部落解放同盟・組坂繁之委員長に聞く差別問題と解放運動の本質がわかる本
サイゾー 9月21日(火)18時55分配信
部落解放同盟──部落差別の解放運動を展開する全国組織だが、かつての同団体による激しい糾弾活動がマスコミなどからは恐れられ、部落問題に言及すること自体が、いつからかタブー視されていった。しかし、そんな事なかれ主義は、差別をなくすことにはつながらないのではないか?そこで今回は、差別解消に役立ち、部落問題を理解するための本を、解放運動のリーダーである、部落解放同盟中央本部・中央執行委員長の組坂繁之氏に挙げてもらった。
──まずは、「これを読むと部落問題がよくわかる」というお勧めの本を教えていただけますか?
組坂 ひとつは高山文彦さんの『水平記 松本治一郎と部落解放運動の100年』です。この本は、取材や資料を駆使して、「解放の父」と呼ばれ、部落解放同盟の初代中央執行委員長を務めた松本治一郎先生の人生を描ききった秀作です。そもそも部落問題とはどういうもので、戦前戦後を通じた解放運動がいかに展開されたかが具体的に描かれており、高山さんの文章も魅力的で一気に読み進めることができるはずです。また、解放同盟中央本部が編纂した『松本治一郎伝』(解放出版社/87年)や松本先生の愛弟子であり、私の直接の師匠でもあった上杉佐一郎先生(元解放同盟中央執行委員長)の『上杉佐一郎伝』などは400ページ前後ある分厚い評伝ですが、読んでいただくと非常に参考になると思います。ほかには、戦前からの活動家で2代目の中央執行委員長になった朝田善之助さんの『差別と闘いつづけて』。これは、戦前の強烈な弾圧の時代から、戦後、行政当局の部落問題に対する姿勢が変わっていく姿を描いており、解放運動とは何を目指すものかということを知る上で参考になる本です。それと本にはなっていませんが、ぜひ読んでいただきたいのが水平社宣言ですね。大正11年に解放同盟の前身である全国水平社が創立された際、部落出身者自らの手で解放を勝ちとることを宣言した文章で、まさに我々の原点です。この水平社宣言を受けて書かれた、全国同和教育研究協議会委員長の西口敏夫先生の『詩集・水平社宣言讃歌』(奈良県部落解放研究会/71年)や、部落史研究を行い、同和問題の解決に尽した大阪市立大学名誉教授の原田伴彦先生の『被差別部落の歴史』(朝日新聞社/73年)もお勧めです。まずは、こうした古典から当たっていただくといいと思います。
──文学作品ではどうでしょうか?
組坂 野間宏先生の『青年の環』でしょうね。これは、日中戦争下の大阪が舞台で、市役所で部落更生事業に取り組む青年と、政治運動から脱落した青年の2人の主人公が、政治や社会、周囲の人間関係を通して体験する部落問題の根深さが描かれています。それから私自身が青年時代に特に感銘を受けたのが、井上光晴先生の『地の群れ』。長崎の被爆者が群れ住む場所を舞台に、被爆者と部落民と在日朝鮮人が、互いに自分より弱いと思える立場の人を差別して己を慰めていくという人間の不条理なメンタリティを描いています。この作品に込められたメッセージは、「追い詰められても差別から逃げるな」ということだと、井上先生の講演で聞いたことがありますね。井上先生の著作ではほかに、太平洋戦争中、特攻隊で死んでいく部落の青年と弟の書簡のやり取りを描いた『死者の時』(中央公論社/60年)なども良い作品ですね。解放新聞の編集長をやっていた土方鉄という作家の『地下茎』も興味深い。これは部落出身者でなければ描けない、部落の内側を描いた作品です。私はほかにもいろいろと読んでいますが、多くの人が読んで勉強になるのは、このへんではないでしょうか。
──今年の大宅壮一ノンフィクション賞に上原善広さんの『日本の路地を旅する』が選ばれました。全国の部落を旅した模様をまとめた同作についての感想はありますか?
