2009年02月
当ブログは匿名の批判はすべて無視しているが、先日の『Voice』の記事を読むと、ネット上の民間信仰が「作家」や「評論家」に与える影響は無視できないようなので、よくある迷信をまとめてみた。
追記:私の政策提言は「アゴラ」に書いた。
- 不況の原因は「需要不足」だから、景気対策で需要を追加すれば問題は解決する:需要不足には、短期的な要因と長期的な要因がある。前者は金融・財政政策によってコントロール可能なGDPギャップ、後者はコントロール不可能な潜在GDPの低下である。マクロ政策によって達成可能な成長率の上限は、後者によって決まる。今回の日本のように、アメリカの過剰消費が正常化することによる潜在GDPの低下を「一国ケインズ政策」で埋めることはできない。
- 財政支出によって「完全雇用」が実現できる:たとえば輸出企業に20兆円のGDPギャップがあるとき、土木事業に20兆円出しても、輸出企業のギャップは縮まらず、土建業に超過需要が発生するだけだ。不況の本質は資源配分のゆがみにあるので、経済全体に薄く広くばらまいても、必要な部門には回らない。この点では、市場メカニズムを活用する金融政策のほうがすぐれている。
- 日銀が通貨を供給すれば、いくらでもインフレにできる:しかし金融政策は、今のように事実上ゼロ金利になると、きかなくなるという限界がある。この場合、日銀が通貨供給を増やしても、資金需要を超える分は「ブタ積み」になるだけである。ただしCPの買い入れなどによってリスクプレミアムを縮める政策には、一定の有効性がある。
- 日銀が「インフレ目標」を掲げればインフレが起こる:バーナンキが「インフレ目標」に言及したと喜んでいる向きもあるが、この程度のゆるやかな目標なら、日銀も「物価安定の理解」として公表している。バーナンキやクルーグマンがかつて主張したのは、デフレ状況で日銀が「インフレにするぞ」と言ってめちゃくちゃに通貨を供給すればインフレが起こる、という人為的インフレ政策である。今そういう愚劣な主張をしている経済学者は、日本以外にはいない。
- 不況の最中に構造改革を行なうと、供給を増やしてGDPギャップが拡大する:構造改革によって、供給だけが増えて需要は増えないという根拠は何だろうか。構造改革(産業構造の改革)は、潜在GDPを高めるものだから、需要と供給をともに高める。たとえば土建業から医療・福祉に労働力が移動すれば、労働供給も労働者の需要も増える。
- 構造改革は「清算主義」である:清算主義とは、1930年代のフーバー政権のメロン財務長官の“Liquidate labor, liquidate stocks, liquidate the farmers, liquidate real estate”という言葉だとされるが、彼がそのような発言をしたことを証明する1次資料はない(これはフーバーの回顧録の表現)。今そういう主張をしている経済学者もいないので、清算主義という言葉は無内容な藁人形である。
- 賃金を上げればGDPは上がる:Cole-Ohanianも指摘するように、ワグナー法によって実質賃金が上がったことが、大恐慌を長期化した疑いが強い。賃上げによって所得が波及する「乗数効果」より、企業が雇用を減らす「価格効果」のほうが大きいからだ。「分配を平等にすればGDPが上がる」という類の主張もナンセンス。ジニ係数と1人あたりGDPに有意な相関はない。
- 財政赤字は「国民の国民に対する借金」だから心配する必要はない:債権(国債)を買う世代と、債務(増税による償還義務)を負う世代は別である。国債を買うのは資産選択による合理的行動だが、将来世代が国債を償還するのは国家による強制的な徴税だ。両者が同じなら、増税が政治的争点にはならないだろう。政府紙幣も国債の日銀引き受けと同じで、丸もうけにはならない。
追記:私の政策提言は「アゴラ」に書いた。
私がRSSリーダーに入れている"The Big Picture"の管理人、Barry Ritholtzの本"Bailout Nation"の発売が、1月中旬から何度も遅れていたが、結局、発売中止になった。
版元(McGraw-Hill)の説明では「事実の確認が取れない」というのが理由だが、Ritholtzがくわしく説明しているように、これは嘘である。本当の理由は、McGH社と同じ持ち株会社の傘下にあるS&Pを、Ritholtzが「ポン引き」と書いたことだ。編集者の反対によって彼は原稿を「外交的に」書き直したが、McGH社は最終的に出版中止を決めた。オリジナルの原稿をみても、表現はやや穏当を欠くとはいえ、格付け会社が債券の発行元から手数料をもらって格付けを行なうのは、ポン引きが娼婦を格付けするようなもので客観性は期待できない――というのはごく当たり前の話で、今どき目新しくもない。
このエピソードは、バブル崩壊のたびに問題になる利益相反の皮肉な例だ。ITバブルのときは、ベンチャー企業のIPOを引き受けた投資銀行のアナリストがバブルをあおり、エンロンのときは監査をやったアーサー・アンダーセンがコンサルティングもやっていた。Ritholtzが批判したのは、まさにこうしたcorporate entanglementだったのである。
版元(McGraw-Hill)の説明では「事実の確認が取れない」というのが理由だが、Ritholtzがくわしく説明しているように、これは嘘である。本当の理由は、McGH社と同じ持ち株会社の傘下にあるS&Pを、Ritholtzが「ポン引き」と書いたことだ。編集者の反対によって彼は原稿を「外交的に」書き直したが、McGH社は最終的に出版中止を決めた。オリジナルの原稿をみても、表現はやや穏当を欠くとはいえ、格付け会社が債券の発行元から手数料をもらって格付けを行なうのは、ポン引きが娼婦を格付けするようなもので客観性は期待できない――というのはごく当たり前の話で、今どき目新しくもない。
このエピソードは、バブル崩壊のたびに問題になる利益相反の皮肉な例だ。ITバブルのときは、ベンチャー企業のIPOを引き受けた投資銀行のアナリストがバブルをあおり、エンロンのときは監査をやったアーサー・アンダーセンがコンサルティングもやっていた。Ritholtzが批判したのは、まさにこうしたcorporate entanglementだったのである。
小倉氏のブログは、あいかわらずネタの宝庫なので、枕に使わせてもらう。きのうの記事では、こう書く:
よく「資本主義」と「市場経済」を同じ意味に使う人がいるが、両者は別の概念である。ブローデルもいうように、資本主義の核にあるのは不等価交換によって利潤を追求するシステムであり、それは等価交換を原則とする市場と対立する。資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。
『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会(burgerliche Gesellschaft)である。これを「ブルジョア社会」と訳すのは誤りで、これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である(最近の言葉でいえば市場経済)。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。
