
 目から火花が散ったように錯覚したインユェは、涙の滲んだ瞳を加害者に向ける。

「ってぇな、姉貴、何しやがんだっ!」
「くっだらねえことをグチグチ喚くからだ。そんなに茶が飲みたきゃ自分で煎れるか、それともちったあ黙ってやがれ。聞いてる方がいらいらするんだよ、てめえの女みてえに甲高い声は」
「何だとぉ!誰が女みたいだって!?」
「んん、なぁんだ、その口の利き方は?こないだ、小便をチビリながら『許してお姉ちゃんっ!』って叫ばされたのを、もう忘れたかい?」
「だ、だだだ誰が小便を漏らしたよ、誰がっ!」
「てめぇだよてめぇ、ばーかばーかっ!」
「んだとぉっ!?馬鹿って言う奴が馬鹿なんだよ、この馬鹿姉貴っ!」
「そうか、ならやっぱり馬鹿はおまえじゃねえかよ、このミニマム脳味噌!」
「どぅどぅ、メイフゥどのもインユェも、少し落ち着かれよ。ヤームル殿がお困りだぞ」

 余裕と嘲弄の入り混じった笑みを浮かべて見下ろすメイフゥ、怒りと恥辱に顔を真っ赤にして姉を見上げるインユェ、二人の間に割り入って宥めるエプロン姿のウォル。ここ数日、《スタープラチナ》号の至る所で見られる光景である。
 ついこないだまで二人の喧嘩(ウォルなどにはじゃれ合いにしか見えないのだが)を止めるのはヤームルの役割だったので、一つ仕事の減ったかたちのヤームルはウォルに感謝の視線を送った。
 紬の上にエプロンを被るというアンバランスな格好をしたウォルは、その小さな唇を尖らせるようにして言った。

「メイフゥどの。いくら仲の良い姉弟同士とはいえ、弱い者いじめはよくないぞ。力のある者は、弱い者を守るためにこそ力を振るうべきだ」
「ほーい、了解いたしましたー」

 メイフゥは、小指で耳掃除をしながら気のない返事を寄越した。
 ウォルは、別に咎めたりはしなかった。
 そして、今度はもう一人の、小さいほうに向けて言った。

「インユェ。おまえはこの船の主であろう。なら、あまり小さなことにきゃんきゃん喚くのは見栄えがよろしくない。ヤームル殿が常日頃仰るように、万事もっとどっしり構えるがよかろう」
「っるせえな、そんくらい分かってんだよ!だいたい、他の二人は『殿』づけで、なんで俺だけ呼び捨てなんだ!お前は俺のドレイで、俺はお前のゴシュジンサマなんだぞ!」

 ウォルが目覚めてから、インユェはことある事にウォルの所有権を主張していた。
 確かに、森の奥で眠りこけるウォルを拾ったのはインユェである。もしもそれが見ず知らずの少女などではなくて高価な宝石などであれば、インユェの言い分も間違えてはいない。
 自分のことをドレイ扱いする少年に対して、かつて至高の冠を有する身の上だったウォルは、しかし平然として、

「そうか。それは失礼した。ではご主人様、ご主人様はこの船の主なのだから、船を信じ部下を信じ、何より己を信じて泰然自若となされよ。小事に騒いではご自身の器の底が知れるぞ?」
「ウォル、おまえまで俺のことを小さいとかぬかしやがるか――!」
「身体が小さいとは言っていないぞ。ただ、器が小さいと……」
「なお悪いわ!ドレイの分際で生意気な口を叩きやがって!躾けてやる!」

 激昂したインユェが、ウォルの着る服――メイフゥのおさがりの紬だ――の襟を掴んだ。そして、もう片方の手を平手にして振りかぶり、力一杯思い切り、ウォルの柔い頬を打った。
 否、打とうとした。
 しかし、その手は大きく空振り、いつのまにやらインユェの身体は宙でくるりと回り、盛大に床に叩き付けられていた。
 
「ああ、すまんインユェ、つい!」

 襟首を掴まれたウォルが、反射的にその手の持ち主――この場合はインユェである――を投げ飛ばしていたのだ。一連の動作は、ウォルが幼少の時代に厳しい父から護身術として叩き込まれた、いわば反射運動に近いものであったから、手加減など加える余裕がない。
 背中を強かに打ち、息を吸うことも出来ずに悶絶しているインユェを、ウォルは助け起こした。

「少し痛むぞ。……むんっ」
「――ぐぇ、げほっ、げほげほ……」

 背中に活を入れると、ようやく横隔膜に機能が戻ったのだろう、インユェは激しく咳き込んだ。
 ウォルは、彼の背中を優しくさすってやった。

「襟を掴むなど、身構えてくれと言っているようなものだ。やるならいきなり、相手が身構える暇を与えず、殴られた後に殴られたのだと気がつく、そんな拍子でやらなければな」
「うる、げほ、うるせえ……!」

 まだ苦しげなインユェであったが、自分を労るウォルの細腕を振り払い、よろよろと立ち上がった。
 
「どこへ?」
「俺の部屋だよ!ついてくんな!」
「いや、もとよりそんなつもりはないが?」

 ウォルはまったくいつもの調子で、あっさりと言った。
 いつも通りの、花が咲いたような笑顔である。

「それだけ強がりが吐けるなら、もう大丈夫だ。どこへなりと行かれるがよかろう」

 にっこりと微笑うウォルに、顔を真っ赤にしたインユェは、

「ちっくしょー!」

 涙に濡れた叫びを一つ残して、扉の向こうに消えたのだった。
 その直後、溜息が二つ漏れ出した。
 メイフゥと、ヤームルのものであった。

「すまねぇな、ウォル、愚弟が迷惑をかけた。それと、礼を言うぜ。お前があいつを投げ飛ばさずに黙って殴られたりしてたら、わたしが、顔のかたちが変わるくらいにあいつをぶん殴らなけりゃいけないところだった」
「いや、俺もまずかったからなぁ」

 思い出すのはつい先日、インユェと初めて顔を合わせた時のことだ。
 あのとき、可愛らしいエプロンを纏い、手には分厚いミトンと湯気の立つ土鍋、長い銀髪を後ろで一括りにしたインユェは、どこからどう見ても男には見えなかったのだ。
 だから、つい、言ってしまった。

『メイフゥどの。こちらは、卿の妹御か?いや、なんとも可愛らしい方ではないか』

 最初にボタンを掛け違えると、後からどう取り繕おうとしても、どこかに齟齬が生じる。この場合のウォルとインユェは正しくそれであって、インユェはウォルのことを『自分の事を馬鹿にした、得体の知れない女』と認識してしまったし、ウォルはウォルで彼のことを少女と間違えてしまった後ろめたさというものが離れない。
 どうやら年頃のインユェにとって、自分を女と間違えられるのは屈辱的なことだったらしい。ウォルの周りには、女に間違えられることに飽きてしまった少年が何人もいるから実感として理解できないのだが。
 
「なんとかしたいとは思っているのだがなぁ……」

 こういう場合、年長者から自分の非を認め、謝罪するべきだとウォルは思っている。だからこそ自分の方から積極的にインユェに話しかけたり、何かと世話を焼こうとしているのだが、見た目の年齢はインユェとさほど変わらないウォルであるから、これがまたインユェには気に入らないらしい。
 なんとも難しい年頃である。
 ウォルは気遣わしげに溜息を吐いた。
 そして、何かに気がついた表情で、

「あ、そうだ。インユェ、茶のことをすっかり忘れているぞ。あんなに飲みたがっていたのに。どうしよう、部屋まで届けてやろうかな」
「……すまん、ウォル、それは勘弁してやってくれ。いくら愚弟でも、その仕打ちは気の毒だ」
「何故?」
「武士の情けってやつだ。察してやってくれ」

 何はともあれ、一行は無事にヴェロニカ共和国へと密入国を成功させた。
 全てはこれからである。《スタープラチナ》号の乗組員達はこの星で一から再出発であり、ウォルは自分がここにいることを近しい人達に知らせ、一刻も早く彼らを安心させてやる必要がある。
 船を人目につかない山中に着陸させ、搭載していた小型のエア・カーに乗って、四人は市街へと向かった。
 運転するのはヤームルである。決して小さくはない宇宙船を険しい山地に見事着陸させた腕前は、その得物を選ばないようである。エア・カーの運転も見事なものだ。
 後部座席には、双子の姉弟が、姉のほうはふんぞり返って、弟の方はふてくされた様子でサイドガラスを眺めて、座っている。
 助手席には、ウォルが座っている。その黒い瞳は今にも輝かんばかりの有様で、フロントガラスの向こうから流れてくる景色を見つめていた。
 緑、緑、緑。
 視界に映るのは、空の青の他には地表を埋め尽くす緑のみ。それは草原の淡い緑であり、森林の濃い緑であった。
 時折赤茶けた、おそらくはこの星の地面が見える。過剰とも思える緑の中で、時折見えるその色が何とも毒々しく思えるのは、それらが補色関係にあるからだろうか。
 初めて見るその光景に、ウォルは興味津々だ。
 ちらりと横を見たヤームルが、柔らかい声で尋ねた。

「ウォル、ヴェロニカがそんなに珍しいですかな?」
「いや、確かにこの星も見事だが、この乗り物がな」

 ウォルははにかんだように微笑んだ。
 この時代、空を飛ぶ車というものは地面を走る車と同じ程度の希少価値しかない。
 要するに、別に珍しいものでもなんでもないのだ。
 しかし、この少女は、ごくごくありふれた生活用品にも、目を丸くして驚くことがままあった。まるで生まれたての子猫のように、その目に映る全てのものが面白くて堪らないらしい。
 おっかなびっくりといった様子で掃除機のスイッチを入れる少女と、直後に聞こえる吸引音に文字通り飛び上がった少女は、見る者に微笑みを与えた。
 だが、今のウォルの瞳は、物珍しさ以外の何かで輝いているらしかった。

「速いな、この乗り物は」
「本当は宇宙船のほうがずっと速いのですよ」
「ああ、それはこないだ聞いた。音よりも、ひょっとすると光よりも速く移動することができるのだと。しかし、それとこれとは違う速さだ。そんな気がする」
「違いますか」
「うん。そうだな、昔、初めて馬に跨り草原を駆けた、幼き時を思い出してしまう。あれは、本当に楽しかった。自分が風になったのだと思えた」
「それはようございますな。確かに、馬の背から眺める草の海、彼らと一体になって駆けたときの風の音、全て何事にも代え難い、素晴らしいものです」

 ウォルは、隣でハンドルを握る老人の顔を、まじまじと見つめた。

「ヤームル殿も、馬で駆けたことがおありか」
「はい。この時代では珍しいことなのでしょうが、わたくしの故郷――お坊ちゃまとお嬢様の母君の故郷でもある星は、人よりも馬や獣の数のほうが多いという場所でございました。幼き日、御館様とわたくしとで共に遠駆けし、二人して道に迷い、朝になってようやく家に辿り着いたとき、待ち構える親父殿達がどれほど恐ろしかったか……。今にして思えば親父殿達のほうがよほど恐ろしかったのでしょうが、あのときは誰も知らない土地まで逃げだそうかと、二人で真剣に話し合ったほどでございます」
「ああ、よくわかるぞ、その気持ち」

 ウォルも、幼き日は『山猿』と異名を取るほどの悪戯坊主であったから、自分の身を案じてくれた時の大人の怒りがどれほどのものか、骨身に染みている。特に、育ての親であったフェルナン伯爵と、悪友であり親友であった少年の父親であるゲオルグ小父のげんこつの痛かったことといえば、その後の人生で負った手傷など蚊に刺されたものと勘違いしてしまうほどである。
 思わず頬を綻ばせたウォルは、そういえばこの世界に来てから、一度も馬に跨っていたなかったことを思い出した。

「ヤームル殿。卿らの故郷というのは、遠いのだろうか」
「思い立てば、行けないという距離ではございませんが……如何いたしましたかな?」
「一度、行ってみたい。この世界に来てから、せっかく自由な身の上を取り戻したのだ。卿のような人を育んだ場所であれば、きっと素晴らしい場所だと思う。そこで、一度遠駆けでもしようではないか。今度は大人である卿が一緒なのだから、誰に咎められることもあるまいしな」
「そいつはいいな、ウォル。最近はおふくろの顔も見てねぇし、小金が貯まったら一度帰るとするか。ちなみにお前さん、馬は乗れるんだろうな?このチビみたいに、高い怖い降ろしてとピィピィ泣き喚かれたら堪らねえからよ」

 メイフゥは、隣に座るインユェを指さしながら言った。
 その言葉に、インユェは鼻で笑いながら、

「くっだらねぇ。あんな不便な乗り物の、どこがいいんだか。すぐに息は切れやがるし糞は垂れる、水と餌がなけりゃああっという間にくたばる。よっぽどこのエア・カーのほうが素晴らしいぜ」
「インユェ。それは違うぞ。彼らは乗り物ではない」
「じゃあ、何だってんだよ」

 ウォルは厳かに言った。

「友だ」

 一瞬目を丸くしたインユェは、直後に、蔑むように笑った。

「友?あの、気色悪い顔をした、くっせえ畜生が?くっだらねえ!」
「この世界においてはどうかは知らんが、少なくとも俺のいたところではそうだったな。ともに戦場を駆け、命を預け合うのだ。インユェ、彼らのことを単なる乗り物だとお前が思っているならば、きっと彼らはお前のことを単なる重しだとしか思っていないだろう。それでは、彼らがその背を許すはずもないぞ」
「ふん、馬なんぞ乗れなくったって困ることはねえし、頼まれたって乗ってやらねえ」

 そう言ってインユェはそっぽを向いてしまった。
 車内での会話は、それきりだった。
 しばらくすると、遙か前方に、乱立する高層ビルの群れが見えた。
 この国の、そしてこの星の首都である、ヴェロニカシティだ。空にはたくさんの物資を積んだ商船が行き交い。この距離からは小鳥が戯れているようにも見える。

「さて、わたくしは旧交を温めに参るつもりですが、皆様は如何なされますか?」
「あたしは、街をブラブラするつもりだ。あんだけ大きな街なら、ちったあ珍しいもんの一つくらいはあんだろ」

 メイフゥが言うと、ウォルがぴしっと手をあげた。

「俺も連れて行って欲しい」
「あん?金ならねえから何も買ってやれねえぞ……って、ああ、そうか」
「うむ。一刻も早くみんなに俺が無事でいることを伝えねばならん。きっと、みんな、心配しているだろうから」

 連邦加盟国であるヴェロニカからならば、その他の連邦加盟国まで易々と恒星間通信が飛ばせる。当然、連邦大学や惑星ベルトランもその中に含まれているはずだ。
 街に行けば、恒星間通信機能を備えた公衆電話があるだろうし、無ければ警察か、それに類する組織に借りるという手がある。
 
「ま、それくらいの小銭はあるさ。なんならそこらの金持ちからちょっぱってやるのもいいしな。おい、チビ。お前はどうするんだよ」
「めんどくせえ。俺は車で寝とく」
「ああ、そうかい。そんなんだからお前は大きくなれねえんだ」
「ほっとけ、でか女」

 ばしっと、頭を叩く音が聞こえたが、それきりだった。いつもなら、ここから罵り合いの口喧嘩に発展し、最後はウォルが宥めるはめになるのだが。
 どうにも、インユェの調子がおかしいようだった。ウォルに投げ飛ばされて以来、覇気というものが感じられない。
 程なくして目的地に到着したエア・カーから降りたのは、三人だけで、一人は車内に残った。
 
「では、わたくしはあちらに」

 ヤームルが指さした先には、うらびれた雰囲気のする酒屋の看板があった。
 そこで待ち合わせでもしているのだろう。

「ああ。じゃあ、日が落ちたらあたし達もあの店に行くから、待っててくれ」
「それでは、また後で落ち合いましょう。お嬢様、くれぐれも迷子になどなられませんように。そして、火遊びはほどほどになさいませ」
「了解了解」

 はて火遊びとは何かとウォルは頭を捻ったが、とにかく今はリィたちに自分の無事を知らせることが第一である。
 ずんずんと先を行くメイフゥに、慣れない服を着て小走りのウォルがついていく。遠くから見ると、まるで姉妹のようにも見える。
 
「……けっ」

 そんな二人を眺めながら、インユェは一人毒づいた。
 別に、何が気に入らないわけではない。
 ただ、気がつけばあの少女を目で追っている自分がいる。
 それが、どうにも気に食わないのだ。

「鬱陶しい。寝よ寝よ」

 座席をリクライニングさせたインユェは、ごろりと横になり、目を閉じた。
 最近は、どれだけ眠っても疲れが取れない感じがする。眠っても眠っても、眠気が取れないのだ。
 何か、夢を見ているらしい。何か、大事な夢だったような気がするのだが、起きた時には全てを忘れている。胸の奥が空っぽになったような虚無感が、なおいっそう彼を苛立たせる。
 インユェは懐から睡眠薬の錠剤を取り出し、口に放り込んで噛み砕き、それから目を閉じた。
 ぐっすりと眠れば、夢を見ることもあるまい。そう思ったのだ。
 加速度的に解体されていく思考。
 ああ、今日は夢を見なくても済むのかもしれない。


『死んじゃうよう、いかないでよう』


 どこからか、声が聞こえた。
 ちくしょう、またか、と。
 そして少年は、少女の名前を思い出す。
 獰猛に歯を剥きながら、嗚咽を堪えていた少女の顔を。
 それは彼にとってこの上ない幸福であり、その記憶を持ち帰れないことがこの上ない罰であった。



[6349] 第三十二話:おにのめになみだ
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:51
 あたしは、覚えている。
 肌を切り裂く寒風を。
 宝石を鏤めたような夜空を。
 月は、無い。
 草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く。

 あたしは、覚えている。
 遠くに聞こえる、狼の遠吠えを。
 近くに聞こえる、狼の唸り声を。
 闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れを。

 あたしは、覚えている。
 この手に握った、紅葉のように小さな掌を。
 紅葉のように暖かい、掌を。
 父の言葉を。
 メイフゥ。インユェは、身体が弱いんだ。
 だから、あいつはお前が守ってやってくれ。

 あたしは、覚えている。
 あたりはもう、とても静かで。
 暖かかったのは、ほんの一瞬だけ。
 鉄臭い液体は、冷たい風に冷やされて、容赦なく体温を奪っていく。
 ああ、早くお風呂に入りたい。
 だから、帰ろう。
 おうちに、帰ろう。
 一緒に、帰ろう。
 ねぇ、インユェ。

 ――おねえちゃん、こわい。

 あたしは、覚えている。
 弟の、怯えた瞳を。
 何も掴むことの無かった、掌を。

 ――■■■■。


「……フゥどの。メイフゥどの」

 肩を揺らされて、座席に腰掛けた少女は目を覚ました。
 ぼやけた視界に、自分を心配そうに見上げる黒い瞳を見つけた。
 
「ん……あぁ、ウォル、どうした?」
「大丈夫か?たいそう魘されていたようだが……」
「うなされて……あたしがかい?」

 回転の鈍い思考を無理矢理に立ち上げ、周囲を見回すと、そこはバスの中だった。
 座席が全て埋まり、ぽつりぽつりと立ち乗りの乗客がいる程度には混み合った車内だ。
 ヴェロニカシティの中心部へと向かうため、二人は、インユェらと別れた場所からバスに乗ったのだった。のぼり路線のバスらしく、ウォルとメイフゥが乗車したときは乗客も疎らだったのが、いつの間にか満席になっている。
 メイフゥは、いくつか奇異と憐憫の入り混じったような視線が自分に向けられていることに気がついた。
 なるほど、どうやらこの様子では、うたた寝しながら唸り声の一つでもあげてしまったのだろう。
 いつの間に眠っていたのだろうか。普段の彼女ならば、このような場所で無防備に眠りこけるなどあり得ることではないのだが。
 地表を走る乗り物のもたらす周期的な振動が眠りを誘ったのかも知れない。
 長期間に渡った航海が意外なほどに神経をすり減らしていたのかも知れない。
 だがそれらは、何の言い訳にもなりはしない。
 無様なことだと、窓枠に肘をかけたまま、メイフゥは自嘲の笑みを浮かべた。
 その拍子に、額に滲んだ脂汗が垂れ落ち、目に入った。汗の塩辛さが涙を滲ませたが、自分は泣いていなかったと言い訳するのにちょうどよかった。
 隣から依然心配そうにこちらを見つめる少女に、ひそひそ声で話しかける。

「すまん、ウォル。心配をかけた。あと、ひょっとしたら恥もかかせちまったかも知れねえな。悪かったぜ」
「それは構わんが……」
「別にたいしたことじゃないんだ。あたしにゃお馴染みの、悪い夢ってやつを見ちまっただけさね」
「悪い夢」
「ああ。昔のことを、少しな」
「何かあったのか」

 この言葉には、メイフゥが目を丸くした。

「ウォル。ここは気を利かせて、何も聞かなかった振りをするのが人付き合いってもんだぜ」

 ウォルは首を横に振った。
 どこからどうみても子供にしか見えない黒髪の少女は、

「それはそうかも知れん。しかし俺が目覚めたとき、あなたは心の底から親身になって、俺の心配をしてくれたではないか。俺のために怒ってくれたではないか。ならばメイフゥどの、あなたが苦しんでいたのに、ここで見て見ぬ振りをすることこそ人の道に悖る行いだと、俺は思う。だから何があったのか、教えて欲しい。もちろん、俺では頼りにならんかもしれんし、迷惑ならば無理にとは言わないが……」

 少し気弱な、しかし真剣な瞳でこちらを見つめながら、そんなことを言うのだ。
 息を飲んだメイフゥは、直後に大きな笑みを浮かべて、ウォルの黒髪をくしゃくしゃに撫で回した。
 撫でると呼ぶには些か情熱的すぎるそれは、ウォルの小さな頭を引っ掴んでぶんぶんと振り回すような様子だったから、ウォルは軽く目を回してしまった。

「ああ、なんて可愛らしいんだお前さんは!ちくしょう、あたしが男だったら、絶対に手籠めにしてやるのになぁ!悔しいなあ!決めた!お前、あたしの妹になれ!そんで、一緒に宇宙を旅しよう!連邦大学中等部の学生さんだかなんだか知らないが、そんな埃臭い場所に閉じこもってるよりも何倍も面白い人生ってやつをプレゼントしてやる!」
「わぷっ!め、めいふぅどの、ときとばしょをわきまえられよ……!」

 流石に声は潜めながらだったが、メイフゥはウォルを思い切り抱き締めた。
 先ほどまで苦しげに呻き声を上げていた妙齢の女性(何も知らない第三者が見ればメイフゥはそう見える)が突然に隣に座った少女(無論ウォルのことである)に抱きつき、何事かを呟いているのだから、周囲の乗客は言葉を失ってしまっていた。
 姿形こそまったく似ていないものの、共に至極美しい顔立ちであり、また同じような装束を纏っている二人組である。姉妹には見えないが、しかし無関係とも思えない。
 では何が相応しいかと言えば、同郷から観光旅行に来た親戚筋、あるいは年の離れた友人。そこらが妥当かも知れない。
 とにかく、良い意味でも悪い意味でも目立つ二人組であった。
 だが、花は美しければいいかというと、そうでもない。美しければ人に手折られることもあるだろうし、他の花の嫉妬を買う場合もあるだろう。
 当然、邪な思惑を抱いた害虫もたかるのである。

「あの、大丈夫ですか?先ほどは酷く魘されていたようですが……」

 まだまだウォルを抱き締めて放そうとしないメイフゥに、心配そうな声がかけられた。
 ウォルが見上げると、線の細い青年が、気遣わしげに、そして遠慮がちにこちらを覗き込んでいるではないか。脇に抱えた小さなバッグや勤め人とも思えないカジュアルな出で立ちから、大学生か、それともどこぞの研究所の研究員か、そんな感じだ。
 普通に見れば、突然に気分を悪くした婦人に対して気を使う親切な青年といったところなのだが、ウォルなどにはその青年の、高価そうな銀縁眼鏡の奥にある視線が、どうにも嫌らしいものに見えた。
 自分がこの身体を得てから、人目につく場所を歩くときに、時折向けられる視線だ。そして、男の身体の時は一度として向けられたことのない視線でもある。
 一言で言えば、こちらを欲望を吐き出すための対象として見ている、発情した男特有の脂ぎった視線であった。

「もしよろしければ、次のバス停の近くに、知人の経営している病院があります。そこで休憩されては如何でしょう」
「お心遣い、まことにありがとうございます。ただ、そこまでご心配いただかなくとも大丈夫でございます。おそらく、昼食に悪いものでも食べたのでございましょう。少し休めばこの程度」

 たおやかな、まるきり女性らしい声がウォルの耳道に響き渡った。
 ウォルは、文字通り我が耳を疑った。果たして、この典雅で美しい声は誰の喉で奏でられたものだろうかと。
 答えは、知っている。しかし、それを認めることを、全ての脳細胞が拒否しているのだ。
 唖然としたウォルを尻目に、青年と淑女の会話は交わされていく。

「失礼ですがその服、ひょっとしてこちらの生まれの方ではない?」
「はい、仰る通り、私どもは別の星の者ですが……」
「それはいけない。この星の食べ物は、体質的に受け付けない人が食べた場合、中毒を引き起こすことがあるんです。もちろん普通はそんなことはありませんし、万が一中毒を起こした場合でも普通の食あたりと変わることがないことの方が多い。しかし、ごく稀に重篤化した場合、それが原因で死に至ったケースも報告されています」
「そ……そんな恐ろしいこと!確かに、昼食はこちらの星の方々が食されるのと同じメニューをいただきましたが、誰もそのようなことは仰りませんでしたわ!」
「大丈夫、ご心配なさらずに。すぐに適切な処置を施せば大事に至ることはまずありえません。安心なさって結構です。なおのこと、病院までご一緒させてください」 
「しかし、見ず知らずの方のご好意に、そこまで甘えるわけには……」
「気兼ねすることはありませんよ。なにせ、この星は外から来られる方の落とされるお金で回っているような経済ですからね。あなたに親切にすることでこの星の評判がよくなれば僕も万々歳。ほら、誰も損をしないでしょう?」

 青年はさわやかに笑ったが、ウォルなどに言わせれば、娼館の客が馴染みの女郎に向ける笑みと大差無いものにしか見えなかった。
 誘いに乗ってのこのことついていけばどんな饗応が待っているか、考えるまでもないことである。
 些かうんざりした気分で、ウォルは口を開いた。

「メイフゥど……もがもが」
「ああ、やはり気分が……」

 心持ち顔を青ざめたメイフゥが、しなだれかかるようにしてウォルの方に身体を預けたように、見えた。
 しかしその実、メイフゥはウォルに覆い被さることで、男からは見えないよう巧みにウォルの口を塞いでいたのだ。
 そして、その耳元で囁いた。

「黙ってな、ウォル。せっかくカモがネギ背負って来てくれたんだ。これを逃す手はないぜ」

 ひひひ、と嗜虐に満ちた笑い声は、完全にいつものメイフゥのそれであったから、ウォルは安心すると同時に茫然とした。なるほど、この世には虫どもの食い物と成り果てる哀れな花もあれば、虫を食い物にする逞しい食虫植物もあるというが……。
 ウォルは人目も憚らずに思い切り溜息を吐いた。

「ああ、フィナ。フィナ。しっかりなさい。あなたも気分が悪いのですか?」
「……いえ、お姉さま。大したことはありません。ただ、ほーんの少しだけ、目眩がしただけですので」

 目眩がしたのは完全に事実であったので、出来るだけ嫌みったらしく言ってやったつもりだった。
 しかし、語調を整えメイフゥのことも姉と呼ぶあたり、ウォルも乗り気である。
 だいたい、自身が女になってから、以前よりも遙かに痴漢というものに怖気のしているウォルであるから、目の前の男がその種の悪漢であるならば灸を据えてやろうという気もしている。これでもし、この青年がただの好意で声をかけてきたのであれば、平身低頭で謝らなければならないだろうが。

「妹さんの体調もお悪いようですし……無理にとは言いませんが、やはり一度横になられた方がいいのではないでしょうか」
「……そうですわね。まことに申し訳ありませんが、ご厚情に甘えることにいたします。次の駅でよろしいのですか?」
「はい。どうやらちょうど到着したようだ。さ、肩をお貸ししましょう」

 メイフゥが立ち上がると、青年は驚いた。青ざめた顔で伏せていた女性の肩が、自分のそれよりも少し上にあったからだ。
 座っていたときからそれなりに大柄な女性ではあると思っていたが、これほどとは。自分だってそれほど小さい方ではない、むしろ男の中でも大きい部類に入るはずなのだが……。
 そんなことを考えながら肩を貸すと、やはりそこは女性である、なんとも柔らかい感触が心地良い。
 
「ああ……」
「大丈夫ですか?さ、あと少しですから……」

 ふらりと崩れる女性を支えるふりをして、腰に手を回す。
 その瞬間、青年の表情が僅かににやけたのを、ウォルは見逃さなかった。
 どうやらこれは当たりらしい。ウォルの勘も、メイフゥの猟も。
 仮病などではなくズキズキと痛み始めたこめかみを揉みほぐし、ウォルも二人の後に続いた。

「お嬢ちゃん、しっかりついてくるんだよ。あと少しだからね」
「ええ、お気遣いありがとうございます……」

 覚束ない足取りのメイフゥをバスから降ろした青年は、周囲の風景をきょろきょろと見回し、如何にも頼りなげな表情を浮かべて呟いた。

「あれ、おかしいな……確かここらへんに……」
「どうか……したのでございますか?」
「いえ、大したことではありませんので、少し待っていて下さい」

 青年は懐から携帯電話を取り出し、手慣れた様子で番号を押した。

「ああ、おじさん。こんにちは、うん、元気にしてるよ。あのさ、一つ聞きたいんだけど、おじさんの病院って、リマト通りのバス停のすぐ近くだったよね……うん……うん……えっ、一月前に場所を変えた!?いや、実は、バスで体調崩してる女性を見かけて、おじさんの病院まで連れて行こうと思ったんだけど……多分外の人みたいだから、この星の食べ物にアレルギー起こしたんじゃないかな……うん……いや、そこまでは……わかった、じゃあ少し待ってもらうよ」

 二つ折りに携帯電話を折りたたみポケットに締まってから、青年は申し訳無さそうに言った。

「すみません。もうおわかりかも知れませんが、先ほど話していた知り合いの医院――実は僕の叔父の経営する病院なのですが、ごく最近にここから別の場所に移転していたようでして」
「まぁ、そうでしたの。それは困りましたわ」

 真実困った様子で、メイフゥは言った。
 心細げな彼女を励ますように、青年は、努めて明るい声を出して言った。
 
「ただご安心ください。事情を話したところ、こちらまで車を寄越してくれるそうですので。それに乗れば、新しい医院までほんの4,5分です。あと少しの辛抱ですから、どうかこのままお待ち下さい」
「いけません、見ず知らずのわたくし共のために、そこまでお手間を取らせるわけには……」
「しかし、あなた方をバスから降ろしておいて、すみませんこちらの勘違いでしたで帰っては、僕のほうも夢見が悪い。ここは一つ、助けると思って僕の好きにさせて頂けませんか」
「でも……」
「姉さん、ここまで仰っていただいて、無碍に断るのも失礼ではないでしょうか。私達もこの星には不案内ですし、ここはこの方にお任せした方が……」
「……そうね。フィナ、ご好意に甘いさせて頂くとしましょう」

 メイフゥの言葉に青年は相好を崩し、手近にあるベンチまで二人を案内した。
 二人がベンチに腰を下ろすやいなや、遠くから排気量の大きいエンジンの音が近づいてくるのが分かった。

「ああ、来た来た」

 見るからに高級車然とした車が、三人の前に止まった。
 ドアを開けて出てきたのは、青年と同じ歳の頃の男性だった。身形のぱりっとした若者で、ほんの少しも怪しいところなど無いように見える。
 だが、メイフゥとウォルを流し見たときの視線が、どこか商品の質を確かめる仲買人めいたものであったことに、ウォルは気付いた。
 予想はしていたことであるが、類は友を呼ぶというか、ゴキブリは一匹見れば三十匹はいると思えというか。

「クラウス。君が来てくれたのか。助かったよ」
「久しぶりだねライアン。それにしても、医院の場所を間違えるだなんて君らしくもない。まったく、非常事態だったらどうするつもりだったんだ」
「耳の痛い話だが、とりあえずこちらのお嬢様方を医院まで運ぶのが先だ。すまないが、君も手を貸してくれるかな」

 クラウスと呼ばれた青年は快く頷き、顔色の優れないメイフゥを脇から支え、後部座席まで運んだ。
 ウォルは自分がそこまで演技巧者ではないと自覚していたので、ふらつく足取りを装いながら、自分の足で後部座席に乗った。
 女性陣が車に乗り込んだことを確認した青年達は、運転席と助手席に乗り込み、車を発進させた。さりげない拍子で、後部座席のドアもロックした。
 車内では、いかにも当たり障りの無い会話が、病人を刺激しない程度に交わされた。
 どの星から来たのか、何人で来たのか、親は何をしているのか。
 それらの質問に対して、メイフゥはよく答えた。

 ――私達は、共和連邦にも属していない辺境の星から参りました。ほら、この服はそこの民族衣装なんですけど、初めて見られるのではありませんか?

 ――ええ、私達姉妹二人だけですわ。音に聞こえたヴェロニカ教の寺院を、一度でいいから見たくって。

 ――両親は、私達が小さいときに身罷られました。今は、叔父夫婦のところに身を寄せております。でも、とってもよくしてくださるんですよ。

 それらの会話の途中で男達の頬がにんまりと歪んだのを、ウォルはルームミラー越しにはっきりと見た。おおかた、これなら誘拐して酷い目に合わせても問題なさそうだと思ったのかも知れない。
 しばらくすると、車は細い路地を選んで角を曲がるようになっていった。
 どんどん道は寂しくなる。

「本当にこちらの道であっているのでしょうか。どんどん街中からは離れていくような気がするのですが……」
「大丈夫です。叔父の医院は大きいので、ああいう街の中では土地が用意できなかったらしいんですよ。まったく、慌て者の叔父らしいですけどね」
「そうですか、であれば結構なのですが……」

 なお不安げなメイフゥをよそに、車はどんどん人気の無い道を進んで行く。
 最終的に止まったのは、どう見てもそこに医院が入っているとは思えない、ぼろぼろの廃ビルの前だった。

「さ、つきましたよお嬢様方。どうぞ下りて頂いて結構です」
「あの、ここに病院が……?」
「ええ、選りすぐりのスタッフ達が、あなた方に最高のサービスを提供してくれるはずです」
「でも……」

 どう考えてもおかしいではないか。病院の看板も掛かっていないし、そもそもこんな不衛生な建物に入った病院などに患者が集まろうはずもない。
 またしても何かの思い違いなのではないですか、と。
 メイフゥがそう言おうとした瞬間、ビルの入口から、粗暴な風体の男が数人、走り寄ってきた。

「あ、あの人達はなんですか!?」
「ご心配なさらず。あの格好がたまに傷ですか、それでも優秀なスタッフですので」

 クラウスはそう言って、運転席側のサイドウインドウを降ろした。

「おそいじゃねえか、クラウス。待ち侘びたぜ」
「すまんすまん、でもその分、中々の上物だろう?」
「ああ、今まででナンバーワンじゃねえか?こいつは高く売れるぜ」
「その前に俺達で味見しようぜ。金もいいがよ、最近はご無沙汰だから溜まっちまってさあ」
「お前、そういって前も一人ぶっ壊したばっかだろう!」
 
 どっと笑いが巻き起こった。
 メイフゥは、がたがたと震えている。その隣の少女は無表情で、まるで目の前で何が起こっているか分からない様子だ。
 そんな二人を見て、羊の皮を脱ぎ捨てた狼連中が、その黄ばんだ牙を見せながら醜く笑った。

「というわけだ、お嬢様方。まぁ、こいつらが最高のスタッフだっていうのは間違いじゃないんだぜ。残念なことに医療関係はからっきしだが、女を愉しませることにかけちゃあ超一流だ。なにせ、経験人数が違うからね。設備だって超一流なんだぜ。ベッド、カメラ、バイブにドラッグ、なんでもござれだ」
「今月で何人目だっけ、アホな旅行者を拉致ってくるの」
「これで五組目じゃなかったか?」
「忘れちまったよ、そんなこと。我らが女を食べること、パンをかじりワインを飲むが如しだな!」

 また下卑た笑いが巻き起こった。
 ウォルは、やれやれといった様子である。どうやら予想の最悪を極める、下種な男に捕まってしまったらしい。これで、平身低頭で謝らなければならないという未来図は消えたわけだが、それが心温まるわけでは全く無い。
 一言も口のきけない少女達を見て、男は満足げに頷くと、

「さ、我が身の不幸を嘆くのはとりあえずそこまでにして頂いて、まずは我らの城までご案内しましょう。ご自分の足で歩かれるのと、俺達に力尽くで引きずられていくのと、どっちが好みですかな?」

 最初にウォル達に声をかけてきた男が、慇懃な調子で言った。
 確か、ライアンと呼ばれていただろうか。まったくもってどうでもいいことである。どうせ偽名であろう。もしかしたらどうせ二度と会うことは無いのだから、と本名を使っている可能性もあるのだが、だからといってこんな外道の名前をわざわざ覚えておくつもりは、ウォルにもない。
 とにかく、メイフゥとウォルは覚束ない足取りで車から降り、男達に取り囲まれながら薄暗いビルの中に入っていった。
 ビルの中は酷い有様だった。酒瓶や注射器があたりに散乱し、得体の知れない酸っぱい臭いが立ちこめている。到底人の住める環境ではない。ここを住処にしている生き物がいるとすれば、それは正しくゴキブリかネズミの類だけだろう。事実、昼間だというのに薄暗い建物の中では、そこかしこから小さな生き物の這い回る音が聞こえていた。
 何回か階段を上がり、飛び降りて逃げることが出来ないくらいの高さのところになった時分、大きな部屋に辿り着いた。壁をぶち抜き、わざわざ広くしているらしい。
 天井には鉄骨が剥き出しになっており、そこに絡みつくようにしていくつかの撮影用ライトがぶら下がっている。ライトの向けられた先には特大のベッドが設えられており、その脇には鎖のついた手錠や首輪、その他用途の知れない怪しげな器具が山のように転がっている。
 その脇に、さらに男が数人いた。今二人を取り囲んでいる男と合わせれば、十人をいくら超えるほどか。

「さて、俺達は優しいからよ、選ばせてやる。どっちからだ?お姉ちゃんか?それとも妹さんからか?同時でも構わねえんだが、映像的には姉妹丼は最後の方が美味しいんだよなあ」
「なんだ、やっぱり俺達でマワしちまうのか?ボスに怒らねえかなあ」
「いいんだよ、黙っときゃバレやしねえさ。それに、ボスはクスリ漬けにした女を徹底的に壊すのも好きだからな、ばれたらそうしようぜ」
「じゃあ、一番手は俺ね」
「バカヤロウ、お前のデカいのをいきなりぶちこんじまったら、それこそ壊れちまうだろうが。ちったあ前ので懲りとけよ、このでか○○!」

 またしても哄笑が巻き起こる。
 何人かは、既に酒でも飲んでいるのだろう、顔が赤く息が酒臭い。それならましなほうで、目の焦点がおかしい連中はドラッグを打っているに違いなかった。
 ウォルは軽い目眩がした。別に男がどうとか女がどうとか、そういう議論は好まないウォルであるが、こういう連中を目の当たりにし、その吐き気のする欲望をぶつけられる身になってみると、世の女性というものに申し訳なくなってしまう彼女である。
 彼らの、耳に入れるのもおぞましい言葉にも、肩を撫で回す掌の不快な感触にも、飽きた。
 もう、心底疲れたような口調で、言った。

「あの、もうそろそろいいのではないですかな、姉さん」
「ああ、頃合いだぜ、ウォル。よく我慢したな、お姉さまが褒めてやる」
「こんなことを褒めてなどほしくはないのだがな」
「遠慮するなよ。病気とゴミ以外なら、貰えるもんはなんだって貰っておくべきだぜ」

 拳の関節を鳴らしながら獣の笑みを浮かべたメイフゥに、先ほどまでも弱々しい淑女と言った様子はどこにも無い。
 硬質な金の髪はふわりと浮きあがり、戦いを控えた獣の背の毛が逆立つ様を思い起こさせる。
 ただでさえ鋭い目つきは、目尻が更に吊り上がったことで取り返しがつかないほどに物騒なものになっているし、興奮で鼻は膨らんでいるし、にぃと微笑った口元からは犬歯、否、牙が見えている。
 どこからどう見ても、今から手籠めにされる哀れな女性という風情ではない。
 ウォルには分かる。目の前の女性は、戦士だ。それも、飛びきり勇猛で、精強で、なによりも危険な戦士である。いや、ウォルでなくとも、一度でも戦場の空気を嗅いだことのある人間であれば火を見るよりも明らかなはずだった。
 しかし、その危険物を取り囲んだ男連中には、その、簡単で重大な一事が分からなかったらしい。つまるところ、目の前いるのが獲物なのか天敵なのかを見分ける、生物が一番最初に備えるべき最も大事な感覚が抜け落ちているのだ。
 猛獣を目の前にした害虫たちは、大いに笑った。
 
「おっ、この姉ちゃん、俺達とやるつもりらしいぜ!」
「いいじゃねえか、そういう映像もマニアには受けるだろ。よし、じゃあ最初にこの姉ちゃんを押し倒した奴が一番乗りな。顔は絶対に殴るなよー、そういうのは後からでも出来るんだからなー」
「りょーかい。じゃ、お兄さんたちとあそびましょうねー!」
 
 数人の男が、メイフゥを取り囲んだ。いずれも、メイフゥと同じくらいか、それよりも大きい男ばかりであった。身体も、一応は引き締まっている。体重だけで見れば、メイフゥに倍する者もいるだろう。
 それでもメイフゥは怯まなかった。それどころか、その灰褐色の瞳は、薄暗がりの中とは思えない程にぎらぎらと輝いているのだ。
 メイフゥは無造作にウォルの方を振り返ると、言った。
 
「ウォル。そっちにいったやつは、自分で何とかしろよ」
「あいわかった。メイフゥどのは思う存分暴れるがよろしかろう」
「なにをごちゃごちゃと言ってやがる」

 一番前にいた男は、自分が幸運だと信じて疑わなかった。目の前の美女を押し倒しさえすれば、自分が一番最初にこの女を抱けるのだから。
 確かに標準よりは立派な体格をしているようだが、それでも所詮は女である。男が力尽くで覆い被されば、それをはねのけることができるとは思えない。事実、今までの獲物は全てそうであった。組み敷いた後で暴れたいだけ暴れさせてやれば、最後には大人しくなって、泣きながら喘ぎ声を上げていたのだ。
 所詮女などその程度の生き物なのだ。男の慰み者になるために生まれてきた生き物なのだ。男の情けがなくては生きていくことも出来ない弱い生き物なのだ。だから、自分達が思うさまに犯すのは神が認めた権利なのだ。
 男は、そう確信していた。
 そして、メイフゥの肩に手を置き、こちらをふり向かせようとする。
 ほら、ケンカが始まっているのに相手から目を逸らすなんて、なんて愚かなんだ。これは俺がきちんと躾けてやらなければならない。それは、俺の義務なんだ。
 男は、そう確信したまま、意識を失った。
 何が起こったか、理解は出来なかっただろう。
 それとも、カツンという、硬質な音くらいは聞こえただろうか。
 周囲からその光景を見ていた男達も、何が起きたのか分からなかった。
 ウォルだけは、分かった。はっきりと見て取った。
 男の意識を刈り取ったのは、拳の一撃だ。
 メイフゥの、素晴らしく速く、信じられないほどに重たい、振り向き様の左バックブローであった。
 空気を切り裂くような音と共に放たれたそれは、正確に男の顎を射貫いた。
 男の顎からベキリと骨の拉げる音が響き、衝撃でもって下顎が五センチほど横にスライドし、目がくるりと裏返り、そして男は無様に崩れ落ちた。
 痛いと感じるほどの暇も与えられなかったに違いない、電撃のような一撃だったのだ。

「おいおい、この程度、あのアホチビでもかわしてくれるってのに、冗談だろ?」

 呆れたように、メイフゥは呟いた。
 呟きながら、思い切り、足下に横たわった男の顔面を、その下駄で踏み抜いた。
 ぐしゃりと、小気味良く音がする。
 足の下で、絶息寸前の魚のように痙攣する男の顔を、なお下駄の底で踏み躙りながら、メイフゥは不敵に嘲笑っていた。
 その体勢のまま体重をかけてやると、ぺきぺきと、男の歯が砕ける音が聞こえた。
 メイフゥは、たまらないというふうに身体を震わせた。

「ああ、いいなあ、この音、たまらねえなあ。もっと欲しいなあ」

 ウォルでもぞくりとするほどに、艶に満ちた声だ。
 男達の中には、今、目の前の女が何をしているのかを理解できない者がいただろう。
 どうしてこの女は、男の顔を踏み躙りながら、男に抱かれたような声で啼くのか。
 それが、理解できない。
 理解できないから、怖い。
 怖いから、動けない。
 メイフゥの前の男達は、もはや蛇に睨まれた蛙も同然であった。

「おいおい、早く来ないと、お前らの、友達の、歯が、全部、無くなっちゃうよ?」

 はっとした男達が我に返ると、ごぼごぼと、泡立つような音が聞こえてくる。
 それも、倒れた男の口元から聞こえる。
 見れば、男の口の中に赤い血の池が出来ていた。
 歯が根本から砕けて、溢れ出た血が口腔に溜まり、溺れているのだった。
 その男の、魂が抜けてしまったかのように虚ろな目が、仲間に更なる恐怖を与える。
 だが、男達を縛り付けたのが恐怖であったならば、恐怖から解き放ったものもまた恐怖であった。
 我が身に差し迫った、生命の危機に対する恐怖だ。
 この女を、全員の力を合わせて今仕留めなければ、次は自分が同じ目に合わされるのだ。
 あまりに遅きに失したが、ようやく男達も目の前にいるのが猛獣の類であることに気がついたのだった。

「このくそアマぁ!」

 最初にやられた男の次にメイフゥに近かった男が、問答無用で蹴りにいった。
 格闘技の素養があるのか、それなりに形になっている。
 中段蹴りである。
 腕に当たれば女の細腕程度はへし折るだろうし、脇腹に当たれば内臓を破裂させる。
 そういう自信のある蹴りであった。
 しかし、蹴りは当たらなかった。
 蹴りが放たれ、それがメイフゥに当たる前に、メイフゥの下駄の爪先が、露わになった男の股間にめり込んでいたからだ。
 ぐちゃりと、湿った音が鳴った。

「ああ、この感触、残念だなぁ、二つとも、アウトだなぁ」
 
 感極まった声で、メイフゥが啼いた。
 意味は明らかである。男の睾丸を、二つとも潰してやったと、そういう意味だ。
 その言葉を理解するまでもなく、男は両手で股間を押さえ、その体勢のまま俯せに倒れた。
 その顔が、ウォルにも見えた。
 すごい顔だった。
 この世に、苦痛で歪んだ顔の一覧があるとすれば、その最右翼に並ぶであろう顔だ。
 大の男の顔が痛み一つでここまで歪むのだと、万人に知らしめる顔だ。
 倒れた男の股間のあたりに、赤い水たまりが出来ていた。
 小便と血の混ざった液体だった。
 次の男は、一味の中で一番大きな男だった。
 上背もメイフゥより頭一つ分ほど大きいし、緩んだ腹回りなどを考えれば体重は倍ほどもあるに違いない。
 その大男が、身体ごとぶつかってきた。
 とりあえず押し倒してしまえば煮るのも焼くのも思い通りだと考えたのだろう。
 頭から突っこんでくる大男。
 しかしその思惑は達成されなかった。
 メイフゥはその大男の頭を、無造作に片手で受け止め、そのまま地面に向けて押し潰し、押さえ込んだ。
 それだけで、大男はびくとも動けなくなってしまった。

 ――嘘だろ?

 大男は四つん這いに蹲りながら、自分の身に起きていることが信じられなかった。
 どう考えても自分の体重の半分しかない女が、どうして片手で自分を押さえ込めるというのか。
 しかも、ぶつかりに行ったときのあの感触。
 まるで大地に根を下ろした大木のように、ぴくりとも動かなかった。
 大男の額を冷や汗が濡らす前に、寒気のするような風切り音が、大男の耳をくすぐった。
 そこまでが、大男の知覚できる限界であった。
 メイフゥの膝が、大男の顔面めがけてすっ飛んでくる音だった。
 ぐしゃり、と、硬い物の拉げる音が響いた。

「えげっ」

 素っ頓狂な声を最後に、大男は完全に沈黙した。
 大男の鼻が、否、顔面の中央部分が、膝の形に、完全に陥没していた。
 ゆっくりと膝を引き抜くと、にちゃりと、糸を引く血が橋をつくった。
 メイフゥが片手を放すと、支えを失った大男の身体が、ゆっくりと崩れていった。
 俯せに倒れた大男の顔面から、放射状に血が広がる。
 到底、鼻が可愛らしく曲がった程度の出血量ではなかった。

「おお、汚ねえ、豚の血だ!」

 げらげらと腹を抱えて笑ったメイフゥは、ぴたりと止まり、それから完全に萎縮している男連中に向かって歩き出した。
 だらりと両手を下げ、散歩をするような何気ない様子で。
 それでも、もはや男達に戦う気力は残されていなかった。
 少なくとも、素手で戦う気力は、だ。

「こ、殺す!殺してやる!」
 
 調子の外れた声でそう叫んだ男は、ポケットから、細長い、長方形の物体を取り出した。
 一振りすると、中から鋭い刃が姿を見せる。
 バタフライナイフというものだろう。
 男は両手でそれを握りしめ、しきりに刃を動かして威嚇した。

「く、来るなよ、近寄ったら殺すぞ!」

 先ほどと、ニュアンスが微妙に違う脅し文句を口にしながら男が後退る。
 しかしメイフゥは、男が後退るよりも僅かに早く、前に進んでいく。
 じりじりと、距離が詰まっていく。
 まるで獲物をいたぶるような速度だ。

「く、来るなっつってんだろうが、この化けモン!」
「へぇ、ひかりもん、出すかよ。じゃあ、殺すつもりが、あるってことだよな?なら、殺されるつもりも、あるってことだよな?あたしは、お前を殺してもいいってことだよな?」
「は、はぁ?何言ってんの?意味わかんね!意味わかんね!意味わかんね!頭おかしいんじゃねえか、てめええ!」
「嬉しいぜ、だってこんなに、おなかが、ぺこぺこだ、もう、我慢ならねえ、もう、たまらねえ」
「ひ、ひぃぃぃ!?」

 先ほどまでも恍惚とした視線だったメイフゥだが、既にウォルなどから見ても様子がおかしい。
 確かに、戦場において血に狂った兵士は精神に変調を来した振る舞いをみせることがあるが、その一線を更に越えている。
 まるで、飢えた野獣のように、静かな、それでいて隠しきれない狂気を孕んだ、人以外の生き物の気配を放っている。
 リィとは違う。リィがウォルの前で初めて人を喰い殺したときも確かに人外の気配を放っていたが、それとはまた別種の生き物の気配である。
 ウォルは、ぞくりと背筋に冷たいものが走る感触を覚えた。

「く、くるな、くるな、くるなぁ!」
「だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだ。行くぞ、いま行くぞすぐ行くぞほら行くぞさあ行くぞもう行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞいくぞいくぞいくぞいくぞ」
「ひ、ひいいいいい!」

 甲高い悲鳴を上げた男の目がくるりと回り、膝から崩れ落ちるのをウォルは見た。
 極度の緊張に神経が絶えきれず、失神したものと思われた。
 まるで神の前に跪いた信者のような姿勢の男、その股間から、濃いアンモニア臭が漂ってきた。
 失禁したらしい。
 それを見たメイフゥは、拗ねたように口を尖らせた。

「なんだ、つまんないの」

 まるで、おもちゃに飽きた幼女のような口調だった。
 しかし、おもちゃはまだまだあるのだ。
 ぐるりと、首を回す。視線の先には、彼女のおもちゃが、肩を寄せ合わせて震えているのだ。
 ああ、まだまだ愉しめるのだ、と。

「次は、ピストルか?ショットガンか?マシンガンか?爆弾?装甲車?戦闘機?宇宙戦艦?なんでもいいぞ?なんでもいいから、かかって来い。あたしを退屈させるな。死ぬまで戦え。死ぬまで戦って、死ぬまで戦ったら死ね。あたしが殺してやる」

 全てを受け入れる聖母のように手を広げたメイフゥは、男連中には悪魔にしか見えなかったはずである。



「落ち着いたか?」

 水の入ったペットボトルを渡し、呆れたようにウォルは言った。
 ペットボトルを受け取ったのは、散々返り血に塗れたメイフゥである。喉の渇きを潤すと、流石に少し疲れた様子で、苦笑しながら言った。

「いやぁ、思ったよりも楽しめたな。まさかこんなにいやがるとは、正しくゴキブリの如しだ」

 彼女の灰褐色の瞳の先には、山と積まれた男達の身体がある。
 そのいずれもが重傷であった。骨が折れているか、睾丸が潰れているか、意識を失っているか。平気な顔で立ち上がれる者は一人としていないだろう。明日から、少なくとも一月の間は病院のベッドで過ごさなければならない者が過半のはずである。
 先ほどの男達の言動と、この場に残されていたいくつかの物証から、ここにたむろしていた男連中が今まで数多くの女性に非道を働いていたのは間違いない。であれば、同じ女性である(?)メイフゥから痛い目に合わされるのは因果応報ということになるはずなのだが、それにしても哀れを誘う有様であった。

 ――当然の報いとはいえ、何とも凄惨な……

 第三者のように評するウォルであるが、しかし彼女もメイフゥほどではないにせよ数多くの戦果を誇っている。
 メイフゥを相手取るのが無謀であると判断した数人の男が、ではその妹を人質に取ろうとしてウォルの元に殺到したのだ。
 何せ、見た目は中等部の、しかも低学年程度の少女のウォルである。どう考えてもこちらを相手にしたほうが賢い。
 
『おらぁ化け物!てめえの妹がどうなっても、ぶへっ!』

 しかし、相手はウォルである。どのような姿形をしていても、ウォルである。
 ここではない他の世界で、闘神バルドウの現し身と呼ばれた戦王であり、将兵なくともデルフィニア随一の剣士であった男である。
 まして、その魂が宿っているのは、現世の戦女神と呼ばれたその妻と同じ生き物の身体なのだ。見た目はどれほど可愛らしいミニカーであっても、フレームは超々硬度合金製であり、積んでいるのはドラッグレース用のモンスターエンジンである。
 素手であることを差し引いても、そこらのならず者の手に負える相手ではない。
 当然の如く、安易にウォルに矛先を違えた男達は、見た目と強さが必ずしも比例しないのだという教訓を身体に叩き込まれて、地に伏せることとなった。それにしたって血に狂ったメイフゥの相手をせざるを得なかった連中に比べれば幾分ましな結果ではあったのだろうが。
 
「ヤームル殿の言っていた『火遊びもほどほどに』とはこのことであったのだな」
「ああ、そんなこともいってたな、ヤームルのやつ。くそ、これじゃあばれちまうかな、派手に遊んだこと」

 血の染み込んだ紬を苦々しげに眺めながら、そんなことを言った。
 つまり、こういうことは初めてではないということだ。
 メイフゥは年齢のわりに成熟した外見をしているから、少し隙を見せてやればいくらでも男は釣れる。その中で、自分が遊んでもやっても問題のないごろつきを見繕い、今までの悪事のお灸を据えてやる。それが彼女の趣味なのだ。
 なんとも物騒な趣味であるが、この実力を見る分には、今まで一度だって危ない目にあったことがないのではないだろうか。街のごろつき程度が束になってかかっても、彼女の身を危険に晒すなど不可能事にしか思えない。
 しかし、それが最も危険であるということに、おそらくメイフゥは気付いていない。

 ――難儀なことだ。

 インユェとは違う意味で姉の方も厄介なのだとウォルはあらためて悟った。
 そんなウォルの内心を知って知らずか、メイフゥは返り血に塗れた自分の身体を見て、あらためて溜息を一つ吐き出した。
 ヤームルからお小言を頂くのは、この女傑をして憂鬱にさせるらしい。
 
「ま、先のことに頭を悩ませても仕方ねえな。やるべきことから片付けちまうとするか」

 よっこいしょと立ち上がったメイフゥは、倒れ伏した男共のうち、比較的傷が少ない、まだ呻き声らしきものをあげることの出来ている男の所まで歩いて行った。
 そして、髪を鷲掴みに掴んで、強引に引き起こした。
 引き起こされた男の顔は、何とも情け無い顔だった。形の良い鼻は歪み、銀縁メガネのレンズの片方は砕けてしまっている。ちらりと見えた白い前歯も、幾本か欠けているようだ。
 だが、ウォルはその顔に見覚えがあった。最初、バスの中で自分達に声をかけてきた男だ。なんという名前だったかは既に忘れてしまったが。

「おい、起きろ」
「な、なんだよ、これだけのことをやっといて、まだ何か用があるのかよ」

 口調もはっきりしている。どうやらメイフゥは、この男だけは手加減して倒したらしい。
 男は、自分が比較的無事なことについて、何か都合よく勘違いをしたのだろう、いかにも強気な口調で続けた。

「お前、こんなことをしておいてただで済むと思うなよ。俺はな、憂国ヴェロニカ聖騎士団のメンバーなんだ。調子に乗るなよ、絶対に、死んだ方がましだっていう目に遭わせてやる。生臭い肉食女め!必ず神の報いを受けさせてやるからな!」
「おお、怖え怖え。怖すぎて、元凶をもとから断ちたくなるなぁ。そうだ、その口を二度ときけなくしてやろうかなぁ。そうすりゃあ、誰が誰を殺したか、わからなくなるもんなぁ」

 男が、黙り込んだ。
 くだらないことを言っていると殺すぞというメイフゥの意志は、はっきりと伝わったらしい。
 青い顔で口をつぐんだ男に、メイフゥは優しげな声で、

「おいおい、黙り込むなよ。お前さんには聞きたいことがあるんだからさ」
「……なんだよ」
「あれだよ」

 くい、と親指で後ろを指す。
 ウォルも、そちらに視線をやる。
 部屋の隅である。
 そこには、黒い、そして四角く大きな物体が、どんと置かれていた。
 金庫であった。

「そ、それがどうした……」
「察しが悪いなぁ。ほれ、寄越せよ、鍵と暗証番号」

 メイフゥはにこやかに、手を差し出した。
 男は、見下げ果てたように笑い、

「はん!次は強盗の真似事かよ!これだから生臭共は……!」

 そこから先は言えなかった。
 メイフゥが、鼻頭を殴りつけたからだ。

「げふっ……げほっ……」
「ほら、鍵と暗証番号」
「お、俺はそんなもの知らな……!」

 もう一度、殴りつけた。

「鍵と暗証番号」
「ほ、ほんとうにしらな……!」

 もう一度。

「かーぎーとっ!あーんーしょーうーばーんーごーうっ!」
「……!」

 もう一度。
 メイフゥは、溜息を吐いた。

「あのなぁ。お前さんが、この巣のゴキブリ共のボスだってことくらい、わかってるんだ。あんまりあたしを舐めると、鼻が顔の中に埋まって、これからの一生を口で息して生きていくことになるぞ。そんなの、息苦しいだろう?今だって息苦しいはずなんだからな」

 メイフゥは、鼻血でどろどろになった男に、優しげに言い聞かせた。
 そしてもう一度殴り、言った。

「鍵と暗証番号は?」
「ごほっ、ゆ、ゆるしてくれ、あのなかにはとんでもないモンがはいってるんだ。おれやあんたの命くらい、簡単にぶっとんじまうくらいのやつさ。そんなもん持ってったって、碌なことねえぜ。あんただって死にたくないだろ、な?」
「お前さん、頭が良さそうなツラのわりに、脳味噌が可哀想だな。それともあたしが殴り過ぎちまったのか?いいか、よく聞けよ。あたしは連邦未加盟の辺境出身で、宇宙生活者だ。あんたをここで殺したって、痛くも痒くもないのさ。ひょいと逃げりゃあこの国の警察は追ってこれねえし、連邦警察はけちなちんぴらが一人死んだくらいじゃ動かない。ほら、あたしはちっとも困らない。ここまでオーケー?」

 一発殴った。

「あたしはあんたが吐くまで問答無用で殴り続けるぜ。それこそあんたが痙攣しはじめて糞小便を垂れ流しても絶対に止めねえ。死ぬまで止めねえ。そもそも、別に金庫の中身が頂けなくても、あたしが死ぬわけじゃあないんだからな。死ぬまで殴り続けてやる。ではここで問題だ。ここであたしに問答無用で殴り殺されるのと、げろった後で逃げだす算段を考えるかそれともボスとやらに精一杯言い訳してどうにか許してもらう可能性を残すのと、どっちがいい?それとも、その程度の損得勘定も働かせられないくらいに貧弱シナプスなのか?だったら生きてる価値もねえよ」

 メイフゥはからからと笑った。
 
「じゃあ、くだらねえ問答は終わりだな。そうだ、やっぱりお前さん、しゃべってもしゃべらなくてもいいぜ。あたしが勝手に殴るからさ。死ぬまで殴るからさ。気が向いたら、差し出したいモンを差し出せばいいやな」
「ちょ、まって……!」

 メイフゥは晴れ晴れとした笑顔のまま、大きく拳を振りかぶった。
 血塗れの紬の袖から覗く二の腕が、おそろしい程に太い。普段のメイフゥの倍以上はあるのではないだろうか。
 みしみしと筋肉が軋む音が聞こえてきそうな、見事に引き絞られた二の腕だった。男であっても、ここまで見事な上腕二頭筋を持つ者はそういないだろう。
 その腕に思い切り殴られれば、一体どうなってしまうのか。
 男の口を縛っていた紐の強度も、そこまでが限界だった。
 男は泣きながら脇の下に手を入れ、小さな包みを取り出した。
 逆さにして中身を取り出すと、小さな鍵と、折りたたまれたメモ用紙が出てきた。
 メイフゥはそれを受け取ると、

「最近はさ、間違えた鍵を差し込んだり暗証番号を入れたりすると、自動的にロックして、通報まで済ませてくれる便利な金庫があるらしいぜ。ま、そんなことはねえと思うが、一応聞いておく。もしお前さんがそんな姑息な真似をしても、もう一度言うが、あたしは一向に困らねえんだよ。あんたを殴り殺してこの星から逃げ出すだけだからな。さて、何か思い出すことはねえかな?」
「そ、そうだ、忘れてたよ!鍵はそっちが本物で、パスはこっちが正解だった!」

 男は、先ほどの包みを取り出したのとは逆の脇の下から、まったく同じ大きさの包みを取り出した。
 中には、やはり同じく鍵とメモ用紙が入っている。
 メイフゥは、引ったくるようにそれを奪い、最後にもう一度男の顔面を殴った。

「……かはっ……お、おい、おれはあんたのいうとおりに、かぎをわたしたじゃねえか!」
「おお、説明が足りなかったな。こいつは忘れっぽい脳味噌を活性化させる、あたしの国に四千年前から伝わるショック治療さ。もしよければもう一発いっとくかい?」
「……!」
「言っとくが、もしこれ以上あんたがド忘れしてる場合は、あたしの知りうる限りのショック療法であんたの記憶力を取り戻させてやるつもりだぜ。そこんとこはオーケー?」

 男はかくかくと首を縦に振った。メイフゥに髪を掴まれたままだったので、なんとも滑稽な様子であったが。
 男の目を覗き込んだメイフゥは、満足げに一度頷き、それから男の髪の毛を放してやった。その拍子に男はべちゃりと地面に張り付き、抜け落ちた大量の頭髪がひらひらと宙を舞った。
 メイフゥはずんずんと金庫に向かって歩を進め、その前に蹲った。

「お、おい、あんた!もう一度言うが、最初に渡した鍵と、次に渡したパスだぞ!絶対に間違えてくれるなよ!あんたが間違えて金庫がロックしても、俺は悪くねえからな!」

 だから殺してくれるなと、そういう意味だろう。
 男の悲鳴を一顧だにせず、メイフゥは金庫に鍵を差し込み、暗証番号を打ち込んだ。
 かちりと、鍵の開いた音がする。
 舌舐めずりする表情のメイフゥが分厚い鉄の扉を開けると、そこには……。



「いやぁ、大漁大漁!」

 ほくほく顔のメイフゥがハンドルを握っている。その隣にウォルが座っている。
 二人が乗っている車は、当然、彼女らの持ち物ではない。連中の車の中で、一番見栄えのいいものを奪ったのだ。
 彼女達が廃ビルに連れてこられた時と、同じ車であった。

「時給になおしたら2000万から3000万ってとこか?話に聞くクーア財閥の総帥だって、こんなに高給取りじゃないだろうさ!」

 後部座席には、どっさりと札束の入ったカバンが無造作に置かれている。アジトに置かれていた金庫の中に、詰め込まれていたものだ。
 おそらくはまともな金ではないだろう。叩けば埃どころか、被害者の血液や涙さえ滴りかねない、汚れた金である。
 到底あんな奴らに使わせるには勿体ない。こういうものは、もっと素晴らしい使われ方をするべきだ。メイフゥはそう確信している。そして自分ならば、その素晴らしい使い方が出来るのだとも確信していた。
 だから頂いたのだ。誰に恥じるつもりもない。
 そして、メイフゥがバスの中で男に声をかけられてから今まで、ほんの二時間ほどしか時間は経っていないのだ。割のいい狩りだった。メイフゥが鼻歌の一つも歌いたくなったとして、それは無理もないことであった。
 
「それに、こんなもんまで頂いちまって……!」

 メイフゥが嬉しげに弄んでいるのは、コンピュータのチップであった。
 そこにどのような情報が入っているのかは分からないが、しかしあの男が必死に守ろうとしたのはどう考えても札束ではなくこちらのほうだ。
 この中にどんな情報が入っているのか、それを使えばどれほどの金銭を生み出すことが出来るのか。
 メイフゥの頭の中は、今が春の盛りであった。響くのはホトトギスの鳴き声ではなくソロバンを弾く音であり、舞い散るのは桜ではなく紙幣の吹雪であったが。

「それもこれもお前のおかげだな、ウォル!お前がバスの中でタイミングよくあたしを起こしてくれたから、あの野郎が上手いこと釣れたんだ!半分はお前の分け前だぜ、ウォル!」
「……俺はいらん、そんな金」

 ウォルは、不機嫌を隠そうともせずに、言った。
 メイフゥは、驚いたりはしなかった。寧ろそれが当然であるとすら思った。

「何だよウォル、まだ怒ってんのか。別にいいじゃねえか、げす野郎に肩を撫で回されたくらいよう。野良犬に舐められたとでも思って忘れろよ」
「そんなことに腹を立てているのではないことくらい、メイフゥどのなら分かっているはずだが?」

 視線も寄越さずに、ぴしりとした調子で言った。
 
「悪漢にきつい灸を据えるのはいい。少しやりすぎな気もするが、相手が相手だ、十分に許容の範囲内だろう。しかし、その金を奪うまでしては、奴らのしていることと何が違うというのだ。だいたい、その金は奴らが非道をして、哀れな女性達を売り飛ばすことで作った金だろう。それをメイフゥどのは、気持ちよく使うことが出来るというのか」
「ああ、出来るね。あたしはこの金を使うことに、何の罪悪感も覚えない」

 朗らかな口調で続ける。

「逆に聞くがよウォル。お前さん、この金はどうするべきだと思うね?今から奴らに返しに行く?そうすりゃ奴らは泣いて今までの罪を詫びるかも知れねえがよ、この金は今日にでも奴らの酒とクスリのために消えちまうだろうさ。じゃあ、売られていった女を捜して助け出すために使うか?そんなこと無理だね、これっぽっちの金じゃあな。この広い宇宙のどの星にだって、身売りされた女の行き着く女郎宿はあるんだ。第一、女連中がもう既に墓の下にいないっていう保証もない。そんな中から奴らにさらわれた女を捜すなんて、砂漠に落とした針を探すようなもんさ。それとも、哀れな女の霊とやらを慰めるため寺にでも寄付するかい?そうすりゃ喜ぶのは坊主ばかり、やつらが金ぴかの仏像に自分の名前を彫るためにこの金は有難く使われちまうだろうさ。さて、お前さんはどの使い方を選ぶんだい?」

 ウォルは何も話さず、前だけを見ていた。

「金に綺麗も汚いもないさ。金は金、それ以上でもそれ以下でもない。百歩譲ってもし仮に金に綺麗だの汚いだのがあるとしても、それを言っていいのは汚い金を捨てるだけの余力のある金持ち連中だけだぜ。あたしらみたいに、明日を生きる金もないような貧乏人は、汚い金であっても縋り付くしかないのさ。第一こいつは、あたしが命を賭けて奪った金だぜ。もしもあたしがヘマをやらかしてたら、今頃あいつらの慰み者だったんだ。心も体もぼろぼろになるまで弄ばれて、最後は場末の女郎宿か、変態趣味の金持ち連中の性奴隷が関の山さ。なら、こいつは労働の質に見合った正当な対価だと、あたしは思うがね」

 理屈で言えば、メイフゥの意見は至極正しい。非の打ち所が無い。
 そして、ウォルもその程度のことは百も承知なのだ。金の綺麗汚いなど、国王として国の運営を司った彼女からすれば、一番最初に潜り抜けた煩悶である。
 しかしウォルにはそれが気に食わなかった。理屈を抜きにして気に食わない。だから、ふてくされたように言った。

「燃やしてしまえ、そんな金」

 メイフゥは、目を丸くしてウォルの方を見てから、火がついたように笑った。
 笑いすぎて、危うく前の車に追突するところであった。

「……何がおかしい」
「いや、ウォル、あんた、やっぱり可愛いよ。あたしの妹にしたい、いや、絶対にしてみせるぜ」
「俺は、既にある方の養子になっているのだ。これ以上、養い親を持つつもりはない」
「あんたがあたしの親の養子にならなくたって、あたしの妹になる方法なんて、あるじゃないか」

 メイフゥは、気安く言った。
 ウォルが、何を言っているのかと問う前に口を開き、こう言った。

「あんたがインユェの嫁になればいい」

 流石のウォルも唖然として、ハンドルを握ったメイフゥの顔を見た。
 メイフゥは、もう笑っていなかった。
 真剣な表情で、言った。

「あいつだって、あんたのことを憎からず思ってるはずさ。あんたさえよければ、明日にだって祝言は開けるんだぜ?あたしの国には、やれ年齢制限だやれ親の許可だ、そういうしちめんどくさい決まり事はねえからな。なに、結納金なら心配はいらねえ。この金の半分を使えば十分に足りるだろうしな」

 結納というものが何なのかウォルには分からないが、おそらくはメイフゥの生まれ育った文化において、花嫁が必要とする何かなのだろう。ウォルはそう理解した。
 
「……本気か、メイフゥどの」
「本気も本気、大本気さ。これが冗談でしたなんて言ったら、その場で腹をかっさばいて死んでやる」

 大真面目な様子のメイフゥに、ウォルは一つ苦笑を漏らして、

「ありがたい話だが、お断りさせて頂く」
「どうしてだい?インユェは確かにまだちいせえ男だが、将来性はあるぜ。なにせ、あたしの弟で、あの海賊王の息子なんだからな」
「……海賊王?」

 聞き慣れない単語に、ウォルは問い返した。

「あれ、知らないかい、海賊王。最近、海賊王のトリジウム鉱山がどうとかで、話題になってるアレさ」
「それがどうしたというのだ?」
「この広い共和宇宙に蔓延る、数多の海賊達の頂点に立った男。それが、あたしとメイフゥの親父どのさ。だから、あいつは将来、大きな男になる。もちろんあたしなんかよりも、ずっとずっとだ」

『暴力をもって奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 遠い昔、そう悲しげに言った父の顔を、メイフゥは既に覚えていない。
 ただ、見上げる程に大きい長身、壁のように広い肩幅、そして女性ならば誰しもが恋に落ちるような笑顔だけは覚えている。
 事実、メイフゥの初恋は、その時に始まり、その人が父だと知った時に終わったのだ。
 淡々と語るメイフゥの言葉に、嘘があるとは思えなかった。
 だがウォルは、首を横に振った。

「インユェがどれほど素晴らしい男に育ったとしても、駄目だ」
「どうして?」
「俺は、もう婚約を済ませてしまったからな」

 今度はメイフゥが唖然とする番だった。
 唖然としすぎて、アクセルから足を放してしまった。
 それでもしばらくの間はのろのろと前へと進んだ車は、やがて慣性の力に負けて、道のど真ん中で止まった。
 後ろの方からけたたましいクラクションが鳴らされるが、メイフゥはまったく気にしなかった。というよりも、気にする余裕が無かったのだ。

「……マジか?」
「ああ、マジもマジ、大マジだ。これを冗談と後で言うならば、俺はその場で首を括って死んでやってもいい」

 魂を抜かれたような様子のメイフゥが、ふらりとハンドルに寄りかかり、力無く項垂れてしまった。
 あまりに放心した様子に、流石のウォルも心配になった。

「メイフゥどの、大丈夫か?」
「大丈夫ちがう。全然ちがう。むしろ大ショック」

 彼らの後ろに出来ている渋滞は、既に危険な長さになっていた。
 いずれ堪忍袋の緒の切れた運転手の誰かが、この車に詰め寄るだろう。その時に相手をするのは、あまりの驚きに我を失った獣である。
 一刻も早く、車を再発進させる必要があった。
 
「ああ、最初にあんたを見たときから、インユェの嫁にぴったりだと思ってたんだ……今でこそあいつの器じゃあ分不相応だけど、もう少し大きくなればあいつにお似合いだと……ウォルになら、インユェを預けられると思った……思ってたのになぁ……」
「……前から聞こうと思っていたのだが、メイフゥどの。あなたは、ことある事にインユェに突っかかるが、インユェのことを憎く思ってのことか?」

 茫然自失の態のメイフゥは、力無く首を横に振った。
 
「では……」
「あのさ、ウォル。お前、兄弟はいるかい?」

 ウォルは、刹那、首を縦にも横にも振れなかった。
 血の繋がった兄弟、という意味で言えば、一人もいない。彼女の、父方のみ血の繋がった兄弟は全て非業の死を遂げ、だからこそ彼だった彼女のもとに、王冠などという碌でもないものが転がり込んできたのだから。
 しかし、義理の兄弟ということであれば、こちらの世界で得たばかりだ。黄金の狼と、その愛すべき家族達……。
 思い起こすだけで暖かな名前を指折り数えたウォルの耳に、寒気のする声が飛び込んできた。

「じゃあさ、ウォル。その兄弟から、ばけものって呼ばれたことは、あるか?」
 
 そう呟いたメイフゥの瞳に、薄く涙が浮かんでいるのを、ウォルは確かに見た気がした。



[6349] 第三十三話:そして兎は鮫の上
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:33
 既に日も傾こうかという頃合いに、ヤームルは目当ての酒場をもう一度訪ねた。
 先ほどドアを叩いた時は、準備中の看板が立っていただけでなく、中に人の気配そのものが無かったので、出直すことにしたのだ。
 流石に今の時間になっては料理の仕込みその他諸々の開店準備がいるから、店の中からは人の気配がする。
 ヤームルはあらためて、ドアを引いてみた。
 鍵は、かかっていなかった。

「まだ準備中だよ。おもての看板が見えなかったのか」

 ヤームルを出迎えたのは、ぶっきらぼうな声だった。
 確かに、表には準備中の看板が下りているし、酒場と称される店が開くような時間にはまだ早すぎるのも理解している。しかしここまで不機嫌な調子で出迎えられては、果たしてこの店に客商売をする気があるのかと疑いたくもなる。
 だが、ヤームルは気分を害したふうではなく、込み上げてくる懐かしいものを噛み殺すかのように苦笑した。

「聞こえなかったのかい。邪魔だからさっさと出て行ってくれと言ってるんだがね」
「相変わらずだな、ブルット。そんなあんばいでよく店が潰れないものだ。よっぽどこの星の神様に愛されてるのか、それとも女将さんが苦労しているのか」

 ブルットというのは、この酒場のマスターの名前であり、しかしそうではない。
 遠い昔、大地を耕す鍬よりも宇宙を駆ける翼にこそ価値を見いだしていた若き日に、その名を使っていたことがあった。
 ブルットという名を持つ男は、宇宙にその名を馳せた、大海賊団の一員だった。
 海賊団。しかし今の海賊のように無法者の集まりというよりは、宇宙の荒くれ者といった意味合いが強い。昔はそうだったのだ。
 しかし、どのような美辞麗句で飾り付けようと、それは犯罪者の集団だ。到底お天道様に顔向けできるような過去ではない。
 だが、たとえ人から後ろ指をさされる脛に傷持つ身の上だったとして、彼はあの頃の自分を恥じたことは一度もない。もっとも輝かしい星を追いかけて、自分もその群れの一つとなったのだ。
 だからこそ、同じ流星の一つであった旧友との再会を、喜ばないはずがなかった。
 薄暗い店の中に、椅子の倒れる派手な音が響いた。

「ヤームル!ヤームルじゃねえか、生きてやがったのかよこの野郎!」
「それはこっちの台詞だ。まったく、年賀の挨拶の返しも寄越さないとは、それでも一国一城の主か?」
「あん?ああ、あのけったいな文のことか?なんだか小難しいことばっか書いてるから、読まずに捨てちまったい。そもそも連絡するならするで、恒星間通信なりなんなり、もっとすぱっとした方法があるじゃねえか。小便臭い小娘みたいに、まどろっこしく手紙なんか使わなくったってよう」
「ばかやろう。そのまどろっこしさが粋なんだろうが。まったく、我らが突撃隊長殿はいつまでたってもそこらへんの理解が不自由だな」
「はん、水先案内人のてめえがそんなだから、俺らの船団は、やれ奇人変人の集まりだ、やれ時代錯誤の船乗り連中だとか、同業者からして散々な言われようだったじゃねえか。おかげでこっちは大変だったんだぜ」
「誰よりもその呼ばれ方が大好きだった野郎が言っても少しも説得力がないぞ、『かぶきものブルット』」

 聞き絶えて久しかった昔の通り名を聞いて、だぶつきはじめた腹の肉を震わせながら、酒場のマスターは笑った。
 ヤームルは、あらためて懐かしき友の顔を見た。
 かつては精気に満ちて黒々としていた頭髪も、少し頼りない様子になっている。色街の女達を虜にした不敵な笑みも、無数の皺に埋め尽くされた赤ら顔の中に見いだすことは出来なかった。
 
「変わらないな、ブルット」
「ああ、そうだな、おめえと同じくらいには、俺も昔と変わってねえよヤームル」

 皮肉げに口元を歪めながら、酒場のマスターが言った。
 なるほど、つまりは自分も相当に老いているということかと、ヤームルは自慢の口髭をしごきながら思った。考えてみれば、この癖だって現役時代にはなかったもののはずである。

「で、店長殿。お邪魔なようなので外で待たせて頂きたいのだが、この店は何時に開くのですかな?」
「おう、すっかり忘れてた。今日はこの店の特別記念日でな、なんとたった今開店したところさ。お客さん、運が良いったらねえぜ」
「ほう、それはめでたい。ちなみにどんな記念日だね?」
「聞いて驚け。今日はな、しみったれた場末のマスターがくそったれの死に損ない爺と傷の舐め合いをするっていう、由緒正しい記念日なのさ」
「そういうものは厄日というのだと思うが、まぁいいさ。美味い酒が飲めるなら、それ以上のことは願うまいよ。ただ、それ故に美味い酒を頼むぞ」
「まかせとけ。今年も良い酒が出来たんだ。あいつもお前に飲ませたがってたぜ」

 そう言ってマスターはカウンターの奥に姿を消した。
 ヤームルは、カウンター席の一番端に腰掛けた。他に客がいるわけでもなかったが、自分には中央の席に座る資格、あるいは勇気が欠けていることを彼は知っていた。
 もう一度、店内を見回す。
 意外なことに、かなり広い店だった。昔、風の噂にこの男が所帯を持ち酒場のマスターをやっていると聞いたときは、カウンター席しかないような狭っくるしい店でさぞ頑固親父をやっているのだろうと予想していたのだ。片方は正解だったようだが、片方は間違いだったらしい。
 それに、センスも悪くない。席の配置もそうだし、店内を飾る装飾品も、高級品とまでは言えなくとも質は良い。それらが、華美と悪趣味のぎりぎりのラインを見極めて配置されている。
 おそらくは、彼の夫人のセンスなのだろう。少なくとも、自分の知るブルットという男に、こういう気の利いたところは欠片程度にしかなかったはずだ。
 ヤームルの口から感嘆の吐息が漏れ出していた。

「驚いたかい、俺がこんな店を持っているのがさ」

 よく磨かれたカウンターの上に、小さなグラスが二つ、置かれた。
 こんな店だから、例えばバカラのロックグラスでも出てくるのかと思ったが、ヤームルの目の前にあるのはどこにでも売られている安物のタンブラーであった。
 しかも、相当に使い古されている。飲み口のところが僅かに掛けているし、透明なはずのガラスが薄く曇ってしまっている。
 到底、客に出すグラスではない。
 しかし、ヤームルはそのグラスが何なのかを知っていたから、一言の抗議も入れなかった。

「懐かしいな。こんなところにまだ残っていたのか」
「ああ。もうこの一組で最後さ。何せ、船に乗っていたときのお前らときたら、酒を飲む度に賭け事はする喧嘩はする、踊る喚く歌い騒ぐ。夜が明けてみりゃあ、無事なグラスの方が珍しいってなもんだったからなぁ。最後に残るのは、こいつみたいな安グラスってわけだ」
「否定はしないが、その急先鋒だった男には言われたくないな。お前が一体いくつのコップを囓って使い物にならなくしたか、覚えているのかブルット?」
「そうだったかい?いやぁ、人間年は取りたくないもんだねぇ、すっかり忘れちまってたぜ」

 笑いながら、手慣れた手つきでグラスに酒を注いでゆく。
 タンブラーの縁に軽く盛り上がるまで琥珀色の液体が満ちたところで、ブルットは酒を注ぐのを止めた。
 美しい琥珀色だった。飲むまでもなく、香りを肺に入れるまでもなく極上の酒であることがわかる。
 乾杯はしないのが、船団の作法だった。グラスを打ち合わせて中身の交換などせずとも、毒を仕込むような卑怯者は一味に存在しない。それが理由だ。
 ヤームルは無遠慮にグラスを口元まで運んだ。表面張力は均衡を崩さず、一滴の雫も溢れることはなかった。

「カラ酒か。今年も良い出来だ」
「そりゃあそうさ。なにせ、シスの野郎が仕込んだ酒だからな、美味くねえはずがねえ」
「なるほど、その通りだな」

 それは、海賊団結成時メンバーの中で一番最初に船を下りた、仲間の名前だった。
 シスが海賊団を抜けると言ったとき、真っ先に反対したのはブルットだった。その豊かな声量と溢れ出んばかりの表現力でもって、仲間の変節を嘆き慰留を乞うた。ヤームルも、声を大にこそしなかったものの、内心ではブルットと同じ気持ちだった。
 シスは、優れた航海士であった。まだ感応頭脳も今ほど発達していなかったあの頃、船団の命運を一手に握っていたのは彼であったと言っても過言ではない。地表の天候などよりも遙かに読みにくく、そして荒れ狂う宇宙の天候を読み切る。自分達の船団が今どの宙域を飛んでいるのか、次の目的地までの航路はどれがもっとも早いのかを正確に算定する。ヤームルは、感応頭脳も含めたところで、シス以上の航海士を未だ見たことがない。
 
『う、奪うのがね、嫌になったんだよ。だ、だから、な、何かを作りたくなったんだ』

 ある日突然、シスは船を下りると言った。
 弱気な表情はいつもの彼のものだったが、一度言いだしたら、仲間の誰よりも頑固なのがこの男だった。
 元々、荒事に向いた男ではなかった。仲間内ではただ一人、宇宙物理学の博士号持ちであり、海賊にはちっとも似合わない白衣を引っかけた姿は新入り連中からは奇異の目で見られるのが常であったし、多くの場合は侮られたりもしていた。当然それは、彼の航海士としての腕前を確認するまでの、ごく短い時間でしかなかったのだが。
 少なくとも、その海賊団にとっての彼は、なくてはならない存在だったのだ。ヤームルもブルットも、自分達などよりも彼の方が、一味にとって必要な人材であると確信していた。
 だからこそ二人も、内心では安心していた。何故なら、彼らの頭領が、必ずシスを引き留めるはずだからだ。
 シスにとって、頭領は大恩ある人物である。宇宙物理学会を牛耳る大物教授に目をつけられ、世間からも学会からも完全に干されていたシスを拾い、彼の理論を実践できるなによりの場を与えたのが一味の頭領だったのだから。
 当然、頭領もシスを慰留するだろう。そしてシスも思いとどまり、全ては今までのままだ。
 そんな、確定した未来像のような確信は、しかし完全に裏切られる。
 頭領は、シスを慰留しようとはしなかった。
 そうか、と、一言だけ呟き、あとはシスに船を下りるため必要な手続を取るよう、また他の団員がそれを邪魔することがないよう固く言い渡し、それ以外は何も言わなかった。
 ブルットは、大いに憤慨した。これが、長年の苦楽を共にした仲間への仕打ちなのか。いくら本人の望みの叶うようにしたとはいえ、あまりに冷たすぎるのではないか。
 ヤームルも、秘密裏に頭領に掛け合い、シスへの慰留を試みるよう願い立てをしたりした。だが、頭領はその話題には一切耳を貸さなかった。
 そして、シスが船を下りた。
 あとは、まるで櫛の歯が欠けるようだった。
 勝手知ったる顔が、一人減り、二人減り、三人減り……。やがて、その海賊団は、この共和宇宙から姿を消したのだ。
 当時は、ヤームルもブルットも、頭領の判断を心苦く思った。口にこそ出さなかったが、もしもあの時、頭領がシスを引き留めてさえいれば、海賊団は解体しなかったのではないかと、そういう思いがあったからだ。
 しかし、今にして思えば、頭領は既に時代の趨勢を感じ取っていたのではないだろうか。海賊という単語に含まれる意味が、ただのごろつき連中と同じ意味に貶められる時代の訪れを感じて、彼は静かに旗を降ろしたのではないか。
 ヤームルは、最近はそう思うようになっていた。
 いつの間にか、グラスは空になっていた。

「俺も年老いたな」
「何だって?」

 ヤームルのグラスを酒で満たしながら、ブルットが問うた。

「今よりも、昔を楽しく感じられる。あの頃に帰りたいと願ってしまう。それは詰まるところ、俺が老いたということだろう」
「そうさなぁ。そうかも知れねえし、そうじゃあねえかも知れねえし」
「ふん、まるで酒場のマスターみたいな口調じゃないか、ブルット」
「そう聞こえたんなら重畳だ。何せこれでも、俺は一国一城の主なんだからな」

 懐かしい会話に口元の皺を増やしながら、ヤームルは再び杯を口へとやった。
 なんとも上品な酒だった。シスは、船乗り連中が好むような癖の強い酒はからっきしだったのを、ヤームルは思い出していた。

「そういえばシスの奴、最近はこの酒を送ってこなくなった。毎年毎年、こいつをちびちびやりながら、彼と彼の内儀の睦まじい様子に嫉妬するのが新年の決まり事だったんだがな」

 それは、シスが船団を下りてきっかり十年後から数年前まで、およそ三十年間続いた、季節の便りのようなものだった。
 最初に送られてきた包みの中には、ようやく納得のいく物が作れるようになったから是非飲んでほしい、自分のわがままのせいでみんなには迷惑をかけたと、彼らしい神経質そうな文字で便りがしたためられていた。
 いつしか便りはなくなり、代わりに写真が同封されるようになった。そこには、日に灼けて少し健康そうになったシスと、彼の歳からするとやや幼すぎるのではないかという風貌の彼の妻が映っていた。
 二人の間に子供が映り込むことはついになかったが、二人はとても幸せそうだった。

「シスは元気か」
「死んだよ」

 ブルットは、素っ気なく言った。
 ヤームルは、問い直したりはしなかった。その代わりに、眼光に怖いものを込めて、目の前の男を睨んだ。

「どうして死んだ」
「殺された」
「誰に殺された」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、ピエロみたいな連中だ」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団?」

 ヤームルは問い返した。
 聞いたことのない名称だ。彼が以前――五十年以上も前に惑星ヴェロニカを訪れた時には、そんなもの、影も形も無かったはずである。
 もっともその時は、ヴェロニカ共和国という国家自体、存在していなかったのだが。

「なんだ、それは」
「去年、この星の大統領が替わったことは、知っているか」

 ヤームルは頷いた。
 詳しい経緯は知らないが、前任の大統領の任期満了に伴う選挙が行われ、完全な泡沫候補と思われていた新人が奇跡的に当選を果たしたという話だ。
 惑星ヴェロニカは連邦加盟国とはいえ、辺境惑星の一つにも数えられる星であるから、その程度の話を知っているだけでもある程度事情通と言えるだろう。
 ブルットは頷き、

「じゃあ、その大統領選挙の最右翼候補だった、マークス・レザロ元上院議員が、選挙の直前に出馬を取りやめた理由は?」
「そこまでは知らん」
「食肉疑惑さ。それも、ご丁寧なことに一家揃ってのな」

 食肉疑惑と聞いて、ヤームルはすぐに脳内で文字に変換することが出来なかった。
 ヤームルの実感として、肉を口にすることが大統領選挙の出馬取りやめなどとは結びつかなかったからだ。しかしこの星の特殊な事情を勘案すれば、確かにそれは致命的な悪印象を与え得る、一つの事件であることを理解した。
 
「発端は、大統領の長男であるチャールズ・レザロが、その学友ともどもある誘拐事件に巻きこまれたところから始まる。まぁその事件自体マークスの身から出た錆だっていう噂もあるが、そこらへんは置いておこう。未開発の惑星に10人近い子供が長期間置き去りにされたっていう前代未聞の誘拐事件だったわけだが、不思議なことに死者の一人も出なかった」
「食糧はたっぷりと置いていってやったのか。当然だな。人質の命を無闇に危険に晒すようじゃ、それは誘拐とは言えない」

 ブルットは首を横に振った。

「食糧は一切用意されていなかった」
「……本当か?」
「ああ。それどころか、雨風を凌げるような場所すらもない、完全な大自然の中に子供達は置き去りにされたらしい」
「それじゃあ、保って三日だ。それ以上は命に関わるぞ。誘拐と言うよりも、未必の故意による殺人未遂じゃないか」
「ああ、俺もそう表現した方が正しいと思う。しかし現に、少年達は一人も死ななかった。何人かの怪我人くらいは出たそうだが、一応は全員無事に親元に帰されたそうだ」

 ヤームルは半信半疑だった。
 インユェやメイフゥのような少年少女ならば別段、ごく普通の子供が何の準備もなく未開発惑星に取り残されてどうやって食物を採取するというのか。木の実は毒があるかも知れないし、狩猟の経験などあるはずもない。第一、道具自体がなかったはずだ。そんなものをご丁寧に用意してくれる犯人ならば、そもそも食糧を渡しておくだろう。
 もし仮にブルットの言っていることが事実ならば、おそらくメイフゥを上回るような狩りの名手がその子供達の中にいたのか、それとも偶々砂漠の中のオアシスを見つけるような幸運に恵まれたのか、いずれかだろうと思った。

「事件の詳細は俺も知ってるわけじゃねえ。しかし重要なのは、無事に救出された子供達の中に、ヴェロニカ教徒であるチャールズ・レザロが含まれていて、その親が次期大統領と目される上院議員だったってことだな」

 なるほど、それは日々スクープに飢えたマスコミ連中が、好餌と飛びつくわけである。
 二週間を超えるような長期間、食物無しで人が生きていけるはずがない。肉なり植物なりを口にしなければ命に関わる。
 当然、その子供達も何か栄養を摂取していたはずだ。おそらくは偶然食用の木の実を大量に発見したとかだと思うのだが……。
 子供達は、歓喜したに違いない。これで自分達は生き延びることが出来る、と。
 だがここで、残酷な問題が一つ持ち上がる。
 子供達の中に、ヴェロニカ教に帰依する少年が一人、含まれていたのだ。彼は肉食及び自生する植物の摂取を厳に禁じられている。幼い頃からの厳しい教育は、すでに刷り込みと呼ぶべき領域にまで達しており、彼は最初のうちはその木の実なりを口にすることを強く拒んだだろう。
 しかし、結果として彼は無事に救出されたのだ。ならば、何かを食べていない方がおかしい。

「そっとしておいてやればいいのに、病院まで押しかけたマスコミ連中が、医師から聞き出したらしい。チャールズ・レザロには動物性のタンパク質を数回にわたって摂取した形跡が見られ、衰弱はそれほどでもないってな。医師を責めるわけにはいかんだろう。なにせ、彼がヴェロニカ教徒だって知らなかったんだろうからな。仮に知っていたとしても、場合が場合だ。そういう時はお目こぼしくださるのが神様だろうって思うのが普通だろうぜ」

 しかしヴェロニカ教典には、緊急避難的な食物摂取は許されるという文字はどこにも書いていない。

「結果として、チャールズ・レザロの行動は強い非難の対象となった。一番つらいのは本人だろうがよ、親父も相当に焦ったと思うぜ。なにせ大統領選挙を控える大切な身だ。ほんの少しの汚名が当落に直結しかねない。方々に手を回してマスコミに圧力をかけたらしいが、時既に遅しさ。それでも諦めきれなかった野郎は、これもマスコミがスクープですっぱ抜いたんだが、結構小汚いことまでして息子の汚名を雪ごうとしたらしい。一緒にさらわれた子供の一人が無理矢理に息子の口に肉をねじ込んだんだとか、どう考えても無理のある屁理屈まで用意してな」
「結果は?」
「通るわけねえだろう、そんなもん。子供達が通っていた連邦大学の審議会でも、その少年はシロ。間接的に、チャールズが自分で肉を喰ったっていうお墨付きを与えてくれたわけだな。で、直後にマークスは立候補を取りやめて、上院議員も辞した。ま、引き際は心得てやがったのかも知れねえな」

 本当は他に諸事情が存在し、立候補の取りやめも議員辞職も、純粋な意味で言えばマークスの意志ではなかったのだが、それは全く公表されない事情である。
 結果だけを見るならば、ブルットの説明したところが、ヴェロニカ共和国における一連の事件の経過としておおむね正しいものだった。

「だが、事件はそれでは終わってくれなかったんだ」
「何があった」

 ブルットは痛ましそうに言った。

「マークス・レザロのお付きの料理人の一人がな、小金欲しさにマスコミに情報を売ったのさ。息子だけではなく、元上院議員も日常的に肉食行為を繰り返していた、自分は彼の私用宇宙船の中で何度も肉料理を彼に提供したってな。ぺらぺらと、ご丁寧に料理の写真や、美味そうにそれを食うマークスの写真も用意して、だ。多分、ご主人様がもう将来の大統領候補でも現上院議員でもなくなっちまったから、今の内に旨い汁を吸えるだけ吸っておこうってことだったんだろう」
「馬鹿な奴だ。そんなことをして、そいつ自身の今後の生活はどうするんだ?もう誰もそいつのことを信用しないだろうに」
「そんなことも分からない馬鹿だったのか、そこらへんのことを天秤にかけてもなお魅力的なほどの報酬をマスコミが用意したか……それは分からねえ。だが、とんでもない騒ぎにはなったぜ。息子の事件とは桁が違うわな。息子は非常事態にやむにやまれず戒律を破って可哀想ってところだが、親父は日常的に戒律そのものを無視して肉食を続けてたんだ。しかも、既に身を引いたとは言えヴェロニカ共和国の政界の大物だった人物が、だぜ。どっちの方に世間の非難が集中するかなんて言うまでもないだろう」

 ヤームルは少し考え込んだ。
 ヴェロニカ教の教えを一から理解しているわけではないヤームルには実感として分からないが、例えるならば、正当防衛で人を殺してしまった息子を理由として身を引いた政治家を調べてみれば、じつはその政治家が計画的な連続殺人鬼だったというところだろうか。
 なるほど、騒ぎにならないほうがおかしい。

「マークスは当時の上院下院両方の多数を占めていた与党政党の新進気鋭の若手だったわけだが、野党は一斉に噛み付いた。他の、マークスと付き合いのあった議員に食肉疑惑があるってな。国会の場で、公開による血液検査を要求したわけだ」
「与党はその要求を呑んだのか?」
「呑むわきゃねえだろうがよ。考えてもみろよ、マークスが本気でこっそり肉を喰いたがってたんなら、自分の宇宙船の中なんていう場所で食うか?俺なら、遠くの星に視察なりなんなりに行くふりをして、こっそりと、誰の目にも見つからないようにして食うね。っていうことは、マークスが肉を喰ってたのは、一部の人間には公然の秘密だったってわけだ。当然、そのご相伴に与ったことのある連中も多いと思うぜ」
「大騒ぎになりそうだ」
「なったなった、もう蜘蛛の子を散らすような大騒ぎだ。『私はヴェロニカの神にかけて肉を食べたことはありません』、この台詞が公共の電波に流れない日はなかったってくらいさ。しかも、そう言っていた政治家が次の日には食肉疑惑発覚で辞職したりしたんだからな、ただの大騒ぎなんてもんじゃない。星をひっくり返したような大騒ぎだ」

 ヤームルは思わず笑ってしまった。
 彼は権力というものに何の興味もなかったから、それに無様にしがみつく政治家連中の悪あがきが哀れに思えたのだ。第一、そんなに肉が喰いたければヴェロニカ教徒を止めればいいのだ。なにも嫌いな野菜を食べてまで神の慈悲に縋ることもあるまい。
 
「じゃあ、政権交代か」
「いや、そう上手くもいかない。与党の政治家連中に、それだけ肉食は浸透してたんだ。っていうことは……」
「なるほど、毛の色が変わっても鼠は鼠か」
「与党側もしたたかさ。自分達がいよいよ駄目かっていうときに、野党側の政治家に血液検査を要求したんだな。俺達を非難する資格が、そもそもお前達にあるのかと」
「当然、拒否する」
「そして、拒否するっていうことは認めてるのと同じことだ。要するに、同じ穴の狢だったのさ、全員な」

 ヤームルの目には、傲然と開き直る政治家連中が目に浮かぶようだった。
 
『確かに私は肉を口にしたことがある。しかしそれは外国の要人との会食の際、やむにやまれず摂取したものだ。それを食わなければ、会談の空気が険悪になり、最悪交渉は決裂していたかも知れない。私はヴェロニカの国益のために、地獄に落ちる決意で肉を喰ったのだ。それは非難を受けなければならないようなことなのか!?』

『私は肉など食べていない。血液検査を拒むのは、このような公開の場で食肉の疑惑をかけられるという恥辱そのものが耐え難いからだ。加えるならば、仮に検査を受けて反応がなかったとしても、野党諸兄は検査そのものに瑕疵があったと開き直るだろう。私はそういった無益なことに国会の議論の貴重な時間が割かれることが愚かだと確信している』

『百歩譲って私が肉を食べたとしよう。ならば、私は公人としての責任を取らざるを得ないだろうが、しかしそれよりも先に責任を取るべき人間が確かに存在する。私は、その人間を明らかにして責任を取らせることこそ、国民が私に期待する私の責任であると信じている。故に、今職を辞しては責任逃れとの誹りを免れまい。私は自身の職責を全うするため、今後もこの役職を退くつもりはない……』

 手を代え品を代え、そして言い訳を代えて、彼らが言いたいこと。
 それは『俺は政治家を辞めるつもりはないぞ!』、この一事に尽きる。国会開催期間中の不逮捕等、政治家という職に与えられる各種特権。高額な給与、袖の下、その他の収入。社会的な地位。周囲より寄せられる羨望の視線。それらを手放して野に下るなど、どう考えても馬鹿げている。
 だから彼らは醜く権力にしがみつくのだ。どうせ国民は愚かだ。喉元過ぎれば、すぐに熱さなど忘れるに決まっているのだから。

「国民の大多数はな、辟易としたのさ。連日連夜繰り広げられる、政治家共の保身のやり取りにな。そのうち、野党側も攻勢を控えるようになった。おおかた連中の頭同士で講和条約の一つでも結ばれたんだろう。もうこれ以上この問題の火を大きくすると、共倒れになりかねない。ここらで一つ手打ちということにしよう、ってな」
「ま、そこらが妥当な線だろう。事実、人間は忘れる生き物だからな。一年もすれば、ああ昔そんな事件もあったな程度には忘れてくれる」
「だが、悪いことに大統領選が直後に控えていた。この国の大統領選はいわゆる直接選挙だからな。国民の声ってやつがそのまま跳ね返ってくる。当然、争点の一つには政治家に対するヴェロニカ教義の徹底をどうするかっていうところも挙げられたんだが、なんともお粗末でな。与党側の候補も野党側の候補も、結局は信仰心の問題だから国が立ち入るところではないと、そもそも問題として重視しないっていう立ち位置だ。そうだろうな、じゃないとお仲間を断頭台に送ることになるんだから」
「正しいが、しかし日和見だな。そこはポーズだけでもいいから、風紀保持の徹底を図るとでも言っておけばいいものを。せっかく国民の支持を取り付けられる絶好の議題を避けて通るなど正気とは思えない」
「疲れてたのさ。国民もそうだが、おそらく政治家連中はそれ以上にな。もうこの話題には触れないでくれっていうのが当時の奴らの正直な心の声だったと思うぜ。だから、与野党含めて、既存の政治家連中は国民の支持を失った。その間隙を縫って当選したのが、我らが大統領アーロン・レイノルズだ」

 ブルットの口元が皮肉に歪んだのを、ヤームルは確かめた。
 アーロン・レイノルズ。確かこの場所に来るまでに何度か見た名前であり、顔である。
 神経質そうな細面に青く濁った瞳がぎょろりと浮いている、どこか商店の軒先にならんだ魚を思わせる、熱のない顔だった。

「やっこさん、元はヴェロニカ教の導師だったって言ってるが本当のところは分からねえ。ただ、熱心なヴェロニカ信者だっていうのは事実らしい。自分は生まれてから母親の乳も含めて一度も動物性タンパク質を取ったことがないっていうのが自慢らしいからな。当然、それなりに厳しい手段でもって政治家連中を取り締まることを公約に掲げた」
「ほう、どんな?」
「過去にさかのぼったところも含めて、程度の軽重を問わずヴェロニカ教義に反した者の無条件即時の公職追放。場合によっては惑星ヴェロニカからの追放。事実上、ヴェロニカ教を破門する処分だといっても間違いじゃねえだろうな。俺も信者だから分かるがよ、この星を追われてヴェロニカ教なんて続けられるもんじゃねえ」

 そういえばそうなのだった。
 目の前の、ヤームルの記憶している限りでは神とか仏とかから最も縁遠く感じられたこの男も、この星に根付くにあたり、ヴェロニカ教に帰依したのだった。
 珍しいことではない。苛烈な半生を送った荒くれ者が、自分の人生をようやく落ち着いて振り返れる年頃になって、突然神の教えに耳を傾けることは、ままある。
 自分の奪った命の数に恐れ戦いた者もいるだろう。あまりに荒んだ自分の人生に嫌気が差し、救いを乞う者もいるだろう。中には、ただ心の平穏を欲して神を求める者もいるだろう。
 果たしてブルットがどうしてヴェロニカの神に膝を折ったのか、それはヤームルの知るところではないし、知るべきところでもない。彼自身、そう確信していた。

「で、蓋を開けてみりゃあ二位以下に大差をつけて奴さんの圧勝だ。政治家連中の顔もさぞ真っ青になっただろうぜ。なにせこの国大統領には法案の提出権がある、無論それを議論するのは上下両院ってことなんだが、それでもこの問題が盛大に再燃することが決まったようなもんだからな。しかもアーロン・レイノルズは筋金入りのヴェロニカ教徒だ。鼻薬を嗅がすことも出来ない」
「どうしたんだ」
「公約通りの法案が真っ先に提出された。どう考えても当時の政治家どもに飲めるないようじゃない、徹底的なやつだ。当然、政治家連中は顔を真っ赤にして廃案にしたよ。こんな法案が通れば恐怖政治の始まりだってな」
「正しいことを言うじゃないか」

 なんだかんだいって政治家とは国民の代弁者だ。
 現時点で求心力を下げているとはいえ、無碍に扱っていいものではないし、そうするべきものでもない。
 ならば、どれほど重大な犯罪を犯したとしても、また戒律に背いたとしても、無条件即時にその身分を奪うなどあっていいはずがない。それは確かに恐怖政治の始まりだ。

「だが、その当時の俺達にはそれが分からなかった。あれだけの醜態を無様に晒してくれた政治家共が何を言っても、自分達を守るための詭弁にしか聞こえない。国民の大部分は、レイノルズの言ってることが正しいと思ったんだ」
「お前もか、ブルット」
「俺か?俺はそんなことは腹の底からどうでもいいと思ってたさ。俺が政治家どもに期待してるのは、税金から抜き取る金を出来るだけ控えめにしてもらって、その上で効率よく社会に再分配してもらうことさ。奴らが人を殺そうと肉を喰おうと、俺には全く関わり合いがない。そんなことは、それこそ神様に任せておくべき領域だと思うがね」

 ふん、とヤームルは鼻で笑い、目の前のグラスを空にした。
 ただ、先ほどよりは控えめなペースで、その芳醇な香りと味を楽しみながら、ではあったが。なにせ、もうこの酒は二度と造られることが無いのだ。

「もう一度、法案が提出され、同じように否決された。大統領には同じ法案の提出が、三度まで認められている。そして、それが全て否決された場合は下院の解散権を行使できるようになるんだ。同時に、下院は大統領の罷免をする権利が生まれる。そして、三回目の法案が否決されるに至って、大統領は下院を即時に解散した。下院もその報復措置として、大統領の罷免を決議した」
「どうなった?」
「どうもしないさ。そんな短期間で国民の意見が変わるはずもない。寧ろ大統領の地位を得ても何の変節もしなかったレイノルズを賞賛する声が増えたくらいだ。当時の与野党にも奴さんのシンパが相当いたからな、それらを引き抜き、新党を結成して選挙に挑んだ」
「分かりやすいくらいに分かりやすい、急進派と保守派の戦いだ」
「保守派はナチズムの再来を防げとキャンペーンを張って戦ったが、その時に耳を貸してくれる国民はほとんどいなかった。結果として急進派の大勝利。大統領と下院のほとんどを新党、ヴェロニカ愛国党が占めるに至り、上院も抵抗を諦めてこの法案は通過した」

 ひゅう、とヤームルの口笛が人気の無い店内に響いた。
 なかなか鮮やかな手並みだ。いくら国民の支持があったとはいえ、これほどあっさりと政権を手中にするのは容易いことではない。既得権益の保持者からは各種の妨害もあるだろうし、マスコミを自分の味方にするための手管も必要になる。人を集めれば、その意見の調整も難しい。
 アーロン・レイノルズという男は、相当に政治家としての能力が高かったのか。それとも、余程に能力の高い右腕でもいたのか、それは分からないが……。

「即座に、上下両院から数人の政治家が生贄に選ばれて、断頭台に送られたぜ。あらゆる政治的な権利を奪われて、この星から追放されることが決まった」
「その連中は大人しく従ったのか?」
「いや、裁判所に権利の救済を申し立てた。こんな非道がまかり通っていいはずがないってな」
「俺でもそうするだろうな。政治的に完敗したならば、最後は司法に助けを乞うしかない」
「だがしばらくすると、奴らは軒並み訴えを取り下げて、大人しくこの星から出て行ったのさ」

 ヤームルは掲げかけたグラスを戻し、ブルットのほうを見た。
 ブルットの目が、本日最大に物騒なものになっていた。

「どうして?」
「詳しくは知らねえ。多分、誰に聞いても分からねえ。だが、俺は、政治家ども自身か、それとも家族連中に、何らかの脅迫があったんじゃないかと思ってる。もしくは、もっと直接的に痛い目に遭わされたかも知れねえ」
「なるほど。それをやったのが――」
「間違いなく、あのピエロ共だ。あれは元々、レイノルズが大統領に立候補した直後に、その思想に共感した阿呆のガキどもが結成したもんなんだが、最近は裏から政権の援助も得ているっていう噂だし、警察も取り締まりは遠慮してやがるっていう話だ。それに第一、市民からの人気は悪くないんだ、おかしなことにな」
「どうしてだ?自分達にも累を及ぼしかねない、危険な連中なんだろう?」
「自分達以上に、政治家や官僚、医師やマスコミみたいな、もともとの社会的身分が高くて裏ではやりたい放題だったっていう連中をまず痛い目に遭わせるからさ。それにピエロ共もある程度弁えていて、完全な一般市民はほとんど相手にしない。相手にするとしたら、俺達みたいに大きな声では自分の職業を公言できないネズミか、もしくはこの星を訪れる旅行者みたいにヴェロニカ教徒じゃない連中、それを相手に商売をする、奴らに言わせれば背教者たち。要するに、この星で声高に自分の権利を主張することに何らかの枷のある人間をターゲットに絞って、今はそいつらのほうがやりたい放題さ」

 にわかには信じがたいことであった。
 しかし、目の前の男が嘘を吐いているとは到底思えないし、またそのことによって何らかの利益を得られるとは到底思えない。
 ということは、事実なのだろう。
 これが、曲がりなりにも共和連邦に加盟した一つの国家に起きている事態だとは。
 過去に惑星ヴェロニカに――というよりは旧ペレストロス共和国に強い関わりを持つ身だったヤームルも、忸怩たる思いだった。
 
「殴る蹴るの暴力沙汰は日常茶飯事、喜捨に名を借りた恐喝強請、器物損壊に火付け、果ては旅行者の女を集団で襲って、思うさまに愉しんだ後で他の星へと売り飛ばす。やりたい放題にも程があるぜ」
「そこらのヤクザ者でもそこまでしないぞ。そんなことをしておいて、国際問題にならないのか。そんな卑劣漢どもを放置すること自体が十分以上に連邦憲章に抵触していると思うのだが」
「さぁな。そこまでは俺じゃあわからねえよ。ただし、ヴェロニカは国家だ。国家が国家にいちゃもんをつけるには、相当に色々な制約があるってのは俺でも知ってるぜ。多分そこらへんでまごついてるんじゃねえか。ま、今のままいけばヴェロニカが連邦から除名されるのもそう遠い日じゃないとは思うがね」
「ヴェロニカも、連邦加盟の時はあれだけ必死だったのに、もはやそれも惜しくなくなったのか……それとも、他に思惑でもあるのか……」

 ヤームルには、分からない。
 確かに、ヴェロニカには武器がある。他の国を、ひょっとしたら連邦そのものを相手取ることも出来るかも知れない武器だ。しかしそれは武器であると同時にとんでもない火薬庫であり、一度飛び火すればこの星の全てを焼き尽くすまでその猛火を収めることはないだろう。
 だからこそ、当時のペレストロス共和国政府は、海賊くんだりに膝を折ってまで連邦加盟を切望したのであり、それは全く間違いではなかったとヤームルは思っている。
 その武器のことを、そしてその経緯を、現ヴェロニカ政府は知っているのだろうか。知らないはずがない。あれは、この星の上層部には公然の秘密のはずだからだ。
 それとも、そんなことすらも忘れてしまったのか。自分達への恩義を、忘れること自体を忘れてしまったように。
 あり得ないことではないだけに、ヤームルの舌を灼くアルコールはいつも以上に苦かった。

「なんだ、ヤームル。お前、何か知っているのか」

 ブルットは、むしろ愉しげにヤームルに尋ねた。剛毅なわりに酒の弱いこの男は、既に酔いはじめているのかも知れなかった。

「ああ、色々と知っている。しかし、これは俺と頭領が墓まで持っていくと決めて秘密だ。悪いが、お前にも話せない」
「そうか、ならばいいさ。精々口を固くしばった死体になりやがれ」

 ブルットは豪快に笑った。
 気分がよかった。
 目の前の仲間は、知らないとは言わなかったのだ。知っていると正直に言った上で、話せないと言ってくれた。自分に許された範囲では全てを正直に話してくれた。それが嬉しかった。
 
「では、シスが殺されたのは、やつがヴェロニカ教徒ではなかったからか」
「厳密な意味で言えば、違う。シスの野郎が殺されたのは、この星に自生する、野生の植物を勝手に取ったからさ」
「この星に自生する、植物だと?まさか、あの酒の原料のことじゃあないだろうな?」
「そのまさかさ。シスは、野生のカラを採取していた。人の手で育てたカラだけじゃあ、どうしてもこの味が出ないって言ってな。この星の町外れに行けば、どこでだって馬鹿みたいに生えてるやつを、ほんの少しだけ取っていたところを、ズドンだ」

 ヤームルは、耳を疑った。

「馬鹿な。カラだぞ。他ならともかく、いくら野生のものとはいえ、カラを採取することが何故罪になる」
「ヤームル。お前さんは知らなかったのか。今やヴェロニカ教じゃあ、カラも含めて、自生する全ての動植物を口にすること自体、重大な戒律違反なんだ。やつらの口から言わせれば、十分以上に死に値する、鬼畜にも劣る所行なんだとさ」
「……いつ、誰がそんなことを言い出したんだ」
「さぁ?教典ってのは、いつだってお偉方様の好き勝手に読み解けるもんだからね。俺っちみたいな下っ端信徒には、そんなことは分かりゃしねえよ」
「……シスは、そのことを知っていたのか」
「知っていた。知っていて、しかしこの酒は俺達が何より楽しみにしているからと、密かに採取を続けていたんだ」

 ヤームルは、言葉も無かった。
 確かにこの酒は、海賊団の全ての笑顔を思い出させてくれる、ヤームルの何より好きな酒だった。これがなければ、ヤームルの記憶の内から、更に幾人かの顔と声が失われていたかも知れない。
 だから、ヤームルはこの酒が届くのを楽しみにしていたし、届かなくなってからは言いようのない寂寥を味わってもいたのだ。
 その酒が、友の命を奪ったのだ。
 真っ赤に燃える形容し難い熱が、ヤームルの胸中を焼いていた。それは決して、この優しい酒の酒精の燃える熱などではなかった。

「なぁ、ヤームルよう、俺を責めるかい?」

 気がつけば、目の前の男は、海賊団の突撃隊長だった男は、場末の酒場のマスターは、赤ら顔で泣いていた。
 この男は、泣き上戸なのだ。普段の勇敢な、それとも粗暴な性格から考えるとどうにも似合わないが、そうなのだ。
 昔は、酒の席が設けられると必ず泣いていた。自分が殺した商売敵の家族が不憫だと泣き、自室でこっそりと飼っていた子犬が死んだと泣き、友の結婚が嬉しいと泣いた。
 とにかく、よく泣く男であった。厳つい顔をくしゃくしゃに歪ませて泣いた。
 その度に、仲間は笑った。お前が泣くなと笑った。
 ケンカが起きた。泣いて何が悪いとブルットは泣きながら殴り、お前が泣くと気持ちが悪いんだと仲間が笑いながら殴った。
 
「シスの野郎の憎い仇がすぐ傍にいるのに、俺はこんなところでくたびれたオヤジをやってるのさ。あいつを殺したかもしれねえ野郎が酒を飲みに来ても、俺はへいこら酒をこしらえて持って行くのさ。そうしないと、俺や女房やガキ共の食い扶持が稼げないからな。だから、俺はへいこらするんだ。にっこり、卑屈な笑顔を作ってよ。心の中でこんちくしょうと思いながら、へいこらするんだ。お前と一緒に宇宙に生きてた頃は、生きる価値がないと笑ってた生き方を、俺はしてるのさ。どうだ、可笑しいだろう。滑稽だろう。情けねえだろう」

 ヤームルは、黙ってグラスを傾けた。
 氷も入れない生の酒が、極上なはずのその酒が、不思議と水くさく、苦く感じられた。
 ヤームルにも、妻がいた。子がいた。
 そして、それは全て失われた。ヤームルの責任だ。少なくともヤームルは、自身がずっと彼らの傍にいれば、悲劇は防げたのだと確信している。
 ブルットの生き方を笑うことなど、到底出来なかった。暴発するのは簡単だ。くたびれた拳銃だって出来る。それに比べて、全てを我慢し、胸の奥に仕舞い込み、日々を生きることの難しさ。暴発した拳銃である自分に、どうしてブルットを責めることが出来るだろう。
 だが、ヤームルは何も言わなかった。ブルットが、許しを欲しているとは思わなかったからだ。許しを与えるのは、全て神の仕事だ。高いお布施で生きているのだから、それくらいの仕事はしてもらわないと困る。そして自分はお布施など貰ったこともない。
 ブルットは、自身を責めるための刃としてヤームルを欲しているのだろう。それが、誰よりも自身を傷つけたことのあるヤームルには分かる。
 しかし、ヤームルには傷ついた友を、この上に傷つける言葉の持ち合わせがない。
 だから、黙って酒を飲んだ。
 じっくりと飲んだ。グラスが空けば、手酌で飲んだ。つまみは、栽培したカラを軽く炒り、塩を振ったものだった。
 気がつけば、ブルットは眠っていた。カウンターにもたれ掛かり、涙で手の甲を濡らして。
 ヤームルは、その背にそっと上着を掛ける。
 そして、立ち上がろうとしたとき。

「やるっきゃねえよなあ」

 背後から、声が聞こえた。
 振り返ると、そこには妙齢の女性に見える少女と、少女が立っていた。
 二人とも、ヤームルの知った顔であった。

「お嬢様、いらしていたのですか」
「この店で待ち合わせをするって言ったのは、ヤームル、お前だぜ」
「しかし、外には準備中の看板が出ていたでしょうに」
「ならお前はなんでここにいるんだよ」

 ヤームルは苦笑した。返す言葉がない。

「仲間の一人を殺されてさ。仲間の一人を泣かされてさ。それでも黙ってるなんて、そんなケチくせえことは言わねえよなぁ、ヤームル」

 ヤームルは無言である。

「殺された仲間の無念はさ。泣かされた仲間の無念はさ。誰かが晴らさねえといけねえよな」
「その通りです、お嬢様」
「出来れば、仲間がいいな。殺された仲間の仲間がさ、泣かされた仲間の仲間がさ、その無念を晴らすんだぜ。それでこそ男前ってもんだぜヤームル。義を見てせざるは勇なきなりだぜヤームル。普段からインユェに偉そうに言ってるお前さんが、まさかお前さんがそんなじゃねえよな、ヤームルよう」
「ええ、私は卑劣漢ではありません、お嬢様」

 楽しげに牙を剥き出しながら話すメイフゥと、楽しげに口髭をしごきながら話すヤームルを等分にウォルは見守った。
 ウォルの見守る先で、ヤームルはにこやかに言った。

「この星を牛耳ったつもりのひよこ共に、旧世代の海賊の戦いというものを一手ご指南つかまつるといたしましょう。いや、久方ぶりに楽しい。この老体にも火が入ろうというものですな」
「格好良いぜ。惚れそうだぜ。それでこそヤームルだぜ、ヤームル」
「しかしこれは私の戦です、お嬢様。お嬢様には差し控えて頂きたいのですがな」
「それは聞けねえな。なにせあたしは、その憂国なんとやらのカス共と、既に一戦やらかして来ちまったんだ」

 気がつけば、血塗れの紬を着たメイフゥである。
 ヤームルは全てを察して、重たい溜息を吐き出した。これで、自分にはメイフゥをお説教する資格が失われてしまったことに、彼も気がついたのだった。

「では、共に参るといたしましょう、メイフゥ」
「ああ、ヤームル。お嬢様なんて言ったら蹴っ飛ばすぜ」
「それはぞっとしませんな」

 メイフゥはくるりと視線を翻し、そしてウォルを見た。
 その目が何を言おうとしているか、ウォルには明らかだった。

「さて、ウォルよ。お前さんも、時間が出来たんだろう?なら、遊んでいくがいいさ」

 確かに、時間が出来てしまった。
 ヴァレンタイン邸に電話しても、連邦大学に電話しても、リィはおろか、シェラもルウも、そしてヴォルフもいない。聞けば、彼らは惑星ヴェロニカに、この星に向かっているのだという。自分がここにいることを知っているのは明らかだ。
 どの船で移動しているかの判別が出来ない以上、彼らに直接連絡するのは不可能だ。今は待つしかない。
 ならば、彼らが到着するまでの間、如何するか。
 インユェ達には恩義がある。自分の命を助けて貰ったのだ。そして、ウォルも一度、自身の復讐を助けられたことがあるのだ。であれば立場を違えた彼女が、見て見ぬふりを出来るはずもない。
 ウォルの答えは、最初から決まっていた。



「確かに俺は言った。助太刀すると、言った」
 
 薄汚く、狭苦しい部屋のなかに、少女の身体から立ち昇る陽炎の如き殺気が充満していた。
 古びた板の間の上に行儀悪く胡座をかき、腕を組んで、唸り声を上げ続けている。
 元々が美しい少女だが、今はその眉間に刻まれた深い皺から、何とも不吉な形相になってしまっている。
 どうしても承伏しがたい。
 かといって、無碍に断ることも出来ない。
 二律背反の命題が、少女を責め苛む。
 しかしその少女はただの少女ではない。
 ここより遙か遠く離れた時と場所、デルフィニアの地において獅子王と讃えられ、生きた伝説とまで謳われた英雄の中の英雄である。
 ならばこそ、彼女の辞書に敗北の二文字はない。如何なる苦境も乗り越えてきた、自負と実績がある。
 だが、今彼女の前にいるのは、紛れもない強敵だった。
 タンガの狂った天才とも、バラストの古狸とも方向性の違う、最強の敵。ひょっとしたら、怒りに我を忘れた王妃よりも、更に難物。
 少女の中に宿る、男としての――覇王としての誇りを粉々に砕く、魔物。
 知らず、ぽたりぽたりと、鏡を睨んだガマのような汗が、少女の顎先から滴り落ちた。
 少女は、王として生き抜いた前世の記憶を頼りに、何とか自分の生還する方策がないものかと頭を悩まし、知恵という知恵を絞りに絞って――その度に深い絶望を味わった。
 そして最後に、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。

「しかし、しかし、これを……これを着ろというのか……」
 
 少女の、まるで親の敵を睨みつけるような視線の先には、膝の上にちょこんと置かれた布きれがある。
 震える指先で摘んで、おそるおそる持ち上げてみる。
 少女自身の感覚からすれば、奇抜な、いや、奇抜に過ぎる衣装だった。
 色は、赤い。血潮の、そして情熱の色だ。
 てかてかと、真っ赤なエナメル質の素材が光を跳ね返し、まるで濡れたように輝いている。
 もう片方の指で摘んで、その布きれを広げてみる。
 小さい。想像以上に面積が小さい。
 そもそも、これは服と呼ぶべきものなのだろうか?
 服ならば、まず防寒性があるべきだ。そのためには、全身を隈無く覆う布があるべきだ。
 なのに、この服ともいえない衣装には、胸から上を覆うべき部分は一切存在しない。これを着れば、自然と胸から上は衆目に晒されることになるのだ。この服で、一体どうすれば冬の寒気を耐え凌ぐことが出来るだろう。
 そして、女性としてはどうしても衆目に晒すことの出来ない乳房の部位には、流石に控えめながらに小さく膨らんだ覆いが二つあり、そこに何を収めるべきかを自己主張している。しかしそれすらも何とも頼りない有様で、他の部分は袖を通せばピチピチになるくらいに造りが小さいのに、ここだけはどうにもブカブカだ。横からひょいと覗けば色々な部分が見えてしまうのではないかと疑わざるを得ない。
 ではブラジャーの類でもつければいいかといえば、背中の部分の布が尻の少し上辺りまで大きく抉れており、到底その手の下着は着けられそうにない。
 尻のところには、リンゴほどの大きさの白い塊。どうやら尻尾らしいのだが、そんなものが服としての性能を発揮するうえで何の役に立つのか。
 最後に、まるで剣の切っ先のように尖った、股間部分の切れ込み具合。これは、本当に隠すつもりがあるのだろうか。いくら下にタイツを履くとはいえ、それだけで隠せるわけでもなし、ならば最後の砦がこの衣装ということになるはずだが、それも甚だ心許ない。
 というか、食い込む。この角度は、間違いなく食い込む。
 尻にだって食い込むし、その反対側にだって絶対に食い込むに違いない。男だったら、間違いなくはみ出ている。
 バニースーツ。
 当然、もこもことしたファーで縁取られた兎耳カチューシャも、まるで首輪のような黒チョーカーも、網タイツもハイヒールも完備である。
 ウォルは、この不可思議装束一式を身に纏った自分のことに思いを馳せて、暗澹たる溜息を盛大に吐き出した。
 そして、この服を最初に考えついた男(間違いなく男だとウォルは確信している!)に対して、理不尽な怒りが込み上げてくるのを感じた。

 ――一体、どこのどいつがこんなアホらしい服を考えついたのだ!傍迷惑な!