組坂 すべては読んでいないのですが、ルポとして淡々と書かれており、そこがいいなと思いました。中上健次さんが「路地」と言ったのは部落だけではないみたいですが、上原さんは部落を中心にその実情を描いている。出版界が触れたがらなかったテーマについて、大宅賞という評価を与えたことも意義深いと思います。
■足を踏まれてわかった差別表現がもたらす「痛み」
──逆に、差別を助長するような作品もあったかと思います。
組坂 過去は結構多かったですね。例えば、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』(文藝春秋/63年)の中では、「馬鹿野郎」に「ちょうりんぼう」とルビを振ったんですね。これは問題になり、上杉先生がまだ書記長時代だったんですが、少人数で糾弾をやりました。すると司馬さんもさすがですね。「間違いだった」と反省され、「自分は作家だから作品で自己検証して、この過ちを越えていきたい」と言われて書かれたのが『胡蝶の夢』です。これは江戸幕府の奥御医師の蘭学者・松本良順の話ですが、良順は徳川慶喜の脈をとりながら、部落の頭であった弾左衛門の脈をとるんですよ。江戸時代の身分制度ではありえない話です。ところが良順は、医術の前では身分の違いなんて関係ないとやるわけです。部落問題を真正面から描ききったとはいえませんが、司馬さんの差別表現を乗り越えていこうとする姿勢は、意義があるものだと思います。
──差別表現に対する糾弾活動は、活字以外にも及んできたと思います。
組坂 有名なところでは、玉置宏さんが73年に「私の子どもたちは絶対芸能界に入れたくない。ここは特殊部落です」とおっしゃった発言があり、それに対して糾弾を行いました。彼は「特別な集団」みたいな意味で何げなしに使ったのでしょうが、この言葉には歴史性があります。明治4年に解放令が出て、それまでの徳川幕藩体制時代で使われていた穢多村という呼称が使えなくなったんです。しかし、この解放令は実態を伴わず、その後も被差別部落は変わらず存続した。そこで旧内務省警保局が考え出したのが、特殊部落という呼称です。そして、「一般部落」に対して「特殊部落」と称したことにより、言葉だけが独り歩きして、大変な誤解と偏見、そして差別を生んでいったという歴史があるんです。そうした言葉が、なにかおどろおどろしい人が住んでいる場所というイメージを与え、差別を再生産していくということになる。玉置さんも単に「芸能界は特殊なところですよ」と言えば何の問題もなかったのです。でも、特殊部落と言ってしまうと、全国6000近くある被差別部落の周辺に住んでいる人たちの中には、「玉置さんの言っているのは、あいつらのことか」と、差別を拡大させていく状況が生まれてくるんです。
──糾弾とは、差別者を攻撃するものではなく、結果的に差別に加担してしまう人に対して、そのことを理解してもらう行為であると。
組坂 そうです。理解してもらうためには、強く出ることが必要なときもあります。例えば、篠田正浩監督は、映画『無頼漢』(70年公開)という作品の中で、河内山宗俊が啖呵を切るときに「江戸市中の穢多や非人を引き連れて」というセリフを挿入しようとしていました。江戸時代にそのような表現が使われたことは歴史的事実かもしれませんが、70年代は今よりも部落問題に対する社会全体での認識が低かったので、「そのような表現は差別を助長する」と修正を求めたのですが、篠田監督はそれを拒否した。結局、丁々発止になって、ご存命だった全国水平社の元書記長・井元麟之先生が篠田監督の足を突然バンッと踏んで、「わかりますか? 踏まれたらわかるでしょ。我々が言っているのはこういうことなんです」とやったんですね。
──表現の自由うんぬんといった問題ではなく、そのことで痛みを覚えている人がいることを感覚的にわかってほしいということですか?