マルクスが生前に完成した『資本論』第1巻には、階級という概念は出てこない。「諸階級」が出てくるのは、第3巻の最後の「三位一体定式」の部分である。階級対立は剰余価値によって生み出される二次的な関係であり、マルクスの理論の本質ではないのだ。またマルクスは「平等」を求めたこともない。彼が理想として掲げたのは「私的所有」を廃止して「個人的所有」に置き換え、「自由人のアソシエーション」を築くことだった。これは今の言葉でいえば、労働者自主管理に近いが、それもユーゴをはじめとして失敗に終わった。
つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタリアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。その派生的な結論として導かれた「階級闘争」とか「プロレタリアート独裁」などの概念が間違っていたことは、彼の決定的な限界ではない。
むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。
つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。これを拒否するか受け入れるかは、ある意味で歴史的な選択である。「新自由主義」を否定して、政府が不況で困った個人や企業をすべて救済し、それによる財政赤字をまかなうために税率を70%ぐらいに引き上げる国家社会主義も、一つの政策だろう。そうやってゆっくり衰退してゆくことが、日本にとって現実的に可能な唯一の選択肢であるような気もする。
マルクスは資本主義の研究者としては一流だったので,資本主義社会を分析するにあたっては,マルクスが開発した諸概念を用いることは有益ですから(そもそも"Capitalism"(資本主義)自体,マルクスの造語ですし。),当然のことなのですが。これはもちろん間違いである。マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は一度も出てこない。これを初めて使ったのはゾンバルトである(Wikipediaにも書いてある)。これは経済史の常識であり、こんないい加減な知識で、わかりもしない「階級闘争」を語るのはやめてほしいものだ。
よく「資本主義」と「市場経済」を同じ意味に使う人がいるが、両者は別の概念である。ブローデルもいうように、資本主義の核にあるのは不等価交換によって利潤を追求するシステムであり、それは等価交換を原則とする市場と対立する。資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。
『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会(burgerliche Gesellschaft)である。これを「ブルジョア社会」と訳すのは誤りで、これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である(最近の言葉でいえば市場経済)。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。
マルクスが生前に完成した『資本論』第1巻には、階級という概念は出てこない。「諸階級」が出てくるのは、第3巻の最後の「三位一体定式」の部分である。階級対立は剰余価値によって生み出される二次的な関係であり、マルクスの理論の本質ではないのだ。またマルクスは「平等」を求めたこともない。彼が理想として掲げたのは「私的所有」を廃止して「個人的所有」に置き換え、「自由人のアソシエーション」を築くことだった。これは今の言葉でいえば、労働者自主管理に近いが、それもユーゴをはじめとして失敗に終わった。
つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタリアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。その派生的な結論として導かれた「階級闘争」とか「プロレタリアート独裁」などの概念が間違っていたことは、彼の決定的な限界ではない。
むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。
つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。これを拒否するか受け入れるかは、ある意味で歴史的な選択である。「新自由主義」を否定して、政府が不況で困った個人や企業をすべて救済し、それによる財政赤字をまかなうために税率を70%ぐらいに引き上げる国家社会主義も、一つの政策だろう。そうやってゆっくり衰退してゆくことが、日本にとって現実的に可能な唯一の選択肢であるような気もする。
30分で書いた先日の記事が思わぬ議論を呼んでいるので、補足しておく。書き方が混乱をまねいたのは申し訳ないが、これは「外国貿易乗数は大国のほうが大きい」という常識を書いただけだ。ちょうど先週出た日銀の金融経済月報に、この原因についての分析があるので、引用しておこう:
わが国の生産の落ち込みは、世界的な景気調整の震源である米国と比べても、むしろ大幅なものとなっている。これには、以下に示すように、日米製造業の構造の違いが大きく影響していると考えられる。私の記事で書いたのは、このうち「第3の効果」だけで、本質的な問題は日本経済の2000年代の成長率のほぼ半分が輸出の増加によるものだったことである。先日の『Voice』の記事を読むと、こうした問題を「需要不足は景気対策で一発で片づく」と考える民間信仰はまだ根強く残っているようだが、今回の外需の不足をもたらしたのは製造業の産業構造であり、マクロ政策で変えることはできない。
第1に、鉱工業を構成する産業のウエイトの違いである。鉱工業の生産の内訳をみると、わが国は、落ち込みの大きい輸送機械(自動車等)、電気機械類(電子部品・デバイス、電気機械、情報通信機械)、一般機械(設備機械等)の3業種で鉱工業全体の約5割を占めているのに対し、米国では、それに対応する業種の比率は2割程度。
第2に、輸出の影響の違いである。輸送機械など3業種では、ウエイトだけでなく、生産の落ち込み幅自体もわが国の方が大きく、これには輸出の大幅減少が影響している。わが国では、これら3業種を中心に製造業の輸出比率がもともと米国より高く、しかも近年は、新興国・資源国の需要拡大や為替円安を背景に、輸出比率はさらに高まっていた。
第3に、需要ショックの波及効果の違いである。輸出が増加すると、その生産に必要な財・サービスの国内取引を通じて次々と他の製造業の生産に波及し、結果として当初の需要増加の何倍かの国内生産が誘発される。わが国では部品や素材の国内調達比率が高いことから、こうした最終需要の製造業生産に対する誘発力は高い。
