古美術店「無尽蔵」事件 (1982)




 1982年8月29日、朝日新聞がスクープを報じた。

 「(三越秘宝展の)47点の秘宝、大半はニセ」

 東京・日本橋の三越デパート本店で8月23日から30日にかけて開催されていた「古代ペルシア秘宝展」。そこに展示されている、「三千年の眠りから蘇った黄金の世界」という触れ込みの全47点、売値総額21億円にのぼる美術品の大半が、真っ赤な偽物だというのである。

 複数の専門家による鑑定結果も報道を裏付けた。例えば「有翼牡牛飾杯」。黄金の杯に、翼のついた牡牛、把手のついた聖なる壺などが浮き彫りにされている。しかし神のための聖なる壺に把手は必要なく、そのような意匠を施された彫刻物はこれまで発見されていない。未発見の新様式の美術品という可能性も無くはないが、それよりも時代考証に無頓着な者が偽造したと考える方が自然であろう。47点の展示品は全てかくの如きお粗末な代物で、ガラスケース越しに一瞥しただけで偽物だと容易にわかるのである。

 報道を受けて三越本店宣伝部長・中平俊雄、同美術長・光永公一、そして秘宝展に展示品を提供した古美術店、国際美術社社長の渡辺力が会見に臨んだ。三越サイドは「自分らは場所を貸しているだけで、真贋は専門家に委ねている」という無責任な逃げ腰の説明に終始したため、記者の質問は「専門家」の渡辺に集中した。しかしその渡辺も、展示品の出所に関しては「企業秘密」として回答を徹底拒否。真贋については、「主に自分の見立てだが、7点については権威ある機関の鑑定書がある」としていたが、後に「権威ある機関」として名を挙げられた「ニューヨーク芸術協会」等の機関は存在しないことが判明する。折しも三越は、剛腕社長の岡田茂とその愛人、竹久みちにまつわるスキャンダルで著しく評判を落としていた矢先であり、本件が最後の一押しとなって岡田社長の電撃解任劇(注1)に向かうことになるが、それはまた別の話である。

 三越に贋作を持ち込んだのはイラン人のサファイ(サカイ)兄弟なる者である。国際的に活躍していた山師的人物で、三越事件が持ち上がった時には既に出国済であった。サファイ兄弟は主として海外から贋作を入手していたようだが、朝日新聞の後日の取材によれば、どうやら一方で日本国内からも贋作を入手していたらしい。その入手先こそが、本事件の舞台となる古美術店「無尽蔵」である。店主の名を長尾泰次といった。

 長尾泰次は骨董業界の異端児であった。身長180センチ、体重80キロという恰幅の良い体型で、髪は丸坊主、服は洒落者。事件当時まだ店を開いて10年程度と業界では新参でありながら、客に一切媚びようとせず、独自の審美眼で客に自説をまくしたてる。いかにも物を買わなそうな客を「貧乏人の臭いがする」と言って追い出したこともあったという。しかも彼はあまり一般的でない性癖を有していた。若いころにホモ・バーを経営していた程の同性愛者だったのだ。

 変わり者として知られていた長尾であったが、ざっくばらんで面倒見の良い性格に好感を抱く人も多く、業界内ではまんざら悪い評判でもなかったようである。それに長尾は自ら絵画も嗜む教養人で、読書をよくし、大言壮語するだけの確かな審美眼も持ち合わせていた。ただ、それゆえに手に入れた古美術品に手を入れることを何とも思っていなかったらしい。「私は客に夢を売る」「ホンモノだろうがニセモノだろうが、買った人がよいと思えばそれでいい」と語る長尾の姿を同業者は記憶している。「無尽蔵」が贋作の出所だという説には大いに説得力があった。

 ニセ秘宝の出所の謎を暴こうと「無尽蔵」に集まった記者達を迎えたのは、同店店員のSという男であった。店員というのは名目で、実際には長尾の「愛人」というのが専らの噂といういわくつきの男である。聞けば長尾は1982年の2月末から行方不明になっており、4月1日に自分が警察に失踪届を出しているのだという。ニセ秘宝の生みの親と目される人物が謎の失踪を遂げていることにマスコミは盛り上がりを見せた。

 しかし世論が大々的に無尽蔵に注目し始めるのはこれからである。Sが逮捕されたのだ。当初の容疑は「無尽蔵」所蔵物及び現金の横領であったが、警察・検察の狙いは別にあった。Sによる長尾殺害容疑である。2月24日、長尾に執拗に肉体関係を求められることに耐えかねたSが要求を拒絶。すると怒った長尾が「将来店を譲る」という約束を翻そうとしたため、思い余ったSは長尾を殺害。その後、死体を店が所有するワゴン車に保管した後、10日後の3月6日、京浜運河に捨てた――というのがその筋書きであった。やがてSも殺害を自白し、事件解決は目前と思われた。