 つくづく、世の男というものは碌な事を考えないと、元・男、しかも国王であったウォルが確信するに足る、なんとも扇情的な――はっきりといえば、下品で馬鹿馬鹿しい衣装であった。

「……シッサスの酒場の踊り子たちだって、もう少し服らしい服を着ていたと思うのだが……」

 遠い昔、悪童のような顔をした己の従弟に連れられて、シッサスの外れにある踊り子の劇場に行ったときのことを、ウォルは思い出していた。
 あのとき、汗に濡れた薄っぺらな衣装を纏って、恍惚とした表情で踊っていた女達。中には年端もいかない少女もいた。
 彼女達は一様に、男の欲望を煽るような、媚びるような表情で踊り狂い、最後には自分達を買った客と共に、劇場の二階へと消えていった。そこで何が行われたのかなど、言うまでもないことだ。
 別に、彼女達を蔑むつもりはない。社会の機能の一つとして、男達の欲望をガス抜きする存在は必要不可欠なものだ。過ぎれば風紀の乱れを呼ぶが、適度であれば寧ろ社会の潤滑剤になり得る。酒や煙草と同じものだ。
 だが、それとこれとは話が別だ。まさか自分がその一員となるなどと、一体どこの男が考えるだろう。
 果たして何度目か知れない、猫のような唸り声を発して(前の体であれば獅子のような唸り声だったはずだ)ウォルは悩みに悩んだ。
 そして、再び呟いた。
 
「……この服を着るのは、百歩譲って認めるとしよう。気に食わない男どもの酌をするのも、我慢する。しかし、しかし――」

 その先が無いと、どうして言い切れるだろう。
 まさか、自分が酒で酔い潰れるとは思わない。
 しかし、それ以外の危険は?
 ウォルは、自分がリィほどに薬物に対して敏感ではないことを理解している。
 ならば、自分の飲み物に、誰かがさっと薬物を入れれば――。
 そして前後不覚になった自分は宿屋の二階に連れ込まれ、服を脱がされ、オーロン王やボーシェンク公のような脂ぎった中年男性の慰み者に――。
 ぞぞぞ、と、ウォルの背中を悪寒が貫いた。

「だだだ駄目だ駄目だ駄目だ!冗談では無いぞ!」

 想像しただけで、全身の鳥肌という鳥肌が一斉に膨れあがった。髪の毛までがブワリと膨らみ、まるで緊張した猫のような有様だ。
 真っ青に青ざめたウォルは、腕で肩をかき抱き、黄金の毛並みをした狼のことを思い浮かべて、ようやく人心地ついた。
 そもそも、黄金の狼――自分が夫と定めたリィにだって、未だ身体を預ける気には到底なれないウォルである。それが、見知らぬ他人の、しかも男に抱かれるなど、正しく悪夢としか言い様がない。
 ならば――。

「――断るか」

 それが最も簡単で安全な気がする。そして彼らに別れを告げ、この星でゆっくりと彼らの到着を待つ。遠からず彼らと合流した自分は、意気揚々とこの星から離れ、メイフゥ達とも二度と顔を合わせることはない。
 普通の人間ならばそうするだろう。
 だが、ウォルはやはり難しい顔で、首を横に振った。

「……駄目だ。受けた恩は必ず返す、それが男としての、いや、俺が俺であるための最低限の礼儀だ」

 とすると、今のウォルに残された選択肢はただ一つ、目の前の衣装を纏って夜の街で働くことだけである。
 しかしそれはやはり――。
 際限のない懊悩に取り憑かれていたウォルに耳に、野放図な、それとも豪快な女性の声が飛び込んできた。

「なんだぁ、ウォル。お前、まぁだつまらねえことをグチグチ悩んでやがんのか?」

 ようやく顔を上げたウォル、彼女の視線の先には、開け放たれた扉と、そこに佇む女性がいた。
 リィとは違う、少しくすんだような、腰まで届く金色の直毛。
 褐色に灼けた肌と、逞しく引き締まった身体。
 端正な顔だちの中で、ぽってりと色っぽい厚めの唇が目を引く。
 今、そこには男を誘うように鮮烈な紅が引かれている。
 そして、獲物を射殺す鷹のように鋭い視線は、今や嗜虐に充ち満ちている。
 ウォルは、その女性のことを知っていた。無論、その名前も。
 
「……メイフゥどの……」
「いいか、ウォル。こいつは武器だ。あたしら女が、馬鹿な男共をたぶらかしてその財布の中身を差し出させる、金と身体を天秤に賭けたいくさの武器なんだよ」

 そう誇り高く言い切ったメイフゥは、既にバニースーツに身を包んでいる。
 硬質な、針金を思わせるピンとした金髪の根元から、如何にも場違いな白い耳が突き出し、首には自分が男の所有物であることを示す首輪のような黒いチョーカー。その、世の男性の理想を体現したように豊満な身体を小さな布きれで包み、しかしほんの少しだって恥ずかしがる素振りを見せない。
 まるで、戦装束に身を包んだ歴戦の戦士のように、そこに佇んでいた。
 背を柱に預け、腕を組み、斜に構えた視線でウォルを射貫きながら、佇んでいた。
 そんな風貌にも関わらず、メイフゥは実年齢はウォルの宿った少女のそれと大して離れていない。見た目は、雌虎と子栗鼠ほども異なるというのに、だ。
 その雌虎が、重々しく言った。
 
「戦いってやつは、いつだってそうだ。間抜けな奴から死んでいく。この場合、間抜けな奴から男に食われていくのさ。なぁ、ウォル。お前は馬鹿じゃねえだろう?なら、精一杯に媚びを売って、男共の鼻の下を伸ばしてやりゃあいい。あいつら、こっちが少し気のある素振りを見せてやりゃあ、面白いくらいに金を吐き出すぜ。いっぺんやってみりゃあ、あの感覚はやみつきだ」

 その瞳は雄壮。
 その体躯は歴戦の勇士のそれ。
 間違いない、彼女は、戦士としての魂を身に宿している。
 
「だからウォル、お前も来い。あたしが、お前を一人前の戦士に仕込んでやる――!」
「……メイフゥどの!」
「行くぞ、男と女の戦場へ――!」

 そして、ウォルは、女戦士の差し出した手を――!

「全身全霊でお断りするっ!」

 思いっきりはたき落としたのだった。
 ぺちんと、可愛らしい音が盛大に鳴り響いた。

「ってえな!ウォル!てめぇ、今更何言ってやがる!敵前逃亡は死刑、古今東西全ての軍隊の常識だぞ!」
「やはり駄目だ!何と言われようと無理なものは無理だ!誰がこんな服着てられるか!確かに卿らには深い恩義があるが、出来ることと出来んことがある!そもそも、こんな服を着ることとヤームル殿の戦いと、どう関わるというのだ!」

 ウォルは、手にしていたバニースーツを、やはり全身全霊の力で床に叩き付けた。

「帰る!俺は俺の家に、今すぐ帰るぞ!」
「バカヤロウ!どんな戦いだって、まずは情報戦だ!酒に酔わせた馬鹿な男連中に、しなを作って情報を引きずり出す!別に難しいことじゃねえだろうが!この服着て、男と一緒に酒を飲んで、ちょっと乳を揉ませたり尻を撫で回させてやるだけのことが、どうして出来ねえってんだ!」
「どうしてもだ!十分に許容の範囲外だ!」

 女性相手にここまで声を荒げる辺り、ウォルも平静ではない。対するメイフゥは、わりといつも通りである。
 二人が怒鳴り合う有様は、虎と栗鼠が唸り声を上げて向かい合っているような、どうにも緊張感の無い様子だったが、当人達は真剣だ。
 ひとしきり怒鳴りあった二人は、激しく肩で呼吸しながら睨み合った。

「……おい、ウォル。てめえ、どうしても着ねえってんだな……?」
「……ああ、すまんメイフゥどの。卿らより受けた恩義は、いずれ返させていただくが、それは今ではないようだ」
「……その言葉を、あたしに信じろってのか?文無しのお前の言葉を信じろと?」
「……それでも、だ。俺にも譲れないものがある」

 二人の会話に歩み寄りの妥協点は見つからない。
 じりじりと、焼け付くような視殺戦は、しかし。
 メイフゥが、にやりと笑い。

「そっか。ウォル、無理を言って済まなかったな。あたしも大人げなかったよ」

 ふっと、肩の力を抜く。
 つられて、ウォルも肩の力を――。

「分かってくれたか、メイフゥどの」
「こんなこと、口で分からすのがどだい無理だったんだ。一度着てみりゃあ、なんてこたぁないのがよく分かる」
「……はいっ?」

 その刹那、ウォルの視界で、メイフゥの巨体が大きくぶれた。
 次に、何か、大きな力が自分を吹っ飛ばしたのだと知る。
 どさりと、背中から床に倒れる。
 メイフゥの、素晴らしい早さのタックルだった。
 ウォルは最初、自分が何をされているのか分からなかった。それほどに、メイフゥのタックルは速く、美しかったのだ。
 動き始めた瞬間には、ウォルの身体に触れていた。
 ウォルの身体に触れた瞬間には、既に押し倒していた。
 押し倒した瞬間には、既に馬乗りになっていた。
 一連の動作が、流れるように無駄がない。魔法のようなタックルだ。それは、メイフゥが自分の弟をいじめるために習得した珠玉の技なのだが、ウォルが知るよしもない。
 後頭部を板張りの床にぶつけて、軽い脳震盪を起こしていたウォルは、いつの間にか自分が天井を見上げており、身体の上に誰かがのし掛かっていることを認識する。
 次に、自分と電灯の間に、肉食獣の笑みを浮かべた女性の顔が浮かび上がり――。

「さぁて、ウォルちゃぁん。たぁのしいたのしい、お人ぎょ遊びの時間だぜぇ。可愛い可愛いお服に、お着替えしましょうねぇ!」

 ウォル用に仕立てられたバニースーツ片手に、メイフゥは思い切り舌舐めずりをした。
 まるきり、か弱い女性に襲いかかる不埒な男、そのままの有様で。
 見上げるウォルは、心底この女性を恐怖した。
 そして、叫んだ。
 手足をばたつかせながら、力一杯、腹の底から叫んだ。

「やめろ、変態、痴漢、変質者、性犯罪者、女ナジェック――!!!」
「暴れるんじゃねえ!うぶなねんねじゃあるまいし、黙って天井の染みの数でも数えてやがれ!あとあたしは痴漢じゃねえ!痴女だ!」
「堂々と言えたことかー!」

 ウォルという少女が、初めて他人の手で裸にひん剥かれた瞬間だった。
 その相手が男ではなく同年代の少女であったことは、ウォルにとって幸か不幸か、それは神のみぞ知ることである。 



[6349] 幕間:Who killed Cock Robin
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2010/01/01 21:17
 その部屋を、どう表現したらいいだろうか。
 まず、狭い部屋だった。
 かたちは正方形、一辺は五メートルをどれだけ超えているか。
 天井も低く、自分の身長に自信のある人間であれば、中腰にならなければ頭をぶつけてしまう程度の高さだ。
 中にいるのは両手の指でお釣りが来るほどの人数でしかなかったが、それでも若干、いや、かなり息苦しさを感じてしまう部屋である。到底、紳士淑女の社交の場として相応しいとは思えない。事実、中に集まっている人間も、ごく一握りを除けば紳士と評するには抵抗のある、陰の濃い顔が並んでいた。
 次に、臭う部屋だった。
 生き物の腐敗した臭いではない。糞便の臭いでもないし、体臭でもない。
 もとは香の匂いらしかった。本来は精神を落ち着ける清涼な香りのはずのそれが、何年も炊き込める内に部屋そのものに染み付き、また部屋の主が変わる事に香の趣味も変わるものだから幾重にも重なり、形容し難い悪臭を放つようになっている。慣れれば違ってくるのかもしれないが、初めてこの部屋に入る人間には吐き気を催す臭気に感じてしまう。
 客人の幾人かは、出来るだけ目立たないように配慮しつつも、ハンカチや服の袖などで鼻を覆う動作を繰り返していた。また、なにがしかの言い訳を作って部屋から出ては、廊下で深呼吸を繰り返したりした。
 最後に、黒い部屋であった。
 壁紙や家具の配色の問題ではない。そもそも、色彩の問題ではない。
 それは、空気の色であった。
 もう少し限定していえばそれは吐息の色であり、眼光の色であり、体温の色であった。
 最も突き詰めれば、この部屋にいる人間の思考の色であった。
 毒々しいとか、禍々しいとか、そういう意味ではない。黒という色の持つ、最も根源的な意味合いで、彼らの思考は染め上げられていた。
 もう、他のどんな色にも染まらない、という意味だ。
 それが、彼らの話し言葉の端々から、澱みながらも揺るぐことのない眼光から、狂熱に満ちた心音から、彼らの存在そのものから部屋中に発散されている。だから、その部屋は黒いのだ。
 狭く、臭く、黒い部屋。
 板張りの床にいくつかの座布団が置かれ、その上に幾人かの人間が腰掛けている。
 中央には不思議な幾何学模様を大きく編み込んだ仰々しい織物が置かれており、中央に置かれた古めかしい香炉からは赤紫がかった煙が立ち上っている。今のこの部屋の主の趣味らしいのだが、どう考えても心地良い香りではない。
 そこをぐるりと取り囲む形で、全員が車座になっているのだ。
 自然、どこへ視線を寄越そうと、正面あるいは横手に座る人間の、不景気な顔が目に飛び込んでくる。多くは頭をつるりと丸めた坊主であり、独特の分厚い法衣の中に、まるで用心深いヤドカリのような有様で顔を引っ込めてしまっているから、ぎょろりとした目玉だけが不自然に浮かび上がり、不気味この上ない。
 およそ快適という表現から最も遠いその部屋に、場違いな男が一人いた。
 まだ年若い男である。
 ぱりっとした仕立てのいいスーツを隙なく着こなし、豊かな赤銅色の髪には綺麗に櫛が入っている。
 どこか貴公子然とした男で、その瞳には一定水準以上の知識と教養を修めた人間のみが持つ、知性の輝きがあった。しかしもう少し洞察力のある人間であれば、その奥に、傲岸不遜な、そして暴力的な、どろどろとした溶岩の如き塊を見いだしたかも知れない。
 その男、ルパート・レイノルズは不機嫌な調子で腰掛けていた。
 先ほどから、最もこの部屋を出て行く回数が多いのが、彼だ。
 精気に満ちた緑色の瞳を嫌悪と不快に歪ませつつ、どうして毎度毎度こんな部屋で会合を開かなければならないのか、内心でヴェロニカの神に恨み言を叩き付けている。この部屋に長い時間居ると、その不快な臭いがスーツに染み付き、クリーニングに出した程度では取れなくなるのだ。
 別にスーツの一着や二着に困るほど困窮した生活を送っているわけではないが、忌ま忌ましさというのは金銭的な問題とは別の場所から生じるものだから、彼はこの部屋には可能な限り寄りつきたくないのだった。
 他の人間はどうなのだろうかと辺りを見回せば、坊主どもの景気の悪い面以外に、自分と同じようにスーツを着た男がもう一人いることに気がつく。
 ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた少壮の男――ルパートの父の第一秘書で、確か名前をアイザック・テルミンと言っただろうか――が、何が楽しいのか分からないうすら笑いを浮かべて、車座から外れた端の方の席に、ちょこんと腰掛けていた。
 何度か、ここ以外の場所で顔を合わせた間柄ではあるが、どうにも気に食わない男だった。にやにやと嫌みったらしい笑みを常に浮かべていて、何を考えているのか分からない、掴み所のない人間なのだ。ルパートは、そういう人間が一番嫌いだった。
 アイザックは自分を見るルパートの視線に気がついたのだろう、やはりにやにや笑いを浮かべたままルパートの方に視線を寄越して、軽く目礼した。
 気分が悪い。ルパートの口の中を、酸っぱい唾が満たしていった。自分はこの会合の主催者側の人間であり、おまけとして顔を出すことを許された秘書如きとは格というものが違うのだ。
 そんな男に目礼されて、嬉しいはずがない。挨拶をするならば、地に這いつくばり、額を床に擦りつけながら、精一杯に卑屈な声を絞り出してするべきだ。この男にはその程度のことも分からないのだろうか。
 ぷいと顔を逸らすと、今まで耳に入ってこなかった、しゃがれた声の議論が聞こえた。

「それにしても、ビアンキ老の頑迷さにも困ったものだ。これだけ民衆の声がはっきりとかたちになっているというのに、未だ過去の栄光に縋り、新しい時代の訪れを認めようともしない」
「この国は元々の発生がヴェロニカ信徒の努力の賜なのだ。ならば、政治と宗教が関わらないなどどだい不可能な話。我らが政治に不干渉であろうとするのは、言い換えれば逃げではないか」
「その逃げが、ヴェロニカ教の腐敗と衰退を招いた」
「ならばこれからは、我らヴェロニカ教の指導陣が積極的に政治介入し、万人を導くべきだ」
 
 まるで干物の声帯を震わせたような声は、一体どの木乃伊が発したものなのか、ルパートに興味はない。目の前に並んだ有象無象は彼にとって悉く無価値なものだった。
 ヴェロニカ教が彼にとって価値があるとすれば、自分の行為を宗教的な意味合いで後押ししてくれる、精神的象徴としての役割であったが、それも既に必要とする段階を過ぎつつあるように思われる。警察や軍隊ですらが、彼の作り上げた組織――憂国ヴェロニカ聖騎士団の前では借りてきた子猫のように大人しくなるのだ。
 ならば、ルパートにとってこの不快な会合に顔を出すことは、極めて無価値な行為であるということになる。憂国ヴェロニカ聖騎士団が不貞の輩から吸い上げた喜捨は、その一部が目の前に座った坊主達の懐に消えているはずであり、自分は不必要なほどに彼らに報いているのだ。これ以上何かしてやる義理はない。
 同じ無価値な行為に時間を潰すのであれば、偶然にも彼の手元に転がり込んできた幸運な少女達を可愛がってやったほうが、幾分生産的だというものだろう。
 ゆるみ始めた口元を意識して取り繕ったルパートは、とりあえず真面目なふりをして目の前で交わされる会話に耳を傾けた。

「老師連中は、ヴェロニカ教を取り巻く環境がこの数年でどれほど激変したか、それが分かっておられない」
「応よ。民衆の範となるべき政治家達が自ら進んで肉食を行い、民衆はそれを嘲笑い、しかし現世利益の名の下に外から来る生臭連中に肉を提供する。それは自らが肉を喰らうと同じく、極めて罪深い行為であるにも関わらず、だ」
「嘆かわしい。何より嘆かわしいのは、この状況を作り上げた現ヴェロニカ教の指導者達に罪の意識も無ければ、危機感そのものが欠如していることだ。あれにはもはや老師を、いや、ヴェロニカ教徒を名乗る資格すらないと判断せざるを得ぬ」
「然り、然り」

 あちこちから賛同の声が上がる。ルパートは内心辟易としながら聞いていた。
 いつものことである。いい歳をした大人がこんな狭苦しい部屋に集まり何をするかと思えば、常日頃から腹の中に抱えている不満や鬱憤をぶつけるだけ。散々唾を散らし空気を汚しておいて、では結論が出るのかといえばそんなことはない。
 全く生産性のない、自慰行為そのものの議論である。ならば公園で太極拳でもしておくほうが健康維持に役立ちもするだろうに。ルパートは嘲笑を隠すことが出来ない。大言壮語も結構だが、まずは己の分というものを弁えるべきだ。
 
「諸兄らの仰ること、いちいち至極ご尤も」

 一際若々しく、張りのある声が、際限の知らない不平不満の嵐を押しとどめた。
 声の主は、この狭い部屋の一番奥、上座と呼ばれる席に座っていた。しかし、彼はヴェロニカ教の内部においては、老師はおろか導師という立場ですらない。
 身に纏っているのは、紫糸で織られた法衣である。それはヴェロニカ教では最高位の老師しか纏うことの許されない法衣であるのだが、この場にいる導師達の誰もがそのことに異を唱えない。上座に座った男には、それだけの力が備わっているのだ。
 法衣の奥に光る視線は、生気が無く、しかし妄執に取り憑かれた幽霊のように不吉を覚える青。どろりと濁った白目と相まって、死んだ魚の目にも見える。
 アーロン・レイノルズ。現ヴェロニカ共和国の大統領、その人であった。そして、ルパート・レイノルズの父親でもある。
 
「確かに、現在のヴェロニカ教の堕落の程度、全く目を覆うばかりの惨状である。故に、我らは立ち上がった。そして我らの志はヴェロニカの民の支持されるところとなった。頂上までの道のりは果てしなく険しいが、まずは一歩目だ。それは喜ばしいことではないか」

 アーロンの言葉には、確かに人を惹き付けるものがあった。
 しかしそれは、例えるならば深淵から伸びた手が縁に立つ者を深みへと引きずり込むように禍々しいものであり、暗いところからより暗いところへと人を誘う声だ。だからこそ極度の混乱状態にあったこの星で、誰もが羨む最高権力を手にし得たのかも知れない。
 この場に居合わせたヴェロニカ教の若き指導者達も、アーロンの声を聞いて、萎びた顔を赤らめながら熱心に頷いた。その目には、憧憬とか崇拝とか信奉とか、既に自己で考えることを放棄してしまった者の光が色濃かった。
 アーロンはその光を見て満足げに頷き、自分の言葉を待ち侘びる己の信徒に向かって仰々しく言った。

「そもそも、この国が共和連邦などという俗物の集合体に加盟したこと自体、大きな間違えであった言わざるを得ない。いい機会だ、これを機に我らは真に自立した政府を構築し、その中でヴェロニカ教徒としての義務を果たしていこうではないか」

 彼がこの星の大統領になり、各種の外国人排除的な政策を数多く打ち立ててから、共和連邦におけるヴェロニカ共和国の立場は急激に悪化している。それに加えて、他の加盟国からは、ベロニカ共和国を旅行中であった自国民が行方不明になっているため、その捜索および事態の解明について強い要望が寄せられているのだ。
 また、各国の大使館からは、ヴェロニカ共和国に『憂国ヴェロニカ聖騎士団』と自称する無頼漢が我が物顔で街を闊歩し、ヴェロニカ教徒以外の民衆――中には当然外国人も含まれる――に対して暴行を加え、警察がそれを取り締まろうともしない現状についての報告も寄せられている。
 国際社会におけるヴェロニカ共和国の命数は、もはや風前の灯火と言ってよかった。遠からず共和連邦の最高総会にてヴェロニカに対する非難決議が採択され、その後にはお決まりの経済制裁、最悪の場合は連邦を除名されるだろう。
 ヴェロニカ共和国の外交官あたりは自国の権益を守りために夜も眠らず奔走しているのだが、枝葉がどれほど懸命に栄養を作ろうとも根が腐っていれば木は枯れるのであり、この場合の根は、少なくとも共和宇宙の一般的な価値観に照らせばこの上なく腐りきっている。
 他のヴェロニカ教徒が聞いても気が狂ってしまっているとしか思えない台詞を誇らしげに言ったアーロンであったが、この場に居合わせた人間は感動に胸を震わせながら彼の言葉を聞いた。そもそもこの国は自国の農作物生産だけで食糧の供給必要量を賄うことが出来るのであり、いわゆる嗜好品にさえ目を瞑るのならば恒星間の輸出入はごく少量で構わない。ヴェロニカ教の教義さえ守っていれば人は幸福に生きることが出来るのだから、それ以外は完全に切り捨てて何が問題なのか――。
 流石に公式の場では表明しない彼らの真意を、ルパートは冷ややかに聞いていた。
 彼はこの場に居合わせていることからも分かるとおり、またヴェロニカ共和国の国民の大半がそうであることからも分かるとおり、ヴェロニカ教の信徒である。
 しかしその頭に『敬虔な』と付けるには十分以上に問題のある信徒であった。前回大統領選挙の最有力候補であったマークス・レザロのように他人に尻尾を掴ませることはないが、肉食を好んだし、共和連邦加盟国であれば必ず法律で禁じられている各種の禁制薬物も嗜んだ。酒色も好み、特に拐かした年端もいかない少女をいたぶるのが何よりも好むところだった。
 だからこそ、ルパートにはヴェロニカ教を、そして現在のヴェロニカ共和国の現状を冷静に見ることが出来る。些か皮肉なことではあるが、現在のヴェロニカ共和国の窮状を招いた張本人の一人である彼が、最もこの国の現状を理解していたのだ。
 そして彼は思っていた。この国は、長くないと。
 遠からずこの国は国際社会から弾き出され、正しく辺境の一惑星に堕とされるだろう。そうすればこの国を支える有力企業は軒並みこの星から逃げだし、瞬く間に星全体が窮乏することになる。あとは丸石が坂道を転がり落ちるが如くだろう。一部の人間がゴミ屑同然の富を独占し、残された人間には今日の食糧を確保するのもままならない泥水色の明日が待っている。
 難民は溢れ、この星全体がテロリストや海賊といったならず者の温床となり、武器や麻薬、奴隷といった非合法の商品が売買されるブラックマーケットとなる。
 果たしてそこまで堕ちるのにどれくらいの年月がかかるかはわからないが、このままアーロンのような指導者に舵を任せ続けていれば、それは遠い日のことではないように思われた。流石に愚かな国民もどこかで気がつくだろうが、その時にはルパートの育てた憂国ヴェロニカ聖騎士団という暴力機関が国民の口を塞ぐことになる。
 上出来だ。ルパートはほくそ笑んだ。
 堕ちるところまで堕ちればいいのだ。どうせ自分が旨い汁を吸い尽くしたあとの、干物のような国である。その時には、自分はこの惑星に地表ではなく、どこか、楽園のような南国の島で長いバカンスを楽しんでいるのだろうから、残された人民の悲嘆の声は届かないだろう。
 彼は最初から最後まで勝つつもりはなかった。最後に勝っていた人間が真の勝者だという言葉があるが、彼はそれを一面で真実であると知りながら、しかし全てに通用する真理であるとは考えていない。
 要するに、負けなければいいのである。勝って勝って、適当なところで勝負の舞台から下りればいい。そして勝ち分を大事に抱え込めば、あとは薔薇色の人生が待っている。
 だが、既に彼の懐には一生遊んでも使い切れないだけの富が転がり込んでいるものの、まだ少し足りない。それに、大統領の息子としてやりたい放題振る舞うことの出来るこの星の環境というのも、彼の肥大した自尊心を満足させるに十分な環境だったからそう簡単に捨てる気もない。
 ルパートが探しているのは、機会だった。この泥船から金銀財宝を抱えて下り、安全な対岸へと乗り移る機会。それを彼はずっと探していたのだ。

「して、如何いたしますか、大統領。現在のヴェロニカ教の上層部の罪のあるところ、万人に明らかかとは思いますが」
「何らかの制裁を加えぬわけにはいくまいな。特にミヤ・ビアンキをはじめとした首脳陣については、ヴェロニカの神がお許しになるまいよ」
「旧害は一掃して新しい風を吹き込まねば、早晩ヴェロニカ教は塵芥の如く宇宙に点在する宗教と同じ地位まで堕ちるでしょう。この時代に我らを使わされたのは、正しく神のご意志に他なりません。今が踏ん張り所でしょうな」
「では、今こそヴェロニカ教があるべき形に戻ったのだと、万人に知らしめねばなりますまい。次の回帰祭こそその好機と言えるでしょう」

 回帰祭とは、ヴェロニカ教の最も神聖なる祭事の一つである。
 人は、自然より生まれた。しかし、自然と共には生きられない、罪深い生き物である。だからこそ自然の循環から離れ、自分達で作り上げた農作物だけで生活し、自然の循環を乱さないよう努める。それこそがヴェロニカ教の真髄である。
 だが、人が生きる以上、自然の循環に全く関わらないなど、到底不可能である。人が息をすればそれだけで大気は汚れる。人の排泄物は、微生物の助け無しでは浄化できない。人の生きる場所を確保すれば、その分だけ野生動物の生きる場所は狭くなる。
 やはり人は罪深い。だから人は、生きているだけで自然に対して計り知れない恩義を背負っているのだ。
 ならば、それを返さなければならない。
 そのための祭事こそ、回帰祭である。
 祭事の内容そのものは、原始宗教にありふれた、生贄を神に捧げる人身御供の儀式である。しかし当然のことながら生きた人間を犠牲にするわけではない。その代わりに、人の形をした人形を用意し、中にたっぷりと食べ物を詰めてやる。それを回帰祭の祭壇に置き祈りを捧げた後で、未開の野に放り投げるのだ。
 当然、人身御供――人形は野生動物の餌食になる。この場合、人形に詰められた各種の食べ物の意味するところは、人の肉であり人の血である。それが野生動物に食われることで、自然の循環の中に戻るのだ。
 要するに、人が自然より奪ったものを人の血肉のかたちで自然の循環の中に戻そうとする。それが回帰祭の主旨である。
 
「今年の回帰祭は、古来の様式に則った、荘厳で、そして古今類を見ないほどに盛大なものにしましょう。そこで閣下が今までの世俗に塗れたヴェロニカ教の在り方を反省し、神の教えに立ち返る旨の宣言をなされれば、国民の蒙も啓けようというもの」
「なるほど。少々時間が差し迫っておりますが、しかしやってやれないことはありますまい。幸い、もっとも準備に時間のかかる祭壇については、昨年竣工したスタジアムがありますからな。あそこならば交通の便もよく、信者も集まることでしょう」
「うむ。ヴェロニカの神の威光を、そして我ら新しいヴェロニカ教指導者達を万人に知らしめるに、これ以上の舞台はないでしょう」

 熱の入った議論が交わされる。
 今の今まで、まったく日の目というものを見たことのなかった連中だけに、その反動というべきか、枯れかかった瞳に狂熱じみた何かを宿らせながら議論は終わることはない。
 だが、それを冷ややかに眺める、若々しく生気に溢れた声が議論を中断させた。

「台下の皆様方の仰ること、なるほどと頷くばかりですが、しかしそれだけではあまりにも、何というか、その、弱いのではないでしょうかな」

 若干の笑いを含んだ声が、全員の視線を集めた。
 声の主は、にやにやと、やはり人の神経を逆撫でするような笑みを張り付かせていた。
 アーロンの第一秘書である、アイザック・テルミンであった。

「テルミン殿、それはどういう意味かな?」

 この場に集まった導師の中でもリーダー格の男が、声を潜めながら言った。
 もともと、テルミンは歓迎されてこの場にいるのではない。そもそも彼はヴェロニカ教徒ですらない、ただの政策秘書の身分である。
 どこの馬の骨とも知れない男が何故、明日のヴェロニカ教の方向性を決めるといっても過言ではないこの重要な会合に、何の資格も無く出席しているのか。
 ぎろりとした視線を受けて、しかしテルミンはにやにや笑いを収めようとはしなかった。

「言葉の通りです……といっても、あなた方には些か分かりづらいでしょうな」
「それは、侮辱の言葉と受け取ってもよろしいのか!?」

 声を荒げた導師を前にして、やや困った様子でテルミンは手を前に出し、癇癪を起こした幼児に言い聞かせるような口調で、

「滅相もない。そもそもワタクシ如き俗物が、神聖なヴェロニカ教の最高指導者である老師台下を前にして、そんな恐れ多いことを言えるわけがないじゃないですかぁ」
「導師だ、今のところはな」
「おお、これは失礼。しかし明日にはその呼称も相応しいものになるでしょう」

 ふん、とふんぞり返った男だったが、しかし悪い気はしていないらしい。自尊心と虚栄心と栄達への野望の大きな人間ほど、自分の地位より高い呼ばれ方をして臍を曲げることはないものである。

「ではテルミン殿。貴方の仰る弱いとは一体?」

 別の導師が尋ねた。
 テルミンは、やはりにやにやと笑いながら、

「ワタクシはヴェロニカ教徒でありませんが、だからこそヴェロニカ教徒いうものを外から眺めることができます。だからこそ思うのですが、ヴェロニカ教というのはなんとも寛容な宗教ですなぁ」
「寛容と」
「はい。確かに戒律はたいへん厳しい。肉を食べてはいけない、自生している植物を食べてはいけない、人工甘味料や化学調味料を食べてはいけない、森や平野を無秩序に開発してはいけない。ええ、ワタクシ如きの俗物には一日だって守れない、たいへん厳しく、そして崇高な戒律であると存じます」
「ふん、まったくもってその通りだな」
「しかし反面、それを破った時の罰というものがあまりにも寛容なことに驚きますなぁ。例えば戒律に背いて大っぴらに肉を食べたとしても、その背教者を破門にすることはせず、背教者本人の良心に期待して自ら教義を下りるのを待つだけ。野生に生えているリンゴを子供が囓ったとしても、せいぜい大声で怒鳴り諭すだけ。いや、これでは余程自分に厳しい、例えばここにお集まりの方々のように自制心のある人間でなければ、箍が緩むのも無理からぬこと、そう思えるのですよ」

 確かにそれは、この場にいる全員が苦々しく思っている事実であった。そして、現在のヴェロニカ教首脳陣に対する強い不満の拠になっている点でもある。
 この場にいるのは純粋培養のヴェロニカ教徒である。それゆえ、自分達の輩と呼ぶに相応しいのは、やはり真にヴェロニカ教の教えに身を捧げている者だけだと考えている。ならば、表面では敬虔な信徒のふりをしながら、裏では肉食の大罪を犯している人間のことを疎まないはずがない。
 彼らは常々、そのような人非人は死をもって罪を報いるべきだと思っているのだ。
 ヴェロニカ教徒ではないテルミンにその事実を指摘されたことは業腹ではあったが、積極的な反論材料も見つからず、彼らは黙り込むしかなかった。
 自分に集中する憎々しげな視線を心地良く思いながら、テルミンは続けた。

「だからこそね、ワタクシは思うのですよ。この機会に、罰というものを設けては如何かと」
「罰だと?」
「ええ、罰です。言い換えれば、鞭とも言えるでしょうな。元来人とは愚かなもの。上手く導くには、飴と鞭が欠かせません。そして、ヴェロニカ教の教義には鞭の部分が、弱いように感じるのですよ」
「それが先ほどの、弱いという意味か?」
「いえ、違います。ワタクシが先ほど言いたかった弱さとは、そう、インパクトの弱さです。回帰祭を盛大に催す。それはよろしい。その場で、今の柔弱な体制からの脱却と、本来のヴェロニカ教の教えへと立ち戻る旨を宣言される。それもよろしい。しかしそれだけで、今の今までヴェロニカ教の教えに唾吐き続けた人間を更正させることが出来るでしょうか?」

 出来る、とは言えない。
 今までにだって、似たような試みはあったはずなのだ。しかし、その結果としての今日がある以上、どれほど盛大に、そして厳粛に祭りを開いたとしても、その効果がどれほどのものか、冷静に考えると疑問符を付けざるを得ない。
 導師達は再び黙り込んでしまったが、この部屋の上座に座る人間が、もったいぶったように口を開いた。

「ではアイザック。お前には考えがあると」

 ファーストネームを呼ばれたテルミンは、したりと頷き、

「レイノルズ大統領、あまり期待されても心苦しいのですが……。例えば、あくまで例えばですがね。今回の回帰祭に限って、その、供物といいますか捧げ物と言いますか……それに、ほんの少しの手を加えてやるというのは如何でしょう?」
「手を加えるだと?」
「ええ。そう、例えば……古来、人がたった一つの惑星の地表に、正しく自然と共に生きていた時代の故事に従った供物を捧げる。これほどのインパクトは、そうないでしょうなぁ」

 ここまで言われて分からないほど、察しの悪い人間はこの場にいなかった。
 しかし真っ先に反応したのは、この考えに一番近い思考の出来る人間であった。
 ルパートが、眠気を飛ばした視線で、テルミンに尋ねた。

「生きた人間を、正しく生贄にするっていうのかよ、あんた!?」
「まぁ、なんと言いますか、これはあくまで例え話ですよ?なので、あまり熱心に聞かれても困るのですが……」
「いいさ、話してみろよ」

 興奮した口調で先を促されたテルミンは、照れたように頭を掻き、

「ワタクシの浅慮で申し訳ないのですが、回帰祭の本質は、自然より人間が奪ったものを自然の循環の中に返すという、いわば免罪的な色彩の強い儀式かと思われます。であれば、その供物は人にとって痛みを覚えるものであればあるほど、自然に対する畏敬の念も強まろうというもの。人形などを用いるよりは生きた人間のほうが、よりいっそうその主旨に適うものなのではないでしょうか。また、生贄には最も罪に塗れ、堕落した者を選ぶ。要するに、最も自然の循環より搾取した者ですな。それを自然の循環の中に戻してやることはその者にとっても救いであると同時に、他の信徒にとっては強い戒めにもなるでしょう。これこそ、ワタクシの申し上げたかった鞭の部分。如何でしょう、素晴らしいアイデアではないでしょうか?」

 しれっとそんなことを言った。
 アーロンのどろりとした瞳には、如何なる感情も浮かび上がっていないように見えた。そしてルパートは隠しきれない興味をその瞳に焼き付かせていた。他の人間の瞳には、明らかな動揺と怯懦が張り付いていた。
 導師の一人が、声を震わせながら言った。

「ひ、人身御供を、生きた人間を野獣の生き餌に捧げると、そういうことか?」
「ええ、ご理解頂いて幸いです」
「し、しかしテルミン殿。そのように非人道的で前時代的な儀式を行うことが、果たして許されるのか?」
「これはおかしなことを仰る。聡明な導師台下のお言葉とは思えませんな」

 テルミンは些か落胆したような面持ちで、

「非人道的、前時代的と仰るが、それは正しく価値観の問題。確かにこの宇宙の大多数を占める価値観、いわば共和宇宙的な価値観に照らせば、生きた人間を供物とするなど野蛮の極み、到底許されることではないでしょう。しかし、その価値観を備えた人間の筆頭である政治家達の腐敗から、今日のヴェロニカ教の危機が生まれたのです。先ほども、共和連邦からの決別を大統領が口にされたばかりではありませんか。ならば、その旧態依然とした考え方を捨て去ることにこそ今回の回帰祭の主旨を置くべきではないかと、ワタクシなどは愚考するものです」
「て、テルミン殿の仰ることは一々ご尤も。しかし、しかし、そのように神をも畏れぬ所業を……」
「なに、別に我らの手で生贄を殺そうというわけではありません。常のとおり、供物を野の獣に差し出すだけでいいのです。今回はそれが人形ではなく、人間であるというだけのこと。もし神がこの行為を好まれぬならば、生贄に捧げられた人間は髪の毛一つほどの傷を負うこともなく生きて返されるでしょう。我らは供物を捧げるだけ。そこから先は神のご意志に任せると、そういうことになりますかなぁ?」

 あくまでにこやかな言い方に、この場に居合わせた人間の大多数は不吉で、そして薄ら寒いものを感じた。
 この男は狂っているのか。口にこそ出さなかったが、しかし多くの者が共有した思考であり、恐れでもあった。
 生きた人間を儀式の生贄として用いる。確かに、文明というものが生まれて間もなくの頃、自然災害と神の怒りが同じ意味を持ち合わせていた頃には頻繁に行われていたことである。また、現在でも一部の偏執的な宗教においては生きた人間を神や悪魔の贄として捧げる行為が生き残っているという噂もある。
 しかし、このヴェロニカ教でそのようなことをしてもいいのだろうか。何か、何か決定的に間違えているのではないか。
 彼らの黒く染まった思考が、僅かに揺らいだとき。
 この国の最高権力者の、地の底から響くような笑い声が、狭い部屋に響いたのだ。

「して、人選は?」

 導師連中は息を飲んだ。
 これで決定だ。事態は、儀式そのものの是非を問う段階から、どうやって儀式を滞りなく進めるかという段階へと移行してしまったのだ。
 数人が再考を求めるために唇を開きかけたが、タイミングを合わせるようにテルミンが言葉を発したため、彼らはそれを飲み込まざるを得なかった。そして、その唇が儀式を中断を求めることは永遠になかったのである。

「古来より生贄には、可能な限り高貴な人間が尊ばれますなぁ」
「では、旧ヴェロニカ教の指導陣でいいか」

 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
 ビアンキ老師をはじめとした現在のヴェロニカ教の指導者達を、野獣の生き餌にするというのだ。
 それはあまりにも、という声が各所から湧き上がった。いくら日頃憎々しく思っているとはいえ、全く知らない顔ではなし、あまりにも残酷なことに思えたのだ。
 テルミンも、首を横に振った。

「良き悪しきを別にして、彼らを慕う信徒はまだまだ数多いのが現状です。今、彼らを儀式の供物としては、さすがに反発も大きいでしょう。彼らはいずれ裁かれなければならない罪人であるとしても、今はその時期ではありますまい。もしくは、別の方法で罰を与えるべきかと」

 テルミンの言葉に、導師達は胸を撫で下ろす思いだった。
 しかしこの時点で、儀式そのものに対する危機感が消え失せているあたり、彼らの思考能力はそれほど高くはなかったようだ。

「では、他の者を選ばねばならんか。あてはあるのか?」
「はい。最初は、一連の騒動のきっかけを作ったマークス・レザロなどが相応しいかと思ったのですが、しかし彼は精神を病んで辺境惑星の一つで療養中であるとのこと。わざわざこの星に召喚するのも不自然ですし、また精神病患者を贄に捧げたところで神も喜ばれないでしょう。他の政治家連中にしても、めぼしい者は既にこの星から追い出しておりますからな。今更帰ってこいと言っても用心深い彼らのこと、我々がこの星の権力を握っている限り、怯えた穴熊の如く巣に籠もったまま震えていることかと思います」

 なにせ、憂国ヴェロニカ聖騎士団の勇士が腐敗政治家に施した説法はかなり情熱的なものであり、彼らは泣いてその罪を悔い、この星から逃げるように立ち去っていったのだ。
 ルパートなどからしても、テルミンの意見は正しいもののように思われた。少なくとも、喉元過ぎれば熱さを忘れる程度の脅し方はしていないはずだ。最低でも、もう二度と惑星ヴェロニカの地表を踏みたくなくなるくらいには脅し痛めつけておけと、厳重に指示を下したのは他ならぬ彼自身なのだから。

「なかなか難しいな」
「ええ、ワタクシも一方ならぬ苦労を味わいましたが……やはり天啓というものですなぁ。ある晩突然に閃きまして」

 戯けた調子で続ける。

「儀式自体の有用性はもはや疑いようもありませんが、しかしその生贄にいきなりヴェロニカ信徒を選ぶとどうしても強い反発が予想される。ならばどうせ一度限りのこと、別にヴェロニカ信徒に限らずともよいのではないかと閃きました」
「つまり、外国の生臭どもから選ぶか」
「回帰祭のそもそもの主旨に鑑みれば、生贄となる人間は出来るだけ自然から搾取した、罪深い人間がいい。ワタクシなどが申し上げるのは僭越ですが、ヴェロニカ教徒の方々は、いくら教えの箍が緩んでいるとはいえ罪の程度はそれほどでもありますまい。ならば、供物には相応しく無い。もっと罪に塗れた、自然の循環に帰るべき人間というのは他にいるはずですからなぁ」
「ならばどうする。外国の生臭の中から、適当に選ぶのか」
「いえいえ、適当ではまずいでしょう。やはり生贄には、高貴な血が尊ばれます。そして、罪の程度は出来るだけ大きな方がいいですからな。一般の旅行者程度ではこの条件を満たしません。そこで……」

 テルミンは懐から一枚の写真を取り出し、座の中央に置いた。
 写真には、どこかの公衆電話から電話をかける、年頃の少女が写っていた。この星には馴染みのない、華やかな装束を身に纏っている。
 ルパートは、穴が空くほどにその写真を見つめた。その少女の容貌が、そして奇抜な装束が、どこか記憶の琴線に引っかかるものがあった。

「この少女など、如何でしょうか」
「誰だ、これは」
「とある田舎惑星の州知事の娘なのですが、彼女の父親である州知事は問題の多い男のようでして。その州知事の為すところ、ヴェロニカ教の教えからすれば正しく悪鬼羅刹が如き振る舞いと言っても過言ではありません。無計画な乱開発により貴重な自然を広範囲に荒らし、いくつもの野生動物の住処を台無しにして、多くの希少生物を絶滅へと追いやったとか。本人も狩猟を趣味とし、いたずらに生き物の命を奪っては骸をただ打ち捨て、食べることすらしない。純粋に、己が楽しむだけのために命を玩具として、恥じ入ることすらないのです。それ以外にも、汚職や賄賂は当たり前、邪魔な政敵は裏で暗殺する、権力にものを言わせて子供の素行不良を揉み消すなどの悪行三昧。善良なる市民達も、その暴力に怯えてものも言えない窮状だそうです」

 呻き声が各所からわき起こった。彼らが信奉するのは惑星ヴェロニカの地表にある自然だけではなく、この宇宙そのものと言ってよかった。だからこそ他の惑星においても肉食や自生植物の摂取は厳に禁じられているのである。
 ならば、他の惑星での出来事とはいえ、テルミンの言う州知事の行いは、彼らの呪いを買うに十分過ぎる行為であった。普通のヴェロニカ教徒であれば、それは他の惑星の問題であると割り切るところだが、そういう意味での柔軟さというものが、この場に居合わせた人間には備わっていなかった。
 彼らは一様に、その州知事の罪深いところを認め、その罪を娘が被ることに対して何の疑問も感じなかった。そんな父親の娘なのだから、本人だって品行方正なはずがないと確信していた。その州知事が真実そのような行為をしているのかどうかを確かめることすらなく、である。
 導師達の反応を確かめたテルミンは、一度頷いてから、
 
「親の罪を子に償わせるというわけではありませんが、その子供が神の裁きを受けたとなれば親は自らの行いを大いに反省し、自らの愚行を悔いることでしょう。その意味で、彼女を生贄に捧げることはたいへん有意義なことかと思われます。また、これは先ほども申し上げたことですが、彼女が裁かれる有様を見れば信徒の方々も緩んだ箍をはめ直して、ヴェロニカの教えに身を捧げることでしょう。当然国際社会からは大きな反発が予想されますが、それもある意味では今後の政策を決定するためのいい機会。どうですか、我らに益するところ多くして害は無し。素晴らしいと思いませんか?」
「素晴らしい!テルミン氏が父の第一秘書に選ばれた理由がよく理解できました!」

 堪えきれない興奮に濡れた声が、テルミンを讃えた。
 テルミンはにやにやと笑いながら賛同者を眺めて、

「ルパート君に太鼓判を押して貰えると、ワタクシも安心できます。ついでに言うならば、その少女は正規のルートで入国した形跡がありません。いわゆる不法入国者、許し難い犯罪者の一員です。であれば、彼女に降りかかる神の怒りも、その一端は彼女自身の責めに帰すということになるでしょう」

 ルパートは力強く頷いてから、更に後押しをした。

「加えて言えば、この少女は私の同士である憂国ヴェロニカ聖騎士団のメンバーに手酷い暴行を加え、団の運営資金の一部を奪っていった強盗団の一味でもあります。映像などはありまえんが、団員から聞き出した特徴と合致しますし、何よりこの特徴的な服からして間違いありません」
「ほう、暴行を加えたと。この愛らしい少女が?」
「見た目に騙されてはいけません。これはおそらくは魔女か毒婦の類です。我が団の日頃よりたゆまぬ鍛錬を欠かさない勇士達が、まさか真正面から戦ってこの少女に負けるはずもない。彼らは口々に、汚い手で闇討ちされたと、悔しいと、涙ながらに話していました」

 テルミンは痛ましそうな表情で、

「団の方々はお気の毒でした。まったくもって許し難い蛮行ですが、ちなみに傷の程度は如何ほど?」
「襲われたのは二十人ほどですが、ほとんどの人間が半死半生。中には意識不明の重体で、半年ほどの入院を余儀なくされた者もいます」
「それは酷い。では彼女に対する裁きの鞭も、その鋭さを増さざるを得ませんなぁ。それに、もしも、もしもその重体患者が、例えば、極めて不吉な仮定ですが……その、お亡くなりでもすれば、彼女は通常のヴェロニカ国刑法に照らしても極刑を免れなくなります。万が一にもそういった事態になれば、儀式の生贄として貴い死を与えられた方が、汚らわしい死刑囚としてむごたらしい死に様を晒すよりも、彼女のためになろうというもの。いや、これこそ天の采配、神の慈悲ですなぁ」

 テルミンはにやついた視線の中に鋭いものを込めて、ルパートを見遣った。
 この場にいる有象無象の輩には全く分からなかったその視線の意味を、ルパートははっきりと悟った。気に食わないことではあるが、やはりテルミンという人間と自分との思考回路は、どこか似通ったものがあるのだろうと判断せざるを得ない。
 ルパートは、昨日手酷くやられた団員の、入院先の院長の名前を思い浮かべた。確か、小金を掴ませれば自分の思い通りの診断結果を出してくれる、便利な人間だったはずだ。ならば、金庫の鍵と暗証番号を漏らすという失態を演じたあの男には、明日のヴェロニカのための肥やしとなってもらうとしようか。

「なるほど。では会衆よ、アイザックの案について、異議はあるか?」
 
 アーロンの言葉に対して、積極的に異を唱える者はいなかった。
 確かに、ヴェロニカ教の教えに反した者には相応の罰が与えられるのだという前例を作っておけば、今後の改革が遂行しやすくなるのは事実だ。それに、その生贄が重大な犯罪者だというのであれば、良心の呵責も少なくて済む。
 しかし、果たしてヴェロニカ教の神への生贄に、ヴェロニカ教徒以外を捧げるというのはどうなのか。そもそも、人身御供という時代錯誤な行いは許されることなのか。
 いくつもの煩悶が彼らの視線を揺らしたが、しかし誰しもが口を閉ざしたままだった。

「であれば、その少女の確保は私に任せて頂きましょう」
「ルパートか。確かに、お前が適任だろうな」
「ええ。私には頼りになる同士がたくさんおりますのでね。明日にでもこの少女を捕まえて、皆さんの前にお目通りすることができると思いますよ」
「分かった。万事お前に任せるとしよう」

 アーロンは息子に対して頷くと、今日の会合の解散を告げ、さっさと部屋を後にした。
 テルミンも、それに続く。
 次に、導師達が無言で腰を上げ、次々と部屋から出て行った。
 そして、ルパートが一人部屋に残った。
 無言で、じっと写真を見つめている。
 先ほどまではあれほど不快だった部屋の臭気も、ほとんど気にならない。ただじっと写真を眺めたまま、依然座っていた。
 写真の中の、黒髪の少女。
 利発で意志の強そうな顔立ち。
 誰もが振り返るほどに美しい顔立ち。
 完全に、彼の好みだった。これほどに自分の理想を体現した少女がこの世にいるのかと、自問したほどだった。
 その少女が、まだ未成熟な身体を華やかな着物の中に押し込め、如何にも窮屈そうではないか。
 これは、誰かがこの着物を脱がし、彼女の肢体を解き放ってやらなければならないだろう。そしてその幼性を思うさまに蹂躙し、嬲り、狂わせてやらなければならない。
 この美しい漆黒の瞳が、薬に溺れ、性の快楽に溺れ、堕落しきった時に、どれほど醜く濁るのだろうか。それとも、やはり美しいものは美しいままに汚れていくのか。
 想像しただけで、彼の股間は充血し、その存在感を増していった。
 そこは、彼の自慢だった。完全に勃起すれば、大人の男の前腕と見まがわんばかりの大きさなのだ。今まで彼が毒牙にかけた少女達は、その大きさに耐えきれず、秘所を血塗れにしながら泣き悶えたのだ。
 果たしてこの少女はどうだろうか。これほど気の強そうな顔立ちだ。力尽くで犯されたとしても、最初は気丈を振る舞い涙も流さないかも知れないが、すぐに赦して下さいと、勘弁して下さいと泣き叫ぶに決まっている。
 それでも折れないほど強い意志を持っているならば、尚のことよろしい。では鞭で打ってやればどうだろうか。蝋燭を垂らしてやれば?焼きごてを当ててやれば?腹が破裂するほどに水を飲ませてやれば?
 薬もいいだろう。処女を、熟練の娼婦が如く乱れさせる薬がある。意識を残したままで操り人形のようにこちらの言いなりにさせる薬もある。それらを投与し散々にいたぶったあとで、自由を取り戻した少女が、乱れ狂った自分を振り返ってどうするか。自殺しようとするかも知れないし、気が狂うかも知れない。無論楽に死なせてやるつもりなど欠片もないが、その嘆き悲しむ様を見るだけでも十分以上に興がある。
 ルパートの歪んだ妄想は尽きることがなかった。彼の頭の中では、中世の魔女に対して行われたおぞましい拷問の数々が、幼気な少女に対して躊躇なく行われていた。
 先ほどよりもよりいっそうその大きさと堅さを増してきた自分の分身に対して、彼は語りかける。
 我慢だ。我慢しろよ。遠からず、お前はこの少女の中で好きなだけ暴れていいんだからな。この少女の処女を無惨に散らし、泣き叫ばさせ、慈悲を懇願させてやるんだ。
 今まで散々嬲り壊してきた美少女達が、一山幾らの醜女にしか思えない程の美少女。ルパートは、この少女を手に入れるために自分はまだこの惑星に残っていたのだと確信した。
 神は、俺にこの少女を手に入れろと仰っている。
 いいだろう。これはあんたになんか渡さない。いや、渡すとしたら俺が骨の髄までしゃぶり尽くした残骸だけだ。抜け殻みたいにぼろぼろでも、あんたは満足してくれるだろう?なんたって、質素倹約を旨とする神様なんだからな。
 ルパートは、だらしなく鼻の穴を膨らませながらほくそ笑んだ。
 父やその取り巻きには、逃げられたと、それとも手違いで殺してしまったとでも報告しておけばいい。そしてこの少女は永遠に俺の飼い犬となって、俺に奉仕し続けるんだ。
 目を血走らせたルパートは、その長い舌で、写真の少女の顔を舐め上げた。
 白い唾液の跡が、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインの秀麗な像を汚した。



[6349] 第三十四話:宴の前
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2010/01/04 16:50
 人間の理解力には、限界がある。
 無論、個人の知性の差によって大きさも違えば深さも違うし、器の形も、中に入れることの出来る知識の質にも違いが出る。
 しかし総じて言えることは、どれほど優秀な人間であっても突然に津波のような驚きを正面からぶつけられては、それを全て飲み込むのは不可能だということ。
 この場合のケリー・クーアと、その妻であるジャスミン・クーアの置かれた状況が、正しくそういう状況であった。
 共和宇宙でも最高水準の知性と肝の太さを誇るこの二人が、グラスの中で氷の溶ける音もどこか遠くの有様で、茫然と目の前の少女を眺めるしか出来なかったのだ。
 もっとも、ケリーにとっては正しく目の前の少女であったが、ジャスミンにとっては自分の膝の上にちょこんと座った少女の後ろ姿であった。

「……と、いうわけだ。どうして俺がここにいるか、理解して貰えただろうか」

 仕事を終えた語り部は、氷が溶け出して若干薄くなった美酒でもって、乾いたその喉を潤した。
 ぐびりと動く細い喉が、妙に艶めかしかった。
 酒を嗜むに相応しい年齢には見えない、少女である。
 化粧を施しても隠しきれない、瑞々しい若さ。というよりは幼さ。
 光が映り込むような黒絹の髪。
 意志の強そうな黒真珠が如き瞳と、卵形に整った輪郭、愛らしい鼻梁と唇。
 酒場特有の薄暗い照明の下でも、その少女の美には些かの綻びも見られない。遠目夜目傘のうちというが、本物の美しさには、それらが傘として役に立たないのだと分かってしまう。
 男性が見ても女性が見ても、保護欲と、父性あるいは母性を刺激してやまない、少女。
 フィナ・ヴァレンタイン。
 しかし、ケリーとジャスミンの思考能力を奪うに至ったのは、彼女の可憐さではありえない。美しい云々の話で言えば、ケリーは同性が見ても溜息しかでないような二枚目であるし、ジャスミンは大輪の薔薇が如き豪奢な美人である。それに、二人の知り合いには正しく天使の現し身としか思えない少年が、四人ほどもいる。
 だから、二人の口から言葉を奪ったのは、全く別の事柄であった。
 つまり、少女の身の上話が原因である。
 目を白黒させていたケリーとジャスミンだったが、いつまでもそのままというわけにはいかない。勇気、あるいは好奇心を振り絞って、なんとか唇を開いた。
 
「その……フィナ嬢、いや、ウォルと呼んだ方がいいのか?」
「どちらでも構わない。どちらも、誇るべき俺の名前だ」
「ではウォル。いくつか質問を……というよりも、確認をさせてもらいたい」

 ジャスミンが、ややしゃちほこばった調子で言った。
 ウィルは首を後ろに捻り、ジャスミンの顔を見上げるような姿勢で答えた。その拍子に、ウォルの頭に設えられた可愛らしい兎の耳がジャスミンの頬を叩いたのだが、ジャスミンはそのことにすら気がつかない様子である。

「うむ、ジャスミン殿。どうぞご存分に」
「先ほどの話からすると、きみはその、ヴィッキー・ヴァレンタインの……きみの呼び方で言うならば、リィの、お嫁さんということになるのだろうか?」
「いやいや、それが何とも複雑な話なのだがな。俺は確かにあいつの伴侶だが、それはあくまで夫としての話だ。だから今の俺は何かと問われれば、リィの同盟者であり、そして夫であり、かつ婚約者である、ということになる」
「うん、それはよく分かる」

 黒髪の少女の話に、ジャスミンは相づちを打ちながら頷いた。
 破天荒な身の上ならば、ジャスミンも相当なものだ。
 致命的な遺伝子疾患を抱えた身でありながら軍隊に入隊し、誰にも負けない戦果を残した。幼少の頃に出会った少年の面影を追って配偶者を捜し、ようやくお眼鏡に適う相手を見つけて戦闘機で鬼ごっこをしてみれば正しくその少年だった。ついに病で倒れ自分は死んだと思っていたら、四十年後の未来に若返った姿で蘇った。
 そこらのラブロマンス小説を探しても、あまりに突拍子もなさ過ぎて、そんなストーリーは見つからないだろう身の上である。
 その彼女をして、ウォルの身の上話は、上には上がいるものだと実感させるに足る突拍子もないものだったのだ。
 それでもその話をよく分かると瞬時に納得できるあたり、ジャスミンの器は大きいのか底が抜けているのか、どちらかに違いなかった。

「俺はあちらの世界で一度命数を使い果たし、天に召された。そして天の国……こちらの世界にて再び命を得て、新しい身体を借り受け、今ここにいる。何の因果か、少女の身体でな」
「それは違うぜ、ウォル。少女じゃなくて、飛びっ切りの美少女だ」

 ケリーが大真面目に指摘した。
 ケリーのほうに向き直ったウォルも、少しだって笑うこともなく、真剣な調子で、

「うん。俺もそう思う。この子は、俺が見てきた女の子の中でも最高に可愛らしい。肩を並べれるのは、そうだな、あいつと……あとは俺のもう一人の奥さんと、娘が二人くらいのものだろうか」

 腕を組んで考え込んでしまったウォルである。
 無論、『あいつ』とはこの美少女の妻である、少女であった少年のことだ。それはケリーとジャスミンも理解できたが、残りの部分については完全にウォルの記憶の中にしか答えを求めることが出来ない。
 そこに身内の贔屓目、あるいは惚れた弱みがあったかどうかは神のみぞ知ることである。
 重々しく頷く少女を見ながら、眉を顰めたジャスミンが再び問うた。

「確かきみはリィと結婚したのだと理解しているのだが、他の奥さんがいるとはおかしな話だ。まさかとは思うが、きみは重婚していたのか?」
「重婚と言われると身も蓋もないのだがなぁ……。俺と奥さん――ポーラは、公的な関係でいえば国王とその愛妾ということになるのだが、しかしその呼び方がどうにもしっくりこない。では妻かといえば、あなたの妻でありデルフィニア王妃でもあるのはリィだけだと当人に泣いて怒られる。なので、極々身内の間でだけは奥さんと呼ぶことに決めて、必死の説得の末にポーラからも何とか了承を得たのだが……おかしいかな?」

 首を傾げた少女である。
 おかしいかと問われれば、全てがおかしい。
 おかしすぎて、一つ一つの怪異にいちいち驚くのが馬鹿馬鹿しく思える程だ。
 ケリーの肩は爆笑を堪えてひくひくと揺れていたのだが、ジャスミンはやはり生真面目に、

「そういう事情ならば仕方ないな。それに、国王なら妾の一人も持たない方がかえって不自然というものだ。詮の無いことを言ってしまった。許してほしい」

 ぺこりと頭を下げてから、語調をあらためて、

「しかし、きみは言ったな。いや、きみという呼び方おかしいか。なにせ貴方は、我々より遙かに長い時間を生きた人生の先達であり、国王陛下なのだから。やはり陛下とお呼びした方がよろしいか?」

 バニー姿の、どこからどう見ても元国王には見えない少女は、顔の前でぶんぶんと手を振りながら、慌てた調子で言った。

「それは勘弁してくれ。ようやく重たい王冠を脱ぎ捨て、どう説得したって傅こうとする家来たちの厳しい目からも逃れることが出来たのだ。今更陛下などと呼ばれてはこの細首の上に重たい何かが乗っかっている気がして、肩が凝って仕方なくなる。今までどおりウォルと呼んでいただければ有難い」

 目がかなり真剣である。どうやら、本当に王様扱いされることに辟易としているらしい。
 しかしそれを言うならば、依然ジャスミンの膝の上にすっぽりと収まった少女は、やはりはどこからどう見ても王様の威厳の欠片も無い姿であった。精々、年の離れたお姉ちゃん、もしくは年の近い先生に甘える、舌っ足らずな女の子といった風情でしかないのだ。
 その二人を離れた位置から見ることのできるケリーなどは、どうやって堪えようとしても堪えきれない笑いを端正な頬に浮かべていた。まったく、黄金狼の知己には一人だって退屈な人間がいないなと、自分のことを蚊帳の外に置きながら美味い酒を楽しんでいた。

「了解した。ではウォルと呼ばせてもらうが……君はあちらの世界で、既にリィと夫婦の関係だった。それがどういう意図で結ばれたかは別にして、だ。なら、こちらの世界でわざわざ婚約して、妻としてリィと結ばれる必要なないのではないか?別に書類上の確たる関係が欲しいというわけではないのだろう?」
「うーむ、なかなか痛いところを突いてくれる。確かに、あらためて夫婦の契りを神に誓う必要があるかと問われればそういうわけではないのだし、あちらの世界でだってリィには迷惑をかけっぱなしだったのだし……これ以上借りを作るのは何とも心苦しい話なのだがなぁ……」
「いや、彼はそんなこと、ちっとも気にしていないと思うぞ。だいたい、きみのような可愛らしい女の子に迫られて嬉しく思わないなど、男の風上にも置けない不届き者だ。リィは男の中の男だから、そんなことは言わないと思うが」

 リィの容姿を知る、例えば彼の学友などが聞けば首を傾げざるを得ない台詞であったが、リィの中身を知る極少数の人間にしてみればジャスミンの言葉はどこまでも正鵠を射ていた。
 然り、ウォルはしきりに頷き、

「ジャスミン殿の仰る通り、あれは正しく男の中の男だ。しかし、だからこそ怖くもなる。確かにリィは俺のプロポーズを受けてくれたが、しかし本当は迷惑に思っていたのではないか、俺を助けるために無理をしてくれたのではないかとな」
「それはお門違いの心配ってもんだぜ」

 行儀悪くカウンターに頬杖をつきながら、不敵な笑いを浮かべたケリーが言った。

「黄金狼はな、自分が嫌だと思ったことは間違いなく嫌だと、この上なくはっきり言う男だ。もちろん時と場合ってやつはしっかりと弁えてはいるがな。あんたのプロポーズが本当に嫌なら、下手な未練を残さないようきっぱり断ってるだろう。そうしないと、結局はお互いがもっと嫌な思いをすることになるんだからな。それを受けたってことは、あいつだってあんたのことを憎からず思ってるのさ」

 それは、ウォル自身が思っていることでもあった。
 だが、ウォルはケリーの言葉を有難いものと思った。自分の考えを他人が後押ししてくれるのは単純に心強いし、何よりリィのことをこれほどに理解してくれる人間が、自分以外にもこの世界にいることが嬉しかった。

「ケリー殿にそう言っていただけると、安心できるな」
「それによ、万が一黄金狼に振られたら、俺のところに来るといいぜ。今のまんまじゃちょっぴり小振りすぎるが、あと十年もしたら間違いなく俺の守備範囲のど真ん中だ。ベッドの中で優しく慰めてやるさ」

 果たして本当にそういう事態になったときに、元々が男であるウォルをケリーが抱こうとするのかどうかは疑わしいところであるが、なんとも剛胆な、それとも野方図な台詞である。
 ウォルは目を丸くして、ジャスミンを見上げながら問うた。

「ジャスミン殿。あなたの夫がこんなことを言っているが、いいのか?」

 先ほどのケリーの台詞は、どう考えても未来のウォルに対するラブコールである。夫が妻の前で話す内容として適切か否か、議論の分かれるところだろう。
 ジャスミンは、少し驚いた様子の少女を優しい視線で愛でながら、

「夫がわたしの前で他の女性を口説くなどいつものことだぞ?それどころか、わたしのいないところで浮気をしたらしっかりと事後報告をする不届きな男だからな。まぁ確かに、今のきみをベッドに誘おうとしたならば大いに問題はある。そして、夫の責任は妻であるわたしの責任にもなりかねないからな、これとは一度腹を割って話し合わなければならないかもしれない。だが、十年後のきみを十年後のこれが口説く分には大人と大人のやり取りだ。わたしはどこぞの過保護な母親ではないのだから、口を出す筋合いではないだろう」

 この言葉には、苦笑したケリーが噛み付いた。
 無論それは、じゃれ合いの域を到底出ることの出来ない、甘噛みでしかなかったのだが。

「ひでえな女王。仮にも自分の夫を『これ』扱いかよ。第一俺のことを不届きとか言うが、あんたなんか自分が浮気をしたことに気がつきさえしなかったじゃねえか。まったくあの時はあんたのキャンセルしたパーティに睡眠時間を削って出席しなけりゃならないわ、出席したらしたで奥様はどうされたのですかと質問攻めに遭うわ、踏んだり蹴ったりだったんだからな」
「あの時のことは済まなかったと思っているさ。だから、きちんと謝ったじゃないか。一度かたのついた昔の過ちを引き合いに出すなど、それこそ男の風上にも置けないぞ、海賊」
「それを言うなら、まだ起きてもいない未来の児童淫行罪で夫を『これ』扱いする妻もどうかと思うぜ?」
  
 売り言葉と買い言葉。頭上で交わされる、まるで熟練の鍛冶屋が振るう槌のようにぽんぽんと交わされる夫婦の会話を、ウォルは唖然としながら聞いていた。
 これでもう少し言葉に険というものが含まれていれば、夫婦の絆の一大事、ウォルも慌てて取りなすところなのだが、二人ともなんとも楽しげに、酒の肴を味わいながらやりあっているので、流石のデルフィニア元国王も口を挟む隙間がない。
 ひとしきり、罵り合いともじゃれ合いとも受け取れる不可思議な会話が繰り広げられた後、怪獣夫婦は共に腹を抱えながら笑い(ケリーは真実腹を抱えて笑い、ジャスミンをウォルを抱き締めながら笑った)、一息ついたところで、再びジャスミンはウォルに視線を戻して、問うた。

「すまない、話が盛大に横道に逸れた。えっと、わたしは何を聞いていたんだろうか」
「確か、なぜわざわざあらためて婚約などする必要があったのか、というくだりではなかったかな?」
「ああ、確かそうだったな。ではあらためて尋ねるが、ウォル、きみは何故、わざわざ妻としてリィと婚約などをしようとしたのだ?」
「言葉にするのは難しいのだが、やはりけじめだと思う。今までは夫としてあいつと夫婦だったのだからこそ、今度は妻として収まるのならばその旨をはっきり伝えておきたかった」

 その回答は一応の筋が通っているように思えたが、それはそれでもう一つの質問を促すものでもあった。
 ジャスミンはやはり真剣な調子で質問した。

「ではもう一つ。そもそも君は、何故リィの妻になりたいなどと思ったのだ?もとは男だったのなら、それは一大決心がいることだったと思うのだが、違うか?」

 ジャスミンの言葉に、ケリーもうんうんと頷いた。

「俺もそう思うぜ女王。俺だって今さら女の身体に着替えさせられて、同じように男の身体に着替えさせられたあんたに抱かれるとなったら……んん?別にそれはそれで構わねえ気もするな」
「……やはりお前はどこかおかしいぞ、海賊」
「いや、確かに違和感はあるがよ。俺とあんたは今だって夫婦なんだぜ?その男と女の役割が変わったところで、何か問題があるかね?」
「そう言われると答えに困る。なにせわたしはお前を一度ならず押し倒しているからな。初めての夫婦の営みの時からしてそうだったんだから、そういう意味で言えば、男と女の役割が逆だったのは今に始まったことじゃあない。だが……果たしてそういう問題なのか、これは?」
「今度は俺があんたを押し倒して銜え込むだけだろう?なんも問題なんかねえじゃねえか」
「何か、何か大事なことを決定的に間違えている気がするのだが……わたしの勘違いだろうか?」

 勘違いではないとウォルは思った。
 そして、目の前の夫婦は、どう考えても自分達夫婦よりもずれていると確信した。
 しかし、それとは別に、自分の心情というものははっきり伝えておく必要がある。
 なにせ、夫婦の間であればお互いの性別が逆転しても問題は無いという、とんでもない結論が生まれつつあるのだ。このままでは自分のことを、夫婦の契りを結んでおきながら夫に身体を委ねることが出来ない、初心な花嫁とでも誤解されてしまうかも知れない。

「ケリー殿。ケリー殿の仰ることはよく分かるのだが……」
「よく分かるのかい?いや、俺自身もよく分かってねえんだが……」
「そういうことではなくてだな。あなた方のような……その、何と言ったらいいか、何というべきか……」

 結局ウォルは何も言えず、うーんと考え込んでしまった。
 果たしてそれを気の毒と思ったのか思わなかったのか、苦笑したジャスミンが一応の助け船を出した。

「正直に言ってくれて構わないぞ」

 ジャスミンの言葉を聞いて、ウォルは控えめに、しかしはっきりと、

「うむ、では遠慮無く。あなた方のような、そう、例え天と地がひっくり返っても『ああ驚いた』の一言で済ませてしまうような正真正銘の変わり者同士の夫婦ならば、男と女の役割がひっくりかえても、やはり『ああ驚いた』で済ませられるのかも知れん」
「まぁ、確かにあんたは変わり者だな女王」
「うん、確かにお前は変わり者だ海賊」

 お互いを鏡として深く頷きあった怪獣夫婦である。
 ウォルは変わり者二人を意識して無視しながら、

「だがな、考えてもみてほしい。性別が変わっても正気でいられるのは、それが元から性別の異なる夫婦の間だからだ。……無論、普通の夫婦であればどう考えても正気でいられるとは思わないのだが……。まぁとにかく。こういう場合はどうだろう。あなた方の同性で仲の良い友人がいるとして、自分の性別が逆転したときに、だ。その友人に容易く抱かれていいと、それとも抱いてやろうと、お二人は思うだろうか?」

 ケリーは、海賊時代に仲の良かった幾人かの顔や、それとも仕事の同僚や部下だった男性のうち比較的親密だった何人かの顔を思い浮かべ、その彼らにベッドの中で抱かれる自分を想像してみた。
 そして、口の端を引き攣らせながら青ざめてしまった。
 ジャスミンは、自分が冷凍睡眠する前から今に至るまでほんの少しだって年を取ったようには見えない、銀幕の奇跡、もしくは芸能界の妖怪とも呼ばれる自身の親友を思い浮かべ、その女性を抱く自分を想像してみた。
 そして、どうにも想が像を結ばず、難しい顔で固まってしまった。

「……すまん、ウォル。俺はとんでもない勘違いをしていたみてえだ。あんたが黄金狼に抱かれるのは、どう考えても一大事。俺にはとても真似できねえよ」
「……そうだな、海賊。確かに、この少女の決心は、我々がどうこう論評していいことではなかったようだ」
「……そこまで神妙になられるとは何とも複雑な心境だが、ご理解を賜れたようでなによりだ」

 三人は同時に重たい溜息を吐き出した。その溜息に如何なる感情が乗せられていたかは、当人以外はまったく分からなかった。

「では、きみは何故、そこまでの覚悟をもってリィの妻になると決心したのだ?」
「そうだぜ。俺があんたの立場だったら、間違えても黄金狼とだけは番おうとは思わねえがな」

 ウォルはいくつかの理由を思い浮かべた。
 例えばウォルの宿る少女――ウォルフィーナが、リィと同じ生き物であるということ。
 彼女の体を幸せにする義務が、自分にはあるということ。
 リィと自分とは、剣と戦士としての魂に誓った相棒同士であるということ。
 他にもいくつも理由はあったのだが、しかしそれらは結婚相手としてリィが望ましいという理由であり、女としての結婚をウォルが望んだ理由にはならない。
 だからウォルは、言葉を選びながら自分の心持ちを口にした。

「理由はいくつかあるのだが……一番大きいのは、子供が欲しいということだろうか」
「子供が欲しい?」

 ケリーとジャスミンが思わず視線を交わらせてしまった。
 無理もない。その理由は、自分達があれほど破天荒な結婚をやらかしてしまった、その事情と全く同じものだったからだ。
 しかし、彼らに挟まれたかたちのこの少女は、子供を欲しがるにはあまりに幼すぎる。どう考えても第二次性徴が完了しているとは思えないのだ。子供を為すには早すぎるし、子供を欲しがること自体が時期尚早な気がする。無論、中に宿っている人格は別にして、だが。
 では、どうして子供を欲しがるのか。
 ケリーが興味深そうな様子で尋ねた。

「それは、やっぱり女の子の身体になると、母性本能ってやつに目覚めて自分の赤ん坊が抱きたくなったとか、そういうことか?」
「いや、そういうわけではない。確かに赤ん坊は可愛いが、我が子が抱きたいがために子供が産みたいと思ったことはないぞ。だから、突然母性本能に目覚めたということもない……と思うのだが、どうだろうなぁ」

 自分のことだから余計にわからないと、ウォルは考え込んでしまった。
 そんな彼女をやはりすっぽりと抱きながら、次にジャスミンが尋ねた。

「では、自分がこの世に生きた証を残したいとか、そういうことだろうか」

 それは正しくジャスミンが我が子を切望した事情そのものである。
 不治の病により三十年の命を宣告された彼女が、残された僅かな余命を自分の望むように生きたいと切望し、成し遂げ、最後に欲したのが自分の生きた証、即ちとしての我が子であったのだ。
 ジャスミンを本当の意味で知る人が聞けば少しだけ首を傾げてしまう、ジャスミン本人ですらが自分らしくないと呆れてしまう事情であった。
 が、やはりウォルは首を横に振り、

「そういう意味で言うならば、俺は自分の子供を既に何人も授かっている。彼らは彼らでたくさんの孫の顔を見せてくれた。もう十分というわけではないのだが、これ以上は望みすぎという気がするな」
「じゃあどうして子供を欲しがる?あれは、生半可な気持で産んでいいものではないし、産めるものでもないぞ?」
「……やはり痛いのか?」

 黒髪の少女が恐る恐ると尋ねれば、

「痛い。とんでもなく痛い。あの苦しみに耐えるその一事をもって、世の女性は男性よりも偉大だと確信できるほどに痛い。わたしは女に生まれた我が身を嘆いたことなど一度も無かったし、今でも無いのだが、あの瞬間だけは種を撒くだけで全てが済んでしまう男連中が羨ましく思ったほどだ」

 赤毛の経験者は語る、である。
 苦い顔で記憶を辿るジャスミンの前で、ケリーも深く頷いた。
 ジャスミンの出産には諸事情から立ち会えなかったケリーも、後から出産時の妻の状況を人伝で聞いて、神妙な顔つきで唸り声を上げたものだ。
 なにせ、『あの』女王が、極度に疲弊した顔で『いやはや、子供を産むということがこれほどの大仕事とは思わなかった』とぼやいたのだ。
 弱音やら愚痴やらとは、この共和宇宙に生きるどんな生き物よりも縁遠い『あの』女王が、である。
 それでも出産直後に酒を所望したあたりは彼女らしいと言えるが、ケリーなどからすればジャスミンは平気の平左な顔をして子供を産むものだと思っていただけに、その反動は大きい。
 どうやら出産とは本当に大変なものなのだなぁと、ケリーもその時点で初めて実感を伴って理解したのだ。
 同じように厳しい顔をした夫婦の前で、ウォルは項垂れて、

「そうかぁ、やはり痛いかぁ。俺は、あまり痛いのは好きではないのだがなぁ……。そういえばポーラも、俺の前では平気を装っていたが、産みの苦しみは相当なものだったと聞いたし……」

 ぶつぶつと、我が身の不幸を嘆くように言った。
 ただ、今のウォルは年端もいかない少女の外見であるだけに、どうにも滑稽というか、微笑ましい様子ではあった。まるで学校の教室の片隅で、友人と肩を合わせてひそひそ声で『将来はどんな男性と結婚したい』だとか『何人の子供が欲しい』だとか、泡色の未来図面を語る少女のようであったからだ。
 しかしウォルは完全に本気である。なにせ、既に婚約まで済ませてしまっているのだ。彼女の覚悟さえ決まったならば、出産という人生の一大イベントが待ち受けているのは今日から一年先のことであっても不思議ではない。正しく迫り来る危機である。
 苦しげに唸り声をあげるバニーガールを前にして、ジャスミンは怪訝な声で、

「差し出がましいとは承知で言うのだが、ウォル、そんなに嫌なら、何故子供が欲しいからリィと結婚したいという結論になるのか、わたしにはそこが不思議に思えるのだが」

 確かに、とケリーも思った。
 ケリーも、おそらくはジャスミンも、子供を残すことが人の義務だとは思っていない。むしろ、きちんと親になることの出来ない甘えた人間が子供を作ることなど、罪悪に等しいと思っているくらいだ。
 だから、嫌なら子供を設ける必要などどこにも無いのである。
 ならばどうして。
 そう思ったときだ。
 ケリーが、声を低めながら言った。

「あのよ、ウォル。お前、まさかとは思うが、黄金狼の子供を産んでやりたいがためにあいつと婚約したとか、そんな馬鹿なことは言わねえよな?あいつが、放って置いたら誰とも番わず子供を残すこともなく死んでいくかも知れねえから、それが可哀想で、自分が産んでやらないといけないと思ったとか、そんな思い上がったことを言うつもりはねえよな?」

 口元は笑っているし、喋り方も冗談めいたものでものではあったが、眼光には剣呑なものが籠もっていた。
 だが、それを聞いた黒髪の少女の眼光の険しさに比べれば、ケリーの眼光はまだ穏健と呼べるものであった。その眼光を向けられたケリーは勿論、少女を抱きかかえていただけのジャスミンですらが、背中に冷たいものを感じるほどに、少女の眼光は鋭く、迸る怒気は更に鋭かった。

「ケリー殿。一度だけだ。一度だけ、その無礼な物言いは聞き流そう。だが、もう一度同じことを口にすれば、それは俺の名誉と、あなたが黄金狼と呼ぶ戦士の名誉に泥を塗るものと判断し、俺は相応の行動をする。それでもいいのだろうか?」

 喉元に切っ先を突き付けられたような心地のケリーは、静かに頭を下げた。
 目の前にいるのがただの少女などではなくて、あの恐るべき戦士が同盟者と認めた存在なのだと、あらためて認識した。
 
「……悪かった。お前さんと黄金狼を侮辱したことを詫びさせて欲しい」
「わたしもだ。わたしも夫と同じく、まさかとは思いつつも、きみがそういう意図でリィと婚約したのではないかと疑った。わたしも、君達を侮辱した。許して欲しい」

 見上げる程に大柄で、歳の頃も一回り以上は違うように見える男女が、幼い少女に頭を下げているのだ。それに気付いた周りの人間は、一体何事があったのかと奇異の視線で三人を見た。
 ウォルは一度頷き、そして言った。

「頭を上げてくれ。そして、俺も卿らに謝罪したい。卿らの心根が何処にあるのかを俺は知っていたのだ。知っていながら、しかしああ言わざるを得なかった。もう少し上手な言い様もあっただろうにな。七十年以上生きておいて、何とも不器用だと自分でも恥ずかしく思う」

 苦笑しながら、本当に気恥ずかしそうな調子の声である。
 ケリーもジャスミンも、それを和解の印だと受け取った。そして互いに手にしたグラスに新たな酒を注ぎ、打ち合わせることでこの一事を水に流すことに決めたのだ。

「じゃあよ、ウォル。それだけ子を産むことを嫌がっておきながら、どうして子供が欲しいなんて言うんだ?」
「いや、子供を産むのが嫌なのではないぞ?ただ、痛いのが嫌というか、なんというか……」
「そこらへんはどうだっていいさ。とにかくお前さんは子供が欲しいと言っている。で、結局のところ、どうしてそんなに子供が欲しいんだい?」

 畳み掛けるようなケリーの質問である。
 若干気圧されたようなウォルは、慎重に言葉を選びながら、自分の思いを口にしようとして、その時はじめて気がついた。
 目の前の、自分を興味深げに見つめる美丈夫の右眼が、どうにもおかしいのだ。
 何がおかしい、というわけではない。焦点がずれているというわけでもないし、眼球の動きも自然なものだ。
 しかし、何かがおかしい。言葉にはし難い何かであったが、ウォルの魂に染み付いた何かが不自然だと告げている。
 ウォルは、思わず首を傾げてしまった。

「どうした、そんなに見惚れてよ。俺が男前過ぎたか?」
「うむ。確かに卿は、男の俺でも嫉妬してしまうほどの男ぶりだが、そうではなくて、その右眼が、だな、なんというか……」
「右眼がどうした?」

 ケリーは手にしたグラスを弄びながら尋ねた。
 口元は、耐えきれない喜びで笑みの形を作っている。まるで、我が子がなぞなぞを解くのを待ち侘びる、父親のような表情だ。
 それに答えるように、ウォルが口を開き、言った。
 
「気を悪くされたら謝る。その右眼は、卿自身のものだろうか?」
「ビンゴ!」

 ケリーが突然大声をあげたので、ウォルの小さな体がビクリと跳ね上がった。
 義眼の海賊という渾名を持つ色男は、不敵な笑みを浮かべながら、右眼の前までグラスを掲げてウォルの観察眼に敬意を表した。

「いやぁ、たいしたもんだ!この眼は最近新調したばかりなんだが、一発で見抜かれるとはな!驚き入ったぜ!昔なじみだって細胞培養義眼に代えたのかって驚くくらいなんだがな!」

 言わずもがな、ケリーの右眼は義眼である。それもただの義眼ではない。赤外線や紫外線等、肉眼では捕らえきれない光線を認知し、それを利用して物体透過視までも可能とした超高機能のスパイ・アイである。
 ただし、やはりそれは機械の目であって、どうしてもいわゆる普通の眼とは異なる点が出てくる。ケリーの義眼の場合は、機能を使用した際に、僅かに瞳の色が、本来の琥珀色から赤色に変わるという特徴があった。
 だからいって不都合があるわけではない。この宇宙には、眼はもちろんのこと、四肢や内臓、はては脳の一部までを機械化した人間が数多くいるのだ。片目が義眼であることが他人にばれたところで何の害もないのである。無論、それが超高性能なスパイ・アイであることがばれれば、風紀上、そして防犯上の理由から、苦情が殺到するかも知れないが。
 ならば何故わざわざケリーが義眼を新調したかといえば、それは完全な趣味である。確かに愛船《パラス・アテナ》の進歩具合に比べるとやや機能的に見劣りしてきたので、悔しさ半分で改造しようとしたというのは否めない。だが、それは以上に、眼を新しくすることで周りの人間がどう反応するのかを見たかったというのがケリーの本音だろう。
 そして新調した最新型義眼は、各種機能のバージョンアップは勿論のこと、その外観も一新していた。具体的に言うと、ケリーの左眼――肉眼とまったく見分けがつかないような外見にしたのである。機能を使用したとしても以前のように瞳色が変わることもないし、当然のことではあるが、焦点の合わせ方や視線の向け方も左眼と完全に同調してある。
 ケリー自慢の右眼であった。
 それを、ウォルは一発で義眼であると見破ったのだ。ケリーはそのことが嬉しくてたまらなかった。

「ではそれは、機械の眼なのか」

 ほぉぉ、と、感心しきった様子のウォルが、ケリーの顔を覗き込む。
 自然、ケリーの目の前には絶世の美少女の顔が来ることになったのだが、流石はケリーというべきか、この男はほんの少しの動揺もしなかった。それどころか、ウォルの小さな体をジャスミンの膝の上からひょいと抱え上げ、自分の膝の上に座らせてしまったのである。

「これでよく見えるだろ」

 可愛らしいバニーさんが、不敵な笑みを浮かべた色男の膝の上に乗っているというのは、なんとも微笑ましげで、しかしどこか妖艶で、一言で評すれば物凄く絵になる光景であった。ウォルを横取りされたかたちのジャスミンも、思わず見とれてしまった程だ。
 今度はケリーの膝の上からその顔を見上げたウォルは、やはり驚きと感動の入り混じった表情で、

「その眼は、当然ものが見えるのだな?」
「もちろんだ。ウォルの可愛らしいバニーさん姿がよく見えてるぜ」
「いや、それはあまり見ないでいただけるとありがたいのだが……」

 揶揄するようなケリーの言葉に、ウォルは少しだけ傷ついたようだった。
 しかし気を取り直して、ケリーの右眼の更に横に自分の左手を伸ばし、指を三本立てた。
 そこは、どうしても左眼では見えない、右眼でしか見ることのできない場所である。

「これは何本?」
「三本だな」
「これは?」
「Vサイン」
「ではこれは?」
「ジャンケンならグーに勝てるがチョキには負けだ……これじゃあまるでKOパンチを食らったボクサーだな」

 苦笑したケリーである。
 そしてウォルは、大きく開いた己の左手をまじまじと見ながら感嘆の吐息を吐き出した。

「いや、リィとシェラから話としては聞いていたのだが、この時代では失われた視力までも機械で補うことが出来るのか。なんとも羨ましい。俺の生きた時代にも同じ技術があれば、どれほどの戦傷者が救われたか……」

 しみじみとした調子で言った。
 ウォルが王を務めた時代のデルフィニアでは、戦争が起きれば多くの死者と、それ以上の怪我人が出た。パラスト・タンガの両大国との戦火が絶えた後でも国境付近の小競り合いは尽きることがなかったし、どれほど小規模であっても戦が起きれば必ず怪我人は生まれた。
 そして多くの場合、その怪我人は名誉の負傷を讃えられながら、しかしそれからの長い人生を大きなハンデを抱えて生きていかなければならなかったのだ。それは、平和に過ごすことが出来たならば負う必要の無かった余分な荷物である
 ウォルはそういった者達に可能な限りの援助を惜しまなかった。だが、ものには限界というものがある。全ての戦傷者が何不自由なく、というわけにはいかなかった。
 以前、リィやシェラとの問答でも議題にあがったところではあったが、ウォルにしてみればこの時代があまりに羨ましく思えてしまうのだ。この世界に、そしてこの時代に生を得ていれば、失われなかった命や救われた命のなんと多いこと。
 既に玉座とは何の関係もないはずのウォルがそんな葛藤を覚えていると知れば、リィなどは同盟者を痛ましく思いつつも、しかし表情には出さずに冷やかしたであろう。『だからお前は苦労性の熊なんだ』、と。
 そこまでの事情は聞かされていないケリーであったが、しかし少女の落ち込んだ声を励ますような調子で言った。

「聞いて驚けよ、ウォル。これはな、ただものを見るだけじゃないんだぜ。その気になれば建物の外から中の様子を伺うことも出来るし、蛇みたいに相手の体温で居場所を探すことも出来る」
「ほう、では月や星の無い夜でも、自在に動けるということか!それでは夜襲がし放題だな!」

 目を輝かせながらそんなことを言った。
 このあたり、どうにも少女の発想ではない。
 当然のことと言えば当然なのだが、端から聞いているジャスミンなども、未だ慣れない違和感であった。

「当たり前だ、それにな、こいつは俺の自慢の相棒とも繋がってるのさ」

 ケリーの相棒と言えば、愛船《パラス・アテナ》のことであり、もっと突き詰めて言えばその感応頭脳である《クレイジー・ダイアン》こと、ダイアナを指す。
 ケリーの義眼が取得した映像・音声などの各種情報は、ケリーが断りを入れない限り、あるいはダイアナが気を利かせない限り(繰り返すが彼女は感応頭脳のはずである)、各種通信によってダイアナの知るところとなる。その機能によってケリーは実際にいくつもの危地を乗り越えることが出来たのだし、使われることこそ無かったものの、彼の蘇生装置の根幹となる彼の記録もそうして積み上げた歴史そのものであった。
 当然、今だってケリーの右眼を通じて全ての情報がダイアナの人工知能へと伝わっている。映像はおろか、ウォルとケリー、ジャスミンの交わしている会話も余すところなく、だ。
 ということは、ケリーの右眼を上目遣いに覗き込むウォルの顔だってダイアナは正しく見ているのであり、そのあどけない表情はダイアナの母性本能(……)を強烈に刺激していた。
 先ほどからケリーの左手首に巻いた通信装置がけたたましい電子音を鳴らしているのもそのせいだろう。差し詰め『わたしにもその子と話させなさい!』と言いたいに違いない。
 ケリーは無情にもそれを無視していた。
 そんな事情は露知らず、ウォルは小首を傾げると、

「相棒?それは、確かリィの話していた、船の女神様のことか?」

 電子音のけたたましさが更にランクアップした。
 ダイアナの心を代弁するならば『女神様!女神様ですって!ちょっと聞いたケリー!やっぱりこの子可愛らしいわ!だから、さっさと通信を繋いでわたしと話させなさいよ!』とでもなるのかも知れなかったが、やはりケリーは無視した。
 半笑いで無視した。
 通信機の電源も落としてしまった。

「どうかしたのか、ケリー殿?」
「いんや、別に。ただ、可愛い女に意地悪するのはこんなに楽しいもんなんだなって再認識してただけだぜ」
「趣味が悪いぞ、海賊」

 だいたいの事情を察していたジャスミンが、若干呆れながら呟いた。
 耳聡いケリーがまたしても言葉を返そうとした、その時である。

「ケリー殿。一つよろしいか?」
「ん、どうした?」
「リィは卿の相棒のことを、まるで魔法使いみたいに機械のことなら万能だ、と評していたのだが、それは事実だろうか?」

 相棒のことを褒められたケリーは、まったく嫌な気がしない。
 鼻高々の様子で、誇らしげに言った。

「魔法使いってやつには残念ながら出会ったことはねえし、天使連中に比べれば出鱈目度合いも色あせるってもんだが、ダイアンから不可能って言葉を聞いたことは、あんまりねえな」

 その言葉に目を輝かしたウォルは、

「では、一つ頼みたいことがあるのだが、いいだろうか!?」
「ああ、いいぜ。俺とダイアンに叶えられることなら、何だって叶えてやるさ。言ってみな」

 ケリーは、目の前の兎耳の生えた頭を撫でながらそう答えた。
 まるきり、年端もいかない少女の扱いである。
 頭を撫でられると前髪が目に入りそうになるのか、目をぎゅっと閉じたウォルが、口を尖らせるような口調で言った。

「……ケリー殿。別に頭を撫でられるのが嫌というわけではないが、俺は男だぞ。それに、齢七十を過ぎる老人だ。それに対して、この扱いはどうだろうか」
「お、奇遇だな。俺も実は七十を超えるお爺さんなのさ。それが一度くたばって、天使にこの体をプレゼントしてもらったんだ。だがな、ウォル。やっぱり人間ってやつは度し難いもんで、どうしたってまずは相手の見た目を重視しちまう。そして、今のあんたを見ていると、どうしてもこういうことをしたくなっちまうんだ。諦めてくれ」

 からからと笑うケリーにやられ放題で、なんとも苦い顔のウォルである。
 しかし、とりあえず話を先に進めることにしたらしい。溜息を一つ吐き、それから、おずおずとした口調で頼み込んだ。

「先ほども話したことなのだが、俺が今この星にいることを、リィにまだ伝えられていないのだ。だから、もし卿の相棒に頼んで可能ならば、リィに俺が無事であること、そしてこの星にいることを伝えていただきたい。お願いできるか?」
「なるほど、そいつはもっともなお願いだ。確か、この星に向かってるのは間違いないんだったよな?」
「うむ、それはそうなのだが……」
「なら、どの船で向かってるかなんて考えるまでもねえな。ダイアン、聞こえるか?」

 左手の通信機の電源を入れ、通信スイッチも入れたケリーはそう呼びかけたが、返答はなかった。

「ダイアン、ダイアン、聞こえてるんだろ?返事をしろ」
「……」
「拗ねるなよダイアン。さっきは悪かった。ちょっと意地悪してみたくなっただけじゃねえか。そんなに可愛らしく反応されたら、俺はもっとお前にいかれちまうぜ」

 まるきり女たらしの台詞に、通信機から重たい溜息が聞こえた。

「……さっきはわたしがどんなに呼びかけても無視したくせに、男って本当に勝手だわ」

 それは、ウォルの初めて聞く声だった。
 ややアルトの音域の、甘い声。そして、本来であれば深い知性と教養を感じさせる魅力的な声のなずなのだが、今は若干の湿り気と恨みがましい重たさを帯びている。
 それでも、ウォルはその声の持ち主が、きっと魅力的な人物に違いないと思った。

「悪かった。ほんの軽い冗談のつもりだったんだ。だからあんまり怒るなよ。俺の他愛ない悪戯に拗ねるお前を可愛がりたかっただけじゃねえか」
「その台詞を吐いたすぐ後に恋人に刺された男の人を、わたしは三桁以上知ってるわ。調べたらもう一桁は間違いなく増えるでしょうね。今すぐにリストアップして送りつけてあげましょうか?」
「おお怖え。まぁ一回死んだ身だ、もう一度死ぬのは別に構わねえんだが、どうせ死ぬならお前に抱かれながら死にてえな。俺を刺したその手で、優しく抱き締めてくれるかい?」
「医療用ロボットの冷たいアームで思い切り抱き締めてあげるわ、消毒液の涙を流しながらね。それで、通信を切ったり入れたり、何の用?ようやくわたしもその子と話させてくれるのかしら?」
「悪いがそいつは後回しにしてくれ。聞いてたかと思うが、この子、ウォルはのっぴきならない事情でこの星にいるんだがそのことを黄金狼は知らねえらしい。で、この子の無事を黄金狼に伝えたいんだが、《ピグマリオンⅡ》と連絡は取れるか?」
「黄金狼って、金の天使さんね?そしてその子は彼の将来の奥様。それで間違いない?」
「ああ、そのとおりだが……どうした?」

 ケリーが思わず尋ねてしまうほどに、ダイアナの口調はおかしかった。
 彼女はいわゆる人間ではないが、人間以上に感情豊かであり、無論のこと賢い。その彼女の今の口調に名前をつけるならば、『呆れている』というのが相応しかっただろう。
 問題は、どうして彼女が呆れているのか、ということである。

「はぁ……。あなたたち人間って、ときどきびっくりするくらいに賢いのに、ときどきびっくりするくらいに鈍いわ。あのね、ケリー。機械であるわたしが言うのもなんだけど、こういう時ってまず言うべきことがあるんじゃないの?」

 ケリーは首を傾げた。
 目で、ジャスミンに何事かを問いかけたが、ジャスミンも小首を傾げてしまっている。
 もう一度、通信機から盛大な溜息が聞こえて、

「貴方達の友人であり、そして恩人でもある金の天使さんが、なんと婚約をしたのよ。そして、その婚約者さんが目の前にいるんだわ。なら、お祝いの一言ぐらい送るのが礼儀ってものじゃなくて?」

 あ、とケリーは固まってしまった。それはジャスミンも同じだった。
 彼らを責めるのは酷というものだろう。なにせ、彼らの聡い知性をしてフリーズさせるような、突拍子もない話を連続して聞かされたのだ。
 異世界の国王が女の子に転生して、その妻だった少年を追いかけてきた。その少年は自分達も大恩ある金色天使のことで、しかもその天使はどう考えても結婚やら恋人やらとは縁遠い人物である。なのにこの少女は、その少年と婚約したのだという。子供が欲しいという。
 それらの事実を何とか飲み込んだだけでも賞賛に値することなのだ。これがいわゆる一般人であれば最初から笑い飛ばして耳を傾けないだろうし、もう少し事情の知っている一般人――例えばこの怪獣夫妻の長男など――であれば脳のシナプスをシャットダウンさせて回線がショートするのを防いだだろう。 
 だから、二人に責任は無い。
 だが、大いに慌てた。慌てて、何か気の利いたことを言うべきだと考えて、ウォルのにこやかな笑顔を見て何も言えず。
 最後に全てを諦めて、二人も一緒に微笑み、そして言った。

「あのな、ウォル。俺達夫婦は、黄金狼に大きな恩があるんだ。ただの恩じゃない。言葉では表せない、とてつもなくでかい恩ってやつだ」
「わたし達がここで息をしているのは、リィのおかげだとっても過言ではない。そればかりではく、わたし達の息子も、孫までも、何度となく彼に助けられた。なのにわたし達が恩を返そうとしても、一向に受け取ってくれる気配がない。『あれはおれの好きでやったことだからジャスミン達が恩を感じる必要なんてないんだ』などと、つれないことを平気な顔で言う。まったくひどい少年だとは思わないか?」

 ウォルは苦笑しながら頷いた。

「ああ、その気持はよく分かる。俺も、あいつの恩の押し売りには常々まいっていた。なにせ、こちらが心の底から助けを欲している時にふらりと現れ、到底返しきれないような恩を売りつけては、一向にそれを返させてくれんのだ。それも一度や二度ではない。ことあるごとに、数え切れない程にだ。そんなことをされては、一生あいつに頭が上がらんではないか」
「なのにこちらが申し訳ない顔をするのを、彼は何よりも嫌がる」
「黄金狼の悪い癖だな。非の打ち所のないいい男だが、そこだけがちっとばかり不味い。恩ってやつは、巡り巡ってこそ人を幸せにするんだ。情けは人のためならずってやつだな」

 年齢も、そして性別もばらばらな三人が、悪童のような表情を付き合わせて微笑っていた。
 手には、美酒の注がれたグラス。言葉に乗るのは、黄金の毛並みをした狼のことばかり。
 これではまるで西離宮のようではないかと、ウォルは思った。

「だからよ。お前さんがあいつの奥さんになったら、そこらへんは真っ先に矯正してやってくれ」

 その言葉を聞いて、ウォルは大いに慌てた。
 ビックリしてケリーのほうを振り向いたから、グラスから酒が飛び散ってしまうほどだった。

「ちょっと待ってくれ。俺があいつを矯正するのか?そんな大それたこと、神様だって出来んと思うぞ」
「ああ、だからお前さんに頼んでるんだ。なにせお前さん、闘神の現し身って呼ばれた王様なんだろ?ならどう考えても、黄金狼を矯正できるのはお前だけだぜ」
「……そんな話、誰から聞いた?」

 二分の一だ。金色の髪をした天使か、それとも銀色の髪をした天使か。
 もしくはその両方から、という可能性もある。

「そこらへんは想像にお任せするぜ。しかし事実なんだろう?」
「しかしなぁ……」

 どこまでも渋い顔をするウォルに、ジャスミンが笑いかける。

「大丈夫だ、ウォル。この世で一番強い人間というのはな、この世で一番強い男の妻なのだそうだぞ。どれほど腕っ節が強く頑固な男でも、妻にだけは頭が上がらないものらしい。だから、きみさえしっかりしていれば、リィの手綱を握るのは不可能ではないさ」

 それは自分達のことも含んでいるのだろうかと、手綱を握られている自覚のないケリーは思った。しかし結婚に至った過程なども含めて考えると、赤の他人が見れば、自分が尻に敷かれているのだと言われても反論する材料が乏しいだけに、ケリーの表情も渋い。
 そんなケリーを横目に、ウォルは真剣に悩んでしまった。
 リィの手綱を握る。
 あの、リィの手綱を。
 どう控えめに考えても、不可能事にしかウォルには思えなかった。
 自分がリィの手綱を握ることと比べれば、馬の『う』の字も知らない農民がロアの黒主を農耕馬として従える方が、まだ現実味があるというものではないか。
 
「まぁ、そこは将来への課題ということでお茶を濁してもらえると嬉しいのだが、いけないか?」

 苦み走った顔の少女を見て、ケリーとジャスミンは盛大に吹き出してしまった。
 これほど愉快なことも昨今無いなというくらいに面白かった。
 そして、自分達の言うべきことをようやく見つけて、言ったのだ。

「おめでとう、ウォル。心の底から祝福するぜ」
「きみとリィの結婚式には、必ず招待して欲しい。宇宙の果てにいても、必ず飛んでいく。そして、両手では抱えきれないほどの祝いの品を送りつけてやるから、覚悟しておいてくれ」
「もし招待状を送り忘れたりしたら、冗談抜きで一生恨むからな。幽霊の恨みは怖いんだぜ、死んだって化けて出てやる」

 もう、言葉もないウォルである。
 しかし、その柔らかな頬には、極上の笑みが浮かんでいた。
 自分達の婚約を、ルウも、そしてシェラも喜んでくれたが、こういうものは何度あっても嬉しいものだ。