組坂 ええ。言葉ひとつで傷つく人がたくさんいるのです。もちろん、これは暴力などではありません。足を踏んだ側に悪意があろうがなかろうが、踏まれた側は理屈抜きで痛いということをわかってほしい。篠田監督は、足を踏まれて、そのことに気づいてくれたんです。当時の文化人などは、部落出身ゆえに結婚を断念させられて自殺する人や、就職ができなくて人生を棒に振るような人がたくさんいたという差別の実態についてあまりにも無知だった。自分たちの表現ひとつに、身を引き裂かれそうな苦痛を感じる人々がいることを知るべきなんです。だから、激しく厳しく糾弾しなければならなかったんです。
──ただし、そういった激しい糾弾が、マスコミの中に「部落に関する表現はタブー」という感覚を生み出してしまった部分はあるのではないでしょうか?
組坂 そういった側面はありました。例えば、ちあきなおみさんの「四つのお願い」(70年4月発売)という歌は、意味が違うが「四つ」という表現を含むので、解放同盟から糾弾を受けるからテレビやラジオでは流さないという話が広まりましたが、あれはまったくのデマです。「竹田の子守唄」(京都府の被差別部落に伝えられた民謡)に関しても、同じような話が広まりましたが、あの曲は、非常に良い歌ですよ。それなのに、解放同盟からクレームがついたら困るということで一方的に流すことを自主規制した。これはおかしい。我々が求めているのは、事なかれ主義による過剰な自主規制などではなく、差別をなくすというしっかりとした認識の下、部落問題に取り組んでいくという姿勢なんです。
■糾弾学習会は最高の教育の場にするべき
──最近のマスコミ関係者の間では、"糾弾活動は怖い""解放同盟は面倒臭い"というイメージだけが独り歩きしているように思うのですが。
組坂 繰り返しになりますが、メディア関係者や文化人など、多くの人に影響を与える立場にいる人には、正しい知識を持ってもらいたいのです。よく話す例なんですが、『イソップ物語』【9】に「少年とカエル」というのがあるんです。少年がカエルに石を投げつけて遊んでいるんです。そこで、カエルが言います。「坊ちゃん、あなたにとっては遊びの石でも、私にとっては命にかかわる問題」と。それと一緒で、穢多とか四つとか口にすることは、部落外の人にしたら大したことじゃないかもしれませんが、言われる部落の人間にとっては心臓を一突きされる思いがするんです。そして、そのことが子どもたちや孫の代まで続くかもしれない。だからなんとか差別を断ちたい。その思いが、血の叫びとなって強い言葉として出るんです。糾弾学習会というのは、本来お互いに学び合う場です。糾弾学習会が恐怖の場で終わってはいけない。最高の教育の場にすることが、本当の意味での糾弾学習会です。以前は、大勢に囲まれて批判されるという現象だけをとらえて、恐怖と感じた人もいるかもしれませんが、今は上杉委員長時代に定めた糾弾闘争の方針を受けて、時間も場所も人数もきちっと決めて、必要であればマスコミに入ってもらっても結構ですという、社会性、公開性のある場になっているはずです。
──委員長自身は、なるべくインタビューや講演などに出られるように意識されてはいるのでしょうか?
組坂 そうですね。やっぱり、解放同盟の委員長といったら、極道の親分のような怖い人物だと誤解されている(笑)。そんな怖い団体ではないですよ、もっと皆さんと交流を持ちたいんですよ、ということを多くの人に知ってもらうのも大事だなと思っております。やはり、国民的な世論の後押しがなければ、差別をなくすことができませんから。
──同和教育のあり方については、どうお考えでしょうか?