 だが肝心の死体が無い。死体遺棄現場とされる京浜運河からは何も見つからず、しかも長尾が殺害されたとされる1982年2月24日以降、長尾と会った、あるいは話したと主張する証人が5人も現れた。長尾は死んでいるのか生きているのか。殺人なのか失踪なのか。Sも供述を翻して無罪を主張し始め、事件は迷宮入りの様相を呈し始める。「死体なき殺人事件」。――いつしか本件はこう呼ばれるようになった。

 死体すらない殺人容疑の公判の成立を危ぶむ声もあったが、1985年に東京地裁がSに下した判決は懲役13年。検察の主張をほぼ全面的に認めるものであった。Sは上告したが、高裁、最高裁共に棄却され、刑は確定した。

 こうして無尽蔵事件は、法の下においては一応解決した。Sも今は刑期を終えた市井の人である。だが、長尾泰次の行方は今でも明らかではない。殺され、犯人以外は誰も弔うことのできない場所に眠っているのか。それとも世間の目をくらまし、新天地で第二の生を送っているのか。真実がいずれにせよ、「無尽蔵」店主としての長尾泰次は忽然と消え失せてしまった。




【考察】

 死体が無いまま殺人罪が確定、しかし肝心の被害者の行方は未だ不明という変わった事件である。一般には「無尽蔵殺人事件」と呼称されており、長尾は殺されたものと見なされている。私も結論としては概ね同意するが、かといって死体のないまま殺人事件と見なしてしまうのも問題があるのではなかろうか。私は「殺人」の二文字を取って「無尽蔵事件」と呼称したい。

 特異な事件であるが、本件をまとめた著作というのは数少ない。私が今のところ確認できているのは佐藤友之『夢の屍』(立風書房)と『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版)の2冊のみである。しかし後者の無尽蔵事件の項を執筆しているのは『夢の屍』の佐藤友之であるため、実質『夢の屍』が本事件の唯一の参考図書ということになる。当時の新聞記事にも目を通してみたが、ほぼ全ての内容が『夢の屍』に網羅されており、本書を考察に当たっての基本図書と見なしても差し支えはないだろう。

 しかしこの本には欠陥も多い。著者の佐藤は冤罪関係の著作を多数執筆している人物であり、『夢の屍』は一貫してS無罪の立場に立って書かれている。勿論そのこと自体が悪いわけではない。冤罪があってはならないという筆者の真摯な意図はもっともである。だが、冤罪が憎いあまりに論理不当、検察不信、そして真実に対する軽視が随所に散見されるのはいただけない。そのことは以下で詳細に述べるつもりである。

 それでは、無尽蔵事件を巡る謎に考察を加えていくことにしよう。

■ 長尾とSの関係

 まずは長尾とSの関係である。問題となってくるのは、検察が示した殺害理由にもなっている同性愛的な関係の有無であろう。表立って公言するような話ではなく、2人だけの古美術店内での話だけあって、両者の関係がどれほどのものであったかは謎の部分が多い。

 両者ともに同性愛の趣味があったのは間違いない。長尾は若いころホモ・バーを経営していたし、Sも学生のころ似た店でバイトしていた過去がある。Sはその後女性と結婚していることから、それほど同性愛の世界に深入りはしていなかったと推察できるが、長尾は失踪するまで独身であり、その所作にいわゆる「ホモっぽい」所がしばしば見られたということは多くの証言がある。またSは、一店員としては非常に多額の収入を得ており、高額のステレオセットを購入するなど大変羽振りが良かったという。

 以上の事実を考慮すれば、長尾が雇用主の権限と多額の報酬を武器に強く迫り、Sが渋々応じるといった関係であると見るのが妥当であろう。もっとも多少冷えたとはいえ、同性愛的な関係が続いていたのか、あるいは長尾が一方的に執心してSを必死に引き留めていたのか、その辺りの正確なことは誰にもわかるまい。密室の秘事である。ともかく、検察が主張するような同性愛関係は確かにあったとみてよい。

■ 不審点・疑問点

 警察がSを疑ったのは、何も2人が同性愛の関係にあったからだけではない。他の不審点を以下に挙げよう。

(1)当初の嫌疑である、無尽蔵所有財産の横領。長尾失踪後、無尽蔵店内の家具数点を売却しているばかりか、長尾の預金払戻請求書を偽造して銀行に提出して現金11千万円以上を詐取(有印私文書偽造及び行使、並びに詐欺罪)。さらにその金で仏像や大理石レリーフを購入、転売しようとするも、捜査の手が身辺に伸びるに及んだことから、実弟宅に隠匿した。長尾が既に死んでいると確信しているとしか思えない行為である。

