2010-01-31
師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?
同じ内容の質問が数件寄せられたので、まとめて答えておこう。
質問
“イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について”を読めば「なるほど」と思うのですが、しかし先生は今尚「仏法は勝負」と繰り返し指導されています。これをどう受け止めればよいのでしょうか?
小野不一
もしも、「仏法は勝負」が「第一義」であるとすれば、仏法は完全な競争原理となってしまいます。では、虫眼鏡で「勝負」の文字を拡大してみましょう。勝負とは「邪正をただす」(16頁)ことであり、公場対決を指す言葉と考えてよいでしょう。鎌倉時代は印刷技術もないため、人々に権実雑乱の現実を知らしめる行為は公場対決しか考えられません。
では我々が望んでいる「勝利」とは何でしょうか? それは目標の達成です。ある時には弘教であり、またある時には新聞啓蒙であり、そしてある時には選挙だったりします。学会総体として見た場合、全て広宣流布のためであると意義づけられています。
勝負である以上、勝ったり負けたりすることは避けられません。勝てば気分がよくなり、負けると落ち込むのが人の常でありましょう。これは自我が大きくなったり小さくなったりするためです。
数え切れないほどの悲惨な地区があります。これらの地区が弘教を推進すれば、悲惨を広げていることになりはしないでしょうか? 悲惨な組織にいる、悲惨なメンバーが行う折伏は、当然の如く悲惨な結果を生むに決まっているのです。
あなたはなぜ戦っているのでしょうか? それは「組織の命令」や「幹部の指示」があるからです。我々はお尻を叩かなければ戦わないほど怠惰な人間なのです。自分で自分を管理することができないため、組織に隷属することで管理してもらっているわけです。これを美化した言葉が「叱咤激励」です。ムチとニンジンを欲するあなたが、馬のような人生を歩むのは仕方がありません。
もっとわかりやすく言いましょう。たとえ選挙に勝とうが負けようが、そこには「変わらぬ自分」がいるのです。変化するのは「気分」だけです。一時的に勝負という山を経験しますが、またぞろ仏法勝負とは無縁な日常に舞い戻るわけです。
そして私が書いた批判的な文章を読んでは溜飲(りゅういん)を下げ、先生の指導を読んでは「あれ、どっちなんだ?」と迷いを深め、周囲をキョロキョロ眺めながら、同じ場所をグルグル回るような人生を過ごしているわけです。ネズミ車の中をひた走るハムスターのように。
自分の頭で考えるのが大変なので、あなたは常に誰かの考えに寄り掛かり、依存し、もたれているのです。あなたは他人の言葉を杖とし、先生の言葉を車椅子にしておきながら、自分の足で立っていると錯覚しているのではないでしょうか?
80歳を過ぎた師匠に何度も何度も「勝て!」と言わせる創価学会でいいんですか? 我々はどうして毎度同じことを先生に言わせているのですか? それは負けているからです。負け続けているからでしょう。命懸けの青年が一人もいないためでしょう。先生がいなくなれば滅びゆく創価学会だからでしょう。
私は、年老いた師匠を利用し続ける創価学会に我慢がならないだけです。私は凄まじいばかりの焦りを覚えてなりません。このまま行けば、先生は一教団のリーダーという存在で終わってしまいます。本当であれば、日本人全員が親しく接する機会を持っていて当然なのです。歴史に名を残した偉人は皆そうです。民衆が実際に自分の目でその姿を見、その声を聴いて、自分の心に炎を灯(とも)してきたのです。
書籍にしても同様です。思想という次元で考えた場合、書籍はそのエッセンスといえます。では今現在、先生の著作でゆくゆく岩波文庫に収録されるようなものがあるでしょうか? デカルト、カント、ヘーゲルと並べられるような作品があるでしょうか? 私はないと思います。なぜなら、殆どの著作が学会指導となっているためです。
つまり我々学会員が先生の手足を縛り、身動きできなようにしているわけです。師匠に依存し、おんぶしてもらい、抱っこをせがむ幼稚な弟子しかいないのが現状です。「勝て!」と言われなければ、勝とうとすらしない弟子しかいません。
追伸――人の言葉に心を振り回される人はネットをすべきではありません。まず、基本的な訓練をしっかりと受けるのが先です。
東京電力CIA
(※福島県)浜通りでは70年代から通称“TCIA”(東電CIA)が暗躍。原発反対派の集会では車のナンバーを調べ、選挙では反対派候補の家や事務所に出入りする住民のをチェックする。原発批判、とくに東電絡みの記事が載った週刊誌、雑誌は町の書店では買えない。TCIAが買い占めてしまうからだ。その結果、86年のチェルノブイリ事故について、当時の中学校教師が生徒たちに聞くと、知っていたのはクラスで3〜4人しかいないという驚くべき状況になっていた。職場はもとより、家庭内ですら、原発イコール東電となって話題にするのもはばかられるのだ。
それは柏崎市や刈羽村でも同じだ。
【『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)】