両手の指1本ずつに包帯を巻いた女性。
「手の指の皮がしょっちゅう剥(は)がれるの。血管注射を受けると、ぜんぶ破裂してしまうし、薬を塗って包帯しないと擦り切れたように血がにじむの」
いま静かに上映活動が広がっているドキュメンタリー映画『ヒロシマ・ピョンヤン 棄てられた被爆者』の冒頭シーンである。主人公の李桂先(リゲソン)さんは広島に原爆が投下された12日後に入市被爆。その後、北朝鮮に帰国し、平壌で暮らす。
監督はフォトジャーナリストの伊藤孝司さん。「これまで原爆についての映画は多数製作されてきましたが、在朝被爆者を取り上げたものは初めてです」という言葉に、この作品に懸けた思いがあふれる。
20代から土門拳などの影響を受け社会的テーマを撮り続けた。広島、長崎にも何度も足を運んでいたのだが……。
「83年に水俣病の取材に行ったとき、『被爆朝鮮・韓国人の証言』を執筆した鎌田定夫さんと出会い、朝鮮人も原爆の被害を受けたことを初めて知らされ、ショックを受けました」
韓国・朝鮮人被爆者の証言記録を作ろうと決心し、すぐさま在日被爆者の取材に着手した。85年には韓国に飛んだ。在韓被爆者は日本政府からも韓国政府からも見離され、「ハコバン」(箱房)と呼ばれるバラックで病苦と極貧生活にあえいでいた。全身にケロイドが残る男性、片目がない女性……。百数十人の証言を収録した写真集『原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言』(ほるぷ社)を出版し、大きな反響を呼んだ。
「その後、強制連行や日本軍性奴隷被害者(従軍慰安婦)など様々な被害者を取材しましたが、被爆者はわたしの原点です」
戦争や環境問題をライフワークとし、アジア太平洋諸国にも足を伸ばした彼にとって、唯一の「空白地帯」が北朝鮮だった。
92年に朝鮮人強制連行真相調査団とともに訪朝した。が、被害者の聞き取りをできたのは1日だけだった。その後、何度も単独取材を申請し、98年に実現した。3週間、朝から晩まで被爆者、元従軍慰安婦、強制連行被害者などの取材に没頭した。以後、20回以上訪朝し、テレビ、雑誌、ブックレットなどを通じて取材の成果を発表し続けてきた。
95年には、映像も音声も記録できる動画の可能性に注目し、ビデオカメラを購入。従軍慰安婦をテーマにした『アリラン峠を越えて』などのドキュメンタリー映画を製作した。そして08、09年に3度の平壌ロケを敢行したのが『ヒロシマ・ピョンヤン』である。
原爆により、広島で約5万人、長崎で約2万人の朝鮮人が被爆し、韓国に約2万人、北朝鮮に約2000人が帰国したと推測されている。07年時点で北朝鮮での生存者が確認されたのは382人だった。
カメラはその中の一人、李桂先さんを追った。彼女は19歳のときに一人で北朝鮮に帰国したが、結婚後に頭痛や貧血、皮膚炎などが発症した。その原因が幼児期の入市被爆であることを知らされたのは、04年に訪朝した母からだった。母は娘の幸せをおもんばかってそれまで被爆の事実を隠していたのである。
画面には、母と娘が背負う被爆と家族離散という運命の悲哀がにじみ出る。ラスト近く、李さんが母親へのビデオレターで、「オモニ(お母さん)、また会いたいです」と涙ながらに語るシーンが強く胸を打つ。
日本政府は、在韓被爆者に対しては近年ようやく被爆者援護法を適用するようになったが、在朝被爆者は放置したままである。
伊藤さんは「在朝被爆者を救うのはきわめて人道的な問題なので、たとえ国交がなくても早く行うべきです」と訴える。
日本でほとんど無視されてきた在朝被爆者の実情を知るため、多数の方がこの映画をご覧になるよう呼びかけたい。<ノンフィクション作家>
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9月18日~24日10時半。9月25日~10月1日15時45分。大阪市淀川区十三本町1の第七芸術劇場。一般1500円▽専門・大学生1300円▽中高生・シニア1000円。問い合わせは同劇場(06・6302・2073)へ。
毎日新聞 2010年9月18日 地方版