その結論は、われわれとほぼ同じだ。危機の背景には、新興国の過剰貯蓄をアメリカが吸収したことによるグローバル・インバランスがあり、高いリターンを実現したようにみえる投資銀行の金融商品の中身は多分に詐欺的なものだった。それが放置されたのは、オフショアの「影の銀行システム」が銀行規制の抜け穴になっていたためだ。したがって今回の危機の主要な原因は、時代遅れの規制による「政府の失敗」であり、これを「新自由主義の行き過ぎという観点で捉えることは、誤った判断となる」。
日本の投資不足が慢性的に続き、それを外需で埋めてきた経済構造が、欧米より大きなダメージを受ける原因となった。したがって日本経済を内需主導に転換する改革が必要で、地方公務員の給与が異常に高く有能な人材が民間に集まらない「社会主義的」な経済構造が成長を制約している――というのが本書の結論だ(これもわれわれとほぼ同じ)。
原田泰氏は「リフレ派」に近いが、このように市場を重視する考え方は「構造改革派」と同じであり、もはやそういう対立には意味がない。「富をつくった人に富が還元されるしくみがなければ社会は豊かにならない」というのは、すべての経済学者のコンセンサスである。
今回の金融危機について、グローバル・インバランスと金融技術とFRBの金融緩和に原因を求める「通説」に対して、Caballeroが異を唱えている。
問題は資金の過剰ではなく、金融商品の不足である。新興国などの旺盛な投資意欲を満たす安全でリターンの高い金融商品が慢性的に不足しており、アメリカの投資銀行がその需要を満たしたため、資金がアメリカに流入したのだ。グローバル・インバランス(特にアメリカの経常赤字)はそれによって生じたもので、世界的な低金利もその結果だ。そのギャップを埋めたのはアメリカの住宅ローン市場であり、リスクの高いサブプライムローンをプールしてAAA格付けを得る金融技術だった。Tail riskを管理することが金融機関の仕事なのか政府や中央銀行の仕事なのかは、今後の制度改革でも争点になろう。カウンタパーティ・リスクを度外視してCDSを売っていた投資銀行が免罪されるとも思えないが、すべての証券が投げ売りされるリスクを織り込んで格付けや値付けを行なうことも不可能だろう。Caballeroは、もう少し具体的な提案もしている。
しかし金融技術は、個別の金融商品のリスクをヘッジできても、金融システムが崩壊するような(Knightの意味での)不確実性をヘッジすることはできない。ラムズフェルドの有名な言葉でいうと、投資銀行はknown unknownを扱うことはできるが、unknown unknownを扱うことはできないのだ。それは民間の仕事ではなく、政府や中央銀行の仕事である。ところがアメリカ政府とFRBは、投資銀行を通常の企業の破綻と同じように扱い、不確実性を爆発的に拡大してしまった。
この結果、金融の保険機能がなくなって企業の現金制約が非常にきびしくなり、経済が大きく収縮している。したがって必要な政策も、銀行への資本注入より、政府が資産を額面で買収してtail riskを減らすほうが重要だ。いま起きているのは大規模な取り付けの一種なので、悪い均衡から脱出して「普通の不況」に戻すために必要なのは、預金保険のような「金融保険」の機能である。
Sachsがこう書いている:
米政府とFRBは、経済を安定させるつもりで、かえって不安定にする政策を続けてきた。オバマ政権の巨額の財政政策は、短期的には成功するかもしれないが、長期的にはさらに深刻な危機をまねくおそれが強い。私も、MankiwやCowenと同じく1票。
アメリカを繁栄に導いたのは、非裁量的なマクロ政策だった。1970年代の「ハイ・インフレーション」の教訓は、裁量的な景気対策がかえってスタグフレーションをもたらすということだった。このため80年代以降、ルールにもとづく金融政策がとられ、インフレは沈静し、アメリカ経済は安定した。
ところがLTCMの破綻やY2K問題に過剰反応して、FRBが通貨供給を膨張させたため、ITバブルが起きた。その崩壊と9・11の後、FRBは異常な金融緩和を行なって、現在の危機の原因をつくった。このような近視眼的な政策を繰り返すのはやめるべきだ。巨額の赤字財政やゼロ金利は、対症療法にはなるが、ドルを暴落させるリスクが大きい。
いちばん大事なのは、パニックに陥らないことだ。FRBは日本のデフレの轍を踏むまいとして過剰な金融緩和を行なったが、その結果起こった住宅バブルの崩壊で、アメリカはデフレに陥ってしまった。「大恐慌が来る」という類の話はナンセンスだ。1930年代には、金本位制のもとで預金保険もない状態で、銀行がバタバタつぶれた。その過ちを当局が繰り返すことはありえない。
アメリカ経済が回復するために必要なのは、ゼロ金利や財政赤字ではなく、財政収支を長期的に均衡させ、政府が長期的な成長を可能にする公共インフラに投資することだ。目の前の急激な変化に右往左往してアドホックな「安定化政策」をとることは、かえって経済を不安定にするという歴史の教訓に学ぶべきだ。
日本経済が外需の変化の影響を受けやすい、と書くと「日本の輸出のGDP比は小さいから影響はない」といったコメントが来る。そういう間違いを堂々と書いた「1ドル70円台の日本経済」という記事が月刊誌に現れたので、基本的なことだが訂正しておく。
X=1/(1-c+d)
ここで貿易依存度が小さいとdが小さくなるので、Xは大きくなる。逆にいうと、輸出が減った場合のマイナスの影響も大きい。輸出産業の部品を国内で調達する比率が高いからだ。一般に大国では貿易の比重は小さくなるので、輸出比率の小さい日本が外需の影響を受けやすいのである。
この記事は他にも間違いが多く、正しい部分はほとんどない。
「日本の輸出依存度って、せいぜい15%だけど、これって高いかな?」輸出のGDP比が小さいからといって、その影響も小さいとは限らない。輸出の波及効果の大きさを示す外国貿易乗数Xは、限界消費性向をc、限界輸入性向をdとすると、
「……高いだろう。15%もあるのだから」
「でも他の国と比較すると、日本の輸出依存度は、主要国のなかではアメリカの次に低いよ。なにしろ製造業が衰退しちゃった、あのイギリスよりも低いんだから」
X=1/(1-c+d)
ここで貿易依存度が小さいとdが小さくなるので、Xは大きくなる。逆にいうと、輸出が減った場合のマイナスの影響も大きい。輸出産業の部品を国内で調達する比率が高いからだ。一般に大国では貿易の比重は小さくなるので、輸出比率の小さい日本が外需の影響を受けやすいのである。
この記事は他にも間違いが多く、正しい部分はほとんどない。
昨今の銀行国有化をめぐる議論は、シティバンクを決済銀行にしている私としては他人事ではない。米政府はまだそこまで踏み切っていないが、グリーンスパンも国有化を支持する状況になり、もう時間の問題だろう。預金者として気になるのは、このまま放置すると自己資本がBIS基準を割り込んで海外営業できなくなることだ。とにかく自己資本を強化してほしい。
そういう個人的な理由もさることながら、もう国有化しか選択の余地はないと思う。Hart-Shleifer-Vishneyの基準でいうと、完備契約が可能であれば、国有化する必要はない。銀行の資産査定が厳格にできて経営者の行動を規制でコントロールできれば、民間企業のまま規制すればいいのだ。しかし現状では非常に大きな不完備性が生じ、特に資産価値が外部からまったくわからない状態になっているので、政府が介入して資産査定をやらないと処理できないだろう。