「ああ、いい笑顔だわ。ほんとう、金の天使さんに嫉妬しちゃうくらいに良い笑顔。これは、未来の旦那さんにも送ってあげないとね」

 通信機から、そんな声がした。
 
「ダイアン、《ピグマリオンⅡ》と連絡が取れたのか?」
「うーん、これを連絡が取れたと言って良いものかわからないけど……。今《ピグマリオンⅡ》は通常のヴェロニカ航路を大きく外れた場所で停泊してるわ。原因は大規模な宇宙嵐。これを避けるために大きく迂回した航路を取ったんでしょうけど、そっちはそっちで別の宇宙嵐が発生してたみたい。これじゃあまるで、神様が運命の二人を遠ざけようとしてるみたいね」
「へえ、お前には詩の才能もあったのか」
「冷やかさないでよ。でも、本当にそんな感じなの。運がないっていうか何ていうか。だから、通信の方も、行ったり来たりは難しいわね。わたしなら《ピグマリオンⅡ》まで正確に通信を飛ばせるけど、あちらがわたしまできちんと通信を飛ばせるかどうかは分からないわ。それでもいい?」
「と、船の女神様は申しておりますが、如何いたしますか陛下?」

 冗談めかしてケリーが言った。
 ウォルは苦笑して、

「それで十分過ぎるほどだ。まずは俺の無事をリィ達に伝えて貰えれば、あとは時間の問題なのだからな」
「だ、そうだ。ダイアン、よろしく頼むぜ」
「分かったわ。じゃあ、花嫁さんの元気な様子も一緒に、花婿さんまでお手紙届けておくわね。早く来ないと可愛い奥さんが悪い狼の餌食になっちゃうわよって」
「おい、ダイアン。その悪い狼ってまさか俺のことじゃないだろうな」
「さぁ?そこらへんは、ケリー、あなたの常日頃の女性に対する態度から決まってくるんじゃなくて?」
「ちょっと待て、いくらなんでも俺は黄金狼の奥さんの間男になるつもりはねえぞ!おい、ダイアン……くそ、通信を切りやがった。何て感応頭脳だ、まったく……」
 
 口を尖らせたケリーだったが、ジャスミンはお似合いだと苦笑した。
 そしてウォルも同じようなことを思っていたのだが、先ほどの会話の中で気になる点があったことを思い出した。
 ぞくりと、背筋を不吉なものが走り抜ける。
 
 ――まさか。

 ――ありえない。

 ――いや、そこまでは……

 僅かに青ざめた表情の少女が、片頬を引き攣らせながらケリーに尋ねた。

「あの、ケリー殿?」
「うん?どうした、顔色が悪いぜ?」
「つかぬことを伺うのだが、先ほど卿の相棒の言っていた『花嫁さんの元気な様子も一緒に』とは、一体どういう意味だろうか?」

 不思議そうな顔をしたケリーが、どうしてそんな分かりきったことを聞くのかと、訝しげな口調で答える。

「そりゃあ、今のあんたの元気な様子を、手紙と一緒に送るってことさ。そのほうが黄金狼も安心するだろう?」
「……それはつまり、その、今の俺の姿が、あいつに伝わるということか?」
「まあ、映像としてか、それとも静止画としてかはわからねえが、そういうことだろうな」

 ウォルの全身から、一気に血の気が下りていく。
 それも無理はないだろう。なにせ今の彼女は、男であれば誰もが鼻の下を伸ばすバニーガールなのだ。
 頭には可愛らしい兎耳がついているし、体を覆うレオタードは股間の切れ込みもきついセクシーなものだし、妖しげな色気を醸し出す網タイツまで装備している。化粧だってしているのだ。
 どこからどう見ても、王としての、あるいは戦士としての威厳など欠片も無い、色街の女そのものの姿である。
 一週間前、ウォルがこの格好をした自分を鏡で見て、最初に強く決心したことがある。
 あちらの世界での自分を知る極少数の人間には、絶対にこの姿を見せてはならないということだ。
 その禁を犯したならば、自分の男としての誇りは、木っ端微塵に砕け散るだろう。
 そう、確信していた。
 そして、彼女の予想しうる、最悪の事態が、今、起きようとしているのだ。

「け、ケリー殿!今すぐ、今すぐ船の女神殿を呼び出してくれ!」
「お、おう、ちょっと待ってくれ。ダイアン、ダイアン、聞こえるか?」

 通信機からの反応はすぐであった。

「どうしたのケリー?そんなに慌てて、何かあった?」
「船の女神殿!先ほどの、リィへの手紙はどうされた!?」
「はじめましてウォル。わたしはダイアナ。ケリーの相棒をやってるわ。それで、手紙ってさっきの通信のことでしょ?しっかり送っておいたわよ?貴女の可愛らしい姿も勿論一緒にね。絶対にあの子、惚れ直すに決まってるわ。それくらい、さっきの貴女の笑顔は可愛らしかったんだもの!」
「くっ、遅かったか!ではダイアナ殿、その通信とやらの回収を頼む!」
「通信の回収?変なことを言うのね、初めて聞いたわそんな言葉。無理よ、そんなこと。恒星間通信は、ショウ駆動機関理論を応用して、光よりも早いのがウリなんですからね。もうあっちに着いてる頃じゃないかしら?」

 もうあっちに着いてる、もうあっちに着いてる、もうあっちに着いてる……。

 残酷な台詞が、ウォルの耳道の中でこだました。
 黒髪の少女は、この世の終わりのような表情のまま、がくりと崩れ落ちる。
 それを心配した二人が口々に労りの言葉を投げかけるが、バニーさんの耳には届かない。
 床に四つん這いになった少女は、項垂れながら、力無く笑い続けた。

「ふ、ふふふ、おわった、もう、いま、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは死んだ……。父上、母上、申し訳ありませんでした……。あなた方の息子は、もはや息子を名乗る資格を失ってしまったのです……これからは、正真正銘の女として、一生懸命生きていきますから、天の彼方より見守っていて下さい……」

 少女の虚ろな声が、酒場の喧噪の中に溶けて消えた。



「ここか」
「ああ、間違いない」
「今も店の中にいるのか?」
「協力者の情報を信じるならな」
「出入り口を封鎖しろ。裏口には、特に重点的に人員を配置しておくこと」
「どうせ奴さんは袋のネズミだ。焦ることはない。落ち着いて、粛々と行こう」
「了解。しかし、この女の子を捕まえるために、本当にこれだけの人員が必要だったのか?」
「油断するなよ。可愛い見た目をして、魔女か獣だって噂だ」
「ふん、まぁいいさ。魔女だろうが獣だろうが、俺達は任務を遂行するだけだからな」
「ああ。可哀想だが、この子は三十分後には檻の中だ」

 ネオンに彩られた闇の中を、完全武装の人影が慌ただしく動き回っていた。
 彼らの腕には、ヴェロニカ共和国軍の特殊工作部隊であることを示す腕章が、大きく縫い止められていた。



[6349] 第三十五話:宴、はじまり。
Name: SHELLFISH◆2635bb85 HOME E-MAIL ID:4d255c68
Date: 2010/01/19 19:35
 ウォルが茫然自失の態で床に蹲っていたのは、たっぷり五分を超える程の時間だった。
 その間、ケリーもジャスミンも必死に彼女を励ましていたのだが、失意のウォルの、偽物の兎耳は勿論のこと、本物の耳のほうにも慰めの言葉は届いていない様子だった。

「気にすんな、ウォル!ちっとばかし恥ずかしい写真が黄金狼に見られたくらい、何だってんだ。そんなこと、結婚してみりゃいくらだってあることだぜ。今から一々気にしてたら先が思いやられるってもんだ。ほら、飲め飲め!酒でも飲んで忘れろ!」
「この男の言うとおりだ、ウォル。第一、リィに送られた映像記録の君は、ほら、こんなにも可愛らしいじゃないか。これを見て笑うような男は、男の何たるかを母親の腹の中に忘れてきた、見下げ果てた奴だ。そしてリィはそんな男では決してないから、彼は君に惚れ直しこそすれ、笑うことなどありえない。君が心配すべきは、彼に笑われることなどではなく、再会した拍子にリィに襲われることだと思うぞ!」

 無論、ジャスミンとてそんなことを本気で思っているわけではない。リィが性的な欲望に身を任せて女性を襲うなど、この宇宙が一周してもあり得る話ではないのだ。
 しかし、今はとにかくこの少女を励ますことだ。彼女とリィが一体如何なる絆によって結ばれたのかまでは知らないが、今のウォルの状況には同情すべき点が多すぎた。
 確かに、リィが乗船している《ピグマリオンⅡ》に送られたウォルの姿は、たいへん愛らしかった。上目遣いに、不思議そうな顔でカメラを見上げる少女というのは、普段の二割から三割増しで可愛らしいが、元が飛び抜けた美少女であるウォルなのだからその破壊力は言うに及ばずである。だが、そのことが何の慰めにもならないことを、ケリーとジャスミンは理解していた。
 二人して作り笑いを浮かべながら、必死で励ましの言葉を探す怪獣夫婦というのも珍しい絵図であったが、面白くない人間(?)が一人いた。
 バニー姿のウォルの映像を《ピグマリオンⅡ》へと送った張本人である、ダイアナ・イレブンスその人である。
 
『……ちょっと。二人とも、どうしてそんなに必死なの?これじゃあわたしが、何かまずいことでもしでかしたみたいじゃない。あの写真がまずかったの?でも、ウォルはすっごく可愛らしくって、彼女は金の天使さんの婚約者なんだわ。なら、彼女の、わたしでも心臓が跳ね上がるくらいに可愛い映像を送って、何か問題でもあるの?』

 『お前のどこに心臓があるんだよ?』というお決まりの突っ込みを飲み込んだケリーは、諭すような口調で通信機に語りかけた。

「いいか、ダイアン。お前の言ってることは正しい。至極正しい。俺だって、さっき見せてもらったウォルの写真は、可愛らしかったと思う。ポスターにして、仕事場に貼り付けときたいくらいだぜ」
『それはどうかと思うけど……』

 言うに及ばず、ケリーの仕事場とは《パラス・アテナ》の操縦室のことである。つまりはダイアナの体内といえる場所なのだから、その一角にレオタード姿のバニー少女のポスターを貼られてしまうのは、ダイアナとしても可能な限り避けたい事態だ。
 
「だがな、聞いての通り、この子は元は男だったんだ。それが、この上ないくらいに女の子してる映像を知り合いに送られて、ショックを受けないはずがないだろうが」
『そこらへんの機微は人間ならではのものだから、わたしにはとんと分からないわね。でもねケリー、天使さんとその子は婚約者なのに、せっかくおめかしした格好を見てもらうのが恥ずかしいなんて、馬鹿げてるわ。それじゃあ、結婚した後で、一緒におしゃれして流行のレストランに行くとか、そんなのも駄目ってこと?それじゃあちっとも楽しくないじゃない』
「ダイアン、お前の言いたいことはもっともだ。俺もそう思う。だがな、おめかしってもいきなりバニーガールだぞ?落差が激しすぎるだろうが。お前だって、例のゾウリムシ事件の時の、あのいかれた衣装の映像をあらためて見せられたり知り合いに送りつけられたりしたら……」
『あの時のことは思い出させないで!』

 荒々しい声が通信機から響いた。
 確かに、『酔っぱらった』ダイアナの映像は、いつもの彼女からは想像もつかない程に陽気で明るい、言い方を変えれば頭の捻子が緩んでいるものだった。
 ダイアナの優れた人工知能はあの時のことをもちろん覚えているのだが、それらの記録には幾重にも頑丈なロックがかけられ、平時の彼女が思い出すことのないよう、情報の海底の奥底のほうに沈めてあるのだ。
 そして、万が一にも、あの忌まわしき映像が外部に漏れだし、例えばダイアナを慕う統合管理脳――ゼウスの目に触れでもしたら……。 彼はきっと、ダイアナを笑わない。むしろその映像の彼女が可愛らしいことを、千を超える言葉でもって表すだろう。しかしそれは褒められる側にとって、針の筵よりも遙かに苦痛を与えうるのだ。
 
『……ええ、ケリー、よくわかったわ。確かに、わたしはとんでもないことをしてしまったみたいね。悪意がなかったとしても、わたしはその子に謝る必要がある。ごめんなさいね、ウォル』
「いや、船の女神……ダイアナ殿。悪いのは俺なのだ……俺が全て悪いのだ……」

 ここまで後ろ向きなウォルは、彼を知るものからすれば珍しいものであっただろう。如何なる苦境もその明晰な頭脳と鋼の精神力で乗り越えてきた彼女なのだから。
 然り、たっぷり五分ほども落ち込んだ後で、少女は立ち上がった。相変わらずバニー姿のウォルは、しかし清々しささえ漂わせた顔つきで、

「よし、終わったことをくよくよ悩んでいても仕方がない。どうせ、俺はいずれあいつの妻として、純白のウェディングドレスを纏わなければならないのだから、その予行演習ということにしておこう!」
 
 はたしてバニー姿がウェディングドレス姿の予行演習になるのか否かは置いておいて、ウォルはそう自分を鼓舞することで、辛うじて精神的再建を果たした。
 握り拳片手に気炎を上げる少女というなかなか見ることの出来ない光景に、ケリーとジャスミンは一瞬唖然としたが、すぐに相好を崩して拍手の真似をしたりした。

「そのいきだぜウォル!」
「過ぎたことにいつまでもうじうじするのは非生産的だ。それくらいなら、酒でも飲んで忘れる方がいくらかましというもの。さぁ飲もう」

 ジャスミンはウォルのグラスに火酒を注いだ。
 もう、こんな年端もいかない少女が夜の街で働いてはいけないとか、もう少し大人しい酒を飲むべきだとか、そういった一般論はどこかに落としてしまっている。第一、目の前の少女は、少女であって少女ではないのだ。自分が彼女の行動に一々掣肘を加える必要など、まったくないのである。
 ウォルはジャスミンから渡されたグラスを、一息で空にした。
 いったい何杯目かは忘れてしまったが、少なくともボトル一本程度のアルコールは胃の中に収めてしまったはずでだ。彼女が見た目通りの存在であれば、顔を真っ赤にしてぶっ倒れ、明日明後日は二日酔いの頭痛に苦しむに違いない量である。
 しかし、意外と言うべきか当然と言うべきか、ウォルの白皙の肌には些かの赤みもさしていない。それどころか、生き生きと輝きはじめた瞳の色は、ようやく今から宵の口だと言わんばかりだ。
 開き直った様子のウォルは、再びケリーとジャスミンの間のカウンター席に腰掛け、つまみのナッツを一つ口に放り込んでから、言った。

「そういえば、さっきから話しているのは俺ばかりだな。お二人はどういう用事でこの星にいるのだ?リィには、ケリー殿もジャスミン殿も、この宇宙で一番有名な商人だと伺っているのだが、お仕事の関係か?」
「商人……まぁ、そういう言い方になるのかな?」

 ジャスミンが首を捻る。確かに二人は、共和宇宙で最も有名な企業の実質的な支配者であり、ウォルの認識に間違いはない。だが、クーア・カンパニーはあまりに巨大すぎて、商人だけに収まらない存在であるのも事実だ。
 しかし、異世界からやって来たという目の前の少女に対して、それを一から講釈していたのでは一晩や二晩では到底足りない。少なくとも、これほど楽しい夜をそんな些末事に費やすつもりは毛頭ない。それに、ウォルの認識もあながち的外れでもないのだ。
 頷いたケリーは、懐から赤い小石を取り出し、ウォルの前のカウンターに置いた。

「……見たことのない色だが、何かの鉱石か?」

 ウォルはその小石を手に取り、まじまじと見つめた。
 色合いは鉄鉱石の一種である赤鉄鋼石に近いが、手に持った感覚が全く違う。具体的に言うと、遙かに重たい。
 どうやら今まで自分の見たことのない鉱物らしいと、ウォルは理解した。
 興味深げに赤い石を眺める少女に、横からケリーが言った。

「まぁ別に大したものじゃあないんだが、そいつが原因でウチのチビと孫チビが、ちっとばかり厄介なことに巻きこまれたりしてな。俺達がこの星に来たのは、厄介事を根っこのほうからやっつけるためさ。残念ながら仕事関係でもなけりゃあ心温まる夫婦水入らずの旅行でもないんだ」
「ほう、これがなぁ……」

 電灯の明かりに透かすようにして、ウォルは不思議な鉱物を見上げたりした。
 ウォル自身、鉱物――彼女の場合は金山と銀山であるが――を原因として、いくつかの大きな争い事に巻きこまれ、その中では虜囚の辱めを受けたりもしている。もっともその時は男の体だったので、いわゆる一般的な拷問以上の辱めを受けたわけではなかったが。
 とにかく、そういった資源というものは、人の心の最も醜い部分を強烈に刺激するのだと、ウォルは身をもって理解していた。だからこそ、自分と同じく厄介事に巻きこまれたらしい二人を見て、同情ではなく気の毒そうな表情を浮かべたものだ。

「それはさぞ大変な事と思う。今の俺ではあなた方のために何の力にもなれんが、今日はゆっくり骨を休めていって欲しい」

 そう言って、二人のグラスに新しい酒を注いだ。
 
「それで十分だぜ。お前さんみたいなべっぴんさんに酌をしてもらえれば、明日の活力も生まれようってもんだ、なぁ女王?」
「まぁそんなところだ。ちなみに君は、リィ達がこの星に来るまでここで働くつもりなのか?」
「うむ。しかし、リィ達がこの星に着いたとして、すぐに帰れるかどうかは分からん。なにせ、俺は彼らの助太刀をすると誓ってしまったのだ。迎えが来て、はいさようならというわけにもいかんだろうなぁ」

 難しい顔をしてしまったウォルである。
 なるほど、これは確かに金色天使の同盟者らしいと、怪獣夫婦は内心で苦笑した。普通の人間はもっと利己的で、自分の都合を最優先させるものだ。別にそれが悪いわけではない。むしろ当然、万人がそういった価値観を持つ前提で、この世界は成り立っていると言っても過言ではない。
 だが、リィもウォルも、そういった価値観とはどうやら無縁のようだ。もしくは、もっと武骨な価値観が、全ての利己主義の前に優先されているというべきか。
 不器用、それとも頑固。突き詰めて言えば、異常。
 しかしケリーもジャスミンも、二人のことを嘲笑うつもりにはなれなかった。自分達にも多分にそういった価値観が備わっているというのもあるが、なによりも不器用な二人が好ましかったからだ。
 だからこそ、自分達が彼女に手を貸す必要はないだろう。無論ウォルの方から助けを求められれば最優先でそれには応じるのだろうが、不要な助力を快く受け取れるような人間であれば今、彼女はこんな場所にはいないはずである。
 ケリーは一つ頷いてから、言った。
 
「わかった。とりあえず、黄金狼から連絡が来たら、お前さんはこの酒場で働いてるって言っておけばいいんだな」
「ああ、もう今更だ。いつでも来い、この格好で酌をしてやると伝えておいてくれ」
「その時はわたし達もご相伴にあずからせてもらってもいいかな?」

 にやりと不敵に笑ったジャスミンである。ケリーもその意見には大賛成だ。なにしろ、一人でもこれほどに愉快な人間が、もう一人増えればどれほど楽しい酒になるか知れたものではない。それに、ひょっとしたらシェラとルウの二人も一緒かも知れないので、四人になるかも知れないのだ。そんな楽しい席を逃すなど、どう考えても重大な損失である。
 ウォルは苦み走ったような笑みで首肯した。これも正しく今更であり、この二人を遠ざける魔法の言葉を、ウォルは持ち合わせていなかった。

「そのときは存分に飲み明かそう。出来れば、俺の厄介事も卿らの厄介事も終わっているといいな」
「ああ。打ち上げパーティーは盛大にやろうぜ」

 さて何度目か知れないが、三人がグラスを打ち合わせようとしたとき、

「おい、ウォル!てめぇ、そんなところで何油売ってやがるんだ!」

 少年の叫び声が、三人の耳に飛び込んできた。
 ケリーとジャスミンが声のした方向に目を向けると、そこには肩を怒らせながらこちらに歩いてくる、少年がいた。白と黒のタキシードに身を包んだウェイター姿であり、首にはきっちりと蝶ネクタイを結んでいる。
 薄暗い店内では分かりにくかったが、どうやら相当の美男子のようだ。目鼻立ちははっきりとしていて、どこか甘やかですらある。銀色の長髪を後ろで一括りにした様子と相まってウォルと同年代の少女のようであるが、顔の造りにははっきりと男性特有の鋭さが表れ始めていた。
 店の、おそらくは熟練のバニーガールが、脇を通り抜けるその少年に熱っぽい視線を送っていた。普段から脂ぎった中年男性の相手ばかりをしている彼女達からすれば、その少年の凛々しいタキシード姿は一服の清涼剤なのだろう。小さな溜息すら漏れる始末である。
 歳の頃は、二人の孫であるジェームスと同じ頃合いだろうか。それにしてはやや大人びた様子なのは、育ってきた生活環境の違いかも知れない。ケリーとジャスミンは、その少年から宇宙生活者特有の擦れ具合を感じていた。

「おう、インユェ。お前も一杯どうだ?」

 インユェと呼ばれた少年は、目の前の少女を小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、

「いい気なもんだよな、ウォル。お前も姉貴も、阿呆な男共と一緒に酒を飲んで馬鹿話をすりゃあ金が稼げるんだからよ。俺はさっきから皿洗いと酒の配膳とバウンサーと……。お前を変態金持ち連中に売り渡しとけば、こんな苦労を味合わずに済んだのによう……」

 バウンサーとは、酒場の用心棒のような仕事である。酒によって無体な働きをする客に快くお帰り頂くのがその仕事内容だ。へたをすれば暴力沙汰に巻きこまれるし、客が懐で暖めている必殺の武器でズドンとやられることも珍しくはない。
 
「うむ、それはご苦労だったな。しかし、そういう意味で言うならば俺は正しく仕事の真っ最中だ。油を売っているという言い方はひどいぞ」
「うるせぇ!俺のドレイの分際で、知ったふうな口を訊くんじゃねえ!」
「わかったわかったご主人様。で、何の用だ?それこそ無駄口を叩きに来たのか?」
「……そろそろショウの時間だから、用意しとけって店長が。お前のを目当てで来てる客も結構いるから、接客は適当なところで切り上げて来いってよ」
「おお、そういえばそんな時間か」

 ウォルは少々慌てた様子で時計を見た。
 それから二人のほうを向き直って、手を顔の前で合わせながら言った。
 
「そういうことなので、申し訳ないが席を外させてもらう。いや、卿らとはもう少しゆっくり語らいたかったのだが、まことに相済まん」
「ショウって……まさか、ストリップとか、そういう下劣なものではないだろうな。であれば、君の意見はどうあれ、全力で止めさせてもらうぞ」
「いやいや、もっと控えめな、ちょっとした宴会芸程度のものだ。そこのステージでするから、もしよければ見ていってやってくれ」

 ウォルが指さした先には、なるほど結構な広さのステージがあった。例えばジャズのセッションやちょっとした大道芸くらいなら問題無く出来そうな広さで、この規模の酒場には珍しいものだったかも知れない。
 そこには、ジャスミンの心配した、ストリップクラブなどではお決まりのポールダンス用のポールなども無かったので、彼女はひとまず安堵の息を吐き出した。
 カウンター席から飛び降りたウォルは、小走りで店の奥に消えた。ウェイター姿の少年も、不審げにケリーとジャスミンを一瞥した後で、ウォルの後を追って店の奥に歩いて行った。

「ショウねぇ。どうする、女王?」

 そう言いながらケリーは腕時計で時間を確かめた。
 そろそろ良い時間である。明日は朝早くから車を走らせて、ヴェロニカ教の総本山まで向かうつもりなのだから、酒はそろそろ控えたほうがいい。それに、体力的なことを考えてもそろそろ就寝するべき時間だ。これから先、この星で何があるのか分からないのだから、体力の維持には気を使って使いすぎるということはない。
 しかし、折角リィの婚約者であるという少女が、見ていって欲しいと言ってくれたのだ。何事も言わずに帰るのは義理に欠けるし、なにより勿体ない。
 ジャスミンは、口を開く前に夫の顔を見た。夫は、不敵な笑みを浮かべながら、店の中央に設けられたステージのほうを眺めている。何の事はない、既に彼の意見は決まっていたらしい。
 ジャスミンは肩を一つ竦めて、ステージのほうに体を向け直した。そして、思い出したように言った。

「ところでな、海賊よ」
「うん?どうしたよ、女王」
「先ほどの、ウォルを呼びに来た少年なのだが、お前はどう思った?」

 先ほどの少年を思い浮かべてみる。
 別に、どうということはない、普通の少年だった。確かに顔の造りは整っていたが、だからといって騒ぎ立てるような趣味もないし、他に際立った特徴があったわけでもない。

「いんや、別に何とも思わなかったがね。宇宙船のジャンク屋とか海賊船の飯場でも探せば、いくらでも見つかる小僧だったと思うぜ?」
「それはそうなのだが、何というか、顔立ちが、誰かに似ていると思わなかったか?」

 誰かに似ている。
 そう言われても、脳内で検索をかけなければいけない顔の数が多すぎる。ケリーはふぅむと唸り声をあげ、宙空を見つめる視線で、

「……強いて言えば、シェラに似てるかな?髪は銀色だし、少し色合いが違うがあの小僧も紫色の瞳だった。肌の色の生っ白さも、まぁ似ていると言えないこともねぇわな」
「パーツで言えばその通りだな。だが、顔の造りは全く違うぞ」

 それは首肯せざるを得ない。少女と見紛わんばかりの顔立ちの……というよりは極上の美少女そのものの顔立ちであるシェラに比べると、先ほどのインユェと呼ばれた少年のそれはどちらかというと男性よりであった。まだ子供特有の中性的であどけない雰囲気が残っているものの、あと五年もすれば、同年代よりは年上の女性にとっての羨望の的となるような、そういう青年に化けるだろう。
 しかし、それが誰に似ているかと問われれば、果たして誰に似ているのだろうか。
 
「俺ががきんちょの時分は、あんな顔だったかねぇ」
「なるほど、そう言われてみれば、意中の異性に対して余裕無く先走った様子は、確かにあの時のお前にも似ているのかも知れないな、海賊」

 楽しげなジャスミンの声である。
 先ほど、ウォルのことを奴隷と言い切った少年の顔は、むしろ彼自身の心が少女の所有物になってしまっていることを二人に知らしめた。あれくらいの歳の頃の少年にはよくあることで、自分が好ましく思っている存在に対して少々居丈高になってしまうのだ。
 その少年に、昔の自分が似ているという。それを言われると、昔の、年上の少女に憧れを抱いていた頃の自分を思いだし、苦笑いを浮かべるしかないケリーだった。

「だが、そういうことじゃあないんだろう?」
「ああ。もっと分かりやすく、あの少年の顔が、誰かに似ている気がするんだ。誰だったか、どうしても思い出せないんだが……。ひょっとしたら海賊、お前はどこかで見覚えがないか?」
「そう言われると、どっかで会ったような気もするんだがなぁ……」

 ケリーも頭を抱えてしまった。
 確かに、どこかであったような気がする。だが、誰かと問われれば、答えは霞がかった記憶の向こう側だ。
 ケリーとジャスミンの共通の知り合いといえば、この宇宙の端から端まで、数が多すぎて数え切れない程にいるが、全ての顔と名前が一致するわけではない。小さいものから大きなものまで、うんざりするほどのパーティーに参加してきたし、各種会合にも出来るだけ顔を出してきた二人である。それらの出席者を一々思えているほど、二人の記憶力もずば抜けているわけではないのだ。ちらりと視線を交わしただけの招待客から『あのときのパーティではお世話になりました』と言われたときほど困ることはない。
 だが確かに、どこかで見た顔である。無論、少年の顔そのものではない。彼の顔には、二人の共通の知人の面影があるのだ。
 
「俺もあんたも知ってるってことは、海賊関係じゃあねえよな」
「同じ理由で、軍隊関係も省かれる。ということはやはり政財界の知り合いだと思うのだが……」
「そんな連中の息子が、果たして宇宙生活者なんかやってるもんかね」

 『なんか』とは言うが、ケリーは別に宇宙生活者を見下しているわけでは全く無い。彼自身、自分が宇宙生活者であることに誇りを感じているのだし、大企業の経営者などという枷を付けられていたときも、いつだって心は宇宙の遙か彼方にあったのだから。
 それはジャスミンも同じだ。彼女自身卓越した宇宙戦闘機乗りであるし、彼女の父であるマックス・クーアは優れた経営者であり天才科学者でもあったが、それ以上に宇宙生活者である自分を好んでいたのだ。
 しかし、そういった個人的な好悪の念を別にして、宇宙生活者に与えられる世間的な価値が極めて低いものであることも、二人は十分理解している。だからこそ、高い選民意識を持つエリート階層の人間が、その子女を宇宙生活者にするなど考えにくい。
 無論、これはあの少年が宇宙生活者であることを前提とした理屈なのだが、二人はその事実に確信を持っていた。野生の生き物がそうであるように、彼らには自分以外の人間が自分と同じ生息域に住む生き物かそうでないかを見分けるための嗅覚が備わっていたから、それが今回に限って誤作動を起こしたとは最初から考えていない。
 傾げた首の戻らない怪獣夫婦だったが、そんな彼らの都合などうっちゃって、店内の照明が突然落とされた。そして、店の中央のステージに、安っぽいスポットライトが照らされる。
 どうやら、先ほどの少年が言っていたショウとやらが始まるらしい。
 まず壇上に上がったのは、赤い丸鼻を付けた、ピエロの男だった。頭にシルクハットを被り、それとは似つかわしくない極彩色に華やかな衣装を身につけている。ステッキなどを振り回し、何ともコミカルな動きである。
 付けひげには見えない豊かな口髭は、真っ白に染まっている。背中こそ曲がっていないが、ひょっとしたら相当に高齢なのかも知れない。
 覚束ない足取りでステージの中央まで行くと、深く腰を折りながら一礼し、簡単な前口上を述べた。お集まり頂いた紳士淑女の皆様方、ただ今より世にも不思議なショウの始まりです。しばしの間、煩わしい時間のことなど忘れてお楽しみください……。
 店内から、ぱらぱらと拍手が起こり、ピエロの男はもう一度深く腰を折った。それを合図に、マジックショウにはつきものの、安っぽいBGMが流れ出す。
 まずピエロは、手にしたステッキを観客に見せるように胸の前に構えた。そして、ことさら見せ付けるよう、ゆっくりとした慎重な手つきで、一本一本指を放していく。
 小指、薬指、中指と離れ、最後に人差し指と親指が離れても、ステッキは重力を無視したように彼の胸の前で浮いていた。そして、彼の手を放れたステッキはふわふわと宙を浮かび上がり、踊るように二、三度跳ね回った後、ピエロの頭上で激しく燃えて姿を消してしまった。
 観客席から、先ほどよりも大きな拍手がわき起こる。ケリーとジャスミンも、拍手をした。種は知っていたが、しかし中々見事な手さばきであったし、こういうときは拍手をするのが礼儀でもあったからだ。
 そしてステージの上では、お決まりのマジックがいくつも繰り広げられていった。手を触れずに遠くに置かれた物体を動かす、グラスの中に隠したコインが移動している、何も入っていないはずのシルクハットの中から兎が飛び出す。たまにわざと失敗して笑いを取るのもご愛敬だ。
 中にはお決まりの人体切断マジックもあった。

「おや、あの少年は……」
「ああ、ウォルを呼びに来たがきんちょだな」

 今、ステージの上でチェーンソーで真っ二つにされかかっているのは、先ほどの銀髪の少年であった。台の上に横たわり、顔以外を長方形の箱にすっぽりと収められた少年の顔は、まるで処刑に怯える死刑囚のように真っ青で、悲壮感が漂っている。当然のこと演技以外の何者でもないはずなので、中々の役者のようだ。
 無慈悲に振り下ろされる電動のこぎり。
 真っ二つになった箱は大きく二つに分かたれ、少年の下半身と上半身は泣き別れになった。ぐったりとした少年はまるで死人のような有様だ。
 まさかそんなことはあり得ないと知りつつも、息を飲む観客。だが、もう一度箱をくっつけてマントを掛けて呪文を唱えれば、あら不思議。少年の体は元通りになっているではないか……。
 立ち上がった少年が観客にお辞儀をすると、大きな拍手が巻き起こった。記録映像では使い古された種のマジックであるが、実際に目の前で見ると結構迫力があるものなのだ。
 少年が舞台袖に姿を消すと、次に、かなり扇情的な格好をした妙齢の女性が舞台に立った。褐色の肌に硬質な金の長髪、女性にしてはかなり大柄な長身。身に付けているのは辛うじて局所を隠せる程度のビキニの水着とハイヒールだけという、男好きのする衣装であった。
 どこかで、下卑た口笛が鳴らされた。しかし女性は少しも嫌がる顔をするでもなく、嬉しそうに手を振り、むしろその豊かな胸を見せ付けるようにして歩いた。
 
「メイフゥちゃーん、愛してるぜー!」

 馬鹿な男のヤジが飛ぶ。もしかするとあの女性は、先ほどまでウォルと同じようにバニー姿で接客をしていたのかも知れない。
 メイフゥと呼ばれた女性は観客に媚びた笑みを振りまきつつ、舞台の上に用意された大きめの檻の中に入った。
 ピエロは、女性が中に入るのを確認すると入口に南京錠を掛け、その檻を広い布で覆った。
 そして、一、二、三の合図で布を剥ぎ取ると……。

「へぇ」

 思わずケリーとジャスミンも声を上げていた。
 檻の中に、女性の姿はなかった。代わりに、立派な体格の虎がいたのだ。
 これには、観客も度肝を抜かれ、盛大な拍手で答えた。おそらくは舞台底に仕掛けがあり中の女性と虎が一瞬で入れ替わったのだろうが、それにしてもこんな規模の店のマジックショウでお目にかかれるような安っぽい手品ではない。盛大な拍手が起きて、むしろ当然と言うべきだろう。
 いきなり衆目に晒されたかたちの虎は、警戒のためか大きく唸り声を上げた。店内を圧してあまりあるその声に、先ほどまで浮かれていた客も息を飲んだが、ピエロの男が手を下に向ける動作をすると虎は落ち着いてお座りをした。どうやら、きちんとしつけが行き届いているらしい。
 再び、盛大な拍手が巻き起こる。ピエロはそれに応えるように大きく一礼をしてから、再び檻に覆いを掛け、ほどなく剥ぎ取った。中には、メイフゥと呼ばれた女性がきちんとポーズを取って立っていた。
 もう一度、割れんばかりの拍手が巻き起こる。ケリーもジャスミンも、同じように拍手をしていた。

「いやぁ、いいもんを見せてもらった」

 ケリーが噛み締めるように言った。ジャスミンもそれに応えて、
 
「確かに、こんな店でお目にかかれる規模のマジックではないな。少し得をした気分だ」
「ああ、女王、それもあるんだがな。俺は生まれて初めてみたぜ、あんなマジックは」

 美酒で満たされたグラスを片手に、心底愉快そうなケリーである。
 ジャスミンは少し不思議そうに、しかし声を若干ひそめて、

「確かに見事なマジックだったが、そこまで手放しで褒めるほどのものか?あれなら、もっと見事な脱出マジックや入れ換えマジックなど、いくらでもありそうなものだが」
「だが、ネタを知ってるマジックってのは、どんだけでかい規模でやったところで面白みは半減するもんさ。その点、俺はこんなに見事なマジックは見たことがねえな」
「見事と。しかし、あれは舞台底に仕掛けのある、言うと悪いが、ごくごくありふれた普通の入れ換えマジックではないのか?」
「言っとくがな、あの舞台底に仕掛けなんてないぜ?」
「……本当か?」
「おや、女王様はあのマジックのトリックがおわかりにならない?」

 ケリーは、意地悪そうににんまりと笑った。
 こういうとき――例えば、同時に読み始めた推理小説で自分だけトリックの答えに気がついたときや、小難しい数学パズルの答えを自分だけが閃いたとき――などは、言い様のない快感があるものだ。その点、子供っぽいところのあるケリーなどは人一倍である。なんとも嬉しそうな顔で、自分の妻の顔を見た。
 逆に、そういうときに取り残された方は、言い様のない不快感があるものだ。それなり以上に自尊心のあるジャスミンは、冷ややかな瞳で自分の夫を射貫いた。

「いいぜ、教えてやる。実は、あのマジックはな――」
「黙れ海賊。それ以上しゃべったら即刻離婚だ」
「おお、怖え怖え」

 ぎろりと、金色の瞳の瞳で睨みつけられたケリーは、怯えたような様子で肩を竦めた。
 言うまでもないが、ふりである。彼の内心がどこにあるのかは、どこまでも優しげな琥珀色の視線を見れば明らかであろう。
 そしてジャスミンも、ケリーの本心がどこにあるのかを知っていた。自分に子供っぽいところがあることも理解していた。その上で、ケリーから答えを聞く気には到底なれない。何としてもこの男の鼻を明かしてやろうと、そうでなければ折角の美酒が胃の中で発酵して酢になってしまうと、そんな気持である。
 だが、舞台底に仕掛けが無いとすると、あとは何が考えられるだろうか。先ほどのマジックに使った道具は、檻と、檻を覆い隠すための布、中に入った女性くらいのものだ。
 種も仕掛けもありません、とはマジシャンの使い古された口上であるが、基本的にマジシャンの用意する道具の中に、種も仕掛けも無いものこそ無いのである。
 ジャスミンはいくつかの種を考えてみた。
 例えば、檻の中に光を屈折させる仕切りのようなものを用意しておく。最初に布で覆われた瞬間に女性はその奥に隠れて、代わりに奥に隠れていた虎が前面に出る。薄暗い照明でしか照らされていないのだから、少々出来の悪い光学迷彩皮膜であっても十分に観客の目を誤魔化すことは出来るだろう。檻の中に人間と虎が同時に入ることになるが、よく訓練された動物はそうそう人を襲うものではないから、不可能とまでは言い切れない。
 他にも、ジャスミンは自分の目が先ほど確かめた現象を、幾通りもの手段でもって脳内で再現せしめたし、そのうちのいくつかは実際の手品に使われる手法でもあった。
 しかし問題は、その程度の小手先のトリックで、海賊王とまで呼ばれたこの剛胆な男を感心させることが出来るのか、という一点である。その一点のみをもって、ジャスミンは咄嗟に思い付いた全てのトリックに落第印を押さざるを得なかった。

「ふぅむ」

 指を形の良い顎に当てて、ジャスミンはしばし黙考した。
 その時である。
 先ほどまで流れていた軽快で妖しげなBGMが鳴り止み、代わりに、どこか懐かしく、胸を梳くような調子の笛の音が流れてきたのだ。
 それも、機械を通した味気ない音ではない。すぐ近くで、誰かが実際に吹き鳴らしているようだった。
 いつの間にか、ステージを照らしていたスポットライトも消えて、店内は手元もはっきり見えないような薄暗がりに満たされている。
 ふと見れば、ステージの脇の方に、先ほどのインユェと呼ばれた少年が座っていて、粗末な横笛を構えている。いつの間に着替えたのだろう、さっきまでのぱりっとしたタキシードではなく、ゆったりとした民俗調の服を身に纏っている。色合いは紺一色と極めて地味なものだが、布の多い服の造りから、質素という印象からはほど遠い服だ。
 先ほどから流れる、遠い記憶の琴線を掻き鳴らす笛の音は、彼の演奏によるものらしい。
 のんびりと、遠くの山から響いてくるような笛の音に、いつしか弦楽器の調べが重なる。
 ステージの脇、インユェのいる方とは逆側に、妙齢の女性が胡座を組み、やはり簡素な造りの弦楽器らしきものを弾いていた。
 先ほど、虎のショウのアシスタントとして参加していた女性だ。名前はメイフゥといったか。服はインユェの身に纏っているものと同じだが、色合いは比べものにならないほど華やかだ。赤と紫、金糸と銀糸をふんだんに使い、薄明かりの中でもきらきらと輝いていた。
 観客席からは、物音一つしない。ただ、二つの楽器の音に聞き入っている。仕事の疲れとアルコールの催す眠気、美しい調べが客の意識を空白にするのだろう。
 そして気付けば、ステージの中央に、人影が一人、立っていた。
 ほとんど光源の無い舞台では、一体誰なのかわからない。
 ただ、何か、細長いものを持っていることだけはわかった。
 片手に、小さな体には似つかわしくない大振りな鋼の塊。
 剣だ。
 剣を携えた小さな人影が、ステージの中央に立っていた。
 
「ウォルだ」

 ケリーの呟きに、ジャスミンは返答する必要を見いださなかった。
 ただ茫然と舞台を見つめる観客達と同じく、無言で見入っている。
 しばらくすると、舞台の照明が少しずつ明るくなり、人影の輪郭がはっきりしてくる。
 濃い化粧を施していた。呆れるほどに白粉を塗りたくった顔、その目元や口元には鮮やかな紅で隈取りがされ、返り血に濡れた悪鬼の如く厳めしい表情が作り出されている。
 豊かな黒髪は後ろで一括りにされ、煌びやかな髪飾りで束ねられていた。
 小さな体は、薄絹を幾重にも折り重ねたような、不思議な衣装に包まれている。質の良い絹糸で織られているのだろう、淡い舞台の照明に艶やかな光を返しつつ、店の僅かな空調にふわふわと揺れている。
 大人ではあり得ない華奢な身体付きに、どこか女性的なまろやかさがある。
 ケリーの言うとおり、その人影は、先ほどまで二人と歓談していた少女のものであった。
 ウォルは、舞台の上で優雅に一礼した。
 そして、双子の姉弟の流す調べに乗せて、すっと足を踏み出した。
 そろりと、畏れるような踊り出し。薄い枯葉が、凪いだ水面に触れるような。一振りの波紋を起こすことすら恐れているような。
 羽衣を纏った天女の如く、少女は踊る。
 激しい踊りではない。踊りというよりは舞いといったほうが漸近だろう。
 緩慢で繊細な足運び。指先、髪の先まで神経の行き届いた所作は、神託を告げる最も高名な巫女のようですらある。
 小さな手に構えた飾り気のない大剣だけが、神聖であるべき神の使者には些か似つかわしくない。しかし、その少女には何よりも似合っている。彼女は、剣を手にすることで初めて完成するのだ。
 横笛と弦楽器の奏でる曲調は、やはりゆっくりとしたままだ。その速度に合わせて、剣を緩やかに宙空に泳がせる。切っ先が地面と水平に、すぅと、左から右へと流れていく。それだけの動きが、溜息が出るほどに美しい。
 花弁が綻ぶような速度だ。徐々に、徐々に、信じられない程に遅々とした速度で、しかし確実に花は開く。誰もその動きを理解することは出来ないが、いつの間にか花は花として咲き誇っている。その速度が、少女の踊りの中にある。およそ舞踊といえるような速度ではないのに、それはやはり最高の舞踊なのだ。誰の目にも捕らえられない。しかし、誰しもの心を捕らえて放そうとしない。
 ケリーとジャスミンも、溜息をすら忘れて見入っていた。
 だが、開いた花は枯れるのだ。それも、驚くほどに、残酷なほどにあっという間に。
 次第に、曲調は速く、激しくなっていく。活気に満ちた、精力的な調べに変わっていく。
 ウォルの踊りも、それに会わせて少しずつ雄壮に、華麗に変貌していった。
 豊穣の神に捧げる奉納の舞いから、戦の神に捧げる剣の舞いに。
 髪を振り乱し、一心不乱に踊る。激しい調べを追い越そうとするように、踊る。
 足を大きく振り上げ、思い切りに振り下ろす。ずどん、と、舞台の底が抜けるのではないかというほどに、大きな音が鳴った。
 汗が舞い散る。証明に照らされてきらきらと光るそれが、宝石のように少女を飾り付ける。
 演奏する二人も必死だ。ぎゅっと目を閉じ、こめかみを汗で濡らしながら楽器と格闘している。いや、楽器と格闘するふりをしながら、ウォルの舞踊と戦っている。
 その戦いが、舞台をより高みへと押し上げる。
 到底、場末の酒場の狭いステージの上で催されて良い演目では、なかった。
 その舞台で、少女は微笑っていた。
 口元を綻ばした少女が、剣を鋭く振る。空気の裂ける音が聞こえる。ケリーとジャスミンの目には、真っ二つに泣き別れた敵兵の胴体が見えた。
 背中を、首筋を大きく反らせて、何かを躱すような動作をした。きっと少女の視界には、先ほどまで首があった場所を振り抜けた、敵兵の剣が見えているのだろう。
 いつしか、少女は舞台の上で戦っていた。一人ではない。きっと、たくさんだ。たくさんの敵兵に囲まれ、戦っていた。
 だが、少女も一人ではない。一人で戦っている少女が、何故あそこまで楽しそうに剣を振れるものか。
 誰かが、少女の背中を守っている。背中を守る誰かに、絶対の信頼を置いている。背中を守られた少女だからこそ、あんなに楽しそうに戦えるのだ。
 観客は、そこまでのことは分からなかった。
 ケリーとジャスミンは、知っていた。誰が彼女の背中を守っているのか、知っていた。
 その誰かの頭は黄金の髪で飾り付けられ、一滴の返り血も浴びていないに違いない。その誰かの瞳は緑柱石色に輝き、敵兵には死に神の宝玉のように見えていたに違いない。
 その二人が、背中を守り合って戦っているのだ。
 少女の戦いは、いよいよ佳境へと近づいていく。彼女の足下には、無数の勇士の遺体が転がっているのだろう。
 曲も、最初の曲と同じものとは思えないほどに激しくなっている。暴力的ですらある。弾きはじめが小川のせせらぎだとすれば、今は猛り狂った暴れ川としか思えない調子だ。
 どんどん速く、くるくる鋭く、歯車のように回転する剣と体。それに合わせて、笛と弦の調べも加速していく。
 もう、これ以上速く、人の体は舞えない。
 もう、これ以上速く、人は楽器を操れない。
 誰しもがそう思い、息を飲んだ、その瞬間。
 少女が、舞台の上で、跳ねた。
 突進してくる馬をそのまま飛び越えられるほどに高く、跳んだ。
 この場に居合わせた全ての人間の視線が、少女の身体を追って浮きあがった。何人かの口元は、だらしなく開きっぱなしになっていた。
 そして少女は、音もなく、ふわりと着地した。膝を折り、神に祈りを捧げるような姿勢で着地した。
 纏った薄絹の衣が、少し遅れて地に着いた時、調べは止まっていた。
 戦いが、終わったのだ。
 一瞬遅れて、割れんばかりの拍手が店内を満たした。誰しもが立ち上がり、惜しみない拍手を送っていた。
 ケリーとジャスミンも、その例に漏れなかった。 

「ジンジャーがこの場にいなくてよかった」

 カウンターの粗末な椅子から立ち上がったジャスミンが、忙しなく拍手をしながら、ぼそりと呟いた。
 同じく立ち上がったケリーが、その呟きに応える。

「どうして?」
「間違いなく歯軋りをして悔しがるぞ。どうしてここがセントラル中央劇場の舞台じゃないんだと言ってな。これは到底、百人やそこらの目にしか触れない場末の酒場に相応しい演目じゃあない」
「ああ、確かにあいつならそう言いそうだな」

 自分を百年に一人の名女優と憚りなく言いながら、しかし自分以外の、もう一人の百年に一人の名女優を発掘することに心血を注ぐ彼女のことだ。きっとこの舞台を見れば、すぐさま舞踊手と奏者に声をかけ、どうにかして芸能界へと引っ張り込もうとするだろう。そんなことになれば、ただでさえ天井知らずに加熱している観客達の熱気に更なる燃料が注がれるのは明らかであり、結果としてどのような混乱がもたらされるのか分かったものではない。
 未だ興奮覚めやらぬ客に一礼すると、ウォルは舞台袖に引っ込んだ。しかし、拍手は依然鳴り止む気配を見せない。
 そして、スポットライトが落とされ、代わりに舞台全体照らし出す照明が灯される。
 そこには、先ほど演奏をしていた二人の男女と、おそらくはピエロを演じていた初老の男性、そして濃いメイクを落とした素顔の少女がいた。
 ケリーとジャスミンも初めて見る、ウォルの素顔である。
 ウォルは、嬉しそうに笑いながら、客席に向けて手を振っていた。天真爛漫という表現が何よりも相応しい、底抜けに明るい笑顔だ。それは、今まで彼女を飾っていたどのような化粧よりも、遙かに華やかに少女を飾り付けている。
 間違いなく、今までで一番美しい彼女だった。

「おい、ダイアン。さっきのバニー姿だけじゃ殺生だからよ、今のウォルも黄金狼のところに送ってやってくれ」

 こっそりと、通信機に向けて語りかける。返答こそなかったが、伝わる気配がダイアナの嬉しそうな笑顔を思い起こさせた。

「さて、海賊。どうする?我々も、あの輪の中に加わるか?」

 とは女王の言葉である。
 気がつけば、黒髪の少女は多数の観客に囲まれてもみくちゃにされていた。興奮とアルコールに頬を赤らめた観客が、少女の演舞を褒めちぎり、同時に多額のおひねりを少女の手に握らせる。中には情熱的に少女の身体を抱きしめたり、頬にキスをする客もいた。
 ウォルは、少し困ったように笑いながら、しかし嬉しそうに一人一人と話していた。ひょっとしたら、先ほどまでバニー姿で接客していた相手だったのかも知れない。
 
「いや、やめとこう。あの中に割り込むのは骨が折れるぜ」
「そうだな。我々は、ここで彼女とお別れというわけでもないのだから、先ほどの見事な踊りの感想を伝えるのはまた今度ということにしよう」
「だが、おひねりの類は今渡しとかねえと、賞味期限が切れちまうぜ?」

 確かに、あとになってから『あの時のおひねりだ』といって現金を渡しても、無粋にも程がある。
 そんな夫の意見をジャスミンは気にするふうでもなく、

「なに、結婚式の贈り物の数を一つ増やしてやればいいさ。どうせ両手では抱えきれない花束を贈るつもりなのだから、それが新郎新婦の両手両足でも抱えきれない量に増えるだけだ」
 
 ジャスミンの口調は冗談めかしたものであったが、この女は間違いなく実行するだろう。遠くない未来、二人の結婚式に招かれた人々は、式場を埋め尽くすような花束に目を丸くするに違いないのだ。
 ケリーはそう思って、かたちの良い唇を僅かに持ち上げた。そして、氷が溶けて薄くなってしまった酒を一口で飲み干した。
 その時、カウンターの向こうから、声を掛けられた。

「兄さん方、悪いがそろそろ店じまいなんだ。最後に何か、軽い飲み物でも頼むかい?」

 この店のマスターの、赤ら顔がそこにあった。

「もう店じまい?まだ宵の口ではないのか?」

 ジャスミンは腕時計に目を落とした。
 そこに刻まれた時間は、宵の口と言うには遅いが、しかしまだ日付が変わるようなものでもなかった。少なくとも、こういった店はまだまだ稼ぎ時、閉めるには早すぎる時間に思える。
 
「外の人の感覚からすりゃあその通りなんだが、この星じゃあ十分に遅い時間なんだよ。人はお天道様に従って、夜は早く寝て朝は早く起きる。それが一番なんだとさ」
「なるほど、そういうものか。どうする、海賊?」
「いや、これだけ旨い酒を飲んでおいて、最後に舌を汚して帰るのも勿体ない話だからな、今日は遠慮しとくぜ。会計はどこでするんだ?」
「いいさ、今日は俺のおごりだ。お前さん方には湿っぽい話も聞かせちまったし、その迷惑料だとでも思ってくれ」

 気の良いマスターは、皺の多い顔を尚更しわくちゃにして笑った。
 ケリーは、その手の好意を無碍に断ることこそ失礼だと確信していたので、おごられておくことに決めた。

「ありがとよ。また今度寄らせてもらったときは、倍返しで払ってやるから覚悟しとけよ」
「おう、その時は先に連絡を入れてくれ。チュチュ・ワームの刺身を作って待ってるからよ」
「そうか、そいつは楽しみだ!」
 
 ケリーは立ち上がった。
 ジャスミンも、それに倣い、穏やかな笑みを浮かべながら、

「ウォルにはよろしく言っておいて欲しい。特に、先ほどの舞台は見事だったと伝えておいてくれ」
「おや?会っていかねえのか?おたくらとウォル、さっきは結構盛り上がってたじゃねえか」
「会っていきたいのは山々なんだが、あの様子ではそれも迷惑だろう」

 ジャスミンの視線の先には、未だ観客からの熱烈な饗応を受けている少女がいた。手当たり次第に、差し出されるグラスを空にして、その度に大きな拍手が起きている。
 今からあの輪の中に入り、親しく個人的な話を始めては、他の客の興が削がれてしまうことは間違いない。
 店主もそれを理解したのだろう、苦笑して、

「わかった、お前さん達が絶賛してたと、きっちり伝えておくぜ」
「すまない」
「じゃ、そろそろお暇させていただくが、今日はありがとよ。旨い酒にとびっきりの美人、そして最高のショウ。ここは良い店だな」

 ケリーの言葉に、マスターは相好を崩して笑い、当たり前だと胸を張った。
 二人は立ち上がり、マスターにいざなわれて店をあとにした。後ろ髪引かれる思いがないではなかったが、自分達には為すべきことがあるのだから、全てはそれを終わらせた後の話だ。
 来たときと同じく、狭っ苦しい廊下を抜け、薄汚れた階段を昇り、店の外に出る。
 夜風は、思ったよりも冷たくなかった。もしかしたら相当冷え込んでいるのかも知れないが、身体中を駆け巡るアルコールが、体を芯からぽかぽか温めてくれているから寒さは感じない。
 規格外に大きな体を持つ二人は、陽気な足取りで歩き始めた。ケリーの手には、土産として渡されたカラ酒のボトルが二本、抱えられている。
 ホテルまではそれなりの距離があるが、こういう気分のときは歩くに限る。それに、下手にタクシーを止めて乗車拒否でもされたら、折角の良い気分に水が差されるではないか。
 ケリーが、いつもよりはほんの少し弾んだ調子で、しかし背筋は真っ直ぐに伸ばしたままに歩いていると、隣で、やはり少しも顔を赤らめることもないジャスミンが、低い声で呟いた。
 
「海賊。少しいいか」

 これは、先ほどの余韻を楽しむ会話ではないだろう。ケリーは気持を入れ換えて、しかしのんびりとした口調で問い返した。

「どうした、女王」
「ここに来るまでに、この星のことを少し調べた。ヴェロニカ教のこともだ。そして思ったことがある。そのことについて、お前の意見を聞きたい」

 二人は、相変わらずのんびりと歩きながらだ。辺りには、自分達と同じように店から追い出された酔漢や、物陰で何事かに励む男女がいたりして退屈しない。寂れた裏通りには裏通りなりの、情緒があるものだ。
 ケリーの返答を待たず、ジャスミンは切り出した。

「ヴェロニカが正式に共和宇宙連邦に加盟したのが935年のことだ。それまではペレストロス共和国の名前の、辺境の一惑星に過ぎなかった」
「ああ、それは知ってる」

 遠い、遠い昔のことだ。
 ケリーもジャスミンも、まだ世間的には子供と称される年齢だったはずだ。
 ケリーは考えた。一体その頃の自分は何をしていたのだろうか、と。
 憶えている。血液の色をした泥濘の中で、藻掻くように生きていたのだ。仲間達の、そして敵だった者達の無念を晴らすために、ただ生きていた。いや、無念を晴らすためだったのか、それすら怪しい。ただ、生きるために殺していたのだと言われれば、明確な反駁は難しいだろう。
 ジャスミンは、ケリーのことを知っている。自分と出会うまでの彼が、どれほど血生臭い少年期を過ごしたのかを。だからこそ、下手な気遣いは何よりもこの男の自負を傷つけるだろう。
 
「海賊、もしもこの話を不快だと思うなら、不快だとはっきりと言って欲しい。わたしは鈍い人間だからな、言葉で言われないと分からないんだ」
「そういうところはあんたの美点でもあり、そして欠点でもあるな、女王。あんたがこの上なくはっきりしてるのは、今に始まったことじゃねえ。それを承知の上で、俺はあんたの隣にいるのさ」

 だからそのまま続けてくれと、ケリーは笑いながら言った。
 ジャスミンも、くすりと安堵したように笑いを漏らし、

「では遠慮なく。共和宇宙連邦が誕生したのが738年。しかし、当時の共和宇宙は発見されたゲートの数の少なさや、長距離航行能力を持った重力波エンジン搭載宇宙船の希少さもあって、手近にあるいくつかの星と交易を結んでいれば上等、その他の、いったい宇宙のどこにあるのかも分からないような星のことなど最初から眼中にない、そういう時代だ。無論、それでも当時の政治家達が共和連邦を作るためにどれほどの尽力をしたかは言うまでもないがな」

 その当時のいきさつは、少し勉強の出来る中学生あたりであれば知っている、一般常識といってよかった。

「共和宇宙連邦が本格的に量的な、そして質的な膨張をはじめるのは800年代中頃から900年代中頃にかけてのことだ。理由は、重力波エンジンや《駅》の技術革新と廉価化による交易手段の発達。また、数多くの《門》がゲートハンターにより発見され、多数の新交易路が開拓されたのも大きい」
「ほとんどがあんたの親父さんの功績だな」

 ケリーの煽てるふうでもない言葉に、ジャスミンは「その通りだ」と頷いた。
 ジャスミンの父であるマックス・クーアが宇宙時代の人類に対して残した功績は、正しく計り知れないものが在る。だからこそ、彼は全宇宙で最大規模の財閥であるクーア・カンパニーを一代で築き上げることが出来たのだ。

「その時期、そして勿論今でもだが、共和連邦政府が未加盟国の加盟を承認するに当たっては、いくつも厳格な条件をクリアしなければならない。経済規模がどれほど大きかろうと、独裁政権の支配が続いている国の加盟は、今でも見送られ続けている」
「東西統一ウィノア政府が良い例だな」

 その言葉を口にしたケリーの表情には、如何なる感情も浮かんでいなかった。淡々と事実だけを述べる、冷たい視線があった。
 しかし、それは彼なりに気を利かせた結果なのだとジャスミンは知っていた。きっと、この話題を続けていけばいつかはウィノアに触れざるを得ないのだと、ケリーが思ったのだろう。他人に言わせるよりは、先に自分で言った方がましだと思った可能性もあるが。
 
「……そうだ。あの国も、非人道的な軍事実験から長く連邦加盟を見送られていた。そして、連邦加盟という餌をぶら下げられた結果、あのような事件が起きた」

 流石に核心の部分をはっきりということは、ジャスミンにも出来なかった。
 ケリーは、今更のことだと口元に笑みを浮かべて、

「遠慮はいらねえって言っただろうが。祟りを畏れるような性格じゃねだろうし、亡霊だってあんただけは避けて通るだろうぜ」
「海賊。わたしは呪いも亡霊も恐れはしないが、しかしお前を怒らせるのは怖い。だから、最低限の礼節は守りたいし、そこから先については一応の遠慮はしている。それは悪いことか?」
「別に悪かねえ。ああ、悪かねえよ」

 ジャスミンは一度頷き、

「だが本当のところは、共和連邦政府が東西ウィノア政府に加盟を働きかけていた、というのが実情だ。やはりあの規模の経済を有する国家だからな、多少の非人道性には目を瞑っても自分の仲間に加えておきたいという気持は分からないでもない。それでも、一応の建前として、非人道的な兵士の取り扱いをあらためるという条項にサインをさせた。逆に言えば、そういった建前無しに人権を軽視する国家の連邦加盟を認めることは、連邦自身にも出来なかったということだ。無論、ありもしなかった超人兵士達の存在を恐れたという間抜けな事情があるにしても、だ」
「結果として、一番徹底的で根本的な解決策が採られたわけだな」

 兵士に対する非人道的な取り扱いが問題だというならば、兵士そのものがいなくなればいいという理屈だ。無論細かいところの事実はそうではないが、外面だけを捕らえて大雑把にいえば、間違えてはいない。

「東西ウィノア統一政府の連邦加入が認められたのが、926年。そして、旧ペレストロス共和国、現ヴェロニカ共和国の加盟が認められたのが935年。時間的に見れば、ほとんど同時期に加盟したといってもいい程に接近した時期だ。当然、連邦加盟に求められる基準も近しいものだった。だが、東西ウィノア政府のときはあれだけすったもんだを起こした連邦加入審査委員会は、ヴェロニカ政府については呆れるほどあっさりとその加盟を認めている」
「別に、未加盟の国の全部がウィノアみたいに馬鹿な真似をしてるわけじゃねえだろうし、それが何か不審なのか?」
「お前の言うとおりだ、海賊。だが、当時の審査委員会は、東西ウィノアを一つの悪例ととらえて、未加盟国の加盟条件として、連邦憲章にある人権規定の遵守をまず第一に求めるようになった。今では当たり前のように認められる軽度な人権侵害――文化や宗教観で片付けられるような男女差別にすら彼らは唾を飛ばして抗議した。テロが起きた直後の空港の手荷物保安検査並だな」

 ジャスミンは続ける。

「ヴェロニカ教は、この宇宙でも珍しい、かなり特殊な教義を持つ宗教だ。そして、この星に住む人々の全員が入信していると言って間違いないほどに教徒の数も多い。その宗教に人権を軽んじる要素があれば、当時の審査委員会が問題にしないほうがおかしい」
「何か、具体的にそういう話があるのか?」
「数えればきりがないが、例えば、極端な断食修行がある。十歳になったばかりの子供は皆、ヴェロニカ教の塾に預けられ、そこで一ヶ月の間の絶食生活を送ることになる。無論最低限の栄養を確保するための食事は許可されるが、それでも食べ盛り育ち盛りの子供達が一ヶ月もの間空腹に悩まされることになるんだ。しかも、その状態で果実がたわわに実る野山に連れ出されて、自生植物に手を出さないよう訓練したりもするらしい。これが人権侵害でなくて、なんという?」
「ただの宗教的な価値観の違いだろう?別に、ヴェロニカ教を抜けたら死ぬっていうわけでもなし、勝手にさせたらいいんじゃねえか?」
「わたしもそう思う」

 ジャスミンは淡泊な調子で認めた。

「だがここで問題なのは、当時の審査委員会のお偉方がこの事実をどう考えるか、だ。最終的な加盟の可否に影響を与えるかどうかは置いておいて、問題くらいにはなりそうなものだが、議題にすらあがった形跡はない。それに、ヴェロニカ教を棄教したから死ぬわけではないというが、この星のほとんど全ての人間がヴェロニカ教であるという環境を考えれば、教えを捨てるには相当の覚悟がいることは事実だ。我々の認識と同じ感覚で棄教するのは不可能なのだろうし、そういう状況であれば教義のために命を危険に晒す者がいても不思議ではない。実際、あの誘拐事件は、そうした不幸なケースであるはずだ」

 あの誘拐事件とは、二人の孫であるジェームスと、リィやシェラが巻きこまれたヴェロニカ事件のことである。あれは、子供を死に追いやられた親の復讐劇であったのだ。
 
「確かに、議題にすら上がらなかったってのはおかしな話だが、あり得ない話とも言い切れないぜ?当時の調査が甘かっただけかも知れねえしな」
「わたしも、それだけなら別に不思議な話ではないと思う。しかし、他にもおかしな点がある。それは、ペレストロス共和国が連邦に加盟申請を出してから承認されるまでの時間だ。これが、他の一般的なケースに比べると、その平均の僅か三分の一という短期間で認められている。これは歴代の最短記録でもあるらしい。関係者はこの異例の速さの承認劇について流石に不審を憶えたようだが、ヴェロニカが辺境の一惑星であり、毒にも薬にもならない国だからだろうと考えて、それ以上の問題にはならなかったらしい」
「なるほど。さっきの話と合わせて考えると、どうにもおかしな具合だな。まるで誰かが、ヴェロニカの連邦加盟を急がせたような、そんな節があるぜ」

 ケリーの言葉に、ジャスミンは頷いた。

「わたしもそう思い、当時の記録を洗ってみた。すると、一つの国が、ペレストロス共和国の加盟を、密かに、しかし強力に後押ししているような形跡が見受けられた。ペレストロス共和国が異例の速度で連邦に名を連ねることが出来たのも、その過程で些細な人権問題が議題に上がらなかったのも、その国の威光があったのではないかと思っている」
「どこだ、それは?」
「エストリア」
「エストリアぁ?」

 流石にケリーも目を向いて、ジャスミンの顔を見た。
 だが、どこにも冗談を言っている様子はない。そもそも、こういう場で冗談をいうほど面白みのある性格でもないはずだ。
 ケリーは、擦れたような声を絞り出した。

「なんで、連邦加盟国の中でも一、二を争う超大国様が、言っちゃ悪いがこんな辺境国の連邦加盟を後押しするんだ?」
「わからない。ただ連邦議会の中で自分達の傀儡になってくれる国を探していたのか、それとも他に意図があったのか。どれだけ調べても、エストリアがペレストロス共和国を連邦加盟させることで何らかの利益を受け取っていたようには思えないんだがな」
「ふぅん……」

 ケリーは面白そうに呟いて、黙り込んでしまった。
 想像だけなら、どのように触手を広げることも可能だ。しかし確たる証拠もない以上、今はどのような議論も無意味だろう。
 だが、ケリーの中では一つの可能性が鎌首を擡げていた。ひょっとすると、最近のヴェロニカの外国人排除――というよりは異教徒排除の極端な姿勢も、全てはそこに行き着くのではないだろうか。
 
「なぁ、女王。実は俺も、少しあんたに聞いてもらいたいことがあるのさ」
「なんだ、海賊」
「俺も、この星については色々調べてみたんだが……どうやらこの星も、遺伝子操作やら品種配合やらで、生き物の設計図を弄くり回すのが好きな連中が多いらしいな」

 ジャスミンはさっとケリーの琥珀色の瞳を覗き込んだが、何も言わず、話の続きを促した。

「もっともこっちは、超人兵士の製造のためじゃなくて、教義を守るために植物の遺伝子を弄くってるらしいがな」
「ああ、それは知っている。確か、栽培植物だけを食べても栄養失調を起こさないよう、各種栄養分に富んだ作物を作るために発達した技術だと聞いているが……」
「そこなんだが、おかしかねえか?」

 ケリーは首を傾げていた。

「もし最初から、それだけ食ってりゃ全ての栄養分が足りる、そんな便利な野菜が身の回りにあって、その上で栽培作物以外の自生してる植物も動物性タンパク質も摂っちゃあいけませんって教義が出来たなら納得だ。だが、ヴェロニカ教はその反対だろう。最初に教義ありけりで、そのあとで教義のために便利な野菜を必死で作り上げた。遺伝子を弄くって、無理な品種改良までしてな。だからこそ品種改良技術が発達して、それを他国に売り出せるまでになったんだ。なら、その改造作物が完成するまでの間、この星の人間は何を食ってたんだ?」
「それは……」
「大人はまだいいさ。だが、母親の乳以外、どんな動物性タンパク質も駄目ってことは、卵も牛乳も、それに由来する栄養剤も駄目ってことだろう。育ち盛りのガキ共は間違いなく栄養失調を起こすぞ。極端なベジタリアンが一人や二人って話じゃない、国全体がそうなんだ。健康問題は、国の生産力に直結する大問題だぜ。そんな問題を抱えた国が、どうして今も存在していられるんだ?」

 ジャスミンは、少し考えてから、言った。

「教義が途中で変わった?」

 珍しいことではない。神の教えとは絶対不変のものではなく、時代の移り変わり、信者の考え方の移り変わりによって変貌していくものなのだ。ならば、如何に厳格を体現したようなヴェロニカ教の教えとはいえ、どこかでかたちを変えていないとは限らない。
 ケリーも、ジャスミンの意見に賛同するように頷きながら、

「俺もそう思う。でないと辻褄が合わない。ヴェロニカ教は、どこかで必要に迫られて、ありとあらゆる栄養素を含んでいるっていうお化けみたいな植物を作り出したが、それまではいわゆる普通の人間と同じようなものを食べていた。それとも、あの教義ももう少し箍がゆるくて、例えば四つ足の生き物を食べてはいけないだけとか、生き物は駄目でも卵や乳製品は大丈夫とか、もう少し人間様に優しい教えだったんだろうぜ」
「そんな記録は残っているのか?」
「いや、連邦加盟を果たしたあとに教義が変わったとか、そういう記録は一切残っていない。加えていうなら連邦未加盟だった頃の文献も調べたが右に同じくだ。もっとも、そっちのほうは信憑性に些か難あり、だがな」

 ジャスミンは頷いた。ケリーの言うとおり、連邦未加盟の辺境国家だったころのペレストロス共和国であれば、情報操作は思いのままだ。大昔の焚書坑儒ではないが、自分達に都合の悪い情報を揉み消す程度児戯に等しかっただろう。
 
「だからどうっていうわけじゃない。別にこの国の人間が肉を喰おうが野菜を食おうが、俺はどうだっていいんだ。だが、少し気になってな」
「ああ。この国は、どこかおかしい。歪だ。問題は、その歪みがどうして生じたか、どうして歪ませる必要があったのか、だな」
「そして、その可能性があるものを、俺達は知っている。最後に付け加えりゃあ、あの事件だって変だぜ」
「あの事件?」
「孫チビどもが誘拐された事件さ」

 ジャスミンは、頷いた。彼女も、リィやルウ、あるいはアーサーから、事件の解決編ともいうべき連邦大学人権審議委員会の顛末は聞かされている。

「あの事件の真犯人だったバックス船長――本名はエリック・オーデンっていうらしいが、その男は偶々、本当に偶然に見つけたあの星を誘拐劇の舞台に選んだわけだ。だが、未登録居住用惑星を見つけるのは宝くじの一等に五回連続当たるよりも難しい確率だぜ。手練れのトレジャーハンター達が目の色を変えて、人生そのものを賭けて探してもその程度の確率なのに、どうしてそのオーデンって男だけ、そんなに簡単にあの星を見つけられたんだろうな?」
「それだけじゃないぞ、海賊。あの星を偶然見つけたのは、少なくともあと二人はいる。わたしの父と、トリジウム密輸組織の誰かだ」

 ケリーは頷いた。夜風が少しだけ、冷たくなったようだった。

「合わせて三人の人間が偶然にあの星を見つけたことになるな。三人の人間が、とんでもない幸運に恵まれてあの星を見つけたってわけだ。これは果たして偶然か?」
「偶然も、三度続けば必然だ」
「お前の親父さんは別もんさ。なにせ、あのマックス・クーアだ。俺は、今更あの男が見つけた未登録居住用惑星が山と出てきたって、別に驚かねえな」
「それは困る。たいへん困る。そんなにたくさんの星が見つかったら税金の支払いが大変だし、全てに女性の名前が付けられていたりしたら、わたしの父親は世紀の女殺しとしての名を後世に残すことになるんだぞ。それは娘として、流石に肩身が狭い」

 ジャスミンの言葉に、ケリーは笑いを溢した。

「いいじゃねえか。世紀の女殺し、男にとっちゃあ万の勲章よりも遙かに光栄な異名だ。あの世のマックスも、さぞかし鼻が高いだろうぜ」
「混ぜっ返すな。だが、お前の言いたいことはよく分かる。未登録居住用惑星という貴重なものを偶然に複数の人間が見つけたならば、そこに何らかの法則性を見いだすべきだ、というのだろう」
「マックス・クーアっていう希代の冒険家は置いておいて、オーデンって男とトリジウム密輸組織には、どこかに共通項があるんじゃねえかと思う。無論、オーデンが密輸組織の一員だったってのは無しだ。当然、警察だってまずその線を疑っただろうからな。ブレインシェーカーまでかけておいて何も出なかったなら、そりゃあ無関係だったんだろう」

 例のトリジウム密輸事件の関係者に対してだけでなく、別の事件の容疑者であったオーデンに対してまでブレインシェーカーがかけられたというのは、ほとんど公然たる秘密であった。
 ブレインシェーカーは、対象者のプライバシーを極度に侵害することから、殺人をはじめとした凶悪犯罪か、それともテロなどの広域犯罪、もしくは物言わぬ死体となった被害者に対してしか使われないよう、法律によって厳しく制限されているのだ。
 トリジウム密輸事件といえば、もちろん重大な犯罪ではある。犯人達にブレインシェーカーが使われるのは当然のことであったが、直接の関係者でなかったオーデンにまでブレインシェーカーをかけその記憶を探るあたり、捜査関係者は必死になってトリジウム密輸組織を――ひいてはその調達源になっているであろう秘密トリジウム鉱山を探そうとしているのだろう。
 
「では、他のどのような法則性を見い出すことができるというんだ」
「分からねえ。だが、オーデンは惑星ヴェロニカ出身だぜ。この星を出て宇宙船乗りをしてたんだ、よくあることだが、得意な航路は生まれた星の近くだったんだろうぜ。当然、ヴェロニカ経由の交易路を多く飛んだだろうな」
「なるほど、そういうことか。そしてトリジウム密輸組織については……」

 そこで、はたと気がついた。

「海賊、お前、例の石はどうした?」
「例の石?それなら、ポケットに……あれ?」

 ケリーが、ズボンのポケットをまさぐって、素っ頓狂な声を上げた。
 すぐに、ジャケットの胸ポケットや脇ポケットなどを上から叩く動作をしたが、どこにも目当てのものはなかったようだ。

「女王。例の石をどうした?」
「わたしが聞いているんだ、馬鹿者!」
「えーと、どうしたっけな。どっかに落としたか?」

 珍しく慌てた様子の夫に、ジャスミンは深く溜息を吐き出した。

「……さっき、お前の膝の上に座っていた女の子に、渡しっきりになっていなかったか?」
「おお、そういえば!」

 ぽん、と掌を叩いた。確かに、あの少女が興味深げに赤い小石を眺めていたのを、ケリーも憶えている。
 そして、そのあとに石を返してもらった憶えはない。ということは、あの石は今も少女の持ち物となっているのだろう。

「どうするかね、別に無くなって困るものじゃないんだが」
「我々はそうだ。ホテルに帰れば、他にもいくつか石はあるからな。だが、ウォルの方が困るだろう。あの子は、そこらへんはきっちりしていると思うぞ。もしかしたら、この広い星で我々を捜して走り回るかも知れない」
「そいつは不味いな。よし、いったん店に戻ろう」

 なんともバツの悪い話ではあるが、仕方ない。
 二人は踵を返し、再び例の酒場のある区画へと向かった。
 行きと違って、既に一度通っている道である。歩調も早くなろうというものだ。
 だが、しばらく歩いて、二人の表情が少しずつ強張っていった。
 理由はない。少なくとも、言語化出来るような不審はないはずだ。
 だが、何かがおかしい。さっき通ったときとは、空気が違う。
 二人は、お互いが同じ思いでいることを、言葉ではなく目で確かめ合った。
 結論は、やはり同じ。
 同時に駆けだした。

「海賊、何か見つけたか!?」

 全力疾走しながら、ジャスミンが、低く押さえた声で叫んだ。
 闇夜にはほとんど響かない、しかし対象者の耳にははっきりと届く、独特の発声法だ。
 ケリーもそれに応じて、

「武装した兵士が、あちこちに待機してやがる。ここからは歩こう。あまり目立つ動作をすると、目をつけられるぞ」

 悔しそうな表情でジャスミンは立ち止まり、それから歩き出した。
 そっと、ケリーの腕に手を回す。夜道を歩く夫婦という設定ならば、少しくらい親密な様子を作っておいた方がいい。それに、密着しているほうが秘密の会話には便利なのだ。

「規模は?」

 ジャスミンの質問は、ケリーの義眼を信頼してのものだ。
 ケリーも良く応えて、

「分隊規模のチームが、おそらく二つか三つ。装備からいって、対テロリスト殲滅専門の特殊部隊だ」
「特殊部隊だと!?まさか、この国の正規軍のか!?」
「ああ、腕章が正しいものなら、どうやらそうらしいな」
「……目的は?何故、こんな裏びれた場所に特殊部隊を、三チームも展開させる必要がある?」
「ダイアン、連中の通信は拾えるか?」

 ジャスミンの髪を撫でるふりをして、左手首を顔の高さまで持っていき、そこに巻かれた通信機に向けて話しかける。
 返答は、早かった。

『……冗談じゃないわね。奴らの目的は、金の天使さんの婚約者、ウォルって子の身柄の確保。そのために邪魔な障害物は積極的に殺害し排除することって、まるきり扱いが凶悪テロリストの親玉よ!?あんな可愛い子に何するつもりよ、この人達!』
「一応聞いとくが、ウォルがこの国で指名手配されてるってことはないか?」
『もちろんよ!この国は勿論、共和宇宙連邦加盟国のどんな辺境国にだって、あの子の犯罪歴はおろかも補導歴も残ってないわ!』

 そんなことを一瞬で調べられること自体信じがたいことなのだが、いまさらケリーは相棒の情報収集能力を疑ったりはしなかった。
 つまり、ヴェロニカ共和国は、犯罪者の取り締まりとはまったく関係のないところで、ウォルの身柄を力尽くで確保しようということらしい。

「どういうことだ、海賊。なぜヴェロニカ共和国がウォルを手に入れようとしている?まさか、我々も巻きこまれた、惑星セントラル星系爆破未遂事件の絡みか?」
「それはねえだろう。あの事件の関係者は、天使から、触らぬ神に祟り無しって教訓を嫌って程に叩き込まれてるはずだぜ。今更その政府関係者が動くとは考えにくい。第一、ウォルがリィの婚約者だって、今の時点で知ってる人間がそれほど多いとは思えねえ。俺達だって今日知ったばかりなんだぜ?」
「では一体……いや、そんな詮索はあとでいい。今我々のするべきことは、ただ一つだな」

 ジャスミンの瞳が、青みがかった灰色から、煌びやかな金色に変じた。
 この女性が、戦う獣へと変貌した証左である。
 ケリーの琥珀色の瞳にも、揺らめくよう熱が宿る。
 
「あーと、すみませんねぇ、ここから先は通行止めなんですよ」

 へこへこと頭を下げながら、背の低い男が二人、ケリーとジャスミンの前に現れた。
 共に、建築作業員のような、ぼろぼろの服を纏っている。
 だがケリーの義眼は、彼らの懐に、一般人が持ち歩くには少々物騒な鉄の塊を見つけていた。
 ケリーは、むしろ当然という素振りで、ほんの少しも慌てることなく男達に合わせて話す。

「それは困ったな。あっちのほうにある店の中に、忘れ物をしてしまったんだが」
「へぇ、ほんとにすんませんね。ここから先で、人が通るには少し危険な作業をするもので。今日のところは諦めてやってくれませんか」
「無理を言うつもりはないんだが、明日の仕事にどうしても必要なものなんだ。なんとか通してくれないか?」
「それはちょっと……」
「わかった。では、君達に、私の代わりに取ってきてもらうというのはどうだろう。別に、値の張るものではないのでね、私が直接行かなくても大丈夫だろう」

 男達は、目を見合わせた。
 これ以上、こんなところで押し問答するのも馬鹿らしいと思ったのか、一人が面倒臭そうな声で、

「わかりました、ではどんなものをお探しで?」
「こんな、小さな赤い小石なんだがね。きっと店のマスターが預かってくれているはずだ。私以外の人間が受け取りに行くことは、電話しておくよ」
「店と。その店の名前は?」

 ケリーは、僅かに考え込むふりをして、

「そうだな、確か秋芳酒家といったかな」
「何?」

 その言葉を聞いて、男達の顔色が変わった。なにせ、それは捕獲対象である少女が働いている店なのだから。
 邪魔者を追い返そうとしていた男達の目の色が、僅かに変わる。そして、不審者に変貌した男女を詰問しようと、口を開きかけた。
 だが、それよりも、ケリーとジャスミンの拳のほうが早かった。男達はきれいに顎を打ち抜かれて、膝から崩れ落ちた。変事を味方に知らせる暇は無かったはずである。
 いくら大人数を投入しているとはいえ、一つの持ち場に割ける人員には限りがあるし、こちらが女連れだと油断したのかもしれない。
 とにかく、好都合ではあった。

「ダイアン、連中は気付いたか?」
『今のところ大丈夫。でも急いで。もう作戦開始のカウントダウンが始まってる!』

 ケリーとジャスミンは、建物の陰に隠れるようにして駆けた。
 やがて、十秒と待たず、遠くに見える建物から、聞き馴染みのする大きな音が響いてきた。
 特殊部隊が屋内突入時によく用いる、閃光手榴弾の発する轟音だった。
 光は届かない。地上階へ突入したのであれば、どこかの窓から光が漏れ出すものだ。つまり、特殊部隊は地下階に突入した公算が高い。
 つまり、ウォルのいる酒場だ。

「急ぐぞ、海賊!」



[6349] 第三十六話:深淵にて
Name: SHELLFISH◆e7921896 HOME E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/05 01:29
 ケリーとジャスミンは全力で疾走した。体の隅々にまで滾る血液が送り込まれ、頭は、間近に備えた戦闘に向けて沸騰しそうな勢いで回転している。
 あの少女は、いい少女だった。笑顔は可愛らしいし、一緒に酒を飲んでいて楽しいし、妙な言い方だが侠気がある。将来は驚くほどの美人になるだろうこと請け合いだ。それに、あの子には、二人の大恩人である少年と腕を組んでヴァージンロードを歩くという大事な仕事があるのだ。折角だから二人の子供の顔も拝んでみたい。だから、こんなところで不逞の輩に引き渡したり、死なせるなんて以ての外だ。
 しかし、二人は正しく百戦錬磨である。片方は、たった一人の相棒を供にして宇宙を駆け回り、海賊王とまで謳われた男である。そしてもう片方は『魔女』と称される共和軍の猛者である。思考の一部を熱く滾らせつつも、他の一部で事態を冷静に把握しようと努めている。
 この場合、正面突破はいかにも不味い。最悪だ。対テロチームが突入したのだから、腕利きのスナイパーが随行していないはずがない。どこか狙撃に適した高台で、酒場の出入り口をスコープに収めて、今にもトリガーを引き絞らんとしているに違いなかった。何の装備もなく彼の標準に飛び込もうならば、無慈悲な死に神の鎌が銃弾に化けて、二人のこめかみを吹き飛ばすだろう。
 二人は申し合わせたように走る向きを変え、薄暗い路地に入った。

「ダイアン、例の酒場の周辺地図、それに見取り図は拾えるか?」

 生ゴミのたっぷり詰まったポリバケツを蹴飛ばして駆けながら、ケリーが叫んだ。

「今送るわ。……不味いわね、さっきの男たち、もう息を吹き返したみたいよ」
「ちっ、半日は足腰が立たねえようにぶん殴ったつもりだったんだが……なまったかな?」
「それとも、この国の軍隊はきっちり鍛えているか、どちらかだろう。どちらにせよ、あまりありがたいことではないな」

 ケリーに少しも遅れることなく走るジャスミンが、忌々しげに呟く。もとが軍属の彼女であるから、柔弱な軍人というものには侮蔑を通り越して嫌悪の念すら抱くのだが、この場合だけはその信念を曲げてもいいと思った。敵の勇猛を望むのはゲームの勝負の時だけで十分であり、命を賭けた闘争については逆のほうがいいに決まっている。
 事実、ヴェロニカ軍の練度は、中央に名だたる大国の軍隊と比較しても見劣りしたものではない。装備の充実ぶりは一歩も二歩も劣るが、辺境国にはつきものの宇宙海賊との戦闘やテロリストグループの制圧で鍛えた実戦経験は装備の差を補って余りあるものがあった。

 それに、いくら装備が脆弱といっても、今の二人の軽装備とは比べるべくも無い。唯一アドバンテージがあるとすれば連中の主回線をすでにダイアナが掌握していることだが、よほどの間抜けでも無い限り、緊急用の回線の一つや二つは用意しているだろう。
 先ほど二人が殴り飛ばした連中は、通信不能になった主回線は切り捨てて、部隊の本部に通信を飛ばしているだろう。すでに自分達の存在は明らかになっていると思った方がいい。
 であれば、事態は一刻を争う。こちらの装備は、ハンドガンが二丁に、携帯用の貧弱なナイフが数本程度なのだ。万全な装備の軍隊に正面からかち合っては勝負になるはずもない。
 ケリーは、相棒から送られてきた周辺地図を義眼に写したまま疾走した。酒場の入ったビルの区画をぐるりと迂回して、その裏口を目指した。
 多少のタイムロスは覚悟の上である。
 果たして、裏口のある通りはすぐに見つかった。
 驚くほどに、道が狭い。体格のいい二人は、肩を傾けるようにして体をねじ込まなければ入ることもできないような、狭い通りだ。これでは、扉をキチンと開けることも難しいのではないだろうか。通りの入り口には、収まりきらないゴミやら吐瀉物やらが散乱して、如何にも饐えた臭いが充満していそうだ。
 だが、通りに飛び込むためには、幅の広い道路を横切らなければならない。
 その手前で、ケリーが足を止めた。ジャスミンは、それを非難の視線で見遣ったりはしない。この男が止まるのだから、止まるだけの理由があるのだ。
 風を切るような速度で走って、しかし少しも息を乱さないケリーが、遙か上方を眺めて、忌々しげに呟いた。彼の異名にもなっている義眼が、奇妙な色に光っていた。

「不味いな。こっちにもスナイパーだ。きっちりしていやがる」

 視線の先は、二人が物陰にしているビルの屋上である。高さはそれほどでもない。せいぜい、四階か五階建てくらいものだろう。射程距離はまだまだ余裕があるのだろうが、あの隘路に照準を合わせるならば、このビルの屋上くらいしかスナイピングポイントが見つからなかったに違いない。
 このまま道路に飛び出して隘路に飛び込めば、飢えた猛獣の前に生き血を引っ被った状態で飛び出すよりも悲惨な結果になるだろう。だが、このビルの入り口に回り、階段を駆け上がって、スナイパーを始末する。それがどれほどのタイムロスになるか。
 ケリーが舌打ちをしかけたとき、

「行ってくる。すぐに戻るから待っていてくれ」

 とんでもなく軽い調子で、妻が言った。
 呆気に取られる暇すらない。ジャスミンはビルの壁面に取り付き、ほんの僅かなでっぱりに指をかけて、体をひょいと持ち上げた。次は二階の小さな窓の庇部分。次はひびわれたコンクリートに指先をねじ込み、無理矢理に手がかりにする。それを繰り返すうちに、彼女の立派な体躯は、ひらりひらりとケリーの遙か上方まで運ばれていた。
 まるでヤモリか蜘蛛だ。とても人間になせる技ではない。もしかしたら熟練のロッククライマーならば同じような芸当も可能なのかも知れないが、彼女と同じだけの身長と体重をほこり、しかも重量級のハンドガンを脇に抱えてこんな事ができる人間を、ケリーは寡聞にして知らない。するりと屋上に消えた我が妻を眺めながら、後から後から沸き上がってくる笑いの発作を噛み殺すのに苦労していたほどだった。
 程なくして、

「おい、海賊。ちょっといいか」

 遙か上方から声がかけられる。ジャスミンが屋上に姿を消してから、30秒と経っていない。銃声は聞こえなかったから、もっと穏便な方法で──おそらく話し合いではないだろうが──かたをつけたに違いなかった。

「どうした」
「少しどいてくれ」
「何だって!?」

 返答する間もなく、何か黒い塊が、屋上から落っこちてきた。夜空を背景に、真っ赤な髪が舞い上がったのが見える。
 ジャスミン本人だ。

「この馬鹿!」

 ビルの五階、地上20メートルからの自由落下となれば、いくら頑強なジャスミンでもただで済むはずがない。骨折で済めば御の字といったところだ。
 ケリーは、咄嗟に受け止めるべく落下地点に割り込んだが、冷静に考えれば、十分に加速された体重80キロを超えるジャスミンの体を受け止められるはずもない。それは、彼の知る一人の少年を除けば、間違いなく不可能ごとである。
 こりゃあ潰されるな。
 せめてクッション代わりにはなるだろうかと絶望的な気持ちで衝突を待つケリーの頭上で、しかしジャスミンの体は急停止し、夫の腕の中には妻の柔らかな体がぽすんと収まったのだ。
 
「……何をしているんだ、海賊」

 ジャスミンは、ケリーの両腕で掬い上げるように抱きかかえられた姿勢のまま、胡散臭げに夫を見上げた。
 よく見ればジャスミンの腕には、ヘリからの降下にも使われる頑丈なロープがしっかりと握られている。激突の直前に、それで急制動をかけたのだろう。レンジャー部隊に配属されたこともある彼女にとっては造作もないことだったに違いない。

「……一つ聞いてみたいんだが、女王、あんた、いつもそんなもんを持ち歩いているのかい?」
「いや、さっきもらった」
「もらった?」
「親切なおじさんにな。気を失った人間に装備は生かせないからな。せいぜい有効に利用させてもらうさ」

 そう言ったジャスミンの背中には、なるほど小振りなバックパックが背負われている。
 彼女が屋上に姿を消してからの僅かな時間で、おそらくは百戦錬磨の特殊部隊員を素手で仕留め、その装備を奪い、ロープ降下の準備までしてのけていたのか。
 なるほど、共和軍の猛者どもから赤毛の雌虎の異名を勝ち得た実績は伊達ではないらしい。その雌虎が腕の中からギロリと睨め上げてくるだから、ケリーの頑丈な心胆も僅かに冷えた。

「わたしがどけと言ったらどいてくれ。危ないじゃないか」
「ああ、まぁ、俺もそのつもりだったんだがなぁ。しかし、一応はあんたを助けようとしたんだぜ?もう少し感謝してくれると嬉しいんだがね」
「わたしを助けようとしてくれたのには素直に感謝するが、わたしが無謀にもあの高さから飛び降りたのだと判断されたのには腹が立つ。差し引きゼロだ」

 あっさりと言ってケリーの腕から体を下ろし、ジャスミンは、先ほどまで自分を抱え上げていた腕の中に、冷たい鉄の塊をねじ込んだ。
 銃身の短いサブマシンガンで、ケリーにも馴染みの銃種であった。ハンドガンと比べればその威力には天と地ほどの開きがある。

「こいつはありがたい」
「さっさと行くぞ。時間が惜しい」

 そう言ったジャスミンの足は、裏口に向けて走り出している。
 ケリーもそれを追って走った。
 人通りの絶えた道路を横切り、ビルの隙間に体を捻り込み、駆ける。スパイアイで人影がないことは確認しているが、最低限の用心は怠らず周囲に警戒を走らせる。
 酒場の裏口は、錠前が破壊された状態で開けっ放しになっていた。敵はこちらからも突入していると思われた。
 二人の長身からすればあまりに狭く、そして低い入り口を、背中を曲げながらくぐり抜ける。目の前に現れた下りの階段は、一度足を踏み外せば捻挫程度では済まない怪我を負いそうなほどに急で、長く、しかも足場が狭い。その上、照明の類がもともと無いのか、それとも電源を断っているのか、足下手元すら見えないような暗がりである。
 義眼のケリーであればまだしも、ジャスミンには相当厳しい環境条件だ。いくら夜目の利く彼女であっても、限界というものがある。
 それでも二人は三段飛ばしで一気に駆け下りた。店内に充満する硝煙の臭いが、二人の速度をより速くしていた。
 降りきると、すぐに曲がり角がある。ケリーはジャスミンを差し置いて先行した。荒事の手前は甲乙を付けがたい二人であるが、こういう状況ではケリーのほうが、スパイアイを備えている分だけ向いている。
 ジャスミンもそれを弁えているから、ケリーの後ろにつき、後方の警戒に回った。
 階段に負けず劣らず狭い廊下を、銃を構えながら音もなく駆け抜ける。いくつかドアを潜ったが、その全てが開けっ放しになっていた。既に誰かが通った後なのだろう。
 厨房らしき部屋を抜けると、先ほどまで二人が杯を傾けていた店内にたどり着いた。正面から突入したチームは、まずここを制圧したはずだ。
 しかし、誰の姿もない。所々に薬莢が転がり、戦闘が行われた形跡は残っているのだが、人っ子一人いない。
 だが、それにしてはおかしい。突入した部隊は少女の身柄の確保と、その周囲の人間の殺害を任務としているはずだ。ならば、少女が連れ去られたとしても、彼女の仲間の死体が残されていないと勘定が合わない。加えて言うならば、リィの婚約者と名乗ったあの少女が、いくら生え抜きの特殊部隊が相手とはいえ、そう易々とされるがままになるだろうか。
 真っ暗な店内を油断無く見回しながら、訝しんでいたジャスミンの肩を、軽く叩くものがあった。
 ケリーの手であった。
 どうした、と、声ではなく視線で問う。
 ケリーは、くいと立てた親指で、店の奥の方を指す。そこに何かがあるのだろうか。
 こういった状況であるから、一々問い質すのは時間の浪費であり、命を危険にさらす行為だ。すでに自分の指揮権をケリーに預けたつもりのジャスミンは、おとなしく指示に従い、ケリーの後を追う。
 少女が舞っていた広い舞台に駆け上り、その舞台袖から中に入る。
 奥は意外なほどに奥行きのある廊下が続いていて、扉がいくつも並んでいる。小脇の部屋は店で働く女たちの控え室のようになっていて、色濃い硝煙の臭いの中に白粉や香水のけばけばしい香りが残っている。やはり狭い廊下は無数の弾痕が刻まれ、ここで激しい戦闘があったことを物語る。
 ケリーは、いくつかある扉に目もくれず、一番奥にある扉を開いた。真っ暗な部屋の中は、どこか生活感の溢れる造りになっていて、おそらくは住み込みで働く店員の居室になっていたのではないかと思われた。
 部屋の奥には、何もない。どん詰まりだ。
 さすがに我慢の効かなくなったジャスミンが、ぼそりとした声で問い質した。

「どういうことだ。ここに何がある」
「熱源がここで途切れてやがる。どういうこった?」

 ジャスミンは唖然とした。
 どうやらケリーは、移動する人間の残す熱を追って、この部屋まで辿り着いたらしい。そういう機能の暗視装置があることはもちろん知っているが、それを義眼のサイズまで軽量・小型化し、他の機能と並立させるとなると簡単なことではない。
 
「……その目には、いくつの機能がついているんだ?」
「さぁな。ことあるごとにダイアンがバージョンアップしてやがるから、最近は俺もよく分からなくなってきたところだ」
「ひょっとしたコミックの異星人や超能力者みたいに、ビームの一つも出るんじゃないのか?」
「そんなわけねえだろって笑い飛ばせねえところが厄介だな。あんたと一緒のベッドで眠るときは気をつけるとするさ」

 肩を竦めたケリーである。
 軽口を叩き合ってしまった二人だが、気を取り直したふうに室内に入る。
 部屋は、めちゃめちゃに荒らされていた。壁には弾痕、箪笥や鏡台といった家具は軒並み蹴倒され、カーペットは捲られている。台風が一過したとしても、このような有様にはほど遠いだろう。
 ケリーはしばらく周囲を眺めていたが、熱源が不自然に途切れている壁を見つけて立ち止まった。

「へぇ。これはこれは……」

 義眼の機能を切り替えて壁の向こうを透視すると、不自然な空洞がある。手で叩くと妙に籠もった音がするから、間違いない。
 ジャスミンも、その音で気がついた。

「隠し扉?そんな馬鹿なものが、この世に実在したのか?」

 どう考えても褒めている調子ではない。
 だが、ケリーは場違いに嬉しげな笑みを浮かべて、言った。

「いいじゃねえか、隠し扉。隠れ家や秘密基地にはもってこいだ。男のロマンって奴だな」
「それが許されるのは、せいぜい男の子までだ。立派に成人してからこんな馬鹿なものを作る奴は、それこそ馬鹿というんだ」
「あんたの言うとおりだな、女王」

 しかし、仮にも店の中にこんなものを作るということは、店長には後ろ暗いところがあるのか、それとも臑に傷を持つような人間なのか、どちらかだろう。
 とにかく、壁のあちら側に人が消えたというならば、こちらも追いかける必要がある。
 ケリーは、壁のあちこちを押してみた。すると、意外なほどにあっさりと壁はくるりと周り、その向こうの小部屋が露わになった。
 小部屋には、本当に何もない。が、その床にはただ一つ、大きな穴がぽっかりと空いていた。ご丁寧なことに、穴にはきちんと縄梯子が掛けられている。
 覗いてみると、穴はかなり深いようだった。奥から風が吹いてくることから、それなりに広い空間があるのだろう。いきなりどん詰まりの部屋がある、というわけではないらしい。
 耳を澄ませてみると、どこからか散発的な銃撃音が聞こえた。

「どうするね、女王」
「行くしかないだろう。と、少し待て」

 既に先ほど奪取したバックパックの中から暗視用ゴーグルを引っ張り出していたジャスミンである。店内ならばまだぎりぎり視界があったが、これ以上照度が下がれば戦うどころの話ではなくなるからだ。
 ゴーグルを装着して、細かい調整を施す。
 短い意思確認の後に、先にジャスミンが縄梯子を下った。ケリーは穴の上から銃を構え、万が一に下から銃撃があったときに対応できるよう構えている。
 ジャスミンはするすると縄梯子を下る。彼女の主観としてはずいぶん時間を掛けて、客観的には驚くべき早さで梯子を滑り降りていく。
 しばらくすると縦穴が終わり、開けた空間が見えた。ジャスミンはポケットから手鏡を取り出し、手のひらだけを縦穴の外に出して敵の姿を確かめようとしたが、そこには何も写らなかった。もちろん物陰からこちらを狙っている可能性はあるが、先に進まない訳にはいかない。縄梯子を手放し、ひらりと地面に降り立つ。その足場を確認するよりも早く周囲を警戒し、いつでも攻撃ができる姿勢を整える。
 しばらく息を潜めていたが、どこにも敵の影はない。

「ここは……?」

 短く呟いた。
 落ち着いて自分のいる場所を確認すると、その異様さにあらためて気がついた。
 剥き出しになった地面、どこまでも続く円形の洞穴。前も後ろも、あまりに奥行きがありすぎて暗視ゴーグルを用いても先が見えない。天井の高さは人の身長を倍したほどだが、こういった場所特有の閉塞感から一段と狭く、息苦しく感じる。
 光源と呼べるものは、剥き出しの土壁に張り付いた苔が僅かに燐光のように淡い光を散らしている程度で、暗視用ゴーグルがなければ視界の確保は困難を極めるに違いなかった。
 特別な知識を持たない人間が、前近代的なトンネルといって思い浮かべるのが、こういう場所かも知れない。
 自然にできたものではないだろう。ジャスミンは地質学に造詣は薄く、ケイビングの趣味も持ち合わせていなかったが、ここまで面白みのない洞窟が自然にできあがるはずがないことくらい、素人にだって分かる。
 縦穴が続いているのは地下鉄か下水道か、そういったものだと思っていただけに、さすがのジャスミンも言葉を失ってしまった。
 どういう場所だ、ここは。
 思わず立ち尽くした彼女の背後に、軽やかな着地音が聞こえた。

「……なんだってんだ、ここは?どうして酒場の秘密扉がこんな場所に続いてるんだよ。一昔前のスパイ映画じゃあるまいし、男のロマンのしちゃあやり過ぎだろう」

 もっともな感想である。
 ジャスミンもケリーも、とことん現実感に乏しい光景を目の当たりにして暫し呆然としていたが、遠くから聞こえる銃撃音に我を取り戻した。反響を繰り返した音は、容易に音源を掴ませてくれない。となれば、頼りになるのはケリーの義眼の追跡能力だけである。
 
「追えるか、海賊」
「アイアイサー」
「それを言うならアイマムだ、馬鹿者」
「なんだつまらねえ、相当言われ慣れてるみたいだな、女王」

 二人は同時に走り出した。
 途中、いくつか枝分かれした道があり、通路はいささか迷路じみた様相を見せ始めたが、ケリーにしてみればそれは容易な迷路であった。なにせ地面には、見逃しようのない矢印がきっちりと刻まれていて、自分を出口まで導いてくれているのだ。これならば迷えというほうが難しい。
 だが、それは自分だけに限られた天使の福音ではないことを、この男は承知している。正式な軍隊、しかもその生え抜きの特殊部隊ともなれば、自分の義眼と同程度の機能を持ち合わせた装備はきっちりと備えているだろう。目印となる熱跡も、決して枝分かれなどすることはなく、猟犬が獲物を追跡する様子がありありと浮かび上がっている。
 もし、ウォルたちがこの暗がりに身を潜めるつもりならば、それは必ず失敗する。その認識が二人の足を速くした。
 何度か、地獄の穴のように口を開けた脇道に飛び込み、緩やかに起伏を繰り返す土道を駆ける。二人が履いているのは底の分厚いブーツだったため、どうしても大きな足音が洞内に反響する。どこかで待ち伏せしている敵がいれば、二人の存在は遙か先でも知れてしまうに違いない。
 加えて、いつからか、空気の中に異臭が混じり始めていた。二人にとって馴染み深いその生臭さは、生きている人間が流した血の臭いに違いなかった。
 ジャスミンもケリーも、無言で走った。
 いったいどれほど走ったのか、頑強な二人が軽く息を乱し始めたときである。
 通路のど真ん中に、何かが横たわっているのを、二人は見つけた。
 小さな岩か何かかとも思ったが、どうやら人が倒れているらしい。
 油断無く銃を構えたまま、ケリーが近づく。その足音は聞こえているはずだが、倒れた人影はぴくりとも反応しない。さもあらん、ケリーの義眼には、肌寒いくらいの洞内の気温に同化しつつある、人影の体温が見て取れていた。
 近づいてみると、物々しいアサルトスーツに身を包んだ、大柄な男の死体だった。片手に銃を構えたまま、俯せに倒れて死んでいる。
 あたりには濃厚な血の臭いが立ちこめており、おそらくは自身の流したであろう血の海の中で息絶えている。先ほどから漂っている濃厚な血臭は、この死体が原因かも知れず、この死体だけが原因では無いのかも知れない。

「女王、こいつは……」
「ああ。さっきこの装備をいただいた親切なおじさんと、同じ格好だな」

 つまり、ウォルたちを捕縛するために出動した特殊部隊の隊員ということだ。

「生きているのか?」
「いや、死んでやがる。だが妙だな、銃で撃たれたような形跡はないんだが……」

 大柄な男の後ろ姿、そのどこにも銃弾を撃ち込まれたような跡はない。
 まさかこんな場所で銃を構えたまま毒殺されたわけでも、病死したわけでもあるまい。そういったケースが絶対にないとは言わないにしても、ここで発生する可能性は極僅少なはずである。
 ケリーは無言で、男の死体を仰向けに蹴り転がした。
 そして、言葉を失い、思わず目を背けそうになった。

 顔の上半分が、ごっそりと削れている。

 唇のやや上、拳法などでいえば人中といわれる急所を境にして、人の顔が存在しない。側面から見れば、耳のやや前の部分、こめかみから前面が消し飛んでいるような格好だ。
 抉れた顔面からは乳白色の脳髄や桃色の筋肉組織がのぞき、おそらくは鼻腔と思われる赤黒い空洞には、少しずつ溢れていく血液が溜まり始めている。
 切断面は、意外なほどになめらかだ。緩やかな弧を描きながら、右から左へ、それとも左から右へと抜けている。鈍器を使ったのでは、どれほど上手く殴り抜けてもこうはいかない。銃弾で吹き飛ばしても同じだ。刃物による切断傷にも見えるが、そうすると横から見た切断面が僅かに湾曲しているのはどういう理屈だろうか。
 
「なんだこりゃ。けったいな死体だな」

 ケリーの軽口も、どこか重々しく響いた。
 
「……急ごう」

 ジャスミンは死体に哀悼を捧げるでもなく、装備品であろうサブマシンガンを奪い取り、洞穴の奥へと急いだ。
 血臭は、薄くなるどころか、鼻の奥を痺れさせるほどに濃くなりつつある。風は、進行方向から吹いてくるというのに、だ。
 いったいいくつ、先ほど確かめたのと同じ死に様の死体が転がっているのか、検討もつかない。そして、その中にあの少女の死体が無いと、誰が言い切れるだろう。
 自分達の呼吸音と足音しか聞こえない寒々しい環境が、催眠術のように二人の精神に傷を付ける。
 最悪の結果が、まるで既定の事実のように思えてしまう。二人はそれが危険な妄想だと知っていたが、衝動的に沸き上がってくる少女の死体の映像を封じ込める術を持っていなかった。
 苦行の如き疾走は、しかし永遠には続かない。
 進行方向から何者かが近づいてくるのに、先行していたケリーが気がついた。
 ケリーは身振りでそれを伝えると、ジャスミンとともに脇道へと姿を隠し、足音が近づいてくるのを待った。
 少しずつ大きくなる足音、そして乱れた呼吸音。がちゃがちゃと装備がぶつかる音が聞こえる、隠密など意識にないような無様な走り方だった。
 奇異に思った二人だが、成すべき事は一つである。足音が自分達の側を通ろうとした刹那、音もなく背後に忍び寄り、首筋を掴んで脇道へと引きずり込んだ。
 ケリーが、足音の主の、僅かながらの抵抗を嘲笑うように地面へと叩き付け、後ろ手に関節を決めて制圧する。その隙に、ジャスミンはアサルトスーツ姿の男の首筋から携帯型無線機をむしり取り、靴底で踏みにじった。
 
「所属ならびに官姓名を名乗れ」

 後頭部に銃口を突きつけて、感情を込めない声で問う。
 男は、予想外の女性の声色に驚いたのか、暫しの間身じろぎをしたが、諦めたように力を抜くと、

「……ヴェロニカ正規軍、陸軍特殊部隊第22連隊所属のクラーク・グリフィン上級軍曹だ。貴兄らに、捕虜としての扱いを要求したい」
「よし、グリフィン上級軍曹、了承しよう。これより君は我々の捕虜だ。話が早くて助かる。先に言っておくが、我々は、君たちの捕獲対象である少女、君たちの言うところの凶悪なテロリストの首魁である少女の友人である、不貞の輩だ。そして我々は君が素直である限り、必要以上の暴力を振るうつもりはない。それは理解したか?」
「理解した。わたしは君を何と呼べばいい?」
「ジャスミンと呼べ」

 俯せに制圧されたグリフィン上級軍曹、その背の上で、ケリーがくすりと笑った。まさかこの男も、いかめしい口調で自分を尋問するこの女の本名が、ジャスミンという可愛らしいものだとは夢にも思うまい。
 
「ではジャスミン、尋問の前に一言だけ言わせてほしい。わたしは、君たちとわたしの身の安全のために、わたしの身柄を解放し、可及的速やかにここから立ち去ることを勧める」
「ほう、なぜ?」
「この先には化け物がいる。わたしの部隊は全滅した。おそらく、あれはわたしを狙って追ってくるはずだ。さっさと逃げないと君たちもわたしもあれの牙にかかって食い散らかされるはめになるぞ」

 おそらくは軍の猛者であろう男が、切羽詰まった調子で言った。
 どう見ても、嘘や冗談を言っているふうではない。交渉にはお決まりの駆け引きでもないだろう。喉を絞ってぎりぎり叫ぶのを堪えたその声が、この男が先ほど味わったであろう身の毛もよだつような恐怖を存分に体現していた。
 何かがいるのだ。この暗闇に紛れて、何かが。

「……グリフィン上級軍曹、その話は後で聞くとしよう。その前に質問に答えろ。本作戦における、君たちの随行人数は?」

 僅かに口ごもったが、しかしこのまま時間を浪費することに何より恐怖を覚えたのか、意外なほどにすんなりと口を割った。

「……二分隊、突入したのは12人だ」
「当然、近代的な火器によって十分に装備していたはずだな。目標は達成したか?」
「未だ作戦目標である少女の確保及びその障害となる敵の排除には至っていない。目標は少数だったが、中々練度に優れた兵がいたようだ。敵ながらあっぱれだと思う」
「君を除いて、何人が生存している?」
「分からないが、いたとしてもそれほど多くはないだろう」
「君たちの指揮権は、いったい誰にある?」
「……質問の意図するところが理解できないが、通常通り、上官が指揮権をもっている。それ以外の指示で我々が活動することは、よほどの非常事態を除けばあり得ない」
「ほう、通常の指揮系統による、と。ますます奇妙だな。わたしの掴んだ情報では、あの少女にはテロ容疑はもとより、万引きで補導された経歴すらないようだが、そんな少女を捕まえるために特殊部隊が出動するのが常なのか、この国は?」
「……君たちの得た情報の正誤は、この際問題ではない。我々に与えられた情報は、この店を拠点として凶悪なテロリストが活動しており、写真の少女がその首魁であるというものだけであり、我らの任務はその捕獲及び殺害だ。その正義を量るのは我々の任務ではなく、公正な裁判にて行われるべきことだろう」
 
 男の言葉はもっともであった。軍属の長いジャスミンは、内心で首肯する。人体の末端で動く手足が脳の指令の是非を疑わないように、実行部隊である兵士たちは上官の命令の是非を問わない。善悪もだ。どれだけ非人道的な作戦であっても、それに疑問を覚えることは許されないのだ。
 そして、これで、ウォルの身柄の確保がヴェロニカ軍の上層部の意志であることがはっきりした。ジャスミンはヴェロニカ軍の指令系統には明るくないが、共和軍ならば、特殊部隊は上級士官の直轄部隊である。直接の指令を下したのが誰かは置いておくにしても、木っ端軍人の暴走程度で動かせる部隊ではないだろう。当然のことだが、誰が最初に命令を下したのか、いち上級軍曹に尋問したところで正答を知っているはずがない。
 あとでダイアナに調べてもらうことを、しっかりと頭の付箋に書き込んだ
 
「では次の質問だ。君たちは、この場所がどこかを知っているか?」
「知らない。ヴェロニカ・シティの地下にこんな場所があるなんて聞いたこともなかった。そもそもこんな地下道を掘ること自体、ヴェロニカ教の教義に反している。恐るべき背徳だ」
「……我々はヴェロニカ教の教えに誓いを捧げていないからよく分からないのだが、地下道を掘ることが何故教義に反するんだ?」
「ヴェロニカ教では自然との調和を何よりも重んじる。人が最低限生活するのに必要な居住空間や田畑を開発するために山を切り開くのは許容の範囲内だが、このように無闇矢鱈に土を掘り返し地形を変えては自然は元に戻らなくなる。それが背徳だといわず、何という」
「そこらへんの機微は我々には理解できない。君も、この場で理解を求めようとは思わないだろう。つまらないことを聞いた。では次に……」

 ジャスミンが矢継ぎ早に質問をしようとした、そのとき。

「──おーい、……こいよぉ……」

 おぉん、と、遠くから声がした。何度も反響を繰り返して彼らの耳に辿り着いたそれは、到底人の声には聞こえない、不吉なものであった。
 ひたりと、首筋を生暖かいもので撫でられたように、ジャスミンの背筋が粟立った。
 こつこつと、彼女の構えた銃口に堅い物が当たる。グリフィン上級軍曹が、銃口を向けられた以外の恐怖によって、がたがたと震えていた。

「言わんことではない!貴様たちのせいで、俺はここで奴に殺される!あのとき、あのときさっさと逃げておけば……!」
「喚くな。貴様の言う化け物とやらに、そんなにラブコールを送りたいのか?もう少し小さな声でしゃべれ。そも、あれはなんだ?化け物と言うが、いったいどんな化け物だ?異星人か?それとも悪霊?吸血鬼?狼男?種類によって駆除方法が違うらしいからな、しっかり特定してから答えろ」

 どうにも的外れな尋問のようであったが、ジャスミンの口調はまじめである。
 自分達を追ってきているのが真実の化け物であるならば、今までの涜神行為を心から詫びて神様に救いを乞うくらいしか助かる術はないのだろうが、生き物、もしくは自然現象であるならば話は別だ。生身の自分達でも、いくらでも対処のしようがある。
 ならば、まずは実物を見て、その脅威に晒されたことのある人間から、化け物とやらの詳細を聞き取るべきだ。それが一番生きる可能性を高めてくれる。
 そして、その唯一の生き残りと思しき男は、先ほどまでの冷静な口調を一変させて、喘ぐように答えた。

「わ、わからないんだ!最初、天井を何かが通ったと思ったら、ダニーがやられた、顔面を吹き飛ばされて、それを追いかけて、奥まで、早すぎて銃は当たらない、どんどんみんなが殺されて、俺はようやくここまで逃げてきたのに、ちくしょう、どうしてこんなことに!てめえらのせいだ、てめえらの!」

 男の泣き声が、空虚な洞穴を駆け抜ける。

「……ああ、そんなところにいるのかよ、心配させるなよ、自殺しちまったかと思ったじゃねえか」

 先ほどよりも遙かにはっきりとした声が聞こえた。
 おそらくは、化け物とやらも彼らの居場所に気がついただろう。

「ほ、ほら、お前らのせいで気づかれちまった!くそっ、神様、俺はまだ死にたくねえよ、なんで俺がこんな目に……!」
「ああ、もう、うるさい」

 ジャスミンは無造作に引き金を引いた。銃口からグリフィン上級軍曹の後頭部までの短い距離を目映い光線が疾走し、彼の巨躯はぴくりとも動かなくなった。

「おいおい、殺したのか?」
「馬鹿を言うな。わたしには捕虜となった兵を殺して楽しむ趣味はない。うるさいから寝かしつけただけだ」

 確かに、彼女の手に握られた大口径の光線銃は、その出力を麻痺レベルに設定してあった。これほど接近して撃たれれば常人であれば障害の一つも残りかねないが、この大男であればたぶん大丈夫だろう。だからといって事態は何一つ好転していないのだが。

