歓びの歌を歌おう。
皆で大きな声を出して、空に向かって歓びの歌を歌おう。
どれだけ今が苦しくとも、どれだけ今が貧しくとも、
笑いながら歌おう。
それは歓びの歌
№9
クラエスに頼まれた家庭菜園の施工も終わりに差し掛かったとある日のこと、トリエラが花束とアマーティーの楽器ケースを脇に携えて訪ねてきた。
「だいぶ完成したね、ブリジット」
泥で汚した顔をタオルで拭いながら、俺はまあねと返した。冬だというのに程よく汗をかいていて、土が肌に良く付く。
「その花束はアンジェリカの見舞い? だとしたら彼女も今夜誘うの?」
「うーん、先生が許可したらね。難しいと思うけど」
それは数日前のことだ。流星群が観測できるというニュースを聞きつけたクラエスとヘンリエッタが、俺とトリエラ、そしてエルザをそれに誘ってきた。もちろんリコも。何でも引率にジョゼを使って皆で見に行きたいらしい。
このこと自体は原作イベント通りなので、イレギュラーな存在といえど俺も参加することにした。
まあエルザを殺さなかった時点で原作も糞もないだろうが、それでも出来るだけ原作に沿いたいと考えるのは俺がヘタレなのか慎重なのか……、
話を戻そう。
流星群観察イベントが発生した時点で、トリエラがアンジェリカを見舞いにいくと予想出来たので原作どおりに事が進んだことに少し安心した。
よくある歴史の改変などで話にズレが生じるとなれば、のんびりと流れに任せて時間を過ごすという毎日を見直さなくてはならなくなるからだ。
俺の隣で一生懸命レンガを積み上げるエルザを見ていると、こんな幸せな日々が続けばいいのにとどうしても願ってしまう。それが適わないとわかっていても抗いたくなるというものだ。
俺はこの世界に来て、ここ最近が一番充実している日々だと実感していた。
「それじゃあ私はアンジェリカのところに行くけど、何か伝えておくことある?」
トリエラがこちらに花束を向けながら問うてきた。
「早い復帰を願うとでも言っておいて。あと猫もいるよ、と」
私の返答にトリエラがにかっと笑う。俺もトリエラに釣られて笑っておいた。
「じゃ、行ってくるね。それとさブリジット。今晩アルフォドさんは誘わないの?」
トリエラのからかった口調に俺はべろを出してあっちへ行け、と罵る。俺をからかうことが楽しいのか、この世界のトリエラは必要以上に子供っぽい。
それが良い傾向なのかどうかは判断しかねるが、楽しそうに病院へ駆けていく彼女を見ているとそれでも良い気がしてきた。
空は快晴。
今夜は星が良く見えそうだ。
「それはAUGか?」
病院の廊下を歩いていたらアンジェリカの担当官であるマルコーさんに出会った。面会の旨を伝えると、私の持つ楽器ケースを見てそう言った。
「アンジェリカが触りたいといったので……もちろん実弾抜きです」
「そうか、なら構わんだろう」
一言そう告げると、マルコーさんは何処かへ立ち去っていく。その様子を姿が見えなくなるまで眺めていた私は、ふとアンジェリカのいる病室の扉を叩いた。
「アンジェリカ、調子はどう?」
扉を開けるとベッドにお姫様がいた。ブリジット程ではないけど、それでも長い黒髪を可愛いリボンで飾っている少女、アンジェリカだ。
「いらっしゃい。トリエラ」
ニコリと笑う彼女を見て、私はここへ来た意味を知った。
「けっこう元気そうだね」
「本当はもう歩いてもぜんぜん平気なの。でもまだ検査があるってマルコーさんが」
私は花瓶に持ってきた花束を差しながらアンジェリカの話に耳を傾けていた。