(2)長尾が愛用していた猿のペンダントを売却。これもやはり長尾の死を知っていたものと解せる。

(3)失踪届を提出するに当たり、長尾の親族(長尾の家系は長尾を最後に絶えているが、母方の家系である野村家が存続している)に相談せず、その後も失踪について連絡していない。しかも失踪後の7月上旬、長尾の叔父である野村庸一が亡くなり葬儀の通知を受け取った際、「長尾は海外旅行に行っている」と出鱈目な返信をしている。

(4)長尾失踪後、店のワゴン車に動物の腐肉を入れた容器を積んでいた。骨董に味わいをつけるため、との説明であるが、死臭を隠そうとしていたようにも見える。

 箇条書きマジックという言葉がある程で、こうやって列挙するといよいよもって怪しく感じられてしまうものであるが、その効果を差し引いてもSの行動は非常に怪しい。(1)、(2)は、好意的に解釈すれば店主を失った無尽蔵を何とか運営していくための苦し紛れの方策と取れなくもないが、やはり店員の分を超えていると言わざるを得ない。(3)は連絡しないだけならば疎遠な親族だからという言い訳も立とうが、葬式の通知に出鱈目を書いてよこすなどというのは非常識である。(4)に関してはその不審点は論をまたない。骨董のテクニックにそのような手法があるのか、専門家でない私には全く見当もつかないが、仮にあったにせよ、何もわざわざワゴン車の中でやることはないだろう。

 公平を期すため、逆に弁護の余地がある点、つまりSによる長尾殺害の疑問点も同じように列挙してみたい。

(1)「無尽蔵」はビルの2階に位置し、エレベーターは無い。長尾は180センチ、体重80キロの巨漢。人に知られず死体を運ぶのは困難である。

(2)自白によれば、犯行直後、Sは同ビル1階の喫茶店でコーヒーを飲んでいたという。容疑では長尾を撲殺したとされており、血痕が飛び散ってS自身返り血を浴びたのは想像に難くない。そのような状況で喫茶店に足を運ぶだろうか。

(3)死体を積んだままのワゴン車が貸し駐車場に10日間も停めてあったとされるが、あまりに危険である。しかも車の鍵は駐車場に預けていた。

(4)死体を遺棄したとされる京浜運河は水深が浅く、死体が投げこまれてもすぐに見つかると思われる。また遺棄したとされる3月7日は日曜日で釣り人も多くいた。

 これらは確かにS犯行説の難点である。

 ――が、決定的な反証かと言えば、そんなことはないように思える。(1)から(4)まで、どれも通常の人間にとって「ありそうにない」のは間違いない。が、そもそも殺人とは異常な行為である。異常な行為を行った人間のその後の行動を、「ありそうにない」という理由で退けるのは妥当だろうか。殺人の歴史を紐解けば、犯行を終えた殺人者が通常では考えられないような行動を取っていたという例を幾つも見出すことができる。

 (1)は別に不可能ではない。無尽蔵には通常、基本的に長尾とSしかいないのだから、雑居ビルとはいえ人目に触れず死体を運ぶ余地はある。80キロの巨体を運ぶのはなるほど骨が折れるだろうが、死体を切断するなどすれば問題は解決する。(2)に関しては、血を浴びた→平然とお茶を飲む、という流れが違和感を感じるというだけの話であろう。大体、血はすぐに洗えば概ね落ちてしまうし、多少血の痕跡が残っていたところで、面と向かっているわけでもない他人のちょっとした汚れなど、人は無暗に気にとめないものである。(3)にしても、死体が積まれていたと言われるから我々には異常極まりない行動に映るものの、通常、駐車場に停めてある車に死体が積んであるなどとは誰も思うまい。エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」を引き合いに出そうとは思わないが、大胆不敵に見える隠し場所が案外安全だとも言えるのではないか。また店の車はSにとって自分の支配下にあるがゆえに安心できるという側面もあろう。車ではないが自宅に死体を隠し続けたという例は数多く記録されている。(4)はあくまで検察の見込みが京浜運河というだけであり、他の場所に遺棄したという可能性も考慮されるべきである(とはいえ自ら言いだした以上、検察は立証責任を果たすべきではあるが)。

 こういった言説は大変意地が悪く見えるかもしれない。が、(1)から(4)までの疑問点というのは、結局見る人にとっていかようにも受け取れるものでしかない(注2)。死体を運ぶのは重くて難しいから、人を殺した直後に喫茶店に行くのは変だから、車に死体を放置するのは不自然だから、死体は捨ててもすぐに見つかる場所だから――だからSは犯人ではない、というのは論理が成立していない。――だけどSは犯人だ、という可能性もまだまだ残されているのである。

 では、純粋に論理的にSが無罪であることを示す証拠として何が考えられるだろう。「長尾が生きていた」という事実があればこれに勝るものはあるまい。長尾が生きていればSは長尾を殺してはいない。当たり前すぎて書くのが馬鹿馬鹿しい程である。それゆえ被害者生存の可能性があれば、通常、殺人事件としては扱われない。ところが概要でも見たとおり本事件には、長尾が殺されたとされる2月24日以降に、当の長尾の生存を確認したとする証人が5人もいるのである。