「さて、どうするね女王。俺たちはウォルを助けるためにこんなところまできて、どうやら最初に矛を交えるのは、特殊部隊の兵隊さんじゃなくて怖い怖いお化けのお仲間らしい。十字架も大蒜も、銀の弾丸もあいにく用意しちゃいねえ。逃げるってのも一つの選択肢だと思うぜ」
「知っているか、海賊。わたしは実は、ごく稀に怪奇小説を嗜むことがある。嵐の夜、吹きすさぶ風の声をBGMに寝台で読む怪奇譚などは最高だな」
「ふん?いや、とんと知らなかったぜ。じゃあ何かい?良い機会だから化け物の顔の一つでも拝んでおこうってかい?」
「違う。ここで逃げ出したりしたら、今度から笑って怪奇小説を読むことができなくなるじゃあないか。あいにく、嵐の夜に、十字架を抱えて布団にくるまる趣味はない。やるときは、がんがん行く。相手が誰だろうとな──」

 ──ふぅん、そいつは良い心がけだねぇ、お姉さん。



[6349] 第三十七話:Tiger fight
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/05 22:34
 ──ふぅん、そいつは良い心がけだねぇ、お姉さん。

 二人の背後で、安らかな声がした。
 ぞくりと背筋が粟立つ。
 近づいてくる気配は、ちっともしなかった。無論、油断をしていたわけではない。
 馬鹿な、と思う。だが、惚けていれば即ち死ぬ。
 ケリーもジャスミンも、振り返るではなく、這うようにして前方へと飛び、着地と同時に体を強引に捻った。
 四肢で伏せるような姿勢のまま、襲撃者を見上げる。
 そこには、女が立っていた。
 体格の良いケリーやジャスミンと比較しても、おさおさ見劣りのしない、立派な体格の女である。逆に言えば、体格そのものは常人の範囲内だ。それ自体は異常でもなんでもない。
 だが、その風体は異様そのものであった。
 女は、一糸纏わぬ裸体である。均整のとれた体つき、そして束ねた鉄条のようにしなやかな筋肉。髪の毛は長く、腰まで届くほどに長い。見事なくらいに癖のないまっすぐな髪の毛で、太陽のもとならばさぞ映えるのだろう。
 その髪の毛の先から、ぽたりぽたりと、液体が滴っている。極端に彩度の失われた視界では液体の色は分からないが、ねっとりと糸を引く様相から、この噎せ返るような鉄臭さの原因がその液体であると分かった。
 液体に濡れているのは、髪の毛だけではない。少女が身じろぎする都度、全身を濡らした粘性の液体が、ぬちゃりと嫌らしい音を立てる。
 その少女の右手には、バスケットボールほどの大きさの球体が握られていた。球体から生えている髪の毛を無造作に掴み、ぶら下げているのだ。
 子細に見入るまでもない。
 人の頭部である。
 人の頭部を無造作にぶら下げた少女が、猫科の猛獣が如く目を爛々と光らせて、切れるような笑みを浮かべてたたずんでいるのだ。
 二人の灰色の視界を満たすのは、正しく悪夢のような光景であった。
 間違いない。この少女が、先ほど見た不可解な死体を作り上げ、そしてたった一人で二個分隊の猛者を片付けたのだろう。
 二人の背を、凄まじい戦慄が走り抜けた。今自分は、生き死にの狭間にいるのだと否が応でも理解させる、金属質な感覚である。

「……で、怪奇小説愛好家のあんたから見て、あれはいったいどんなお化けだ?」
 
 固い声でケリーが問う。
 同じく固い声でジャスミンが応える。

「残念ながら海賊。わたしには、あれは可愛らしい女性にしか見えないな。どこからどう見ても、化け物のように可愛げのあるものではなさそうだ」
「同感。足のない幽霊なら舌先三寸で追い返すんだが、あれはちっと厳しそうだぜ」

 背筋に灼けた針金を押し当てられたように、二人の全身を脂質の汗が濡らしていた。極度の肉体的苦痛、あるいは精神的圧迫を感じたときに流れる、粘い汗だ。
 二人のやりとりを興味深げに眺めていた女が、くつくつと、重たい声で笑い始めた。

「ああ、いいなぁ、あんたたちは、とても素敵だ。さっきまでの木偶の坊とはモノが違う。でも、分かるかい、得てしてそういう人達こそ殺したくなる気持ちって。可愛いから殴りたい、好きだから斬り付けたい、つくづく人間って複雑だよなぁ」

 女が、歩を進める。素足のはずなのに、硬質な地面とすれて、ずしゃりと堅い音がなった。
 足の裏がよほどに硬いのか、それとも皮膚ではない別のもので覆われているのか。
 常人であれば虎に睨まれた子鹿の如く、全身から動きを奪われていただろう。そのまま、延髄に牙が突き立てられるのを、無意識に待ち望んでいたかも知れない。
 だが、二人にとって生死の境に身を置いたのは初めての経験ではない。むしろ彼らの日常には死の気配が充ち満ちていた。少年は見世物の戦場で明日をも知れぬ戦いに身を投じ続けたのだし、少女は自分が老女になれない宿命だと知っていた。
 その経験が、まさに二人を生かしたのだ。
 ケリーもジャスミンも、弾かれたように体勢を整え、手にした銃の照準を目の前の女に合わせ、躊躇無く引き金を絞った。
 光条が数本、闇を切り裂き、血塗れの少女へと殺到する。
 必殺のタイミングであり、そして必中の射撃であった。どうしたって避けようのない一撃であった。
 しかし女は、二人を嘲笑うように、必殺の射撃をひらりと躱した。
 光線そのものを躱せるはずがない。二人が銃を構え、照準を合わせ、引き金を絞ろうとした刹那に、その照準から逃げおおせて見せたのだ。
 言うは易し行うは難し、というよりもほとんど不可能事である。だが、二人の知己には、それを行いうる少年が、四人ばかり存在する。
 驚愕はしない。しかし間違いなく驚嘆に値する。
 なるほど、これはそういうレヴェルの生き物か。二人は心中で強く舌打ちをした。

「はっはぁ!いいなぁ、あんたら、いいよぉ!とってもとっても、とっても素敵だ!」

 再び走る致死の火線を、女はこともなげにくぐり抜ける。
 素人の射撃ではない。超一流の射手が二人で放つ、サブマシンガンの弾幕である。どれほどの身体能力を有していても、到底避けきれるものではないはずだ。
 だが、女は巧み、あるいは狡知だった。速射性にこそ優れるものの精密射撃の点で一歩劣るサブマシンガンの性質を理解し、ケリーとジャスミン、二人の中間に自分の体を踊らせて、同士討ちをさせようと狙っている。
 こんなこと、普通の人間にできるはずがない。そんなことをしようとすれば、あっという間に蜂の巣だ。だが、壁面をすら足場として捕らえ三次元的な動きを可能とさせる運動能力と、それを助ける外的環境、おそらくは天性ともいえる勘の良さがその絶事を可能としていた。
 いくつもの戦場を渡り歩いたケリーとジャスミンですら、こんな敵とまみえるのは初めてだった。なるほど、これならば二個分隊の特殊部隊を一人で壊滅させたのも頷ける。
 これは、人ではない。少なくとも、普通の人間ではありえない。
 ケリーは忌々しげに舌打ちし、散発的な射撃を繰り返しながら後退しようとした。この少女に翻弄されるのは距離が接近しすぎているからであり、もう少し距離を開けることができれば銃器の優位性は歴然とする。
 だが。

「逃がさねえよう!」

 何かがすごい勢いで飛んでくるのを感じて、ケリーは咄嗟に体をよじった。身を仰け反らせたケリーの眼前を、バスケットボール大の何かが、鼻先を擦過するようにすっ飛んでいく。
 ケリーは、その物体を、確と見た。鼻先を通過するとき、目すら合わせてしまった。
 うつろで、もう二度と事象を認識することのないどんよりとした瞳。だらりと半開きになった口から、暗色の液体が糸を引いて垂れている。
 人の、顔。
 この禍々しい襲撃者の手にかかり、息絶えた、特殊部隊の猛者の、恨めしげな顔である。
 慄然としたケリーの背後で、ぐちゃりと、物体が壁にぶつかって拉げる音が響いた。ケリーは、振り返ろうとは決して思わなかった。
 
「もらった!」

 ジャスミンの短い叫びが木霊した。
 動きの止まった女に向けて、サブマシンガンの集中砲火を浴びせかける。
 
「おおっと、あぶねえなぁ!」

 女は、空いた右手で地面に寝転がっていた荷物──グリフィン上級軍曹の体である──をむんずと掴み、それを盾として集中砲火を防いだ。
 人体であれば易々と貫通するであろう銃撃も、最新式のアサルトスーツを纏った軍人の体躯は貫き得なかったらしい。
 舌打ちを零したジャスミンの眼前で、さらにあり得ないことが起きた。
 女が、盾にしていたグリフィン上級軍曹の体を、あろうことかジャスミンに向かってぶん投げたのだ。
 女の細腕が、大の大人を、風船人形かなにかのように軽々と片腕で投げつける。これが現実のことなのか。
 高速で迫り来る、人体の形をした弾丸に、さすがのジャスミンも咄嗟の回避行動を取ることができなかった。

 このままでは潰される──。

 刹那、ジャスミンの肩を、どんと、何かが横合いから突き飛ばした。
 顔を見るまでもない。そこに誰がいるかなど、わかりきっている。
 仰向けに倒れながら、ジャスミンは、咄嗟にその名を叫んでいた。
 
「海賊!貴様!」

 暗視ゴーグル越しに、いつも通りの皮肉気な笑みを浮かべた、ケリーの顔が写った。
 突き飛ばされたジャスミンの眼前で、ケリーとグリフィン上級軍曹の体は激突し、もつれ合い、洞穴の壁まで吹き飛ばされて、そこで制止した。
 ぱらぱらと零れる土埃に塗れて、二人とも、ぴくりとも動かない。
 それを見遣り、女は感極まったように呟いた。

「いい男だねぇ。女をかばって死ぬなんて、勇者の誉れだ」
「……勝手に人の亭主を殺さないでもらおう。あの程度でくたばる男なら、わたしが既に十回は殺している」

 あの程度で、海賊王とまで言われた男がくたばるものか。

「へぇ。そんなに頑丈なんだ」
「折り紙付きだ。それが取り柄で選んだようなものだからな」

 ジャスミンは、ゆっくりと立ち上がった。
 残弾に不安のあるサブマシンガンを捨て、自らの手に馴染んだ大型拳銃を引き抜く。かつては連邦宇宙軍の正式武装にも採用されていた、MB72ハンド・ガン,通称ヴィゴラス。全長40センチを超える銃身と総重量4.8キロの重量を持つ携帯型拳銃は、ハンド・ガンではなくハンド・キャノンと表現する方が適切かもしれない。 

「あの色男は、あんたのご主人かい?」

 ジャスミンは、苦笑を浮かべた。

「そういう紹介の仕方をしたことはないが、成る程、世間一般的に言うならば、確かにこの男はわたしのご主人ということになるな」
「ふぅん、そうかい。じゃああんたを殺せば、この男は鰥夫になるってぇことだな?」

 女が、楽しくて仕方ないといったふうに笑った。

「よしきた。あんたを殺してこの男はあたしがもらう。あたしの情夫にしてやる。他の男は、どうにも駄目だ。ちょっと小突いただけでぴぃぴぃ泣き喚きやがるからな。その点、この雄は中々に丈夫そうだ。こいつの子種ならさぞかし強い子が産めるに違いねえ」
「……別にわたしを殺さなくても、この男はお前のような美人相手ならば、喜んでお相手すると思うぞ」
「それはなんとも剛毅な話だねぇ。だけどさ、やぱり他人様のものを横からかすめ取るのはよくねえよ。それはコソ泥の仕業だぜ。どうせ奪うなら、堂々と、正面から奪い取るべきだ。そうは思わねえか?」

 暫し呆然としたジャスミンだったが、やがてくすくすと、身を屈めるようにして笑い始めた。
 目の前には、圧倒的な死の気配を纏った化け物がいて、状況はちっとも改善されていない。むしろ、二対一が一対一になったぶん、状況は悪化してさえいる。
 それでも愉快なことには違いがない。
 こんなところで、自分と同じ価値判断で男の善し悪しを選ぶ女と出会うとは、夢にも思わなかった。これが可笑しくなくて、何が可笑しいだろう。
 そして、そういう価値判断をする女が、こぞってこの男に惹かれるのが面白かった。黙っていても女の選り好みには苦労しない男ではあるが、自分と同じような女を惹き付けるフェロモンでも発散しているのかも知れないと思った。

「……何が可笑しい」

 女が、感情を殺した声で呟いた。
 ジャスミンは、笑いを噛み殺しながら、

「……自慢ではないが、わたしの亭主はかなりいい男だ。街中を歩けば必ず声を掛けられる。男と女を問わずにな」
「だろうな」
「今まで、この男がどこの女と寝ようが、別に気にも止めなかった。この男も、わたしがどんな男を銜え込んでも気にしない。二人とも、一応の礼儀としてお互いにことわりを入れてから、束の間の逢瀬を楽しんだものだ。幸い、一夜の情熱を求める相手には、お互い苦労しなかったしな」
「なんだい、惚気話かい」
「その一夜の恋人の方にも、わたしは必ず一言ことわりを入れる。自分には配偶者がいるから、あなたとは一緒になることができない、とな。この男もそうだ。しかし度し難いもので、勘違いをした相手に付きまとわれることもある。だが不思議なことに、どれほど美しい女だろうと地位のある女だろうと、わたしがこの男の隣に立てば、すごすごと帰って行く。自分と一緒になってくれないと死んでやるとまで言ってこの男を辟易させた女でも、わたしを一目見るなり尻尾を巻いて退散したよ」
「根性無しだなぁ。こんなにいい男と寝ておいて、正妻がお出まししたくらいで逃げ出すなんざ、雌の風上にも置けねえや」

 無論、相手方にも言い分はあるだろう。
 この二人が、例え一夜限りとはいえ見初めた相手であるから、世間一般ではそれなり以上に通用する魅力を備えている者がほとんどである。だからこそプライドも高い。
 そしてそういう人間が、既に配偶者を得ている異性に夢中になったときは、必ずこう思うものなのだ。
 例え今はどんな女が妻の座に居座っていようと、自分のほうがこの男には相応しい。必ず妻の座から蹴落としてみせる。なぜなら自分はこんなにも美しく、若く、そして賢いのだ。この男は、必ずそれに気づいてくれる。
 しかし、そう確信した、あるいは盲信した女でも、ケリーの隣にジャスミンが並べば、自分の入り込む隙間がそこに無いことなど一目で気がつく。それほどに、この二人は『絵になる』のだ。
 ジャスミンは、赤金色の巻き毛を掻き上げながら続ける。

「だから、これほど明け透けに、しかも面と向かって略奪愛を宣言されたのは初めてなんだ。なるほど、これがメロドラマとか、嫉妬に狂った女の愛憎劇とか、そういうものなんだなと思うと感慨深い。今までそういうものは、小説や舞台劇の中でしか見たことがなかったからな」

 一人頷き、納得していた。
 そんな正妻の前で、どうやら略奪愛を宣言したらしい女は、腹を抱えて笑っていた。

「そ、そうだな、こいつは正しくメロドラマだ!一人の男を巡って、女同士、金切り声で泣き叫んで、髪の毛掴んで大立ち回りだ!あたしも、まさかそんな間抜けたことをするはめになるなんざ、ついさっきまで考えもしなかったぜ!」
「そうだろう?だから、考えてみるとどうにも可笑しい。まさしくお笑い草だ。ちなみに、こういうときは、正妻としてはお前のような女を、何と呼べばいいのだろうか?」

 女は、真剣な表情でしばし黙考し、

「やっぱり、『泥棒猫!』とか言って灰皿の一つでも投げつけるもんじゃねえの?」
「なるほど。実際に猫が亭主をかっ攫っていくのかどうかは置いておいて、よく聞く台詞ではある。それではこれからお前のことを、泥棒猫と呼ぶことにしよう」

 ジャスミンは、女に、正面から相対した。
 遙か昔、人類の揺りかごがたった一つの惑星の地表、そのごく一部に過ぎなかった頃、荒野で決闘するガンマンがそういう構えを取ったように、全身から力を抜き、神経をただ一点、右手に握った愛銃に注ぎ込む。
 女も、やはりジャスミンに、正面から相対した。
 体を少しずつ落とし、これから人類未到の大記録に挑む短距離走者のように、全身に揺るぎなく神経を走らせ、脚に、つま先に、いつでも駆け出すためのエネルギーを注ぎ込む。
 じりじりと、焦げるような緊張感が、二人の神経を灼く。
 女は、気がついていた。先ほどの、サブマシンガンを装備して、男と二人がかりで自分を責め立てていたときのジャスミンよりも、今のジャスミンのほうが遙かに危険であることを。暗視ゴーグル越しに自分を見つめる金色の瞳が、今まで見てきた生き物の中で、最も危険な光を灯していることを。
 二人の女が、瞬き一つせずに、相手をじっと見ている。
 視線で殺している。
 動かない。
 動けないのではない。動かないのだ。
 相手を仕留めきれると確信するまで、相手の死体が、どんなふうに倒れ、どれだけの血反吐を垂れ流して死ぬか、それが像を結ぶまで、動かない。
 動いてやらない。
 そして、二人とも、石像のように立ち尽くす。
 だが、どちらからか動かなければ闘争は永遠に終わらない。
 最初に動いたのは、銃を携えた女の方だった。
 銃を目線まで持ち上げるではなく、だらりと下げた右腕をそのままに、女へ向けて銃弾を放った。古代の、古式ゆかしいガンマンの決闘のまんま、恐るべき早撃ちである。
 しかも狙いは正確であった。女の眉間に吸い込まれるように、光条が走った。
 しかし、女の顔は、既にそこにはない。女は既にそこにはいない。
 撓めに撓めた全身のバネを一息で解放し、地面を蹴りつけ、壁面へと跳ねる。
 ジャスミンがそれを追って、着地面に狙いをつけて発砲する。だが女は一拍早くそこを蹴り、今度は天井へと取り付いている。

 ──ピンボールでももう少しお淑やかに跳ね回るものだ!

 ジャスミンは内心で叫び声を上げた。
 それでも、ここで愚痴って趨勢が変わるはずもない。人間は、与えられた外的条件の中で最善を尽くすしか生きる手段はないのだ。
 三度、天井に張り付いた、蝙蝠のような女に照準を合わせて、発砲する。これほど近距離の目標に、これだけ命中する気がしないのは、銃把を握って以来初めての経験だった。
 然り、致死の光線は人を捕らえることはなく、その背後にあった壁面を僅かにえぐり取るにとどまった。
 
「ちぃっ!」

 身の危険を感じたジャスミンが、ステップバックで距離を取ろうとする。
 だが、弾丸のような速度で地面に舞い降りた──突き刺さったというほうが適切な表現だろうか──女は、その拍子を見逃したりはしない。
 着地した姿勢のまま、女は、四足獣のように身を撓めた。まんま、獲物を狙って構える猫の如き姿勢である。
 ジャスミンの視界の中で、蹲った少女の背筋が、大腿筋が、むくりと膨れあがった。ぱんぱんに、まるで破裂する直前の風船のように。
 女が、顔を上げる。ジャスミンの視線と交わった少女の視線が、血に酔って笑っていた。
 
 ──くる!

 経験ではない。勘ですらない。敢えていうならば、本能がジャスミンを救った。
 ほとんど大砲で打ち出された弾丸の速度で襲い来る、人の形をした暴力の塊である。どうしようもない。どうしたって避けられない。
 何の理屈もなく、銃で顔面を庇った。その動作が、ジャスミンの顔が、先ほど見た死体と同じ有様になるのを防いでいた。
 顔の前に盾代わりに構えた鉄の銃身に、とんでもなく重たい何かがぶつかり、硬質な火花を散らした。
 少女の右腕。
 もっと正確に表現するならば、その爪であった。
 
 ──冗談を言うな、これが人間の爪か!?

 分厚い。
 鋭いとか、堅そうとか、そういう印象ではない。
 ひたすらに分厚いのだ。まるで指から骨が突き出ているように、分厚く、太く、重たそうな爪。当然の如く先端は鋭く尖っているが、そんなことはおまけか何かにすぎないように思える。
 凶器だ。
 これは、到底人体に存在しうる器官ではあり得ない。
 これではっきりした。先ほどの死体の失われた前頭部は、この爪によって貫かれ、剥ぎ取られ、斬り飛ばされたのだ。あの鋭利な切断面を描きうるほどに、これは致死の武器なのだ。
 つまり、この女があの死体を作り上げた。
 そして、自分もあの死体と同じ運命を辿るところだった。
 あらためてジャスミンの脳髄を戦慄が満たした。
 だが、戦慄を感じたのはジャスミンだけではなかった。
 爪の持ち主の瞳が、信じられないものを見たように見開かれている。今、その左手で同じ攻撃を振るえば勝利は彼女のものとなるにも関わらず、そのことに思考が追いついていない有様だ。
 唖然とした表情で、自分の爪を受け止めた銃身を、ただ眺めている。

「……へぇえ」

 いまだ女の爪と、ジャスミンの持つ銃は鎬を削り合っている。
 ジャスミンはそのまま満身の力を込めて押し返そうとしたが、女の腕は小揺るぎとしない。彼女の顔は、些かの力を込めている様子は無いにも関わらず、だ。
 力を込めるのが顔に出ないだけ、そう思い込めれば幸せだっただろう。
 だが、ジャスミンはその甘えた思考、あるいは幻想を切り捨てた。
 頭の中で算盤を弾く。馬力は相手の方が上、身のこなしも叶うまい。
 ならば、どうやって勝つ?
 自分が勝ちうるものはなんだ?
 走馬燈を回すのではなく、ありとあらゆる引き出しをひっくり返す。そうやって生きる術を探すのだ。
 しかし、そんな暇すらありはしなかった。
 女は無造作に右足を上げ、突き出すようにジャスミンの腹を蹴った。

「がはっ」

 低いうめき声が、ジャスミン本人の意志を無視して口から飛び出る。浮き上がった体が猛烈な勢いで後方へとはじき飛ばされ、壁へと叩き付けられた。
 凄まじい威力の蹴りだ。ジャスミンの引き締まった腹筋を丸ごと貫くような衝撃だった。もしジャスミンが、いわゆる普通の女であったならば、事実つま先が腹部を貫いていたかも知れない、そういう蹴りだった。
 横隔膜が痺れ、呼吸機能を放棄する。胃がせり上がり、酸っぱい唾液が口の端から垂れる。目がちかちかと意味不明の光を捕らえ、何故自分がここにいるのか、どうしてこんなことをしているのかが分からない。
 ガシャリと、ジャスミンの手から離れた銃が、地面に落ちる音が響いた。

「しゃああぁっ!」

 洞穴中に響くような雄叫びを上げて、女が飛びかかってくる。
 よろめくようにして壁から跳ね飛ばされてきたジャスミンの眼前で跳躍し、彼女の顔めがけて蹴りを放つ。
 咄嗟に両腕を顔の前で交差させて防御する。
 女は、かまわずにそのまま蹴った。ジャスミンの、両腕のちょうど交差した部分に、女の踵が突き刺さった。
 みしりと、手首の骨が軋む音を、ジャスミンは聞いた。
 殺しきれなかった衝撃はジャスミンの体を再度吹き飛ばし、壁に激突させる。
 後頭部を、強かに打ち付けた。意識が遠のき、全身の力が抜ける。

「もういっちょぉ!」

 女が、再び跳ねる。そして、もう一度跳び蹴りだ。
 今度は、壁に貼り付けになったままのジャスミンに蹴りが放たれた。
 もう無意識に防御していた腕を、再び鋭い衝撃が貫く。だが、今度は吹き飛ばされるだけのスペースが背後にない。
 ジャスミンの頭部は、女の蹴りと背後の岩壁に挟みつぶされた。
 頭蓋が、脳みそが、悲鳴を上げる。足から力が抜け、体が前方に倒れようとする。

「とどめだ!」

 女が叫び、右手を大きく振りかぶった。
 これが最後の一撃だ、とジャスミンは思った。
 これで、自分を殺すつもりなのだろう、と。
 恐ろしいほどに女の動きがスローモーションになる。ゆっくりと、自分をいたぶるために殊更ゆっくり動いているように見える。
 死ぬか。
 ここで死ぬか。
 そう思うジャスミンがいる。
 死ぬか。
 誰が、死ぬか。
 死んでたまるか。
 そう思うジャスミンがいる。
 そして、ジャスミンはそう思った。
 こんなところで、死んでたまるか。殺されてたまるか。
 ジャスミンは、遠ざかる意識、その尻尾を強引に掴み、自分のほうに引き寄せた。
 
「かぁっ!」

 口をついて出たのは、獣の叫び声だ。
 今のままでは死ぬ。だから、体を動かせ。無様でもいいから、とにかく体を動かせ。
 その意識が、ジャスミンを救った。
 木偶人形のように馬鹿になった体の神経、その末端までに檄を飛ばす。
 後頭部を壁に打ち付け、腹を貫いた衝撃も抜けきらず、いまだ意識の朦朧としたジャスミンだ。その動作は考えてのものではない。
 だが、考えるよりも早く、膝を折り、身を低く屈めた。
 こういうときに一番不味いのは、闘争を放棄すること。そして、行動を放棄して立ち止まることだ。
 動くことを止めさえしなければ、意外と何とかなることを経験から熟知している。
 然り、先ほどまでジャスミンの頭部があった場所を、女の爪が疾駆した。キィンと、コンクリートカッターの擦過音のような高い音が響いて、頑強な岩壁の一部が爪の形に抉れた。

「往生際の悪い!」

 女の、痛烈な舌打ちが耳朶を叩く。
 いいじゃないか。物わかり良く突っ立っていれば、自分は今頃あの死体の仲間入りをしていたのだ。こういう場合の舌打ちならば、褒め言葉に等しい。
 無理矢理に口元を持ち上げて、ジャスミンは笑っていた。

「あいにく、それだけが取り柄なものでな!」

 明日をも知れない命を抱えて34年間も見苦しく生き足掻き、つつけば死ぬような病体のまま40年間も眠り続けたのだ。自分ほどに生き汚い人間も他にはいないだろうと、ジャスミンは確信している。
 そして、誇りに思っている。
 ならば、こんなところで死んでたまるか。それは、今の今まで生にしがみついてきた自己への侮辱だ。
 残された最後の力を振り絞り、全力の一撃を躱されて踏鞴を踏んだ女、その足にジャスミンは飛びついた。
 両足を大きく抱えて、そのままバックへと周り、リフトアップし、体を捻って地面へと叩き付けようとする。
 変形のスープレックスだ。
 相手の体重に、自分のそれを預けて、頭から落としてやる。下は、競技用のマットではない。ごつごつとした岩石質の地面だ。下手に落とせば──いや、この場合は上手く落とせばだろうか──首が折れる。頭蓋が割れる。一撃で片が付く。そしてジャスミンは一切の手加減をしない。
 足掻く獣が、肩口に爪を突き刺した。皮膚を破って肉の中に爪が埋もれる怖気のする感覚は、しかしジャスミンから闘志を奪うには至らない。
 満身の力を込め、両手を女の膝でクラッチさせたまま、綺麗にブリッジをして、頭から叩き落とす。
 
「くあぁっ!」

 女が、悲鳴をあげるように叫んだ。
 咄嗟に、手で頭を庇おうとする。このまま地面に衝突すれば、どう考えても無事には済まないからだ。
 だが、ジャスミンはお構いなしだ。思い切り、力一杯に投げた。
 ごしゃり、と、肉と骨のつぶれる、ぞっとする音が聞こえた。
 女の体がジャスミンに抱えられたまま、思い切り地面に叩き付けられていた。頭と地面が直接衝突したわけではない。咄嗟に、その間に腕を差し入れて、頭蓋が直接岩と激突するのを防いでいる。
 しかし、だからといってダメージが完全に無くなるはずもない。かなりの衝撃に脳しんとうを起こした女の視線が、曖昧な様子で宙を追う。
 ジャスミンは、僅かに身じろぎする女を両腕に抱えたまま、立ち上がった。

「むんっ!」

 そして再び、思い切り背を反らして、腕の中の女を、後頭部から地面に叩き付けた。
 今度は手を差し挟む余裕すらなく、女の後頭部は直接岩石と激突した。
 勝負ありである。それどころか、常人であればまず生きていない。
 ジャスミンもそれは分かっているはずだ。
 分かっていて、腕の中で微動だにしない女の体を再び抱え上げ、もう一度、後頭部から地面へと落とした。
 とどめの一撃だ。確実に仕留めるための一撃だ。
 三度、人の体の壊れる音が響いた。
 女を両手で拘束したまま、立ち上がる。
 女の両手が、だらりと力なく投げ出されていた。首が、赤子の首のようにカクンと曲がったまま戻らない。
 それを見て、ジャスミンが僅かに力を緩めた。
 その瞬間。
 腕の中で、女の体が爆ぜた。少なくともジャスミンはそう思った。
 女は、死んでいなかった。
 両腕のクラッチを切られ、次の刹那に、強かに顔面を殴られた。
 鼻の奥がつんと痺れ、頭の中で火花が舞い散る。二、三歩よろけて後ずさる。
 どろりと、鼻の下を暖かな液体の感触が伝った。

「……どうして生きていられるんだ、あれを食らって」

 感嘆を含んだジャスミンの呟きに、さすがに焦点の合わない視線をした女が応える。
 
「……いやぁ、死ぬかと思った。本気で死ぬかと思った。しゃれこうべの拉げる音が聞こえたぜ、ほんと」

 ふらり、ふらりと、今にも倒れそうな体だ。
 女の髪を、他人のものではない血液が伝い、滴り落ちている。
 ふらり、ふらりと、今にも倒れそうなのに、頬には寒気のする笑みが浮かび、まだ戦おうとしている。だらりと下げられた両の手には、尖った爪がぶら下がっている。
 ああ、そうか。この生き物は、それが折れるまで止まらない。そういう生き物なんだな。
 ジャスミンも、鼻血を流しながら笑った。
 ああ、そうか。
 これは邪魔だな。
 ジャスミンは、視界を遮るゴーグルを、無造作に脱ぎ捨てた。
 ジャスミンの金色の瞳孔が、野生の獣のように拡大した。
 視界が暗色に染まったはずなのに、なぜかさきほどよりも、女の姿が鮮明に写る気がする。
 体中にアドレナリンが行き渡り、全身の神経細胞が活性化しているのだ。
 褐色の肌、朱に染まった金色の直毛。視線は獲物を狙う鷹の如く、鋭くぎらついている。
 だがそれは、さきほどまでの凶相ではない。
 年相応の不安定で弱々しい瞳が、最後の意地を守るためにぎらついているだけだった。
 ああ、そうか。
 この女は、一度見覚えがある。

 ──馬鹿馬鹿しい。

 ジャスミンは、自分と自分の伴侶である男の間抜けを思って、少しだけ微笑した。

「いい加減にしろ。普通の人間なら、あれできっちり三回はくたばっているんだ。わたしは必要とあらばためらわないが、出来るだけ殺したくない」
「けっ、お優しいんだな、あんた」
「大人は誰だって、子供には優しくあるべきだ。違うか?」

 女の顔が、奇妙にゆがんだ。
 癇癪を起こす寸前の幼児のように、ゆがんだ。

「何言ってるんだよ、お姉さん。さぁ、やろうぜ。せっかく盛り上がってきたんじゃねえか。さっきのはすげえきいたよ。だから次はあたしの番だぜ。今度こそ殺してやる」
「駄目だ。我が儘を言って大人を困らせるものじゃない」
「なあ、お姉さん。さっき、言ってたじゃねえかよ。あれは嘘かよ。やるときは、がんがん行くって言ったろう。相手が誰だろうとやるって言ったろう。それとも、相手があたしじゃ駄目かい?泥棒猫じゃあ、本気になってくれないかい?」

 今にも泣き出しそうな声で言うのだ。
 薄く涙を浮かべた瞳で言うのだ。

「いや、相手にとって不足はない」
「じゃあやろうぜ。今すぐやろうぜ。こんなに楽しいんじゃねえか。今さら止めるなんて、けちくさいこと言わないでくれよ」
「ああ。わたしもそう思うのだが、今日のところはここまでだ」

 これ以上ないくらいに優しい声で、ジャスミンが言った。
 女は──少女は、泣いた。
 ぼろぼろと涙をこぼし、口をへの字にして、泣いた。
 泣きながら、駄々をこねた。

「どうしてだよ。どうしてそんなこと、言うんだよ。あんた、楽しくなかったのかよ。あたしをあれだけ痛めつけておいて、そんな悲しいこと、言わないでくれよ」
「すまない。心の底から申し訳ない。だが、君にここで死なれるのは、とても厄介なんだ」
「やっかい?」

 少女が、鼻を啜りながら問い返した。
 嗚咽で、途切れ途切れになる声で、みっともない調子で問い返した。

「厄介ってさぁ、厄介ってなんだよぅ。あたしが死んで、どうしてお姉さんに迷惑がかかるのさぁ。あたしの死に場所くらい、あたしに選ばせてよぅ」
「君に死なれるとな、あの手品の種が分からなくなるんだ。わたしは夫に、あの手品のトリックを暴いてみせると大見得を切ってしまったからな、いまさら引っ込めるわけにもいかないだろう?」
「手品?」
「君が今日、あの酒場でやっていた、入れ替わりマジック。あれは見事だったと、夫が褒めていた。だからこそわたしも、何としても種をあかしてみせる。そのときに、正解を知っている人間があの男だけでは、それが本当に正解かどうか分からないじゃないか」

 君は、あのときの女の子だろう、と。
 少女はぽかんとした表情でジャスミンを見た。
 
「お姉さん、あのとき、酒場にいたのかい?」
「ああ。ついでに言うならば、わたしはウォルの友人で、彼女を助けるためにここに来たんだ。どうしてわたしと君が争わなければいけない?」

 唖然とした顔で、少女が問う。

「……ウォルと、友達?」
「そうだ。結婚式に招待してもらう約束も取り付けた。加えて言うならば、彼女の将来のご夫君は我々夫婦の命の恩人だ。これは十分に友達といっていいと思うんだがな」
「はっ……なんだ、お姉さん、連中の仲間じゃなかったのか。あたしはてっきり……」
「それを知って、まだ続けるのか?それは、なんとも間の抜けた話だとは思わないか?」

 少女は、一度大きく頷き、

「そりゃあ、間の抜けた話だなぁ。じゃあ、これ以上あんたと喧嘩しても、しまらねえよなぁ」
「ああ、わたしもそう思うよ。何ともしまらない話だ。それと一言断っておくが、君にはあの男のことは諦めてもらおうと思う」
「どうして?」
「あの男は──わたしもそうだが──絶対に未成年には欲情しない。それほど異性に飢えてはいないからな。泥棒猫ならいざ知らず、泥棒子猫では、最初からわたしの敵にはならない。もしもわたしからあの男を奪うつもりなら、きっちり成人してからもう一度来ることだ。そのときは君を泥棒猫として認め、正々堂々とあの男を賭けて戦ってやる」

 少女は目をぱちくりとさせ、くすりと笑みを零してから、

「あー、それじゃあ、今は、勝てないか……残念……じゃあ、今日はあたしが負けておくよ……いやぁ、強いねぇ、お姉さん……」

 そう言って一度大きく体を揺らがせて、後方にばたりと倒れ込んだ。
 少女が地面に伏せる音は、驚くほどに軽やかだった。
 その様子を確認してから、ジャスミンは大きく息を吐き出し、全身に漲る殺気を吐き出した。
 どかりと、倒れ込むように座る。もう二度と立ち上がれないんじゃないか、そう思うくらいに足腰が言うことを聞かない。
 ああ、疲れたな。
 無性に、酒が飲みたくなった。

「終わったかい?」

 肩越しに投げかけられる声に、しかしジャスミンはちっとも驚かなかった。
 ケリーは、投げ捨てられた暗視ゴーグルをジャスミンに手渡し、倒れた少女に駆け寄って、脈を測り、瞳孔の様子を確かめた。
 特に異常は無さそうだ。しかし、今すぐにどうこうというわけではなかったとしても、常人ならば一撃で死ぬほどの衝撃を三度、頭の同じ箇所に叩き込んだのだ。この少女が何者かは知らないが、可及的速やかに医者に診せる必要がある。

「おい、海賊、死んだふりをしていたんだから元気だろう。その女の子を担げるか?」
「ああ、元気いっぱいだぜ。あんたが危なくなったら適当なところでとんずらしようと思ってたんだが、銃の通用しない相手を、まさかバックドロップで仕留めるとは思わなかった。恐れ入ったぜ。流石は七軍の魔女だな。見事なマジックだ」

 どこの世界に知識よりも筋力がものをいう魔法の世界があるのかは知らないが、あったとすればジャスミンは間違いなく超一流の魔女になる資格があった。
 だが、特殊部隊の二個分隊を一人で片付けた少女を、追い詰められたとはいえ素手で仕留めてのけたのだ。結果だけを見れば、魔女という表現は決して間違いではない。
 その魔女は、普段の彼女らしからぬ拗ねた声で、唇を尖らせて言った。

「それなりに危なかったんだぞ。援護の一つくらいしろ、薄情者」
「そうは言うがよ、女王。俺だって一度はちゃんと気を失ったんだ。なのに目が覚めてみたら、いつの間にか俺はあんたらの景品みたくなっちまってたじゃねえか。あの状況で俺があんたの味方したら、後味が悪いったらねえぜ」
「ではわたしが負けたら、素直にこの子の種馬になったのか?」
「それなんだよなぁ。あんたの言うとおり今のこの子のお相手をする予定はねえがよ。ウォルと同じで、あと十年もしたら是非御相手願いたいべっぴんさんになるぜ、この子。惜しい話だねぇ」

 ジャスミンは苦笑した。彼女とてまさか本当に怒っているわけではない。
 感傷的だと自分でも呆れるのだが、先ほどの戦闘は、ある時点から自分とこの少女の一騎打ちになっていたのだとジャスミンは思っている。しかも自分は銃を手にしており、あちらは素手だ。どちらが卑怯かと言えば、客観的に見れば間違いなく自分のほうである。
 その上に援護射撃などが入ろうものならば、弁解のしようがない卑怯を冒すことになるだろう。もしもケリーが自分を助けていれば、そのことにこそ彼女は怒りを覚えたかも知れなかった。
 先ほどの戦闘は、何度も危ない場面があった。ケリーの腕前ならば、背後から少女を狙い撃つのは如何にも容易かっただろう。それを自制することがどれほど耐え難かったか。
 ケリーの陰りのない笑みを、ジャスミンはまぶしげに見遣った。

「軽口はここまでにしておこう。さっさとその女の子を担げ。決して変な真似はするなよ。これでもまだ未成年の子供みたいだ」
「ああ、そりゃあこの顔を見りゃ嫌でも分かるさ。どこからどう見ても将来の美女の卵だ」

 酒場で、ステージの上に立つこの少女を見たときは、分からなかった。既に成人した女性かと思った。
 さっき、戦っている最中は、そもそもこの少女が酒場で見た女と同一人物だとはどうしても思えなかった。顔の造作などの単純な差異ではない。もっと根本的なところで、人間と同じ生き物とは思えなかったのだ。
 それが今はなんとも無垢な寝顔で寝息を立てている。
 不思議な少女であった。

「ちなみに、そっちのおっさんは?」
「まぁ大丈夫だろう。最近の兵装の安全性の進歩具合には恐れ入る。一昔前なら、どれほど性能の良い防弾スーツでも、至近でサブマシンガンの斉射を受ければ命はなかったものだが……」

 覚醒の直後に愛機を駆って宇宙戦に挑んだときも思ったことだが、この時代の武器はどれもお行儀がいい。ジャスミンなどの感覚からすれば、少々お行儀が良すぎて調子が狂うくらいだ。
 武器でさえそうなのだから、身を守るための防具においての進歩性は想像以上である。これは一度、自分の装備がそれらの防具に対してどれほど有効たり得るかを真剣に検討する必要がありそうだった。
 そんなジャスミンに、ケリーが言う。

「まぁ、とにもかくにもこの迷路みたいな洞窟から抜け出すのが先決だな。問題は出口がどこかなんだが……」
「ウォルたちが出口を知ってここに逃げ込んだことを祈ろう。もうわたしはへとへとなんだ。いまさらあの店に引き返して追撃部隊と一戦やらかすのは、さすがにぞっとしない」
「同感だ。なら、さっさと行くとしようぜ」

 ケリーは、血塗れの少女をひょいと抱えた。
 ジャスミンは、ふらつく足を叱咤して、強引に立ち上がった。

「肩を貸そうか?」
「いらん」
「惜しいなぁ。あんたを担げりゃまさしく両手に花なんだが」
「言っていろ馬鹿者」

 二人は少女を抱えたまま、闇の中へと駆けていった。



[6349] 幕間:Paracelsus and the Philosopher's Stone
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/09 22:13
 目を閉じると、今でも幼き日の小さな出来事が、鮮明に浮かび上がってくる。
 優しかった両親、泥だらけになるまで遊んだ友人達、美しき我が故郷。
 故郷。ああ、我が故郷。その言葉に、思いもよらず胸が熱くなってしまった。
 故郷という言葉は、人の心を否応なく揺さぶるらしい。それが、失われて二度と戻らないこの身であれば尚更なのだろうか。
 私がまず思い浮かべるのは、夕暮れ色に染まった山々の遠望だ。
 山間に飲み込まれていく黄金のような太陽は、自分の周りだけを鉛丹色に染め、彼に見放された空はだんだんと夜に溶け込んでいく。
 幾重にも重なる帯雲の間から、一番星が見える。街の学者に聞けばあの星は何という名前で、その恒星系にどれだけの人間が住んでいるのかを得意げに講釈してくれるのだろうが、私が生きていくうえでどんな関わりがあるだろう。
 たぶん、ない。だから、あれは一番星という名前で、それで十分だ。
 遠く、カラスの鳴き声が山の中から聞こえてくる。辺りが暗くなって、今まで身を潜めていた小さな虫達もいっせいに思い思いの声で鳴き始めた。
 風が、冷たい。秋が来る。この山の秋はすごく短いから、あっという間に冬になるだろう。全てが白く埋め尽くされる、寂しい季節だ。
 私は、冬が嫌いだった。秋の深まった、もの悲しい山もあまり好きではなかった。だから今のうちに、夏の最後の残滓を目に焼き付けておこうと、小高い丘に登ったのだ。
 濃紺から黒に染まりつつある東の空、辛うじて赤みがかり夕焼けの残滓を残す西の空。いつの間にか太陽は山々の向こう側に姿を消し、空には満天の星が瞬いていた。
 今から家路を急いだのでは、真っ暗な山道を灯りもなく歩くことになるだろう。この山で人を襲うような獣と出くわすことはめったにないが、夜の山の恐ろしさと畏ろしさを私は十分に弁えていたから、今日はここで夜を明かそうと決めていた。そのための装備をちゃっかりと用意している。明日、家に帰った時のお説教は少しだけ億劫だが、今日にはそれだけの価値があるはずだ。
 高台から、村を見下ろしている。私は、ここから一望される風景が、何よりもお気に入りだった。
 眼下に広がるのは、時代から忘れられたような、小さな小さな集落だ。名前も無い集落である。外の人間は、何かもっともらしい名前を付けているのかもしれないが、自分達にとっては唯一の帰るべき場所なのだから、名前などいらない。ここは、自分達の村なのだ。
 赤茶けた大地に、ぽつりぽつりと家が散らばっている。その中に、一体どれだけの人生を詰め込んでいるのだろうか。多くはきっと、この村の外に出ることもない命だ。
 自分も、この村に骨を埋めるのだと思う。
 友達はそれが嫌だと、街に出て一旗あげるんだと息巻いているが、私には友達の気持ちが欠片ほども理解できなかった。
 ここで、死んだように、時を止めたように死んでいく。それは確定した未来であり、他のなによりも幸福を感じさせる未来だった。
 父も母も、そうだったのだ。この村で生まれ、この村で出会い、この村で結ばれた。そしてこの村で死んでいくのだろう。
 なら、きっとこの村で生まれた自分も、この村で誰かと出会い、そして結ばれるのだろう。そして共に老いて死んでいくのだ。
 私の脳裏に、勝ち気な笑みを浮かべる、幼なじみの少女の顔が思い浮かんだ。その頃は、彼女のことを考えると胸が締め付けられるように痛んだ。それは確かな痛みのはずなのに、その甘い痛みが、どこまでも愛おしかったのを覚えている。言葉にすると面映ゆいのだが、あれが私の初恋だったのだと思う。
 そういえば、あの少女の名前は、なんといったか。
 忘れてしまった。顔も、霞を掴むようにしか思い出すことが出来ないのだから、いわんや名前においておや、だ。
 耄碌したものだ。私が彼女の名前を忘れてしまったならば、もうこの世には彼女の名前を覚えている人間は存在しないことになる。それが少しだけ、辛い。
 私は木立にもたれかかり、ほう、と息を吐き出した。山の空気に冷やされて少しだけ白んだそれが、何故だかとても貴重なものに思えて、手で捕まえようとした。
 するりと、指の間から逃げていく。
 もう一度試そうとは思わなかった。
 掌を眺める。もう、闇に沈んで、掌の皺だってはっきりと見えることはない。
 指の間から、光が見えた。
 村の、粗末な家々から漏れる、竃の火だ。
 もう、食事時なのだろう。我が家では、父と母と妹と弟と、本当ならば自分の五人で食卓を囲んでいるはずなのに、どうしてか自分はここにいる。家には一応の書き置きを残しているから、お父さんもお母さんも、またかと呆れていると思うが、きっと心配していることだろう。
 薄明かりの中、所々で白い煙が立ち昇っている。あれは、マキスの家の煙突。
 その向こうに見えるのがうちの家。
 一番向こうに見えるあの煙突は、確かハーシィの家のはずだ。ハシバミ色の瞳をした、可愛らしい女の子だ。まだまだ小さくて舌っ足らずな彼女のお母さんは、この村でも一番の料理の名人のはずだから、きっとハーシィは食卓にご馳走が並ぶのを今か今かと待ち侘びているのだろう。
 そんなくだらないことを考えているうちに、思いの外、時間が流れていたようだった。
 やがて煙も見えなくなり、狐火のように儚い灯火が、点々と村を灯していた。
 見慣れた風景だ。そして、どうしたって見飽きることのない風景だ。
 もう、何百年も昔から、この世界。
 遠い宇宙の果てから人類がこの星を訪れて、その頃から、ずっとこの世界。
 どんどん豊かになっていくこの星で、ほとんどの人間に馬鹿にされ、いつの頃からか絶滅寸前の野生動物のように奇異の視線で珍しがられ、いずれは文化遺産とかいう名目で保護までされて。
 それでもこの村は、ずっとこの村だったのだ。外がどう変わろうと、外の人間がどう変わろうと。星が二つの国に分かれ、意味のない殺し合いに耽ろうと。
 この村は、この村だった。
 今までも、今も、これからも、その先も、ずっと。
 永遠に、ずっと。

 この村の、はずだった。



 いつの時代も、成功した人間というものは高みに居を構えたがるものらしい。
 険しい山間に城が多く設けられるのは、そこが防衛に適した拠点だからという理由だけではない。
 遠く過去、人がたった一つの星の上で馬と弓を頼りに戦を繰り広げていた時ならばまだしも、地球という揺りかごから振り落とされ、宇宙に生き場を求めた人類に、山間に設けられた城など不要極まる代物のはずだ。
 石を切り出し、堀を設け、矢狭間を設えたところで、衛星軌道上から荷電粒子砲で狙撃してくる巨大宇宙戦艦に対してどのような守りを期待できるというのか。
 だが、あるいはだからこそ、身分を得た人間は、不思議と城を求めた。それも、中世と呼ばれる古代の様式を、滑稽な程に珍重した。そこに住むことが一つのステータスになると確信しているかのように。
 この城も、不自然なほどに都市部から離れた、交通の便の悪い山間に建てられていた。
 それほど歴史のある建物ではない。そこかしこに、わざとらしく刻まれた罅やら苔やらなどがあるが、足首まで埋まるような絨毯を一枚めくって少し穴でも掘ってみれば、古代にはあり得なかったH型鋼によって組まれた骨組みや、城の各所に電力を供給するケーブルが覗くはずである。
 確か、くだんの騒ぎで辞任に追い込まれた政治家の一人が、たんまりと溜め込んだ賄賂を吐き出して作った建物のはずだった。
 惑星ヴェロニカでは野生動物の多く生息する山間部を居住用に開発することは厳禁とされているが、国の中枢に食い込んだ政治家ならばそのルールを曲げさせる程度、どうということもなかっただろう。
 その政治家も、今はこの惑星のどこにもいない。
 彼が失踪したのは、この星の住人の血税を懐にくすねたからでも、過去の醜聞を揉み消すために邪魔な連中の口を永遠に塞いだからでもなく、ただ肉を口に運んでしまったという一事によってだった。他の星であれば、どうしてそれが非難の対象になるのか、首を傾げてしまうような出来事で、彼らは文字通りに職を奪われ、生きる場所を奪われ、帰るべき故郷も失った。
 哀れなことだと、全てを奪い取った張本人は溜息を吐き出した。
 そして、腰掛けている。
 この城で一番広く、一番華やかな広間の一番奥に、一段高く造り上げられた豪奢な椅子だ。
 人はそれを玉座と呼ぶだろう。例えこの城に王がいなくとも、それは確かに王座なのだ。
 痩身の老人は玉座に腰掛けたまま、どこを見るでもない倦んだ視線を宙空に彷徨わせていた。彼がここに座るのは、この椅子が一番尻に合うのと、天井から吊り下げられたモニターを眺めるのに具合がいいからだ。
 権勢に興味がなかったわけではない。人並みに興味はあった。人の上に立ち、頂から見下ろす景色とはどのようなものなのかと。
 それほど悪いものではなかった。全てが自分に傅き、全てが自分の思うままになる。自分だけではない。自分に近しい者、例えば不肖の息子など、正しくこの世の春を謳歌し、やりたい放題にもほどがあるような有様だ。
 だが、それを叶えた後には、何も残らなかった。金が残り、権力が残り、名声が残っても、胸の空虚さはそのままだ。
 もう、ずっと昔から、ぽっかりと空いた胸の穴は、何をどうしたって埋まることはなかった。
 当たり前だ。そう易々と埋まってたまるか。
 元々、空っぽだったのだ。全てを失って、折角空っぽになっていた。
 空っぽであれば、耐えることも出来ただろう。手に入れなければ、失うこともなかっただろう。出会わなければ、恋い焦がれることもなかったのだ。
 だが、彼は満たされてしまった。手に入れてしまった。そして、出会ってしまった。
 芳醇とした、香しい、あまりにも瑞々しい、それは奇跡だった。
 全てを失い、自分で自分に終止符を打つために、ほとんどやけっぱちで訪れた荒野で、彼は出会ってしまったのだ。

 天使に。

 それが彼の人生の全てだった。

 もし自分が、恥知らずにも自叙伝でも出すならば、厚さは表紙と裏表紙の二ページ分、それと紙の一枚が加わればいい。
 そして紙にはこう記されるのだ。
 『私は天使と出会った』と。
 その他のことなど、彼、もしくは彼女と出会えた、その一事に比べれば一体どれほどのことだというのか。
 身を粉にして働き、おそらくは信じられないほどの幸運の末に一つの会社を興した。それもまた、おそらくは信じられないほどの幸運の末に並み居る競争相手をごぼう抜きにして、この宇宙でも五指に数える程の規模に成長した。一国の大統領となり、誰しもが彼を尊敬し、彼の名前を知らない人間はこの星には存在しない。
 だからどうした。
 老人の預金通帳には、常人であれば目を疑わんばかりの数字が刻まれている。たった一度の人生ではどうやっても使い切れないほどの金だ。日々をあくせくしながら小銭を稼ぐことに躍起な人間からすれば、無限に、それとも夢幻に等しい金銭だろう。
 だからどうした。
 人にとって、己の認識しきれない数字は無限と同義だ。ならば、どのように放蕩を重ねても使い切れない金銭にどのような意味があるのだろうか。人を溺れさせるに、本当の底なし沼は必要無い。ぎりぎりに足が届かない沼であれば、それは十分に人の命を奪い得るのだし、きっと底なし沼と呼ばれるものになる。 
 嵐の海岸で、砂の城を築き上げている気持だった。
 どれほど豪奢に、そして見事に城を造り上げても、それが一体何だというのか。その壮大なことを誰かが褒めそやしてくれるだろうが、たった一晩のうちに、その壮大な建造物は風雨と波に洗われてこの世から姿を消す。
 老人は、様々な人間と交わった。老人自身が望んだことではない。しかし人も羨む成功を収めた彼は、否応なく自分以外の誰かと交わることを強制された。
 その中には、様々な価値観を有する人間がいた。

 金を増やすことに、人生の全てを費やした人間がいた。
 コンピュータのドットで書かれた数字を血走った目で見つめ、その数字が一つ増えたことに狂喜乱舞し、その数字が一つ減ったことで我が子を拐かされたかのように悶え狂った。
 人は彼を狂人と呼んだ。強欲の悪魔に取り憑かれているのだと噂した。
 彼は生涯一人の伴侶を得ることもなく、たった一人の我が子を抱くこともついぞなかった。誰かに褒められることも、敬われることも、愛されることもない人生であったらしい。
 ただひたすらに、憑かれたように、金を増やし続けた。何を作るためでもなく、何を欲するためでもなく、ただひたすらに金を求めた。
 それは報われた。
 臨終の時に、彼は己の財産がクーアのそれを追い抜いたことを確認して、満足げに死んでいった。彼は、この宇宙で一番の大金持ちになったのだ。
 そして、妻子はおろか親兄弟すらいなかった彼の財産は国庫に納められ、困窮に喘ぐ国家財政を一息つかせるのに役立った。
 それだけが、彼の人生だ。
 老人は、彼を羨んだ。

 なんと素晴らしい人生!彼は、正しく本懐を成し遂げて果てたのだ!

 食こそ全て。美食にこそ人生の真実が存在すると断言する人間がいた。
 彼女はありとあらゆる星に赴き、ありとあらゆるものを食べた。彼女の辞書には、他のどの人間よりも食べ物の項目が多く、おそらくは血を分けた親兄弟の名前ですらがその項目の一つに過ぎなかったのではないだろうか。
 そして、最後は肉親であっても二目と見られないような醜い肉の塊となって、無様に死んだ。
 彼女の埋葬方法には土葬が選ばれたが、それは単に、彼女を火葬するために適当なサイズの竃が無かったからに過ぎない。それとも、鳥葬でも選んでいれば、飢えたカラスは彼女の死体で明日へ命を繋ぐことが出来ただろうか。
 誰もが彼女のことを嘲笑った。生きながら餓鬼道に堕ちていたのだと蔑んだ。
 だが、老人は彼女を羨んだ。

 なんと素晴らしい人生!彼女は、正しく彼女のしたいようにして死んだのだ!

 永遠の命を求めた人間達を知っている。
 全てを手に入れ、全てを跪かせたがゆえに、全てを失うことを恐れたのだ。そんなものがこの宇宙のどこにもないことを知りながら、あるいは目を逸らしながら、彼らは真実の不老不死を求めた。
 うら若き処女の血肉を食せば、自分達の寿命が延びると信じていた。そんな馬鹿な話はない。まさかそれが事実ならば、遙か昔、未開の地に住んだという食人族は、驚くほどの長命を誇ったことだろう。だが、そんな話はとんと聞いたことがない。
 彼らはきっと気が違っていたのだ。おそらく、彼ら自身もそれを知っていた。それでも、彼らは求めずにはいられなかった。自分達が死ぬことを、到底受け入れることが出来なかったのだ。
 永遠の命だと?いずれは老いさらばえるこの宇宙そのものの中で、自分達は精々が寄生虫かそれとも細菌程度の存在でしかないのに、宿主よりも長生きしようというのか。滑稽にもほどがあるぞ。
 そういえば最近、あの老人たちの噂をとんと聞かなくなった。今も、怪しげな占星術やら魔法やらを頼りにして、偽りの永遠を求めて泥濘の底を這いずり回っているのだろうか。
 誰もが彼らを軽蔑するだろう。哀れむだろう。彼らは決して、英雄譚の主人公にはなり得ない。
 しかし、老人は、彼らを羨んだ。 

 なんと素晴らしきかな人生!彼らは、実現不可能な命題に挑戦し続ける求道者ではないか!

 色々な人間がいた。そして、そのいずれもが、老人にとって羨望に値する人間ばかりであった。彼らは皆、自分で、自分の胸に空いた穴を埋めようと必死だったのだ。端から見れば狂人の所業とした思えない彼らの振るまいが、老人にとってはどれほど神聖で冒しがたいものに見えたことか。
 彼らのことを思うだけで、老人の胸を熱いものが満たす。
 翻って、我が身はどうだろう。
 老人は何もしなかった。
 ただ、羨んでいただけだ。
 己の胸にぽかりと空いた穴から、向こう側に写る風景を眺めて、羨んでいただけだ。
 幼児がするように指を咥え、狐がするように他者がもぎ取る果実を酸っぱい実だと決めつけて。
 どうして自分はこうなのか。これほどに、度し難いほどに、空虚なのだろう。
 もうこりごりだった。他人を羨んで、己を卑下しながら生きるのは。自分は、他者から羨望と尊敬の眼差しを浴びる自分は、どうしてこうも惨めな思いをしながら生きなければならないのか。
 思い悩むのはうんざりだ。今は行動すべき時だ。限りある人生なのだから、最後には悔いの無いようにするべきだ。
 それが、例えどれほどの人間を不幸にすることであったとして。自分は、その全てを挽きつぶしても本懐を遂げるだろう。
 この萎んだ風船のように面白みのない人生を、ただ一つ、照らしてくれた光。
 天使。
 会いたい。一目で良い。もう一度だけ、会いたい。
 身を焦がすほどに思う。寝ても覚めても、そのことが頭から離れない。
 ただ、もう一度会いたいだけだ。そうすれば、このどぶねずみ色の人生に、どれほどの光が満ちるだろうか。
 故郷を失い、家族を、友人を失い、全てを失った人間が見る光は、どれほどに美しいのだろうか。
 天使に、会いたい。
 それだけが、全てを失った老人の、残された全てを支えていた。

「大統領、お疲れですか」
 
 付き人の声が、アーロンを現実へと引き戻した。
 玉座の肘掛けに、だらしなく頬杖をついている。そんな姿勢のまま、うとうととしていたのだ。
 ぼんやりと霞がかった視線と思考。若い頃はこうではなかったなと、自虐的な思考をしてしまう。それこそが、なによりも老いた証拠なのかも知れない。

「何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか」

 心配そうにこちらを覗き込んだのは、まだ年若い少女だった。赤みがかった茶色の髪、ほとんど同色でやや茶色の強い瞳、褐色の肌。
 今は押し殺しているが、その感情の豊かなことは、勝ち気な瞳の輝きと情感豊かなたっぷりとした口元が教えてくれる。すっきりと通った鼻筋と相まって、何とも魅力的な顔立ちではないか。
 年齢を重ねれば、驚く程に化けるだろう。きっと、すれ違うだけで男の心を虜にするような淑女に成長するに違いない。
 アーロンは少女を眺めて、目尻に皺を溜、優しく微笑んだ。彼は少女を、いや、少女達を愛していた。

「そうだな、少し汗を掻いたようだ。冷たく絞ったタオルと、何か軽い飲み物でも持ってきてもらえるだろうか」
「承知いたしました。少々お待ち下さい」

 色気のない軍服を着た少女は、一礼してから扉の向こうに姿を消した。
 アーロンは、ほとんど興味を持つふうでもなく、モニターに視線を戻した。いくつかに分割された画面に、砂嵐のような画像の乱れと、望遠レンズに捉えられた夜の街が映し出されている。
 ネオンに照らし出された、白粉の匂いのする街だ。
 カメラの焦点は、一つの店に絞られていた。どうやら件の少女が、そこで働いているらしい。
 カメラのいくつかは、夜の街を、夜に同化しながら駆ける幾人かの男達を捉えていた。市街戦用のアサルトスーツを纏い、手には物騒なサブマシンガンを構えている。目出し帽を被っているから分からないが、相当に年季の入った兵士であることが、隙のない所作から伺える。
 アーロンの顔に、微かな興味が灯った。果たして彼らは、いや、不肖の息子はどこまでのものだろうか。あの太陽相手に鉛の玉が通じるとは思えないが、意外とすんなりと捕まるかも知れない。そうなれば、手柄は息子のものだ。どのように扱おうと自分の口を出す筋合いのものではなくなるから、少女にとっては悲惨な結末になるだろう。自分が女として生まれたことを後悔するだけの陵辱を味わうに違いない。
 それもいいだろう。息子の乱行は今日に始まったことではなく、アーロンはその全てを把握していながら一度だってルパートを諫めたりはしなかった。
 息子可愛さではない。心底どうでもよかっただけのことだ。
 もぞりと姿勢を入れ換え、鷹揚な様子で足を組む。老人の、もう遠い昔に人並みの感情を失ったはずの、死んだ魚のような瞳が、僅かに潤いを帯びていた。
 久しぶりに楽しかったのかも知れない。
 音もなく扉が開き、先ほどの少女が戻ってきた。手にした銀のトレイの上には、おしぼりと、琥珀色の液体でいっぱいになったグラスが乗っている。

「どうぞ」
「ありがとう」

 手渡されたおしぼりで顔を拭う。じわりとにじんでいた汗が拭き取られると、アーロンの顔は年の割には若々しく輝いた。
 次にグラスを手渡される。飾り気のない、しかし質の良いグラスに入っていたのは、この星の地酒をリンゴジュースで割ったものだった。
 アーロンの好む飲み物だ。
 細かく砕かれた氷できんきんに冷えたそれを、喉を鳴らして一気に煽った。胃の腑には何も入っていなかったから、冷たさが腹の底にがつんと来る。少し蒸し暑いくらいの室温には、なんとも心地よい。
 サイドテーブルに空のグラスを置く。
 少女は、王座の脇に控えた。

「君はどう思う。彼らの作戦は成功するだろうか」

 少女を見上げながら問う。アーロンにとって、意味のある問いではない。
 少女は、はっきりとした口調で答えた。

「我が国の軍隊は極めて優秀です。私の知る限り、彼らがこういった作戦で失敗したケースはきわめて稀であり、それは今回も同じ事が言えるでしょう」
「優秀と。それが、君たちではなくてもかい?」
「我々も彼らも、ヴェロニカ国に忠誠を誓う軍人です。であれば、彼らの優秀さには疑いようがありません」
「忠誠心と能力は必ずしも一致しないものだと思うが、君の言いたいことはよく分かる。私も、彼らが成功することを祈っているよ」

 喉の奥を鳴らすように笑いながら、アーロンは少女を見上げていた視線を、モニターの方に戻した。

「一つよろしいでしょうか、閣下」
「何だろう、言ってみたまえ」
「閣下は、この作戦の成功を望んでおられないのですか?」
「難しい質問だな。私の立場からすれば、ノーと、成功を熱望していると答えるべきなのだろうが……」

 しばし黙考して、

「軍人である君を前にしてこんなことを口にするのを許して欲しい。正直に言えば、どうでもいいと思っている。テルミンの言うとおり、あれは生け贄としては極上の素材だ。奴自身はそこまで気がついていないようだがね。あれを神に捧げることが叶えば、この国には正しく太陽が宿るだろう。誰しもがこの国を畏れ敬い、道行きを妨げようとは夢にも思わなくなるに違いない」
「そんなものですか」
「その返事は信じていないようだな。私はこれでも、昔は占い師のまねごとくらいはできたんだ。星を読み、森羅万象を読み、下々の者たちに託宣を授けるのさ。そういう家柄だったからね」
「はぁ」
「だからこそ分かる。あれを手に入れるのはそう容易いことではない。神の一人子を奪おうとするに等しい行為だ。どれほど上手く段取りを付けても、必ず邪魔が入る。あれは、そういう星のもとに生まれている」

 愛されているのさ、不平等なことに、とアーロンは心底楽しそうに呟いた。
 モニターには未だ目立った変化はない。まだ突入の準備をしているのだろう。

「逆に言えば、あれは手に入れられないのが当然の娘だ。失敗して元々の作戦と思っていれば、失敗したときのショックが少ない。卑怯な考え方だと思うかい?」
「いえ、決してそんなことは……ただ……」
「ただ?」
「少し意外でした。あなたはもっと、その……」
「遠慮はいらん。言いたまえ」

 本来であれば、軽々しく会話をすることすら憚られる相手である。
 少女は意を決したように、

「無礼をお許しください、閣下。私は、あなたはもっと神というものを盲信しているのだと思っておりました」
「ふん?」
「あなたが国民の上に立つ、その拠は正しくそこにあるはずです。腐敗したヴェロニカ首脳陣を一掃し、この国に真の教えを再びもたらす、そう言ってあなたは至高の権力を手にした。違いますか?」
「その通りだ」
「そういう人間は──甚だ無礼な物言いをお許しください、往々にして大きな勘違いを起こしやすいものだと思います。神の力を己の力と勘違いする、神に向けられた忠誠を己に向けられた忠誠であると履き違える。そして、己の絶対正義を盲信し、そこに神の寵愛があると信じて疑わない……」
「なるほど、確かにそういう人間は歴史上散見されるのは事実だね」

 そして、そういう人間こそが、他者に対して、最も容易く最も残酷になることが出来るのだ。この世で最も多く人の命を奪うのは、悪の教典ではなく正義の教書であり、悪魔の誘惑ではなく天使の裁断である。
 
「閣下は極めて果断に、そして苛烈に保守勢力を一掃なされました。その様子を見て、私は、あなたは真実、神の教えに身を捧げられているのだと思ったのですが」
「私は何も信じてはいないよ」

 少女は、思わず息をのみ、大統領の顔を見下ろしてしまった。
 この人は、今、何を言ったのだろうかと、耳を疑った。

「閣下……」
「私は何も信じてはいない。信じるべきものは全て失った。彼らは皆、彼らの神を信じていたというのにね。神は、救いの御手は差し伸べて下さらなかったのさ」
「……」
「信じる者は救われる。この世はそうあるべきだ。だが、そうではない。だから、私は何も信じない。簡単な話だろう?」
「それは……ヴェロニカの神であっても、ですか」

 大統領は嬉しげに首肯した。

「だが、勘違いはして欲しくない。私はきちんとヴェロニカ教の教えに身を捧げている。例えば今、教典の何ページ目の何列何行目にどのような文言が書かれているのかを問われれば、私は寸間の淀みなく諳んじて見せよう。ヴェロニカ教の発展してきた歴史、聖人たちの名前と生没年とその偉業、全てを答えることが出来る。これはきっと容易なことではないと思うが、どうだろう」
「それは……きっとそうでしょう」
「だが、神は信じていない。神を信じるには、私の人生は少し慌ただし過ぎた。神を信じる者たちを愚かだと蔑むつもりはないが、私にはどうしても出来なかったんだ。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「私がこの国の生まれではないのが原因かも知れないね」
「はっ?」

 少女の口が、思わず飛び出た言葉の形のままに、戻ることはなかった。
 先ほどのアーロンの一言は、それほどに予想を外れた言葉であった。

「でも……でも、閣下の経歴では、確かに惑星ヴェロニカの生まれであると……」
「少し地位と金のある人間ならば、電子頭脳に鼻薬を嗅がせるくらいは難しい話ではないということだよ。幸い、肉食疑惑と違って、これは血液検査をしても分からない」

 少女は今度こそ愕然とした。
 アーロン・レイノルズが、この国の出身ではない。それは、ヴェロニカ国の大統領の資格を有しないということになるからだ。
 惑星ヴェロニカで生まれ、ヴェロニカ国籍を持ち、ヴェロニカ教を信奉していること。これが、惑星ヴェロニカの最高指導者に名乗りを上げるための、唯一無二の条件なのである。
 冗談であっても、彼の政治生命に関わるような失言だ。そんなことを、自分のような一軍人に打ち明けるなど、何を考えているのだろう。
 この人は、嘘を吐いて自分をからかっているのか。それとも、他に意図するところがあるのか。
 少女は咄嗟に判断することが出来なかった。
 
「私の故郷は、惑星ヴェロニカの地表のどこにもない。それどころか、この宇宙のどこにもない。これは、感傷的な意味で言っているのではないよ。自分のことを覚えてくれている人間が残っていないとか、すっかりと姿形を変えてしまったとか、そういう意味ではないんだ。私の故郷は、物理的に、この宇宙には残っていない」
「それは……例えば、ダムに水没してしまったとか、それとも地盤沈下で沈んでしまったとか、そういうことですか」
「前者は違うだろうね。だが、ある意味では後者に近い。あれは正しく天災だった」
「天災」
「それとも、神の意志だろうか。私の生まれは、元を辿ればジプシーに行き着くらしいから、こんなところに根を張らずに宇宙を放浪しろと、そういう意味だったのかも知れない」
「……」
「全くもって余計なお世話というか何というか。しかし、私の人生で一番神を身近に感じた瞬間と言えば、それはあの時に他ならないだろうな。人の営みなど、彼の人の前では正しく砂上の楼閣に等しい。昨日まで絶対だと確信していた価値観が、一瞬で砕かれるんだ。足下の地面が実は薄っぺらな張りぼてで、その下には阿鼻叫喚の地獄が広がっている。それを思い知らされたんだ、嫌というほどにね」

 そう言った最高権力者の顔は、なんとも悲しげだった。

「閣下は──」
「ん、なんだね?」
「閣下は、それを悔いておられるのですか?」

 悔いる、という表現がどうして口をついてでたのか、少女には分からなかった。
 だが、この老人は、ただ嘆き悲しんでいるのではない。理不尽に怒っているわけでもない。
 何か、遣りきれない何かを胸の奥に封じ込めて、その痛みに悶えているような、そんな気がしたのだ。

「……故郷を亡くした人間なんて、この宇宙ではそれほど珍しい存在ではない。二度と故郷に帰れない人間なんて、星の数ほどいる。大丈夫、私は私を不幸だと思ったことはないよ」

 アーロンは、少女の赤みがかった茶色の髪を、指先でもてあそんだ。

「私は、君たちと一緒だ。君たちと共に、故郷を失った……」
「……お言葉ですが閣下。我々の故郷は、この星です。そして、あなたが私たちの父親です」
「そうだな……。ああ、その通りだ……」

 アーロンは鈍重な動きで立ち上がり、老いの浮いた両の手で少女を抱きしめて、柔らかな頬に唇を寄せた。
 どれくらいそうしていたのかは分からない。ただ、それは少女にとって幸福と呼ぶに値する時間だった。
 離れていく手のぬくもりを名残惜しく思う。だが、今の自分がこの人に甘えるわけにはいかない。
 自分は、この方に仕える軍人なのだから。
 少女は、何かを振り切るようにしてモニターに目を向けた。
 正しく、その刹那であった。
 モニターに、僅かな動きがあった。闇夜に溶けこむような色合いの迷彩服を着た男達が、低くかがんだ姿勢のまま件の店へと駆けていったのだ。
 作戦が、始まった。
 少女の意識が、否応なくモニターに集中する。

「閣下は、先ほど神を信じていないと仰いました」
「信じていないさ。だからこそ、私の故郷を粉々にしたのは神と呼ばれる存在以外の何者でもないことを、私は確信している。そう考えれば、楽なんだよ。落ち着けるんだ。諦めもつく。あれがもしも、ただの人間の仕業だとすれば……私は、道化以外の何者でもないな」

 少女の脳裏に、突入時の標準的なマニュアルが浮かんだ。
 あの建物のように地下に作戦目標があるのだから、その出入り口の全てから一斉に突入し、電撃的に作戦を終わらせるのが最良である。無駄な時間は敵に予想外の行動を取らせる。
 扉のドアノブに特殊なプラスチック爆弾を仕掛ける。これは爆発音は最小限で、しかし超高熱を発するため、ドアノブ周辺の金属が融解し軟化する。その上でドアノブを排除して解錠すれば、ドアそのものを吹き飛ばすよりもよほど隠密性に優れ、ピッキングに頼るよりも確実性に優れる。
 次に、ドアを開き、中にフラッシュバンを投げ込む。これは、音と光で出来た凶器だ。例え光を直接浴びなくても、その凄まじい爆裂音だけで人は容易に思考力と平衡感覚を奪われる。このような地下構造の建物であれば、さぞ効果的に作戦遂行を助けるだろう。
 カメラが、僅かに、本当に僅かに震えた。それは、少女の思い浮かべたタイミングそのままだった。

「さて、始まったようだが……不肖の息子のお手並み拝見といこうか」
「不肖の息子……ですか」
「あれの指揮をしているのは、ルパートだよ。君も知っているだろう?」

 名前を聞いて、少女の顔が曇った。
 その名前の持ち主に、お世辞にも好感情を抱いているとは言い難い渋面である。

「その顔は、奴め、まさか君に乱暴を働いたのではあるまいな!?」

 アーロンの語勢がはっきりと強まった。それは、少女をして狼狽えさせるほどに激しいものだった。

「いえ、私はあの方から一切の乱暴を振るわれたことはありません」
「私に遠慮することはない。あれの乱行はある程度見逃しているが、君たちに手を出したとあっては許すことはできない。正直に言いなさい。怖がることはないよ。君たちは私の息子であり娘、そしてかけがえのない宝なんだからね」

 アーロンの言葉のどこにも嘘偽りはなく、その瞳は真剣に少女の身を想って怒っていた。
 それらの言葉が、実の両親を持たない少女にとって、どれほど暖かでかけがえのないものに感じたことだろう。

「本当です。あの方は、そもそも私たちに性的な興味を感じないようですから……」

 人形、と呼ばれた。
 ゴミ、と呼ばれた。
 怒りも、侮蔑も、興味すらないも言葉で、そう言われた。先ほどのアーロンの言葉の正反対に位置する言葉がこの世にあるとすれば、それはルパートの口から漏れ出す言葉である。

「ただ、あの方のなさる女性への振る舞いを見ていると、同じ女として、どうしても嫌悪を覚えずにはいられません」

 この城には、おそらくは元から世間に顔向け出来ないような目的で作られた地下室がある。
 それでも、果たしてこの城の設計者は、これほどまでに陰惨な目的のために地下室が使われるのだと、想像しただろうか。
 少女は、何度かルパートに言いつけられて、その部屋に監禁された少女の世話をしたことがあった。
 埃と黴と、汗と淫臭と、そして血生臭さの立ちこめた室内。
 少女自身と同じ年の頃の少女たちが、全裸で壁に貼り付けになり、ベッドの上で蹲り、檻の中に閉じ込められていた。
 皆、うつろな目をしていたのを覚えている。
 そして、口々に言うのだ。
 殺して、と。
 止めてでも放してでも、帰してでもなく、殺してくれと言う。そんな彼女たちに、人間としての尊厳は残されていなかった。
 家畜である証として、焼き印と、鼻輪が付けられていた。酷いものになると、四肢の欠損した少女すらいた。
 それが、ルパートなりの愛情表現なのだ。彼は真剣に少女達を愛するが故に、彼女たちを壊していく。同じ女に生まれた身で、どうしてそんな男に好意を感じることができるだろうか。
 少女には、どうしてこの賢明で優しい父親から、あのように愚昧で冷酷な息子が生まれるのか、不思議でならなかった。そして、どうしてこの優しい人が、あのような無体な振る舞いを黙認しているかも。
 然り、息子が少女自身に乱暴をしたわけではないと知ると、アーロンはたちどころに興味を失ったようだった。

「そうか、ならばいい。あいつにも一応の分別があったようで、よかった」
「……あの方が指揮をしておられるというのは、やはり、あの写真の少女を手に入れるためでしょうか」
「そうだろうな。奴め、ヴェロニカ教の発展のため、心を鬼にして使命に身を捧げるなどと抜かしていたが、あれがそんな殊勝な人間ではないことくらい親である私が一番よく分かっている。あの少女を一度手に入れたら、適当な言い訳をでっち上げて、是が非でも渡しはすまいよ」
「閣下はそれでも良いのですか」
「構わん。あれは、正攻法ではどうしたって手に入れることの出来ない存在だ。意外とルパートのような外道のほうが上手くやるかも知れん。それだけの話だ」

 少女は、なんとも居たたまれない気持ちになった。
 今回の作戦対象であるあの少女も、地下室の少女たちと同じ目に遭わされるのだろうか。あの美しく精気に富んだ瞳が、男の欲望に穢されて、人形の如くうつろになっていくのだろうか。
 そうであれば、あまりに哀れであると思う。
 
「しかし、それは全てルパートが上手くやった時のことだ。奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう。君たちが彼女を捕まえたならば、そのときは君たちの好きにすればいい」
「わかりました」

 それがいい。あの男が失敗して、私たちがあの少女を捕まえればいいんだ。
 そうすれば、あの子は清らかな身体のまま死んでいくことが出来るだろう。それが彼女自身にとっても一番いいはずだ。
 少女は密かに誓った。

「さて、そろそろ良い頃合いだが、誰も出てこないな」

 アーロンの言葉に、少女も画面端の時刻表示を確認した。
 確かに、先ほど画面が震えた瞬間からかなりの時間が経過していた。通常の作戦行動であれば終了していてもおかしくはない。
 突入部隊の手際がお粗末で思ったより手間取っているのか、それとも予想外のトラブルがあったか。
 後者であろうと思う。
 そのとき、ビルの裏口を写していた望遠カメラに、通りを横切り路地へと消えていく何かが写った。
 ほんの一瞬のことである。
 二人組の男だ。しかも相当に体格がいい。
 明らかな不審人物であった。

「今のは──」
「確認してみます」

 アーロン自身が騒がしいのを嫌ったために消音していたが、部隊の通信はこの場所でも拾うことが出来る。
 少女は、ボリュームを引き上げた。
 砂嵐じみた雑音の中に、怒号のような声が飛び交っている。

『……だから言っているだろう!男と女の二人組にやられた!くそ、やつらはそっちに向かったはずだぞ!』
『何者だ、その連中は!?』
『そんなこと俺たちの知ったことか!ただ、やられた俺たちが言うのも変な話だがおそろしく手際が良かった!おそらくは素人じゃない!ちくしょう、一撃で顎の骨をへし折られたのは初めてだぜ!』
『──わかった。突入部隊と狙撃手には連絡しておく。お前達の持ち場には予備人員を回すから、治療班と合流して、作戦からは外れてくれ』
『了解』

 男と女の二人組。
 先ほどの人影は、どこからどう見ても男二人組にしか見えなかったが、あれがそうなのだろうか。そういえば、裏口にもスナイパーが配置されていたはずだが、どうして彼らは難なくビルに辿り着くことが出来たのか。
 先ほどアーロンが言った、愛されているという言葉が脳裏に蘇る。
 まさか、と思う。しかし熟練の特殊部隊は突入したまま戻らず、予想だにしなかった援軍まで現れる始末だ。何か、人智の及ばない何かが彼女を守っているとでも言い訳をしなければ、説明がつかないように思えてしまう。

『奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう』

 これが、自分達の戦う相手になるのだろうか──。

「……ゴ。マルゴ。聞こえているか?」

 少女は我知らず、食い入るように画面を睨み付けていた。
 その少女を、アーロンは真剣な表情で見ている。
 少女は僅かに狼狽した様子で、

「失礼を。何でしょうか、大統領」
「先ほどの映像を、拡大できるか」
「先ほどと言われますと」
「裏口へと進入した、不審者の二人組だ。あれをもう一度見てみたい」
「承知しました。やってみます」

 少女は手元にある機械を慌ただしく操作した。
 記録映像の中から適当なコマを抽出し、その中から出来るだけ鮮明に写っているものを選び、画像処理を施す。
 明るさを変え、画質を補正し、可能な限り拡大する。
 
「これくらいでよろしいですか」

 画面に写っていたのは、確かに男と女の二人組であった。遠目には男が二人にしか見えなかったが、片方はおそろしく体格のいい女性だったのだ。
 そして、なんとも目立つ二人組であった。体格の良さは別にしても、男は野性的な面持ちの美男子であるし、女のほうは、飛び抜けた美人というわけではないが、どこか人を惹き付ける魅力のある顔立ちをしている。

「大統領、この二人がどうかされましたか」
「……いや、これでいい。これで十分だ。これで十分だ……」

 アーロンは、自分の言葉を噛み締めるように、何度も言った。
 十分だ、十分だ、十分だ……。
 少女は、さすがに異変を感じて大統領の顔をのぞき込み、そこに異様を見た。
 燃えさかる赤い炎。彼と反対の立場に身を置く人間からは、死んだ魚と称される青い瞳が、彼の身の内に宿った炎を写して揺らめいていた。
 
「……お父さん」
「我が娘よ。私の不明を許しておくれ。私は、私自身の言葉を今こそ撤回しよう」

 大統領は、立ち上がった。死に神が取り憑いたような痩躯に、得体の知れない力が充ち満ちていた。

「神は存在する。信じる者は救われる。少なくとも、私は救われる。今、それを確信した」

 アーロンは、微笑んでいた。普段の冷酷な笑みではない。心安らいだ、邪気の無い笑みで。
 それを見て、少女も嬉しくなった。

「行っておくれ。みんなを連れて行っていい。全ての面倒は私が見るから、多少の無茶も大丈夫だ。この作戦に関する限り、全ての指揮権を君に預けよう」

 どこに、とはあまりに間の抜けた質問だ。
 少女は、自分の成すべき事を知っていた。

「承知しました」
「ただし、一つだけお願いがある。聞いてくれるかな?」
「なんでしょう」
「この男性だ。この男性も、決して殺さずに、出来るだけ丁重にここに招待してほしい。ああそうだ、この女性が彼にとって大切な人なら、この人も連れていてくれると素敵だ」

 アーロンが指さしたのは、画面に映し出された男女であった。

「閣下はこの二人を知っているのですか」
「女は知らない。でも、男は知っている。よく知っているよ」

 アーロンは、本当に嬉しそうに、初恋の人と再会したように嬉しげに、言った。

「この人はね、マルゴ。私の命の恩人なんだ」



[6349] 第三十八話:隠れ家にて
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/23 21:43
 薄暗い部屋だった。そして味気ない部屋であった。
 ほとんど立方体に近い空間、天井は低く、それに比例するように部屋自体も手狭だ。
 家具は、無骨なパイプベッドが一つ、空のグラスと水差しの置かれたサイドテーブルが一つ。
 部屋を飾り付けるものは、壁紙を含めて一つも存在しなかった。
 剥き出しになったコンクリートの壁には微細なひび割れが無数に走り、建物自体の老朽化を声高に叫んでいる。
 およそ光源と呼べるものは窓から立ち入る星明かり程度のものだが、肝心要の窓はどれも小さく、漏れ入る星明かりはぼんやりと殺風景な室内を露わにするだけで、人の心を楽しませるには程遠い。
 よほど夜目が利く者でも、目が慣れるまでに余程の時間を必要とするであろう部屋に、濃厚な異臭が立ちこめている。
 鼻腔の奥を痺れさせるような、消毒薬の匂いであった。それに加えて、僅かな血生臭さが漂っている。
 病院の廊下を歩いたときに感じる、慣れない人間ならば少し眉をひそめるような匂いに近い。
 耳をすませば、ぽつり、ぽつり、と、周期的な音が聞こえる。
 水が滴り落ち、その水自体の作り出した水面に跳ねる音だ。
 外で雨でも降っているのかと、窓を覗いてしまうような音だった。
 しかし、音自体は部屋の中から聞こえている。
 ベッドの脇に立てられたガートル棒の高いところに、透明な薬液のたっぷり詰まった点滴が吊され、その薬液が滴り落ちているのだ。
 その、ぽつり、ぽつり、という音に、時折うめき声が混じる。
 喉の奥を絞り上げるような、苦悶に満ちた声だった。
 少女の、声だ。
 まだ年若い、子供特有の高い声で、苦しげに少女が呻いている。
 ベッドに横たわった少女だった。
 真白い清潔なシーツの上に、力なく横たわっている。まっすぐに伸ばされた左手の肘の裏側に、点滴用の注射針が打ち込まれ、チューブをサージカルテープで止められていた。
 そして、下着姿である。ほっそりと引き締まった少女の身体を隠すものは、上半身には薄手の綿シャツが一枚だけ、下半身は年相応に飾り気のないスポーティなショーツのみである。
 そのショーツから伸びる健康的な太ももに、痛々しく包帯が巻かれていた。決して軽い怪我ではないことが、幾重にも巻かれた包帯に血が滲んでいることから伺い知ることができた。
 傷のもたらす苦痛ゆえだろうか、身体の至る所に珠のような汗が浮かび、少女が身じろぎする度に小さな川の流れになってシーツに滑り落ちていく。
 痛ましさと、僅かな艶めかしさを混ぜ合わせたような光景だった。
 コツコツと、ドアをノックする音が聞こえて、少し間を置いてからドアが開いた。
 少女が、自由になる右手を持ち上げて、瞼を覆い隠すようにした。部屋の暗さに慣れた彼女の瞳には、ドアから漏れる電灯の光ですらが毒であった。

「お加減はいかがですか、ウォル」
「ヤームルどの……」

 ヤームルと呼ばれた初老の男性は、後ろ手にドアを閉め、ベッドの脇に設えられたサイドテーブルの上に、銀製の盆を置いた。
 盆の上には、小さなお椀と匙が乗っている。
 お椀は、柔らかく煮られた粥で満たされていた。どろどろとしたそれは見た目に悪いが、いかにも消化に良さそうである。
 ヤームルはパイプ椅子を引き出し、それに座った。空のグラスに水を注ぎ、ようやく身体を起こした少女に手渡してやる。
 
「すまん」

 少女はそれを一息で飲み干した。

「おかわりは」
「お願いしよう」

 汗でじっとりと重くなった下着を無造作に脱ぎながら、少女が言った。
 ヤームルは、二杯目の水を少女に手渡し、その代わりに脱ぎ捨てた下着を受け取った。
 少女の汗を限界まで吸った下着は、驚くほどに重たくなっていた。

「厚かましい話だが、替えの下着をお願いできるだろうか」
「その前に身体をお拭きしましょうか。すごい汗です」
「うん、そうだな。べたべたして気持ちが悪い」
「シーツは……」
「そこまで贅沢もいえん。今はこれで十分だ」

 少女はうっすらと笑った。
 普段であれば、太陽が笑ったように思える少女の笑みが、どこか力ない。
 傷が影響しているのか、やはり体調が悪いのか。
 暗がりに沈んだ少女の顔から読み取ることはできなかった。
 ヤームルは痛ましさを顔には出さず、熱いおしぼりを手に取った。

「ご自分で出来ますか?」
「悪いがお願いしていいだろうか?これでは中々自由に身体を動かせない」

 少女は、注射針の刺さったままの左腕を指さして言った。
 
「では、失礼します」

 ヤームルは、よく絞ったおしぼりで、少女の身体を拭き清めた。
 ごしごしとこするようにではなく、繊細な陶磁器を扱うような、慎重な手つきだ。
 これには少女のほうがまいってしまった。彼女が、今とは違った姿で戦場を疾駆していた時など、濡らした綿布で真っ赤になるほど強く肌をこすったものだ。そうしないと、どうにも汚れが落ちた気がしない。

「もう少し強くしてもらっても構わないのだが」
「これ以上は肌を傷つけます」
「少々傷つくくらいなら大丈夫だぞ?別に女子供というわけでも……今はあるのだが……まあ大丈夫だろう」
「なりません。これほどきめ細やかな肌をお持ちなのですから、もう少しご自分というものに頓着してあげてください」

 一通り汗を拭き取ったあと、ヤームルは、上半身を裸にした少女に清潔なシャツとショーツを手渡した。

「お食事は食べられますか?」

 新しい下着に袖を通し、少し精気を取り戻した様子の少女は、はっきりと首を横に振った。

「駄目だ。折角用意していただいて申し訳ないのだが……。正直に言うと、食べ物の匂いだけで吐き気がする。これで喉を通るとは、到底思えん」
「分かりました、これは下げさせていただきましょう。もし、少しでも食欲が戻れば、その時は遠慮無く申しつけください」
「重ね重ね申し訳ない。ご迷惑をおかけする」

 少女が、深々と腰を折った。無論ベッドに腰掛けたままの姿勢である。今の少女には、きちんと立ち上がることすら難しかったのだ。
 ヤームルが盆を持って部屋から退出しようとしたとき、少女が彼の背中に向かって問いかけた。

「ここはどこだろうか。もちろん、俺はこの星の地理に明るくないから、言われても分からないとは思うのだが……」
「あの地下道を抜けて、車で一時間少々といったところにある、しけた隠れ家でございます。これでも私は臑に傷持つ身の上でして。こういった場所には詳しいのですよ」
「以前にもここを使ったことがある?」
「懐かしい記憶でございます。まさか、もう一度ここを使うはめになるとは夢にも思いませんでしたが、因果は巡るものですな」

 優しい声だった。
 自分の中の大切なものを愛でている声だ。
 少女は、目の前で淡く微笑むこの男の、内面深くに立ち入ろうとは思わなかった。
 粥を片付けたヤームルが、部屋に戻ってくる。その時には、少女は下穿きを履き替えていた。

「だいぶお悪そうですね」

 ヤームルの言葉に、ウォルは項垂れたように頭を下げた。

「すまん。助太刀をすると言っておきながらこのざまだ」
「体調を崩しておいでなのですから仕方ありますまい。我らが何とか逃げられたのは、あなたに急を告げてくれた奇特な誰かのおかげでございます。感謝こそすれ、謝罪を受ける謂われなどございません。それに、あなたは、命を賭してお坊ちゃまを助けてくださった。このご恩、この老いぼれの短い一生を掛けて、必ず返させていただきます」

 少女は、力なく笑った。




 その時、少女──ウォルは、一日の仕事を終えたあとの気怠い満足感に浸りながら、テーブル席に腰掛けていた。
 夕刻の早い時間から、深夜まで立ち仕事を続けていたのだ。多少慣れてきたこととはいえ、ふくらはぎ辺りに張りを感じてしまうほどには疲労していた。あんな、常につま先立ちを強制するような靴を履いているのだから当然だ、と思う。
 それに、長い時間話しっぱなしだから舌もだるい気がするし、客が次々と勧めてくる酒杯を片端から空にしていったものだから、いかに酒豪のウォルとはいえ些か頭の奥が疼くのだった。
 くわえて、奇妙に身体がだるい。胃の奥がむかむかして気持ちが悪いのは二日酔いにおなじみの症状であるが、それとは種類の違う不快感が、胃のさらに一つ奥の臓器から沸き上がってくる気がする。身体の節々も疼くように痛むし、なによりひどいのが下腹と腰周りの、ずんと響くような重たい痛みだった。
 おそらくは慣れない重労働に、身体が抗議しているのだろう。よく考えれば、自分が間借りしているのはまだまだ子供、ウォルのいた世界ですら親の庇護を受けていておかしくはない年頃である。
 少し無理をさせすぎたかと思い、ウォルは苦笑した。

「それにしても、酌女がこんなに大変な職業だとは露とも知らなかった」

 心の底からの言葉であった。
 男だった頃は、酌を受ける立場で何度かその相手をつとめてもらったことのあるウォルだが、その時は、酌女がこれほど苦労の多い職業だとは思わなかった。気の食わない客の相手をするのはもちろん大変だろうが、それを抜きにすれば仕事で堂々と酒を飲めるのだから、羨ましいと思ったほどだ。
 しかし、彼女らが働く様を見るのと、いざ自分で酌をする立場になってみるのとでは、仕事の印象が全く違う。
 正反対といってもよかった。
 あれほど華やかに見えた女性たちがこれほどの苦労をしていたことを思うと、正しく頭が下がる思いである。一見すると優雅に見える白鳥も水面下で必死に水掻きを動かしているとはよく言う例え話ではあるが、この場合の彼女たちがその白鳥なのであって、めでたく白鳥の仲間入りを果たす羽目になったウォルは、今まで自分の杯を満たしてくれた諸先輩たちに畏敬の念を捧げたのだった。
 そんなウォルの内心はともかく、今日一日は終わったのだ。
 仕事自体が望んだものだったか否かは置いておいて、一日の仕事を終えたあとの達成感や満足感というものは格別なものがある。それは国王の執務であろうが場末の酒屋のバニーガールであろうが、この少女にはあまり変わらないものだったのだろう。疲労の色濃い白粉顔にも安らかな笑みが浮かんでいる。

「お疲れ様でした、ウォル」

 そんな少女に声をかけてきたのは、先程の舞台でピエロを演じていたヤームルであった。
 メイクを落とし、服装もいつも通りの簡素で動きやすいものに着替えている。ゆったりと身体を包んだ麻の装束の下には、老いてなお鍛え抜かれた身体があることをウォルは知っている。

「うむ、もうそろそろ慣れてきた仕事だが、やはり疲れる。というよりも、慣れてきてしまった自分に少々嫌気がさすのだが……」

 特大の苦虫をまとめて噛み潰したような顔の少女である。
 ヤームルは、孫でもあやすように快活に笑い、真っ白い顎鬚を撫でながら笑った。

「人間、若い時の苦労は買ってでもしろと申します。ならば結構なことではありませんか」

 好々爺然とした笑い声に、黒髪の少女も苦笑するしかない。

「こう見えて、若いという年頃ではないのだがなぁ。しかしまぁ、こういった類の苦労とは無縁の生活を送ってきたのも事実だし、天罰覿面といったところだろうか」

 妙に実感のこもった声である。
 確かに、一見少女にしか見えないこの少女は、その実、男として、戦士として、そして王として70年の歳月を生き抜き、そして天寿を全うしたのであるから、目の前で微笑む初老の男と変わらないだけの人生を過ごしている。
 しかし、そんなことを少女自身以外の誰も知っているはずがないから、ヤームルは、どう見ても自分の孫娘くらいにしか見えない少女を、慈愛に満ちた視線で見遣るのだ。

「それこそもう慣れましたが、しかし、普段のあなたの口調にはどうしても違和感が残りますな。仕事中の愛らしい話し言葉も、男にとっては魅力的に聞こえるものですぞ。どうでしょう、いっそあの口調を普段のそれにしてしまうというのは」

 喉の奥でくつくつと笑いながら、ヤームルは言う。
 とどめ、あるいはダメ押しの一撃は、極めて効果的に少女の急所をえぐった。 

「勘弁してくれ……。仕事中の俺は別人だ。思い出したくもない」

 今は紬姿の少女が、テーブルにばったりと倒れこむ。
 ヤームルの言うとおり、バニー姿で、男に媚びたように甘ったるい声で話す少女は可愛らしかった。少なくとも、どこか老成した雰囲気で男言葉を操る少女よりは客の受けも上々であった。
 ウォルは、今まで自分がされてきたことを、してみただけだ。彼女は、自分が不器用な男──何の因果か今は見目麗しき女の子である──だと信じて疑っていなかったから、いきなり自己流の接待など出来るはずもないと思っていたので、若い頃、シッサスの酒場で自分が酌女たちにされたようにした。
 そうしたら、評判はうなぎのぼりである。自分を目当てにくる客も多い。こうなると正しく後の祭りで、いまさら素の自分をさらけ出すわけにもいかなくなったと、そういう次第だ。
 まったく厄介なことになったものだと、美しい黒髪をくしゃくしゃにかき回しながらウォルは唸り声を上げた。

「駄目だ。このままでは、肌に白粉の匂いが染み付いてしまうし、あの気持ち悪い芸妓言葉が舌に残りそうだ。そうなっては、あいつに何を言われるか分かったものではない」

 この場合のあいつとは、当然のことながら、この少女の現在の妻であり将来の夫となるべき、黄金色の頭髪をした少年のことである。
 ウォルは、その少年の鼻の確かなこと、耳の確かなことを誰よりも知っていたから、ふとした調子に今の自分がばれてしまったとき──あの甘ったるい口調でリィに話しかけでもしたらと思うと、心臓が止まる思いである──に、どんな顔で笑われるのかと思うと気が気でなかった。いや、笑われるだけならまだしも、まかり間違って慰めの言葉でもかけられようものなら、即刻家出をしてしまう自信があったのだ。
 既に、バニー姿の自分は見られてしまった。それは事実であり、どうしたって覆しようがない。でも、いや、だからこそ、これ以上の失態はどうしても避けたいウォルである。

「女として生きることに今更怯懦は感じないが、しかし譲れんものは確かにあるのだ。今の生活を続けていると、それすらが薄れてしまいそうになる。それが一番恐ろしい……」

 ぶつぶつと真剣な表情で呟くウォルに、ヤームルは少し不思議そうに、、

「良いではありませんか、まったき少女となって過ごしたとして、何か問題でも?」

 ウォルは、詳しいことまでヤームルに説明はしていない。していないのだが、しかしこの、どこからどう見ても絶世の美女の卵にしか見えないこの少女が、実は全く違う生き物であることを、この男は承知していた。

「あなたが今までどのような生き方をしてきたのか、この爺は知る術もありませんし無理に知りたいとも思いません。ですが、女として生き、女としての幸福を見つける。それも立派な生き様ですぞ」
「いや、それは承知してるのだが……。そして、受け入れるつもりもある……つもりなのだが、だからといって俺は俺であることを捨てようとは思わん。それに、あいつもそれを望むとは思えんしなぁ」
「あいつとは、あなたの婚約者のことですか?」

 ウォルはしっかりと頷いた。それから、はたと気づいたような表情で、目の前の初老の男に問いかけた。

「どうしてそのことを知っている?」

 ヤームルは、やはり悠然と笑い、

「お嬢様から聞きました。何でも、黄金色の狼こそがあなたの伴侶であるとか」

 少女は頷き、

「いかにもそのとおりなのだが、何か含むところでもあるような顔だな」
「ええ、それはもうたっぷりと。わたくしもお嬢様と同じく、冷たく凍えきったあなたをお坊ちゃまが連れてこられたあのときからずっと、あなたこそお坊ちゃまの伴侶に相応しいと思っております。そして、お坊ちゃまこそあなたの伴侶に相応しいと。その思いは今も変わっておりません」
「またその話か。残念だがそれはお断りすると、メイフゥどのにもはっきりと伝えたはずだ」

 少女は、げんなりした顔である。
 メイフゥにヤームル、あとは店の主人夫婦、そしてウォルの同僚であるバニーガールたちは、ことあるごとに、ウォルとインユェをくっつけようとするのだ。口で言うだけならまだしも、それとなく食事の席を隣合わせにしてみたり、それらしい雰囲気を作り上げてから部屋に二人きりにしてみたり。
 だが、当然のことながら、二人の仲が進展する気配は全くない。どれほど強引に機会を設けても、少女の方は暖簾に腕押し糠に釘であるし、少年のほうは真っ赤になってどもるだけである。
 押しかけ仲人たちは、その度に特大のため息をつき、少年の意気地のないことを喉の奥で罵ったりするのだった。

「まぁ、少々ひねくれてはいるが、インユェも根はまっすぐな少年だと思う。それなりに好感も覚えてはいるが、だからといって彼と生涯添い遂げようとは思わん。それは、インユェでなかったとしても同じことだ」
「しかし、黄金の狼である少年とやらは別なのですか」
「別というかなんというか……。俺が女であり、あいつが男で、そして俺が子を成さねばならないとしたとき、それが一番自然な気がすると、その程度のことなのだがな」

 少女は、やや憮然とした口調で言った。自分で口にしておいて、その内容が自分でも信じられないような、そんな口調だ。
 どうやら、見た目にはどこぞの姫君のようにしか思えないこの可憐な少女は、恋やら愛やらとは全く違う視点でもって自分の伴侶を定めたのではないだろうか。
 そんなことをふと考えて、ヤームルは痛ましさを表情に出さないよう苦労した。

「ところでヤームルどの。首尾は如何程?」

 はっとしたヤームルの視線の先には、先程までの、砕けた雰囲気の少女はいなかった。
 こちらを見る視線が、矢尻のように鋭い。声そのものが背筋を叩きつけてくるようですらある。
 遠い昔、海賊船の艦橋で、これと同じような声を聞いたことがあるなと、ヤームルは思った。連邦軍の艦隊に半包囲されたとき、あるいは長年追い求めた敵をもう少しで牙にかけられるというとき。絶望に満ちた艦橋を、あるいは歓喜に緩んだ艦橋を、叱咤し引き締める声だ。
 戦士の、いや、指揮官の声。

「……芳しいとは、お世辞にも申し上げられませんな。憂国ヴェロニカ聖騎士団を自称する無頼漢どもの支部をいくつか血祭りにあげましたが……」
「それではトカゲの尻尾を寸刻みにしているようなものだ。どれほど派手に痛めつけても、大元のトカゲは大して痛くもないだろうよ」
「仰る通りです。旧世代の海賊の戦い方を見せるなどと大言壮語を吐いておいて、恥ずかしい限りでございます」

 ヤームルは項垂れたように頭を下げた。
 ヤームルとメイフゥは、酒場での仕事が終わると、両手では到底抱え切れないような物騒な道具を山ほど車に積んで、どこかへと姿を消した。その度に、翌日の新聞の一面を、憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部の一つがこの世から姿を消したことを報じる記事が飾っていた。
 世間ではこれを、現政権の指導体制に反感を覚える保守過激派のテロであると報じている。まさか、旧い友を殺された海賊の報復であるとは思いもつかないのだろう。少なくとも、彼らの用意した重火器は、一介の個人が準備出来る武器の範疇を、質量ともに大きく凌駕していた。
 
「きゃつらの首魁が、アーロン・レイノルズ大統領に近しい人間か、それとも大統領本人の関係者であろうことは察しがつきます。あれほどの好き放題をやっておいて、しかし野放しにされているという一事をして間違いありますまい。もとは海賊であるわたくしなどが申し上げるのもおかしな話ですが、あれは人の皮を被った畜生の類、生かしておけば百害あって一利なしの者共です」
「そこだ。それが、どうにも俺には腑に落ちんのだがな」

 少女は、腕組みをしながら唸った。

「俺自身、奴らに拐かされかけた身だからよく分かるが、あれは頚木から放たれた野獣の類だ……こんな言い方をすると、我が同盟者どのから『野獣に失礼だ!』と怒鳴られそうなのだが……とにかく、あんなものを放置していては、間違いなく国そのものを腐らせる毒になるだろうし、いずれは飼い主の手も噛むようになるだろう。この国の王は、なぜあのような者たちを子飼いにするのだろうか」
「わたくしは人を導くような御大層な立場を得たことが一度もないからよくわかりませんが……支配者にとって一番恐ろしいものは、同等の立場の別の支配者に狙われることではなく、自分の足元にいる被支配者たちが反旗を翻す事なのではないでしょうか。特に、今のこの国のように歪な過程を経て成立した政権にとっては、それが最も危惧されるはず。であれば、自分たちの思い通りに民衆を押さえつけることのできる暴力機関は、現政権にとってみれば非常に都合のいいものでしょうな」

 少女は頷いた。自分から望んだわけではないが、王として長く君臨し続けた彼女には、ヤームルの言うことが実感として分かる。無論、好悪の念は別にして、であるが。

「それはヤームルどののおっしゃるとおりだと思うのだが、それにしても他にやりようがあるのではないか?もう少しましな人選をせねば、あれらそのものがこの国の根幹を腐らせる白蟻なのだから、いずれはこの国を巻き込んで共倒れだ。そんなことも分からぬほどに、この国の王は頭が悪いのか?」

 ウォルの言う事は至極もっともだったので、ヤームルもとっさに返す言葉を見つけることが出来なかった。
 確かに妙な話ではあった。アーロンが大統領に収まるまでの見事な手並みに比べれば、その支配体制は呆れるほどに手際が悪い。自分の子飼いの連中には特権を与え好き放題をさせる。結果として外の人間の足は遠のき、この国の基幹産業の一つでもある観光業に致命的な打撃を与える始末。国際社会からも轟々たる非難を浴び、このままでは連邦からの除名も現実味を帯びてきたような段階だ。
 政権を奪取してから一年と経過しない段階でこの体たらくである。
 まったくやっていることが支離滅裂だ。到底まともな政治的センスの持ち主であるとは思えない。
 少女自身、かつて似たような国を間近に見たことがある。
 他ならぬ、少女が治めていた国のことだ。
 あそこでも、今まで自分たちの崇めていた君主に嫌気が差した民衆や貴族たちが、その君主を追い出すという事件があった。しかし、王家の乗っ取りを企んだ僭王を追い出してみれば、次に居座ったのが権力を笠に着て好き放題をするごろつきどもであり、民衆は慌ててもとの君主を呼び戻したのだ。
 こう言ってみると身も蓋もないのだが、これらは全てウォル自身の経験したことである。そして、あのとき、あの不思議な少女に出会うことがなければ、デルフィニアという国はごろつきども──改革派の手に落ち、いずれはタンガやバラストといった国に飲み込まれていたはずである。
 それでもデルフィニアという国が一応の面目を保てたのは、些か逆説的ではあるが、ペールゼン侯爵という人物の個人的な手腕であったことは否定しようがない。あの男がいなければ国王自らが自分の国を出奔するという不祥事は起きようがなかったが、その後は彼がいなければデルフィニアは坂を転がり落ちる丸石のごとき惨状を呈していたに違いない。
 だが今のこの国には、そういった意味での抑止力すら存在しないのではないかと、ウォルは感じていた。

「権力を得て旨い汁を吸おうとするのは結構だが、それにしてもやり方がお粗末すぎる。権力をおもちゃにしてやりたい放題、というのとも少し違う気がするしな。それとも、狂信者というのはこんなものなのだろうか?」
「ウォル、あなたの仰ることは非常によくわかります。確かにきゃつらの遣り口はどこか妙です。ヴェロニカ教の復権を謳いながら、しかしそこに主眼を置いていないような……。もしもお題目通りに、ヴェロニカ教の教えに立ち返ることのみを目的にするならばあのような者どもをのさばらせておく必要もないわけですから……。どうにも不可解ではありますな」

 ヤームルは、見事な口ひげを撫でながら首をかしげていた。暢気とさえいえるその様子からは、毎夜、友人の仇敵を血祭りにあげている戦士の風情は見当たらない。
 しかし、彼らの目的は、この国の現状を正すことなどではない。
 ヤームルは口調を少し変えて、

「いずれ、やつらの首魁には己の所業に相応しい罰を与えるとして……ウォル、あなたの方は如何ですか。もう、慣れない武器の扱いには慣れましたかな?」
「いや、これがなかなか難しくてな。ヤームルどのやインユェのようにはいかん」

 ヤームルのいう『慣れない武器』とは、ウォルのかつていた世界には無かった武器──即ち銃のことである。
 この少女が自分たちの復讐を手助けすると言ったとき、果たしてどれほど使えるのかを見極めるために、様々な武器を試させてみた。
 ナイフやロッドの類は、文句なしの合格。インユェが及びもつかないのはもちろんのこと、百戦錬磨のメイフゥやヤームルですら舌を巻く有様である。
 だが、それに比べて銃の扱いはお粗末なものだった。お粗末というよりは、銃という存在のことを全く知らないようですらあった。
 無傷の標的を前にして、銃を片手に途方に暮れる少女であったが、彼女への救いの手の持ち主は意外なところにいた。

『仕方ねえな、貸してみろ。こう使うんだよ。よく見とけ、へたくそ』

 銀色の髪の少年──インユェが、強引に少女の手から銃をもぎ取り、無造作に引き金を引きまくった。
 その全てが、的の中心、人間でいえば急所にあたる部分に命中していた。
 インユェは、優れた射手であった。生来の勘の良さと、目の良さ。こと射撃に関しては、メイフゥもインユェには一歩及ばず、いずれはヤームルをも追い越すだろう。
 インユェの神業的な射撃の腕前を目の当たりにしたウォルが、感嘆の溜息を吐き出す。
 そして、見よう見まねで銃を構え直し、もう一度的に向かって引き金を絞った。
 結果は、先ほどよりはまし、しかし合格点には程遠いといったところか。的の端っこのほうが、僅かに欠けていた。

『……うまくいかんな』
『だから、お前は構え方からして間違ってるんだ。ああ、もう、そうじゃなくてだな……』

 見慣れない武器に戸惑うウォルを見かねたのか、インユェはウォルの構えを直し、握り方を教えた。
 やや突っ慳貪な言い方ではあったが、銃を扱うときのコツを丁寧に指導した。
 その甲斐あってか、それともこの少女には天分があったのか、おそらくは少女にとって初めて扱う武器にもかかわらず、ウォルの銃の腕前はめきめきと上達していった。
 
『おお、当たったぞ!すごいなインユェ、お前の言うとおりにしたらこの通りだ!』
『ばーか、それくらい当たり前だ』

 不機嫌を装った少年は、耳まで真っ赤である。
 これで二人の中も少しは進展するかと期待した周囲だったが、彼らの期待は見事に裏切られた。インユェはコーチの後に少女を街へと誘うことはしなかったし、ウォルの方は新しい玩具に夢中で彼のことは視界に入らないという有様だったのだ。
 どちらが悪いかといえば、どちらも悪い。しかし、不甲斐ないのは間違いなく少年のほうだったので、インユェは、身に覚えのない溜息の大合唱を聞いて気分を悪くするはめになった。

「とにかく、実戦で使うにはもう少し修練が必要だろうな」
「あまり焦らないことです。あなたほどの勢いで上達される方を、私は見たことがありませんからな。ロッドではあれほどこてんぱんにされた以上、銃のほうでこのまま追い抜かされては立つ瀬というものが無くなってしまいます」
「ご謙遜を。ヤームルどのやメイフゥどのの剣の腕も、恐るべきものだった。貴方たちほどの使い手は、俺の知る人間にもそうはいなかったと思う」
「お世辞でも有り難く頂戴しておきましょう。ところで──」

 ヤームルは、孫のような年齢の少女の顔を覗き込んだ。

「顔色が優れないご様子ですが、どこかお悪いのですか?」

 ウォルも、自覚があったので驚いたりはしなかった。
 下手に強がらず、今の自分の体調をありのままに口にする。

「身体全体がどうにもだるい。頭も痛いし、特に酷いのは腹痛だな。これは本格的に風邪かもしれん」
「どれ、熱は……」

 乾いた掌が、少女の額に当てられる。
 少しだけかさついてひんやりとしたそれは、熱で火照った少女の額に心地よかった。

「……確かに、少し熱がありますな」
「やはりか。風邪など、ここしばらくひいたことはなかったのだが……」
「明日はゆっくりと休んでください。幸い、明日は店も休みですし、小うるさい親父もいない。身体を労るにはもってこいです」

 この店の店長とその妻である女将は、子供がいない。だからこそ、自分達の子供のようにウォルを溺愛している。
 文字通り、目に入れても痛くない有様だ。
 店の売り上げに貢献する、金の卵を産む雌鳥だからではない。それどころか、最近はウォルを店に立たせること自体渋っていたりするくらいである。
 第一、二人とも、この店はもう閉めるつもりなのだ。女将のほうはまだ未練があるようだが、普段は尻に敷かれがちの主人がそう断言すると、彼女もしぶしぶといった様子で同意していた。
 今は、二人ともこの店にはいない。少し前から、女将は別の、もっと安全な場所に居を移している。主人は、店にも顔を出すなと言っているらしいのだが、あんたにそこまで言われる覚えはないと凄まれて、不承不承に黙認しているらしい。
 主人も、先ほど店から出て行った。武器弾薬の仕入れの関係で、少し遠い得意先まで足を伸ばしているためだ。
 もしも二人がこの場所にいて、ウォルが体調を崩していると知ったならば、あれやこれやと世話を焼いてくれたことに間違いはない。それ自体は有り難ことなのだが、風邪引きの身としては静かに休ませて欲しいのも事実である。
 ウォルは、苦笑した。

「では、その親父どのが帰ってくるまでに身体を治すとしよう」
「それがいいでしょう」

 ウォルは、自分の部屋に帰ろうと立ち上がった。
 キッチンから水音が聞こえるから、誰かが残った皿洗いをこなしてくれているのだろう。
 おそらくは面倒見のいいメイフゥだと思う。皿洗いはいつもウォルの仕事だったから、こんな時は有り難い限りだ。
 ああ、今日も一日、よく働いた。
 あとは、狭い風呂に入って化粧を落とし、ルームメイトであるメイフゥに就寝の挨拶をしてから、二段ベッドの梯子を登って布団に潜り込むだけである。
 その布団も、かつての自分の寝室には間違えても存在しなかった煎餅布団であるが、不思議と寝心地が悪くない。
 ここでの生活は、ウォルの性に合っていた。無論、夜の女として働くことに納得したわけではないのだが、こういう質素な、それとも肩を寄せ合うような暮らしは遠慮が無くて心地良い。
 かつて、王宮での豪奢な生活を拒否し続け、あくまで自由民としての筋を通し続けた親友が、何故その有り様に拘り続けたのかが、少しだけ理解できた気がした。
 照明を落とした人気のない店内を、ふらつく足取りで横切り、店の奥へと向かおうとした。
 その時。
 店のスピーカーが、大音声で叫んだ。

『ウォル、ウォル!そこにいる?いるわよね?わたしはダイアナ、さっきあなたと話していた船の女神よ。あなたがそこにいることを前提で話すから、良く聞いてね!』

 流れているのは妙齢の女性の、色つやのある声なのに、その声が間違いなく切羽詰まっている。
 ただ事ではない。ウォルの身に、緊張が走った。
 ヤームルも尋常ではない空気を悟り、声を潜めながら呟いた。
 
「これは何事ですか、ウォル。船の女神とはいったい……、いや……ダイアナ?その名前は……」
「しっ」

 ウォルが、指を立てて、耳をそばだてた。

『今、その店にこの国の特殊部隊が突入しようとしてる!目標は、あなたの身柄の確保とその他の人間の抹殺!表口も裏口もだめ、待ち伏せされてるわ!すぐに助けが行くから、それまで何とかして頂戴!』

 突入してくる特殊部隊に対して『何とかしろ!』とは凄まじい指令だが、ウォルは有り難く思った。今から敵が来ると知っているのと、全く知らずに奇襲されるのでは気構えが違うし、ほんの僅かな時間でも反撃の体勢が整えられれば戦況は一変する。
 ウォルはその時間を無駄にするつもりは毛頭無かったし、それはヤームルも同様であった。
 この声の主を疑うという選択肢は、最初から存在しなかった。ダイアナはリィの友達なのだ。それ以上信頼するに足る理由など、ウォルの中には存在しない。そして、この少女についてはヤームルも無二の信頼を置いているのだから、彼にとっても同じ事である。
 ならば、取るべき戦術は二つに一つである。
 即ち、逃げるか戦うか。
 
「どうする、ヤームルどの?」
「突入してくる連中を退けても、二次三次の突入班の相手をしなければならないだけでしょう。ここは逃げの一手が最善かと」
「だが、肝心の退路はどうする?表口も裏口も押さえられてしまっているようだが……」
「ウォル、お忘れですか。ここは悪い海賊の巣穴ですぞ。そういう場所には、秘密の逃げ道の一つや二つは用意しておくものです」

 悪戯っぽく堅めを瞑った老人がどれほど心強かったか、ウォルなどには計り知れない。
 そもそもこの少女は、およそ王らしくない王であった。オーロン王のように奸智に長けるわけでもなければ、ゾラタス王のように非道を厭わない徹底さを備えているわけでもない。
 だが、ただ一つ、他の王より抜きんでていた点があるとすれば、それは人を見る目の確かさであっただろう。そして、一度信じた人間を信じ続ける、頑迷ともいえる懐の深さ。
 たった一度命を助けられただけの少女に、自分と、自分が守るべき全ての人々の命運を預けた。山賊と、それとも夜盗と揶揄嘲弄される人々に信を置き、彼らの信頼を勝ち得た。
 少女より偉大な王は、かの大陸の歴史上に存在しただろう。その中には、全ての国を跪かせる帝王もいたかもしれない。
 しかしその中に、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンほどに人使いの上手い王はいなかったはずである。
 今もウォルは、目の前にいる初老の男に、自分の命運を預けようと決意した。この男に出来なければ、それは誰にも出来ないことなのだと納得した。

「こちらへ、急いでください」

 その男は、憎らしいほど平然とした様子で、ウォルを店の奥へと誘った。ウォルやメイフゥ達の寝床のある方向である。
 そこに、逃げ道など無い。この店から脱出するならば、多少強引にでも表口か裏口を突破するしかないはずだ。
 それでもウォルは、ヤームルの先導に従って、店の奥を目指した。万が一そこに何もないのならば、自分が死ぬだけの話だ。それ以上ではない。
 いや、それは違うかとウォルは思い直した。
 自分が死ねば、この少女の身体も死ぬのだ。一度、救いようのない死を強制された少女が、もう一度死ぬことになるのだ。
 この少女の身体を、もう一度、あの真っ暗闇の中に置き去りにしていくのか。
 死ねない。絶対に、どうしたって死ねない。
 煮え立つ何かを押さえるように、強く歯を噛んだ。
 
「おい、ウォル!今の放送は何だ!」

 横合いから、勇ましい女性の声が飛びかかってきた。
 研ぎ上げた刀で氷を両断したように、鋭く澄んだ声だ。
 それでいて、隠しきれない猛々しさが滲み出るようである。
 メイフゥが、そこに立っていた。
 一糸纏わぬ姿である。さきほどまでシャワーを浴びていたのだろう、張りのある褐色の肌には、珠の水滴がぽつぽつと浮かんでいる。くすんだ金色の髪も、たっぷりと水分を含んで艶々と色めき立っている。
 そこに、異性であるヤームルが立っているのに、恥じらいもせず、身体を隠そうとすらしない。むしろ、自分の身体を見せつけるように、威風堂々と立っている。
 ヤームルもこの光景には慣れっこなのか、それとも孫のような少女の裸にはそもそも動揺する性質ではないのか、平然とした様子だった。
 むしろ、今は同性のウォルのほうが、僅かに気圧されてしまうような気っぷの良さである。

「お嬢様、時間がありません。今すぐにここを引き払います」

 メイフゥは驚きもせず、抗議もしない。頷くことさえしなかった。
 無言で、ヤームルの後を追い、ウォルと肩を並べた。

「ちっ。どっかで下手をうったかな。こんなに早くあたしらの仕業だとばれるとはね」

 昨今巷を騒がしている、憂国ヴェロニカ聖騎士団支部への襲撃事件。すでに二桁の支部を壊滅させているのだから、彼らは赤い布を見た闘牛のように、目の色を変えて犯人を追っていることだろう。
 この星の上で自分達が襲撃されるとしたら、それ以外の理由が思いつかない。メイフゥはそう確信していた。
 だが、ウォルはその意見に懐疑的だった。
 まず、突入してくるのがこの国の特殊部隊というのが妙な話だ。武力にものを言わせる無頼漢どもが、その顔に泥を投げつけられたのである。敵の所在地を見つければ、自分達で報復しようとするのが当然だろうに、何故突入してくるのが無関係の軍隊なのか。
 それに、凶悪なテロ組織の壊滅が目的ならば、どうして自分だけが捕縛対象となっているのか。全員を捕縛する、もしくは皆殺しならば筋が通るが、おそらくはここにいる誰よりもこの世界の人間と縁の薄い自分だけを生かして捕まえようとする意図が分からない。
 これは、一連の事件とは全く別の意図が働いていると考えた方が妥当なのかも知れない。
 しかし、それよりなにより、まずは生きてこの窮地を脱することである。
 店の奥へと急ぎながら、

「ところでメイフゥどの。インユェはどうした?」
「ああ、あいつなら今の時間は部屋で大人しくしてるよ。なにせ、あの部屋は共用だ。一人っきりになれる時間なんて、そうそうねえからな」

 メイフゥが、人の悪い笑みを浮かべた。

「あいつだってお年頃の男の子だ、周りに人がいない時でないとやれないことが色々とあるんじゃねえの?」

 指で卑猥な形を作り、抜き差ししたりする。
 緊迫した状況とは裏腹に、ウォルは膝から砕けそうになった。
 まったく、この娘は本当に女なのだろうか。勇ましさや強さでいえば男と見紛うほどに屈強な女性はいくらでもいたが、そういう次元とは別のところで、この少女からは女性を感じることが出来ないのだ。
 生まれを間違えたとしか思えない。
 なんとも失礼な感想をウォルが抱いたとき、ふと頭の隅を違和感が掠めた。

 インユェが、自分の部屋にいる?

