2010年09月12日
ちょっと思ったこと
常に感情の味方でありたいとおもう。
それは自分が感情的とか、そう言う理由ではなくて、感情というものが蔑ろにされやすいからだ。
最近、芸術において作品を作ったとき、優れている作品は説明が出来る、コンセプチュアルなものだ、という風潮がある。
例えばカオスラウンジが社会学をやっている東浩紀にUSTで誉められたりけなされたりするように。
でも、それはちょっと違う気がする。
説明できないけど、これはいいものだよ。
みたいな感覚は大事だと思う。
無論、東浩紀がそういう感覚がないと言っているわけではない。
けれど、説明をしないことも必要ではないだろうか。
ただ単純に、美しいだとか、衝撃を受けたとか、そういう感情が真っ先にくるべきだし、それを言わないといった風潮は良くない。
説明は後からするものだ。
また、感情というものは一人一人違うのだから感情を無くすことは多様性の破棄に繋がる。
そうなったら面白くないじゃない。
それは自分が感情的とか、そう言う理由ではなくて、感情というものが蔑ろにされやすいからだ。
最近、芸術において作品を作ったとき、優れている作品は説明が出来る、コンセプチュアルなものだ、という風潮がある。
例えばカオスラウンジが社会学をやっている東浩紀にUSTで誉められたりけなされたりするように。
でも、それはちょっと違う気がする。
説明できないけど、これはいいものだよ。
みたいな感覚は大事だと思う。
無論、東浩紀がそういう感覚がないと言っているわけではない。
けれど、説明をしないことも必要ではないだろうか。
ただ単純に、美しいだとか、衝撃を受けたとか、そういう感情が真っ先にくるべきだし、それを言わないといった風潮は良くない。
説明は後からするものだ。
また、感情というものは一人一人違うのだから感情を無くすことは多様性の破棄に繋がる。
そうなったら面白くないじゃない。