■ 5つの証言

 5人の証言が事実ならS犯行説は瓦解するばかりか、そもそも長尾が殺されたかどうかも怪しくなってくる。本事件において最も重要なポイントである。

 一つ一つ検証していきたいが、その前に述べておきたいことがある。佐藤は『夢の屍』及び『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』において、「長尾に会った者が5人いる」という記述を繰り返しているが、この書き方は妥当ではない。

 何故なら、5人の証言者のうち小松茂美(証言2)と久野勇(証言4)は、長尾とは電話で話したとしているに過ぎないからである。電話で話すことを普通、「会う」とは言わない。しかも『夢の屍』には、「久野勇は、竪山、小松についで三番目に長尾を目撃した証人であった」などと書かれている(p170)。一体久野と小松が何を「目撃」したのか。彼らは長尾の声を聞いたと主張しているだけである。そこを無視して一緒くたに「会った」と称するのは、印象操作の誹りを免れないものであると思う。

 長尾と「会った」と見なせるのは片岡一郎(証言1)、堅山壽子(証言3)、佐藤純(証言5)の3人である。だが佐藤は無尽蔵店内にいる長尾らしき人物を一瞥したに過ぎない。また、堅山は11月に2月25日付の領収書を発見して初めて長尾の記憶を思い起こしたのであって、その主張は極めて具体性を欠く。明確に会って口も聞いたと主張しているのは片岡のみである。

証言1 古美術商 片岡一郎の証言

 1982年6月22日、伊東温泉(静岡県)の米若荘という旅館で骨董市が開かれ、その親睦会で長尾さんと会って話をした。時間は午後2時か3時ごろだったと思う。長尾さんとは20年ほど前に客として色々商品を買ってもらい、その後も年賀状のやり取りをしていた間柄である。「景気はどうよ」と聞いたところ、「全然駄目だよ」と返ってきたのを覚えている。真っ白で詰襟、胸に柄のついた変わった服を着ていたのが印象的だった。同行していた古美術商の高橋章という者に「あの人はだれ?」と聞かれたので、「池袋で『無尽蔵』という骨董屋をやっている同業者だよ」と答えている。このことは高橋も裏づけてくれる筈である。

※ 『夢の屍』の記述を筆者が要約。以下同様

 片岡一郎は事件後の長尾と直接会ったと主張している唯一の証人である。『夢の屍』によれば、彼は回顧録執筆のためマメに日誌をつけるのを楽しみにしていたという。従ってその証言はかなり信憑性が高い。また「真っ白で詰襟、胸に柄のついた変わった服」というのも長尾を思わせるし、そのような派手な服装をした骨董商は他に滅多にいないだろう。

 だが疑問もある。最たる疑問は、親睦会という多数が集まる場に長尾が現れたとしているにも関わらず、片岡以外に彼を見かけたという者がいないという点である。「真っ白で詰襟、胸に柄のついた変わった服」という目立つ男について、片岡以外の目撃者が現れないのは何故か。佐藤は警察との関わりを避けたがる骨董業界の習性にその原因を求めているが、かなり無理のある理屈である。変な隠しだてをして危ない橋を渡ることこそ一文の得にもならない。それに親睦会に関わりがあるのは骨董業界人だけではない。旅館の従業員も含まれる。警察も当然旅館に聞き込みを行った筈であるが、結局誰一人として目撃者をつかまえることができなかった。他に目撃者がいないというのは片岡証言に対する重大な反証である。

 片岡によれば、長尾とは20年前に商品売買で接しただけで、その後は年賀状のみのやり取りであったという。他人の見間違いではないか? という疑問は残念ながら払拭できない。

証言2 東京国立博物館 美術課長 小松茂美の証言

 1982年2月26日の昼ごろ、仕事を通じて長年の付き合いがあった長尾さんに、「仕事が終わったら寄りたい」旨の電話をした。「どうぞ、店にいますよ」とのことだったので、午後6時ごろ、妻のマルとその友人の友永マリを連れて店を訪ねてみると、店は閉まっていた。翌日腹を立てて電話すると、Sさんが出て言うには、「昨夜、アジア会館でイラン人古美術商と会っていた。今日は長尾さんはまだ来ていない」とのことであった。それきり長尾さんは行方不明になったので、Sさんに失踪届を出すよう相談した。

 小松茂美は長尾及びSと多年にわたる付き合いがある男である。そのことは長尾失踪後、Sに失踪届を出すよう勧めていることからも明らかだ。ゆえに彼が電話をして、長尾の声を聞いたことはまず間違いない。長尾が殺害されたとされるのは2月24日であるから、26日に長尾の声を聞いたのが確かであれば長尾殺害説は崩れることになる。