組坂 部落問題にしろ、アイヌなどの民族問題にしても、差別については、学校教育で正しく教えることが必要です。人権教育・啓発推進法ができて今年で10年になりますが、これを受けて、部落問題を中心とした、さまざまな差別をなくすための教育や啓発をやるべきだという基本計画を国が作った。だけど、その基本計画の実施には地域差がかなりある。解放運動や同和教育が弱いところは、人権教育の注力具合も弱い。やはり、学校教育は大事ですね。それと家庭ですね。日本にあるさまざまな差別について、ご両親が、子どもが小学校4〜5年のちょうど社会に目が開くときに正しく教えていく。そうすれば、めちゃくちゃなまでに人を差別することはないと思います。
──これはよくいわれることかもしれませんが、「世代が進むにつれて、自然と部落問題はなくなるものだ。あえて寝た子を起こすような教育をする必要はない」と考える方もいると思います。
組坂 過去に同和対策事業特別措置法(以下、事業法)に基づく同和行政に依存した不祥事がいくつかありました。あのときは、解放同盟に対する批判も相次ぎました。事業法の存在は、松本治一郎先生もご心配されましたし、上杉委員長も晩年、「事業法はもういらない、続ければ利権問題が蔓延する、これからは人権教育、啓発、救済に力を注ぎなさい」とおっしゃいました。ただ同時に、事業法によって惨憺たる状況だった被差別部落が解放されたという面があるんです。例えば、奨学金制度によって高校への進学率が飛躍的に上昇し、大学進学も若干増えてきた。そういう人たちが教師になったり、公務員になったり、保育士になったりして、安定した仕事ができるようになった。昔は仕事がないから刹那的だった雰囲気が、長期的な人生の設計を立てられるようになり、部落の雰囲気が変わった。そうすると、部落の周辺に住む人たちの見る目が変わってきました。事業法を通して周辺地域と一緒に環境改善や教育条件の整備に取り組んでいく、そういうプラス面もあるんです。それから日本全国での人権意識の底上げが図られたとも思います。ところが、近年出版されたいくつかの本のように、同和対策事業にかなりの公金が投入され、そこに利権が生まれ、腐敗、不正の温床になっているという点ばかりを強調されますと、初めて部落問題に接した人の目は歪みます。これらの本に限らず、ネットなどでも、誤ったり、偏ったりした情報は今も流れ続けています。そういう状況がある限り、人権・同和教育の中で、部落問題について正しく教え、真実を見抜く力を国民につけてもらうことは大切です。今日の格差社会を見たとき、弱い者が弱い者を傷つけていると思います。江戸時代の徳川幕藩体制が行った部落差別政策、つまり人民が互いにいがみ合いをする差別・分裂政策と同じような状況になっているように感じます。こんな時だからこそ部落の歴史に学んだり、人権・同和教育を実施したりすることが必要です。寝た子を起こすなというのは間違いだと思います。例えば、突然、部落出身者との結婚問題に直面したときなどに、寝た子は必ず起きるんです。その時に正しく学んでおけば、親も説得できる。ところが学んでいなかったら、同調してしまって差別をしてしまう。そういう意味では、正しく起こして、正しく学ぶというのが大事だと思います。
(文/編集部+本多カツヒロ)
組坂繁之(くみさか・しげゆき)
1943年、福岡県生まれ。大学卒業後、27歳で部落解放運動に加わる。部落解放同盟福岡県連合会書記長、中央本部・中央書記長を経て、98年に中央本部・中央執行委員長に就任。著書に『対論 部落問題』(高山文彦氏との共著/平凡社新書)がある。
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──文学作品ではどうでしょうか?