むしろ問題は、国有化が最終解決にならないことだ。日本では1998年の「金融国会」で長銀の国有化が決まり、次いで日債銀が国有化された後も、他のメガバンクは依然として「自己責任」による不良債権処理を続けていた。これについて2002年、柳沢金融担当相と竹中経済財政担当相が対立し、柳沢氏が更迭されて竹中氏が金融担当相を兼務し、「竹中プラン」で強制的な処理を打ち出した。結果的には、りそなを救済したりして、それほどドラスティックな処理はしなかったが、この「脅し」によって銀行が最終処理を加速した。
今回もシティとバンカメが国有化されることは避けられないとしても、その範囲をどこまで広げるかがむずかしい。「スウェーデンは国有化で片づいた」とよくいわれるが、これはアメリカでいえば地方銀行ぐらいの規模で、あまり参考にはならない。すべての米銀を国有化したら、財政が破綻してドルが暴落し、世界中に金融危機が拡大するおそれが強い。日本の経験でいうと、個別の介入より竹中プランのようなルールの厳格化によるcredible threatのほうが効果的なのではないか。
米財務省の検討しているbad bankも、運用がむずかしい。日本でも日銀が「平成銀行」による処理を計画していたが、最初に東京の二信組にそのスキームを適用したため、「高橋治則の貯金箱に公的資金を投入した」という批判を浴びて、後退せざるをえなかった。整理回収機構も、住専処理で批判を浴びたことに対する埋め合わせとして始まったため、むやみに刑事罰を振り回す変な組織になってしまった。
こうしてみると、真の敵は銀行ではなく、勧善懲悪や自己責任を求める世論(メディア)だ、というのが日本の教訓だ。大塚将司氏もいうように、特に自己責任論に熱心だったのは日経新聞である。視野の狭い「事後の正義」が経済をだめにするのは広く見られる法則だが、不良債権処理では特にそういう感情論を排し、リスクと便益を冷静に比較衡量する必要がある。どっちにしても、シティの預金は守ってください・・・
訂正:シティバンクは、2007年から預金保険の対象になった。関係者にご迷惑をかけたことをおわびします。
そういう個人的な理由もさることながら、もう国有化しか選択の余地はないと思う。Hart-Shleifer-Vishneyの基準でいうと、完備契約が可能であれば、国有化する必要はない。銀行の資産査定が厳格にできて経営者の行動を規制でコントロールできれば、民間企業のまま規制すればいいのだ。しかし現状では非常に大きな不完備性が生じ、特に資産価値が外部からまったくわからない状態になっているので、政府が介入して資産査定をやらないと処理できないだろう。
むしろ問題は、国有化が最終解決にならないことだ。日本では1998年の「金融国会」で長銀の国有化が決まり、次いで日債銀が国有化された後も、他のメガバンクは依然として「自己責任」による不良債権処理を続けていた。これについて2002年、柳沢金融担当相と竹中経済財政担当相が対立し、柳沢氏が更迭されて竹中氏が金融担当相を兼務し、「竹中プラン」で強制的な処理を打ち出した。結果的には、りそなを救済したりして、それほどドラスティックな処理はしなかったが、この「脅し」によって銀行が最終処理を加速した。
今回もシティとバンカメが国有化されることは避けられないとしても、その範囲をどこまで広げるかがむずかしい。「スウェーデンは国有化で片づいた」とよくいわれるが、これはアメリカでいえば地方銀行ぐらいの規模で、あまり参考にはならない。すべての米銀を国有化したら、財政が破綻してドルが暴落し、世界中に金融危機が拡大するおそれが強い。日本の経験でいうと、個別の介入より竹中プランのようなルールの厳格化によるcredible threatのほうが効果的なのではないか。
米財務省の検討しているbad bankも、運用がむずかしい。日本でも日銀が「平成銀行」による処理を計画していたが、最初に東京の二信組にそのスキームを適用したため、「高橋治則の貯金箱に公的資金を投入した」という批判を浴びて、後退せざるをえなかった。整理回収機構も、住専処理で批判を浴びたことに対する埋め合わせとして始まったため、むやみに刑事罰を振り回す変な組織になってしまった。
こうしてみると、真の敵は銀行ではなく、勧善懲悪や自己責任を求める世論(メディア)だ、というのが日本の教訓だ。大塚将司氏もいうように、特に自己責任論に熱心だったのは日経新聞である。視野の狭い「事後の正義」が経済をだめにするのは広く見られる法則だが、不良債権処理では特にそういう感情論を排し、リスクと便益を冷静に比較衡量する必要がある。どっちにしても、シティの預金は守ってください・・・
訂正:シティバンクは、2007年から預金保険の対象になった。関係者にご迷惑をかけたことをおわびします。
小倉秀夫氏によれば、
何度も書いたように、リスク管理の目的はリスクをゼロにすることではない。人命が他のすべてに無条件に優先するのなら、まず自動車を禁止すべきだ。重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である。ところが日本人はこれが非常にへたで、特に役所は「経済性より人命のほうが大事だ」というメディアの攻撃に弱く、責任をまぬがれるために過剰セキュリティを義務づける傾向が強い。これを霞ヶ関では「政府ガード」というそうだ。
この問題は、実は日本経済の最大の課題である内需拡大ともからんでいる。日本人のポートフォリオが異常にリスク回避的で貯蓄過剰になっているという問題は、私の学生のころからゼミの研究テーマだったが、いまだに変わらず、原因もはっきりしない。日本の金融システムが「間接金融」中心になっているというのがよくある説明だが、これは原因か結果かわからない。1980年代に外資系証券がアークヒルズに大量にやってきて、「これからは証券の時代だ」といわれたが、バブル崩壊でほとんど撤退してしまった。
残る最悪の説明は「日本人はリスクがきらいなのだ」という文化論だが、これは何も説明していないに等しい。私が参考になると思っているのは、ゲーム理論でいうリスク支配戦略の概念だ。ゲームに複数均衡がある場合、一つの均衡がパレート支配的であっても、合理的な行動によってそこに到達するアルゴリズムは存在しない。しかし進化ゲームを考えると、Kandori-Mailath-Robなどで知られているように、個人的にリスクをとる突然変異が十分大きければ(パレート支配的な)リスク支配戦略が実現する。
逆にいうと、日本人のように突然変異の少ない(同質的な)集団では、自分だけ他人と違う行動をとるリスクが将来の利益より大きいので、昔からのローリスクの均衡への経路依存性が強くなる。こうしたリスクを効率的に配分するのが金融システムの機能で、日本でも80年代には長銀や興銀が投資銀行への転進をはかったが、バブル崩壊に巻き込まれて挫折した。そのため、ハイリスク型の金融市場が形成されず、資産構成がローリスクに片寄ったまま現在に至っているのではないか。
このローリスク志向のおかげで、邦銀は今回の金融危機では難をまぬがれたので、悪いことばかりでもないが、この壁を突破しないと日本は、長期停滞から脱却できないだろう。まぁゆっくり衰退するというのも一つの選択ではあり、事実上それしかないような気もするが、それが「正義」だと勘違いして日本を衰退の道にひきずりこむのはやめてほしいものだ。
