2009年11月10日
どんなことができるだろう
小説を読んだり、他人の日記を読んだり、絵を観たり、映画を観たり、音楽を聴いたり、とにかく表現と会うたびに思いしらされることは自分が如何に表現というもの対して甘く見てるか、ということだ。
どこかで自分にも出来る。もしくは自分のほうがもっと上を行けると考えてしまう。
実際に形にすることが出来ないというのに、だ。
たとえば自分は小説を書いたりしているが、伝えたいことは合っても文や、構想、知識が足りなくて形にすることが出来ない。
まだまだ経験が足りないんだ、の一言で済ましてしまうことも出来るのだが明らかに才能、そして感受性が足りないとも言える。
つまるところは元が無いのである。
では何をすれば良いのだろうか?
自分はとにかく表現がしたい。
いくら甘くったて表現がしたい。
世の中に伝えたいことがいっぱいある。
たとえそれが世の中が不必要としていて、排他されたとしても、である。
世の中を変えたい。
少しでも良いから世の中を変えたい。
ただ思っているだけではダメなのである。
何かしらの形をもってある程度の完成度のある作品があるからこそそういったことが可能になる。
果たして、どうだろうか。
自分はどこまで努力できるだろうか。
それが不安で仕方がない。
どこかで自分にも出来る。もしくは自分のほうがもっと上を行けると考えてしまう。
実際に形にすることが出来ないというのに、だ。
たとえば自分は小説を書いたりしているが、伝えたいことは合っても文や、構想、知識が足りなくて形にすることが出来ない。
まだまだ経験が足りないんだ、の一言で済ましてしまうことも出来るのだが明らかに才能、そして感受性が足りないとも言える。
つまるところは元が無いのである。
では何をすれば良いのだろうか?
自分はとにかく表現がしたい。
いくら甘くったて表現がしたい。
世の中に伝えたいことがいっぱいある。
たとえそれが世の中が不必要としていて、排他されたとしても、である。
世の中を変えたい。
少しでも良いから世の中を変えたい。
ただ思っているだけではダメなのである。
何かしらの形をもってある程度の完成度のある作品があるからこそそういったことが可能になる。
果たして、どうだろうか。
自分はどこまで努力できるだろうか。
それが不安で仕方がない。