「あの人何か変わったよね。昔はもっと優しかったような……」
私は病室前で見たマルコーさんを思い出す。昔はもっと優しそうな雰囲気だったのに、今では何かに苛立っているような……そんな雰囲気しか感じられない。
でもアンジェリカは首を傾げて曖昧そうに笑った。
「そうだったかな…」
私はこれ以上彼の話題を話そうとする気がしなくて、「私の気のせいだったかもね」と誤魔化しておいた。出来ればアンジェリカには楽しい話をしてやりたいのだ。
ただ、楽しい話がブリジットの猫の話ぐらいしかなくて、私は間を伸ばすためにアンジェリカにAUGが入ったケースを渡した。AUGとはアンジェリカが良く使うアサルトライフルのことだ。
「ありがとう、トリエラ。触っておかないと不安だったんだ」
「どうして? そんなに退屈なの?」
「だって復帰したら目隠し分解から始まるんだもの」
そういいながらアンジェリカはバラバラにされていたAUGを素早く組み立て始めた。その手つきは慣れていて、一切のブランクを感じさせない。銃器の扱いの上手いと言われるブリジットと良い勝負だ。
「なんだ……ばっちりじゃない」
私の感嘆の声にも何の反応も見せずに、アンジェリカはAUGを黙って見つめる。私は彼女が何を考えているのか、うすうす理解したが、敢えて口に出して聞いてみた。
「どうしたの?」
「だって全然大丈夫だったもの。組み立て方で忘れていたことなんか何一つ無かった」
アンジェリカが少し俯く。
「楽しいことも、哀しいことも……」
病室を外からの日が照らす。ベッドの上に置かれたAUGが鈍い光を放った。
「大切なことはかんたんに忘れちゃうのにね」
アンジェが寂しそうに笑うのを見て、私は黙って彼女の髪をとる。懐からブリジット用の櫛を取り出してやると、それを彼女の髪に当てた。
「トリエラ?」
「梳いてあげるよ。どうせここの大人はしてくれないんでしょ?」
アンジェリカの溶けてしまいそうな手触りの髪を梳く。ブリジットの髪が絹糸ならこの子は清流のようだ。
「ブリジットがよく触らしてくれるんだけどね、それと同じぐらいさらさらだよ。アンジェリカ。二人の髪を同じところに落としたら混ざっちゃうかもね」
「ねえ、トリエラがよく言うブリジットってどんな子?」
アンジェリカの疑問はもっともだ。不思議なことに、何処でも動き回っているブリジットはアンジェリカと一度も会ったことがない。正確には何処かで顔ぐらい合わせているだろうが、まともに会話をしたことが無いのだ。
だから私はアンジェリカに掻い摘んで彼女の特徴を教える。
「まずとても髪が長くてね、甘いものが大好き。というか甘いもの意外は滅多に食べないね。好き嫌いが多いんだ。それで寝ぼすけ。私かクラエスが起こさないといつまでも寝てる。後は……」
気まぐれで、恥ずかしがり屋だけど時折とても大人びて見える。髪はさらさら、猫とエルザを飼っているエトセトラ……
私が彼女の説明をするたびアンジェリカは笑った。どうやらアンジェリカの頭の中のブリジットは猫のような女の子になっていそうだ。
一度会って頭を撫でてみたいと言ったときは、流石に止めときなよと釘を刺したが。
「ありがとう。トリエラ。とても楽しかった。私もブリジットに会ってみたい」
「ならあの子が暇なときにまた連れてくるよ。何だかんだで忙しい子だから」
私がそう言ってやるとアンジェリカはまるでベッドから飛び出さんばかりに喜んだ。この調子なら退院は近いだろう。しばらく良い話題が余りなかったので、素直に私は嬉しかった。
アルフォドさんはいらっしゃいますか?