新自由主義って,人命に特段の価値を見出しません。そもそもたかだか人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います。「人命と,建築業界の収益とどちらが大切なんだ」と問われて,法律家は人命だと答え,経済学者は建築業界の収益だと答える。よくこれで弁護士をやってるね。私がどこで「人命に特段の価値を見出さない」と書いたのか、と反論されたら、訴訟なら終わりだ。「小倉ヲチ」なんてサイトもあるぐらい、世の中に彼の被害者は多いようで、まともな議論の相手にはならないが、病理学的な観察の対象としてはおもしろい。
何度も書いたように、リスク管理の目的はリスクをゼロにすることではない。人命が他のすべてに無条件に優先するのなら、まず自動車を禁止すべきだ。重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である。ところが日本人はこれが非常にへたで、特に役所は「経済性より人命のほうが大事だ」というメディアの攻撃に弱く、責任をまぬがれるために過剰セキュリティを義務づける傾向が強い。これを霞ヶ関では「政府ガード」というそうだ。
この問題は、実は日本経済の最大の課題である内需拡大ともからんでいる。日本人のポートフォリオが異常にリスク回避的で貯蓄過剰になっているという問題は、私の学生のころからゼミの研究テーマだったが、いまだに変わらず、原因もはっきりしない。日本の金融システムが「間接金融」中心になっているというのがよくある説明だが、これは原因か結果かわからない。1980年代に外資系証券がアークヒルズに大量にやってきて、「これからは証券の時代だ」といわれたが、バブル崩壊でほとんど撤退してしまった。
残る最悪の説明は「日本人はリスクがきらいなのだ」という文化論だが、これは何も説明していないに等しい。私が参考になると思っているのは、ゲーム理論でいうリスク支配戦略の概念だ。ゲームに複数均衡がある場合、一つの均衡がパレート支配的であっても、合理的な行動によってそこに到達するアルゴリズムは存在しない。しかし進化ゲームを考えると、Kandori-Mailath-Robなどで知られているように、個人的にリスクをとる突然変異が十分大きければ(パレート支配的な)リスク支配戦略が実現する。
逆にいうと、日本人のように突然変異の少ない(同質的な)集団では、自分だけ他人と違う行動をとるリスクが将来の利益より大きいので、昔からのローリスクの均衡への経路依存性が強くなる。こうしたリスクを効率的に配分するのが金融システムの機能で、日本でも80年代には長銀や興銀が投資銀行への転進をはかったが、バブル崩壊に巻き込まれて挫折した。そのため、ハイリスク型の金融市場が形成されず、資産構成がローリスクに片寄ったまま現在に至っているのではないか。
このローリスク志向のおかげで、邦銀は今回の金融危機では難をまぬがれたので、悪いことばかりでもないが、この壁を突破しないと日本は、長期停滞から脱却できないだろう。まぁゆっくり衰退するというのも一つの選択ではあり、事実上それしかないような気もするが、それが「正義」だと勘違いして日本を衰退の道にひきずりこむのはやめてほしいものだ。
先日の北欧モデルについて、もう少し調べてみた。北欧をひとくくりにするSachsの話は少し荒っぽく、最近はスウェーデンとデンマークは区別して論じるようだ。週刊東洋経済が昨年、特集していたが、EUでも"flexicurity"というスローガンを掲げ、雇用の柔軟性(flexibility)と保障(security)を両立させることを目標にしている。そのモデルがデンマークとオランダである。
これは解雇規制を弱めて基本的に解雇自由にする一方、失業者に手厚い失業給付を行ない、給付の条件として職業訓練を義務づけるもので、デンマークでは図のように「黄金の三角形」と呼ばれているそうだ。日本では、雇用の流動化は「北風政策」だとか「デフレを促進する」とかいう愚劣な議論が多いが、デンマークの例が示しているように、労働市場を柔軟にすることは失業率を下げ、成長率を高めるのだ。
このシステムは、組織率の高い労組や高い税率による社会保障などのセーフティネットと一体なので、日本に輸入できるかどうかはよくわからないが、厚労省の進めている派遣規制の強化などの「官製失業」を生み出す政策よりいいことは間違いない。特に産業構造の調整が容易になることは日本経済にとって重要なので、多少コストがかかっても積極的労働政策を導入する意味はあろう。「フレクシキュリティ」は、民主党にとって魅力的な選挙向けスローガンになるのではないか。
『なぜ世界は不況に陥ったのか』が、アマゾンで先行発売された。売れ行きは、おかげさまで順調だ。エグゼクティブ・サマリーはこちら。
27日から書店に並ぶ。本書の発売を記念したトークセッションが、来月13日に丸善丸の内本店で開かれる。
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小倉秀夫氏はこう書いている:
建築確認は木造の建物の安全性を確認するためにできた制度で、現在の複雑な建築物の耐震性を図面だけで確認することはできない。実際の問題の大部分は、手抜き工事などの施工段階で起こるからだ。姉歯元建築士の設計した建物は「震度5で倒壊する」とされて取り壊されたが、同じ論法でいけば、1981年の建築基準法改正以前の建物は、みんな取り壊さなければならない。しかし役所もメディアも、それは問題にしない。震度5でコンクリートの建物が倒壊した事件はほとんどないからだ。
つまり建築基準法に違反することは「大震災のときにはあっさり崩壊する」ことを意味しないのだ。国交省がそれを摘発したのは、法律に違反するからであり、メディアが集中攻撃したのも、耐震データの偽造という明白な違法行為を本人が認めたからだ。役所やメディアが攻撃するのは、実質的な安全性ではなく手続き的な違法性なのである。
これは心理的には当然だ。官僚もジャーナリストも、建築についての専門知識はもっていないので、ある建築が安全かどうかを判断することはできないが、違法性を判断するのは簡単だ。昔は一方的な情報でスキャンダル報道をしたが、三浦和義が起こした大量の名誉毀損訴訟でメディアが連敗し、強制捜査が行なわれるまでは犯罪者扱いしないというルールが確立した。これ自体はいいことなのだが、こうした原則を拡大すると、非公式の情報による調査報道はほとんどできなくなり、警察が立件した事件に報道が集中する結果になる。
このように違法ではないが重要な問題が放置され、どうでもいい違法行為が摘発されることで企業が「思考停止」し、形式的な法令遵守に多くの労力がさかれ、法務部の発言力が社長より強まっている。それをいいことにメディアは、一連の食品偽装事件のように「改竄」や「捏造」があると、実質的な安全性に関係なく大騒ぎする。この負のループを断ち切らないと、日本はいつまでも「官製不況」から脱却できないだろう。そのためには郷原氏もいうように、法律を視野の狭い法律家から解放し、一般市民が健全な常識にもとづいて法を運用できるような規制改革が必要である。