 26日に小松が「無尽蔵」を訪れたことに関しては、彼の手帳のメモと同行した妻のマル、そしてその友人の友永マリによって確認が取れている。しかし電話をした日時は必ずしも明確でない。友永マリは検察側証人として、「小松さんは『無尽蔵』の前まで来ると首をかしげ、『4、5日前に連絡しておいたんですけどね。あらためて連絡しなかったからかな』といってました」と述べている(『夢の屍』p149)。この証言によれば小松が長尾に電話をしたのは、殺害日前の21日か22日ということになる。

 佐藤はS無罪説に立ったうえで、友永マリは4、5メートル離れた位置で小松マルと雑談していた。だから小松の独り言が聞き取れる筈がない、としている。はっきり言って水掛け論であり、そうかもしれず、そうでないかもしれないとしか言いようがない。私としては片岡や小松の証言を重々しく取り上げるのであれば、同じ法廷の場においてなされた友永の証言も同じくらい重要視されるべきであると思うのであるが――。

証言3 堅山壽子の証言

 1982年2月25日、医師の小山田佳穂と共に「無尽蔵」を訪れ、昨年購入した美術品の代金を支払った。手帳に記載が無かったので自分でも記憶は曖昧だったが、11月中旬になって冬物のオーバーの中から2月25日付の領収書が見つかり、それを見て長尾さんと会って現金を渡したのを思い出した。自分は長尾さんのいる時にしか「無尽蔵」を訪れたことはない。

 証言者の堅山壽子は、日本画家・堅山南風の姪であると同時に、秘書として南風を支えた人であり、同行した小山田佳穂は南風の主治医である。

 この2人が何故「無尽蔵」を訪れたのか、については若干説明を要する。実は小山田は、詳細は不明であるが、「職業上の秘密を暴露する」と南風を恐喝しており、口止めの見返りとして、南風の財産を元手に趣味の美術品を大量に買い集めていたのである。その窓口が壽子であり、購入先の1つが「無尽蔵」であった。

 25日に長尾と会ったという堅山壽子の証言を、小山田は「記憶にない」と否定している。だが小山田はかように問題のある人物であり、その証言には裏があるのではないかという推測の下、佐藤はかなり綿密な調査を行っている。それによると、堅山壽子は事情聴取を担当した刑事に小山田の行状について相談し、弁護士を紹介してもらうこととなった。ところがその弁護士が随分と出鱈目な男で、誤字脱字だらけの告訴状を作成した挙句、結局捜査機関に送付せず有耶無耶にしてしまったそうである(詳細については『夢の屍』をご覧いただきたい)。ここから佐藤は次のように推測する。25日に長尾が殺害されていたというストーリーのためには、小山田に堅山証言を否定してもらう必要がある。しかし小山田が正式に告訴されてしまってはその証言の信憑性が疑われる。そこで警察は弁護士と共謀して出鱈目な告訴状を作成し、小山田告訴の道を阻んだ……。

 ……というのであるが、これは良く言って推測、悪く言えば単なる勘ぐりである。なるほど小山田も弁護士もふざけた連中であるのは間違いない。しかし警察が弁護士と共謀して……という件は佐藤も自ら認めているとおり何の証拠もない。よくできた小説という以上の感想を持てない。

 私としてはむしろ、小山田を度外視したうえで堅山証言の信憑性を問いたい。2月25日に長尾と会ったという記憶を、堅山は最初の事情聴取では思い出せなかった。彼女の手帳にもその日のことは記されていない。ところがおよそ11か月後、彼女は領収書を見て記憶を思い出したという。この証言をどれほど信用すべきであろうか。それは、本当に「思い出した」のか?

 単なる言いがかりと思われるかもしれない。が、人間がいかに簡単に偽りの記憶を構成してしまうかについては心理学上の知見が数多く積み重ねられており、「虚偽記憶」や「創造された記憶」と総称されている。この分野の代表的な研究者にエリザベス・ロフタスがおり、彼女の行った「ショッピングモールの迷子」という研究は有名である。被験者に対し幼少期のエピソードと称して、家族から事前に聴取した本当のエピソード3つに加え、ショッピングモールで迷子になったという架空のエピソードを聞かせたところ、被験者は架空のエピソードを正真正銘自分が体験したことと思いこんでしまったのである(注3)。

 さらに同じエリザベス・ロフタスの『目撃証言』には、数か月前の出来事を突然「思い出した」目撃者によって一時は死刑判決を受けたティモシー・ヘニスという男の話が登場する。後に無罪(注4)になったとはいえ、一度は彼を絶望の淵に叩きこんだきっかけとなったのは、「1985年5月10日、自分の直前に銀行のATMを使用していたのは被告人と似ている」という、ある女性のたった一つの目撃証言だった。その女性が当初の捜査では誰とも会っていないと明言していたにもかかわらず、である。彼女は自分が犯人を目撃したかもしれない唯一の人間だという事実にプレッシャーを感じており、記憶にあったATMの光景と、新聞で繰り返し報道されたヘニスの顔写真を結びつけてしまった――つまり記憶を創造した、というのがロフタスの見解である。