組坂 野間宏先生の『青年の環』でしょうね。これは、日中戦争下の大阪が舞台で、市役所で部落更生事業に取り組む青年と、政治運動から脱落した青年の2人の主人公が、政治や社会、周囲の人間関係を通して体験する部落問題の根深さが描かれています。それから私自身が青年時代に特に感銘を受けたのが、井上光晴先生の『地の群れ』。長崎の被爆者が群れ住む場所を舞台に、被爆者と部落民と在日朝鮮人が、互いに自分より弱いと思える立場の人を差別して己を慰めていくという人間の不条理なメンタリティを描いています。この作品に込められたメッセージは、「追い詰められても差別から逃げるな」ということだと、井上先生の講演で聞いたことがありますね。井上先生の著作ではほかに、太平洋戦争中、特攻隊で死んでいく部落の青年と弟の書簡のやり取りを描いた『死者の時』(中央公論社/60年)なども良い作品ですね。解放新聞の編集長をやっていた土方鉄という作家の『地下茎』も興味深い。これは部落出身者でなければ描けない、部落の内側を描いた作品です。私はほかにもいろいろと読んでいますが、多くの人が読んで勉強になるのは、このへんではないでしょうか。
──今年の大宅壮一ノンフィクション賞に上原善広さんの『日本の路地を旅する』が選ばれました。全国の部落を旅した模様をまとめた同作についての感想はありますか?
組坂 すべては読んでいないのですが、ルポとして淡々と書かれており、そこがいいなと思いました。中上健次さんが「路地」と言ったのは部落だけではないみたいですが、上原さんは部落を中心にその実情を描いている。出版界が触れたがらなかったテーマについて、大宅賞という評価を与えたことも意義深いと思います。
■足を踏まれてわかった差別表現がもたらす「痛み」
──逆に、差別を助長するような作品もあったかと思います。
組坂 過去は結構多かったですね。例えば、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』(文藝春秋/63年)の中では、「馬鹿野郎」に「ちょうりんぼう」とルビを振ったんですね。これは問題になり、上杉先生がまだ書記長時代だったんですが、少人数で糾弾をやりました。すると司馬さんもさすがですね。「間違いだった」と反省され、「自分は作家だから作品で自己検証して、この過ちを越えていきたい」と言われて書かれたのが『胡蝶の夢』です。これは江戸幕府の奥御医師の蘭学者・松本良順の話ですが、良順は徳川慶喜の脈をとりながら、部落の頭であった弾左衛門の脈をとるんですよ。江戸時代の身分制度ではありえない話です。ところが良順は、医術の前では身分の違いなんて関係ないとやるわけです。部落問題を真正面から描ききったとはいえませんが、司馬さんの差別表現を乗り越えていこうとする姿勢は、意義があるものだと思います。
──差別表現に対する糾弾活動は、活字以外にも及んできたと思います。
組坂 有名なところでは、玉置宏さんが73年に「私の子どもたちは絶対芸能界に入れたくない。ここは特殊部落です」とおっしゃった発言があり、それに対して糾弾を行いました。彼は「特別な集団」みたいな意味で何げなしに使ったのでしょうが、この言葉には歴史性があります。明治4年に解放令が出て、それまでの徳川幕藩体制時代で使われていた穢多村という呼称が使えなくなったんです。しかし、この解放令は実態を伴わず、その後も被差別部落は変わらず存続した。そこで旧内務省警保局が考え出したのが、特殊部落という呼称です。そして、「一般部落」に対して「特殊部落」と称したことにより、言葉だけが独り歩きして、大変な誤解と偏見、そして差別を生んでいったという歴史があるんです。そうした言葉が、なにかおどろおどろしい人が住んでいる場所というイメージを与え、差別を再生産していくということになる。玉置さんも単に「芸能界は特殊なところですよ」と言えば何の問題もなかったのです。でも、特殊部落と言ってしまうと、全国6000近くある被差別部落の周辺に住んでいる人たちの中には、「玉置さんの言っているのは、あいつらのことか」と、差別を拡大させていく状況が生まれてくるんです。
──糾弾とは、差別者を攻撃するものではなく、結果的に差別に加担してしまう人に対して、そのことを理解してもらう行為であると。
組坂 そうです。理解してもらうためには、強く出ることが必要なときもあります。例えば、篠田正浩監督は、映画『無頼漢』(70年公開)という作品の中で、河内山宗俊が啖呵を切るときに「江戸市中の穢多や非人を引き連れて」というセリフを挿入しようとしていました。江戸時代にそのような表現が使われたことは歴史的事実かもしれませんが、70年代は今よりも部落問題に対する社会全体での認識が低かったので、「そのような表現は差別を助長する」と修正を求めたのですが、篠田監督はそれを拒否した。結局、丁々発止になって、ご存命だった全国水平社の元書記長・井元麟之先生が篠田監督の足を突然バンッと踏んで、「わかりますか? 踏まれたらわかるでしょ。我々が言っているのはこういうことなんです」とやったんですね。
──表現の自由うんぬんといった問題ではなく、そのことで痛みを覚えている人がいることを感覚的にわかってほしいということですか?