建築基準法を改正せず,「粗悪な建築がなされ,大震災のときにはあっさり崩壊するような建物が建つかも知れないけど,それって自己責任だよね」ってことで放置しておいた場合に,「よくわかんないけど,地震で倒れたらその時に考えればいいや。数千万円から数億円の買い物で色々考えるのは面倒くさいから,買っちゃえ!」という消費者がそんなにたくさんいただろうかと考えると,それも楽観的にすぎるのではないかという気がします。彼は建築基準法に違反すると「大震災のときにはあっさり崩壊する」というメディアの宣伝を素朴に信じているらしいが、これは郷原信郎氏のいう実質的なコンプライアンスと形式的な法令遵守の混同の典型である。
建築確認は木造の建物の安全性を確認するためにできた制度で、現在の複雑な建築物の耐震性を図面だけで確認することはできない。実際の問題の大部分は、手抜き工事などの施工段階で起こるからだ。姉歯元建築士の設計した建物は「震度5で倒壊する」とされて取り壊されたが、同じ論法でいけば、1981年の建築基準法改正以前の建物は、みんな取り壊さなければならない。しかし役所もメディアも、それは問題にしない。震度5でコンクリートの建物が倒壊した事件はほとんどないからだ。
つまり建築基準法に違反することは「大震災のときにはあっさり崩壊する」ことを意味しないのだ。国交省がそれを摘発したのは、法律に違反するからであり、メディアが集中攻撃したのも、耐震データの偽造という明白な違法行為を本人が認めたからだ。役所やメディアが攻撃するのは、実質的な安全性ではなく手続き的な違法性なのである。
これは心理的には当然だ。官僚もジャーナリストも、建築についての専門知識はもっていないので、ある建築が安全かどうかを判断することはできないが、違法性を判断するのは簡単だ。昔は一方的な情報でスキャンダル報道をしたが、三浦和義が起こした大量の名誉毀損訴訟でメディアが連敗し、強制捜査が行なわれるまでは犯罪者扱いしないというルールが確立した。これ自体はいいことなのだが、こうした原則を拡大すると、非公式の情報による調査報道はほとんどできなくなり、警察が立件した事件に報道が集中する結果になる。
このように違法ではないが重要な問題が放置され、どうでもいい違法行為が摘発されることで企業が「思考停止」し、形式的な法令遵守に多くの労力がさかれ、法務部の発言力が社長より強まっている。それをいいことにメディアは、一連の食品偽装事件のように「改竄」や「捏造」があると、実質的な安全性に関係なく大騒ぎする。この負のループを断ち切らないと、日本はいつまでも「官製不況」から脱却できないだろう。そのためには郷原氏もいうように、法律を視野の狭い法律家から解放し、一般市民が健全な常識にもとづいて法を運用できるような規制改革が必要である。
さらに深刻なのは、司法のレベルの低さである。本書も引用している村上ファンド事件の一審判決は「被告の『安ければ買うし、高ければ売る』という徹底した利益至上主義に慄然とする」と糾弾した。このように市場経済を「利益至上主義」とか「新自由主義」と称して嫌悪するのは、日本の司法に広く行き渡った病気だ。著者は東京地検特捜部の元検事だが、このような経済司法のゆがみの特徴は「司法に経済的な常識が欠け、個別の当事者間での問題解決という方向に偏っている」ことにあると指摘する。
インサイダー情報の基準を「実現可能性がまったくない場合は除かれるが、あれば足り、その高低は問題とならない」とした村上ファンド事件の一審判決は、経営者の自社株取引をほとんど不可能にし、市場に大きな混乱をもたらした(二審判決では修正された)。ブルドックソース事件で、経営者がスティールパートナーズに「補償金」を払う買収防衛策を裁判所が認めたことは、株主の資金を経営者の地位保全のために使うことを公認する結果になった。このように社会全体に与える外部性を考えない司法の視野の狭い「事後の正義」が、経済を窒息させているのである。
著者はその原因を司法の位置づけの変化に求める。これまで社会の紛争は行政が事前規制で封じ込め、司法は例外的な事件を個別に処理する制度だったので、六法全書を暗記しただけの偏った知識でもよかった。しかし「法化社会」が提唱され、行政が退場して当事者が司法的に紛争解決するシステムが求められると、司法の社会的影響力は格段に大きくなり、法律家にはコモンロー的な常識が必要になる。
著者がその対策として提言するのが、「法律知識や訴訟技術をもつ者に法曹資格を与えるという従来の基準を変え、経済社会における法的問題に対応できる能力をもつ人材に広く法曹資格を与える」ことだ。著者はイギリスの事務弁護士(solicitor)の例をあげているが、私は弁護士免許を廃止して司法試験を資格認定にするというフリードマンの提案のほうが大きな効果があると思う。
麻生政権がいよいよ追い込まれ、3次補正の議論が始まっている。民主党も対案を検討しており、私のところにも各方面から情報が入ってくる。特に注目されるのは、日経にも少し出ているが、地デジ対策として「支援金」を出す話だ。総務省は2兆円規模を考えているそうだが、そんな財源はないので周波数オークションが有力視されているという。
景気対策として財政支出がうまく行かない最大の理由は、国債でファイナンスすると将来の増税になることを国民が予想するため、現在の需要創出効果が相殺されてしまうことだ。したがってファイナンスの必要ないとされる政府紙幣が話題になっているわけだが、これも結局は国債と同じだ。
これに対して、周波数オークションは財政黒字になる。710~806MHzを5スロットにわけて売却すれば、1兆円以上の財源が出る。それ以外にも470~710MHzのホワイトスペースに200MHz以上あいており、1.5GHz帯にも45MHzあるので、最大4兆円の国庫収入が上がる。残る2500万世帯すべてに10万円ずつ配っても1兆円以上お釣りが来る。
本質的な効果は、市場の創造によって通信サービスへの新規参入を促進し、内需拡大することだ。日本経済が低迷している原因は、製造業からサービス業への転換が遅れているためだが、無線通信はもっとも有望なサービス業である。周波数オークションは、景気対策と国庫収入と新規参入の一石三鳥になる、夢の経済政策だと思うのだが、どうだろうか。
景気対策として財政支出がうまく行かない最大の理由は、国債でファイナンスすると将来の増税になることを国民が予想するため、現在の需要創出効果が相殺されてしまうことだ。したがってファイナンスの必要ないとされる政府紙幣が話題になっているわけだが、これも結局は国債と同じだ。
これに対して、周波数オークションは財政黒字になる。710~806MHzを5スロットにわけて売却すれば、1兆円以上の財源が出る。それ以外にも470~710MHzのホワイトスペースに200MHz以上あいており、1.5GHz帯にも45MHzあるので、最大4兆円の国庫収入が上がる。残る2500万世帯すべてに10万円ずつ配っても1兆円以上お釣りが来る。
本質的な効果は、市場の創造によって通信サービスへの新規参入を促進し、内需拡大することだ。日本経済が低迷している原因は、製造業からサービス業への転換が遅れているためだが、無線通信はもっとも有望なサービス業である。周波数オークションは、景気対策と国庫収入と新規参入の一石三鳥になる、夢の経済政策だと思うのだが、どうだろうか。