 ティモシー・ヘニスを長尾泰次、ATMを「無尽蔵」に言い換えれば、本件は堅山証言とよく似ている。堅山壽子の記憶が本当に正しいのか、それとも創造された記憶なのか、今となっては検証する術がない。だが人の記憶というものが当てにならないという点は指摘しておきたい。

証言4 古美術商 久野勇の証言

 自分が経営する「大鳳堂」が入居している古民具骨董会館の2階のピンク電話(特殊簡易公衆電話)に、長尾さんらしき人から2回、自分宛てに電話がかかってきたことがある。1回目はボソボソと喋るだけで何の用件かもわからないまま電話を切られてしまったが、1週間後の2回目の電話では明確に「島田(同業者の名前)の大将いるか?」と尋ねてきた。いないと答えると、「よろしく言っておいてくれ」とのことだったので、「たまには来ないか」と声をかけると、「そのうちにな。また後で電話する」と言って長尾さんは電話を切った。
 電話を受けた時期ははっきり覚えていないが、電話のある場所は冬は寒風が吹きつける。自分が電話を受けた時はそう寒くなかったし、5月には東武デパートの骨董市で忙しかったから、1982年の3月末から4月初めの頃だったのではないか。

 非常に曖昧な証言である。電話を受けた時期については久野の妻の記憶とも合致しているので信用しても良いかもしれない。しかし電話の主は自分から長尾と名乗った訳ではなく、まして1回目の電話は用件すらはっきりしない。久野と長尾は、「長尾は時々『大鳳堂』へ姿を見せ、久野は数えるほどしか『無尽蔵』を訪れたことがない」(『夢の屍』p170)関係であるという。互いを知悉しているとは言い難い。警察も久野には最も早い段階で接触したが、結局日時・電話主共に断定できないとして捜査を打ち切っている。

 電話の件について悪意に解釈すれば、長尾を手にかけた犯人が長尾の生存を裏付けようとするために仕組んだとも見れる。Sが長尾の失踪届を出したのが4月1日。池袋署に情報を求めて訪ねたのがおよそ1週間後。そしてSの手帳の4月19日の欄には、久野から電話の件について連絡があった旨の記載がなされている。このタイミングは偶然なのだろうか。はっきり言ってしまうと、Sの自作自演という線も捨てきれない。

証言5 佐藤純の証言

 1982年5月27日、猟銃免許更新のため池袋の東京信用金庫本店で開かれる猟銃講習会に出席する途中、「無尽蔵」に顔を出してみることにした。長尾さんとはバー「ノエル」時代からの知り合いである。8時30分から45分の間だったか、シャッターが開いていたので店の奥に進むと、長尾さんらしき人が椅子に座ってうつむいていた。髪の毛が僅かに伸びていてトレードマークの丸坊主ではなかったが、体つきや風貌は長尾さんのそれである。だが男は顔を伏せてしまい、時間もあまり無かったので、声もかけず店を後にした。

 1982年5月27日という日付は猟銃講習会を管轄する東京都林務課によって裏付けられている。従って佐藤純がこの日、無尽蔵店内で何者かを目撃したのは間違いない。

 問題は目撃した男が本当に長尾であったか否かである。佐藤純は長尾であったと主張しているが、確証に乏しい。不思議なのは、折角会いに出向いたのにもかかわらず、声もかけずに立ち去ってしまったことである。声をかけなかった理由は不明であるが、思うに男が長尾ではないと感じたからではないか。もし本当に長尾だと確信していれば言葉の1つや2つ交わすのが普通であろう。そのために訪れたのだから。

 証言者がこの出来事を思い出したのはSが長尾殺害を自白した1982年12月。さらにSの弁護士である江口に詳細を打ち明けたのは1984年1月である。法廷で証言した時は既に目撃時から1年半が経過している。証言3と同様の問題を本証言も抱えているのではなかろうか。つまり、最初は「無尽蔵」店内で男を見かけたというだけの記憶が、長尾失踪(あるいは殺害)を報じるマスコミ報道によって感化され、自分が目撃したのは長尾に違いないという確証に変わったという可能性もありうるのである。

◆  ◆  ◆

 こうして見ていくと、5つの証言はどれも弱みを抱えており、裁判において証拠として採用されなかったのも仕方ないという印象を受ける。全く度外視するわけにはいかないとはいえ、「死んだはずの長尾を見た!」とセンセーショナルに断ずる程の確証はここには無い。