組坂 ええ。言葉ひとつで傷つく人がたくさんいるのです。もちろん、これは暴力などではありません。足を踏んだ側に悪意があろうがなかろうが、踏まれた側は理屈抜きで痛いということをわかってほしい。篠田監督は、足を踏まれて、そのことに気づいてくれたんです。当時の文化人などは、部落出身ゆえに結婚を断念させられて自殺する人や、就職ができなくて人生を棒に振るような人がたくさんいたという差別の実態についてあまりにも無知だった。自分たちの表現ひとつに、身を引き裂かれそうな苦痛を感じる人々がいることを知るべきなんです。だから、激しく厳しく糾弾しなければならなかったんです。
──ただし、そういった激しい糾弾が、マスコミの中に「部落に関する表現はタブー」という感覚を生み出してしまった部分はあるのではないでしょうか?
組坂 そういった側面はありました。例えば、ちあきなおみさんの「四つのお願い」(70年4月発売)という歌は、意味が違うが「四つ」という表現を含むので、解放同盟から糾弾を受けるからテレビやラジオでは流さないという話が広まりましたが、あれはまったくのデマです。「竹田の子守唄」(京都府の被差別部落に伝えられた民謡)に関しても、同じような話が広まりましたが、あの曲は、非常に良い歌ですよ。それなのに、解放同盟からクレームがついたら困るということで一方的に流すことを自主規制した。これはおかしい。我々が求めているのは、事なかれ主義による過剰な自主規制などではなく、差別をなくすというしっかりとした認識の下、部落問題に取り組んでいくという姿勢なんです。
■糾弾学習会は最高の教育の場にするべき
──最近のマスコミ関係者の間では、"糾弾活動は怖い""解放同盟は面倒臭い"というイメージだけが独り歩きしているように思うのですが。
組坂 繰り返しになりますが、メディア関係者や文化人など、多くの人に影響を与える立場にいる人には、正しい知識を持ってもらいたいのです。よく話す例なんですが、『イソップ物語』【9】に「少年とカエル」というのがあるんです。少年がカエルに石を投げつけて遊んでいるんです。そこで、カエルが言います。「坊ちゃん、あなたにとっては遊びの石でも、私にとっては命にかかわる問題」と。それと一緒で、穢多とか四つとか口にすることは、部落外の人にしたら大したことじゃないかもしれませんが、言われる部落の人間にとっては心臓を一突きされる思いがするんです。そして、そのことが子どもたちや孫の代まで続くかもしれない。だからなんとか差別を断ちたい。その思いが、血の叫びとなって強い言葉として出るんです。糾弾学習会というのは、本来お互いに学び合う場です。糾弾学習会が恐怖の場で終わってはいけない。最高の教育の場にすることが、本当の意味での糾弾学習会です。以前は、大勢に囲まれて批判されるという現象だけをとらえて、恐怖と感じた人もいるかもしれませんが、今は上杉委員長時代に定めた糾弾闘争の方針を受けて、時間も場所も人数もきちっと決めて、必要であればマスコミに入ってもらっても結構ですという、社会性、公開性のある場になっているはずです。
──委員長自身は、なるべくインタビューや講演などに出られるように意識されてはいるのでしょうか?