 メイフゥは、先ほどまでシャワーを浴びていた。

 では、炊事場で、自分の代わりに皿を洗っていたのは……?

 ウォルは、咄嗟に身を翻し、来た道を引き返そうとした。
 その時、何かが破裂する轟音が、少女の耳を強かに叩いた。



[6349] 第三十九話:Boy beats girl.
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/25 22:04
 静かな部屋に、ぽつりぽつりと、水の滴る音が響いている。
 耳を澄ませば何とか聞こえる程度のその音が、不思議に耳について、中々眠ることが出来ない。

 ──獣は、食べて眠って傷を癒すものだ。

 遠い昔に、妻がそう言っていた気がする。
 ならば、多少無理をしても、何かを腹にいれておくべきだっただろうか。
 既にヤームルが部屋を出て、しばらく時間が経つ。あの粥も、きっと冷え切ってしまっているだろう。
 今さら温めなおしてもらうのも悪いと思い、ウォルが無理矢理に眠るため、瞼を落としたその時。
 遠慮がちに扉をノックする音が、少女の耳に届いた。

「……ウォル、もう寝てるか……?」

 おずおずとそんなことを聞いてくる。
 そこに誰がいるのか、少女にははっきり分かっていた。そして、その少年がどれほどの自己嫌悪と戦っているのかも。
 だからこそ、少女は彼を拒む言葉を持っていなかった。

「いや、ちょうど眠れなかったところだ。話し相手がいてくれると助かる」
「……ふん」

 扉が開いた。同時に、部屋の明かりも、一番弱い橙色の光で灯された。
 開け放たれたドアから入ってきたのは、銀髪の少年だけではない。
 腹の虫を刺激する、食べ物の香りも一緒だった。

「インユェ、それは?」
「……さっきお前が粥を食べられなかったって聞いて……俺も、風邪とかのときの粥ってあんまり好きじゃねえんだよ……だから、スープ、作ってみた……食べるか?」

 長髪を後ろで一括りにし、エプロンを身につけ、手には分厚いミトンを纏った姿は、お世辞にも男らしいとは言い難い。
 しかし、この少年には、勇ましい戦装束などよりも似合っているように、少女は思った。

「そうだな、少し腹が減っていたところだ。いただくとしよう」

 銀製の盆を受け取り、それを膝の上に載せて、簡単なテーブルとする。
 湯気の立つスープは、上品な琥珀色に色づいていた。具はなかったが、様々な具材で出汁を取ったのが一目で分かった。
 汁そのものも澄み切っている。丹念に灰汁を取ったのだろう。
 ウォルは、匙でスープを掬い、口に運んだ。
 うまかった。
 乾いた身体に染みいるような、滋味溢れるスープだった。


 凄まじい爆音が店内を満たしてから、この薄暗い部屋で目覚めるまでの記憶を、ウォルは持っていない。
 あのあと自分がどうなったのか、ウォルはほとんど覚えていないのだ。

 轟音。
 意識を丸ごと消し去るようなそれに、思わず蹲りそうになる。
 だが、精神や魂を無視したところで、体だけが反応していた。
 何も恐れず、駆け出す。
 廊下を突っ切り、ホールまで。
 そこで、自分と同じように、鼓膜を強かに攻撃され、足取りの覚束ない少年を見つけ。
 彼を狙う、いくつかの銃口。
 ああ、助けなければ。

 太ももを貫通する銃弾の衝撃に記憶を失ったのかも知れないし、体調の悪化がそうさせたのかも知れない。
 とにかく、ウォルはほとんどを覚えていなかった。
 ただ、耳を押さえて調理場から顔を出したインユェをいくつもの銃口が狙っていたこと、咄嗟に駆け出し彼の体を突き飛ばしたことは、朧気ながらに覚えている。
 どうして自分があんなことをしたのか、未だによくわからない。
 命を賭けて助けなければならないほどに、この少年と深く繋がっているかと問えば、おそらくは否だ。
 だが、そうしなければならないという、強迫観念に近いものが体を突き動かしていた。
 それだけの話だ。


「それにしても大丈夫かよ、その傷。痛そうだなぁ、きっと跡が残るぜ。可愛そうになぁ」

 意識をそこに戻すと、インユェが、嫌らしい笑みを浮かべていた。
 にやにやと、下卑た笑みを浮かべている。
 無神経そうに、それとも無神経を装ったインユェは、パイプ椅子を引き出し、そこに座った。
 少女は、もう一匙スープを掬い、それを啜った。
 やはり、うまかった。
 満足げに吐息を吐き出した少女に、場違いに憎々しげな声が叩き付けられた。

「一言いっておきたいんだがな、ウォル」
「なんだ」
「お前、いい気になってんじゃねえぞ」

 少年が、精一杯にドスを効かせた声で、言った。
 少女は、その声の主を無視するように、もう一口スープを啜った。

「お前は俺の奴隷なんだ。俺はお前のご主人様なんだ。だから、お前が俺を、命を賭けて庇うのは当然のことなんだ。そこんとこは分かってんだろうな?」
「ああ、分かっているとも」

 少女は、素っ気なく言った。

「だいたい俺は、あんなもん、簡単に避けられたんだ。別に、助けなんて必要じゃなかった。だから、礼なんて言わねえぜ」
「分かっている。俺がやりたくてやったことだ。誰に感謝してもらおうとも思わん」

 少女の視線は、膝に載せたスープ皿にだけ注がれている。
 少年の方を、見向きもしない。
 それが、少年には気に入らない。
 いや、少年には、あらゆる事が気に入らなかった。
 少女の受け答えもそうだ。少女の返答は、一々少年の欲しがっている答えのはずなのに、押し並べて彼の心にささくれを作っていく。それも、血が出るほどに深く、痛いものばかり。
 少年は、その痛みを呪詛の言葉に置き換えて、続けた。

「しっかし不憫だよなぁ、お前もさ。この世界には、墨の入った女ってだけでもう駄目な男も山ほどいるのに、そんな目立つところにでっかい銃創をこしらえた女なんて、まともな嫁の貰い手はいねえぜ、きっと」
「そうかも知れんな」
「お前はこれから一生、新しい男に抱かれる度に、その傷は何だって聞かれるのさ。で、お前は何て答えるんだ?転んだ傷だって誤魔化すかい?それとも、好きでもない男を庇って撃たれたんだって正直に言うのか?ははっ、そんなこと言ったら、間違いなく気まずくなるだろうな。男の方も萎えちまうんじゃねえの?」

 早口に捲し立てた。
 その言葉を聞いていないかのように、少女は静かに食事をしていた。
 皿には、もうほとんどスープは残っていなかった。
 皿を傾けて、最後の一匙を掬い、口へと運んだ。

「そうだ、なんならよ、俺の妾あたりにしてやろうか?奴隷に比べりゃあ大出世だ。もちろん、俺はきちんとした女と所帯を構えるつもりだがよ、お前の心がけ次第じゃあ、情けをかけてやらねえこともねえぜ。傷もんの女には、望外の幸運ってやつだろう?」
「ごちそうさま、インユェ。たいへんうまかった。もう一杯、おかわりを貰えるだろうか」

 少女は微笑みながら、空の皿を差し出した。
 何の蟠りもない、純粋な微笑みだった。
 それを見たインユェは、羞恥以外の感情でもって、白皙の肌を真っ赤にした。
 
「ウォル、てめえ──!」
「このスープはとても美味だな。インユェ、お前が作ったのか?」

 少女の首元を締め上げようとしていた両手が、空中で制止した。
 インユェは、浮かしかけた腰をそのままに、目の前の少女を見つめていた。
 少女は、もう笑っていなかった。漆黒の瞳を怒りに似た何かに染めながら、少年を射貫いていた。
 きっと、彼女の整った唇から、信じられないほどに醜く自分を罵る言葉が生まれるに違いない。
 ああ、そうだ、それでいい。自分は、その言葉に見合うだけの卑劣漢で、唾棄に値する忘恩の徒なのだ。

 これでようやく──。

 少年の総身から、力が抜けかけた。

「あまり、自分を責めるな」

 項垂れかけた頭を上げてみれば、自分を見つめる少女の瞳のどこにも、怒りの色は無い。
 ただ、気の毒そうに、哀れむように、自分を見ているのだ。
 少年の心の奥底に、再び炎が沸き上がった。燻っていた火種に油を注いだように、ものの見事に燃えさかった。
 ぱぁん、と、肉が肉を打つ音が、狭い室内に響く。
 少年は、少女の頬を打っていた。
 歯を食いしばり、目を血走らせ、鼻の穴を膨らませて──獣の顔で、少女の頬を打っていた。
 命の恩人を、殴っていた。
 拳でなくせめて掌で打ったのは、少年の最後の矜持だったのかも知れない。
 しかしそれすらも、青ざめた少女の頬が赤みを増すにつれて、音を立てるように崩壊していった。
 インユェは、理解した。
 これから自分は、外道として生きていくのだ。女を犯し、弱者を踏みつけ、己の享楽のみを追い求める生き方しか出来なくなるのだ。
 男として踏み越えてはいけない最後の一線を、こうも容易く踏みにじってしまった。
 もう、駄目だ。もう、耐えられない。
 少年は、部屋から逃げだそうとした。少年は、今までの自分から逃げだそうとした。
 そして、逃げられなかった。
 少年の服の裾を、少女の細腕が掴んでいた。

「離せ!」

 泣き喚く幼児のように、腕を振り回した。
 今度は拳が、少女の頬にめり込む。
 ごつりと、目を背けたくなるような音が響いた。
 インユェは、大風に吹かれた木の葉の如く、容易く吹き飛ぶ少女の身体を夢想した。
 だが、少女はぴくりとも動かなかった。
 柔い頬に少年の拳をめり込ませたまま、感情の凪いだ瞳で少年を見ている。
 片方の鼻の穴から鼻血を垂らし、それでも自分を見ている。
 少年は、その瞳の中に、醜く歪んだ自分の顔を見た。
 思わず叫び出しそうになるほど、恐ろしい光景だった。
 これほど恐ろしい光景が、他にあるだろうか。
 それは、自分の弱さそのもの、そして罪そのものなのだから。そんなものを正面から見せつけられるならば、死んだ方がましである。

「座れ」

 少女が、有無を言わさぬ声で言った。
 少年に、少女の声に逆らうだけの気力は残されていなかった。
 今の少年に相応しい、風船が地に落ちたような軽い音と共に、パイプ椅子に腰掛ける。
 もう、まともに少女を見ることすら出来なかった。
 彼は、負けたのだ。何か、大切なものに背を向けて、逃げ出した。
 もう、誰と戦っても勝てる気がしなかった。生まれたばかりの子犬に吠え立てられても、泡を食ったように逃げ出すだろうと思った。

「俺はお前を殴らんぞ」

 少女の言葉に、もう顔を上げることさえ怖かった。
 少女の瞳に再び射すくめられることを思うと、指先一つ動かすことが出来なくなるほど、緊張で体が強張った。

「……そんなことをしたら拳が汚れるってか?はっ、それはそれは……」
「違う。今のお前には、何もしないことが最も過酷な罰だからだ」

 信じられないことを聞いたように、インユェが頭を上げた。
 怯えきった、刑場に引き出された罪人のような顔はしかし、自分を慰める漆黒の瞳と相対する。

 ──許された。

 安堵を感じた自分に、何よりも殺意を覚えた。

「すまねえ……」

 謝罪の言葉は、意外なほど軽やかに口から飛び出てくれた。

「悪かった……俺のまぬけのせいで、お前をこんな目に遭わせて……俺、何て謝ればいいか分からなくてよう……」

 ぽつり、ぽつりと、液体の落ちる音がする。
 今までは一つだったそれが、二つ三つと増えていく。
 その音に合わせるようにして、シーツに暗い染みが浮いていく。
 少年は、シーツの端を握りしめて、漏れでそうになる嗚咽の声を、必死に噛み殺していた。
 そのまま、包帯の巻かれた少女の太ももに、そっと手を乗せる。
 少年の指は、かすかに震えていた。

「痛かったろうなぁ……すまねえ、何て謝ったらいいのか、分からねえけど、すまねえ……本当に、ごめんなぁ……」
「謝ることはないと言ったはずだぞ。俺は、俺の好きでお前を助けた。なら、撃たれたのは俺が間抜けだったというだけの話だ」
「だから……なんでお前は、そういうことを……」

 今度は、はっきりと嗚咽混じりの声だった。
 少年は、悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。
 歯を軋らせて嗚咽を噛み殺し、それでも嗚咽が漏れてしまうほどに、悔しくて悔しくてたまらないのだ。
 自分の無力さが、悔しい。
 無力な自分が、悔しい。
 許せない。
 少年は、自分に対する殺意と戦っているのだ。
 少女は、そのことを知っていた。
 知っていて、少年を慰めようとはしなかった。
 無惨ともいえる赦免の言葉を少年に与える以外、何もしようとはしない。
 自分が叱れば、その分だけ少年の重みを預かることになる。
 だから、しない。
 何故なら、少年がまさに今戦っている痛みは、少年自身に力で乗り越えるべき痛みだからだ。
 
「俺、どうしたらいいんだろうなぁ……姉ちゃんも帰ってこない……きっと、きっと奴らに捕まったか、やられちまったんだ……」
「メイフゥどのがそう易々とやられるものか」
「じゃあ、なんでこんなに遅いんだよ?どうして、俺をひとりぼっちにするんだよ?」

 目を赤く腫らして、口を情けなく歪ませた少年は、驚くほどに無力だった。
 そして、哀れだった。
 ほとんど生まれたての赤子のようだった。
 姉ちゃん、姉ちゃんと、何度も呟いている少年に、無頼を気取った資源探索者だった彼の面影はどこにもない。
 少女の胸が、ずくりと疼いた。
 あまりにも弱々しい少年を見ていると、何かを思い出しそうになるのだ。
 魂ではなく、身体に刻み込まれた、異質な記憶。どう頑張っても像を結ばない、ほどけた雲のようなそれが、少女の胸を柔い針で刺激する。

『誰かを愛してしまったあの子を許してあげて──』

 幽玄な少女の、消え入るような声が、ウォルの耳に蘇った。
 彼を抱きしめようとする体、それを許さない魂。
 相反する二つの要素の妥協点として、少女は、少年の手を握りしめてやった。
 少年の手は、意外なほどに小さく、柔らかかった。
 少年が、許されたように小さな力を込めて、手を握り返してくる、
 少女と少年は、しばらくそのままだった。

「──すまねえ、情けないところを見せた」

 時計の秒針が一周するほどの時間の後に、少年が立ち上がった。
 それは、先ほどまでの少年の顔立ちではない。
 泣き腫らした目には鋭さが宿り、情けなく歪んでいた口元には不敵な笑みが刻まれている。
 後ろ頭を勢いよく掻きむしり、照れたように言った。

「もう、これでお前には、一生頭が上がらねえなあ」
「うむ、正しくその通りだ。あそこまで情けない有様、そうはないぞ」
「容赦ないんだからなぁ、本当に」

 インユェは苦笑した。
 
「じゃあ、手始めにスープのおかわりでも持ってくるよ。それと、サンドイッチくらいなら腹に入るかい?」
「そうだな、お願いしよう」

 少年が腰を浮かせる。
 そのままキッチンへと向かいかけたその時、ウォルの寝そべったベッドの脇に目を向けて、

「その前に、点滴がそろそろ終わりそうだから……」

 サイドテーブルの上に空のスープ皿を置いたインユェが、少女の左腕に刺さった針を、慎重な手つきで引き抜いた。
 針を抜く瞬間に、ぞくりとする、痛みとも痒みとも判別できない微妙な感覚が、ウォルの神経を冒した。
 針を刺していた箇所に、ぷくりと、真っ赤な血が盛り上がる。インユェはそこに絆創膏を貼り付けた。
 ようやく左腕の自由を取り戻した少女は、痺れの浮かんだ関節を二三度動かして、それが自分のものであることを確かめた。

「抗生剤が効けば、化膿することはないと思う。足も、銃弾は貫通してたから多分大丈夫だろうってヤームルが。やっぱりちゃんとした医者に診せた方がいいんだろうけど……」
「気にするな。これくらいの傷、慣れっこだ。酷いときなど、一週間飲まず食わず、眠らしてさえもらえずに、拷問をされたことだってある」
「拷問だと!?」

 予想だにしなかった少女の言葉に、少年は思わず目を剥いていた。
 少年の、竜胆色の瞳に、急激に色がついていく。それは、己の所有物を穢された雄のみが発する、激烈な攻撃色であった。

「言え、ウォル!どこのどいつがお前をそんな目に遭わせやがった!絶対に許さねえ!俺がぶっ殺してやる!」

 少年は、呪いの叫びを発しながら、少女の肩を掴んだ。
 凄まじい力の込められた指が肩肉に食い込み痛いほどであったが、少年は気がつかない。それだけの余裕を、失ってしまっていた。

「耳元で喚かんでくれ、一応は病人だ」

 にもかかわらず、下着姿の少女は、くすくすと笑った。
 少女の肌の柔さを期せずして確認した少年は、やはり耳まで真っ赤にして、

「わ、わりい……」
「それに、悪いがインユェ、お前に復讐は無理だ。なにせ、俺を思う存分に嬲ってくれた男は、既に死んでいる」
「死んでいる……?」

 少女はこくりと頷き、

「俺の怒りを雪ぐために、実の兄に首を刎ねられてな。そして、その首は蜜蝋に漬けられて、わざわざ俺のところまで送られてきたのだ。そこまでするかとも思ったが、そうでもしないと恐ろしくて夜も眠れなかったのだろうと思うと、滑稽でもあったな」

 少年は唖然として、不吉な笑みを浮かべる少女の顔を見遣った。
 目の前で、痛々しげに包帯を巻き、ベッドに腰掛けたか細い少女が、自分とは違う生き物に見える。
 背中が僅かに反る。脳の一部が、この少女は危険だと、自分を捕食できる生き物だと告げる。
 冷や汗が一筋、少年の麗美な頬を伝った。

「ウォル……お前、何者だ?」
「今の俺の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。だが昔は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという名だった」
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン……?」
「もう慣れたことだが、この名前を聞いて首を傾げられるとどうにも違和感があるな」

 少女は快活に笑った。

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。大華三国に覇を唱えし王。獅子王。デルフィニアの太陽。闘神の娘の夫。色々な名前で呼ばれたが、どうにも自分のこととは思えない」
「ちょっと待て。デルフィニア……?そもそも、王っていったい……?」
「デルフィニアは国の名前で。俺が生きていた頃は、世界で最も栄えた国だった。そして、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンはその国の王だった男の名前だ」

 インユェは、まばたきすら忘れたように固まってしまった。
 口を半開きにしたまま、辛うじて回転している頭の中を、薄ら寒さが満たしていく。
 目の前の少女は、自分をからかっているふうではない。少なくとも彼女自身は、自分の言っていることを信じ切っている。
 ならば、この愛らしい少女は、正気を失ってしまったのか……。
 悲しげに眉根を寄せた少年が、切羽詰まったような表情を浮かべて、直後にパイプ椅子の倒れる音が部屋に響いた。
 少年は、暗い部屋の中、少女を抱きしめていた。両の手に満身の力を込めて、ぎゅうと、情熱的に。

「大丈夫だ、ウォル。絶対に俺がお前を守ってやる。傷だって、すぐに治る。傷跡だって残らない、いや、残さない。俺、いい腕の医者を知ってるんだ、闇医者だけどな。そいつに頼めば、この程度の傷、跡形もなく治るさ。そしたら、そしたら……」

 インユェは言葉を失って、少女の顔を見つめた。
 傷を負い、身体を弱らし、それでもなお毅然と自分を見つめ返す漆黒の瞳。
 年若い少年は、その瞳の主を、どうしても手に入れたくなった。誰にも渡したくなかった。
 彼は年若くして幾多の星海を渡り、数え切れないほどの死地も潜っていたが、これほど自分の感情をもてあますのは初めてだったのだ。
 だから、自分の胸の中に収まった少女が苦笑しているのにも、到底気がつかない有様だった。
 
「……あのな、インユェ。俺の話を聞いていたか?」
「ああ、聞いていたさ。お前はデルフィニアとかいう国のお偉いさんだったんだろ?」
「そして、男だった。齢七十を越えるおじいさんだ」
「だからどうした。今のお前はれっきとした女じゃねえか。何の問題がある」

 ウォルはやはり苦笑した。苦笑するしかなかったと言った方が正確かも知れない。
 この少年は、先ほどの言葉を信じていないのだ。きっと錯乱した少女が、現実逃避に紡ぎ出した空想話程度にしか思っていないはずだった。
 だが、ウォルが口にしたことは紛れもない事実である。今は少女の身体に宿っているのは、紛れもない戦士の、男の魂なのだ。
 これで事実を知れば、果たしてこの純情な少年はどう思うだろうか。ひょっとしたら自分を憎むかも知れないと思い、それは少し嫌だなと思った。
 少女は、その細腕で、やんわりと少年の胸を押し返してやる。
 インユェはさして抵抗をせず、少女を抱擁から解放した。
 倒れたパイプ椅子を引き起こし、再びそれに腰掛ける。そして、思い詰めた声と表情で、しかし努めて明るい声で、言った。

「今度、さ」
「うむ?」
「この一件に片が付いたら、俺の星に来ないか?」

 いつもはきらきらした瞳が、伏せ目がちになっている。
 母親に許しを乞う幼子のように、怯えきった瞳だった。

「あいにく、連邦大学にかえったら課題が山積みだ。補修だって鬼のように待っているはずだし、そうそう時間が取れるとは思えない」
「なら、待つさ。いつまでだって待ってやる。あんまり遅いと、攫いに行くかも知れないけどな」

 少年は、噛みつくような笑みを浮かべた。
 そして、息を一回飲み込み、震える声で、言った。
 
「俺の星に来たら……その……」
「その?」

 少女が、悪戯げに小首を傾げる。
 少年は、真っ赤になって、必死になって、男みたいになって、言葉を探した。
 彼の生涯初めての、女を口説き落とすために用意したとびっきりの言葉は、思ったよりも野暮ったかった。

「……馬の乗り方をさ、教えて欲しいんだ。頼めるかい?」
「馬?」
「いつか言ってたじゃねえか、馬に乗りたいって。俺、あんなもんの乗って何が楽しいのかって思ってたけどよ、お前がそう言うなら、一度乗ってみたいんだ。駄目かな?」

 少女は笑った。悪意のある笑みでも、馬鹿にした笑みでもない。
 目の前で、心の底から怯える少年のことが好ましくなって、思わず微笑んでしまったのだ。
 遠い昔に自分の妻が、しゃちほこばった少年騎士に口づけたときの気持ちが、少しだけ分かった。

「その言い方は何ともお前らしくないな。なにせ俺はお前の奴隷で、お前は俺のご主人様なのだろう?」

 少女の言葉に目をぱちくりとさせた少年は、毒気を抜かれたように肩から力を抜き、息を一つ吐き出すと、いつもの彼らしく不機嫌を装った表情で、

「じゃあ、ご主人様からドレイのウォルに命令だ。今度、俺に馬の乗り方を教えてくれ、いや、教えろ」
「ああ、今日を生き残れたら、存分に」

 二人は、声を合わせて大いに笑った。
 涙を零しそうになるほど笑いながら、インユェは思っていた。
 インユェは、もっと他に、少女に言うべき言葉を持っていたのだ。
 今度……今度、自分の星に来たら。
 美しいところなのだ。ずっと昔、後ろ足で砂を掛けてしまった、何よりも美しい場所。
 大切な人もいる。気の良い友人もいる。墓の下で眠る母親も、きっとお前のことが好きになる。
 だから。
 そこに、俺と一緒に行ったなら。
 ずっと、一緒にいてほしい、と。
 ずっと、一緒に生きて欲しい、と。
 少年は、喉の奥までその言葉を引き出して、肺の奥底に再び仕舞い込んだ。きっと、いつか、そのうちに、この少女に伝えることを誓って。
 その時、玄関のドアを荒々しくノックする音が、室内に響いてきた。
 インユェが、がばりと顔を上げる。

「姉さんだ!姉さんが帰ってきた!」

 その顔は、喜びに充ち満ちていた。
 ウォルも、その顔を見て、少しだけ嬉しくなってしまった。



[6349] 第四十話:いざなみのみこと
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/25 22:03
「悪かったな、勘違いして殺しかけて、その上医者の面倒まで見てもらってさ」
「いや、気にしてもらう必要はない。わたしのほうこそ、一度君の顔を見ていたはずなのに、それと気がつかなかった。不覚とはこのことだ」
「おい、そこらへんにしとけよ。お嬢ちゃんのほうも別に問題なかったんだしよ、どっちもどっちってことで、手打ちといこうじゃねえか」

 一台の車が、人気のない夜道を、法定速度を無視しながら走っていた。
 狭い車内であった。
 その車が小さいというわけではない。形式こそ、この星では一般的なセダンタイプであるが、相当の高級車であるし、第一この車の売りは広々とした車内スペースなのだ。
 一応は五人乗りの車であるが、それも相当の余裕を備えての五人乗りであって、普通の体格の人間が座ったのであれば、隣り合わせに座った者の体温を感じることなく快適な車の旅を満喫できるだろう、そういう車だ。
 その車内が幾分狭く感じられるのは、今、そこに詰まっている人間達の体格が、到底普通の人間のそれではないからである。
 ケリーとジャスミンは言うに及ばず、後部座席にふんぞり返るように座った少女のそれも、人並みを大きく外れている。
 少女の名前を、メイフゥという。つい先ほど、ケリーとジャスミンの二人と、文字通りの死闘を繰り広げた、少女である。
 普段はゆったりと布の多い派手な服を好むメイフゥだったが、今は我慢したように、病人用の患者衣を着ている。相当しぶったのだが、真夜中に開いている衣料品店も見つからず、もちろん裸でうろつくわけにもいかないので、本当の間に合わせとして着ているのだった。
 そして、頭部には分厚く包帯が巻かれている。
 精密検査の結果、幸いなことに骨や頭蓋内には異常が見受けられなかったが──この事実に、ジャスミンは天を仰いで呪いの言葉を呟いた──、大きな裂傷が出来てしまっていたので、十針ほど縫う必要があったのだ。少女自身は『こんなもん、唾つけときゃ治る!』と言い張って暴れるように抵抗したが、ジャスミンとケリーがその両手足を押さえつけて、何とか施術に成功したのである。
 今も、煩わしげに包帯を手でいじり、隙あらば解こうとしているのがありありと見て取れる。
 まるで動物病院から連れて帰られた犬が、包帯の上から傷口を舐めようと必死にもがいているようで、なんとも微笑ましい様子だった。

「ところでお嬢ちゃんよ、隠れ家とやらはいいが、ほんとにウォルはそこにいるんだろうな」

 運転席でハンドルを握ったケリーが、少し疲れたような声で言った。
 ジャスミンがメイフゥを叩きのめした後、この体格の良い少女を抱えて地下道を走り回り、信じられないほどに長い縄梯子を昇って、法外な診療報酬の代わりに臑に傷持つ人間でも診察してくれる闇病院まで担いでいったのだ。それも、熱追跡を受けないよう、出来るだけ痕跡を消してきたのだから、その苦労は並大抵ではない。
 結果として、流石のケリーも病院のロビーでへたり込んでしまった。全身汗みずくで、チアノーゼのために顔も青い。これではどちらが患者なのか分からない、そういう有様だったのだ。疲れた声の一つも出ようというものである。
 しかし、ケリーから献身的な看護を受けたはずのメイフゥは、柳眉を逆立てて、後部座席から運転席を蹴りつけ、役者のように大見得を切って見せた。

「おい、色男。あたしの名前は、お嬢ちゃんなんかじゃねえ。これでも親から頂いた立派な名前があるんだ。メイフゥ、美しい虎って書いてメイフゥだ。今度お嬢ちゃんなんて言いやがったら、その顔から生皮を剥いで醤油につけて喰ってやるからな」

 バックミラー越しに見える不吉な顔を見ると、どうにも冗談には聞こえない。だいたい、今、この車を運転しているのはケリーなのだから、彼に危害を加えれば車は制御を失い大事故を起こして全員お陀仏である。普通の人間なら、そんなことをするはずがない。
 だが、この少女の眼が、あたしは本当にやるぞと叫んでいた。
 ケリーは肩を一つ竦めて、少女に降参の意を伝えた。全く、最近の女どもは、どうしてこうも恐ろしい、否、たくましいのだろう。

「おい、海賊、今のはどう考えてもお前のほうが悪いぞ。メイフゥ、すまなかった、この無神経な男に代わって、非礼を詫びさせて欲しい」
「いいって、お姉様はちっとも悪くないんだから。悪いのは、そこの色男の頭の中だけだよ」

 あっけらかんとした様子で、メイフゥは答えた。
 にもかかわらずジャスミンは、別に飲み物を口に含んでいたわけでもないのに、大きく吹き出すはめになった。
 ケリーも、危うくハンドル操作を誤りそうになった。

「お、おねえさまだと?」

 助手席から振り返ったジャスミンが見たのは、自分を熱っぽい視線で見る、少女の瞳だった。
 その少女は、嬉しそうに頷いた。

「ああ、あんたはあたしのお姉様だ。もう決めたんだ。あのバックドロップ、本気で死ぬと思った。それを、三回も……。痛かった……。あんなのは、生まれて、初めてだった……」

 感じたぜ、と呟いたメイフゥは、思わず熱い吐息をはきだしていた。
 ぺろりと、驚くほどに長い舌が、艶やかな唇を舐める。たっぷりとした唾液が唇をコーティングし、エロティックな輝きを帯びる。もとが整った容姿だけに、とてつもなく淫靡な雰囲気を醸し出している。
 どこからどう見ても、未成年の少女には見えない。それどころか、名うての商売女であったとしても、これほど官能的な表情を作ることの出来る者がどれほどいることか。
 ジャスミンの背を、冷たいものが走り抜けた。

「ちょ、ちょっと待て!君はこの男を種馬にしようとしていたんじゃなかったのか!?」

 ジャスミンには珍しく、狼狽えた様子で運転席に座ったケリーを指さす。
 自分の夫を身代わりに捧げるなど、夫婦の契りを立てた男女にはあるまじき裏切りだったかも知れないが、この場合は四の五の言っていられない。溺れる者は、藁だろうが夫の命綱だろうが、掴める物は何だって掴むのだ。
 そのケリーはといえば、当初の驚愕から立ち直り、予想外の告白劇を面白そうに眺めていた。自分に火の粉の降りかからない痴情のもつれ話ほど楽しいものは、この世に二つとないからだ。
 そして、当のメイフゥは平然とした様子で、

「それとこれとは別の話だ。あたしが子を産むなら、その男の種を頂くさ。でも、恋人と種馬は別だろう?」
「これはそれ以前の話だ!君は未成年だし、だいたいわたしには同性を恋人に迎える趣味はない!女ならば、正々堂々と男を銜え込むべきだ!」

 よく分からない理屈で、ジャスミンは反論した。
 だいたい、あまりに男前のジャスミンであるから、今までだってその手のお誘いがなかったわけではない。
 軍隊に入り、強面の男どもを片手でぽんぽんとやっつけていくジャスミンは、女性隊員のあこがれの的だったのであり、狭い社会の中では、彼女に対して本物の恋愛感情を抱く女性も少なからずいた。
 だが、もちろんのこと、ジャスミンにその手の趣味はない。当然の如く、全てのお誘いを丁重にお断りしてきた。
 今回のそれも同じ事といってしまえばそれまでだが、自分とケリーの二人をたった一人、しかも素手で追い詰めるという人間離れした戦闘能力の持ち主である少女から、まさか愛の告白を受けるなどと、どこの誰が想像しうるだろうか。
 さらに付け加えるなら、その相手は自分達の孫と同じ歳の頃の、正真正銘の未成年である。
 どこをどう間違えたとしても、ジャスミンの食指が動くはずがないのである。
 そんな、慌てふためく女傑を眺めて、メイフゥは腹を抱えてけらけらと笑った。
 
「ああ、おかしい!冗談だよ、冗談!あたしも、お姉様と同じでどノーマル、女とベッドで乳繰りあう趣味はねえさ!」
「……冗談にしてはたちが悪いぞ」
「ま、お姉様が本気で乗ってくれるなら考えないでもなかったけど、そこまで鳥肌を立てられたら、やる気の一つも失せるってもんだろう?そこの色男のお兄さんも、心配しなくったって奥さんを手籠めにしたりしないから、安心しな!」
「ああ、そりゃあほっとしたぜ!」

 ケリーも腹を抱えて笑っている。
 そうすると、一人しかめっ面をしているのが流石に馬鹿らしくなったジャスミンは、体内の圧力レベルを下げるように鼻をふんと鳴らした。

「だいたい冗談が終わったなら、そのお姉様とかいうふざけた呼び方も止めたらどうなんだ」
「おや?お姉様が駄目なら、ジャスミン様のほうがいいかい?」

 まじめな顔で、そんなことを言う。
 ジャスミンは、がっくりと肩を落とした。ケリーは、火がついたように笑った。

「もう、お姉様でいい……」
「そうだろう?なにせ、お姉様はあたしを正面から叩きのめしてくれたんだ。しかも、素手でだぜ?故郷の男どもだって、そんなことは誰一人出来なかった。少しぐらい敬わせておくれよ。これぐらい我慢してくれないと、嘘ってもんだぜ」
「敬うにしても、もう少しやり方があるのではないのか……?」

 妻の呟きを聞いたのは、幸いなことに夫だけだった。
 そして、それと同時に妻は、夫の脇腹を思い切りに抓くってやった。
 ケリーの、悲しげな声が車内に満ちた。

 その後、車内でお互いの情報を交換した。
 メイフゥは真実ジャスミンに対して敬意を抱いていたから、自分達の情報を包み隠さずにしゃべった。
 自分達が資源探索者であること。
 仕事の途中でレーダーにかからない不思議な居住用惑星を訪れ、そこでウォルを保護したこと。
 借金に首が回らなくなって、この星に逃げ込んできたこと。
 この国で、彼女たちの保護者代わりの人物──ヤームルというらしい──が旧知の人間と再会し、友の死を知らされたこと。
 その無念を晴らすために、この星で戦っていること。

「……なるほど、そういうことか……」
「細工は流々、あとは仕上げをごろうじろってわけには中々いかないのが正直なところでね。どれだけ奴らの大本を辿っても、どっかでぷっつりと途切れちまうのさ。やつらにはこっちの居場所もばれちまったみたいだし、力業でガンガンいくもの限界っぽいね」

 メイフゥはふてくされたように言って、大きくあくびをした。
 人目を憚ろうともしないその様子は、やはり年頃の少女は言い難い風情である。
 
「そうか、そのヤームルとかいうお人は、海賊だったのか……」

 ジャスミンがしみじみと呟いた。
 彼女にとっての海賊という単語は、およそありとあらゆる感情の坩堝と表現しても過言ではない。
 自分の夫が海賊なら、自分の息子を助けてくれたのも海賊。自分の父親だって、海賊まがいの宇宙の男であった。
 だが、今、彼女の息子の安全を脅かしているのも海賊であり、彼女自身だって幾度となく命を危険に晒されている。
 憎しみと愛着。憧憬と侮蔑。相反する様々な感情が、そのたった一つの単語に揺り起こされる。
 それが、不思議と不快ではない。
 ジャスミンにとっての海賊とは、そういう言葉であった。

「君は、その人のことが、好きなのだな」
「ああ、大好きだぜ。あれでもう五十歳、いや、四十歳も若けりゃほっとかねえのになぁ……」
「おや、年上の男性は苦手かな?」
「別に。男は女と違って打ち止めがないからね、男前でありさえすりゃあ、どれだけ年上だってかまやしねえよ。でも、あっちが相手にしてくれねえんだもん。仕方ねえじゃん……」

 少女は、とろりと落ちてくる瞼を、ごしごしと擦った。
 先ほどまで溌剌としていた様子が嘘のように、静かになっている。
 無理もないだろう。特殊部隊を相手に大立ち回りをし、そのあとでケリーとジャスミンの二人を相手にしたのだ。疲れないほうがどうかしているのである。
 その様子には気がついていたが、隠しきれない興味を浮かべて、ケリーが問うた。
 
「じゃあ、そのヤームルっていう男は、どこかの一味に加わっていたんだろう?」
「ああ、そう聞いてるよ」
「じゃあ、どこの一味だったんだ?差し支えなけりゃ、教えてくれるとありがたい」
「……どうしてそんなことを知りたがるんだい?」

 メイフゥは不審げに眉根を寄せたが、ケリーは朗らかな口調で、

「なに、ここ最近は昔なじみと顔を合わせることも少なくなっちまってね。そういう話なら、聞けるだけ聞いておきたいのさ」
「昔なじみ?おかしな事をいうねぇ。あんた、どこからどう見たって、ヤームルの昔なじみって歳には見えないんだけど」
「確かに、その男と顔なじみかどうかは知れないがね。一昔前の海賊たちとは、けっこう付き合いが広いんだぜ?」
「ふぅん……。ま、別にいいけど」

 ケリー自身、海賊と呼ばれる一団に所属したことはない。加えて言えば、世間一般で言うところの海賊行為の片棒を担いだことも、一度だってない。
 だが、ある時期において、ケリーは彼らと共に宇宙を駆けた。それは時に友として、あるいは商売敵として。鼻持ちならない連中も多かったが、気の置けない連中も多かった。
 そして、今の時代に生き残っているのは、ほとんどが鼻持ちならない連中の方だ。気の置けない連中、気のいい連中は、時代に取り残された自分を恥じるかのように、静かに身を引いていった。
 ゲートを用いた長距離制限ワープ航法からショウドライブを用いた短距離無制限ワープ航法へと時代は移ろい、海賊たちが必ず持っていた秘密のゲートはほとんど意味を成さなくなった。重力波エンジンを積んだ船ではショウドライブを用いて短距離ワープを繰り返す船を追いきれないし、ショウドライブを積んで追いかけたのでは結果としてより高性能な軍艦に捕縛されてしまうのである。そして、その両方のエンジンを積み込めるような船は、大型戦艦を除いては、本当に限られた船しか存在しなかったのだ。
 結果として残ったのは、電撃的に客船を襲い、自分達の居場所が知れる前に乗員を皆殺しにして積み荷を奪い取るという、中世の山賊と代わらないような無法の輩のみである。
 ケリー自身が海賊たちの命脈に終止符を打ったといっても過言ではないのだろう。だが彼は、寂しさを覚えることはあっても、申し訳なく思ったり、自分の行動を後悔したりはしなかった。ショウドライブというすばらしいシステムは、自分が世に送り出さなくてもいずれ誰かが発見し、世に送り出していた品物だからだ。そのことで彼の愛した海賊たちが生き場を失ったとするならば、それは時代に適応できなかった彼らの責任である。
 まかり間違えても、ケリーの知る海賊たちは、その一事でもってケリーを恨んだりはしない。しないはずだ。もしかしたら売り上げの一部を寄越せとでも脅しつけたかも知れないが。
 ケリーは苦笑した。自分が古馴染みを懐かしいと思うなど、意外なことだったからだ。
 もしかしたら、少し前に一人の老ゲートハンターと出会ってから、その思いが強くなったのかも知れない。
 その老人の親分だった男は、既にこの世を去っていた。殺しても死なないと思っていた男が、意外なほどにあっさりと死んでいた。その知らせを聞いたとき、ケリーは理由もなく身を切られるような寂寥感を味あわされたのだ。
 そんなケリーの思いを汲んだわけではないだろうが、メイフゥは誇らしげに胸を反らし、ヤームルの属していた一味のことを語り始めた。
 
「ヤームルが何ていう一味で飯を食ってたのか、ちゃんとした名前は知らない。でも、この宇宙で一番大きくて、一番精強な海賊たちが集まっていたんだ。その海賊艦隊の行くところ、連邦軍の艦隊だって恐れをなして逃げ出した。まさに、向かうところ敵無しだったんだ」
「へぇ、そいつはすごいな。なら、きっと俺も知ってる一味だと思うぜ」

 連邦軍と正面から戦える海賊など、本当に存在するはずがない。どれほど大きな海賊団であっても、精々哨戒艦隊とドンパチやって引き分けに持ち込めれば万々歳といったところのはずだ。だからこそ、海賊は自分達のゲートに拘ったのだし、その縄張りを死守しようとした。
 少女の言うことは、話半分どころか、三割、いや、二割で正答と考えるべきか。
 しかしケリーは、頭のどこかに、少女の言っていることを信じたがっている自分がいることを自覚していた。
 ジャスミンは隣に座ったケリーの顔を、ちらりと見た。
 ケリーは、唇の片側をつり上げて、不敵に笑っていた。その笑みが意味するところは、妻であるジャスミンにも分からなかった。

「じゃあ、他に何か、その海賊団のことで知ってることとかはねえのか?」
「あるさ。とっておきのやつがな」
「へぇ、何だ、そいつは?」

 メイフゥは、焦らすように一拍おいて、誇らしさに満ちた声で言った。

「聞いて驚けよ。その一味を率いていたのはな、何を隠そう、伝説の海賊王だったのさ」

 彼女の一言が爆弾だったとすれば、それは効果的に破裂したとは言い難かった。
 ケリーもジャスミンも耳を疑ったが、それは信じられないという驚愕ではなく、どう考えてもおかしいという疑念からである。
 運転中のケリーに代わって、ジャスミンが後部座席を振り返り、

「試みに問うが、それは、広く一般に知られるところの海賊王のことでいいのかな?」
「もちろんだ。最近話題になってるじゃねえかよ、トリジウム鉱山を個人で秘匿し、無数のゲートを隠し持ち、連邦軍だって共和警察だって一度も捕まえられなかった伝説の海賊。それが、一味の頭だったんだ」

 熱っぽく語ったメイフゥだったが、ジャスミンの首はどんどん傾いていくばかりである。
 なにせ、ジャスミンは伝え聞いたのではなく、知っているのだ。海賊王と呼ばれる男が、決して組織の頂点には立たない男であることを。
 彼女の代役としてクーア財閥のトップを受け継いだことはあっても、それはただ妻の大切なものを守り、妻に返すために努力した結果であって、男自身が望んだことは一度もなかったはずである。
 その男が、他でもない海賊団の頂点に立っていた?
 彼女は四十年の長きを眠り続け、世俗のことには疎いと自分でも思っているが、それだけはあり得ない。あり得ないと断言できる。
 ジャスミンは、我知らず疑わしげな顔をしていた。だが、メイフゥはそれを見ても驚かないし、気を悪くした様子もない。むしろ当然というふうに頷いた。

「その顔、やっぱり信じてねえな」

 ジャスミンの返答は、簡潔だった。

「ああ、到底信じることが出来ない。無論、全面的に君を疑っているわけではない。きっと君の言うところの海賊団は確かに存在したのだろう。だが、その頂点に立っていたのは、巷で海賊王と呼ばれる男ではなかったはずだ。それだけは断言できる」
「そこまで言うってことは、お姉様、海賊王を知っているのかい?」

 鋭い質問であった。単純であるだけに、避けることが難しい。
 それでも人生経験の豊富なジャスミンである。海千山千の古狸連中相手に交渉事を繰り返してきた、クーアの二代目でもある。自分の背後に座った年若い少女を煙に巻くくらい、何ほどでもなかっただろう。
 だがジャスミンは、この少女の問いをかわそうとはしなかった。無論、嘘を吐くわけでもない。
 正直に答えた。

「ああ、知っている。よく知っている」

 それが隣でハンドルを握る男である、とまでは言わないが。
 
「ほんとかよ!?じゃあお姉様は、その男がどこにいるのかも知ってるのか?」
「ああ、知っている」

 隣でハンドルを握っているのだ。
 ジャスミンは、内心でとても愉快だった。隣にいる男が、どうにもむくれたような表情をしているのが一層楽しい。
 先ほどの仕返しとばかりに獰猛な笑みを浮かべるジャスミン。
 しかし彼女に向けられた次の言葉は、流石に予想を超えていた。

「じゃあさ、今度会わせてよ、絶対に!約束だぜ!会わせてくれなかったら恨むからな!」
「おい、わたしは一言だって、そんな約束をした覚えはないぞ」
「覚えのあるなしじゃあねえんだ!あたしは、絶対にその男に会わなけりゃいけないんだよ!」
「どうして?」

 メイフゥは、一つ大きく息を吸い込んで、

「決まってる!海賊王って呼ばれた男が、あたしら姉弟の実の父親なんだ!」
 

 すうすうと、可愛らしい寝息が、車内を満たしている、
 後部座席で丸くなった少女──メイフゥは、あの後、楽しみだ絶対に会ってみせると一頻り喚いた後、糸が切れるようにして眠りに落ちた。
 おそらくは相当の疲労が溜まっていたのだろう、今は、身動ぎしないほどに深い眠りの中にいる。
 翻って前方座席を見てみれば、運転席でハンドルを握る夫と助手席で腕組みをする妻は、終始無言だった。
 その無言が、ケリーなどにはとても怖い。別に彼自身疚しいことをした覚えはない──こともないのだが、それを怒られる所以はないはずである。
 だいたい、この夫婦は、お互いがお互いを拘束することを望んでいない。ケリーはジャスミンが隣にいてもあっさりと道行く女性に声をかけたりするし、ジャスミンはジャスミンのほうでも、魅力的な男性に声をかけられればケリーの傍から離れていったりもする。
 そういうとき、無言の了解として、お互いの行動に口は挟まない。
 もちろん、愛情が冷めているとかそういう理由からではない。逆に言えば、どんな異性に靡いたとしても最後は自分のところに帰ってくるだろうという、不撓不屈の愛情があるわけでもない。
 ただ、彼らにとっては、それが自然だからだ。美しい女性がいれば声をかけ、好ましい男性から食事に誘われれば無碍に断ったりはしない。
 そしてそれ以上に、彼らはお互いが共にいることを自然だと思っていた。そして、相手もそう思っていることを知っていた。それだけの話だ。
 だから、例え一晩の過ちから成った種があったとしても、それを非難されるいわれはない。ないはずであった。
 第一、この少女の話しぶりからすれば、彼女たち姉弟の父親であるという海賊王と、自分が一緒であるとは、ケリーには到底思えない。
 ああ、そうだ。俺はこの娘の父親なんかじゃない!
 だが、その反論がこの状況では如何に寒々しいものか、ケリーは知り尽くしていた。

「あのよ、女王……」
「わたしが眠っている間も、さぞお盛んだったようで何よりだよ、海賊」

 この、美しく輝く金色の瞳を向けられて、冷や汗を流さない男が、この女の知り合いに一人だっているだろうか。
 いや、いるはずがない。

「おい、一応は言わせてもらうがな──」
「冗談だ。そんなに怒るな、可愛すぎて抱きしめてしまいそうになる」

 ジャスミンは、口元に手を当てて、くすくすと笑った。
 ケリーは、憮然とした表情で肩を揺すった。

「冗談にしても、そいつはあんたにしちゃあタチの悪い冗談だ。寿命が一年は縮んだぜ」
「そうか、ちょうどいいじゃないか。人より二倍も長生きしているんだから、そういうことも度々あれば不公平が少なくなる。そうすれば、変なことで嫉妬を覚える連中も少なくなるんじゃないか?」

 ジャスミンは、ケリーの若返りの秘密を暴こうとして自滅していった、何人かの老人の顔を思い出していた。

「それにしても海賊、お前も、こんなことで人並みに動揺するんだな」
「全くの童貞以外で、見ず知らずの子供が自分のことをお父さんって呼んで動揺しない男がこの世にいるなら、その顔を拝んでみたいもんだ。俺は無条件にそいつのことを尊敬する自信があるね」
「その点、女はいいな。自分が生んだ子供は、種が誰のものであっても自分の子供だ。疑いようがない」

 的の外れたことを、ジャスミンが言った。
 ケリーは、無言で肩を竦めた。
 それから二人は、無言で車を運転した。
 車内には、時折少女の寝息が響く程度で、ほとんど何も聞こえない。
 周囲の景色はどんどん寂しくなり、ヘッドライトの灯り以外は漆黒の海の中に沈んでいる。
 すれ違う車もない。本当にこの世の道を走っているのか、疑ってしまうような孤独の中に、その車はあった。
 まるで、黄泉路を走っているようだと、ケリーは思った。
 二人は、その間も無言だった。
 やがて、遠く先の方に、ほのかな灯りが見えた。
 人家だ。山の麓、到底こんなところに人が住むとは思えないような場所に、人家がある。
 さきほどメイフゥが設定したナビゲーションシステムも、そこを目的地としているようだった。

「ようやく到着か」
「さて、ウォルは怪我をしているらしいが……大丈夫かな」

 緊張から解放されたからだろう、二人の声にも安堵の色が濃い。
 車は、静かに人家の少し手前で止まった。
 あらためて全景を見ると、それほど大きくはないが、隠れ家としてはちょうどいいくらいかもしれない。
 二人は、ほとんど同時に車から外に出た。
 メイフゥは、とりあえずそのままにしてある。今起こすよりも、寝かしたまま後で部屋に運んでやればいい。あの眠りようでは、抱きかかえたくらいでは眼を覚まさないだろうから。
 ケリーが先に門の前に立つ。
 そしてそのまま立ち止まった。

「……どうした、海賊」

 後ろから、ジャスミンの訝しげな声が聞こえる。
 
「……女王。さっき、あの嬢ちゃんの一味は何人だって言ってた?」
「……確か、ヤームルとかいう初老の男と、メイフゥ自身、その弟に、あとはウォル。全部で四人だったと聞いているが」
「なら、どうしてあの家の中には、十人を超える人間がいやがるんだ?」
「なに?」

 ジャスミンの体に、緊張が走った。
 この男は冗談好きで油断のならない人間だが、しかし時と場所というものを人並みには弁える人間でもある。
 こんな状況で、笑えないジョークを口にしたりは決してしない。
 
「……どういうことだ」
「状況は、予想以上に不味いかもしれん」

 声を潜めて会話をしていた、その時。
 人家の一階部分の、小さな窓ガラスが割れる音が、二人のいるところにまで響いてきた。
 すわ何事かと、二人の視線が集中する。
 きらきらと、星明かりに煌めくガラスの破片。
 その中に、銀色の頭をした少年が、倒れていた。

「そこにいるのは、ケリーどのか!?」

 聞き覚えのある少女の声が、自分の名を呼んだ。
 見れば、割れた窓の奥に、青白い少女の面立ちがある。
 間違いなく、黄金狼の伴侶である、あの少女だった。

「ウォルか!?」
「インユェを──その少年を連れて、逃げてくれ!」
「なんだって!?」
「詳しいことは後で話す!俺のことはいいから……!」

 少女は、最後まで自分の意志を伝えることができなかった。何者かの手が少女の口を後ろから塞ぎ、闇の中に引きずり込んだからだ。
 ケリーとジャスミンは、窓のそばまで駆け寄り、ガラスの破片の中で倒れ伏す少年を、助け起こした。
 細かいガラス片で小さな怪我を負ってはいるものの、どれも命に関わるような怪我ではない。
 ケリーはとにかく少年を担ぎ上げ、車まで走った。ジャスミンも油断無く銃を構えたまま、それに倣う。
 少年を、後部座席に放り込む。それでもなお、少年の姉である少女は、目を覚まさなかった。
 ジャスミンは、歯ぎしりをする思いだった。
 間に合わなかった。どういう理由かは定かでないが、ウォル達の隠れ家は敵に捕捉されていた。そして、自分達が到着する前に、既に制圧されてしまっていたらしい。
 さしものウォルも、相手が多勢に無勢、そして手負いの身とあっては、少年を家の外に投げ出すので精一杯だったのだろう。
 ウォルは、敵の捕虜だ。もう一人のヤームルという男は、既に殺されていると見るべきだろう。
 どうする。どうやって、この失地を挽回する。
 ジャスミンが、己に対して絶望的な問いかけを繰り返していた、その時。
 彼女の夫たる青年が、表情を消しながら言った。

「……女王、あんたはこのまま車に残ってくれ」
「どうするつもりだ、海賊」
「やっこさん達と話し合って見るさ。意外と話の分かる連中かも知れないぜ?」
「正気か海賊!?」

 ジャスミンは思わず声を荒げていた。
 
「任務を帯びた軍人に、話し合いが通じるとでも思っているのか!」

 軍隊に身を置いたことのあるジャスミンだから分かる。
 一度動き出した軍部というものは、堰を切った河の氾濫に似ている。水一粒の意志がどうであっても、そんなことはおかまいなしに、全てを飲み込んでいくのだ。
 それに逆らおうとするならば、より大きな流れをぶつけて氾濫そのものを制する以外、方法は無いのである。いわんや、話し合いの余地などあろうはずもない。

「そんなこと、俺だって重々承知してるさ」
「なら──!」
「だがな、女王。いま、あの家の中に人間の死体は一つもないぜ。一つもだ」
「……なんだと?」

 それはおかしい。
 彼らの任務は、ウォルの身柄の確保と、その周囲の人間の抹殺だったはずだ。それは、あのダイアナが確認したのだ。誤りようがない事実であろう。
 なら、あの家の中に、少なくとも一つは死体が転がっていなければならない。ヤームルという、ウォルの周囲の人間の死体だ。
 それがないということは、つまり、この家を制圧した部隊は、先ほど店を襲撃したのとは違う指揮系統にあるということになる。
 だが、だからといって話し合いに応じるとは、到底思えない。

「それに、あの家の窓という窓から、こっちを狙った銃口が差し向けられてやがる。なのに、一向に引き金を引く気配がないんだ。これはちっとばかし妙だぜ」
「……わかった。なら、わたしも行く」
「馬鹿を言うな。あんたはメイフゥとの一戦で、今日のところは出涸らしさ。あの黄金狼の同盟者を取り押さえた部隊と、もう一戦やらかせるとでも思ってんのか?本当にそう思ってるならついてくるがいいさ」

 ジャスミンは、言葉を飲み込んだ。
 確かに、あの戦いは、お互いの死力を尽くした戦いだった。
 正直なところ、今の彼女の体に、激しい戦闘に耐えうるだけの体力は残されていない。メイフゥの鋭い蹴りをくらった腹部は激しく痛み、今だって浅く呼吸をするのが精一杯といった有様だし、頭もがんがんと疼く。筋肉は、そこかしこで断裂寸前の悲鳴を上げている。
 今の状態で得体の知れない敵とことを構えるのは、無謀を越えて自殺行為というべきだった。

「……わかった。だが、無茶はするなよ。お前が死ぬと、ダイアナが泣く」
「ああ、さっきからうるさいんだ。こいつは、ここに置いていくぜ」

 ジャスミンは、信じられないものを見た。
 ケリーが、手首に巻いたダイアナとの通信装置を外し、空になった助手席に置いたのだ。

「海賊、何を考えている!」
「勘違いするなよ。これは、辛気くさい形見なんかじゃあねえぞ。俺がやつらにひっ捕まったときは、あんたとダイアンだけが頼りなんだ。心配しなくても、俺とダイアンは右目を通じて繋がっている。だから、そんな泣きそうな顔、しなさんな」
「誰が泣きそうだ、誰が!」

 むしろ大噴火寸前の巨大火山のような顔色で、ジャスミンがうなり声を上げた。
 だが、ケリーの判断そのものは正しい。
 こういった事態に陥ったときに最も頼りになるのは、間違いなくダイアナの情報収集能力と、情報操作能力である。彼女との繋がりが分散できるのであれば、それをしておくに越したことはない。
 ジャスミンは、ケリーの半身とも呼べる通信装置を受け取った。
 それを見て、ケリーが頷く。

「じゃあ、ちょっくら行ってくるぜ」
「ちょっとだけだぞ。あまり長引いたら、許さんからな」

 ジャスミンの視界に映ったケリーの後ろ姿が、少しずつ闇に飲まれ、小さくなっていった。

「おい、聞こえてるんだろう!?ちょっくら話し合いといこうじゃねえか!なに、下手な悪あがきなんて考えちゃいねえよ!それとも、そんなに俺が怖いかい!?」

 ケリーが朗々たる声で叫んだ。
 台詞はなんとも陳腐なものだったが、この状況で、少しも声を震わせることなく堂々と言えるのは、彼が海賊王と呼ばれた男だからできる芸当だ。
 ジャスミンは、両手で愛銃を握りしめ、何かに祈った。
 何でもいい、神様でも、精霊でも、この際魔物だっていい。
 どうか、あの男を殺さないでくれ。あの男を、この宇宙から奪わないでくれ。あの男のいなくなった、色を失った宇宙など、死んでも見たくないんだ!
 その声に応えたわけでもないだろうが、ケリーの声に応えたのは、銃声ではなく人の声だった。
 それも、年若い少女の声だ。

『こちらも、無駄な争いは望まない。まして、無益な殺生は好むところではない。話し合いには応じさせてもらおう。ただし、君たちの無条件降伏を前提とした話し合いならば、だ』
「へぇ、そいつはなんとも虫のいい話だねぇ。これでも俺もそこにいる女も、腕っぷしにはちょいと自信があってね。あんたらのうちの何人かを道連れにするくらいなら、別に難しいことじゃあないんだぜ?」
『我々は、同胞の一人や二人が死ぬことなど、任務遂行上の障害であるとは認識しない。もっと簡単にいうならば、やるならやってみろこちらには受けて立つ用意があるぞ、ということになるかな』

 くすくすと、家のあちこちから忍び笑いが漏れ出した。そのどれもが、年若い少年少女の笑い声だった。
 どうやらあの家を制圧した連中は、相当に茶目っ気があるらしい。普通の軍人であれば、こんな馬鹿な問答などには耳を貸さず、迅速に己の任務を遂行するものだ。
 これならば、何とかなるかも知れない。
 ジャスミンの胸に、淡い期待が点った。

「いいだろう、お前達の望みは何だ!?どうして雇われた!?金か!?もしそうなら、俺が、浴びるほどにくれてやるぜ!一生喰うに困らないだけの金をくれてやる!その代わり、ウォルって女の子と、ヤームルってじいさんを解放しろ!」
『駄目だな。我らはヴェロニカ特殊軍の軍人だ。命令を金銭で購うほどに、恥知らずではない』
「とにかく、顔の一つも見せてみろよ!それが交渉の礼儀ってもんだろうが!」

 ケリーの交渉は、全くもって交渉術の初歩も弁えない無茶苦茶なものだった。
 だがジャスミンは、この方法が間違えていないと確信した。
 ケリーと少女は、どこかで息が合っている。馬が合うというのだろうか、会話のリズムがいい。
 これは、交渉が上手くいっているときの兆候だ。
 それを示すように僅かな空隙が生まれ、玄関のドアが開く重たい音が響いた。

「これでどう?満足した?」

 やはり声は、年若い少女のものだった。
 ジャスミンからは、遠すぎて、そして暗すぎて、その少女の顔ははっきりと見えない。
 ただ、星の光を跳ね返す、赤茶けた髪の毛だけが、不思議と印象に残った。
 
「わたしたちの目的は、あの少女と、彼女に近しい人間を我らの主人の城に招待することよ。それも、できるだけ穏便にね。当然、あなたも任務対象に含まれるわ。むしろ、あなたは特に歓待するように申しつけられているの。だから、大人しくしたがってくれると嬉しいんだけど」

 なんとも蓮っ葉な口調だが、それが少しも嫌みではない。それは、少女の言葉のどこにも、自分が事態をコントロールしているという優越感が存在しないからだ。
 ジャスミンは、注意力の全てを聴覚に雪いだ。会話の一つも聞き逃すまいと。
 そして、聞こえた。
 闇夜に、男の喘ぐような、浅い呼吸が響いてくるのを。
 
「……どうしたの?わたしの顔に、何かついてる?そんな、死人でも見つけたような顔して」
「どうして……どうしてお前がここにいる!いや、どうしてお前が生きている!」
「……あなたの言っていることが、ちっとも理解できないわ」
「お前がどうして生きているんだと、そう聞いているんだ!答えろ、マルゴ!」

 ジャスミンは、我が耳を疑った。
 ケリーは、確かに叫んだ。マルゴ、と。
 それがどういう意味かを理解しない彼女でなかった。
 マルゴ。マルゴ・エヴァンス。西ウィノア特殊軍の、少女。ウィノアの大虐殺で、雑草を刈り取るように、奪われた命。
 そして、ケリーの、初恋の少女。
 彼女は、死んだ。他ならぬケリー自身の腕の中で、冷たくなっていったと聞いている。
 ならば、先ほどのケリーの叫びは、どういう意味だ。
 いや、そんなことは、今はどうでもいい。
 大事なのは、ケリーをしてマルゴと呼ばせる少女が、自分達と敵対したということ。
 そして、そのことはたった一つの事実を指し示している。
 ケリーは、その少女には、決して勝ち得ない──!

「……へぇ、どうして知っているのかしら、そうよ、わたしの名前はマルゴ。マルゴ・レイノルズ特殊軍大尉。一応、初めましてのはずよね、ケリー・クーアさん?」
「女王、何してやがる!逃げろ!さっさと逃げろ!」

 ジャスミンは思い切りに車のアクセルを踏み込み、強引に車をスピンターンさせた。
 そして窓を開け、叫んだ。

「海賊、死ぬな!絶対に迎えに行く!だから、絶対に死ぬな!」

 返答を待つ間もなく、車は走り出した。
 誰もそれを妨げようとしない。狙撃されることもなかった。
 ただ、遙か後方で、銃声が数発、鳴り響いた。

「ちくしょうっ!」

 ジャスミンは、固く握りしめた拳を、思い切りダッシュボードに叩き付けた。
 スピードメータの針が、悲しげに折れ曲がった。



[6349] 第四十一話:瓢箪の中
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/29 23:19
「何のつもりなの」

 少女の低い声が、男の耳朶に響いた。
 闇である。
 暗い闇の中に、二人はいる。
 闇の中に、あたりの山から下りてきた木々の匂い、土の匂い、川の匂いが溶けている。
 遠くから聞こえる虫の音も、天球を埋め尽くす満点の星明かりも、体を撫でる風の気配も溶けている。
 無ではない、濃密な闇の中に二人はいる。
 二人以外にも、いる。
 家の中に、いくつもの気配がひしめいている。窓からこちらを覗いている気配が、いくつもある。
 車の、激しく吠えるエンジン音が、少しずつ闇に溶けていく。音が遠ざかるというよりは、音が闇に飲まれていくような感じがする。
 車は、男の妻を乗せているはずであった。後部座席には、先ほどの激戦の敵手であった少女と、おそらくはその少女の弟である少年を乗せている。
 ある意味では、男は一人だ。男の前に立つ、無骨な迷彩服に身を包んだ赤毛の少女は紛れもなく彼の敵であり、男をおもしろ半分に眺めるいくつもの視線もまた、彼にとっての敵であるはずなのだから。
 だが、男にとって、今は少女と二人であった。
 二人の間にある10メートルほどの空間が無いように、男と少女は二人で立っていた。
 
「何のつもりなのかと、わたしは聞いているんだけど」
「仕方ねえだろ。口に突っ込みたいのはやまやまだが、そうするとお前さんと話せないからな」

 男は──ケリーは、なんとも不本意そうな表情で、愛銃の銃口を、自分のこめかみに押しつけていた。
 まるで、これから拳銃自殺を試みるかのような、異様な格好である。
 なのに、その表情は、あまりに飄々としている。
 酒場で冗談を言い交わす若者のように、口元に緩やかな笑みを浮かべたまま、銃口をこめかみに押しつけているのだ。
 それでいて、彼の立ち姿のどこにも、死の気配がない。
 もしも彼の表情に今と違う感情が浮かんでいたならば──例えばそれが怒りでも、悲しみでも、苦しみでも、狂気でも、無表情であったとしても、それはこの世に別れを告げようとする男の、最後の瞬間にしか見えなかっただろう。
 
「こめかみを撃つと、意外なくらいに死にきれない場合が多くてよ。俺も、痛いのは好きじゃあねえんだ。口に銜えてずどんとやれば、痛いと思う暇もなくあの世行きだからな。どっちが楽かなんて、言うまでもねえや」
「質問を代えるわ。ケリー・クーア、拳銃自殺の真似事をして、あなたはわたしに何を求めているのかしら?」
「今、車で逃げていくあの女に、一切の危害を加えるな。もしも妙な真似をしたら、生かしちゃあおかないぜ」
「誰が、誰を?」
「俺が、俺の銃口の先にいる人間を、だ」

 それは間違いなく、ケリー自身である。
 ケリーは、ジャスミンを見逃さなければ、己が死ぬと言っているのだ。
 己の意志で。
 そうすれば困るのはお前達だよと、優男のようににやついた瞳が言っていた。
 少女──マルゴは、あざけるように笑った。

「それを信じろというの?」
「いんや、別に信じてもらようなんざ思ってねえよ」
「じゃあ、わたしにどうしろと言うの?」
「ご随意に」
「あなたはわたしにどうして欲しいの?」
「あんたの好きにすりゃあいいさ」

 ケリーの受け答えははっきりとしている。
 そして短く、なにより無造作だ。
 何に執着しているふうでもない。
 例えばこうだ。
 マルゴとケリーの間にテーブルと小洒落た椅子があり、綺麗にクロスの掛けられたテーブルの上に、ティーセットと箱詰めされた色取り取りのケーキがあるとする。
 どれも美味しそうなケーキばかりだ。最初にどれを食べようか、目移りしてしまう。
 その時に、俺はどれでもいいからお前から選べよ、とケリーが言ったとする。
 そういうときに、今のような声で、調子で、ケリーは言ったかも知れなかった。

「ふざけてるの?」
「いいや、俺はまじめさ」

 銃口は、相も変わらず、ケリーのこめかみに突きつけられている。
 その銃を握っているのは、間違いなくケリーの右手だ。
 そして、彼の意志だ。
 それを見るマルゴは、すでに笑っていなかった。

「それで交渉のつもりなの?」
「そんな上等なもんじゃねえな」
「じゃあ何?」
「いたちの最後っぺ、負け犬の遠吠え、キツネと酸っぱいリンゴ……は、少し違うかな」
「負け惜しみ?」
「そんなもんさ」

 ケリーは呆れたように肩を竦めて、

「それとも、大人の意地ってやつだ」
「意地?」
「ここは俺たちの負けさ。それは、どうしようもねえよ。だがな、同じ負けは負けでも、納得のいく負け方と納得のいかない負け方ってやつがあるんだ。どうせなら、最後に一泡吹かせてやった方が、夢見がいいだろう?」
「どうせ同じ負けなのに?」

 マルゴも、薄く笑っている。
 紅を引いていないのに真っ赤な唇が、僅かに緩んでいる。
 酒場で女にこういう表情をさせたなら間違いなく男の勝ちだ、そういう表情で笑っていた。

「だから言ったろ。これは大人の意地なんだって」
「大人ってどういうこと?」
「つまらねえってことさ」

 我ながら気の利かないジョークだと、ケリーは思った。
 少女は、興の削がれたような顔で、右手を軽く掲げた。
 窓のいくつかで、銃口の降りた気配がした。

「いいわ、あなたのつまらない冗談に免じて、奥さんは見逃してあげる」
「やれやれ。相変わらずお前を笑わせるのは難しいな、マルゴ」
「何の話?」
「こっちの話だ」

 マルゴも、それ以上聞かなかった。

「あの方も、あなたの奥様はできればあなたと一緒に連れてきて欲しいって言ってたから。変に欲張ってあなたに死なれちゃ、本末転倒も甚だしいわ」
「へぇ。本当に俺が死ぬと思ったかい?」
「あなたが死ぬかどうかは別にして……引き金は、間違いなく引いたでしょうね」

 ケリーは嬉しげに頷いた。
 
「大根役者のへぼ演技でも、死ぬ気でやりゃあ何とかなるもんだな」
「とにかく、わたしはあなたの要求を飲んだのよ。その物騒なものは下ろしてもらえると助かるのだけど」
「ああ、そりゃあそうだ」

 ケリーは、右手を下ろした。
 マルゴが、左手を挙げた。
 直後、乾いた音が、屋敷の二階、窓の辺りで響いた。
 銃声であった。
 放たれた弾丸は正確にケリーの四肢を撃ち抜いた。

「がぁっ!」

 ケリーの口から、火のような叫びが漏れた。
 数歩、踏鞴を踏むようにして後ずさる。
 だが、倒れない。
 歯を食いしばりながら立っている。
 右手も、銃を取り落としてはいない。
 額に粘い汗を浮かしながら、しかし不敵な表情は普段の彼と寸分も変わるところはなかった。
 そして、それはケリーを眺めるマルゴも同じことだった。
 自分の命令で目の前の男の四肢に風穴を開けておきながら、涼しい顔で言った。

「またさっきみたいに馬鹿な真似をされても困るから。恨むかしら?」
「いや、当然の措置だろうぜ。ついでにこいつも抜いておくかい?」

 ケリーは大きく口を開けて、舌を動かしてみせた。
 唇からわずかに突き出されたところで動く赤黒い肉塊が、ちろちろと卑猥に動いている。
 俺はいつでもこいつを噛み切ることができるのだぞという、せめてもの抵抗であった。

「舌を噛み切った死体を、わたしはまだ見たことがないの。そんなことで人が死ねるなんて、信じられないわ」
「ああ、俺もそうだぜ。これでもけっこう長く生きてきたつもりだが、舌を噛み切って死んだ人間を、俺はまだ見たことがねえな」
「じゃあ、噛んでも無駄だと思うわ」
「そうかね」
「それに、あなたと話しているとけっこう楽しいのよ。だから、あなたが喋れなくなると、少しだけ嫌だわ」
「なら、こいつを引き抜くのは無しだな」

 流石に疲れたのか、血を流しすぎたのか、ケリーはその場に座り込んだ。
 水の跳ね散る音がした。
 闇に紛れてわかりにくいが、彼の足下には小さな水たまりが出来ていたのだ。
 赤く、鉄臭い水たまりである。
 ケリーの命そのもので出来た水たまりである。
 これ以上その水たまりが大きくなることは、その源泉であるケリーの死を意味するだろう。
 事実、寒さと恐怖以外のもたらす震えで、ケリーの体は細やかに震えていた。

「意地っ張り」

 マルゴが拗ねたように呟いた。

「今から止血をするけど、妙な真似をしたらただじゃおかないわよ」
「妙な真似っていうと?」
「おしりを撫でたり、耳に息を吹きかけたり、キスをしたり、とにかくそういうことよ」
「もし悪戯心を起こしたら?」
「あなたの粗末なモノを踏みつぶしてあげる」

 赤毛の少女は、奇妙に醒めた口調で言った。
 ケリーは苦笑した。

「残念だぜ」
「あなたって、少女愛好趣味があるの?」
「さぁてね。おじさんが怖いなら逃げ出してもらっても一向に構わねえんだぜ?」

 にやりと笑ったケリーを無視して、少女が近づいてくる。
 ベストのポーチから止血帯を取り出し、てきぱきとケリーの四肢に巻き付けていく。
 それだけで、出血は劇的に収まった。
 
「手際がいいんだな」
「慣れているからね」
「いつもこんなことばかりしているのかい?」
「それが仕事ですもの」
「そうか、お前はまだ、こんなことばかりしているのか」

 少女の顔には、何も浮かばなかった。
 間近に見る少女の顔は、ケリーの記憶にある、少女の顔であった。
 勝ち気で、太陽のようにきらきらと輝く、鳶色の瞳。
 柔らかにウェーブした、赤茶色の髪。
 健康的に日焼けした、小麦色の肌。
 全てが少女を形作る重要な要素であり、その悉くが少女のそれと一致していた。
 今、自分の目の前にいるのは、あの時、自分の腕の中で死んだ少女そのものである。
 その認識が、ケリーの心をどれだけ傷つけただろう。
 涙を堪えた幼児みたいに切ない表情のケリーが、少女の柔らかな髪に触れようとしたとき、少女は無慈悲に立ち上がった。

「さぁ、もう満足したでしょう?なら、そろそろ行きましょうか」
「どこへ?」
「私たちの主のところよ。でも、その前に……」

 マルゴはケリーに向かって、無言で手を差し出した。
 掌が上になっている。何かを渡せというアピールだろう。
 ケリーは嘆息して、

「今さら暴れたりしねえよ。おら、もってけ」

 激痛の走る右手を無理矢理に持ち上げ、愛銃を手渡した。
 やはり無言で受け取るマルゴ。安全装置を下ろし、懐にしまう。
 そして、もう一度手を差し出した。

「何だ、その手はよ。もう、何も持っちゃいねえよ」
「右足のブーツの中に、携帯用の拳銃が一丁。ベルトのバックルに、ナイフが一本」
「……ちっ」

 マルゴの言うとおりであった。
 いかにも渋々といった様子で、右足から拳銃を抜き取り、ベルトのバックルを外す。そこには、ぎらりとどぎつい輝きを放つ白刃が隠されていた。
 マルゴは、やはり無言でそれを受け取り、自分の懐に収める。
 そして、もう一度手を差し出した。

「何だよ、その手は。もう、逆さに振ったって何も出てきやしねえよ」
「右目」
「はっ?」
「わたしが気づいていない、それとも知らないのだと思われているなら、それは許し難い侮辱だわ。そこがあなたのトレードマークなんでしょう、義眼の海賊さん?」

 ケリーの顔が、険しいまでに強張った。
 目の前の少女は──マルゴは、自分のことをどこまで知っているのか。
 先ほどは、自分のことをケリー・クーアと呼んだ。
 この星に入国するときは、当然のことであるが偽名を使っている。ならば、その名前はどこから漏れたのか。
 そして、義眼の海賊という呼称である。
 この少女は、否、この少女が主と呼ぶ人物は、自分のことをどこまで把握しているのか。
 何のつもりで、この少女を、自分のもとへと遣わしたのか。
 ケリーは、自分の心が冷たく研ぎ澄まされていく感覚を味わっていた。
 そのとき、小屋のドアが、神経に障る軋み声を上げながら、ゆっくりと開いた。

「終わったかい、マルゴ」
「ええ、ザックス。怪我人は?」
「この元気なおじいさんに暴れられて、何人かやられた。ま、一晩寝れば治るくらいの怪我だけど」

 ザックスと呼ばれた少年は、その細い肩に、大柄な人間を担ぎ上げていた。
 その人間は、両手を後ろに縛られ、足にも頑丈そうなロープが巻き付けられている。
 例え猛獣でも、少しも抵抗出来ないような有様だ。
 そのうえ、意識はないらしい。

「お姫様は、アネットが確保したよ」
「手荒なことはしてないでしょうね?」
「おれ達はね。でも、正規軍の連中が、お姫様の足を撃ってた。傷はけっこう深い。ま、そのおかげで楽に捕まえることができたんだけど」
 
 マルゴが、忌々しそうに舌打ちをした。

「ったく、あの馬鹿連中、女の子に銃を向けるなんて、何を考えてんのかしら。だいたい、あいつらにだってお姫様を無傷で捕まえるように指令が出てたはずでしょ?本当に使えないぐずばかりなんだから……」
「ねぇ、この子、早くお城に連れて行ってあげよう?ほとんどちゃんとした治療もされてないよ。こんなの、可愛そうだよ」

 ザックスの後ろから、少女が姿を見せた。
 背中に、意識を失った少女──ウォルを負ぶっていた。

「アネット。お姫様は?」
「薬で眠ってるわ。でも、時々魘されてるみたいで苦しそうなの。ねぇマルゴ、早く帰ろう?」
「ええ、そうね。もうここには用はないわ。早く帰りましょう」

 ケリーは、彼らの会話をほとんど聞いていなかった。
 いや、より正確を期すならば、聞いていた。しかし認識することが出来ていなかったと表現するほうが正しい。
 ザックス・エヴァンス。
 アネット・エヴァンス。
 その名前は、マルゴの名前と同じく、ケリーの記憶の最も奥底、ジャスミンですらが暴き立てることに恐怖を覚える、決して暴かれざる場所に、大切に仕舞い込まれている、名前だった。
 そして、顔と声であった。
 西ウィノア特殊軍。ほこり臭く狭苦しい宿舎の中で、輝くように笑っていた笑顔。
 血と硝煙が香る見世物小屋の中で、共に石に齧り付きながら戦った、ピエロ仲間たち。
 その全てが、目の前にある。
 偽りではない。マルゴはマルゴだ。あの茶色の、悪戯気な瞳。あんなものは、今まで一度しか見たことがない。その閉じられて、永遠に開かれなくなる瞬間を、自分は確かに見たのだ。見せつけられたのだ。
 ザックス。いつだって俺に突っかかってきた。あいつも、マルゴのことが好きだったんだ。飯のとき、マルゴの隣の席に座りでもしたら、つんつんの髪の毛と同じくらいに背筋を突っ張らせてた。
 アネット。そばかすの散った、気弱そうな顔立ち。本当は戦うことが好きじゃないと言っていた。戦争が終わったら、お花を育てて生きていきたいと。いつだったか、俺のことを好きだと言ってくれた。俺は、他に好きな人がいると断った。
 酷い男だ。あんなに可愛い女の子を泣かせるなんて。
 昔のことだ。
 昔のことの、はずだ。
 みんな、死んでいた。くそったれな毒ガスで、保健所の犬猫を処分するみたいに、あっさりと、味気なく。
 なら、今、目の前で楽しげに会話をしているこいつらは、何なのか。
 幽霊や化け物であってくれれば、どれだけ気が楽か。俺が狂ってしまっただけなら、どれほど救われるか。
 ケリーは、この場にはいない、何かを司る絶対的な存在に、ありとあらゆる罵詈雑言をぶちまけながら特大の呪いを捧げていた。

「さ、あとはあなただけよ。あまりわがままを言うと、勝手に抉り取らせてもらうけど、それでもいいの?」

 マルゴが、差し出した掌を、くいと動かした。
 ケリーは無言で右目に指を突っ込み、いくつかの操作をして引き抜いた。
 昔、田舎海賊に毟り取られたときのように、血が溢れたりはしない。ただ、右目のあった場所には暗い、無限のように暗い眼窩が口を開けているだけだ。
 体液でぬらりと光る右目を、少女に放り投げた。

「おらよ。そいつは特注品だ。壊すと高いぜ?」
「心得ておくわ。それに、これはただ預かるだけ。折角、私たちの父があなたと会いたいって言ってくれてるのよ。無粋な人工頭脳に邪魔されちゃたまったもんじゃないわ」

 ダイアナのことを言っているのだ。
 マルゴはケリーの右目だった球体を、物々しい金属箱の中に仕舞った。おそらくは、電波を完全に遮断する類の箱だろう。
 念の入ったことだ。

「じゃあ行きましょうか。ケリーさん、あなたはどうするの?おんぶして欲しい?それとも、救急用担架で運ばれるのがお好みかしら?」
「そんなご大層なもんはいらねえよ。他人様の手を煩わせるまでもねえさ」
 
 ケリーは億劫そうに立ち上がり、風穴の開いた足で、ほとんど普通の調子みたいに歩いて、軍用のジープに乗り込んだ。
 自分が危地に陥っていることは、すでにダイアナに伝わっているはずだ。義眼を外しこちらの消息が途切れれば、彼女は嫌でもそれを知ることになる。
 以前のように、無秩序にすっ飛んでくるということは考えにくい。今は、ジャスミンという強力な仲間がいるからだ。彼女たちの間に築かれた信頼関係は、ダイアナの恐慌を押さえて余りあるだろう。そしてジャスミンとは連絡が取れる状態にある。
 ケリーは意味なく夜空を見上げた。そこに輝く星々のどれかが、ひょっとしたら顔を真っ青にした自分の相棒かも知れないのだ。
 悪いことをしたなと、この男らしくなく、少し落ち込んだ。

「これを着けて」

 隣に乗り込んだマルゴに、黒く分厚い布を手渡される。
 意味するところは明確だったし、断れば強制的に着けられるだけの話だ。
 ケリーは、痛みに震える腕で、それを顔に巻き付けた。
 視界の一切が奪われた。
 もともと、星明かりだけの真っ暗闇である。ケリーは夜目の利く方であったが、義眼を外された状態では、暗がりの奥を覗けるわけではない。
 そのうえ、分厚い布を顔に巻き付けては、ものが見えるはずもない。
 上手に巻けば、僅かな隙間からものが見えないわけでもないが、隣に座った少女がそれを許しはしないだろう。そんな姑息なことでかつての思い人に失望されるのは、どうにも嫌だった。
 だから、しっかりと巻き付けた。
 やがて、エンジンの吠える音が聞こえた。
 布の外の世界では、ヘッドライトの灯りがともり、暗闇の世界を僅かながらに押し戻したりしているのだろう。
 だが、ケリーにはどうでもいいことだった。

「ウォルと、ヤームルってじいさんはどうした?」
「別の車に乗ってるわ。心配しなくても目的地は同じよ」
「そうかい。じゃ、俺は少し眠るからよ。適当な頃合いに起こしてくれ」

 そう言ってケリーは、シートに深く体を埋めた。
 自分の体の状態は、嫌と言うほどに分かっている。極度の疲労に、いくつかの打撲傷。そして極めつけが四肢に開いた控えめな風穴である。
 眠れるときに眠っておかないと、動けなくなるという確信があった。例えそれが虎の巣の中でも、今喰われるわけでは無い以上、眠っておくべきだ。
 撃ち抜かれた四肢が、ずきずきと、心臓の拍動に合わせて酷く疼く。止血をしただけで、まともな治療はしていないのだ。常人であれば、気を失うほどの痛みである。
 だが、少なくとも、布の下に隠されたケリーの顔に、苦痛の色彩は全く無かった。
 車は、山道をしばらく走った。カーブを曲がる度に体に横向きの重力がかかり、傷が痛んだ。
 やがて、激しい振動が無くなる。綺麗に舗装された道路にかわったのだろう。そこを、山道を走った時間と同じほどに走った。
 
「降りて」

 マルゴの声がする。
 うとうととしていたケリーは、連れ出されるようにして車から降りた。
 そして、別の車に押し込まれる。

「おいおい、少しは手加減してくれよ。これでも怪我人だぜ」
「これ以上怪我を増やしたくなければ黙っていなさいな」

 ケリーは黙った。
 その車で、少しまともな治療を受けた。
 止血帯を外されて、傷口に応急処置的な治療を施される。増血剤は遠慮無く頂いたが、痛み止めの注射は断った。
 そして、次の車もしばらく綺麗な道を走った。
 途中、何度か耳の奥がツンと突っ張る感じを味わった。
 トンネルに入ったのか、それとも急激な高低差があるような道を走っているのか。エンジン音が籠もるように響くこともあった。
 どちらにせよ、そういう場所で、何度か車を変えた。おそらくはダイアナによる監視を巻くための処置だろう。彼女は優れた眼を持っているが、地下の隅々まで見渡せる千里眼を持っている訳ではなかった。
 しばらくは、ダイアナの救援を望むことはできないだろう。ケリーはそう考えた。
 そういうことを続けているうちに、車は目的地に着いたらしかった。

「降りて」

 今まで何度も聞いた指示である。
 ただ、今回はそれに、もう一つ指示が加わる。

「もう、その布を外してもいいわ」

 ケリーは遠慮無く外した。
 分厚い布から解き放たれた左目がまず捕まえたのは、少しずつ青みがかっていく東の空だった。
 夜が、明けようとしている。
 あの時、小屋を発ったのが深夜であったから、かなりの時間を車で走ったことになる。
 それほど遠くにきたのか。それとも、同じ場所をぐるぐると回っていただけなのかも知れない。
 とにかく、夜が明けようとしていた。
 濃い群青色に薄まりつつある夜の気配、その下に、激しい起伏を描く稜線が見える。
 この場所は、山に包囲されている。
 そしてケリーの目の前には、こんな場所には不似合いな、石造りの城が聳え立っていた。

「……ひでえ冗談だ」

 吐き捨てるように言った。
 山の高さに挑むかのように聳える城壁と、荘厳を通り越して滑稽なまでに巨大な門。
 それは紛れもなく、人が空を飛ぶ鳥に憧れしか抱き得なかった時代の、城だった。
 どこの酔狂者がこんな無駄なものを、こんなへんぴな場所にこしらえたのだろうか。その努力をもう少しまともな方向に向けることが出来なかったのか。
 こういう状況で、城の見事さに感心することが出来ないのは、人生という視点に立ったとき、得なのか損なのか。

「降りなさい」

 もう一度、聞こえた。
 今度無視すれば、文字通り力尽くで引きずり出されるのだ。
 それは嫌だから、痛む四肢に鞭打って、這うように車から降りた。
 高地特有のひんやりとした空気が肌を刺す。吐息が、僅かに白む。遠く、一番鶏の鳴く声がした。
 四肢の痛みは、引くどころかますます酷くなっている。痛み止めを拒否したのだから当然のことだ。だが、薬で鈍らされた神経がどれほど役立たずかを知っているから、そう易々と痛みを手放すわけにはいかなかった。
 ケリーは、マルゴに促されるままに歩いた。靴底に、砂利と雑草を躙る感触が伝わる。
 既に落とされていた跳ね橋の先に、巨大な門がある。
 牛を丸呑みする巨人でも立って潜れるような門が、ひとりでに開いた。中にいる人間は、当然のことながら、マルゴの帰りを今や遅しと待っていたのだろう。
 ケリーが背後をちらりと見ると、十数人の少年少女が自分達の後をついてきていた。
 その中には、ヤームルを担いだザックスの姿があり、ウォルを背負ったアネットの姿がある。
 それ以外の少年少女のうちに、ケリーの見知った顔はなかった。
 ケリーの口から、深い安堵の溜息が漏れた。

「どうしたの。早くしなさい」

 肩をひとつ竦めて、マルゴの後を追う。
 大きな城門を潜ると、その奥にはまっすぐに伸びる石畳の道と、その脇に広がる広大な庭があった。
 庭は綺麗に整備され、幾何学模様に配置された庭木と噴水が見事な調和を描いている。もう少し鮮やかな陽光の下であれば、もっと映えたに違いなかった。
 ケリーは無言で石畳を歩いた。マルゴはケリーの怪我には一切気をつかわなかったから、かなり辛い道行きであった。
 次に現れた門は、先ほどの城門に比べれば大きさでこそかなり劣るものの、その重厚さでいえば一歩も引かない、立派な門だった。綺麗に彫刻がされ、年月を経た樫の木材は得も言われぬ深みを醸し出している。
 少女が近づくと、その門もひとりでに開いた。どこかに監視装置のようなものが仕掛けられているに違いなかった。
 そこを潜ると、いよいよ古めかしい城の内部だ。
 内部も石で作られており、所々に小さな火の点った燭台が設えられている。廊下は長く、途中にいくつもの部屋があった。その奥に、どこまで続くのか知れない長大な階段がある。
 今からあそこを昇るのかと思うと、流石のケリーもうんざりした。昨日から過重ともいえる肉体労働を強いられているのだ。そのうえ、手足には一つずつ風穴が開いている。
 なんとなく立ち止まったケリーの脇を、後ろに続いていた少年達が追い抜かしていく。その中には、当然のことながら、未だ意識の戻らないウォル達の姿もあった。まだ目を覚まさないということは、余程の低血圧なのか、それとも薬でも嗅がされたか。
 ケリーも彼らを追おうとした、そのとき。

「あなたはこっちよ」

 マルゴが、すぐ近くの扉を開けた。
 途端、ケリーの鼻を、嗅ぎ慣れた臭気が刺激した。
 消毒薬の匂い。白衣の匂い。オゾン消毒された機械の匂い。
 中世めいた石造りの城には似つかわしくない、近代的治療機器の揃った、真っ白な部屋だった。

「へぇ、サービスのいいことだな」
「あなたは、本当ならお客様だったのよ。それを、妙な真似をするからあんなことをしなくちゃいけなかったんじゃない。これじゃあ、お父様に怒られるわ」

 マルゴが、唇を尖らせるように言った。
 先ほどと比べて、彼女の口調が、幾分柔らかくなっている。
 それは、自分の住処に帰ってきたという安堵から来るものだったのかもしれないし、任務を完了したということで気が緩んだのかも知れなかった。
 とにかく、その口調はケリーの記憶にある。初恋の少女のそれに近いものだったのだ。

「で、俺はここで何をすりゃあいいんだ?」
「そうね、まずは服を脱いで頂戴。上も、下もよ」

 ケリーは動じることなく、服を脱いだ。ジャケットとシャツ、その下に着ていた肌着をハンガーに掛け、ズボンと下穿きを籠の中に突っ込む。
 身に纏うものを無くしたケリーの体は、すらりと均整のとれた若獅子のような見事さだ。筋骨隆々というわけではないのに、必要な筋肉は必要なぶんだけ、必要な箇所にしっかりとついている。一見すれば痩せているように見えなくもないが、例えば首や胸板などは、驚くほどに分厚い。
 無駄のない肉体だった。
 マルゴは、それを無感動に見遣り、ケリーを部屋の奥へと誘った。
 そこには、人一人が楽々と横たわれるカプセルタンクがあった。

「組織再生療法か」

 医術には人並みに疎いケリーであったが、自分が何度もお世話になったこの機械を見間違えるはずもない。
 このタンクに特殊な薬液を注ぎ、患者はその中に横たわる。患部に細胞分裂を促す薬を注射し、電気的な刺激を与え続けることで組織を劇的に回復させる。
 外科的な負傷に対しては、驚くほどに効果が高い。腕や足を失った場合でも、患部の応急処置が適切であり、万能細胞の培養に成功さえすれば、その再生も不可能ではない。
 ケリーはもともと極めて高い治癒能力を有している。野生の獣と同じだ。簡単な怪我であれば、飯を食って寝れば一晩で治ってしまう。
 加えて組織再生療法の恩恵にあずかることが出来るならば、この程度の銃創、一昼夜で回復するだろう。

「ありがたいね」

 ケリーは遠慮無くタンクに横たわった。
 マルゴはそれを確認するふうでもなく、機械のスイッチを入れる。
 ブゥンと、モーターの起動する音がした。ケリーの体にも、微細な振動が伝わってくる。

「溺れないようにしてよね。ここであんたに死なれたら、わたし、お父様から大目玉をもらっちゃうわ」

 ケリーはその言葉を無視して、ゆったりと目を閉じた。
 パイプを伝って染み出してきた薬液が、少しずつタンクに溜まっていく。その温い感覚が、疲れた肉体には心地いい。
 車では、結局一睡も出来なかった。努めて眠ろうとしているのに、うつらうつらと意識が揺らぎ始めた瞬間を狙うようにして、車の乗り換えを強制されたのだ。今は、眠ろうとしなくても、意識を緩めれば睡魔に襲われてしまう。
 ケリーは、遠慮無く目を閉じた。治療中は、別に何をしなければならないわけでもないのだ。大人しく横たわっていれば、それでいい。
 ここまでしておいて、今さら殺されるわけでもないだろう。少なくとも、今から殺そうという相手をわざわざ治療してやる酔狂もいない。
 カプセルの閉じる音がする。外界の音が遮断され、じわじわと薬液の染み出す液体音と、自分の拍動音以外、何も聞こえなくなる。
 海のようだ。
 そう思ったケリーは、どこか懐かしい、子供達の笑い声のさざめく場所に誘われていった。



「まだ起きてるの?」

 空気の抜ける音とともに開いた扉、その向こうには、黒髪の青年が立っていた。
 サファイアのように澄んだ青い瞳が、今は深い憂いを帯びている。
 ベッドの端に腰掛けた少年は、己の罪を自覚した。青年にそんな辛そうな顔をさせるのは、どうしても嫌だったのに、そうさせたのは確かに自分なのだ。

「そろそろ眠るよ。今、寝ておかなくちゃ、いざというときに動けない」
「そうだね。宇宙船の中で走り回って到着するのが早くなるなら、どれだけでも走り回るんだけど」
「だから船はあまり好きじゃない」

 少年は、視線を窓の外に移した。
 寒々とした宇宙空間に、無数の輝きがある。ぽつりぽつりと輝くもの、星雲、ガス状の惑星。
 どれだけ見ていても見飽きない。
 
「一度、あいつに一服盛られたことがあるんだ」
「うん。王様自身から聞いた」
「それが原因で大喧嘩した」
「でも、きみは王様を殺さなかった。ぼくが、きみに危害を加える連中は許すなって言ったのに、エディはそれを守らなかったんだ。偉かったね」

 いつの間にか少年の隣に腰掛けた青年が、少年の、黄金色の頭を優しく胸に抱いた。
 少年は、心地よさそうに目を閉じた。

「今でもシェラに愚痴を言われるんだ」
「だって、エディと王様が本気で大立ち回りをしたんだもの。部屋の一つくらい、使い物にならなくなったんじゃないの?」

 少年は、青年を見上げた。
 
「ルーファは何でも知っているんだな」
「ううん、その逆。ぼくは何も知らない。知らなさすぎて、この世界がたまらなく面白い。愛しい。それは、きみのことも」
「ああ、おれもルーファのことは何もわからない」
「だから、ぼくたちは相棒なんかをやってるんだよ」
「知ってる」
「だから、もっとぼくを頼ってね」
「ああ、知ってる」

 少年は、はにかむように笑った。

「あいつに、言われたんだ」
「王様に?」
「きちんと食べて、きちんと寝ろって。そうすれば、二度と薬を盛ったりなんかしないって」
「エディはなんて答えたの?」
「これからは無様な姿をさらさないよう、きちんと食べてきちんと寝るって誓ったよ」

 青年が、少年の髪を、細い指先で梳った。

「じゃあ、約束は守らないと」
「うん」
「もう寝ないと、明日が辛いよ」
「うん、もう寝る」

 船は、静かに、しかし可能な限りの巡航速度で宇宙空間をひた走る。
 彼らを足止めしていた宇宙嵐は、既に収まった、もしかしたら、どこかの誰かが収めたのかも知れないが。
 航海が順調に進むならば、時計の短針が十回も回れば、この船はヴェロニカに到着するだろう。
 なんとも間の抜けた通信文が届いたのは、今日の夕刻過ぎのことだった。

『早く来ないと、可愛い奥さんが悪い狼の餌食になっちゃうわよ』

 誰が送り主か不明。どこから届いたのかも分からない。
 そういう通信文だった。
 だが、少年と青年には、その通信文が誰から送られたものなのか、分かりすぎるほどに分かった。短い文言の中から、溌剌とした微笑みを浮かべる月の女神の息遣いが感じられるほどだった。
 そして、その通信文に同封された、少女の写真。
 あどけない様子でカメラを見上げる、黒髪の少女。初めて見た薄化粧は、見事なほどに美しく、少女を飾り付けていた。
 頭の先で揺れるウサギ耳も、首に巻かれた黒いチョーカーも、幼い肢体を包むバニースーツも、少女には似合いではなかったが、確かに可愛らしかった。
 そして、生きていた。
 それが何より、少年には嬉しかった。

「王様、可愛かったね」
「あんなの、あいつには似合わないと思う」
「可愛くなかった?」
「可愛かったよ」

 青年は嬉しそうに頷いた。

「今度、シェラも連れて遊びに行こう。そこで、王様の服を選んであげよう。あんな色っぽすぎる格好より、もっとあの子に似合う服を探してあげるんだ」
「きっと嫌がるだろうな」
「そう?意外と喜ぶかも知れないよ?」

『ええい放せ、俺はこんなに可愛らしい服を着るつもりはない!』
『おお、けっこう似合うではないか。どうだリィ、こっちとどちらが俺に合っているかな?』

 どちらも、あの脳天気なもと王様の言いそうな台詞だった。
 少年は、くすりと笑った。

「ありがとう。少し、落ち着いた」
「眠れなかったら、ぼくの部屋においで。一緒に寝よう。鍵は、あけておくから」
「うん。でも、多分このまま眠れると思うから、大丈夫だよ」

 青年は、少年のなめらかな額にキスを一つ落としてから、立ち上がった。
 
「なぁ、ルーファ。一つ、聞いていいかな」
「うん?」
「あの時、あいつがあの星で行方知れずになったときのことだけど……」
「手札のことだね」

 少年は、青年を見上げながら言った。

「どうしてあの時、手札は間違えたんだろう」
「ぼくも分からない。ずっと、不思議だったんだ」

 青年は頷いた。

「王様を占った時、何回カードをめくっても、結果は王様の死だった。あれほど明確にヴィジョンが出ることも珍しいくらいに、それは明らかだったんだ。でも、現実は違う。どう考えても、あの子はまだ生きてる」

 少年は頷いた。

「エディは、この齟齬をどう思う?」
「分からない。今までルーファの手札が間違えたことなんて一度もなかったのに」
「それは違うよ。手札は間違わない。間違うとしたら、それは手札を読み解く側、つまりぼくなんだ」」

 手札は間違わない。間違えるとすれば、それを読み解く側だ。常日頃からの青年の持論である。
 しかし、それを言うならば、青年は一度だって手札を読み違えたことはなかったのだ。

「正直に言うと、ぼくも手札の読み方には一応の自信を持ってる。じゃないとあんな大事な場面で使うことは出来ないからね。でも、あれほど明確に読み間違えたのは初めてだ。だって、あの子は生きているんだから」
「──」
「王様は、あのとき確実に死んでいたんだ。でも、今は生きている。これは、王様自身の命のことを表してるはずがない。一度死んだ生き物は、二度とは目を覚まさないのがこの世の決まり事なんだから」
「そのわりには、その決まり事を守らない不届き者が意外と多いよな」
「そうだね、不思議なくらい、ぼくたちの周りにはそういう人が多いね」

 青年は、うっとりと微笑んだ。

「だから、ぼくはこう思う。手札は、王様の命そのもの以外の何を読み取って、死に神のヴィジョンを顕した。そうとしか考えられない」
「確かに、おれもそう思う。だけど、あの時占ったのはあいつの安否だったはずだ。なのに、それ以外のものを占ってしまうなんて、そんなことがあるのか?」
「あり得ないとは言い切れないんだ。万有引力じゃあないけど、この世に遍く事象は、それ自体が互いに強く影響し合っている。その中で特定のものを結ぶ因果を引き抜いて、その起承と転結を探るのが占いなんだ。当然、事象を結ぶ因果に他の事象が結びついていれば、占いもその影響を受けざるを得ない。特に、そのエネルギーが強すぎると、占いの結果もそれに引きずられることがある」
「……よくわからないけど、結論を聞かせて欲しい」
「エディ。君の王様の性質は、君と同じく『太陽』だ。全ての生き物に光と熱を与え、正しい方向に導こうとするのがその本質なんだけど……」
「あいつはともかく、おれはさっぱりそういうふうじゃあない気がするけどな」
 
 青年は一拍おいて、真剣な調子で言った。

「あのとき、きっと、王様の中の太陽が死んだんだよ」

 少年は、青年の瞳を見つめた。
 凪いだ湖のようなその瞳には、一切の感情が浮かんでいなかった。

「おやすみ、エディ」
「うん、おやすみ、ルーファ」

 扉の、静かに閉まる音が、部屋に響いた。
 そして、翌日。
 驚くべきニュースが、ピグマリオンⅡの艦内を走り抜けた。

『ヴェロニカ政府が共和宇宙連邦からの脱退を表明。また、それと同時に、同国において執り行われる大規模な宗教的な儀式において、惑星ベルトランの州知事の娘を人身御供に捧げるという、信じがたい暴挙を行う旨を発表した。これに対して共和宇宙連邦政府首脳陣は──』
 



[6349] 第四十二話:独白
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/05/30 16:55
 夢を見た。
 そのことは、覚えている。
 ただ、夢そのものは覚えていない。
 楽しかった、嬉しかった、悲しかった、苦しかった──。
 そういう感情の量が、起き抜けの重たい瞼を持ち上げるエネルギーに、全て使われてしまうのかも知れない。
 残されたのは、虚脱した思考と、甘い痛みを僅かに起こす程度の傷跡だけだ。
 その傷跡が、一瞬だけ、引き攣るように痛んだ。
 ケリーは、無造作に体を起こした。
 粘性の液体が、どぽどぽと体から零れていく。
 ダンクから出ると、その脇に設えられたシャワーを浴びる。
 薬液が洗い流されていく。その下にあるのは、風穴の塞がった四肢である。まだ僅かに痛むが、軽く動かしたり物を持ったり程度であれば支障はないだろう。
 シャワーの勢いを強めて、温度を一気に上げる。肌が真っ赤になるくらいの熱さが、起き抜けの思考を回転させるにはちょうどいい。
 上方から注ぐ水流を、顔の正面で受け止めてやる。昨日、散々流した汗も、一緒に洗い流してやる。
 息が続かなくなるまでそうして、水を止めた。
 シャワーカーテンの向こうで、人の気配がする。

「お着替えをご用意しておきました」

 マルゴの声ではない。
 成熟した、女性の声だ。この城の召使いか何かだろうか。

「ああ、ありがとう」
「旦那様がお待ちです。もしよろしければ、朝食を一緒にどうか、と」
「すぐに行くから、お待ち頂くよう伝えておいて欲しい」
「かしこまりました」

 音もなく、人の気配がなくなる。
 そういえば、腹が減った。組織再生療法で消費したエネルギーを、補給できていない。
 胃が、締め付けられるように痛む。腹の中に何も入っていないことが、悲しいくらいに分かる。
 タオルでぞんざいに水気を拭い、ドライヤーで髪を乾かす。整髪料がないから、櫛だけを入れる。こういう状況だ、多少の失礼があったとしても許してもらおう。
 なにせ、自分をこんな場所まで招いたのが、他ならぬこの城の主人らしいのだから。
 仕立てのいいシャツに袖を通す。質のいい綿生地で、羽織るとほのかに太陽の香りがした。
 スラックスは、股下の長いケリーの体型にぴたりと合わせた履き心地のいいものだった。
 用意された服はそれだけだ。到底正装とは言い難いが、こちらから文句を言う筋合いのものでもあるまい。
 適度に砕けた格好のケリーは、これも用意されていた革靴を履き、医務室の外に出た。
 そこに、お決まりの燕尾服で身を固めた、老齢の執事が待っていた。
 
「こちらでございます」

 機械じみた声に、ケリーは頷くことさえしなかった。こういう場合、彼らの仕事の邪魔をしないことが、最上のマナーだと信じているからだ。
 執事の案内に任せて、廊下を歩く。
 窓の外は、清冽な朝日で充ち満ちていた。この星の朝日を見るのは初めてだが、おそらくは朝の七時くらいといったところだろうか。だいぶ眠った気がしたが、その実、二時間ほどの睡眠だったらしい。
 廊下の向こうには、大広間があった。その先に、大階段がある。
 そこを昇った。
 新品の革靴が石の階段とぶつかって、硬質な音を立てる。その音が、ケリーは気に入った。
 階段を上りきると、やはり長大な廊下がある。
 そこに並んだ扉の一つを、執事の男が、慎重な手つきでノックした。

「旦那様、お客様をお連れいたしました」
「ああ、ご苦労だったね。入ってもらいなさい」
「失礼します」

 ドアノブを握り、扉を開ける。

「どうぞ」

 促されて、ケリーは部屋に入った。
 まず目に飛び込んできたのは、ずいぶんと大きなテーブルだった。
 大人が二十人ほども余裕をもって座れるだろうテーブルの上に、豪奢な燭台と花瓶がいくつも飾られ、色取り取りの花々がその美を競い合っている。
 白いテーブルクロスは清潔そのもので、窓から入る曙光を反射してきらきらと輝く。
 その光景は、ケリーにとって初めて見るようなものではない。十分に予想されたものだ。それでも、軽く目を見張るほどに完成された眺望ではあった。

「どうぞ、どこにでもかけてください。恥ずかしながら、私はあまりテーブルマナーには詳しくなくて、お客様をお招きするときの作法などにも疎いのです。山出しの身の悲しさです。ご不快かとは思いますが、どうかご寛恕いただきますよう」

 テーブルの一番端に、男が座っていた。
 歳の頃は、既に老境に入っている。髪は豊かだが、新雪の積もった山巓のように真っ白だ。
 肉は、緩んでいない。頬にも無駄な肉の一片もなく、きりりと引き締まっている。声も朗として、若々しい印象だ。
 だが、目つきが、どこか常人離れしていた。
 どろりと黄色く濁った白目と、化学薬品じみたどぎつい青色の瞳。焦点は不確かで、自分を見ているはずなのに、何か別の物を眺めているふうな感じがする。
 港で、つい今し方まで生きていた、死んだ魚の瞳。ぎょろりと、恨めしげに人間を見遣る、命のない視線。
 そういうふうな目つきの男であった。

「お招きに預かり恐悦至極です、アーロン・レイノルズ大統領閣下……とで申し上げればよろしいのでしょうかな?」
「あなたをお招きする際にとんでもない不作法があったことをお詫びします。信じて頂けないかも知れませんが、私はあなたを傷つけるつもりはありませんでした」
「およそ、人を傷つけて手が後ろの回った全ての人間が、今のあなたと同じことを口にするでしょう」
「返す言葉もございません」

 アーロンは、魚じみた表情をそのままに、深く頭を下げた。
 
「正式な謝罪は後ほどに。とりあえず、ささやかながら食事の方をご用意しておきました。もし私のような者と食卓を囲むことがお嫌でなければ、ご一緒にいかがでしょうか」
「いただきましょう。それと、あなたには、山ほどに聞きたいことがある。捕虜の身で教えを請うのは些か心苦しいが、答えられる範囲で答えて頂けると幸いですな」
「捕虜?とんでもない。あなたは、本当に私のお客様なのですよ。それは、ちっとも皮肉な意味ではありません。私は、乞うてあなたにお越し頂きたかったのです」

 焦点の外した視線が、奇妙な熱を帯びていた。
 ケリーは、大人しく、アーロンの正面の席に座った。この男の視線を受けながらの食事は心楽しいものになるとは思えなかったが、そうしなければ問答に差し支えがあると判断したからだ。
 正面から見ても顔色を見抜くのが難しそうな男だ。斜めから見れば、同じ人間であるとも思えない。
 ケリーが椅子に腰掛けたのと同じタイミングで、扉が盛大に開かれた。
 先ほどの執事か、それとも女中あたりが、食事の用意を始めたのだと思った。
 だが、そうではなかった。

