コラム・59 鰒(ふぐ)食禁止令
江戸時代からながらく禁止されていた鰒(ふぐ)食を解禁したのは、明治時代に総理大臣だった伊藤博文が下関の春帆楼(しゅんぱんろう)にやってきたところ、「あいにくシケのため、出す魚がなく、仕方なく、ときの女将がお仕置きを覚悟の上で、ふぐ料理を出した。ところが、伊藤博文は、このふぐの料理に、いたく感激して、それから、ふぐが解禁された」なんていう逸話がありますね。
この逸話はいかにも白々しい。だってそうでしょう? シケ(時化)で他の魚が一切ないのに、どうして鰒(ふぐ)だけがあったの? それも禁制のね。
それに、「お仕置きを覚悟の上で」なんて言うけど、治安不安定な明治初期の総理大臣にはサーベルをガチャガチャつかせた下関警察署長以下が同行していたはず。だから、下関ではフグは公然とたべられていたはずだし、やってきた伊藤博文は、はじめから春帆楼へフグ料理をたべにやってきたんですよ。きっと。
伊藤博文は、鰒(ふぐ)食を解禁したというけれど、解禁したのは山口県だけだったらしいですよ。それに、鰒(ふぐ)食禁止は国民保護の法律だったんだから、大きなお世話の法律。国民保護を考えるなら、ただ解禁するんではなく、安全な調理法を確立するとかの配慮がなされてしかるべきなのに、ただの解禁では無責任なだけ。明治の元勲らしい無責任さ。こんなところで、統帥権問題をもちだすのは無粋だけどね。
ところで、鰒(ふぐ)食禁止令は江戸時代からあったらしいけど、これはたてまえ。だれも守ってはいなかったらしいですよ。
小林一茶には、「鰒(ふぐ)食はぬ奴には見せな不二の山(富士山)」なんて句がありますもんね。松尾芭蕉にだってありますよ。「あら何ともなやきのうは過てふく(福)と汁(知る)」なんてね。.
朝鮮出兵時に下関辺りに立ち寄った山国からの兵が、郷から連れてきた飯炊き雑兵の下手で、フグ中毒で多数死んだので、豊臣秀吉が禁止令を出し、これを踏襲して江戸時代ずっと禁止令は解除されなかったらしい。
だから、たてまえ上は禁止。社会的機能としては、目明かし、岡っ引きの見逃しの小遣い稼ぎの種になっていただけらしい。
ですが、毛利藩ではフグを食べただけで、お家断絶の厳しい掟があったとか。毛利藩は関ヶ原で領地激減していたから、何でも家禄没収の種にしていたんでしょうがね。
ところで、貝塚から多数のふぐ骨が出土しているんだそうですね。多数出てくるんですから、食べても死なない知恵があったんでしょうね。ハラワタさえ食べなかったら安全と知っていたとしか考えられないですね。フグ調理の難しさは、ハラワタを傷つけないで、すっくりと外す技術だとか。少しでも潰すと大事になるらしい。
そうそう、フグ鍋屋の中には、フグの肝と称するものを出して、客を驚かせる趣向の店があります。あれで出すのは、無毒のサバフグの肝とか、アンコウの肝。中には安直に、カワハギの肝なんかをね。無邪気な客は「フグの肝を喰った」なんて喜びますからね。
なかには、猛毒のトラフグの肝を、チョッピリとはいえ本当に出していた店もあったそうですね。フグ毒は食べ慣れても免疫を獲得するどころか、毒が蓄積して、あたりやすくなるばかりだし、フグは個体差が大きく、昨日まで安全だと高をくくっていて、客を死なせてしまうことがあるらしい。こんな無知な板前と通ぶる客がそろうと、えらいことになるんでしょうね。昭和50年(1975年)に歌舞伎の板東三津五郎が死んだようにね。