いつもの聞き慣れた声がしたと思ったら、ブリジットが俺を訪ねて来ていた。俺はデスクから手を上げてブリジットに合図を送る。彼女はとことこと俺のデスクに歩いてきた。
「アルフォドさん、今晩のことでお願いがあるのですが……」
「ん? 流星群の観測の事かい?」
俺はジョゼから義体の女の子たちが演習場で流星群観察をすることを聞いていた。まあ、ジョゼ本人は急な出張でドタキャン。代わりにトリエラの担当官のヒルシャーが引率をすることになっているらしいが。
「いえ、実は余り大きな声で言えたことではないので、テラスまで来ていただけませんか?」
驚いた。普段は好き嫌いを超えた偏食の域に達し、結構我が強い――言いかえれば我儘なところがあるブリジットだが、実際は非常に模範的で大人びている。
そんな彼女が周りに聞かれたくないと言い、俺を連れ出そうとしていた。
つまりそれは決して無視できる案件ではなく、最悪彼女の体調に関ることかもしれない。
俺はデスクで開いていたノートパソコンを閉じると、ブリジットを促しテラスへ向かうことにした。
「へ? 見舞い?」
何を聞かされるのかと、気が気でなかった俺だが、ブリジットから聞かされた頼みごとを聞いて正直拍子抜けしてしまった。
そうブリジットからの頼みごととは……
「アンジェリカの見舞いに行かせてください」
何でもない、同期の義体の女の子の見舞いだった。ただブリジットの頼みの特殊なところは、
「それは今日じゃないと駄目なのかい?」
そう、時計を確認してみても公社内にある病院施設の面会時間はとっくの昔に過ぎてしまっている。普通の患者なら特別な申請をすれば面会できるだろうが、今回は条件付けの副作用で入院しているアンジェリカが相手だ。申請が通るとは考えにくい。
「いけないこととはわかっているんですけど、どうしても今日は彼女のところに行きたくて」
どうやらブリジットは面会が難しいことを百も承知で俺に頼んでいるらしい。つまりそれは忍び込むなり何なりをして、無理矢理面会しようとしているのだ。
俺は流石にブリジットを叱りつけようとして――だが彼女の真剣な眼差しを見て、何より普段なら絶対にこんなことを言い出さないブリジットが気になって理由を聞いてみることにした。
真っ黒に塗りつぶされた空を見て、私はブリジットのことを考えていた。
「何も見えないね、トリエラ」
隣に立つリコが裾を掴んでくる。私は苦笑しながらまだ時間じゃないと答えた。
「もうすぐだから良く見ていて。ここがもっとローマから遠ければいいんだけど……、そのぶん私たちは目がいいから」
クラエスが星座地図を見てリコをあやす。ここにいる年長組は二人、私とクラエス――そう一人足りない。
「ブリジットも来る筈だったんだけど」
私の呟きは白い息となって夜空に消える。彼女は急にアルフォドさんと用事があるといって天体観測には来ていない。その報を聞いたクラエスは見るからに落胆して、私は少しだけブリジットを恨んだ。
「そういやアンジェリカは駄目だったの?」
リコの問いに私は肯定の意を示しておいた。彼女はまだ部屋から出ることは出来ない。
「皆で見たかったね、流星」
リコの嘆きには全面的に同意だ。こういったイベントは皆で過ごすから楽しいものなのに……。
私が半ば投げやりに再び空を見上げたとき、ちらりと星が光った気がした。
トリエラから流星が見られると聞いて、私はカーテンを開けて外を見ることにした。彼女が差し入れてくれたCDプレイヤーをスピーカーに繋ぐ。
その時だった。不意に窓の外に人の気配を感じたのは。
危なかった。もしアンジェリカが万全の状態で、銃を持っていたなら間違いなく撃たれていた。幸いにも彼女は病気療養中で、武装なんかしていないのでこうして叫ばれる前にベッドに押し倒すことが出来たのだが。
「…………」
口を塞いだアンジェリカが涙目でこちらを見ていた。やばい、これじゃあまるで襲っているみたいじゃないか。
「…………」
アンジェリカの眼から大粒の涙が零れ落ちる。せめてもの抵抗なのか、しきりに組み敷かれた両手を動かそうとしていた。
あ、何かに目覚めそう……、
自分がここに何しに来たのか目的を忘れそうになったとき、私の意識を現実に引き戻したのは窓の外から投げられた飴玉だった。
「何をしているの」
怒ったような、それでいて何処か戸惑ったような声の主は俺と一緒に病院の壁を登ってきたエルザだ。トリエラたちと一緒に流星群を見て来いと諭したのだが、俺についてくると言うことを聞かなかったので、仕方なく連れてきたのだ。
「いや、咄嗟に体が動いて」
エルザに釈明をして、俺はそっとアンジェリカの上から身体をどけた。この世界のアンジェリカとは実は初対面だったのだが、これでは第一印象は最悪だ。