「あー、お腹すいたー!」
「おはよう、父さん!」
「今日の朝ご飯は、お父さんの好物のリマト菜のサラダだよ!」
「こら、アデル、なに一人だけ座ってんのよ!ちゃんと配膳手伝いなさい!」
「えー、だってぼく、まだ眠いよ」
「じゃあご飯抜き!もう一度ベッドに入って、昼まで寝てなさい!」
「ちぇっ。わかったよマルゴ、手伝う、手伝うってば、手伝えばいいんでしょ」

 大きく開け放たれた扉から入ってきたのは、春秋に富む青々とした喧噪であり、食欲を刺激する食べ物の香りであった。
 両手に、いくつもの皿を抱えた少年少女たちが、ぞろぞろと部屋に入ってくる。そのどれもが、粗末とはいえないが、しかしこういった部屋には不似合いの、だらしない格好をしていた。
 もっと端的にいえば、寝間着のまんまだったのだ。
 しばし唖然としたケリーの前に、てきぱきとした様子で食器が並んでいく。
 極端な菜食主義のヴェロニカ国の朝食らしく、緑の色濃い皿であったが、なんとも美味しそうな匂いがする。
 腹を空かせた生き物としての当然の反応で、ケリーの口中に唾液が溢れた。
 
「こらこら、お前達、もう少しお行儀良くしなさい。今日は大切なお客様もご一緒なんだ。あまり私に恥をかかせないでおくれ」
「お客様?」

 その場にいたほとんどの少年少女の視線が、ケリーの顔に突き刺さる。
 まだ穢れを知らない、あどけない瞳の群れ。それが、初めて見る奇妙な男に対して、不思議そうに見開かれている。
 数人、そうでない子もいた。そのうちの一人が、昨晩、ケリーをこの城まで『招待』したマルゴである。彼女だけは、ケリーの存在を無視するかのように、淡々と配膳作業に集中している。他の顔も、城に入る前に見た顔が多い。そして、ザックスにアネット──。
 ケリーは、少年達の視線を振り払うように、正面の男を睨み付けた。

「ウォルとヤームルはどうした」
「二人は、まだ薬で眠っています。昼頃には目を覚ますでしょう」
「あの店に突入した連中も、お前の子飼いか」

 アーロンは、瞬きもせずに首を横へと振った。

「あれを差し向けたのは、私の不肖の息子です」
「息子?」
「どうやら、あなたがウォルと呼ぶ少女に、相当執心しているようでして」
「執心している?」
「己の女にしたがっている、といえばわかりやすいでしょうか。今までも、配下のごろつきを使って、適当な少女を拉致し、己の欲望のままにいたぶるということが何度もありましたから、彼女にも同じようなことをするつもりなのでしょうな」
「それを、止めなかったのか」
「あれは、己で己の生き方を定めたのです。私のような人間に、それを止める術などありません」

 切り捨てる言い方、というよりは、最初から関心を持っていないような、醒めた口調だった。
 ケリーはさすがに苦々しいものを覚えたが、それ以上言っても無駄だと思い、矛先を収めた。

「さぁ、食事にしましょう。全てはその後で。当然、毒など入っていませんよ」
「ああ、遠慮無く頂くとするぜ」
「その前に、今日の糧が我らに与えられたことに、感謝の祈りを」

 アーロンが、静かに目を閉じた。少年少女も、それに倣う。
 所々で、神への祈りが捧げられる。ケリーは知らないが、おそらくはヴェロニカ教では一般的なことなのだろう。
 ケリーは、祈りを捧げるべき神を持たない。だから、特に何をするでもなく、彼らの祈りが終わるのを待った。
 やがて短い黙祷が終わり、

「さぁ、頂こう。みんな、あまり急がず、良く噛んで食べるのだよ」

 アーロンの言葉を聞いていないように、子供達は勢いよく食べ始めた。
 大皿から、自分の小皿へとどんどん料理を移していく。人気のある料理は決まっているようで、そこからたくさん取りすぎた少年が、年上の少女に注意されていた。

「こら、独り占めは駄目だっていつも言ってるでしょ!」

 むくれた様子の少年が渋々と料理を返すと、その料理もたちまちに消えてなくなってしまう。
 まるで戦争であった。
 ケリーは、唖然としながらその様子を眺めていた。お客様用の料理は別に取り分けられていたからよかったものの、そうでなければ彼はこの朝の食事にありつけなかったに違いない。

「いつもこうでして」

 アーロンが、やはり無表情に言った。

「お恥ずかしい限りです」
「……いや、子供ってのはこんなもんだ。別にいいじゃねえか」

 苦笑したケリーが、自分の割り当て分を口に運ぶ。
 サラダは新鮮で、歯触りがよかった。少し苦みの利いた野菜だったが、酸味の強いドレッシングとの相性が抜群だった。
 ふかした芋に、濃厚なホワイトソースがかかった料理があった。動物性タンパクの摂取は厳に禁じられているはずだから、植物油脂を加工して作ったものだろう。それでも、たいそう旨かった。
 キノコの炒め物は、しゃきしゃきとした歯触りと、胸を漉くような香りが官能的だった。これも、たいへん美味しい。
 肉や乳を使わなくても、これだけ美味しい料理が出来ることを、ケリーは初めて知った。

「うまいな……」
「それはよかった。これは全て、あの子達が拵えたものなのですよ」

 ケリーは、驚いて子供達の方を見た。
 みんな、嬉しそうに、少し照れくさそうに笑っている。
 
「この城のことは、ほとんど彼らに任せています。先ほどご覧になったように、執事や女中もいますが、それは極々僅かで、とてもこの城全体には手が回りません。あなたも見たでしょう、この城の見事な庭を。あれも、この子達が丹念に作り上げたのです」
「へぇ」

 こういう状況ではあったが、ケリーは感心していた。
 確かに、城の庭は見事なものだった。本職の庭師がやっても、中々あそこまで綺麗に整備は出来ないだろう、それほどの出来映えだった。
 ケリーが何かを言おうと、口を開いた、そのとき。

「お父さん、そろそろ訓練の時間なのですが、先に退出してもよろしいですか?」

 マルゴの声だった。
 彼女の前の皿は、空になっている。そういえば、他の子供達のも同じような有様だ。
 まったく、軍人らしい食事であった。

「別に構わないが、昨日、あんなに遅かったんだ。もっとゆっくりしてもいいんだよ」
「そういうわけにはいきません。これでも、我々も軍人ですから──それでは失礼します、閣下」

 寝間着のまま、綺麗に敬礼をしたマルゴが、部屋から出て行く。
 ほかの子供達も、それに続く。まだケリーに好奇の視線を寄越す少年もいたが、名残惜しそうに部屋から出て行った。
 
「さ、我々はゆっくりと食事を楽しみましょう。そうだ、この豆のスープが絶品なのです。是非食べてみてください」
「……あの子達は、本当に軍人なのか?」
「ええ、私も知らなかったのですが、私の生まれ故郷では、あの子くらいの年齢の兵士が、戦場に出るのは当たり前のことだったようでして。それほど不思議なことではないと思いますが、違いますか?」
「本物の戦場にも派遣している?」
「今は、まだ。テロリストの捕殺や、海賊の取り締まりを任せている程度です。しかし、いずれはそうなるでしょう」

 この時代、国と国の会戦などあろうはずもない。ならば、彼女たちが赴いているのは、紛れもなく本物の戦場ではないか。
 ケリーは、銀色に輝く匙を取り、スープを口に運んだ。
 塩気の薄い、味気ないスープであった。ほとんど白湯を啜っているのとかわらない。先ほどの見事な料理に比べると、いかにも味気ない。
 だが、不思議と旨かった。一口目が物足りなくても、つい二口目を飲みたくなってしまう。別に旨いとは思わないのに、口の中にその味がないのが寂しい。
 そういう味だった。
 豆も、食べてみる。
 固い。
 舌触りが悪い。
 それに、もそもそしている。
 水分の足りない果肉が、喉にこびりつく感覚だ。
 到底、旨くない。むしろ、不味い。最低の食材だ。
 だが、もう一口食べたくなる。体が、その味を覚えているのだ。
 昔、食べた。この料理を、どこかで食べたことがある。
 ケリーの体が、それを覚えていた。
 旨いと思った。

「懐かしいと美しいとは同じ意味であると、昔の人間は言いました。それはきっと、真実なのでしょうね」

 アーロンが、ケリーと同じスープを淡々と口に運びながら、言った。

「それでは、懐かしいと美味しいとは同じ意味なのでしょうか。おふくろの味とはよく聞く言葉です。その言葉を口にする人間が、顔を顰めながら言う場面を、私は見たことがない。故郷の料理を語る人間が憧憬の眼差しをしていなかったのを、私は見たことがありません」
「違いない」
「これはね、私の故郷の料理なのですよ。もう二度と手に入らないと思っていたエンヌ豆が、偶然、本当に偶然手に入り、栽培してみたのです。意外とこの国の土壌に適合したようで、きちんと芽吹いてくれた。あれほど嬉しかったのは、本当に久しぶりだった。考えてみれば、私の故郷の土も赤土でしたからね」
「……エンヌ豆だと?」
「私の村では、一年を通してよく食べていました。他の地域では家畜の飼料に使われていたようですが……あなたも、食べたことがあるのですか?」

 魚のように熱のない視線が、ケリーを捕らえていた。
 ケリーは頷くことが出来なかった。
 確かに、この味は覚えている。
 ほこり臭く、狭苦しい宿舎の中で、仲間達と奪い合うようにして食べたのだ。
 先ほどの子供達、そっくりそのままに。
 こんな、固い、舌触りの悪い、もそもそして喉の奥に張り付く家畜の餌が、自分達に配給される食事であり、そしてごちそうだったのだ。
 そんな時代が、ケリーにはあった。もう、半世紀以上も昔の話であるが。
 心臓が、痛いほどの早鐘を打った。悪夢は、いつまでも自分を追いかけてくるのかと思った。
 ケリーの口から、うめき声が漏れだした。

「貴様……」
「そういえばミスター。私はあなたを何と呼べばいいでしょうか。ケリー・クーア、キング・ケリー、それとも海賊王……」

 アーロンは、指折りに数えた。
 そして、舐めるような視線で、ケリーを一瞥し、最後の名前を口にした。

「もしくは──ケリー・エヴァンス」
「まさか、貴様も……!」
「惑星ウィノアの赤茶けた大地と、夜空を染める双子月の美しさを語り合う事の出来る人間は、非常に貴重です。失われて戻らない故郷だからこそ、人の心を惹き付けて止まない。私はあなたを歓迎しますよ、ウィノアの亡霊」

 決定的な一言だった。
 それで、逆にケリーの腹が据わった。今回の事件における自分の立ち位置が、ようやく定まった思いだった。
 目の前で、相変わらず淀んだ瞳で自分を眺める男に、感謝したいくらいだった。
 匙を静かに置き、ナプキンで口を拭う。
 グラスの水を口に放り込み、喉を潤してから、ケリーはゆっくりと口を開いた。

「その名前を誰から聞いた?」
「私の古い友人です」
「名前は?」

 この問いは、一応の問いであった。
 回答を期待したものではない。少なくとも、この場で口を割るとは思えなかった。
 この状況を打開して、然るべき場所で、然るべきタイミングと方法でもって、もう一度問い質すつもりの質問だった。
 しかし、

「記憶違いがなければ、ゾーン・ストリンガーという名前でしたな。本名かどうかは知りません」

 あっさりと、その名前に何の価値も見いださないように答えた。
 その名前は、ケリーにとっても聞き覚えのある名前だった。

「へぇ、あんた、あのじじいのお友達かよ」
「古い友人です。ウィノアの崩壊があった後、根無し草となった我々は同胞と身を寄せ合うようにして生きてきました。私も彼も、企業の頂点に立つという意味では同じ立場の人間でしたから、何度も顔を合わせましたよ」
「じゃあ俺は、あんたの古馴染みのかたきってことになるのかな?」

 挑発するようにケリーが言った。
 
「かたき、とは?」
「あの、長生き大好き爺さんは、もうこの世にはいねえよ」

 簡潔な答えだ。
 非常にわかりやすい。
 だが、目の前の老人の視線は、針の先ほども揺れなかった。

「では、彼が輩と呼んでいた、四人の老人も?」
「そっちはまだ生きてるんじゃねえか?あくまで、生きてるだけだがよ」
「そうですか。彼らは、ついに自分の望みを叶えられなかったのですね……」

 アーロンは静かに目を閉じ、祈りの言葉を口にした。
 実現不可能な命題に挑み続け、志半ばで倒れた勇者達に、哀悼の意を捧げたのだ。

「俺を恨むかい?」

 ケリーの言葉に、アーロンは首を傾げた。
 ぎょろりとした目玉が、斜めに傾いてケリーを眺める。

「恨む?私が?あなたを?何故?」

 本当に不思議そうな声だった。下手な嘘や取り繕いではない、真実の感情が滲んでいる。

「俺は、あんたの友達を殺した。そして、故郷を奪った。恨むには十分すぎると思うぜ」
「とんでもない!それは酷い誤解です!私はあなたに、深い恩義を感じています!確かに、あなたをここまでお連れする手段が穏便ではなかったことは認めます。それは、心の底から謝罪させて頂きます。ですから、どうか、どうかそんな誤解をなさらないでくださいませんか!?」

 初めて、アーロンの顔が歪んだ。
 それは、自分の真意を恩人に誤解される、恐怖から来る感情であった。
 荒々しく息を乱したアーロンが、自分を落ち着けるように水を含んだ。
 そして、静かに口を開いた。

「そうは言うがな。俺は、あんたに見覚えなんてねえし、あんたを助けた覚えだってねえぜ」
「……分かりました。では、少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」

 決意じみた声で、アーロンが言った。
 ケリーは、視線で先を促した。
 アーロンは、はっきりとした声で語り始めた。


 先ほども申し上げましたが、私は惑星ウィノアの出身です。

 小さな、小さな村でした。

 電気もガスも、水道すら通らない、辺鄙な村です。山々に囲まれ、隣の町とも年に数回交流がある程度の、忘れられたような村でした。

 東西どちらに所属していたか、ですか。

 忘れました。もしかしたら、そんな枠組みの中にすら組み込まれていなかったのかも知れません。それだけ、何の価値もない村だったのです。

 長く、放浪を続けた民族だったようです。それが、新大陸を目指して宇宙に旅立ち、苦難の末、ようやく見つけたのが、あの赤茶けた大地の星だった。

 やがて、後から来た人間が、その星を惑星ウィノアと名付け、東西に別れて争ったそうですが、それは我々には何の関わりもないことでした。

 我らは、ひっそりと、山に囲まれながら、死んだように生きていくことさえ出来ればそれでよかった。

 美しい、ところでしたよ。

 春は、目が覚めるような新緑で山々が彩られ、新鮮な山菜が食卓を賑わします。野山の可憐な花が一斉に咲き乱れ、野いちごの甘酸っぱい香りで胸がいっぱいになるのです。

 夏は、山毛欅の森を抜ける風が、なんとも涼やかで心地いい。川には魚が踊り、子供達がそれを釣って夕飯のおかずにします。たくさん釣れたときは、母親に褒められました。

 秋は、真っ赤に染まった森の木々が美しかった。山道を歩けば、たくさんの栗が落ちていて、キノコもたくさん生えている。そのほとんどを持って帰って、母親にキッシュを作ってもらう。それが何よりの楽しみだった。

 冬は……あまり好きではありませんでした。厚く積もった雪に、全てが閉ざされてしまうからです。私たちは家に閉じこもり、干し肉や魚の燻製、長く保存のきく根菜などを囓りながら、春の到来を待ち望んだものです。

 とにかく、私はあの村で、一生を終えるのだろうと思っていました。そして、それが私の幸福なのだろうと信じていました。

 ある日、隣の町から戻ってきた大人が──確か、物々交換で、塩を手に入れに行っていたのではなかったかと思いますが──驚くべきうわさ話を仕入れてきました。

 この星が、人の住めない、死の惑星になってしまうかもしれない、というのです。

 赤色巨星の爆発、ゲートの固定化現象など、聞き覚えのない単語が飛び交っていました。今なら何のことを言っているか分かりますが、あの時の私はほんの子供でしたから、よく分からなかった。

 大人達は、それを笑い飛ばしました。そんなことがあるはずがない、自分達は神様に守られているのだから、大丈夫だ、と。

 でも私は、どうしても安心できなかった。一人で、普段は禁じられている手札占いをしてみた。

 そうすると、何回めくっても、死に神の手札しか出てこない。

 これは、とんでもないことが起きているのではないかと思いました。

 私は、げんこつをもらうことを覚悟して、村長の家に行きました。手札占いの結果を伝えるためです。

 そもそも手札占いは、村のシャーマンか、それに近い人間しかやってはいけないことでした。神の恩寵に縋って生きている私たちが、神のご意志を問い質すような真似をするのは、不敬の極みだからです。

 そのときは、生きた心地がしませんでしたよ。

 然り、最初は怒りに顔を赤らめていた村長も、だんだんと真剣な顔になって私の言うことに耳を傾けてくれました。泣きながら、それでも必死に話したのです。

 そしてその夜、一緒に、村一番のシャーマンの家まで行ったのです。

 結果ですか?

 御年百を超える老婆が、悲嘆の涙に暮れました。この村の、いや、この星の命運は尽きたのだと。長く同胞の命を玩具にして楽しみ、その罪を神が怒られたのだと。

 報いだと、泣き噎びながら言いました。

 いったい何のことを言っているのか、分かりませんでした。村長も、おそらくはそうだったと思います。今でこそ東西ウィノア特殊軍の話を知っていますが、あのときはそんなもの、存在することすら知りませんでしたから。

 私は言いました。みんな、宇宙船で逃げよう、と。

 村長は、首を横に振りました。自分達は、この星に生かされてきた。ならば、死ぬときもともに死ぬのだ、と。

 私は、泣いて駄々をこねた。死ぬのが怖かったのもあります。でも、何もせずにただ死んでいくのが、何となく悲しかったのだと思います。

 しかし現実的な話として、貧しい村でしたから。どうやって宇宙港までの移動手段を確保するのか。村に、車は一台しかありません。星全体がパニックに陥っている中、外の人間に助けを呼んでも無駄です。

 子供が、選ばれました。出来るだけ多くの人間を避難させるなら、そのほうがいいと。

 私も、その一人でした。どうして私が選ばれたのか、今でも分かりません。ひょっとしたら、子供の中で一番占いが上手だったのが私だったからかも知れません。

 出発の朝、両親は笑いながら私を見送ってくれました。自分達は死ぬのではない。神様の御許へと旅立つのだと。お前もどうせ後から来ることになるのだから、寂しがることはない。ただ、できるだけゆっくりと来て欲しい、と。

 選ばれなかった子供達は、皆一様に、不思議そうな顔で私を見ていました。きっと、何が起きているのか、これから何が起きるのかを理解できていなかったのだと思います。

 でもただ一人、幼なじみだった女の子が、隣町に行ったらお土産を買ってくるようにと、私に小銭を渡しました。それは、幸運の象徴でもあるコインでした。

 彼女は、とても頭がよかった。今だから分かります。選ばれなかった彼女は、全てを理解していたのだと。そして、私の道行きの幸多からんことを願って、あのコインを寄越したのだ。

 私は、そのことに気づけなかった。あの時は、自分のことで精一杯で……考える度に、恥ずかしくなる。

 旅は、お世辞にも快適なものとはいえませんでした。でも、文句を言うわけにはいきません。自分達は、村に残ったみんなの命を、頂いているのですから。

 ようやく宇宙港についたのは、その三日後のことです。

 港に泊まっていたのは、惑星ウィノアを脱出する、最後の船でした。

 ターミナルには、まだまだ人があふれかえっている。到底、一隻の宇宙船に積み込める人数ではありません。

 見るに堪えない、凄惨な争いが始まりました。

 私は、人間というものをあれほど恐ろしいものだと思ったことはありません。

 人の良さそうな白髪の老紳士が、年端もいかない女の子を蹴倒して、搭乗口へと駆けていくのです。その老紳士の後ろ襟を引っ掴んで、その妻らしき老婦人が先へ乗り込もうとするのです。

 殺し合いも、起きました。パニックに陥った民衆に、兵士が銃を向けました。

 たくさん、死にました。

 どうして私が船に乗れたのか、今でも不思議です。ただ、その時、村から一緒に来た子供達も、運転をしてくれた大人の姿も、見えませんでした。

 残酷なことだと思いました。彼らは、断腸の思いで村から出て、宇宙船に乗り込むことすら出来なかった。どれほど無念だったでしょう。せめて死ぬなら、みんなと一緒に死にたかったと思ったに違いありません。

 立錐の余地のない宇宙船の小さな窓から、惑星ウィノアを見ました。真っ赤な大地と青い海のコントラストの美しい、星でした。

 そして、私たちの宇宙船がゲートに飛び込んだ直後に、激しい衝撃波と大量の星間物質、そして強烈な放射能が惑星ウィノアを襲いました。

 亜光速で飛来したそれは、瞬きよりも早く、惑星ウィノアに取り残された人々の命を奪ったでしょう。

 おそらく、苦しむ暇もなかったと思います。それだけが、私の心を慰めてくれます。

 しかし、本当の苦難が始まったのは、それからでした。

 故郷を失い根無し草となった我らを待ち受けていたのは、好奇と非難の視線、そして無関心でした。

 その時点で私は初めて、東西ウィノア政府が何をやってきたのかを知りました。そして、五万人という特殊軍兵士が虐殺されたことも、ウィノアの亡霊と呼ばれる怪異のことも。

 世間が私たちに向ける視線は、避け得ない天変地異の哀れな被害者に対するものではなく、戯れに命を奪い続けた非人道主義者に向ける、汚物を睥睨するようなものでした。

 仕方のないことだと思います。世間的には、惑星ウィノアの崩壊は新型エネルギープロジェクトの失敗により惑星全体が放射能汚染されたことが原因とされているのですから。欲の皮の突っ張った悪人達が、その罪に相応しい結末を得たのだと、自業自得だ因果応報だと、どこにいっても冷たい視線で見られた。

 当然、まともな職に就けるはずもない。私は、日がな一日ゴミ箱の中の空き缶を漁り、それをリサイクル工場まで持っていって、ようやく一日を食いつなぐだけの金銭を得ていました。毎日毎日、空腹を抱えていた。

 ある日、どうにも耐え難くなって、幼なじみからもらった幸運のコインで、パンの耳を買いました。崩壊したウィノアの硬貨だから、ほとんど価値はありません。パン屋の店主からすれば、小汚い浮浪児に施しをやった程度のものだったのでしょう。

 私は、涙を流しながらパンの耳を囓りましたよ。この世にこんなに美味しいものがあるのかと、うれし涙を流しながらね。

 最低だと思いますか?

 私は、思います。

 そんな生活が、三年も続いたでしょうか。

 私は、日々荒んでいきました。あまり大きな声では言えませんが、犯罪にも手を染めるようになった。

 誰が悪いと言えば、それは間違いなく私です。ウィノア難民の同胞には、私よりも遙かに苦しい日々を送っていた者も数多くいたはずなのに、その全員が犯罪者に堕ちたわけではない。なら、環境ではなく私個人の方にこそ原因があると考えるべきでしょうから。

 麻薬の売人は、かなり実入りのいい仕事でした。鼻薬を嗅がせられる警官と、そうでない警官の見分け方さえ間違えなければ、安全な仕事です。敵対する組織からの襲撃の危険は常にありましたが、私には的中率の高い占いがある。よほどの不運に出会わない限りまず大丈夫でした。

 え?どうして占いで生計を立てなかったかって?

 駄目ですよ。あれはね、もっと雰囲気がある人がするから商売になるんです。あの頃の私は、やせっぽちで血色の悪い浮浪児でした。どこからどう見たって、ありがたみの一欠片もない。そんな人間に占ってもらって、誰がお金を払おうと思いますか?

 ついでに言うと、占いをギャンブルに使うのも駄目でしたね。公営のギャンブルでそんなことすれば、換金所で通報される。上手に換金できたときは、その金はいったいどこから盗んだのかと豚箱にいれられました。かといって非合法の賭場に私みたいなのが足を踏み入れた日には、生きて太陽の光を見ることは二度と出来なくなるでしょう。

 結局、人間はまじめに働かなくてはいけないのでしょう。誰かがそう定めているのだと思います。

 でも、そんな生活が長続きするはずもありません。

 限界を迎えたのは、体ではなく、心の方でした。故郷を失ってから、心の頼りになるのは故郷のことだけ。それ以外のことは、苦しくてすぐに忘れてしまう。

 ああ、自分は一歩も前に進めていないんだなと気がついたとき、全てが馬鹿らしくなりました。

 帰ろうと思いました。

 みんなには申し訳ないけど、帰ろうと。そこで、みんなと一緒に、故郷の土になろうと。

 その結論にたどり着けたとき、私がどれほど幸福を感じたか、おそらく誰にも理解できないと思います。

 その次の日からの三年間は、必死で金を貯めました。個人用の宇宙船をレンタルするお金を稼ぐためです。

 当然のことですが、惑星ウィノアに向かう航路は、全て廃止されています。あんな、ただ赤茶けただけの死の星に観光に行く物好きもいませんから、そこまで辿り着こうと思えば個人的に宇宙船を飛ばすしかない。

 どうして、例えば宇宙船の乗っ取りをしようと思わなかったのか、今でも不思議に思います。どうせ生きて帰るつもりはないのですから、そうしたほうが遙かに手っ取り早い。

 たぶん、そういう方法で、故郷に帰りたくなかったのでしょうね。あの場所に帰るときは、せめて綺麗な手段で。そんな意地だったのではないでしょうか。その時点で私は殺人の罪も犯していましたから、そんな意地を張ったところで、私の手が綺麗になるわけもないのですが。

 とにかくそうしてお金を貯めながら、ゴミ山から拾った宇宙船教本を読みあさり、船の操縦方法を覚えました。人間というものはしっかりとした目標があればあれほどがんばれるのだと言うことを、初めて知りました。

 もちろん、お金があり、宇宙船の操縦法法を知っていれば、それだけで船をレンタルすることが出来るわけではありません。宇宙船を操縦するには歴とした資格が必要で、それがない人間には宇宙船のレンタルが不可能だからです。

 資格の身分証は、偽造しました。手製の、今考えるとみっともないものだったのですが、レンタルショップの店員に袖の下を渡せば、なんとか借りることができました。あっちも、自分はだまされたのだという体裁さえ取り繕うことが出来れば、何かあったときはきちんと保険がおります。それで十分だったのでしょう。

 初めて宇宙船の操縦桿を握ったときは、滑稽なほどに体が震えました。私は、シュミレータすら一度もしたことがない、本当の素人です。教本の知識だけは山とありましたが、そんなものだけで船が操ることが出来ないことなど、小さな子供にだって分かります。

 でも、よく考えれば自分はこれから死にに行くのです。それが今になったからといって、どんな不都合があるでしょう。離陸に失敗して死ねば、故郷の土に還ることが出来ない。それは残念なことですが、それもまた運命なら仕方ない。

 そう考えたとき、肩の力が抜けました。胸の奥で、息苦しさを作っていた塊が、すうと消えてなくなったのです。

 私が、おっかなびっくりでも宇宙船を離陸させられたのは、きっとそのおかげでしょう。

 旅の途中のことは、ほとんど覚えていません。ただ、味気ない宇宙食を食べ、排泄し、寝ました。目的の宙域までは感応頭脳がオートパイロットで進んでくれます。唯一緊張したのはゲートを跳躍したときですが、それも離陸の瞬間ほどには恐ろしくありませんでした。

 旅は、二週間程度のものでした。

 ついに、私は、故郷に帰ってきました。

 大気の失われた惑星ウィノアは、真っ赤な星でした。それは、地表に降り立ったときも変わりません。

 宇宙服のヘルメット、その強化プラスチック越しに見た故郷の星は、驚くほどに変わっていなかった。緑はどこにもなく、海は蒸発してしまっていましたが、大地はまだ、私の知る大地のままでした。

 山は形を変え、人家は消し飛び、どこにも見知った地形はありませんでしたが、それは私の故郷だったのです。

 そして、旅の終点でもある。

 ああ、よかったと、そう思い、生命維持装置の電源を落としました。

 これでしばらくすれば、酸素がなくなります。緩やかに死んでいけるでしょう。

 最後に目に焼き付けるべき光景を探して、くるりと辺りを見回しました。

 そこで、私は出会ったのです。


「……何に、出会ったんだ」

 ケリーは、自分の声が掠れているのを自覚していた。
 アーロンは、閉じていた瞼を持ち上げ、目を見開くようにして言った。

「天使に、ですよ」

 ケリーは、信じられない言葉を聞いたかのように、問い返した。

「天使だと?」
「ええ、天使です」

 アーロンは、魚のような瞳を初めて和らげて、微笑していた。
 恥ずかしげに、耳の裏を掻きながら、意中の人を打ち明ける少年のように。

「私は、天使と出会った。その時に、私は天使に恋をしたのです」



[6349] 第四十三話:鎮魂歌
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/07/11 00:57
 老人の口元が、密を含んだように綻んでいた。
 照れくさそうに耳の後ろを掻いている。
 皺の浮いた頬を赤らめ、死んだ魚のような眼を細めて。
 男は、微笑んでいた。

「天使と出会った、だと?」
「はい。私は、天使と出会ったのです」

 ケリーの問いに、アーロンは、もう一度大きく頷いた。

「赤茶けた大地、形を変えた大地。あらゆるものが姿を変えてしまった大地の上で、彼の人は歌っておられた」

 大気のない星の上である。
 そこは、宇宙の真空空間とほとんど変わらない。
 音が伝わるはずがない。いや、そんなところに生身で立っていては、数秒も保たずに人は死ぬ。
 焼けるか、凍るか、破裂するか、押しつぶされるか。
 とにかく、死ぬ。
 だが、それは、その人は、その御方は、ただ、立っていた。
 そして、歌っていたのだ。

 ──あなたの家に、この者達を、お招き入れください。
 ──疲れた肩をもみほぐし、旅塵に汚れた赤子を拭き清めてください。
 ──最後の時に、あなたを思った魂に、大きな哀れみを。
 ──わたしの潰れた喉で、希います。
 ──終末の時に、彼らの魂が安らがんことを。
 ──跪き、ひれ伏して、お願いします。
 ──灰のように砕かれた彼らの御霊に、出来うる限りの救いを。

 大気のない星が、風をそよがす。
 彼の人の長い黒髪が、草の海のように、柔い風の中を泳いでいく。
 光が、微細に砕かれた水晶となって彼の人に付き従う。
 白い肌。なめらかな頬を、ひときわ大きな水晶が伝い落ちていく。
 長い睫で飾られた瞳から、とめどなく水晶がこぼれ落ちていく。
 両の手は、祈るように胸の前で組まれ。
 一心に、一心に。
 彼の人は、歌っていた。
 紅よりも鮮やかな唇から、星そのものを慰める歌が紡ぎ出される。
 病みつかれた者を癒す声。
 みなしごを暖かい場所へと誘う声。
 全てを許し、全てを与える声。
 赤一色の大地の片隅で、誰に見られるでもなく、誰に聞かせるでもなく。
 淡々とこだまするこの歌は、ゆるゆると、死者を彼岸へ送り届けるだろう。
 ああ、そうか。
 この人は、悲しいのだと、理解した。

「私は、既に自分が生きていないのだと思いました」

 この世のこととは思えなかった。
 この世のことであると信じるには、其の人はあまりに美しすぎた。
 この世のおとであると信じるには、其の声はあまりに美しすぎた。
 男は、自分が涙を流していることに、気がつけなかった。
 機密性の保たれたヘルメットの中で響いているのが、自分の慟哭だとは気がつけなかった。
 涙を垂れ流し、嗚咽を垂れ流し、荒涼とした大地に跪き、何を考えることすらも出来ずに。
 男は、天使を見上げていた。

「その時、私は理解しました。この人が、惑星ウィノアを滅ぼしたのだ、と」

 かすかに震える旋律は、後悔でも贖罪でもない感情で彩られていた。
 そうだ、悲しいのだ。
 この人は、悲しんでいる。
 悲しみという感情に色があるならば、きっと今のこの人の髪の色のように、光を飲み込む黒さだろう。
 自分の愛し子を、自分の手にかけなくてはならない、悲しさ。
 自分の声が、誰にも届かない悲しさ。
 今、自分が眼にしている光景。荒涼とした大地に、誰もいない、何も動かない。
 それが、悲しくて悲しくて堪らないのだ。
 だから、泣いている。
 泣き声を歌にかえて、歌っている。
 誰のためでもない。自分のためでもない、歌だ。
 今はない、何かを惜しむ歌。
 前ではなく、後ろだけのために歌われた歌。
 だからこそ、からっぽだった男の胸には、その歌が、形良く収まった。
 最初からそこにあるべきものだったのだ。
 そして、男は恋をした。
 
「どれほどの時間が流れたでしょう。私は、いつの間にか生命維持装置の電源をつけていました。死ぬのが嫌だったというよりは、その歌を聴けなくなるのが嫌だったのだと思います」

 天使の姿は消えていた。
 それでも、歌だけが聞こえる。美しい、身を捩りたくなるほどに美しい歌が、鼓膜を優しく振るわしている。
 やがて、その歌の最後の甘さが虚空の中に消えたとき、男は立ち上がっていた。
 そして、一歩。
 もう使うことはないだろうと思っていた、おんぼろの宇宙船に向けて、一歩。
 男は、歩いた。
 それは、彼が故郷を失ってから初めて歩む、一歩だった。

「それから、私は身を粉にして働いた。今までの私を嘲笑うような幸運の数々が舞い降りて、たちまちに私は大富豪の仲間入りを果たした。美しい妻を得た。子宝にも恵まれた。それでも、私の心が満ちることはなかった」

 会いたい。
 天使に会いたい。
 一目でいい。会うだけでいい。遠目から眺めるだけで構わない。
 愛されたいとは思わない。触れるなんて恐れ多い。手に入れようなんて烏滸がましい。
 ただ、会いたい。どうしても会いたい。
 その一心が、男を支えていた。

「天使の伝説がある星は、全てに足を運びました。中には天使を見たという人もいた。大仰な奇跡譚もあったが、それは全て嘘っぱちでした。どこに行っても、私は彼の人の残り香さえ感じることはできませんでした」

 どれほど追いかけても、彼の人には出会えない。
 男は、絶望した。
 絶望して、絶望して、絶望して。
 そして、気づいた。

「追い求めて出会えないならば、お呼びすればいいのですよ。私が、彼の人を、私の下へと招けばいい。なるほど、なんと単純でしょうか。これほど簡単なことに気づけなかったなど、お笑いぐさ以外の何物でもありますまい」

 くすりと、アーロンは笑った。
 眼に、異様な熱が点っている。
 狂気、ではない。狂った人間というものを、ケリーは嫌というほどに見てきている。
 どろどろとした、コールタールの腐ったような、おぞましい黒。ネズミやゴキブリですらが腐臭に顔を顰めるような、おぞましい黒。
 それとも、全てを失った空白。
 だが、この男の視線には、そういった異様がない。
 その代わりに、熱がある。
 燃えさかる炎とは違う。全てを焼き尽くす燎原の大火ではない。
 とろとろと、肉を柔らかく煮るための、鍋にかける火のようだ。
 決して強くはない。肉を焦げさせてはならないし、鍋を吹き零してもいけない。
 しかし、決して途絶えることのない、火。
 肉が軟らかく煮えるまで、とろとろと、とろとろと、鍋底をあぶり続ける、粘着質な火。
 この男の眼には、一つのために全てを切り捨てた、取り返しのつかない熱が込められているのだ。

「一つ、いいかい?」

 ケリーは、自分の声が掠れているのを自覚した。
 皮肉を装った声も、意識しなければ出すことができない。

「どうぞ、存分に」

 魚の笑ったような顔で、アーロンが答えた。

「俺の知る限りじゃあよ、あの星に起きたことは、虐殺された特殊軍兵士の怨念がそうさせたっていうぜ。天使がやらかしたなんて、そんな馬鹿な話、一度だって聞いたことはないんだがね」
「なるほど、特殊軍の怨念とやらを体現なさる方が言うと、なかなか真実みがある」

 アーロンは鷹揚に頷いた。

「だが、それを言うならば、死者はどこまでいっても、どれほど積み重なろうとも、死者の域を出られません。死者が生者に害を為そうなど、正しく片腹痛い。どれほど滑稽であろうと、どれほど嗟嘆であろうと、この世は生者が織りなすもの、肉無き者の出る幕など、どこにもありはしませんよ。例えば、あなた自身が大虐殺に関わった人間を片端から殺して回ったようにね」

 ウィノアの亡霊と呼ばれた男は、眉一つ動かさない。
 ただ、目の前に座った男の、焦点の合わない瞳を睨み付けている。

「ならば、どうしてあれが天使の仕業だってことになるんだ?俺の知る限りじゃあ、天使だって幽霊やら亡霊やらと変わらないくらいに眉唾なものだと思うんだがな」
「では、試みに問いましょう。どうして惑星ウィノアは、あのようなかたちで滅びなければならなかったのですか?そこに、天使という存在を抜きにして、あのような天災を語れるものですか?」

 ケリーは、口を開かなかった。
 相手が、それを望んでいるとは思えなかったからだ。

「たまたま、遠く離れた宙域で赤色巨星が寿命を迎えようとしていた。たまたま、その赤色巨星と惑星ウィノアをつなぐゲートが存在した。たまたま、そのゲートに固定化とかいう訳の分からない現象が生じた。たまたま、超新星爆発を起こすタイミングに、惑星ウィノアはそのゲートの前を通る軌道にあった。たまたま、そのゲートを塞ぐためのジャマーが機能しなかった……」

 熱に浮かされたように、アーロンは語った。
 たまたま、たまたま、たまたま。
 全てが、偶然だと。彼自身、一縷だって信じていない有様で。

「そして、たまたま、その星では、人類史上類を見ないような、非人道的な虐殺行為が行われ、無数の救われない魂が悲嘆の声を上げていた」

 そう、例えばあなたの友人達のように。
 アーロンは、そう締めくくった。
 しっかりと糊の利いたシャツの下で、ケリーの体がむくりと膨れあがった。
 怒りに、全身の産毛が逆立っていた。

「この全てのたまたまを、たかが怨霊ごときが成し遂げたと?それとも、怨霊の無念を体現する、あなたのような人間が独力で成し遂げたと?ふん、それこそおとぎ話、勧善懲悪の怪奇小説だ。もしもあなたが、この時期に、既にクレイジーダイアンと人の呼ぶ感応頭脳と出会っていたとしても、出来たのは、そうですな、無粋なジャマーを排除するか、それとも無効化するか程度のものだったでしょうね」

 ケリーは、答えなかった。
 否とも応とも言わない。

「何が惑星ウィノアの崩壊を招いたのか、それは分かりません。もしかすると大虐殺とは全く関係のない事柄だったのかも知れないし、それとも本当に特殊軍兵士達の無念だったのかも知れない。だが、それはただの切っ掛けであって、崩壊をなさしめたものは全く別であるはずです」
「あんたは、それが天使だと言いたいんだな?」

 アーロンはにんまりと笑い、

「一連の全てが天の意志であるとするならば、それを顕現するために使わされる存在こそを天使と呼ぶのです。ならば、あの一連の悲劇は、全てが彼の人の掌の上で行われたこと。私は、そう確信していますよ」

 アーロンは、忘我の表情で目を閉じた。
 彼の脳裏には天使の歌声が響き渡り、天使の悲しげな顔が映し出されているのだろう。
 ケリーには、それが許し難かった。理由は、分からない。

「じゃあ、あんたはどうして俺を恨まないんだい?」

 ケリーの声に、アーロンは目を見開いた。
 白目の中に黒目がまん丸と浮かぶほどに、かっと見開いた。
 そして、心底不思議そうに言うのだ。

「失礼ですが、ケリー、あなたは私の話を聞いてくれていましたか?」
「あんたに、そう馴れ馴れしく呼ばれる覚えはねえな」
「では、海賊王とでもお呼びしましょうか。とにかく、私はあなたのおかげで──あなたがた、東西ウィノア特殊軍のおかげで、あの方と出会えた。私は、生きる目的と出会えたのです。なら、その恩人を、どうして恨むことなど出来るでしょうか。あなたは、私にとって、命を救ってくれた大恩人なのですから」
「何がウィノアの崩壊の切っ掛けになったか分からないってわりには、ずいぶんと買いかぶってくれるんだな」
「それはもう。少なくとも私自身は、あれが全て貴方方を慰めるための喜劇であったのだと知っていますから。あなたたちを無理矢理に喜劇の舞台に立たせていた劇作家と観客たちは、今度は自分達が無理矢理に喜劇の舞台に立たされるはめになったのです。無論、私も含めたところでね」

 故郷を、両親を、初恋の少女を、全てを失ったはずの男は、こともなげに言った。
 ああ、そうか、と、ケリーは理解した。
 全てが、逆転しているのだ。
 この男は、全てを失ったから、天使などという奇跡と出会ってしまった。
 だが、この男は、全てを失ったからこそ天使と出会えたのだと思い込んでいる。
 そして、その切っ掛けを作った、自分たち特殊軍に感謝しているのだ。それが、彼から全てを奪い去った原因にもかかわらず。
 ケリーに口中を、限りなく苦々しい何かが満たした。それを取り除くために、コップの水を一気に呷った。

「……なるほどね、よく分かったぜ。あんたがいかれちまってるってことがな」
「ええ、その通りです。私は、心底天使に狂っている」

 そのことを、自覚している。
 狂気に堕ちながら、しかし己を見失っていない。腐り、肉が融け落ちていく精神を直視しながら、まだ自分を保っている。
 むしろ、己の腐り落ちていく様子を、求めている。
 目の前で笑っている男は、歴とした狂人だった。それも、筋金入りで狂っている。
 では、その狂人が、何故自分を己の居城にまで招いたのか。
 気まぐれなどではありえない。まして、本当にお礼を言うだけなど、どう考えてもおかしい。
 狂人であるが故に、それなりの行動原理を備えた上で、自分が必要だからこそ巣穴に招待したと考えるべきであった。

「一応言っとくがよ、俺はあんたの恋する天使さんの電話番号なんて知らねえぜ?」

 ケリーは巫山戯ながら言った。
 そして、目の前の男の顔色を注視する。
 男の顔色は、露程も変わらない。

「ええ、知っていますよ。むしろ、あなたが天使の所在を知っているとしたならば、私は嫉妬であなたを殺してしまうかも知れませんね」

 ケリーは苦笑した。
 事実、彼はいつだって天使と連絡を取ることが出来るのだ。それが、この男の言う天使と同一かどうかを別にして。
 ケリーは、悠然とした様子で長い足を組み、憎々しいほどに落ち着いた声で、言った。

「じゃあ、なんで俺をこんなところにまで招いた。お為ごかしはもういいさ。そろそろ本当のことを言ってくれねえと、胸焼けの一つも起きちまうってもんだぜ」
「あなたには、最後の仕上げをお願いしたい」

 アーロンはテーブルの上に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せた。
 焦点の合っていない、魚めいた瞳に、病んだ光が点る。
 その、得体の知れない威圧感。ケリーも、長い人生のうちで、これほど奇妙な男と相対したのは初めてだった。
 己に危害を加えようとしているわけではない。騙して利得を奪ってやろうと思っているわけでもない。
 自分に向けられているのが、ある種の好意であることも分かる。
 にもかかわらず、いや、だからこそ、この男の前にいるのが耐え難い。同じ空間で息をするのが拷問に近い。
 ケリーは、半日ほど顔を見ていない自分の妻の顔が、恋しくなってしまった。

「最後の仕上げだと」
「ええ、私がこれからすることの、最後の仕上げです」
「何をしろってんだよ」
「私は何も強制しません。あなたのしたいように為さってくれればいい」

 男の声に、抑揚はない。
 先ほどまで男を包んでいた感動も、ない。
 じっとりと粘ついた、湿度のようなものがあるだけだ。

「言ってることがわかんねえよ」
「さっき言ったとおりですよ。私は、この星に天使を招きたい。そのための最後の仕上げを行うのが、あなたということになりますか」
「天使を招くだと?」

 アーロンは、頷いた。

「何故、あの時、あの場所に天使がいたのか、私は考えました。昼夜を問わず、必死にね。そして、ある結論に辿り着きました」
「へぇ、どんな」
「天使はね、惑星ウィノアが滅びたから、あそこにいたんですよ」

 だからね、と続ける。

「もう一度ウィノアが滅びれば、あの方は、もう一度姿を見せてくださるんですよ」

 ケリーの背筋に、冷たいものが走った。

「簡単なことじゃないですか。だからね、私は、この星に惑星ウィノアを作るんです」

 アーロンは、大きく手を広げた。
 まるで、自分を見ている天使に、歓迎の意を伝えるように、大きく、大きく、天を掴むように。
 その顔は、無限の至福に満ちていた。

「いったい何が、天使をあの星に使わし、そしてあの星を滅ぼしたのかは分かりません。しかし、あの星の何かが、天には許し難かった。だからこそ、天使があの星を滅ぼした。ならば、そっくりそのまま、あの星と同じ星を作り出すことが出来れば、天使は再び舞い降りるに違いありません。そうすれば、そうすれば、私は再び天使と出会うことが出来る!もう一度会うことができるんですよ!」

 狂っている。
 そんなこと、出来るわけがないのだ。
 よしんば出来たとして、その天使とやらが姿を見せる道理はないはずだ。
 だが、この男の中で、それは既定した事項であった。

「そして、神は私に微笑んでくださった」

 満面の笑みを浮かべたアーロンが、感動に声を震わしながら言った。

「最も難しいと、内心で諦めていたというのに、神は哀れな子羊に、救いの手を差し伸べてくださったのです」
「……何のことだ」
「先ほども見たでしょう、私の愛し子達を」

 ケリーの体が、はっきりと強張った。
 琥珀色の左目に灼熱が宿り、虚空を写した右目に滅びが宿る。
 憤怒に顔がゆがみ、総身の毛が逆立つ。
 鬼が、いた。

「てめえ、何をしやがった」
「言ったでしょう、私は、この星にウィノアを作る、と」
「きさま……」
「なら、ウィノアの象徴たる彼らを、起こさないわけにはいかないじゃないですか。放射能にやられて、ほとんどの死体は使い物になりませんでしたが、ほんのごく一部、まだ使い物になるものがあった。あの大穴の奥底に廃棄されたもののうち、できるだけ状態のよかった骨の髄から遺伝情報を抽出し、培養する。まさか成功するとは思いませんでしたよ。彼らの瞳が開くのを見た瞬間、私は確信しました。やはり天は、私の為すことに寵をくださっているのだと」

 ケリーの口から、ばきりと、硬質な音が響いた。
 噛み締めた歯の、砕ける音であった。
 
「墓を……あいつらの墓を、暴きやがったな!」
 
 この場合の笑顔は、肯定以外の何物でもなかった。
 
◇ 

 ああ、そうだった。
 どうして、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
 全てを、思い出した。
 戦が、あったのだ。
 大きな大きな、世界そのものを揺るがすような戦だ。
 広大な宇宙の隅々にまで剣戟の音を響かせて、生きとし生けるもの全ての鼻腔を血臭で満たして。
 我々は戦った。
 女も子供も、老人も、病で倒れたものも。
 全てが、死力を尽くして戦った。
 負ければ、死ぬからだ。
 降伏は意味をなさない。皆殺しにされるだろう。
 だから、戦った。
 剣を持てる者は剣を持ち、盾にしかなれないものは盾を持ち。
 我々は、戦った。
 侵略者は、恐るべき相手であった。
 この世界に住むどういう生き物とも違う、異形の生物。
 悪夢の海から這い出してきたとしか思えない、醜悪な容貌。
 人智を越えた力を振るい、屈強な戦士たちを紙のように千切り捨てていく。
 趨勢は、明らかだった。結果など、火を見るまでもない。
 降伏は意味をなさなかった。皆殺しにされた。
 私と、私の妻と、私たちの主以外は。
 私たちは、逃がされた。
 私は、最後まで戦うと言ったのに。
 妻は、共に死のうと言ったのに。
 主は、悲しそうに微笑みながら、何も言わず。
 私たちは、一度だって見たことのない、森の中にいた。
 逃がされたのだと、理解した。
 私は、地に伏せて泣いた。
 今まで苦楽をともにしてきた仲間達と、一緒に死ねないことが悲しかった。
 そんな私を、妻は慰めてくれた。
 肩に天鵞絨のような毛皮をこすりつけ、頬を暖かい舌で舐めてくれる。
 妻も、泣いていた。紫水晶に似た瞳から、とめどなく涙が溢れていく。
 彼女の群れも、皆殺しにされたのだ。
 もう、彼女一匹だ。
 もう、誰も、彼女とともに歌うことはない。
 もう、彼女の遠吠えは、一人空しく夜に響くだけだ。
 どれほど悲しいのだろう。どれほど恐ろしいのだろう。
 どれほど、心細いのだろう。
 彼女の、四つの足が、生まれたばかりのように震えていた。
 私は、妻を抱きしめた。
 私も、溢れ出る彼女の涙を舐め取った。
 誰に毛繕いをされることもなくなって、ごわごわになった毛皮を、優しく噛んでやった。
 奇妙に塩辛い味が、何よりも彼女に相応しいと思った。
 そして、愛し合った。
 私も妻も、二つ足で立つ獣の姿になり、柔草の絨毯の上で、いつ果てるともなく交わった。
 毎日、毎日。
 真っ赤な果実が、だんだんと熟していくような、甘美な日々だった。
 朝起きれば、目の前に、最愛の人の寝顔がある。
 共に狩りをし、どちらの獲物が立派かを競い合った。
 肉を思うさまに貪り、ときには野を駆け、ときには湖を泳ぎ。
 夜は、満天の空の下、精根尽き果てるまで絡み合い、疲れたら抱き合いながら眠った。
 誰に邪魔もされない。他の何者もいらない。
 夢のように安らかな、日々だった。
 いずれ、彼女の腹の中に、私の子供が根付いたと知らされたとき。
 全てが、終わりを告げた。

 心臓が、早鐘を打っていた。
 どくどくと、酸素のたっぷりと溶け込んだ血液が、体中に送り出されていく。
 何のためかと、問うまでもない。
 駆けるためだ。戦うためだ。奪い返すためだ。
 この手から奪われた、最愛の雌を、この手に奪い返すのだ。
 あの柔い肌を、銀色の髪を、竜胆色の澄んだ瞳を。
 誰にだって触れさせてなるものか。
 あれは、俺のものだ。俺だけのものだ。
 あいつは、俺のものなのだ。
 俺の、雌だ。
 あの身体を思うさまに味わっていいのは、俺の舌だけなのだ。
 だから、今すぐに起きろ。夢の世界の残滓など、綺麗さっぱり振り払え。
 あの時は、駄目だったじゃないか。
 今度こそ、間に合えよ。
 起きろよ。
 今すぐ起きろよ、俺。
 起きろよ、シャムス。
 起きろよ。
 インユェ。

 目覚めと同時に、体が覚醒した。
 少年の体を、ぬるりとした汗が濡らす。前髪が額に張り付いて、払っても払ってもべったりと言うことを聞いてくれない。
 心臓が、破裂寸前に騒いでいる。もう、あと少しでも燃料が注ぎ込まれれば、エンジンそのものが焼き付いて使い物にならなくなるに違いない。
 ああ、そうだ。
 最後の光景が、胸を抉り取りたくなるような後悔と共に、蘇った。
 また、助けられたのだ。
 屋敷に突入してきたのは、自分達と同年代の、子供だった。
 歯が立たなかった。
 まるで、炎が乾いた草原に放たれたかのように、隠れ家は彼らに侵略された。
 自分の、せめてもの抵抗など、歯牙にもかけてもらえなかった。
 
『逃げよう』

 一緒に逃げよう。
 そう言った。
 どこかで聞いた台詞だ。どこかで、誰かが、自分に向かって言った台詞だった。
 なのに、黒髪の少女は、淡く微笑んで、自分の足を指さして。

『この足では、逃げられない』

 その通りだ。
 大穴の開いた足では、人は走れない。
 人は、二つ足で立つ、獣なのだから。
 ああ、そうだ。
 もし、自分に、四つの足があるならば。あの時の彼女のような、体ならば。
 自分の背に、この少女を乗せて、思うさまに駆けることが出来ただろうに。
 歯痒かった。また、自分は助けることが出来ないのか。
 その時、遠くから、低く這うエンジンの音が聞こえた。
 今度こそ、姉さんだと分かった。

『ウォル!姉さんが、今度こそ姉さんが帰ってきた!』

 背後で、鉄拵えの扉が、悲鳴を上げていた。
 遠からず、押し入られる。一刻の猶予もない。
 なら、せめて、この少女だけでも。
 そう思った少年の視界が、僅かに揺らぎ、首の後ろに鋭い衝撃に気がついて。
 力の抜けていく四肢。霞んでいく視界。遠くなる意識。
 少年は、小さくなるような、声を聞いた。

『連中の狙いは、どうやら俺らしい。お前だけでも、逃げてくれ』

 嫌だ。
 いやだ、カマル。
 逃げるときは、君も一緒に──。

 そして少年は、助けられた。
 一晩で二度も。同じ、愛する少女から。
 己に対する殺意が、ぐつぐつと煮えたぎっている。地中奥深くから、赤々とした溶岩がそうするように、今か今かと爆発する時を待ち望んでいる。
 もし、この場に鋭いナイフが転がっていたならば、少年はためらいなく己の胸に突き立てていたに違いなかった。
 そして、少年は体を起こした。
 死に損ないだ。ならば、拾った命の使い方は決まっている。
 助ける。死んでも助ける。あの黒髪の少女を、絶対に。
 それが叶えば、この役立たずの命など、何ほどの価値があろうか。
 見慣れぬ部屋、初めて見る天井に、彼は刹那の恐れも抱かなかった。
 低いベッドから起き上がり、目の前にあったドアを開け放った。
 朝日に塗れた部屋には、見慣れた人物と、初めて見る人物がいた。
 粗末な木のテーブルを囲み、向かい合って座っている。
 ともに、長い髪の女であった。

「おう、起きたか、クソチビ」

 硬質な金色の髪を持つ少女が、物憂げに言った。
 いつもの、からかい口調ではない。喉の奥に感情をこし取るフィルターがあって、そういう、余裕とか皮肉とかいうものを根こそぎ奪い取られたみたいに、その声は重たかった。
 メイフゥ。少年の、双子の姉であった。

「姉貴。ヤームルとウォルは、どうした」

 少年の声である。
 だがそれも、昨日までの少年の声ではなかった。
 少年が少年たる、甘さとか溌剌さとか青臭さとか、もしくは若々しさとかいう装束を脱ぎ捨てた、男の声である。
 視線も鋭かった。
 怒りではなく、だかそれ以上に猛々しい感情に濡れた瞳を、自らの姉に向けている。
 明らかに、少年は、昨日までの少年ではありえなかった。

「ヤームルは、ウォルは、どうした」

 もう一度。
 メイフゥは、答えた。

「攫われた」
「誰に」
「んなもん知るかよ」
「何のために、ウォルは攫われなくちゃならなかったんだ」
「知らねえっつってんだろうが、この馬鹿」

 インユェはテーブルまで荒々しく歩み寄り、古めかしい木の板に、思い切り拳を叩き付けた。 
 朝食の盛られた皿が、一様に宙を踊った。

「ふざけてんのかよ」

 メイフゥは、座ったまま、弟の顔をじろりと睨めあげて、

「じゃあ、こう言えば満足か?ヤームルはぶっ殺された。ウォルは、決してあたし達の手の届かない地の底に連れ去られて、男達の慰み者にされている。かわるがわる下卑た男に乗っかかられて、今もお前の名前を泣き叫んでるってよ」

 インユェの脳裏に、文字通り最悪の結果が想像された。
 あの清冽な瞳が、美しい肌が、気持ちのいい笑い声が、見ず知らずの男の嬲り者にされているとしたら。
 喉の奥に、何か致死性の汚泥でもつかえたように、少年は咳き込んだ。テーブルに突っ伏して、涙を零しながら、懸命に咳き込んだ。
 背中を摩る姉の手にも気づけない有様で、少年は苦悶した。
 苦悶しながら、姉の襟首を、思い切りに締め上げた。

「げほっ、げほげほげほっ……、て、めぇえぇっ!」
「今さら何を慌てていやがんだ、このぼけなすが!昔っから、女が攫われるってことは、そういうことだろうが!そんなこともわからねえで、てめえは暢気にウォルを手放しやがったのかよ!」
「好きで手放したんじゃねえ!」
「当たり前だ!どこの世界に、惚れた女を好きこのんで手放す奴がいるか!だからてめえは間抜けってんだ!」
「うるさい、静かにしろ」

 二人の間に割って入ったのは、声だった。
 静かな、女の声だ。
 インユェは、声の主のほうへ振り向く。
 そこにいたのは、やはり女だった。
 姉よりも、さらに一回り大きい、恵まれた体格。
 緩やかにウェーブした、赤金色の髪の毛。
 ブルーとグレイの混ざったような、奇妙な瞳の色。
 極上の美人ではない。だが、一目見ただけで忘れがたいような、強烈な個性がある。
 不思議な女だった。

「あんた、なに?」

 感情を抑えた声と表情で、インユェは、その女に近寄っていった。
 きしきしと、不安定な床が、悲しげに啼く。
 その声すらが、今のインユェには鬱陶しかった。
 この世から、自分とあの少女以外、あらゆるものが消えて無くなればいいと思っていた。そうすれば、彼女を害するものはどこにもいなくなるのに。
 なのに、この女はなんだ。
 どうして、自分に命令するのだ。
 理不尽な怒りが、少年の胸中で燃えさかっていた。

「あんた、なんだよ。どうして、こんなところにいるんだよ。誰が、ここにいていいって言ったんだよ」
「わたしは、うるさいと言った。静かにしろと言った。それが聞こえなかったのか?」
「黙れよ。さっさと出て行け。あんたなんか、誰も呼んじゃあいないんだ。それなのに、俺に指図するんじゃねえよ。何様のつもりだよ、あんた」
「聞こえなかったなら、もう一度言ってやる。その、生まれたての雛鳥みたいにぴーちく喧しい口を閉じて、さっさと席に着け。そして、飯を食え。お前の姉が、お前のために用意した朝飯だ。ありがたく喰え」

 女が、悠然とした様子で、ミルクに浸したシリアルを口に運ぶ。
 インユェは、そのスプーンを、思い切りなぎ払ってやった。
 匙に盛られていたミルクとシリアルが飛び散り、女の顔を汚した。跳ね飛ばされたスプーンが部屋の壁にぶつかって、神経に障る音を立てた。
 その音が、少年には忌々しかった。

「次は、顔面を殴るぜ。それとも、そういうのがお好みかよ。なら、今すぐ真っ裸になって、ベッドの上で尻を突きだしな。優しく引っぱたいてやるよ」

 女は、インユェに一瞥をくれるでもなく、脇に置かれたナプキンで汚れた顔を拭った。
 そして、緩やかに立ち上がる。
 そうすると、女の上背は、インユェよりも遙かに高い。
 優に頭一つ分は高いところから見下ろされて、インユェは、僅かにたじろいだ。
 しかし、必死の強がりを込めて、女を睨み付ける。

「わたしに、面と向かってそういうことを言う男は、中々貴重だな」

 にやりと、不敵な笑みで笑う。
 そうすると、もとから印象の強かった顔立ちが、より鮮明に、蠱惑的な色彩を帯びる。  
 この女性には、こういう表情が何よりも相応しいのだと、インユェは理解した。
 そして、その瞬間に、左頬を恐ろしい力で張られていた。
 腰のあたりで回転するように、インユェはぶっ倒れた。
 天地がひっくり返ったのだと、勘違いした。

「まず一つ。わたしに被虐趣味はない。そういう女が好みならば、わたし以外の人間をあたることだ。ちなみに言うならば、君が想いを寄せる少女にもその傾向はない。残念だったな」

 インユェが、口の端から血を垂れ流しながら、必死に立ち上がろうとする。
 口が、意味のない言葉を発しながら、わなわなと動いている。
 振り返り、女を見上げる視線には、無限の憎悪が込められていた。
 ほう、と、女は内心で驚いた。この自分が、ほとんど手加減無しでぶん殴ったのに、こういう表情が出来るのかと、軽く眼を見張っていた。

「この、くそ、あまぁ……!」
「次に一つ。わたしは、わたしより年下の男に組み敷かれる趣味もない。君の年齢では、明らかに荷が勝ちすぎる。筆下ろしをしてほしいならいい女郎宿を紹介してやるぞ。君の器量なら、手取り足取り優しく教えてもらえるだろうさ」

 腹を、思い切り踏みつけられた。
 素足ではない。大岩が落ちてきてもびくともしないような、頑丈なブーツの靴底で、だ。
 ぐえ、と、かえるの潰れたような声が、口から飛び出た。
 苦痛よりも、羞恥で顔が赤らんだ。
 足を、必死にどかせようとするが、そこに根が生えたように動かない。
 少年は、床に貼り付けになった。

「最後に、もう一度だけだ。静かにしろ。そして飯を食え。それがお前の義務だ。これ以上駄々をこねるなら、口の中に腕を突っ込んで胃に直接飯をぶちまけてやるが、それでもいいか」
「ん、だとぉ……!?」
「惚れた女を、目の前で攫われたのだろう?それが悔しくて堪らないのだろう?なら、飯を食え。そして力を蓄えろ。今度は、惚れた女を奪い返してやるんだろうが。ならば、喰え」

 女が、少年の腹を踏みつけた足に、力を込める。
 少年の腹筋が、きしきしと、悲しげに軋んだ。
 少年の喉の奥から、獣の唸るような声が響く。
 少年の整った顔が真っ赤に染まり、こめかみに血管が浮く。
 少年の両手が、女の履いたブーツに食い込む。
 女の巨体が、僅かに持ち上がった。

「ほう、やればできるじゃないか」
「ど、け、って言ってんだ、この売女がぁ……!」
「根性は認めてやる。だが、口が悪いのは男としてみっともないぞ」

 女は、インユェの襟首をむんずと掴み、壁に投げつけた。
 それも、片手だ。
 インユェは受け身を取ることも出来ず、強かに背を打った。
 呼吸が止まる。白まった視界のあちこちが、無意味にちかちかとして鬱陶しい。
 ああ、このまま眠ることが出来たら、どれほど心地いいだろう。
 そういう、悪魔にも似た甘美な声が、少年の耳を優しく嬲った。
 だが少年は、必死の思いで体を起こした。
 そして、睨み付ける。目の前の女が、全ての元凶であるかのように。

「わたしもだ」

 女が、言った。
 顔に、苦渋が浮かんでいる。
 少年は、理解した。
 この女も、自分と同じだと。
 自分と同じ、自分に対する殺意と戦っているのだと。

「わたしも、目の前で夫を奪われた。為す術もなく、だ。あんな恥辱、生まれて初めて、いや、二回目か。あの男がわたしの目の前から消えていったのは、な」

 皮肉げに頬がつり上がる。
 瞳が、いつの間にか金色に染まっている。
 全身が、怒気に包まれて陽炎のように揺らいで見えた。
 
「わたしは、あの時のわたしではない。わたしは、この時のために鍛え上げたのだ。だから、わたしはわたしの夫を助ける。妻として、当然の権利を行使する。それを邪魔するやつは、誰であろうと、例え夫の初恋の女性であろうと、許さん。八つ裂きにしてくれる」
 
 鬼が、吠えた。
 少年を、戦慄が突き抜ける。
 インユェは、歯を噛んで体の震えを殺した。
 そうしなければ、自分は二度とこの女の前に立てなくなる。
 きっと、小便を漏らすだろうと思った。
 そんなことは認められない。もう、そんな自分はまっぴらごめんだった。
 強くなる。強くなりたい。その思いが、今の少年を支えている。
 痛む四肢に怒号を飛ばして、立ち上がる。
 そして、よろよろとみっともなく歩き、テーブルに着いた。
 目の前に、不細工な料理が並んでいた。
 自分が作れば、もっと見栄えよくできるのに。
 ふん、と鼻を鳴らして、箸を手にした。
 初めて食べる姉の手料理は、旨くもなく、不味くもなかった。

「わたしの名前はジャスミン。ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。しばらくの間、君たち姉弟と行動を共にすることになるだろう。まぁ、よろしくな」

 目の前で悠然とコーヒーを啜る女。
 インユェは目の前の女を睨み付け、口いっぱいにメイフゥの作った朝食を頬張りながら、忌々しそうに言った。

「俺の名前はインユェ。銀色の月って書いてインユェだ。よろしくな、くそおんな」

 咲き誇る竜胆のように鮮やかな、紫色の瞳が、憎悪に似た色で染まっていた。



[6349] 第四十四話:Alea iacta est
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/07/11 00:57
 朝食が済んだタイミングを見計らうようにして、ジャスミンの手首に巻かれた通信機が、電子音を鳴らした。
 
「朝ご飯は終わった?」

 年若い女性の声が聞こえた。
 綺麗な発音で、堂々とした声だった。声の若さの割に、やや落ち着きすぎている気すらしてしまう。
 その声の主に、ジャスミンが答えた。

「ああ、ちょうど終わったところだ」
「そう、よかったわ。じゃあ、そろそろね」

 嬉しそうな声に、何か、怖いものが混じっている。
 その声を聞くジャスミン以外の二人──メイフゥとインユェの耳に、ぞくりと、背筋を冷たい指でなぞられたような違和感が走った。
 遊園地で風船を配る可愛らしいマスコットキャラクターの、風船を配るその手に、鋭い刃物を見つけてしまったような違和感、そしておぞましさ。
 だが、その気配を放っているのは、姿の見えない声の主だけではなかった。

「ああ、そろそろだろうな」
「そろそろ、こちらの番よね」
「そうだ、何だってそうだ、オフェンスとディフェンスの役割は入れ替えてもらわないと、ゲームも面白みがなくなってしまうからな」
「おいたの過ぎる悪ガキには、きつくてでっかいお灸を、たっぷりと据えてあげないとね」
「正しくそのとおりだ。それはもう、嫌と言うほどに、嫌と言おうが泣き叫ぼうが聞く耳を持たないほどに、でっかくてきっついお仕置きが必要だとも」
「うふふふ」
「ふははは」

 ちっとも笑っていない声と顔で、二人の女傑は高らかに笑った。
 姉弟の背に、じとりと冷たい汗が滲んだ。
 この場合、恐ろしい味方というのは心強い味方のことと同義なのだが、何故か今の会話を聞いているとそうは思えない。強烈な抗がん剤が患者自身に強い痛みをもたらすように、あの二人は味方にとっても劇物なのではないだろうか。
 心持ち顔を青ざめたインユェが、隣に立った姉に、小声でささやく。先ほど、目の前の正体不明の女に痛めつけられた、体の節々が不吉に痛んだ。

「おい、メイフゥ。通信機の向こう側の奴はともかく、あのでかおんなは何者だよ。お前の知り合いなのか?」

 同じく声を潜めたメイフゥが、硬質な金の髪をがしがしと掻き回し、

「あたしだって、あの人が何者か、詳しいところは知らねえんだよ」
「知らねえ……って、そんな暢気なこと言ってて大丈夫かよ。これから、間違いなく荒事が待ってるんだぜ。いざって時に足を引っ張られたらかなわねえぞ」
「ああ、そいつは大丈夫」

 メイフゥは、頬を引き攣らせるように笑い、

「あの人、あたしより強えもん」

 その言葉を聞いたときのインユェの顔は、いっそ見物というべきであった。
 普段は端正な、そして僅かに険を含んだ表情が、見事なまでに抜け落ちて、これ以上ないというくらいに呆気にとられた顔になる。
 目は大きく見開かれて、顎が床に付きそうなくらい、だらしなく口が開かれる。
 鼻水が垂れていないのが不思議と思えるほどに、間の抜けた顔だった。

「お、おいおい、姉貴よう、今がどういう状況か分かってんのか?そんな、笑えない冗談を飛ばしてる場合じゃねえだろうが」
「ああ、その通りだな、お前にしちゃあ珍しく正論を吐くじゃねえか。だから、あたしは一言だって嘘は吐いちゃいねえよ」
「……冗談だろ?」
「何度も同じことを言わせるなよ。あの人はな、あたしと正面から、素手で、一対一で戦って、あたしを叩きのめしてくれたんだ」

 少年は、耳を疑った。次に、姉の正気を疑った。最後に、これが現実かと疑った。
 姉が、いつもいつも自分をこてんぱんにやっつける姉が、負けた。
 しかも、女に。
 ありえない。故郷の星でも、姉は最強だったのだ。どれほど腕に自信のある荒くれ者でも、片手であしらう姉である。本気の姉と正面から戦って生きていられるのは、自分達の育ての親であるヤームルくらいだろうと、弟であるインユェは信じていた。
 それが、負けた。
 目の前の女に。

「……信じられねえ」

 というよりは、信じたくないのである。
 それなりに腕に覚えのある人間は、自分の傍にいる最も強い人間をこそこの世で一番強い人間だと、我知らずに思い込んでしまうものなのだ。それが、自分を軽くいなすような強者であれば尚更である。
 インユェも、そう思っていた。姉は最強である、と。この世に、姉に勝てる人間はいない、と。
 その姉が、負けた。
 しかも女に。
 同世代のうちでは比較的現実対処能力の高いこの少年も、それを信じることができなかった。

「それとな、インユェ。もう一つ、信じたくないことを教えておいてやるよ」

 メイフゥは、自分よりも背の低い弟の肩を、優しく叩き、

「その人のケツをベッドの上で引っぱたいてやるって、さっき言ったんだぜ、お前」

 一瞬、なんのことを言われたのか分からない顔をしたインユェだったが、事態の恐ろしさに思いが至ると、滑稽なほどに狼狽した。
 元々色素の薄い肌の色は、皮膚の下にある血管が透けて見えるくらいに白くなっているし、サウナに入ったみたいに汗をだらだらと流している。おそらくは、全てが精神性の脂汗だ。
 インユェは、視線で姉に救いを求めた。嘘だと言ってくれと、必死にすがりつく。
 返答は、無慈悲であった。メイフゥは、心底お気の毒といったふうに、目を閉じながら首を横に振った。

「お、お姉ちゃん、どうしよう、おれ、殺される!」
「知るかよ、ばーか」
「し、知るかよって、そりゃねえよ、お姉ちゃん!」
「いい男ってのはな、てめえのけつくらいてめえで拭くもんだ。謝るなりぼこられるなり、さっさとかたをつけてこいよ」
「お、お姉ちゃん!」

 少年の姉は、いかにも無情な様子で割り当てられた自室へと引き上げた。
 目の前でバタリと閉じられた木の扉が、少年の瞳には絶望の象徴に思えた。
 椅子から半分腰を浮かした少年が、おそるおそると振り返る。
 そこには、歯を剥いた虎のような表情でこちらを眺める、長身の女がいた。

「さて、インユェといったか。君の姉の実力は嫌というほどに理解させてもらっているが、君がどの程度使えるのか、知っておきたい。腹ごなしに、どうだ?」

 手には、練習用ではない、実戦用のロッドが二本。
 くい、と顎でしゃくるようにして、表に出やがれと促している。

「ベッドの上で尻を叩かれて悦ぶ趣味は残念ながら持ち合わせていないが、こいつで殴ったり殴られたりにはそれなりの造詣がある。このわたしに、あそこまで啖呵を切ったんだ、まさか腹が痛いとか、そういう情けない逃げ口上は言わんだろうな」

 ──ああ、ウォル。俺はここまでみたいだ。願わくば、君の前途に幸多からんことを……。

 思い切りに項垂れた、死人のような顔色のインユェは、とぼとぼとした足取りで、先に外にでたジャスミンの後を追った。



 自室に引き上げたメイフゥは、大柄な体をベッドに横たえ、何となく天井を見上げていた。
 なんとも味気ない幾何学模様を目で追いながら、ぼんやりと考える。
 ついこないだまで、自分達の身に、こんな厄介事が起きるなんて考えてもみなかった。 
 父親の顔は、ほとんど覚えていない。母親は、そんな父に恨み言の一つを零すでもなく、自分達を女手一つで育ててくれた。
 その母親が、死んだ。
 だから、自分達は旅だった。もう、故郷の星にいる理由がなかったから。
 引き留めてくれる人も、少なからずいた。そのことが、メイフゥには意外であった。中には、自分に手酷く痛めつけられたはずの少年がいて、顔を真っ赤にしながら、自分と一緒になってほしいとまで言ってくれたのだ。
 そのときのことを思い出すと、少女の秀麗な顔に苦笑いが浮かんだ。
 あのとき、もしも頷いていたら、自分にはどんな人生が待っていたのだろう。故郷の、草の海に埋もれるような、狭く小さな家々。自分も、母親やたくさんの女達と同じようにその中で、子を産み、育て、そして緩やかに満足しながら死んでいったのか。
 そんなの、ちっとも自分らしくない。それでも、そういう幸せに憧れない女がこの世のどこにいるだろう。

「ああ、こんなの、たかだか十四の女の子、花も恥じらう乙女の考えることじゃあねえよな」

 少し眠ろうと思っていたメイフゥであったが、くだらないことに思いを馳せて目が覚めてしまった。無理に眠ると体が重たくなるから、それは嫌だった。
 如何にも億劫そうな様子で体を起こす。すると、窓の外から鈍い音が響いてくるのに気がついた。
 庭に植えられた灌木の向こうで、燃えさかる赤毛とくすんだ銀髪が踊っている。
 ゆうに頭一つ分は異なる身長の男女──高いのは女のほうである──が、ロッドを手に大立ち回りを演じていた。
 終始優勢なのは、言うまでもないことであるが、女のほうである。インユェは、十分に手を抜いた自分にさえ太刀打ちできない程の実力でしかないのだ。それが、自分を素手で倒してのけるジャスミンに勝てるわけがない。
 どうせ二、三度強かに打ちのめされて、それで終わりだろうと思っていた。
 事実、破れかぶれの打ち込みを容易くいなされたインユェは、無様な様子で踏鞴を踏み、その隙に右脇腹──人体の急所、肝臓がある──を思い切り打ち込まれていた。
 ずん、と、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。

「え、ぇ、ぇ……!」

 少年は、情けない悲鳴を零しながら、蹲る。
 直後にびしゃびしゃと、吐瀉物の零れる音がした。
 少年の、開け放たれたまま戻らない喉から、人のものとは思えないうめき声が漏れ続ける。伏せられたままの顔が持ち上げることはなく、目の前の地面を見つめたままだ。
 
「どうした、それでお終いか」

 ジャスミンは無慈悲な視線で少年を見下ろし、ロッドを地面に叩き付けるようにした。
 ばしん、と、耳をつんざくような音が、窓ガラスを振るわす。
 まるで、新兵をしごく鬼軍曹そのままである。

「情けない、貴様の姉は素晴らしい戦士だったぞ。その弟だと聞いて少しは期待していたのだが、なよついているのは外見だけではないらしいな。一度死んで、今度は女に生まれなおせ。貴様の器量で女に化ければ、馬鹿な男どもが蝶よ花よと愛でてくれるだろうさ」

 インユェが、蒼白になった顔色をそのままに、ジャスミンを睨み付けた。
 口元に、べったりと吐瀉物が張り付いている。乳白色が僅かに黄みがかっているのは、朝食のミルクと胃液が混ざっているからだろう。
 到底立ち上がれる体ではないだろうに、手にしたロッドを杖代わりに、少年は立ち上がった。足下はふらつき、生まれたての子鹿よりも頼りない様子だったが、それでも少年は立ち上がった。
 呼吸が浅いのが、遠目にも分かる。どう考えてもダメージが回復しているようには思えない。
 普段なら憎まれ口の一つでも返すのがインユェの性分であったが、それすらもない。体の隅々に薄い酸素を送り込む作業で手一杯、無駄口を叩く余裕などどこにもないのだ。
 だが、インユェの前に立つ赤毛の女戦士は、何に感慨を抱くでもない、無機質な視線で少年を見遣り、

「それでどうした。まさか、立ち上がれば褒めてもらえるとでも思っているわけではないだろうな。貴様は、何のために立ち上がった。その、末期の老人の杖のようにしたロッドは、何のためにある。それとも、貴様が殴れるのは、ベッドの中で服従した女だけか」

 インユェの視線に、いっそうの殺気が籠もる。視線だけで目の前の敵を殺せるように、睨み付けている。
 そして、杖代わりにしていたロッドを持ち上げ、上段に構えた。体は震え、手は戦慄き、今にもロッドを取り落としそうな有様で。
 そんな、半死半生の様子の若人に対して、ジャスミンはやはり一切の寛恕なくロッドを構え、再び思い切りに打ち込んだ。
 インユェは、頼りない足取りでその一撃を躱し、がら空きになったジャスミンの頭部に逆撃を叩き込もうとする。
 だが、それすらがジャスミンの誘いであった。
 少年の、おそらくは最後の力を込めた撃ち下ろしを、半身になって躱したジャスミンは、再びがら空きになった少年の右脇腹に痛烈な一撃を打ち込んだ。
 再び響く、鈍く不吉な音。潰れる肉の悲鳴。
 インユェは、もはや呻き声を漏らすことすら出来ずに、その場に崩れ落ちた。
 ダンゴムシのように丸く地に伏せた少年の体が、ぴくぴくと痙攣を繰り返す。
 目が限界まで見開かれ、目玉がこぼれ落ちそうだ。口は、なんとか酸素を取りこもうと窒息寸前の魚のように戦慄くが、肝心の肺が機能を放棄しているから、寸分のガス交換だってできるはずがない。
 分かっていたことだが、勝負ありだ。どう考えても勝ち目のない勝負だったのだ。
 インユェにとっても良い教訓になったはずだった。この世には自分より強い人間など星の数ほどもいて、その中で自分が生きていくためにはどうすればいいのか。無闇矢鱈に牙を見せびらかし、己の威を隠さずに歩けばどういう目に遭うか。それをこの勝負から学び取れないようでは、どうせ長生きは出来ないだろう。
 そう思っていたメイフゥは、窓ガラスに映り込んだ自分の顔に驚いた。
 瞳孔が縦に避け、柳眉が文字通りに逆立っている。鼻の頭に皺が寄り、口が、ほとんど耳まで裂けて、獰猛な牙が剥き出しになっている。硬質な金の髪が逆立ち、親の敵を睨み付けるように窓の外の女性を凝視していた。
 まるで、子猫を守る母猫のような形相だ。
 ああ、あたしは今、怒っているんだな、と、そこで初めて自覚した。
 暫し呆然として、それから窓の外の女性と目があった。
 ジャスミンは、はにかむように微笑んで、片目を瞑って見せた。あんまり怒らないでくれと、そう言われた気がした。
 メイフゥは、赤面した。そも、ジャスミンは本気でインユェを打ってはいない。拳を交えたメイフゥだからこそ、ジャスミンの実力は嫌と言うほどに理解している。もしもあの人が本気でロッドを打ち込んだならば、一撃で肝臓が破裂して、インユェは彼岸へと旅立っているはずだ。
 十分に手加減して、きかん坊の弟を躾けてくれているのである。感謝こそすれ、怒るなど見当違いも甚だしい。
 メイフゥは、肩を落として小さくなってしまった。
 それを確かめたジャスミンは、少しだけ安心したように息を吐くと、自分の足下で蹲っている少年に向けて、

「さて、もう終わりかね、少年」

 少年は、答えない。そも、聞こえているのかすら確かではない。
 インユェは、その声を聞いていた。しかし、その声を理解することは出来なかった。
 体の中を、単一の、そして圧倒的な感覚が支配していた。
 痛みである。
 脇腹で爆発したそれが、無数の茨となって全身の血管を引き裂いているのだと思った。自分が今、人のかたちをしていないのではないか、無数の肉片に分かたれているのではないかと疑った。
 目を見開いているというのに、すぐ目の前にある芝生が理解できない。その緑が、脳に情報として伝わる遙か手前で、痛みによってかき消されてしまう。
 ならば、ジャスミンの声など、インユェに理解できるはずがないのだ。
 ジャスミンは、肩を一つ竦めた。彼女には似合わず、なんとも後味の悪そうな顔だった。

「足手まといだな、貴様は。もう無理することはない。この家でゆっくりと休んでいろ。ヤームルという御仁とウォルは、わたしと貴様の姉が連れて帰ってくる。約束する」

 ジャスミンは、少年の肩に優しく手を置いた。
 少年の体が、ぴくりと、怯えるように動いた。

「心配はいらん。ウォルも、一筋縄ではいかない男……いや、少女だ。彼女の同盟者であり婚約者である少年からしてそうだからな。ただ大人しく捕まっているとも思えない。わたしの夫もそうだ。上手くすれば救出どころか、反撃だって可能だろう」

 その言葉に対して、インユェの反応は劇的であった。
 がばりと、顔を起こす。
 苦悶の汗に塗れ、屈辱の涙に塗れ、鼻水と涎と吐瀉物に塗れた、ちっとも美しくない顔だ。
 蒼白の顔だ。
 それが、僅かに赤らんでいた。頬のとある一点を中心に、少しずつ、しかしはっきりと。
 ジャスミンは、内心だけで僅かにたじろいだ。もう二度と動かないと思っていた、死体のような少年が動いたのだ。しかも、紫色の瞳には、自分に対する敵意ではない、猛烈な敵意が浮いている。
 自分ではない誰かを見ながら、痛みすら忘れる程の殺意をその瞳に宿している。

「……な……て……た……」

 唇が、蝶の羽音よりも小さく、儚く震える。

「……なんだと?」
「いま……なんて……いいやがった……」

 かすかな声だった。
 かすかな声のはずなのに、鼓膜を突き刺すような声だった。
 同時に、インユェの蝋人形じみた指が、ジャスミンの軍用ブーツを掴む。
 頑丈だけが取り柄の、軍用ブーツである。掴まれたくらいでは何の痛痒も感じない。
 にもかかわらず、分厚いブーツ越しに感じられる細い指先が、そのまま足首の骨に食い込んでいるような、不気味な感触をジャスミンは味わっていた。
 そして、気がついた。
 少年の表情だ。
 哀れを乞うように顰められていた幼子のそれが、誇りを傷つけられた男のそれに変じている。
 そんな表情を浮かべる男のことを、ジャスミンは知り尽くしていた。
 昔、彼女が所属していた軍の猛者の中に、今の少年と同じ顔をして、上官と決闘した阿呆がいた。
 自分の女を賭けて戦う、男の顔だ。
 そして、先ほどの自分の台詞を思い出す。
 
 ──ああ、なるほど、そういうことか。

 少年の内心に理解の追いついたジャスミンは、出来るだけ人の悪い、悪辣な声で、言ってやった。

「そうか、君は知らなかったのか。あの少女にはな、すでに婚約者がいる。わたしもよく知る、素晴らしい少年だ」

 インユェの顔に、赤みが広がっていく。
 死にかけだった瞳に、色が宿っていく。
 嗚咽を漏らすだけだった口から、歯を食いしばる音が聞こえてくる。

「強いぞ、その少年は。わたしよりも強い。わたしも、何度も命を助けられた。力だけではない。本当の意味で強い少年だ」

 ──それは、君よりも、な。

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

「そして、美しい少年だ。彼がウォルと二人で歩けば、それはそれはお似合いだろうさ。一度だって見たことがないが、さぞ目の保養になるだろうな」

 ──それは、君とウォルが一緒にいるよりも、な。

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

「彼らは、わたしたちなどには想像もつかない、深い絆で結ばれているらしい。今まで、幾度となく背中を守り合って戦ったと聞いている。無二の友だと、最高の同盟者だと。ならば、そんな二人が結ばれるのは神様が定めた運命だと思わないか?」

 ──だから、君はウォルとは結ばれないのさ。

 無言の声が、インユェの誇りに、特大の傷をつけた。
 
「だから、君は眠っていろ。ウォルの婚約者たる少年も、じきにこの星に到着するだろう。ウォルがさらわれたと聞けば、髪の毛を逆立てて怒るだろうからな。そうすれば、いかなる敵であってもものの数ではない。あっという間にウォルを取り返してくれるさ。別に、君がいてもいなくても同じことだ」
「……そうかい……あいつには……婚約者が……いたのかよ」

 少年は、呆気なく、ジャスミンのブーツから手を放した。
 握るものを無くした掌が、宙で、如何にも中途半端に開かれたまま戦慄く。
 そして、握りしめた。
 その拳を地面に突き、顔を上げた。
 もう片方の手で、取り落としていたロッドを掴み、膝に活を入れ、無理矢理に伸ばそうとする。
 痛みは、まだ彼の体を支配しているだろう。
 それでも、無理矢理に立ち上がる。このまま眠っているなど冗談ではない、というふうに。

「その婚、約者とかいう、野郎が、ウォルを、あの雪山に、一人、置き去りに、しやがった、のか」

 ぎりぎりに立ち上がった少年は、膝に手を突き、うつろな視線で、斜めの地面を睨み付けている。
 呼吸が荒い。口の端からは、血の混じった涎がだらだらと垂れている。
 唇の端を、噛み切っているらしかった。
 
「あいつの体、信じられないくらいに冷たかったんだぜ、もう、絶対に助からねえって思った、でも、絶対に助けなきゃって思った、びっくりするくらいに軽かったんだ、あいつの体……」

 熱に浮かされるように、ぶつぶつと、言葉を紡いでいく。
 ジャスミンは、一言も言わない。
 突き放すでも受け入れるでもなく、じっと少年を見つめている。
 やがて少年が、ロッドを構えた。
 手は、やはり震えている。足下は覚束ない。痛打を受けた脇腹を庇うような、情けない構えだが。
 少年は、構えた。戦う意志を見せた。
 少年が、戦おうとしていた。
 それを見ていた少年の姉は、ほとんど泣きそうになった。顔を滑稽に歪ませて、瞳の奥から熱い塊が漏れ出しそうになるのを、必死で堪えていた。

「あいつを拾ったのは俺だぜ。なら、あいつのご主人様は俺なんだ。なら、俺が、俺の奴隷を、ウォルを助けないで、誰が助けるってんだよ。俺を抜きにしてあいつのことを語るんじゃねえ。婚約者だと?いいじゃねえか、そんなやろう、俺が叩きのめしてやる!」
「いいだろう。やせ我慢でもそこまで啖呵を切れるなら大したものだ。わたし好みだよ、少年」
「少年じゃねえ、インユェだ!」
「言わせてみろ!」

 そして、メイフゥは二人から視線を外した。これ以上、涙を流さずに弟の姿を見ることができなかったからだ。
 カーテンを閉め、弟の雄叫びから耳を塞ぐようにして、ベッドに寝転がった。
 再び見上げた天井の幾何学模様は、奇妙に滲んで、なんとも見にくかった。
 
「あーあ、情けないったら。これでも、故郷じゃあ冷血無比でならしたつもりだったのになぁ」

 僅かに滲んだ涙を指で拭い、かすれた笑みを浮かべる。
 そうか、こうすればよかったのか。
 今まで、何度となく痛めつけてやった。そうすれば、いつかは自分を跳ね返してくれるのだと期待して。あの時、食料の尽きた極限状態の船で、殺すつもりで襲いかかってもみた。なのに、弟はやられっぱなしで、少しだって自分の思うとおりにならなかった。
 それが苛立たしくて、余計にきつく当たってしまう。その繰り返しだ。
 インユェから戦う術を奪ったのは、自分である。だから、あの子には、できるだけ強くなって欲しかった。
 せめて、今のままの姿で、一人でも生きていくことができるように。
 
『誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ』

 育ての親の声が、メイフゥの耳に蘇るようであった。
 そうか。最初からこうすればよかったのだ。
 いや、最初も何も、これはインユェが、あの少女を拾ってきたからこそ為せる方法で。
 好いた雌を守ろうとするのは、奪い取ろうとするのは、雄として当然の本能ではないか。
 ああ、あのやせっぽちのはな垂れ餓鬼も、一応は雄だったんだなあ。
 メイフゥは、泣き笑いのような表情で天井を見上げていた。
 天井に、故郷の、草の海が映り込むような気がした。
 さわさわと、耳朶をくすぐる風の囁き。
 背が、草にしみこんだ夜露で濡れる。見上げる蒼天はどこまでも深く、いつの間にか落ちてきているような、浮かび上がっていくような、奇妙な感覚。
 無限に続く、緑の絨毯。白く小さな、自分達の住処。

 暗闇。

 赤々と、不吉な明るさを帯びた満月。
 血に狂った、狼の群れ。
 どうしてこんなことをしてしまったのか。
 無限の後悔が、足首を掴んで、上手く走ることができない。
 大人には内緒で、弟を連れ出してしまったのだ。
 蛍を見てみたいと、そう乞われたのではなかったか。
 一年の半分を床で過ごす、体の弱い弟だ。
 自分に残された、最後の肉親だ。
 自分が死ぬのは構わない。
 でも、小さな弟が死ぬのは、どうしても我慢ならなかった。
 だから、戦ったのだ。
 無我夢中で戦った。
 初めて、自分がどういう生き物かを知った。
 殺すということが、どれほど恐ろしいことかを知った。
 溢れだした血が、生暖かくて、でもすぐに冷たくなることも知った。
 
『おねえちゃん、こわい……』

 弟の、紫色の瞳が、怯えていた。
 紫色の瞳の中で、血に塗れた自分が、嗤っていた。
 すごい顔で、血に酔って、舌なめずりをしながら。
 嗤っていた。
 ああ、インユェ。
 頼むから。
 お願いだから。
 わたしを、おねえちゃんを、そんな目で、見ないで。

 どれほどそうしていただろう。少女は、ほとんど白昼夢を見ていた。
 懐かしい夢を見ていたのだ。
 彼女の、一番深いところにある頑丈な箱の、その一番奥に仕舞い込んだ、思い出だった。
 最近は、見ることの無かった悪夢である。
 悪いのは、自分だ。悪い自分の、夢だった。
 息を荒くついたメイフゥは、頭の奥に蟠る頭痛を抑えるように、額に手を当てていた。
 その時である。
 隣室の片隅に置かれた小さな機械装置から、軽快な電子音が鳴り響いた。そして直後に、電子音よりも遙かに軽やかな、女性の声が聞こえた。

「ジャスミン?ちょっと、ジャスミン、いないの?」

 我を取り戻したメイフゥは、素早く窓まで駆け寄り、身を乗り出すようにして叫んだ。

「お姉様、電話だぜ。朝方の、例の女の人からだ」
「了解した。すぐに行く」

 そう言ったジャスミンの足下には、大の字に寝転んだインユェがいた。
 ぜいぜいと息は荒いが、その眼は十分に生きていた。まだ、戦う意志で充ち満ちていた。
 喘ぎつ途切れつ、必死の有様で言った。

「逃げ、るの、かよ、くそ、おんな……」
「毒づくのもいいが、もう少し息を整えてからにすることだ。ちっとも腹が立たないぞ、そんな様子ではな」

 ジャスミンが僅かに笑いを含みながらそう言うと、インユェは舌打ちを一つ漏らして黙り込んでしまった。
 起き上がる気配はない。
 ジャスミンは、それを叱咤しなかった。先ほどから、かなり力を込めた攻撃を何度も叩き込んでいるのだし、それでも食らいついて反撃してくる少年には驚かされもした。
 これなら、戦える。少なくとも、己の死を、他人の死を、己の責任として背負い込むことができるだろう。
 今は、少し休ませてやろうと思ったのだ。
 ジャスミンが部屋に戻ると、居間に置かれた大型テレビいっぱいに、美しい女性のかたちが映り込んでいた。
 ふわふわとして色の明るい金髪、澄んだ青色の瞳、きりりと引き締まり豊かな知性を感じさせる顔立ち。しかし口元は花のように綻び、彼女の母性を感じさせる。
 そのことを彼女に伝えれば、いったいどんな顔をするだろうか。自分は機械で、母親になることなどありえないのだから、母性が備わっているという表現は論理的ではないと一刀両断するかも知れない。
 それは、見紛う事なきケリーの相棒、ダイアナ・イレブンスの姿であった。

「あら、ご機嫌そうじゃない、ジャスミン」

 画面上のダイアナは、きちんとジャスミンのほうに視線を寄越してから、楽しげに言った。
 よく見れば、テレビの上方に、小さなカメラが取り付けられていた。双方通信用のお粗末なカメラだが、ダイアナにしてみればそれで十分なのだろう。

「ああ、ご機嫌だとも。蛹が脱皮する瞬間というものは、なんだって心が躍るものだ。それとも、食玩の箱を開ける瞬間、といったほうがいいかな。いったい何が飛び出してくるか分からないというのは、どきどきしていいな。若さが戻ってくるようだよ」
「そう。ジャスミンはああ言ってるわ、メイフゥ。あなたの弟さんって、なかなか素敵なんじゃないの?」
「はん、あれはただのちびがきで、まだまだ尻の青いひよっこさね」

 ひよこの姉が、ほんの少しだけ、嬉しそうに言った。
 
「おや、自己紹介はもう終わっているらしいな」

 意外そうなジャスミンの声に、メイフゥが頷く。

「ああ。この美人さんが感応頭脳だってのが、まだ納得できねえがよ」
「あら。それを言うなら、あなたみたいな可愛らしい女の子がケリーとジャスミンを追い詰めたなんて、わたしだって納得できないわよ」
「そうかい?じゃあ思い知らせてやろうか……って、流石に宇宙船と生身で喧嘩はできねえよなぁ」

 メイフゥがなんとも残念そうに言うので、ジャスミンは吹き出してしまった。
 どうやらこの少女は本当に力比べが好きらしい。彼女くらいの年代であれば、普通は色恋やらおしゃれやらで頭がいっぱいのはずなのに、なんとも不思議な少女だ。それに、ダイアナが感応頭脳だと即座に納得できるあたり、現実対処能力も高い。
 まだ幼さの残る少女であっても、戦力としては十分以上に合格点であった。

「で、ダイアナ、いったい何の用だ」
「つれないわねぇ。用がなきゃお話の一つもできないの?」
「そうだな、お前からのお茶のお誘いなら喜んで受けたいところだが、その時はもう少し目を楽しませてくれるような格好でいて欲しい。今みたいな格好では、折角の美人が台無しだ」
「そうかしら。これはこれでお気に入りなんだけど」

 ダイアナはそう言って、自分を包む装束を見た(……という映像を作り出した)。
 今、ダイアナのほっそりとした肢体を包み込んでいるのは、彼女の瞳と同色のきらびやかなドレスでもなければ、普段の彼女の好むぱりっとした船員服姿でもない。
 頭には無骨な軍用ヘルメット、体には野戦用の迷彩スーツを身に纏い、白皙の頬には泥でペイントが為されている。
 今からジャングルに飛び込む女性兵士のような、物々しい出で立ちだった。

「なんでもまずは形からっていうじゃない。気分よ、気分」

 うきうきと、これから買い物に行く少女のような表情で、ダイアナは微笑んだ。
 こうなると、ジャスミンは苦笑するしかない。

「そんな姿のお前が最前線に出張らなければならない戦いは、すでにこちらの負け戦だよ。で、その格好でお茶のお誘いでもないだろう。本題は?」
「今朝方あなたに依頼されてた件よ」

 ジャスミンの顔、にわかに引き締まる。
 瞳が、わずかに金色の輝きを帯びた。

「何か分かったか」
「昨日の夜、確かにヴェロニカ陸軍の特殊部隊に出動命令が出されてるわ。あなたの聞いたとおり、命令系統は通常のそれ。要するに、兵隊さん達は正式な任務の一環としてウォルを捕まえようとしたの。そのこと自体に疑わしいところは無かったってことね」
「全てが疑わしすぎることを除けばな」
「命令の発信源を辿ってみたけど、ヴェロニカ陸軍の司令官あたりがきな臭いわ。どうしてそんなお偉方が、あんな少女一人を手に入れようとしたのかも含めてね」
「どうせ、そいつの思惑ではないだろうさ。どこかで横車を押す馬鹿がいたか、それともそんな馬鹿の歓心を買おうとしたか、そんなところだろう」
「それでも、末端の兵隊さん全員を相手取るよりは遙かに効率がいいでしょう。ターゲットの一人として認識しておいた方がいいんじゃない?」
「無論だ。徹底的に締め上げてやる」

 まるで、生活指導の教師が不良学生を相手にするような台詞である。
 仮にも一国の軍隊のトップを相手にして言う台詞ではない。

「ついでに、あらためてウォルの犯罪歴を調べてみたの」
「どうだった」
「もう、出るわ出るわ。ここ数年の未解決テロ事件のほとんどの首謀者が、彼女っていうことになってたわ。大量殺戮の愉快犯で、武器麻薬人身売買何でもござれの闇商人。よくぞここまで悪人に仕立て上げたと感心するくらい、とんでもない人物像になってるわ。わたしの名誉のために言っておくと、昨日は間違いなくそんな記録はどこにも、この星のコンピュータのどこにも存在しなかったのにね」

 ジャスミンは痛烈な舌打ちをした。
 昨日の晩の段階で、ウォルの身の上は、完全無欠に清廉潔白なものだった。それが、一晩でこの有様である。
 第一、ウォルはついこないだまで、この世界には存在しない人間だったのだ。その彼女が、どうしてそんな華々しい犯罪歴を拵えられるというのだろう。

「馬鹿な。まだ十四歳の女の子だぞ、あくまで連邦政府の形式上ではだが」
「超の付く天才児が、遊び半分で犯罪組織をまとめ上げ、世間を震撼させるテロ事件を演出した。あなたの寝ている間の事件だから知らないのも無理はないけど、そういうことも実際にあったのよ」
「それは知っている。だが、何のためだ。どうしてウォルを極悪非道の犯罪者に仕立て上げる必要がある?もう、彼女は奴らの手の中だぞ。今更そんな記録を偽造する意味があるとは思えないが」
「自分の手の中にあるから、なんでしょうね。よく分からないけど、彼女を何かに利用するつもりなんでしょ。そのためには、あの子が超極悪人で、どんな扱いをしてもいいような身の上でないと都合が悪かった。そんなところじゃないの」

 もう一度、ジャスミンは力一杯に舌打ちをした。
 ダイアナの予想は尤もだ。そして、その予想から導き出されるありとあらゆる未来図は、そのいずれもが心温まるとは言い難い、曇天色のものでしかなかった。

「ちなみに、三人の行方は追えないのか」
「駄目ね。ケリー達を拉致した車は追跡できたのだけれど、いつの間にか中身がごっそりと変わっていたわ。今はヴェロニカシティのレンタカー会社の倉庫の中よ。今さら調べても、何の痕跡も残ってないでしょうね」
「途中で乗り換えたか」
「多分ね。何度かトンネルを走っていたから、その途中だと思うわ」
「乗り換えた車の追跡はできなかったのか?」
「無茶言わないでよ。そんなことしたら、あの時間にあの道路を走っていた全ての車の追跡をしなくちゃいけないわ。わたしは百目の怪じゃないんですからね!」

 画面に映った美人は、唇を尖らせて拗ねてしまった。
 ジャスミンは、別にご機嫌取りの言葉を用意したりはしなかった。
 一人難しそうな顔で考えていると、横から声をかけられた。

「なぁ、お姉様よう。このべっぴんさん、どうやって軍隊の命令の発信源なんかを辿ったんだい?まさか色仕掛けか?」

 ジャスミンは目を丸くした。

「……どうやったら、感応頭脳が人を色仕掛けできるんだ?」
「いや、この姉さんなら十分にできそうな気がするんだけど……。実際に顔を合わさなくても、この調子でしなの一つでも作ってやれば、ころりといく男はいくらでもいそうだぜ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない、メイフゥちゃん。お姉さん、とっても嬉しいわ」

 画面の女性が、百点満点の笑顔を浮かべた。

「でも、そうじゃないの。わたしは人間の男性よりも、感応頭脳のほうにファンが多くてね、そっちを誘惑する方が得意なのよ」
「なるほど、軍の感応頭脳をたらし込んだってわけか」
「あなたみたいに可愛らしい女の子が、下品なことを言うものじゃないわ。正式にお誘いして、丁重にお願いしたら、快く色んなことを教えてくれたのよ」
「よく言う……」

 彼女のお願いが、他の感応頭脳にとっては所有者の命令よりも強烈なことを知り尽くしているジャスミンが、呆れながら呟いた。
 その呟きが聞こえていただろうに、おそらくは意図的に無視したダイアナが、感心しきりのメイフゥに向かって語りかける。

「あなたも、この機会に何か調べておきたいこととかないの?好きな異性のプロフィールとか、なんでもござれよ?」
「いや、そういうのは別にないんだけど……」

 ジャスミンは『それは法に抵触しているぞ』という当たり前の一言を飲み込んだ。正しく今更のことだったからだ。
 そんな彼女を尻目に、ダイアナとメイフゥの、初対面とは思えないほどに気安い会話が繰り広げられている。
 
「実は、一つお願いしたいことがあってよ」

 メイフゥが、目尻を下げながら、なんともだらしない顔で言った。

「何?あなたみたいに可愛らしい女の子のお願いなら、わたしにできることだったら何だって引き受けちゃうけど?」

 メイフゥは、ごそごそとズボンのポケットをまさぐり、中から小さなケースを取りだした。
 黒く頑丈そうなそれを開くと、中には小さな記録チップが入っていた。

「それは?」

 興味深そうに、ダイアナが問う。

「いや、こないだ親切な人からもらったんだけどよ、あたしの腕じゃあロックが解除できないんだ。金儲けに繋がりそうな匂いがぷんぷんしてるんだけど、これじゃあ生殺しだぜ。あんたなら、こいつの解除くらいお茶の子さいさいじゃねえかと思うんだが、どうだい?」
「おかしなことを言うわね。親切な人にもらったんなら、その人に解除パスも聞けばいいじゃない」
「それが聞けねえからこうして頼んでるんじゃねえかよ。けちけち言わずに、な、頼むよ」

 メイフゥは両手を合わせて、画面に映る美女に向けて拝み込んだ。
 いったい、どういう経緯でその親切な人と出会い、そしてどういう経緯でそのチップを譲り受けたのか。叩いてみれば、目の前が真っ白になるほどの埃が舞い上がるに違いなかった。
 だが、荒事には慣れっこのダイアナであり、ジャスミンである。深くは追求しなかった。
 
「どうする、ジャスミン?」
「そうだな……。どうせ今すぐに動ける状況でもなし、その程度であれば構わないんじゃないか?あまり時間がかかるようなら後回しにすればいい」
「……分かったわ。半時間だけやってみて、駄目ならこの騒動が終わるまでおあずけ。それでいい?」
「やたっ!話が分かるぜ姉さん!」

 いつの間にか姉さん扱いをされてしまった感応頭脳は、呆れたような表情を作りながら、ジャスミンとメイフゥの後ろにあるパソコンを指さした。

「その中に入れて頂戴。あとはこっちで勝手にやるから」
 
 連邦宇宙軍の統制コンピュータですら苦もなくハッキングするダイアナであるから、どれほど難解なパスがかかっていようとものの数ではないだろう。おそらく、お茶でも飲んでいるうちに解除が終わるはずである。
 いそいそとパソコンにチップをセットするメイフゥを尻目に、ジャスミンは台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して、直接呷った。火照った、そして空っぽの胃に冷たい温度が流れる感触は、何度味わっても飽きることがない。
 その時、がちゃりとドアの開く音が聞こえた。そして、ゾンビのように足を引きずりながら、誰かが部屋に入ってくる。きっとその顔は、下手なゾンビよりはさらに血色が悪いに違いなかった。
 その誰かのために、ジャスミンはもう一本のボトルを冷蔵庫から出した。きんきんに冷えて、胃の奥から体を冷やしてくれそうなやつだ。
 キッチンからジャスミンが戻ると、泥と汗に塗れた少年が、崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
 そして、地の底に住まう亡者のごとき声で、言った。

「み……みず、みず……」

 ジャスミンは無言で、インユェの前にボトルを置いてやる。
 まるでゴム紐の弾けるような勢いで体を起こしたインユェは、震える手ももどかしく蓋を開けると、猛烈な勢いで水を飲み下していく。口に収まりきらなかった透明な液体が、口の端から零れていくのにも気がついていないに違いなかった。
 貪るような有様の少年は、自然と噎せた。思い切り噎せた。あんな様子で水を飲んで、気道にいかないほうがおかしいのだ。
 げほげほと盛大に咳を吐き出し、悶絶する少年に、二人の女傑は溜息と苦笑いで応じた。

「まったく、ちったあましになったと思ってみれば、ちっともいけてねえなぁ」
「千里の道も一歩からと言う。まぁ、今日はこんなものだろう」

 収まりかけているとはいえ、まだ咳き込んでいたインユェに、二人の声は届かない。
 涙の浮かんだ顔を起こしたときには、いつもと同じように冷ややかに自分を見つめる姉の視線を見つけただけであった。

「なんだよ。なんか文句でもあんのかよ」
「……お前なぁ。その可哀相な脳みそに、少しは教訓ってやつを叩き込んどけよ。つんけん尖るのもけっこうだがよ、時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、それじゃあ」
「ふん、下げたくもない頭を下げてへぇこら生きるより、そっちのほうが何倍もましだとおもうがね」
「がきの考え方だ、そいつは」
「んだとぉ?」
「ちょっと、楽しそうなところ悪いんだけど」

 横合いから声がかかる。
 人心地のついたインユェが視線を横にやると、大型のテレビ画面いっぱいに映り込んだ佳人が、呆れたように自分を見ていた。
 ふんわりとした金色の髪、透明感のあるブルーの瞳、柔らかで整った輪郭。
 瞳には深い知性が宿り、しかし男の甘えをくすぐるような悪戯っけも忘れていない。
 紛れもない、極上の美人だ。だが、今のインユェにはどうでもいいことだった。今の彼の心は、ただ一人の少女の持ち物だったのだ。
 それでも、なんとも残念な格好だな、とは思った。画面に映り込んだ女性は、まだ、例の迷彩服姿なのである。もう少し見栄えのする衣装を着ていれば少年の抱く感想も違ったものになったかも知れないが、こんな色気のない服では、少年の心を射貫くには華不足だったようで。
 インユェは、いかにも訝しげな表情で姉のほうを振り返り、画面を指さしながら、
 
「そういえば姉貴よ、こっちの胡散臭いのは何者だよ。あの女の仲間か何かなのか?」
「あら、胡散臭いとはお言葉ね。これでもダイアナ・イレブンスっていう立派な名前があるんですからね。失礼しちゃうわ、まったく」

 画面の女性が、頬を膨らませながら言う。
 媚びるようではないのに、しかしどこまでも男心を虜にするであろう、女性の表情だ。世の男性の大半は、この表情を見ただけで、画面の女性に恋してしまうに違いなかった。
 だが、例外というものは何事にもあるようで。
 ダイアナを見ていたインユェは、いっそう眉を顰めて、

「……やっぱり胡散臭え。なんか、年増の婆が一生懸命若作りしてるような、そんな感じだぜ」

 ぴしり、と、画面上の女性の表情が、固まった。
 まるで、パソコン画面がフリーズを起こしたような、見事な有様で。
 それでもやがて、ぎぎぎ、と、油の切れた歯車みたいな音をたてるようにして、女性の表情が変わっていく。
 頬が持ち上がり、目がにこやかに細められ、笑顔と呼ばれるかたちになる。
 しかし、勘違いしてはいけない。というよりも、こういう場合の女性が本当に笑っていると思える男性は、一生結婚できないか、それとも長生きできないか。
 なんとか平静を装ったダイアナは、口の端を引き攣らせて、怖いもの知らずの若者に語りかける。

「やぁねえ、こんな綺麗なお姉さんをつかまえて、年増の婆だなんて、心にもないこと言っちゃって。照れ隠しもほどほどにしておかないと、可愛くないわよ?」

 意訳するならば、『その臭い口を閉じて二度と開くな殻の取れないひな鳥が。けつの穴から手を突っ込んで奥歯をへし折るぞ』であるが、年若いインユェは、勇敢、それとも無謀、おそらくは鈍感であった。
 挑発的に眉を顰めてやり、からかうような口調で言った。

「はっ、そういうしゃべり方が気色悪いって言ってるんだろうが。なんつーか、古くせえんだよ、あんた。一世代前の家電製品か、それともジャンク屋に転がってる、パーツ取られた後の宇宙船みてえだぜ」

 女性を評するには、なんとも風変わりな形容である。その点、船に乗って宇宙を駆けることに青春を費やしていたインユェは、普通の少年とは感性が若干ずれている。
 普通の女性であれば、的の外れた罵詈雑言に、かえってやる気を削がれてしまったかも知れない。
 だが、この場合、彼の口調は極めて効果的に対象者の心を抉った。この上なく効果的と言っても良かった。何せ、彼の話している相手は、本物の機械であり、そして宇宙船の感応頭脳であるのだから。
 先ほどと寸分変わらない笑顔を浮かべたままのダイアナが、煮えたぎるマグマを押さえつけたような、灼熱を感じさせる声で呟いた。

「い、一世代前の家電製品……ジャンク屋の宇宙船……」

 常に時代の最先端の性能を維持することが、自身の存在証明であるといっても過言ではないダイアナである。そして、世間の三世代は先を行くと謳われた超頭脳を誇るダイアナである。
 その彼女に対して、ポンコツと言ってのけたのだ。
 これほど屈辱的な台詞は他にはない。
 然り、彼女の怒りを表すように、画面に映ったダイアナの画像が、一瞬だが、しかし激しく乱れた。
 インユェは、それがただの電波障害によるものだと思った。
 残りの二人はそうは思わなかった。
 ダイアナのことをよく知らないメイフゥですらが、顔を引き攣らせて腰を浮かせた。いつでも逃げ出せる準備だ。
 そして、ダイアナのことを、おそらくはこの世で二番目に理解しているであろう女性──少年の向かいに腰掛けていたジャスミンが、あめ玉を飲み込んでしまったように目を丸くして、目の前の少年をまじまじと見つめながら一言。

「……少年。悪いことは言わん。死にたくなかったら、さっさと土下座するなり裸踊りを踊るなりして謝れ。平身低頭して罪を詫びろ。そうすれば、まだ間に合うかも知れん」
「ああ?なんで俺が、こんな得体の知れねえ女に頭を下げなきゃならねえんだよ」
「ねぇ、ジャスミン。その部屋、少し蒸さない?」

 映像のダイアナが、胸元のシャツを引っ張り、手で顔を扇ぎながら、普段と寸分変わらぬ口調で言った。
 困ったような、楽しむような声だ。
 そして、その瞳には紛れもない危険信号が点っている。
 その蓋を開けてみれば、いったいどのような魑魅魍魎が牙と爪を研いでいるのか。
 ジャスミンのこめかみを、冷たい汗が伝った。
 安全装置の外れた銃口を、突きつけられた感覚に近い。
 ジャスミンが、慌てて何かを口にしようとしたが、しかしダイアナはその暇すら与えずに、

「そうだわ、きっとそのおうち、風通しが悪いのよ。でも大丈夫、今からたっぷりと風通しを良くしてあげるわ」
「やめろ、ダイアナ!」

 制止するジャスミンの声と重なるようにして、じゅ、と何かの焦げる音がした。同時に、インユェの目の前のテーブルから白い煙が立ちのぼった。
 嫌な臭いが鼻をつく。
 はて何事かと思って見てみると、テーブルに、小さな円形の穴が開いていて、その周りが黒く焦げているのだ。
 穴を覗き込むと、ちょうど真下、床にも同じサイズの円形の穴が開いていた。
 もしやと天井を見上げると、やはりテーブルに開いた穴のちょうど真上に、同じサイズの穴がある。優れて視力の良いインユェは、穴の先に青く澄んだ空を見た。
 つまり、屋根から床に至るまで、一直線に、奇妙な穴が穿たれているのだ。
 はて、先ほどまで、こんな穴があっただろうか。
 これは何だろうと首を傾げる。

「なんだ、こりゃ?」
「動くな、馬鹿者!」

 再び、じゅん、と、湯が沸き立つような音が聞こえて、テーブルに穴が開いた。
 今度は、少年のすぐ横、顔の真下にほど近い場所である。
 やはりテーブルの真下の床にも、ほぼ同程度の小さな穴が開いており、天井にも同じような穴が開いている。
 先ほどと違うことと言えば、ただ一つ。室内を、髪の毛の焦げた嫌な臭いが満たし、少年の銀髪が数本、焼き切られて宙を舞ったことくらいであろうか。
 きょとんと表情の抜け落ちた少年は、しかし次の瞬間、自分の置かれた状況に気がついた。

 ──狙撃されている!
 
