大関の面目はどこに行ったのかと、厳しい評言をたたきつけたいような三番が、続けて土俵上に展開されたと思って見ていたところ、一転して結びの一番、白鵬の登場となった。これが味気ないほどの内容を見せつけるもので、いかに大関と横綱の違いだといっても、こんなに差があっても良いのかと暗然とするばかりであった。
この結びの一番に先行した三番が、波瀾(はらん)万丈の意外性に富んでいたものだっただけに、荒れが後を引きはしないかと、半ば案じていたし、先行三番で、際どい相撲もタネ切れになっただろうと、安心して見ていられるという、そこそこの矛盾したものと、両者を抱えながら、横綱の一番を見た。
だが、見た結果は月並みな極みといっても良いものであって、白鵬の強さをどう表現したら良いのかと、選ぶ言葉に迷うほどのものだということに尽きている。
この横綱は残す成績を、日一日と上質のものに変えていく独質の習性があって、本場所の間にも、この脱皮と向上志向を持ち続けている。言ってみれば、昨日の白鵬と今日の白鵬を違うと相手に感じさせることを、至上の命令として自分に課しているのかと思うことがある。
だから、当然、立ち止まることも少ない。そういった境地のことかと思える例が、十一日目の阿覧戦にあった。立つなり右差しを狙うことは、特に変わったことだとは言えない。そのことに少々付け加えれば、今場所は右に頼って相手を崩しにかかることが多いということだろうか。だから、白鵬にとっての右差しはルーティン・ワーク(常習の攻め)と言えるものなのだ。
だが、阿覧戦では、そのルーティン・ワークに少々付け加えられたものがあったように思えた。
と言っても、右差しが左に変わるわけではない。単にスピードの問題なのだ。その最初の当たりに、白鵬は向こう側に突き抜けるような勢いをこめていた。これは、恐らく、場所も終盤近くなって、今場所の予想できる相手の相撲をじっくり見た上で、確信を持ってこの変化に踏みきったものだろう。
嫌みを言うようだが、昨日と今日と相撲の中身が違っている力士など、白鵬以外にない。だから表現に困るとの意味のことを書いた通り、なかなか白鵬にも追いつく力士が出てこない道理なのだ。
魁皇の逆とったり、白馬が琴欧洲の腕をとって引き回した一番、把瑠都をものの見事に倒した鶴竜の外掛け、勝ち相撲として見事なのだが、大関が大技に頼る傾向があるのは果たしてどうなのだろう。 (作家)
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