日本の一部の人々にとっては、経済危機によって「新自由主義」が終わったのだそうだが、そういう人に限って自分が何をいっているのか理解していない。小倉秀夫氏は次のように書く:
以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。
普通は,「neoliberalism」の訳語だと考えると思うのですが,池田先生は「neoliberalism」という言葉が用いられている英語文献をお読みになったことがないのでしょうか(「neoliberalism」でググっていただければ,おびただしい量のサイトが検出されると思いますが。)。Neoliberalismという言葉が使われるようになった最初はHarvey "A Brief History of Neoliberalism"(2005)で、さかのぼると1996年にメキシコで開かれた「反グローバリズム」集会が最初のようだ。これに対してlibertarianismの最初は1789年。どっちがオリジナルかは議論の余地もない。Libertarianismを「新自由主義」と訳したのは西山千明氏で、『隷属への道』の訳者あとがきで彼はこう書いている:
1970年代から、私はシカゴ学派の自由主義を「新自由主義」と呼ぶことにした。この「新自由主義」は、日本では大いに誤解されていると思う。最近では[ハーヴェイの]訳書の「新自由主義」というタイトルにだまされている向きがあって、これ以上多くの学者にさらに誤った考え方を抱かれては、世論をいっそう誤導することになるので、以上で事情を明らかにしておきたい。西山氏が1970年代からlibertarianismの訳語として使っていた「新自由主義」を、その20年以上後になってneoliberalismの訳語として使うのは混乱のもとだ。まして後者が「普通」で前者が間違いだと主張するのは主客転倒である。拙著にも書いたが、欧米でも「自由主義」をさす言葉には複雑な歴史があり、誤解をきらったハイエクはliberalismやlibertarianismという言葉を使わなかった。彼の思想は「新」自由主義ではなく、ヒュームやスミス以来の古典的自由主義であり、不況とともに消えるような底の浅い思想ではない。
以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。
一昨日の記事に安富歩氏から「スウェーデンモデルをどう見るか」というコメントをもらった。昨日ちょうど「北欧モデル」の話を、ある大学の研究所長としたところだった。北欧モデルの成功は「英米型の自由主義経済が効率的だ」という経済学者の多数意見に対する挑戦で、最近ではSachsとEasterlyが論争している。

北欧の労働生産性が高いのは、解雇自由で労働移動がすみやかなことが原因といわれているが、このモデルに普遍性があるかどうかはわからない。北欧諸国は人口数百万人で、労働人口が均質で教育程度が高い。北欧の労働者保護のインフラになっているのは、組織率80~90%の産業別労組であり、他の国がまねるのはむずかしい。同じように税率の高い欧州全体をみると、1人あたりGDPはアメリカの75%以下であり、福祉国家の経済効率は一般にはよくない。
要するに北欧モデルは小国の特殊なシステムで、日本の6000万人以上の労働人口をこれから産業別労組に組織するのは不可能だし、政府が労働者の面倒を全面的にみるのは財政負担がとても耐えられないだろう。ただ日本的福祉システムが崩壊した今、企業ではなく社会によってセーフティ・ネットを整備する必要があり、北欧型の積極的労働政策には学ぶべき点が多い。解雇自由にする代わりに、職業訓練などによって労働移動を円滑にする制度を、労組や政府ではなくビジネスベースで実現するしくみが必要だろう。
The Nordic states have also worked to keep social expenditures compatible with an open, competitive, market-based economic system. Tax rates on capital are relatively low. Labor market policies pay low-skilled and otherwise difficult-to-employ individuals to work in the service sector, in key quality-of-life areas such as child care, health, and support for the elderly and disabled.とSachsのいうように、大きな政府が非効率だとは限らない。少なくとも1人あたりGDPでみるかぎり、北欧型が英米型をしのいでいる。Easterlyがハイエクと同じく、福祉国家を社会主義と一緒くたにしているのは間違いである。
北欧の労働生産性が高いのは、解雇自由で労働移動がすみやかなことが原因といわれているが、このモデルに普遍性があるかどうかはわからない。北欧諸国は人口数百万人で、労働人口が均質で教育程度が高い。北欧の労働者保護のインフラになっているのは、組織率80~90%の産業別労組であり、他の国がまねるのはむずかしい。同じように税率の高い欧州全体をみると、1人あたりGDPはアメリカの75%以下であり、福祉国家の経済効率は一般にはよくない。
要するに北欧モデルは小国の特殊なシステムで、日本の6000万人以上の労働人口をこれから産業別労組に組織するのは不可能だし、政府が労働者の面倒を全面的にみるのは財政負担がとても耐えられないだろう。ただ日本的福祉システムが崩壊した今、企業ではなく社会によってセーフティ・ネットを整備する必要があり、北欧型の積極的労働政策には学ぶべき点が多い。解雇自由にする代わりに、職業訓練などによって労働移動を円滑にする制度を、労組や政府ではなくビジネスベースで実現するしくみが必要だろう。
村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチの一部が、現地紙に出ている。当然「曖昧だ」とか「混乱する」とか否定的に論評しているが、抄録としてはもっとも長いので、スピーチの部分をそのまま引用しておこう:
追記:この記事はヤフーニュースのヘッドラインになって、11万PV以上のアクセスがあった。いろいろなバージョンの翻訳も、この記事へのコメントやTBからたどれる。スピーチのもっと長いダイジェストも出た。
So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.イスラエル人の前でこのようなスピーチを行うことは、受賞を拒否するよりはるかに困難な決断だ。彼の小説はデビュー作が『群像』に載ったときからすべて読んでいるが、このスピーチは彼の最高傑作だ。よくやったよ、君は日本人の誇りだ。
Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.