「わ、わぁぁっ!?」

 もうぴくりとも動けないと思っていた乳酸塗れの体は、意外なほどに敏捷に反応した。具体的に言うと、インユェは思い切り後ろにひっくり返った。
 椅子が床にぶつかる盛大な音が室内に響き、埃が一緒に舞い上がる。
 インユェは、這うようにして部屋から逃げようとした。その後で部屋に残されるであろう二人の女性のことなど、毛頭気にかけない有様である。
 あたふたと四肢を動かし、地を這うオオトカゲみたいに間抜けに、しかし本人からすれば至って真面目に逃げようとしたインユェの鼻先で、またしても直径二センチほどの穴が、無慈悲に穿たれた。
 
「ひ、ひぃぃっ!?」

 方向を変えて、かさかさと這い逃げる。手足が不規則に動く。これなら、木から落ちたナマケモノのほうが、幾分機動的かも知れない。
 だが、本人は間違いなく必死だ。
 そんなインユェを嘲笑うかのように──事実、いたぶりながら、彼の逃げ道の先に穴が開く。
 じゅん、と、粟立つような音が聞こえたと思うと、蒸発した木材の形容しがたい臭気が鼻をつくのだ。
 弾丸ではなく、超高出力のレーザーによる、成層圏からの狙撃である。
 少し着弾点がずれていれば、彼の命をあっさりと奪うであろう、一撃だ。
 腰を抜かした少年は、四つん這いの姿勢からへなへなと後ろに崩れ、だらしなく足を投げ出した状態で座り込んでしまった。
 恐怖に意識を失いかけた少年。だが、最後の藁にしがみつくようにして、叫んだ。

「お、お姉ちゃん!た、助けて!」

 困ったときの姉頼みである。先ほどまで、姉や、姉以外のもう一人の女性のことなど忘れて、我先に逃げだそうとした少年の言葉とは思えない。
 一部始終、少年の様子を見守っていた彼の姉は、たっぷりと呆れを含んだ溜息を吐き出して、

「だから言ったろうが、つんけん尖るのもけっこうだが時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、ってよ」
「な、なんのはなしだよっ!」
「何で自分だけが狙撃されてるか、考えてみ」

 そう言われて見てみれば、メイフゥもジャスミンも、平然と椅子に腰掛けている。
 当然のことではあるが、二人の周囲に狙撃された様子はない。先ほどから狙い回され、醜態を晒しているのは、自分だけだ。
 これはどういうことかと辺りを見回すと、必死に笑いを堪えた表情で自分を見る、画面の女と目があった。
 直感的に、インユェは理解した。どういう理屈か知れないが、自分を狙撃したのはこの女なのだと。
 その瞬間に、先ほどまでの恐怖を上回る、羞恥と怒りがインユェの顔を赤らめた。

「て、てめえか、このポンコツ女!」

 癖というよりは、もはや生態と評した方が正確かも知れないインユェの暴言。
 対するダイアナからの返答は、へたり込んだ少年の、股間の数ミリ先への狙撃であった。
 木材の焦げた臭いに、繊維の焦げた臭いが混じる。
 少年のズボンの、股間の継ぎ目の部分が、焦げて穴が開いていた。少しずれていれば、少年の男性自身が一生役に立たなくなっていたことは明白である。
 少年の口が、ぱくぱくと、呻き声すら漏らすことなく上下する。
 
「ごめんなさいねぇ。最近はあまり整備に裂く時間が無くて、システムの一部が暴走しちゃってるみたい。これじゃ、ジャンク呼ばわりされても返す言葉もないわよねぇ」

 冗談ではない。いったいどうすれば、システムの不具合程度で自分が狙撃されなければならないのか。だいたい、ここまでの精度で誤射が起こる可能性が、どれほどだというのか。
 どんなに愚かな人間でも、今のダイアナの言葉を額面通りには受け取らないだろう。

「それに、最近は弾道計算もミスが多くなっちゃって……。これじゃあ、感応頭脳失格だわ。だって、いつ手元が狂って、人間を殺しちゃうか分からないんだもの」

 にこやかな、この上なく嬉しそうな顔でそんなことを言う。
 この時点で、遅まきながら──本当に遅まきながら、インユェは悟った。目の前の女性は、姉か、それとも先ほど散々自分を痛めつけてくれた女と、同じかそれ以上に、怒らせてはいけない存在だったのだ、と。

「極めつけには、耳も遠くなっちゃって……。ねぇえ、そこのあなた。さっき、わたしのことを何て言ったかしら?よく聞き取れなかったんだけど、もう一度言ってくださる?」

 ここで毒づくことができたならば少年の愚かさも本物であったのだが、少年はもう少し賢明であり、同時に尻の穴が小さかった。
 片頬を引き攣らせて、揉み手を作り、不自然この上ない表情で笑いながら、

「あ、ははは、イレブンスさんは、今日もご機嫌麗しゅう、まことにお美しいかぎりで……」
「あらぁ、イレブンスだなんて堅苦しい、ダイアナでいいわよ、ダイアナで」

 画面の女性は、正しく天使のような顔でそう言った。
 インユェは、へこへこと頭を下げながら立ち上がり、股間の辺りを手で覆い隠しながら部屋を出て行った。
 しばらくすると、廊下の向こうから、水で何かを洗う音が聞こえた。
 少年の姉であるメイフゥが、溜息を吐き出した。

「……ったく、小便漏らすくらいなら最初っから黙っとけっつうの」
「いいじゃない、可愛らしくって。わたし、ああいう分かりやすい子、けっこう好きかも知れないわ」
「なら、もう少し優しく可愛がってやれ。冗談は構わないが、折角用意した隠れ家を穴だらけにしてくれたのは少しやりすぎだ。雨が降ったらどうする。盛大に雨漏りを起こすのは確実だぞ」
「怒らないでよ、どうせ長く使うものじゃないでしょ。それより、メイフゥちゃん。さっき頼まれてた件、終わったけどどうする?」

 廊下の向こうに視線を投げていた少女が、飛び上がるような様子で画面に近づき、

「まじで!?早すぎるだろ、ダイアナの姉御!」
「うーん、姉さんから姉御へは、ランクが上がったということでいいのかしら?」

 苦笑したダイアナに、

「もっちろんさね!あれだけややっこしいパスをこんなに早くとっちめるなんて、それだけで尊敬に値するぜ!」
「ふふん、まあね。わたしじゃなきゃ、きっと一ヶ月はかかってたわ」

 先ほどポンコツ呼ばわりされた鬱憤を晴らすように、ダイアナは胸を張った。
 それを讃えるメイフゥの顔は、輝くような笑顔である。
 それとも、舌なめずりする獣の顔。だがその獣の瞳はドルマークで描かれるに違いなかった。
 テレビ画面のダイアナの前で正座するメイフゥ。ジャスミンは少女のお尻に、ぱたぱたと振られる尻尾を幻視した。

「じゃあ、この画面にデータを送るけど、それでいい?」
「ああ!」

 瞬間、ダイアナの顔が消え、味気ない暗色の画面にいくつかのグラフと数字が羅列された。
 中央には、緑と濃紺で色分けされた模様のようなものが描かれている。
 メイフゥは首を傾げたが、ジャスミンにははっきりと見覚えがあった。ゆっくりとした足取りでテレビに近づき、メイフゥの隣に腰を下ろして、言った。

「地図だな」
「地図」
「ああ。ヴェロニカ共和国……というよりは、惑星ヴェロニカの世界地図だろう。ダイアナ、平面図を立体に起こせるか」
「ええ、ちょっと待ってね」

 球体の星を平面に表そうとすると、どうしても齟齬が生まれる。方角を正確にすれば面積がちぐはぐになり、距離を正確に表せば大陸相互の位置関係が把握しずらいといったように。
 さして時間を待たず、画面中央に立体的に描かれた球体が映し出された。
 言うまでもなく、惑星ヴェロニカの全景である。
 その上に、小さく赤い点が、いくつも描かれている。
 都市を表しているのかと思ったジャスミンだったが、どうにも違うようだと理解した。この国の首都であるヴェロニカシティのほぼ真上にその赤点が付されてはいるが、その他の著名な都市と赤点が必ずしも一致しないのだ。
 
「ダイアナ、この赤い点はなんだと思う?」

 真剣な表情で画面に食い入っていたジャスミンが、言った。
 ダイアナは、残念そうな声で、

「どうにも駄目ね。この印と、ヴェロニカ共和国に現存するあらゆるデータを比較検討してみたけど、どれも合致しなかったわ。人口の分布図でもないし、何かの産地を表しているわけでもない」
「そうか……」

 ジャスミンは、メイフゥの方を振り返り、真剣な表情で問うた。

「メイフゥ、さっきのチップは、本当は誰から奪ったものなんだ?」

 もらって、ではなく、奪った、である。この点、ジャスミンは間違えていないと確信している。
 メイフゥも、全く悪びれた表情を見せなかった。海賊たる父を持つ彼女は、その父親を心底尊敬しているのだし、この年まで所謂一般的な倫理観というものとほとんど触れずに育ったせいもあり、そういう意味での罪悪感は持ち合わせていない。
 彼女の内側に存在する最重要な行動原理は、己に恥じるところのないよう生きるということであり、自分とウォルを拐かした痴漢どもからこのチップを奪い取ったことは、その原理にちっとも抵触していなかったのだ。

「ちっとばかし前に、お世辞にも身なりがいいとはいえない野郎どもの家に招待されたことがあってね。危うく貞操を穢されそうになったんだけど、そこはなんとか切り抜けてさ、戦利品がこいつってわけよ」
「なるほど、顔と体を餌にして馬鹿な男どもを釣り上げ、思うさまに暴れ回り、ついでに懐も温かくして帰ってきたというわけか」

 にべもない言い表し方であったが、完全に事実に即していた。この点、ジャスミンは、メイフゥという少女の本性をほとんど理解していたと言っていい。
 自分の所業を暴かれたかたちのメイフゥだが、気まずそうな表情はちっとも見せず、むしろ嬉しそうにジャスミンを眺めていた。たった一晩一緒にいただけで自分のことをここまで理解してくれる人間がいるとは、彼女は想像だにしなかたのだ。
 しかも、強い。そして侠気に溢れている。

 ──ほんとに惚れそうだぜ。

 メイフゥは、これでジャスミンが男であれば今すぐに押し倒してやるのになぁ、と、高望みの溜息を吐き出した。

「ちなみに、それはただのごろつきどもだったのか?」
「まぁほとんどはな。ただ、そこの頭は、憂国ヴェロニカ聖騎士団と関わりがあるとかないとか言ってたかなぁ……」

 メイフゥは遠い表情をしながら言った。
 事実、彼女にとってあの事件は遠い過去の出来事であった。もし街中であの建物にいた男どもとすれ違っても、彼女は哀れな獲物の顔をちっとも覚えていないだろう。仮にあちらが覚えていて、泡を食って逃げ出したとしても、身に覚えのありすぎる彼女はいったいどの事件で関わった獲物なのか首を傾げるだけに違いないのだ。

「憂国ヴェロニカ聖騎士団……確か、真のヴェロニカ教の教えを取り戻すとか何とか喚きながら街を闊歩する、きちがい共のことだな」

 一刀両断の意見であったが、メイフゥは見事に首肯した。

「あれ、お姉様も知ってるのかい?」
「ああ、昨日、すれ違った程度だがな。そういえば、メイフゥ、お前達が戦っていたというのも……」
「ああ、そういやそうだったな」

 メイフゥは、ぽんと手を鳴らした。長いこと、チップのことなど忘れていたのだ。
 しかし、こうすると、データのことが俄然気になる。何故なら、憂国ヴェロニカ聖騎士団のトップは、現政権と蜜月の関係にあると言われているのだから。
 そして、ウォルを拐かしたのはヴェロニカ軍の中枢であり、当然のことながら現政権とも親密な付き合いがあってもおかしくないはないのだ。
 何かがジャスミンの脳裏に閃き、警鐘に似た神経に障る音を鳴らし始めていた。

「あっ、これって……」

 その時、テレビのスピーカーを借りて、女性の声が部屋に響いた。
 ダイアナの声であった。

「どうした」
「ん、別に大したことじゃないんだけど……」

 画面には相変わらず無味乾燥な数字とグラフが羅列されているが、ジャスミンは、そこに気遣わしげなダイアナの顔を幻視した。

「大したことじゃなくてもいいさ。今の私たちには、藁だったとしても掴める物はダイヤモンドよりも貴重なんだからな」
「それもそうだけど……。でも、正直わたしにはあまり意味のあることとも思えないのよ。それでも怒らない?」
「ああ、私の父と、私の愛機に誓って怒らない」

 子供をあやすような口調で、ジャスミン。
 それに安心したのか、それとも踏ん切りがついただけなのか、ダイアナが、あまり気が進んでいませんという内心がありありと滲み出た声で言った。

「……さっきの赤い点の付された箇所の極近辺に、ヴェロニカ教の聖地と呼ばれる遺跡のいくつかが存在するの。それだけよ。全体から見れば数パーセント程度だし、だからといってそれ以上に気になるデータもないのだけど……」
「ヴェロニカ教の、聖地?」
「ええ。原始自然崇拝のヴェロニカ教らしく、ほとんどは険しい山地か荒野のど真ん中ね。それに、遺跡っていってもそれほど大仰なものじゃないわ。小さな石造りのモニュメントみたいなものが建っていて、その周囲が立ち入り禁止になっているだけ」
「写真を用意できるか?」
「少し待って……。これでいい?」

 画面が切り替わり、先ほどよりははるかに鮮やかな色彩が映し出された。
 この国特有の、奇妙に赤茶けた大地が映し出されている。空の、のっぺりとした青との対比が強烈で、一瞬くらりと目眩を起こしそうなほどだ。
 そこは、何の変哲もない荒れ地であった。空の青、大地の赤茶以外に存在するのは、風雨に摩耗した石造りのモニュメントの灰色だけ。それ以外には、背の低い雑草の一つだって生えてはいない。
 なんとも侘びしい風景であった。これが、仮にも惑星一つを席巻している宗教の聖地とは思えない。ジャスミンの想像する聖地とは、金箔を分厚く張り付けた神像が鎮座し、信者がひっきりなしに巡礼に訪れて列を作るというものだったから、ギャップも激しい。
 
「他も、程度には差こそあれだいたい似たり寄ったりだわ。人間って不思議よね。どうしてこんな殺風景なところに神を住まわせたがるのかしら」

 ダイアナが、心底理解できないといった調子で言った。別に蔑んでいるふうではない。機械らしからぬ感性を持つ彼女であっても、理解できないことがあるというだけだ。
 そして、それはジャスミンも同感であった。自然が偶然に作り出したとは思えない絶景は確かに世界各地に存在するのであり、そこにはある種の神々しさを感じないでもないが、今、テレビ画面に映し出されている風景にそういった感情、あるいは感傷を引き起こすものは存在しなかった。

「ちなみに、その聖地には一体どういう由来があるんだ?」
「最初にこの星を訪れたヴェロニカ教の始祖達が、そこで神様とか天使を見たそうよ。そこで、どこの星にでも転がってるような、有り難いんだか有り難くないんだかわからない、曖昧な預言を授かったそうだわ」
「聞く人が聞けばそうでは無いのかも知れないが、なんとも有り難みのない話だ。それこそ、どこぞの誰かが昨日思いついたような感じだな」
「同感ね。そもそも宗教って、そんなものかも知れないけど」

 ダイアナと話しながら、ジャスミンの興味は急速に薄れつつあった。
 このデータが元は憂国ヴェロニカ聖騎士団のものだったと聞いて、その隠れ家か、それとも資金源になる麻薬畑でもあるのかと思っていたが、写真を見る限りそう言ったものはなさそうだ。こんなだだっ広い荒野のどこを探しても、ウォルやケリーが隠されているとは思えない。
 無論、意味のないデータであるはずはないのだ。しかし、現状でその解明ができないのであれば不必要に拘る時間も存在しない。知的好奇心を満たすために費やす時間は、今のジャスミンたちにはあまりに貴重すぎた。

「ふぅむ」

 ジャスミンは顎に手をやり、考え込んでしまった。
 後ろから、うずうずした様子のメイフゥが声を掛ける。

「なぁ、お姉様。どうだい、銭になりそうな話かい?」
「……どうだろう。今のところ、そういうふうなデータとも思えないのだが……」

 珍しく煮え切らない様子のジャスミンである。今は、地図から視線を外して、その横に羅列された数字の群れと格闘しているようだ。
 縦書きのデータの一番端には、規則正しい数字の列が並んでいる。おそらくは、共和宇宙の暦だろう。もしかしたら暗号化されて別の意味があるのかもしれないが、厳重なロックが掛けられていた以上、その線は薄い気がする。
 だが、年号の横の数字は、全く意味が分からないし、規則性も掴めない。
 やはりこのデータのことは、今は頭の隅に置いておくに止めるべきだろう。ジャスミンはそう思った。

「ちぇっ。折角飯の種をゲットしたと思ったのになぁ。な、ひょっとしたらさ、この星に移民してきた最初のヴェロニカ人がそこにヴェロニカ教のお宝を隠したとか、そういうことはねえのかな?」

 あまりに子供っぽいこの意見に、ダイアナが苦笑で答える。

「それは中々鋭い意見だけど、この場合は考えにくいわね。メイフゥちゃん、この星に移住してきたのは、元々故郷の星で迫害されていたような貧しい身分の人達でね、どう考えてもそんなお宝を埋めて隠しておくような余裕があったとは思えないのよ。考古学的に価値のある遺物が埋められていることはあっても、金銀財宝がざっくざくってことはないでしょうね」
「ちぇ、そうかよ。ま、ダイアナの姉御が言うならそうなんだろうなぁ」

 諦めきれないといった調子のメイフゥが、唇を尖らせる。
 そんな少女の意見を聞いていたジャスミンが、小さな、本当に小さな声で、無意識に呟いた。

「お宝を……埋める……?」

 ジャスミンの脳裏に、閃光が走る。
 猛烈な勢いで思考が回転していくのがわかる。そのあまりのスピードに、ジャスミンは目眩を覚えた。全身から、体という五感を奪われ、自分がもっと自由な生き物だと錯覚しそうになる。
 だが、その、快と不快の狭間を漂う感覚を味わいながら、ジャスミンは理解した。
 そうだ。
 そう考えれば、全てのつじつまが合うのではないか。
 ヴェロニカ共和国の連邦加盟を、大国エストリアが強力に後押しした理由。
 ヴェロニカ教の教義に、自生植物と肉食の一切を禁じるという、極端な教義がもうけられた理由。
 こんな辺境の惑星が、中央に名だたる列強から強い非難を受けても強気一辺倒でいられる理由。
 そして、もしかしたら今回の騒動──彼らの孫であるジェームスやリィの誘拐に端を発し、今、ウォルやケリーの拉致に至った、全ての遠因。
 もし、そうだとしたら、このデータは……。
 ただならぬジャスミンの様子に気がついたダイアナが、気遣わしげな声をかける。

「ちょっと、どうしたのよジャスミン。顔が青いわよ、大丈夫?」
「あ、ああ。ちなみに、ダイアナ、少し調べ物を頼めるか?」
「いいけど……どうしたのよ、突然」

 最後の声は意図的に無視する。

「さっきのデータを映してもらえるか」
「……はい、どうぞ」

 画面が、先ほどの、数字とグラフの羅列されたそれに戻る。
 ジャスミンは、それを指で追った。画面の一番端、共和宇宙歴と思われる数字が規則正しく並んだ行である。
 そのあるところで、指が止まる。

「ダイアナ、共和宇宙歴627年、その年に発生した主な事象を調べてくれ」

 ほとんど間を置かず、

「共和宇宙連邦の前身、共和宇宙同盟の主席ウィリアム・ベッカーの暗殺未遂。それに端を発する、シリウス星系の内乱勃発。中央では、食料生産を主に担っていた惑星スピウネルその他の同時発生的な超異常気象で記録的な食糧不足が発生し、長期的な混乱が起きてるわね。他には……」
「いや、それで十分だ」

 ジャスミンは、627年の列を調べる。そこに記された数字は、他の行のそれに比べて、遙かに大きなものであった。
 再び一番端の行に戻り、数字を下に追っていく。

「704年」
「エストリアとマーズの平和友好条約の署名が行われているわ。他には、ラヴォス星系とルガル星系を結ぶ航路に大規模な宇宙嵐が発生して長期間停滞、結果として航路が使用不能になり、ラヴォス星系に経済を依存していたルガル諸国が大規模なダメージを受けて、相当数の経済難民が発生したみたいね」
「781年」
「その年は、さっきとは反対にエストリアとマーズの軍事的緊張が最高潮になった年ね。当時の連邦主席サクラ・アカシアが有能な政治家でなかったら、共和連邦はその年に消滅していたと言われているわ」

 ジャスミンは、他にもいくつかの年号を言った。そして、ダイアナは暗記の得意な受験生さながらに、その全てにさらさらと答えていった。
 その度に、ジャスミンの細い指が画面を横滑りし、その列に書かれた数字を確認する。そのどれもが、他の年の列に記された数字よりも、遙かに大きなものであった。
 なるほど、どうやら間違えていないらしい。ジャスミンは、震える息を吐き出した。
 だが、疑問は残る。
 このデータがそういうものだとして、どうしてそんなものをいっかいのごろつき風情が手にしているのか。
 それに、流出したのは、これ一つだけか?いや、それはあり得ない。おそらく、驚くほど広範囲にばらまかれているだろう。
 それを手にした人間の中に、自分と同じことに気がつく人間がいないと言い切れるか?
 ジャスミンは、誇大妄想的な自信家ではなかった。ならば、自問の答は否だ。
 そして、その不幸な人間が、十人、いや、五人もいれば……。
 もしも、もしも自分の考えが間違えていないなら……。

「なぁ、お姉様。何か分かったのかい」

 ジャスミンは、メイフゥの声を、深海から這い上がったときの酸素のように聞いた。
 
「ああ、わかった」
「じゃあ、このデータは、一体何なんだい?」
「種さ」

 振り返ったジャスミンの笑顔が、常にないほどに強張っている。
 メイフゥは、ただ事ではないと悟る。そして、押し殺すように震えるジャスミンの声を、初めて聞いた。

「これをばらまいた人間は、心底狂っているぞ。これは、到底人目に触れさせて良いデータではない」
「……種って、何の種だよ?」
「悪意だ。メイフゥ、これを拾ったのがお前で良かったよ。これは、無限の悪意の象徴だ」

 メイフゥの耳朶に、呪いのような寒気が広がった。
 それでも、あえて軽々しい口調を作り、言った。

「……へぇ、お姉様って詩人だね。でも、あたしは頭が悪いからさ、もう少し分かりやすく言ってくれないと分からねえんだけどな」
「なら、こう言えば分かりやすいか?もし、このデータの真実に気がついた人間が、この星に五人もいれば……」
「五人もいれば?」

 メイフゥの、唾を嚥下する音が、不吉に響いた。

「この国に内乱が起きる。間違いなくな」
 
 ジャスミンは、すっくと立ち上がった。

「準備をしろ、メイフゥ。すぐにここを発つ」

 普段は人の風下に立つことを良しとしないメイフゥが、自然と従いそうになる声だった。
 そして、目の前に控えた戦いを、ちっとも恐れない、戦士の声だ。
 戦慄に武者震いをしそうになったメイフゥは、肩を抱くようにして立ち上がり、不敵な表情を浮かべた。

「戦いかい?」
「ああ、お前の力を、存分にふるって欲しい」
「嫌だって言われてもふるわせてもらうぜ。ちなみに、場所は?」

 ジャスミンは、ちっとも笑うでもなく、

「ヴェロニカ教の総本山に、殴り込みだ」



[6349] 第四十五話:TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/08/20 23:22
『偉大なる始祖たちは、数々の苦難を乗り越えてこの星に辿り着いた。
 そこは、死の星であった。
 荒涼たる大地は人の支配を拒むかのようである。水に乏しく、吹き荒ぶ嵐は人の営みを軽々しく薙ぎ倒していく。
 人知の及ばぬ新世界。
 おお、偉大なるヴェロニカの大地。
 真紅の大地を踏んだ人々の頬を、滂沱の涙が伝った。
 しかし、神々は厳格であった。彼の人の門扉の前で頭を垂れる私たちに、数々の試練をお与えになった。
 麦は実らず、井戸は容易く涸れ、母牛の乳は出ず子牛は育たない。
 病を乗せた風が吹き、赤子も老人も死んだ。手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ。
 だが、思い違いをしてはならない。
 彼の人の慈悲は無限である。死は罰ではなく、歴とした救いであったのだ。
 大地を追われ、大地に還ったのは、心弱きもの、心卑しきものばかりであった。彼らは肉を食べ、母牛の乳を奪い、赤々と実った無垢の果実を貪った。
 大いなる大地から、奪い取った人々であった。
 彼らにとって、死は罰ではなかった。
 彼らは、大地から奪い、大いなる罪を犯した。
 そして、罪は彼らとともに、大地に還ったのだ。大いなる循環のうちに戻ることを許されたのだ。
 だが、罪は大地に刻まれる。罪の刻まれた大地は、いずれ我らに本当の罰を下すだろう。
 敬虔なる信徒たちよ。赤き大地の子供たちよ。
 彼らの死を、確と心に置き留めよ。
 神の愛は無限であるが、我らがそれに甘えれば、心の弱さに相応しい残酷な死を迎えることになるだろう。
 この大地を、罪で染めてはならない。我らが大地に還るのは、汚れなき魂とともに。
 ヴェロニカの大地に栄光あれ──』

「……気違いだな、こいつを書いた連中は」

 助手席に座ったメイフゥは、分厚い本を後部座席に投げ捨てた。
 ジャスミンから手渡された、ヴェロニカ教の教典であった。
 そのまま鈍器として使えそうなほどに分厚い本である。一から十まで目を通せば、慢性的な肩こりと眼精疲労に悩まされることは必至だ。
 しかし、幸いなことにメイフゥはそのどちらにも悩まされずに済みそうだった。何せ、最初のページの半ばほどまでしか読んでいないのだ。肩が凝る時間すらない。

「お気に召さなかったか」
「駄目駄目。あほらし、あんなもん読んでるくらいなら煎餅片手にワイドショーでも眺めてる方が幾分生産的ってもんだぜ、お姉様」

 なんとも罰当たりな台詞を事も無げに吐き出した少女を横目に見ながら、ジャスミンは車のハンドルを握っていた。

「そう言ってやるな。我々には到底理解不能な暗号の羅列であっても、人によっては人生の指針になりうるんだ。それを頭から否定するのは、失礼というものだぞ」

 ジャスミンの駆る車は、ヴェロニカの赤茶けた大地を軽快に飛ばしていた。
 途中、宇宙時代とは思えない粗末な集落をいくつか見かけた。中世と呼ばれる時代の村落を絵に描いたような景色である。
 ヴェロニカ共和国は、首都であるヴェロニカシティをはじめとしたいくつかの大都市を除けば、本当の意味で自然と共生した生活が基本になっているようだ。
 集落には、必ず大規模な農場が併設してあった。
 農場といっても、いわゆる普通の農場ではない。敷地は全て角張った透明な建物で覆われており、中で何人かが手仕事で農作業をしている。彼らのいじる土も、ヴェロニカの赤土ではなく、いかにも滋味に富んでいそうな黒土だ。
 見慣れていなければ、どうにも違和感のある眺めではあった。自然からの搾取を禁じているというが、自然の土から作物を作ることすら禁忌に触れるのか。それとも、遺伝子交配によって生み出した新種作物は土から選ばなければ機嫌良く育ってくれないのか。
 あまりに長閑な眺めに、メイフゥはあくびを噛み殺していた。今から向かうのが敵地であるとわかっていても、どうにも緊張感を保てない眺めだったのだ。
 努力して、あくびの代わりにため息を一つ吐き出したメイフゥが、彼女の体格からすればやや手狭な助手席で猫のように身体を伸ばした。

「お姉様の言ってることもわかるけどさ、どう考えても頭がおかしいぜ、この本を書いた連中は。何をどう間違えたら、神様にぶっ殺されることが救いになるんだよ。古今東西どこの国で聞いたって、死刑ってのは考えられうる最悪の刑罰だぜ。それが救いだってんなら、この国の人間はみんな感謝の涙を流しながら絞首台に上るってのかい。お姉様、世間じゃあそういう連中のことを、気違いとかバケモンとか呼ぶんだぜ」

 容赦ないメイフゥの感想であったが、全く理解できないわけではない。むしろ、価値観としてはジャスミン自身のそれに近い。
 ジャスミンがそこまで過激な感想を持たないのは、共和宇宙全域を股に掛けるクーア財閥の経営者として色々な星を渡り歩き、そこに根付いた多種多様な価値観と親しんでいるからである。その経験がなければ、やはりメイフゥと同じようなことを言っていたかもしれなかった。

「お前が目を通した場所なんてまだましなほうだぞ。次の章に入ると少しずつ選民思想が漂いはじめ、三章では終末思想がまじり、最終的には自分たちが選ばれた人間なのだから、他の星の人間の蒙を啓き、導いていかなければならないというくだりに辿り着く。ヴェロニカ教の始祖たちは宗教的な対立が原因でもと住んでいた星を追われた人々らしいが、その意趣返しとも思えるほどに過激な言葉が羅列されていた。読み終えた後は、脳味噌の皺を伸ばしてくれるコミック雑誌が恋しくなったほどだ」

 ジャスミンのげんなりした呟きに、隣に座ったメイフゥが目を丸くした。

「……お姉様、まさかさっきの分厚い奴を、全部読んだってのかい」

 信じられない、といったふうのメイフゥである。灰褐色の瞳を猫みたいにまん丸にして、驚嘆の視線を寄越している。

「まぁ、この星に用が出来てから、文化風俗、一応のことは頭に入れてある。特に宗教は重要だ。ほとんどの失礼を笑って流してくれる寛容な民族でも、この一点について侮辱されれば殺人も辞さないというのは共和連邦加盟国でも珍しくないことだからな。用心はするに如かずさ」

 さらりと事も無げに言ったジャスミンを、メイフゥは異星人と出会ったかのような顔でまじまじと見つめた。
 メイフゥは優れて頭の良い少女であったが、こつこつと積み上げるように勉強するのは苦手であったし、ちっとも共感できない文字の羅列をひたすらに詠み進めるなど拷問以外の何ものでもないと感じてしまうのだ。それが出きる人間は、既に彼女の理解の範疇から脱している。

「原典がお気に召さないなら、こういうのはどうだ?これもなかなかに興味深いぞ」

 ジャスミンはサイドボードに手を伸ばし、そこに置いていた豪奢な装丁の本をメイフゥに手渡した。
 興味の薄そうな顔をしたメイフゥは、何気なくページをぱらぱらとめくる。

「え、と……『聖女ヴェロニカ、守護聖獣とともに天に昇ること』……?」

『──ついにヴェロニカは、最後まで己の運命を嘆き悲しむことはなかった。

 刑場までの道は、彼女に蔑みと好奇の視線を投げつける民衆で満たされていた。その中を、彼女はただの一度も俯くこともなく、毅然と正面のみを見据えて歩き続けた。
 七日間、朝と晩となく降り続けた雨は止み、天は、どこまでも青い空で満ち満ちている。火刑に処される彼女の運命を、神すらが見放したようであった。
 しっかりとした歩みは、聖女を火刑台へと速やかに運ぶ。
 彼女を魔女と認定する異端審問官の声が高らかに響き、民衆の歓声と罵声が年端もいかぬ少女を貫く。
 一際高い場所に設えられた火刑台からヴェロニカの見る光景は、自分の死を望む無数の民の姿で満たされている。それは、万軍を率いる武将の雄々しき心をすらへし折るに十分な眺望であったに違いない。
 しかし、千の罵りも万の嘲りも、無限の絶望すらも、彼女の慈悲に満ちた魂に毛の先ほどの傷をつけることも叶わなかった。
 なぜなら、ヴェロニカは知っていたのだ。己の正しきことを、そして神の無限の寵愛を。ならば、どうして己の行いを恥じることが出来るだろうか。
 ヤドリギの幹に縛り付けられた幼い身体の足下には、恐ろしいほどの籾柄と枯れ枝が積み上げられていた。ひとたび炎が舞い上がれば、少女の身体は骨まで焼き尽くされるのは明らかであった。
 それでも、鉄鎖で巻かれた少女は、どこまでも穏やかであった。
 最も苦痛に満ちた死を前にしながらも、己を暗い地の底へと追いやろうとしているすべての人間に幸多からんことを願って、一心に祈っていた。
 そして、神はヴェロニカに最後の試練を与え給うた。
 魔女の魂を地の底に封じる祝詞が高らかに読まれる中、民衆の中から一人の男が飛び出してきたのだ。
 垢まみれのぼろ布を身体に巻き付けた、蓬髪の老人であった。
 彼はたちまちに刑吏に取り押さえられながら、それでも声を限りに叫んだ。

 おお、哀れなヴェロニカよ。あなたの行いはいつだって正しかった。あなたはこれまで、ひたすらに神にだけ仕えてきたのだ。誰が知らずとも、私だけは知っている。だからこそ、己を裏切った民を恨め。己を見放したもうた神を恨め。この世の全てを恨むがいい。それはちっとも恥ずべきことではない。そうしなければ、無念に染まったあなたの魂は、地の底で無限の苦役に曝されるだろう。私には、いつもあなたとともにあった私には、たったそれだけがどうしても許しがたいのだ。

 男は、いつのまにか恐ろしい化け物の姿に変じていた。
 全身を黒い鱗で覆い、肩と背中から無数の蛇を生やした巨人の姿であった。
 それは、今までのありとあらゆる時と場所で、ヴェロニカの耳に涜神と背教の言葉を吹き込んだ悪魔の正体であった。
 その化け物が、誰一人嘆き悲しまない聖女の死に、誰よりも嘆き悲しんでいたのだ。
 涙とともに放たれた化け物の声に寸分も構うことなく、無慈悲の炎は放たれる。
 種火はたちまちに業火となり、少女の身体を包み込んだ。
 しかし聖女ヴェロニカは、なおも穏やかな声で化け物に向かって曰く。

 悪魔よ。悪鬼よ。それとも、私の心に宿った醜いところよ。最後の最後まで私に付き合ってくれてありがとう。だけれども、そろそろ幕引きだ。わたしは神の愛とともに神の御元へ帰るのだ。あなたの言葉はどこまでも優しく暖かだ。だからこそ、今の私の穏やかな心を、どうかあなたの温もりで汚さないでいただきたい。

 悪魔と呼ばれた化け物は、ヴェロニカの言葉に、更なる涙で頬をぬらす。垢で黒ずんだ化け物の顔が、涙の伝った箇所のみ鏡のごとく美しく輝いた。
 返して化け物、耳を塞ぎたくなるような嗚咽で喉を振るわし、世界を揺らすような大音声で曰く。

 おお、ヴェロニカよ。この世界で、もっとも敬虔に私の言葉に耳を傾け続けた端女よ。この世界で、もっとも頑なに私の言葉から耳を背け続けた聖女よ。あなたを、私の主の御元へと誘おう。彼の人のもとで、その疲れた身体を休めるがいい。

 化け物、たちまちに真白く立派な狼へと変じ、炎に包まれたヴェロニカに歩み寄る。
 あまりに神々しいその姿に民も刑吏も道を開け、炎すらもが白き獣を恐れ敬うように消え失せた。
 故無き罪の業火に焼かれ、黒こげになったヴェロニカ。しかし白き獣が身を寄せると、おお、傷ついた聖女の身体は、たちまちに生まれたての赤子の如き美しい肌に生まれ変わったのだ。
 神の御使いたる白狼は、ヴェロニカを背に乗せると、羽根無き身体で天へと駈け上っていった。
 至上の奇跡を目の当たりにした民草は、己の行いを深く悔い、聖女ヴェロニカの教えに帰依した。以来、この星に病魔を乗せた風が吹くことは無くなったという……』
 
「ふぅん……白い狼、ねえ」

 メイフゥは気のない声でそう一言呟いただけだった。
 意外を覚えたのはジャスミンである。これもしょせんは子供向きの寓話であるのだが、けちをつけようと思えばいくらでもつけられる話だ。それが野暮であることは百も承知といっても、この少女のことだから、絶対に何か一言あると思っていたのに。

「その話はお気に召したか?」

 からかい調子のジャスミンの声に、メイフゥは鼻を一つ鳴らしてから、

「子供向けの絵本噺にけちをつけるほど、あたしだって野暮天じゃないさ。そりゃあ、白い狼が身を寄せただけで火傷が治るはずがないとか、羽根の無い動物がどうやって空を飛ぶんだとか、突っ込みたいところは山とあるけどさ」
「……」

 ジャスミンは、メイフゥの言葉にわずかな異物感を覚えたが、とりあえずそのままにしておいた。何か、もっと不思議を覚える箇所が、他にあった気がするのだが。
 僅かに生まれた気まずい空気を嫌がるように、今度はメイフゥが口を開いた。
 
「しかし、聖女ヴェロニカ、ねぇ。この気の毒な女の子、この星と同じ名前なんだね」
「当然だ。なにせ、ヴェロニカ教という名前自体、この、聖女ヴェロニカから貰ったものなんだからな」

 ジャスミンの言葉が余程思いがけないものだったのだろう、メイフゥが驚いた声で、

「……そうなの?」
「珍しいことではないだろう。確か、一時期は人類の大部分が信仰していた原始一神教の一つに、教祖自身の名前を冠したものがあったのではなかったかな」

 遠くを見るように言ったジャスミンである。
 遙か昔、家庭教師から聞かされただけの知識だ。定かなものではなかった。

「そういえば、その宗教にもヴェロニカという名前の聖女がいたな。たしか、処刑の丘に十字架を担いで登るその教祖の、血と汗で汚れた顔を拭き清めたとかなんとか……」
「顔を拭っただけ?たったそれだけのことで、聖女として名前が残るの?そいつは美味しいなあ、どっかにいねえかな、処刑の丘に登る教祖様。あたしが優しく顔を拭ってやるのに」
「いや、彼女の名前が聖人の列に叙された理由としては、彼女の行為そのものよりも、どちらかというとその後の奇蹟の方が重要だな」
「その後の奇蹟?」
「彼女が教祖の顔を拭った麻布にな、なんと教祖の顔が浮き出たらしいのさ」
「うげ、気持ち悪っ!」

 にべもないメイフゥの感想に、ジャスミンは笑った。
 それでもメイフゥは、悪臭に鼻を摘んだ様な表情で続ける。

「奇跡っていうより、祟りなんじゃねえの?あたしなら、そんな気持ちの悪い布っきれ、さっさと燃やしっちまうけどなぁ」
「だが、教祖を信仰する連中からすれば紛れもない奇跡だ。それに、どちらかというと、この逸話の主人公はヴェロニカという女性個人ではなく、正しくその奇跡本体のようでな」
「……どういうこと?」
「ある学者が言うには、ヴェロニカという女性は後日に付け加えられた架空の登場人物で、ヴェラ・イコン──真たる聖像という意味だが──が訛った言葉らしい。この場合は、教祖の顔の浮き出た聖顔布のことだな。つまり、教祖の顔の浮き出た聖顔布という奇跡が先にあり、同じ名前を冠した登場人物が後から生まれたのさ。如何にも奇跡を重んじる宗教らしいエピソードだと思わないか?」
「ふぅん、形式が先にあって、その後に実質が肉付けされたってわけか。ま、よくある話だね。詐欺師や山師が考えつきそうなこった」
「……さきほどから聞いていると、君はよほど宗教というものに恨みがあるのか?」

 メイフゥは後頭部を乱暴に掻きむしり、

「いや、こいつはどっちかっていうと嫉妬とか羨望の類だなぁ」
「ほう」
「だってさ、考えてもみてよ。この世のありとあらゆる金持ちの中でさ、働くこともなく元手をつぎ込むことも危険を冒すこともなく、それでもたらふく儲けてるのって、ぶくぶく太った生臭坊主くらいのもんだぜ?あたしみたいな、朝から晩まで働いても食うや食わずの貧乏人からしたら、羨ましいったらねえさ」
「……なるほど」

 ほとんどは呆れたジャスミンだが、一理あるとも思った。
 確かに、宗教ほどに効率のいい金儲けのシステムは他にない。そして、喜捨という名目の金銭から寄付した人間の信仰心をさっ引けば、そこに残るのは詐欺じみた後味の悪さだけである。
 当然、反駁する意見は山とあるだろうし、宗教というシステムによって救われている人間が無数にいるのも事実だ。だから、宗教自体が悪だという極論は、ジャスミンも好むところではない。
 それでも、年若いメイフゥの意見には頷かざるを得ない部分があるもの、また事実であった。

「そういえばお姉様、お姉様はどうしてこの星に来たんだい?まさか観光目的って訳でもないんだろう?」
「ん?そうか、まだ君には話していなかったな」

 ジャスミンは、自分とケリーがこの国を訪れるきっかけとなった、連邦大学中等部学生大量誘拐事件の顛末を語った。
 ジャスミンの説明は要点を得ていたし、メイフゥもよく理解した。
 事件解決の立役者となったダン・マクスウェル船長の身が危険に曝されているところまで説明すると、メイフゥは深く感銘を受けた様子でしっかと頷いた。

「ふぅん、知り合いの身の安全のために、トリジウム密輸組織を丸ごとぶっ潰す、か。いいねぇ、粋だねぇ、男前だねぇ」

 知り合いとは、ジャスミンの一人息子のことである。
 不惑を迎えた男性をまさか自分の息子であるとは説明できず、知り合いということにしたのだ。

「その事件なら小耳に挟んだぜ。確か、連邦警察も血相変えて組織を追っかけてるとかなんとか。……ひょっとしてお姉様って、連邦警察の捜査官か何かかい?」

 おそるおそるといった様子でメイフゥが尋ねる。
 なるほど、そう考えてみれば、ジャスミンの言葉の端々や所作には、規律厳しい集団に属した者特有の、癖のようなものがある。
 メイフゥはかなり本気だ。

 ──海賊王の妻である自分が連邦捜査官か。それも面白いかもしれないな。

 ジャスミンは笑いを堪えながら、逆に訊いた。

「もしそうだとしたらどうする?」
「金輪際、連邦警察の目の届くところでは大人しく生きていくよ。もしも連中のみんながみんな、お姉様みたいな手練れ揃いだったら、どう考えても勝ち目がねえもん」

 ぶるりと体を震わしたメイフゥであった。
 それも無理はないかもしれない。なにせ、つい先日まで自身の宇宙最強を疑っていなかったメイフゥである。その自分を打ち負かした人間が警察の人間で、しかもそんな人間がごろごろといるならば、この世の構造そのものを考え直さなければならないと思っているのだ。
 ジャスミンは、更にこみ上げてくる笑いを押し殺し、言った。

「警官か。それはそれで面白そうだが、今生で警察手帳を持ったことはまだないな」
「あ、そうなの?よかったぁ!」

 起伏に富んだ豊かな胸をほっとなで下ろしたメイフゥに対して、冷ややかな視線を向けたジャスミンが、

「だからといって、君が好き放題やっていい道理はないぞ。言っておくが、わたしは君みたいな子供が荒事に首を突っ込むのはあまり好きではないんだ」

 メイフゥという少女の人間離れした戦闘力は、嫌というほどに理解している。なにせ、冗談ではなくあと一歩で殺されるところだったのだ。
 だが、それとこれとは話が別である。
 戦力としてはこの上なく頼りになるのを承知しているが、子供が血を流したり流させられたり、殺したり殺されたりすることには嫌悪感が拭いきれない。ジャスミンにはそういう甘い部分がある。
 普段子供扱いなどほとんどされたことのないメイフゥは、自分を子供として扱うジャスミンが、どこまでも新鮮な存在であった。
 だから、ハンドルを握るジャスミンの横顔を眺めたメイフゥは、意地の悪い声で尋ねた。

「ふぅん、子供は子供らしく、おうちでおままごとでもしてなさいってか。じゃあ、今からあたしが大暴れするのも禁止かい?」
「いや、それは大いに期待している」

 あっけらかんとしたジャスミンの返答に、メイフゥが不思議そうに首を傾げた。

「なのに荒事に首を突っ込むなって?それって矛盾してないかい?」
「平時と非常時との間には要求される倫理感の質量に開きがあって当然だ」

 しれっと答えたジャスミンである。
 メイフゥは、大きく肩をすくめた。どう考えてもジャスミンの意見は正しい。
 日曜日の昼下がり、陽光の射す教会で神の愛を説くのは結構なことだ。尊ばれるべき行いでもあるだろう。
 しかし、銃弾の飛び交う戦地で、今まさに自分に銃口を向けている敵兵に対して神の愛の尊さを説いたところで、一秒後には鉛の塊が頭部を吹き飛ばすだけなのだ。
 野生の草食動物だって、飢えれば屍肉を食らうこともある。生き残るのに必要なのは、理屈ではなく適応力だ。そして、与えられた状況に適応できない生き物は死んでいけばいいのである。

「ま、いっか。で、お姉様はどうしてこの国に目を付けたんだい?あの事件、これといった手がかりも見つからずに捜査も進展してないって噂だけどさ」
「ちょっとしたつてがあってな。証拠物であるトリジウム原石の袋を一部融通してもらって、その成分分析をした」

 メイフゥは今度こそ目を剥いた。
 つてがあるというが、連邦警察の押収した証拠物件を融通してもらうほどのつてとは何だろう。同年代の少年少女に比べれば人生経験の豊かなメイフゥも、寡聞にしてそんなものは聞いたことがない。

「……あらためて訊くけどさ、お姉様って一体何者なんだい?」
「わたしはジャスミン・クーアだ。それ以上でもそれ以下でもあったためしはない」

 メイフゥは胡散臭そうに眉をしかめた。

「あのさ、あのジャスミン・クーア──クーア財閥二代目のジャスミン・クーアならいざ知らず、何の後ろ盾もないジャスミン・クーアに証拠物件を渡してくれるほどお優しくはないと思うぜ、連邦警察って」
「ただのジャスミン・クーアなら渡してくれないとも。だが、わたしは一応、クーア財閥二代目のジャスミン・クーアらしいからな。連邦警察もこころよく渡してくれたぞ」

 またも、猫科の獣みたいに目を丸くしたメイフゥが、一瞬遅れて、お腹を抱えて笑い始めた。
 メイフゥはシートベルトを締めていなかったので、笑い転げているうちにジャスミンの太股に寝ころんでしまった。それくらい、豪快に笑い転げた。

「おい、運転の邪魔だ。死にたいのか」

 ジャスミンは結構厳しい声で言ったのに、当のお邪魔物には全く堪えたところがない。
 それどころかメイフゥは、子猫が母猫にするように、甘えた様子でジャスミンを見上げながら、なおも笑いに染まった声で言った。

「いやぁ、ごめんごめん。でも、意外だったよ。お姉様って結構冗談が好きなんだねぇ。もっと堅物かと思ってた」
「わたしは一言だって冗談なんて口にしたつもりはないぞ。それより早くどきなさい」
「了解了解」

 メイフゥは名残惜しそうにジャスミンの太股から体を離したが、先ほどのジャスミンの言葉を信じているふうではちっともなかった。
 ジャスミンも、別に自分の言葉を信じてもらう必要性があるとは思わなかったので、それ以上は何も言わなかった。
 
「あともう一つ。参考までに訊いとくけど、お姉様の一味って、どれくらいの兵隊を抱えているんだい?」
「一味などという物騒なものを率いた覚えはない」
「じゃあ、ひょっとしてダイアナの姉御と、あの色男だけか?」
「あとは、わたしの愛機がいる」
「……それだけ?」
「十分さ。むしろ、よくぞこれだけ揃ってくれたと神に感謝してしまうほどだ」

 ジャスミンは至極真面目に答えたつもりだ。
 彼女は、自分たちが十全の力を発揮できるならば、連邦軍の哨戒艦隊までならなんとか相手にできると確信していた。また、木っ端海賊程度であればどれほど束になろうと彼女たちに冷や汗の一つもかかせられないのは事実でもあった。
 だが、一般常識の持ち主であれば、あるいはジャスミンたちの実力をよく知らない者であれば、たった二人(感応頭脳を含めれば三人、さらに戦闘機を含めるなら四人である)でトリジウム密輸組織を壊滅させるなど、よくて冗談言、悪くすれば精神異常を疑われてしまう。
 その点、たった二人(未熟者の弟を含めれば三人、太陽のように笑う不可思議な少女を含めれば四人である)でこの星を牛耳る暴力組織に正面から喧嘩を売りつけたメイフゥは、自身を打ち負かしたジャスミンの言葉を疑ったりはしなかった。無論、彼女の精神異常を心配することもない。
 喜びと興奮に頬を赤らめ、灰褐色の瞳を薄く濡らしてジャスミンを見ている。
 それは、恋した乙女の表情であった。

「ああ、どうしてお姉様はお姉様なんだろうなぁ。あんたが男だったら、絶対に逃がしたりしねぇのになぁ。今日にでもあたしの星に攫っていって、祝言をあげてやるのになぁ」
「それは残念だったな。だが、わたしよりもわたしの夫のほうがいい男だぞ。君が成人したら、存分にアプローチをかけなさい」

 絶対に妻の台詞ではない。少なくとも、捕らわれの夫をこれから命を懸けて救い出そうとしている妻の台詞ではありえない。
 だが、当のジャスミンは平然としているのだ。これには、むしろメイフゥのほうが声を小さくして、

「……ほんとにいいの?」

 年頃の少女らしい可愛げのある声である。
 ジャスミンは思わず苦笑を漏らしてしまった。

「意外と弱気だな。どうした、泥棒猫のきみらしくもないじゃないか」
「うーん、それを言うならお姉様も、ちっとも本妻らしくないんだけど」

 至極もっともな台詞だったので、ジャスミンも頷いた。

「わたしも時々そう思うんだ。どうしてあの男は、こんな女が好きなんだろうなぁ」

 聞きようによっては傲慢とも受け取ることの出来る台詞である。
 自分のどこに惚れているのかはわからない。しかし、自分に惚れていることは確信している。
 そういう台詞であった。余程の自信と、その裏付けとなる事実がないと、到底こんなことが口から出ようはずもない。
 メイフゥは、溜息を吐き出した。どう考えても、目の前の女を手に入れるのも、目の前の女の夫を手に入れるのも、不可能事にしか思えなかったからだ。
 手を頭の後ろに組み、低い天井を見上げながら、一言だけ呟いた。

「ま、いいや。この世には星の数ほども男がいるっていうしね」

 メイフゥが諦めの台詞を口にした時、後部座席から、かすかな呻き声が聞こえた。
 不審を覚えたメイフゥが身体を後部座席に向けると、そこには、頭を抱えてうずくまる銀髪の少年がいた。

「……何してんの、おまえ」
「──こんの馬鹿女!てめえのせいだろうが、てめえのっ!」

 涙声のインユェが、声を限りに叫んだ。
 見てみれば、鈍器と見間違えるほどに分厚いヴェロニカ教の教典が、涙目のインユェの足下に落っこちていた。そして、少年の額には特大のこぶが出来ているのだ。
 ああなるほどと得心のいった姉は、いかにも気安く顔の前で手を合わせ、

「わり、見てなかった」
「わりい、だとぅ!?わりいで済んだら連邦警察はいらねんだよ!」

 インユェは大いに憤慨した。
 至極当然である。
 しかし、こういう場合にものをいうのは、どちらに理があるかよりも、どちらのほうに力があるかだったりするわけだ。
 加害者であるはずのメイフゥは、被害者であるインユェよりもふてぶてしい有様で、

「いいじゃねえか、どうせこれ以上悪くなることもねえんだしよ、その不景気な面も、残念な脳味噌もな」
「何だその言い草はぁ!?本当に謝る気があんのか!?」
「ああ、うるせえなぁ、そんな小せえことをぐちぐち言ってやがるから、いつまでたっても小せえままなんだ、ガタイもアソコもよ」
「て、てめえ、人が気にしてることを……!」
「あ、図星かよ。気にしてたんだ、こりゃあ悪いことを言っちまったなぁ、ごめんなぁ、ウォルには秘密にしておいてやるからなぁ、てめえのモノが粗末なことはよぅ」
「こ、殺す、絶対に殺してやる!」

 ぎゃあぎゃあとうるさい姉弟を横目に、

「いや、兄弟というものは賑やかでいいものだ。これなら、少し無理してでももう一人産んでおくんだったかな?」

 聞く人が聞けば──例えば歳の離れた彼女の子供などである──頭を抱えたくなるような台詞を呟いたジャスミンは、アクセルを強く踏み込んだ。



[6349] 第四十六話:The Old Man and the She
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/08/23 22:15
「事前に予約も入れず突然の訪問、まことに申し訳ありません、ビアンキ老師」
「なんのなんの、あなたのようにお美しい女性のお客様であれば、いつだって門戸も開こうというものです」

 皺で覆われた顔にいっそうの笑い皺を浮かべた老人が、そう言った。
 ジャスミンの目の前に座っているのは、枯れた老人であった。
 骸骨に薄皮を一枚貼り付けたような顔立ちであり、体格である。
 頭部はつるりとなっており、黒ずんだ染みがたっぷりと張り付いている。
 目の下には薄く隈が出来ており、一見すれば臨終間際の病人と間違えてしまいそうだ。
 だが、言葉はいたって明瞭であるし、よく見れば体の動きのどこにも不自由なところはない。粗末なぼろ布を纏っただけの枯れ枝のような体が、意外なほどに生命力に満ち溢れている。
 これならば、例えば余程に重たい物を運んだり、高いところの物を取ったりするとき以外、日常生活で他者の手を借りることもないだろう。
 既に年の頃は百を越えていようか。だが目の前にいるのは、ジャスミンの知る一般的な老人とは、あらゆる意味で異なる人生を送ってきたであろう老人だ。
 もしかしたら、意外と若いのかも知れない。逆に、常識に外れた長寿だったとしてもおかしくはない。
 ミア・ビアンキ。
 ヴェロニカ教の最高指導者たる老人である。
 それだけの地位にいる人間だ。事前のアポイントメントも無しで会えるとはジャスミンも期待していなかったのだが、事態はすんなりと運んだ。
 思い描いていたよりも遙かに近代的な建築物であるヴェロニカ教総本山、その受付をしていた若い僧は、突然訪れた大柄な女性からビアンキ老師に面会したい旨を伝えられると、すぐに彼女を老師の私室まで案内した。
 さして広くない清潔な部屋は、本棚と、そこに並んだ書物で埋め尽くされている。
 老師は、老眼鏡をかけて難しそうな本と格闘していた。
 案内の僧がジャスミンを紹介すると、ビアンキ老師は、常人のスケールを遙かに越えて大柄な女性を見てわずかに目を大きくしたが、突然の客を快く迎えた。

「ようこそいらっしゃいました、歓迎しますぞ、異国の方」

 案内の僧が退出した後で、二人は別室の応接間に場所を移した。
 部屋の中央に設えられた立派なソファは、一見すると革張りであるが、座ってみると感触がわずかに違う。おそらくはこの星独自の製法で作られた合成皮革ではないかと思われた。
 考えてみれば当然だ。なにせ、ここはヴェロニカ教の総本山なのだ。皮革を取るために獣を殺すことが認められているなど、ありうべき話ではない。
 
「自己紹介が遅れました。ジャスミン・クーアと申します」

 ビアンキ老師は、窮屈そうにソファに掛けた女性を、どこか遠い目で眺めながら、

「失礼をお許しください。わしは以前、あなたをどこかでお見かけしたことがあったかと思うのですが」

 ジャスミンは短く頷いた。

「はい。わたしも、老師のご尊顔を拝したのは、これが初めてではありません」

 はっきりとした返答に、老人は折れそうに細い首を傾げた。

「年を取りたくはないものです。あなたのような方とお会いすれば、どうしたって忘れようがないと思うのですが……はて一体どこでお会いしましたでしょうか」
「直接お話をする機会はありませんでしたが……連邦大学惑星、ティラボーンの審議会議事堂の廊下で、遠くから」

 ビアンキの、骸骨のごとき落ち窪んだ目が、ほんの僅か、余程観察眼に優れた人間でないと分からない程度に細められた。
 やせ細った体に、冷気のようなものが満ちる。
 表情そのものは、ほとんど変わっていない。しかし、その内側に込められた何かが、はっきりと変質した。
 だが老人は、相も変わらず好々爺然とした声でジャスミンに尋ねるのだ。

「ではあなたも、あの不幸な事件の子細をわしから聞き出すために来られたのですかな?」

 静かな声だ。しかし、同時にどこまでも深い。
 澄んだ水が底の見えない深みに溜まることで黒々と染まるように、得体の知れない不吉を孕んで聞こえる。
 相変わらず柔和な光を湛えている瞳の奥に、ガラス玉のように無機質な冷たさがある。
 まるで、目の前の老人が、一瞬で人以外の存在に変わってしまったような違和感であった。
 これが、例えば興味本位で過去の事件を突っつきにきたエセジャーナリスト程度であれば、果たしてこの変化に気が付きえただろうか。
 気が付いていれば、次に継ぐべき言葉を失ってしまったかもしれない。老人の言葉には、姿には、それだけの凄みがある。
 何も気が付かずに老人を侮ってかかるならば、無警戒に猛獣の巣に飛び込んだのと同様の、凄惨な目に遭わされるだろう。
 目の前に座した老人の所作は、それだけの危険性を孕んでいた。
 だが、ジャスミンは、あらゆる意味でその程度の人間ではない。そんじょそこらのジャーナリスト風情とは、踏んできた場数とくぐり抜けてきた修羅場の質が段違いだ。
 まったく平然とした様子で、老人の異様に相対した。

「あの事件は、既に終わった事件です。わたしは、わたしが今知る以上のことを知ろうとは思いませんし、知りたいとも思いません」
「では、あなたはあの事件とは、いったいどのような関わりを?」
「わたしの孫が、あの事件の被害者でした。それと、わたしの命の恩人である少年もです」

 ジャスミンの言葉を聞いた老人は、一度目を閉じ、大きく、そして静かに息を吐き出した。
 
「そうでしたか……」

 再び開かれた老人の瞳には、先ほどの無機質な光はない。
 誰に向けているのかわからない、慈悲に満ちた、悲しげな光に満ちていた。

「あの事件で、命を落とした者はいないと聞いております。それだけが、あの悲惨な事件のうちに、唯一救いを求めることができます。ただ、もう少しで二度と走れない体になっていた少年がいたそうですが……」
「彼こそが、わたしの命の恩人たる少年です。今は、事件以前と変わらない、元気な様子ですよ」
「なるほど、やはりあの小戦士のことでしたか……。それはよかった。もしも彼から野を駆ける足を奪ったのであれば、我々ヴェロニカ教徒は無限に近い罪業を背負うことになったでしょう」

 ビアンキ老師は深い納得と、同量の安堵を込めて頷いた。
 その口調は真剣そのものだった。ジャスミンのような大人が、年端もいかない少年のことを命の恩人と呼ぶことに対して、微塵の不審も覚えないようだ。

「では、お孫さんもあの惑星に監禁された学生さんの中に?」
「はい。幸い、あなたが小戦士と呼ぶ少年が一緒にいたおかげで、危険とは無縁の生活を送ることができたようですが」

 ジェームスが聞けば思い切り首を横に振りたくなるような台詞ではあったが、同時に、小戦士──リィのおかげで何度も危難を免れたことも事実なので、渋々に首肯したかもしれなかった。
 ジャスミンの言葉に、ビアンキは頷いた。ジャスミンの年で孫がいるということを疑ったり、問い質したりはしない。そのことが当のジャスミンには不思議であったが、目の前の老人には、なにか神通力のようなものでもあるのだろうと納得することにした。
 ミア・ビアンキという人間には、どこか、そういう雰囲気がある。好意的に解するならば神々しさとでも言おうか。それとも、妖気を纏っていると表した方が正しいか。
 そんなことを考えていたジャスミンの前で、ヴェロニカ教の最高指導者たる老人は、深々と頭を下げた。
 ジャスミンは、老人のつるりとした後頭部を見下ろすはめになり、慌てて腰を浮かした。

「おやめください、ビアンキ老師」
「あの事件は、不幸な……本当に不幸な事件でした。我らヴェロニカ教徒の内々のいざこざで、たくさんの子供たちや、あなたのような子供のお身内の方々には、癒しようのない深い傷を拵えてしまった。お詫びのしようもございません」

 ジャスミンは、そんなことはない、あなたが謝る必要はない、とは言わなかった。
 組織に属する人間が不祥事を起こした場合、その被害者に対してトップの人間が頭を下げるのは至極当然のことだからである。これが立場が変わり、クーアカンパニーに所属する人間の起こした事件の被害者にジャスミン自身が顔を合わすことがあれば、彼女は今のビアンキと同じく、深く頭を垂れるだろう。
 だから、ジャスミンは別のことを口にした。

「お顔をあげてください、ビアンキ老師。わたしは、今更あなたの謝罪が欲しくてこの星を訪れたわけではありません」

 老人は、ゆっくりと頭を上げた。
 再びジャスミンの視界に映った老人の顔は、静かに凪いでいた。
 ジャスミンは、内心で嘆息した。
 これは、簡単なようでいて尋常なことではない。
 目の前に、自分がかつて目をかけた愛弟子によって、甚大な迷惑を被った人間がいる。
 そして、先ほど自分は深く謝罪をした。
 にもかかわらず、老人の皺に埋もれた顔のどこにも卑屈な色はなく、同時に、痛いところを覆い隠そうという傲慢さもない。
 あくまで自然体なのだ。
 なるほど、これが一流の宗教人というものかと、ジャスミンは老人に対する評価を改めた。

「ところで老師。あの少年は、元気ですか」

 腰を落ち着けたジャスミンが、一体誰のことを言っているのか、老人には分かりすぎるほどに分かった。
 おそらくはあの事件で最も深い傷を負ったであろう、ヴェロニカ教徒である少年、チャールズ・レザロのことだ。
 ビアンキ老師は、心底痛ましそうに、首を横に振った。

「彼にとって、今のこの星はあまりにも生きにくい場所です。お父上もあのようなことになってしまった今、無理にこの星で暮らすことが彼の幸福に繋がるとは思えませんでした。また、彼自身もそれを望みませんでしたから……今は、遠い場所で疲れた体と心を癒しております」

 ジャスミンは、事件の顛末を思い返していた。
 リィ達の活躍により子供達があの星から解放され、道化じみた査問会も、真犯人の登場という劇的な展開によって終了した。
 その後、事件のきっかけとなる不道徳を犯した政治家は、まるで今までの自分を悔いるかのように政治の表舞台から姿を消し、どこか、ヴェロニカから遠く離れた場所で療養生活を送っているという話だった。
 父親と同じく、宗教的戒律を犯していることが公になってしまった少年も、この星にはいられなかったのだろう。父親と同じ場所で、今は静かに暮らしていると考えるべきだった。

「他の者が彼らのことを何と言っているかは存じませんが、わしは彼ら親子も被害者であると思っています。無論、レザロ元議員がオーデン導師の息子にしたことは許されることではありませんし、チャック君も含めたところで、彼らがヴェロニカ教の戒律に背く生活を送っていたことも否定はできません。しかし、彼らが犯した罪の源は、全てがヴェロニカの教えに根ざしたもの。そこから生まれた罪ならば、それを背負うのが彼らだけでいいはずがありません」

 老師の言葉に、ジャスミンは首を横に振った。

「老師、わたしはそうは思えません。老師の、彼らを労るお心は尊いものだとは思いますが、罪の在処を無限に分散させると、その本質が覆い隠されることがままあります。再びこのような不幸な事件が起きることのないよう、我々は教訓と禁忌を、この事件から学び取らなければならない。そうではありませんか?」

 ビアンキ老師は深く頷き、

「おっしゃるとおりです。しかし、ヴェロニカの教えが彼らの罪に対して再起不能の罰を与えたとするならば、わしはそれを憎まざるを得ない。彼らの罰のほんの一部でも背負えるならば共に背負ってあげたいと、そう思うのです」

 ジャスミンは、驚きに目を丸くした。
 動揺を声に出さないよう、軽く咳払いをしてから、

「失礼ですがビアンキ老師、まさかあなたのようなお立場の方から、そのような言葉を聞くことになるとは、些か驚きました」
「そのような、とは?」
「先ほど老師は、ヴェロニカの教えを憎む、と。ヴェロニカ教の教えに身を捧げないわたしなどが聞くと、それはあなたのような方が口になさるには、相応しいとは思えなかったのです」
「これは失言でした。お許しください。年を取ると、思わぬ言葉が口から飛び出るようになりましてな、人と軽口をやりとりするだけで戦々恐々とせねばなりません。困ったものです」

 老人は快活に笑い、冗談の中に全てを埋めようとした。
 だがジャスミンの灰青色の瞳は、老人の、苦渋に満ちた表情をしっかりと捉えていたのだ。
 果たしてこの老人は何を知っていて、何を考えて、先ほどの台詞を口にしたのか。先ほどの台詞は、老人の何を表しているのか。
 ジャスミンの刃物じみた視線から逃れるように、老人は話題を転じた。
 
「ところでミズ・クーア。わしにご用があるとのことでしたが、それは一体どのような?」

 ジャスミンが何かを言おうとしたその刹那、機先を制するような老人の言葉であった。
 ジャスミンは開きかけた口をいったん閉じて、慎重に言葉を選びながら答えた。

「……わたしは先ほど、あの事件は終わった事件であると言いました。それは間違えではないと思っています。ですが、その終わりを受け入れられない人間が、この世にはいるようでして。わたしは、その全てに決着をつけるために、老師のお言葉を頂戴に参りました」
「……事件が終わっていない、とは?」
「老師は、この事件が不幸な偶然が積み重ねられた上に、たまたま起こってしまった事件だと思いますか?」

 ジャスミンの、おそろしく鋭い視線を浴びながら、しかし老人の顔色は微塵も変わらなかった。
 しわくちゃの顔に柔和な笑みを浮かべ、ジャスミンを眺めている。

「お言葉の意味をはかりかねます。それでは、一体どのような言葉を返すべきなのか、この老いぼれは迷ってしまいそうです」
「では質問を変えさせて頂きましょう。老師は、二級以上の居住可能惑星を、熟練の資源探索者が一生のうちに見つける可能性が如何ほどかご存じで?」

 突然の質問に、老人は困惑の表情を隠せなかった。

「いえ、考えたこともございません」
「人類が宇宙に生活の場を求めて以来、発見された二級以上の居住可能惑星は千をわずかに越えるだけに過ぎません。今まで、何億人という資源探索者が宇宙の藻屑となり果てたにもかかわらず、です」

 それほどに、人という脆弱な種族が何不自由なく日常生活を送ることのできる星は貴重なのであり、当然のことながら高価なのだ。だからこそ、リィの所有する無人惑星のことを聞いた田舎成金は、目の色を変えてそれを手に入れようとする。
 ほとんどの資源探索者は、居住用惑星を見つけることなど、到底あり得ない話だと思っている。そんなものが見つからなくても、例えば有用な鉱山資源を多量に含んだ小惑星を見つけるだけで、一生遊んで暮らせるだけの報酬を受け取ることができるのだ。二級以上の居住可能惑星を見つけるなど夢のまた夢、もしも夢が叶えばどれほどの金銭を生み出すのか、想像もつかない。
 
「今までにあの星──査問会では惑星Xと呼んでいましたか──を見つけることの出来た人間が、わたしの知る限り四人。わたしの父。次に、あの事件の首謀者であったエリック・オーデンという男。そして、あの星にトリジウムの密輸基地を建造した何者か。最後に、最近知己を得た、資源探索者の一行です。これは、一つの未発見居住用惑星の発見者の数にしては多い。多すぎる」
「仰りたいことはわかります。しかし、それがあの事件と如何なる関わりがあると?」

 ジャスミンは、老人の問いに答えることなく話を続けた。

「加えて言うならば、父──マックス・クーアはあの星の周囲に無数の電波吸収パネルを配置していたのです。であれば、父の後にあの星を発見するには目視に頼らざるを得ず、通常の星に比べて発見難度は数倍にも跳ね上がっていたことでしょう。それにも関わらず、これだけの人間が一つの惑星を発見し、それを隠匿し続けた。これは果たして偶然でしょうか?」
「おまちください。マックス・クーアですと?それが、あなたの父とは……?」
「もう一度申し上げましょう。わたしの名はジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。そして、わたしの父はマクスウェル・オーガスタス・ノーマン・ウィルバー・ジョセフ・ラッセル・クーアです」
「馬鹿な、その名前は……」

 喘ぐような呼吸をする老人に、無慈悲とさえいえる乾燥した声でジャスミンは応える。

「おそらくあなたのお考えの通りです。もしよろしければ、後で過去の記録映像と今のわたしの姿を比べてご覧ください。本人であるとの確認くらいは出来るでしょう」
「しかし……しかし、姿形など如何様にでも整形することができるでしょう」
「では、わたしが嘘を吐いていると?わたしが、そんなに突拍子もない嘘を武器に、あなたから小金を騙し取りにきた小悪党だと?」

 ジャスミンは、人の悪い笑みを浮かべた。
 その不敵な様子は、どこをどう見てもけちな詐欺師程度の器ではない。これが犯罪者であるとするならば、世間をあっといわし、犯罪史に二度と消えない名前を刻み込む大物犯罪者に違いなかった。
 ビアンキ老師は、乾いた肌に僅かな汗が滲むのを感じた。それでも、最後の反論を試みる。

「失礼ですが……クーア財閥の二代目総帥であったジャスミン・クーアという女性は、半世紀も前にこの世を去っているはずです。わしは、映像でしかないが、彼女の葬式をこの目で見たのだから、間違えるはずがありません」
「それは光栄ですな。しかし、わたし自身驚かされたのですが、わたしはあのとき死んでいなかった。わたしの死を予期していた侍医と執事の手で冷凍睡眠装置にたたき込まれて、こうして生き恥を晒している次第です」
「だが……確かにあなたは、あの時よりも……」
「若返っておりますな。それは天使の奇跡の賜物です」

 しれっと言ったジャスミンである。
 言っていることがどれだけ無茶なのか、彼女自身もわかっている。普通ならば頭のおかしい人間と思われてしまうだろう。
 あまりに予想外の台詞に、しばしの時間呆気にとられた老人であったが、茫然自失から立ち直った後で、猛烈な笑いの発作に襲われた。
 普段の彼を知る人間であれば奇異を通り越して恐怖を覚えるほどに、老人は笑った。笑い続けた。
 ジャスミンは、それを止めなかった。ただ、老人が笑い止むのを待った。
 しばらくして、骨の浮いた背を痙攣させるようにひくつかせた老人は、目の端に浮いた涙を指先で拭い、

「それは何とも不公平なことです」
「冷凍睡眠装置を使って生きながらえたことが、ですか?それとも若返ったことが?」
「いえ、天使があなたの前に姿を現したことが、です。わしはこの年まで神の教えに身を捧げておりますが、そんな奇跡はとんと見たことがありません。最近は神の存在を疑っているところなのに、そんなずるいことを言われては、信仰を捨てるわけにはいかないではないですか」
「それは……失礼をしました。もしよろしければ、今度、紹介いたしましょうか?」

 老人が、見事なほどに目を丸くした。

「天使を……紹介していただけるのですか?」
「はい。まぁ、彼がそれを了解してくれればの話にはなってしまうのですが……。ただ、彼は老師のような方は大好きだと思いますから、まずは問題ないでしょう」

 老人は一度天井を仰ぎ、神の御名を意味する言葉を呟いた。

「まったく、本当に神は不公平だ。時折あなたのように、ご自身の深く愛された人間を使わされる」
「何をおっしゃる。わたしは、わたしほど神に嫌われた人間も珍しいのではないかと常々疑っているほどなのに。こちらは平穏無事な、厄介事とは出来るだけ距離を置いた人生を望んでいるのに、どうしてか厄介事からのラブコールが途切れた試しがない。正直に申し上げれば、こういう役回りはわたし以外の誰かに任せて静かな余生を送る方法はないものかと、真剣に頭を悩ませているところです」

 苦笑混じりにジャスミンは答えた。
 自分は恵まれてなどいない、むしろ迷惑しているのだ、と。
 天使の知己を持ち、一度死の淵を覗き込みながら生還を果たし、なおかつ若返りの奇跡を体現したにもかかわらず。
 これが優越感や同情心とともに言われた言葉であるならば、いかに俗世を捨て去った身であっても反感の一つも覚えようものだが、あまりにさらりと、世間話の一つのように言うものだからそんな気は削がれてしまう。
 もう一度軽く吹き出した老人は、精一杯に真剣な顔を作り上げて、

「失礼しました。続けてください」

 ジャスミンも、僅かに緩んでいた頬を引き締め直した。

「例の星──惑星Xと呼ばれたあの星の正式な名称をご存じですか?」

 またしても突然の質問に、老人はしばし息を止めた。
 例の星。連邦大学中等部の学生が、二週間にわたり強制的なサバイバル生活を営むはめになったあの星は、連邦に未登録の惑星ではなかったのか。だからこそ、ああも長期間にわたって学生達の行方が知れなかったのだ。
 であれば、正式な名称など付されていようはずもないのだが。

「──いえ、存じ上げません。連邦未登録のあの星に、名前などあったのですか」
「正確にいえば、連邦にもきちんと登録されておりました。それも、わたしの父の個人所有の惑星として、です」

 老人は再び目を剥いた。
 この世には様々な大富豪がおり、そのうちの幾人かは老人の知己である。彼らからの金持ち自慢は聞き飽きたほどだが、惑星の個人所有という無茶は聞いたためしがなかった。
 普通に考えればただの与太話である。しかし、こと故マックス・クーアに関して言えば、およそ無茶な話が無茶とは思えなくなってしまうだけの説得力がある。
 だいたい、目の前の女性のどこにも嘘や冗談を言っている雰囲気はない。
 老人は、ジャスミンの言葉に嘘がないと判断した。
 
「驚きました。そのようなことが現実にあるのですね」
「実の娘であるわたしも、あの事件があるまでそのような冗談じみた星がこの宇宙に存在することを露とも知りませんでした。お恥ずかしい限りです」
「では、その星にはどのような名前が?」

 ジャスミンは、一際強い眼光で老人の顔を射抜いた。

「惑星──ヴェロニカ」

 数瞬、沈黙が部屋を支配する。
 ジャスミンは、あえて沈黙したのだ。老人は、沈黙せざるをえなかったのだ。
 その差は、ただ真実を知っていた者と、今まさに知らされた者との違いであった。
 
「当時の父の記録を調べ直してみたところ、その時期にヴェロニカという名の女性と個人的な交際があったことがわかっています。あの父のことだ、おそらくはそういう遊び心で自分の発見した星に女性の名前を付けていたのだろうと思いました。事実、父があの星を発見した時期は、新たに発見された惑星やゲートに、恋人や家族の名前を付けるのが流行していた時期でしたから」
「それは、なんとも……」
「しかし不思議なことに、父が発見した惑星やゲートのうち、個人的な名前が付されているものは、例の星だけなのです。父が発見した惑星とゲートを合わせれば、両手両足の指の数では到底収まらないにも関わらず、です」

 ジャスミンは、手を組み直した。蒸し暑い室温のせいで、僅かに汗ばんでいる。
 老人の頬を、汗が伝った。暑さと、それ以外が流させる汗だった。

「父の恋人であったヴァロニカという女性のことは、ほとんどわかっていません。ただ、その時期の父は、ペレストロス共和国──現在のヴェロニカ共和国に、仕事以外の用事で足繁く通っていたことがわかっています。おそらく、彼女はこの星の生まれだったのではないでしょうか」
「……あり得ないことではないでしょうな。この国の名は、言うまでもなくヴェロニカ教から取られたものですが、ヴェロニカ教という名前自体はこの国の建国の母であった聖女ヴェロニカから取られている。そういう由来ですから、ままあることですが、この国にはヴェロニカという名の女性が非常に多い」
「ヴェロニカ教の始祖たる聖女ヴェロニカは、苦難と迫害の旅路の末に、現在の惑星ヴェロニカに辿り着き、ヴェロニカ教の布教に生涯を捧げた。では、自分の恋人であるヴェロニカを聖女ヴェロニカに見立てて、彼女に捧げる意味で、新しく発見した惑星にその名をつける。いかにも大仰でキザったらしいが、あの父の好みそうなことだ」

 ジャスミンは、自然とため息を吐き出した。だが、その頬は微笑みのかたちを作っている。
 それを、眩しいものでも見るように眺めた老人が、ゆっくりと口を開いた。
 
「お話はわかりました。たいへん興味深い話でもあります。ですが、それがいったい、先ほどのくだりとどういう関係を持つのでしょうか」
「惑星ヴェロニカ──紛らわしいので、査問会に倣って惑星Xと呼びましょうか──を発見した父は、その当時、旧ペレストロス共和国、現ヴェロニカ共和国に頻繁に通い、恋人との逢瀬を楽しんでいた。例の事件の真犯人であったエリック・オーデンは、定期船の船乗りとして同じく惑星ヴェロニカ周辺を仕事場としていた。最近知己を得た資源探索者の一行は、無謀に宇宙を彷徨いながら、しかしヴェロニカ共和国の知人を頼りに旅をしていた」

 ジャスミンは、表情を消した視線を老人に寄越した。

「お分かりでしょうか。わたしの知る惑星Xの発見者のうち、四名中三名までもが、惑星ヴェロニカを目的地として、あるいは中継地として設定していたのですよ。これは果たして偶然でしょうかな?」

 老人は、曖昧な笑みを浮かべる。

「はて、わしにはなんとも……」
「そして、もう一人の発見者、トリジウム密輸組織の誰かも、同じく惑星ヴェロニカに何らかの関わりがあったと考えるのは不自然なことでしょうか?」
「……」
「付け加えるならば、極めて短期間のうちに四名もの発見者を出すこの星を、惑星ヴェロニカに港を持つ他の船乗り達は、誰一人として知らなかったのでしょうか?本当に?」

 ジャスミンの鋭い視線を浴びながら、しかし老人の仄かな笑みには陰一つ差さない。
 ただ悠然と、この世の者ではないように笑っている。
 ジャスミンは、かすかな恐怖と嫌悪感を覚えた。
 自分が今話しているのは、本当に生きた人間なのだろうか。
 本当に?

「……わたしは思うのですよ。あの星は、ヴェロニカ政府の上層部──おそらくはマークス・レザロですらが立ち入ることのできなかった上層部では、周知の存在だったのではないかと」
「それは、興味深い意見です」
「マークス・レザロは次期大統領を目されていた有力な政治家です。しかしあの事件で、彼が惑星Xを知らなかったのは間違いない。彼も人の親です、実の息子が誘拐されて、藁をも掴みたいような気持ちだったのは確かでしょう。わたしも一度と無く顔を合わせたが、その時の彼には上辺だけでない焦慮が存在していました」
「当然でしょう」
「ヴェロニカへ向かった宇宙船が姿を消し、未開発の惑星に子供たちが置き去りにされたという。そして、犯人はもとヴェロニカ教徒で、自分に恨みを抱いた人間だった。もしも彼が件の星を知っていれば、真っ先にあの星のことを思い浮かべ、誰かに知らせたはずです。表だって目立つのを嫌うのなら、彼ほどの立場の人間です、ヴェロニカの警察なり軍隊なりを秘密裏に動かして少年たちを救出することは容易いことだったでしょう」
「……」
「つまり、彼は真実何も知らなかったと推測ができる。では、次期大統領の最右翼候補であった彼ですらが立ち入ることのできない上層部とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」

 自問したジャスミンは、考えるふりをした。
 あくまで、ふりである。
 彼女は既に、自分の中で、真実を見つけているのだ。あとは、それが事実と合致するか、確認をするだけでいい。

「たとえば──ヴェロニカ教の首脳陣。彼らならば、政権交代によって野に下ることもなく、教義を捨てない限り結束は保たれ続ける。宗教的な戒律によって口は貝のように堅い。秘密を保持する集団としてこれほど適したものも他にはないでしょう」
「……失礼ですがミズ・ジャスミン。それは、聞きようによっては酷く非礼な言葉に思えます。あなたは、我々ヴェロニカ教の首脳陣が、トリジウム密輸組織に関わりがあると、そう仰るのですか?」

 骸骨のように笑う老人の言葉に、しかしジャスミンは露ほども動じなかった。
 老人の瞳の奥に広がる無限の虚無に、正面から相対している。
 そして、気圧されるでも不要に居丈高になるでもなく、淡々と続ける。
 
「はい。わたしは、そう申し上げております」

 老人は深いため息を吐き出した。
 どこにも作為の見られない、自然な動作であった。

「残念です。わしは、あなたとは素晴らしい友人になることが出来るのではないかと、そう思っていたのに」
「すべてを判断するのは、すべてが終わった後でよいのではないでしょうか。わたしの話したいこと、わたしがあなたから聞かねばならないことは、まだ終わっていません」

 毅然としたジャスミンの口調に、しかし老人は動じない。
 ただ、静かに凪いだ視線で、彼女の灰青色の瞳を見つめ返している。

「考えてみれば、この星、いや、この国家の成り立ちからして奇妙なものだと言わざるを得ない。この国の主幹産業である遺伝子産業は、それ自体が非常に高額の資本投下を要する。つまり、それを支える下地となる産業が、他に必要となるのです。しかし、この星には観光産業以外、他にめぼしい産業がない。失礼ですが、貧しい移民の興した国家である旧ペレストロス共和国に、それだけの蓄えがあったとも思えない。かといって、他の国から多額の資本援助を受けた形跡も見られない。ならば、ヴェロニカ教徒には生命線であるといっても過言ではない、完全栄養作物を作るに至った高度な遺伝子操作技術は、如何にして育成されたものなのでしょうか?」
「それは、神の加護があったとしか申し上げられません。天才と評して間違いない幾人かの信徒が、技術の進んだ他国へ留学し、苦難の末に学を修めてこの地に一つの産業を興したのです。それがおかしなことでしょうか?」
「人材はそれでいいとしましょう。では、研究に不可欠な機材は?こればかりは、個人の努力でどうにかなるものではない。もっと単純に、しかし最もシビアに、多額の金銭がなければ揃えることはできません。そして、満足な機材をなしに、高度な研究を進めることはできない。遺伝子研究とは、そういうものです」

 経営者であったジャスミンの指摘は、どこまでも辛辣であった。
 
「完全菜食主義を掲げるヴェロニカ教徒は、完全栄養作物の栽培を可能にするまで、いったい何を口にして生きてきたのか。そもそも、どうしてそのような食物を作る必要に迫られたのか。わたしならば、もっと手近にある肉を食べます。そうしないと生きていけないのだから。それが人間というものです。翻って、宗教とは生活の上に存在するものでしょう。日々の営みがあり、禁忌と信仰が生まれ、その上に教義と教祖が生まれるのです。であれば、自然からの収奪を厳に禁じるあなた方の教義は、いったいどのような生活のうえに生じたのですか。そこに、いったいどのような禁忌と信仰があったのですか」
「……」

 老人は、何も言わない。
 そして、笑っている。
 ジャスミンはもはや、目の前の人間を、人間とは思っていなかった。
 もっと恐るべき、もっとおぞましい、なにか。
 老人の形の内側に、なにかが詰まっている。そのなにかが、老人の形をとっている。
 目の前で話しているのは、そのなにかだ。
 自分の理解の範疇にいない、なにか。
 喉が、ひりつくほどに乾いていた。

「……わたしがこの星に来たのは、根拠のない憶測の積み重ねではありません」
「それは、どういう?」

 ジャスミンは、懐から、ビニールにくるまれた繊維片を取り出し、テーブルに置いた。

「これは?」
「惑星Xに蓄えられた密輸トリジウム原石──その梱包に使われていた麻袋の繊維ですよ」

 見た目には、ただの糸くずにしか見えない。
 老人は、その繊維を、じっと見つめていた。

「……これが、如何致しましたか?」
「これを分析するのには、少々骨が折れました。思ったよりも時間も食ってしまった。その結果が、こちらです」

 ジャスミンは、ブリーフケースから一枚の書類を取り出し、テーブルに広げた。しばらく前、ケリーと同じベッドで朝を迎えたあのホテルで受け取った資料を、プリントアウトしたものでもあった。
 そこには、様々な植物の名前が羅列されている。麻袋の原材料となった植物の名前だ。

「ほとんどは、どこの惑星でも一般的に栽培されている、麻の品種でした。しかし、ここを」

 ジャスミンのほっそりとかたちの良い指先が、一つの植物の名前を差す。
 老人にとって、それは初めて見る名前ではなかった。

「デング麻。繊維が非常に丈夫で、衣類をはじめとして様々な用途に供される、ヴェロニカ原産の麻の一種……で、間違いはないかと思うのですが」
「ええ、まったくもってそのとおりです」
「そしてこれがもっとも重要なのですが……この品種は、この星以外では、研究用に栽培されているごく少量を除き、栽培されていない。そして、この星の需要を賄う以外の目的──たとえば輸出用の作物として栽培している事実もない。これも間違いありませんね」
「わしの記憶が確かならば、ミズ、あなたの仰るとおりでしょう。しかし、だからといってこの星の人間がトリジウムの密輸に手を染めたという証拠にはなりません」

 ジャスミンは、老人の反駁にたやすく首肯した。

「仰るとおりです。たまたまこの星に立ち寄った組織の人間が、麻袋を買い求めただけかもしれない。なにかの間違いで外国の買い手がついたのかもしれない。捜査を混乱させる目的で、作為的に紛れ込ませたのかもしれない。可能性をあげればきりがありません」

 ジャスミンは深く息を吸い込み、話し続けた。

「だが、組織の遺留品の中に、この星原産の植物が含まれていた。到底見逃していい事実ではありません。わたしは、いえ、わたしたちは、それを確認するためにこの星に来たのです」
「わたしたち……と、もうしますと?」
「わたしは、わたしの夫とともにこの星を訪れました」

 老人が息を飲む。

「あなたの夫というと……まさか、ケリー・クーア氏ですか?」
「わたしは、あの男以外と夫婦の契りを結んだ覚えはありません」
「しかし、しかし彼は……いや、あなた方に、そういう常識を期待するのが愚かなのでしょうな。なにせ、あなた方は天使に愛されているのだから」

 老人の言葉に、ジャスミンは応とも否とも答えない。
 なぜなら、それは言うまでもない事実であり、老人の言葉は完全に正鵠を射ていたのだ。

「では、ケリー・クーア氏はどこに?伝説の偉人だ。もしよろしければ、一度お会いしてみたいのですが」
「そういう呼び方さえしなければ、あれもあなたのようなお人は好きでしょうからいつでも会うでしょう。しかし、今は駄目です」
「今は駄目、と。それはまた何故?」
「夫は、昨日、武装した集団によって拉致されました。それも、おそらくは、この国の上層部の息のかかった連中に、です」

 老人の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
 ジャスミンは、老人の内側の何かが隠れるのを見た気がした。
 老人の中の老人が、再び姿を現したのだ。
 
「拉致、ですと?」
「この国で知己を得た小さな友人と一緒です。もしかすると、二人とも、既に殺害された可能性もある」
「……しかし、どうしてそれが政府に関わりのある者の仕業だと?」
「最初に襲撃を受けたのはこの国で出会った友人である少女ですが、彼女を襲ったのはヴェロニカ軍に所属する軍人でした。その一人を捕らえ尋問したところ、上官からの命令で少女を捕縛しようとしたことを認めました。であれば、襲撃自体がヴェロニカ政府の意図したものである可能性が非常に高い。隠密裏に特殊部隊が出動していることから考えても、上級佐官以上の者が関わっていることは間違いないでしょう。そんな立場の人間が、場当たり的に他国の少女を、自分の手勢を使って拉致しようと考えるでしょうか?」
「……なるほど」
「夫と少女を直接的に拉致したのは彼らとは別の部隊です。しかし、一晩のうちに全く異なる命令系統に属する集団が、同一の目標を襲撃する可能性が如何ほどでしょうか。わたしは、そのような偶然は排除して思考するものです」

 ジャスミンは機械的な口調で言った。
 彼女は、元軍属である。あの場から去るときに聞いた銃声が、ケリーの愛銃のそれでないことは容易にわかった。であれば、ケリー以外の誰かが、おそらくはケリーに向けて発砲したのだろう。
 であれば、ケリーの生きている可能性はどれほどのものか。
 五分五分、いや、もう少し高いかもしれないが、その程度だ。あの男は仮に阿呆であっても、決して愚かではない。突然に無為な抵抗を試みて射殺されるという素人じみた死に方だけはしないという確信がある。しかし、気まぐれに引かれたトリガーが人の命を奪うなど、ままある話ではないか。
 
「わたしは、夫を奪い返す。もしも既に殺されているならば、必ず犯人には、行為に相応しい死に様をくれてやる。そのためには、ありとあらゆる手段を辞しません」

 先ほどとはうってかわって、灼熱じみた言葉をジャスミンは冷静に吐き出した。

「きっかけは些細な繊維片の鑑定結果でした。しかし、既に事態は、ことの真偽を問う段階にはないのです。どうしてこの星とは縁もゆかりもない夫が、そして小さな友人が、拉致されなければならなかったのか。この国で今、何が起きているのか。わたしは、それを知りたいのです。そして、彼らが今、どこで監禁されているのか。既に殺害されているのならば、その死体はどこにあるのか。あなたならば、それをご存じなのでは?」
「……」

 老人は黙した。眼を閉じ、口を引き結んだ。
 鉛色の皮膚が、どんよりと濁っている。大樹の年輪が如く、深く深く刻まれた皺に、無限の後悔が刻まれている。
 ジャスミンは、全てを知るが故に苦悩する賢人の姿を、そこに見て取った。

「……ミズ。あなたは、この国の現状をどうみますか」

 重たい呟きに込められた感情をことさら無視するように、ジャスミンは淡々と答えた。

「僅か一年に満たない短期間の間に、よくぞここまで人心が乱れたものだと、関心してしまいます。かつてヴェロニカといえば、語弊を恐れずに言えば清貧と勤勉、他者への寛容を体言した民族であるといわれていた。厳しい戒律を守りながら、しかし破戒者に対してすら慈悲を向ける信仰のありかたは、宗教学者からも高い評価を得ていた。それも、もはや過去の有り様に思えます」

 手厳しいジャスミンの言葉は、しかし彼女の率直な感想であった。
 この星に降り立った直後の、空港タクシー運転手の排他的な応対。街中で起きた、信者同士のリンチ事件。夜の盛り場で聞いた憂国ヴェロニカ聖騎士団を名乗る無頼漢の横暴と、それを取り締まることもできない官憲の軟弱。
 なによりも衝撃的だったのが、ヴェロニカ聖騎士団に手酷く暴行され傷だらけで倒れた夫婦と、燃え盛るその店を前にしたときの、通行人の無関心である。
 そこに、明らかに医者の治療を必要としている人間がいるのに、手を差し伸べようともしない。炎が今まさに建物を飲み込もうとしているのに、消防に連絡すらしない。
 理由はただ一つ。被害者が、ヴェロニカ教の戒律を破ったから。それとも、破ったかもしれないから。
 無頼漢どもの報復を恐れてそうしないのではない。ただ、ヴェロニカ教の教えに反する人間がどのような仕打ちを受けようとも、それは当然の報いであると確信しているのだ。
 これは、正常な運営をされている国家の民衆の反応では決してない。

「ミズ。あなたの言うとおりです。わしも、あなたと同じ意見を持っております」
「ならば……」
「しかし、あなたとわしの立場ははっきりと異なる。それをまずご理解ください」

 枯色の目を開いた老人は、恐ろしいほどに清々しい口調で言い切った。

「わしは、老いていますな」

 突然の言葉に、ジャスミンは声を失った。

「老師」
「耳は声を拾えず、目はものを霞ませる。骨など、軽石か何かと変わるところがなく、満足に歩くこともできません。これを老いと呼ばず、なんと呼びますか」
「……はい、老師の仰るとおりです。あなたは老いていらっしゃいます」
「ミズ、あなたは優れたお人だ。頭も良く、美しく、そして強い。腕っ節や財力などを越えたところで、あなたは強い人だ。だからこそ、神もあなたに試練をお与えになるのでしょう。わしの若き頃とは比べようもない輝きで満ち満ちている」

 ジャスミンは、応とも否とも応えなかった。老人の言葉は、まだ終わっていないことが明白だったからだ。

「しかし、もしも今のあなたが、今のわしに及ばないところがあるとすれば、それはあなたがまだまだ若いということだ」
「なるほど、そうかも知れません」
「老いるということは、ただ歳を積み重ねるということではありません。ただ歳を積むだけならば、それは朽ちるということです」

 老人はジャスミンを見ながら、しかし彼女の背後の何かに語りかけていた。

「老いるということは、背負うということです。それは自分の人生であり、他人の人生でもある。喜楽でもあるし、苦難でもある。あなたは若くして大変大きな責任を背負われたが、それでもこの老人の背負ってきたものには一歩及びますまい」
「仰るとおりでしょうな」
「あなたが今のわたしと同じ歳の頃になれば、おそらくはそれも逆転してしまうのでしょうが……それでも、わしは、わしの背負ってきたものに誇りと愛着があります。たとえそれが、目を背けなければならないほどに醜いものであっても」

 ジャスミンから言葉を奪ったのは、老人の言葉ではなく、その穏やかな笑顔であった。

「あなたは、おそらく全てを終わらせるためのこの星に使わされたのでしょう。しかし、わしにはあなたの礎になる勇気がありません。だから、お願いします。どうかこの老人から、荷物を奪わないでください。わしを、ただ朽ちゆく肉にしないでください」

 老人は、再び頭を下げた。
 深く深く、頭を下げた。
 ジャスミンは、頭を上げるよう懇願をしなかった。

「……わかりました。今日は、これで引き上げさせていただきます」
「……申し訳ありません」
「ですが、もしもお気が変わったならば、この番号に連絡をください」

 ジャスミンは、自分の携帯端末の連絡番号を書いたメモを、老人に手渡した。

「老師。わたしの見たところ、この星の情勢は加速度的に悪化している。そんな中で、守旧派の象徴であるあなたのお立場も、安泰とは思えません」
「理解しておるつもりです」
「万が一、老師が身の危険を覚えることがあれば、その時も、遠慮なくご連絡下さいますよう。わたしは、そちらの方面には、それなりの自信がありますので」
「ええ、それも理解しておるつもりです」

 老人は朗らかに笑った。
 ジャスミンも、つられて笑った。
 そして、颯爽と立ち上がった。

「ああ、そういえば、忘れるところでした」

 立ち上がったジャスミンが、再度ブリーフケースの中から一枚の書類を取り出した。
 それを、同じく腰を上げたビアンキ老師に手渡す。

「老師、これをご覧下さい。あなたのお考えの如何を問わず、わたしにはこれをお見せする義務があると思い、この場所まで足を運んだのです」
「……そうですか、どれ……っ!」

 息を飲んだ老人が、たちまちに、石像のように立ちすくむ。
 その石像の顔は、恐ろしいまでに強ばっていた。骸骨じみた目が極限まで見開かれ、眼球がこぼれ落ちそうなほどであった。
 老人の痩身が、わなわなと震えていた。

「こ、これは……」

 老人が、初めて恐怖と驚愕に唇を震わせて、無意識に呻き声を上げる。
 汗ばんだ手に握られた書類には、惑星ヴェロニカ世界地図が描かれており、その上にはいくつもの赤い点が打たれている。
 それは、メイフゥが憂国ヴェロニカ聖騎士団から奪い取り、ダイアナが解読した、あの地図であった。

「あ、あなたは、これをいったい、どこで……」
「出所を申し上げるわけにはいきません。そして、意味のないことでもあります」
「意味がない、とはどういう……?」
「もっとも重要なことは、そのデータが、わたしのようにこの星に深く関わらない人間ですらが手に入れられる可能性を持っていること、そして他にもその地図を手に入れた人間がいるかもしれないこと。それだけで十分ではないでしょうか」

 老人の顔が土気色に染まり、歪んだ。
 泣き出す寸前の幼児のような、切羽詰まった表情だ。
 そこに、ヴェロニカ教を率いる大僧正の威厳は欠片も残っていなかった。
 ただ、己の力では如何ともし難い事態に直面した、無力な老人が、いた。

「データのオリジナルは、流石に厳重なロックがかけられたコンピュータチップでしたが、わたしの信頼すべき友人はそれを僅か30分で解除しました」
「……」
「彼女によれば、他の人間であれば、一ヶ月はかかったそうです。逆に言えば、一ヶ月も時間があれば、彼女以外の人間でもロックを解除できる可能性がある、ということです」

 ジャスミンの声は、どこまでも無慈悲である。

「そのチップが、もしもわたしの手に入れたもの以外に存在するならば、遅くとも一月後には同じ地図を誰かが目にすることになるでしょう」
「……その可能性は……」
「たいへん高いでしょうな、残念ながら」

 老人が、再び息を飲む。
 彼の、枯れ木のような指が、書類をくしゃくしゃに潰した。まるで、そうすることで最悪の可能性を握りつぶすことが出来ると信じているかのように。
 ジャスミンは、力みすぎて白じんだ老人の指を、哀れみを込めた視線で見遣った。

「歪な木片を積み上げるのは、大変な難行です。しかも、それを人知れず、真実を覆い隠しながら行うのは至難の技だ。しかし、それを崩すことには大した労力は必要ではありません。なにせ、真実を明らかにするだけでいいのですから」
「……そこまで血迷ったか、あの男は……!」
「わたしが、あの事件の終わりを受け入れられない人間がいるというのは、実にこの一事からなのです」

 ジャスミンは、立ったままの姿勢で、淡々と続ける。

「そもそも、あの事件はあまりに作為的にすぎる。そう思いませんか」
「あの事件とは……件の、誘拐事件のことでしょうか」

 ジャスミンは頷いた。

「さきほども申し上げたとおり、居住可能な未登録惑星というのは大変貴重なものであり、珍奇なものでもある」
「……はい、それは理解しました」
「では、それを偶然に発見した男がここにいるとしましょう。彼はきっと、狂喜乱舞するでしょうな。人生をかけて浪費しても使い尽くせないような、莫大な富が転がり込んでくるのですから」
「……」
「しかし、エリック・オーデンという男は惑星Xのことを誰にも報告しなかった。莫大な富を捨ててまで、自らの子供の復讐の小道具として、あの星を使うことを決めたのです。わたしには、どうしてもそれが不思議でならなかった」

 それは、老人も不思議に思っていたことだ。
 エリック・オーデンという男は、あの事件を起こすまでは極めて良識的で温厚な人物として、そして腕の良い船乗りとして知られていた。だからこそ数多くのヴェロニカ教徒に慕われ、若くして導師の地位を得ていたのだ。
 つまり、良くも悪くも普通の域から出ない、一般的な人間であったはずだ。
 そんな人間が、未発見惑星という大仰な舞台を用意してまであのような大がかりな事件を起こすと、一体誰が予想しただろうか。

「普通の人間であれば、表向きは未登録となっている新惑星を発見した場合、共和政府に一報を入れるでしょう。それが、いわゆる船乗りの良心であるし、自身の利益にも繋がる。多額の報奨金が貰えるのは間違いないし、船乗りとしてこの上ない名誉も約束されるのですから。いきなり共和政府に連絡をすることがなくても、直属の上司や会社、それともヴェロニカ政府くらいには報告しても不思議ではないはずですが、当然それもなかった」
「……」
「わたしはこう思うのです。彼は、あの星を発見したのではなく、発見させられたのではないか、と」

 あまりに突拍子もないジャスミンの言葉に、老人は流石に疑わしげな表情を浮かべた。

「ミズ、それは穿ちすぎた意見ではないでしょうか」
「では、彼の操る定期船の航路を管理していたはずの会社が、どうしてあの星のことを共和制府に通報していないのでしょうか」

 老人は、言葉を奪われた。

「……お言葉の意味を計りかねます」
「よろしいですか。エリック・オーデンは無頼の資源探索者ではないのです。定められた航路を定時に飛ぶことを職務とする、定期船の船乗りなのです。であれば、通常定められた航路から外れた宙域に存在するあの星を、どうして発見できたというのですか」
「……それは、偶然に航路を外れたのでは」
「なるほど、仰るとおりでしょう。それは大いにありうべきことです。宇宙には凪もあれば時化もあり、風も吹けば嵐も起きる。時には定期航路以外の道を飛ぶ必要に迫られることもあるでしょう。定められた航路だけを阿呆のように飛んでいるだけでは、到底船乗りとはいえません」

 ジャスミンは、淡々とした口調で続ける。

「しかし、そういう場合であっても、よほどの緊急事態が発生した場合を除いて、自分勝手に新たな航路を定められるわけではないのですよ。宇宙には定められた航路というものがありそこを無数の船が飛び交っている以上、当然、有形無形を問わずルールというものが存在します」
「ルール、ですか」
「定期船が飛ぶ航路は、他の宙域に比べて船の密度が段違いです。そこに、通常航路から外れた船が無秩序に跳躍してきた場合、その危険性は計り知れない。高速道路を逆走する暴走車両よりもたちが悪い。よほどの腕の船乗りでないと、到底避けることは不可能でしょう」

 ジャスミンは出来るだけ分かりやすい説明をしたつもりだったが、高速道路をすら走ったことのない老人にはそれでも実感がわかなかった。
 
「わしなどには想像もつきませんが……」
「つまり、何か理由があって通常航路を外れるのであれば、他の船にそれを伝え、常に自分の船の所在を知らせなければ危険極まりないということです。それに、安全な通常航路からたとえ一時でも外れるということは、それだけ遭難や海賊襲撃の危険が増すということでもある。自らの身を守る意味でも、報告を怠る船乗りはいないはずです」

 宇宙船を操ったことのない老人は、ジャスミンの意見を黙って聞くしか出来なかった。

「普通ならば、それらの業務は、定期船の所属する運輸会社の管制部が担当します。航路を外れた船は自分の位置を管制官に常に知らせ、管制官が新たな航路を設定したうえで指示を出し、周囲の船にもそれを伝えるのですが……」
「……それが、どうして会社があの星のことを知っていなければならない理由に繋がるのですか」
「おわかりになりませんか。エリック・オーデンは、あの星が居住可能惑星であること知っていたのですよ。であれば、いつ、どのタイミングで知ったのですか」

 あ、と老人の口が開く。

「あの星は、レーダーに写らない『幽霊星』です。目には見えるが計器は反応しない、そんな星を見つけた船乗りが、興味を覚えないはずがない。相当急ぎの荷物でも積んでいれば話は別ですが、定期便がそれほど急ぎの荷物を運ぶことはまずないでしょう。それに、簡単な地質調査程度であれば、それほど時間はかかりません。一時間もあれば十分です。オーデンが、あの星が居住可能惑星であると知ったのは、発見時点。そう考えるのが一番自然でしょう」
「……」
「しかし、一時間、何の理由もなく同じ宙域に留まっていたとなれば、会社から見ればこれは問題のある行為です。最悪の場合、何らかの犯罪に荷担している可能性すらある。そして、会社の管理下にある船と船員が何らかの犯罪行為に荷担した場合、会社自体に刑事上、民事上の責任が発生します。当然、会社は船長の処罰を視野に入れて調査に乗り出すでしょう」

 船が理由もなく長時間同じ宙域に停泊した場合、最も懸念されるのは、船が密輸行為に荷担していることだ。
 通常航路から外れた場所で停泊し、そこで海賊船と落ち合い、禁制の麻薬や人身売買された人間などの積み卸しを行う。そういう犯罪行為が過去に何度となく発覚している。
 まともな会社は、そういった犯罪行為に巻き込まれることを一番嫌う。万が一の場合、拭い取れない泥で看板が汚れることになるからだ。
 そして、船の行動調査は別に難しいことではない。船に積んだ感応頭脳の分析をするだけでいいのだ。それだけで、オーデンの航海記録の全てが把握できる。
 ならば、オーデンが未発見惑星の調査をしたことだって筒抜けである。
 つまり、会社が全てを把握していないほうがおかしい。
 逆に、もしもオーデンが惑星発見の一報を入れているならば、言わずもがな、会社はあの星のことを把握していないはずがない。
 どちらであっても、オーデンの所属していた会社があの星のことを知らないこと自体、ありうべき話ではないのだ。
 しかし、会社はあの星のことを、どこにも報告した形跡はない。まるで、全てを握りつぶしてしまったかのように。

「しかし、しかし、ですよミズ。一つの可能性として、オーデン導師はその惑星を発見はしたものの、調査を後回しにしただけかも知れないではないですか。自分が長時間そこに留まれば、会社がそのことを知るのは明らかだ。であれば、復讐の舞台としてその惑星を使えなくなってしまうから──」
「では、オーデンは惑星Xを発見した瞬間に一連の事件の計画を全て思いつき、実行を決意したことになりますね。そうでもなければ、あの星の調査と報告の両方を後回しにする必然性がありません」

 そんなことはありえない。
 人の思考は、そこまで都合よく回転してはくれないものだ。
 老人の口は再び封じられた。

「エリック・オーデンは、ある時期に突然退職願いを会社に提出し、ほとんど問題なく受理されています。あたかも会社にとって、それが想定内の行動であるかのように」
「……彼の所属する会社が、彼の行動を操っていた、と」
「先ほどもお話ししたとおり、通常航路を外れた定期船について、新たな航路の指示を下すのは管制官の仕事です。であれば、彼があの星を発見するようし向けるのも容易極まりなかったでしょう」

 老人の顔に苦悩が刻みつけられる。
 ジャスミンの言葉が事実であるとすれば、当然、全てを仕組んだ人間は、あの星の所在を把握していなければならない。
 そんな人間が、この世にどれほどいるのか。そして、あの事件で利益を得た人間──。
 老人には、その人間の心当たりがあったのだ。
 一人、極めつけに不穏当な、一人。

「もう少し想像の羽根を羽ばたかせれば、地方宇宙港においてオーデンがマークス・レザロの食肉の現場を目撃したのも、果たして偶然か否か、怪しいものです。オーデンの飛行スケジュールを決める立場の人間であれば、彼とレザロ議員が偶然に同じ宇宙港に居合わせるよう時間設定をすることは造作もないことでしょう」
「……にわかには信じ難いお話です。ミズ・ジャスミン、もしもあなたのお言葉が事実だとすれば、彼の行動を操った何者かは、レザロ議員とオーデン導師の過去の確執を知っている人間でなければならないことになりますぞ」
「そのとおりですな」

 ジャスミンは頷いた。

「しかし、少しヴェロニカ教の内実に詳しい人間であれば、オーデンの息子の不審な自殺の原因にも察しがつくのではないですか?」
「……それは……なんとも。ただ、あの事件は、一時期かなりの物議を醸しましたから……事の真相に気がついた人間がいなかったとは言い切れません」

 あの男も、それを知っていたはずだ。
 天使に取り憑かれた、あの男。

「全てを承知の何者かが、オーデンの復讐心を巧みに煽った上で、例の惑星を発見させる。もし彼が第一報を入れるとしても、その報告先はほぼ間違いなく会社の管制官です。事実をあるがまま報告するのであればその時点で然るべき処置を彼に対して施し、報告は握りつぶす。そうでなければ……」

 我が子の復讐に狂った親が、必ず何らかの行動を起こす。
 
「もしかしたら、誰かが彼に囁いたかも知れない。お前の息子は散々飢えに苦しみ抜き、その上での破戒を苦にして自殺した。ならば、あの男の息子も同じ目に合わせてやれ、と」
「そんな残酷な……」
「しかし、そうでもなければあの星に少年たちを監禁する意味がないのですよ。もしもレザロ議員に過去の罪を告白させるだけが目的であれば、わざわざ未発見の惑星に少年たちを拉致する必要はない。チャックという少年を一人、どこかに拉致監禁し、父親を脅迫するだけで十分にことは足ります。治安のいい連邦大学に通う学生です、当然それなりの危険は犯さなければならないが、それでもあれほど大胆な計画を実行することに比べればどれほど容易いか知れないし、他の少年たちに迷惑をかけることもない。普通であればそちらを選ぶのではないですか」

 まして、オーデンは事件を起こしたすぐ後で自分の顔を警察に晒している。長期間逃げきるつもりがなかったのは明白だ。
 それだけの覚悟と、あれだけの事件を起こすだけの計画性と行動力があれば、如何に連邦大学のお膝元であっても誘拐事件の一つを起こすことくらいは難しいことではないはずだ。
 
「あの星は、それなりに食料があった。加えて子供たちを降ろした場所に、危険な猛獣の少ない地域を敢えて選んでいた形跡もある。直接的な身の危険さえなければ、いかに年端もいかない子供の集まりであっても、木の実や野草を食べてある程度生き残れるだろうという算段があったはずです」

 もしも最初から全員を殺すつもりならば、それこそ一切の食料も水もない荒野か砂漠に降ろせばいいのだ。あれだけの計画を練り上げた人間が、そんなところで計画違いを起こすことは考えにくい。

「しかし、あの環境はただ一人の少年にとっては正しく地獄でした。彼らの中にただ一人、肉も魚も、野草も木の実すらも食べてはいけない少年がいたのです」
「……なんということだ」
「人の幸不幸は、周囲の人間との比較から生まれるものです。自分以外の少年少女は、自然の恵みで何とか糊口を凌いでいるというのに、自分だけが空腹に苦しまなければならない。理不尽だ。なぜ自分だけがこんな目に。そういう思いが、厳しい修行で鍛えられていたはずの彼の心を折ったのでしょう。あの星を誘拐の現場に選んだ意図はそこにあったのではないでしょうか。そして、これはオーデンの子供が味わった責め苦でもある。人倫を無視すれば、これほど効果的な復讐が他にあるでしょうか」
「つまり、全てはチャック少年に戒律を破らせるための……」
「オーデン自身がそこまで認識していたかどうかは別の話ですが、もしも彼を操った何者かがいれば、その人間の目的はそこでしょう。そして、息子に食肉疑惑がかかれば、当然彼の父親にもそれが波及する」

 そして、少年の父親は議員を辞した。

「それらの結果が、この星を丸ごと巻き込んだ大騒動の始まりです。この中で最も利益を得たのは、いったい誰でしょうか。老師、あなたはその人物に心当たりがあるのでは?」
「……」
「先ほどあなたが口走った『あの男』という人物と、老師が思い描いた人物は、全く無関係ですか?であれば、わたしの推測は完全に的外れなものなのでしょうね」
「……」
「ちなみにね、オーデンの勤務していた船会社の表向きの経営者はまったく聞いたこともない人物でしたが、その相談役に、アイザック・テルミンという男が収まっていたことが分かっています」
「その男は……」
「ええ、敬愛すべきアーロン・レイノルズ現大統領の懐刀と呼ばれている男です。例えばその男がオーデンに復讐をそそのかし、そのうえで復讐の計画に協力することを約束していた──能動的にではない。彼の航海記録を連邦政府に報告しないという受動的な協力です──とすれば……」

 老人は、喘ぐような呼吸を繰り返した。
 言葉はなくとも、真実は明らかであった。
 先ほどまで二本の足で立っていた老人は、力無くソファにヘたり込んでしまった。
 枯れ木のような痩身から、何か、生命力を司る存在が抜け落ちてしまっている。
 まるで、十も年をとったようですらあった。

「さらにもう一つ。この事件には、明らかに不可思議な点がある」

 老人は、神に救いを求める罪人のような視線で、ジャスミンを見上げた。

「……それは?」
「オーデンがあの星を発見し調査した時。それと、彼が学生を連れてあの星を訪れた時。この二回の訪問で、あの星に基地を構えていたトリジウム密輸組織は、何故彼の船を見逃したのでしょうか」

 トリジウムの密輸は、莫大な富を生み出す魔法のランプのようなものだ。密輸組織を束ねるのが何者であっても、何としてもその利益を手放すまいとするだろう。
 もしも第三者があの星を発見し共和連邦にでも報告すれば、組織は回復不可能なダメージを受ける事になる。ましてオーデンの船は、二度も地表に降りているはずなのだ。
 密輸組織にとって最も恐ろしいのは、あの星の存在が世間に知られることだ。であれば、秘密のヴェールをはぎ取ろうとする何者かに対して、過敏なまでに神経を尖らせているはずである。
 当然、各種レーダーを使い、付近を通る宇宙船の動向には最大限の警戒をしていたと考えるべきだ。いくらあの星が、レーダーでは絶対に捕捉されない幽霊星であったとしても、である。
 にもかかわらず、彼らがオーデンの存在に気がつかないということが、果たしてありうるだろうか。
 人の肉眼が侮れない存在なのは、惑星セントラルの入国監視システムの一部に人間の目視がいまだ採用され続けていることからも明らかであるのに、だ。

「組織の人間の悉くが絶望的な間抜け揃いでない限り、考えられる可能性はただ一つです。密輸組織の、おそらくは相当高い地位にいた何者かが、オーデンに誘拐事件を教唆した人間と同一、もしくは協力関係にあった」
「……」
「そして、オーデンが惑星Xを発見し、誘拐した子供たちをあの星に下ろすのを見逃した。それとも、見逃させた。そうでなければ、最初にあの星を発見した際に彼は捕らわれ、その命運は残忍な密輸組織の手に委ねられていたことでしょう」

 老人は、かすれた声で、辛うじての反駁を試みる。

「……そして、彼の行動を見逃した結果として、基地は連邦政府に把握され、トリジウム密輸組織は致命的なダメージを受けたわけですか。それは何ともお粗末な、本末転倒な話に聞こえます」
「それとも、一連の計画を推し進めた何者かにとって、既にトリジウム密輸組織がそれほど重要なものでなくなっていたのか」

 こればかりは分かりかねます、と、ジャスミンは結んだ。
 しばし、絶望的な沈黙が部屋を満たした。
 静寂を破ったのは、被告席に座る老人であった。

「……しかし、ミズ。あなたの言葉は、全て憶測の積み重ねです」
「仰るとおりです」
「全ては偶然かも知れない。オーデン導師は、会社の意図するところとは関係なくレザロ議員の食肉の現場を見てしまい、会社の預かり知らない経緯であの星を発見し、富や名誉を得ることよりも息子の復讐を優先しただけかもしれない。トリジウム密輸組織はあの星の隠密性を過信して、警戒を怠っていたのかも知れない。オーデンの勤務していた会社の顧問を勤めていたテルミンという男は、大統領の懐刀である男と同姓同名なだけかも知れない」
「おそらくはその可能性が一番高いでしょう」