 私の結論を述べたい。まず証言2、3については思い違いに過ぎないと断ずる。小松が長尾に電話したのは26日より前であり、堅山は別の日の記憶と混同しているのだろう。別に彼らが嘘をついていると思うからではない。ただ2人の証言はあまりに当人の記憶に準拠し過ぎており、証拠として信ずるに足りないと思うがゆえである。

 証言2、3と比べれば、証言4、5はまだ具体的で見るべき点がある。ただし、電話の声を聞いただけ、店内に佇むのを一瞥しただけという弱さは認めねばなるまい。それに、見聞きした出来事及び日時が事実だとしても、その相手が本当に長尾本人であるかという問題が残る。

 直接対面して言葉も交わしたとする証言1は最重要証言である。他に目撃者がいないという重大な欠点があるものの、片岡は自著でも同様の主張をしているばかりか、同行した高橋章から任意の証言書まで入手しており、証言内容に対する自信のほどが伺える。軽んじるわけにはいかない。

 ただし、証言1が事実であると仮定した場合、次のような疑問が生じる。失踪した長尾は温泉旅館の懇親会で一体何をしていたのだろうか? 長尾が2月24日以降も生きていたと主張することは、すなわち長尾が自発的に失踪したと主張することである。自分の意思で姿を消した男が、どうして自分を知る者がいてもおかしくない懇親会などに、それも昔ながらの背格好で顔を出すのだろう。気が変わって戻ってきたのであればさっさと関係各氏に連絡すれば良いし、そうでなければ最初から懇親会などに参加などしない。同じような疑問は証言4、5にも言え、自分から失踪しておいて知人に「また会おう」なんて電話をかけたり、元の自分の店でのそのそしているというのは全くもって理屈に合わない。極めて不自然であり、精神異常でない限りそのような失踪者がいるとは思われない。また仮に本当に精神異常を遂げているのであれば、今日に至るまで行方不明のままであるというのはまずあり得まい。

■ S無罪説及び『夢の屍』の難点

 長尾はどこに消えたのだろう。S無罪説に立つ『夢の屍』は「ひとつの推測」と断ったうえで「韓国美術に興味を持って出国した」という説を挙げているが、盲説の類である。

 韓国美術に興味を抱いたにせよ、他の何かに夢中になったにせよ、本当に新しい人生を歩みたいならば店を処分するなりしそうなものである。まして長尾は独身なのだから尚更だ。何故虎の子の財産を放棄する必要があるのか。三越ニセ秘宝展の影響で「無尽蔵」の美術品の価値は著しく下がるだろうが、それでも店舗トータルで見れば相応の価値はあろう。元手が無くては韓国美術どころではあるまい。だが長尾の財産に不審な動きがあったという話も無ければ、長尾らしき人物が出国したという話も確認されていないのである。

 さらに、もし長尾がどこかで生きているのであれば、何故名乗り出て無実の罪に問われたSを救おうとしないのかという疑問が生じる。S無罪説の立場にとって考えられる理由は2つ。(1)そもそも前提が間違っていて、長尾は既にSではない何者かによって殺されている、(2)Sが無実の罪に問われても気にならない程に不仲になっている。

 (1)、すなわちSが無罪であり、かつ長尾がS以外の何者かに殺された(S無罪・長尾殺害説)と主張するならば、その何者かについて多少なりとも言及しなければ当該主張は説得力を持ち得ない。しかし警察の捜査にも浮上しない真犯人を指摘するのは非常な困難を伴う。一方(2)、Sが無罪であり、かつ長尾はどこかで生きている(S無罪・長尾生存説)と主張するならば、この困難は気にせずに済む。だが、これではSと長尾がよほど不仲であったということになり、S無罪という主張とは裏腹に、Sによる長尾殺害説を後押しする結果となってしまう。本末転倒である。

 S無罪説にはかくのごとき高い壁が立ちはだかっている。そこで『夢の屍』がとった作戦は、壁と直接対峙することは避け、ひたすら警察批判・関係者批判に終始するという後ろ向きの戦略であった。ここに本書の最大の欠陥がある。

 例えば長尾の叔父の野村庸一が死亡した際、Sが「長尾は海外旅行に行っている」と嘘をついた点について、従弟の野村健夫は当然であるが疑念を示している。これはS無罪説にとって大変都合が悪い。そこで『夢の屍』は、「長尾と野村家はさして親交が無かった。Sが嘘をついたのは無用な心配をかけまいとしたからだ」という理屈をひねり出した。これだけでも相当無理のある理屈だが、更に同書は、野村健夫本人による「長尾と親しくしていた」と供述について、「唯一の親戚という立場上、そう答えなければならなかったのだろう」「その程度の交際であった」として、これを否定してしまうのである。葬式の通知に出鱈目な返信をされた挙句、他所者から「お前たちは疎遠」と断罪されては野村健夫も立つ瀬がないだろう。