組坂 そうですね。やっぱり、解放同盟の委員長といったら、極道の親分のような怖い人物だと誤解されている(笑)。そんな怖い団体ではないですよ、もっと皆さんと交流を持ちたいんですよ、ということを多くの人に知ってもらうのも大事だなと思っております。やはり、国民的な世論の後押しがなければ、差別をなくすことができませんから。
──同和教育のあり方については、どうお考えでしょうか?
組坂 部落問題にしろ、アイヌなどの民族問題にしても、差別については、学校教育で正しく教えることが必要です。人権教育・啓発推進法ができて今年で10年になりますが、これを受けて、部落問題を中心とした、さまざまな差別をなくすための教育や啓発をやるべきだという基本計画を国が作った。だけど、その基本計画の実施には地域差がかなりある。解放運動や同和教育が弱いところは、人権教育の注力具合も弱い。やはり、学校教育は大事ですね。それと家庭ですね。日本にあるさまざまな差別について、ご両親が、子どもが小学校4〜5年のちょうど社会に目が開くときに正しく教えていく。そうすれば、めちゃくちゃなまでに人を差別することはないと思います。
──これはよくいわれることかもしれませんが、「世代が進むにつれて、自然と部落問題はなくなるものだ。あえて寝た子を起こすような教育をする必要はない」と考える方もいると思います。
組坂 過去に同和対策事業特別措置法(以下、事業法)に基づく同和行政に依存した不祥事がいくつかありました。あのときは、解放同盟に対する批判も相次ぎました。事業法の存在は、松本治一郎先生もご心配されましたし、上杉委員長も晩年、「事業法はもういらない、続ければ利権問題が蔓延する、これからは人権教育、啓発、救済に力を注ぎなさい」とおっしゃいました。ただ同時に、事業法によって惨憺たる状況だった被差別部落が解放されたという面があるんです。例えば、奨学金制度によって高校への進学率が飛躍的に上昇し、大学進学も若干増えてきた。そういう人たちが教師になったり、公務員になったり、保育士になったりして、安定した仕事ができるようになった。昔は仕事がないから刹那的だった雰囲気が、長期的な人生の設計を立てられるようになり、部落の雰囲気が変わった。そうすると、部落の周辺に住む人たちの見る目が変わってきました。事業法を通して周辺地域と一緒に環境改善や教育条件の整備に取り組んでいく、そういうプラス面もあるんです。それから日本全国での人権意識の底上げが図られたとも思います。ところが、近年出版されたいくつかの本のように、同和対策事業にかなりの公金が投入され、そこに利権が生まれ、腐敗、不正の温床になっているという点ばかりを強調されますと、初めて部落問題に接した人の目は歪みます。これらの本に限らず、ネットなどでも、誤ったり、偏ったりした情報は今も流れ続けています。そういう状況がある限り、人権・同和教育の中で、部落問題について正しく教え、真実を見抜く力を国民につけてもらうことは大切です。今日の格差社会を見たとき、弱い者が弱い者を傷つけていると思います。江戸時代の徳川幕藩体制が行った部落差別政策、つまり人民が互いにいがみ合いをする差別・分裂政策と同じような状況になっているように感じます。こんな時だからこそ部落の歴史に学んだり、人権・同和教育を実施したりすることが必要です。寝た子を起こすなというのは間違いだと思います。例えば、突然、部落出身者との結婚問題に直面したときなどに、寝た子は必ず起きるんです。その時に正しく学んでおけば、親も説得できる。ところが学んでいなかったら、同調してしまって差別をしてしまう。そういう意味では、正しく起こして、正しく学ぶというのが大事だと思います。
(文/編集部+本多カツヒロ)
組坂繁之(くみさか・しげゆき)
1943年、福岡県生まれ。大学卒業後、27歳で部落解放運動に加わる。部落解放同盟福岡県連合会書記長、中央本部・中央書記長を経て、98年に中央本部・中央執行委員長に就任。著書に『対論 部落問題』(高山文彦氏との共著/平凡社新書)がある。
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最終更新:9月21日(火)18時55分