 立ったままのジャスミンは、うなだれた老人を見下ろしながら頷いた。

「我が子を想う親の気持ちには計り知れないものがある。わたしも一児を持つ母ですからよく分かります。ましてやそれが、失われて二度と戻らない子供であり、その復讐の機会が目の前にぶら下がっているのであれば、他のあらゆる事象に復讐を優先させたとして、ちっとも不思議ではありません」

 しかし、とジャスミンは続け、

「もしもそうでなかった場合。全てが何者かの手のひらの上で実行された計画であり、オーデン導師がその手駒にすぎなかった場合は、この地図が恐るべき意味を持つでしょう」

 老人が、弾かれたように顔を上げた。

「恐るべき意味、とは……?」
「分かりません。まだ、わたしにも。しかし……」

 ジャスミンは視線を彼方に寄越した。
 そこに、分厚く黒い雷雲が迫りつつあるように、わずかに眉をしかめた。
 そして、再び老人の瞳を覗き込んだ。

「それでも老師、あなたは沈黙を尊ばれますか」

 残酷な問いである。言った方も言われた方も、心の痛覚に鑢かけられるような質問である。
 老人は力無く笑った。

「お許しください。わしには、全てが重すぎて、この肩から降ろすにはあまりに惜しいのですよ」

 ジャスミンは頷いた。これで何も聞き出せないのであれば、例え暴力的な拷問を用いたところでこの老人は何一つ語らないだろう確信があった。
 先ほどまでのジャスミンの言葉は、目の前の老人にとって、肉体的な苦痛を遙かに凌駕する痛苦であったはずなのだ。
 
「色々と失礼なことを申し上げました。どうかお許しください」
「いえ、こちらのほうこそ、お役に立てないことをお許しくださいますよう。そして、あなたのご夫君とご友人に、神の加護がありますことを」

 老人は、震える足で立ち上がり、乾ききった喉を酷使しながら無価値の台詞を紡いだ。
 この国に、神などいない。それは、この老人が誰よりも深く理解していたのだ。
 ジャスミンと老人は深く握手を交わした。まるで、言葉以外のものを伝えるように、深く、深く。
 離れる手のひらの温もりを惜しむように、老人が口を開いた。

「ところでミズ、あなたは、ここまでお一人で来られたのですか?」
「……ええ、そのとおりですが、何か?」
「いえ、であればあなたは余程勇気を司る神に愛されているようだ。わしは、一度だってかの神に愛された覚えはない。もしも、わしにあなたと同じだけの、いや、あなたの持つ半分でも勇気があれば……」

 ジャスミンは、先を促すことはしなかった。

「お時間を取らせました」
「……いえ、とても楽しい時間でしたよ。もしも全ての事態が上手く片づけば──そして、あなたがわしを許してくださるならば──もう一度お話しがしたいものです」
「それは正しく望むところです。それではお元気で」
「──最後に、一つだけ」

 退出しようとしたジャスミンを、老人の声が引き留める。
 赤熱色の頭髪を踊らせたジャスミンが振り返る。

「……何でしょうか」
「あなたは、どうしてわしのもとを訪ねられたのか。その理由をお聞かせ願いたい」

 真剣な口調の老人に、烟るような微笑を浮かべたジャスミンが答える。

「あなたは、リィのことを──わたしの命の恩人のことを、小戦士と呼びました。たった一目、彼を見ただけなのに、です」
「……」
「あなたは、それだけで信用に足る確かな目をお持ちなことがわかります。そして、その公正な心根も。それは、やはり間違いなかったようだ」
「……買いかぶりを。わしはただの老いぼれですよ」

 吐き捨てるような台詞に、ジャスミンは首を横に振った。

「あなたは、如何様にも嘘を吐くことができた。若輩のわたしを煙に巻くのも容易だったにちがいありません。それでもあなたは、最後まで答えられないと言ってくれた。一言も嘘を吐きませんでした」
「……」
「それだけで、わたしは報われた気がします。それでは」

 突然に老人の静寂を乱した赤毛の女性は、やはり突然の彼の目の前から立ち去っていった。



[6349] 第四十七話:IN THE ABYSS 1 そして少女は囚われた。(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:e4618131
Date: 2010/09/20 20:29
 夢だ。
 夢を、見ているのだ。
 自分でも不思議だが、これが夢だということがわかる。
 夢の、世界だ。
 夢の世界で、俺は、柔らかなものの上に、大の字になって寝転んでいる。
 閉じられたままの瞼を淡く照らす太陽が、遠く、天頂の彼方に感じられる。
 時折吹く風が冷ややかな空気を運んでくるが、降り注ぐ日の光が肌をあっと言う間に暖めなおしてくれるから、ちっとも寒くない。
 いつまでもここで寝ころんでいたくなる、桃源郷のような陽気。
 ここは、春の国だ。
 常春の国。
 鼻を鳴らすように嗅ぐと、かぐわしい果実の匂いがした。
 甘酸っぱい、豊かな香り。
 この香りは……ああ、思い出した。
 草苺だ。
 昔、よく摘んだな。
 スーシャの森には、地面が真っ赤に染まるほどたくさん、草苺の実る場所があるんだ。
 俺と、蜂蜜色の頭をした悪友だけの、秘密の場所だった。
 毎年雪解けの季節になると、あいつと二人、時間を忘れて摘んだのだ。どちらがたくさん集められるか、競い合いながら。
 太陽の沈む頃、草苺でいっぱいになった籠を二つ、ぶら下げて帰った。
 そして、彼の母親がこしらえてくれた、濃厚なジャムの味。
 パンケーキにたっぷりと塗り、口の周りをべたべたにしながら頬張った。
 ああ、どうして今まで忘れていたのか。これほど芳醇な思い出を。
 ならば、今、俺はスーシャの森にいるのだろうか。背中に感じる柔らかな感触は、スーシャの森の下草だろうか。
 太陽は、ヤーニス神の作りたもうた、それなのか。
 瞼を開けば、それがわかるのに。
 どうしても、瞼が重たい。目の奥につんと残った眠りの残滓が、どうにかして俺を真っ暗な世界に押し止めようとしている。
 夢の世界でまだ眠ろうとしているとは、なんとも物臭なものだと、自分でもおかしくなってしまう。
 こんな話をあいつにすれば、またしても冬眠あけの寝ぼけ熊だの、昼寝好きの獅子だの、ひどいことを言われるに違いない。
 ぼんやりとそんなことを思う。
 そして、思った瞬間に、何を考えていたのかを忘れてしまった。この時間、この空間には、全ての思考をとろけさせる魔性がある。
 どこまでも、心地よく、全てをとろかしていく。無という思考が存在するならば、それは今、この瞬間をいうのだと思う。
 甘い香りの食虫植物に囚われて、ゆっくりと消化されていく虫とは、このような気持ちなのだろうかと、埒もないことを考えて、それすらを忘れて。
 瞼を透過する陽光の粒子が、さわめく草の葉でゆらゆらと揺れている。蜜蜂の細やかな羽音が耳朶に止まり、遠慮がちに羽を休めた後、再び羽ばたいていった。
 なんという、まろやかな世界だろう。
 どこにも、鋭利なところがない。
 ここは、満たされている。
 満たされた世界で、自分は大の字になって、寝ころんでいる。
 
 ──まるで、あの少女と初めて出会った、光輝く空間のような。

 遠くで、さわさわと、草の揺れる音がした。
 風の奏でるそれではないと、すぐに気が付いた。周囲の草むらの鳴き声の中で、その音だけがあまりにも異質だったからだ。
 さくりさくりと、霜柱を踏みしだく、軽やかな音も一緒だ。
 冬の残った森の奥から、何かが近づいてくる。
 きっと、森の獣だと思った。
 それも、狼か、熊だろう。
 鹿や兎は、人を恐れて近づかない。彼らにとっての人間は、恐るべき狩人なのだ。
 普通ならば、狼や熊だって、好んで人には近づこうとしない。あいつも言っていたが、人の肉は旨いものではないからだ。
 だが、この森の狼や熊はみんな、ゲオルグ小父さんの友達だから、小父さんの臭いのする俺に興味を持ったのかもしれない。
 それとも、冬眠あけで腹を空かした彼らが、たとえ不味くても構わないからと、餌を求めてさまよっているのだろうか。
 ならば、彼らの餌になってやるのもいいかも知れない。どうせ、これは夢の世界の出来事なのだ。
 それよりもなによりも、この重たい瞼をそのままにしておきたい。木漏れ日の闇のなかで、寝転がっていたい。
 だから、俺は、ゆったりと、そのままで。
 足音が、少しずつ近づいてくる。無遠慮に、少しだって怖がることなく。
 やがて、右の耳の隣で、足音は止まった。太陽の光の半分が、不躾な闖入者のために覆い隠されてしまう。
 きっと、俺の顔を覗き込んでいるのだろう。こんなところで大の字になって眠っている人間の、間抜け面を確かめているのかも知れない。
 俺は、それとも俺の紛れ込んだ誰かは、はっきりと眉を顰めたはずだった。

 ──おい、そこをどいてくれないか。せっかく俺は(わたしは)、こんなにも気持ちよく眠っているのに。

 しばらくの間、閉じた蕾が開くくらいの時間があって、やがて影は姿を消した。
 陽の光が戻ってきた。ああ、これでようやく、もう一度、眠れる。
 そう思った、まさにそのとき。
 ぺとり、と、肌に何かが触れた。
 わたしの(俺の)太股を、何か、すべすべしたものが撫で回している。
 獣の舌にしては冷たく、獣の毛皮にしては滑らかで、獣の尾にしては重たい感覚。
 人の、掌だった。
 人の掌が、わたしの太股を、撫で回しているのだ。
 こんなことを、このわたしに対してするのは、この世に一人しかいない。
 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。まったく、どうしてこんな馬鹿げた馬鹿のために、あの安らかな世界から舞い戻ってこないといけないのか。
 自分でも嫌になる。

『……なに、してるの』

 絶対零度の声の先で、そいつは、わたしの乳房の間に顔を埋めようとしているところだった。
 陽光を受けた緑色の瞳が、きらきらと輝いている。
 黄金と同じ色艶の髪の毛が、きらきらと輝いている。
 まるで、俺の知っているあいつと同じ姿形をした、わたしの知っているこいつ。
 子供みたいに微笑みながら、わたしの上に覆い被さってきた。
 柔らかな巻き毛が降り落ちて、頬をするりと撫でていく。その悪戯げな感触が、こいつに相応しすぎて、少しだけ微笑んだ。
 そんなわたしを見て、彼もくすりと笑う。
 逆光で影になったその笑顔が、わたしを見下ろして、わたしはそれを見上げていた。
 組み敷かれたわたしは、きっと、どこかの乙女のように見えたのだろうか。
 
『なにをしているのか、聞いているんだけど。あなたは答えてくれないのかしら、シャムス』

 シャムス。
 それは、俺の娘の名前じゃないか。
 それとも、ああ、そういえば。
 その、言葉の意味は。
 纏まりかけた思考が、少年の笑みによって解かされていく。
 そして、俺にシャムスと呼ばれた少年は、わたしの首筋に顔を埋めて、夢を見るように呟いた。

『ああ、君は本当にいい匂いがするね、カマル』

 カマル。
 その名前で呼ばれた俺の体が、無限の歓喜に打ち震える。
 少年の耳に届かない、小さな小さな吐息が、ほぅと漏れ出す。
 そして少女は、すぐに口を噤む。漏れ出した吐息が、首筋を愛撫する少年の舌先によってもたらされたのだと思われては、わたしの沽券に関わるからだ。
 だが、少女は幸せだった。
 どれほどの幸福を積み重ねれば、人はこれほど喜べるのか。
 わたしは、ただ、幸せだった。
 この人と肌を合わせることができる。
 この人にわたしの名前を呼んでもらえる。
 この人が、ここにいる。
 それだけで、わたしはここにいることを許される。
 俺の目線の先で、少女と口づけを交わし、鎖骨のくぼみに舌を這わせた少年は、最後に少女の乳房を口に含んだ。
 乳房の先端に、少しざらついた少年の舌先が触れる。
 赤子がするように強く吸いつき、子犬がするように軽く甘噛みをする。
 胸の奥が、虹色の温もりで満たされていく。
 少女の体が、小さく震えた。
 視界の端に写り込んだ、少女自身の銀髪が、陽光に染まって、黄金に映える。
 まるで、目の前の少年の、美しい髪のように。
 まるで、太陽に照らされた、月の光のように。
 ああ、そうだ。
 シャムスは、太陽を意味する言葉だ。
 カマルは、月。
 ならば二人は、太陽と、月なのだ。
 少女は、果てのない蒼穹を、陶然として見上げる。
 そしてわたしは手を伸ばし、彼の頭を抱きしめた。
 それは、彼の行為を容認する合図のようなもの。
 少年の無邪気な笑みが、とても眩しくて。
 途端に、わたしの身体を知り尽くした少年の指先が、繊細にわたしの体を愛撫し始める。
 もう、何回も、何千回も、数え切れないほどに睦み合ったのだ。わたしの身体のうちに、彼の指先と唇に愛されなかった箇所はない。
 彼も同じだ。シャムスの身体のうちに、わたしの指先と唇の触れていない箇所はない。
 蛇の交合よりも濃密に、二人の体は絡みついた。
 それでも、足りない。まだ、足りない。
 彼は飽きもせずにわたしの身体を貪っていく。わたしは、彼の身体に溺れていく。
 快楽に耐えるようにして人差し指を噛む少女は、どこまでも愛らしかった。普段の、獣としての彼女を知っている少年は、自分の前でだけそういう姿をさらけ出してくれる少女を、どれほど愛おしく思ったことか。
 少年の体が薄く汗ばみ、少女の体が桃色に色づいていく。
 少年の分身が堅く屹立し、少女の分身が潤みを帯びていく。
 そして、二人は一つになった。花が蝶を望み、蝶が花を望むように。
 シャムスはカマルを貫き、カマルはシャムスを包み込んだ。
 俺は、少女の視点で、二人を眺めている。
 他人のまぐわいを見て楽しむ趣味はないが、絡み合う二人の身体は、一途に美しかった。
 少年の身体は引き締まり生命力の詰まった若木のようだったし、少女の身体は丸みを帯び始め、母性の目覚めを感じさせる。
 神の造りたもうた最初の人間のように、二人の体は輝かしかった。
 俺は、単純に、二人を好ましいと思っていた。
 少女の視線で見る世界は、少女の五感で感じる世界は、限りなく完成されていた。
 愛する幸せではなく、愛される幸せ。
 やがて二人の行為は最高潮を迎える。
 少女の最奥に杭を打ち込んだ少年の身体が快楽に震えて小さく痙攣し、その直後に、忘我の表情を浮かべた少女の背中が大きく反り返った。
 少年が少女の中に精を放ち、少女はそれを受け入れたのだ。
 二人は、ほとんど同時に果てた。
 荒々しい吐息が辺りを満たし、行為の証である男女の混ざった体液が、少女の太股を、とろりと伝い落ちる。
 少女の意識を、黄金色の霧が包み込む。荒々しい吐息の音が、疲労感とともに、遠い世界へと遠ざかっていく。
 違う。わたしが、別の世界に沈み込んでいく。
 少女は、覆い被さるシャムスの体重を心地よく感じながら、眠りの底に落ちていった。誰にも邪魔されることのない、無限の眠りの中へ。
 ああ、そうだった。
 
『誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね』

 少女の、たった一つのお願いは。
 どうしたって、俺に叶えられるものでは、なかったのだ。



「ひどい夢だ……」

 少女は──ウォルは、怨嗟の籠もった呟きとともに目覚めた。
 自分が少女となり、少女として愛される夢。視覚だけでなく、五感の全てで味わってしまった少女の至福。
 まるで覗き見でもしてしまったような罪悪感と、図らずも女としての幸福を味わってしまった嫌悪感が綯い交ぜになって襲ってくる。
 所詮夢の世界の出来事だったのだと言い聞かせても、それでは説明の付かないリアリティが、あの夢には存在した。
 そうだ、さっきの夢はただの夢ではない。あれは、この身体──ウォルフィーナと呼ばれた少女の身体に刻まれた、いや、彼女の魂の最後の残滓がこの体に刻み込んでいった、最古の記憶だ。
 前世の──ではなく、原初の記憶。この世界が生まれる前、魂が輪廻の旅を始める前の、最初の記憶。
 今、思い出した。
 この夢を見るのは、初めてではない。
 この体に宿り、少女としての生を受け入れた日から、毎日のように見ていた夢だ。
 誰かが、ウォルに知らせようとしていた。この体の来し方を、この体の行く末を。
 どうして自分があの星で迷子になったのか。
 そうだ。俺は、まさしく俺自身の意志で、あの崖から飛び降り、急流に身を任せたのだ。
 あれは、決別の合図だ。偽りの伴侶に対する、決別だった。
 そして、月は太陽を得て、銀盤の輝きを得る。
 遠い昔、血風のたなびく戦地で、青い瞳の歌人に聞かされたではないか。
 太陽と、月と、闇のお伽噺。
 
 ──まさか自分が、その因縁を背負い込む羽目になるとはな。

 少女の瑞々しい頬に、捨て鉢な笑みが刻み込まれた。

「……ねぇ、あなた、大丈夫?」

 闇の中を手探りするような弱々しい声が、ウォルを現実へと引き戻した。
 ふと気づけば、濃厚な闇が周囲を満たしている。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火が遠くに見える石壁に灯っているだけで、手元すらはっきりと見えない。
 噎せかえる黴臭さと、僅かな血臭。
 それらを塗り返すほどに濃厚な、吐き気を催す、得体の知れない饐えた臭気。
 何より、後ろ手に拘束された両手首と、冷たい枷を履かされた両足首の感覚。
 背中に感じる石畳の固い感触が、芋虫のように転がった自己を認識させる。

 ──なるほど、遠い昔、一度こういう目に遭わされたことがあったな。

 苦笑したウォルは、否応なく自身の置かれた状況を理解した。
 牢獄。
 そうだ。自分は、捕らわれたのだ。あの家で、冷たい目をした奇妙な子供たちに襲われた。
 インユェは、無事だろうか。
 気丈を装って実は繊細な少年が、どこかで泣いていないかと思い、少女の胸がずくりと痛んだ。
 
「……ねぇ、わたしの声、聞こえてる?それとも、もう耳が聞こえないの?」

 肩を、やはり弱々しく揺さぶられる。
 はっと気がついて、そちらに視線を向けると、そこには女の子がいた。
 見覚えのない、顔だ。だが、闇の中でも整った顔立ちであることがわかった。
 整った顔立ちの少女が、心配そうに自分をのぞき込んでいた。

「……ああ、大丈夫だ」

 ウォルの、はっきりと自我の残った声に、見ず知らずの少女は胸を撫で下ろしたようだった。

「よかった。久しぶりに、話し相手ができた……」

 少女の声は、涙で滲んでいる。
 暗闇に沈んだ表情が、僅かに綻んだようだ。
 ふと気がつけば、目の前の少女は、一糸纏わぬ裸体だった。
 いや、全くの裸体ではないのか。何故なら、その細い首を覆うようにして、無骨な皮の首輪が巻かれているのだから。
 少女自身がそれを望んだとは思えない。首輪を巻かれて喜ぶのは、服従することを本能に刻まれた飼い犬だけだ。
 ウォルは、彼女の生きた世界にも、年端もいかぬ異性を飼い犬のように扱って悦に入る、腐った人間のいたことを思い出していた。
 なんとなく自分の体を見下ろしてみる。
 やはりというべきか、素肌を覆う何物も存在しない。そして、首には重たい皮の環が巻かれている。そこには太く頑丈そうな鎖が付けられており、鎖の反対側は壁に打ち込まれた杭に繋がっているらしい。
 完全に、鎖に繋がれた獣の有様だった。いや、四肢を拘束されていることを加味すれば、今から焚き火で丸焼きにされる豚や猪のほうが幾分近しいだろうか。
 身じろぎをすると、じゃらりと鈍い音が鳴った。

「大丈夫、わたしたちが大人しくしてる間は、あいつらも無茶はしないから。少なくとも、最初のうちは、ね」

 ウォルの顔を覗き込んだ少女が、絶望の込められた暗い瞳で、うっすらと笑った。
 生きながらこの地獄に放り込まれた先輩として、せめてここで長生きする術を後進に教授しようとしているのだ。
 あらためて少女の身体を観察すると、肌の所々が赤く染まり蚯蚓腫れに腫れ上がっていた。場所によって青黒く染まっているのは、内出血が沈殿しているのだと思われた。
 その一事で、彼女がどういう扱いを受けているか、ここがどういう場所なのか、十分すぎる程十分にウォルは理解した。
 例えば戦乱が巻き起こり、村々が蹂躙され、女子供だけが生き長らえた時。夜盗に拐かされた女達が、最初の夜を迎える時。そこにどれほど酸鼻を極める光景があるのか、ウォルは知っている。
 一言でいえば、地獄だ。男が畜生道に堕ちる地獄。女が女に生まれたことを後悔する、地獄。
 ウォルは、ここはどこだと、少女に尋ねることはしなかった。この少女が、どういう経緯かは知らないが、自分と同じく捕らわれの身なのは明らかなのだ。ならば、ここがどこかなど知るはずもない。
 代わりに、ウォルは少女に尋ねた。
 
「君の、名前は?」
「わたし?わたしに名前なんてないわ。あるとすれば、そうね、犬よ」

 少女の頬が、自嘲に歪む。
 どういうことかと問いかけるウォルの視線をかわすように俯いた少女は、淡々とした調子で続ける。

「……わたしたちはね、ここでは名前なんて許されていないの。わたしたちは、わたしたちを捕まえた男たちを楽しませるだけのペットなの。そう割り切れば、彼らも一応は優しくしてくれるわ。それに──」

 少女は、言葉を強く噛み切った。
 だが、ウォルの心は、少女の言葉の先を聞き取っていた。

 ──そうでも思いこまないと、ここでは生きていけないもの。

 ウォルは、自身を聖人君子だと思ったことは一度もない。何度となく人を騙したし、もっと直接的に人を手に掛けたこともある。
 数え切れないほどにある。
 他者の人生を踏みにじり生きてきたのだ。
 だが──それとも、だからこそというべきか。
 ウォルにも、許しがたい邪悪というものは存在する。己の罪深さを自覚するがこそ、その価値観に外れた存在を容認することができない。
 かつて己の妻が敵の手に捕らわれ、嬲り者にされかかったときに感じた、腹の底を焼くような怒り。
 今、ウォルの目の前にいるのは、彼女の価値観でいうところの邪悪に相当する何者かに蹂躙された、哀れな少女であった。

「……では質問を変えさせてほしい。俺は、君のことをなんと呼べばいい?君の理屈でいうならば、俺も君も犬ということになるだろうが、それではお互いを呼ぶのに不便だと思うのだが」

 ウォルの『俺』という一人称に奇異を覚えたのか、僅かに眉を狭めた少女だったが、やがて諦めたように、

「……ローラ。外の世界では、そう呼ばれていたわ。でも、あまりわたしのことをそう呼ばないでね。色々なことを思いだしちゃうから」
「……わかった、できるだけ努めよう。では一つ尋ねるが、もしも俺が大人しくしていなければ、どんな目に遭わされるのだろうか」

 一瞬、身を固くしたローラは、どんよりと暗い瞳でウォルの隣を指し示した。その時点でウォルは、ローラの四肢が自由なことに気が付いた。だが、首輪に繋がれた頑丈な鎖は、彼女の逃亡を妨げるに十分過ぎる役割を果たしているのだろう。
 ウォルは、ローラの指した方向に、枷のついた重たい首を回した。
 闇に慣れた目がかすかに捉えたそこには、やはり年端もいかない少女がいた。
 いや、少女だったものが、いた。
 石積みの壁にもたれ掛かり、だらりと四肢を投げ出した格好で座り込んでいる。
 首に枷はなく、四肢にも枷はない。それでも逃げようとしないのは、その気力すら奪われたからか、それとも手首と足首に刻まれた深い断ち傷からか。
 おそらくは手足の腱が断ち切られている。あれでは、自力で立ち上がることはもちろん、地べたを這いつくばることすら難しいだろう。
 顔立ちは、やはり美しい。しかしそれは人形の美しさであって、人間ならば誰しもが持っている生命力とでもいうべきものがすっぽりと抜け落ちていた。
 虚ろな瞳は、ガラス玉と言い表すには濁りすぎている。きっと彼女の見てきた醜いものが、その瞳から透明感を、自我の輝きを奪いとったのだ。
 病み疲れたように力ない表情。ぶつぶつと何かを呟いている口の端からは、どろりと糸引く涎が垂れ落ち、頬から鎖骨まで粘ついた橋を架けている。
 彼女もウォルたちと同じく生まれたままの姿に辱められているが、それを恥じる気力すら存在しないのかも知れない。あるいは、自分の置かれた状況を理解する知性そのものを壊されてしまったのだろうか。
 
「あの子も、最初ここに連れてこられてきたときは、もっと元気だったの。絶対に逃げ出してやるんだって、警察に知らせてあの連中を死刑にしてやるんだって息巻いてたのに……」

 ふと見れば、少女の薄汚れた太股の内側に、涎の垂れる口元に、ほつれた髪の毛に、乾いた糊のような白い物体がこびりついていた。
 ウォルも、かつては男だった身の上だ。それが一体何なのか、知らないわけではない。
 男の、欲望の象徴だ。
 そして、少女を責め苛んだ、行為の残滓。
 先ほどから鼻孔を犯す不快な臭気がなんなのか、ようやく理解できた。
 これは、饐えた体液の臭いだ。
 だが、それだけではない。まだ何か、ウォルの鼻には馴染み深い、異臭が漂っている。
 饐えた体液の臭いなど、まだかわいいと思える、何かの臭い。

「あいつはね、わたしたちが嫌がれば嫌がるほど、喜ぶのよ。もっと泣き叫べ、もっと泣き喚けって。わたしは、嘘でも悦ぶふりをしているの。そうすればあいつ、すぐに興味をなくしてくれるから、嫌な思いも短くてすむわ」

 自らを犬と呼び、そしてひそやかにローラと名乗った少女は、薄ら寒くなるような笑みを頬に刻んだ。

「でもね、その子はまだ、幸せなのよ」

 どういうことかと問いかけるウォルの瞳に、少女は淡々とした口調で、
 
「だってその子まだ人間の姿をしているもの手足の爪をはがされたり焼きゴテを当てられることはあっても鞭で打たれたり針で体中を刺されることがあってもそれは幸せなうちなのよだって今はまだ目に指を突っ込まれて目玉を掻き出されたりしてないし耳や鼻を削ぎ落とされたりもしてないわ咥えさせる時に邪魔だからって歯は全部引き抜かれてるみたいだけど手足の指を切り落とされて口に押し込まれたり煮えた油を頭からかけられたりはしてないはずよ……今はまだ、ね」

 何かを思い出しているのだろう、ローラは、紙切れのように薄っぺらく、ざらついた笑みを浮かべた。

「ねえ、新しく連れてこられたあなた。ここではね、そういうことをされないことが、幸せっていうの。だからね、あなたも妙な希望を持っちゃだめよ。希望を持ったら──昔を思い出したら、今の自分がつらくなるわ。そして、あいつはそういう顔の女の子を眺めるのが、一番大好きなの」

 うっすらとした微笑みに、隠しきれない狂気が垣間見えた。
 そして、ウォルは気がついた。
 自分を囲む暗闇のあちらこちらから、消え入るほどに微かな、うめき声が聞こえることに。
 あちらの暗闇に、一人。そちらの暗闇の中に、二人。
 その奥に、三人。その更に奥の方に、数え切れないほど。
 その全てが、四肢を失った芋虫のように身体で、冷たい地面を這い回りながら、口々に啜り泣き呻き声をあげている。

 ──おとうさん、おかあさん、わたしはここよ、はやくたすけにきて。

 ──くらいよう、くらいよう。めが、みえないの。

 ──おいしゃさんをよんで。てあしが、こごえるようにつめたいわ。

 ──もう、きっとわたしはだめ。だから、どうかさいごはきれいに、やすらかにしなせて。

 ──ここは、どこ。おうちに、かえして。

 ──して。おねがいだから、もう、ころ──

 そうだ。思い出した。
 この臭いは、戦場の臭い。
 肉が腐り、膿が溜まり、そのさらに腐敗した臭い。
 生きたまま蛆の苗床となった、人間の臭い。
 人が、生きたまま死体になっていく、臭いだ。
 ウォルは、こみ上げてくる酸味の強い吐き気を強引に飲み下した。
 
「わたしたちも、いつあの子たちみたいになるか、わからないのよ。少しでも刃向かえば、あの男に気に入られれば、すぐにわたしたちもああなる……」

 ──かつん。

 石畳を叩く固い音が、遠くから聞こえた。
 ウォルは、目の前の少女の華奢な肩が、びくりと一度、大きく跳ね上がるのを見た。
 どうしたのかと問いかける前に、ローラの声が途切れ、唇が細かく震えはじめた。吐く息が浅く早くなり、暗闇に染まった顔が、目に見えて青白く染まっていく。

 かつん、かつん。

 かつん、かつん。

 交互に響くその音は、固い靴底の革靴が、地面を叩く音だ。
 己の存在を居丈高に知らしめながら──自分に怯える少女達の苦悶を愉しみながら、一歩一歩、ゆっくりと。

 かつん、かつん。

 かつん、かつん。

 部屋の至る所で、絶望に満ちた呻き声があがる。狂気に染まった絶叫。救いを求めて神に祈る声。
 
「あ、あいつが、違う、ご主人様が来るわ。いい、あなた、絶対に逆らっちゃ駄目よ。絶対に、逆らっちゃ駄目。わたしたちは、犬なの。だから、何をさせられても、何をしても、恥ずかしくなんかないわ。絶対に逆らっちゃ駄目。何を言われても、言うとおりにするの。だから、逆らっちゃ駄目、逆らったら、殺される……」

 繰り返される呟きは、むしろ自分に言い聞かせているふうですらあった。
 ローラが譫言のように繰り返している間にも、靴音は近づいてくる。

 かつん、かつん。
 かつん、かつん。

 ……かつん。

 足音が、止まった。
 ウォル達の閉じ込められた、牢屋の前で。

 きちりと、錆びた鍵穴の回る音が鳴り響き、牢獄を、張り詰めた静寂が満たす。
 誰も、一言もしゃべらない。呼吸音を聞き咎められることすら恐れるように、息を潜めている。正気を失い、死を希う少女達すらが、母親に折檻される子供のようにじっと押し黙っている。
 そして、部屋の扉が開かれる。
 ウォルの視界を、蝋燭の淡光が満たした。
 
「こんにちは、僕のかわいい天使達。今日のご機嫌は如何かな?」

 端正な顔立ちの青年が、気持ちの悪い笑みを浮かべて立っていた。



[6349] 第四十八話:IN THE ABYSS 2 そして少女は穢された。(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:e4618131
Date: 2010/09/21 22:50
 【注!かなり生々しい暴力描写があります!】

 古い石造りの廊下を、ルパートは、うきうきしながら歩いていた。
 これほど心浮き立つのはいつ以来だろうか。記憶の頁を可能な限り遡ってみたが、今ほど、この陰気な廊下が長く、そして華やいで感じたのは初めてだ。
 まるで、花嫁を伴ってヴァージンロードを歩いている新郎のようではないか。
 いや、違う。僕は今から、その花嫁を迎えに行くのだ。
 壁のそこかしこに凝った意匠の燭台が設置され、弱々しい灯りで廊下を照らしている。
 外はまだ日の差す時間だというのに、ここは太陽から見捨てられている。
 地下深く、地上の光はそこに届かず、そこに縛り付けられた者たちの悲鳴は地上に届かない場所。
 ルパートは、この世界の王であった。
 外の星からやってきた旅行者、一連の政変でこの星に居場所を失った政治家達とその取り巻き連中、憂国ヴェロニカ聖騎士団の喜捨の誘いを無碍にした者たち。
 つまり、この星において生きる価値を有しない、人以下の人。
 彼らの、娘達。あるいは、単純にルパートが見初めた娘。
 ルパートは、生き場のない少女、あるいは幸運にも彼自身のお眼鏡に適った少女達を、大いなる慈悲をもってここに匿っているのである。
 衣食住を保証し、一切の金銭を要求せず。
 例えば無慈悲な養護施設のように、期限を設けてその日には寒空のもとに放り出すわけではない。
 ただ、ほんの少し、彼の趣味に付き合ってもらうだけ。
 それだけのことで、彼女達はこの世に生きることを許されるのだ。対価として、これほど安いものもないだろう。
 ルパートは、そう思っている。
 そう思いながら、陰気な廊下を、一歩一歩、歩いていた。
 かつん、かつん、と、ぴかぴかに磨き上げた革靴が、固い石床とぶつかって小気味の良い音をたてる。石壁にぶつかって反響を繰り返し、自分の存在を全ての少女達に知らしめていることだろう。
 さて、彼女達は元気だろうか。元気がないと興ざめだ。狩りの獲物は、できるだけ生き汚く生にしがみつき、最後まで足掻き続けてもらわないといけない。そうでないと、ちっとも面白くない。
 自殺など、以ての外だ。
 少し心配になったルパートは、鉄製の扉の前で立ち止まり、小さな窓から中を覗いてみた。
 そこには、いとけない少女の群れがいた。
 歳の頃は、第二次性徴が始まり、ようやく大人の入り口にさしかかった程度の年齢の者がほとんどだ。
 少年と見紛うばかりの体つきの少女、ようやく身体に丸みを帯び始めた少女、発育した身体と無垢な顔つきがアンバランスな少女。
 ルパートが、もっとも美しいと思う、女性の理想像。食べ頃、旬、脂の乗った肢体。
 どうみても男性を受け入れるには尚早な少女達を、ルパートは愛していた。だから、彼女達の耐用日数は、熟れすぎて腐りかけの女どもよりも、遙かに長い。
 その少女達が、卑屈に笑いながら、自分を見上げていた。
 飼い犬のように首輪を巻かれ、けだもののように裸に貶められ、生け贄のように処女を奪われた少女達が、その加害者に対して媚びへつらいながら微笑んでいる。
 本心であるはずがない。彼女達は、きっと自分のことを、地獄の最下層に叩き落としてもまだ飽き足らないほどに憎んでいる。
 それがいい。その無念が、何より彼女達を輝かせ、ルパートの嗜虐心を満足させてくれる。
 赤毛の青年は、一度満足げに頷くと、小窓を閉じて再び歩き始めた。
 かつん、かつん。
 かつん、かつん。
 遠くで、ざわざわと声がする。
 神に救いを求め、父母に助けを求める声。運命を怨嗟する声。
 だが、靴音が近づくにつれて声は少しずつ小さくなり、扉の前に立った時には完全な静寂に変わる。靴音が少しずつ遠ざかると、安堵の溜息と己が身と運命を呪う啜り泣きが聞こえ始める。
 どの扉も、量って切り取ったように同じだった。
 ルパートは、片頬をゆがめて嗤った。きっと今日の生け贄を免れた少女達は、存在もしない神に感謝しているのだろうか。それとも、自分達をかかる目に陥れた神を恨んでいるのか。
 どちらにしても滑稽なことだ。今日、少女達で遊ばなかったのはルパートの気まぐれであり、彼女達をここに招待したのもルパートの気まぐれである。
 いや、違うか。
 つまり、自分こそが神なのである。あのいたいけな少女達は、自分をこそ神だと崇め畏れている。
 それは正しい認識だと、ルパートはどんどん気分が良くなった。
 青年は、歩く。少女達の絶望を、一時の安堵を、極上のワインよりも芳醇に味わいながら。
 かつん、かつん。
 かつん、かつん。
 そして辿り着いた。
 この地下階の一番奥の部屋。彼の、一番のお気に入りたちが大事に仕舞われた、おもちゃ箱。
 ルパートは逸る指先ももどかしく、仕立ての良いジャケットの内ポケットから鍵束を取り出した。
 選んだ鍵を、錆びた鍵穴に差し込む。
 きちり、と小さな音をたてて、錠は解き放たれる。
 
 ──これでようやく、あの少女を自分のものにできる。

 ──めちゃくちゃに犯し、痛めつけ、自分が自分以外の所有物であることを分からせてやる。

 ──そして、僕の子供を生む栄誉をくれてやろうか。

 鉄製の頑丈な扉を、一気に開く。
 男と女の体液が饐えて発酵した臭い、肉の腐った臭い、様々な臭気が鼻を刺すが、今のルパートにはほとんど気にならなかった。

「こんにちは、僕のかわいい天使達。今日のご機嫌は如何かな?」

 意味のない台詞を口にしながら、しかし彼の意識は喉に注がれていない。
 ただ、自分の花嫁となるべき少女を、刹那でも早く見つけること。もしもあの写真が作り物で、自分が騙されていたのならば、今日の贄となった少女はこの世で最も惨たらしい辱めを受けることになるだろう。
 ぐるりと部屋の中を見渡す。
 怯え蹲りながら、それでも必死に笑顔を浮かべた少女達。既に壊れて、感情を表すことさえできない少女達。四肢をもがれて、もぞもぞと蠢動する少女だったもの。
 自分の作り上げたソドムを睥睨したルパートの視線は、部屋の一点で留まり、そこから動くことはなかった。
 壁に背を預けた姿勢で地べたに座り、自分を見上げる少女。
 ルパートは、そこに太陽がいるのだと思った。
 格好は、他の少女達と何ら変わるところがない。生まれたままの姿に貶められ、剥き出しになった素肌。他者の所有物となった証でもある、無骨な首輪。
 ただ一点、手枷と足枷が填められていることだけが、違うといえば違うだろう。それは、少女がここに囚われて日がないことを示している。ここに囚われて長くルパートの寵愛を受ければ、逃げる気力は根刮ぎ奪われてしまい、手枷や足枷など必要でなくなるからだ。
 怯えないはずがない。ここはどこだと、あなたは誰だと、甲高い悲鳴を上げて泣き叫ぶのが普通であり、ルパートのサディズムを程よく満足させてくれるはずなのに。
 その少女は、暗闇の中でもなおそれと分かるほどに深い、漆黒の瞳でルパートを見ていた。じっと、無表情に凪いだ瞳で。
 どこにも、怯えの色がない。困惑の色もない。神であるはずの自分を、遙か高みから見下ろしているように、じっと、無価値なものを見るように。
 ルパートは、悟った。
 これは、あの写真の少女とは別人だ。
 違う。例え同一人物であったとしても、この輝きを、高貴さを、紙片などに押し込めようはずもない。
 目も眩むような美しさは、擬態でしかない。この少女の本質は、その更に奥、この瞳の裏側にこそ存在するのではないだろうか。
 ルパートは、物理的にそこを覗きたくなる欲望と戦わなくてはならなかった。なに、焦ることはない。眼窩の奥に何があるかを確かめるのは、この美しい身体に穿たれた全ての穴の奥底を覗き尽くし、味わい尽くした後でもいいのだから。

「はじめまして、ウォル・ヴァレンタイン嬢。僕の名前はルパート・レイノルズ。今日から僕が、君のご主人様ということになるかな。まぁ、僕たちの付き合いが長いものになるか短いものになるかは君の心がけ次第だけれど、とりあえずよろしく頼むよ」

 ルパートの軽々しい言葉にも、ウォルという、まるで男のような名前の少女は一切反応を示さなかった。
 ただ、じっと、ルパートを眺めている。
 恐怖を誤魔化すために不必要に傲慢を装うではなく、もちろん野兎のように怯え疼くまるでもない。
 きっと、いつもと変わらない、普段通りの視線で自分を見ている。
 その、気高い有様!
 今までの獲物とはひと味もふた味も違う。
 いいじゃないか。それでこそ、僕の花嫁に相応しい。
 この女が、心底僕に屈服し、這いつくばりながら慈悲を乞う姿は、どれほど痛ましく、美しいだろうか。
 ルパートは、粘着質な唾液を絡ませた舌先で、唇を舐めた。

「ここのルールは、隣のお友達に聞いたかな?」

 ルパートの視線を受けて、ウォルにしがみつきながら震えていた少女が、口元だけを必死に笑みの形に変えた。
 なるほど、中々頭のいい娘だ。
 気に入った。近々、精一杯に遊んであげるとしようか。

「聞いていないなら教えてあげよう。ここでのルールはたった一つ。僕の命令に逆らわないこと。簡単だろう?」

 ルパートは、あらためてウォルの身体を睨め回した。
 石壁に背を預け、足を投げ出して座り込んだ姿勢。
 黒絹が如く滑らかな黒髪に彩られた肢体は、一度だって太陽に当たったことがないように白く、美しい。
 肌は冗談みたいにきめ細かく、ほくろや面皰はおろか、一筋の皺すら存在を許されていないように滑らかだ。
 両腕を身体の後ろで拘束されているため、自然と大きく胸を張り出した体勢になるが、それでもなお慎ましく小振りな胸は青い果肉の水蜜桃のよう。
 くびれを感じさせない腰周りは、少女の身体がまだまだ発育途中である証拠である。だが、この少女が五年後にどれほど美しい女に変貌するかは、賭博の対象にすらならないほどに明白すぎる事実であった。
 そして、太股の付け根の三角地帯は、処女雪に埋め尽くされた雪原よりも滑らかで、産毛の一本すらも生えていない。
 この少女の女が、たとえ一度だって男を受け入れたことがないのは、明らかである。
 いいじゃないか。そうでないといけない。他の男に汚された中古品なんて、こちらからお断りだ。
 ルパートは、ぐびりと生唾を飲み込んだ。
 そして何より彼の情欲の火を煽ったのは、無遠慮な男の視線で穢されても恥部を隠す素振りすら見せない、少女の潔癖さだ。
 うん、いい。
 すごく、いい。
 自身の分身に血液が流れ集まっていく感覚を、ルパートは楽しんでいた。

「とにかく、僕たちはきっとうまくやっていけるはずだ。そして、素晴らしい信頼関係は、まずは挨拶から始まる。そうだろう?」

 かつん、かつんと、威圧的な靴音も高らかに、ルパートは部屋へと踏み入った。
 悲鳴を飲み込む音が、部屋のあちこちから聞こえる。 
 これで、今日の生け贄がこの部屋から選ばれることが決まってしまったのだ。例えそれが自分ではなかったとしても、自分の知る誰かが、人の姿を止めてしまう。
 そして、もしも自分だとしたら。
 絶望が、部屋の空気を染め上げた。

「僕はもう、君に対して挨拶を済ませたよ。だから、次は君の番だ。それとも、人から挨拶をされたら挨拶を返しなさいと、ご両親や学校の先生に教わらなかったのかな?」

 仕立ての良いスーツで身を固めたルパートは、全裸のウォルの前にしゃがみ込み、その頬に手を伸ばした。
 噛み千切られるかと思わないこともない。この少女は、屈強な男達を幾人も相手取り、病院送りにしている。自分を攫った男の指を噛み千切るくらいの気概はあるだろう。
 それもいいと、ルパートは思った。この少女の愛くるしい口に食いつかれ、栗鼠のような前歯で指を断たれれば、それは苦痛よりも快楽をもたらしてくれるはずだ。
 夢心地で差し出された掌は、しかし何事もなく少女の頬に辿り着く。
 その、蠱惑的な感触!
 吸い付くような肌とはよく言う表現であるが、そうではない。吸い付くのではなく、手放したくないのだ。いつまでもその肌に触れていたくなる、その肌を貪りたくなる。
 ルパートは、少女の頬を撫で回し、存分にその柔らかさを堪能した。そして指先を伸ばして、桜色の唇に触れる。
 唇は、柔らかく作ったグミのような感触だった。きっと舌先で味わえば、グミよりも芳醇で、甘い味がするに違いない。それともこの唇に銜えさせれば、どれほど柔らかく包み込んでくれるのだろう。
 ルパートは、少女の唇を犯すように、何度も何度も愛撫した。軽く押しつぶし、その弾力を確かめる。横になぞり、指先をねじ込み、口腔の暖かさを味わう。
 それでもウォルという少女は、身動ぎ一つしない。
 ただじっと、自分を見ている。
 いや……。
 違う。見ているのではない。
 観ている。観察している。眺めているのだ。
 目の前の男の価値を、推し量っている。
 これは、そういう視線だ。

「……良い子だから、言ってごらん。『はじめましてご主人様、わたしはあなたの雌犬でございます。これからたっぷりと可愛がってくださいませ』ってさ」
 
 更に気分を良くしたルパートが、猫なで声で言った。
 それは、今までこの城の地下に連れてこられた少女の全てに、彼が要求した服従宣言である。
 当然のことであるが、最初からその言葉を進んで口にした少女は誰一人いなかった。しかし、一日と経たないうちに、少女の誰しもがその言葉を口にしていた。目を赤く泣き腫らし、口元を屈辱に戦慄かせながら。
 だが、ウォルは何事も言わず、じっとルパートを見つめている。
 これはいい。間違いなく、最高の獲物だ。そして、これからも彼女以上の獲物は、絶対に見つからないという確信がある。
 この少女は、僕の花嫁だ。絶対に、誰にも渡さない。彼女自身にさえ。
 だが、それはルパートにとって、この少女を大切に扱うとか、慈しむとか、そういう感情を呼び起こしはしない。むしろ、どうやってこの少女の気概をへし折り、恥辱に噎び泣かせてやろうかと、挑戦心を掻き立てられるのだ。
 だからこそ、一番最初の邂逅は、何よりも重要だ。ここで彼我の力関係を、飼い主と愛玩動物という位置関係をはっきりさせておかなければ、後々の調教に差し支える。
 ルパートが、今度は少し険を含んだ声色で、少女に向かって言った。

「あまり強情にならない方がいい。この世界には、意地を張ったって仕方のないことが山とあるんだ。君だって、鞭で打たれたり焼きごてを当てられたり、手足の一本を失ったりした後で僕のペットになるよりも、綺麗な身体のままペットになるほうがいいだろう?僕も、そんなに酷いことはしたくないんだよ」

 心底困ったふうに眉を寄せた青年に、自分こそが全ての元凶であるという後ろめたさは微塵も存在しない。ただ、目の前で口を噤む少女の強さ、あるいは愚かさに、あきれ果てているように見える。
 それでも少女は、じっと押し黙っていた。
 恐怖に口が動かないわけではあるまい。彼女は、はっきりとした意志をもって、この世界の王である自分に刃向かっているのだ。
 仕方ない。この美しい身体を無碍に傷つけるのは気が進まないが、この強情な娘には自分の立場というものを分からせてやる必要が──

「一つだけ、問おう」

 ルパートが、彼の引き出しに収められた無数の拷問方法のうち、肉体的負担の軽いもののいくつかを思い浮かべていた、その時である。
 初めて、その少女の声を聞いた。
 想像通り、凜と固く、硬質で心地よい響き。美酒で満ちた銀製の杯の中で氷が崩れたような、澄んだ音色。そして、その奥に秘められた魂の輝き。
 ああ、この声を甘やかに染め、男の情けを乞い願う爛れた女の声に染め上げてみたい。
 
「……いいだろう。これは最初だからね、特別だ。でも、本当は、奴隷がご主人様に勝手に質問をするなんて、とんでもない無礼だ。それくらい、分かっているよね?」

 ルパートの言葉には一切の興味を示さず、黒い瞳の少女は、その部屋を作る石壁よりも遙かに無機質な言葉を口にした。

「貴様は、どうして年端もいかない少女を痛めつけるのだ」

 ルパートは、今まで聞いたことのない言語を聞いたように、目を丸くした。
 そして、呵呵大笑に笑った。城の地下全体にこだまするほどの哄笑であった。その声を聞いたウォル以外の少女の幾人かが、あまりの恐怖に失神した。
 息も絶え絶え、目元に溜まった涙を形の良い指先で拭いながら、赤毛の青年は答える。

「そ、そうだね、そんなこと、今まで考えてみたこともなかったよ」

 笑いを収めたルパートは、腕を組み、真剣に考える。
 どうして、自分は少女を好むのか。少女のあどけない表情が、恐怖と絶望で歪むのを好むのか。少女の幼い四肢を切り刻み、人以外のかたちに変えていく作業に心躍るのか。
 考えてみると、どうにも不思議だ。それは、人が嫌悪感を覚える行為のはずなのに。
 ルパート・レイノルズの記憶は、自分のご機嫌とりをする大人たちの、卑屈極まりない笑顔から始まる。
 幼心に不思議であった。自分より大きく、年も遙かに上の大人が、どうして自分のご機嫌を伺うのか。
 その答えを得たのはしばらく先の事であったが、それでも、一つだけ理解した。
 自分は、偉いのだ。だから、周りの人間の全てが、自分を恐れているのだ。
 しかし、ルパートは頭の良い子供であった。自分の理解が誤っている可能性も考慮して、一つの実験を行った。
 とあるパーティの最中、大人たちの一人の顔に、オレンジジュースを思い切りぶっかけてやったのだ。
 普通の人間であれば、怒る。顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげるだろう。ひょっとしたら、いくら相手が幼子とはいえ、手を挙げることもあるかもしれない。
 もしも自分がそういう目に合うならば、偉いといってもたかが知れている。大人しく生きていこう。
 しかし、櫛のしっかり入った頭髪と上等のタキシードをルパートのイタズラでべたべたにしたその大人は、怒りに顔を赤らめはしたものの、無理矢理な笑顔を作ってルパートを軽く窘めただけで、それ以上のことをしなかった。
 いや、できなかったのだ。
 自分が偉いから。自分が怖いから。
 なるほど、そういうものか。
 ルパートは理解した。
 周囲の大人は、容易く自分を怒ることが出来ないのだな。
 頭の良い彼は、実験を重ねることで、自分の理解を確信へと近づけていく。
 使用人の子供を、手ひどく痛めつけてみた。馬乗りになって殴りつけ、長い髪の毛を毟り抜き、両親が見たって誰かわからないような顔にしてやった。
 それでも、自分は許された。病院に運ばれた子供の両親は、ルパートと彼の父親に向かって頭を下げ、私達の娘がぼっちゃまにご迷惑をおかけしましたと謝ったのだ。
 どれほど悔しかっただろう。どれほど無念だっただろう。
 しかし、自分は怒られなかった。
 ああ、なるほど。ここまでは許されるのだな。
 ルパートは理解した。
 学校で、一人の子供を徹底的にいじめてやった。彼の積み上げてきた人生を否定し、全人格を否定してやった。暴力こそ振るわなかったが、だからこそ暴力以外で人間がどこまで壊れるのか、実験のつもりだった。
 しばらくしてから、彼女は学校に来なくなった。ほどなくしてその少女の死体が河から引き上げられたというニュースを聞いた。
 果てして今度はどうなるか。ルパートは、むしろ心をときめかせながら周囲の人間の反応を待った。
 誰も、ルパートを叱ることはなかった。
 彼女の死に、ルパートは直接関わっていない。しかし、彼女を自殺に追いやったのは、間違いなく彼の行いである。
 だが、ルパートは許された。誰も、彼を罰することはできなかった。
 ルパートは、実験を繰り返す。そして、実験の結果をどんどんと積み上げていく。
 彼にとっての他人は、全て実験の対象でしかなかった。それも、どういう扱いをしても文句の一つも言わない実験動物であり、どれほど手ひどく壊しても簡単に換えのきく生き物だった。
 特に女がよかった。男は、一度壊れてしまえばそれまでだったが、女は、壊れてしまった後でもそれなりの楽しみようがあった。
 最後は女衒に売り渡せば、小遣い稼ぎも出来た。
 恋人とやらの愛情がどれほど確かなものなのか、興味を持ち、実験を試みたこともある。街ゆく男女を同時に拉致し、縛り上げた男の前で、女を犯してみた。泣き叫ぶ女を、顔の形が変わるくらいに殴りつけ、その様子を男の網膜に焼き付けてやった。
 それでも愛情というものは絶対なのか。男は女を許し、女は男を許すことができるのか。
 結果は、惨憺たるものであった。実験の母数に等しいだけの恋人達が、何らかの形で破局を迎えた。それは女の自殺である場合もあれば、男の自殺である場合もあり、単純に別離を選んだだけの場合もあった。
 とにかく、ルパートの実験の数だけ他者は不幸になり、しかし彼は一向に罰せられることはなく。
 そして、最終的な結論にたどり着く。
 自分が許されるのは、自分の父親が偉大な人間だからだ。ヴェロニカ教の上層部に関わり、巨大な会社をいくつも経営し、政財界に様々なパイプを持っている。
 ああ、なるほど。誰も自分を見ていない。自分の後ろに父親を見るから傅き、自分の後ろに父親を見るから誰もが恐れる。
 すばらしい!
 ルパートは歓喜した。
 自分の行いの悉くに、人は父親の影を見る。ならば、誰も自分を見えていないということだ。
 自分は、透明人間だ。
 ならば、自分が何をしたって、誰も自分を罰することはできない。
 自分が透明である限り、誰もが自分に父親の威光を見る。そして、父親の威光がある限り、誰も自分に逆らうことができない。
 なるほど、この世はそういうふうにできているのだな。
 自分が好き放題しても、誰も自分を認識できないのだな。
 自分は、選ばれた人間、神に愛された人間なのだな。
 ルパートが最終的な結論を得た瞬間だった。

「この世にはね、選ばれた人間と選ばれなかった人間がいる。そして、選ばれた人間には、それ以外の人間を自由にする権利がある。いや、権利という表現は適切じゃないね。権利は与えられたものだ。選ばれた人間が持っているのはそんな情けないものじゃなくて、もっと純粋に、そう、力だ」

 ルパートは立ち上がり、ウォルを見下しながら力説した。

「僕が君たちを嬲るのはね、僕がそれをしても、誰も僕を罰することができないからだよ。他の人間だって、多かれ少なかれ思っているはずさ。自分の好きな人間を、思うように扱いたい。自分以外の全ての人間に傅かれ、敬われたい。王様みたいに振る舞いたいってね。僕以外のその他大勢には、それができない。したくても力がないか、力があっても勇気がない。僕は、その両方を持っている。だから、自分のしたいように、君たちをいたぶる。そして愉しむ。何かおかしなところがあるかな?」

 身体を屈ませ、少女の顔を覗き込む。
 手を伸ばし、少女の細い顎を掴み、強引に上を向かせる。
 息が交わるほどの至近に、少女の瞳がある。恋い焦がれ、夢の中で何度も犯し抜いた瞳だ。
 しかし、物事には順番というものがある。
 まず、自分が征服するべきは、この瞳ではなく、その下にある、可憐な唇だ。
 舌なめずりしたルパートが、少女の唇に、己のそれを被せようとした、そのとき。
 ぼそりと、少女が呟いた。

「──哀れな。誰も、貴様を殴りつけてくれなかったのだな」

 ルパートは、一瞬、目の前の少女が何を言っているか分からなかった。
 既に身体の自由を奪われ、今からその唇を奪われ、明日にはその処女を奪われているはずの哀れな少女が、今、自分に対して何を言った?
 哀れだと、このルパート・レイノルズが哀れだと?
 そう、言ったのか?
 いや、そんなはずはない。僕はこの世界の王で、そして誰も罰することのできない透明人間だ。
 全ての罪業に対する免罪符を、生まれながらに持っているのだ。誰しもが欲し、しかし与えられない、最高の特権だ。
 ああ、そうだ。きっと、この少女が言ったのは、自分自身のことだ。この僕に囚われて、これから生き地獄を味あわされる自分自身が、哀れだと。
 そうに決まっている。
 だが、そうならば、もしそうならば。
 この僕を、痛ましそうに見つめるその視線を、早く止めたらどうなんだ?

「……違う。誰も殴りつけてくれなかったんじゃない。誰も、僕を畏れて殴ることなんてできなかったんだよ。だって僕は、生まれながらの王様なんだからね」
「貴様の取り巻きである烏合の衆はそうだろう。だが、最初から貴様は全ての人間の上に立っていたのか?この世に生を受けた瞬間から?馬鹿を言うな。生まれたばかりの人間はな、この世で最も弱い生き物だぞ。泣き声は万里先の獣を呼び寄せ、甘やかな匂いのする肉は鼠どもの最高のごちそうだ。ならば、誰かが貴様を守っていた。貴様は、誰かの庇護の元にあった。違うか?」

 辺りの暗闇から、息を飲む気配が伝わってくる。
 今まで、ルパートに手酷い暴言を吐いた人間はいた。変態、げす、死ね、殺してやる、と。しかしそれらの言葉はルパートにとってこれから始まる食卓を盛り上げるための食前酒のようなものであり、当然のことながら、酒が旨いほどに食事は進んだ。つまり、暴言を吐いた少女達は、より凄惨な目に遭わされることとなった。
 ならば、今日、新しく連れてこられたこの少女は、一体どんな目に遭わされるのか。そして、自分にもそのとばっちりが及ぶのではないだろうか。
 ルパートとウォル以外の人間は、まるで自分が人間であることを拒絶するように、暗闇の中に溶け込もうとしていた。

「王は生まれながらにして王なのではない。正嫡として生を受けた男子であったとしても、厳しい教育と苛烈な生存競争をくぐり抜け、王の寵愛と臣下の信頼を勝ち得て、ようやく王位継承の第一候補といったところだ。放蕩三昧の馬鹿王子など、愛想を尽かされた家臣団に暗殺者を送り込まれて、あっさりとあの世行きさ。それともお飾りの王様として、一生飼い殺しがいいところだ」

 少女は、まるで自分が見てきたことのように語った。
 事実、彼女は見てきたのだ。王家という存在が、外面がどれほど華美で麗しいものに見えたとしても、その内側がどれだけおぞましく、そして人としての生を拒む場所であるのかを。
 それでも彼女が人として王座にあり続けられたのは、幼き日に彼を殴りつけてくれた、育ての父親と森の巨人の固くて痛いげんこつ、そして頭に特大のこぶを作った少年を優しく抱きしめてくれた、彼らの妻たちの優しい愛情があったからに違いない。
 
「王様だから殴られなかった?違うな。そも、王様だって殴られるのだ。例えば、子栗鼠のように愛らしい容姿をした、獅子よりも屈強な王妃などは、これでもかというくらいに王を殴ったぞ。だからこそ、王は王でいられたのだ。ならば、誰からも殴られなかった貴様は、ただ単に誰からも興味を持たれていなかっただけだ。だから、やりたい放題好き放題ができた。いや、それだけしかできなかった。それだけのことだ。なんとも気の毒なことだな」

 少女の舌鋒に一切の手加減はない。淡々と、暖かみを欠いた無機質な言葉で、青年の心を抉っていく。
 そして青年は、表情を失った顔で、口元だけを綻ばせていた。

「……そうか、なるほど、君の言うとおりかも知れないね。でも、そこまで言うんなら、君は殴られた経験があるわけだ」
「ある。大いにある」
「へぇ、それはこんなふうに?」

 ごつり。
 
 ルパートが、ウォルの頬を殴りつけた。
 全身を縛り付けられ身動きの取れない少女は、横倒しに倒れた。

「それとも、こんなふうに?こんなふうに?」

 ルパートはウォルに馬乗りになり、仰向けに倒れた少女の顔面を、幾度も殴打した。
 四肢を拘束された少女に、為す術などあるはずがない。反撃はおろか、逃げることも顔を庇うことすらできず、ただ殴られ続けた。
 ルパートは、無抵抗の少女を殴り続けた。
 右の拳を振り上げて、振り下ろす。
 左の拳を振り上げて、振り下ろす。
 ごつん、ごつん、と固い音が鳴り、幾度目からか、湿った音が混じりはじめた。
 少女の鼻血がルパートの拳に纏わり付き、肌とぶつかる度ににちゃにちゃと音を立てるのだ。
 男であっても泣いて許しを乞う暴力を受けながら、しかし苦痛の呻き声一つ漏らさないウォルの様子は、ルパートの怒りに風を送った。
 満身の力を込めて、少女の顔に拳を振り下ろし続ける。
 だが、鍛えられていない拳で人の顔を殴るには限界がある。
 程なくして拳に違和感を覚えたルパートは立ち上がり、少女の柔い腹を、全体重をかけて思い切り踏み抜いた。

「ぐぅっ!」

 つぶされた肺から空気が押し出され、少女の意図したところではない呻き声が漏れ出す。
 その無様な音に、ルパートは気を良くした。
 少女の長い黒髪を無造作にねじり上げ、半分身体を持ち上げておいてから、腹を思い切り蹴りつけた。
 どす、どす、と重たい音が響いた。

「こんなふうに?こんなふうに?こんなふうに?」

 少女の身体が、ルパートに握られた髪の毛の部分を支点にして振り子のように揺れる。
 蹴り上げられてふわりと浮き、戻ってくればまた蹴り上げられる。
 ウォルの身体は、幾度も幾度も、宙を揺らいだ。

「かはっ、ぐ、あぅ、つぅっ……げほっ!」

 少女は、既に萎みきった肺の奥から、力ない苦痛の声を絞り出した。
 それが、だんだんと弱々しくなっていく。
 それでも、ルパートは蹴り続けた。
 固く尖った革靴のつま先で、思い切り。
 少女が吐瀉物を吐き散らし、自分のスーツが汚れても、構うことなく。
 何度も何度も、飽きることなく。
 やがて、髪を掴んだ左手が疲れを覚えたところで、ルパートは少女の身体を解放した。
 ぼろくずのようになったウォルの身体は、力なく仰向けに倒れた。顔は自身の血で真っ赤に染まり、激しい苦痛に息も絶え絶えだ。腹部には無数の青痣が拵えられているが、それだけで済んでいるのは彼女であればこそ、普通の少女であれば内臓が破裂して既に死んでいる。
 それでもウォルは、あの瞳で、ルパートを見上げていた。
 苦痛に染まった瞳で、じっと、哀れな生き物を見るように。
 激しく息を乱したルパートは、その視線を遮るかのように、ウォルの顔を革靴の底で踏みつけた。
 ごり、と、少女の頭蓋と固い石床の擦れる音が響いた。

「……なんて生意気な女だ。これは、厳しい調教が必要みたいだね。それとも、そうして欲しいから、わざと生意気な態度を取っているのかな?」

 嗜虐の快楽に鼻を膨らませたルパートは、存分に体重を掛けた靴底でウォルの顔を踏みにじった。靴底には少女の鼻血が張り付いたから、程よく滑った。
 ルパートは心地よい疲労感に包まれながら、冷静さを取り戻していた。
 何のことはない。多少喧しく囀るが、それだけだ。僕が思いきり暴力を振るえば、手も足も出ないじゃないか。
 当たり前だ。僕の方が偉いんだから。僕がご主人様で、こいつは僕の奴隷なんだから。
 そう考えると先ほどの自分があまりに大人げなくて、ルパートは苦笑した。折角手に入れた極上の花嫁なのだ。怒りに身を任せて殺してしまうなんて、あまりに勿体ない。
 
「そうだ、わかったよ。名前だ。君の名前がいけない。ウォルとかウォルフィーナとか、まるで男か化け物みたいな名前だからそんな可愛くない態度になるんだ。よし、いいことを考えたぞ。僕が君に、新しい名前をあげようじゃないか」

 さも名案というふうに目を輝かせたルパートは、靴の下に少女の頭部を挟んだまま、

「エレオノラ。女の子らしくて可愛らしい名前じゃないか。ほら、エレオノラ。今日から君の名前はエレオノラだ。言ってごらん、『わたしの名前はエレオノラです、素晴らしい名前をありがとうございますご主人様』ってさ。そうすれば、これ以上痛い思いをしなくても済むんだよ?」

 ルパートは再び少女の顎を掴み、身体を起こさせた。
 間近で見る少女の顔は、先ほどの神々しいまでの美しさから堕落して、ずたずたの石榴のような惨状だ。
 それでも、ルパートは美しいと思った。血と砂埃に塗れ、腫れ上がった少女の顔は、何よりも彼の情欲を煽った。

「ほら、言ってごらん、エレオノラ。そうすれば、僕は君を髪の毛一本ほどだって傷つけない。約束するよ」

 にんまりと笑った青年は、最初から反故にするために振り出した約束手形をちらつかせてやった。傷ついた少女は、そんな蜘蛛の糸よりも細い希望を得るために、人間の品性を捨て去るのだ。
 この少女も、一緒だ。すぐに折れる。そして、僕の靴の裏を喜んで舐めるようになる。
 しかし、満身創痍で死にかけの少女は、

「……貴様のような男をご主人様などと呼ぶくらいならば、野良犬の尻の穴を舐めるほうが幾分ましだな」
「……なんだって?」

 ウォルは不思議だった。
 ご主人様と目の前の男を呼べば、この苦痛から解放される。ならば、言うべきだ。言ったところで自分の何も変わらないことを、自分はよく知っている。
 だが、絶対に駄目だった。冗談でも、この男を自分の主であるなどと、呼ぶ気にはならない。 
 あの少年をそう呼ぶことには、それがおままごとの延長線上にあったとはいえ、さほど抵抗がなかったのに。
 ウォルは、彼女の正体を知る人間が見れば、地にひれ伏して許しを乞いたくなるような冷笑を浮かべて、

「もう一つ、問おう」
「……ふざけるなよ、僕はお前にそんな権利を与えたつもりは……」
「エレオノラというのは、貴様の母親の名前か?」

 ルパートの身体が、表情が、音も立てずに硬直した。
 何だ?
 この女は、一体何者だ?

「は、はは、君は一体、何を……」
「図星か。成る程、その年でまだ乳離れができていないと見える。それとも、一度も母親の乳を含ませてもらえなかったのか」
「……」
「代わりに、俺の乳を吸いたいか?いいぞ、存分に吸えばいい。だが、俺はお前の母親にはなれない。そして、俺以外の少女もだ。だから、このように無益な真似は止めるんだな」

 無言で立ち上がったルパートは、仰向けに寝転がったウォルのこめかみを思い切り蹴り飛ばした。
 少女の首が、折れないのが不思議なほどに撓み、それに遅れて身体が吹き飛んでいく。
 二、三度、ごろごろと転がった小さな身体は、慣性に引き留められて制止した。
 ぴくりとも動かない。しかし、この少女は、この程度のことで死にはしない。
 驚くほどに頑丈な、精神と肉体を持っている。これならば、一通りの拷問程度で折れ曲がることはないだろう。
 いいじゃないか。最高の獲物だ。これほどに僕の心を燃やしてくれる生き物が、今までにいただろうか。
 ルパートは、ウォルの左太股に巻かれていた包帯を解き、生々しい銃創を露わにした。

「ほら、早く起きろよ」


 ──ずぶり。


「ぐ、ずあああぁぁっ!?」

 ウォルの愛らしい唇から、獣のような咆吼が放たれた。
 冗談のような、光景であった。
 青年の長く形の良い指が、少女の太股の中に、その根本まで埋まっているのだ。
 そして、それだけでは終わらない。
 突っ込んだ指を強引に折り曲げ、肉の内側を掻きむしった。

「うあああぁぁぁっ!」

 穿たれて間もない銃創の内部で指を『ク』の字に曲げられる激痛。男にしては長く伸びた爪で肉をこそぎ削られる激痛。
 がくがくと壊れた自動人形のように震える少女は、眼球が零れ落ちそうなほどに目を見開き、痙攣する横隔膜に息を詰まらせながら叫んだ。

「ぎぃ、き、さまあぁぁっ!」
「ああ、いいなあ、最高の表情だ!そういうのが見たかった!ほら、これでどうだい!?」

 ウォルは、ルパートの感極まった声とともに、ぶちぶちと、己の肉の裂ける音を聞いた。
 傷口には、ルパートの人差し指と、中指が深々と差し込まれていた。元々小さな弾丸でできた小さな穴は、男の太い二本の指で、無理矢理に拡張されていたのだ。
 そして、次に薬指を。
 少女の細い身体が、陸に揚げられた魚のように、ばたばたと跳ね回った。
 少女を戒める鎖の軋む音が部屋を満たした。

「どうだ、言ってみろよ!僕が可哀相だと、父親には相手にもしてもらえず母親にすら見捨てられた憐れな子供だと、言ってみろ!言ってみろってば!」
「………………っ!」
「言えないか!なら、僕はお前の何だ、ウォル!きちんと口に出して言ってみろよ、そうすれば今すぐ止めてやるからさ!」
「………………っ!」

 ウォルは懸命に歯を食いしばっている。口を開けば、苦痛の叫び声が漏れ出す。普段であれば何者かの助けを期待できるかも知れないその声は、今は、目の前で自分をいたぶるこの男を喜ばせるだけに終わるだろう。
 だから、黙った。歯を噛み、火を食いちぎるような苦痛に耐えた。
 それでもルパートは委細構わず、少女の傷口を女性器に見立てて前戯をするように、指を激しく抽送する。傷口からは愛液の代わりに新鮮な血液が溢れだし、指と絡まりぶくぶくと泡だった。
 やがてルパートが飽きたように立ち上がったとき、彼の右手と少女の下半身は、べっとりとした血に染まっていた。
 激しい拷問に晒された少女の上半身は、粘い脂汗で覆われて、くたりと力ない。
 目は虚ろで、放心している。息は細く、今にも気を失いそうなのが分かる。
 陵辱の傷跡は生々しく、赤黒い穴の中からは後から後から血が溢れ出している。
 そんな少女を見下ろした青年は、少女の肉を犯した自らの指先を、音を立ててしゃぶった。爪の間には赤黒い塊がたっぷりと詰まっており、それも一緒に口に入れた。
 少女の血は、肉は、素晴らしく美味であった。
 興奮に顔を赤らめたルパートの内心は、最高の歓喜に震えていた。

「ふぅん、本当に強情だ。これだけされても僕をご主人様って呼ばないなんてね。いいだろう、ウォル、いや、エレオノラ。お前がそういうつもりなら、構わない。僕も、お前がそういうつもりだという前提で、それなりの対応をさせてもらうよ」

 ウォルは、その言葉にちっとも反応しなかった。その部屋に転がるその他大勢と同じような有様で、虚ろな視線で明後日の方向を見つめている。唇は戦慄き何事かを呟いているのかも知れなかったが、誰にもその意味は分からなかった。
 これが、自分に逆らった女の末路だ。
 先ほどの小生意気な様子が嘘のような、ウォルのみじめすぎる姿に胸をすかしたルパートは、ぱちり、と指を鳴らす。
 すると、部屋の中に幾人かの男が入ってきた。
 いずれも相当に体格のいい、そして品性の欠けた表情をした、野獣のような男達であった。
 男達は、裸で横たわる半死半生のウォルの肢体を、売り物の品質を確かめる商人のように視線で舐め回し、一様に下卑た笑みを浮かべた。

「こいつらにお前の躾を頼んでもいいんだけど、いきなりそれじゃあ面白くないし、風情がない。だから、お前には、泣いて僕の情けを哀願させてみたくなった。おい、マウスを適当に見繕って、連れてこいよ」
「へい、わかりやした」

 下卑た笑みを浮かべた男達は、部屋の中から比較的まともな少女を選び、ルパートのもとに連れてきた。
 やはり、まだ親の庇護が必要な年頃の、繊細な体つきをした少女であった。一体今から自分の身に何が起きるのか分からず、不安そうにきょろきょろと辺りをうかがっている。
 男達の用意していた濡れタオルで手を拭き清めたルパートは、鷹揚な足取りで少女に近づいていった。
 
「あ、あの、ご主人様、一体わたしは、何をすればいいんでしょうか?この方達のお相手をすればいいんですか?」
「ああ、君は黙っていてくれ」

 少女は口を噤んだ。ルパートが黙れと言って黙らなければ、それこそどんな目に遭わされるか分からないからだ。
 静かになった少女を、満足げな視線で一撫でしたルパートは、ジャケットの内ポケットから長方形の小箱を取り出した。
 少しぶ厚めの手帳ほどのサイズのそれを開くと、中には空の注射器と、薬液の詰まったアンプルが姿を見せる。
 生け贄に選ばれた少女が、ごくりと唾を飲んだ。

「ご、ご主人様、そのお薬は、一体……?」
「おい、僕は黙れと言ったんだ。聞こえなかったのかな?」

 哀れな少女は、ひぃと小さな悲鳴を上げて身体を竦ませてしまった。
 
「いいか、よく見ておけよ、エレオノラ。これが、明日のお前の姿なんだからな」

 ルパートは、注射器をアンプルに突き刺し、たっぷりと薬液を吸い上げると、その針を少女の首元に突き刺した。

「つぅっ!」

 少女の身体がびくりと跳ね上がる。
 しかし、固く目を瞑りながら、抗議の声を上げることはない。そんなことをすれば我が身に何が起きるのか、今まで嫌と言うほどに味あわされているからだ。
 蟻が歩むくらいにゆったりとした速度で、薬液は少女の体内に注入されていく。
 その、最後の一滴が針の先から消えたとき、異変は起こった。

「えっ?あれっ?」

 少女は、目を擦った。額から流れ落ちてきた汗が、眉毛を通り抜け、目に入ったからだ。
 不潔な手で目を擦るのは嫌だったが、条件反射というものは如何ともし難いもので、少女はごしごしと目を擦った。
 しかし、その感触が普通ではない。ぬるりと、尋常ではない量の汗で滑る。
 腕だけではない。顔も、身体も、全ての汗腺からだくだくと、異常な量の汗が噴き出し続ける。
 あっという間に少女の全身は、己の汗でずぶ濡れになってしまった。
 
 ──なんで、全然暑くないのに……。
 
 当惑する少女を、ルパートは楽しそうに眺めている。
 そして、倒れ伏すウォルの傍らに歩み寄り、その黒髪をむんずと掴み、強引に引きずり起こした。

「いいか、ちゃんと見ておけ。お前が変な意地を張るから、あの女の子は犠牲になったんだ。あれは、お前のせいなんだ。お前のせいなんだからな」

 ルパートはウォルの顔に手をやり、その瞼を強引にこじ開けた。もしもウォルが目を背けようとしても、それが不可能なように。
 先ほどの責め苦で体力を失ったウォルは、ルパートに為されるがままである。
 そして、ルパートとウォルの視線の先で、少女の異常はいや増していく。

「あれ……違う……暑い……?……暑い……暑いよ、暑い、あつ、熱い!あつい!あついいいいっ!」

 絶叫した少女は、まるで本当に火で炙られているかのように、ごろごろと床を転げ回った。
 ルパートと、その取り巻きの男達は、少女の様子を見てげらげらと笑った。
 大いに笑った。
 
「くくっ、あの薬を打たれれば誰もがああなる。そして、よく見てみろ」

 苦悶を続ける少女は、汗に塗れた髪の毛を振り乱し、あついあついと叫び続けている。
 寒さに凍えるみたいに腕をかき抱き、爪を立てて二の腕の肉を掻きむしっている。額を石床にがしがしと擦りつけるから、皮膚は裂け、血が溢れ出た。
 
「たす、だれか、たすけて、からだが、あつくて、かゆい、かゆいの、たすけて……」

 上手に息を吸うこともできず、悶絶し続ける少女。
 それを見て、堪えきれないといったふうに嗤ったルパートが、男共の一人に合図を出す。

「へい」

 もう少しの間悶え苦しむ少女を見ていたかったのだろうか、不満げな声色で返事をした男が、しかし命令には忠実に少女のもとに歩み寄り、何事かを呟いた。

「……ぇ、それ、は……」
「本当だ。騙されたと思って試してみろ」

 嫌らしい笑みを貼り付けた男から目を背けた少女は、おずおずと、その命令に従った。
 腕の肉を掻きむしっていた腕を、少しずつ下に降ろし、自らの股間に宛がう。
 びくん、と少女の背が反り返った。
 
「うそ……こんな……すごっ……」
「ほら、もっと激しく動かしたっていいんだぜ?」

 自分の好きなようにやってみな、と、男が悪魔の囁きを少女の耳に吹き込む。
 薬に操られ、服従を叩き込まれた彼女に、抗う術はなかった。
 ぐちゅぐちゅと、粘着質な泥を掻き回すような音が部屋に響く。そして、あられもない少女の嬌声。幼い少女の口から出たとは思えない、淫らな言葉の数々が、野獣の如き男達を愉しませる。
 普通の人間であれば耳を覆い目を背けたくなる光景に、しかしルパートは高笑いを放ち、大いに満足げであった。

「どうだ、素晴らしい薬だろう?あれはね、可愛らしい女の子を、もっと可愛らしく、素直に作り替えてくれるんだ。男を知らないおぼこ娘だって、熟練の娼婦よりも乱れる羽目になるのさ」

 狂ったように──いや、事実として狂いながら己の性器を慰める少女の顔は、天上の快楽に酔いしれ、既に人間の気高さは残っていない。
 焦点の外れた視線が、ウォルの、血で濁った視線と交わり、嬉しそうに歪み。
 そして、言った。

「ねぇ、そこの、あなた、きもち、いいよ、すごく、きもちいいんだよ、だから、あなたも、こっちに……」

 言葉は最後まで紡がれることなく、憐れな少女はぶくぶくと泡を吹き、意識を失った。
 
「ま、普通ならこうなる。そして、もう使い物にならない。薬のことだけを考え、薬のためなら何だってする、ジャンキーの出来上がりだ。僕は、そういうのを相手に無駄撃ちするつもりは、今はないからね。おい、このゴミをどこかに捨ててこい」
「へい」
「そんな顔をするなよ。いつも通り、お前達の好きにしてからでいいからさ」

 男達は、その言葉を待ち侘びていましたとばかりに目を輝かせ、少女を抱えて部屋を出て行った。
 その先で一体どのような宴が開かれるのか、考えるまでもないことであった。

「でも、あの子はまだ幸せなほうだ。あの薬を打たれて何もしなければ、何もされなければ、文字通り気が狂う。暴走した性欲に、精神が焼き切られるんだ」

 ルパートは、二本目のアンプルを取り出し、新品の注射器で中身を吸い上げた。
 薬液で一杯の注射器を逆さに持ち、針を天井に向けて空気を追い出す。少しだけ漏れ出した薬液が、小さな噴水を形作った。
 準備が整った針先を、ウォルの二の腕に押し当てた。

「さて、エレオノラ。これが最後だ。もしもお前がこれからも人間として生きていたいなら、今が最後のチャンスだと思った方がいいよ」

 耳元で、面白そうに囁く。ついでに、少女のふっくらとした耳たぶを口に含み、音を立ててしゃぶった。
 耳朶を口に含まれて舐め上げられる感覚と、ちくりと、鋭い金属が肌を破る冷たい感覚を、ウォルは同時に感じた。
 針先は、深々と肉の内に沈んでいた。

「一応忠告しておいてあげよう。この薬は、我慢とか精神力とか、そういうもので克服できるほどに生やさしいものじゃない。お前がどれほど強情でも、それこそ手足を切り落とされて眉一つ動かさないほどに強情だったとしても、無駄だ。絶対にお前の自我は破壊される」

 ルパートの言葉はまったく事実であった。彼が手にしている薬は、捕虜の尋問用に開発されたものの、あまりの非人道性から全宇宙規模で製造、所持及び使用が厳禁されている禁制の麻薬である。
 しかしその効能の確かなこと、何よりも尋問対象に対する有効性から、ブレインシェーカーを用いても効果のない事実を聞き出すとき──ブレインシェーカーは対象者の記憶を映像として再生する装置なので、聴覚から得た情報に対しては効き目が薄い──には秘密裏に使われることが多い。
 そして、その際の成功率は約八割と言われている。二割の人間が耐え凌いだという意味ではない。薬を打たれた人間の八割が堪らずに口を割り、残りの二割が発狂したという意味だ。
 これは、そういう薬であった。

「僕は、君の何だ?君の名前は?君はこれから、僕のことを何て呼びたい?」

 楽しげに揺らめく声。
 そしてウォルは片頬を歪めながら、力ない笑みを浮かべ、

「……寝言は寝て言え、殻のついた雛鳥め」
「残念だ」

 くい、と注射器のプランジャが押され、シリンジの中身が少しずつ押し出されていく。
 薬液が、ウォルの体内に潜り込み、その細胞を少しずつ犯していく。
 身体の深奥を焼き尽くすような熱が放射状に広がっていく感覚を、ウォルは味わっていた。その汚染が彼女の脳内に及んだとき、ウォルという人格は、薬の効能によって抹殺されるのだ。

「さて、これが多分、今生の別れになるね。きっと次に会うとき、君の名前はエレオノラになっていると思うよ」
「あ、あああ、あああ……」
「もしも意識が残っているうちに僕のことが恋しくなったら、大声で呼ぶといい。君の白馬の王子様は、喜び勇んで駆けつけてくれるからね。その時は、君も素直になっているといいね、エレオノラ」
「だ、れが、きさまなど、お、くあ、あぁぁぁ……!」

 切ない少女の叫びが、再び部屋の静謐を破った。
 体中から汗が噴き出し、血と土埃に汚れた自らを洗い流していく。それほどの発汗量であった。
 苦悶するウォルを満足げに見遣ったルパートは、彼女の傍らで震えている少女に声をかける。

「おい、そこの犬」
 
 あまりの事態に半分虚脱していたその少女──ローラという──は、弾かれたように身体を起こす。

「君に、これを渡しておくよ」
「……これは?」

 渡されたのは、先ほどルパートが懐から取り出したのと同じ、長方形のケースだった。
 そして、中に入っているのも、全く同じ、注射針とアンプルである。

「あの薬は、だいたい一時間で効き目が弱くなるからね。きっちり一時間ごとに、打ち直してあげなさい。ああ、この子が完全に壊れた後は別にいいからね。薬も勿体ないし」
「あ、あの、わたしが、ですか?」

 ルパートは、優しささえ感じる微笑みを浮かべて、大きく頷いた。
 ローラは、決壊寸前のダムのように涙を湛えた瞳で、首を横に振った。

「で、できません、わたし、こんな、ひどいこと……」

 今も自分の隣では、断末魔の叫びを上げながら悶え苦しんでいる少女がいる。
 なのに、自分がその苦痛をさらに深いものにするなんて……。

「いいんだ。それがこの子のためになる。それくらい、君だって分かっているだろう?」
「でも、でも……」
「それとも──」

 ──君が、ウォルの身代わりになるかい?

 この台詞がとどめであった。
 少女は、嗚咽を零しながら首を横に振り、ルパートの指示に従うことを誓った。
 満足げに頷く赤毛の青年。

「よし、それでいい。あと、薬を打ち終えたら、必ず水分を取らせてあげてね。このままだと、この子、脱水症状で死ぬから。それは可哀相だろ?」

 こくりと頷く。

「あと、可哀相に、どうやら自分で勝手に暴れて傷口を開いちゃったみたいだから、少し落ち着いたら応急手当をしてあげてね。その時、絶対に手当以外のことをしちゃいけないよ。この子がどんなに懇願しても、哀願しても、慰めてくれって泣き喚いても、それは無視すること。じゃないとお仕置きの意味がないからね」

 こくりと頷く。
 それ以外の返答を、憐れな少女は持ち合わせていなかった。
 立ち上がったルパートは、スーツの乱れを整えてから、満足げに部屋を後にした。最後に振り返ったとき、塗炭の苦しみに悶えるウォルの様子が彼の網膜に焼き付いた。

 ──今日はこのまま眠れそうにない。他の誰かで遊ぶとしようか。

 堪えきれない愉悦に頬を歪ませたルパートは、意気揚々と自室へと引き上げていく。

「ごめんね……わたし……わたし……」
「……ろ……ら、……は、わる……、く、……ない……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 少女達の、お互いの傷口を舐め合うような弱々しい会話が、この日の彼に与えられた最高のご馳走であった。




[6349] 幕間:snake eaters(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 E-MAIL ID:28cb7823
Date: 2010/09/23 10:36
 意気揚々と自室に引き上げるルパートの足取りは軽かった。
 ウォルという少女の運命は決まったようなものだ。あの麻薬で自我を徹底的に破壊され、この上なく美しい、生まれたままの無垢な赤子が生まれる。その子を、自分の思うままに育てよう。最高の淑女にして最高の娼婦、そして僕の花嫁。
 最も想像力を掻き立てるキャンバスの色が多くの場合、白単色であるように、純粋無垢な少女を己の思うままに育てたいという欲望は、古来より数え切れない男共を虜にしてきた。
 そしてこの場合、素材は間違いなく極上。
 あの美しい瞳が、未完成の肢体の持ち主が、ルパート自身を父と呼び、夫と呼び、主と呼んだ時、それはどれほどの至福をもたらしてくれるのか。
 それとも、あの誇り高い精神が、屈服するか。
 薬に自我を犯され、精神を破壊される恐怖は、肉体を破壊される恐怖を遙かに凌駕する。己の存在意識がごりごりと削り取られ、少しずつ死んでいく自分を認識し続けるなど、到底人の精神に耐えられるものではない。
 おそらく、一日と持たずに根を上げるだろう。いや、もっと短いかもしれない。今この瞬間に、情けない声色で、僕に対して今までの非礼を悔い改めこれからの絶対服従を誓う言葉が聞こえてきても不思議ではないのだ。
 それもいいだろう。あの小生意気で悟ったような口ぶりの少女が、どれほど卑屈に地べたを這いつくばるのか。その時に自分を見上げる瞳はどれほど恐怖に染まっているのか。
 どちらでもいい。どちらでも、心安らぐ未来図だ。
 あの少女が自分の所有物になる未来に、変わりはないのだから。
 ルパートは誰に見られるでもなくほくそ笑んだ。
 だが、さしあたっての問題として、この昂ぶりをどうにか押さえないと今日は眠れそうもない。そして、昂ぶりは、無理に押さえるよりも思い切り吐き出してしまった方が後腐れがないというものではないか。
 ルパートは頬を歪めた。確か、ウォルという名前の──明日にはエレオノラになっているはずである──あの少女に面影の似た生け贄が一人、いたはずだった。
 あれはあれで、中々にそそられる素材だった。まだ誰も手をつけていない、無垢の少女。いずれ来るべき前夜祭のために用意した、最高の供物。
 葡萄酒は、その価値を本当の意味で理解する人間に飲まれるために存在する。価値の分からぬ下賤な人間や、神などという訳の分からない存在に捧げるためにあるのでは断じてないし、ましてやショウケースに並べてコレクションするなど以ての外だ。
 最も芳醇に醸成された葡萄酒が栓を抜かれることなく老い萎びていくのは、美しい花が誰の目を楽しませることもなく枯れ散っていくのと同じくらいにもの悲しい。
 だから、ルパートは躊躇しない。欲しいと思ったその瞬間こそが、なによりの食べ頃に違いないのだ。

「……ああ、僕だ。あの子……そうだ、例のあの子だよ。今日、食べるからさ。教育部屋に連れてきておいてくれないか……ああ、頼んだよ」

 携帯電話で簡単な指示を出すと、ルパートは自室に急いだ。
 これから始まる宴に備えて、ウィスキーのロックを一杯、ついでに簡単なものを腹に入れておきたい。少女達に対する愛の教育は、するほうも中々に体力を消耗する。
 できればウォルの悶え苦しむ様を見ながら飲りたかったが、これ以上あそこにいると我慢ができなくなりそうだ。あの美酒はまだ飲み頃ではないから、今、力尽くで封を開けてしまえば、一生後悔するだろう確信があった。
 なに、あの部屋の様子はきっちりと映像に記録してある。生まれ変わった少女を足下に侍らせながら、少女自身の壊れゆく様子を愉しむのも、中々に乙なものだろう。
 再び意識を自室へと向けたルパートは、階段を昇り、上層階に設けられた自室へと急いだ。この城の設計者は中世の建築様式であることに病的なこだわりがあったのか、エレベータの類は設置されていない。上り下りは全て階段である。それでも年若く強壮なルパートには大して苦にもならないのだが。
 螺旋階段を昇り終え、地上階に至る。その狭い廊下を抜けると、大ホールがある。
 そこには、地下とは比べものにならない華々しい世界が開けていた。
 豪奢な飾り燭台が天井から吊され、壁面には色取り取りの大理石でモザイク模様が描かれている。天井には、天使と聖母ヴェロニカが舞い戯れる様子がステンドグラスの絢爛な色彩で表されていた。
 ルパートは自室へと急ぐ足を止め、ホールのちょうど真ん中に立ち、目を閉じて大きく深呼吸をした。自分が絶対者として振る舞うことのできる地下世界もいいが、この開けた豪奢な空間で一人佇むのも悪くない。
 官能的なまでに清涼な山間の空気を、ルパートは肺の隅々にまで満たした。すると、自分が生まれ変わったような気がする。
 これは儀式なのだ。あの地下階で染みついた穢れを落とし、この世界に戻るための儀式。
 少女達の苦悶の叫びを、噎せ返る淫臭を、忌まわしい全てを祓い落とし、自信と輝きに満ちた表情で自室へと向かおうとしたルパートに、横合いの物陰から鋭い声がかけられた。

「ルパート様、お待ち下さい」

 青年にとって初めて聞く声ではなかった。
 聞き覚えのある声である。
 そして、その声の持ち主に対して、ルパートは好意を覚えるべき理由をたった一つとして見つけることができない。
 ゆっくり、殊更ゆっくり振り向いてやる。そこにいるであろう人間のために、わざわざ急いで振り向いてやる義理など、微塵も存在しないからだ。
 然り、肩越しに振り返り、身体の向きはそのままに首だけを向けた。
 この、洗練された大広間にはちっとも相応しくない、野卑な迷彩服に身を纏った赤毛の少女が、そこに立っていた。

「……ああ、君か。ええ、と……少し待ってくれるかな。そう……確か、マーガレット。マーガレットくんだったかな?」
「……マルゴ。マルゴ・レイノルズです、ルパート様」

 ルパートは、口元だけを少しずつ持ち上げて、奇妙な笑みを作った。

「ああ、そうだ。マルゴ、マルゴくん。うん、そうだったね。すまない、僕は中々物覚えが悪くてね。それが人や犬の名前ならともかく、お人形さんの名前だと、一々覚えていられないんだよ。気を悪くしないでくれたまえ」

 相変わらず体を正対させることすらなく、顔だけを向けてそんなことを言う。

「で、そのマルゴくんが、僕に一体何の用かな?これでも中々に忙しくてね。お人形さんと遊んでいる時間は、ないんだけれど」
「……その、人形という呼び方を止めていただきたい。わたしには──我々には、敬愛すべき父から頂いた名前があるのですから」

 一呼吸間を置いてから、ルパートは鼻で笑った。

「ああ、そうだね。君たちお人形さんは、ぼくの父親に愛されているらしいから、そりゃあ名前の一つももらうだろうさ。だって、そうじゃないと人形の区別も難しくなる。でもそれは、どこまでいっても人形の名前だ。子供が熊のぬいぐるみに名前をつけておままごとをするのと何ら変わらない。人形は人形。名前をもらったくらいでその事実は変わらない。そこのところ、分かってる?」
「……それでも、名前は名前です」
「うん、きみの言うとおり。墓場を掘り返して引きずり出した死体にだって、名前がないと不便だもんね。そうだ、よくあるパニック映画のゾンビの群れにも、一つ一つ名前はあるのかな?あっちで主人公のライフルに頭を吹き飛ばされたのがザックス、そこで人肉を貪ってるのがアネット、今まさに墓石を押し上げて地面から這いずり出てきたのがマルゴ……」

 少女たちの出自を知るルパートは、冷ややかな笑みを浮かべ続けていた。
 マルゴは、俯き加減に唇を噛み、屈辱に耐えていた。

「……どうして、貴様のような人間が、お父様の息子なのだ……」

 ぽつりと零した台詞はルパートの耳にはっきりと届いた。
 
「……へぇ、君も、人並みに怒ったり、嫉妬したりするんだね。人形で、ゾンビのマルゴちゃんでも、悔しいこととか、あるんだ」

 赤毛の青年がへらへらと笑う。
 へらへらと軽薄な笑みを浮かべながら、言葉の鞭で少女をいたぶっている。

「ま、あまり調子にのらないことだね。君たちは所詮、父さんのお気に入りのお人形さんだ。どうやったって実の子になれないんだからさ、変な望みを持つと、現実の自分がしんどいだけだよ?」
「……だが、私たちは、あなたよりも愛されている」

 苦渋に満ちた言葉を、ルパートは無視した。

「要件がそれだけなら、僕は先を行くよ。そうそう、君も父さんに見捨てられたくなかったら、もっと見栄えのする服の選び方を勉強したほうがいいね。その襤褸、汗臭くて鼻が曲がりそうだ。今後、僕の前では着ることのないよう、切望するよ」

 そう会話を打ち切り、歩き出したルパートに追いすがりながら、マルゴが鋭く詰問した。

「待ちなさい。まだ話は終わってないわ」
「……なんだよ、鬱陶しい。まだ何か用?」
「あの子を返しなさい」

 ルパートの肩がぴくりと動き、その足が止まった。
 やはり顔だけを、ゆっくりとマルゴの方に向けていく。

「……あの子?あの子って、誰のことかな?」
「……白々しい言葉を。あなたが一度取り逃し、私たちが捕まえた生け贄の女の子。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。あの子を連れ出したのは、あなたでしょう」

 ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。
 ああ、そうか。
 あの子のことか。
 僕の愛しい、エレオノラのことか。

「……知らないね。僕はそんな女の子を連れ出した覚えはないよ」
「堂々と嘘を吐く……!そもそも、一度失敗すればすっぱり諦めるという、お父様との約束だったはずよ!それを……!」
「誤解があるようだから言っておこう。失敗したのは僕じゃない。現場の、無能極まる軍人共だ。僕の立案した作戦は完璧だったんだからね」

 ルパートの本心であった。
 作戦に不備があったとは思えない。
 目標の潜伏する建物の地下階。その出入り口の全てを封鎖し、表口と裏口から同時に特殊部隊を突入させる。それも、対テロリスト制圧用に厳しい訓練を積んだ猛者共だ。
 あの少女と、もう一人──こちらもそれなりに興をそそる屈強そうな女は、たった二人で憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部を壊滅させた。
 容姿に騙されてはいけない。到底侮っていい獲物ではない。それは理解していた。
 だからこそ用意した完全武装の特殊部隊である。あの汗臭い連中の存在意義は、そういう危険な連中の相手をすることにあるのではないか。
 そして、相手はたったの四人である。
 四人!それに対して、こちらが投入したのは十人を越えていたのだ!
 隠し扉?得体の知れない洞窟?その程度の不測の事態が生じるなど、それこそ想定の範囲内ではないか。
 ルパートは、憮然とした様子で彼の作戦の不備を指摘し全ての責任を押しつけてきた軍人共の筋肉質な顔を思い出して、不快感に唾を吐き捨てた。
 
「でも……まぁ、作戦の最高責任者だったのは僕だ。それは認めよう。だから、失敗の責任は全て僕に帰する。当然の道理だね。だから、僕はもう、あの女の子のことは諦めたよ。誓って、僕があの子を部屋から連れ出したんじゃない。約束する」

 予想外に真摯なルパートの言葉に、マルゴはたじろいだ。
 あの少女を軟禁していた部屋は、この城の最奥部にある。どう考えても、外部の人間が容易く侵入できる場所ではないし、あの少女が一人で逃げるなど出来ようはずもない。
 だいたい、彼女の監視を命じられていたマルゴの同僚の食事に睡眠薬を盛ったのが、この城の内部の人間でなければどこの誰だというのだ。厳重な監視装置の電源を落としたのが、この城に精通する人間の仕業でなければどこの誰の仕業だというのだ。
 そして、少女は姿を消した。
 最初から犯人をルパートと決めてかかっていたマルゴは、少なからず動揺した。どう考えても、全ての状況はこの男が犯人であると告げているのに。

「……では、地下階の探索をしてもよろしいか?」
「駄目だね。あそこは僕の趣味の空間だ。僕の許し無く、誰も立ち入らせるつもりはないし、今、君にその許可を与えるつもりもない」
「しかし──」
「もしもどうしても僕が怪しいっていうなら、君の大好きなお父様に言えばいいじゃないか。あなたのどら息子が大切な生け贄の少女を盗みました。だから、地下階を探索する権限をお与え下さいってね」

 言われるまでもない。既にマルゴは、いの一番にこの城の最高権力者の元へ赴いている。
 しかし彼女の父である、腐った魚の目をした老人は、穏やかに微笑みながら首を横に振った。それがどういう意図なのかはマルゴには皆目検討もつかないが、しかしルパートに手出しが出来なくなったことだけは明白であった。
 それでも、もしもルパートがあの少女を攫ったことが明らかになり、マルゴ自身がその確証を得たならば、力尽くでも乗り込んで、少女の身柄を奪回するつもりだった。あの少女の美しい体を、尊い生け贄となるべき清い魂を、目の前の変態の好きにさせるつもりはなかった。
 なのに、この軽薄で悪辣な男がさっき言った言葉──自分はあの少女を部屋から連れ出していないという言葉には、真実の重みがあった。
 だから、マルゴには分からなくなってしまったのだ。自分の取るべき行動が。

「……さっきの言葉は本当でしょうね。あなたは、彼女を連れ出す行為の一切に関与していない」
「天のヴェロニカ、大地の精霊、そして父親の名前に誓って、僕は関与していない」

 このとき、マルゴは質問を間違えたのだ。
 今あの少女は地下にいるのか。それとも、あなたはあの少女に危害を加えていないか。
 そう問えば、ルパートの瞳に浮かんだ真実の色は、自ずと違うものになっていたはずなのに。

「……わかりました。無駄な時間を取らせて申し訳ありませんでした」

 肩を落としたマルゴが背中を向けようとするのを、

「おい、待てよ」
「……何か?」
「人を無実の罪で疑っておいてさ、その態度はないんじゃないの?それともそれが、君の敬愛するお父様とやらに教えてもらった作法なのかな?」

 少女は、ぎしりと歯を噛んだ。
 しかし外面には一切の屈辱を出さず、軍靴の踵を合わせ、背筋を伸ばし、深々と腰を折り曲げて、

「申し訳ありませんでした、ルパート様。今後、このような無礼を働くことが無いよう、しっかりとした事実究明に努めますので、どうか今回に限り、ご寛恕の程を」
「うん、いいよ。何せ僕はこの星の大統領でもあるアーロン・レイノルズの一人息子だ。自分でも呆れてしまうほどに寛大だからね、人形風情の非礼は笑って許して上げるさ。だから、さっさと自分の犬小屋に帰れよ。目障りだ」

 背中にマルゴの無念の視線を感じ取りながら歩く廊下は、痛快そのものであった。
 再び姿を現した階段を昇り、最上階に辿り着く。
 ルパートと、彼の父親のためだけに用意された階層だ。当然そこでは親子が顔を合わせることも少なくないが、朝の挨拶の一つだって交わされたことはない。
 そも、父親は、その息子を視界に収めようとはしない。無言で通り過ぎていくだけだ。
 だから、ルパートも無言で歩く。長大で暗い廊下を、一人無言で。

「お帰りなさい、ルパート君」

 ルパートは、その言葉が特定の誰かの口から出たのだと錯覚し、思わず口元を綻ばせた。
 そして、瞬時に過ちを悟り、怖気のする自己嫌悪と戦う羽目になった。
 屈辱だった。何より屈辱だったのは、先ほどの顔をこの男に見られたことだ。

「ずいぶんご機嫌ですねぇ。何か良いことでもあったのですか?」

 にやにやと、ただでさえ細い視線を尚更細めて、何が楽しいのか自分を見つめるこの男。
 仕立ての良いスーツをだらしなく羽織り、剃り残した無精ひげを愉快そうに撫でつけている、この男。
 アイザック・テルミン。
 アーロン・レイノルズ大統領の右腕である。

「……あんたかよ。なんで、高々第一秘書風情がこんな場所にいやがるんだ。ここは、俺と親父の私室しかない階だぜ」
「ええ、ですから大統領と、今後の政局についての相談を。いくら第一秘書といえど、勝手気ままに政治を玩具にしていいわけではありませんから、たまにはお伺いを立てに来ないと不味いでしょう?」

 それはつまり、アーロン・レイノルズという男が、政治という分野においては目の前の男、アイザック・テルミンの傀儡に過ぎないことを意味している。
 少なくとも、大統領に近しい人間の間では、それは周知の事実であった。アイザック・テルミンという男の優れた政治的センスがなければ、これほど見事に政権を奪取することが難しかったのは、大統領本人ですらが認めるところである。
 しかし、何故だかルパートにはこの男が気にくわない。父親の恩人であり、間接的には自分の恩人でもあるはずのこの男が、そして今は自分とあの少女の仲人となってくれたこの男が、どうしても気にくわなかったのだ。
 この男の前では無頼な口調になってしまうのも、そのためであった。
 
「如何でしたかな、あの少女の味は。ルパート君は相当彼女にご執心であったようですから、感無量といったところではないですか?いや、この宇宙に本当の想い人と結ばれる人間がどれほどいるのか……羨ましい限りです」

 ウォルをマルゴ達の監視下から攫い、ルパートの支配する地下層へと連れて行ったのはこの男の仕業であった。
 無論、ルパートはそのことを知っている。しかし、彼自身はその計画を事後的に聞かされたのであり、立案から実行に至る一切の課程を関知していない。だからこそ先ほどのマルゴの詰問にも涼しい顔で通すことができたのだ。
 
「ワタクシは生憎、あの年齢の異性に劣情を覚える性質ではありませんが、それでもあなたに引き渡すのが惜しくなるほどの美しさでしたからなぁ。さぞかし良い声で啼いてくれたのではありませんかな?」
「……うるせえな、約束はきっちりと果たす。記録映像は後であんたの部屋に届けさせるさ。それでいいんだろうが」
「ええ、まさしくワタクシの心配していたところはそこでして。興奮のあまりに我を忘れたルパート君が、記録装置の電源を入れ忘れていては一大事と、一応の確認をしに参った次第です」

 テルミンがルパートに、ウォルの身柄を引き渡すときの、唯一の条件がそれであった。 
 今後、この少女に施す全ての行為を映像で記録し、その逐一を自分に渡すこと。
 ルパートにしてみれば、自分と愛しい少女との営みを他人の目に触れさせなければならないのは、あの少女の素肌を目垢で汚すようで不快だったが、不承不承に頷いた。この交換条件を受け入れなければ、彼女は永遠に自分のものにならないのだ。ならば、四の五の言っていられる状況ではなかったのである。
 約束を反故にすることも考えたが、それはこの、いけ好かない男に負けるようで嫌だった。

「要件はそれだけかよ」
「それだけです。ルパート君も色々と忙しいようですし、要件も終わりました。今日はこれで失礼しますよ」

 テルミンはくすくすと笑った。
 しかし、一向に歩き出す気配がない。じっとルパートを眺めている。
 その視線が不快で、ルパートは自分の部屋へと足を向けた。

「あ、そうそう、一つだけ質問してもよろしいでしょうか?」

 ルパートの背中に向けて、テルミンが声をかけた。
 振り向くと、そこに先ほどのにやにや笑いはない。

「……なんだ、言ってみな」
「ええ、ルパート君は、ワタクシがどうしてルパート君と彼女の愛の営みの映像を欲しがっているのか、不思議ではないのかと思いまして」

 ふん、と鼻を鳴らした。

「この世には色々な趣味の人間がいるぜ。中には、他人のまぐわいを見なけりゃおっ立たないっていう変態だっているもんだ。あんたがあの映像で何をしようが、俺は関知しねえよ」
「なるほどなるほど、そういうこともありますか。ふむ、ではワタクシは、そういう特殊な性癖の持ち主であるということにしておきましょうかねぇ」

 体を折り曲げて笑うテルミンを、親の敵であるかのように睨み付けながら、

「……つまらないお為ごかしはいらない。あんたにはあんたの思惑があるんだろう?その上で、あんたは俺を利用する。俺は、あんたを利用する。それが一番分かりやすい」
「ええ、ええ、そこがルパート君の一番の長所ですねぇ。大変自分に正直で、他人に対してペシミスティックだ。話の通りがよくて大変助かります」

 テルミンの細められた瞼の奥に、針のような光があるのをルパートは見逃さなかった。
 この男は果たして自分の味方なのかという、惚けた疑念をルパートは抱かない。
 これは、自分と同じ類の生き物だ。つまり、自分の享楽と欲望のために、他人の人生を踏みにじって一切の後ろ暗さを覚えない人間。もっとはっきりといえば、自分以外の人間を人間と認めていない人間。
 そして、同種の生き物は、得てして天敵同士であるもの。
 蛇は蛇を喰らい、蛙は蛙を喰らう。
 ならば、そもそも味方であるはずがない。
 しかし、共通する目的のためであれば、不倶戴天の敵同士でも同じ船に乗ることもできよう。
 この男がどういう意図でもって自分に近づいてくるのかは知れない。だが、自分が付け入るだけの隙を見せなければいいだけの話。
 ルパートは鼻で笑った。
 あの少女を手回ししてくれたのには素直に感謝している。だが、それだけだ。感謝の念だけならば、道端で落としたハンカチを拾ってくれただけの赤の他人にだって向けられる。
 そして、感謝の念以上のものを、ただで渡すつもりは一切ない。
 アイザック・テルミン。
 あんたが何を考えてやがるかは知らないが、最後に出し抜くのは俺だ。そして、あの少女を、俺だけの奴隷にしてみせる。



 ルパートとの短い邂逅を終えたテルミンは、自室に引き上げた。
 スーツの上着を脱ぎ、ハンガーにかける。
 ネクタイを緩めて首元をほぐしながら、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、よく冷えたそれを直接呷った。
 口から食道に、そして胃に落ちていく冷たい感触は彼の好むところだ。
 アルコールはいけない。あの灼熱感は人の理性を奪い取り、正常な思考を妨げる。熱せられた思考を強制する。
 熱せられた思考は、隙だ。
 隙を見せれば、食われる。この自分が、餌と成り果てる。
 そういう世界だ、ここは。
 一息ついたテルミンは、ベッドの端に腰掛けた。
 大柄な彼の体重に抗議するように、ベッドが大きく軋み声をあげた。
 目の前に、大きなスクリーンがある。何も写さず、真っ黒だ。
 テルミンはサイドボードの上のリモコンを取り、映像装置の電源を入れた。
 画面に、薄暗い部屋が映し出された。
 石造りの頑丈そうな造り。全体的にじめじめとしていて、石壁の所々に苔がむしている。
 照明と呼べるものは、壁に設えられた燭台に、蝋燭が立てられているだけだ。その弱々しい火が、時折吹き込む風にゆらゆらと揺れている。
 テルミンは、画面に写されている場所がいずこか、知っていた。何せ、その部屋を映すためのカメラを、秘密裏に設置したのは彼自身なのだから。
 うす暗く陰気なその部屋は、この城の地下室の一つだ。ルパートは教育部屋と呼んでいたか。
 中世の城の地下室といえば、もともと公明正大な目的のために作られたものではありえない。この城を建てた人間だって、何のためにその部屋を作ったのかあやしいものである。
 しかし、今ほど凄惨な目的のために作ったであろうか。
 そこには、少女が写されていた。それも、年端もいかない少女だ。
 長い黒髪が、腰まで届いている。瞳は黒く、利発で意志の強そうな顔立ちである。
 どこかに、くだんの少女の面影がある、少女だ。
 そして、無惨な姿だった。
 両手を鎖で縛り上げられ、天井から吊されている。爪先は床に届くことはなく、ぶらぶらと、精肉される前の肉の塊のように宙を揺れている。
 局所を隠す頼りない下着以外、何も身につけていない。その姿を望んだのが彼女ではないことくらい、誰が見ても明らかであった。
 縛り上げられた手首は鬱血し、赤黒く染まっている。反対に、その整った顔立ちからは血の気が引き、哀れを誘うほどに真っ青になっている。

『痛い!下ろしてよ!どこよ、ここは!?帰してよ、わたしを家に帰して!』

 怯えの色濃い表情に精一杯の虚勢を張りながら、自分の正面に立った男に対して叫び声をあげている。
 彼女の正面に立った人間に、テルミンは見覚えがあった。
 先ほどまで、自分と話をしていた青年だ。
 名前を、ルパート・レイノルズという。
 テルミンの顔が、苦笑に歪む。

「いやいや、お盛んなのは結構なことですが、明日まで待つこともできないのですか」

 明日になれば、彼が恋い焦がれていたあの少女を、思う様にいたぶることができるのに。
 今日は、その少女に似た、別の少女を生け贄に定めたらしい。
 テルミンは、少女と何事かを話している。集音マイクを備えない隠しカメラでは会話の内容までは拾えないが、少女の表情が凍り付いた瞬間だけはテルミンにもわかった。
 そして、その少女を挟むように二人の男が現れた。
 少女と比べれば猛獣としか形容しようのない、屈強な男であった。表情を隠すための覆面をかぶり、手には鞣し革で作られた懲罰用の鞭を携えている。きっとその覆面の下には、堪えきれない悦びに歪んだ醜い顔が隠されているのだろう。
 少女の青ざめた顔から、いっそう血の気が引いていく。一度だって日の光に当たったことのないような美しい肌が、蝋人形じみた不健康な白さで染まった。
 少女が、口を開こうとした。
 だが、その口は意味のある言葉を発することは出来なかった。
 あまりにも無防備な少女めがけて、思い切り鞭が振り下ろされたからだ。
 耳をふさぎたくなるような、肉を打つ音が響く。
 それに少し遅れて、少女の細い喉から、叫び声と聞き間違うほどの悲鳴が放たれた。

『ぎゃんっ!?』

 少女の体が、電気を通されたように跳ね回る。少女を吊した無骨な鎖が、ぎちぎちと、不快な音を立てる。
 少女の白い肌に、二筋、赤黒い線が走っていた。一本は背中を縦に割るように、もう一本はわき腹をえぐるように。
 黒い瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が流れ落ちる。苦痛と、屈辱と、いわれない暴力を振るわれる理不尽さが流させる涙だった。

『どうしてよ……どうして、わたしがこんな目に……たすけて……おとうさん、おかあさ──』

 再び振るわれる無慈悲な鞭が、少女の言葉を遮った。
 先ほどの映像を再生するように肉の弾ける音が響き、

『いぎぃやああぁぁいたいいたいやめてやめてぇええぇ!』

 立て続けに振り下ろされる鞭に合わせながら、調子の狂った悲鳴が響く。
 美しい少女の声とは思えない、地の底から響くような叫び声だ。
 ルパートの狂笑が、少女の悲鳴に重なる。この世に、これほど狂った二重奏があるだろうか。
 感極まった様子のルパートが、拷問役の男から鞭を奪い取り、自分で少女を嬲り始めた。
 鼻歌を口ずさみながら鞭を振るい、優しく少女に語りかけながら鞭を振るった。
 目を血走らせ、涎をだらしなく垂れ流しながら、しかし天上の至福に体を震わして。
 彼が一切の手加減なく鞭を振るう度に少女の悲鳴が響き、それが段々と弱々しいものに変わっていく。
 きっと彼女は、自分が今、悪夢の中にいると思っているのだろう。それは決して間違いではない。悪夢とは、往々にして目を開けている間に見るものほど、悲惨になるものだ。
 程なくして少女の柔肌は、一面赤黒く腫れ上がり、すぐに裂けた。
 皮が弾け、血が飛び散り、桃色の肉が覗く。
 それでもルパートは鞭を振るい続けた。少女が泡を吹いて失神し、痙攣しながら糞小便を垂れ流しても、止めようとしなかった。
 少女は、あるいは幸せだったのだろうか。腐臭漂うこの教育部屋に連れて来られた最初の日に、天上へと旅立つことができたのだ。長く幽閉され、ルパートの欲望に晒され続けている少女達からすれば、羨望に値したかも知れない。
 やがてルパートは少女の身体を下ろし、その上にのしかかった。
 アイザック・テルミンは深い愉悦を湛えた表情で、画面に写るルパートの狂態を眺めている。
 くつくつと、テルミンは笑った。

「ルパート君の高尚な趣味も、なかなか悪いものではありませんが……これは、やはり眉を顰める人の方が多いのでしょうねぇ」

 テルミン自身に、嫌がる女性、しかも年端もいかない少女を痛めつけて性的興奮を得る趣味は全くない。まして、その死体を抱くなど嫌悪に値する行為だ。
 ただ、このように無意味なことをして悦に入る、ルパートという人間の人格を楽しんでいただけだ。
 画面に写された少女は、魂の失われた視線で、じっと天井を見つめている。彼女の身体はルパートに組み敷かれ固い石床に押しつけられているが、抗議の声はおろか、苦痛の呻き声を漏らすこともない。
 もう、息をすることもない。
 ただ、ごりごりと、前後に揺さぶられている。
 ルパートがその欲望を吐き出した後は、野獣の餌になるか、それとも城の近くの湖に打ち捨てられるのか。
 どちらにせよ、少女の死体は誰に弔われるわけでもなく、大いなる自然の循環の中に返されるのだ。ある意味では、もっともヴェロニカ教に相応しい埋葬方法なのかも知れないが。
 特殊な性癖のある人間以外の、哀れと怒りを誘うに十分過ぎる光景だった。

「いいですねぇ。あの少女も、これと同じ、いや、もっと凄惨な目に遭って頂かなくては」

 にこやかに細められた視線は、無惨な少女の死体と狂った青年の交わりではなく、もっと別のものを眺めていた。
 その視線の先にあるものは、彼自身の栄達した未来と、祖国の栄光あふれる様子だった。


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