When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
So here is what I have come to say.
If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.
I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.
追記:この記事はヤフーニュースのヘッドラインになって、11万PV以上のアクセスがあった。いろいろなバージョンの翻訳も、この記事へのコメントやTBからたどれる。スピーチのもっと長いダイジェストも出た。
昨年10~12月期の成長率は、先日の記事で書いた上限を超える年率マイナス12.7%だったが、今年1~3月期はマイナス20%に迫ると予想されている。これを受けて、また3次補正の話が出ているが、昨年の1次補正や利下げなどの効果がなかったことは明白だ。景気刺激策がきかないのは、現在の経済危機がグローバルな経常収支バランスの大規模な変化によって生じているためだから、2回やってだめなものは3回やっても無駄だ。
こうした状況を受けて、ようやく「外需依存型」の経済構造を転換して「内需拡大」すべきだという声が出てきた。麻生内閣も、3月に「成長戦略」を出すそうだ。これについて、けさの日経新聞で、平田育夫論説委員長は、次のように書く:
具体的には、資本市場の改革(特に対外開放)で企業買収・売却による事業再構築を容易にすることと、労働市場を改革して衰退部門から成長部門への労働移動を促進することだ。いま政府のやっている外資による対内直接投資の規制や派遣労働の規制強化などは、逆に生産要素の移動をさまたげて、潜在成長率を低下させる。医療への参入を促進するために必要なのは政府の指導ではなく、医師会の圧力で医師の供給を絞ってきた医療政策の転換であり、介護への新規参入を阻害しているのは過剰な規制だ。
かつて通産省の看板だった産業政策が有害無益になったのは周知の事実だが、何もしないと予算が減るので、このごろは成長戦略という名前で時代錯誤の「ビジョン行政」が復活している。しかし「情報大航海プロジェクト」の失敗(関係者は「大後悔」と呼んでいるそうだ)をみてもわかるように、役所が産業を育成する時代ではない。経産省はターゲティング政策からは手を引き、財界や労組の抵抗を排して資本・労働市場を改革すべきだ。
こうした状況を受けて、ようやく「外需依存型」の経済構造を転換して「内需拡大」すべきだという声が出てきた。麻生内閣も、3月に「成長戦略」を出すそうだ。これについて、けさの日経新聞で、平田育夫論説委員長は、次のように書く:
わが日本にも成長戦略ははあるが、どれも網羅的で、経済産業省の新経済成長戦略などはA5判で三百五十ページもある。網羅的といえば聞こえが良いが「鳥獣害対策」まであると戦略の重点が分からない。また政治的に難しい問題には踏み込まないので芯を欠いてしまう。[・・・]この非常時にこそ、政治家が日本の将来像を描いて芯のある成長戦略を定め、それに沿って景気対策を実施すべきではないか。経済社会の将来に関しては環境、医療・介護、教育、農業などの分野や、そこでの生産性向上、雇用確保が重要だ。経産省の成長戦略が総花的だというのはその通りだが、平田氏の推奨する分野が成長産業かどうかはわからない(農業がそうでないことは明白だ)。成長産業を決めるのは経産省でも日経新聞でもなく、市場である。政府がやるべきなのは、特定の産業に「重点投資」する産業政策ではなく、私が先週の週刊東洋経済に書いたように、成長産業に人的・物的資源が移動できるような制度設計である。
具体的には、資本市場の改革(特に対外開放)で企業買収・売却による事業再構築を容易にすることと、労働市場を改革して衰退部門から成長部門への労働移動を促進することだ。いま政府のやっている外資による対内直接投資の規制や派遣労働の規制強化などは、逆に生産要素の移動をさまたげて、潜在成長率を低下させる。医療への参入を促進するために必要なのは政府の指導ではなく、医師会の圧力で医師の供給を絞ってきた医療政策の転換であり、介護への新規参入を阻害しているのは過剰な規制だ。
かつて通産省の看板だった産業政策が有害無益になったのは周知の事実だが、何もしないと予算が減るので、このごろは成長戦略という名前で時代錯誤の「ビジョン行政」が復活している。しかし「情報大航海プロジェクト」の失敗(関係者は「大後悔」と呼んでいるそうだ)をみてもわかるように、役所が産業を育成する時代ではない。経産省はターゲティング政策からは手を引き、財界や労組の抵抗を排して資本・労働市場を改革すべきだ。

ケインズの理論はIS-LM図式として教科書になり、それをさらに洗練して合理的期待理論ができた。現在のマクロ経済学の主流であるDSGEもその延長上にあるが、現在の危機はこの種の均衡理論への大きなチャレンジだ。DSGEでは代表的家計が永遠の未来を合理的に予測し、均衡は一つに決まると想定しているが、現状では人々が自信をなくし、その悲観的な予想が実現してますます自信をなくす複数均衡が生じているからだ。
複数均衡の理論的な可能性は、20年ぐらい前にCooper-Johnなどが指摘したが、通常の不況では大した問題ではなかった。しかし大恐慌や今回(あるいは90年代の日本)のように大規模な経済危機になると、人々が「悪い均衡」に集まるコーディネーションの失敗が深刻な問題になる(これは池・池本でも指摘した)。ゲーム理論でよく知られているように、こういう場合に均衡選択の一般的なアルゴリズムは存在しない。
したがって人々を「よい均衡」に集めることが、政府や中央銀行の役割だ。本書では、こうした均衡選択における信頼の役割を信頼乗数(confidence multiplier)と呼んでいる。大恐慌のときもそうだったように、危機の本質は金融システムへの信頼が失われたことだから、FRBが大量の通貨供給を行なって金融システムを支えることは、マネーストックへの効果より信頼乗数に働きかける効果のほうが重要だ。これは意外にも、Lucasの意見と似ている。
この観点からみると、発言が二転三転して支持率が10%を切った日本の首相の信頼乗数はマイナスだから、3次補正なんかやるのは税金の無駄だ。彼を更迭することが最大の景気対策である。