 しかし最も手厳しく批判されているのはSの弁護士である。S無罪説の立場からすれば味方である筈のこの弁護士について、『夢の屍』は、「検事上がりの若い弁護士」と随分侮蔑的に記しているのみならず(注5)、何だってここまで辛辣になれるのだろうと思うほど批判を加えている。ほとんど言いがかりに近いような批判の数々について一々例示することは避けるが、どうも弁護士がSの弁護というよりも、事件の真相の追及に偏っている(と、少なくとも『夢の屍』を書いた佐藤は思っている)ことが手ぬるく見えて気に入らないらしい。S無罪説を本当に信じているならば、真実の追求こそが即ちSの無罪につながると私などは思うのであるが、真実は脇において、ありとあらゆる手練手管を使って弁護人の無罪を主張しろと言わんばかりである。母子を乱暴目的で殺害、屍姦した少年を、「ただ甘えたかっただけ」「(屍姦したのは)生き返らそうとしたから」と弁護した変な弁護士がいたが(→光市母子殺害事件)、こういった弁護を期待しているのだろうか。

 Sの無罪を証明しようとするのは良い。だが本書はその目的を達成するために、都合の悪い関係者を片端から腐している。あくまでS無罪説を主張するにはそうするしかなかったのだろう。一種の法廷戦略のようなものだ。しかしそこに留まってしまっている点に『夢の屍』の限界はある。

■ それでも司直が判断すべきは

 情報を総合的に判断すると、Sは極めて黒に近いというのが私の感想である。長尾の失踪とSの不自然な行動を説明しうる合理的な説明は他に見出しがたい。S犯行説を否定する最大の根拠たる5つの目撃証言は細部にかなり問題がある。そして、『夢の屍』における弁護論は、その熱意にもかかわらず――あるいはその熱意が逆に災いしてか――あまり上手くいっていないように思われる。

 では結局Sが有罪の判決を下されたのは正しかったのか? ――否である。Sは無罪になるべきであった。

 さんざん犯人扱いしておいて無罪とはどういうことだと思われるかもしれない。だが別におかしいことを述べているつもりはない。犯行を犯したか否か、法で裁かれるべきか否かは別個の問題である。

 S無罪説、そしてその根拠となる5つの目撃証言には問題点は山ほどある。それは散々見てきたとおりである。しかし、裁判で明らかになった限りの状況証拠をもってしてSは有罪となるべきではなかった。人が裁かれるにはあくまで具体的な証拠が必要であると私は考えるが、本事件にそれは無い。長尾の死体はおろか、血痕の一つですら発見できておらず、警察・検察は自らの仕事を果たしえていない。「疑わしきは罰せず」という法理念に照らせば、Sは無罪を言い渡されるべきであろう。

 だが現実はSは有罪を宣告され、本事件は法の下においては一応完結した。Sが実は犯人で、良心の呵責に耐えかねて一切を自白する、あるいはどこかで生きていた長尾がひょっこり姿を現すといった展開が無い限り、捜査機関が本件を調査することは無く、長尾泰次は永遠に失踪者のリストに名を連ね続ける。この失踪の責は誰が負うべきものだろうか? 長尾、S、それとも不甲斐ない捜査陣か? いずれか、あるいは全てに責任があったのである。



(注1)
 この辺りの経緯は『十三人のユダ』(大下英治、新潮文庫)にドラマティックに描写されている(ただしあくまで小説である点に注意)。

(注2)
 勿論、同じことは先に挙げたSの不審点に対しても言えることである。

(注3)
 当時のアメリカでは催眠術によって「自分が幼少期に家族に虐待されていた」と主張する者が大勢いたのであるが、これも虚偽記憶の一種ではないかとされ大論争に発展した。以上の研究及び論争については、エリザベス・ロフタスの『抑圧された記憶の神話』(誠信書房)に詳しい。

(注4)
 結局ティモシー・ヘニスと犯行を結び付ける証拠は皆無であったため、証拠不十分として無罪になった。なお彼のもとには真犯人らしき「X氏」から犯行をほのめかす手紙が届いており、その後も近隣で似たような殺人事件が発生している。他に犯人がいるのはまず間違いないところである。

(注5)
 ここで「侮蔑的」と評したのは「上がり」という表現に関してである。高島俊男『お言葉ですが…6 イチレツランパン破裂して』(文春文庫)に「「あがり」と「くずれ」」という題で大変面白い論考が載っているのでお勧めしたい。「上がり」という言葉には、(1)身分上昇した者に対して軽蔑ややっかみを表す、(2)中途参入で根っからのプロでないことを表す、という2通りの意味があり、いずれにせよ侮蔑的な言葉であると結論されている。

【参考文献等】

○ 佐藤友之 『夢の屍』 立風書房、1985
○ エリザベス・ロフタス、キャサリン・ケッチャム著 厳島行雄訳 『目撃証言』 岩波書店、2000

○ 事件・犯罪研究会編 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院出版、2002




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