俺以外の見知った顔――エルザを見たから安心したのか、アンジェリカは叫び声を上げることなく、けれど明らかに戸惑った様子で俺たちを見てくる。
俺はとりあえず現状を説明するべく、口を開いた。
「こんばんわ。そしてはじめまして。ブリジット・フォン・グーテンベルトです。以後お見知りおきを」
窓の中に消えていったブリジットとエルザを俺とラウーロは下から見上げる。
「いいのかアルフォド。こんなことをして」
「そんなお前も止めなかっただろ。ラウーロ」
結局、ブリジットたちが自力で忍び込むという形で、アンジェリカの見舞いは成立していた。テラスで語られたブリジットの言い訳はなんとも荒唐無稽で、考えるに値しないものであったが、結局はこの様だ。
「何、俺は昔から悪餓鬼でな。父親の書斎に忍び込むのはお手の物だった」
「父親の書斎とノルマンディー海岸は違うぞ。ラウーロ。警備の職員に言い訳をするのがどれほど苦労したか」
「それでもお前は彼女の願いを適えてやった。まったく泣けるね」
「ふん、仕方ないだろ。あの子が珍しく食べ物以外で我侭を言ったんだ。適えてやらないと愛想を尽かされる」
アルフォドがタバコを取り出し、火をつける。ラウーロもそれに習ってたばこを咥えた。
「で、ブリジットがアンジェリカの病室に忍び込んだ理由は?」
言われてアルフォドは空を見る。ちらほらと流星が見え始めており、それは明かりのついた病院の近くでもうっすらと見えた。
「彼女が言ったんだ。こんな素敵な夜を一人で過ごさせるわけにはいかないって」
アルフォドたちが立っている位置を照らす、唯一の明かりであるアンジェリカの病室の明かりが不意に消えた。大方ブリジットが切ったのだろう。
「気の利く子だ」
「ああ」
二つのタバコの光が空を見上げていた。
「凄い! また光った!」
興奮した様子で空を指差すリコがいる。私は寝転びながら流星の空を見上げていた。
「アンジェリカにも見せてあげたかったね」
ヘンリエッタが私の隣に腰掛けながらそう言う。私はまったくだと思いながらも、昼間に渡してきたCDプレイヤーのことを思い出してこう告げる。
「アンジェリカならきっと部屋から見ているよ。第九でも聴きながら」
「第9番てベートベンの? ♪~♪~~~♪て曲だよね?」
ヘンリエッタが紡いだ調べに、私は自身が高揚するのを感じた。なる程、ベートベンの№9 こんな夜にはぴったりのシンフォニーだ。
私は起き上がってヘンリエッタを抱きかかえると、ヘンリエッタの調べに自身の声を続けた。
「O Freunde, nicht diese TÖne ! (ああ友よ、そんな調べではだめなのだ!) Sondern laBt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere ! (声をあわせてもっと楽しく歌おうではないか!)
きょとんとこちらを見上げるヘンリエッタを見て、私は歌を催促する。
「ほら…いくよ?」
歓び、それは美しい神々の輝き
楽園の遣わす美しい乙女よ♪
私たちは熱い感動の思いに突き動かされ……お前の国へと歩み入る!
暗い病室でアンジェリカとエルザを抱きかかえて、俺は第九を聞いていた。元の世界では年末でしか聞いたことの無い曲だったのに、今では不思議とメロディと歌詞が頭をよぎる。
だからこそ、三人で流星を見上げながら口をついて出てきたのは自然なことかもしれない。
神の柔らかなる翼の庇護の元 全てものたちは兄弟となる♪
心の通じ合える親友を得た者、気立ての良い妻をめとることが出来た幸いなる者よ
よろこびの気持ちを声に出してあわせよ♪
「№9か。上手いな」
ラウーロがそう言うとおり、ブリジットのものと思われる歌声は綺麗だった。まさか彼女にこんな才能があったとは。
「このくそ寒い中、美しいベートベンの調べ。義体にしておくのがもったいないな」
俺は何も答えず、静かにブリジットの歌声に耳を傾けていた。
流れ落ちていく流星を見上げながら俺は№9を紡いでいく。静かに耳を傾けてくる小さな少女二人を抱きしめ、歌う。
これはまさに歓びの歌だ。俺がこの世界に生きていること、そして誰かが大切な人たちがこの世界で生きていることを教えてくれる歌。
これだけの収穫があるなら、病院に忍び込んだこともお釣りが来るようなイベントだった。
義体の少女たちが声を合わせて歓びの歌を歌う。歓喜に身を任せて今のときを歌にする。
彼女たちの優しい調べは、冬の寒空にいつまでも響いていた。
天蓋の果てに神を求めよ! 星星のかなたに神はかならずやおわしますのだ♪